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日本茶掲示板同窓会
217
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キラーカーン
:2018/02/18(日) 01:45:18
8.3.2.3.4. 維新政府の名残としての「山縣スタイル」或いは軍人閣僚
本節では「山縣スタイル」の補足として、首相以外の軍人閣僚について述べることとする。軍人閣僚といえば軍部大臣(陸軍大臣及び海軍大臣)が代表的存在であるが、明治時代においてはそれ以外の大臣にも軍人(陸海軍将官)が就任している。本節ではそのような「軍人閣僚」に焦点を当てる。
ここでは、将官(少将以上)で大臣(首相及び班列を含む)に就任した者とする。本稿で軍人閣僚を将官以上に限定した理由は、当該大臣が形式的な軍歴があるだけではなく、「軍人(武官)であることを主要な理由として 」大臣に任命されたという実質的要件を担保するためである。任官後短期で退官し、退官後の経歴が認められて大臣に任用された場合はもとより、徴兵経験者の大臣を排除する必要もあるからである。
「将官」以上に限定するもう一つの理由は大臣の任用資格との関係である。大臣のにんよう資格については、
① 軍部大臣の任官資格が中将以上
② 軍部大臣を含め国務大臣は親任官
とされていることから、それとの均衡上必要とされる「軍歴」は中将以上である。百歩譲って、「軍歴+α」の「合わせ技一本」で大臣に任用される場合であっても、「軍人政治家」と称されるに足る軍歴として将官以上の軍歴は必要となる 。
内閣制度草創期には現役・非現役問わず、将官でありながら軍部大臣以外の閣僚(非軍部大臣)に就任する者が一定数存在した。また、将官以上で軍部大臣や総理大臣を含む閣僚に就任した者のうち軍部大臣のみの閣僚経験は一人(仁礼影範)だけである。
このことは、明治維新後約20年経過しても、軍が大臣級高官の主要な人材供給源であったことを示している。国家機構整備が軌道に乗り、官僚から大臣が輩出できるようになると軍人閣僚は減少していき 、日露戦争後には、軍人政治家としての出世コースは軍部大臣から総理大臣のみとなった。
このように、日露戦争の頃には、ヒラ閣僚級では軍人閣僚に頼らなければならないという状態は脱することができた。しかし、官僚出身者が非選出勢力を取りまとめるだけの実力を持つ「大物政治家」となるにはもう少し時間を要した。日露戦争から約10年経過し、元号も大正へと変わった頃になり、ようやく、平田東助、清浦圭吾という「官僚政治家」が首相候補に名乗りを上げるようになった。
しかし、それでも、当時、の軍人政治家の筆頭格と目されていた桂太郎、山本権兵衛、更には山縣や桂の後継者と目された寺内正毅よりもより見劣りするのは否めなかった。政党政治家にめを転じてみても、大隈重信や板垣退助という「明治の元勲」から政争に敗れ政党政治家に転じた者、或いは、戊辰戦争に従軍した西園寺公望といった公家政治家ともかく、松田正久、原敬という「純粋」な政党政治家が首相候補に名乗りを上げるのはまだ先のことであった。
このような状況では、非選出勢力を纏めるのは引き続き軍の領袖である「軍人政治家」の役割であり、そのような軍人政治家が現役のまま首相に就任する場合、「山縣スタイル」という前例を踏襲するのは合理的である。
官界と政党が十全な政権担当能力を身に着けていない時代であった1900年体制においては、山縣が政治の第一線を退いた後も山縣の後継者である桂や寺内という軍人政治家が官界を含めた非選出勢力全体の領袖である事が求められたため、「山縣スタイル」を継続しなければならなかった。
大正の末期になり、官界と政党(特に憲政会)が首相輩出勢力として一本立ちし、その一方で総力戦遂行の観点から軍(特に陸軍)としても(現役)軍人首相を求めなくなった時代となったことで、「山縣スタイル」ひいては「1900年体制」はその歴史的使命を終えた。そして、時代は政党政治に親和的な「最後の元老」西園寺公望と「憲政の常道」の時代へと移っていくことになった。
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