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日本茶掲示板同窓会
168
:
キラーカーン
:2017/12/31(日) 02:05:38
7.1.2.4.3. 「2002年の衝撃」
7.1.2.4.3.1. 2002年W杯
2002年は世界第歳のスポーツイベントの一つであるサッカーW杯が初めてアジアで開催された年でもある。当初、日本の単独開催が有力視されていたが、現代財閥のオーナー一族である鄭夢準氏が国際サッカー連盟(FIFA)の副会長であったことから、韓国側の巻き返しも強烈で、日韓共催となった。
この開催地を巡る争いで単独開催を共同開催に「譲歩させられた」として、日本側で不満を持つ素地ができた。共催決定後は、韓国側が、「歴史認識」を梃子にして日本側に譲歩を迫る手法を採ってきた。その例として
① サッカーのピッチを題材としたポスターの図柄が「日」の字に似ているとして拒否
② 国名はアルファベット順という慣例を無視して、Korea, Japanの順にした
(本来はCoreaだったのが、日韓併合時に日本の後に来るようにKoreaとされたと主張)
というものがあった。
このような韓国側の主張は、どのような案件でも「歴史認識」を持ち出して日本より優位に立とうとするものとして、嫌韓感情がさらに醸成されていった。W杯では韓国が準決勝に進出するというアジア初の快挙を成し遂げたが、韓国戦絡みの「誤審」が相次ぎ韓国による審判買収も取りざたされるような事態となった。FIFA100周年記念DVD収録のW杯「10大誤審」のうち、日韓大会で5つ、うち4つが韓国戦である。
このような状況であったのにも拘らず、日本のマスコミはこの「誤審」問題を全くといってよいほど報道せず、「日韓友好一辺倒」であったことも「マスコミ不信」が増加することとなった 。とはいっても、この結果、韓国に対する批判が抑えきれなくなっていき「嫌韓」の端緒となっていった。
7.1.2.4.3.2. 小泉総理訪朝
日韓W杯が「韓国批判の解禁」であったとすれば、小泉総理の訪朝と北朝鮮が日本人拉致を認めたことは「北朝鮮批判の解禁」であった。この両者が同じ2002年に起きたというのは象徴的である。つまり、「南北朝鮮タブー」が同時に取り払われたことも「嫌朝鮮半島」に拍車をかけたということは間違いない。
冷戦時代、当然のことながら、韓国は資本主義陣営、北朝鮮は社会主義陣営の一因であった。このため、リベラル・左派が圧倒的優勢である日本のインテリ及びマスコミにおいては、韓国は「悪の独裁国家 」であり、北朝鮮は「地上の楽園」であった。
したがって、同じ「朝鮮半島タブー 」といっても、北朝鮮のそれの方がはるかに厳しかった。特に、マスコミでは「北朝鮮」という略語すら単独で使用できず、最初に「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」と言わなければならなかった。国内においても北朝鮮に批判的な発言をすると、朝鮮総連から「強烈な抗議」を受けたりして日常生活に支障をきたすということが言われていた。
冷戦が終結し社会主義の退潮が明確になり、更に、日本海側を中心とする日本人行方不明事件が北朝鮮の犯行であるとの状況証拠が揃っても、マスコミや有識者の「北朝鮮への肩入れ」は継続しており、拉致事件も「右翼の反北朝鮮キャンペーン」に利用されるとして表立って取り上げることが憚られる雰囲気であった 。
そのような、「公開の場において北朝鮮に対してものが言えない雰囲気」が一変したのが、小泉総理訪朝時に金正日総書記が日本人拉致を認めたときであった。そして、小泉訪朝に随行していた安倍官房副長官(当時)が「拉致問題に言及がないならこのまま帰りましょう」と小泉総理に進言したとされている。
拉致事件を北朝鮮が認めたことにより、これまで「抑圧」されてきた北朝鮮批判、ひいては北朝鮮を陰に陽に支援してきたリベラル・左派への批判が「解禁」されることとなった
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