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日本茶掲示板同窓会

235キラーカーン:2018/03/02(金) 00:06:38
8.3.4.7. 第4期:「1900年体制の終焉」(高橋内閣から清浦内閣)

8.3.4.7.1. 総説

 この時期は、原首相の暗殺と政友会の混乱、そして、現役軍人首相候補の払底と山縣の死去による山縣閥の終焉により、「1900年体制」の時代が終焉したことを日本全体に周知するための時期である。

 大正10年後半から翌11年初めの間、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の摂政就任、原首相の暗殺(大正10年10月)、山縣、大隈両元老(格)の死去(大正11年2月)、そして、大正13年には松方も死去し、西園寺が「ただ一人の元老」となり、時代の変わり目を意識せざるを得ない事象が連続して生起した。

 内閣も原首相の暗殺の後、高橋内閣、加藤友三郎内閣、第二次山本権兵衛内閣、清浦内閣と推移していくがいずれも短命に終わり(加藤友三郎内閣は加藤首相の死去という突発事象によるものではあるが)、政友会及び海軍の政権担当能力の低下が明らかになっていた。

 一方、陸軍も総力戦に対応するには、現役陸軍軍人が首相になるよりも政党内閣の下で総力戦体制を構築する方が効果的との見解が(後の統制派に連なる軍人を中心に)有力となりつつあり、山縣閥(陸軍)と政友会との棲み分けと相互依存による政権交代構造を前提とする「1900年体制」の限界が白日の下に曝された。

 時代は、元勲元老が全員死去し、事実上の新帝即位である摂政皇太子就任に相応しい「新しい体制」の必要性を感じさせるものとなった。

 この「新しい時代」は現在では「憲政の常道」と呼ばれている。その時代をもたらした原動力は、一度は元老達に「不合格」の烙印を押された加藤高明憲政会総裁であった。加藤高明は「苦節十年」を耐え切り、首相就任後の「西園寺の追試」に合格する。一方の政友会は憲政会と革新倶楽部との「護憲三派連立内閣」から離脱し、原内閣の陸相であった田中義一を総裁に迎え、来るべき将来の政権奪取に向け体制を立て直しつつあった。「護憲三派」の一角を占めていたが、小政党であった犬養毅率いる革新倶楽部は憲政会、政友会の間で埋没し、犬養は革新倶楽部を政友会に吸収合併させ、犬養自身は政界引退を表明した 。

 清浦からの禅譲路線(これは、情意投合的な1900年体制の延長線上の発想であり、当時においては「王道」の考え方であった)を期待した政友本党は政友会へ出戻るか憲政会に合流するかで事実上分裂する。

 こうして非選出勢力(山縣閥と海軍)と選出勢力(政友会と同志会)との疑似二大政党制的政経交代構造、更には超然内閣とい政党内閣との政権交代構造という「交代大統領制」というの「成功例」としての「1900年体制」は終わりを告げたのであった。


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