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近現代史綜合スレ

580とはずがたり:2015/05/25(月) 12:55:05

「大戦の結果ロシア領」根拠ない…菅長官が反論
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20150520-OYT1T50122.html?from=yartcl_outbrain1
2015年05月20日 21時11分
 菅官房長官は20日の記者会見で、ロシアのラブロフ外相が北方領土が第2次大戦の結果としてロシア(旧ソ連)領になったと述べたことについて、「日露間において第2次世界大戦の結果は確定しておらず、ロシア側の主張に根拠はない。米国も日本の立場を支持しており、北方領土に対する日本の主張を認めていると認識している」と不快感を示した。


 日本と旧ソ連は1956年に「日ソ共同宣言」に調印し、戦争状態を終結させたが、北方領土問題は解決できなかった。菅氏は「領土問題の全面的解決が困難であったために、平和条約の締結交渉を継続することとし、日ソ共同宣言という国際約束が締結された。そういう意味で、日露間で第2次大戦の結果は確定していない」と述べ、ラブロフ氏の主張に反論した。

2015年05月20日 21時11分

581名無しさん:2015/06/07(日) 17:04:15
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150603-00050110-yom-soci
陛下「深い痛恨」大戦に言及…歓迎の宮中晩餐会
読売新聞 6月3日(水)22時52分配信

 国賓として来日したフィリピンのアキノ大統領を歓迎する天皇、皇后両陛下主催の宮中晩餐会(ばんさんかい)が3日夜、皇居・宮殿で開かれた。

 天皇陛下は冒頭のあいさつで、先の大戦時にフィリピンで多くの国民が犠牲となったことに触れ、「私ども日本人が深い痛恨の心と共に長く忘れてはならないことであり、戦後70年を迎える本年、犠牲者へ深く哀悼の意を表します」と述べられた。

 これに対し、アキノ大統領は「過去に経験した痛みや悲劇は、相互尊重や尊厳に根ざした関係構築に努めるという貴国の約束によって癒やされてきました」と英語でスピーチした。

 フィリピンの国賓を迎えた晩餐会は平成に入って3回目で、陛下が戦争被害に言及されたのは初めて。

 晩餐会には、皇太子、秋篠宮両ご夫妻や安倍首相ら149人が出席。昨年12月に20歳となった秋篠宮ご夫妻の次女佳子さまも初めて出席し、笑顔で乾杯された。皇太子妃雅子さまも昨年10月に続いて晩餐会に出席され、会場は華やいだ雰囲気に包まれた。

最終更新:6月4日(木)9時15分

582名無しさん:2015/06/14(日) 13:27:32
http://blogos.com/article/115859/
幻冬舎plus2015年06月10日 06:00「日本人難民」という戦後史の闇第5回 - 日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉 - 井上卓弥

今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民〜三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
?本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。

?郭山疎開隊をはじめ、大戦後の混乱のなかで朝鮮半島の北部に放置された日本人は、世界史のなかでもまれにみる悲惨な難民生活を強いられました。しかし、1949年に刊行されてベストセラーとなった『流れる星は生きている』(藤原てい著)などを除いて、これまでその史実が語られ、検証されることは、ほとんどありませんでした。
?本書の著者・井上卓弥さんは、戦争取材や難民取材など国際報道に携わったジャーナリストであり、また郭山疎開隊の「当事者」でもありました。

*?*?*

?この本に登場する井上寅吉と喜代の長女、泰子は、私の父で井上家の長男、昌平の姉である。つまり私にとって伯母になる。喜代は私の祖母にあたり、泰子にとって私は甥になる。伯母は結婚して長谷部姓となり、両親と同じく小、中学校の教壇に立った。退職後、戦後五十年にあたる一九九五年、手記『北朝鮮・郭山への墓標』を自費出版し、父母と私、三つ下の妹あてに一冊ずつ送ってくれた。私は当時、新聞社に入社して五年目だった。

?のちに知ったことだが、その手記は祖母、喜代が戦後間もない四七年に手書きの原稿用紙一〇〇枚にまとめて製本した『新京(満洲国)より終戦時北鮮に疎開して』を下敷きにして、伯母らの体験や思いが書き加えられていた。二〇〇五年には、父昌平が満洲に戻った一家の引き揚げまでの苦闘も含めて自伝『追想のわが来し方』を著した。

?父が保管していた祖母の手記とともに、父の半生記を読み終えた時、私は「当事者」になっていた。家族の歴史を何らかのかたちで残すことは、八五歳になる伯母との二十年越しの約束になっていたのかもしれない。

?日本に引き揚げてから建てた家の庭に、祖父母は離れをつくり、近所の子どもたちを集めて小さな書道教室をはじめた。私と妹も習いに行ったが、教室での祖母は厳しい先生だった。常に身近にいた祖母と祖父は、私が高校在学中の一九八一年に相次いでこの世を去った。孫の私に満洲や北朝鮮の話をすることはなかった。

?それだけに、伯母の手記で初めて知った飢餓地獄の事実は重かった。それなりに幸せに暮らしている自分の家族は半世紀ほど前にこんな恐ろしい体験をし、それでも何とか命をつないで日本に帰ってきていた。叔父にあたる末弟は満洲の地で亡くなった。もし父が同じような目に遭っていたら、私たちきょうだいはこの世に生まれて来なかった。

?その後、国際報道に携わった私は、紛争や難民受け入れの現場に立つ機会を得た。最初は九九年、旧ユーゴスラビア・コソボ紛争のアルバニア系難民の取材だった。国境を越えて隣国アルバニアに逃れてくる難民の姿が、半世紀前の家族に重なって見えた。しかし、近年に至るまで、先の大戦に伴って満洲から北朝鮮に疎開した日本人の記録はほとんど見当たらなかった。日頃の大々的な難民報道に比べても、明らかに悲惨な状況に置かれた北朝鮮の日本人難民たちの証言がなぜ表に出て来ないのかと、もどかしい思いにとらわれた。

?二〇一〇年代に入ると、当時を知る人々が次々に亡くなりはじめた。政治・外交交渉に期待を見いだせず、民間の独自ルートを通じて北朝鮮への墓参が動きだした。

583名無しさん:2015/06/14(日) 13:27:43
>>582

?一四年一月、偶然チャンネルを合わせたBS ― TBSの二時間特集番組に引き込まれた。番組の最後になって、予想しなかった地名「郭山」が初めて現れた。疎開隊の名簿は、私の故郷を遠く離れた九州の地で保管されていた。東京周辺でそれなりに問いかけてきたにもかかわらず、反応を得られなかったわけも納得できた。私のなかで歯車がカチッと音を立てて?み合い、二十年近くも揺るがなかった厚い壁が一気に崩れた。「当事者」として行動しなければならないと思った。

一人の視聴者としてTBS「報道特番」にメールを送り、祖母が書き残した「一三班」の名簿の確認をお願いした。ほどなく宮本晴代ディレクターから返信をいただいた。

「昨夜、郭山疎開隊員名簿を見ましたところ、一三班のところに確かに井上さんご一家のお名前があり、ボロボロの紙を持つ指先が震えました。あの名簿の持つ重みを、改めて認識させられたような気が致します」。番組に出演した鹿児島県在住の田中友太郎さんは私の面会の願いを聞き入れてくれた。持参した伯母の手記も読み、事情を理解してくださった。

?田中さんの紹介で福岡県在住の扇京一さん、熊本県在住の白石ヤス子さん、中尾(田中)陽子さんとお会いできた。私の家族が言葉を交わしたかもしれない方々である。故松本健次郎さんの妻幸子さんにも話をうかがった。私が「当事者」であることを知った扇さんは、七十年近く大事に保管してきた二冊の「郭山避難民団の記録」のファイルを妻サカヘさんに託し、手紙を添えて送ってくださった。

?松本さんの手による「疎開日誌?其ノ二」の最初のページには、祖母のそばで亡くなった木幡とも子さんを含む三人の仮葬の記録が正確に書き込まれていた。のちにお会いした白石さんは、祖母の手記を繰りながら病室の場面で手を止め、小さく声を上げた。「脊椎(せきつい)カリエスの女性……。これ、私だ!」。手記の内容は裏付けられた。

?この本のなかでやってきたのは、一〇〇〇人超の郭山疎開隊のうち、北緯三八度線を越えて日本に引き揚げたほぼ半数の「南下班」と満洲に戻ったやはり半数の「北上者」の間に横たわる歳月と距離を乗り越えて、全体をつなぎ直す作業だったかもしれない。


?井上さんは本書「終章」の最後で、次のように綴ります。


?郭山疎開隊を引率し、本書に記したような詳細な記録を残した満洲国経済部官吏一〇人のうち、すに八人はこの世にいない。残留班を率いて最後に三八度線を越えた山谷橘雄(やまやきつお)医師も二〇一三年に他界している。朝鮮北部の日本人が「難民」として辛酸を嘗(な)め尽くした被害者としての記録は、今、日本の現代史のなかにきちんと位置づけておかなければ、永遠に消え去ってしまうだろう。そして遠からず、また同じような被害がくり返されることを危惧する。

?それはまた、昨今の靖國神社公式参拝の是非をめぐる議論からはじかれ、やはり置き去りにされようとしている民間人被害者の存在を再認識することにもなるはずである。その認識こそが、唯一の本土決戦を経験した沖縄はもとより、原爆投下や無差別空襲によって、国内外を問わず無数の民間人が犠牲となった先の大戦の本質を捉えることにつながるものと信じたい。

*?*?*

?作家の半藤一利さんは本書を読み、「国に棄てられた人々の過酷な運命に、驚き、涙し、憤った。戦後70年の今、この悲劇に光が当てられた意義は、はかりしれなく大きい」というコメントをお寄せくださいました。
『満洲難民〜三八度線に阻まれた命 』をぜひお読みいただけると幸いです。

584名無しさん:2015/06/14(日) 21:35:57
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150609-00000026-rcdc-cn
イタリアの戦争指導者は公開処刑されたが、日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ首相や閣僚が参拝している―千葉大教授が批判
Record China 6月9日(火)9時57分配信

2015年6月4日、石田憲・千葉大教授が「戦後70年」と題して講演し、イタリアと日本の戦中・戦後について解説し、記者の質問に答えた。日独伊枢軸体制は、3カ国がともに後発帝国主義国であり、利害関係で結びついた「病」としてのファシズムだった、と指摘。広場で処刑された独裁者ムッソリーニらイタリアの戦争指導者と異なり、「日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ、祀られている靖国神社に首相や閣僚が参拝している」と批判した。

戦前の日独伊枢軸体制は、3カ国がともに後発帝国主義国だったことと関係する。(理念のない)利害関係で結びついた「病」としてのファシズムであり、3国それぞれの思惑が異なっただけでなく相互不信を深めつつ、背反する利益追求へと走った。枢軸3国の関係はリアリズム的観点からすれば矛盾としか言えない性質を持っていた。

イタリアの侵略した諸国への補償としては、バルカン諸国に対しては賠償条約を締結して保障した。日本がアジア諸国と個別に補償したのと同様だ。エチオピア、リビアなどアフリカ諸国に対しては、カダフィ政権末期のリビアにベルルスコーニ政権が賠償協定を結んだ。石油など国益が優先している。

イタリアでは独裁者ムッソリーニら戦争指導者は広場で処刑されたが、日本では侵略戦争を指導したA級戦犯が神様扱いされ、祀られている靖国神社に首相や閣僚が参拝している。指導者の過ちをはっきり認めてけじめをつけ、補償をきちんとしなければ、最終的に信頼関係をアジアの国々と結ぶことはできない。難しい対応だが、どの政権でもきちんと対応していかなければ将来的に危うくなる。(八牧浩行)

585名無しさん:2015/06/20(土) 21:20:38
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150615-00000002-wordleafv-soci
元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」
THE PAGE 6月15日(月)16時50分配信

 私ほど人の命をあやめた人間はいない――。元ゼロ戦パイロットで戦争反対を訴え続けている原田要さんは、14日に長野市内で開かれた講演会でこう告白した。「お国のために」と命を投げ出す覚悟で海軍に入ったが、気がついたら「世界一、非人道的な人間になってしまった」と悔いる。折しも国会で安保関連法制の審議が熱を帯びる中、集まった300人の市民を前に、「戦争という苦しいことがもうない世の中に」と語りかけた。現在98歳と高齢のため、今回が「最後の講演」になるという。

<原田要さんの講演要旨>
 8月で99歳になる老兵、原田要です。戦闘機の実戦の体験者ですが、70年も前のことで記憶も薄れがちです。

 17歳のときに一生をお国のために海軍の一兵卒として使ってもらおうと考えました。それから12年余、いろいろなことがありましたが、私は世界一、非人道的な人間になってしまったのです。その間約10年の航空生活を通じ8000時間余の飛行時間、その私ほど人の命をあやめた人間はいないのです。

 結局は戦争という罪悪のために、こうしたみじめな人間が生まれてくるのです。だから戦争をなくしてほしいと感じるわけです。もうだめだと思ったことが4回ありました。それを皆さんに伝えて、こうした苦しいことがもうない世の中になるようにと最後のお願いにあがりました。

 昭和11年にパイロットになり、さっそく中国の南京陥落に関係する作戦で戦闘機に乗りました、ところが中国船に交じっていた米英の船舶を攻撃したことが国際問題になり、下士官にまで及ぶ処分が行われて、私も内地に戻って操縦の指導に当たっていました。

 そのうち日米の関係が悪化し昭和16年の秋、海軍の大艦隊はひそかに移動を開始。北に向かうのでいぶかしく思っていましたが数日後の朝、気がつくと周りが雪に覆われた湾に入っていました。エトロフ島でした。赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴の航空母艦、潜水艦などの大艦隊が集結したのです。

586名無しさん:2015/06/20(土) 21:21:39
>>585
 そして12月8日の真珠湾攻撃に向け艦隊の幹部が作戦室に集められ、「日米交渉が駄目になったら宣戦布告の上、ハワイを攻撃する」と説明があり、艦隊には「いよいよか」の空気が広がりました。真珠湾攻撃の際、私は攻撃隊の小隊長になるつもりでしたが、艦隊の警護に回されたのです。

 私は攻撃隊への参加を主張したのですが、「艦隊を守るのも大事だ。これは命令だ」と言われて、380機を超える攻撃機を見送りました。

 攻撃から帰ってきたパイロットたちは戦果を語り、戦勝気分で「バンザイ」まで出ていました。ただ、彼らに「真珠湾に空母は何隻いたのか」と聞くと「1隻もいなかった」という返事で、心配でした。結果的にアメリカの空母艦隊は温存されていたわけで、それが戦争の結末につながってしまった。

 その後、インドの南、セイロン島ではイギリスの戦闘機ホーカーハリケーンと戦い、私の小隊で5機、全体では100機近い敵機を落としたこともあります。追われた敵機のパイロットは手で「もうやめてくれ」というそぶりをするのですが、それを見逃すと自分がやられる。それが戦争なのです。

 オランダの植民地だったスラバヤでも戦闘がありました。ゼロ戦は脅威だったため敵は2〜3機で1機のゼロ戦と戦う作戦に出てきました。7・7ミリ機銃と破壊力の大きい20ミリ機銃を使い分けたり、相手がまぶしくなるように太陽を背に攻撃に出るなどさまざまな戦法を駆使しました。

 ミッドウエー海戦で日本は空母と多くの優秀なパイロットを失いました。そしてガダルカナルで私はアメリカのF4F戦闘機との戦いで左腕に被弾、ヤシ林に突っ込み気を失いました。2日間ほど山中をさまよっていたら、墜落した艦上攻撃機の乗員の佐藤さんという人が顔を血だらけにして歩いて来ました。

 一緒にさまよっていると向こうに米兵らしい姿があるので、2人で拳銃を出し構えて行こうとしたら、負傷で左腕の不自由な私が拳銃を右手で用意しているうちにうっかり引き金を踏み、暴発してしまった。その音を聞いた人影が「日本人か」と声をかけてきて、助かりました。海軍の基地だったんです。15〜16歳の少年兵たちがいました。
 
 私はその後デング熱にかかったりして40度の高熱を出し、気が付いたらきれいなベッドの上にいた。これは捕虜になったに違いないと思って、ベッドから逃げようとしたら、「兵隊さんどうしました」と声がかかった。日本の看護婦さんでした。

 何回も命拾いをしてきました。私は戦争を憎み、なくしていくために語ってきましたが、次の世代の人たちにもそれをお願いしたいのです。

(高越良一/ライター)

587とはずがたり:2015/06/22(月) 08:32:33
やりたい放題やった当時の列強に対する痛烈な批判となっているし韓国の主張には敬意を表する。日本憎しでそんな事考えてないのかも知れないけど。

世界遺産登録、日韓協力で一致 「徴用工」記載で調整
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASH6P7J7WH6PUTFK00R.html
03:03朝日新聞

 岸田文雄外相は21日、韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相と東京都内で開いた会談で、日韓で課題となっていた「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録について、協力することで一致した。韓国は「強制労働」の問題があるとして反発していたが、日本側が関連する資産の説明文に、徴用工の歴史的事実を記載する方向で調整する。

 岸田氏は会談後、「両国の推薦案件『明治日本の産業革命遺産』『百済の歴史(遺跡)地区』がともに登録されるよう協力していくことで完全に一致した」と記者団に語った。世界遺産登録は実現に向けて前進することになる。

 韓国は日本が申請している23資産のうち7資産で朝鮮半島出身者計5万7900人が「強制労働させられた」と主張。歴史的な事実を対外的に説明するよう日本に求めていた。日本は、戦時中に朝鮮半島から労働者が動員された徴用工の問題は、遺産が対象とする時期より後だとして、当初はこうした説明も必要ないとの立場だった。ただ、世界遺産の登録には韓国の理解が欠かせないと判断し、韓国の主張に配慮。一部の施設で徴用工が働いていた事実を日本が自発的に説明し、韓国も反対しない方向で調整することになった。

588とはずがたり:2015/06/24(水) 18:46:00
中国、戦時中の役割「過小評価」修正狙う-9月の軍事パレードで
http://jp.wsj.com/articles/SB11377468785266573983404581065443503383276?mod=WSJ_article_EditorsPicks
By TE-PING CHEN原文(英語)
2015 年 6 月 23 日 19:17 JST

 「歴史は勝者によって書かれる」という。だが近年――少なくとも第2次世界大戦に関しては――中国は適切な書き方をしなかったと感じている。

 中国政府は今秋、それが修正されることを期待している。この9月に盛大な軍事パレードが北京の天安門広場で予定されており、習近平国家主席がそこで演説することになっている。反ファシズム戦争勝利70周年の記念式典と軍事パレードの当局者によると、パレードは「中国国民が払った多大な犠牲と、世界的な反ファシズム戦争への歴史的な貢献を示すものになる」という。 

 中国は1937年から数十万人規模の日本軍に侵攻され、西側の同盟諸国よりも一足先に戦争に突入した。日本軍は「南京大虐殺」のような残虐行為に及び、現在に至るも中国と日本の関係に深い傷跡を残したままだ。中国の犠牲者は1400万人に達したほか、鉄道網や工場など多くが破壊された。

 軍事パレードの詳細に関する23日の記者発表では、そのテーマについても説明があった。軍事パレードは今回で15回目だ。

 中国共産党中央宣伝部の王世明・副部長は「反ファシズム戦争における中国の位置づけと役割という点に関して、一部の西側諸国は常に客観性と公平な理解を欠いてきた」と話す。

 王氏は1931年の満州事変に言及し、「中国の抗日戦争はどこよりも早く始まり、最も長く続いた」と指摘。さらに「14年間も続いた中国の抗日戦争は最も長かった。欧州の戦闘は5年余りで、太平洋戦争は約4年だった」と述べた。

 王氏は、統計によると中国の直接的および間接的な経済損失額はそれぞれ約1000億ドル(現在のレートで約12兆3000億円)、5000億ドルにのぼると述べた。

 中国政府によると、記念式典には第2次世界大戦に関係した主要国首脳が招待される。日本が招待されるかどうかは23日時点では明らかにされなかった。軍事パレードに加え、戦勝を記念する演劇や映画、テレビ番組のほか、愛国的な合唱イベントなどが予定されている。

 中国史の専門家ラナ・ミター氏が近著「Forgotten Ally(忘れられた同盟国)」で書いているように、戦時中の中国の貢献度については長い間、過小評価されてきた。「中国が考慮されることがあったとしても、米国やソ連、英国などがはるかに大きな役割を果たした戦争でごくわずかな出番しかなかった脇役として捉えられるだけだ」

 とはいえ、中国共産党によるこうした歴史観の修正の試みに対しては批判もある。台湾の国防部(国防省)の報道官は今年、中国共産党は同党の軍隊による戦争貢献を強調しているように見えるが、それよりも大きな役割を果たした当時の与党・国民党の貢献を見落としていると述べた。国民党は国共内戦で共産党に敗れた後、台湾に拠点を移した。

 かつての国民党の人たちは戦勝イベントに参加するだろうか。当局者は早口でこう言った。「国民党は戦時中に重要な役割を果たした。中には参加する人もいるだろう」と。

589名無しさん:2015/06/27(土) 22:28:23
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150626-00000063-jij-soci
強制連行で国を提訴=中国人元労働者と遺族―大阪地裁
時事通信 6月26日(金)11時52分配信

 第2次大戦中に日本に強制連行され、河川改修など過酷な労働をさせられたとして、張広勲さん(87)ら中国人元労働者2人と遺族11人が26日、国を相手に総額7150万円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を大阪地裁に起こした。
 訴状によると、張さんら元労働者は1943〜45年、中国華北地方などから強制連行され、秋田県大館市の花岡地区や大阪港で、地下溝を掘ったり土砂や荷物を運んだりする労働をさせられた。国の政策に基づいて連行され、劣悪な労働環境や虐待を国が放置したとしている。
 戦時中の中国人強制連行をめぐる訴訟では、最高裁が2007年、「日中共同声明により個人の賠償請求権は放棄された」との判断を示している。原告側は、この共同声明の解釈は誤りで、中国が放棄したのは国家間の賠償だと主張している。
 張さんは45年6月、花岡で中国人が蜂起し多くの死者が出た「花岡事件」に参加した。提訴後の記者会見で「毎年6月30日になれば悲しい気持ちになる。日本政府は何の賠償も行っていない」と訴えた。
 外務省の話 訴状が送達されていないのでコメントは差し控えたい。

590とはずがたり:2015/06/27(土) 23:08:03
日本軍の原爆開発資料発見 京大、GHQの押収免れる
http://www.kyoto-np.co.jp/environment/article/20150625000018

サイクロトロンの図面。昭和17年12月の印がある(京都大総合博物館所蔵)

 太平洋戦争中に旧日本海軍から原爆研究を委託された京都帝国大(現京都大)の荒勝文策研究室が、ウラン濃縮の遠心分離装置開発に取り組んでいたことを示すノート3冊や関連資料が24日までに、京大放射性同位元素総合センター(京都市左京区)で見つかった。京都帝大による原爆開発の全容は、終戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)が一切のデータや研究ノート類の提出を命じ、押収した資料は米国で機密指定されていたため、明らかになっていない。なぜ押収を免れたかは不明だが、秘められた日本の原爆開発と科学技術史を検証する上で、貴重な発見といえる。

■秘められた歴史に一石

 研究ノート類は、戦時中に荒勝研究室に講師として所属していた故清水栄・京大名誉教授の研究室があった同センター分館書庫で見つかった。表紙に英語で「超遠心分離」の表題と清水氏の署名がある。日付は皇紀で記され、戦争末期の1944年10月、11月に書いたとみられる。

 原爆の開発にはウランを濃縮する過程が必要だが、当時の日本では技術が確立していなかった。清水氏のノートには、遠心分離装置の回転数を計算した表が書き込まれ、海外の関連論文を写真撮影し貼り付けた資料などがある。「超遠心分離装置製作資材大要」は資材のリストで、軽量合金「超々ジュラルミン」など材料の直径や長さなどが指定されている。

 京都帝大の原爆開発は43年に旧海軍が委託し、fission(核分裂)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれていた。海軍がウラン鉱石を提供したとの複数の記録や証言がある。遠心分離法によるウラン濃縮を目指したが、終戦までに完成しなかった。

 京都帝大は戦中、原子核物理の研究に用いる円形加速器「サイクロトロン」の建造中だった。終戦後にGHQは「原爆開発につながる」と破壊し、荒勝研のデータやノート類は米軍が持ち去ったとされる。戦後見つかった荒勝研資料は、米議会図書館で2006年に発見された清水氏らの加速器開発過程のノート2冊など、ごく限られている。

 また京大総合博物館では関係者遺族が寄贈した資料の中から、サイクロトロンの図面を見つけた。

 日本における戦中の原子核研究に詳しい政池明京大名誉教授は「荒勝教授らは、この戦争中に原爆は完成しないだろうと考えていたようだ。一方で、ノートと資材リストの発見はウラン235の分離、濃縮に向けて実際に遠心分離装置を作ろうとしていたことを裏付ける貴重な証拠となる」と話している。

 <原爆とウラン濃縮>第2次大戦中に旧日本陸軍は理化学研究所の仁科芳雄研究室に、海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託。原爆の製造には原料のウラン鉱石から、ウラン235の濃度を90%以上に分離・濃縮する過程が必要と言われる。仁科研究室は「熱拡散法」で、荒勝研究室は「遠心分離法」で分離を試みようとしたとされる。戦局の悪化で、海外から十分な量のウラン鉱物確保が難しく、京大は終戦までに完成しなかったとの見方が通説になっている。

【 2015年06月25日 07時41分 】

591名無しさん:2015/06/28(日) 10:35:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150619-00000017-pseven-int
引揚途中の強姦被害者47人 加害男性の国籍は朝鮮、ソ連など
NEWS ポストセブン 6月19日(金)16時6分配信

 果たして韓国の言う「私たちは常に被害者」という姿勢は、本当にその通りなのか。歴史を振り返れば、韓国は過去幾度となく、日本人への蛮行を繰り返してきた。

 11歳の時、朝鮮北部から命からがら京城に脱出した日系米国人作家、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ(旧名・川嶋擁子)の自伝『竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記』(ハート出版刊)。引揚の記録をありのままに綴った同書は、今から約30年前の1986年に米国で出版され、後に一部の州で中学校の教材になった。

 だが、韓国人と韓国系米国人がこれに猛反発。執拗な抗議活動を繰り返し、韓国外交通商部が州政府に是正を求める事態に発展した。実は同書は、2005年に韓国でも翻訳出版されているが、こちらも発売禁止に追い込まれている。韓国主要紙も「間違った『ヨーコの話』学びたくない」(朝鮮日報)、「『ヨーコの話』の最大の過ちは加害者と被害者を入れ替えた点」(中央日報)と題した特集記事を掲載し、メディアを挙げてネガティブ・キャンペーンを行った。
 
 在留邦人、引揚者を襲った悲劇の痕跡は、日本国内にも残されていた。福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にかつて存在した『二日市保養所』の存在だ。この保養所は、引揚の途中に朝鮮人らに犯され妊娠した女性の救済施設堕胎手術を秘密裏に行う病院だった。当時、堕胎手術は違法(*)であったが、施設は引揚援護庁が1946年2月に開設したもので、厚生省が「超法規的措置」として黙認していた側面がある。

【*現在も刑法上の堕胎罪は存置されているが、母体保護法では「妊娠の継続、分娩が身体的・経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのある者」、「暴行・脅迫により抵抗、拒絶できず姦淫され妊娠した者」などに対する指定医の処置が認められている】

 同施設の医務主任・橋爪将氏による1946年6月10日付の報告書によれば、施設の開設から2か月間で強姦被害者47人を治療し、加害男性の国籍内訳は「朝鮮28人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人」だった。1947年の施設閉鎖まで、堕胎手術件数は500件に及んだという。

 戦時中の日本人の残虐性を世界中で訴えている韓国人は、この事実をどう受け止めるのだろうか。

 日本人が戦時中に犯した罪は、真摯に反省しなければならない。しかし、だからといって、日本人が受けた残虐行為を、歴史から消し去ることもできぬ。正しき歴史を知ることが、真の日韓友好につながるのではないか。

※SAPIO2015年7月号

592とはずがたり:2015/07/02(木) 01:20:41
大正天皇実録、大半の黒塗り開示 「一時人事不省」判明
http://www.asahi.com/articles/ASH713G64H71UTIL009.html?ref=goonews
島康彦2015年7月1日19時52分

 大正天皇(1879〜1926)の日々の行動などを記した「大正天皇実録」について、宮内庁は2002〜11年に公開した際に「個人識別情報」として一部を黒塗りにした方針を見直し、その大半を開示した。宮内庁は「歴史的文書の公開・非公開の判断にあたり、時の経過を考慮した結果」と説明している。

特集:昭和天皇実録「激動の87年」
 大正天皇実録は1937年に完成し、計95冊で構成される。朝日新聞社の情報公開請求を契機に、2002年から4回に分けて開示された。しかし、全体の約3%が黒塗りにされ、専門家からは「歴史への冒?(ぼうとく)」という批判の声があがっていた。

 宮内庁によると、昨年公開された昭和天皇実録では、11年に施行された公文書管理法の「時の経過」を踏まえて検討し、黒塗りされなかった。今回の見直しでも同様の水準を適用し、黒塗りは全体の0・5%ほどに減ったという。

593とはずがたり:2015/07/03(金) 12:31:38
「火垂るの墓」登場の病棟取り壊し…苦渋の決断
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150629-OYT1T50023.html?from=yartcl_outbrain1
2015年06月29日 10時22分

 西宮回生病院(兵庫県西宮市大浜町)の旧病棟が老朽化による建て替えのため、7月に取り壊される。

 病院は戦時下の西宮市などを舞台に、アニメ映画にもなった小説「火垂るの墓」(原作・野坂昭如)にも登場しており、市民やファンからは惜しむ声が上がりそうだ。

 同病院は1907年に創立。34年の室戸台風で当時の病棟が流出し、37年にアニメにも描かれた木造一部2階建ての旧病棟(約600平方メートル)が建設された。弧のような曲線を描いているのが特徴で、84年に現在の病棟を建設した際も病院の象徴として、そのままの形で残した。

 アニメでは、空襲で母親を亡くした主人公の清太が幼い妹の節子と、病院とみられる建物をバックに香櫨園浜で遊ぶシーンや、病院の玄関前で無事を喜び抱き合う家族を見て、2人がうらやましがる様子などが描かれている。

 だが、すでに旧病棟建設から80年近くが経過し、南海トラフ巨大地震の発生なども懸念される中、病院側はこれ以上使い続けるのは困難と判断した。同病院を運営する平成医療福祉グループの武久敬洋副代表(35)は「内部でも保存すべきとの意見も多かった。苦渋の決断だった」と心情を吐露する。

 毎年夏に、アニメゆかりの地をファンらと巡っている「火垂るの墓を歩く会実行委員会」の辻川敦さん(55)は「病院の事情があり、取り壊しは仕方がない。当時の雰囲気がそのまま残る場所だっただけに残念」と悲しんだ。

 同病院によると、7月上旬に取り壊しを開始。跡地には新病棟を建設する。来年8月の完成予定で、過去の病棟の写真などを展示する記念館を設けるほか、現在の建物の柱をベンチなどに活用するという。

 病院は7月4日午後2時から見学会を開く。井上馨院長(58)は「皆さんに愛された場所で、三脚を持って写真に収めるファンもいる。最後の姿を多くの人に見てほしい」と話している。入場無料。問い合わせは同病院(0798・33・0601)へ。(清家俊生)

594名無しさん:2015/07/04(土) 11:32:27
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150629-00000030-jnn-pol
先の大戦「国策の誤り」か、防衛相も明言せず
TBS系(JNN) 6月29日(月)17時18分配信
 日中戦争や太平洋戦争などの一連の戦争をめぐって、「国策を誤った」と認めるかどうか、29日の国会の委員会で質された中谷防衛大臣は、「歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」などと繰り返し、「国策の誤り」については明言しませんでした。

 「70年前の戦争、これは政策を誤ったと、間違った戦争であったと、こういうことから戦後出発したと理解してるんですが、間違えた戦争だった、政策が誤ったということは、なんで言葉としておっしゃらないんですか。明確に言えないわけですか」(民主党 長妻昭 代表代行)
 「これはこの内閣として申し上げておりますけれども、村山談話を含めて歴史認識に関する歴代の内閣の立場は全体として引き継いでおり、今後も引き継いでいくと。そして累次申し上げてきたように、基本的には歴史の問題等につきましては、歴史家に任せるべきであるということでございます」(中谷元 防衛相)

 民主党の長妻代表代行は、今回の安全保障関連法案が成立した場合、間違った戦争を始めないためには、運用を担当する防衛大臣が過去の戦争の教訓を正しく認識することの重要性を指摘しました。

 その上で、柳条湖事件から満州事変、太平洋戦争へとつながる一連の戦争に踏み込んだ当時の政府の政策判断について、「国策を誤った」と考えるかどうかを質しました。

 これに対し、中谷大臣は「政治が軍をコントロールできなかったことは問題」だとする一方で、「国策の誤り」については明確に答えず、「安倍内閣として、過去の内閣の立場を全体で引き継いでいる」などと繰り返しました。

 長妻氏は、一連の戦争に対する「国策の誤り」をめぐっては、同じように安倍総理も明言していないことを指摘したうえで、「安倍内閣の体質なのかと疑う。“間違った戦争だと思いたくない”というふうに受け取られても仕方のない答弁だ」と批判しました。(29日11:30)
最終更新:6月29日(月)19時0分TBS News i

595名無しさん:2015/07/06(月) 01:17:36
http://www.47news.jp/FN/201507/FN2015070501001658.html
日本政府、労働の強制性認める 

産業革命遺産の審査の席で日本側は、朝鮮半島出身者が「自らの意思に反して労働を強いられた」と述べた。

2015/07/05 22:59 【共同通信】

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015070500084
改善ムード維持へ妥協=日韓関係、望みつなぐ-世界遺産

 【ソウル時事】「明治日本の産業革命遺産」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産登録をめぐる日韓の交渉はぎりぎりまで難航した。最終的に決定にこぎ着け、登録への協力で一致した先の日韓外相会談の結果が生かされた。今後の関係改善に望みをつないだ。
 韓国の尹炳世外相は5日夜、ソウルで記者会見し「円満解決」と評価。「韓国の懸念が忠実に反映された形で決定されたことをうれしく思う」と満足感を表明した。
 日韓の詰めの交渉は、世界遺産委員会で韓国代表が行う発言内容などをめぐって難航した。韓国国内ではこの問題をめぐり、外務省の対応が遅れたという批判が強く、韓国はぎりぎりまで強気の対応を継続。この結果、「1940年代に意思に反して韓国人らが動員され、強制的に働かされた」と日本側が発表することで合意。韓国としては、ほぼ望み通りの対応を引き出した。
 尹氏は6月21日、韓国外相として約4年ぶりに訪日し、岸田文雄外相と会談。登録へ協力することで一致した。「政治決着した」(日韓関係筋)と受け止められ、同月22日の国交正常化50周年記念行事に両国首脳が出席したことと合わせ、関係改善ムードを高める大きな要因となった。
 決裂なら、外相訪日の効果は吹き飛んでいた。決裂の責任をめぐって両国が応酬する事態になれば、関係改善の機運に水を差すのは必至だった。こうした危機感が、最終的に両国を妥協に向かわせたとみられる。(2015/07/05-23:47)

596名無しさん:2015/07/06(月) 01:18:24
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2015070500214
岸田外相、請求権問題は解決済み=世界遺産

 岸田文雄外相は5日、明治日本の産業革命遺産の世界文化遺産登録決定後に日本のユネスコ代表部大使が「朝鮮半島の多くの人々が意思に反して働かされたことへの理解を進める措置を取る」などと演説したことに関し、「これまでの日本政府の認識を述べたもの」であり、「朝鮮半島出身者の徴用の問題を含め、日韓間の財産・請求権の問題は解決済みだ」とする談話を発表した。(2015/07/06-00:09)

597とはずがたり:2015/07/09(木) 12:01:03
何で空襲で亡くなった遺族が泣き寝入りしてるのに国からカネ貰ってきた戦没者遺族が威張ってんだ?( ゜д゜)、 Peッ

戦闘機10年お蔵入り…展示予算、当面はゼロ?
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150703-OYT1T50055.html?from=yartcl_outbrain1
2015年07月03日 11時30分

 10年前、県民から県に寄贈された戦闘機が解体され、倉庫に保管されたままになっていることが、2日の滋賀県議会一般質問で明らかになった。

 「平和を考えるシンボルに」と県平和祈念館(東近江市)での展示を求める県議に対し、三日月知事は「鑑定に多額の費用がかかる」と、当面、展示は難しいとの認識を示した。

 県健康福祉政策課によると、戦闘機は全長約8・5メートル、両翼約11メートル。戦没者遺族が県外から購入し、2005年8月、当時建設が計画されていた同館で零式艦上戦闘機(零戦)として展示してもらおうと、県に寄贈した。

 しかし、「来歴など正確な情報が不明」として、県は12年の同館開館後も展示せず、東近江市に借りた倉庫で解体して保管。調査や展示は、数百万から数千万円が見込まれるとして見送っている。現在の倉庫は老朽化により改修が必要で、同市が別の場所での保管を求めているという。

 一般質問では、木沢成人県議(良知会)が「展示の要望が戦没者遺族らから出ている」と指摘。三日月知事は「展示の経費や場所の課題もあり、活用は慎重に検討したい」と述べるにとどめた。(小野圭二郎)

598とはずがたり:2015/07/16(木) 09:47:23

サハリンで朝鮮人強制労働の証拠発見か!? 世界遺産登録で歴史問題にあらたな火種
日刊サイゾー 2015年7月14日 15時00分 (2015年7月15日 20時30分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150714/Cyzo_201507_post_18700.html

 軍艦島をはじめとする「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録をめぐり、日韓関係の混迷がさらに深まりつつある。そんな中、韓国では「サハリンで、日本人に強制労働させられた朝鮮人の資料が発掘された」というニュースが、大きな話題となっている。同ニュースは、世界遺産登録が決定する2日前の7月3日に、中央日報、東亜日報など、大手メディアによって一斉に報じられた。現在、韓国では日本政府が「強制連行」を認めたという解釈が一般になり、そのため、あらためて注目を浴び始めた形だ。

 戦前のサハリンで、日本政府や企業による朝鮮人の強制労働があったという資料は、韓国の「対日抗争期・強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」によって発表された。同委員会は、韓国・国務総理(首相)室所属の委員会である。

 同委員会は、昨年にロシアの国立サハリン州歴史記録保存所などから、朝鮮人の名簿や関連記録物を入手。強制性が明確だと考えられる846人を、同委員会の「強制動員名簿」に記載したとしている。収集された資料の中には、1941〜44年までの間に、豊原警察署が作成したものも含まれるとされる。

 同委員会の調査に立ち会った、韓国外国語大学中央アジア研究所のパク・イルグォン教授は、豊平警察署とその資料について、次のように指摘している。

「もともと豊平は、日帝時代に南サハリンの植民地を担当していた樺太庁があった場所。現在のユジノサハリンスク地域に当たります。そこで書かれた警察文書なので、植民地時代の日本の治安行政担当部署の内部資料といえます」

 豊平警察署の資料には、“朝鮮人関連”という資料が多く残されているという。内容としては、一般手配者や、要注意人物の監視、所在不明者に関する手配、捜査資料などがある。これらの資料は、日本人の立場からすると、治安関連の資料ということになる。

「ただ、この資料を他の資料と併せて読むと、他の文脈が出てくる。そのひとつに、朝鮮人労働者の逃走に対する手配と関連した文献があるでしょう。ここには、サハリンだけではなく、北海道、九州などの地名が出てきます。それらの労働現場で、多くの朝鮮人労働者が現場から脱出を試みているのです。その数は、1941年だけでも1,400人。当時、彼らが逃げるのを、日本側が治安対象として取り締まっていたということになる。強制的に働かせていないのであれば、なぜそもそもそのような過酷な場所に、朝鮮人労働者が集団で移動することができたのか。また、自分の意志で辞めたとして、治安対象となり追われなければならなかったのか。そういう事実からは、当時の朝鮮人労働者たちが、意思とは無関係に抑圧的な状況にいたということが見えてくるでしょう」(パク教授)

 世界遺産登録を皮切りに、あらためて歴史問題の論争に火がつこうとしている日韓関係。果たして、同資料が新しい火種となるのだろうか?
(取材・文=河鐘基)

599名無しさん:2015/07/20(月) 11:30:57
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150716-00000073-san-pol
クマラスワミ氏を礼賛 女性自衛官ブログ削除へ
産経新聞 7月16日(木)7時55分配信

 政府は15日、北大西洋条約機構(NATO)に派遣している女性自衛官が在ベルギー日本大使館のホームページで公開しているブログの一部を、近く削除する方針を固めた。ブログは慰安婦を「性奴隷」とする国連報告書をまとめたクマラスワミ氏との会談について「光栄」とし、「とても穏やかで徳が感じられる方」と礼賛している。

 ブログは今年3月に公開された。歴史認識をめぐり日本政府と相いれない立場を取るクマラスワミ氏をたたえる内容のため、自民党国防部会で「軽率だ」などの声が上がっていた。ある議員は「自衛官にも表現の自由はあるが、大使館ホームページで公開する以上、国際社会からは政府の公式文書とみられる。内容をチェックしない防衛省にも責任がある」と指摘する。

 女性自衛官は昨年12月からNATO本部に勤務。自身の活動を定期的にブログで紹介している。政府が削除するのはクマラスワミ氏に関する記述があるブログのみの方向だ。

 クマラスワミ氏が平成8年に国連人権委員会に提出した報告書は、朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田清治氏の虚偽の証言を引用しながら慰安婦を「性奴隷」と定義し、日本政府に法的責任の受け入れや元慰安婦への補償などを勧告している。

 朝日新聞が吉田氏の証言を引用した記事の誤報を認めたことを受け、政府は昨年10月、クマラスワミ氏に報告書の一部を修正するよう求めた。クマラスワミ氏は拒否している。

600とはずがたり:2015/08/05(水) 18:07:00
村山談話、複数国が見解確認 政府、閣議決定と強調
http://www.asahi.com/articles/ASH845GNVH84UTFK00R.html?iref=com_alist_6_02
冨名腰隆
2015年8月5日05時11分

 戦後50年の「村山談話」が発表された直後の1995年8月、談話が政府の公式見解かどうかをめぐり複数の国から疑問が出ていたことが、朝日新聞が外務省への情報公開請求で得た文書や外交記録でわかった。日本政府は閣議決定した談話であり、政府の公式な見解だと強調。各国に理解を求めていた。安倍晋三首相が近く出す戦後70年の談話(安倍談話)でも、その内容に加えて閣議決定の有無が焦点となっている。

特集:戦後70年
 当時の文書によると、8月15日の村山談話の発表を受けて、外務省は各国政府の反応をまとめた。同省総合外交政策局は翌16日、各国首脳らの発言などから「総じていえば、過去の植民地支配と侵略に対し、深い反省とおわびの気持ちが率直に述べられたことを評価した」と分析した。

 ただ、一部の国には異なる反応もあった。

 豪州では、21日に当時の長谷川和年駐豪大使がエバンス外相と面会。外相は「おわびが総理個人としての気持ちか内閣全体としてなのかについては、若干の微妙な問題がある」と指摘した。大使は内閣として決定した点を念押ししたが、外相は「内閣は総理個人の発言として承認したのではないか」と返した。

 インドネシアでは24日、日本大使館職員と接触した大統領補佐官が「首相が一人称で語っていることから政府の立場ではないとの見方がある」と言及。職員は「談話は閣議決定を経て初めて発表されたものであり、政府の見解だ。一人称なのは政府を代表して総理が述べたからであり、通常のこと」と説明した。野坂浩賢官房長官も23日、中国共産党機関紙の人民日報のインタビューに対し、「村山談話は内閣の決定を経ている」と強調した。

601とはずがたり:2015/08/06(木) 22:36:15
>この中から何をくみとってどうするかは、首相にお任せする
こんなんでは安倍が汲み取るのは韓国への植民地支配は完全に合法(キリッ)ぐらいやん。

<有識者懇>「満州事変以後、侵略拡大」70年談話へ報告書
毎日新聞社 2015年8月6日 21時40分 (2015年8月6日 22時18分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20150806/Mainichi_20150807k0000m010098000c.html

21世紀構想懇談会の西室泰三座長(左)から報告書を受け取る安倍晋三首相=首相官邸で2015年8月6日午後4時33分、藤井太郎撮影
[拡大写真]

 安倍晋三首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会」(座長・西室泰三日本郵政社長)は6日、「戦後70年談話」に関する報告書を首相に提出した。日本が1931年の満州事変以後、大陸への侵略を拡大したことを認め、30年代後半からは植民地支配も過酷化したと指摘。一方で、戦後の日本は先の大戦の「痛切な反省」のもとに発展を遂げたと評価した。

 首相は同日、首相官邸で西室氏から報告書を受け取り「この報告書を基に、先の大戦から何を学び、どのような道のりを進んでいくべきかを世界に発信する談話を作成したい」と述べた。14日にも談話を発表する。

 首相は2月、懇談会の初会合で(1)日本が20世紀の経験からくむべき教訓(2)戦後日本の平和主義、経済発展、国際貢献への評価(3)中国、韓国などアジア諸国とどのような和解の道を歩んできたか??など5項目を諮問。懇談会はこれに沿って議論し、報告書にまとめた。

 焦点の歴史認識を巡っては、報告書は「侵略」の範囲を満州事変以後と明記。「世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた」として、「30年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重い」と指摘した。ただ、「侵略」の記述に関しては複数のメンバーから異議が出たことを脚注で紹介した。

 戦後50年の村山富市首相談話(95年)、戦後60年の小泉純一郎首相談話(2005年)に盛り込まれた「おわび」を70年談話でどう扱うかには踏み込まず、北岡伸一座長代理は6日の記者会見で「おわびするかどうかは首相の判断だ」と述べた。西室氏も「この中から何をくみとってどうするかは、首相にお任せする」と語った。

 報告書では「中国、韓国、東南アジアとの和解」に関する記述が全体の4分の1を占めた。中国、韓国との間では「和解が完全に達成されたとはいえない」と総括し、今後の地道な話し合いを求めた。

 一方、安全保障分野では積極的平和主義の推進や防衛体制の再検討、日米同盟の強化などを提唱した。

 報告書は英訳版も公表された。【当山幸都、松本晃】

 ◇21世紀構想懇談会の報告書・骨子◇
・日本は満州事変以後、大陸への侵略を拡大し、無謀な戦争でアジア諸国に多くの被害を与えた
・1930年代後半から植民地支配が過酷化
・日本は先の大戦への痛切な反省に基づき、20世紀前半とはまったく異なる国に生まれ変わった
・戦後70年の日本の平和主義・国際貢献路線は国際社会と日本国民から高い評価
・中国、韓国との和解は完全に達成されたとはいえない

602名無しさん:2015/08/08(土) 22:14:43
http://news.infoseek.co.jp/article/20150808_yol_oyt1t50088/
樺太の日本人墓地調査へ…民間人4000人犠牲
読売新聞 / 2015年8月8日 16時51分

 政府は、第2次世界大戦末期にソ連の侵攻を受け多数の住民が犠牲になった樺太(サハリン)で、民間人の戦没者らが埋葬された墓地の調査を行う方針を固めた。

 当時、日本領だった南樺太には約40万人が住んでいたが、戦後はソ連、ロシアが支配し、日本人の墓地は荒廃しているという。

 ソ連は1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して対日参戦。南樺太にも侵攻し、終戦後も攻撃を続け、同25日に占領を完了した。一連の戦いで樺太では民間人約4000人、軍人約1000人の計約5000人が犠牲になったとされる。

 これまで政府は、戦後ソ連に抑留されて死亡した軍人・軍属や、アジアや南洋などの戦闘地域で亡くなった将兵らの遺骨を収集してきた。南樺太でも、ソ連が停戦交渉の軍使を射殺し、 執拗 しつように日本軍を攻撃した真岡(ホルムスク)付近の激戦地など一部で遺骨の収集活動を実施してきた。だが、厚生労働省や、樺太出身者でつくる「全国樺太連盟」(東京)によると、南樺太で民間人の墓地を中心に調査した記録は残っておらず、今回の調査が初めてとみられるという。

603とはずがたり:2015/08/09(日) 09:57:04
日韓は,日韓併合を合法的に強行できて日韓基本条約で補償が完全に解消されたとできた欧米列強主体の帝国主義体制そのものを批判するというより高い水準の批判で共闘すべく連携しないとあかんねー。
その欧米列強主体の帝国主義体制の延長上に戦後レジームや現代の世界秩序があるからこの批判はチャレンジングで危険ですらあるのかも知れないけど。。

<70年談話報告書>韓国紙、批判強める 併合過程触れず
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20150809k0000m030114000c.html
08月08日 22:43毎日新聞

 【ソウル米村耕一】安倍晋三首相の私的諮問機関「21世紀構想懇談会」が6日に公表した「戦後70年談話」に関する報告書について、韓国メディアは「侵略」や「植民地支配」について明記されたことを評価する一方、報告書が1910年の日韓併合の過程に触れず、また「謝罪」の表現が含まれていないことを一斉に批判している。

 中央日報は8日付の社説で、報告書は「朝鮮半島の強制併合の過程を省略した」と指摘。そのうえで、列強が「未開」の地域を文明化するために植民地化するという構図を世界で普遍化しようとした、との報告書の表現についても「帝国主義によって日本の責任を覆い隠したもので、植民地支配については謝罪する必要はないとの認識をさらけ出した」と強く批判している。

 また、京郷新聞の8日付社説も、朝鮮半島植民地化の過程が省かれている一方、台湾の植民地化は明記されていることについて「韓国と中国の間を離間させようという意図だ」と、疑念を示した。

 7日付朝鮮日報は「韓日関係悪化を韓国のせいにする安倍談話の準備会合」とする社説を掲載。14日発表される予定の安倍首相の戦後70年談話について「報告書の内容そのままなら韓日関係の将来は暗い。談話に期待するのはやめて、その後の対日戦略について頭を悩ますほうが賢明だ」と主張した。

 報告書について韓国外務省は6日に「両国関係を発展させようというわが国の意思と努力に逆行するだけでなく、歴代内閣の歴史認識を受け継ぐとの日本政府の公式発言と相いれないものだ」などと批判するコメントを発表している。

604名無しさん:2015/08/10(月) 15:19:32
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000002-withnews-soci
「86を次世代に伝える」 広島のテレビ局が8月6日のラテ欄に込めた思い
withnews 8月6日(木)5時14分配信

 広島での原爆投下から70年となる「原爆の日」の6日夜、プロ野球・広島カープはホームのマツダスタジアムで阪神と戦います。球団と地元テレビ局・中国放送(RCC)の主催試合。新聞のテレビ番組表(ラテ欄)をよーく凝視すると、そこには彼らの熱い思いが込められていました。

昨年は「カープ応援できる平和に感謝」
 広島県内に6日に配達される朝日新聞朝刊のラテ欄。午後6時50分からのRCCの放送内容の左端の文字列を「縦読み」すると、「86を次世代に伝える」というメッセージが浮かび上がります。

 この縦読みメッセージ、RCCは昨年の8月6日も当日のラテ欄に用意していました。「カープ応援できる平和に感謝」。このメッセージを仕込んだ同社の担当者は、昨年のウィズニュースの取材に「平和だからこそ、みんなでカープを応援できる。そんな喜びを、ファンの目線で伝えたかった。来年以降も8月6日に中継する機会があれば、ぜひメッセージを込めたい」と語っていました。

胸に「PEACE」掲げて試合
 今年は5日から、「ピースナイター」と銘打っての対阪神戦。5日のラテ欄では「広島の勇気と希望カープ」と鼓舞しました。
 惜しくも阪神に敗れたものの、五回終了後にジョン・レノンの「イマジン」を流し、原爆ドームとほぼ同じ高さ(約25メートル)の2階最上段席付近に座る観客が赤い新聞紙を掲げて「ピースライン」を形作る演出がありました。

 6日の試合では、胸に「PEACE」(平和)、背中に個々の名前ではなく「HIROSHIMA」の文字、そして全員同じ背番号「86」が入ったユニホームで、選手らが記憶の継承を訴えます。

「子供たちの大好きなカープを通じて考えるきっかけに」
【8月6日20時30分に追記】
 昨年に続いて今回の縦読みを考案したRCCの桑田ディレクターは、同社のツイッターで「8月6日に原爆が投下されたことを知らない子供たちが増えていく中で、子供たちの大好きなカープを通じて8月6日について考えるきっかけになれば」と、ラテ欄に込めた思いを語っています。

605名無しさん:2015/08/10(月) 15:20:08
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000023-mai-soci
<広島原爆の日>ケネディ大使らも…過去最多の参列国
毎日新聞 8月6日(木)10時55分配信

 ◇広島市の平和記念式典に

 被爆70年の節目となる広島市の平和記念式典には6日、海外から過去最多の100カ国と欧州連合(EU)代表部の代表が参列した。アフガニスタンやスリランカ、フィリピン、モナコなど初参加の7カ国の大使らも祈りをささげた。

 核保有5大国からは米英仏露が出席。広島市は1998年から核保有国を招待しているが、2009年にオバマ米大統領がプラハで行った核廃絶演説を受けて、翌10年には当時最多の74カ国が参列し、西側の核保有国として初めて米英仏3国が出席した。一方、中国は08年に初めて出席したが、それ以降は欠席が続いている。

 米国からは昨年に引き続きキャロライン・ケネディ駐日大使と、米政府高官では初参加となるローズ・ガテマラー国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)が出席した。式典中は終始硬い表情を崩さず、足早に会場を後にした。

 一方、英仏両国は式典を前に報道陣の取材に応じ、原爆被害者へ哀悼の意を示すとともに、核廃絶へ向けた自国の取り組み姿勢をアピールした。

 英国のティム・ヒッチンズ駐日大使は「核拡散防止条約(NPT)実現のためには、他国との交渉とともに、我々核保有国が削減の努力をしないといけない」と述べた。

 ポールベルトラン・バレッツ駐日仏臨時代理大使も「フランスは核兵器の削減目標を掲げており、NPTの一員としてその枠組みをより具体化することに注力している」と強調した。【立野将弘、菅沼舞】

606名無しさん:2015/08/10(月) 15:51:46
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150809-00000036-san-pol
対日宣戦布告時、ソ連が公電遮断 英極秘文書
産経新聞 8月9日(日)7時55分配信

 ■1時間後に満州・樺太侵攻…日本政府は4時間後に報道で把握

 昭和20年8月9日にソ連が日ソ中立条約を破って参戦した時点で、ソ連の宣戦布告が日本政府に届いていなかったことが8日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。宣戦布告を通告された佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使が日本の外務省宛てに打った公電がソ連当局によって電報局で封鎖されていたためだ。ソ連は宣戦布告から約1時間後に満州(中国東北部)や樺太などで一斉に武力侵攻を開始。その約4時間後にタス通信の報道などで参戦を知った日本は不意打ちされた格好となった。(編集委員 岡部伸)

                ◇

日米開戦における真珠湾攻撃で対米宣戦布告が約1時間遅れたことで、日本はだまし討ちをする卑怯(ひきょう)な国と東京裁判などで汚名を着せられたが、終戦直前の意図的な闇討ちで、北方領土を奪ったスターリン首相の背信行為が改めて明らかになった。

 秘密文書は20年8月9日、日本の外務省から南京、北京、上海、張家口(モンゴル)、広東、バンコク、サイゴン、ハノイの在外公館にソ連の宣戦布告を伝える電報で、英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したもの。この文書は英政府の最高機密文書「ウルトラ」として保管された。

 電報を要約すると、「ソ連は8月9日に宣戦布告した。正式な布告文は届いていないが、(日本がポツダム宣言受諾を拒否するなど、対日参戦の趣旨と理由を書いたソ連の)宣戦文の全文と日本政府の声明がマスコミで報道された」などと書かれている。外務省がソ連による正式な宣戦布告ではなく、マスコミ報道をベースにソ連の侵攻を在外公館に通知したことが分かる。

 ソ連のモロトフ外相はモスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)、クレムリンを訪問した佐藤大使に宣戦布告文を読み上げ手渡した。モロトフ外相が暗号を使用して東京に連絡することを許可したため、佐藤大使はただちにモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。

 しかし、外務省欧亜局東欧課が作成した「戦時日ソ交渉史」によると、この公電は届かなかった。モスクワ中央電信局が受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかったためだ。

 ソ連は佐藤大使への通告から約1時間後のモスクワ時間8月8日午後6時(日本時間9日午前0時)に国交を断絶し武力侵攻を開始。日本政府がソ連の宣戦布告を知るのは日本時間の9日午前4時で、ソ連が武力侵攻を開始してから4時間がたっていた。タス通信のモスクワ放送や米サンフランシスコ放送などから参戦情報を入手したという。

 正式な宣戦布告文が届いたのはマリク駐日大使が東郷茂徳外相を訪問した10日午前11時15分。ソ連が侵攻してから実に約35時間が経過していた。

 日本が8月15日にポツダム宣言を受諾し、降伏文書が調印された9月2日以降も、武装解除した北方四島などに侵攻したソ連が一方的な戦闘を停止するのは9月5日。日本は最後までソ連に宣戦布告していない。

607名無しさん:2015/08/10(月) 15:52:23
>>606

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150809-00000037-san-pol
公電ソ連遮断 日本をだまし討ち、事実上の無通告
産経新聞 8月9日(日)7時55分配信

 ソ連の対日宣戦布告を伝える佐藤尚武(なおたけ)駐ソ連大使の公電がソ連当局に封鎖され、日本に届かなかったのは事実上の「無通告」であり、満州などに武力侵攻したソ連が和平仲介の望みをつなぐ日本をだまし討ちしたことになる。ソ連の後継国家であるロシアは北方領土の領有を「第二次大戦の結果」と主張するが、スターリン首相が日露戦争の報復と領土拡張のため、中立条約を無視して踏み切った「侵略」戦争の側面があったことは否定できない。 (編集委員 岡部伸)

                   ◇

 「ソは遂ニ起チタリ、予ノ判断ハ外レタリ」

 昭和20年8月9日午前6時(日本時間)、大本営からの電話でソ連の参戦を知った河辺虎四郎陸軍参謀次長は日記にこう記している。「中立」を信じてソ連の仲介による戦争終結を構想していた日本には、ソ連の宣戦布告はまさに寝耳に水だった。

                  ×  × 

 敗色濃厚となった日本の中枢は、最後の頼みの綱としてソ連を仲介役に米英との和平を模索していた。日本にとってソ連は中立条約を結んでいる唯一の大国だった。20年4月5日にソ連は日本政府に中立条約を延長しないことを通告してきたものの、条約は翌21年4月まで有効で、20年6月中旬からソ連を仲介役とする米英との和平工作がひそかに進められていた。

 ところが、2月のヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連は侵攻の準備を進めていた。日本の甘い見通しにソ連は明確な態度を示さず、参戦準備を察知されないように在欧日本人の帰国の便宜を図るといった隠蔽(いんぺい)工作も行っている。

 ソ連に傾斜した日本は近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣することを決め、7月12日、天皇から親しく命を受け、東郷茂徳外相はモスクワの佐藤大使に「ソ連の意向を調整するよう」訓電を送っている。

                  ×  × 

 外務省欧亜局東欧課作成の「戦時日ソ交渉史」によると、佐藤大使は近衛特使派遣をソ連に告げ、モロトフ外相との面会を求めた。ポツダム会談から首脳が帰国した8月7日、クレムリンから「8日午後8時(日本時間9日午前2時)にモロトフが会う」と連絡があり、その後「8日午後5時(同8日午後11時)」に前倒しされた。

 佐藤大使は近衛特使派遣をソ連が受け入れたと期待して8日、クレムリンを訪れたところ、モロトフ外相から渡されたのは宣戦布告文だった。最後にどんでんがえしを食らった格好だ。

 9月2日、スターリンは対日「戦勝」記念演説で次のように語った。

 「1904年の日露戦争でのロシア軍の敗北は国民の意識に重苦しい思い出を残した。この敗北はわが国に汚点を印した。わが国民は日本が粉砕され、汚点が一掃される日が来ることを信じ、そして待っていた。その日は訪れた。このことは、南樺太と千島列島がソ連に移ることを意味する」

 スターリンのこの演説は日露戦争への報復と領土拡張が日本との戦争の目的だったことを示している。

608名無しさん:2015/08/10(月) 16:24:03
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150807-00000045-rcdc-cn
三菱マテリアル、米国人元捕虜への謝罪、事前に日本政府に報告=韓国ネット「日本は独裁国家」「日本政府はなぜそんなに韓国を嫌う?」
Record China 8月7日(金)17時24分配信

2015年8月6日、韓国・聯合ニュースによると、三菱マテリアルが先月19日、第2次世界大戦中に強制労働させられた米国人捕虜に謝罪した問題で、訪米に先立ち日本政府に報告していたことが分かった。

元米国人捕虜への謝罪に同席した三菱マテリアルの岡本行夫社外取締役は最近、韓国メディアとのインタビューで「謝罪に先立ち、日本政府に報告をした」と明らかにした。岡本氏はまた、「請求権問題はすでに解決しているので、賠償金を支払うことはできないというのが日本政府の立場だ」と強調した。

三菱マテリアルが第2次世界大戦中に強制徴用された元中国人労働者に謝罪し、賠償金を支払うと報じられていることについては、「賠償金を支払うとしても、企業や人として謝罪するという意味であり、元中国人労働者との請求権は解決済みだ」と述べた。また、元韓国人労働者については「韓国人労働者を働かせた事実はまだ確認されていない」とし、「強制労働の事実が確認されたら、当然謝罪するべきだ」との考えを示した。

岡本氏は自身の発言が三菱マテリアルの公の立場ではないと述べたが、韓国メディアは「三菱マテリアルが元韓国人労働者に謝罪しないのは、日本政府の態度が影響を及ぼしているのではないか」と懸念している。

これについて、韓国のネットユーザーは以下のようなコメントを寄せている。

「韓国人労働者を働かせた証拠はたくさんあるはず。写真もたくさん残っているでしょ?」
「韓国人強制徴用の事実を歪曲(わいきょく)するために、日本政府は『韓国が提示する証拠は全て偽物だ』と国民に教えている。国民はだませても神様はだませない!」

「日本政府はなぜそんなに韓国を嫌う?」
「日本人の多くは今でも米国の原爆投下を憎んでいる。いつか日本は米国を裏切るだろう」
「日本政府の主張は正しい。韓国人がいくら賠償金を要求しても、2度は支払わないよ」

「不買運動をして韓国の力を見せつけよう」
「弱者に強く、強者に弱い日本。本当に卑怯な国だ。いつか必ず、後悔する日が来るはず」
「三菱のエレベーターを見ると腹が立ち、壊してしまいたくなる」

「日本は独裁国家だ。そして今、安倍首相は日本に嫌韓を広めようとしている。本当に恐ろしい国」
「日本人は韓国の車を買わないのに、どうして韓国にはこんなに日本車があふれているの?」
「韓国政府は恥を知れ。どれだけ日本になめられているんだ?」(翻訳・編集/堂本)

609名無しさん:2015/08/10(月) 16:24:55
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150807-00000039-rcdc-cn
「日本に標準時間を奪われた」北朝鮮、15日から標準時間を変更=韓国ネット「無知なやつほど勇敢だ」「韓国も見習うべき!」
Record China 8月7日(金)14時38分配信

2015年8月7日、韓国・聯合ニュースによると、北朝鮮の最高人民会議常任委員会は、光復(解放)70年を迎える8月15日から標準時間を30分遅らせると発表した。

北朝鮮は日本の植民地時代から東経135度を基準とする「東京時間」を使用してきたが、15日以降は東経127度30分を基準とする「平壌時間」を使用すると明らかにした。これにより、15日以降は日本と北朝鮮の間に30分の時差が生じることになる。

「平壌時間」を使用する理由について、朝鮮中央通信は「日本帝国主義者は朝鮮半島を踏みにじり、標準時間まで奪う許しがたい犯罪行為を行った」と説明した。

一方、韓国は社会的費用や在韓米軍の軍事作戦などを理由に、現在も「東京時間」を使用している。

これについて、韓国のネットユーザーはさまざまなコメントを寄せている。

「国ごとに時間を定めたらかなり面倒くさいことになる」
「日本植民地時代と何の関係がある?スペインが『英国と同じ時間を使用するのはプライドが傷つく』と言ったことがあるか?」

「無知なやつほど勇敢だ」
「そんな細かいことまで気にしていたらきりがないよ。30分遅らせる利点が1つも見つからない」

「北朝鮮もたまには正しいことをする。韓国も標準時間を変えなければならない」
「それならクリスマスもなくすべき!東アジアの中でクリスマスを祝日にしているのは韓国だけだよ」

「韓国も見習って!韓国の時間を決めて、日帝残滓(ざんし)を消し去ろう!」
「小さい朝鮮半島の中に2つの時間が存在するなんておかしくない?南北統一がどんどん遠ざかっていく…」(翻訳・編集/堂本)

610名無しさん:2015/08/13(木) 15:23:09
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150813-00044509-jbpressz-bus_all
日本にもいた?原爆投下を必要としていた者たち
JBpress 8月13日(木)6時25分配信

 ロシア政府が、アメリカによる広島と長崎への原爆攻撃について検討する会議を開催した。そのなかで、プーチン大統領の側近として知られるナルイシキン下院議長が「軍事的に必要のなかった原爆攻撃は人道的に許されるものではない。アメリカの原爆攻撃はこれまでのところ国際法廷で裁かれてはいないが、人道に対する罪には時効はない」とアメリカを痛烈に非難した。

 この時期において、なぜロシア政府は対米非難をしたのか。背景に、アメリカが原爆による大量虐殺という重大な戦争犯罪を犯していたことを宣伝することによって、ロシアによるウクライナ侵出に対する国際的非難を軽減させようとする意図があるのは見え見えである。現に、ロシア自身がウクライナ情勢の悪化に伴って核兵器の使用を考えていたことを公言している。

 それに加えて、日本国内では“低調”な原爆攻撃に対する議論を喚起して反米感情を煽り、日米同盟に打撃を与えようとする意図もまた明らかである。

 そのような意味で、日本は被害国であるからといってロシアなどが対米訴追を提唱しても軽々に加担してはならない。

■ アメリカで広く浸透している「原爆攻撃免罪論」

 「原爆攻撃に対する議論が低調」というのは日本の人々が「広島」や「長崎」に関心がないことを意味しているわけではない。日本では、とりわけ8月6日と9日が近づくと、多くのメディアが原爆特集を組む。今年は70周年ということに加えて安保法制の審議も行われているためか例年以上に力が入っているようである。

 しかしながら、それらの報道や特集の多くは、原爆がもたらした悲惨な状況を伝えることにのみ焦点を当てている。もちろん、核兵器の恐ろしさや非人道性を啓蒙することは欠かせないのであるが、「なぜ原爆攻撃が必要だったのか?」といった被害国ならば関心を持ってしかるべき疑問に対しての関心は極めて低調である。

 そして、多くの日本の人々が「原爆投下によって戦争が終結することになった。確かに広島と長崎ではおびただしい人々が犠牲になったが、戦争が継続されていた場合に生じたであろう犠牲はその比ではなかったであろう」というアメリカでまことしやかに語られている「原爆攻撃免罪論」を、積極的にではないものの、受け入れてしまっている感も否めない。

 もっとも、原爆投下による大虐殺を敢行した当事国であるアメリカでは、一般的には原爆の話題は好まれない。原爆に限らず嫌な歴史には触れたがらないのだ。そしてアメリカ社会には、上記の「原爆攻撃免罪論」が広く浸透しており、核兵器の非人道性は認めつつも対日原爆攻撃は「戦争においての必要悪」であったということで“納得”している。

■ 原爆攻撃は必要ではなかった

 しかし国防戦略に関与する人々にとっては「原爆攻撃が必要であったのか」という命題はそう簡単に“納得”してしまうようなテーマではない。もちろん、アメリカ政府や軍部としても公的には「原爆攻撃免罪論」に固執している。しかし、少なからぬアメリカ海軍関係戦略家たちは、以下のように考えて原爆攻撃は不必要であったとしている。

 「1945年春には、アメリカ海軍によって日本海軍はほぼ壊滅させられていた。そのため、日本と太平洋方面の間の補給線はほぼ完全に遮断され、満州や中国大陸それに朝鮮と日本の間の補給すら寸断されていた。もはや日本列島は完全に孤立する寸前であった。本土決戦と叫んだところで弾薬兵器が不足しているだけでなく、食糧自給も欠乏していたため、1945年末までには数多くの餓死者が出ても不思議ではない状況であった。したがって、日本指導層に少しでも理性が残っていたならば、原爆攻撃など敢行しなくても間違いなくポツダム宣言を受諾したであろう」

611名無しさん:2015/08/13(木) 15:24:10
>>610

 さらに、原爆使用決定過程において何人かのアメリカ海軍首脳部が原爆攻撃に強く反対していたという事実を根拠にして、以下のように当時の海軍を擁護する海軍関係者も少なくない。

 「海軍首脳の多くは原爆攻撃について軍事的理由からも人道的理由からも反対した。ただし、もし原爆攻撃なしで日本が降伏した場合、勝利の主役はアメリカ海軍ということになる。なんといっても、海軍が反撃に転じたミッドウェイはじめ数々の海戦や、ガダルカナルやタラワを皮切りにした数多くの島嶼攻防戦によって、日本海軍や島嶼守備隊をほぼ全滅に追い込んだのは海軍と海兵隊(海軍と海兵隊はともに海軍省が管轄する)だった。したがって、陸軍陣営は海軍(と海兵隊)に太平洋戦域での手柄を独り占めにされるのを嫌って、硫黄島攻略戦以上に強烈な決定打が欲しかったのだ。まさに原爆攻撃はうってつけであった」

■ 戦争を終わらせたのはソ連の満州侵攻だった

 このように「原爆攻撃は不要であった」とする人々も、2発の原爆によって「少なくとも終戦が決定的になった」という点では「原爆攻撃免罪論」と五十歩百歩である。

 しかし、「原爆によって終戦がもたらされた」という説明を“神話”であると退ける人々もいる。

 例えば、以下のような理由で、日本がポツダム宣言を受け入れたのは原爆攻撃を受けたからではなく、ソ連が対日戦に踏み切ったからであると主張する人々もいる(例えば、Ward Wilsonの「爆弾ではなくスターリンが日本を打倒した」Foreign Policy、2013年5月30日)。

 日本の最高戦争指導部、とりわけ1945年当時に最も権力を掌握していた陸軍首脳は、さすがに敗戦は避けられないとは感じていたものの、「国体護持」と「軍指導者の戦争犯罪人裁判回避」という条件のもとでの終戦実現に関心を集中させていた。アメリカによる対日無差別都市爆撃での日本国民の犠牲は、最も重視すべき関心事というわけではなかったようである。

612名無しさん:2015/08/13(木) 15:25:08
>>611

 実際に、広島攻撃前の3週間だけでも17の都市がB-29の絨毯爆撃攻撃を受け壊滅的損害を受けている。しかし、戦争指導部にとって衝撃であったのは、そのような国民の多大な犠牲よりは、8月9日午前0時から開始されたソ連軍の満州侵攻であった。これによって、戦争指導部にとり最後の望みであったソ連を通しての停戦工作の望みが完全に絶たれたからである。

 そして、最高戦争指導会議がソ連侵攻後の8月9日に開催され、昭和天皇の「ご聖断」を仰ぐことになった御前会議が8月10日午前0時3分から開催されたのであった。

 このような時系列から判断しても、日本の戦争指導部に終戦の決意を促したのは、原爆というよりはソ連であったということができる。

■ アメリカにも日本にも都合が良かったという説

 日本降伏の直接的な引き金は原爆だったのか?  ソ連だったのか?  という議論をより進化させて、「原爆攻撃は、日本の戦争指導部にとっても“タイミングが良い”出来事であった」という考え方も存在する。

 すなわち、原爆攻撃以前にも多数の都市が絨毯爆撃攻撃や艦砲射撃によって破壊され、数多くの国民が犠牲になっていったが、日本の戦争指導部はそのことに対してあまりに無能であった。

 ところが、「残虐なる新型爆弾」による「想像を絶する損害」を口実にポツダム宣言を受け入れることにすれば、自らの無能な戦争指導から原子爆弾に責任を転化することができるというわけだ。

 つまり、「原爆攻撃免罪論」はアメリカのリーダーたちにとっても日本の最高戦争指導部にとっても、それぞれ自身が抱える罪悪感を軽減するために好都合な説明ということになる。

 もちろん、このような解釈も数ある「原爆攻撃に対する議論」の1つにしか過ぎない。しかし、被爆国である日本がさしたる疑問も抱かずにアメリカでの定説であるからというだけで「原爆攻撃免罪論」を受け入れているようでは、犠牲になった人々に対して無責任であるとの誹りを免れないであろう。

北村 淳

613とはずがたり:2015/08/15(土) 20:52:50

細川護熙元首相「祖父、近衛文麿の“遺書”が裏付けた侵略戦争」〈週刊朝日〉
dot. 2015年8月14日 07時00分 (2015年8月15日 15時52分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150814/asahi_20150814_0000.html

 元熊本県知事、第79代首相の細川護熙(もりひろ)氏は、戦後70年の談話(安倍談話)について持論をこう語る。

*  *  *
 私の祖父の近衛文麿は、亡くなる前の晩に次男の通隆に宛てて遺書のようなものを残していますが、その中で、日支事変の拡大、仏印進駐は自分の政治的誤りであったということを言っています。先の大戦は侵略戦争であったということを裏付けるような発言です。当時その責にあった人がそう言っているわけで、その言葉は重く受け止めざるをえない。

 だから首相に就任した1993年8月の最初の記者会見で記者の質問に答え、先の大戦について侵略戦争だったと、間違った戦争だったと認識していると、首相として初めて明言しました。私が言わなかったら村山談話も小泉談話もあそこまで踏み込んだものにならなかったかもしれません。それまで歴代の総理は、戦争を通じて多大な損害を与えたことに対する真摯な反省の気持ちを述べられていましたが、「侵略」に関しては政権の内外とも奥歯にものが挟まったような発言が繰り返されていました。しかし、私には明確な歴史認識を示すことで、近隣諸国の対日不信感を払しょくする一助になるのではないかという信念がありました。

 私の発言は、中国と韓国はもちろん欧米の首脳にも広く歓迎されました。ロシアのエリツィンさんは、首脳会談で来日されたとき、私のあの発言がなかったら、自分はここにいなかったとはっきりと言われました。

 おそらくあのときが一番、日本とほかの国との関係が外交的にはうまくいっていたときだと思います。

 でも自民党からは、もう総攻撃でした。石原慎太郎さんや橋本龍太郎さんらから予算委員会でも徹底的に追及されました。当時の与党のみなさんもびっくりされたと思います。与党の人たちからは特になにも言われなかったんですが「よく言った、そのとおりだ」と真っ先に言ってくれたのは小泉(純一郎)さんだったというのも意外でしたね。

 安倍さんが戦後70年談話を出されるということですが、私の考えは極めて簡単で、村山、小泉談話をそのまま継承すればいいということです。いささかでも私の発言や村山談話から外れてその精神を損なうものであれば、それは有害なものになるでしょう。「侵略」とか「植民地」とかいくつかのキーワードを継承していかないと、「未来志向」と言っても意味がない。

 そもそも10年ごとに談話を出す必要もないと思っています。過去に対して向き合うのが10年ごとに変わるのでは困ります。そして日本と中国、韓国との関係においては、平和友好以外の選択肢はありえません。

(構成 本誌・長倉克枝)

※週刊朝日 2015年8月21日号

614名無しさん:2015/08/15(土) 21:11:33
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150814-00044645-gendaibiz-soci
日本人はヒトラーをどう見ていたか?〜ファシズムへの共感が広がった理由 【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』4
現代ビジネス 8月14日(金)9時1分配信

 日本はなぜファシズムに傾斜していったのか? モデルとなったのはもちろんヒトラーのナチスドイツ。当時の日本人はこれをどう見ていたのだろう。ヒトラーのナチズムが「先進的な模範モデル」として徐々に共感を広げていった様子を追う。

 (*井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』より「Ⅳ章 カリスマ待望と戦争」を4回に分けて特別公開。最終回)

ファシズムへの共感

ヒトラー・ユーゲントの一大旋風
 日本国民に枢軸国に対する親近感を抱かせるうえで、大きな政治的・社会的役割をはたしたイベントとして、ヒトラー・ユーゲント(ドイツ青少年団)の来日がある。

 1938(昭和13)年8月、横浜港にグナイゼナウ号で来日した一行30名余は、11月に神戸から帰国の途につくまでの約3ヵ月間、日本に一大旋風を巻き起こすことになる。

 写真壁新聞も逐一、報道する。8月19日号「ようこそ!! 若き盟友!! /青年日本の歓迎裡に憧れの帝都へ」は、「バンザイバンザイの熱狂的な青年日本の歓迎陣に迎えられて……防共の誓新たなるを覚える中に宮城へ堂々と行進を起した」として、宮城前を行進するヒトラー・ユーゲントの写真を載せる。その写真は東京駅から宮城へとハーケンクロイツの旗を先頭に行進するヒトラー・ユーゲントを取り巻く人びとが埋め尽くしている。

 写真壁新聞は、他方でドイツを訪問する日本の青少年団の様子も伝えている。8月21日号「独逸各地で歓迎攻め/我が訪独青少年団代表一行」は、港に到着した直後の行進風景の写真である。

 ヒトラー・ユーゲントの足跡を追う写真壁新聞は、9月21日号で大島の三原山を登山する一行の姿を伝えている。「活火山を持たぬドイツ国民とて火山ではすっかり驚嘆〝凄い凄い〟を連発して下山」したという。

 ヒトラー・ユーゲントの来日の政治的・社会的影響は大きかった。一行の様子は多くのメディアが報じた。『ホーム・ライフ』もそうである。1938年10月号は、3頁の特集を組んでいる。「万歳・ヒットラー青年」は、靖国神社を参拝する一行の写真である。横浜港上陸から東京駅前、富士登山、山中湖畔での「日本青少年団交歓キャンプ」の写真がつづく。

615名無しさん:2015/08/15(土) 21:11:59
>>614

模範国としてのナチス・ドイツ
 注目すべきことに、亀井貫一郎「この世界観──自由主義を揚棄する所以」が同じ号に掲載されている。亀井貫一郎とは、社会大衆党の幹部のひとりで、近衛内閣の成立に協力した人物である。当時、亀井は前年に訪問したドイツから帰国し、近衛新党の結成を画策していた。

 亀井は同論考において、「日本はナチス・ドイツの真似をしているとよくいわれる」と言う。ところが亀井によれば「これはまちがいで、実はナチス以前の統制の真似をやっているにすぎない」。日本はナチス・ドイツと同様に「新らしい文化を建設するために、自由主義を揚棄するのである」と力説する。

 「そのためには男性も婦人も『性』を超越し、一つの目的へ向わねばならない、この世界観さえしっかりしていれば、末梢的な梅干弁当や、見当違いの勤労奉仕などから起る矛盾も解消すると思う」。

 ナチス・ドイツは男女間の格差を是正する新しい文化と生活様式を創造する国である。亀井にとってヒトラーのドイツは、この意味で日本の模範国だった。

 ドイツの社会的な影響は『ホーム・ライフ』にもおよんでいる。その具体的な現われの一つが日本の「民族優生保護法案」への関心である。大和民族をより強く、より立派にしようとする法律にもとづく民族強化政策は、明らかにナチス・ドイツに範を求めたものだった。

 同誌の1939(昭和14)年12月号は、「京大講師・医学博士藤森速水」に「ドイツに留学中何かと見聞したナチス・ドイツの民族強化政策」を語らせている。藤森は言う。

 「国家が権力をもって人たるの本能を奪うのは怪しからんと説く人があるが、これは大変な誤解である。今日の進歩せる手術をもって断種法を施す場合、被手術者に何らの苦痛を与えず、しかも手術後も何ら人生の本能を阻害することなく生殖能力を差止めることができる」。

ヒトラーの下での平等──山田耕筰がみたドイツ
 ヒトラー・ユーゲントをとおして生まれた共感のさきにあったのは、優生学への関心だけではなかった。以下ではドイツで見聞を広めたふたりの人物に注目する。

 ひとりは音楽家の山田耕筰である。山田は1938(昭和13)年1月13日から15日の『東京朝日新聞』に「ナチ独逸人を語る」を連載している。このなかで山田は、ベルリンフィルハーモニーによる自作の曲の演奏会のことにふれる。山田は見逃さなかった。入場券には「この演奏会、ユダヤ人の入場を許さず」と記されていた。

 しかし山田はユダヤ人差別の是非を論じることなく、別の点でドイツ人を賞賛する。「独逸人の性格でまた最も尊敬すべきものの一つに身の程を知るという美点がある」。「身の程を知る」とは何か。「床屋は床屋として、下僕は下僕として其職を蔑まない。あらゆるものがその与えられた職分を守って精進する」。これがドイツ人にとって「身の程を知る」ということだった。

 他方で日本においては、山田によれば、たとえば「車夫」が弁護士になるといった「成功線上を彷徨して夢の成功を握」ろうとするという。これではいけない。ドイツ国民の「健康性」は「吾が国の現状には移し植えて培うべき特性である」と山田は言う。

 要するに山田が感嘆したのは、ヒトラーの下でのドイツ国民の平等だった。ヒトラーの下で職業の貴賤はない。ヒトラーの下で社会的な格差が是正される。

 「持たざりし大多数の者が持ち得ざりしあるものを与えられて、はじめて僅なる陽の目を喜び楽しんでいる……。国家社会主義ナチの現象としてはこれはあまりにも当然すぎる事実である」。

 山田は叫ぶ。「この勝れた盟邦独逸と独逸国民の上により多き祝福の加えられんことを祈念し、Heil Hitler!」(『東京朝日新聞』1938年1月15日)。山田はヒトラーの国家社会主義による社会の平等化に日本の理想を見出した。

616名無しさん:2015/08/15(土) 21:12:22
>>615

新しい生活様式のモデル
 もうひとりは「東京聯合少年団中央健児女子部長藤村千良女史」である。藤村のドイツ見聞録は、「新興の意気が到る処に満ち満ちて居ることでした。何を見ても唯感心する他なく、学ぶべきことが実に沢山ありました」とはじまる(『東京朝日新聞』1938〈昭和13〉年9月16日、17日)。

 藤村は日本の女性に伝える。

 「ドイツに於ける赤ちゃんの大切にされていることは日本の婦人には想像だに出来ないことです。/汽車などに乗る時でも、お母さんが腰をかけているその前に、赤ちゃんは乳母車ごとそのまま乗れるようになって居ります。/地下鉄などでも赤ちゃんの乳母車の上げ下ろしを男子までが、自分の子供よりも大切にして手伝うのです」。

 藤村は乳幼児と母親が社会的に大切にされている理由がわかっていた。「よい体格の女子とよい体格の男子との結婚によってよき子を生むことに依って強き第二国民に将来の大使命を負わせよう」とするためである。それでも藤村にとって、ヒトラーのドイツの下では、男女は平等だった。

 藤村は言う。「ドイツの婦人全体に真に国家のためと云う観念が生活の凡ゆる方面に漲って、緊張した生活をしています」。藤村はこのような緊張感を日本の銃後社会に持ち込もうとした。「盟邦ドイツに学んで、更に一層銃後の婦人の緊張に拍車をかけなければならないと思います」。

 ヒトラーのドイツは日本の新しい生活様式のモデル国家となった。

ファシズム優生学への「期待」
 日本はドイツのようなファシズム体制をめざす。そうは言っても日本は日本である。ドイツを真似したところで同じようになれるわけがなかった。

 たとえばナチス・ドイツ流の優生学を導入するといっても、限界があった。この点に関して、医学博士の林髞は言う。

 「この事変以来、日満支の一体が叫ばれ、日本人の進出を多く見るようになったが、その場合結局一番問題になるのは異種族間の結婚……だが恐らくこの問題は、近親結婚よりこの方が数からいって少くはないかと思う。異種族間の結婚問題は、ある程度の弊害はあるとしても、要は増殖率が多いかどうかにあると思う」(『ホーム・ライフ』1939〈昭和14〉年12月号)。

 日本はドイツのようにユダヤ人を排除しアーリア民族の優秀性を唱えたくても唱えることができなかった。日中と「五族協和」を掲げる満州国の三国が「東亜協同体」をめざす立場からすれば、「五族」の異種族間の結婚は、推奨すべきではあっても、禁止すべきことではなかったからである。

 この背景にはつぎのような日独のちがいがあった。ドイツは第一次欧州大戦に敗れて植民地を失った。対する日本は形式的ではあれ、戦勝国である。しかも台湾を領有し、韓国を併合している。日本はすでに多民族国家だった。多民族国家日本が一方的に大和民族の優越性を強調するわけにはいかなかった。

 優生学の導入は、日本の文脈において再解釈される。当時の日本では、法律によって、伯父・叔父と姪、伯母・叔母と甥の結婚は禁止されていた。それを従兄妹同士にまで広げようというのである。

 林は言う。「日本で問題になる近親結婚としては、この従兄妹同士というのが一番多いわけだから、時代が経つと禁止になるかも知れないと、私は思っている」。

 近親結婚は、自由主義的な結婚観の立場からであっても、忌避されるべきだろう。これはナチス・ドイツ流の優生学とは異なる。医学の発達段階にともなう近代的な常識にもとづく判断である。

 それでもファシズムが持つ平準化作用の魅力は失われない。林は結婚した者には独身者の二倍の賃金を与えろと提言する。戦争景気の下で高賃金を得た独身の若い労働者が贅沢をしている。「この弊害を改める上にも、妻のある者には二倍の高賃金を払うか、独身者には普通の賃金しか払わないとなれば、独身者はそんなに遊びまわる余裕がなくなり、早く結婚して平和な生活をしようと工夫するようになると思う」。

 ファシズムの優生学は賃金格差の是正と「平和な生活」への期待を抱かせた。

617名無しさん:2015/08/15(土) 21:13:00
>>616

近衛新体制の末路
 日本は日本的なファシズム体制をめざす。日本的とはいっても、ファシズム体制である以上、大衆に支持される「独裁者」が必要だった。日本の場合、その「独裁者」は近衛以外に見当たらない。本章1節(→こちら)でふれたように、近衛は三度、政権の座に就くことになる。

 近衛に対する大衆の期待は変わることがなかった。「近衛氏のほかに、人なしとして、同氏にだけ、のぞみをつないでいるというありさま」だった(筒井清忠『近衛文麿』)。

 その近衛は第二次組閣に際してのラジオ放送において、政府と国民が一体となって社会の平準化(より正確には戦時下における下方平準化)をめざすべきことを訴えた。

 「国民の全部が皆私心を去り、一面積極的増産に力を致すと共に、他方大節約に努めなければならない。/凡そ奢侈逸楽を事として興隆せる国家は未だ曽て之を見ない。政府に於ても予算に出来るだけ削減を加え、不急を除き、冗費を節したい」(1940〈昭和15〉年7月23日放送)。

 大衆が支持したのは、近衛の下での社会の下方平準化だった。

 新体制の確立をめざす近衛を勇気づけたのは欧州情勢である。ヒトラーの電撃戦の成功は欧州新体制をもたらしつつあるようにみえた。近衛にとってヒトラーのドイツは、近衛の「弱い性格」を補完する。仮装パーティでヒトラーに扮した近衛の写真がある。この写真は近衛の二面性を示唆する。

 一方では近衛はヒトラーを揶揄しないではいられなかっただろう。ヒトラーの出自と野蛮な暴力主義の権力奪取の手法は、近衛とは相容れないところがあった。他方では、ヒトラーの存在は近衛の決断力不足、優柔不断さの心理的補償作用となった。

 近衛がめざしたのは、そのヒトラー(とムッソリーニ)との三国同盟による国際新体制およびこの国際新体制と連動する国内新体制の確立だった。

 近衛にとっての国内新体制とは、ナチズム体制に類似した一国一党体制のことである。しかしこの国家路線を追求する過程で、近衛は帝国憲法の改正という難問に直面する。憲法改正をためらった近衛が作ったのは大政翼賛会だった。大政翼賛会は、一国一党体制とはほど遠い、諸政治勢力の寄せ集めにすぎなかった。

 他方で国際新体制に関しても、元老西園寺がさきの近衛のラジオ放送を評して「実にパラドックスに充ちていた」と述べたように、三国同盟と日米関係の調整を両立するのは困難だった。三国同盟は近衛の主観的な意図とは異なり、客観的な結果としてはアメリカに対日戦争の覚悟を固めさせることになったからである。第三次近衛内閣は総辞職する。

 それでも写真壁新聞の1941(昭和16)年10月28日号は「大活躍の我が野村駐米大使」との記事において、ワシントンで対米交渉をつづける野村(吉三郎)大使の写真を掲載している。依然として政府は、国民に対米国交調整の努力を伝えていた。

 しかし日米交渉は不調に終わる。政党内閣崩壊後、残されたほとんど唯一の切り札だった近衛を失った日本に真の危機が迫っていた。

 (了)

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井上 寿一(いのうえ・としかず)
1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程などを経て、現在、学習院大学法学部教授。法学博士。専攻は日本政治外交 史。主な著書に『危機のなかの協調外交』(山川出版社、吉田茂賞)、『日中戦争下の日本』(講談社選書メチエ)、『昭和史の逆説』(新潮新書)、『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)、『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)がある。
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井上寿一

618名無しさん:2015/08/16(日) 18:19:51
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150814-00003107-kana-l14
戦死の誤報で母再婚 父2人のはざまで娘は…
カナロコ by 神奈川新聞 8月14日(金)7時0分配信

 父の腕に抱かれ、ハンカチで口元を押さえる少女。BC級戦犯としてフィリピンで死刑判決を受けながらも恩赦によって横浜港に帰還した元日本兵と、約10年ぶりに再会した子どもたちの写真が、1953年7月23日の本紙に載った。その少女、尾畑慶子さん(76)=旧姓前川、横浜市鶴見区=は「これで元に戻れる、と思いました」と当時の心境を振り返る。けれども、そこに母の姿はなかった。夫が戦死したとの誤報を信じて再婚していたからだ。市井の人の「戦争」は続いていた。

 「私は覚えていないんですが、お葬式をしたと母から聞きました」と慶子さんは話す。終戦から2、3年後に父・前川治助さんの戦死公報が届いた。母の邦子さんは、生活を案じた近所の人の紹介で再婚した。2人の幼い弟は新潟の父方の実家に引き取られ、母は新しい父との間に妹と弟をもうけた。

 治助さんがフィリピンの刑務所で健在だと分かると、邦子さんは煩悶(はんもん)した。日本人戦犯の減刑のために奔走した横浜出身の歌手、渡辺はま子さんにしたためた手紙に「再婚したものゝ、前川が生存して居ると知つた其の時から、此の帰りを待ちわびて来た私でした」と真情を吐露した。

 帰国がかなった53年7月の恩赦に加えて同年12月、さらなる恩赦で釈放されるまで、治助さんは東京・巣鴨刑務所で服役した。その間、邦子さんは再婚した夫とともに巣鴨を訪れ面談した。結局、邦子さんが選んだのは治助さんだった。その気持ちを慶子さんは推し量る。「あんたが大人になったら分かる、とだけ言っていました。結局、好きだったということでしょうね。母は大恋愛で結ばれ、16で私を生んだんです」

 治助さんは邦子さんを許し、新潟の弟たちも一緒に暮らすことになった。横浜港で慶子さんが見せた涙には、新潟、横浜と離れ離れだった弟に再会した喜びもあった。「うれしくてしょうがなかったんです」

 一方で、新しい父は身を引き、妹と弟を連れて家を出た。慶子さんにとって、その2人も大切なきょうだいだった。内職に忙しかった母に代わり、赤ん坊のころから銭湯へ連れて行き、かわいがったのだ。「会いたくて、親に黙って顔を見に行ったこともあります」

 その弟は病で早世し、妹は慶子さんが20代前半のころ奉公に出されることになった。そのことを慶子さんが伝えると、治助さんは自分が引き取ると言った。戦後十数年、戦争に翻弄(ほんろう)された慶子さんのきょうだいが一つ屋根の下に集まった。「私たちを育ててくれた新しいお父さんにも恩返しができたと思いました」

 治助さんが亡くなったのは90年。フィリピンでのことは口を閉ざしたままだったが、かの地で10年間、家族を思い続けたことだけは確かだった。慶子さんは、横浜港で父が最初に発した言葉を忘れない。「お前、腕は大丈夫か」。ごく幼いころ腕に負ったやけどを、ずっと心配していたのだ。

 ◆フィリピンのBC級戦犯 非戦闘員や捕虜などを殺害、虐待したなどの容疑でフィリピン政府が起訴した日本兵151人を指す。79人が死刑判決を受け17人が刑死。エルピディオ・キリノ大統領の恩赦で帰国できたのは108人だった。戦犯は首都マニラ郊外のモンテンルパにあるニュービリビッド刑務所に収監された。教誨(きょうかい)師の加賀尾秀忍や、戦犯が作詞作曲した「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌った歌手の渡辺はま子らが減刑を嘆願した一方、日米両軍が激突し約10万人の民間人の命を奪った1945年のマニラ市街戦などを背景に、日本兵に対する住民の憎悪は根深かった。自身も妻子4人を日本兵に殺されたキリノは、キリスト教精神に基づき恩赦を決断したが、必ずしも国民の共感は得られず、直後の大統領選で落選した。

619とはずがたり:2015/08/20(木) 12:28:24
イタリアもエチオピアやリビアへの侵掠の罪を直視してんだろーねー。
そしてその先には当然宏大な土地を侵掠した英仏の罪がある筈である。狂った帝国主義時代を反省すべくガンガンやろう♪

イタリア、「日本の中国侵略の罪」を歴史教科書で明確に・・中国への関心高まり―中国メディア
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150820/Xinhua_26689.html
フォーカス・アジア 2015年8月20日 12時05分 (2015年8月20日 12時20分 更新)

中国・新華網は19日、イタリアの小学校から高校で使用する歴史の教科書で近年、「日本の中国侵略の罪」が明確に記述されるようになったと伝えた。イタリアで中国への関心が高まったことが背景にあるという。
報道によると、10年前、イタリアの歴史教科書では中国に関する記述があまりなかったが、今ではさまざまな教科書が日本の中国侵略について記し、「満州国の成立」や「南京大虐殺」にも言及するようになった。ある教科書では「日本は歴史修正主義で、虐殺の罪を認めることを拒絶しているだけでなく、中国で犯した罪について教科書の中で大きく扱わないようになってきた」と指摘している。
ローマのある歴史教育専門家は、イタリアの歴史教科書で中国に関する内容が増えた背景について、中国が世界第2位の経済体となり、その歴史を理解することの重要性が高まったこと、中華系住民が増えたこと、また同国の歴史教育が欧州中心主義ではなくなってきたことがあると語った。
(編集翻訳 恩田有紀)

620とはずがたり:2015/08/27(木) 11:16:12

日本は謝罪も経済支援もした!中国のくどい“お詫び要求”に根拠などない―仏メディア
レコードチャイナ 2015年8月26日 19時14分 (2015年8月27日 11時02分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20150826/Recordchina_20150826057.html

17日、仏メディアRFI中国語版は中国外交部が安倍晋三首相の戦後70年談話に満足しなかった点に言及し、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」とする記事を掲載した。写真は中国人民抗日戦争記念館。(Record China)

2015年8月17日、仏国際ラジオ放送ラジオ・フランス・アンテルナショナル(RFI)中国語版は中国外交部が安倍晋三首相の戦後70年談話に満足しなかった点に言及し、「中国が歴史問題で日本に毎年のように謝罪を迫るのは根拠のないことだ」とする記事を掲載した。

同記事は中国の作家らの文章を引用し、中国の寛大さに感謝を示した安倍談話を「中国への尊重」と評価。過去の戦争を反省し、永遠の不戦を誓った日本に比べ、日本による侵略、植民地化をくどくどと訴える中韓はあまりにも遅れていると指摘する。さらに、田中角栄元首相が初めて毛沢東国家主席(当時)に会った際、頭を下げたことに触れ、「日本が中国に謝罪していないなどということはない」「反省や謝罪だけでなく、罪を償うための賠償もしている」と巨額の対中支援や対中投資を例に挙げた。

さらに、「平和主義を掲げる日本が軍事拡張路線を進む中国に服従するはずがなく、民主主義の日本が権威主義の中国に屈することはない。国際主義の日本が民族主義の中国の配下となることもない」と述べ、現実的な中国人は日本人とむやみに張り合おうとすべきではないと指摘した。

このほか、「人類にとって戦争は日常茶飯事で、侵略者と被侵略者の違いは、どちらが勝ったかで判断される」「領土割譲や賠償、戦勝国による一定期間の占領、戦争裁判などが終われば、敗戦国の謝罪や清算も終わりを告げられる」との意見を紹介し、償いを終えた敗戦国にいつまでも戦争問題を訴え続けることに疑問を呈した。

その上で、日本の首相が替わるたびに中国が謝罪を求めている点を挙げ、同じ敗戦国であるドイツやイタリアでは見られない事態だと指摘。また、「日本人と中国人では謝罪の捉え方が違う」と説明し、「中国人にとっての謝罪は負けや失敗を意味するがゆえに中国人は謝罪問題に対して強い姿勢に出る」との見方を紹介した。そして最後に「安倍談話に盛り込まれた“謝罪”というキーワードは、表面上は中国の勝ちのように思われがちだが、国際世論を考えれば本当の勝者は安倍首相だ」とまとめた。(翻訳・編集/野谷)

621名無しさん:2015/08/28(金) 00:05:10
http://news.livedoor.com/article/detail/10503441/
【戦後70年首相談話】橋下氏、「謝罪の宿命負わせない」に同意 「指導者と国民は別。政治家は謝罪し続けなければ」とも… 
2015年8月24日 8時7分 産経新聞

 橋下徹大阪市長(維新の党最高顧問)が23日、安倍晋三首相の戦後70年談話に初めて言及した。

 「戦争責任は国家の指導者と国民を分ける二分論で整理すべき」と述べ、「政治家は反省を前面に出し、まだ謝罪をし続けなければいけない。中国や韓国には謝罪の意はきちっと表明しなければいけない」との持論を展開した。

 市内で行われた市主催の戦後70年記念行事のあいさつでの発言。橋下氏の言う「二分論」は、「二分法」として知られる戦争指導者と国民を分ける中国の論理で、橋下氏は日中国交正常化で中国が国内の説得に使った論理として引用した。

 ただ、この二分法の論理は「A級戦犯」をまつる靖国神社への首相参拝を批判する根拠にもなっており、国政政党の幹部でもある橋下氏が中国側の論理を引いて戦争責任のあり方に言及したことで波紋を広げる可能性もある。

 また、橋下氏は「変なところで過去の歴史を正当化したり、謝罪はもういらないと言ったりするのはあり得ない」と述べ、「戦争の一番の歯止めは指導者に常に反省の気持ちを持ち続けさせること」と語った。

 一方、安倍談話が「(将来世代に)謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と言及した部分には同意。「日本だけでなく、いろんな国が帝国主義だった時代だ。原爆投下や大阪大空襲など民間人無差別攻撃も問題提起しなければならない」とも指摘した。

622名無しさん:2015/08/30(日) 14:57:33
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150826-00000004-jct-soci
山本太郎議員の国会質問がまた話題 「原爆投下や大空襲は米軍の戦争犯罪では?」
J-CASTニュース 8月26日(水)19時50分配信

 山本太郎参院議員(40)が国会でした質問がまた、反響を呼んでいる。今度も、「米軍による日本への原爆投下や東京大空襲は、戦争犯罪ではないのか」という単刀直入なものだった。

 山本太郎氏は、誰もが持つ素朴な疑問を次々に安倍晋三首相にぶつけている。2015年7月29日には、「原発がミサイル攻撃されたら?」と質問して、ネット上でもその内容が賛否両論になった。

■イラク戦争での米軍による「一家銃殺事件」を取り上げる

 今回質問したのも、安保関連法案を審議した同じ参院平和安全法制特別委員会だった。「生活の党と山本太郎となかまたち」共同代表として、山本氏は8月25日の委員会で、安倍首相の見解を問いただした。

 民間人の殺害などを禁じるジュネーブ諸条約、国際人道法は、日本も批准している。山本氏はまず、日本がこうした国際法に違反する行為をしている他国への支援、協力は行わないかへの確認を求めた。

 答弁に立った安倍首相は、自衛隊が国際法違反の行為への支援は行わないのは当然だとし、もしある国がこうした行為をしたとき、日本がその行為を支援することはないと明言した。それは、同盟国でも米軍でも同じで、日本は共犯者になることはないと言い切った。

 そこで、山本氏は、フリージャーナリストの志葉玲さんが4月28日にヤフー・ニュースに投稿した記事を元に、イラク戦争のケースを取り上げた。記事では、06年3月15日にイシャキ村で米軍が一家銃殺事件を起こしたと紹介し、安保法案について、こうした戦争犯罪でも日本は支援するのかと疑問を投げかけている。山本氏は、この記事内容について、「総理、これ戦争犯罪ですよね? 国際法違反ですよね?」とただした。

 これに対し、安倍首相は、事実確認のしようがないので、論評は差し控えたいと述べるに留まった。

「必要な議論」「政治で通じない」賛否分かれる
 米軍のほかの行為について、安倍首相と同様なやり取りをした後、山本太郎氏は、「もっと分かりやすい例え」を持ち出した。それは、多くの一般市民が犠牲になった広島や長崎への原爆投下や東京大空襲は、戦争犯罪であり国際法違反ではないかということだ。

 この点については、民主党議員からもすでに質問があり、政府は8月14日の臨時閣議で、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものであった」などとする答弁書を決定している。そのことを踏まえ、岸田文雄外相は、山本氏の質問に「国際法の思想的基盤にあります人道主義の精神に合致しない」とだけ述べた。

 これに対し、山本氏は、安倍首相に聞いており外相は呼んでいないと不満を漏らし、「過去の米軍の過ちを認められないものが、どうやって戦争犯罪常習国である米国の行動をこの先ジャッジできるんですか」と批判した。最後に、山本氏は、「自衛隊は、米軍の2軍ではないんですよ」と指摘して、安保法案に対して反対する考えを強調した。

 国会での山本氏の質問については、今回もネット上で、賛否両論になっている。質問に共感する声としては、「よく言ってくれた」「これは必要な議論でしょ」「割と痛い所ついてくるよなw」といった書き込みがあった。一方で、「安保法案を理解してないね」「正論が政治で通じるとは限らんのよ」「アメリカを敵に回して何かいいコトあるんか?」といった疑問や批判も出ていた。

623名無しさん:2015/08/31(月) 18:10:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015083100531
戦後70年談話を評価=「侵略、一人称が望ましかった」-北岡座長代理

 安倍晋三首相の戦後70年談話に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一国際大学長は31日、東京都内の日本記者クラブで会見し、談話について「基本的には、懇談会の報告は大体踏まえていただいて、ほぼ満足している」と評価した。
 一方、談話に盛り込まれた「侵略」に関しては、「ここは(首相に)一人称でできれば言ってほしかった」とも指摘。「植民地支配の犠牲者についても、もうちょっと触れてもよかった」と述べた。
 北岡氏は、談話を受けた中国と韓国の反応にも言及。韓国に関しては「非常に理性的で抑制されたものだった」としたが、中国については「こんなに書いたんだから、もう少し良く受け止めてくれるかと思った」と感想を語った。 (2015/08/31-15:44)

624とはずがたり:2015/09/01(火) 16:42:08
その金は何処へ行ったんだ?戦後汚いカネでのし上がった日本の新興企業も多そうだ。

日本が戦争中に中国から奪った金は6000トン、日本はこれで戦後復興した=中国ネット「中国は戦争に勝ったのに…」「侵略者よ、ありがとう!」
配信日時:2015年8月30日(日) 21時22分
http://www.recordchina.co.jp/a117764.html

2015年8月27日、広州日報は「第2次世界大戦中に日本が中国で略奪した文物は10万点、金は6000トンに上る」とする記事を掲載した。これに中国のネットユーザーが反応を示している。

記事は、日本が大戦中に中国を含むアジア各地から洗いざらい持ち出したと説明。「中国から奪った金は6000トン、東南アジアでは1万トンに上る。これらは日本の戦後復興を支えた基盤となり、奪われた側のアジア諸国は貧困に苦しんだ」と指摘し、当時これに関わった人の話として「日本の手段は卑劣極まりない。墓に埋葬された人が身に付けていた金品まで持ち去った」と伝えた。さらに、現在でも日本各地の博物館で当時の略奪物が展示されていると紹介し、なかには重要文化財として展示されている文物もあると説明した。

625とはずがたり:2015/09/02(水) 08:29:30
習氏、抗日勝利「国民党も貢献」…中台連帯演出
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E7%BF%92%E6%B0%8F%E3%80%81%E6%8A%97%E6%97%A5%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%80%8C%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%82%82%E8%B2%A2%E7%8C%AE%E3%80%8D%E2%80%A6%E4%B8%AD%E5%8F%B0%E9%80%A3%E5%B8%AF%E6%BC%94%E5%87%BA/ar-AAdPuQu
読売新聞 9 時間前

【北京=竹内誠一郎、台北=向井ゆう子】中国の習近平国家主席は1日、「抗日戦争勝利70年」の軍事パレード出席のため北京を訪問している台湾与党・国民党の連戦元党主席らと会談し、中国国営新華社通信によると、共産党と国民党が「ともに抗日勝利に重要な貢献をした」と強調した。

国民党が反発してきた「共産党が抗日戦争の主体だった」とする従来の主張は控え、パレード開催に向け、中華民族としての連帯を演出した形だ。連氏も「国民党は正面作戦で日本軍に大きな打撃を与え、共産党はゲリラ作戦で日本軍をけん制、壊滅させた」と中国側に歩調を合わせた。

連氏の発言に対し、台湾の総統府報道官は1日、「すべては国民党が指導した。史実を否定することは許されない」と批判した。

626名無しさん:2015/09/03(木) 22:40:43
http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&k=2015082900152
ソ連の対日参戦

 ソ連の対日参戦 ソ連は1945年2月、米英とのヤルタ会談で、対日参戦の見返りに南樺太(サハリン)と千島列島を占領する極東密約を結んだ。ドイツ降伏3カ月後の8月9日、日ソ中立条約を破棄して満州(中国東北部)に侵攻。樺太では11日、千島では18日から戦闘を始めた。日本兵はシベリアに連行・抑留され、逃げ遅れた在留邦人から残留孤児が出た。日本の降伏文書調印3日後の9月5日、北方領土の占領を終えた。(モスクワ時事)(2015/08/29-14:43)

http://www.jiji.com/jc/c?g=tha_30&k=2015090200100
ソ連の対日参戦

 ソ連の対日参戦 ソ連は1945年8月9日から、米英との極東密約(ヤルタ協定)に基づき、日ソ中立条約を破って満州(中国東北部)、南樺太(サハリン)、千島列島に順次侵攻。日本兵はシベリアに連行・抑留され、在留邦人から残留孤児が出た。日本の降伏文書調印3日後の9月5日、北方領土の占領を完了。ロシアはこれら地域を「日本軍からソ連軍が解放した」という歴史観を持つ。(モスクワ時事)(2015/09/02-07:33)

627とはずがたり:2015/09/04(金) 18:47:50
>>619-620

中国は日本に「謝罪迫る資格」なし・・・莫大なODAを忘れたか? ドイツもイタリアも侵略の謝罪はせず=仏メディア
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%80%8C%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E8%BF%AB%E3%82%8B%E8%B3%87%E6%A0%BC%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%97%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E8%8E%AB%E5%A4%A7%E3%81%AA%EF%BD%8F%EF%BD%84%EF%BD%81%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%82%82%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%82%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%AE%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%AF%E3%81%9B%E3%81%9A%EF%BC%9D%E4%BB%8F%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2/ar-BBm5RzF#page=2
サーチナ サーチナ モーニングスター株式会社 2015/08/25

 フランス国際放送、RFIはこのほど、運営するニュースサイト(中国語版)で、中国が歴史問題で日本に毎年謝罪を迫るのは根拠がないなどの主張を紹介する記事を掲載した。日本が莫大(ばくだい)なODAなどで中国を支援してきたことにも触れた。

 記事は、複数の中国人が示した意見を紹介する形で書かれている。まず日本が戦争行為を反省し、永遠の不戦の誓いをしていることは「だれでも知っている」と指摘。一方で、中国人と韓国人が毎日のように「日本の侵略と植民の歴史」を唱えているのは「見劣りがする」と断じた。

 謝罪については、田中角栄元首相が国交正常化のために訪中した際にすでに、「深々と頭を下げた」と指摘。日本は「贖罪のための賠償もした」として、ODAなどによる巨額の対中経済援助を挙げた。

 記事は続けて「今の平和主義の日本が、軍拡主義の中国に服従することはない。民主主義の日本が権威主義の中国に服従することはない。国際主義の日本が民族主義の中国に服従することはない」と論じた。

 戦争については、人類の歴史で「日常茶飯事」だったと主張。侵略行為の認定も勝利国によるもので、敗戦国は領土喪失、賠償、一定期間の占領、戦争犯罪者の裁判などが強いられるが、「これらが終了すれば、謝罪や清算はすべて完結したことになる」と論じた。

 さらにドイツやイタリアも侵略国であり敗戦国だが、「何度も繰り返して相手国に謝罪するのは見たことがない」、「国際法でもそんなことは定められていない。中国以外の世界中の第二次世界大戦の“被害国”は、そんなことをしない」と論じた。

**********

◆解説◆ 中国では「ドイツは戦争についてきちんと謝罪」が“常識”になっている。しかし、中国でよく例となるワルシャワにおけるブラント首相(1970年当時)の謝罪も、ユダヤ人の迫害に対するもので、ポーランド侵攻を含む戦争発動に対するものではない。

 1985年の終戦40周年式典でのフォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説では「われわれ全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされている」と述べたが、「反省」や「謝罪」の言葉はなかった。

 イタリアは日独と同盟する枢軸国として第二次世界大戦に加わったが、戦局が不利になると指導者のムッソリーニを排除し(最終的に処刑)、連合国側に加わり日本にも宣戦布告した。このため、他の連合国と同格ではないが、敗戦国扱いは受けていない。(編集担当:如月隼人)

628とはずがたり:2015/09/04(金) 18:50:03
>イタリアは、国民性の問題もあり戦争はだめだった
笑。ここhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1165050511/6-7参照

抗日戦で「本当に頑張った」のは国民党の広西軍・・・日本軍から学ぶ柔軟性もあった、「共産党軍は軽部隊」と中国人専門家
http://www.msn.com/ja-jp/money/other/%E6%8A%97%E6%97%A5%E6%88%A6%E3%81%A7%E3%80%8C%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E9%A0%91%E5%BC%B5%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%AF%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A%E3%81%AE%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%BB%8D%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%AD%A6%E3%81%B6%E6%9F%94%E8%BB%9F%E6%80%A7%E3%82%82%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%81%E3%80%8C%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E8%BB%8D%E3%81%AF%E8%BB%BD%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%80%8D%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AE%B6/ar-BBm6qCp#page=2
サーチナ モーニングスター株式会社 2015/08/26

 中華民国研究の専門家で、江蘇行政学院(南京市)で教授を務める李継鋒氏は、日中戦争で日本軍と最も頑強に戦い成果を上げたのは、広西省(現、広西チワン族自治区)の国民党軍だったと論じる文章を発表した。日本軍の戦い方を直ちに採用するなどの柔軟性もあったという。共産党も戦意は旺盛だったが、「軽部隊」だったという。

 李教授は、当時、ファシスト国家であったドイツや日本は戦力が高かったと主張。ただし「イタリアは、国民性の問題もあり戦争はだめだった」と論じた。

 日本については、「武器もすごかった。精神面も頑強。そのため、中国軍は死傷率が極めて高かった」と論じた。第2次上海事変で「日本軍の損害は4万人。中国軍は25万人。25万人です。どう考えたらよいのか」と論じた。

 当時の中国は徴兵制の定着前だ。「人さらい」で兵員を補充した。李教授は、「民族自衛戦争なのに、人さらい。本来ならば、自ら喜んで兵になるはずだが、そうは簡単にいかなかった」と論じた。

 李教授は、日本には徴兵制が確立していたと指摘。日本兵と異なり中国兵は多くが字も読めず、先進的な武器は扱えず、組織生活も軍事訓練も経験していなかったと説明した。

 李教授によると、戦意が高かったのは共産党の支配地域と広西省だった。広西省は中国で最も早く徴兵制度を導入し、兵士の戦闘能力は高かったという。

 広西軍は第2次上海事変にも参加した。大損害を受けたが、指導者の白崇禧、李宗仁らは日本軍の「塹壕戦」を直ちに取り入れた。広西軍は戦いが始まって数カ月で、日本軍から戦術を学習し能力を大いに向上させたという。

 共産党軍については「軽部隊。重火器もあまりない。そのため、大量補給も必要なかった」と指摘。国民党軍については重砲、戦車、航空機、自動車などを使っての戦いであり、ガソリンや弾薬の補充が絶対に必要だったと説明。組織的に大規模な戦いを進めたと指摘した。

**********

◆解説◆ 白崇禧は1893年生まれ。広西軍の指導者のひとり。蒋介石に日本軍の補給線を崩壊させる「総力戦」を提案した。日本の敗戦により接収した台湾で反国民党の暴動(1947年、2.28事件)が発生すると、現地に乗り込み庶民から聞き込み調査をした上で国民党側の非を認め、捕えられた学生の恩赦を行うなどした。

 蒋介石とは1946年ごろから疎遠になり、48年には防衛大臣を罷免された。国共内戦で国民党が敗北すると、大陸を離れる最後の部隊を率いて台湾に渡った。1966年に台北で没した。(編集担当:如月隼人)

629名無しさん:2015/09/06(日) 11:57:23
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015090502000251.html
新選組 斎藤一に新史料 西南戦争従軍歴など国立公文書館に恩給関係文書
2015年9月5日 夕刊

 西南戦争で右肋骨(ろっこつ)に銃撃を受け、警視庁では中間管理職の警察官-。幕末に活動した新選組の生き残りとして知られながら、史料が少なく、謎が多いとされる斎藤一の明治維新後の従軍歴などが、国立公文書館が所蔵する明治時代の恩給関係の文書で明らかになった。歴史研究家のあさくらゆうさん(46)が公開請求した。
 文書は、退職公務員の恩給請求書などをまとめた「明治廿六年官吏進退恩給二」の文官恩給の部。斎藤は警視庁を退職翌年の一八九三年一月十九日付で、警視総監宛てに申請した。丁寧な文字で書かれた「西南之役従軍履歴」などは直筆とみられ、維新後から使った「藤田五郎」の名前で、押印もある。
 これによると、斎藤は七七年二月二十日に内務省の警視局で警部補となり、同五月十七日に「警視第二番小隊半隊長」として西南戦争へ従軍。四日後の同五月二十一日に大分県の嵯峨へ着き、同七月十二日に大分県の高床山で弾丸により右肋骨を負傷すると、陸軍の出張病院へ入院した。部隊復帰は同八月十五日で、戦闘終結後の同十月二十四日に臼杵で乗船。帰京後の七九年十月八日に勲七等を与えられた。
 八一年の警視局廃止後は、陸軍省の御用掛に。警視庁の設置で、同年十一月十一日に巡査部長となり、翌年十二月に月給が十二円から十五円へ昇給した。階級は八五年七月三日に警部補、八八年十一月一日に警部へ上がり、九二年十二月十四日に退職。当時四十八歳で「官ノ都合ニ依リ諭旨」とあり、十六年間の勤務に対する恩給は年四十六円だった。
 これらは、妻トキヲが斎藤の死亡後、遺族年金に当たる「文官扶助料」を申請した書類にも記されていた。斎藤は後に東京高等師範学校(現筑波大)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)で守衛や会計などの仕事に就いたが、この間の恩給の請求記録はなかった。
◆実像知る手掛かり
 歴史研究家のあさくらゆうさんの話 人気漫画やゲームのキャラクターにも描かれるなど、歴史に興味がある人以外にも斎藤一の人気が広がっているが、残されている史料は少なく、足跡には謎が多い。警視庁時代のこともスパイや暗殺者として書籍に書かれるなど、怪しいイメージがつきまとうが、見つかった史料は公文書で、実像を知る手掛かりになる記録が出てきた意義は大きい。
 <斎藤一> 1844〜1915年。江戸生まれとされる。1863年に近藤勇らが京都で結成した壬生浪士組に入り、新選組となった後は最年少幹部で副長助勤に。沖田総司と並ぶ剣豪とされた。会津藩主松平容保が務めた京都守護職の下、反幕府派を襲撃した池田屋事件などのほか、新選組を離れた元隊士の暗殺にも関わったとされる。戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽伏見の戦いを経験し、近藤が投降後も会津藩に合流し新政府軍に抵抗した。明治維新後は、松平家が斗南藩として再興した青森の五戸へ移り、後に上京した。

630名無しさん:2015/09/06(日) 13:08:47
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150903-00045078-gendaibiz-pol
ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた
現代ビジネス 9月3日(木)6時2分配信

 なぜ、文明国ドイツにヒトラー独裁政権は誕生したのか。『ヒトラーとナチ・ドイツ』を著した東京大学大学院総合文化研究科教授の石田勇治氏に、ヒトラー政権誕生の歴史から、わたしたちはどのような教訓を導き出すことができるのか、話を聞いた。

はじめは有権者の26%しかナチ党に投票していなかった
 ーーヴァイマル憲法という民主的憲法をもったドイツに、なぜ民主主義を否定する政権が誕生したのでしょうか? 
 「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」とよく言われますね。たしかにヒトラー率いるナチ党はヴァイマル共和国末期の経済的危機、社会的混乱に乗じて台頭し、1932年7月の国会選挙で第一党(得票率は37%)になりました。

 しかしナチ党の勢いはここまででした。その年の11月の国会選挙で約200万票を失い、得票率も33%に下落します。地方選挙でも大敗を喫し、12月には党のあり方をめぐって分裂の危機に直面します。

 経済はこのころ好転の兆しが見られ、このままいけば民意はさらに離れ、ヒトラーもナチ党もやがて政界から消え去るのではないかとの観測も出てきます。ヒトラーが大統領によってドイツの首相に任命されたのはその直後、33年1月30日のことでした。

 「ヒトラーは選挙(民意)で首相になった」という言い方は事柄の本質を半分しか言いあてておらず、なぜヒトラーが首相になったのかという問いへの答えとしては不十分です。

 いま述べた32年11月の国会選挙の投票率は80%でしたから、ヒトラーが首相になる直近の国会選挙で有権者の26%しかナチ党に投票していなかったことになります。

 大衆はヒトラーの虜になっていたように言われますが、ヒトラー政権が誕生するまではそれほどではなかった。大衆はそんなに愚かではなかったのです。

 むしろ落ち目のヒトラーを救い出し首相の座に引き上げた大統領と、その周りに集まった既成の権力者たちの行動が問題でした。

「大統領の大権」で国会が形骸化
 ーーヴァイマル共和国末期の国会はすでに形骸化していたようですが、具体的にどのような状況だったのでしょうか。

 ヴァイマル憲法は、現在のドイツや日本と同じように、国会に基礎をおく議院内閣制を定めていました。しかしヴァイマル共和国末期の国会には、政党間のイデオロギー対立と相互不信が深刻化し、妥協と調整による多数派(合意)形成能力がすっかり失われていました。

 ヒトラーに先立つブリューニング、パーペン、シュライヒャーといった共和国末期の政権はどれも国会に基盤らしい基盤のない少数派政権で、まともな議会運営ができません。そこで「大統領の大権」が用いられたのです。

 ヴァイマル憲法は大統領に大きな権限(首相・閣僚の任免権、国会の解散権、非常時の緊急命令権)を与えていました。この時期の政権は、その力を借りて政権運営をはかります。

 たとえば国会で否決された法案は大統領緊急令として公布されました。国会がその緊急令を否決すると、大統領が国会を解散することもありました。大統領の大権をこのように行使することは憲法が想定したものではないのですが、非常時を乗り切るためと称して頻繁に用いられ、これが国会の形骸化をもたらしました。

 ナチ党が国会第一党となり、第三党となった共産党とあわせて議席の過半数をおさえた1932年の後半には、国会はもう何も決められない状況に陥ります。

 当時の共産党はソ連型独裁を志向しており、議会制民主主義をブルジョワ支配の道具だといって攻撃していました。政府は国会を解散して大統領緊急令による統治を続けますが、世論はいっそう反発し、国会不要論が噴出してきます。

 当時の大統領はヒンデンブルクという人物です。ドイツ帝国陸軍元帥で、プロイセンの伝統を引く帝政主義者でした。25年に大統領に初当選。32年春に再選されたとき、すでに84歳でした。共和国の大衆民主主義を衆愚政治とみなし、それに代わる権威主義的な新国家の建設をめざして大統領緊急令を出していきます。

 ヒンデンブルクがヒトラーを「ボヘミアの一兵卒」と呼んで見下していたことは有名な話ですが、共産党の躍進を恐れる財界の要請をうけてヒトラーをついに首相に任命しました。

631名無しさん:2015/09/06(日) 13:09:16
>>630

ヒトラーは当初、過小評価されていた
 ーー発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。

 ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック内相、ゲーリング無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。

 反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。

 これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。

 ーー保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか? 
 ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。

 そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。

 選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。

 そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。

 ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。

 じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。

632名無しさん:2015/09/06(日) 13:09:42
>>631

ヒトラーは当初、過小評価されていた
 ーー発足時、ヒトラー政権にナチ党員は3名しかいませんが。

 ヒトラー政権はナチ党の単独政権ではなく、保守派の国家人民党との連立政権として発足しました。ナチ党から入閣したのはヒトラー首相のほか、フリック内相、ゲーリング無任所相だけです。ヒトラー政権は当初、やはり少数派政権で、大統領の大権に依存していたのです。

 反ヴァイマル右翼運動を率いるヒトラーと野合した保守派は、それで何を達成したかったのでしょうか。答えは三つです。議会制民主主義を廃止し、共産党(マルクス主義)を撲滅し、強いドイツ(再軍備・軍拡)を実現することです。

 これらはヒトラーが求めていたことでもあり、両者はこの目的のために手を組んだのです。これらが達成できれば、あとはまた大統領の力でヒトラーを政権から追い出せばよい。保守派はそのように高を括っていたのです。

 ーー保守派に両脇をしっかり固められたヒトラーですが、それがどうしてヒトラー独裁へと向かうのでしょうか? 
 ヒトラーは当初、世間からも過小評価されていました。国政担当の経験がなく、専門的な知識もない、どうせ保守派の閣僚の手玉にとられてさっさとお払い箱になるだろうというわけです。

 そんな甘い予想に反して、ヒトラーは一気に攻勢に出ます。国会を解散、選挙にうって出ました。

 選挙戦の最中に大統領緊急令を出させて言論統制をおこない、国会議事堂炎上事件(33年2月27日)が起きるとこれを徹底的に利用して、共産主義者など左翼反対派を一網打尽にします。

 そして言論・集会・人身の自由など憲法が定める国民の基本権をすべて停止したうえで政府の独裁権を求めるのです。国難危急にあたり「強い政府」が必要だというのです。

 ヒトラーが目をつけたのが授権法です。授権法は全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば政府は国会から自由に、また大統領に依存することもなく法律を思うがまま制定できます。

 じつはヒンデンブルク大統領も授権法の制定に賛成していました。ここ数年来の大統領統治には憲法違反の嫌疑が向けられており、ヒンデンブルクはそのことの精神的負担から早く免れたいと思っていました。議会制民主主義の限界を言いたてる与党の国家人民党も、自党の政策が容易に実行できる授権法の制定に意欲を示します。

633とはずがたり:2015/09/07(月) 03:03:04
>>630-633
姑息な手段で「授権法」成立
 授権法成立には国会議員総数の3分の2の出席と、出席議員の3分の2の賛成が必要です。この選挙(33年3月5日)でナチ党は44%、国家人民党は8%をとり、政府は過半数の議席を手に入れます。しかしまだ十分ではありません。

 政府は共産党の国会議員81名全員と一部の社会民主党議員を国会議事堂炎上事件の容疑者として拘束(逃亡を含む)していましたが、議決にあたり社会民主党の「欠席戦術」を防ぐため、議長が認めない事由の欠席は出席とみなすという議院運営規則改正案を直前に国会に提出して、賛成多数で通過させます。じつに姑息な手段です。議場内に入ったナチの突撃隊員が見守るなか、授権法案は可決成立します。結局、反対投票したのは社会民主党だけでした。

 成立した授権法には、「国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる」(第1条)、「政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる」(第2条)と記されています。ヴァイマル憲法はこうして改正されることも廃止されることもなく形骸と化したのです。

 ナチ体制下のドイツではおびただしい数の法律が制定されました。かつては議論が百出して日の目をみることのなかった法案も易々と成立します。「決められる政治」が実現したのです。ホロコーストへいたるユダヤ人迫害は合法的に進みましたが、それはこの授権法によって可能になったのです。

 授権法の成立は1933年3月23日。ヒトラー政権の誕生からわずか50日あまりで、ドイツはもはや民主主義国家に戻れない不可逆地点を乗り越えてしまったのです。

ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた
写真:現代ビジネス
権力者の恣意的な憲法解釈を許していいのか
 ーーいまの日本を考えるうえで、ヒトラーの「政権掌握」やナチ・ドイツの歴史から何が言えるでしょうか? 
 当時のドイツといまの日本とでは、それぞれを成り立たせている前提条件が違います。ヒトラー独裁政権は、第一次世界大戦から間もない、世界恐慌の最中に起きたものです。当時のドイツには議会制民主主義の考え方が十分に定着しておらず、民主主義と独裁は矛盾しないとまで言われていました。

 これに対して現在の日本では、日本国憲法が定めた議会制民主主義は少なくとも制度として広く国民に支持され、浸透しています。ただ「決められない政治」に嫌気がさして、強い首相や「決められる政治」を待ち望む声はいまの日本にも存在しますね。

 そして一昔前は考えられなかったヘイトスピーチや排外主義的な風潮の広がりは、日本の社会から寛容さが失われつつあることを物語っています。これがエスカレートすればどのような事態に行き着くか、ヒトラーとナチ・ドイツの歴史はそのあたりをよく示しています。

 さらに気がかりなのは、日本の政治指導者の誤った歴史認識です。一昨年夏の「麻生発言」は私にとって大きなショックでした。

 「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」

 麻生氏は撤回しましたが、更迭されたわけではありません。この発言で日本が失った国際的な信頼は計り知れないと思います。政治家こそ歴史をしっかり学んでほしいですね。

 最後にひとこと。

 ヴァイマル憲法は大統領の大権について「詳細は、共和国の法律でこれを定める」(第48条第5項)としながら、結局それを定めず、時の権力者の恣意的な解釈を許しました。それが大統領の大権の濫用につながり、国会の形骸化を招き、ひいてはヒトラー政権をもたらしたのです。

 憲法の条文を時の政府が勝手に解釈して、憲法の実質的な骨抜き=形骸化をはかることなどあってはならないことです。戦後70年、道を誤って独裁と戦争を招来することがないよう、過去の人類の失敗の歴史をふりかえることは、大切なことのように思います。

 読書人の雑誌「本」2015年9月号より

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石田 勇治(いしだ ゆうじ)
1957年、京都市生まれ。東京外国語大学卒業、東京大学大学院社会学研究科(国際関係論)修士課程修了、マールブルク大学社会科学哲学部博士課程修了、Ph.D. 取得。現在、東京大学大学院総合文化研究科(地域文化研究専攻)教授。専門は、ドイツ近現代史、ジェノサイド研究。著書に『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』『20世紀ドイツ史』(ともに白水社)、『図説 ドイツの歴史』(編著、河出書房新社)、『ジェノサイドと現代世界』(共編、勉誠出版)などがある。

634とはずがたり:2015/09/07(月) 03:03:43

東アジアの「最先進国」は韓国か?
「一君万民」で読みとく、日清戦争から大統領選挙まで
http://toyokeizai.net/articles/-/14480
與那覇 潤 :歴史学者

…しばしば「近くて遠い国」とも呼ばれるように、多くの日本人にとって、朝鮮史の知識は乏しい(おそらくは、逆もまたしかりだろうが)。

この問題について「意識の高い」人々のあいだでも、注目されるのは目下の従軍慰安婦問題のような、植民地化以降の話題に限られがちだ。そのことがかえって、韓国との歴史問題といえば「解決不可能なもの」、いつまでもそれに熱くなる韓国人は「理解できない人々」といった印象を、強くしているようにも思う。

昭和史を先取りした、併合以前の朝鮮王朝

しかし当たり前のことだが、朝鮮に植民地化される以前の歴史がないわけではない。むしろ、近現代でも互いに「国と国」の立場で対峙した時代を紐解く方が、「対等」の関係に近づくがゆえにこそ修復が困難をきわめる、今日の日韓関係への、ヒントを得られるかもしれない。

趙景達『近代朝鮮と日本』は、朝鮮民衆史の第一人者による併合「以前」の通史だ。平明な新書でありつつも専門研究を踏まえた筆致からは、時として私たちにも似た、朝鮮王朝下の人々の相貌さえ浮かび上がる。

併合以前の朝鮮王朝の特徴は、「民本主義」を「一君万民」の形式で実現しようとする、儒教的な政治文化にあった。

民本主義と聞くと、大正時代に吉野作造がデモクラシーにあてた訳語を連想するが、元来は西洋思想と関係はない。

『書経』の「民は惟れ邦の本(たみはこれくにのもと)」に由来し、民衆の生活を安んずることを政治の本義におく、儒教の統治理念だ。その担い手を、貴族や官僚といった中間搾取者を排して、衆庶の声に直接耳を傾けてくれる英明な君主に求めるのが「一君万民」の発想である。

日本の世界史教科書で習うと、頑迷な鎖国主義者にしかみえない大院君(執政1864〜73年)は、実はこの理念に最も忠実たらんとした君主であった。

既往の地方官の収奪を取り締まり、エリート階級たる両班(ヤンバン)の特権を削減する政治を行い、民衆からも熱狂的な支持を得ていた。その人気が、失脚以降の日朝関係史の画期にも関わっているという。

たとえば1882年の壬午軍乱は、大院君に代わった閔氏政権が中間搾取を復活させたという不満のもと、一部軍人が困窮民と合流しつつ、閔氏打倒を訴えて大院君を担ぎだすクーデターだった。いわば、貧農救済のために天皇親政を標榜して、「君側の奸」を殺害した昭和の五・一五、二・二六事件の先駆けである。

実際に大院君の一時復権を勝ち取った点では、後の青年将校よりも優越するが、その鎮圧にあたって強大な隣国(清国)の介入を招かざるをえなかった点に、島国日本と異なる朝鮮半島の悲劇があった。

日清戦争の契機となった甲午農民戦争(1894年)でも、大院君は自身の人気を利用し、密書を発して農民軍を抗日蜂起に導く脇役を演じる。「忠君愛国」ゆえにこれに応じた全?準の人となりは日本人にも感銘を与え、井上馨も助命運動を支援したという。

おおむね武士層限定だった幕末の「尊王攘夷」と異なり、実際に民衆を動員しえた点に、朝鮮の志士の力を見たのかもしれない。

一君万民という本来、天皇制の冠絶性を説くはずの国体論の用語が、田中正造の直訴が弾圧された明治日本よりも、国王への直訴が広く認められた朝鮮王朝の方に当てはまるとは、原武史『直訴と王権?朝鮮・日本の「一君万民」思想史』の指摘でもある。とすれば意外にも、植民地化「した」日本の方が、「された」朝鮮の伝統を追いかける形で、両国の近代史は展開したことになろう。

635とはずがたり:2015/09/07(月) 03:04:04
>>634-635
大統領制の政治は日本の未来の予兆か

それはひょっとすると、日韓の未来にも当てはまるのかもしれない。浅羽祐樹『したたかな韓国?朴槿恵時代の戦略を探る』が描く大統領選挙のダイナミクスには、ふとそんな思いを感じてしまう。

今日の韓国では与野党とも、党公認候補を決定するための予備選挙で、党員以外からの投票も受けつけるほか、世論調査での支持率まで票数に換算して組み込んでいるという。後者は世界に類例がないというが、まさしく現代版の「一君万民」であろう。

しかも本番の大統領選挙は全国を一選挙区とするシンプルな勝負で、相対的に一票でも多い方の勝ちだ。さらに直接議会に法案を出せるなど、当選後の権限も強い。

米国に比べても、民意を大統領一人に集約する度合いが高いわけだが、首相公選制や国民投票といった「直接民意を代表させる」体験への期待が高まる日本人が望む政治のあり方と、それは実のところ近似していないだろうか。

民主政下の「一君万民」はポピュリズムに堕すのか


木村幹『韓国現代史?大統領たちの栄光と蹉跌』(2008年、中公新書)
事実、木村幹『韓国現代史?大統領たちの栄光と蹉跌』は、前代の李明博(イミョンバク)氏が就任するまでの各大統領の人生から描く戦後史だが、民主化以降の描写は近年の日本と対照しても示唆が深い。

根深い地域ごとの党派対立を克服し、インターネットを駆使して特定の派閥によらない国民統合を模索したのは、前々代の盧武鉉(ノムヒョン)大統領。

自身の支持者で固めた新党で臨み、守旧派議員を放逐して圧勝した2004年の国会議員選挙は、小泉純一郎首相の郵政解散に一年以上先行する。

もっとも、その後の盧武鉉政権の急速な失墜を、木村氏は「改革」すれば必ず社会の進歩につながるという国民の期待と、政治の力で起こせる変化はすでに尽きていた同国の現実との、落差に求める。

そもそも一君万民とはポピュリズムの異名でもあり、大院君も民衆へのバラマキのツケとして悪貨鋳造によるインフレを招いたとは、趙氏の著書にも見える。過度な改革幻想や成長神話に基づく、民衆側の統治者への無批判な一体化を戒める上で、わが国にとっても益するところの多い挿話だろう。

むろん、史実の解釈は多様であっていい。しかしいたずらに自国の栄光を誇り、他国の失敗をあげつらう関係は虚しいだけだ。

これまでも、これからも多くの課題を共有する両国であればこそ、互いに相手の経験を鏡とするような、成熟した歴史の語りを持ちたいものである。

【初出:2013.6.8「週刊東洋経済(マンション時限爆弾)」】

636名無しさん:2015/09/07(月) 19:19:23
>>633
とはさん、貼り忘れのフォローありがとうございます。
記事読みながら貼っていたら、貼ったつもりになっていたようです。。。

637とはずがたり:2015/09/07(月) 19:42:37
>>636
いえいえ,こちらの方こそいつも興味深い記事有り難うございます!

638名無しさん:2015/09/12(土) 16:00:57
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150912-00083211-toyo-soci
それでも「君が代」が国歌であり続ける理由
東洋経済オンライン 9月12日(土)6時0分配信

議論の絶えない国歌「君が代」。近代日本を背負った140年余のその生命力とは。『ふしぎな君が代』著者の辻田真佐憲氏に聞いた。

 ──政治と芸術の視点から「君が代」の歴史をひもとくと、新しい理解ができるのですか。

 合意が取れていない議論を延々と繰り返すのはあまりに不毛だ。なぜ問題になるのか。一言で言えばこの歌は近代日本そのものなのだ。1869(明治2)年に誕生して、今まで国歌であり続けている。近代日本のいいところも悪いところも象徴している。まず政治と芸術の視点から、知られざる歴史に迫ったらどうか。

■ 「君が代」が国歌になるまで

 ──誕生秘話にも定説がありませんね。

 明治早々、英国王子の来日で急きょ国歌が必要になる。急場しのぎで、『古今和歌集』の詠み人知らずの短歌に鹿児島で愛唱されていた「蓬莱山」の節をつけて間に合わせたというのが、維新の元勲、大山巌の回想を基にした有力説だが、真説とは断定しにくい。

 ──探究すると説は八つに及ぶとか。

 ここ20年、近代音楽史の研究は進み、「君が代」の論文も最新の研究がいくつか出ている。国歌がこんなに問題になるとは思っていないので、誕生にまつわる資料は皆無だ。昭和になってから伝聞が記述され残っている。誰が歌詞を選んだかは特定できないが、明治政府の誰かが選んだ。それを英国人が作曲し、日本語で歌えるように雅楽の若き専門家の奥好義(よしいさ)らが改訂し、ドイツ人が五線譜に直して1880年に今の「君が代」ができたことはわかっている。

 当時、日本には国歌という概念自体がなかった。だが、なくては文明国扱いされないので、急きょ作らなければならない。いい歌詞はないかと既成のものを探し、最終的に絞られたのが和歌の「君が代」で、『古今和歌集』に載っているもの。『古今和歌集』では、「我が君は」で始まる。それが平安時代末期に「君が代は」に言い換えられたといわれる。

639名無しさん:2015/09/12(土) 16:01:32
>>638

 『古今和歌集』に載っているといっても、決して古臭いわけではない。君というのは天皇だけでなく、将軍という意味や、目の前のあなたという意味でも1000年ぐらいの間に使われ、その人が「千代に八千代に」健康で長寿であるようにとの祝いの歌として使われてきた。歌詞が物語や戯作の中に取り込まれ、江戸時代にはポピュラーソングだった歴史さえある。諸外国でも君主国は皆、国王万歳という国歌を作っている。君を天皇ととらえれば、これはちょうどいいとなったようだ。

■ 近代日本のいいところ、悪いところも象徴

 ──国旗国歌法では作曲者が林広守となっています。

 奥が中心になって作ったがたくさんの人がかかわっている。ドイツ人のお雇い軍楽教師・エッケルトは外せないし、奥は林広季(ひろすえ)と一緒に作ったという説もある。林広守は直接には作ってはいなくて雅楽チームの代表者名義みたいなものだ。

 ──いつ国歌に。

 海軍が宮内省を巻き込んで決めたといっていい。ほかの役所や政府として承認していたわけではない。陸軍は「扶桑」を、文部省は別の「国歌按」を考えて、「君が代」に対抗し始める。ところが、ほかの曲は出来が悪い。詞は長いし、メロディもなじみにくく、「君が代」に勝てない。「君が代」の歌詞は歌い継がれてきたほどだから、よくできている。現代からすると変だといわれるが、メロディも一度英国人が作曲したものを日本人に加えドイツ人も直してハイブリッドに修正されている。ぽっと出のものより当然出来がいい。

 1999年に国旗国歌法ができるまで、法律では多くの国と同様に国歌を定めていない。学校で教える機会があって定着した。天長節をはじめ祝日大祭日の儀式用唱歌として子どもたちが歌う。祝日に歌われていたことで、国歌の資格が定まった。レコードもラジオもない時代だけに、重要なポイントであり、そこに「君が代」が入り込めた。文部省も自分たちの曲は出来が悪いとわかってあきらめた。文部省が受け入れた時点で、デファクトとしての国歌になった。もともと西洋では事実上の国歌というのが普通であり、法律で定めるのは珍しい。

640名無しさん:2015/09/12(土) 16:02:20
>>639

 ──どのように普及していったのですか。

 普及手段は限られている。楽譜を配っても読める人は皆無。本格普及は昭和初期、レコードが普及した時期と重なる。公式の楽譜も用意されて、文部省が単なるメロディラインだけではなくて、どこで区切るか、息継ぎするのかを示した楽譜を作る。学校で教えられ、ラジオでも模範的な歌い方が聞けることで定着する。半世紀ほどかかった。

■ 「君が代」は政治と芸術の関係の古典的問題だ

 ──そして、戦争期です。

 戦争期は、天皇を中心に団結しようというのが当時の雰囲気。「君が代」は都合がいい。「君が代」が必要とされた時期で普及が加速する。ただし厳粛な歌であり、歩きながら口ずさむようなものでない、ご真影に向かって歌うなどと教えられた。国威発揚に大いに利用され、植民地での公民化政策に使われた面もある。

 ところが、戦争に負け、その歌詞では不都合になった。憲法が変わって、天皇は象徴になり、主権は国民。「君が代」ではよくないのではないかとなって、新しい国歌の候補曲公募が次々と行われる。日教組も「緑の山河」を作った。しかし、結局、「君が代」に勝てない。

 ──もめ続けます。

 国民一般はこの議論から一歩引いた姿勢だが、一部の右と左が争い、両者は妥協する気がない。しかも保守的な政権になると強制しようと、教育者に懲戒処分を行ったりした。明治時代にも「君が代」は暗い、歌う気がしないといった批判はあったが、この状態をこれからも放置していていいわけはない。

 ──どうすべきですか。

 世界を眺めれば、歌うことを義務化しているのは中国など一部しかない。欧州はほとんど歌わない。日本はどちらのタイプを選ぶのか。歌わせるのは確かに圧迫感が強い。斉唱が反発の原因だと思うので、「聞く国歌」はどうか。スポーツの国際試合などでもほかの国の国歌は聞く。歌い手にお願いする、歌いたい人は歌うなどでいいのではないか。それが日本の状況に合っている気がする。

 ──政治と芸術の関係とも絡む。

 戦後70年経って政治と芸術や文化を警戒なく結び付けるところが目立ってきた。自衛隊の募集ポスターにアニメキャラが使われたり、少し前の自民党若手議員の勉強会で配られた会の目的に「政策芸術」という言葉があったり。「君が代」は政治と芸術の関係の古典的な問題といえる。これ以上進むと、プロパガンダになってしまう。その線引きが今後の一つの防波堤になると思っている。

塚田 紀史

641名無しさん:2015/09/20(日) 11:00:08
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150909-00016133-president-bus_all
靖国神社参拝論争の運命を握る「ある民間人」とは誰か
プレジデント 9月9日(水)11時15分配信

■参拝を問題化させた三木総理の「基準」

 安倍晋三総理が2013年12月に靖国神社に参拝した。7年ぶりの総理の参拝は、中国や韓国から非難され、さらにはアメリカ政府からも「失望」を表明される異例の事態となった。国が戦死した兵士の慰霊をするのは、世界的に見て普通のことなのに、なぜ外国は総理の靖国参拝を問題視するのか、疑問に思う方も多いだろう。それを理解するために、まず靖国神社の歴史を押さえよう。

 靖国神社は、1869年に明治政府によって「東京招魂社」として創建された。招魂とは、死者の魂を招いて祀ること。当初は、戊辰戦争の官軍の戦死者を祀る神社だった。10年後、東京招魂社は神社の格を上げるという意図のもとに「靖国神社」と改称される。靖国は、国を平和にするという意味。この改称と前後して、内戦の戦死者にとどまらず、国民的な対外戦争の犠牲者も合祀の対象になっていく。

 靖国神社は国が管理していたが、その性格は戦後に大きく変わった。1945年12月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が神道指令を発して、政教分離の原則と国家神道廃止を打ち出した。日本政府には宗教性を薄めて国の慰霊施設として残すか、国から切り離すかという2つの選択肢があったが、選んだのは後者だ。翌年に宗教法人令で靖国神社は民間の宗教法人となり、国のコントロール下から離れた。

 宗教法人となった後も、総理の多くは参拝している。当時は、それが問題視されなかった。問題になったのは、75年に三木武夫総理が終戦記念日に参拝してから。三木総理は私的参拝であることを表明、私的参拝の基準(公用車を使用しない、お供を連れていかない、肩書を記帳しない、玉串料は私費)を示した。それまでは公的か私的かということにこだわらなかったのに、私的参拝を強調したことで「総理の参拝は政教分離の原則に反するのではないか」という論点が浮かび上がった。

■中国とアメリカが参拝を非難する理由

 ただ、問題化したといっても、この当時は国内問題だった。しかし、78年に当時の靖国神社の宮司によってA級戦犯が密かに合祀された。A級戦犯とは、日本を戦争に導いた指導者として東京裁判で罪に問われた人たちのことだ。そして翌年、共同通信と朝日がこれをスクープした。ここからリベラル派の攻撃が激化したが、それでも海外から抗議はこなかった。

 国際問題化のきっかけは、85年の中曽根康弘総理の参拝だ。中曽根総理は終戦記念日の公式参拝を事前に表明。それに対して中国外務省は公式に非難声明を発表した。これを機に、総理の靖国参拝、さらにA級戦犯合祀が外交問題に発展したのである。

 靖国は、国内におけるイデオロギー対立の一大争点となってしまう。リベラルメディアは中国まで行ってコメントを求め、キャンペーンを張る。また、靖国参拝や歴史認識に関する閣僚の失言でも攻勢を強める。靖国参拝は一種の「踏絵」と化して、中曽根総理以降はしばらく総理の参拝が途絶えた。

 その後、96年の橋本総理、01年以降の小泉総理、そして13年の安倍総理と、総理が参拝するたび中国から抗議がきて日中関係は悪化した。

 中国は、なぜ靖国参拝に抗議をするのか。基本としてA級戦犯合祀の問題があることは間違いないが、背景にあるのは中国自身の国内政治である。実は中曽根総理はいったん公式参拝した後、参拝をしていない。自分が参拝すると、仲のよかった改革派の胡耀邦(こようほう)総書記の立場が中国国内で悪くなることを憂慮したからだ。かつては中国にも、胡耀邦のように靖国問題をスルーしてもいいという勢力がいた。しかし、胡耀邦の失脚後、そのラインは途絶えてしまった。その後の指導者は、保守派に配慮して抗議をせざるをえない立場にいる。靖国は中国の国内問題なのだ。

 一方、アメリカはどうか。アメリカにとって日本はかつての敵国。今は同盟国でも、先の戦争は正しかったという右派の歴史認識は絶対に認められない。戦争責任の罪を負ったA級戦犯が合祀されている靖国神社に総理が参拝することに、いい顔はしないのである。

 中国やアメリカにはこうした事情があるので、国の代表が戦没者を慰霊するだけだと説いても通じないのだ。

642名無しさん:2015/09/20(日) 11:00:56
>>641

■A級戦犯の分祀は実現するのか? 

 国内の靖国問題で問われている本質とは、国家の命令で戦い亡くなった人をどうするのかということだ。兵士の犠牲のもとに今の社会があることを忘れると、戦争は誰かがやってくれるから怖くないという風潮が広がり、戦争へのハードルを下げてしまう。その意味で、宗教右派、右派、中間層、リベラルまで、兵士の慰霊を行うことに関して異論はないはずだ。

 ただ、そのやり方については、各立場で考え方の違いがある。ここは意見が分かれるところだが、私はA級戦犯を分祀して、天皇陛下が御参拝できる環境を整えることが、どの立場の国民も納得する落としどころではないかと考えている。A級戦犯の合祀が発覚して以降、天皇陛下の御参拝は途絶えている。御参拝が再開されることは宗教右派も歓迎する。もちろん、何らかの形での靖国神社の国家管理が前提だ。

 しかし、実現は容易ではない。というのも、靖国神社は民間の宗教法人であり、国が介入できないという建前があるからだ。仮に政府が分祀を望んでも、宮司が首を縦に振らなければ動かない。兵士の慰霊は国として取り組むべき重要な仕事なのに、一民間人が外交関係にまで影響しうる問題のキャスティングボートを握っている。そこに靖国の問題の根深さがあるのだ。

■靖国神社と首相参拝の歴史

 【1869年】東京招魂社として創建。戊辰戦争の官軍戦死者を祀る。

 【1879年】靖国神社に改称され、別格官幣社となる。

 【1946年】改正宗教法人令で、民間の宗教法人に。

 【1975年8月】三木総理が私的参拝。公私の区別が論点に。→参拝の「基準」がつくられた

 【1975年11月】昭和天皇、戦後8回目かつ最後の靖国神社御参拝。

 【1978年】松平永芳宮司が独断でA級戦犯を合祀。

 【1985年】中曽根総理が公式参拝。中国が非難声明を発表。

 【1987年】胡耀邦失脚。中国保守派の勢力が拡大。

 【2001年】小泉総理が参拝。以来、毎年参拝。

 【2005年】中国で反日デモ。日本側の対中感情も悪化。

 【2013年】安倍総理が小泉総理以来7年ぶりの参拝。

 ▼靖国神社に合祀されているA級戦犯14名

 [絞首刑]
東条英機(首相)/板垣征四郎(陸軍大将)/土肥原賢二(陸軍大将)/松井石根(陸軍大将)/木村兵太郎(陸軍大将)/武藤章(陸軍中将)/広田弘毅(首相)
[終身刑]
白鳥敏夫(駐イタリア大使)/平沼騏一郎(首相)/小磯国昭(陸軍大将)/梅津美治郎(陸軍大将)
[禁固20年]
東郷茂徳(外相)
[判決前に病死]
永野修身(海軍大将)/松岡洋右(外相)

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日本学術振興会特別研究員・青山学院大学兼任講師 三浦瑠麗(みうら・るり)
国際政治学者。2010年東京大学大学院法学政治学研究科修了(法学博士)。11年東京大学政策ビジョン研究センター特任研究員。13年より現職。著書に『シビリアンの戦争』ほか。
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日本学術振興会特別研究員・青山学院大学兼任講師 三浦瑠麗 構成=村上 敬 撮影=宇佐美雅浩

643名無しさん:2015/09/21(月) 11:18:28
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150921-00045447-gendaibiz-pol
絵空事ではない琉球独立宣言!「本土」の皆様、サヨウナラ
現代ビジネス 9月21日(月)6時2分配信

なぜ琉球人が独立まで求めるようになったのか
 なぜ琉球人が独立まで求めるようになったのでしょうか。

 ネットの世界で飛び交っている、琉球独立運動への偏見に満ちた空虚な言葉によっては、琉球で今起きていることは理解できません。

 あなたの好きな琉球だからこそ、静かに島の人の声に耳を傾けてみませんか。日本人の平和な生活を守るためにも琉球独立が必要であることが分かるはずです。

 今年8月に台湾に行ってきました。桃園国際空港の運行スケジュールの電光掲示板を見ると、「琉球(沖縄)」と表示されていて、大変嬉しくなりました。

 かつて琉球国という独立した国がありました。最近も琉球人というアイデンティティを持つ人が増えています。1972年、琉球が沖縄県になるときに、中華民国(台湾)政府は日本政府に強く反対しました。

 「沖縄は日本固有の領土」と日本政府は考えているようです。しかし琉球の現在の「県」という政治的地位は必ずしも確定したものではありません。

 琉球が日本の一部になったのは1879年でしかなく、しかもその時日本政府が軍事力で無理やり日本の一部にしたのです。

 琉球はアメリカ、フランス、オランダと修好条約を結ぶ独立国家でした。3つの修好条約原本は日本政府に奪われ、今も国の外交史料館にあります。琉球ではその返還運動が盛り上がっています。

けっして他人事ではない
 読者の皆さんはこの本(『琉球独立宣言』)の表紙に少し驚いて手に取るかもしれません。

 日の丸を背景にして「日本から独立する」と訴えています。シーサー(琉球)が赤瓦にしっかりと足をすえており、琉球独立論が事実や理論をしっかり踏まえたものであることが暗示されています。

 琉球の独立宣言はアメリカの独立宣言を参考にして考えました。日本の「同盟国」であるアメリカはイギリスから独立したのです。

 琉球は日本から本当に独立できるのだろうか。何のために独立するのだろう。私たちにとって独立とは世界のどこかのことであり、自分とは関係がないと思っている人が多いのではないでしょうか。

 日本ではこれまで大衆的な独立運動が発生したことがありません。戦後の日本の「独立」もアメリカによって準備されたものでした。そのような日本の中で琉球では本気で独立を目指す運動が活気づいています。

 どこから独立するのでしょうか? 
 あなたが住んでいる日本からです。ですから琉球の独立は他人事ではないのです。琉球人は日本からの独立を宣言します。

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松島 泰勝
1963年沖縄県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、早稲田大学大学院博士課程単位取得。博士(経済学)。専門は島嶼経済。在ハガッニャ(グアム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館の専門調査員、東海大学海洋学部助教授等を経て、現在、龍谷大学経済学部教授。2007年「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」を立ち上げ代表に。’13年「琉球民族独立総合研究学会」の設立メンバーとして共同代表に就任。現在も国内外で多くの講演や交流、活動を精力的に行っている。
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松島泰勝

644名無しさん:2015/09/23(水) 19:48:52
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150923-00010001-tokyofm-life
【誰かに教えたくなる話】「岩倉具視」の子孫はあの有名人!? 偉人達の意外な子孫とは
TOKYO FM+ 9月23日(水)11時40分配信

明治維新で活躍した、幕末の志士たち。あれから150年……彼らの子孫は孫、ひ孫と世代を重ねています。そのなかには、ご先祖様に負けず劣らずの有名人も。そんな「驚きのトリビア」をご紹介しましょう。

まず、お札にもなった政治家、岩倉具視。教科書にも必ず出てくる偉人です。
岩倉使節団として各国を訪問、日本を近代化に導いた重要人物ですが、実は子孫にたくさんの有名人が。
そのうちの一人が、若大将のニックネームでおなじみの加山雄三さん!
なんと、玄孫にあたるそうです。

次に、小栗上野介。
アメリカ相手にひるまない外交を行い、「日本人最高の人物は、小栗上野介である」と言わしめた人物。
幕末の歴史好きから圧倒的な人気を誇る小栗の子孫は……格闘家の、武蔵さん!
相手に対してひるまない……似ている部分が、あるかもしれません。

最後にご紹介するのは、説明のいらない幕末ナンバーワンの人気者、坂本龍馬。
龍馬の末裔であるのは、自然画家の坂本直行さん。
……ご存知ない方もいらっしゃるでしょうか。
では、あの北海道のお菓子屋さん「六花亭」の紙袋の絵を描いた方、と言ったらどうでしょう。
あの有名なイラストを描いたのが、坂本直行さんなのです。
意外なところで、龍馬と六花亭が繋がっていたのですね。

聞いてびっくり、偉人の子孫の活躍ぶり。
調べてみると、面白いかもしれませんよ。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」5月7日放送より)

文/岡本清香

645とはずがたり:2015/09/24(木) 05:13:13

「尖閣は琉球の一部」記載の最古の地図 1804年独製
http://www.msn.com/ja-jp/news/other/%E3%80%8C%E5%B0%96%E9%96%A3%E3%81%AF%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%AE%E4%B8%80%E9%83%A8%E3%80%8D%E8%A8%98%E8%BC%89%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3-%EF%BC%91%EF%BC%98%EF%BC%90%EF%BC%94%E5%B9%B4%E7%8B%AC%E8%A3%BD/ar-AAep2Tc?li=BBfTvMA
朝日新聞デジタル 6日前

 自民党の国際情報検討委員会などの17日の会合で、尖閣諸島が琉球(沖縄)に含まれることを示す1804年のドイツ製の地図が発表された。従来最古とされていた地図より60年以上古く、同党は、尖閣諸島領有の正当性をアピールする資料として外務省などに活用を働きかける方針だ。

 地図は、1780年代に尖閣諸島周辺などを探索したフランスの航海家の情報に基づき、ドイツの地図発行人が1804年に作製。尖閣諸島が琉球と同じ色で塗られ、台湾との間に線が引かれている。長崎純心大の石井望准教授がインターネット上の古書店で見つけ、会合で発表した。

 石井氏によると、これまでは尖閣諸島が琉球に含まれていると示す地図は1868年のドイツ製のものが最古とされていたという。

 同委の原田義昭委員長は「はるか昔から先進国が尖閣は琉球の一部だと認識していたと示すもの。外務省や内閣官房のホームページへの掲載など、情報発信を検討させたい」と述べた。(松井望美)

646とはずがたり:2015/09/26(土) 22:28:19
2012年の記事
>史料からは尖閣諸島は中国・清王朝の領土だったが、1895年に日本に併合されたことになっている(日清戦争)。
ハーバード大学歴史学部教授がこういってまっせ。。

アラブの怒りより日中の怒りが怖い理由
All the Asian Rage
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2012/10/post-2734_1.php
日中が尖閣諸島をめぐって躍起になるのは内政の危機においてナショナリズムが切り札になるからだ
2012年10月23日(火)14時16分
ニーアル・ファーガソン(本誌コラムニスト、ハーバード大学歴史学部教授)

 昨今は世界中で怒りがブームになっているようだ。アメリカで制作された映画が預言者ムハンマドを冒涜しているとみたイスラム教徒の怒りが中東各国で炎上。リビアではアメリカ大使を殺害する事件にまで発展した。

 この事件そのものより気掛かりなのは米オバマ政権の情けない対応だが、それ以上に懸念すべきなのはこれとはまったく違うタイプの怒りかもしれない。度を越したナショナリズムに突き動かされた中国人の怒りだ。

 先日は北京駐在のアメリカ大使ゲーリー・ロックが怒れる中国人に取り囲まれた。幸い大事には至らなかったが、私が彼なら50人の中国人ナショナリストに囲まれて「アメリカの帝国主義を倒せ! 勝つのは中国だ!」とシュプレヒコールを上げられれば、良い気分はしなかっただろう。

 彼らが「勝つ」と叫んでいたのは、日本では尖閣諸島、中国では釣魚島と呼ばれる、小さな無人島群の領有権をめぐる争いだ。それは、5つの島と3つの岩礁から成る総面積6.3平方キロ足らずの島しょ群。米アラスカ州に属する2つの小島をめぐってカナダ人がアメリカ大使館前で抗議するようなものだ。

 当事国以外の人間は、まさかそんなことでと思うかもしれない。だが大規模な戦争が小さな土地をめぐって勃発したケースは過去にもある。例えば、第一次大戦の発端はボスニアとヘルツェゴビナをめぐる領有権争いだった。第二次大戦は、実質的なポーランド管理下の自由市グダニスク(ドイツ名はダンツィヒ)をナチス・ドイツが奪還しようとして勃発した。

 史料からは尖閣諸島は中国・清王朝の領土だったが、1895年に日本に併合されたことになっている(日清戦争)。第二次大戦後の45年以降はアメリカの管理下に置かれ、71年に日本に返還されたが、中国も台湾もこの取り決めを認めていない。

貿易戦争勃発を回避せよ

 日本政府は先日、尖閣諸島の国有化を発表し、中国人ナショナリストの感情をさらに逆なでした。ロック大使が襲われた北京をはじめ広州や瀋陽など反日デモは中国全土に拡大した。

 1930〜40年代の血塗られた日中間の歴史を考えればこの事態は深刻に捉えるべきだ。世界第2位と3位の経済大国を、貿易戦争勃発という危機に直面させるのは誰にとっても得策ではない。北アフリカ諸国の取るに足らないアラブ経済とは異なり、日中の経済を合わせると世界経済の5分の1を占める。しかも両国の相互依存度は日増しに高まり、今の中国は日本にとって最大の輸出市場だ。

 それなのになぜ日中両国は岩だらけの不毛な島をめぐって躍起になっているのか。答えは簡単だ。内政の危機にある日本と中国の指導者はナショナリズムという伝家の宝刀を抜きたがっているのだ。

 一方、胡錦濤(フー・チンタオ)の後継者と目される習近平(シー・チンピン)は先週レオン・パネッタ米国防長官に「日本は中国の統治権と領土の保全を損ねるような言動を控えるべき」で、アメリカはこの論争に介入すべきではないと伝えた。強気な発言は経済成長が停滞し、首脳交代の時期も迎えた今の中国では受けがいい。

 同じく先週、米国務省のカート・キャンベル次官補(東アジア・太平洋担当)は上院の外交小委員会でこう発言した。「アメリカは日本の実効支配をはっきりと認めている。これは日米安保条約第5条の明確な適用範囲内だ」

 バラク・オバマ大統領は昨年11月、この条約は「地域の安全保障の要」であり、国家安全保障の重点を中東からアジア太平洋地域にシフトすると明言した。この方向転換は本心なのか口先だけなのか、その真意は分からない。後者だとしたら、次に激高するのは日本だろう。

[2012年10月 3日号掲載]

647名無しさん:2015/09/28(月) 22:30:55
>>623

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150928-00010001-chuokou-pol
「I」と「We」と「Japan」――戦後70年談話の複雑な構造
中央公論 9月28日(月)8時0分配信

 戦後七〇年談話が発表された。「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」など、村山談話をはじめとする歴代談話のキーワードがすべて盛り込まれていることから、個別的な批判はあるものの、おおむね評価する声が多いようだ。

 しかしながら、重要なのは、いかなるメッセージを、誰が誰に対して発しているかである。実を言うと、この談話はかなり複雑な構造をしている。

 その複雑さは、談話を英文で読むとよりはっきりする。

 談話は長短五つのパートから成るが、最初と最後のパートは主語が「We(私たち)」で統一されている。これに対し、近代日本をめぐる歴史観を語る第二のパートは、主語が「Japan(日本)」になる。そして一番ややこしいのは第三のパートであり、「I(私)」と「We」、そして「Japan」が完全に混在する。第四のパートも基本は「We」だが、「Japan」が加わる。

 昔、英作文の授業で習ったように、同じ主語の繰り返しを避け、ある程度言葉を入れ替えるのは、特別なことではないのかもしれない。とはいえ、談話全体が「We」パートと「Japan」パート、そして混在パートに明確に分かれるのは、何ごとかを暗示しているのかもしれない。

「We」パートは、国内外に向けて、日本政府としての決意を語る部分であろう。本来、内閣による談話とは、そのような部分が中核になるはずであり、その意味では談話の始めと終わりが「We」パートになるのはきわめて自然である。

 これに対し、「Japan」パートはやや特異である。特定の歴史観を一政治家、もしくは一政党として示すならともかく、歴代の内閣をかなりの程度拘束するこの種の談話に、踏み込んだ歴史観を盛り込むことは、それ自体として論議されてしかるべきである。

 というのも、西洋列強による植民地圧力に対して近代日本が立ち上がり、日露戦争で勝利したまではよかったものの、その後世界恐慌のダメージで孤立し、国際秩序への「挑戦者」になってしまったという歴史観は、けっして自明でも中立的でもないからである。とくに日露戦争の勝利は「アジアやアフリカの人々を勇気づけました」という件には、海外からの異論もありうるだろう。このパートはやや、国内向けの印象が強い。

 問題の第三パートであるが、主語が混在していることには理由がある。元々の日本文の主語がきわめてあいまいなのである。そのため、主語を明示しなければならない英文だと、「I」と「We」、そして「Japan」が混じってしまうのである。英訳者の苦心がうかがえる。

 それではなぜ、日本文の主語があいまいかといえば、これにも理由がある。談話のキーワードである「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」がすべてここに集中しているのである。「植民地支配」や「侵略」はその主語が明示されず、「反省」や「お詫び」の主語で「私たち」は避けられている。結果として、この部分に関して、安倍首相の価値判断がわかりにくい。

 パートによって語りかける相手が微妙に変化し、あるパートではあえてすべてが宙づりになっていることは、談話が文章として出来が悪いことをけっして意味しない。むしろ、日本政府が世界や日本国民に対して、いかなるメッセージを発するべきか、実に微妙である現状をよく示しているのかもしれない。だとすれば、この複雑さを自らの行動を通じていかに明確化していくかが、日本政府の次なる課題となるはずである。
(了)

宇野重規=政治学者
最終更新:9月28日(月)8時0分

648とはずがたり:2015/09/29(火) 09:10:34
韓国 小中学校で「慰安婦」に関する教材を導入-新華社
2015年09月28日 13時41分
http://www.xinhuaxia.jp/social/81278
ECC0DA3A91A82A87DE909BC94080AA4D

【新華社】 韓国はこのほど、小中学校に「慰安婦」に関する補助教材を導入している。韓国女性家庭部の金姫廷(キム・ヒジョン)長官は「韓国青少年が歴史を正しく把握し、正しい歴史観を持つことが狙いである」と語った。

韓国女性家庭部と教育部がこの教材を共同で作った。金姫廷長官によると、以前の歴史教科書では「慰安婦」に関する内容はあるが、少ない。2015年が韓国光復70周年に当たり、日本の社会で「慰安婦」歴史を歪曲した声が多数出ていることから、韓国はこうした専門教材を作る必要性を認識している。

金姫廷長官は、この教材を通じ、韓国の青少年に平和と人権の貴重さを認識し、歴史的悲劇を繰り返すことを回避してほしいという。

韓国の公式データでは、日本が朝鮮半島を植民地支配した1910年-1945年の期間中、朝鮮半島の女性8万-16万人は日本軍の「慰安婦」として連行された。金姫廷長官によると、韓国政府は2016年3月にユネスコに、「慰安婦」に関する資料を「世界記憶遺産」に組み入れるよう申請した。韓国は国際社会から「慰安婦」問題に関する関心を喚起し、戦争の性的暴行の土壌を根源から根絶やしにすることが狙いである。女性家庭部はそれに向け、専門委員会を設立し、関係部署や学界、民間機関と共に資料の収集や記録を後押しする。これらの資料は録音や治療記録、関連する訴訟の内容、ほかの「慰安婦」被害国及び民間団体活動などを含む。

(翻訳 李継東)

649名無しさん:2015/09/29(火) 19:51:26
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150929-00000087-jij-pol
政府会計の戦後処理終結へ=旧外地の剰余金など7億8000万円
時事通信 9月29日(火)15時18分配信

 政府は29日、1945年の終戦とともに廃止された朝鮮総督府など旧外地の特別会計を正式に終了させる決算処理を行う政令を閣議決定した。
 44年度と45年度の2年分に生じた剰余金に、特会の積立金を加えた合計で約7億8000万円を2015年度の一般会計に繰り入れる見込み。財務省は「国の会計上の戦後処理はこれで全て終結する」(主計局担当者)と説明している。
 旧外地特別会計は「朝鮮」「台湾」「樺太」「関東州」「南洋」の5地域の現地政府運営などのために設けられ、計10会計に上る。終戦に伴いこれら特別会計は廃止されたが、終戦後の混乱で決算関連書類が散逸し、決算処理が行われない状態が続いていた。

650名無しさん:2015/10/03(土) 13:56:24
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151001-00010000-nipponcom-pol
鼎談:「安倍談話の読み方」
nippon.com 10月1日(木)14時33分配信

8月14日に安倍晋三首相が出した「戦後70年談話」。その意義づけや海外の受け止め方、今後の東アジア国際関係に与える影響などについて、談話の土台となる「21世紀構想懇談会」報告書作成に深く関わった3人が意見を交わした。

「リアリスト安倍」がとったバランス感覚
――8月14日に安倍晋三首相が出した「70年談話」。内容についての率直な感想を伺いたい。

白石 それなりにいいものができたなと思う。3つの意味がある。1つは、安倍首相という人はリアリストであると同時にナショナリストで、2013年の12月に靖国神社に参拝したが、私自身は、あれで「ナショナリスト安倍」は打ち止めで、その後は「リアリスト安倍」でいくと見ていた。それが確認できた。とてもバランス感覚の良いステートメントだった。

この談話を安倍さんが出し、しかも内閣として承認されたものとして出たことで、これから80年、90年と仮に談話が出るとしても、あそこからもう右には行けない。その意味で歯止めができ、国内世論としてぶれる余地がなくなった。これが2つ目のポイントだ。

3番目に、2013年12月に安全保障戦略が出ているが、あれと今回の談話はペアで考えるとよい。談話は世界の中の日本、アジアの中の日本を歴史的に振り返り、1930年代、40年代に国策を誤ったという趣旨の内容となった。戦後の日本はこれと断絶するかたちで存在し、これから先もそれが日本の基本的な方向だと明らかにした。これによって、まさに安全保障戦略と整合的なステートメントになっている。中曽根政権時代から30年、ずいぶん時間がかかったが、落ち着くべきところに日本の大戦略の議論が落ち着いたと思う。

戦後70年と、未来を語る談話
川島 今回の談話は(戦争に至る)歴史についての話だと思われがちだが、やはり戦後70年と未来の話を語っている点が特徴だ。これまで(戦後)日本が進めてきたことをしっかりと受け止め、未来について説明し、自らの歩みに歴史的な裏打ちを与え、将来を展望した点に意味があった。

特に平和国家であることや、(各国と)和解を進めたという経緯を述べたが、これは現在の安保法制を意識してのことだろう。また、通商レジームに戦後ずっと貢献してきたとしていることは、TPPを意識しているのだろう。日本が進める安全保障政策であれ通商政策であれ、「こういう歴史的な背景があるのですよ」ということ説明している面があると一読して感じた。

一方で、やはり驚きもあった。首相はこの1年間、さまざまな演説をしている。その中の歴史に関連する部分と私ども(21世紀構想懇談会)の報告書、それに村山・小泉談話をミックスして談話をつくるのだろうと思っていたが、今回の安倍談話にしかないフレーズというのがいくつかある。日露戦争の評価の内容が出てきたり、「謝罪を子々孫々で受け継がない」という部分など。それらが特徴としてあると思う。

海外の受け止め方については、私は中国が専門だが、「あれなら中国も拳を振り上げて厳重抗議するということにはならないだろう」というのが一読した印象だった。温家宝・元中国首相がかつて村山・小泉談話の中で評価した部分を、私は懇談会の提言書で引用した。それを受け継いでこれからもやっていくということなのだろう。そうした意味では従来の政権と基本的に同じスタンスだった。

651名無しさん:2015/10/03(土) 13:57:34
>>650

最保守の安倍首相が村山談話引き継ぐことに意味
細谷 歴史家E.H.カーの「歴史とは、現在と過去との間の尽きることのない対話である」という有名なフレーズがあるが、まさに安倍談話は、過去と現代が一体になっている。今回の場合は先の大戦、あるいは戦前の日本の行動の反省の上に立って、戦後は平和国家としての道のりを歩み、それを堅持するということで、過去があって現代がある。また現在の国際情勢であるとか、日本の置かれた立場というものがあり、そういった拘束の中から「過去にどう向き合うか」という歴史の言葉を選んでいる。

日本はとりわけ過去20年間、リベラルと保守の間で非常に厳しい歴史認識をめぐる対立があった。今回の談話はその亀裂、対立を乗り越え、その両側の立場というものに配慮していると思う。最もリベラルな首相であった村山首相の談話を、最も保守である安倍首相が引き継ぐという意味では、ある意味ではかなり幅広い、ナショナルなコンセンサスになり得る談話だと思う。首相の1年前、あるいは2年前の歴史認識に関する発言と比べると、これまで持っておられた歴史認識を「広げて深めた」と思う。報告書を相当丁寧に読まれたことが、談話の内容につながったのではないか。

安倍談話の枠組みつくった懇談会報告書
――21世紀構想懇談会の報告書の(提言)作成過程では、「侵略」の定義について一部に異論があったとも聞いている。懇談会メンバーの中で激しい対立などはなかったのか。また、報告書の骨子はどのように決まっていったのか。

白石 それぞれのテーマで実際に報告があると、委員の議論そのものは1人2-3分ぐらいしかできない。回数も時間も限られている。

川島 要は(懇談会の場で)誰が何を発表するかという発表者が重要。彼らの発表内容が、(委員からのコメントを踏まえた修正を経て)提言の骨子になった。委員ももちろん大事だが、毎回の会議で委員に求められた役割は、報告に対してコメントをすることだった。そのコメントには非常に大きな幅があった。もう一つ特徴的なのは、会議が終わってすぐに密度の濃い議事録を公開した点。メディアはそれを読んで記事にしたが、その記事に対する反応で、世論の動向を見たという部分はあったと思う。

議論するテーマは初めから決まっていて、「歴史」1回、「戦後」3回、「未来」1回。それぞれの発表者は決まっていた。委員と発表者それぞれのメンバー(一部重複)とアジェンダセッティングが決まった段階で、ほぼ(報告書の)枠組みは出来上がっていたかなという感じだ。

652名無しさん:2015/10/03(土) 13:59:31
>>651

「侵略」、「国策の誤り」めぐり、歴史家メンバーは認識共有
――その懇談会の構造が色濃く反映されて、談話が出てきたと考えていいのだろうか。

白石 提言は懇談会で作ったが、談話は官邸が決める。そこは切れている。これはわれわれも理解の上で懇談会に入っている。同時に、懇談会の議論からあまり逸脱した談話は出せないだろうとも思っていた。その意味では、微妙な緊張関係にあった。

――細谷先生は第4回会合で報告されたが、懇談会の雰囲気とか、委員とのやりとりはどうだったのか。

細谷 特段事前に強い要望もなく、かなりの程度、自由にお話しさせていただいた。懇談会ではプロフェッショナルな歴史家の方々の中では、とりわけ20世紀前半の歴史をどう見るかということについて、例えば「侵略」や「国策を誤った」ということについて、その認識を共有していたと思う。

一方で、懇談会の提言を前提として、安倍首相がどういう言葉を選ぶかというのは、最初の段階では分からない。緊張感があったと思うし、また、かなりの程度不確定な部分があったのだろう。

談話の内容で、私にとって想定外だったのは、「過去」の記述がここまでたくさん入ったことだ。提言では戦後の和解をかなり強調していたので、戦後の部分が大きな字数を占めると思っていた。村山談話というものを引き継ぐ立場も明確だった。言葉の使い方も、「戦争の苦痛をなめ尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さん」というように、具体的な言葉を使って踏み込んでいる。首相は21世紀構想懇談会に出席する中で、相当いろいろと悩んで、またご自身で勉強されて、考え方も少しずつ広がり、変わっていった部分があるのかなと思う。

目の前の政治、国際関係も談話のトーンに影響
白石 メディアは談話の字句にものすごく関心を持ち、中国、韓国の反応に注目したが、少しピント外れだったのではないかと思う。安倍首相は、そもそもそのようには考えていなかったのではないか。むしろ日本国民に対してどのような談話を出すか、日本の同盟国である米国、さらにはパートナー国の人たちにどういうメッセージを出すか、もっと広く考えていたのではないかと思う。

その意味で、僕は、一昨年のオーストラリア議会での演説、それから今年4月のバンドン(インドネシア)でのアジア・アフリカ会議60周年を記念する首脳会議の時の短い演説、5月のアメリカ議会での演説、こういうものはすべて一連のもので、その締めくくりとなるのが今回の談話だと考えたほうがいいと思う。

川島 全くそのとおりだ。ただ、意外な展開もあった。安保法制の国会審議が延び、談話発表が国会会期中になってしまった。加えて安保法制ももめて、7月は支持率も下がった。談話は本来会期外に公表されるはずだったのに、国会運営や世論の動向と深く関わるものになったということだ。そのため公明党はもとより、さまざまな配慮をする必要が生じた。より詳細な談話の作成過程、特に7月の最終週と8月の半ばまでに、どういうせめぎ合いがあって、ああいう長い談話になったのかというのは、やがて検証されるだろう。

細谷 国会審議が延びたというのはかなり大きい。安倍談話が閣議決定になるという時点で、公明党が了承できないものということはあり得なかったと思う。もう一つは、昨年のAPECサミットから日中関係が比較的好転していること。日本も中国も、日中関係を改善しようという動きを示しており、歴史認識をめぐってそのような動きを傷つけるような言葉や姿勢というのは示さないという配慮が、双方の側にあったと思う。9月3日の習近平主席スピーチも、日本に対してそれほど厳しい言葉は含まれていない。結局、歴史認識や談話というのは、現在動いている政治の中で作られるのだとも感じる。関係改善の中で、双方が慎重に言葉を選んだのだろう。

653名無しさん:2015/10/03(土) 14:01:28
>>652

かみ合った日本、中国双方の対応
白石 懇談会の議論でのキーワードは「謝罪」ではなく「和解」だった。そこは大きな合意があった。

細谷 そういった意味では1998年の日中共同宣言に戻ってきたと思う。この時の宣言は日中関係を前に進めようという、かなり強い意志があった。今もまた、日中両国とも関係を前に進めようという意志が色濃くみられている。

双方の努力によって歴史和解を進める。そして、その和解を基礎として、現代の2国間関係を好転させる。おそらくこのサイクルを日米、日豪、日英などでやってきたということを談話で強く示唆することによって、当然ながらこれを日中にも、もちろん日韓にも応用可能だということが、「和解」という言葉を強調した大きな意味だと思う。それが私は、今後の日中関係や日韓関係にも効果を持つのではないかと思う。

川島 98年の日中共同宣言というのは、実は「日本側が今後村山談話を順守」すると言っている。また98年の江沢民の訪日は、覚えていると思うが、あれは日本国内からの不満が強く(※2)、共同宣言の文章は素晴らしいが、日中が融和する気にならなかった。その後、2007年4月12日に温家宝が日本の国会で演説をして、そこでこれまでの日本の歴史問題への取り組み、村山談話と小泉談話を評価した。だが、その当時、日本の自民党政権は1年ごとに首相が交代する状況で、中国からのメッセージにきちんと対応することができなかった。

そういう意味では98年、2007年ともに日中の対応はちぐはぐというか、ちょっとかみ合っていなかった。今回は細谷さんがおっしゃるように、日本が安倍談話を出して、9月3日に習近平が割に日本を批判せずに、平和国家中国を強調した。そうした意味では今回、日中はお互いようやくかみ合ったという感じだ。

今後の対中国・韓国関係と歴史問題
――ただこれから先、逆に東アジアは緊張関係がかなり高まっていく流れもある。南シナ海も全然決着がついていない。その中で今回の談話の意義をどう考えればいいのか。今後、日本がアジアの中で生きていく中で、この歴史問題と安倍談話が、どのような意味合いを持ってくるのだろうか。

白石 歴史問題というのは、基本的に現代の問題だと考えた方がよい。例えば、かつて中曽根政権の時には、靖国参拝は憲法の問題だった。しかし、今では完全に外交の問題になっている。重要なことは、日本政府の要人、特に首相、大臣の職にあるような人たちが不用意なことを言ってはいけない、ということだ。「首相談話を出したが、結局、本音は違うじゃないか」といった議論にまたなることのないよう、できる限り注意したほうがいい。

中国の指導者は非常に戦略的に外交関係を考えているので、日本の政治家が不用意なことを言ったり、したりすれば、モラル・ハイ・グラウンド(道徳的な高み)を占めようとはするだろう。しかし、国内問題もあり、このカードをあらゆる機会に使うといったことはなかなか考えにくい。

韓国にとっては、このカードは非常に使いやすい。国民的に「日本はけしからん」という空気があるので、政府もあらゆる機会に使おうとするだろう。韓国はいま、非常に大きな戦略的選択のプロセスにある。安全保障においてはアメリカ、中国とうまくやっていればそれで十分、経済的には中国への輸出が鍵となっている。したがって、これからの韓国の安全保障を考えても経済発展を考えても、アメリカのリバランシングに引っ張り込まれて、アジア太平洋の安全保障のネットワーク化のようなことに関与して、中国から警戒されるのは避けたい。歴史認識の問題がある「日本が悪い」と言って、事実上G2との関係をうまく管理することで、安全保障と経済発展の両方を達成しようという戦略的な選択をしようとしているように見える。日本としても、クールに対応するしかない。

654名無しさん:2015/10/03(土) 14:05:09
>>653

日中韓米:国際政治は大きな分岐点に
川島 大きな国際政治の分岐点に、今、来つつあるということはたぶんみんな分かっていて、特に中国とアメリカの関係が今後どうなるかということが一番大きな焦点になる。中国は一帯一路という構想を出して、周辺の国と、あるいはユーラシア全体を自分のやりやすい空間にしていこうとしている。おそらく中国は、東シナ海、南シナ海、太平洋というのは厄介な空間で、日米と直接ぶつかることは、かなりコストがかかることを今、学びつつある。だからこそ、「西進」をイメージ化したのだろう。だが、これは「東」を無視することを意味しない。

そういう中でアメリカも安全保障体制を組み直しながら、日本に対してもさまざまな要求をしてくる。韓国はまさに米中の中間にいて、ある種の選択を迫られている。相当うまくバランスを取っていかないと無理だという問題に、韓国は直面していると思う。

中国の場合は、歴史認識問題というのは共産党の正統性の根幹に関わるが、白石先生がおっしゃるように、あまり歴史カードを使うことも危険。反日デモは、やっても必ずしも取り締まりを受けないので、そこでまたいろいろな問題も噴出してくる。だから国際宣伝とかさまざまな面で日本に対して厳しいことをやり続けると思うが、国内ではやり過ぎないようにする。この両面のかじ取りを中国はやってきていて、9月3日もまさにそれが現れたかなという印象だ。

でも今回、韓国の朴槿惠大統領は8月15日に、安倍談話を踏まえた演説を行っている。談話が出た後の14日の夜から一生懸命に頑張って、加筆修正したようだ。そういう意味ではかなり努力をした。このようにして日中韓3国がともに歴史をマネージしてみせたのが8月から9月ではなかったか。まだこれからさまざまなことがあるかもしれないが、対立のエスカレーションを一定程度防ぐことを世界に見せることができたという意味では、一つの例としてよかった。

655名無しさん:2015/10/03(土) 14:05:27
>>654

歴史を政治の道具として悪用しないために
川島 談話の中の「謝罪を子々孫々まで受け継ぐかどうか」という議論だが、これも国内で議論が進むといいと思う。ドイツなどでは、戦争犯罪を分類している。ヤスパースの議論にもあるが、そもそも戦後生まれは戦争の時に生きていないわけだから、戦時下の事象に対して刑事的な罪があるはずはないという。でも戦後に生きているわれわれは、ある種の和解に対しては責任があるとか、罪を弁別して考えている。

日本では、そういう議論はあまりない。東アジアの国々も「日本民族全体、そして戦前も現在も同じ民族」として責任を追及する面がある。しかし世代が進むにつれ、べつにドイツに全て学ぶ必要はないが、日本や東アジアでも「何がそもそも悪いのか」、「何に対して責任があるのか」ということについての議論がもう少し哲学的に進むと、日本でも中国でも受け入れられるものができるのではないか。

そういう意味で今回の談話は、若干ドイツを参考したかなという思う箇所があり、興味深い。「日本の和解に協力してくれた個人や国家に感謝する」というのは、メルケル・ドイツ首相の言葉に近い。そういうところが入ったのは面白いかなと思う。

細谷 ドイツを参考にしたというのは、おっしゃるとおりだと思う。3月にメルケル首相が来て、あのような演説をしたことが(※3)大きかったと思う。メルケル首相が非常に強調したのは、フランスなどの周辺国が和解の精神で手を差し伸べてくれたということ。あれは明確に、ギリシャをはじめとして歴史を修正しようとする国に対するけん制だと思う。

つまりはヨーロッパの中でも誠実にドイツと和解を求める国と、今のギリシャのように現在の問題を解決するために歴史を利用、あるいは悪用し、歴史をゆがめてドイツに対して優位に立とうとする国に分かれている。その中で、相当強い言葉でメルケル首相はギリシャをけん制したと思う。

ドイツや日本が真摯に歴史に向き合うということは必要だが、「現代の政治問題を解決するために歴史を道具として悪用するということは避けるべきだ」ということの理解というものも、これからの国際社会に必要ではないか。

nippon.com別館

(※1)「戦後70年談話」の作成に向け、安倍首相が設置した私的諮問機関。正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」。
2015年2月から6月に6回の会合を行い、8月6日に報告書を提出した。

(※2)中国の江沢民主席は訪日中、日本の歴史教育を批判する発言を行い、天皇と小渕恵三首相に過去の歴史に基づいた謝罪を要求した。

(※3)メルケル首相は訪日中の講演で、隣国フランスの寛容さが独仏の和解を進め、欧州統合という平和の土台を築くことができたと強調。東アジアの歴史認識をめぐる問題に直接は触れなかったが、和解に向けて双方が“謝罪と寛容”を示す努力が必要であると示唆した。

白石 隆(SHIRAISHI Takashi)nippon.com編集主幹。政策研究大学院大学学長、ジェトロ・アジア経済研究所所長。専門は国際関係論、東南アジア政治。1950年愛媛県生まれ。東京大学大学院国際関係論修士課程、米コーネル大大学院博士課程修了。21世紀構想懇談会(※1)で委員を務めた。

川島 真(KAWASHIMA Shin)nippon.com編集長。東京大学総合文化研究科教授。専門はアジア政治外交史、中国外交史。1968年東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学後、博士(文学)。北海道大学法学部助教授などを経て現職。21世紀構想懇談会委員。

細谷 雄一(HOSOYA Yuichi)nippon.com編集委員。慶應義塾大学法学部教授。専門は国際政治史、イギリス外交史。1971年千葉県生まれ。慶大大学院政治学専攻博士課程修了。北海道大学法学部専任講師、慶大法学部助教授などを経て、2011年から現職。21世紀構想懇談会では第4回会合で、「米国、豪州、欧州との和解の70年」に関連する発表を行った。

656とはずがたり:2015/10/08(木) 17:32:51
韓国国民年金公団、靖国神社支援企業に投資=韓国ネット「移民を決意した」「朴大統領は日本で暮らせば?」http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20151007/Recordchina_20151007057.html
レコードチャイナ 2015年10月7日 21時52分 (2015年10月8日 17時22分 更新)

2015年10月5日、韓国・YTNによると、日本の戦犯企業らに毎年数千億ウォンの投資をしていることが分かり、批判を受けていた韓国の国民年金公団が、靖国神社を支援する日本の企業らにも莫大な投資をしていたことが明らかとなった。

新政治民主連合のイン・ジェグン議員が国民年金基金運用本部から受け取った資料「日本企業への投資内訳」によると、靖国神社のカレンダーを作り、日本の首相や閣僚の靖国神社参拝を定着させようと主張する「凸版印刷」に対して、韓国の国民年金公団は、最近5年間で30億ウォン(約3億円)を投資していたことが分かった。さらに富士通や三菱重工業など37の企業にも1兆5000億ウォンを投資していたが、それらの企業は会社の代表が日本の右翼団体「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーだという。

国民年金公団は「収益性やポートフォリオなどを考慮すると、戦犯企業らを別に取り除くことは難しい」と話しているという。

657とはずがたり:2015/10/08(木) 17:34:03
北京日本人学校の生徒激減 反日宣伝、大気汚染の悪化影響か
共同通信 2015年10月8日 12時49分 (2015年10月8日 12時54分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20151008/Kyodo_BR_MN2015100801001216.html

 【北京共同】中国北京市朝陽区にある日本人学校(奥田修也校長)の小学部と中学部を合わせた児童・生徒数が9月末に400人を割り込み、ピーク時の2007〜08年から約4割減少したことが8日分かった。中国メディアなどによる絶え間ない反日キャンペーンや大気汚染の悪化が背景にあるとみられる。
 同校の児童・生徒数は13年に600人、14年に500人を割り、先月末は398人となった。最多だった07〜08年の688人から約4割減少したことになる。
 同校は1974年に北京日本人学童補習校として開校、76年に北京日本人学校となり、中国経済の発展に伴って生徒数が増え続けた。

658名無しさん:2015/10/10(土) 21:40:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151009-00010004-shincho-int
元植民地が日本びいきなワケ 「あの頃はモラルがあった……」
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 10月9日(金)13時28分配信

■貨幣経済をもたらした
 前回の記事では、『日本を愛した植民地』(荒井利子・著)をもとに戦前、日本の委任統治領だったパラオの人たちが、戦後も日本に好意を持ってくれていることをお伝えした。

 なぜ彼らは今でも日本時代を懐かしむのか。同書では数多くの島民の生の声を紹介している(以下、引用は『日本を愛した植民地』より)

 たとえば1925年生まれのパラオ人、フジオさん(仮名)はこう語っている。

「日本時代が良かったっていうのは、まあ金もあったし、自由で、品物はたくさんありましたから。何でも出来たっていうのがいいところでしょうか」

 実はパラオに貨幣経済をもたらしたのも日本。島民たちは初めて手にした現金を持って、デパートやお店に買い物に行き、珍しい日本の商品を買うのが楽しみだったという。

 差別がなかったわけではない。島民は飲酒を禁じられていた。

 それでも生活の満足度は高かったようだ。

「お前は日本人だと言われ、日本人、日本人という教育を受けていました。お酒を飲めないのは差別と感じていたけど、それ以外で差別と感じるようなことはありませんでした。

 日本人の奥さんたちも、自分の子どもと同じように扱ってくれました。

 シンガポールが落ちたというと、パラオ人も日本人も一緒に提灯行列しました。今でも(自分のことを)日本人と思っているパラオ人もいます」

■アメリカ人の先入観

 ここで疑問を持つ人もいることだろう。

 日本時代が良かったとしても、戦後、解放されてアメリカの支配下に置かれてからのほうがもっと良いはずではないか、と。

 実際に、島民も、

「ドイツ時代から日本時代になって生活レベルが上がった。また新しい時代になれば、もっと良い時代になるに違いない」

 と当初は考えていたようだ。

 ところが、話はそう簡単ではなかった。

 アメリカは日本統治時代のミクロネシアを知らなかったため、島が経済的に栄えていたことなど知らなかった。戦後、アメリカ人が見たパラオの人たちは疎開先から戻ってきたばかりだったので、ボロボロの衣服をまとい、体中が汚れた姿だった。それを見たアメリカ人は、それがパラオ人の真の姿だと思い込んでしまったのだ。

 そのため、アメリカ人は勝手に「パラオ人には原始的な生活をさせておけばいい」と考えたのである。その後、誤解は解けたのだが、それでもなお島民がアメリカ時代を高く評価しない理由があるのだという。

■自由を嘆く老人たち

 それは皮肉にも彼らがもたらした「自由」の弊害だった。

 アメリカはドイツや日本とは異なり、島民に指図をせず「自由」を与えた。しかし、多くのパラオの人々にとって「自由」とは聞いたことのない言葉だったため、混乱が生じてしまう。

 日本人の父親を持つトミオさん(仮名)の話。

「戦争が終わって、アメリカが来て、だいぶ違った生活になりました。アメリカ人は日本人と違って、『おまえたち、あれやれ、これやれ』っていっさい言わないで、『おまえたち、自分でやれー、好きなようにやれー』って。

 だからそこで私たちは初めて自由って何なのかアメリカ人から学びました。その自由とは、何でもしたい放題、好き勝手にやっても良いことだと受け止められた」

 当初、「自由」を謳歌していたのだが、島民たちは「自由が間違って理解された」ことを悔いている。酋長の言うことも聞かれなくなり、秩序が壊れてしまったのだ。

 パラオ人女性の話。

「日本時代は子どもが結婚しないで生まれたら、みんなから白い眼で見られたものなのに、今は結婚しなくても平気で子どもを産む。私生児はたくさんいます。今の若い人は自由になったのだから、何をしてもいいと言って、年寄の言うことなんか聞きません」

 別のパラオ人女性の話。

「アメリカは自由すぎる。学校で乱暴しても喧嘩しても、先生は殴らない。日本の学校では先生に殴られたけど、良いことと悪いことを教えてくれた。今の子どもたちに怒ると、『今と昔は違う』と言われる。殴られたからこそ、私たちは学ぶこともできた」

 お気づきのように、彼らの語る「日本」は、現在の「日本」ではない。おそらく彼らが今の日本の実情を見たら、驚き、また悲しむのかもしれない。しかしそうした「美しい誤解」もあって、今でもパラオの人たちは日本に好意を持ってくれているのだろう。『日本を愛した植民地』は、国が国を統治するという行為について新しい視点を与えてくれる力作である。

SHINCHOSHA All Rights Reserved.

659名無しさん:2015/10/10(土) 22:15:44
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000066-san-pol
日本、ユネスコ拠出金凍結も 本来の目的にそぐわず「断固たる措置取る」
産経新聞 10月10日(土)7時55分配信

 中国が申請していた「南京大虐殺文書」が記憶遺産に登録される見通しになったことについて、日本政府筋は「断固たる措置を取る」と述べ、ユネスコの分担金拠出などの一時凍結を検討する構えを見せている。

 平成26(2014)年度のユネスコ予算の日本の分担率は米国の22%に次ぐ10・83%で、金額は約37億1800万円。米国が支払いを停止しているため、事実上のトップだ。さらに分担金以外でも、さまざまな事業に対する任意拠出金があり、同年度のユネスコ関係予算は計約54億3270万円に上る。

 外務省首脳は「日本の分担金はトップクラス。(ユネスコ側が)日本からの申し入れに真剣に耳を傾けることに期待したい」として、中国の申請案件の登録が認められた場合は拠出金の凍結もあり得るとのシグナルを送り、慎重な審査を求めていた。

 一方、中国の分担率は6位の5・14%で日本のほぼ半分。任意拠出金も日本より少ない。しかし、中国の動きに詳しい関係者によると、中国は、記憶遺産の周知を図る名目で関係者を中国に招待するなどしているという。記憶遺産事業だけでなく、アフリカでの女子教育などにも中国は積極的に支援を行っており、「さまざまな形でボコバ事務局長の思いに応えている」との指摘もある。

 中国の登録申請を受け、“防戦”に回った日本も傍観していたわけではない。「審査を行う国際諮問委員会メンバーに対し、ユネスコ加盟国は働きかけられない」(日本外務省筋)ことから政府はその動きをつまびらかにしていない。しかし、「政府は関係する分野の専門家などと協力し、委員側に日本の主張を伝えてきた」(与党議員)という。民間団体もパリのユネスコ事務局を訪問し、英文の反論文を提出している。

 記憶遺産は、人類にとって歴史的価値のある貴重な文書の保護などを目的とする。中国が日本を貶(おとし)めるために利用する「南京大虐殺文書」の登録が本来の目的にそぐわないことは明らかだ。政府関係者は「今回の申請も受理も理解できない」と述べ、記憶遺産事業の見直しもユネスコに働きかけるべきだと強調した。

660名無しさん:2015/10/10(土) 22:57:20
新・大中華世界的話題
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1440116307/300

300 名前:名無しさん[] 投稿日:2015/10/10(土) 16:35:01
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000212
日中韓が「歴史戦争」=ユネスコ舞台に-聯合ニュース

 【ソウル時事】韓国の聯合ニュースは10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が推薦した南京事件に関する資料が登録されたことを報じ、日中韓の3カ国がユネスコを舞台に「歴史戦争」を繰り広げていると指摘した。
 聯合は「中国が併せて申請した『日本軍の慰安婦資料』は登録目録に含まれなかった」と報道。「日本政府の強い反発がユネスコに影響を与えたという分析もある」と伝えた。
 さらに、韓国が日本の植民地時代の「強制動員」の記録の世界記憶遺産登録を目指していることに触れ、「日本政府が強く反対するとみられる」と分析、歴史をめぐる論戦が続きそうだと指摘した。 (2015/10/10-15:27)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000065
日本の制止実らず=中国申請の「南京」認定-ユネスコ記憶遺産

 【パリ時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京事件」に関する資料の登録が決まった。日中間で事実認識に隔たりがあり、論争が続く中での認定。日本政府はユネスコに慎重な対応を求めてきたが、受け入れられなかった。

 南京事件は、日中戦争時の1937年12月に旧日本軍が南京を占領した際、多数の中国人を殺害した事件。ユネスコが公表した中国の申請書類によると、当時の日本兵が撮影した写真や米国人神父による記録映像、中国人女性の日記などが登録対象とされている。
 南京事件に関しては、犠牲者の規模などをめぐり日中で見解が分かれる。記憶遺産への登録は、中国側の歴史認識に「お墨付き」を与えることになりかねず、日本政府はかねて「ユネスコの政治利用だ」(菅義偉官房長官)と反対してきた。
 一方、中国が同時に提出した「従軍慰安婦」に関する資料は登録リストに記載されていない。中国側は申請書類で、大戦中の日本軍が中国などで、住民女性を「性奴隷」として奉仕させるため、「強制的に徴用した」と説明。当時の軍の内部資料がこうした事実を裏付けていると主張し、認定するよう求めていた。慰安婦女性が強制的に連行されたとの見方は日本では否定論が強い。
 中国の再申請などを通じ、慰安婦の資料が将来認定される可能性は消えていない。韓国も日本の植民地時代の「強制動員」の記録について、記憶遺産への登録を目指し、来年にも申請する方向。日本政府は引き続き、ユネスコを舞台とした「歴史戦」への対応を迫られそうだ。(2015/10/10-05:53)

661名無しさん:2015/10/10(土) 23:12:45
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000007-jij-int
シベリア抑留資料、記憶遺産に=「南京事件」も登録―ユネスコ
時事通信 10月10日(土)2時6分配信

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は10日、重要な歴史文書などの保存を目的とする世界記憶遺産に、第2次大戦後のシベリア抑留者に関する資料「舞鶴への生還」(京都府舞鶴市申請)と、政府推薦の国宝「東寺百合文書」を登録したと発表した。
 日本からはこれまで慶長遣欧使節の関係資料など3件が登録済みで、今回で計5件となる。
 中国が推薦した南京事件に関する資料も登録された。過去には旧ソ連からの独立を求めたバルト3国の「人間の鎖」や植民地に関する記録など、国により立場が異なる案件の登録例もあるが、歴史的評価や事実認定が固まっていない事柄の登録は異例。従軍慰安婦資料については不登録だった。
 シベリア抑留資料は、舞鶴港に帰還した抑留者の手記など、舞鶴引揚記念館が所蔵する570点。抑留中の生活や心情を、シラカバの樹皮にすすで作ったインクでつづった「白樺日誌」や、息子の生還を待ち続ける母親の姿を歌ったヒット曲「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの手紙などが含まれる。
 東寺百合文書は京都市の東寺に伝わる、8〜18世紀の約1000年間にわたる約2万5000点もの古文書群で、足利義満の直筆や織田信長の書状もある。寺院運営などの仏教史に加え、当時の社会状況や和紙発展の歴史を示す貴重な資料で、1997年に国宝に指定された。
 いずれも日本ユネスコ国内委員会が2014年6月に推薦を決定。4日からアラブ首長国連邦のアブダビで開かれたユネスコ国際諮問委員会が審査していた。

662名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151010-00045700-gendaibiz-pol
自民党「憲法改正」の系譜〜吉田茂・鳩山一郎・岸信介、それぞれの憲法観 「戦後レジームの正体」第7回(前編)
現代ビジネス 10月10日(土)11時1分配信

鳩山一郎の改憲論
 1952(昭和27)年9月12日、鳩山一郎は日比谷公会堂で政界復帰の第一声の演説を行った。憲法改正と、ソ連との国交回復交渉を訴えたのである。

 ――憲法はいうまでもなく独立国が拠って立つ根本法である。ところが現在の憲法は占拠下に占領軍の手によってつくられたものであり、しかも非武装が前提になっている。平和を追求するためには自衛の軍備を持つ必要がある。

 吉田茂首相は戦力は持たないと言っているが、保安隊(後の自衛隊)がある。これはあきらかに戦力であり、この大矛盾を解消するには憲法改正が必要である――。

 これが鳩山の強い主張であった。吉田茂首相はその矛盾をごまかしているのだというわけだ。

 さらに、東西冷戦が厳しくなってきて、米ソ戦争が始まれば、このままでは日本は戦場になってしまう。ソ連はアメリカの基地がある日本を攻撃する。だから、ソ連との国交をなるべく早く正常化すべきだというのである。

 当時シベリアには4万人以上の日本人が抑留されていた。このことも重大な問題になっていた。

鳩山一郎と吉田茂の食い違う「記憶」
 ところで鳩山一郎は戦前から穏健派の政治家であった。そして戦後に自由党(結党時は日本自由党)を結成してその総裁となり、敗戦の翌年1946(昭和21)年4月10日の第1回総選挙で、自由党は141議席(進歩党94、社会党93)を獲得して第1党となった。

 そこで鳩山が首相になることになったのだが、その直前にGHQが鳩山は公職追放令に該当すると政府に通達した。

 鳩山が戦前に自著でヒトラーを礼賛したことや、文相時代に京都帝国大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授の辞任要求をしたことなどが原因だとされたが、鳩山自身は、総選挙を前にして厳しい共産主義批判をしたことがソ連の横槍となり、GHQに睨まれたと捉えていたようだ。

 そして、幣原喜重郎内閣の外相だった吉田茂を口説いて首相にした。鳩山は、その事情を『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社)で次のように書いている。

 「吉田君が総裁を引受けることになった時、四ヵ条かの書いたものを向うから持って来た。この書いたものはその後何うなったか、紛失してしまったが、あの時二人でこんな話をした。自分は政党のことは全く関係がなくて分らんから、政党の人事については一切君の方でやってくれなきゃ困る。政党は一切君の力で押えてくれ。但し内閣の人事については干渉してくれるな――とこう吉田君が私に話した。

 又吉田君は自分は金はないし、金作りも出来ない。金の心配は君の方でやってくれなきゃ困る。俺は辞めたくなったら何時でも辞めるんだ。君のパージが解けたら直ぐ君にやって貰う、とこういって吉田君はこれを四ヵ条に書いて私のところに持って来た」

 吉田茂も『回想十年』(新潮社)の第一巻で、「鳩山君を麻布市兵衛町の外務大臣官邸に呼んで、最後の話し合いをした。私はそのとき、三つの条件を出した」と明かしている。

 「金はないし、金作りもしないこと、閣僚の選定には君は口出しをしないこと。それから嫌になったら何時でも投げ出すことの三点であった」

 これが三つの条件であり、「パージが解けたら直ぐ君(鳩山)にやって貰う」という項目は吉田の『回想十年』には入っていないのである。

 もっとも吉田は「長くやろうという気はなかった」と書いているのだが、鳩山が1951(昭和26)年8月に追放解除になり、52年10月の総選挙で当選しても、吉田は権力の座を固守し続け、54年12月まで通算7年2ヵ月も首相の座に居続けた。

663名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:42
>>662

「自衛隊は軍隊ではない」という主張
 なお、鳩山は自衛隊の存在は違憲であり、だからこそ憲法改正が必要だと主張し続けたのだが、吉田は、朝鮮戦争が起きてGHQの要請で警察予備隊が発足し、それが保安隊になり、自衛隊となっても「再軍備反対」の姿勢を変えなかった。

 『回想十年』第二巻の中で、「一体、私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい」と言い切り、その理由を三つ挙げている。

 「米国はその戦勝の余威を以て、且つまた世界に比類なき富を以て、あの巨大な軍備を築き上げたもので、他の国があれに匹敵し得る軍備を持つということになれば、それこそ大へんな負担であり、仮りにその負担に堪え得るとしても、あれだけの費用をかけてさえ、果して今日の米国の如き進歩した高度の武装を実現し得るや否やは疑問とされるそうである。況んや、敗戦日本が如何に頑張ってみても、到底望み得べきことではない。これが私が再軍備に反対する理由の第一である。

 第二に国民思想の実情からいって、再軍備の背景たるべき心理的基盤が全く失われている。第三に、理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っておって、その処理の未だ終らざるものが多い」

 そして、警察予備隊が、保安隊、自衛隊となっても、吉田は「戦力ではない」と言い切り、憲法改正には否定的であった。

 ところで、鳩山一郎は51年8月5日に追放を解除されたのだが、その5、6日前に脳溢血で倒れた。68歳であった。

 追放解除が近いという空気になり、音羽の鳩山邸に、三木武吉、安藤正純、大野伴睦、石井光次郎などが集まって、鳩山の追放解除後の政治活動を論議していた。安藤たちは自由党復帰を提案した。三木は断固として、新党結成を主張し、鳩山も三木の説を強く支持した。激論となり、鳩山は途中でトイレに立って、そこで倒れたのである。

 鳩山の再起を賭けた闘病生活がはじまった。

 そして51年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印が行われた。日本は独立したのである。吉田は講和条約と、その日の午後に結ばれた日米安全保障条約とに調印した。両条約が発効するのは52年4月である。

664名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:17
>>663

権力の座に居座り続けた吉田茂
 鳩山の体調が回復すると、鳩山陣営の三木や河野一郎たちが、吉田側に、約束どおり政権を鳩山に渡せと執拗に迫った。

 だが、吉田は鳩山側の要求を拒否した。吉田は『回想十年』第一巻で次のように書いている。

 「鳩山君の病?よく独立再建の国務に堪え得るや、重責に堪ゆるの明かならざる限り、私として党総裁および総理大臣の重任に鳩山君を推挙するのは、情誼はともかく、総理大臣として無責任であると感じ、これを躊躇せざるを得なかった」

 建前はともかく、ホンネは獲得した権力を手放したくなかったのである。そして鳩山たち公職追放組が大量に政界に戻ってくることに大変危機感を募らせ、吉田は追放解除組の選挙準備が整わないうちに先手を打って総選挙を行った。

 そこで冒頭に記した日比谷公会堂での鳩山一郎の復帰第一声となったのである。

 鳩山は脳溢血の後遺症を抱えながらの選挙戦で、自由党ではあったが、反吉田、というより悲願は吉田首相打倒であり、主張は憲法改正と日ソ交渉であった。

 吉田は自衛隊は軍隊でないと言っているが、これはごまかしであって、あきらかに軍隊であり、それもしっかりした軍隊であらねばならない。そのために憲法改正が必要である――と、鳩山は吉田批判と憲法改正を直接的に結びつけた。

 選挙は熾烈な分裂選挙となり、自由党は240議席を獲得して過半数は握ったが、追放解除の反吉田派も大量に当選し、三木は鳩山グループの強硬派を集めて自由党内に反吉田の民主化同盟を結成した。

 そして翌53年、吉田の「バカヤロー」発言で、吉田内閣不信任案が出されると、民主化同盟の22人はこれに賛成したので不信任案は可決され、ふたたび総選挙となった。

 この総選挙以後、吉田支配体制は崩れ、さらに保全経済会事件や造船疑獄などの汚職事件で吉田内閣は末期症状を呈すようになった。

 一方鳩山の方も、分党派自由党を結成したり、かと思うと吉田の自由党に復党したりと試行錯誤を重ねるのだが、54年11月に、改進党、日本自由党(1953年結党のミニ政党)、自由党の反吉田グループという三派合同による日本民主党を結成した。所属議員数は衆院121人で、自由党の185人に迫る第二勢力となった。

 仕掛人は三木と、幹事長となった岸信介であった。ここで、鳩山を上回る強硬な憲法改正論を主張し続けた岸信介について記すことにする。

665名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:50
>>664

軍隊に逆らった岸信介
 岸信介は、1896(明治29)年11月13日に山口県の山口町(現山口市)で生まれた。日清戦争に日本が勝利して、山口県の下関市で講和条約が調印された翌年である。

 1920(大正9)年に東京帝大を卒業すると、岸は先輩たちのすすめを拒んで農商務省に入省した。官僚の花形は内務省と大蔵省であった。

 岸は農商務省の官僚となって欧米を視察し、とくに強い印象を受けたのがドイツであった。第一次世界大戦で惨敗し膨大な賠償金に喘ぎながら、「国家統制化」という名の産業合理化運動で経済再建の成果を上げていたのである。ドイツモデルは、岸が学生時代から抱いていた国家社会主義のイメージと見事に重なっていた。

 1936(昭和11)年、二・二六事件が起きた年の10月に、満州国実業部総務司長、(翌年、産業部次長)として満州というフロンティアに赴任した岸は、産業開発の五ヵ年計画を遂行し、国家社会主義的な統制経済を徹底させた。

 岸の統制経済は満州では成功し、時の関東軍参謀長だった東条英機にも高く評価された。そのためもあってか、東条が首相になると岸は商工大臣に引っ張られている。

 なお、満州を離れるとき、岸は記者たちに「出来栄えの巧拙はともかくとして、満州は私の描いた作品である」と語った。満州については自信に満ちていたわけだ。

 東条に商工大臣として迎えられながら、岸はオポチュニスト的優等生ではなかった。

 1944(昭和19)年にサイパン島の日本軍守備隊約3万人が玉砕し、日本本土が完全にB29の攻撃射程に入ると、岸は「サイパンを失っては戦争継続は不可能」だと東条に主張したが、東条は「そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるか」と一蹴し、岸を辞めさせて内閣改造を図ろうとした。

 だが、岸は断固として辞任を拒否し通し、そのために閣内不一致で東条内閣は総辞職に追い込まれてしまった。岸は東条政権を潰した後、憲兵隊につけ回され、身の危険にさらされ続けた。

 1945(昭和20)年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わった。約310万人の日本人がこの戦争で命を失った。そして9月15日に岸は戦犯容疑者として占領軍に逮捕された。

 「名に代へて この聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代までも伝へ残さで」

 逮捕される直前に岸が山口の田布施の自宅で詠んだ歌である。

 A級戦犯を裁いた東京裁判について、『岸信介回顧録』(廣済堂出版)で次のように述べている。

 「東京裁判はドラマとしては壮大で、また深刻きわまりなかったが、今は、人間の知恵の浅さを思い知らせたことと『文明』の名に汚点を残したという記録に過ぎないのである。

 こういうわけで、巣鴨に収監されている間も『我々は、法律に違反した犯罪人である』という意識は全くなかった。あるものは勝者対敗者の関係であった。その関係において、敗者は勝者の手によって裁かれ、処刑されるのはやむを得ないと覚悟していた。

 従って、死は免がれないものの、それまでに我々の意見、立場を堂々と主張し、日本だけが悪事を働いたという一方的な押し付けに反駁し、彼らの理非曲直を明らかにして真実を後世に伝えん、と意気軒昂といってもよい心境であった」

 さらに岸は、占領初期のGHQの基本方針について次のように述べている。

 「日本の軍事力や工業力の抹殺はいうまでもなく、このような日本人の精神構造の変革、つまり日本国民の骨抜き、モラルの破壊に主眼があったことは間違いあるまい。

 日本人の復讐心の芽をつみ、日本人は欧米人種に比べて劣等であることを思い込ませ、現在の敗北と苦痛は、あげて日本人の不法かつ無責任な侵略によってもたらされたものであることを徹底させるために、天皇の権威の否定から戦争犯罪人の逮捕、神道及び神社への公共資金による財政的支持の禁止、果ては、歌舞伎忠臣蔵の上演禁止に至るまで、日本の国民生活の全分野にわたって強制、干渉、監視が仮借なく実施された。そしてその集大成が、今の日本国憲法である」

666名無しさん:2015/10/10(土) 23:33:17
>>665

東京裁判を生き延びる
 それでは岸は現在の憲法をどう捉えているのか。

 「吾々は先づ第一に吾々国民の自由意思に基く吾々の憲法を持たねばならぬ。憲法は云ふまでもなく独立国の拠って以て立つ根本法である。現行の憲法が占領下に於て時の占領軍の最高司令官から押し付けられたものであり、原文が英語で書かれた翻訳憲法であることは今日では公知の事実である。斯くの如き憲法を持って居る独立国は古今東西に其の例を見ざるところである。

 (中略)唯単に憲法九条だけの改正の問題ではない。民族の魂が表現せられた憲法であるべきであって、日本の土と血に繋って居る民主主義を内容とする憲法であるべきものと確信する。祖国を吾々の手に依って防衛すると云ことは独立国として当然の義務であると同時に権利である。他国の軍隊を国内に駐屯せしめて其の力に依って独立を維持するといふが如きことは真の独立国の姿ではない」(岸の後援会誌『風聲』1954年1月号より)

 1948(昭和23)年12月23日の午前零時すぎ、東条英機、土肥原賢二、松井石根たちA級戦犯7人の絞首刑が執行された。そしてその翌日、クリスマス・イブの日の朝、岸は児玉誉士夫、笹川良一など他の18人のA級戦犯容疑者とともに巣鴨拘置所から釈放された。

 そして追放解除が近づくと、岸は新党を旗揚げして、全国を演説して回る計画を立てていた。それに対して新聞記者が「戦犯容疑者や追放解除者が日本再建の音頭を取るのはおかしいという意見もあるが」と問い質すと岸はひるむことなく答えた。

 「私は巣鴨生活で過去のいっさいは清算したつもりだ。自分としては政治の再建に携わる資格はあると思う。東条英機内閣の閣僚だった、軍の手先だったと言われるかもしれない。それはある程度、事実だからやむを得ない。現在の気持ちとしては、元商工相とか翼賛政治会総務とか、そんな過去の経歴にこだわる気持ちは毛頭ない」(『憲法政戦』塩田潮 日本経済新聞出版社)

 国民の多くは、戦争の影を引きずり、強いこだわりを抱いていたのだが、開戦と戦争遂行に深くかかわった岸は、過去の清算は終わったと言い切った。

 そして52年4月19日に、日本再建連盟を結成し、岸は顧問に就任した。

 岸の狙いは吉田政権の打倒であった。

 岸にとって、吉田政権とは、GHQが日本弱体化のために日本人の骨抜きを謀るべく押し付けた憲法を押し頂き、誇りも理念もなくひたすら政権の延命だけを図る存在でしかなかった。また戦前派や追放組の中には岸と同じ思いの人間が少なからずいた。

 明日公開の後編につづく

田原 総一朗

667名無しさん:2015/10/11(日) 12:44:37
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151011-00045702-gendaibiz-pol
ゼロからわかる「55年体制」〜自由民主党はこうして生まれた 「戦後レジームの正体」第7回(後編)
現代ビジネス 10月11日(日)11時1分配信

 前編では、「現憲法維持」の吉田茂、「改憲論者」の鳩山一郎、そして鳩山を上回る「強硬な改憲論者」岸信介の三者三様の憲法観を紹介した。今回は、戦争指導者としてA級戦犯容疑をかけられた岸信介がいかにして政界に復帰し、吉田茂政権を打倒したか。自民党が誕生した経緯を解説しよう。

A級戦犯から再び政治の舞台へ
 岸は講和条約が発効した28日に追放解除となった。

 そして10月1日に総選挙が行われた。再建連盟は40人以上の候補者を立てたが、岸自身は出馬しなかった。「A級戦犯容疑者」であった岸を選挙民がどう捉えているかを計りかねていたのである。

 だが再建同盟は、総選挙で惨敗した。

 そこで岸は作戦の練り直しを余儀なくされたのだが、それを見て、岸の実弟で自由党幹事長であった佐藤栄作が強引に入党させた。

 実は、岸は惨敗後に「戦う民主主義」を標榜する西ドイツの実情を知るために現地へ旅立ったのだが、その間に吉田の「バカヤロー」発言による内閣不信任、そして衆院解散、総選挙となり、佐藤が岸の留守中に自由党への入党と立候補の準備を済ませたのである。

 選挙区は岸も佐藤と同じ山口二区で、佐藤は1位、岸は3位(定数5人区)で当選した。

 岸は1年生議員ではあるが、大勢のいわば子分を抱えて岸派を形成する大物で「台風の目になる」と注目されていた。

 総選挙で、第1党は吉田自由党が199、重光葵の改進党が76、そして鳩山の分派自由党が35となり、革新側は左派社会党が72、右派社会党66と、保革両陣営とも多党乱立状態であった。

 岸は、吉田自由党に属しながら、実は反吉田で、占領政治の打破、そして憲法改正のために保守合同を目指していた。

 ところが、米ソ冷戦が際立ってきてアメリカは日本に防衛力増強を要求するようになり、分派自民党の限界を感じた鳩山が、防衛力強化のための憲法改正、そのために憲法調査会を設置することを条件に自由党に復党した。そして、佐藤の進言で、岸が新設の憲法調査会の会長となった。

 「だが、吉田は憲法改正が簡単に実現するとは思っていない。岸が反吉田で動き出さないように憲法調査会という玩具を与えて適当に遊んでいてもらう魂胆であった。

 ところが、岸は憲法改正を通じて政界再編を実現する考えである。一も二もなく飛びついた」(憲法政戦』塩田潮、日本経済新聞出版社)

 岸は54年3月12日、憲法調査会の発会式で挨拶した。

 「現行憲法は現在とはまったく違った環境の下でつくられたものです。いまや全面的に再検討すべき時期にきている。もし改正の要ありという結論に達したら、具体案を決め、国民大多数の支持を得られるようにしなければならない」(前掲書)

 吉田自由党は鳩山たちを復党させて、岸にも玩具を与えて安定するかに思えたのだが、造船疑獄に火がついて、4月20日に、検察は佐藤幹事長に対する逮捕許諾請求決定した。

 現職の幹事長が逮捕されれば、吉田内閣は崩壊を免れ得ない。吉田の指示で、犬養健法相が翌21日に指揮権を発動して佐藤逮捕を強引に阻止させた。

 だが、この事件で国民の吉田政権への不信感は決定的となり、5月に吉田内閣の支持率は23パーセントとなってしまった(朝日新聞)。

 こうした世論に呼応して、いやむしろ先んじて、吉田自由党を含む保守陣営内で「吉田降ろし」の動きが活発となり、指揮権発動の1週間後には「新党結成促進協議会」がつくられた。公然と吉田抜きの保守合同合作がはじまったのだ。

 中核となったのは三木武吉、石橋湛山、河野一郎、そして岸信介であった。岸は協議会改め「新党結成準備会」の事務局長となった。巣鴨拘置所から出所して約5年半、追放解除となってわずか2年余で、岸は新党運動のリーダーの一角となったのである。

668名無しさん:2015/10/11(日) 12:47:29
>>667

自由民主党の誕生
 保守合同のためには、鳩山自由党、重光改進党と、首相であり総裁である吉田を排除した吉田自由党を合体させなければならない。

 岸は、まず鳩山と重光、さらに三木、石橋らを加えた会談を実現させ、保守合同で一致させた。さらに吉田が頼みとする副総理の緒方竹虎には、「とりあえず鳩山を新総裁にして、次は必ずあなたを総裁にする」と約束して、吉田からの離反を図った。

 10月20日、新党結成準備会拡大大会が開かれ、12日後、11月1日に鳩山が新党結成準備委員長となった。つまり鳩山が新党総裁になることが確定したわけだ。舞台裏を仕切ったのは岸と、保守陣営きっての策士である三木武吉であった。

 そして11月24日の日本民主党の結成となったのである。衆参あわせて142人の議員が参加した。

 総裁は鳩山、副総裁は重光、そして岸は幹事長となった。三木武吉は総務会長になったが、緒方は日本民主党には参加しなかった。

 このとき、吉田自由党の衆院議員は180人で、数の上では民主党を大きく上回っていたが、総務会長の大野伴睦をはじめ、少なからぬ自由党議員が、実は反吉田であった。岸、三木たちの根回しが自由党の隅々までいきわたっていたのである。

 11月30日に臨時国会が召集されると、岸は左派、右派社会党の書記長を口説いて、吉田内閣不信任案を提出する態勢を固めた。

 岸は三輪寿壮など右派社会党にパイプを持っていたのだ。民主党と左、右社会党が結束すれば、不信任案は可決される。そこで吉田は衆院を解散しようとしたが、それを支持したのは子飼いの佐藤と池田勇人だけで、緒方をはじめ議員の大半が解散に反対した。

 こうして吉田はついに通算7年2ヵ月で辞任に追い込まれたのである。

 12月9日、後継首相指名選挙で、鳩山が指名された。三木と岸が、早期解散、総選挙を実施するための「選挙管理内閣」だといって左、右社会党を説得したのである。

 鳩山は55年1月に衆院を解散した。ワンマン吉田の長期政権に厭きた国民の多くが、脳溢血に倒れて、舞台裏を三木や岸にまかせた、いわば担がれ神輿としての弱々しさを歓迎して「鳩山ブーム」が起き、民主党は124議席から185議席へと大きく伸び、逆に自由党は180議席から112議席へと激減した。

 だが、三木と岸は、勝ったとはいえ危惧を強めていた。過半数にほど遠い少数政権であったうえ、左・右社会党が21議席も増やして156議席も獲得していた。

 岸たちは、社会党の左・右が合併し、近い将来政権奪取するのではないかと危機感を抱いていたのだ。現に左、右社会党内では権力奪取のための合併話が進んでいたのである。

 三木と岸はなんとしても保守合同を急がねばならないと思い、自由党で強い影響力を持つ大野伴睦に目をつけた。大野と三木とは東京の市会議員の時代から不倶戴天の間柄であったが、三木は「このままでは赤化の危機にさらされる」と大野を口説き落とした。三木と岸の作戦は成功した。

 10月13日に政権奪取を目指して社会党が統一された。そして1ヵ月後、11月15日に民主党と自由党が解体されて自由民主党が誕生した。いわゆる55年体制がスタートしたのである。

 ただし、このときは「総裁」は空席で、鳩山、緒方、三木、大野の4人が代行委員となった。岸はあえて一歩退くかたちで、しかし抵抗なく幹事長となった。このあたりが岸の手堅さであり、したたかさである。

 実は、岸が「初代総裁は鳩山で、ただし日ソ交渉を花道にして早晩緒方に譲る」と大野たち自由党の幹部に話をつけ、自由党の顔を立てるために、結成時は「総裁」の空席というかたちをとったのだ。

669名無しさん:2015/10/11(日) 12:48:48
>>668

防御態勢の確立と国家社会主義
 22日に、鳩山は首相に三選された。三木、岸、大野、石井光次郎の密約では、翌56年4月には緒方が総裁に選ばれ、首相に就任することになっていた。ところが緒方は56年1月28日に急死した。67歳だった。7月4日には岸が頼りにしていた三木武吉も死去。71歳だった。

 三木と岸の作戦は、鳩山を早晩引退させて、緒方に「権力」という贈り物をして、緒方から首相の座を岸に禅譲させるということになっていたのだが、岸の目論見は潰えた。自力で権力を奪取せざるを得なくなったのである。

 なお岸は『風聲』56年1月号に、「巣鴨の拘置所で送った三年三ケ月の生活及びそれに続く追放時代より一貫して把持し来つた私の政治的信念」として次のように書いている。

 一、憲法の改正と防衛態勢の確立
二、自由主義国家群との連繋の強化と東南アジアに対する経済外交の推進
三、放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進による経済自立の達成
四、教育制度の根本的改革による道義の昂揚

 岸のいう防御態勢の確立とは、GHQが日本弱体化を狙って作成した憲法九条を改正して交戦権のある軍隊、つまり自衛軍をつくり上げることであった。それと「放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進」という指摘には、国家社会主義による満州経営の自信が底流にあったのであろう。

 なお、岸は小選挙区制の実現を自民党の主目標の一つにした。憲法改正のためには各議員の総議員の3分の2以上の賛成を獲得しなければならず、そのためには小選挙区制の実現が必要だと考えていたのである。

 鳩山も憲法改正を主張したが、これは反吉田という意味合いが強く、首相になって政治生命を懸けたのは日ソ交渉であった。もっとも一時は北方領土問題で完全に行き詰まったが、日本側が棚上げすることで妥協し、56年10月19日にモスクワで日ソ国交回復の共同宣言が発表された。

 日本側にソ連との国交回復を急がなければならない事情があったのだ。シベリアに抑留されたままになっている数多くの日本人(帰国がかなったのは2689人)の帰還問題に加え、ソ連が賛成してくれないと国連加盟ができなかったのである。日本の国連加盟が実現したのは12月18日であった。

 鳩山はソ連から帰国すると、11月2日に退陣を表明した。吉田と違って権力に執着しなかった。病?で気力を失っていたともいえる。引退後2年2ヵ月余で死去した。

 岸は権力奪取のため、それなりに根回しを計ったようだが、頼りの三木がいなくなり、1885年に日本で議員内閣制が発足して以来はじめての総裁選挙となった。岸、石井、そして石橋湛山の三者が立候補した。岸派が3億円、石橋派が1億5000万円、石井派が8000万円をばらまいたともいわれる金権選挙でもあった。

 第1回目の投票で、岸は1位とはなったが過半数に達せず、決選投票では2、3位連合が功を奏して、石橋が首位となった。ところが首相となった石橋が体調を壊し、代わって岸が念願の首相となった。衆院議員となって3年10ヵ月しかたっていなかった。

670名無しさん:2015/10/11(日) 12:49:50
>>669

国民の要望に応えようとしたつもりが……
 岸首相の狙いは、もちろん憲法改正と防衛態勢の確立であった。だが、自民党内からも、経済界からも、何と社会党からも不平等な日米安保条約を改正すべしという意見が強く打ち出された。

 1951年9月8日、サンフランシスコで対日講和条約の調印が行われた日の午後、サンフランシスコ郊外の米軍の駐屯地で吉田茂が日米安全保障条約に署名したのだが、この安保条約はいわば米軍による占領の延長で、米軍が、日本のどこにでもどれだけでも望むがままに基地をつくることができて、それでいて日本を守る義務はなく、期限も決まっていなかった。その意味ではきわめて不平等な条約だったのである。

 そこで、実は鳩山内閣時代に、重光外相が安全保障条約の改正を図ったのだが、ダレス国務長官にすげなく扱われて失敗していた。このとき、岸は重光の対米交渉に同席していたのである。

 しかもこのとき、ニューズウィークのハリー・カーンがダレスに「岸こそ現在日本では最も重要な政治家であり、岸と秘密裏に会うべき」だと書き送っている。現にダレスは時間をとって岸と会っていた。

 また、岸から、日本の共産化を防衛するために資金を援助してくれと頼まれて、ダレスは長期間、大量のカネをCIAに用意させていた、ということだ(『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子 幻冬舎文庫)。

 ようするに岸はダレスに信用され、CIAのカネという尋常でないアメリカとのパイプを有していたことになる。

 岸には重光外相がダレスとの安保交渉に失敗した理由がわかっていた。重光外相は対等条約を望み過ぎたのである。ダレスが意地悪く「アメリカが万一攻撃を受けた場合に、日本は軍隊を国外に派遣して、アメリカを助けてくれるのか」と問うたのに対して、重光外相は答えを持っていなかった。憲法改正を行って、自衛隊を交戦権を有する軍隊にしない限り海外派兵はできない。

 だから、重光外相の交渉に同席したとき、岸は安保条約改正の前に憲法改正が必要だと考えたのである。

 だが自民党内や経済界だけではなく社会党からも不平等条約の改正を求める意見が強まって、岸は考え方を変えた。それに、マッカーサー駐日大使との幾度もの会談で、相当の安保条約改正は可能だとの感触を持っていたのだ。

 だから、岸は、いわば世論の要望に応えるつもりで安保改正に取り組んだのであった。アイゼンハワー大統領訪日の予定も取り付けた。

 そして両方を実現させて国民の支持が高まったところで選挙を行い、3分の2以上の議席を獲得して、念願の憲法改正を行おうとにした。繰り返し記すが、岸にとっては、安保条約改正は国民の要望に応えて支持を盛り上げる手段のつもりだったのである。

 日米安保条約とその改定についてはあらためて記すが、60年の安保条約改定は、岸が予想もしていなかった大騒動となり、岸は日本を戦争に駆り立てる大悪党として集中攻撃された。60年の安保騒動である。

 岸は、自民党の中でも孤立して、結局安保改定と心中するかたちで首相を辞めざるを得なかった。憤死である。そのために念願の憲法改正にも、小選挙区制の導入にも、手をつけることができなかった。

 第8回につづく

田原 総一朗

671名無しさん:2015/10/11(日) 13:25:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000104-san-soci
世界記憶遺産登録 「これで戦友浮かばれる」シベリア抑留経験の90歳男性
産経新聞 10月10日(土)14時35分配信

 「これで死んでいった戦友たちも浮かばれる」。舞鶴引揚記念館でボランティアガイドを務めるシベリア抑留経験者の原田二郎さん(90)=京都府綾部市=は、登録決定をほっとした様子で受け止めた。

 原田さんは陸軍の衛生兵として従軍。昭和20年10月にロシアのハバロフスクの収容所に送られ、その後約4年間をすごした。

 「次々と仲間が死に、いつ自分の番かと不安で仕方なかった。引き揚げ船が舞鶴に着くまでは安心できなかった」

 原田さんは戦後約50年にわたり抑留体験について口をつぐんでいた。「捕虜となって生き延びたことは恥ずかしいこと」という思いがあったからだ。だが、地元の人たちに請われて徐々に体験を語りはじめ、今は記念館を訪れる小中学生らに、当時の体験を語るようになった。

 心境の変化があったのは、仲間への思いからだ。抑留生活では多くの仲間が死んでいったが、自分が生き残ることができたのはシベリア抑留の経験を語り継いでいく役割を託された、と思うようになったのだという。

 「今の子供たちは平和をあたりまえのことと思っているが、もっと真剣に考えてほしい」と語る原田さん。「記憶遺産に登録されて、シベリア抑留や引き揚げのことを世界中の人たちに知ってもらうことは、言葉にできないぐらいうれしい」と話した。これからも、体力が続く限り抑留体験を語り継ぐ覚悟だ。

672名無しさん:2015/10/11(日) 14:10:02
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000267
記憶遺産、被害強調=「広島・長崎と並ぶ惨事」-中国

 【北京時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録された旧日本軍による南京事件は、中国にとって「アウシュビッツ強制収容所、広島・長崎(への原爆投下)とともに第2次大戦の三大惨事」(国営新華社通信)とされる。中国は登録を受け、犠牲の大きさを強調しつつ、自らが主張する「歴史」の宣伝を続けていくとみられる。

 中国メディアによると、登録決定を受け、中国のユネスコ代表は「資料の真実性と唯一性に対する承認であり、完全性に対する最高の称賛であり、世界的な意義がある」と語った。
 アウシュビッツ収容所と広島の原爆ドームは既に世界文化遺産に登録されている。中国は昨年2月、南京が攻略された12月13日を「国家哀悼日」に定めており、「南京大虐殺記念館」(南京市)の朱成山館長は「記念日の制定で国内の認知度が大きく上がり、記憶遺産登録で世界の人々が共通認識を得た」と解説した。
 今回申請された資料は、中国人女性や外国人の日記、米国人牧師や旧日本軍が撮影したとされるフィルム・写真、南京軍事法廷の判決書、生存者の証言など全11組。
 南京軍事法廷の記録は「犠牲者30万人以上」とする中国の主張の根拠となっている。女性の日記は中国版「アンネの日記」とも呼ばれ、フィルムには日本兵に襲われ体中に傷を負った妊婦が写っているという。ただ、申請書類がそろって公開されているわけではなく、不透明感が残る。
 「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70年」の今年、中国は内外で戦争被害を訴え、戦勝に果たした中国の役割を強調してきた。中国側は「資料に記載されているのは中日両国の憎しみではない」(研究者)と言うが、登録には至らなかった「従軍慰安婦」の資料についても再度登録を目指す可能性があり、歴史をめぐる日中の摩擦は消えそうにない。
 南京大虐殺記念館では学者や生存者を集めた座談会を開催。広場には記憶遺産登録を記念した石碑の設置を計画しているという。(2015/10/10-18:37)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000296
中国の南京事件資料

 新華社電によると、南京事件の世界記憶遺産登録で中国が申請した資料は次の通り。
 (1)住民らの避難地区にいた中国人女性の日記
 (2)米国人牧師の16ミリ撮影機とフィルム
 (3)日本軍が撮ったとされる写真16枚
 (4)当時、中国人から提出された暴行の写真
 (5)南京軍事法廷の判決書
 (6)南京軍事法廷での米国人の証言記録
 (7)生存者の証言記録
 (8)当時の調査委員会の調査表
 (9)南京軍事法廷での犯罪証拠
 (10)市民からの上申書
 (11)外国人の日記
(北京時事)(2015/10/10-20:29)

673名無しさん:2015/10/11(日) 14:10:13
>>672

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000210
中国の歴史宣伝を懸念=日本政府、「政治利用」抗議

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に南京事件の資料が登録されたことを受け、中国の登録申請を「ユネスコの政治利用」としてきた日本政府は10日、在北京日本大使館を通じて中国外務省に抗議した。政府はまた、中国が「犠牲者30万人」とする主張を既成事実化し、日本の「負の歴史」を宣伝することを強く懸念。今月末にも開かれる日中韓首脳会談を控え、対応に苦慮しそうだ。

 南京事件をめぐり、日本政府は「犠牲者数は諸説あり、確定していない」との立場。川村泰久外務報道官は10日に発表した談話で、「日中間に見解の相違がある」とした上で、今回登録された資料について「完全性や真正性に問題があることは明らかだ」と指摘した。
 今回の登録を機に、中国が南京事件に関する対外発信を強化し、中国の主張が国際社会で「史実」として広まることを日本政府は警戒。これまでも「過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調することは極めて遺憾だ」(菅義偉官房長官)と繰り返し中国側に抗議してきたが、今後も冷静な対応を求めていく考えだ。
 一方、政府はユネスコに対しても「政治利用」を許したとして抗議する方針。ユネスコに1割強の分担金を拠出している立場から、記憶遺産事業で「中立性」を確保するよう制度改革を主導したい意向だ。(2015/10/10-20:07)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015101000313
「ユネスコへの妨害やめよ」=記憶遺産、日本に反論-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は10日、南京事件に関する資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録されたことについて「歓迎」する考えを表明した。日本政府の非難に対しては「歴史を直視したがらない誤った態度だ」と反論。「中国にとやかく言ったり、ユネスコの正常な業務を妨害したりするのを直ちにやめる」よう求めた。
 また「歴史を心に刻み平和を大切にし、未来を共につくり、人類の尊厳を守る役割」を、これらの資料が十分に果たせるよう保護・普及を図ると表明した。
 その上で、南京事件は「国際社会公認の歴史的事実」であり、「全人類の共通の記憶」になるべきだと強調。日本に対し「歴史に責任ある態度で、侵略の歴史を直視し深く反省し、誤りを正すよう促す」と述べた。 (2015/10/10-22:02)

674名無しさん:2015/10/12(月) 09:53:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151012-00010001-nishinp-pol
「岸信介を傘下に納めた」日米双方の思惑が築いた蜜月関係
西日本新聞 10月12日(月)8時30分配信

 憲法改正を目指し、対米自立を望んだ岸信介元首相は、首相に就任する前から米国の冷戦戦略に取り込まれていた―。そんな認識を示す文書を、日米外交に深く携わった元米国務次官補が残していた。孫の安倍晋三首相の政治姿勢にも強い影響を与えた岸氏だが、背景を探ると、もう一つの顔が浮かび上がった。

 文書はワシントン近郊のジョージタウン大図書館にあった。戦前戦後に在日米大使館で勤務し、1960年の日米安保条約改定時には極東担当の国務次官補を務めたグラハム・パーソンズ氏の文書コレクション。パーソンズ氏は、退官後の80年代前半に書いたとみられる未刊行の自伝で、岸氏に関してこう語っていた。
 「戦犯(容疑者)だった岸氏は50年代半ば、大使館のわれわれによって傘下に納まった。その後、(自民)党総裁になり、信頼に足る忠実な協力者となった」(「傘下に納まった」の原文は「cultivate」。和訳は文書を見つけたオーストラリア国立大のテッサ・モーリス・スズキ教授と吉見俊哉東大大学院教授の共著「天皇とアメリカ」=2010年刊から)
 63年の同僚宛ての手紙にも「われわれは54年、岸を傘下に納めた」。そこには有望な政治家と見なす岸氏を取り込んだ、との視点が鮮明にうかがえる。
 55年の保守合同で自民党が誕生する直前の混乱期。保守派リーダーの一人だった岸氏は、米国とどうつながっていたのだろうか。

民主、自由両党の合同前に
 保守合同前夜の1955年7月9日午後、東京の在日米大使館。当時の民主党幹事長だった岸信介元首相は、大使館のジョージ・モーガン参事官に招かれた。「キングサイズのスコッチ・アンド・ソーダ」を片手に約3時間半。モーガン氏の質問に冗舌に答える岸氏の姿があった。

 膨大な米公文書の調査などを基に戦後の日米関係を米国側の視点で描いた「『日米関係』とは何だったのか」の著者、米アリゾナ大のマイケル・シャラー教授(68)が90年代に見つけた大使館から本国への報告文書には、その時の様子が詳しく記録されている。
 民主、自由両党の合同はまだ時期が公になっていなかった。民主党を主導する岸氏は、合同が11月ごろになるとの見通し、新党首選びの状況、憲法改正や積極的な反共外交政策の採用、再軍備促進といった新党の政策などについて情報を「提供」(シャラー氏)。社会党の動向に関する推察も伝えた。いずれも米国側が欲していたとみられる。

675名無しさん:2015/10/12(月) 09:55:57
>>674

岸氏こそ米国の政策に合致
 岸氏は戦前、在日米大使だったジョセフ・グルー元国務次官とじっこんだった。同氏が日本で立ち上げたロビー団体の米誌東京支局長は、民主党幹事長時代の岸氏の英会話の家庭教師。支局長らは米政府に日本の政治状況などを報告、岸氏を売り込んでいたという。
 50年代、反共のとりでとして日本に安定した保守政権の誕生を望む米国の思惑をよそに、54年12月に退陣した吉田茂首相の後を継ぐ鳩山一郎、石橋湛山両氏はそれぞれソ連との国交回復、日中関係改善を志向。もともと反共・反ソで保守合同の強力な推進者、岸氏こそ米国の対日政策に合致する政治家だった。ロビー団体の人脈などを通じて、米国は岸氏をさらに「磨いた」とシャラー氏は語る。
 シャラー氏によると、50年代半ば、在日米大使館員が岸氏と会ったり、酒を飲みに行ったりしたとの記述も文書に散見された。岸氏がモーガン氏と会った当時の首席公使が、岸氏を「傘下に納めた」と記したグラハム・パーソンズ氏。大使館と岸氏とは深い結びつきができていたとみられる。

蜜月関係が権力へ導いた
 シャラー氏は「岸氏は米国に取り込まれたというより、むしろ積極的に取り入ろうとしていたと私は考える」。日米安保条約の不平等性の解消を目指した岸氏だが、「米国の信頼を得なければ、それは成し遂げられないし、信頼されれば国内での自身の政治力も増すという計算もあっただろう」とみる。
 55年、鳩山政権からの条約改定申し入れを一蹴した米国は、57年の岸政権からの交渉提起には応じ、60年に改定は実現した。
 一方でシャラー氏は、岸氏が首相就任後、米中央情報局(CIA)と秘密の資金提供の関係を結んだと著書で明記した。「権力の座に駆け上がる過程で米国と築いた濃密な関係が、資金提供の土壌になったのもまた事実だ」と指摘した。

岸氏の戦略「独立のために従属」
▼「岸信介証言録」などの著書がある原彬久・東京国際大名誉教授
 「cultivate」の意味について、私は「米国は自分たちの望む方向に動くように岸氏を取り込んだ」というニュアンスに受け取った。米国は岸氏を利用しようとしていた。彼らは岸氏を高く評価していたが、利害関係とは別のところで尊敬したり評価したりはしない。そんな生やさしい世界ではない。一方、岸氏も国内外の共産勢力と戦うため、米国を利用しようとしていた。だから米国の信頼を得るために情報を提供することもあろう。政治家として熟察し、いろんな計算の下で動いていたといえる。
 CIAから資金提供を受けることは道義的に問題ありだが、当時は革新勢力も旧ソ連から資金援助を受けていた。強力な保守政権を築き米国から何とかして自立したい、選挙で革新勢力に負けたくない、との思いから岸氏はきわどい政治判断をしたのではないか。
 逆説的な言い方だが、米国から独立するために従属する―というのが、皮肉にも岸氏の対米戦略だったと考える。

西日本新聞社

676名無しさん:2015/10/13(火) 22:43:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000582-san-pol
世界記憶遺産 維新・今井幹事長「大変遺憾、登録手続き間違っている」
産経新聞 10月13日(火)20時31分配信

 維新の党の今井雅人幹事長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された件について「大変遺憾だ。歴史的検証がはっきりとなされていない中での登録は手続きとして間違っている」と批判した。

 政府・自民党からユネスコへの拠出金の削減を検討する意見が出ていることに関しては「どういうやり方かはともかく、対抗措置を講ずるのは当然だ」と強調した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000543-san-pol
世界記憶遺産 共産・山下書記局長「ユネスコ拠出金削減検討は国際社会の理解得られない」
産経新聞 10月13日(火)15時57分配信

 共産党の山下芳生書記局長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、中国により登録申請されていた「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録した件に関し、政府・自民党からユネスコへの分担金拠出の削減を検討する意見が出ていることについて、「日本政府の主張が認められなかったからといって、拠出金削減を検討するなどという対応は国際社会の理解を得られないだろう」と述べた。

 山下氏は「南京事件については、どの程度の規模だったかについては議論があるとはいえ、大虐殺が行われたことは動かしがたい歴史的事実だ」と強調した。

677名無しさん:2015/10/13(火) 23:47:01
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000093-mai-pol
<ユネスコ分担金>二階氏「のうのうと…よいのか」停止検討
毎日新聞 10月13日(火)21時1分配信

 ◇世界記憶遺産に「南京大虐殺」 菅官房長官が表明

 菅義偉官房長官は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺」に関する資料が登録されたことについて、日本がユネスコに拠出する分担金や任意の拠出金の停止、削減を検討すると表明した。分担金などの支出は年間約42億円(2014年)にのぼり、ユネスコに制度改革を促す狙いがあるが、野党の一部からは慎重論も出ている。

 菅氏は会見で「(日中両政府の)意見が全く違う中で登録され、公正であるべき国際機関として問題だ。政治的に利用されることがないよう制度の透明性を強く求めたい」と述べ、登録の審議が非公開である点などを問題視し、制度見直しを求める考えを改めて示した。

 外務省によると、日本の2014年のユネスコ分担金は約37億2000万円。10.8%の分担率は加盟国では米国(22%)に次いで2番目に多い。これに加えて任意で約5億円の拠出金もある。米国は11年以降、パレスチナのユネスコ加盟に反発して分担金の支払いを停止しており、日本は実質的には最大の拠出国だ。

 自民党の二階俊博総務会長は会見で「協力金を一生懸命納めておきながら、日本の意見や主張はどこまで通っているのか。のうのうと引き下がってよいのか」と指摘した。

 自民党の国際情報検討委員会の原田義昭委員長が会合で「南京大虐殺、従軍慰安婦の存在をわが国は全く否定しようとしているときにもかかわらず記憶遺産で取り上げるのは承服できない」と発言するなど、党内には、政府の公式見解とは異なる主張もくすぶっている。相次ぐ支出見直し発言には、こうした党内事情も反映しているとみられる。

 共産党の山下芳生書記局長は会見で「日本政府の主張が認められなかったからといって拠出金削減を検討する対応は国際社会の理解を得られない」と批判した。【高本耕太、小田中大】

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151013-00000525-san-pol
世界記憶遺産 民主・細野政調会長「ユネスコの分担金削減あっていい」
産経新聞 10月13日(火)12時47分配信

 民主党の細野豪志政調会長は13日の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺文書」が登録された件を受け、「記念遺産になるまでのプロセスに不明確な部分がある。(日本がユネスコに拠出している)分担金の削減を検討することはあってもいい」との見解を示した。

678名無しさん:2015/10/15(木) 22:54:30
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151015-00000570-san-eurp
ロシア、日本の記憶遺産登録の撤回を要求 シベリア抑留資料で 日本は「パンドラの箱を開けた」と非難
産経新聞 10月15日(木)20時46分配信

 【モスクワ=遠藤良介】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に日本のシベリア抑留資料が登録されたことについて、ロシア政府は15日までに、ユネスコの「政治利用」だとして登録の撤回を求める方針を固めた。露ユネスコ国内委員会のオルジョニキゼ書記が国営ロシア通信に対して明らかにした。日本政府は、中国の申請で「南京大虐殺文書」が登録されたことを同様に「政治利用」と批判しており、この問題は日中露が入り乱れる構図となった。

 オルジョニキゼ氏は「ユネスコに政治問題を持ち込むことには反対だ」と述べ、日本が登録を申請しないよう事前に申し入れていたことを明らかにした。今後はユネスコと日本政府の双方に登録撤回を働きかけるとしている。

 1945年の第二次大戦終戦後、ソ連軍が満州や朝鮮から約57万5千人を連行して強制労働を課し、約5万5千人が犠牲となったシベリア抑留。ロシアではこの問題の認知度が非常に低く、終戦後の出来事であるにもかかわらず、抑留者が「軍事捕虜」と称される。

 オルジョニキゼ氏も、抑留者は「大戦後の48〜56年に帰還した軍事捕虜だ」との認識を示し、「捕虜たち自身の回想によれば、その扱いは妥当なものだった」と主張した。

 中露両国は今年、首脳が互いの「戦勝70年行事」に出席し合うなど、歴史認識をめぐる「共闘」を演出している。対日戦での中ソの協力関係を誇示することで「戦勝国」の立場を強化し、日本への圧力とするのが狙いだ。

 オルジョニキゼ氏は、世界記憶遺産をめぐる「パンドラの箱」を開いたのは抑留資料を申請した日本だと批判。ただ、中国の「南京大虐殺」についても「同様のことは多くの国であり、問題は2国間で解決するべきだ」と指摘し、戦争関連の出来事は世界記憶遺産にそぐわないと述べた。

 「南京」と異なり、シベリア抑留の規模や犠牲者数に関する見解は日露間でおおむね一致するが、ロシア側は犠牲者1万5千人超の資料を開示していない。

 菅義偉官房長官は15日の記者会見で、「シベリア抑留の申請は舞鶴市の姉妹都市であるナホトカ市の理解と協力を得ている。広い意味で世界的な重要性があるということでユネスコの委員会から推薦された」と述べ、ロシアと連携して進めているとの見方を示した。

679名無しさん:2015/10/17(土) 16:41:01
http://www.asahi.com/articles/ASHBH54VFHBHUHBI01D.html
「シベリア抑留」登録、ロシアが撤回要求へ
モスクワ=駒木明義2015年10月15日19時17分

 ソ連によるシベリア抑留に関連した記録がユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界記憶遺産」に登録されたことについて、ロシア・ユネスコ委員会のオルジョニキゼ書記が14日、「ユネスコで政治的な問題を扱うべきではない」として撤回を求める方針を明らかにした。

 ノーボスチ通信によると、オルジョニキゼ氏は「ユネスコに政治問題を持ち込むべきではない。戦争に関連した遺産を登録することは控えるべきだ」と指摘。日本とユネスコ事務局に対して、シベリア抑留に関する記録の撤回を働きかける考えを明らかにした。

680とはずがたり:2015/10/18(日) 08:11:46

慰安婦の登録、ユネスコが中韓共同申請を奨励か
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151013-OYT1T50071.html?from=yrank_ycont
2015年10月13日 19時02分

 【北京=竹腰雅彦、ソウル=宮崎健雄】中国外務省の華春瑩フアチュンイン副報道局長は12日の定例記者会見で、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に中国が登録を申請し、今年の選考で見送られた「慰安婦に関する資料」について、「(ユネスコ側に)関係国との共同申請を奨励する意見があり、中国は真剣に考慮し検討する」と述べた。

 いわゆる慰安婦に関する資料については、韓国政府も記憶遺産への登録準備を進め、これまでに中国への協力を表明しており、今後、中韓両国が共同申請を目指す可能性がある。

 中国外務省副報道局長の発言について韓国外交省報道官は13日、「韓国の民間団体が(『慰安婦に関する資料』の世界記憶遺産)登録と国際協力を推進していると知っているが、具体的内容は把握していない。民間団体が判断しなければならない」と述べた。

2015年10月13日 19時02分

681とはずがたり:2015/10/18(日) 08:12:01
>>679

「シベリア抑留」記憶遺産、露が取り下げ要請
http://www.yomiuri.co.jp/world/20151017-OYT1T50089.html?from=yrank_ycont
2015年10月17日 20時13分

 【モスクワ=緒方賢一】ロシアの国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)委員会のグリゴリー・オルジェニキーゼ書記は16日、シベリア抑留に関する資料の世界記憶遺産への登録について、露外務省でモスクワの日本大使館幹部と会談し、登録申請を取り下げるよう求めた。


 日本側は要請を受け入れない姿勢を示した。

 会談で同書記は「申請はユネスコの政治利用につながりかねないので見直してほしい」と語った。日本側は、「政治利用する意図は全くない」と強調した。

 世界遺産総合研究所(広島市)の古田陽久所長は「世界自然遺産・文化遺産では登録後の抹消が2例あるが、世界記憶遺産では聞いたことがない」と話した。
     ◇
 日本政府は資料について「ユネスコが求める『真正性』を完全に満たしている」(外務省幹部)との立場だ。ロシア側の抗議は当たらないとし、申請の取り下げには応じない方針だ。

2015年10月17日 20時13分

682とはずがたり:2015/10/18(日) 08:13:37
次は中共による中国国民大虐殺だな

2015.10.17 20:55
韓国メディア「腹立たしいが反論は困難」 文春“ベトナム韓国軍慰安所”報道
http://www.sankei.com/world/news/150513/wor1505130021-n1.html

 韓国軍がベトナム戦争中に、サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-という「週刊文春」のスクープ記事の余波が、韓国国内で広がっている。同国メディアが、朴槿恵(パク・クネ)政権に対し、軍による慰安所運営の実態を調査するよう注文をつけたのだ。自国の恥部を、明らかにできるのか。(夕刊フジ)

 「週刊文春の『韓国軍トルコ風呂』報道、腹立たしいが反論は困難…」

 ハンギョレ新聞(日本語電子版)は4月25日、こんな神妙なタイトルの記事を掲載した。問題としたのは、同誌4月2日付春の特大号に掲載された、TBSの山口敬之ワシントン支局長(当時)による衝撃リポートだ。

 文春記事は、山口氏が米国で発見した公文書に「韓国軍による韓国兵専用の慰安所」の存在が明示されていたという内容で、これを裏づける元米軍海兵隊幹部の証言なども盛り込まれている。

 朝日新聞が大誤報を認めたことで、日本の慰安婦問題の核心(強制連行)は崩壊している。それでも、韓国が「解決」を求め続けていることを念頭に、山口氏は「もし韓国政府がこの問題を黙殺したり、調査もせず否定したりするなら、彼らこそ都合の悪い事実に背を向け、歴史を直視しない国家であることを、国際社会に対して自ら証明することになる」とリポートを結んでいる。

 ハンギョレは「腹立たしくはあるが反論しにくい主張だ」と指摘し、韓国政府に対して「慰安所の運営・管理に軍当局がどこまで介入したのかなどを明らかにするための調査と後続措置に乗り出さなければならない」と促しているのだ。

 夕刊フジで「新・悪韓論」を連載する、ジャーナリストの室谷克実氏が背景を分析する。

 「私の知る限り、文春報道を取り上げた韓国メディアはハンギョレだけだ。同紙は韓国内では左派メディアと位置づけられており、軍に対して批判的な報道が目立つ。『アンチ軍』の立場から文春のスクープに飛びついたのだろう。一方、他の韓国メディアの中には『軍と対立したくない』という空気が強く、ハンギョレの報道を追いかける可能性は低い」

 ハンギョレはこれまでにも、韓国の恥部といえる、韓国軍によるベトナム民間人虐殺疑惑や、「基地村女性」「洋公主(ヤンコンジュ)」などと呼ばれた米軍慰安婦の問題を取り上げてきた。

 今回の報道が、政府や軍への本格的追及につながるとは考えにくい。ただ、報道がなければ「韓国の人々は、軍の慰安所に言及した公文書の存在を全く知らされなかった」(室谷氏)だけに、その意義は大きいといえそうだ。

683名無しさん:2015/10/18(日) 12:01:34
>>681

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151016/k10010272441000.html
記憶遺産に抑留資料 「政治利用ではない」
10月16日 16時17分

ユネスコ=国連教育科学文化機関の「記憶遺産」に、いわゆるシベリア抑留などに関する資料の登録が決まり、ロシア側が「ユネスコに政治問題を持ち込んだ」として日本を批判していることについて、馳文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、政治利用ではなく批判は当たらないという認識を示しました。
ユネスコ=国連教育科学文化機関は、今月開かれたユネスコの国際諮問委員会で、日本が申請していたいわゆるシベリア抑留や、戦後、旧満州などから引き揚げた人たちに関する京都府舞鶴市の資料を「記憶遺産」に登録することを決め、ロシア側は「ユネスコに政治問題を持ち込んだ」などと、登録を申請した日本を批判しています。
これについて、馳文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、「舞鶴市は姉妹都市であり、抑留者を乗せた引き揚げ船の多くが出港したロシアのナホトカ市の当局と意を通じ合い、申請に同意を得ていたと聞いている」と述べました。そのうえで、馳大臣は「政治利用すべきではないという観点に立ち、姉妹都市とも連携して合意を得たうえでの申請となっており、政治利用には当たらない」と述べ、ロシア側の批判は当たらないという認識を示しました。

684とはずがたり:2015/10/20(火) 22:13:01
>毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された
笑。木戸孝允すげえw

黒田清隆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86

黒田内閣は、大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗によって大隈が襲撃され、翌 明治22年(1889年)10月に倒れた。改正の条件に外国人の裁判官を置くという別の不平等を持ってきたことが、国内の反対を受けたのである(辞職後2か月間三条實美内大臣が首相を兼任)。なお、この時に、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件(明治22年(1889年)12月15日夜)を起こして政府内から非難を浴びて謹慎している。

酒乱
平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であったと言われている。ある時、酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された。以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。

685名無しさん:2015/10/20(火) 23:02:07
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151020-00000056-asahi-pol
「シベリア抑留」登録、ロシアが取り下げ要請 日本反論
朝日新聞デジタル 10月20日(火)18時34分配信

 岸田文雄外相は20日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)が世界記憶遺産に登録したシベリア抑留に関連する記録について、ロシア政府が日本政府に取り下げを求めたと明らかにした。日本側は「政治利用の指摘は当たらない」と反論したという。

 16日、在ロシア大使館にロシア外務省から要請があった。岸田氏は「申請に先立って(京都府)舞鶴市関係者が在大阪ロシア総領事を通じて、申請の経緯と趣旨を説明したと承知している。引き続き理解を求めていく」と述べた。

朝日新聞社

686とはずがたり:2015/10/23(金) 00:06:50
日本軍による南京大虐殺はなかったと云う論。
なんで政治家があんな妄言を繰り返すのか不思議だったけどそれなりの体裁をとっているのだな。ひょっとしたらなかったのかも。
皇軍の規律正しさや無謬性を強調するのではなく,旧日本軍の愚かしさや蛮行を認めて帝国主義を非難し日本軍国主義体制を全面否定した上でそれでも南京虐殺はなかったのだというならもっと信頼置けるんだけどなーw
そういうスタンスの人はいないのかな?

四度あった南京大虐殺(リニューアル保存版)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2668.html

687名無しさん:2015/10/24(土) 17:13:37
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2015102300389
ロシアに説明済み=シベリア抑留資料登録-菅官房長官

 菅義偉官房長官は23日午前の記者会見で、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産にシベリア抑留の資料が登録されたことに対するロシア政府の批判について、「申請に先立って、京都府舞鶴市の関係者から在大阪ロシア総領事を通じて申請の経緯と趣旨を説明済みだ。だからロシア側も事前に承知をしている」と述べ、同国の主張は当たらないとの考えを示した。 (2015/10/23-11:51)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2015102300096
細菌兵器の死者「120万人」=中国と日本がまた応酬-国連総会委

 【ニューヨーク時事】中国の傅聡軍縮大使は22日、国連総会第1委員会(軍縮・国際安全保障)での大量破壊兵器に関する討論で、第2次世界大戦中、旧日本軍が中国で化学兵器や細菌兵器を組織的に開発、使用し、民間人が多数犠牲になったと非難した。細菌兵器による死者について、「未完成の統計」を根拠に「広島と長崎の原爆犠牲者数の4倍に当たる120万人以上」と主張した。
 化学兵器は1131回使用され、多数の民間人が犠牲になったと指摘。中国に遺棄した化学兵器の処理を急ぐよう日本に要求した。その上で「日本は戦争から70年たっても、歴史の隠蔽(いんぺい)と言い逃れにこだわっている」と批判した。
 これに対し、日本の佐野利男軍縮大使は、日本政府が中国の主張を裏付ける客観的な記録を持っていないと説明。化学兵器の使用回数には「疑問があり、誇張されている可能性がある」と反論した。遺棄兵器については「処理計画は着実に進展している」と強調した。 
 傅大使は20日、日本が核物質を大量に保有していると指摘し、核兵器開発に乗り出す恐れを主張。佐野大使がこれを否定し、応酬となった。(2015/10/23-06:47)

688名無しさん:2015/10/24(土) 18:31:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151021/k10010277181000.html
国連総会「核武装」で日中が応酬
10月21日 9時01分

国連総会で軍縮問題を扱う委員会で、中国の軍縮大使が、「日本は原子力発電所の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを大量に保有しており、核開発に乗り出す可能性がある」と指摘したのに対し、日本の軍縮大使は核武装の意図はないと強く反論するなど、双方が応酬しました。
ニューヨークの国連本部では、今月上旬から国連総会で軍縮問題を扱う第1委員会が始まり、20日には各国が核軍縮を巡る立場を表明しました。
この中で、中国の傅聡軍縮大使は中国が核軍縮に取り組む姿勢を強調する一方で、日本が原子力発電所の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを47トン以上も保有しているうえ、国内には核武装を求める声も根強くあるとして、日本が核開発に乗り出す可能性があると指摘しました。
そして、「なぜ日本はこれほど大量のプルトニウムを保有しているのか。日本はごく短時間で核兵器を保有することができる状況にある」と述べ、日本側に説明を求めました。
これに対して日本の佐野利男軍縮大使は、日本はIAEA=国際原子力機関の査察を受け入れ、すべての核物質を監視下においているとしたうえで、「専守防衛を基本方針とする日本は、他国への軍事的な脅威になることはない。非核三原則も堅持している」と述べ、核武装の意図はないと強く反論しました。

689名無しさん:2015/10/24(土) 20:57:46
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00022309-hankyoreh-kr
日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(1)
ハンギョレ新聞 10月24日(土)15時9分配信

朴槿恵(パク・クネ)政権が推進する韓国史教科書国定化方針に対して、日本の市民社会が憂慮している。彼らの反対理由を知るため、日本が1903年から施行した小学校教科書国定化の流れと、その結果作られた教科書の内容を調べてみた。そこで発見できたのは、教科書を通じて国民の精神を支配して、無謀な侵略戦争に若者たちを駆り立てた日本政府の悪しき本音だった。すべての悲劇は一件の偶然な紛失事故から始まった。

 日本が朝鮮の支配権などを巡ってロシアと一大決戦を行うべしという世論が高まった1902年11月のある日のことだった。 東京の品川駅周辺を歩いていた一人の住民が、田畑に落ちている革カバンを発見し警察に申告した。 カバンの中には手帳一冊と当時の教科書の大手出版社だった普及社の社長、山田禎三郎(1871〜1930)の名刺が入っていた。 警察にはすでに山田氏からカバンをなくしたという紛失届けが出されていたので、カバンは間違いなく山田氏のものだった。

 カバンを受け取った担当警察官は好奇心から手帳を開いて内容を覗き見た。 その中には韓国の広域自治体長に相当する日本の各県知事、視学官(奨学官)、その他教育関係者の名前とその横には金額のような小さな数字がびっしり記されていた。 それを見て何か尋常でないと感じた担当者は警視庁に連絡し、警視庁は東京地裁検事局にその事実を通知した。1カ月程度の内偵の末に検察はその年の12月17日、今回の事件を教科書出版社が教科書採択権限を持つ教育関係者らに大規模なわいろを上納したものと規定し、事件を公開捜査に切り替えた。 以後、日本の政官界を揺るがす大型贈賄スキャンダル「教科書疑獄事件」の始まりだった。

■修身・歴史・国語から国定化

 この事件を契機に日本政府は1887年5月、「教科用図書検定規則」制定以来16年間にわたり維持してきた小学校教科書の検定制度を撤廃し、本格的な国定化を進めることになる。 その名分はもちろん「国民の精神を統制するため」ではなく、「教科書採択を巡る業界の不正を一掃する」だった。

 今月12日、韓国政府が2017年度から中学・高校で使われることになる韓国史教科書を、朴正煕(パクチョンヒ)政権の維新時期に導入された国定制に回帰すると明らかにした後、それを憂慮する日本の市民社会の強い反発が相次いでいる。「子どもたちに渡すな!あぶない教科書大阪の会」など24の教科書・歴史関連市民団体は16日、声明で「かつて日本は日露戦争直前の1903年から敗戦の1945年までの42年間の長きにわたって国定教科書を使用し、その結果、多くの日本人が侵略戦争を『聖戦』と信じこみ、アジアの人々を殺戮した」と指摘した。 日本の朝日新聞も19日付社説で「民主化して30年近くたつ韓国は、多様な価値観が存在する先進国である。いまになってなぜ、歴史教科書のみを国定化せねばならないのか理解に苦しむ」と朴槿恵(パク・クネ)政権を遠回しに非難した。

 日本の市民社会はなぜ韓国の教科書制度に強い関心と憂慮を明らかにしているのだろうか。 その背景には日本人が過去の軍国主義時期に体験した辛い経験がある。

 日本のNHK放送が1982年5月に放映したドキュメンタリー「明治教科書疑獄事件 〜国定化への道〜」によれば、日本政府が教科書疑獄事件を活用して教科書の国定化を周到綿密に貫徹していく過程が描写されている。

 検察が事件を公開捜査に切り替えて1カ月にもならない1903年1月9日、教科書国定化案が閣議に提出され、続いて3カ月後の4月13日には小学校令が改定され、修身・日本史・地理・国語の4科目国定化が立法化された。 まさに電光石火のような動きだった。 当時、日本の国会で政府のこのような動きに反対したのは根本正議員(1851〜1933)だけだったと伝わる。

690名無しさん:2015/10/24(土) 20:57:58
>>689

 当時、日本の教科書国定化を指揮したのは、明治の軍人、児玉源太郎(1852〜1906)だった。児玉は事件発生の直前である1902年9月18日、桂太郎首相(1848〜1913、朝鮮強制併合当時の首相)に教科書界に蔓延したわいろ不正の摘発を急ぐよう手紙を送った。 わいろ事件の摘発を契機に国定化方針が確定すると、彼は1903年7月に桂内閣の内務大臣と文部大臣を兼任し、教科書国定化を本格的に指揮していく。 こうして見ると、日本の教科書国定化と戦争遂行のための「忠良な皇国臣民養成」はコインの両面だった。

 以後、日本の教科書は国民精神改造の道具に変わって行く。日本が最初に国定化を推進した科目が、人間の思想に関連する修身・歴史・国語科目だったという事実がこれを象徴的に示している。

 それとともに既存の検定制教科書の内容が大幅に修正され始める。 滋賀大学附属図書館が2006年11月に出した『近代日本の教科書のあゆみ-明治期から現在まで』によれば、「これまで多くの検定教科書が神代(日本の歴史で神話の時代に該当する時期)を省略してきたが、国定教科書では神代から始める歴史教育を復活させた」と指摘している。 これは日本の子供たちが自国の歴史を石器時代という“考古学的事実”ではなく「(日本の創造神である)天照大神は天皇陛下の先祖」という“主観的神話”から習い始めたことを意味するわけだ。 戦争末期に使われた『初等科国史』下巻は、日本が起こした満州事変と大東亜戦争を「東洋平和を確立するためのもの」と正当化し、「私たちは一生けんめいに勉強して…立派な臣民となり、天皇陛下の御ためにおつくし申しあげなければなりません」で終わっている。このような天皇中心の歴史観は、靖国思想などと結びついて「日本は神国なので絶対に戦争に負けない」 「天皇のために死んで靖国で会おう」という盲目的な国家観につながっていった。 当時の日本政府の宣伝戦がどれほど乱暴だったかは、朝鮮総督府が発行した機関紙である毎日新報の紙面をいくつか見るだけで容易に感じをつかむことができる。
(2)に続く。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:10月24日(土)15時33分

691名無しさん:2015/10/24(土) 20:59:36
>>690

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00022310-hankyoreh-kr
日本の歴史教科書から軍国美談はいかに消えたか(2)
ハンギョレ新聞 10月24日(土)15時9分配信

1902年、教科書わいろ事件を活用し 
1945年まで国定教科書を使用 
石器時代でなく建国神話で始まり 
盲目的国家観で戦争を美化 
侵略戦争を“聖戦”と信じこませ 
日本を占領した連合軍司令部の 
最初の措置は既存教科書にあった 
戦争美談を墨で消せとの命令 
形ばかりの検定制という批判はあるが 
“国定化”は良くないという合意がある

■ねつ造された「水兵の母」

 国民を戦争に動員するために日本政府が最も心血を注いだのは「戦争美談」だった。 当時の小学校5年用国語教科書に収録された美談「水兵の母」を見よう。

 明治27〜28年、戦争(日清戦争)が終わらんとしている時であった。ある日、軍艦高千穂の一水兵が手紙を読みながら泣いていた。通りかかったある大尉がこれを見て、余りにめめしいふるまひと思って、「こら、どうした。命が惜しくなったか。妻子がこひしくなったか。軍人となって、軍に出たのを男子の面目と思はず、そのありさまは何事だ」と鋭く叱った。水兵は驚いて立ちあがり、しばらく大尉の顔を見つめていたが、「それは余りなおことばです。私には、妻も子もありません。私も、日本男子です。何で命を惜しみませう。どうぞ、これをごらんください。」といって、その手紙をさし出した。

 兵士の母親が送った手紙であった。「聞けば、そなたは豊島沖の海戦(忠清南道牙山近海で起きた日清戦争の緒戦)にも出でず、八月十日の威海衛攻撃(日清戦争で日本軍の勝利が事実上決定された戦闘)とやらにも、かくべつの働きなかりし由、母はいかにも残念に思ひ候。何のために軍(いくさ)には出で候ぞ。一命を捨てて、君の御恩に報ゆるためには候はずや。村の方々は、朝に夕に、いろいろとやさしくお世話なしくだされ、一人の子が、御国のため軍に出でしことなれば、定めし不自由なることもあらん。何にてもえんりょなくいへと、しんせつに仰せくだされ候。母は、その方々の顔を見るごとに、そなたのふがひなきことが思ひ出されて、この胸は張りさくばかりにて候」

 中内敏夫・一橋大学名誉教授は著書『軍国美談と教科書』(1988年)でこのエピソードに関して、「名も無き母子家庭の老母とその息子、このような家庭の母親が一人息子を国家のために喜んで差し出して、天皇の戦争に身を捧げるよう願っているという文は、軍の指揮部が見れば国民教育の絶好の素材になっただろう」と指摘した。しかしこの母子の現実は日本軍部が願った模範的モデルとは相当な乖離があった。 水兵の実際のモデルは、現実には病弱で豊島沖海戦が起きる前に船から下りるよう命令を受けたことがあり、エピソードが出た後にほどなくして人々の目を避けて鹿児島県の故郷へ帰り3年後に病死したためだ。

 当時の軍国美談の中では現実を巧妙に歪曲したりねつ造したという疑いが濃厚なものが多い。 最も代表的なものは第1次上海事変が進行中だった1932年2月22日、上海郊外の鉄条網陣地を破壊するために爆薬筒を持って肉弾攻撃を敢行した江下武二、北川丞、作江伊之助の3人の工兵を指す「肉弾3勇士」の美談だ。当時、日本のマスコミは作戦遂行のために命を捧げた三勇士を称賛する記事を書き立てたが、兵士たちが亡くなったのは死を覚悟した勇猛な作戦の結果ではなく、導火線の長さを誤って計算した“ミス”だったことを暗示する関係者の証言が出てきた。

692名無しさん:2015/10/24(土) 20:59:47
>>691

 このような“神話ねつ造”は戦争を遂行した日本大本営の得意技だった。 大本営は特殊潜水艇に乗って1941年12月8日米国の真珠湾を攻撃した海軍の「九軍神」、日本軍として最初に守備隊全員が降参せずに決死抗戦し全員が死亡した「アッツ島玉砕」などを大々的に宣伝して戦争美化の道具として使った。 しかし九軍神の潜水艇は何ら軍事的成果を上げられなかった失敗した作戦であり、アッツ島の兵士は全員玉砕したのではなく一部は生き残り米軍の捕虜になったという事実が以後の研究と実態調査を通じて明らかになっている。 韓国で発見できる似た事例としては、1968年に「僕は共産党が嫌いです」という言葉を残して共産軍に殺害されたという「少年イ・スンボク」のエピソードが挙げられる。 このエピソードは永く国民学校道徳教科書に載り、その痕跡が今でも小学校の校庭の一画に放置された銅像として身近な所に残っている。

 日本の歴史教育が再び大転換することになった契機は1945年8月の敗戦だった。 戦争が終わった後、日本を占領した連合軍最高司令部(GHQ)は軍国主義的な教科書が日本を戦争の道に導いたという判断の下、どのように過去と断絶した新しい歴史教育を樹立するかを検討することになる。 占領軍が取った最初の措置は、既存の教科書から天照大神から始まる日本の建国神話や戦争美談を墨で消すよう命令することだった。 連合軍最高司令部は次に日本政府の介入を排除して民間学者が参加した新しい教科書の編纂に乗り出す。

 日本の歴史学者の家永三郎(1913〜2002)ら4人の学者が東京大学史料編纂所に集結したのは1946年5月17日だった。 彼らは連合軍最高司令部所属の米軍将校とともに、特定のイデオロギーを宣伝しない▽軍国主義・超国家主義的神道教育をしない▽天皇の業績が歴史の全てではない▽経済・文化など民衆の歴史を扱う、という原則に則り、新しい小学校用歴史教科書『国のあゆみ』を執筆する。当時の作業の意味について、家永三郎は1977年に放送されたNHK特集ドキュメンタリー「戦後教育の開始」で「不十分な教科書だったが、日本の歴史が神の降臨ではなく石器時代から始まるように変わったのは大きな意味があることだった」という証言を残している。 以後、日本は1948年に教科書検定制を復活させ、本格的な戦後歴史教育を始めることになる。

■歪曲教科書採択率が6.4%まで上がる

 それから60年余りの歳月が流れた今、日本の検定制は再び大きな危機に直面している。 2012年12月に登場した安倍晋三政権が、教科書の執筆と検定の基準になる学習指導要領解説書や教科書検定基準などを詳細化し、各出版社が教科書にどのような内容を入れるかを逐一定めているためだ。 そのため日本の市民団体は現在の教科書検定制について「形だけの検定であり事実上の国定制」と批判している。 その上、安倍政権は日本の侵略戦争を美化する育鵬社教科書など歴史わい曲教科書が一線の学校でより多く採択されるよう種々の支援を惜しまない。 それによって2001年に登場した歴史歪曲教科書は、2016年から使われる中学校教科書基準で採択率が6.4%まで上がっている。

 それでも日本では、韓国の朴槿恵政権のように戦争前のような国定制に回帰しようとする動きはない。 過去の歴史の悲劇を通じて“越えてはならない一線”に対する社会的合意が存在するためだ。 かつての日本の教科書の問題点を指摘したが、維新時期の韓国の国定教科書も盲目的な愛国心と反共主義を強調したという点で特に変わりはないと言えるだろう。 歴史は朴槿恵政権の今回の措置をどのように記憶するだろうか。 時代に逆行する韓国政府の国定化の試みは成功できるだろうか。

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

最終更新:10月24日(土)15時9分

693とはずがたり:2015/10/24(土) 21:18:19
解りやすいかもw

護国戦争
http://hosokawa18.exblog.jp/17900986/
北洋軍閥についてゲームの攻略本チックに見ていきます。

694名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:22
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150810-OYT8T50122.html
占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102
2015年08月11日 05時20分

おくの・せいすけ 1913年、奈良県生まれ。東大法卒。38年、内務省入省。自治事務次官を経て63年衆院選に自民党公認で初当選し、13回連続当選。文相、法相、国土庁長官などを歴任し、2003年に政界を引退した。現在、アジア福祉教育財団名誉会長。

 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

 ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基さんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗に迫り、受諾を承知しなかった。「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。

 官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

 問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。

695名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:34
>>694


役所一転「上司」はGHQ

 1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷しょうい弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。

 あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。

 5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕ごうへ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。

 焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。

 翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。

 4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。

 「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」

 それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府(※)の官制原案を書いた。

 6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。

 7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。

 15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音ぎょくおん放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。そして最後は阿南惟幾これちか陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。

 15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

占領下の日本 改めて実感

 玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城きゅうじょうの前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。

 軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。

 玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。

 名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。

 出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。

 日本が占領下にあることを改めて実感したな。

(聞き手 編集委員 福元竜哉 撮影 鈴木竜三)
 ※地方総監府 連合国軍の本土上陸で国土が分断される事態に備え、1945年6月、内務省が全国8区域(北海、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)に設置した地方行政機関。地方総監には、管内の知事への指揮権など強力な権限が与えられた。同年11月に廃止された。

696名無しさん:2015/10/25(日) 08:41:44
>>695


「日本再起のきっかけに」…天皇の地方巡幸

 内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。

 この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

(福元)
2015年08月11日 05時20分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

697名無しさん:2015/10/25(日) 18:37:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151025-00000052-jij-n_ame
83年、戦争「一触即発」=ソ連、演習偽装の攻撃警戒―米機密文書
時事通信 10月25日(日)16時17分配信

 【ワシントン時事】米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は24日、冷戦時代の西側の先制核攻撃に対するソ連の警戒の深さを分析した米機密文書を公開した。
 1983年に行われた北大西洋条約機構(NATO)の軍事演習の際、「米国は不用意にソ連との関係を一触即発の状態に陥れた恐れがある」と指摘している。
 NATOは当時、核戦争を想定した演習を毎年実施。83年11月の「エイブル・アーチャー(優れた射手)」と題した演習では、同9月の大韓航空機撃墜事件を受け、対ソ関係が緊張する中、実物に似た模擬核弾頭を搭載した航空機を動員するなど、新たな手法を取り入れた。
 これに対し、ソ連側は東ドイツをはじめとして、空軍が高度な警戒状態に入り、情報収集活動も大幅に強化。実際に危機が起きた時と同様の警戒態勢を敷いた。報告書は「米国が演習を隠れみのに利用して攻撃に着手するとソ連軍首脳は真剣に危惧していた可能性がある。少なくともソ連にとって戦争の恐怖は現実味を帯びていた」と結論付けた。
 公開されたのは、1990年2月に米大統領の諮問機関、対外情報諮問委員会に提出された報告書。公文書館が情報開示請求を通じ入手した。

698名無しさん:2015/10/26(月) 22:44:54
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015102500216
安倍首相がコンサート鑑賞=日本人抑留者建設の劇場で-ウズベキスタン

 【タシケント時事】安倍晋三首相は25日午後(日本時間同日夜)、昭恵夫人とともにウズベキスタンの首都タシケントにあるナボイ劇場を訪れ、コンサートを鑑賞した。

 同劇場は第2次世界大戦後、旧ソ連による強制連行で抑留された日本人が建設に携わったもので、1966年の大地震でも倒壊を免れた。コンサートでは、出演者が日本の唱歌「ふるさと」を合唱する場面もあり、首相は盛んに拍手を送っていた。
 これに先立ち、首相と昭恵夫人は日本人抑留者が埋葬された墓地を参拝した。 (2015/10/25-23:53)

699名無しさん:2015/10/26(月) 22:46:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151022-00039496-crankinn-movi
アンジー監督作『アンブロークン』公開決定、日本軍捕虜となった元五輪選手の半生描く
クランクイン! 10月22日(木)8時0分配信

 ハリウッドの人気女優アンジェリーナ・ジョリーが映画監督として、第二次世界大戦で日本軍の捕虜となったオリンピック・アスリートの半生を描いた最新作『不屈の男 アンブロークン』の日本公開が決定した。

 映画の舞台が日本でもあるにも関わらず、国内公開がないことに違和感を感じた製作のユニバーサル・スタジオと配給のビターズ・エンドが、「戦争を描くいろいろな形の映画があるべき」というスタンスから合意。シアター・イメージフォーラムの賛同も得て、日本での公開決定が遂に実現。

 本作の主人公は、1936年のベルリン・オリンピック5000メートルで驚異的なタイムを叩き出したルイ。第二次世界大戦で空軍パイロットとなるも、搭乗していた爆撃機が海に不時着。47日間の漂流の末、日本軍に見つかり、捕虜として収容所に送られてしまう。収容所では、ルイに対して病的な執着を見せるワタナベ伍長の執拗な虐待が待ち構えていたが、彼は不屈の精神で耐え抜き、終戦によって遂に解放されるのだった。

 ルイ役を演じるは『300 <スリーハンドレッド> 〜帝国の進撃〜』『名もなき塀の中の王』のイギリス人俳優ジャック・オコンネル。そして、ワタナベ伍長役に抜擢されたのは、ミュージシャンのMIYAVI。アンジーに才能を認められて、俳優としてハリウッドデビューを飾った。

 『不屈の男 アンブロークン』は、2016年2月よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー。

700名無しさん:2015/10/26(月) 22:48:30
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151024-00000001-withnews-ent
これは「反日」映画なのか? 批判を覚悟、捕虜虐待の軍曹演じた決意 「アンブロークン」のMIYAVI
withnews 10月25日(日)10時0分配信

 「日本軍の捕虜虐待を強調している」――。作品や原作に対するそんな反発が米国での公開前からネットを中心に広がり、日本での公開が一時は暗礁に乗り上げたアンジェリーナ・ジョリー監督の米映画「不屈の男 アンブロークン」。「反日」批判から劇場探しも難航したが、ようやく来年2月、まずは東京で公開されることになった。世界ツアーなどを重ねるミュージシャンのMIYAVIさん(34)が、捕虜に苛烈な態度をとり続けた実在の渡辺睦裕軍曹役をなぜ演じ、批判をどう受け止めたか。ロサンゼルスで語ってもらった。

「受けるつもりはありませんでした」
 2013年5月ごろ、東京の事務所にキャスティングディレクターの奈良橋陽子さんがやって来ました。彼女は映画については触れず、「どういう音楽をしてるんですか」「どんな映画が好きですか」と聞いてきた。「どういう俳優が好きですか」という質問には、ほんとにたまたまなんですが、「アンジェリーナ・ジョリー」と答えた。奈良橋さんはそれでも何も言わず、「英語で何か話してください」と僕の動画を撮影しました。

 出演依頼について聞かされたのはその後です。アンジーはネットで僕の動画も見たようです。

 でも、受けるつもりはありませんでした。まず、自分には演技の経験がない。脚本の内容を聞き、賛否両論を巻き起こす可能性を感じたこともありました。

 アンジーと会ったのはその年の7月。ブラッド・ピット主演「ワールド・ウォーZ」のプロモーションのため、一緒に来日していた。ブラッドはすごく気さくで、部屋に入ってきた瞬間、「WHAT’S MY NAME? WHAT’S MY NAME?」って、僕の曲を口ずさんだんですよ。アンジーをすごくサポートしてました。

 でもその時も、出演は決心していなかった。だけどアンジーが開口一番、こう言ったんです。「ルーイ(ザンペリーニ)の人生を通じて、どれだけ人間が強くあれるか、ゆるせるかというメッセージを届けたい。そのためには軍曹の役が必要。すごくセンシティブだけれども、そこを乗り越えたメッセージを日本の人にも伝えたい」。僕が音楽でやろうとしていることと、すごく近いと思った。

701名無しさん:2015/10/26(月) 22:48:55
>>700

「どのみち誰かがこの役をやるなら、僕が」
 戦争といってもいろんな見方や意見、立場がある。同じ日本軍にも捕虜と一緒に音楽を作ったり、いい関係を作ったりした人たちもいる。その中で、渡辺軍曹がどうであったか。お会いしたことがないので僕たちの描写がすべて正しいとは言えませんが、戦争という、一部を除いて誰も望まない状況の中で、渡辺氏も含め、みんなが葛藤を抱えていたと思う。

 ルーイ自身、本当に苦しい時間を過ごした日本に戻ってきて、地元の人たちや子どもたちと長野五輪の聖火リレーで走り、みんなが笑顔になった。アンジーはこの瞬間にかけて全てを作り上げた。僕もその実際の映像を見て、やる意義があると思った。これを届けるためなら僕は悪役にだってなるし、でもただの悪役ではなく、人間性を含めて演じたいなと思いました。どれだけできるか、不安もありましたが、どのみち誰かがこの役をやるなら、僕が責任をもってやりたいと思いました。

 渡辺謙さんたち日本の俳優を世界に出そうとやってきた奈良橋さんがこの作品に関わっていることも、出演を決めるうえで、すごく大きな判断材料になりました。

「撮影中は、よく瞑想してました」
 撮影中もいろいろ悩みながら、自分なりに、憂いの部分を表情や言葉で出すようにしました。撮影中は、よく瞑想(めいそう)してましたね。

 渡辺氏の手記も読みましたが、彼もお母さんに会いたい気持ちがあった。戦争中も、日本が負けていく中で、恐れがあったと思う。

 ルーイとは米国で会うことができた。渡辺氏と会うことができなかったルーイが、僕と会ってどんな反応をするか、アンジーもプロデューサーもすごくナーバスになっていたんですが、ルーイはほんとに陽気で、一緒に連れて行った僕の娘たちと遊んだりして、チャーミングだった。
 ルーイは「僕は何もいま思っていない。渡辺氏に会いたかったのは、それを伝えたかったためだ。長野五輪の聖火リレーに参加したのもほんとに大事な思い出だ」と話していた。渡辺氏の親族にも伝えてほしい、と言っていた。

 同じ直江津捕虜収容所にいた元米兵にも会いました。彼は戦後、直江津に行っていて、実は日本食が一番好きだそうです。

702名無しさん:2015/10/26(月) 22:49:17
>>701

「『偏った反日映画』とは、まったく思っていない」
 2020年に東京五輪を迎える。同じことを絶対、繰り返しちゃいけない。過去を忘れると、同じことを繰り返してしまいかねないと思う。戦争がいかにむごいか、僕たちに何をもたらすか。この作品は国境を超えた教訓になると僕は思う。日本がダメだという話ではない。

 この作品が「偏った反日映画」だとは、僕は一貫してまったく思っていない。むしろ逆です。原作の記述には異論があり、だから僕は懸念していました。でもアンジーは、映画は原作とは切り離して、ルーイの人生や強さに焦点を当てたいと言った。正直、日本人として見るのは心が痛い部分もありますが、日本が70年、戦争してこなかったことに対して、もっとプライドや自信を持つべきだと思う。あの戦争を乗り越えられているなら、受け入れられるはずだと僕は思う。ルーイも、乗り越えた時に初めてゆるすことができたんだと思う。

 米国の人たち、日本のことが大好きですよ。日本がその後、戦争していないことをみんな知っている。それゆえの敬意がある。日本を嫌いな人に会ったことないですよ。「シンドラーのリスト」を見てドイツを嫌いにならないでしょう。

 一方、この映画に出演したことで、ネットで僕は「反日」だと言われています。オヤジは在日コリアンから日本国籍を取得、母は日本人。つまり僕はハーフコリアンですが、日本人として生まれ、日本人として育ってきた。韓国語はまったくしゃべれないし、サッカーや野球の日韓戦では当たり前に日本を応援してきた。海外でプレーする時も日本人としてやってきた。僕は日本で活動し、ファンもたくさんいる。日本のことを悪く言うだけの映画だったら出るつもりはなかった。

「もうこれからは当たり前に世界の中の日本」
 日本の人たちにもこの作品を見てほしい。今年1月の放送映画批評家協会賞授賞式でも、隣に座っていたアンジーが「ルーイの人生を通して平和のメッセージが届けばいいね」って話していました。

 昨年6月、ロサンゼルスに拠点を移しました。日本向け、世界向け(と分けるの)じゃなくて、もうこれからは当たり前に世界の中の日本。それが音楽家としてあるべき姿だと思う。

 昨年末にNHK紅白歌合戦の出演が終わると、すぐに米ナッシュビルに飛び、(複数のミュージシャンで楽曲を作る)「ライティング・セッション」をやった。放送映画批評家協会賞授賞式では、以前日本で前座をやったことのあるジャレッド・レトに久しぶりに会い、「『アンブロークン』見た。すごいよかったよ〜」と言われました。ニューヨークではクリス・コーネルと会ったりして。米国ではグラミー賞受賞者など歴史を作ってきた人たちと会える機会が多くて、刺激を受ける。音楽家として、そういう環境に自分を置きたかった。

703名無しさん:2015/10/26(月) 22:49:57
>>702

「外のことを知らないと、自分のこともわからなくなる」
 英語を勉強し始めたのは約8年前。それまでアジアや欧州に行ったことはありましたが、通訳を介したコミュニケーションと、直接やりとりするのとでは全然違うと感じた。音楽に言葉はいらないとはいえ、僕はもっともっと勉強したいと思い、当時、音楽活動をいったんやめてロサンゼルスに来ました。

 在米中は発電機を買って、カリフォルニア州のベニスやサンタモニカの海岸沿いでストリートパフォーマンスをやってました。ダンサーの友達を作り、踊ってもらって。ロックやジャズ、ヒップホップ、ポップは西洋の文化。そこから何かを得るには英語が必要だった。その中でアジア人の自分がギターを弾く意味を見つけたかった。

 語学学校に行き、わからない単語はすぐ聞き、友達をいっぱい作った。毎晩勉強しましたが、ほんとに、泣いてました。その時間は本来音楽に費やせるはずなのに、英語という基本スキルがないことへのフラストレーションがあった。今でも、それはある。

 渡米は5歳と4歳の娘たちの教育のためでもあります。これからの時代、ネットと英語は必須。日本語の教育もし、日本文化も大事にしながらですが、世界で当たり前に戦える土壌にいさせてあげたい。外のことを知らないと、自分のこともわからなくなるのではないか。そんな風に思っています。(聞き手・藤えりか)

704名無しさん:2015/11/02(月) 22:57:48
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151031-00000003-sasahi-peo
【秘話発掘】横井庄一さんは殺される寸前だった! 知られざる“元日本兵生還劇”の舞台裏〈dot.〉
dot. 10月31日(土)7時14分配信

 終戦を知らないまま、グアム島に28年間も潜伏し、奇跡的な生還を果たした元日本兵・横井庄一さん(享年82)が生誕して100年。週刊朝日では、現地で横井さんを発見した男性を07年8月に取材している。その際にこの男性は、これまで語られなかった“新事実”を明かしていた。年老いた証言者が見た光景とは--。(週刊朝日2007年8月24日号に掲載した記事をニュースサイト「dot.」編集部が再編集しました。年齢は07年8月当時)

 「恥ずかしながら生きながらえて帰って参りました」

 1972年、28年ぶりに祖国の土を踏んだ元日本兵・横井庄一さんが発した第一声は、あまりにも有名である。

 太平洋戦争の記憶が薄らぎつつあった時代に、日本社会に衝撃を与えた奇跡の生還劇。横井さんが亡くなって10年目の7月末、本誌は横井さんの発見者であるマニュエル・デグラシア氏(74)をグアム島に訪ねて、あらためて発見当時の状況を語ってもらった--。

 1972年1月24日、グアム島南部のタロホホ村に住むデグラシアさんは、義兄と2人の息子と一緒に、タロホホ川付近のジャングルへ鹿狩りに出かけた。夕暮れが近づき、周囲が暗くなりつつあった。

 義兄の後方を歩いていたデグラシアさんは、獲物がいないか辺りをうかがっていた。すると、生い茂った草むらがゴソゴソと揺れているのが見えたという。

「最初は村の猟師仲間だと思いました。左から右に動いた影を見ると、どうも村人ではない。目を凝らして見たら、ヒゲがのび放題でボロボロの服を着た日本人らしき男だったんです」(デグラシアさん)

 グアム島南部では戦後になってからも、旧日本兵が発見されていた。魚を捕るウケを右肩に担ぎ、左手にもうひとつのウケを持って腰をかがめながら歩く日本人らしき男性。その人こそが横井さんだった。

 デグラシアさんは、目の前に現れた横井さんを見ると、大きな声で叫んだ。

 「日本兵だ!」

 突然の出来事に顔を引きつらせた横井さんは、両手を合わせて命乞いをするようなしぐさをした。

 横井さんは当時の状況を、手記『明日への道 全報告グアム島孤独の28年』(文藝春秋)にこう記している。

〈私は無我夢中で目前の現地人に飛びついて銃をひったくりに行きましたが、体力の相違か無念にも押し倒されてしまいました。「ニホンヘイカ」と日本語で尋ねられ、やがて、横にいた何人かが「ツイテコイ」と両側から私を立たせました。で、私は「もうどうでもせよ」という気持で、あとからしょんぼりしょんぼりとついて行きました〉

 だが、デグラシアさんによれば、実際に見た状況と手記の内容は食い違っているという。

「横井さんは体力が衰えていたためでしょうか、ほとんど抵抗しなかった。あまり伝わっていない話ですが、実は私の義兄は横井さんを殴りつけたうえに、射殺しようとして銃の引き金を引こうとしたんです」

 射殺直前--。手記にはこのような記述はいっさい見当たらない。いったい、どういうことなのか。

 デグラシアさんの記憶をもとに、当時の状況を振り返ってみよう。

 デグラシアさんの義兄は横井さんが日本兵だと認識すると、素手で殴りつけて失神させ、殺意に満ちた恐ろしい形相で銃口を向けたという。

 その様子を見て驚いたデグラシアさんは、大声でこう叫んだ。

 「やめろ!」

 一緒にいた息子とともに羽交い締めにして制止しようとしたが、義兄はそれを振り切ってなお、引き金を引こうとした。デグラシアさんは再び叫んだ。

 「彼を殺してしまったら、われわれも殺人者になってしまう!」

 その言葉を聞いた義兄は我に返り、横井さんの射殺を思いとどまったという。

 ここまで横井さんに憎しみをぶつけた理由は何だったのか。残念ながら、義兄は7年前に亡くなったが、デグラシアさんがその心境をこう代弁した。

705名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:07
>>704

●肉親を殺害した日本兵への恨み

 「実は義兄は日本兵をひどく恨んでいた。1950年にジャングルに潜んでいた残留日本兵に弟と甥を殺されていたんです。殺され方もあまりに無残だった。銃殺されたり、ナタのような刃物で切り殺された。肉親を奪われた義兄の怒りはすさまじく、『絶対に犯人を捜し出してやる』とよく言っていたものです。それに2人の遺体は、横井さんを発見した場所の近くで見つかっていたんです」

 事実、横井さんが“容疑者”として疑われていたフシもある。

 グアムの警察当局は発見当初、横井さんが先の2人を殺害した可能性が否定できないとみていたようだ。殺人事件の再捜査を求めるか否か、警察はデグラシアさんの義母に問うてきたというのだ。

 これに対して、義母は警察の申し出を断ったうえでこう語ったという。

「遺体となってしまったが、子供は私のもとに帰ってきた。すでに犯人は許していますので、捜査をやり直す必要はありません」

 義母はカトリック信者として、残留日本兵もまた戦争の被害者で、責めることはできないという慈悲の精神を持っていた--デグラシアさんは義母の心情を代弁している。

 「日本兵も被害者」。日本兵に子供を殺された母親にそう言わせたグアム島の戦争とは、そもそもどんなものだったのか。

 太平洋戦争の主導権を米軍に握られていた1944年。サイパン島を攻略した米軍は7月21日、約5万5千人の兵力でグアム島に上陸した。

 グアム島は戦前、米国領だったが、開戦直後に日本軍に占領されていた。

 だが、6月に米軍はマリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊を壊滅させ、マリアナ諸島の制海権、制空権を奪取した。グアム島に残された約2万人の日本軍守備隊は、援軍や補給のない絶望的な戦いを強いられた。

 日本軍は7月25日、上陸した米軍に対してマンガン山から夜襲による総攻撃を試みるが、米軍の機銃掃射の前に次々に倒れ、3日後には司令官の高品彪中将が戦死する。

 生き残った日本軍は密林地帯に逃れて抵抗を試みるが、8月11日には小畑英良中将が大本営に向けて「己の身を以て、太平洋の防波堤たらん」とした決別の電報を打った後、叉木山(マタグアック)の地下壕で自決する。日本軍の組織的戦闘は終結し、米軍は全島を制圧した。

 日本軍は捕虜になることを厳しく禁じていたため、食料も武器もなく追い詰められた兵士には自決した者も多い。2万人いた日本兵のほとんどが二度と祖国の土を踏むことはなかった。追い詰められた日本兵が、現地住民を虐殺する事件も発生した。
 グアム島在住の日本人男性(50)はこう語る。

「私も30年ぐらい住んでいますが、いまだに高齢者から肉親が日本兵に殺された話を聞くことが多い。日本兵につけられた傷跡を見せてくる人もいます」

 島南部の密林に逃げた兵士のなかには、横井さんもいた。終戦後も投降を拒み続け、28年間、ジャングルのなかで自給自足の生活を続けることになる。

 日本軍が玉砕した叉木山は現在、「南太平洋戦没者慰霊公苑」として整備されている。日米両軍の戦没者を祭る慰霊塔が設置されているほか、敷地内の「平和寺」と書かれた建物には仏像も安置されている。ただ、日本軍兵士の鉄兜などの遺品が一部ガラスケースに展示してあるが、乱雑に置かれ、まったく手入れされていないようだ。

「以前に比べて訪れる人も少なくなってきています。駐グアム米軍が定期的に芝刈りを行っていますが、国営ではないので管理は不十分な状態です」(前出の日本人男性)

 一方、アサン湾の高台には現地住民と米軍の戦没者の追悼碑があった。現地住民は約1万6千人、米軍は約2500人の戦没者の一人ひとりの名前が金属製プレートに刻まれている。ところが、今年7月上旬には、一部のプレートが剥がされ、くず鉄として中国に輸出される事件も発生している。
 戦争の記憶は確実に薄らいできているのだ。

706名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:25
>>705

●一本橋を悠々と渡った横井さん

 横井さんの発見時に話を戻そう。

 デグラシアさんは「不測の事態」に備えて、横井さんを後ろ手に縛り、安全な場所に保護しようとした。

 「発見現場から400メートルほど離れた畑に、私のジープを駐車していました。それに乗せて自宅まで連れていこうと思いました」(デグラシアさん)

 横井さんは空腹を我慢できなかったのか、「食べもの、ある?」と日本語で尋ねてきたという。

 デグラシアさんは、息子が携帯していたパンケーキを横井さんに食べさせた。

「パンケーキは口のなかでパサつくから、一口食べただけで、それ以上は食べなかった。水も飲ませてあげました」(同)

 印象に残っている光景もある。ジープを止めてある場所に行く途中、丸太で作った“一本橋”を渡ったときの出来事だ。デグラシアさんは縛られたままでは横井さんが渡りにくいと思い、縄を解こうとした。

 だが、横井さんは後ろ手のまま、身軽に橋を渡っていった。その姿を見たデグラシアさんは、横井さんの身体能力の高さに驚いたという。

「手を縛られたまま、軽々と渡っていくので、たいへんびっくりしました。現地の人でもこわごわ渡っている橋でしたから」
 横井さんを乗せた車が自宅前に着くと、音を聞きつけた子供たちが家から飛び出してきた。

 「獲物は捕れたの?」と子供たちが目を輝かせて尋ねると、「これが獲物だよ」とデグラシアさんは横井さんを指さした。

 子供たちが不思議そうに見つめながら、「この人、誰なの?」と尋ねると、「名前は知らない」とデグラシアさんは答えたという。

 その後、ロープを切って横井さんを家の中に招き入れた。デグラシアさんは横井さんがおなかを空かしていると思い、家族に食事の支度をするように指示した。

 目の前に出されたのは、牛のテールスープと白米、マカロ(アジに似た魚)のスープなどだった。

「白米はペロッと平らげたけど、テールスープの牛肉は残していました。牛肉は口に合わなかったようですけど、マカロのスープは魚も全部食べました」

 デグラシアさんは、日本兵を捕まえたことを伝えるため、タロホホ村の村長がいる事務所に出向いたが、村長が通夜で不在だったため、場所を教えてもらい、村長の行き先に向かった。

 通夜に出席していた村長を呼び出して、日本兵を保護したことを伝えた。だが、まったく信じてもらえなかったという。

「村長は『ウソだろ』と言って、なかなか信じてくれなかった。私が『本当ですよ』と強く言うと、村長は非常に驚いていました」

 デグラシアさんは、横井さんから事情を聴くため、村長の事務所に連れていった。通訳として、現地住民と結婚した沖縄出身の女性に協力を仰いだ。警察や政府など関係各所に連絡すると、パトカーや白バイが村長の事務所に集結した。

707名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:35
>>706

●「殺害されても仕方ない状況」

 「私は、横井さんが村長の質問に答える様子をそばで見ていた。聞かれた質問には時間をかけて答えていた。自分が置かれた状況を整理できなかったのか、横を向いたり、上を向いたりして、まるで言葉を探しているようだった。困惑した表情も浮かべていた。殺されるのではないかと恐れていたのでしょう」(デグラシアさん)

 確かに、横井さんは警戒心を解いていなかったようだ。このときの状況について、前出の手記ではこう記されている。

〈家の中から日本人らしい人が出てきて日本語で何か訊かれたりしましたが、ハッキリ覚えておりません。そのうえ警官が来て、村の連中も物見に押しかけてきて、部屋中ごった返すなかで調べられました。多少日本語もまじっていたようですが訊かれる意味はろくに分らず、まるで見世物みたいに引き回されている気持でした〉

 横井さんは15年間、タロホホ川流域の洞穴を住み家にしていた。昼間は魚やエビ、ネズミなどを捕獲したほか、ジャングルの植物を口にして飢えをしのいだ。

 現在、横井さんが住んでいた洞穴はどうなっているのか。記者も実際に確認しようと試みたが、現地住民によると、すでに大半が崩落しており、近くに立ち寄ることができず、放置されている状態だという。

 横井さんの妻、美保子さん(79)は、夫が発見された翌年に横井さんと洞穴を見学している。

「当時はまだ縦穴が残っている状態で、下まで下りることができました。ですが、横穴は天井がすでに崩れており、奥まで行くことができませんでした。内部はたいへん蒸し暑いうえに息苦しかったことを覚えています。こんなところで生活していたなんて、信じることができませんでした」

 ところで、美保子さんは、横井さんが「銃殺寸前」だったことを知っていたのだろうか。

「いえ、主人からは何も聞いていません。初めてお聞きしました。現地の方は日本軍に対する感情がよくないので、主人が発見された時点で殺されても仕方ない状況だったと考えています。ケガもなく、主人を日本へ無事に帰してくださりたいへん感謝しております」(美保子さん)

 かりに発見者がデグラシアさんでなければ、横井さんが過ごした日本での“第二の人生”はなかったかもしれない。

(金子哲士)

708とはずがたり:2015/11/12(木) 13:43:38
中国にはなぜ「親日派」がいないのか(『橘玲の中国私論』あとがき)
橘玲 | 作家
2015年3月16日 16時11分配信
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tachibanaakira/20150316-00043897/

中国には「知日派」はいても「親日派」はいない。中国で「親日」のレッテルを貼られると、「漢奸」「売国奴」として社会的に抹殺されてしまうからだ。

これには歴史的な経緯がある。

日中戦争が泥沼化し、首都南京を攻略しても終戦のきっかけがつかめないなか、軍部は謀略によって傀儡政権を樹立することを計画する。白羽の矢が立てられたのは国民党の創設メンバーでありながら蒋介石と対立していた汪兆銘で、参謀本部第八(俗称「謀略」)課長影佐禎昭(かげささだあき)らが工作の中心となった。

1938年7月、汪兆銘の密使として極秘裏に日本を訪れた国民党政府の外交官、高宗武に対し、陸軍大臣、板垣征四郎は「日本は従来の因縁によって、どうしても蒋介石とは両立せぬ、もし蒋に代わって汪兆銘が出るならば、条件を寛大にし,、十分面子を立てるようにして、決して漢奸に終らしめることをしない」と約束した。

日本の敗戦によって、南京の傀儡政府も崩壊した。汪兆銘は終戦直前に病死していたが、その後を継いだ陳公博ら政権要人の亡命を日本政府は受け入れた。だが「戦勝国」である中国国民党政府から彼らの逮捕・送還を要求されると、政府と外務省はパニックに陥った。

外務省の決めた対応策は、「日本政府が信義をおろそかにするものではないことを力説する」としながらも、「結論的に日本政府の公式的な意見は、これを述べることなく、逆に陳主席の意向を引き出し、その次第によってあらためて処置を考える」というものだった。陳公博らの亡命工作を指導した小川哲雄(南京政府軍事顧問兼経済顧問補佐)はこれについて、「要約すれば、日本側から、中国に帰ってくださいとは、とうてい言えないが、帰ってもらえば助かる。何とか主席の面子を傷つけることなく、帰国の雰囲気に話をもってゆきたいということである。誠に虫のよい話。もはや正面きった信義論などどこかに吹き飛んで、厳しい現実に立った妥協が全面に出てきた」と述べている(劉傑『漢奸裁判』中公新書)。

日本に居場所のなくなった陳公博は中国に帰国し、ただちに処刑された。南京政府首相・汪兆銘は、敵国・金と和解するために愛国の英雄、岳飛を処刑した南宋の宰相、秦檜(しんかい)と並び、中国の歴史上最悪の漢奸となり果てた。日本の政治家や官僚は保身のために平然と「信義」を捨て、彼らを見殺しにしたのだ――こうして「親日」と「売国奴」は等号で結ばれることになった。

日本の保守派には中国の歴史認識や反日教育を批判するひとが多いが、元をただせばそこにはすべて理由がある。彼らがときに異常なまでに激高するのは、日本が侵略者であるかぎり、中国側の主張に理があることがわかっているからだろう。理屈で説得できなければ、あとは相手を恫喝するほかはない。

709名無しさん:2015/11/12(木) 22:59:20
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151111-00000002-sundaym-pol
<サンデー時評>日本しか発信できないもの 核めぐる2人の語り部物語
mainichibooks.com 11月11日(水)11時39分配信

 ◇倉重篤郎のサンデー時評 連載75

しつこいようだが、ラグビーワールドカップの感動が続いている。理由はエディー・ジョーンズ前ヘッドコーチ命名の「ジャパンウェイ」という戦略にあるような気がする。

 日本人の体格には不適とされたアングロサクソン好みのラグビーの世界でも、俊敏さ、体力、技術、チーム力、真面目さといった日本的特質を強化するニッポン方式によって、十分に国際水準に到達することができる、その新鮮な発見が、あらゆるところで驚きと共感を広げているのではないか。

 もちろん、単なる日本回帰ではない。体力・健康管理に最先端の技術を使い、世界から一流のコーチを呼び、チームも外国出身選手を多数起用した多国籍的構成であった。国際化と日本化を同時追求し、国際インフラの活用で日本的特質を深掘りしたことが、選手たちの潜在能力をコアコンピタンス(他にマネのできない核となる能力)にまで高めあげたわけである。

 この鮮やかなお手並みには脱帽だ。商売柄、日本政治にもジャパンウェイの可能性を模索したい。今週は、そんな覚悟や使命感を持って発信しようとしている2人の語り部について語りたい。いずれも、発信の中身は、核にまつわるものである。すなわち、前者は「ヒロシマ、ナガサキ」であり、後者は「フクシマ」である。

 1人目は柴田優呼(ゆうこ)さん。朝日新聞記者を経て中国、米国で学位を取得、現在はニュージーランド・オタゴ大の助教授(日本文学専攻)だ。彼女は近著『"ヒロシマ・ナガサキ"被爆神話を解体する――隠蔽(いんぺい)されてきた日米共犯関係の原点』(作品社)で以下の問題を提起した。

 日本は戦後70年を機に原爆の語られ方(言説)をいま一度見直すべきである。

 なぜならば、従来の言説は、米軍占領期の言論統制下でスタート、いまだに「永久敗戦」たる日本と、「永久勝戦」たる米国との間のいびつな日米関係に縛られており、本来その被爆体験が世界史的、人類的に共有すべき衝撃、意義に見合う言説となりえていない。

710名無しさん:2015/11/12(木) 22:59:51
>>709

 ◇被爆体験と原発事故 核の倫理的抑止力を世界に向けて語れ

 例えば、原爆「投下」という表現。原爆による「攻撃」、「原爆を落とされた」といった表現を避け、「投下」という機械的で中立的な表現にすり替わった。

 被爆の語られ方も然(しか)り。放射能汚染被害の深刻さは十分な言及が行われてこなかった。柴田さんは、その典型的事例として、被爆ルポの原典ともいわれるジョン・ハーシー『ヒロシマ』(1946年『ニューヨーカー』誌掲載)をやり玉に挙げ、空爆前後の落差を詳報することで爆発の威力は印象付けられているが、長期的被害や放射能の影響はわずかにしか語っておらず、あたかも自然災害的な一過性の出来事の如(ごと)く描かれている、と指摘。また、ハーシー本がひな型化し、原民喜、峠三吉ら被爆作家の作品は国際的に認知度が低い、という。

 そして、被爆体験を矮小(わいしよう)化する言説を被爆神話と呼ぶとすれば、それを作り上げてきた責任はまぎれもなく日米両国にある。米国は原爆を正当化するため、日本はその米国の姿勢を結果的にサポートしたために。それは被爆体験の隠蔽であり、大きな犠牲の対価として本来人類が知るべきことを知らせなかった罪における共犯者だという。

 この共犯関係を解消しよう。被爆体験者がいなくなる前に、米国に遠慮せずに体験の真相を語り、国際社会の言論に介入し、交渉、説得すべき時である。日本にしかできない貢献の一つだという。

 2人目は、菅直人氏である。

 2011年に首相を退陣して、はや4年。この間、外遊15回。米国、欧州、台湾、韓国の反原発市民団体から呼ばれ講演、あるいは、各国の原発や最終処分場などを視察して回った。日本国内よりも外国での存在感の方があるようだ。史上最大級の過酷な事故に遭遇し、行政トップとしてその収束作業に当たった人物は、世界を見渡してもそんなにいない。あえて言えば、スリーマイルのカーターとチェルノブイリのゴルバチョフか。

711名無しさん:2015/11/12(木) 23:00:20
>>710

 3・11についてはこう語る。原子炉が立て続けにメルトダウンした際には、首都圏も含め半径250キロが避難区域化、5000万人が避難しなければならない、というシミュレーションが出て、戒厳令に近い強権の発動と、皇室や国家機関の避難まで検討した。日本一国で5000万人もの難民問題が生じる可能性が出てくるほどの事態だったのだ、というと欧米の聴衆は鋭い関心を向けてくる。

「今世紀中に原発はなくなります」とも説く。その理由として、コスト高という経済原則、原発なしでもこの2年間電気不足はなかったという実績、再生可能エネルギーの充実、司法の変化(地裁での原発運転差し止め判決)を挙げた。実際に、菅氏が海外に赴いた15回のうち、3カ所(米サンディエゴと韓国・古里で廃炉、台湾で建設凍結)で変化があった。

 柴田さんの「日米共犯」説には強く同調したい。そもそも核という最終兵器の軍事的抑止力を支えるものは何か。広島、長崎が立証したその恐るべき破壊力と非人道性が独裁者に対してすらその使用を躊躇(ちゆうちよ)させるという倫理的抑止力とはいえないか。その意味では、世界で一つしかない日本の被爆体験の希少さを我々はもっと大事にし、自分のものとして、国際問題解決のために有効に使うべきだろう。そこにはジャパンウェイのあるべき一つの姿が見えてくる。

 菅直人氏の脱原発伝道師としての国際的な仕事ももっと注目されていい。原発推進派には目の上のたん瘤(こぶ)であろうが、日本にしかない体験を臨場感と証拠をもってここまで発信できる人はいない。小泉純一郎、細川護熙両元首相と連動できればもっと強力なジャパンウェイになると思うが、いかがか。

712名無しさん:2015/11/15(日) 11:52:09
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151114-00010001-tokyofm-life
もしも、お相撲さんの頭に「まげ」がなかったら……
TOKYO FM+ 11月14日(土)12時0分配信

ちょんまげ・月代(さかやき)が当たり前だった江戸時代から明治に入り、何といっても変わったのは「髪型」。そんな髪型の変化で影響を受けた、ある職業の話を紹介します。


人々の生活を大きく変えた明治維新。
そんな明治を表わす言葉に「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
というものがあります。
散切り頭……そう、明治時代、「断髪令」が政府から布告されました。
正確には「散髪脱刀令」。
ちょんまげと、刀を持つことをやめさせる令です。

一般庶民が次々と髪を切っていくなか、困っている人々がいました。
そう、力士たちです。
髷(まげ)があってこその力士……切るわけにはいかない。
ですが、政府の命令は絶対。一体どうすればいいのか悩んでいたのです。

明治時代、相撲は「江戸の名残りの庶民文化」として、低俗だと思われる節がありました。
髷を結ったまま行うなど、新しい時代にふさわしくない……
一時は存続の危機すらあったのです。
そんな危機を救ったのは、2人の人物。
明治天皇と、大久保利通です。

明治天皇は、大の相撲好きでした。
なんと、自分自身も相撲を取り、あの山岡鉄舟と組み合ったこともあったとか。
力士隊長と言われた伊藤博文とも、
何度も相撲を取ったのだそう。

明治に入り、断髪令とともに「裸体禁止令」が出されました。
力士たちがそれを拒否することにより、
罰金や、むち打ちの刑など、辛い目にあっていたなか、
救いの手を差し伸べたのが大久保利通。
「大相撲だけは髷を残したい。伝統を大切にして力士にだけは髷を残しましょう」
そう、明治天皇に手紙を書いたのでした。

相撲好きだった明治天皇はこれを受け、承諾。
もし、このやりとりがなかったら、
お相撲さんの頭には髷がなく、洋服を着て闘っていたかもしれません。
いえ、もしかしたら相撲という文化すら残ることが難しかったかもしれませんね。

江戸の時代から庶民に愛され、今や国技となった「相撲」。
たくさんの人物に支えられ、私たちも楽しむことができるのですね。

(TOKYO FMの番組「シンクロのシティ」6月3日放送より)

文/岡本清香

713名無しさん:2015/11/16(月) 23:54:11
日本は中国とは違う、西欧に一目置かせた伊能忠敬
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151116-00045273-jbpressz-bus_all

714名無しさん:2015/11/17(火) 22:34:39
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151117-00000019-pseven-life
「明治維新を全否定」の歴史本 会津地方で大ベストセラーに
NEWS ポストセブン 11月17日(火)16時0分配信

「吉田松陰は山県有朋が創った虚像である!」
「久坂玄端は天皇拉致未遂犯である!」
「勝海舟は裏切り者である!」
「長州藩はテロリスト集団である!」

 このように、新聞広告にはなんとも刺激的な惹句が並ぶ。日本を近代化に導いたと教えられてきた明治維新を全否定する歴史書が、ベストセラーになっている。ヒットの背景を探ってみると、やはりあの“遺恨”があった。

 歴史書としては異例の5万部を超えるヒットとなっているのは、「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」のサブタイトルを冠した『明治維新という過ち』。出版元・毎日ワンズの松藤竹二郎社長がいう。

「立花隆氏が週刊文春、斎藤美奈子氏が週刊朝日の書評で取り上げて話題になりました。ただし、読みもしないで新聞広告を見ただけで抗議をしてくる人も多いんです」

 著者の原田伊織氏は69歳で、作家のほかクリエイティブディレクターとしても活躍する人物。なぜこんな刺激的な歴史本を書こうと思い立ったのか。

「子供の頃から、自国の歴史を否定する風潮に疑問を感じていました。洋の東西を問わず、戦争に勝った方が自分たちに都合のいいように歴史書を書く。ただし、どの国も戦後100年も経てば必ず当時を検証するものです。ところが明治維新後に生きた日本人はその検証をやってこなかった。そこで明治時代以降の歴史を一冊にまとめておくべきだと思ったのです」

 なかでも原田氏が鋭い筆鋒を向けているのが吉田松陰である。一部を抜粋する。

〈松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の中でも特に過激な若者の一人に過ぎない。(中略)今風にいえば、東京から遠く離れた地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である〉

〈思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっちあげた虚像である〉

〈松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである〉

715名無しさん:2015/11/17(火) 22:35:07
>>714

 そして〈長州閥の支配する帝国陸軍を中核勢力として、松陰の主張した通り(中略)軍事進出して国家を滅ぼした〉と原田氏は主張するのだ。他にも、久坂玄瑞を天皇拉致未遂犯として糾弾し、勝海舟を〈長州・薩摩に幕府を売った張本人〉と指弾するなど、維新の志士、英傑たちをなで斬りにしている。

◆幼稚園のお遊戯は「白虎隊」

『明治維新という過ち』はある地方で突出して売れているという。長州と遺恨の深い福島・会津である。

「会津若松市の方からの反響はもの凄く、『よくぞ書いてくれた』という激励の言葉をたくさんいただいた」(原田氏)

「『長州テロリスト』の言葉を見て、即買った」(48歳会社員)という人も珍しくないようで、同市内では100冊以上売れた書店もあるという。

 明治維新において、会津藩は長州藩・薩摩藩を中心とする新政府軍から「賊軍」の汚名を着せられ、徹底的な弾圧を受けた。会津戦争では「白虎隊の悲劇」に代表される数多くの犠牲者を出し、しかも新政府軍が犠牲者の埋葬を禁じたため、会津の人々は家族の遺体が野に晒され、鳥や獣に食い散らかされる悲惨な状況を目の当たりにしたとされる。

 この時の遺恨は150年経った今も消えていない。2007年、山口県出身の安倍晋三首相が会津若松市を訪れて「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語り、2011年7月には東日本大震災の義援金などへの謝意を伝えるため会津若松市長が萩市を訪れたが、市長は「和解とか仲直りという話ではない」と語った。

 歴代の会津若松市長が和解を拒否してきたのは、市民レベルで“反長州”が根強い証左でもある。

「幼稚園のお遊戯会の出し物といえば、白虎隊の剣舞。ラストシーンでは刀を抜いて、お友達と刺し違えて倒れるんです。それが当たり前と思って育ってきたので、長州に対して敵対意識が芽生えるのは当然ですよ」(会津在住・50歳会社員)

「亡くなった祖母の口癖は『薩長から嫁はもらうな』。社内の県人会では年配の先輩たちが酔っぱらって『薩長の首を取れ!』とわめくのが恒例になっている」(会津出身・35歳会社員)

 なかには、「会津を通る国道が“49号線”という縁起の悪い数字なのは長州の嫌がらせ」(会津在住・58歳公務員)と真顔で語る人もいる。会津の人たちが同書を読んで溜飲を下げたのは当然かもしれない。

※週刊ポスト2015年11月27日・12月4日号

716名無しさん:2015/11/17(火) 22:39:16
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151117-00010010-agora-soci
日本軍の最大の罪 『毛沢東』 --- 池田 信夫
アゴラ 11月17日(火)18時31分配信

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)
遠藤 誉
新潮社
★★★★★

中韓との歴史論争は、80年代以降の現象である。韓国では全斗煥、中国では江沢民が初めて「歴史問題」を外交の場に持ち出した。特に重要なのは後者である。江沢民の父は汪兆銘政権(日本の傀儡政権)の幹部であり、それを隠すために「反日」の姿勢を強調したのだ。

毛沢東は、日本に対して歴史問題を持ち出さなかった。なぜなら彼も汪兆銘の協力者だったからだ。彼は日本を恨むどころか、戦後に何度も「日本軍が国民党を倒したことに感謝する。日本軍がいなかったら、われわれは政権を取れなかった」と公言している。

毛沢東の主要な敵は蒋介石であり、彼を倒して政権を取るために日本と協力し、国民党軍の内部情報を日本軍に通報した。その拠点になったのが、北京にあった「岩井公館」で、毛沢東の指令で岩井と連絡を取っていたスパイが潘漢年だった。

毛沢東はソ連の支援を受けていたが、中共軍は貧弱で、国民党との内戦で劣勢だった。しかし国民党の内部情報を得ていた毛沢東は、張学良を使って1936年に西安事件で「国共合作」させた。このとき毛沢東は「日本軍に対して団結する」と宣伝し、中共軍は全滅をまぬがれたのだ。

翌年から始まった日中戦争では、国民党軍が南京や重慶で消耗戦を強いられていたとき、毛沢東は延安に逃げ、汪兆銘を通じて日本軍と蒋介石を倒す交渉をしていた。中共のスパイが、国民党の軍事拠点の位置や作戦計画を日本軍に通報した記録が残っている。

だから毛沢東は「南京大虐殺」に一度も言及したことはない。敗戦で日本軍が投降すると、その装備を奪って国民党軍と戦い、蒋介石を台湾に追放した。そして対日工作を行なったスパイをすべて抹殺・投獄し、口を封じた。

毛沢東は日本軍と戦って勝ったとは思っていないので、日本に賠償も求めなかった。9月3日の「抗日戦争勝利記念日」を盛大に祝ったのは、習近平が初めてだ。日本軍の最大の罪は、国共内戦で(結果的に)共産党を支援して毛沢東に政権を取らせたことであり、それは今も世界情勢に大きな影響を与えている。

池田 信夫

717とはずがたり:2015/12/20(日) 21:50:47
「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」って?
http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2013/06/post-266.php
2013年06月29日(土)16時10分

「海を渡ったオキュパイド・ジャパン」という、ちょっと興味深い展覧会が開かれている(於:六本木ヒルズ森タワー49階/アカデミーヒルズ入口の展示スペース)。

 オキュパイド・ジャパン(Occupied Japan)とは、第2次大戦後の「占領下日本」のこと。民間貿易が再開された1947年から、サンフランシスコ講和条約が発効した52年まで、日本からの輸出品には「MADE IN OCCUPIED JAPAN」の刻印を付けるようGHQ(連合国最高司令官総司令部)から命じられていた。

718名無しさん:2015/12/23(水) 09:25:27
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015122300084
自民歴史勉強会、コメントせず=米国務省

 【ワシントン時事】米国務省のトルドー報道部長は22日の記者会見で、自民党が日本の近現代史に関する勉強会の初会合を開いたことについて「コメントはない。日本政府に問い合わせてほしい」と述べた。米政府としては議論の推移を注視する構えとみられる。
 会見では極東国際軍事裁判(東京裁判)が取り上げられる可能性を指摘する質問も出たが、報道部長は「(第2次)世界大戦中に起きたことについて私たちには私たちの見解がある。しかし、今回の動きは日本の政権の動きであり、論じるつもりはない」と語った。 (2015/12/23-07:40)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015122200879
「侵略否定」なら反対=記憶遺産の選定過程見直し-中国

 【北京時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産をめぐり、日本が選定過程の見直しを求めている問題で、中国外務省の洪磊・副報道局長は22日、日本を念頭に「(見直し問題を)政治化しようとし、侵略の歴史を否定・美化する目的があるなら、国際社会は断固反対する」との見方を示した。
 中国が申請した「南京事件」の関連資料が記憶遺産に登録されたことを受け、日本政府は選定過程の透明性確保などをユネスコに要求。ユネスコは複数国が関係する申請案件について、関係国間の事前協議を求める方向で検討しているが、洪副局長は「加盟国の希望を十分に反映すべきだ」と訴えた。 (2015/12/22-20:05)

719名無しさん:2015/12/25(金) 06:17:59
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151225/k10010352391000.html
「ロン・ヤス」関係の原点 外交文書で明らかに
12月25日 5時27分

中曽根元総理大臣は、自民党の総裁予備選挙に立候補していた1982年11月、アメリカの政府高官と会談し、「総理大臣に選ばれた場合には、翌年1月にもアメリカを訪問したい」と伝えていたことが、外務省が公開した外交文書で明らかになりました。当時、外務省は、貿易摩擦で両国関係が悪化していたため、訪問には入念な準備が必要だとしていましたが、就任直後のアメリカ訪問という中曽根氏の強い意向が、のちに「ロン・ヤス」と愛称で呼び合う関係の原点となりました。
これは、当時の中曽根総理大臣のアメリカ訪問に関する情報を記録した外交文書で明らかになりました。
それによりますと、1982年11月18日、自民党の総裁予備選挙に立候補していた中曽根氏が、日本を訪問していたアメリカ政府高官と会談し、「総理大臣に選ばれた場合には、翌年1月にもアメリカを訪問したい」と伝えていたということです。
その直後に総理大臣に就任した中曽根氏のアメリカ訪問を巡っては、当初、外務省が、貿易摩擦で日米両国の関係が悪化していたため、入念な準備が必要だとして、1983年の4月末から5月初めの大型連休を利用した訪問を、「ほとんど唯一の実行可能な案」として検討していました。
しかし、結果的に中曽根氏の強い意向を受けて、総理大臣就任直後の1月18日に、アメリカでレーガン大統領との初めての首脳会談が実現し、のちに「ロン・ヤス」と愛称で呼び合う関係の原点となりました。
また、外交文書では、中曽根氏が日米首脳会談の1か月前の1982年12月18日、大河原駐米大使に、首脳会談に臨む姿勢として、「レーガン大統領と『レッツ・ゴー』の精神で意気投合したい。信頼関係を強化し、日米関係の円滑化を図りたい」と述べていたことや、当時、課題となっていた日本からアメリカへの武器技術の供与について、「自分が決断すればいいことなので、いけると考える。国会が止まることも覚悟して対処する」と述べていたことも明らかになりました。
日米外交史が専門の東洋英和女学院大学の増田弘教授は「中曽根氏は、いち早くトップどうしで信頼関係を築くことが日米関係にとって極めて重要だと考えており、中曽根氏自身の対米戦略や外交方針が文書の中に色こく出ている」と話しています。

720名無しさん:2015/12/31(木) 09:43:49
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http://www.jiji.com/jc/zc?g=&k=201507%2F2015072800658
妥協の産物、歴史は評価=姜尚中・東大名誉教授に聞く-日韓正常化【戦後70年】

 政治学者の姜尚中氏(東大名誉教授)に1965年調印の日韓基本条約や当時の政治情勢について聞いた。

 -日韓基本条約の評価は。
 あの時代、韓国も日本も(条約に)反対のうねりがあった。今から思うと信じられないくらいだ。一切、過去の問題を閑却したことは、妥協の産物だったのだろう。歴史認識は非常に大きな溝があった。当時の状況をそのまま反映させた。
 それでも国交正常化がなければ、日本も韓国も歴史が大きく変わっていた。基本条約は限界があったにしても歴史的によかったという評価をしている。
 -日韓が接近した背景は。
 やはり米国の要請と、戦前からの人脈が両国関係を結び付けた。くしくも朴槿恵韓国大統領の父(朴正熙元大統領)と安倍晋三首相の祖父(岸信介氏=首相退陣後も日韓国交正常化に尽力=)、この二人の力は大きかった。歴史の因果だ。

 -歴史問題はあやふやにした。
 今に通じるところがあるが、歴史の問題はおそらく、それをやりだしたら、パンドラの箱を開けることになるのではないか。それよりは今ある非常に現実的な問題、共産圏の中国、ソ連、北朝鮮の脅威に対抗し、日本、韓国、台湾の3者が連携することを米国としても望んだ。
 -日韓関係は冷え込んでいる。
 かっこ付きの「正常化」だった。韓国は(民主化宣言した)87年以降大きく変わった。民主化の代償だ。民主化のパラドックスともいうが、今起きているぎくしゃくしている面は、日韓の国民同士の交流が増えたからだ。国内世論が多様で、民主的な価値を持つ社会であればあるほどそうだ。要するに変数が多くなったということだ。
 -かつての韓国は軍事政権で世論を抑え、歴史や賠償の不満を抑えていたということか。
 そう思う。よく中国が民主化されたらいいと言われるが、もっと難しい事態が出てくる。歴史の問題が韓国どころではない形で飛び出してくる可能性がある。 (2015/07/28-16:27)

721名無しさん:2016/01/24(日) 17:09:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date3&k=2016012200867
A級戦犯「犯罪人と言うのは抵抗」=自民・稲田政調会長、東京裁判で発言

 自民党の稲田朋美政調会長は22日、BS朝日のテレビ番組収録で、極東国際軍事裁判(東京裁判)に関し、「国内的にA級戦犯は犯罪人だと言い切ることには抵抗がある」との認識を示した。また、「判決に書かれている連合国のストーリーに『違うことは違う』と言うことはサンフランシスコ講和条約に反していない」と主張した。
 東京裁判の結果に疑義を呈したとも受け取れる稲田氏の発言は、戦勝国の米国などの反発を招く可能性がある。同党が安倍晋三総裁直属の機関で進めている歴史研究にも影響を与えそうだ。
 また、稲田氏は憲法9条について「海外から自衛隊は軍隊と見られている。立憲主義の意味からも空洞化している」と指摘。「自衛権行使を認める(と明確化する内容に)、しっかり変えるべきだ」と改正の必要性を訴えた。 (2016/01/22-19:40)

722名無しさん:2016/01/30(土) 14:55:37
http://www.jiji.com/jc/movie?p=mov611-movie03
零戦、日本の大空に再び=爆音響かせ天高く舞う雄姿-海自鹿屋基地

 「零戦里帰りプロジェクト」を進めるゼロエンタープライズ・ジャパンは27日、零式艦上戦闘機(零戦)のテスト飛行を海上自衛隊鹿屋航空基地で行った。操縦桿(かん)を握ったのは、米国で零戦操縦のライセンスを持ち、NASAのテストパイロットを務めていたスキップ・ホルム氏(72)。大勢の報道陣が見守る中、機体は爆音を響かせ天高く舞い上がり、再び日本の大空でその雄姿を見せた。
 この機体を所有するのは同社取締役でニュージーランド在住の石塚政秀氏(54)。当初、購入するつもりはなかったが、契約者が支払いできず、その保証人になっていたため、肩代わりすることになったという。その代金は3億5000万円。牧場や自宅を手放すなどして費用を捻出し、完済するまで2年を要した。維持費などを含め、既に5億円以上は投じていると話す。
 この零戦は、三菱重工業の小牧工場で1942年後半に製造された零式艦上戦闘機二二型。全長9.06メートル、全幅12メートル、重量1863キロあり、最高時速540.8キロを誇った。大戦中、パプアニューギニアで駐機していた時に攻撃を受け、尾翼が折れた状態にあった。これを78年に米サンタモニカの軍事博物館が回収し、修理した。飛行できる現存の零戦は5機のみ。その1機という貴重な歴史的資産となっている。
 戦後、零戦は2度、日本の空を飛んでいる。その時は米国人が所有する五二型であったが、「日本人が所有する二二型の飛行は戦後初」と石塚氏は話す。
 ホルム氏がエンジンを掛けると、爆音が辺りに響き渡った。テークオフの位置までゆっくりと滑走路を進む零戦。加速していくとふわりと宙に浮き、スムーズに高度を上げていった。基地の上空を優雅に旋回し、その性能の高さを披露した。
 石塚氏は、「飛ばすまでにいろいろなハードルがあり、挫折しかけたこともあった」とこれまでを振り返り、「この飛行機から、若い人たちに日本の歩みを知ってほしい」と零戦への思いを話した。【時事ドットコム編集部撮影】

723名無しさん:2016/02/11(木) 15:25:36
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2016021000492
強制連行「確認できず」=慰安婦、国連で説明へ-日本

 国連女子差別撤廃委員会の対日審査が16日にジュネーブで開かれ、慰安婦問題に関するやりとりも行われる見通しだ。日本政府は事前の答弁書で「政府の調査では軍や政府による慰安婦の『強制連行』は確認できなかった」と回答したが、韓国はこれに反論。審査には杉山晋輔外務審議官が出席し、日本の立場を説明する。
 同委員会は昨年8月、女性に関する問題について22項目から成る質問状を日本政府に送付。この中に慰安婦に関する質問が含まれていた。
 日本は今年1月に提出した答弁書で、慰安婦問題について、昨年12月28日に日韓両政府が「最終的かつ不可逆的な解決」で合意したと説明。関係省庁や米国立公文書館の資料、関係者の聞き取りなどの結果、「強制連行は確認できなかった」と回答した。
 昨年12月の日韓合意は「国連など国際社会において、この問題で互いに非難、批判することを控える」とうたっている。韓国外務省報道官は1月末、答弁書に関し「慰安婦の動員、募集、移送の強制性は否定できない歴史的事実だ」と反論。日本に対して「(日韓)合意の精神、趣旨を損なう言動を控えるよう」求めた。
 一方、日本外務省幹部は、答弁書は「何も新しいことを言っているわけではない」と日韓合意への影響はないとの考えを示し、「合意が実現するよう努力していく」と話している。(2016/02/10-14:17)

724とはずがたり:2016/02/14(日) 18:15:03

隠岐漁民、竹島の岩ノリ製造…不法占拠前から
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160208-OYT1T50149.html?from=yartcl_outbrain1
2016年02月09日 07時48分

 韓国が1952年に李承晩ラインを一方的に設定し、竹島(島根県)の不法占拠を開始するより以前の明治後期から大正期にかけて、隠岐諸島の漁民が竹島で岩ノリを摘み取り、製品化していたことが、島根県竹島資料室の調査でわかった。

 同室は「竹島が隠岐漁民の生活拠点の一つとなっていたことが改めて裏付けられた」としている。

 同室が昨年10、12月に隠岐の島町久見地区で聞き取り調査し、夫の母親から竹島産の岩ノリ製造の話を聞いたという作田アイコさん(83)や、作田さんの息子2人の証言を得た。

 作田さんは「夫の祖父(作田芳吉さん、1878〜1955年)が竹島に行き、岩ノリを摘んだことがある。竹島の岩ノリは大きくて長いので、久見では縄のひもに引っかけて干した」などと証言した。

 また、アシカ漁などを行うために島後に設立された「竹島漁猟合資会社」の「生産品勘定帳」(1911年5月4日)を、元県職員が53年に筆写した写し(県立図書館所蔵)には、竹島からノリ1俵を入荷したことが記載されていた。

 県内は「十六島うっぷるい海苔のり」など、岩ノリの主要産地。なかでも隠岐諸島は高品質な岩ノリで知られ、竹島産もそれらと一緒に、長崎や大阪に出荷されていたという。

 県竹島問題研究顧問の下條正男・拓殖大教授は「日本が竹島を持続的に実効支配していた明確な証拠で、我が国固有の領土であることをさらに補強することになった」と話している。

727名無しさん:2016/02/17(水) 00:16:10
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date1&k=2016021600486
「強制連行確認できず」=慰安婦問題で日本説明-国連委

 【ジュネーブ時事】国連女子差別撤廃委員会の対日審査が16日、ジュネーブの国連欧州本部で行われた。杉山晋輔外務審議官は慰安婦問題について、「日本政府が発見した資料の中には軍や官憲による、いわゆる強制連行を確認できるものはなかった」と説明した。

 政府は1月に委員会の質問に対して提出した答弁書で、既にこうした日本政府の立場を回答。これを受け、韓国外務省報道官が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した2015年12月の日韓合意の精神を損なう言動を控えるよう求めた経緯があり、今回も韓国政府の反発が予想される。
 杉山氏は韓国・済州島で女性を強制連行したという故・吉田清治氏の証言によって、強制連行の見方が流布されたと指摘。この内容が朝日新聞に報道され、国際社会に大きな影響を与えたが、証言は研究者によって「想像の産物」と証明され、朝日新聞も事実関係の誤りを認めていると説明した。 
 一方で、12月の日韓合意について、「両国政府は合意内容を誠実に実行に移すべく取り組んでおり、この点は現時点でも全く変わりない」と強調。両国政府の努力に国際社会の理解を求めた。
 中国の委員は加害者の訴追や首相による被害者への書面での謝罪が必要だと訴えたが、杉山氏は「政府がこの問題について歴史の否定をしているとか、何の処置も取っていないという批判は事実に反すると言わざるを得ない」と指摘した。
 答弁書は慰安婦問題について、関係省庁や米国立公文書館の資料、関係者の聞き取りなどの結果、「強制連行は確認できなかった」と回答。韓国外務省報道官は「慰安婦の動員、募集、移送の強制性は否定できない歴史的事実だ」と反論していた。
 委員会は3月7日に審査の最終見解を示す予定。(2016/02/16-22:06)

728名無しさん:2016/02/20(土) 15:29:42
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2016021700419
「強制性否定できない」=韓国当局者

 【ソウル時事】国連女子差別撤廃委員会の審査で日本政府が慰安婦問題に関して「いわゆる強制連行を確認できるものはなかった」と説明したことに対し、韓国外務省当局者は17日、「強制性は国際社会が既に明確に判定した、否定できない歴史的事実」と反論し、「被害者の証言で裏付けられている」と強調した。 
 当局者はまた、慰安婦問題をめぐる日韓合意の精神や趣旨を損なうような言動を控えるよう日本政府に改めて求めた。(2016/02/17-12:26)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2016021700425
慰安婦像設置に懸念=中曽根日米議連会長

 日米議員連盟会長の中曽根弘文元外相らは17日、米民主党のダイアナ・デゲット下院議員ら米議員団と東京都内で会談した。中曽根氏は米国内で慰安婦像を設置する動きがあることについて、「慎重に対応してほしい。米国の日系人、韓国系社会など、地域のコミュニティーを分断する恐れがある」と懸念を示した。これに対し米側は直接には答えず、「慰安婦問題は過去の問題で、もう解決したという認識だ。未来に向かうべきだ」と述べるにとどめた。(2016/02/17-12:37)

729名無しさん:2016/02/20(土) 15:31:03
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2016021900174
英政府、昭和天皇崩御で対応苦慮=参列者選定「慎重に」-外交文書

 【ロンドン時事】昭和天皇崩御に当たり、英政府が対日関係と国民感情のはざまで対応に苦慮していた様子が、19日に解禁された英外交文書で明らかになった。第2次大戦の歴史を踏まえ、欧米で微妙な評価を受けていた昭和天皇をめぐる「弔問外交」の舞台裏を浮き彫りにした。
 文書は崩御前の1988年9月29日付で、サッチャー政権の閣議内容が記録されている。闘病中だった天皇について、担当者は「容体は深刻で、死は目前に迫っている」と報告。崩御は「日本における一時代の終わりを示唆する」ものの、「日本の政策に重要な影響を及ぼす可能性は低い」との見解を示した。
 閣僚らはその上で、来る葬儀に向けた対応を協議。対日関係は重要である一方、第2次大戦中の日本の行為と戦争捕虜への処遇をめぐり、英国民の間に依然「強い(否定的な)感情」があることから、参列者の選定は「相当に慎重になる必要がある」との考えで一致した。
 89年2月の大喪の礼に英国から参列したのは、エリザベス女王の夫フィリップ殿下とハウ外相ら。当時の資料によると、高位の代表派遣に英国内では元捕虜らから抗議の声が上がったという。(2016/02/19-09:15)

730名無しさん:2016/02/20(土) 15:31:44
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&rel=j7&k=2016022000144
沖縄に核配備、機密扱いせず=写真も公開-米政府

 【ワシントン時事】米政府は、沖縄に1972年の日本復帰まで核兵器を配備していた事実を機密扱いすることを取りやめた。ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館が19日、国防総省による機密指定解除の動きを指摘し、併せて沖縄に配備された核兵器の写真を紹介した。

 国防総省はサイト上で、「1972年5月15日の沖縄の日本復帰前に、米国の核兵器が沖縄に配備されていた事実」の機密指定を解くと表明した。ただ、米統治下の沖縄への核配備は、これまでに公開された公文書から既に明らかになっている。 

 同大学が提示した写真は計3枚。うち2枚は62年10月に嘉手納基地で行われた武器装着の技量を試す競技会で撮影され、「マーク7」「マーク28」と呼ばれる核爆弾と、装着準備に当たる米兵らの姿が写っている。残る1枚は、地下施設の核巡航ミサイル「メースB」を捉えた。
 いずれも空軍が90年に公開したが、爆弾やミサイルの名称が記載されているだけであるため、誰も重要性に気付かなかったもようだという。(2016/02/20-11:58)

731名無しさん:2016/02/21(日) 22:45:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160221/k10010417241000.html
北方領土発言にロシア「歴史的事実わい曲」と反発
2月21日 21時21分

ロシア外務省は、北方領土問題を巡って、日本の外務省の幹部が「第2次世界大戦の結果がすべて清算されたわけではない」と発言したことについて、歴史的な事実をわい曲したものだと主張して反発しました。
北方領土問題を巡って、外務省欧州局の相木俊宏参事官が、ロシアの通信社に対して「日ロ間では、第2次世界大戦の結果がすべて清算されたわけではない」と述べたことを受けて、ロシア外務省は20日、コメントを発表しました。
この中で「日本は降伏文書に調印して、ソビエトへの行動に対するすべての責任を負った」とする見解を示しました。
さらに「日本は、1951年のサンフランシスコ平和条約で、千島列島などを放棄した。ソビエトは、この条約に署名しなかったが、日本の義務には影響しない」と主張し、北方四島は、放棄した千島列島には含まれないとする日本の立場に反論しました。
そのうえで「日本側は歴史的な事実の恣意(しい)的で、わい曲した解釈を公開の場で展開した」として、相木参事官の発言に反発しました。
日ロ間では、4月中旬にラブロフ外相の訪日と安倍総理大臣のロシア訪問の調整が進められていますが、これを前にロシア側は「先の大戦の結果、北方領土はロシア領になった」とする自国の立場を改めて強調したものとみられます。

732とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:01
優秀な人間が『老害』になる理由とは?歴史に学ぶ「慢心」
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E5%84%AA%E7%A7%80%E3%81%AA%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%8C%E3%80%8E%E8%80%81%E5%AE%B3%E3%80%8F%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%90%86%E7%94%B1%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%80%8C%E6%85%A2%E5%BF%83%E3%80%8D/ar-BBpTDRm#page=2
ダイヤモンド・オンライン
神野正史
1時間前

優秀な人間が『老害』になる理由とは?歴史に学ぶ「慢心」: 「優秀であるがために、老害化する」。そのメカニズムとは?c diamond 「優秀であるがために、老害化する」。そのメカニズムとは?
「優秀な人間ほど、その優秀さゆえに、老害化してしまう」。この歴史的事実をどう思いますか?世界史5000年の歴史から生まれた「15の成功法則」を記した『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

2つの「顔」を持つ男
 フィリップ・ペタンという人物をご存知でしょうか。彼は第一次世界大戦において、ドイツの猛攻に屈しそうになったフランスをその魔の手から救った「救国の英雄」として、少なくともフランスでは知らぬ者とていない超有名人です。

 そして同時に、第二次世界大戦において、ドイツの侵寇を前にして、あっさり祖国をドイツに売り渡した「売国奴」としても有名です。

 同じひとりの人物なのに、これほど正反対な顔をもつ人も珍しい。第一次大戦後、あれほど国民から喝采を受けた彼が、それから四半世紀後には死刑判決を受けるほど、国民から憎まれるようになってしまったのはなぜでしょうか。

くすぶっていた男が、どんどん出世できた理由
 彼は、第一次世界大戦が勃発したころ、すでに58歳でした。退役寸前であったにもかかわらず、大佐どまりで、決して期待された軍人ではありませんでした。

 それは彼が無能だったからというわけではなく、ちょうど彼が軍人として脂の乗りきったころに大きな戦がなく、その才を発揮する場がなかったためです。フィリップ・ペタンは、その点、時代に恵まれず、ここまでくすぶっていました。

 しかし、ここで第一次世界大戦が勃発。当時のフランス参謀本部の「積極的攻撃論」がことごとく裏目に出、ドイツ軍は破竹の勢いでフランス北東部を次々と占領していきます。祖国はあっという間に存亡の機!

 このとき、「積極的攻撃論」にひとり異を唱えていたペタンに耳目が集まります。

「そういえば、あのペタンという男だけが「攻撃論」に反対していたっけな」

 最初からあの男の作戦を採っていればこんな状態じゃなかったかも。こうして注目を浴びたペタンは、どんどん出世していき、またその期待に応えて戦果を挙げていきます。「陽」が当たるようになった途端、まさに“水を得た魚”。

兵法の「基本精神」とは?
 そんなとき、ドイツ軍によって包囲されていたヴェルダン要塞が陥落寸前になります。ヴェルダンといえば、フランスの都パリの“絶対防衛線”。ここが敵の手に陥ちてしまえば、あとはパリまでドイツ軍を防ぐものは何もありません。ドイツ軍は、何もなき野を往くが如く、パリに迫るでしょう。つまり、ヴェルダンの陥落は即ち、パリの陥落を意味し、そしてそれはフランスの滅亡を意味します。

733とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:11

 そんな状況化で、ペタンが参謀部からヴェルダン総司令官を拝命したとき、彼は自信満々に宣言しています。「決して敵は通しませぬ! ご安心あれ!」

 彼の採用した作戦は「縦深(じゅうしん)陣地戦術」。

 これは彼が編み出したオリジナル新戦法というわけではなく、「マラトンの戦い」や「カンネーの戦い」、はたまた「三帝会戦」などなど、古くから使い古された戦術とその根本に流れる精神は同じものです。

1、まず、わざと敵に弱点をさらし、敵にその弱点を攻撃させ、2、防御地点を突破されても、あまり抵抗せず、むしろわざと兵を退かせる。3、調子に乗った敵軍がさらに押してきても、敵軍の包囲態勢づくりに尽力する。4、敵軍が気付いたときには前後左右からの包囲が完成しており、潰滅する。

 どんなに時代が移り変わり、兵器が近代化し、戦術が変わったように見えても、兵法の基本精神は変わりなく通用するものです。ペタン将軍は、この戦法でついにドイツ軍の猛攻に耐えきり、これを撃退することに成功します。

栄光の落日
 その結果、ドイツ軍はまもなく降伏し、大戦はようやく幕を下ろしました。この八面六臂の活躍により、大戦勃発の時点では「大佐」だった彼は、戦後、陸軍最高位の「元帥」にまで昇り詰めます。

 国民からは「ヴェルダンの英雄」と讃えられ、どこへ行っても喝采を浴び、独身だった彼は、なんと64にして父娘ほど歳の離れた女性(42)と結婚。

 まさに“我が世の春”を謳歌します。もう歳も歳ですし、このまま満ち足りた豊かな老後生活の中で天寿を全うするかに思われました。

 しかし、ここから彼の転落が始まります。

 一線を退いたあとは隠居でもしていればこんなことにはならなかったのでしょうが、その後も「陸軍最高顧問」という肩書を得て、陸軍の方針に口を挟み続けたのが、のちに彼の人生を狂わせます。

同じ相手に、同じ手は通用しない。
 彼は、自分の成功体験から、独仏国境に強大な要塞建設を支持しました。所謂「マジノ線」です。時代は常に進んでおり、特に手痛い敗北を喫した側は、死に物狂いで敗因を研究し尽くし、対策を練るものです。

 今回勝てたからといって、同じ手で同じ相手に臨むならば、必ずや手痛い敗北を喫することになります。勝ったればこそ、より一層研究を尽くして、相手の対策の上を行く戦略をあらかじめ練っておかなければなりません。「勝って兜の緒を締めよ」とはこのことです。ところが、すでに老境に入っていたペタンにはこうしたことがまったく理解できませんでした。

 人間は歳を取れば取るほど、新しいものを受け容れる能力が衰え、過去の古いやり方がそのまま未来にも通用すると思い込んでしまいがちです。それが「老害」です。

 要塞さえあれば、たとえ将来ドイツ軍が津波の如く攻め寄せようとも、縦深陣地戦術で敵を破ることができる!

734とはずがたり:2016/02/24(水) 12:45:31
>>732-734
 同じ手が通用するのは、敵がよほどのマヌケの場合だけです。しかも、要塞というものは、爆撃機が存在しない時代の遺物です。空から雨あられと空襲を受けたのでは、要塞は護り切れるものではありません。ペタンはそうした時代の動きが見えない“老害”そのものとなっていきましたが、イメージ先行の国民はペタンに期待し続けるという悲劇が生まれていました。

そして売国奴へ
 やがて、第二次世界大戦が勃発します。軍事予算の多くを傾けて造りあげたマジノ線は何の役にも立たず、ドイツ軍はあっという間に英仏連合軍を駆逐しながら、首都パリまで快進撃しました。「嗚呼、もう駄目か!? なんのなんの、ドイツ軍など恐るるに足らず!こっちにはまだ『救国の英雄』ペタン将軍がおられるのだ!」

 こうして、英雄(ペタン)が担ぎ出されます。しかし、このときすでに84歳となっていた彼には、ヒトラーと戦う戦術もなく、気力すら残されていませんでした。

 20年前、“救国の英雄”だったペタンは、そのころ名もなき敗軍の伍長にすぎなかったヒトラーの前にあっけなくその膝を突くことになりました。ペタンは戦後、「売国奴」として裁判にかけられたときに述べています。

「ヴェルダンの功によって、私の軍事的精神は鎖されてしまった。戦後、新しい道具、新しい兵器、新しい戦術が次々と発明され、導入されていったにもかかわらず、私はそれに無関心だったのだ」

 彼が19世紀の軍事知識のまま、20世紀の新しい戦争に対応できず、「時代に取り残された」故の悲劇でした。

 しかし、彼の場合、第一次大戦終了時にすでに老齢でしたので、それ自体は責めることは酷かもしれません。

 彼の罪深きは、先進の精神を失ったこと自体ではなく、それを自覚できず、いつまでも新時代に口を挟んだことです。

老いては「子」に従え
 たとえ若いころどんなに優秀だったとしても、人は老いれば、多かれ少なかれ頭が固くなり、時代に取り残され、古いやり方に固執するものです。

 それは、「常に状況の変化に応じて、臨機応変に対応する」ことができなくなることを意味します。

 したがって、彼は事後のことは潔く後進に譲るべきでした。ペタンは、死刑判決を受けたあと、当時の大統領ド・ゴールによって罪一等を減じられ、無期禁固刑に減刑されます。

 そして、死刑判決から5年後。彼は流刑地の孤島で淋しく人生を終えました。享年95。彼が道を踏み誤ることなく、後進に道を譲っていれば、豊かで充実した余生を送り、現在に至るまで「英雄」として讃えられ続けたでしょうに。

735とはずがたり:2016/02/25(木) 21:16:37

こんな組織があったのか。

軍事参議院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2

軍事参議院(ぐんじさんぎいん)とは、大日本帝国において、帷握の下に在って重要軍務につき天皇の諮詢に応じる国家機関である。1903年(明治36年)に設置され、1945年(昭和20年)に廃止された。
軍事参議院は、天皇の諮詢を待って、参議会を開き、意見を上奏するものとされて、独自に活動することを禁じられた。なお、陸海軍互に相関繋しない事項については陸軍または海軍のみの参議官を以って参議会を開くことが認められていた。

というか,この声明出したのこの組織の協議の結果だったのか。。

事態の収束を図るために軍事参議官も非公式に会議を開き、次の陸軍大臣告示(昭和11年2月26日)が発せられた。
陸軍大臣告示(昭和11年2月26日)
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現(弊風ヲ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依リ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之レ以上ハ一ニ大御心ニ待ツ

736名無しさん:2016/03/19(土) 15:34:38
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2016031600745
沖縄の苦難忘れず=菅官房長官

 菅義偉官房長官は16日午後の記者会見で、太平洋戦争末期の沖縄戦で犠牲になった住民の遺族らによる損害賠償請求が棄却されたことについて、「国の主張が認められた」とした上で、「沖縄が先の大戦で悲惨な地上戦を経験したという苦難の歴史を私たちは忘れてはならない」と述べた。(2016/03/16-17:11)

737名無しさん:2016/03/19(土) 15:54:29
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2016031800401
「歴史的事実を歪曲」と非難=慰安婦記述縮小とも-日本の教科書検定に韓国

 【ソウル時事】韓国教育省報道官は18日、日本の文部科学省の高校教科書検定結果に関する声明を発表し、「歴史的事実を歪曲(わいきょく)し、独島(竹島)に対する不当な主張が盛り込まれた教科書が合格した」と非難した。その上で「根本的な是正」を求めた。
 声明は「独島は歴史的、地理的、国際法的に韓国の固有の領土だ」と強調。さらに、従軍慰安婦問題に関し「軍の関与を削除したり、記述を縮小したりした教科書が合格した」と主張、「深い失望と遺憾」を表明した。(2016/03/18-12:21)

738名無しさん:2016/03/20(日) 15:03:15
>行政も政治も関与できない検定制度
この言葉の「政治」は議会を指しているのか?

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160319/k10010449461000.html
検定教科書 文科相が韓国に理解求める
3月19日 21時05分

馳文部科学大臣は記者団に対し、検定で合格した高校の教科書に島根県の竹島など領土を巡る記述が増え、韓国が反発していることについて、教科書作成の指針に沿った結果だとしたうえで、韓国の担当大臣との会合の場などで理解を求めていく考えを示しました。
来年4月から使われる高校の教科書の検定では、おととし改訂された教科書作成の指針に基づき、「現代社会」などの教科書で、竹島など領土を巡る記述がこれまでの1.6倍に増え、韓国外務省が「われわれの固有の領土に対する日本の不当な主張は嘆かわしく、直ちに訂正することを求める」などとする声明を出すなど、反発しています。
これについて馳文部科学大臣は、愛知県みよし市で記者団に対し、「行政も政治も関与できない検定制度となっており、基準に従って検定を通過した教科書だと報告を受けている」と述べ、教科書作成の指針に沿った結果だという認識を示しました。
そのうえで、馳大臣は「ことしは初めて日中韓教育大臣会合を開催し、お互いに率直な意見交換をすることができた。教育に関する案件については、ひざを交えて意見交換していきたい」と述べ、韓国の担当大臣との会合の場などで理解を求めていく考えを示しました。

739とはずがたり:2016/03/25(金) 09:18:15
虐殺が有ったのか無かったのか,有ったなら何人なのか何十万人なのか,を論じるのは不毛になるけど,この程度の認識が中国人にあれば議論できるんじゃないの!?
>中国軍は南京攻防戦でも日本側とほぼ同数の11万の兵力を擁していたが、わずか5日で壊滅・潰走と指摘。そのため「捕虜多数が虐殺された」と主張し、「中国人は日本軍の大虐殺を非難するが、守備軍が民を守る上で無能だったことも避けては通れない」と主張した。

中国はなぜ、日本への戦争賠償を放棄したのか 答:コテンパンに負けていたからだ=中国メディア(編者解説付)
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20160322/Searchina_20160322130.html
サーチナ 2016年3月22日 22時15分 (2016年3月25日 00時01分 更新)

 中国語ニュースサイト鳳凰網は22日、「中国は戦後なぜ、日本から戦争賠償を獲得できず、最終的に放棄したのか?」と題する文章を掲載した。鳳凰網は衛星テレビ局のフェニックステレビ(鳳凰衛視)系列のニュースサイト。フェニックステレビは香港に拠点を置くが、論調は中国大陸寄りで経営者も人民解放軍出身であることなどから、事実上の中国メディアと理解してよい。

 文章は、日中戦争勃発当時の中国を「分裂状態の落ちこぼれの農業国」、日本を「工業強国」と形容。中国はさらに、政府の腐敗が著しい「病弱国」だったと論じた。

 中国軍は南京攻防戦でも日本側とほぼ同数の11万の兵力を擁していたが、わずか5日で壊滅・潰走と指摘。そのため「捕虜多数が虐殺された」と主張し、「中国人は日本軍の大虐殺を非難するが、守備軍が民を守る上で無能だったことも避けては通れない」と主張した。

 終戦間際にも、日本軍は太平洋戦線では追い詰められていたが、「中国戦線では依然として極めて優勢だった」と指摘。例として、1944年から45年の大陸打通作戦で、国民党軍が総崩れになったことを挙げた。そのため日本人の多くが戦後、「(日本は)米国に敗れたのだ」と考えたことになったと指摘した。

 文章は、戦争を説明する資料に「誇張や歪曲があってはならない」と指摘。国力を示す数字として、開戦当時の日本の鉄鋼年産量は580万トンで、中国は4万トンにも満たなかったと紹介した。…

さらに米国は年産8000万トン以上であり、「中国は戦勝国としての待遇を得られず、他の同盟国に見くびられた原因は、きちんと定量分析して理解せねばならない」と主張した。

 中国が日本から戦争関連の賠償を得られなかった理由については、米国が単独で日本を屈服させたことを認識する必要があると主張。米国は1948年に対日賠償を最終放棄したので、「ソ連も英国も中国(国民党政府)も放棄せざるをえなくなった」との見方を示した。

 さらに、中華人民共和国が1972年に日本と国交を樹立した際にも、(中華民国が日本に対する賠償を放棄したという)事実に変更を加えることは難しく、承認せざるをえなかったと論じた。

**********

◆解説◆
 中華人民共和国は、1949年の同国の成立にともない、中国の正統政府は「中華民国から中華人民共和国に代わった」と認識している。つまり、中華人民共和国は中華民国の後継国家だ。

 後継国家は基本的に、それまでの国家(政府)の権利や資産を継承する(負の遺産も継承する)。従って中華人民共和国は、中華民国が第二次世界大戦の結果とした諸成果を引き継ぐと主張している。上記記事は、「中華民国が日本に戦争賠償を求められる立場にはなかった」と主張した。つまり、毛沢東や周恩来が日本に戦争賠償を要求しなかったのは「好意」からでなく、「要求できる立場になかった」との理屈になる。(編集担当:如月隼人)

740名無しさん:2016/03/26(土) 18:09:04
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date4&k=2016032300155
大統領の広島訪問「検討中」=式典出席の米国務次官

 【ワシントン、ハバナ時事】米国務省のゴットメラー国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)は22日、ワシントン市内で記者団と懇談し、オバマ大統領が伊勢志摩サミット(5月26〜27日)に合わせて被爆地の広島を訪れる可能性について「ホワイトハウスで検討されている。推測はしない」と語った。
 ゴットメラー次官は昨年8月、ケネディ駐日大使と共に広島、長崎の式典に出席した。次官は記者団に対し「大統領は広島を訪問できれば光栄だと語っている。いつ、どのように実現するかは彼が決めること」と話した。
 一方、複数の米政府高官は取材に対し、「ケリー国務長官が4月に広島を訪問し、その反響を見るまで大統領訪問の可否を決めることはない」と述べた。米国内では原爆投下に肯定的な意見が根強く、大統領の訪問は退役軍人らの反発を招く恐れもある。(2016/03/23-09:16)

741名無しさん:2016/03/26(土) 22:26:45
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date1&k=2016032600123
米英仏外相、平和公園で献花へ=政府、オバマ氏の訪問期待

 先進7カ国(G7)外相が、4月10〜11日に広島市で開かれる外相会合に合わせて平和記念公園を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花することが26日、固まった。核保有国である米英仏外相の訪問は初めてで、被爆地から核軍縮・不拡散に向けたメッセージを発信する。政府内では、ケリー米国務長官に続き、オバマ米大統領の広島入りへの期待が高まっている。
 G7外相会合は、ベルギーの連続テロを受けた国際テロ対策や欧州の難民流入問題への対応が主要議題になる見通し。議長役の岸田文雄外相=衆院広島1区=は核軍縮に力を入れており、各国外相に「被爆の実相を見てほしい」と平和公園訪問を要請していた。被爆の惨状を伝える同公園内の資料館も視察する方向だ。(2016/03/26-14:24)

742名無しさん:2016/03/27(日) 08:16:59
http://www.jiji.com/jc/zc?g=pol&k=201510%2F2015101700040
現代の日本人「責任なし」=前原氏に全人代副委員長-中国

 【北京時事】中国の吉炳軒全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員会副委員長は16日、訪中した民主党の前原誠司元外相と会談し、先の大戦に関し「過去の出来事は歴史上の人々が責任を取るべきであり、現代を生きるわれわれが責任を負うべきではない」と述べた上で、歴史から教訓を学ぶことが重要との考えを強調した。
 歴史認識を取り上げながらも、改善基調にある日中関係に配慮した発言とみられる。
 前原氏によると、吉副委員長は「中国は決して現在の日本人が責任を取ることを望んでいるわけではない。中国側の望みは、歴史を直視し正しい態度で過去の歴史を二度と繰り返さないようにしてもらうことだ」と語った。 
 習近平国家主席は9月の「抗日戦勝70年」のレセプションで「あの(戦争の)時代以降に生まれた人たちも、正しい歴史観を堅持し、歴史の教訓を心に刻まなければならない」と発言。戦後70年談話で「私たちの子や孫、その先の子どもたちに謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」とした安倍晋三首相を暗にけん制している。(2015/10/17-06:11)

743名無しさん:2016/04/02(土) 17:38:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016033000846&g=pol
「慰安婦問題、収束を」=村山元首相が岸田外相に

 岸田文雄外相は30日、村山富市元首相と外務省で会談し、昨年末の慰安婦問題をめぐる日韓合意について意見交換した。村山氏は席上、「せっかく合意したのだから、いろいろな困難があるだろうが、ぜひ成功させてほしい」と述べ、合意の着実な履行に期待を示した。その上で「慰安婦の問題は、いいかげんにけじめをつけて収まるようにしてほしい」と要請した。(2016/03/30-19:30)

744名無しさん:2016/04/02(土) 20:53:50
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016033100383&g=pol
慰安婦合意の精神尊重を=安倍首相と対話継続期待-韓国大統領

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領は、米ブルームバーグ通信との書面インタビューで、日本政府に対し、昨年末の慰安婦問題をめぐる合意の精神を尊重するよう求めた。韓国大統領府が31日、発言内容を公表した。
 また、「歴史を直視し、過去の過ちを忘れずに、将来の世代に対する正しい教育に努めなければならない」と強調した。歴史教科書の検定などを念頭に置いた発言とみられる。
 朴大統領は、安倍晋三首相との間で、首脳会談や電話会談を通じて意思疎通を図っており、「こうした基調が続くよう期待している」と述べた。(2016/03/31-11:51)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040100230&g=pol
米大統領「最後の訪日、いろいろ努力」=広島訪問に期待の声

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は31日、ワシントンでの安倍晋三首相との会談で、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に関し「大統領として日本を訪問する最後の機会だ。いろいろな意味で日米関係がさらに良くなる努力をすることを考えていきたい」と述べた。同席した萩生田光一官房副長官が記者団に明らかにした。
 大統領の発言について、日本政府内では、被爆地、広島訪問が念頭にあるのではないかと期待する声が出ている。ただ、萩生田氏は「広島について(会談で)個別・具体的なやりとりはなかった」と説明した。(2016/04/01-09:17)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040200049&g=pol
国務長官の広島訪問発表=米

 【ワシントン時事】米国務省は1日、ケリー国務長官が広島市を訪問し、10〜11日に開かれる先進7カ国(G7)外相会合に出席すると正式に発表した。訪日に先立つ6〜8日にはバーレーンのマナマを訪れ、湾岸協力会議(GCC)閣僚会合に参加する。(2016/04/02-06:03)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040200231&g=pol
G7外相、平和公園訪問へ=広島原爆資料館も視察

 広島市で開かれる先進7カ国(G7)外相会合2日目の11日、各国外相が平和記念公園を訪れ、被爆の惨状を伝える広島平和記念資料館(原爆資料館)を視察することが決まった。岸田文雄外相が2日、同市内で記者団に明らかにした。核保有国である米英仏の現職外相が同公園を訪れるのは初めて。
 各国外相はこの際、原爆死没者慰霊碑に献花する。岸田氏は外相会合の広島開催に当たり、同公園を訪問するよう各国に要請していた。岸田氏は記者団に「世界の指導者に被爆地を訪問してもらい、被爆の実相に触れてもらうことは、核兵器のない世界を目指す国際的な機運を盛り上げる上で大変重要だ」と語った。(2016/04/02-18:24)

745名無しさん:2016/04/03(日) 00:17:47
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160402/k10010465921000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001
G7外相 広島の平和公園そろって訪問へ
4月2日 18時05分
岸田外務大臣は、今月、広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合の際に、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスをはじめ各国の外相が、そろって広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することを明らかにしました。
G7の外相会合は、今月10日から2日間の日程で広島市で開かれ、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスの外相が、初めて、被爆地を訪問します。
これについて、岸田外務大臣は広島市で記者団に対し、「世界の指導者に、被爆地を訪問して被爆の実相に触れてもらうことは、『核兵器のない世界』を目指す国際的な機運を盛り上げるうえで、大変、重要なことだ」と述べました。
そのうえで、岸田大臣は、外相会合の2日目の今月11日に、各国の外相がそろって広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することを明らかにしました。
第2次世界大戦で広島に原爆を投下したアメリカの現職の国務長官が、被爆地の慰霊の行事に出席するのは、初めてのことになります。
また、岸田大臣は、「今回の外相会合は、被爆地で初めて開催されるので、核兵器国と非核兵器国がともに参加するG7として、核軍縮や核不拡散に関する明確なメッセージを打ち出すことが大切だ」と述べ、外相会合の共同声明とは別に、核軍縮への今後の取り組みの在り方などをまとめた「広島宣言」という文書を発表する方針を明らかにしました。
「被爆者の生の声 聞いてほしい」
G7外相会合の際に、各国外相が広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに原爆資料館を訪問することについて、3歳のときに広島市で被爆し、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会で全国理事を務める箕牧智之さん(74)は「主要7か国の外相がそろって原爆資料館などを訪問すると聞き、とてもうれしい。資料館で被爆者の遺品や写真などを見ることで、71年前の原爆の実相に触れ、『核兵器があるから世界は安全だ』という考えを改める機会にしてほしい」と述べました。
そのうえで、「忙しい日程を割いて資料館などの訪問を調整したのだと思うが、各国の外相にはぜひ被爆者にも会い、生の声を聞いてもらう機会ができたらいいと思う」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160331/k10010463471000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_042
韓国大統領「歴史問題が日韓関係発展の障害に」
3月31日 19時07分
韓国のパク・クネ(朴槿恵)大統領は、アメリカ・メディアとのインタビューで、日韓関係について、北朝鮮への対応など多くの利害を共有する重要なパートナーだとする一方で、「歴史の問題が両国関係の発展の障害になっている」と述べ、歴史認識の問題で日本は韓国に配慮すべきだという考えを示しました。
核セキュリティーサミットに出席するためワシントンを訪れているパク・クネ大統領は、アメリカの大手メディア、ブルームバーグの書面インタビューに応じました。
この中でパク大統領は、日韓関係について、「両国は北の核問題のような安全保障の課題など、多くの利害を共有する重要なパートナーだ」と述べました。その一方で、「歴史の問題が未来志向の両国関係の発展に引き続き障害となっている」としたうえで、「日本政府は昨年末妥結した慰安婦問題の合意の精神を尊重し、未来の世代に対する正しい教育に努力しなければならない」と述べ、歴史認識の問題について、韓国に配慮すべきだという考えを示しました。
日韓両政府は、昨年の慰安婦問題での合意の際、この問題を巡って国際社会で、互いに非難・批判することを控えることを確認していますが、韓国国内では合意への批判が根強いうえ、日本の高校の教科書で、島根県の竹島について、日本固有の領土であることについての記述が増えたことなどへの反発も強く、こうした発言に及んだものとみられます。

746名無しさん:2016/04/03(日) 09:50:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040200318&g=pol
松井広島市長「極めて意義深い」=湯崎知事も歓迎-G7外相平和公園訪問

 広島市で開かれる先進7カ国(G7)外相会合で、各国外相が11日に平和記念公園や平和記念資料館を訪問すると岸田文雄外相が明らかにしたことを受け、広島市の松井一実市長は2日、「極めて意義深い」とするコメントを発表した。この中で「核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向け、ゆるぎない決意を固めてほしい」と訴えた。
 広島県の湯崎英彦知事も2日、コメントで歓迎の意を表すとともに「(外相訪問が)G7サミット参加国首脳の被爆地訪問につながるよう、引き続き働き掛けたい」との考えを表明した。(2016/04/02-21:28)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160403/k10010466081000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_004
G7外相会合で「広島宣言」 各国と調整
4月3日 4時28分
政府は、来週、広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合で、核軍縮への今後の取り組みの在り方などをまとめた「広島宣言」を発表するため各国と調整を続けており、「核兵器の非人道性」など日本の主張をどこまで盛り込めるかが焦点になっています。
G7の外相会合は来週10日から2日間の日程で広島市で開かれ、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスの外相が、初めて被爆地を訪問します。
これについて岸田外務大臣は2日、広島市で記者団に対し「世界の指導者に、被爆地を訪問して被爆の実相に触れてもらうことは、『核兵器のない世界』を目指す国際的な機運を盛り上げるうえで、大変重要なことだ」と述べました。
そのうえで岸田大臣は、外相会合の2日目の今月11日に、各国の外相がそろって、広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することを明らかにしました。特に、第2次世界大戦で広島に原爆を投下したアメリカの現職の国務長官が被爆地の慰霊の行事に出席するのは、初めてのことになります。
政府は外相会合の際に、G7の議長国として、テロ対策や、中東や東アジアの地域情勢など、協議の成果を盛り込んだ共同声明を採択することにしています。
そして、これとは別に、核軍縮への今後の取り組みの在り方などをまとめた「広島宣言」という文書を発表することにしています。広島宣言では、日本が主張している、「核兵器の非人道性」や、核保有国がどれだけの核兵器を保有しているかを明らかにする、「核兵器の透明性」などについて、どこまで盛り込めるかが焦点となっており、政府は、外相会合の協議が終了するぎりぎりまで各国と詰めの調整を続けることにしています。

747名無しさん:2016/04/04(月) 23:16:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040400301&g=pol
広島から平和メッセージ=菅官房長官

 菅義偉官房長官は4日午前の記者会見で、先進7カ国(G7)外相会合が10日から広島市で開かれることについて、「広島の地から核兵器のない世界に向けて、力強い平和のメッセージを発信したい」と強調した。「北朝鮮や海洋安全保障といった地域の問題についてG7で揺るぎない対応を示したい」とも語った。(2016/04/04-12:10)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160404/k10010467101000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_007
米 国務長官「広島 平和公園の訪問は重要」
4月4日 14時51分
岸田外務大臣は、アメリカのケリー国務長官と電話で会談し、来週、広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合の際に、そろって平和公園を訪れることは「喜ばしい」と謝意を表したのに対し、ケリー長官は「訪問は重要だ」と応じました。
来週、広島市で開かれるG7の外相会合では、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスをはじめ、各国の外相がそろって広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することになっています。
こうしたなか岸田外務大臣は、アメリカのケリー国務長官と、4日午前8時半すぎからおよそ15分間電話で会談しました。
この中で岸田大臣は、「広島から、G7外相による力強いメッセージを出せるよう引き続き連携したい。ケリー長官を含むG7各国の外相とともに広島の平和公園を訪問できることは喜ばしい」と述べ、謝意を表しました。これに対しケリー長官は、「自分にとって初めての広島訪問であり、楽しみにしている。平和公園の訪問は重要だ」と応じました。
また両外相は、G7外相会合の成功に向けて日米両国で引き続き連携していくことを改めて確認するとともに、気候変動問題など、地球規模の課題に両国で協力して対応していくことで一致しました。

748とはずがたり:2016/04/05(火) 14:03:33
ポーランド排除の理由は??
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E4%BC%91%E6%88%A6%E5%8D%94%E5%AE%9Aに拠ると,ポーランドとチェコスロバキアの指名は共産側,スイスとスウェーデンは国連側(詰まり西側)の指名だったそうだからポーランドの共産政権崩壊と関係ありそうだけど,自由選挙は1989年だったみたいだし,仮にソ連圏からの離脱があったとしてもNSCCがわざわざポーランドを除外する事はないよな。

2016年 04月 4日 08:12 JST 関連トピックス: トップニュース
アングル:非武装地帯のカウベル、朝鮮「休戦監視」の最前線
http://jp.reuters.com/article/korea-dmz-idJPKCN0X0020?sp=true

[板門店(韓国) 1日 ロイター] - 厳重に防備が固められた朝鮮半島の軍事境界線。松の木やバラの茂みに囲まれた小さな食堂では、ステーキとアスパラガスのランチが提供されている。そこから一歩出れば、鳥の鳴き声がプロパガンダをがなり立てる北朝鮮の拡声器と張り合っている。

「ここは非武装地帯(DMZ)で一番のレストランだ」と、中立国監視委員会(NNSC)のスウェーデン師団を率いるマッツ・エングマン少将は語る。NNSCは、平和条約の代わりに休戦を維持するため、朝鮮戦争(1950─53年)後に設けられた。

当初は、北朝鮮側の代表としてポーランドと旧チェコスロバキアを含む4カ国で構成された委員会だったが、北朝鮮からわずか数メートルの場所に50年代に造られた兵舎には現在、スウェーデンとスイスだけが残っている。

50年代半ばには200人ほどが駐留していたが、現在はスウェーデンとスイスの将校がそれぞれ5人ずついるだけだ。

NNSCは毎週、非武装地帯内の境界をまたぐ兵舎でミーティングを行い、木箱を使って議事録を北朝鮮側と共有している。

「1995年5月以降、彼らは箱を空にしたことはない。存在しない団体からは書簡を受け取れないというのが彼らの言い分だ」と、今週3500回目のミーティングで議長を務めたスイスのウルス・ゲルバー少将は言う。

木箱があふれないように、NNSCは数カ月に一度は空にするという。

米国との平和条約をずっと求めてきた北朝鮮は、休戦が「長いこと機能せず」、NNSCは「歴史のなかで忘れ去られている」と主張する。

朝鮮戦争を終わらせた休戦協定において、孤立する北朝鮮と裕福な民主主義の国である韓国は、厳密にはいまだに戦争状態にある。

749とはずがたり:2016/04/05(火) 14:03:54
>>748-749
<ゴースト団体>

北朝鮮は1995年にNNSCがポーランドを除外してから同団体を認めなくなった。その2年前には、スロバキアとチェコに分裂したのを機に、チェコスロバキアも外していた。

「彼らはわれわれをゴースト団体と呼ぶ」とゲルバー氏は語る。

朝鮮半島で唯一独立した軍事機関であるNNSCは冷戦後、毎年恒例の米韓軍事合同演習を監視する中立的なオブザーバーとして自らを変革した。同演習をめぐっては、北朝鮮は攻撃準備だと抗議する一方、米国・韓国側は防衛のためだとしている。

スイスとスウェーデンの将校たちは、定期的な査察を行うことで、こうした演習が休戦に違反しないよう目を光らせている。

NNSCはまた、韓国軍の前線に赴き、休戦について講義を行うなど教育プログラムも実施している。そして、NNSCが従うのはスウェーデンやスイス、米国の政府ではない。

「平和条約もしくは戦争だけが、われわれの任務を終わらせる」と、ゲルバー氏は話す。

<森林に響く地雷音>

鮮やかな赤色のスイス兵舎にはビリヤード台があり、カウベルが飾られている。一方、スウェーデン兵舎には暖炉やバイキングのヘルメットがある。

板門店が一触即発の緊張状態となる以前の1970年代初めごろは、北朝鮮軍の高官がスイス兵舎のバーを訪れることも時折あったという。

「まるでリゾート地のようだ。素晴らしいし、静かで、空気も新鮮だ」と、冒頭のスウェーデン代表団のエングマン空軍少将は語る。

だが、休日のキャンプのような雰囲気が生み出しかねない気の緩みを警戒してか、NNSCのメンバーは境界フェンスの向こうに潜む危険に対し厳戒態勢をとり続けている。北朝鮮政府が休戦を守っているかを確認できる独立した機関は他に存在しない。

北朝鮮の深い森のなかから、シカやイノシシが地雷を踏んだ音が聞こえてくる夜もある。

今年に入り最も騒がしかったのは、北朝鮮が国連決議を無視して1月に4度目の核実験を実施した後、韓国が流したスピーカー放送に対抗した北朝鮮のプロパガンダ放送だったという。

「いら立たしかった。眠れないなんていうレベルではない。耳栓が必要な夜もあった」と、エングマン氏は当時をこう振り返った。

(James Pearson記者 翻訳:伊藤典子 編集:下郡美紀)

750とはずがたり:2016/04/05(火) 14:12:45
やはり北朝鮮が主体的に─NSCCが能動的にではなく─チェコとポーランドのNATOの加盟で北朝鮮がその中立性を失ったと判断して構成国から追放した(expelled 〜 component)と云う事だな。
delegation 派遣団・troop 一団

もはや北朝鮮を監視出来なくなったポーランドだが会合には出席を続けているそうな。既に実質的に機能してないのにこんなのに派遣される軍人は貧乏くじだなぁ。。

Neutral Nations Supervisory Commission
https://en.wikipedia.org/wiki/Neutral_Nations_Supervisory_Commission
From Wikipedia, the free encyclopedia

Following the collapse of communism leading to Czechoslovakia and Poland joining NATO, and the dissolution of Czechoslovakia into the Czech Republic and Slovakia in 1993, North Korea believed the NNSC had lost its neutrality, and took the view that the NNSC had collapsed.[10] North Korea expelled the Czech component in 1993 and the Polish component in 1995.[11][12]

Since 1995 North Korea has not recognized the existence of the NNSC.[12] The Swedish and Swiss delegations continue to submit reports on South Korean troop movements to North Korea, which are ignored.[13] Poland continues to attend NNSC meetings, although it is no longer able to observe troop movements in North Korea.[14]

751名無しさん:2016/04/05(火) 23:18:11
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040500611&g=pol
慰安婦合意、履行に準備必要=韓国

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は5日の記者会見で、昨年末に日韓が合意した元慰安婦を支援するための財団設立に関し、「合意の円滑な履行のため、必要な準備を十分に行うことが重要だ」と述べるにとどめ、設立時期について言及を避けた。報道官は「できるだけ早く財団を通じて被害者の名誉と尊厳が回復し心の傷が癒やされるよう努力する」と語った。(2016/04/05-15:56)

752名無しさん:2016/04/09(土) 17:17:10
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040600098&g=pol
「第2次大戦戦没者を追悼」=長官の広島・平和記念公園訪問-米国務省

 【ワシントン時事】米国務省のトナー副報道官は5日の記者会見で、ケリー国務長官が先進7カ国(G7)外相会合の出席に合わせて広島市の平和記念公園を訪れることについて、「第2次世界大戦の全戦没者を追悼するためであり、オバマ大統領が提唱する『核なき世界』(の重要性を)を強調する意味合いがある」と語った。
 国務省がケリー長官の被爆地訪問の意義に言及したのは初めて。長官は11日、英仏独各国外相らと共に平和記念公園で献花し、広島平和記念資料館を視察する。
 副報道官は、長官が平和記念公園訪問などに関連して講演する計画などは「ない」と述べた。(2016/04/06-07:10)

753名無しさん:2016/04/09(土) 21:02:49
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040900179&g=pol
指導者訪問、「広島宣言」明記へ=G7外相会合、10日に開幕

 5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)関連閣僚会合の第1弾となる先進7カ国(G7)外相会合が10日、2日間の日程で広島市で開幕する。喫緊の国際課題であるテロ対策などに加え、核軍縮への取り組みを討議。11日に発表する「広島宣言」には、世界の指導者による広島、長崎訪問や、核兵器国に透明性向上を促す文言を明記する方向だ。
 11日には核兵器を持つ米英仏の現職外相が初めて市内の平和記念公園を訪れ、他のG7外相とともに「核なき世界」を目指す姿勢を示す。
 議長を務める岸田文雄外相は、被爆地での初の開催となる今回の外相会合を通じ、「停滞する核軍縮をめぐる議論を再起動させたい」と意欲を示す。広島宣言では、核保有国と非保有国の双方が協力し、「現実的かつ実践的な取り組みを積み上げる」重要性を打ち出す。
 また、これとは別に出す共同声明には、フランスやベルギー、トルコなどで相次ぐテロや、欧州で深刻化する難民問題への対応が盛り込まれる。各国はテロ行為を断固として非難、結束して撲滅に取り組む決意を示す見通し。難民問題ではG7各国が固有の事情を超えて、どこまで共同歩調を取れるかも焦点となりそうだ。(2016/04/09-14:29)

754名無しさん:2016/04/10(日) 11:13:32
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160408/k10010471581000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_032
G7外相の平和公園訪問 “被爆の現実 実感に期待”
4月8日 10時35分
岸田外務大臣は、10日から広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合の際に各国の外相がそろって原爆資料館などを訪問することについて、「自分の目や心でさまざまなものを見てもらうことが重要だ」と述べ、被爆の現実に触れてもらうことに期待を示しました。
10日から2日間、広島で開かれるG7の外相会合では、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスをはじめ各国の外相がそろって広島市の平和公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花するとともに、原爆資料館を訪問することになっています。
これについて岸田外務大臣は閣議のあと記者団に対し、「おととし広島市で開かれた非核保有国の外相会合の際、参加国の外相に平和公園を訪れてもらったが、『一生忘れられない思い出になった』などといった感想を口々に言っていた。今回も、それぞれの外相が自分の目や心でさまざまなものを見てもらうことが重要だ」と述べ、各国の外相に被爆の現実に触れてもらうことに期待を示しました。

755名無しさん:2016/04/10(日) 11:39:30
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160410/k10010473641000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_002
G7外相会合 被爆地・広島できょう開幕
4月10日 6時16分
G7=主要7か国の外相会合が10日、広島市で開幕します。議長を務める日本は、被爆地での開催を「核兵器のない世界」を目指す国際的な機運を高めるきっかけにしたい考えで、岸田外務大臣は9日夜、会合終了後に発表する予定の核軍縮に関する「広島宣言」について、G7として力強いメッセージになるという見通しを示しました。
G7外相会合は、来月の伊勢志摩サミットに合わせて全国各地で行われる10の閣僚会合の最初の会合で10日、広島市で開幕します。2日間にわたって行われる外相会合は岸田外務大臣が議長を務め、初日の10日はテロや難民問題など国際的な課題への対応策を巡って意見が交わされる見通しです。
また、8年ぶりにアジアで行われることから、南シナ海での中国の軍事拠点化の動きや、北朝鮮の拉致、核や、ミサイル問題など、アジア地域の懸案についても重点的に議論されるものとみられます。
日本としては、被爆地で初めて開催される今回の会合を、「核兵器のない世界」を目指す国際的な機運を高めるきっかけにしたい考えで、今回の会合の成果の1つとして、会合終了後に核軍縮・不拡散に関する「広島宣言」を発表する方向で調整を進めています。
これに関連して岸田外務大臣は9日夜、カナダのディオン外相と会談し、「広島宣言は、核兵器のない世界に向け、核保有国と非保有国の協力の在り方を世界に示すものだ」と述べ、G7として力強いメッセージになるという見通しを示しました。
11日は、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスをはじめ、各国の外相がそろって、広島市の原爆資料館や原爆慰霊碑などを訪れることにしていて、国際的な核軍縮の動きが停滞するなか、核保有国と非保有国がともに参加するG7として、どのようなメッセージを打ち出せるかが焦点です。
世界の核軍縮 現状は
世界では、核兵器の保有国による軍縮が停滞する一方で、核兵器が拡散する脅威は一段と高まっています。
世界各国が保有する核弾頭の数は1万5000発に上るとされ、その90%以上をアメリカとロシアが保有しています。オバマ大統領は就任早々、「核兵器のない世界」を目指すとして核軍縮に取り組む姿勢を示しましたが、その後、ウクライナ情勢などを巡って米ロ関係は冷え込み、核兵器の削減に向けた動きは停滞しています。また、この間にも核保有国のうち中国が核武装を強化していると指摘されています。
こうしたなか去年開かれた5年に1度のNPT=核拡散防止条約の再検討会議では、核軍縮の遅れにいらだつ国々が核兵器を法的に禁止すべきだと訴えましたが、核保有国が強く抵抗しました。結局、世界の核軍縮の指針ともいえる「最終文書」が採択されないまま会議は閉幕し、核軍縮を巡る厳しい現状が浮き彫りになりました。
一方、核兵器の不拡散を巡っては長年にわたって核兵器開発の疑惑が持たれていたイランが、去年、核開発を大幅に制限するのと引き換えに欧米各国が制裁を解除することで合意に達し、一定の進展が見られました。しかし、NPTからの一方的な脱退を宣言している北朝鮮は、ことし1月、国連安保理の決議を無視して4回目の核実験を強行し、安保理は先月、北朝鮮との貿易を大幅に制限するなどかつてなく厳しい制裁を科す決議を全会一致で採択しました。またNPTに加盟していないインドやパキスタンも核兵器の放棄に応じていないほか、イスラエルも核兵器の保有を続けているとみられています。
さらに、イスラム過激派組織が勢力を伸ばすなか、核兵器や核物質がテロリストの手に渡れば、大惨事につながりかねないという懸念もあり、先月ワシントンで開かれた核セキュリティーサミットでは、各国の首脳が核物質を厳しく管理していく重要性を確認しました。

756名無しさん:2016/04/10(日) 11:39:41
>>755

米国務長官 広島訪問のねらい
10日から広島市で始まるG7=主要7か国の外相会合で、アメリカの閣僚として初めてケリー国務長官が被爆地、広島を訪れることについて、アメリカ政府は「核兵器のない世界を目指すオバマ政権の姿勢を示すものだ」として、核軍縮に向けた機運をいまいちど高めるきっかけとしたい考えです。
核兵器のない世界を理想に掲げるオバマ大統領は、2010年に当時のルース大使をアメリカの駐日大使として初めて広島の平和記念式典に派遣し、その後も、高官による広島や長崎への訪問が続いています。
こうしたなか、G7の外相会合に合わせて今回、ケリー長官が閣僚として初めて広島を訪れることについてアメリカ政府は、自然な流れのなかで訪問を実現できるよい環境だと考えているとみられます。
ただ、アメリカ国内には今も、原爆投下は戦争の早期終結のために必要だったという意見が根強く、アメリカ政府は、今回の訪問が原爆投下の正当性の議論につながることを懸念しています。このため今回の訪問については、過去の原爆投下について議論するものではなく「第2次世界大戦で戦死したすべての人々を追悼するものであり、核兵器のない世界を目指すオバマ政権の姿勢を示すものだ」と強調しています。
残りの任期が1年をきっているオバマ政権としては、今回のケリー長官の広島訪問を通じて、核兵器のない世界という理想は変わっていないことを強調し、核軍縮に向けた機運をいま一度高めたい考えです。
アメリカと原爆
アメリカでは広島と長崎への原爆投下について「戦争の終結を早め、多くのアメリカ兵の命を救った」などとして、正当なものだったという認識が根強くあります。1995年には首都ワシントンにあるスミソニアン博物館が、広島に原爆を落とした「エノラ・ゲイ」や、広島と長崎の被害について展示することを計画しましたが、退役軍人の団体やアメリカ議会などから「日本が戦争の被害者のような印象を与える」などと激しい反発が起き、展示は中止に追い込まれました。
一方で、時間の経過とともに、アメリカ国民の意識は徐々に変化しているという指摘もあります。去年、アメリカのシンクタンクが行った調査では、「原爆投下は正当だった」と答えた人が56%と依然、過半数に達しているものの、15年前と比較すると7ポイント低下したことが明らかになりました。
また、2009年に就任したオバマ大統領は、「核兵器のない世界」を目指す姿勢を打ち出し、核軍縮への機運を高めました。そして、翌年の2010年には、当時のルース大使をアメリカの駐日大使として初めて広島の平和記念式典に派遣しました。ルース大使は長崎の式典にも出席したほか、後任のケネディ大使も広島と長崎の式典に出席するなど、政府高官の訪問が続き、今回、アメリカの閣僚としては初めてとなるケリー国務長官の訪問につながりました。
核軍縮以外の焦点
欧米各国は、フランスのパリやベルギーのブリュッセルで大規模なテロ事件が相次いだことを踏まえて、テロや過激主義への対策を喫緊の課題として話し合いたい考えです。具体的には、シリアやイラクを拠点とする過激派組織IS=イスラミックステートに対する軍事作戦の現状や、テロ組織への資金の流れを断つ方策、さらに内戦が続くシリアの安定化をいかに進めていくかなどテロ対策を包括的に協議するとみられます。
また、アジア太平洋地域の安全保障を重視するアメリカは、中国が南シナ海で軍事的な活動を活発化させている問題についても議論したい考えです。アメリカ政府は、中国の習近平国家主席が去年9月、オバマ大統領との首脳会談のあと、南シナ海を軍事拠点化しないと明言したにもかかわらず中国軍が活動を続けていると不満を強めていて、各国の外相と懸念を共有するねらいがあるとみられます。
このほか、欧米各国は、国連安全保障理事会の決議を無視して、核実験や弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮やウクライナ情勢など地域情勢についても意見を交わしたい考えです。

757名無しさん:2016/04/10(日) 11:40:09
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160409/k10010473321000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
岸田外相 G7外相会合を前に平和公園など視察
4月9日 18時44分
10日から広島市で開かれるG7=主要7か国の外相会合を前に、岸田外務大臣は各国の外相が訪問する平和公園などを視察し、準備の状況を確認しました。
G7外相会合は来月の伊勢志摩サミットを前に、10日から広島市で2日間の日程で開かれ、核保有国のアメリカ、イギリス、フランスの外相が、各国の外相とともに広島市中区の平和公園を初めて訪れます。
これを前に岸田外務大臣は9日、現地を視察し、原爆資料館を訪れた後、平和公園のほぼ中央にある原爆慰霊碑の前で、外務省の担当者から外相たちが献花を行う際の立ち位置や手順について説明を受けました。
続いて岸田大臣は、公園内の広島国際会議場に開設された国際メディアセンターを訪れ、海外メディア向けにセンター内に設置された被爆の実態を伝えるブースなどを視察しました。さらに岸田大臣は、各国の外相が10日に訪れる予定の広島県廿日市市にある、世界遺産の厳島神社も訪れ、神社の担当者らとともに順路や説明の内容を確認していました。
岸田外務大臣は記者団に対し、「会議の内容も含めてまだ調整は続いているので、全力で準備を進めていきたい」と述べ、成功に向けて決意を示しました。

758名無しさん:2016/04/10(日) 14:35:38
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160410/k10010473871000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001
北方領土に関する映画上映 沖縄北方相「関心持って」
4月10日 14時26分
島尻沖縄・北方担当大臣は北海道東部の別海町で北方領土に関するアニメ映画の上映会に出席したあと、記者団に対し、若い世代の人たちの北方領土問題に対する関心を高めることで、早期解決につなげていきたいという考えを示しました。
島尻沖縄・北方担当大臣は10日、北海道東部の別海町を訪れ、北方領土の色丹島で旧ソビエト軍の侵攻を受けて過酷な生活を送った日本人家族の姿などを描いたアニメ映画「ジョバンニの島」の上映会に参加しました。
政府は今年度の予算で、「ジョバンニの島」の上映会の回数を増やそうと、映画の使用料の政府負担分を拡充していて、上映会には地元の小学生や中学生など、およそ100人が参加しました。
このあと島尻大臣は記者団に対し、「若い人たちに正しい歴史認識を伝えていくことは大事だ。約70年前に何があったのか関心を持ってもらいたい」と述べ、早期解決につなげていきたいという考えを示しました。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041000069&g=pol
米大統領の広島訪問検討か=数時間滞在、演説も-Wポスト紙

 【ワシントン時事】米紙ワシントン・ポスト(電子版)は9日、オバマ大統領の側近らがオバマ氏の広島市訪問の可能性について検討し始めたと報じた。5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席後に数時間訪れる可能性があるものの、最終決定は下されていないという。
 政府高官は同紙に対し、大統領の広島訪問が実現した場合、2009年4月に「核なき世界」を提唱したプラハでの演説を想起させる演説が行われる可能性があると述べた。
 また、ホワイトハウス高官らは先進7カ国(G7)外相会合に出席するケリー国務長官が広島市内の平和記念公園を訪れることなどを「大統領訪問の可能性の露払い」と注視。一方、大統領の訪問が弱腰の外交姿勢を表しているとして野党共和党を中心に国内で批判される恐れも認識しているという。(2016/04/10-14:18)

759名無しさん:2016/04/10(日) 22:29:17
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041000198&g=pol
各外相が厳島神社訪問=夫人は平和公園で献花

 先進7カ国(G7)外相会合に出席した各国外相は10日夕、岸田文雄外相の案内で広島県廿日市市厳島(宮島)にある世界遺産の厳島神社を訪問した。そろって境内を散策し、歓迎のため屋外舞台で披露された舞楽を鑑賞した。ケリー米国務長官が自らのスマートフォンで舞楽を撮影するなど日本の伝統文化に関心を示していた。各外相はこの後、島内の和風旅館に移り、夕食会に臨んだ。

 一方、英国、フランス、イタリア、カナダ各国外相の夫人は同日、岸田氏の裕子夫人とともに広島市の平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花。広島平和記念資料館(原爆資料館)も見学し、被爆者の証言を聞いた。また、裕子さんの母校の広島女学院高校を訪問し、平和教育などをめぐり意見交換した。 (2016/04/10-20:12)

760とはずがたり:2016/04/12(火) 12:34:15
結構凄いことが実現したと思う。

G7外相、広島平和公園で献花 核保有の米英仏現職で初
http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASJ4B5K8HJ4BUTFK005.html
04月11日 12:36朝日新聞

G7外相、広島平和公園で献花 核保有の米英仏現職で初
原爆慰霊碑に献花する(左から)シュタインマイヤー独外相、岸田文雄外相、ケリー米国務長官、ハモンド英外相、ディオン加外相、モゲリーニ欧州連合外交安全保障上級代表(外相)=11日午前11時49分、広島市中区、代表撮影
(朝日新聞)
 広島市で開かれている主要7カ国(G7)外相会合に出席した各国外相が11日午前、同市の平和記念公園を訪れた。公園内の広島平和記念資料館(原爆資料館)を訪問し、原爆死没者慰霊碑に献花した。核保有国の米英仏の現職外相による公園訪問は初めて。

 各国外相は一列に並んで慰霊碑の前に進み、花輪を手向けた。その後、公園内の原爆ドームの近くまで足をのばし、視察した。外務省によるとケリー米国務長官の提案という。

 公園訪問後、岸田文雄外相は「『核兵器のない世界』に向けた機運を再び盛り上げるための歴史的な一歩となった」とのコメントを発表した。

 G7外相の平和記念公園訪問は、広島が地元の岸田文雄外相の強い意向で実現した。G7で結束して、核軍縮・不拡散の意思を示す狙いだ。11日午後には、「核兵器のない世界」の実現をアピールする特別文書「広島宣言」を発表する。

 原爆を投下した米国からは、ケリー国務長官が訪問した。これまで駐日米大使らが公園を訪問したことはあるが、現職閣僚は広島市訪問自体が今回初めてだ。

 岸田氏は11日午前、ケリー氏と会談。岸田氏は「G7外相とともに平和公園を訪問する歴史的な日になる。広島から世界に向けて力強い明確な平和のメッセージを発信したい」と述べた。ケリー氏は「広島は私にとっても特別な意味を持つ場所だ。平和記念公園はいかに平和が重要かを示すものだ。大量破壊兵器などの絶滅のために両国がリーダーシップをとる必要がある」と語った。

 ケリー氏に同行した米政府高官は取材に対し、ケリー氏は公園訪問で、原爆投下を謝罪する表現は使わないものの、「憎しみではなく愛情の心で再建してきた広島の市民と米国民が、戦争を憎み、平和に向けた決意を共有する」と語った。「日米の和解が並外れたレベルにまで達したことを示すことになるだろう」とも述べた。

 さらにこの高官は「核兵器を唯一使った国として、米国は世界の核軍縮に向けて努力をする責任がある」とも語り、オバマ政権が2009年のプラハ演説で提唱した「核なき世界」の実現に向けて今後も努力していく考えを強調した。

761とはずがたり:2016/04/12(火) 12:36:01

<G7外相広島訪問>中国、日本の戦争責任強調
http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/world/mainichi-20160412k0000m030122000c.html
04月11日 23:35毎日新聞

 主要7カ国(G7)外相会合に参加した外相らが広島市の平和記念公園を訪問したことを受け、中国政府は日本の戦争責任を強調する見解を表明。米主要メディアは、原爆投下に対する謝罪ではないとの米政府の立場を伝えた。

 ◇中国

 【北京・河津啓介】主要7カ国(G7)外相会合に参加した外相らが広島市の平和記念公園を訪問したことについて、中国外務省の陸慷(りく・こう)報道局長は11日、定例記者会見で「我々は、被爆地訪問を計画した日本政府の目的が、自らが軍国主義の道を再び歩まない決意表明であることを望む」と述べ、日本の戦争責任と関連づける評価を示した。

 陸局長は会見で、広島、長崎への原爆投下について「罪のない日本の国民が被った苦痛に同情する」としながら、「日本の軍国主義分子の頑迷な幻想を徹底的に打ち砕いた」とも述べた。

 中国は昨年春の核拡散防止条約(NPT)再検討会議でも、被爆地訪問を呼びかける日本の提案を「歴史歪曲(わいきょく)の道具としている」と反対。今回のG7外相会合の直前には、一部の中国メディアが「日本は自らが第二次大戦の『被害者』だと強調しようとしている」と批判する記事を掲載していた。

 中国指導者による被爆地訪問では、1983年11月、胡耀邦・中国共産党総書記(当時)が長崎市の平和公園を訪ねて原爆犠牲者に献花したことがある。

 一方、G7外相会合が「東シナ海、南シナ海の状況を懸念する」などと明記した声明を出したことについて、陸局長は「まだ見ていない」と断りつつ「G7が個別の国の利益に束縛されるなら、G7の役割や発展にプラスにならないだろう」と不快感を示した。

 ◇欧米

 欧米の主要メディアもケリー氏の広島訪問を取りあげ、関心の高さを示した。

 米CNNは「広島への謝罪なし」と題した記事を電子版に掲載。ケリー氏に同行した米政府高官の「広島を訪問する目的は謝罪かと問われれば、答えはノーだ」との発言を引用し、謝罪ではないとの米国側の立場を強調した。

 一方で「ケリー氏の広島訪問は、オバマ米大統領が来月、G7サミットのため訪日する際に、広島を訪問することへの道を開くことになり得る」とも指摘した。

 英BBC(電子版)はケリー氏の訪問理由を「領土問題を巡る中国の強硬姿勢に対する懸念が、日本や他の米国の同盟国に影響を与えており、日米関係の強化に向けた努力が必要とされているため」と分析した。【福岡静哉】

762とはずがたり:2016/04/12(火) 16:21:34
毎度のことだけどこうも堂々と一方的に韓国を侮辱する文章を垂れ流すと韓国に味方したくも成ってくる非常に反日的で国益を損なう記事だな〜。。

2016.4.12 11:00
【竹島を考える】
「日本には哲学がない」「低級な侍文化」…韓国〝侮日〟教授が唱える山法師の論理 振り回される歴史は今も 下條正男・拓殖大教授
http://www.sankei.com/west/news/161205/wst1612050002-n1.html

 戦後の日韓関係は、振り回され続けた歴史でもあった。その最初が1952(昭和27)年1月18日の「李承晩ライン」の宣言と、韓国政府による竹島の不法占拠である。それが54年10月28日、韓国の卞栄泰外相が、竹島を「日本による韓国侵略の最初の犠牲の地」として以来、日本は侵略国家とされてしまった。

抑留の漁船員を盾に無理難題の韓国政府

 その歴史認識は、53年12月12日、公海上に引かれた「李承晩ライン」を根拠にした「漁業資源保護法」の制定で増幅された。それに違反した者は「3年以下の懲役、禁錮または50万円以下の罰金に処」され、日本人漁船員の拿捕(だほ)抑留が急増したからだ。

 それも韓国政府は、拿捕抑留した日本人漁船員を盾に、日本政府に対して無理難題を吹っかけたのである。

 その事実は、3月27日付の中央SUNDAY(電子版)で韓国・世宗大学の保坂祐二氏が紹介した昭和31年4月13日の「第24回国会、衆議院法務委員会議録第24号」でも確認できる。保坂氏は、重光葵外相が「韓国が独立国としてやった処置…日本はこれを否認していくことはできぬ」とした発言を「日本側が李ラインを容認した証拠」と曲解したが、重光外相は李ラインを容認などしていない。

「日本が李ライン容認」と曲解

 重光外相が「韓国が独立国としてやった処置」としたのは、日本人漁船員を拿捕抑留した韓国政府が、刑期を終えた日本人漁船員と引き換えに、日本に密航して大村収容所に収容された韓国人と、戦前からの韓国人刑余者の釈放を求めたことに対してである。

 それも「前科9犯ないし12犯の者が13人、6犯ないし8犯の者が80人、3犯ないし5犯の者が240人」を釈放して、日本に止まるかどうかは刑余者の自由意思に任すとの内容であった。

 この時、韓国政府は、拿捕抑留した日本人漁船員を人質として、難題を要求したのである。保坂氏はそれを「日本が李ラインを容認した」と曲解し、拿捕抑留された日本人漁船員の存在は無視したのである。

763とはずがたり:2016/04/12(火) 16:35:50
多分日本が先に目を着けた竹島だと思うけど敗戦後日本が実効支配力を失っていたから韓国に奪われたということであろう。法学的な正しさに関しては素人で全く判らないけど沖縄や南千島と同じく仕方が無い事である。歴史的に日本の領有が正統だったとしてもどうしようも無い気がする。領土を棚上げにして漁業権さえ確保出来れば勝ちであろう。

2016.3.22 15:00
【竹島を考える】
歴史論争で勝ち目ない韓国、「対外宣伝工作」に戦術変更 下條正男・拓殖大教授
http://www.sankei.com/west/news/160322/wst1603220005-n1.html

 竹島問題は今、新たな局面を迎えている。韓国側は「独島(竹島の韓国名)は韓国固有の領土」と標榜(ひょうぼう)し、竹島を所管する慶尚北道を中心に、攻撃的な対外宣伝工作に乗り出したからだ。

 3月14日付の『慶北毎日』(電子版)などによると、慶尚北道では今後、韓国観光公社の海外支店31カ所、在米の韓国学校千校余りと協力関係を構築し、500人の外国人リーダーを選抜して、「独島広報」に活用するという。

歴史論争避け、宣伝工作選択した韓国

 これは、島根県竹島問題研究会が『竹島問題100問100答』を刊行し、昨年8月に『最終報告書』をまとめたことと無関係ではない。竹島が歴史的に韓国領でなかった事実が明らかにされ、韓国側では戦術の変更を余儀なくされたからである。

 だが、韓国側の「独島は韓国固有の領土」の宣伝文には意味がない。竹島を「固有の領土」と言えるのは、「無主の地」であった無人島を1905年に領有した日本だけである。1952年、韓国政府が「李承晩ライン」を宣言した当時の竹島は、すでに「無主の地」ではなかったからだ。韓国側が竹島を「固有の領土」とするためには、1905年以前に、竹島が韓国領だった確証を示さなければならなかったのである。

 しかし、韓国側は歴史領域での論争を避け、対外宣伝工作を選択した。

「見える」のは、独島か鬱陵島か

 ではなぜ、韓国側は歴史論争を忌避したのか。それは、韓国側には伝統的に歴史を演繹(えんえき)的に捉える傾向があるからである。

 1954年、韓国政府が竹島を武力占拠すると、日本政府は国際司法裁判所への付託を提案したが、韓国政府はその際、竹島を日本による「韓国侵略の最初の犠牲の地」とする「歴史認識」を示して、提案を拒絶した。

 以来、韓国側は、「独島はわが領土」とする先入見を根拠に、文献を読むことになる。そのため、『世宗実録』の「地理志」や『新増東国輿(よ)地勝覧』(いずれも朝鮮で編纂(へんさん)された地誌)などに「見える」という記述があると、韓国側では「欝陵島から独島が見える」と解釈し、竹島を韓国領である証拠とした。

 ところが、17世紀に日本と朝鮮が欝陵島の領有権を争った際、朝鮮側ではその「見える」を「朝鮮半島から欝陵島が見える」と解釈し、欝陵島を朝鮮領とする論拠としていたのである。

文献批判怠る韓国

 この事実を島根県のウェブサイト(『実事求是』)で明らかにすると、慶尚北道の独島研究組織の議長を務める崔長根教授は、3月3日付の『大邱日報』(電子版)で「下條の主張は捏造(ねつぞう)した論理」として、「日本政府の独島政策は、下條の論理をそのまま反映している」と非難。名古屋大学の池内敏氏も『竹島-もうひとつの日韓関係史』(中公新書)を刊行して、その一部で私を論難したのである。

764とはずがたり:2016/04/12(火) 16:36:07
>>763-764
 だが両氏は、文献を恣意(しい)的に解釈しただけで、文献批判を怠っていた。崔氏は「1454年に編纂された『世宗実録』の「地理志」が、1530年に編纂された『新増東国輿地勝覧』に影響を与えたとするのは、驚きの論理だ」と私を批判した。

 しかし、『世宗実録』の「地理志」は、実際に『東国輿地勝覧』が編纂される過程で参考にされていた。

 それは、『東国輿地勝覧』の一部となる『慶尚道続撰地理志』の序文で「我が世宗朝、また地理誌を撰し、これを史館に蔵す。その規模節目に於いて詳らかかつ尽くせり」とし、今その「前志を続撰し、以て闕略を補す」としているからだ。

 これは『世宗実録』「地理志」に続けて、不足の部分を補筆した、との意味である。

島根県の竹島研究を「論破した」と錯覚?

 この崔氏と五十歩百歩の解釈をしているのが、池内氏だ。池内氏は逆に、「下條の論じ方」は、「後世の解釈を前代に持ち込んでいるという点で誤りである」と批判したのである。だが『新増東国輿地勝覧』と『世宗実録』「地理志」には、竹島(独島)に関する記述は一切ない。

 そこで、竹島問題の核心的文献となるのが、1770年に刊行された『東国文献備考』だ。『東国文献備考』の分註には、「于山島は所謂倭の松島なり」とあるため、韓国側では「後世の解釈を前代に持ち込んで」、『世宗実録』「地理志」と『新増東国輿地勝覧』にある于山島を松島(現在の竹島)と解釈し、竹島が韓国領である証拠としてきたのである。

 だがその分註は、改竄(かいざん)された事実が明らかにされ、韓国側には竹島(独島)を韓国領とする歴史的根拠がなくなってしまった。池内氏はその事実には触れず、韓国側の主張に沿って『世宗実録』「地理志」や『新増東国輿地勝覧』を解釈し、私の解釈を論難することで、島根県の竹島研究を論破したと錯覚したのである。

「夷を以て夷を制す」のが得意な韓国

 池内氏はその著書の後半で、竹島問題研究会の塚本孝氏らの研究に言及しているが、いずれも詭弁(きべん)を弄しただけである。

 韓国(及び中国)では「夷(い)を以て夷を制す」戦術が得意なようで、外国人を用いて対外宣伝をしてきた。

 かつては、『史的検証竹島・独島』(岩波書店)と『竹島=独島論争』(新幹社)を刊行した島根大名誉教授の故内藤正中氏が、その役割を果たしてきた。だがそれは、もろ刃の剣。荒唐無稽な論理は、それが蟻の一穴にもなる。

 近年、韓国側が対外宣伝工作に重点を置くようになったのは、歴史論争では勝算がないことに気づいた証左である。

765とはずがたり:2016/04/12(火) 16:39:22
日韓に影落とす竹島問題、まずは一緒に漁させて-地元漁業関係者
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2015-02-12/--i61fuf3f
Isabel Reynolds、広川高史
2015年2月12日 09:58 JST 更新日時 2015年2月12日 12:32 JST

かつては日本の漁民がアシカやアワビの漁場 として利用していた島根県沖の竹島(韓国名・独島)。その領有をめぐ る問題が日韓関係に影を落とし続けている。韓国の実効支配下にある竹 島周辺から事実上締め出されている日本の漁業関係者からは、せめて韓 国側と同じように周辺での漁ができるよう望む声が出ている。
日本外務省のウェブサイトによると、韓国は1954年以降、警備隊員 を駐留させている。竹島から約158キロの距離にあり、日本の有人島と しては最も近い位置にある島根県の隠岐の島では約1200人が漁業を営むが、1人として竹島に上陸したことはない。
島根県漁港漁場協会理事の濱田利長氏は1月下旬、隠岐の島を訪れ た外国メディア記者に対し、「竹島が帰ることが一番いいことですが、 なかなか今の現状では到底、来年、再来年といった早い時期には帰らん と思っております。できれば、韓国の漁業者とわれわれ、隠岐の漁業者 が竹島で共同で漁業できるようなことになれば」と語った。
テンプル大学日本校のロバート・デュジャリック現代アジア研究所 ディレクターは、日本が竹島をめぐる問題で韓国から譲歩を引き出す可 能性はゼロだ、との見方を示す。

漁業権
島根県のウェブサイトは、竹島周辺で、アワビ、サザエ、ワカメ、 イワノリ、テングサを対象とした漁業権を設定しているが、現状は「韓 国が竹島を実力支配しているため、漁業権に基づく操業が事実上できな いことは関係者の共通した認識」と記述している。1999年発効の日韓漁 業協定は、竹島周辺を含む海域を「暫定水域」に設定。両国の漁船がそ れぞれ操業できることになっている。
竹島に近い韓国の鬱陵(ウルルン)島にある鬱陵郡のジョン・ソン ファン氏は、「独島が日本に帰属すると言うのは完全にばかげたこと だ。日本の漁民はもっと漁がしたいから領土のことを言っている」と語 った。鬱陵の漁業者団体代表、ジョン・ヨンファン氏も、日本の漁民に 抗議されるようなことはしていない、と話している。

竹島の日
日韓両政府ともに、自国が竹島を利用していた歴史を示す資料があると主張している。人口1万5000人の隠岐の島では、竹島をめぐる問題 から目をそらすことはできない。フェリー乗り場には「竹島は今も昔も 隠岐の島」と書かれた大きな立て看板が見える。役場にも竹島の領有権 確立を求める垂れ幕がかかっている。
2012年には当時の李明博大統領が韓国のトップとして初めて竹島を 訪問。日本が駐韓大使を一時帰国させる事態に発展している。島根県 は05年に2月22日を「竹島の日」とする条例を制定。韓国ではこれに反 発するデモが発生し、慶尚北道はこれまで友好関係にあった島根県との 交流を取りやめている。

3人
隠岐の島に住む八幡昭三氏(86)は若い人とか一般の人々は竹島には あまり関心を寄せてこなかったが、最近はメディアが問題を取り上げて いることもあり、島民の韓国への感情は悪化してきているという。

隠岐の島の八幡氏は、少年時代にアシカの子どもを飼っていた経験 を今でも覚えている。八幡氏のおじは1930年代に竹島で漁を行っていた が、終戦後は二度と竹島を訪れることはできなかったという。韓国が一 方的に竹島を奪い占領したと訴える八幡氏は、今は普通の状況ではな く、韓国には自分たちとうまくやっていける道を考えてほしい、とい う。
韓国政府のウェブサイトによると、竹島には漁師とその妻、詩人の 3人が現在住み、約30人の警察官が駐在している。

米国
テンプル大日本校のデュジャリック氏は、米国は東アジア地域での 中国の影響力を限定するとともに、対北朝鮮政策での協調を進める上 で、日韓の協力を望んでいると指摘。竹島をめぐる問題は、中国と北朝 鮮を利しこの地域における米国の立場を難しくするだけだ、と話している。
ブリンケン米国務副長官は9日、ソウルで記者団に対し、日本と韓 国は米国の最も緊密なパートナーであり、日韓が直面しているいくつか の難しい問題をうまく処理するよう促し続ける、と語った。

--取材協力:Sam Kim、沢和世、Juwon Park.

766とはずがたり:2016/04/12(火) 16:41:39
1998年にはなんとに暫定水域(両国が共に利用でき、水産資源を共同管理していく水域)なんかが協定で設置されたんか!お互いどういう心算だったんか??

2011/8/315:44:53
竹島は漁業権どうなてますか
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1468037479

ベストアンサーに選ばれた回答
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chaigou54さん 2011/8/319:45:09
1998年11月28日に「漁業に関する日本国と大韓民国との間の協定」(「新協定」)の署名が行われ、竹島をないものとした海域の中間線付近に暫定水域(両国が共に利用でき、水産資源を共同管理していく水域)を設置した。

暫定水域では韓国の漁具は海底に置くものが中心で、日本の底びき網漁船が網を引くと知らずに韓国の網やかごを引っ掛けてしまい、多額の賠償金を取られることがあるため、鳥取県の沖合底びき網漁船はトラブルを恐れて暫定水域に入れません。
こうして暫定水域は名ばかりで日本漁船は締め出されており、まして竹島近辺は航行さえ不可能です。

767名無しさん:2016/04/14(木) 23:47:33
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041100636&g=pol
広島訪問の大切さ伝える=大統領報告を明言-米国務長官

 先進7カ国(G7)外相会合に出席したケリー米国務長官は11日、広島市で記者会見し、平和記念資料館(原爆資料館)訪問について「胸をえぐられるような非常に厳しい内容で、戦争がいかなる惨禍をもたらすかを想起させられた」と述べた。その上で「(オバマ)大統領には必ず私が目の当たりにしたことを報告し、いずれかの段階での(広島)訪問がいかに大切かを伝えたい」と強調した。
 長官は資料館の芳名録に「世界中の誰もがこの資料館の力を見て感じるべきだ」と記帳したことに触れ、「米大統領もいつかこの中の一人となって来てほしいと思う」と述べた。長官はオバマ大統領が「公に広島にいつかは行きたいと言っている」とも指摘した。(2016/04/11-22:28)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041100544&g=pol
「オバマ氏は被爆地訪問を」=トルーマン元米大統領の孫語る

 【ワシントン時事】日本への原爆投下を命じたトルーマン元米大統領の孫で元記者のクリフトン・トルーマン・ダニエルさん(58)は11日までに時事通信の電話取材に応じ、自身の被爆地訪問経験を踏まえて「オバマ大統領に被爆地の訪問を促す。妥当だと思う」と語った。原爆投下の是非については「戦時に正しい決定は行われない。祖父を愛している」と擁護した。一問一答は次の通り。
 -オバマ大統領が広島訪問を検討している。
 私は2012年に家族と一緒に広島、長崎両市を初訪問した。被爆者の話に耳を傾け、原爆の恐ろしさを知り、二度と使用してはいけないと思った。被爆者から自分たちの経験を伝え続けてほしいと求められた。私はオバマ大統領に被爆地訪問を促す。
 -被爆地訪問であなたの中で変わったものは。
 大量の核兵器が存在する世界の危険性を認識した。これまで核兵器について考えてこなかった。被爆者の対応や思いやりに恐れ入っている。彼らが謝罪を求めていない事実に米国人はショックを受ける。
 -日本は米国の「核の傘」に守られている。
 現実の世界は恐ろしく複雑だ。(核兵器保有を追求している)北朝鮮にはわれわれの常識は通用しない。オバマ大統領の被爆地訪問は象徴的かもしれないが、とてつもなく大きな意味もある。人々の考え方を変えるために小さな一歩を積み重ねていくしかない。
 -原爆決定は正当だったと思うか。
 原爆投下が本当に戦争を終結させたのかどうかは分からない。当時はソ連の宣戦布告もあった。私にとって重要なのは議論を続けることではなく、(日米)双方が話し合い、互いの見方を理解することだ。戦時に正しい決定は行われないと思う。そして祖父を愛し、尊敬している。(2016/04/11-15:47)

768名無しさん:2016/04/16(土) 16:33:13
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041100495&g=pol
米大統領、広島訪問判断へ=「核なき世界」推進の機会に

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は、ケリー国務長官が11日に広島市の平和記念公園を訪問したことを踏まえ、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の出席に合わせて現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問するかどうかを近く判断する。11月の米大統領選の行方を含め、国内外の政治情勢に与える影響を見極める考えだ。

 オバマ氏は、ケリー長官が「大統領も(広島に)来てほしい」と述べていることを重視するとみられる。大統領の広島訪問が実現した場合、サミット後にヘリで移動して数時間滞在し、2009年4月のプラハ演説で唱えた「核なき世界」の推進を訴える演説を行う可能性がある。
 オバマ氏はこれまで、被爆地との関係構築を少しずつ進めてきた。10年にルース駐日大使(当時)を広島の平和式典に派遣。12年以降、米大使の広島、長崎の両式典参列は恒例となった。
 一方で、ホワイトハウス高官は、オバマ氏の被爆地訪問を「米国民がどのように受け止めるか」を懸念している。米調査機関ピュー・リサーチ・センターが昨年4月に実施した世論調査によると、米国人の56%が「原爆投下は正当だった」と回答。戦争終結を早め、結果的に多くの人命を救ったとみている。
 仮に大統領が原爆死没者慰霊碑に献花した時に拝礼すれば、「謝罪と受け取られる可能性もある」(ホワイトハウス高官)。オバマ氏は09年11月、訪日で天皇陛下に深々とお辞儀をしたことが「卑屈だ」(米メディア)との批判を受けた。
 一部の知日派は「日本の首相に対し真珠湾訪問を要求する声が出てくるだろう」と指摘する。大統領選を控え、オバマ氏の広島訪問が野党共和党や退役軍人会から弱腰外交と攻撃され、日米関係が批判の的にされる恐れもある。(2016/04/12-00:33)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041200347&g=pol
オバマ氏広島入りに期待=G7外相会合「歴史的一歩」-菅官房長官

 菅義偉官房長官は12日午前の記者会見で、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)で来日するオバマ米大統領の広島訪問について、「米国が決めることだ」とした上で、「世界の指導者が広島、長崎を訪問し、被爆の実情に触れることは、核兵器のない世界に向けた国際的な機運を高める意味で極めて重要だ」と期待感を示した。
 また、先進7カ国(G7)外相会合が核軍縮に関する「広島宣言」を発表したことに関し、「G7の枠組みで広島宣言を取りまとめ、各国外相が被爆の実情に触れたのは歴史的な第一歩だ」と評価。「今回の成果を伊勢志摩サミットにつなげ、国際社会の議論をリードしたい」と語った。(2016/04/12-12:03)

769名無しさん:2016/04/16(土) 20:45:51
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041300072&g=pol
大統領訪問を前向き検討=広島は「核なき世界の象徴」-米報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は12日の記者会見で、オバマ大統領が5月に訪日する際の広島訪問は決まっていないとしながらも、「人類初の被爆者がいる都市ほど『核なき世界』への取り組みを象徴的に示す場所はない」と強調し、前向きに検討していることを明らかにした。
 報道官は「広島市は恐ろしい破壊をもたらす人類の悲劇的な能力を象徴している。このことは大統領が『核なき世界』を目指す中で核安全保障サミットを開催してきた理由の一つになっている」と指摘した。(2016/04/13-12:07)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041300768&g=pol
広島宣言、訳は適切=「非人間的苦難」めぐり川村外務報道官

 外務省の川村泰久外務報道官は13日の記者会見で、先進7カ国(G7)外相会合で採択された核軍縮に関する「広島宣言」をめぐり、外務省の翻訳に異論が出ていることに反論した。報道官は「訳の作成には全体の文脈に照らして適切な言葉を当てている」と語った。
 宣言には、広島、長崎が原爆投下で「極めて甚大な壊滅と非人間的な苦難を経験した」との一文がある。「非人間的な苦難」は英語原文では「human suffering」。humanは「人間の」という意味で、インターネット上では外務省の訳に対して、「無理がある」「広島の世論も考えて強引に訳した」などの批判が出ていた。これに対し、報道官は「宣言の趣旨を踏まえれば適切だ」と述べた。(2016/04/13-19:41)

770名無しさん:2016/04/17(日) 09:24:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041400383&g=pol
慰安婦合意「責任持ち実施を」=菅長官

 菅義偉官房長官は14日午前の記者会見で、韓国総選挙で与党セヌリ党が惨敗したことに関し、「日韓関係の重要性については、韓国の与野党を問わず共通認識が存在している。さらに前に進めていきたい」と述べた。その上で、慰安婦問題に関する日韓合意について「両国にとって、責任を持って実施することが極めて重要だ」との考えを強調した。(2016/04/14-12:18)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041400830&g=pol
慰安婦合意、着実履行促す=「蒸し返し」警戒-日本政府

 韓国総選挙で朴槿恵大統領を支える与党「セヌリ党」が大敗したことについて、日本政府は「厳しい結果だ」(外務省幹部)と受け止めている。慰安婦問題をめぐる昨年12月の日韓合意が着実に履行されるよう韓国側に働き掛けていく方針だ。
 菅義偉官房長官は14日の記者会見で、「両国にとって、責任を持って実施することが極めて重要だ」と指摘。選挙結果が日韓合意に与える影響については「考えられない」と否定した。
 日本政府は韓国総選挙が終われば、日韓合意に基づき、元慰安婦を支援する財団の設立や、ソウルの日本大使館前の少女像撤去などに向けた調整が本格化すると期待していた。ワシントンで行われた3月末の日韓首脳会談でも「誠実な履行」を確認したばかりだった。
 政府は今後、韓国政界の状況を注視するとともに、韓国側に合意実施を促していく考えだ。19日には外務省の斎木昭隆外務次官が林聖男韓国外務第1次官とソウルで会い、日韓合意の着実な履行を確認することにしている。 
 日韓議員連盟会長の額賀福志郎元財務相は14日の会合で、「国と国との約束だから、決めたことはしっかりとお互いに実行に移していくことが大事だ」と述べ、韓国側が慰安婦問題を蒸し返さないようくぎを刺した。
 韓国では、政権末期に対日強硬姿勢を強める傾向がある。残り任期2年を切った朴大統領に対し、日本政府内には「一度決断したことは信念を持って進める」との期待がある一方、自民党内からは「次第に身動きが取れなくなるのではないか」(中堅)と懸念する声も出ている。(2016/04/14-20:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016041500904&g=pol
サミットでテロ資金対策を=首脳被爆地訪問は「米国が先」-仏大使

 ダナ駐日仏大使は15日、東京都内の日本記者クラブで会見し、5月に開かれる主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)では「テロ組織の資金調達対策を取り決めてほしい」と要望した。
 パリやベルギーでのテロを踏まえ、「サミットではテロ対策が主要課題になる」と強調。テロ組織への資金流入を止め、若者を駆り立てる宣伝工作を広めないための各国間の情報共有を含む行動計画策定が重要だと訴えた。
 広島、長崎両市がサミット参加国の首脳に被爆地訪問を要請していることに関しては、オランド大統領の「日程計画には入っていない」と説明。一方で「日本政府から要請があれば、この問題について最初に考えて答えを出すのは米国だ」と述べた。(2016/04/15-19:00)

771名無しさん:2016/04/17(日) 10:41:19
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160414/k10010478561000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_066
日韓議連会長 選挙結果にかかわらず慰安婦合意は履行を
4月14日 14時36分
日韓議員連盟の会長を務める自民党の額賀元財務大臣は、派閥の会合で、韓国の総選挙で与党が大敗したことについて、パク・クネ(朴槿恵)大統領の政権運営への影響は避けられないとする一方、慰安婦問題を巡る日韓両政府の合意は選挙結果にかかわらず履行するよう求めました。
この中で、額賀元財務大臣は、韓国の総選挙でパク・クネ大統領を支える与党が過半数を割り込んで大敗したことについて、「今後、パク大統領の政権運営に影響を与えることは間違いない」と指摘しました。
そのうえで、額賀氏は、去年12月の慰安婦問題を巡る日韓両政府の合意について、「韓国の野党内には『合意をやり直せ』という意見も相当あるが、合意は国と国との約束であり、決めたことはお互いにしっかりと実行に移していくことが大事だ。パク大統領には2国間の約束をしっかりと守っていただきたい」と述べ、選挙結果にかかわらず合意を履行するよう求めました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160413/k10010477471000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_081
オバマ大統領の長崎訪問 市長が要請
4月13日 17時16分
来月の伊勢志摩サミットに合わせてアメリカのオバマ大統領の被爆地訪問への期待が高まるなか、長崎市の田上市長が13日、ケネディ駐日大使と面会し、オバマ大統領の長崎への訪問を要請しました。
11日まで広島市で開かれたG7=主要7か国の外相会合の際、アメリカのケリー国務長官は、閣僚として初めて、被爆地・広島で原爆の犠牲者を追悼し、記者会見で「すべての人が広島に来るべきでアメリカ大統領にもその1人になってほしい」と述べました。
来月の伊勢志摩サミットに合わせてオバマ大統領の被爆地訪問への期待が高まるなか、長崎市の田上市長は、13日、東京のアメリカ大使館でケネディ駐日大使と面会し、オバマ大統領の長崎訪問を求める要請文を手渡しました。
要請文では、オバマ大統領が2009年に核兵器のない世界を目指すと演説したことなど、これまでの取り組みに敬意を示したうえで、世界中に核兵器が1万6000発近く存在するなか、核廃絶に向けたリーダーシップを発揮するよう求めています。
そして「核兵器廃絶への揺るぎない決意を被爆地長崎から世界に発信してほしい」として、広島と同時に長崎も訪問するよう求めています。
ケネディ大使は田上市長に「オバマ大統領はサミットに合わせて広島に向かうことができるか検討していると聞いている」と述べたうえで、長崎への訪問要請については本国に伝えることを約束したということです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160412/k10010475861000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_107
外相 オバマ大統領の広島訪問に期待感
4月12日 11時59分
岸田外務大臣は閣議のあと記者団に対し、アメリカのオバマ大統領の被爆地広島への訪問について「個別の日程を申し上げるのは控える」としながらも、「世界の政治指導者に広島訪問を働きかけていきたい」と述べ、期待感を示しました。
11日まで広島市で行われたG7=主要7か国の外相会合では、アメリカのケリー国務長官が、第2次世界大戦で広島に原爆を投下したアメリカの現職の閣僚として初めて平和公園を訪れ、原爆の犠牲者を追悼しました。
これに関連して、岸田外務大臣は記者団に対し、アメリカのオバマ大統領の広島への訪問について「大統領の個別の日程を申し上げるのは控える」と述べました。そのうえで「被爆の実相に触れてもらうことは、核兵器のない世界への機運を高めるうえで重要であり、世界の政治指導者に広島訪問を働きかけていきたい」と述べ、期待感を示しました。
また、外相会合で南シナ海を巡る問題を取り上げ、海洋の安全保障に関する文書を発表したことに中国が不快感を示したことについて「不満の表明は承知している。ただ、G7各国がすべて強い関心を持って合意した内容を発表したのであり、しっかり説明していきたい」と述べました。

772とはずがたり:2016/04/21(木) 19:41:46
2016.3.25 07:03
不法占拠の韓国に打撃…竹島で戦前に鉱業権設定 日本の領有権証明に有力証拠発見 
http://www.sankei.com/west/news/160325/wst1603250016-n1.html

 韓国が不法占拠を続ける竹島(島根県隠岐の島町)をめぐり、戦前に政府が周辺でリン鉱石の試掘権を設定していたことを示す公文書が、県竹島資料室の調査で見つかったことが24日、分かった。竹島でのリン鉱石採掘については聞き取り調査などで知られていたが、それを裏付ける資料が確認されたのは初めて。関係者は「日本が当時、竹島を実効支配していた有力な根拠の一つ」と評価。日本が求めている国際司法裁判所での領有権問題の審理が実現した場合、有力な証拠になるとみられる。

 見つかった資料は、竹島周辺でのリン鉱石の試掘を認めた「試掘原簿」と、試掘の申請者が出願の際に添付した「鉱区図」。

 試掘原簿には、昭和14(1939)年6月、鳥取県に住む申請者2人に対し、竹島の島内と周辺海面の8万3800坪(27万平方メートル)でリン鉱石試掘権を政府が設定・登録したこと、戦後には別の人物に試掘権が移り、24年2月に期間満了を迎えて登録が抹消されたことなどが記されている。

 また、鉱区図によると、9年6月の出願段階では20万坪(66万平方メートル)分の試掘が申請されたが、最終的には13年8月、8万3800坪(27万平方メートル)分に申請を変更して、試掘権が認められた。

 これまでの調査で、当時、竹島周辺で盛んだったアシカ猟の従事者が猟に支障が出ると反対していたことが分かっている。今回見つかった資料からは、政府がアシカ猟に配慮して海岸線付近などアシカの生息区域を除外し、試掘権を認めた状況がみてとれる。

 県竹島資料室は「政府による鉱業権の設定は、まさに国家主権の行使。当時の日本が一帯を実効支配していた状況が確認できた意義は大きい」と指摘。竹島問題に詳しい下條正男・拓殖大国際学部教授(日本史)も「韓国が竹島を不法占拠する1952(昭和27)年以前に、韓国側が竹島に国家主権を行使した証拠は一切見つかっていない。今回の資料は、竹島問題が国際司法裁判所に付託された場合、日本が当時、竹島を占有していた実態を示す有力な根拠となる」と話している。

773名無しさん:2016/04/23(土) 13:29:42
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042000232&g=pol
「広島の経験」伝達=米政府内で国務長官

 【ワシントン時事】カービー米国務省報道官は19日の記者会見で、ケリー国務長官が広島市の平和記念資料館(原爆資料館)を訪問したことについて「その経験を政府内の人々に確実に伝達した」と述べた。ケリー長官は11日に広島市で記者会見した際、オバマ大統領に被爆地訪問の大切さを伝えると語っていた。
 報道官は一方で、広島訪問をめぐるケリー長官とオバマ大統領とのやりとりの有無に関しては「私的な会話には言及しない」と明らかにしなかった。その上で「(被爆地)訪問がケリー長官にどのように影響を与え、彼が全ての人に原爆資料館の訪問を促そうとしているのを聞いたと思う」と語った。(2016/04/20-10:33)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042200393&g=pol
オバマ大統領は広島訪問を=「謝罪意味しない」と日系米下院議員

 【ワシントン時事】米カリフォルニア州選出で日系3世のマーク・タカノ下院議員(民主)は21日、本会議で演説し、オバマ大統領に対して5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席に合わせて被爆地の広島を訪問するよう促した。また、同様の趣旨の書簡も公表した。
 タカノ氏はこの中で、大統領の広島訪問は「米国を代表して謝罪することを意味しない」と強調。むしろ「世界最大の軍の司令官として、世界最多の核弾頭を保有する司令官として、その破壊力のすさまじさを認識していることを示すシグナルとなる」と述べた。
 タカノ氏は2002年、被爆者の親戚と共に初めて広島市の平和記念資料館(原爆資料館)を訪問したという。(2016/04/22-11:35)

774名無しさん:2016/04/23(土) 13:29:52
>>773

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042300006&g=pol
オバマ米大統領、5月の広島訪問を近く最終判断=ロンドン会見では回答避ける

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は来週にも、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席に合わせて広島を訪問するかどうかを最終判断する。訪英中のオバマ氏は22日、ロンドンでの記者会見で、広島訪問を予定しているかと聞かれて「(自分が)アジアに行くまで、アジアに関する質問は待ってほしい」と述べ、明言を避けた。
 ホワイトハウス高官によると、国家安全保障会議(NSC)は米世論が大統領の広島訪問を「前向き」に受け止めていると判断し、大統領に訪問案を提示している。オバマ氏が訪問を決断すれば、現職米大統領として初めて。2009年に「核なき世界」を訴えてノーベル平和賞を受賞した外交レガシー(遺産)の一つとなる。
 オバマ氏は現在、中東・欧州を歴訪中で、25日の帰国後に日米両国の政治情勢や世論を慎重に見極め、判断する。NSC報道官は22日、「大統領の訪問先は現時点で何も決まっていない」と述べた。大統領の訪問先を事前調査するための「先遣隊」も22日時点で広島を訪れていない。(2016/04/23-08:27)

775名無しさん:2016/04/24(日) 08:42:56
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160423-00000077-asahi-pol
「米国に謝罪求めてない」岸田氏、外相会合でケリー氏に
朝日新聞デジタル 4月23日(土)21時7分配信

 岸田文雄外相は23日、今月広島市で開かれた主要7カ国(G7)外相会合を前に、米国のケリー国務長官に対して「決して米国に(原爆投下への)謝罪を求めているわけではない」と繰り返し伝え、広島平和記念公園への訪問を促していたことを明らかにした。北海道岩見沢市で行われた講演で語った。

 米国内で原爆投下を正当化する世論が根強いことに配慮し、謝罪要求ではないことを事前に伝えることで広島訪問への環境整備を図ったとみられる。また、岸田氏はケリー氏に「人類の悲劇を二度と起こしてはならない。核兵器を持つ米国にも理解してもらい、核兵器のない世界を作っていく思いを確認するために訪問してほしい」とも伝えていたという。

 G7外相会合では、核保有国である米英仏を含めた各国外相らがそろって平和記念公園内にある平和記念資料館(原爆資料館)を参観し、原爆死没者慰霊碑に献花した。さらに、ケリー氏の提案で原爆ドームにも足を運んだ。(安倍龍太郎)

776とはずがたり:2016/04/25(月) 19:07:28
>第二次大戦後に他国が日本が有する権原を取得する方式としては割譲しか残されていないことになる。(論理的には、日本による権原の放棄により無主地化された後に他国による先占の権原が成立すると考えることもできるが、国際法学者のブラウンリーはサンフランシスコ条約による日本の権原放棄は、連合国への処分権の譲渡として整理している)。そして割譲には主権移転への日本の同意が必要となるのである。
竹島を日本が放棄したから韓国が占領したのでは無く元々韓国(李氏朝鮮)のものだったから独島は韓国のものだと韓国は主張してゐるのは韓国もこのブラウンリーの主張を受け容れてるのか?てかそもそもブラウンリーの考えが正統なのか?

日本の敗戦と戦後の領土
http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=284

戦後処理に関する日本と韓国の主張の大きな対立点はSCAPIN677及びサンフランシスコ条約の解釈であろう。しかしながら、SCAPIN及びサンフランシスコ条約に関する解釈や主張には、統治行為と主権・領域権原の混同若しくは混乱があるように見受けられる。統治行為は主権の一部を構成するものではあるものの、主権と同じものではない。また、国際法において国家がある地域に有効な主権を設定し行使するためには領域権原を有してなければならず、領域権原を有せず国家活動を表示させたとてそれは対世的な効力を持ち得ない。第一次大戦後に征服の権原が違法化されていることから、戦後の日本において戦勝国の一方的な意思表示により日本の領域主権が移転されることはなく、第二次大戦後に他国が日本が有する権原を取得する方式としては割譲しか残されていないことになる。(論理的には、日本による権原の放棄により無主地化された後に他国による先占の権原が成立すると考えることもできるが、国際法学者のブラウンリーはサンフランシスコ条約による日本の権原放棄は、連合国への処分権の譲渡として整理している)。そして割譲には主権移転への日本の同意が必要となるのである。

則ち、戦後の領土の処理を巡っては、日本が他国への主権の移転に合意したかどうかがポイントであり、表面上の統治行為をもって主権の移転とすることはできない。他国による統治行為は最近の事例ではフセイン政権瓦解後の米英軍が思い出されるであろう。しかし、これをもってイラクの主権が米英に移転されたと主張する学者は存在しない。また、現在の日本においても各国大使館の敷地や在日米軍基地では日本の統治行為が制限されているが、これをもって主権の移転とみなす学者もいない。国際法学者のブラウンリーはポツダム宣言やヤルタ協定に基づく、条約締結前(敗戦国の同意のない)の連合国の占有に対して以下のように評価している。

領土の喪失国は平和条約の規定によって関係地域に対する権原を放棄することもありうるし、また実際に放棄した。しかしながら、この処分(ポツダム宣言等の決定)はこうした放棄にかかわりなく有効と仮定され権原を受領する国は通常、平和条約の発効前に占有を行っていた。この処分または譲渡の権限の存在は法学者によって承認されているが、彼らはそれに対する十分な法的根拠を示唆したり同意することが困難であると考えている。(中略)承認及び黙認がいくつかの事例においてこうした手続きに影響を与えうる違法性の要素をどの程度相殺するかが重要なのである。この種の処分は通常、多数国間の平和条約やその他のものによって承認されている。

韓国に関して言えば、サンフランシスコ条約前に朝鮮半島の南半分において自国領として占有を行っていたが、それに法的根拠はなく連合国による違法性のある手続きに基づくものだったということになる。サンフランシスコ条約において日本が処分権を連合国に与えることにより、その違法性の法的治癒がなされたものとみなすことができるのである。なお、竹島について韓国が法的根拠なく占有していたのか、SCAPINに基づき日本の代理人として米軍が施策権を行使していたとするのかは判断に迷うところである。何れにしても、サンフランシスコ条約前に韓国が竹島の権原を取得していたとするには日本の主権移転への同意が証明されなければならない。

更に国際法では「何人も所有しないものを与えることはできない」とされている。サンフランシスコ条約の前に、韓国が竹島の領域権原を取得するには「日本からGHQや連合国への主権移転の同意(割譲)」と「GHQや連合国から韓国への主権移転の同意(割譲)」といった2段階のプロセスが成立したことを証明しなければならないのである。

777とはずがたり:2016/04/29(金) 18:01:31
さて,来れるかな?

オバマ氏広島訪問、米有力紙は支持 「謝罪」懸念の声も
http://www.asahi.com/articles/ASJ4K413TJ4KUHBI00L.html
ワシントン=佐藤武嗣2016年4月18日11時04分

 オバマ米大統領が、5月の主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)の際に広島を訪問することを本格検討するなか、米国のメディアや専門家の間でも議論が起きている。複数の米有力紙が広島を訪れる意義を強調し、訪問を支持する社説を掲載する一方で、オバマ氏の訪問が謝罪と受け取られると懸念する意見も出ている。

特集:核といのちを考える
 ワシントン・ポスト紙は16日付紙面で「広島の教訓と遺産」と題する社説を掲載。「オバマ大統領は謝罪のためではなく、核の平和に向けて努力するために都市(広島)を訪問すべきだ」とした。

 社説では、広島と長崎への原爆投下を「無慈悲な高熱の爆風と放射能を解き放った、戦争の歴史で最も恐ろしい出来事の一つ」と表現。「現実に核兵器がすぐに消滅することはない」としつつ、オバマ氏が2009年に「核なき世界」を訴えたプラハ演説に触れ、オバマ氏が広島を訪れて核軍縮の道筋を示す意義を強調した。

 ニューヨーク・タイムズも13日の紙面で「広島から核なき世界へ」と題する社説を掲載。「ケリー氏が地ならしをした以上、オバマ氏が初めて広島を訪問する大統領になることを妨げるものはないはずだ」とし、「核兵器のない世界」の実現に向けた新提案を用意して臨むよう促した。

 また、オンライン雑誌「戦略文化財団」は16日、元中央情報局(CIA)情報分析官のポール・ピラー上級研究員の論文を掲載。ピラー氏は原爆の犠牲者の大半が軍人ではなく一般市民だったことや、戦後日本が専守防衛に努めてきたことを挙げ、「オバマ氏は広島に行くべきだ」と主張した。

■米国民の間では注目集めず

 米国の主要な新聞では、オバマ氏の広島訪問に反対する論調はいまのところない。オバマ政権が懸念していた米大統領選への影響も、トランプ氏ら共和党候補者は現段階では、この問題に焦点をあてた発言はしていない。広島訪問が検討段階ということもあり、米国民の間でも大きな注目は集めていないのが現状だ。

 ただ、一部の保守系雑誌などは、ケリー米国務長官による先週の広島訪問がオバマ大統領訪問の布石になっているとの警戒感をあらわにしている。

 政治雑誌「ナショナル・ジャーナル」は15日、「オバマ政権は広島について謝罪すべきではない」との論文を掲載。ケリー長官が広島を訪問し、平和記念資料館(原爆資料館)を参観したことなどが、「謝罪」を示唆していると批判。原爆投下が戦争終結を早めたと主張し、「日本は20世紀で最も残忍な政権の一つだった」などとした。

 また、保守系のオンライン雑誌「アメリカン・シンカー」も15日、ケリー氏の広島訪問を「日本が真珠湾で我々に攻撃を仕掛け、悲劇をもたらした事実を無視するものだ」と批判し、原爆投下への謝罪は不要だとする論評記事を掲載した。(ワシントン=佐藤武嗣)

778名無しさん:2016/04/30(土) 11:11:55
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042900557&g=pol
慰安婦合意の再交渉要求=韓国野党代表

 【ソウル時事】別所浩郎駐韓大使は29日、韓国第2の野党「国民の党」の千正培共同代表と会談した。千代表は慰安婦問題をめぐる日韓合意の「無効化」を要求し、「被害者の実質的権利を考慮した交渉が新たに行われなければならない」と指摘。また、元慰安婦と面会するよう大使に求めた。党側が発言内容を発表した。
 これに対し、別所大使は「両政府が最大限努力して達成した合意であり、誠実に履行していくことが重要だ」と強調した。(2016/04/29-20:15)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042700545&g=pol
米大統領の広島訪問を憂慮=「日本は被害者」に反発-韓国

 【ソウル時事】オバマ米大統領の広島訪問について、韓国の外交専門家やメディアからは、第2次大戦をめぐって「日本が被害者としてのみ認識されかねない」と懸念する声が出ている。
 韓国政府系シンクタンク、外交安保研究所の辛東益所長は、25日に発表した論文で「韓国や中国などでは、ドイツのように過去に対する完全な反省と謝罪がない状況で、加害者である日本が、むしろ被害者として認識されかねないという憂慮がある」と指摘。「仮に米大統領が広島を訪れるのであれば、過去の歴史を忘れないよう、第2次大戦に対する日本の責任を明確にすることが重要だ」と主張した。
 有力紙・中央日報は12日付の社説で、先のケリー米国務長官の広島訪問に関し、「日本が加害者ではなく被害者という誤ったメッセージを送らないか、気掛かりだ」と表明、オバマ大統領の訪問は「時期尚早だ」と反対した。夕刊紙・文化日報も、15日付のコラムで「日本が被害者としてのみ認識されないようにしなければならない」と強調した。(2016/04/27-14:47)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042700533&g=pol
被爆地訪問、7年越し=世論・政治情勢見極め-オバマ米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が広島訪問の意向を固めたのは、今回が任期中の最後の訪日になるのに加え、国内外の世論・政治情勢を見極め「障害はない」と確信したためだ。オバマ氏は2009年4月にプラハ演説で「核兵器なき世界」を提唱し、試練を経ながらも核軍縮や不拡散を進めてきた。被爆地訪問は常に視野に入っていたとみられ、7年越しの実現となる。
 オバマ氏は09年11月に初訪日した際、「広島と長崎を将来訪れることができたら、非常に名誉なこと。私にとって非常に意味がある」と語った。(2016/04/27-14:37)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042700521&g=pol
オバマ氏、5月広島訪問=「核なき世界」推進訴え-現職米大統領で初・来週にも発表

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は26日、1カ月後に迫った主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に合わせて、広島を訪問する意向を固めた。来週後半の正式発表を目指し、詰めの調整を進める。複数の日米当局者が明らかにした。実現すれば、オバマ氏は現職米大統領として初めて訪れる被爆地で、自身が唱える「核兵器なき世界」を推進する重要性を訴える。
 サミット最終日の5月27日、会議終了後に空路で広島に移動する案が有力視されている。平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花し、演説することも検討。日本側に訪問計画を伝えた上で、事前調査に当たる「先遣隊」を現地に送る。治安上の理由から、旅程の詳細は直前まで公表されないのが通例だ。(2016/04/27-14:13)

779名無しさん:2016/05/04(水) 15:38:52
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050300090&g=pol
原爆投下、謝罪は不要=米報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は2日の記者会見で、米国による広島と長崎への原爆投下について、オバマ大統領は日本に謝罪すべきだとは考えていないと述べた。オバマ大統領は、5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の出席に合わせて広島を訪問する意向を固め、最終調整している。(2016/05/03-09:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050300215&g=pol
「韓国が決めることでない」=米大統領広島訪問、論評せず

 【ソウル時事】オバマ米大統領が広島訪問に向け詰めの調整を行っていることについて、韓国外務省当局者は3日、「第三国の大統領がどこに行くかという問題は、大統領が決定することであって、韓国が決めることではない」と述べた。韓国のメディアや外交専門家からは「日本が戦争の被害者としてのみ認識されかねない」と懸念する声が出ているが、広島訪問の是非に関し、論評しない立場を示した。(2016/05/03-16:35)

780名無しさん:2016/05/05(木) 18:55:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050500045&g=pol
広島訪問の予定なし=独首相

 【ベルリン時事】ドイツのメルケル首相は4日(日本時間5日)、安倍晋三首相との共同記者会見で、今月下旬の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に合わせた広島訪問について、「私のスケジュールは伊勢志摩だ。それ以外を訪問する予定はない」と明らかにした。(2016/05/05-05:30)

781名無しさん:2016/05/14(土) 13:08:42
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051400159&g=pol
「核犯罪者の正体隠す目的」=オバマ氏の広島訪問非難-北朝鮮

 【ソウル時事】14日付の北朝鮮の労働党機関紙・労働新聞(電子版)は、オバマ米大統領の広島訪問決定について「核の犯罪者としての正体を隠そうとしている」と非難した。「オバマ(大統領)が唱える『核兵器のない世界』は欺瞞(ぎまん)だ」と題した記事で、「歴史は、米国こそが核犯罪国家であることを示している」と主張した。(2016/05/14-12:33)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051300535&g=pol
米大統領広島訪問「喜ばしい」=日系人収容経験者のミネタ元長官

 【ワシントン時事】第2次世界大戦中の日系人強制収容所の跡地保存に取り組む全米各地の日系人を集めたパーティーが12日夜、ワシントンの駐米大使公邸で開かれた。ノーマン・ミネタ元米運輸長官はオバマ大統領の広島訪問について、収容所に入れられた経験を持つ立場からも「喜ばしい」と歓迎した。(2016/05/13-14:36)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051300137&g=pol
日米70年の進展で所感=米大統領の広島メッセージ

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は12日の記者会見で、オバマ大統領が27日の広島訪問で発信するメッセージについて、「日米関係の重要性と戦後70年の著しい進展について所感を述べることになるだろう」と述べた。
 報道官は「日米は(約)70年前には戦争をしていたが、現在は幅広い問題で協力している。両国が築き上げた素晴らしい進展の証しだ」と語った。さらに、広島でのオバマ氏の発言の詳細は分からないが、「大統領は厳粛な場所で感じたことを共有する」と話した。(2016/05/13-08:39)

782名無しさん:2016/05/14(土) 13:40:25
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051200646&g=pol
広島訪問、半年前から模索=オバマ氏側近動く-日米世論の動向が決め手

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日、現職米大統領として初めて広島を訪れる。オバマ氏は、被爆地訪問を「核兵器なき世界」への取り組みと日米関係の成熟といった外交レガシー(遺産)の象徴としたい考えだ。大統領の側近は、少なくとも半年以上前から「広島」を視野に入れて動いていた。
 ◇ケネディ大使「行くべきだ」
 「もし大統領が広島を訪問したら、どんな反響があるだろうか」。核軍縮を訴える米シンクタンク「軍備管理協会」のキンボル事務局長(52)は昨年秋、ホワイトハウス高官からこう聞かれて面食らった。相手はローズ大統領副補佐官。オバマ氏が「核兵器なき世界」を唱えた2009年4月のプラハ演説のスピーチライターであり、側近中の側近だ。
 キンボル、ローズ両氏は停滞する核廃絶をどう活性化させるか意見交換していた。
 オバマ大統領の被爆地訪問は過去、訪日のたびに検討されては見送られてきた経緯がある。しかし、今回は任期最後の訪問になると大統領周辺でも強く意識されていた。
 米マンスフィールド財団のフランク・ジャヌージ理事長(51)は、広島市から依頼されて水面下で大統領訪問をホワイトハウスに要請し、昨年の早い時期から「大きな障害はない」と前向きな反応を得ていた。同氏は「ケネディ駐日大使が『大統領は行くべきだ』と明言した。可能性は高いと感じた」と話す。
 ◇オバマ氏しかいない
 大統領が広島を訪問する際の最大の懸案事項は、原爆投下に対する「謝罪」をめぐる日米世論と、歴史問題で日本と対立する韓国や中国の反応だった。あるホワイトハウス高官は「慰安婦問題をめぐる昨年12月の日韓合意が大きかった。これでケリー国務長官の広島訪問もスムーズに進んだ」と打ち明けた。
 大統領側近の一人は今年2月の時点で「広島を最初に訪問する米大統領はオバマ氏しかいない」と言明。米側の動きを察知した外務省も3月に入って大統領の被爆地訪問に備え始めた。
 オバマ大統領は3月31日、ワシントンでの安倍晋三首相との会談で「(訪日では)いろいろな意味で日米関係がさらに良くなる努力をすることを考えていきたい」と語り、日本側は広島訪問への明確なシグナルと受け止めた。

 ◇日本側「十中八九来る」
 ケリー国務長官は4月11日、広島の平和記念資料館訪問後の記者会見で「胸をえぐられるような非常に厳しい内容だ」と語った。国務省高官によると、この表現は応答要領にはなかった。
 国務省は、大統領の広島訪問について聞かれることを想定した上で、最初の質問で日本人記者を指名。ケリー氏は「米大統領もいつか来てほしいと思う」と答えた。その数日後、アーネスト大統領報道官は「人類初の被爆者がいる都市ほど『核兵器なき世界』への取り組みを象徴的に示す場所はない」と述べ、観測気球を上げた。
 米紙ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズなどはいずれも社説で広島訪問を支持。日本政府高官の一人は、日米双方で原爆投下の是非論が高まらず、世論が前向きなことから、「大統領は十中八九、広島に来る」と確信した。
 オバマ大統領は4月下旬の中東・欧州歴訪を終えた後に被爆地を訪問する意向を固め、先週後半、日本側に内々に伝達した。直ちに正式発表することも検討されたが、実際に発表されたのは、5回目の核実験を強行する恐れがある北朝鮮の労働党大会閉幕後の10日だった。(2016/05/12-23:52)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051200045&g=pol
米大統領「大々的演説」行わず=数日内に広島へ先遣隊-報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は11日の記者会見で、オバマ大統領が27日に広島を訪問した際に「メジャー・スピーチ(大々的な演説)」は行わず、被爆地を実際に訪れて感じたことを語ると明らかにした。具体的なメッセージの発信形式は日本側と調整している。
 オバマ大統領の広島訪問をめぐっては、大統領が2009年4月に「核兵器なき世界」を唱えたプラハ演説に類する大規模な演説が行われる可能性に期待が高まっていた。アーネスト氏は、そうした見方や報道は「正確ではない」と述べた。
 また、大統領がメッセージの中で被爆地・長崎に触れるかどうかについて「現時点で詳細は分からない」と話した。大統領の広島平和記念資料館(原爆資料館)視察に関しては「数日内に先遣隊が日本に到着する予定だ」と説明し、近く訪問先を最終決定する考えを示した。(2016/05/12-08:58)

783名無しさん:2016/05/14(土) 13:42:30
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051200131&g=pol
「決定は性急で遺憾」=米大統領広島訪問で韓国紙

 【ソウル時事】12日付の韓国主要紙はオバマ米大統領の広島訪問決定を社説で取り上げ、「決定は性急で、遺憾だ」(中央日報)などと批判、一定の理解を示した韓国政府とは対照的な反応を見せた。
 中央日報は「広島訪問は日本の被害者イメージのみを浮き彫りにし、真の被害者である韓国・中国など周辺国に誤ったメッセージを送ることになりかねない」と主張した。
 朝鮮日報も「日本は『ヒロシマ』を前面に立て、被害者のふりをしている」と断じ、「オバマ大統領は広島で日本の戦争責任を指摘し、悲劇の原因をつくったのが誰なのか、真の被害者が誰なのかを明確にするよう願う」と訴えた。
 東亜日報は「日本の一部では、広島訪問を謝罪と見なす雰囲気だ」と指摘。「安倍政権が日本の戦争責任回避に利用しようとするなら、決して容認しない」と強調した。(2016/05/12-08:36)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051200021&g=pol
核のない世界へ「重要な機会」=オバマ大統領の広島訪問-米紙

 【ニューヨーク時事】11日付の米紙ニューヨーク・タイムズはオバマ大統領の広島訪問に関する社説を掲載し「核のない世界というオバマ氏のビジョンを推進していくための具体的で新たな取り組みを示す重要な機会になる」と論評した。
 イランとの核合意やロシアとの新戦略兵器削減条約(新START)締結などをオバマ氏の「重要な成果」と評価する一方、「2009年に発表された『核兵器のない世界』という高尚な目標にははるかに遠い」と指摘。「広島訪問での力強いスピーチや新たな取り組み(の表明)」が、オバマ氏の威信を高める機会になると訴えた。(2016/05/12-01:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100898&g=pol
「オバマ氏の信念に立脚」=広島訪問に理解-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省当局者は11日、オバマ米大統領の広島平和記念公園訪問が決まったことについて、「『核兵器のない世界』を通じて平和と安全を求めるオバマ大統領の信念に立脚している」と述べ、理解を示した。
 また、「米国は、韓国人(朝鮮半島出身者)の被爆者も含めた犠牲者を哀悼する意味があると説明している」と語った。(2016/05/11-19:23)

784名無しさん:2016/05/14(土) 13:45:33
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100880&g=pol
安倍首相の真珠湾訪問案が浮上=日米同盟の成熟アピール

 安倍晋三首相が、日米開戦の舞台となった米ハワイ州ホノルル市の真珠湾を訪れる案が11日、政府内で浮上した。オバマ米大統領の広島訪問を受けた構想で、太平洋戦争の象徴的な地を日米両首脳が相互訪問することが、成熟した同盟関係のアピールになるとの判断からだ。11月のペルーでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に合わせた訪問が取り沙汰されている。
 日米両政府は10日、オバマ大統領が主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)のため来日した際、広島を訪問すると発表。これに関し、菅義偉官房長官は11日の記者会見で「政権発足以来、日米同盟が基本との思いの中で外交を進めてきた」と述べ、同盟強化につながるとの認識を示した。
 こうした中、首相の真珠湾訪問案が持ち上がった。政府関係者は「前からある話だ。実現へのハードルも高くない」と語った。米側からも水面下で、首相の真珠湾訪問への期待が寄せられているという。(2016/05/11-19:11)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100868&g=pol
「軍国主義の道」反省を=米大統領広島訪問で日本に-中国

 【北京時事】中国外務省の陸慷報道局長は11日の記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問について、日本側の目的が「再び軍国主義の道を歩まないと表明することであるよう希望する。この道は日本国民、アジアと世界に深刻な災難をもたらした」と述べ、各国要人を被爆地に招くに当たっては過去の戦争への反省が必要との考えを強調した。
 中国は第2次大戦を「世界反ファシズム戦争」と位置付け、侵略による大きな被害などを挙げて戦勝に果たした自らの役割を強調してきた。核廃絶への動きには賛同しつつ、原爆の惨状がクローズアップされ、日本の「加害者」としての立場が弱まることに警戒感を抱いているとみられる。
 陸局長は、原爆投下について「日本軍国主義者の頑強に抵抗する幻想を打ち砕くと同時に、多くの一般人の死傷も招いた。罪のない人々が受けた苦痛は、確かに同情に値する」と指摘。改めて軍国主義を非難する一方で、日本国民も被害者だとの認識を示した。(2016/05/11-19:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100847&g=pol
謝罪にこだわらず=米大統領の被爆地訪問で-湯崎広島知事

 広島県の湯崎英彦知事は11日、オバマ米大統領の被爆地・広島訪問に関し、原爆投下への謝罪にはこだわらない考えを示した。湯崎氏は首相官邸で記者団の取材に対し「二度と核兵器を使わせてはいけないという思いが一番強い。いろんな気持ちはぐっとのみ込んでも、その前進をしてほしいというのが、(被爆者ら)多くの皆さんの願いではないか」と述べた。(2016/05/11-18:43)

785名無しさん:2016/05/14(土) 13:50:15
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100253&g=pol
公明代表、核廃絶へ活動強化を=広島訪問、野党からも期待感

 オバマ米大統領の広島訪問について、与野党幹部から11日、評価や期待の声が相次いだ。
 自民党の佐藤勉国対委員長は記者団に「素晴らしいことだ。日米関係の努力の積み重ねが広島訪問につながった」と強調。公明党の山口那津男代表は党会合で「この歴史的意義をしっかり踏まえて日本の果たすべき役割を示し、国際社会と連携をつくり出していくことが重要だ」と語り、核廃絶に向けた日本の取り組み強化を促した。
 民進党の岡田克也代表は日本外国特派員協会での記者会見で「うれしいニュースだ。心から歓迎する。『核なき世界』に向かって大きな足跡を残すことを期待したい」と述べた。共産党の穀田恵二国対委員長は会見で「重要な前向きな変化だ」と評価した上で、大統領が原爆投下について謝罪するのが望ましいとの考えを示した。
 おおさか維新の会の松井一郎代表(大阪府知事)は府庁で記者団に「英断だ。原爆を落とした国の大統領が現場に来れば、あの兵器がいかに悲惨なものかが一番分かる」と指摘。社民党の吉田忠智党首は会見で「被爆者の声を直接聞き、原爆の悲惨さを実感してほしい」と述べ、大統領と被爆者の面会を求めた。(2016/05/11-18:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100501&g=pol
米国内で不安と期待交錯=核廃絶へ行動求める声も-オバマ大統領の広島訪問

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日に広島を訪問すると決断したのを受けて、米国内では不安と期待が交錯している。旧日本軍の捕虜となった退役軍人らは「大戦の犠牲者を忘れる訪問には反対」と主張。広島との関わりが深いアメリカン大学核問題研究所長のピーター・カズニック教授(67)は、オバマ氏の訪問は「暗黙の謝罪になる」と歓迎した。
 フィリピンで旧日本軍の捕虜が多数死亡した「バターン死の行進」を生き延びたレスター・テニー氏(95)は4月19日、オバマ大統領に宛てて手紙を送った。
 「私は(大統領に)広島行きを促すが、太平洋で自由のために犠牲になった米軍と連合国軍へ最初に謝意を示さない、どのような訪問にも反対だ」。テニー氏は1942年4月に旧日本軍に降伏、フィリピンから九州に移送され、炭鉱で「奴隷」のような扱いを受けたという。
 旧日本軍捕虜のグループ代表を務めるジャン・トンプソン氏(58)は取材に対し、「ルーズベルト大統領(当時)は欧州戦線を優先させていたため、太平洋戦線の兵士は見捨てられたと思っている。オバマ氏が過去を振り返らず、未来を語るのは彼らを傷つける」と訴える。トンプソン氏の父ロバートさんは「バターン」経験者だ。

 一方、カズニック教授は毎夏、学生を広島に引率して被爆者との交流を進めている。同教授は「広島、長崎への原爆投下は必要なかった。トルーマン大統領(同)がソ連をけん制するために使用した」と主張。オバマ氏の広島訪問を「遅過ぎたぐらいだ。大統領は今後30年間に1兆ドル以上を投じる核の近代化を求めている。行動は言葉以上にものを言う」と批判した。(2016/05/11-14:22)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100359&g=pol
安倍首相の真珠湾訪問「検討せず」=菅長官

 菅義偉官房長官は11日午前の記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問発表を受け、安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪問するとの見方が出ていることについて、「政府として検討している事実はない」と述べた。(2016/05/11-11:48)

786名無しさん:2016/05/14(土) 13:58:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100049&g=pol
受け入れ準備に着手=オバマ氏広島訪問-政府

 政府は11日、オバマ米大統領の広島訪問が正式決定したことを踏まえ、受け入れ準備に着手した。現職の大統領による初の「歴史的訪問」を成功させるため、米側との調整や警備に万全を期す。
 菅義偉官房長官は同日午前の記者会見で「犠牲になった全ての方を追悼し、核兵器のない世界を目指す国際的機運を盛り上げる極めて重要な歴史的機会になる。心より歓迎したい」と述べた。(2016/05/11-11:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100098&g=pol
民主、大統領の決断称賛=長崎訪問求める声も-米

 【ワシントン時事】米民主党下院議員トップのペロシ院内総務は10日、オバマ大統領の広島訪問が発表されたことを受けて声明を出し、「歴史的な決断は勇敢で規律ある指導力の証し。戦後の日米友好関係の大いなる進展を浮き彫りにするものだ」と称賛した。
 ペロシ氏は下院議長時代の2008年に広島を訪問しており、これまでに被爆地を訪れたことがある最高位の米要人だ。ペロシ氏は自身の訪問を振り返り、「広島は深く心を動かされる場所だ」と指摘。大統領の訪問が核軍縮・不拡散の前進につながることに期待感を示した。
 共和党からは「謝罪外交の延長線上にある。広島訪問が国を強くすることはあり得ない」(ゼルディン下院議員)との批判も出ているが、こうした声は今のところ広がりを見せていない。
 日本への原爆投下を命じたトルーマン元大統領の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエル氏は、ニュースサイトへの寄稿で「大統領には長崎へも足を運ぶ時間をつくってほしい」と求めた。ダニエル氏は「広島は原爆で破壊された最初の街であり、長崎は最後の街だ」と強調した。(2016/05/11-10:51)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100062&g=pol
オバマ氏、平和公園訪問へ=被爆者との面会は未定-米大統領報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は10日の記者会見で、オバマ大統領が27日に広島を訪問する際に広島平和記念公園を訪れると明らかにした。大統領は戦後70年の日米関係の進展を含め、訪問の意義について自らの考え方を述べるという。
 原爆死没者慰霊碑での献花や、広島平和記念資料館(原爆資料館)視察も検討されているもようだ。大統領と被爆者の面会については、報道官は「訪問計画の詳細は決まっておらず、そうした機会の有無は分からない」と述べるにとどめた。
 報道官は「大統領は米国が核兵器を使用した唯一の国として、核兵器廃絶へ世界をけん引する責任があると理解している」と指摘。「米国と世界の自由を守るために数百万人の米国人が犠牲になったことを大統領は忘れない」と強調した。(2016/05/11-09:40)

787名無しさん:2016/05/14(土) 14:00:15
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100142&g=pol
「謝罪ではない」強調=「被害者イメージ」警戒-韓国紙

 【ソウル時事】11日付の韓国各紙は、オバマ米大統領の広島訪問発表を1面などで詳細に報じた。いずれもホワイトハウスが「謝罪の意味ではない」と説明している点を強調、日本が「被害者」として映ることに警戒感をにじませた。

 東亜日報は「オバマ大統領は、広島での非核化演説を政治的業績として残したい考えを持っているが、(第2次大戦での)『加害者』日本が『被害者』のイメージを強める契機になりかねないという声も高まっている」と伝えた。
 韓国日報も「日本の『被害者コスプレ(扮装=ふんそう)』を警戒してきた韓国や中国など周辺国が反発する可能性もあり、波紋が予想される」と指摘。さらに「ホワイトハウスは謝罪の意味はないと強調しているが、大統領選期間中、共和党から攻撃を浴びる可能性がある」と報じた。(2016/05/11-08:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100025&g=pol
核軍縮の「世界的メッセージに」=国連総長-オバマ米大統領広島訪問

 【ニューヨーク時事】国連のドゥジャリク事務総長報道官は10日の記者会見で、オバマ米大統領が広島訪問を決めたことについて「潘基文事務総長は米大統領の決定を大変歓迎している」と述べた上で、「訪問が核軍縮の必要性に関する世界的メッセージになることを期待する」と強調した。(2016/05/11-01:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100020&g=pol
日米友好と同盟の成果=ケネディ駐日大使-オバマ米大統領広島訪問

 ケネディ駐日米大使は10日、オバマ米大統領の広島訪問決定に関して声明を発表し、「安倍晋三首相と一緒に訪れるという大統領の決断は、日米の友好精神と揺るぎない同盟関係のたまものだ」と歓迎した。(2016/05/11-01:16)

788名無しさん:2016/05/14(土) 14:03:19
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001011&g=pol
オバマ氏、27日広島訪問=現職米大統領で初-安倍首相も同行・日米両政府発表

 【ワシントン時事】日米両政府は10日、オバマ大統領が5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日、安倍晋三首相と共に広島を訪問すると発表した。オバマ氏は現職米大統領として初めて被爆地を訪れ、自身が唱えてきた「核兵器なき世界」への取り組みの重要性を訴える。

 広島、長崎への原爆投下がもたらした悲劇と向き合うよう米大統領に求めてきた被爆者にとって、長年の願いがかなう歴史的訪問となる。オバマ氏は任期中最後の訪日となる可能性が高く、広島訪問をレガシー(遺産)の一つにしたい考えだ。
 安倍首相は10日夜、記者団に対し、大統領の広島訪問について「全ての犠牲者を日米で追悼する機会とする」と述べ、「被爆地から核兵器のない世界への決意を発信することこそ次の世代に意義がある」と強調した。
 発表によると、大統領は22〜27日の日程でベトナムと日本を訪問し、26、27両日開かれるサミットに出席する。その際、日米首脳会談も行われる。
 大統領はサミット閉幕後に空路で広島入りし、広島平和記念公園を訪問、原爆死没者慰霊碑に献花する。ローズ大統領副補佐官はインターネット上で「大統領は原爆投下の是非を述べない。訪問は第2次世界大戦で犠牲になった全ての罪なき人々を追悼する機会となる」と語った。(2016/05/11-01:14)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001046&g=pol
オバマ米大統領、広島訪問は「象徴的」=海外メディアも速報

 オバマ米大統領による27日の広島訪問発表について、ロイター通信や英BBC放送など海外の主要メディアも速報し、大きく伝えた。
 フランスのAFP通信は、日本政府が原爆の悲惨さを知るために、世界の指導者に被爆地訪問を訴えてきた経緯を説明。「米国内外で原爆投下の是非が今も割れている中で、象徴的な訪問になる」と伝えた。また、日本に近い北朝鮮が核・ミサイル開発を続けていることも引き合いに「訪問は地域的な反響も呼ぶだろう」と分析した。
 米CNNテレビ(電子版)は「訪問によって、核爆発で多数の日本国民が死亡した感情的な場所を訪れたいというオバマ氏の望みが満たされる」と報道。かねてオバマ氏の広島訪問を促してきた米紙ニューヨーク・タイムズは「(原爆投下に対して)謝罪したと見られたくないオバマ氏にとって、重大な象徴的意味合いを持つ」と歓迎した。
 中国国営新華社通信(英語版)はワシントン発で速報。中国語版の記事では、原爆投下は「侵略戦争を発動した日本を早急に投降させるためだった」と指摘し、「長期にわたり日本は自らを第2次大戦の『被害者』として描写してきたが、原爆の攻撃を受けた歴史的背景に触れることは少ない」と批判的な見方を伝えた。
 韓国の聯合ニュースは東京発で「訪問は二度と核兵器が使われてはならないという被爆地の住民の願いと合致し、核軍縮への国際世論拡大の助けにもなると日本政府は見ている」と報道。「日本政府は強く勇気づけられている」と伝えた。(2016/05/11-00:27)

789名無しさん:2016/05/14(土) 14:03:50
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100004&g=pol
広島訪問、戦後の長い道のり象徴=米大統領副補佐官

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官は10日、インターネット上に投稿し、オバマ大統領の広島訪問について「日米両国が深く持続的な同盟の構築に向けて歩んできた長い道のりを象徴する」と歴史的な意義を強調した。(2016/05/11-00:22)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051100002&g=pol
オバマ米大統領広島訪問を評価=国連総会議長

 【ニューヨーク時事】国連のリュッケトフト総会議長は10日、オバマ米大統領の広島訪問が決まったことについて、「そこ(広島)に行き、最初の核兵器使用が多大な苦痛をもたらしたことを認識するのは極めて良いことだと思う」と評価した。国連本部で記者団に語った。議長はオバマ氏の広島訪問が核兵器の廃絶に貢献することを期待していると強調した。(2016/05/11-00:00)

790名無しさん:2016/05/14(土) 14:39:39
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051101037&g=pol
北方領土問題、立場変わらず=安倍首相の8項目案でも-ロ有力紙社説

 【モスクワ時事】11日付のロシア有力紙・独立新聞は、6日の南部ソチでの日ロ首脳会談を受けた社説を掲載し、安倍晋三首相がプーチン大統領に提案した8項目の協力プランでは「クリール諸島(北方領土を含む千島列島)をめぐるロシアの立場の大きな変更にはつながらないだろう」と予想した。
 首相は、領土交渉の「新たなアプローチ」も提案。経済協力をてこに、ロシア世論の軟化を促したい考えとされる。
 しかし、新たなアプローチについて社説は「内容や領土問題をどう打開するかは明らかにされなかった」「新たなアプローチという言葉は双方に受け入れ可能な解決策がないことを隠すために使える」と距離を置いた見方を示した。(2016/05/11-22:10)

791名無しさん:2016/05/14(土) 15:15:12
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160511/k10010517171000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_049
岸田外相 米大統領の広島訪問を核軍縮の機運に
5月11日 21時13分
岸田外務大臣は、衆議院の外務委員会で、アメリカのオバマ大統領の広島訪問を停滞している核軍縮や不拡散の国際的な機運を再び盛り上げる機会にしたいという認識を重ねて示しました。
この中で岸田外務大臣は、アメリカのオバマ大統領が、伊勢志摩サミット終了後の今月27日に、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問することについて、「犠牲者を追悼するとともに、核兵器の無い世界を目指すという国際的な機運を盛り上げる意味で、極めて重要で歴史的な訪問になると受け止めている」と意義を強調しました。
そのうえで、岸田大臣は、「二度と惨禍が繰り返されない、核兵器の無い世界の実現という高い理想に向けて、日本もアメリカも、多くの国とともに努力をしていくという思いを示したい」と述べ、停滞している核軍縮や不拡散の国際的な機運を再び盛り上げる機会にしたいという認識を重ねて示しました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160511/k10010516191000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_062
官房長官 米大統領広島訪問「核ない世界へ歴史的機会」
5月11日 11時25分
菅官房長官は臨時閣議のあとの記者会見で、アメリカのオバマ大統領の広島の訪問は、核兵器のない世界を目指す国際的な機運を盛り上げる歴史的な機会になるとしたうえで、核兵器が二度と使用されないよう、現実的な努力を積み重ねていく考えを示しました。
この中で菅官房長官は、アメリカのオバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日に被爆地・広島を訪問することについて、「犠牲になられたすべての方々を追悼するとともに、核兵器のない世界を目指す国際的機運を盛り上げるうえで、極めて重要な歴史的機会になるものと考えている」と述べました。
そのうえで菅官房長官は、「わが国としてはオバマ大統領の思いを受け止め、アメリカ政府と共に、人類に多大な惨禍をもたらした核兵器が将来二度と使用されることがないように、核兵器のない平和で安全な世界の実現を目指して現実的に着実な努力を積み重ねていくことが極めて重要だ」と述べました。
また、菅官房長官は、記者団が「日本政府として原爆投下への謝罪を求めないのか」と質問したのに対し、「オバマ大統領の広島訪問は、犠牲者を追悼し、核兵器のない世界に向けた力強いメッセージを発出するために行われると承知している」と述べるにとどめました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160511/k10010515911000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_066
オバマ大統領の広島訪問を核軍縮や不拡散の弾みに
5月11日 4時01分
日米両政府は、オバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問すると発表しました。安倍総理大臣はオバマ大統領に同行することにしていて、停滞する国際的な核軍縮や不拡散の取り組みに弾みをつけるきっかけとしたい考えです。
日米両政府は10日夜、オバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日に、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問すると発表しました。
オバマ大統領の広島訪問を巡っては、アメリカ国内に、「原爆投下は、戦争の早期終結のために必要だった」という意見が根強くあることから、日本政府は、日米関係やアメリカの国内世論への影響を考慮して、「アメリカ政府が決めることだ」として、静観する姿勢を堅持してきました。こうしたなか、オバマ大統領が広島訪問を決断したことについて、安倍総理大臣は10日夜、記者団に対し、「心から歓迎する」としたうえで、「今回の訪問を、すべての犠牲者を日米で共に追悼する機会としたい。核兵器のない世界に向けて、大きな力になると信じている」と述べました。
政府内からは、「唯一の被爆国と原爆使用国の首脳が被爆地を訪れること自体が、核軍縮に向けたメッセージになる」という指摘や、「強固な日米関係を示すよい機会になる」といった意見が出ています。
政府は、今回の訪問を通じて、オバマ大統領が目指してきた「核兵器のない世界」への国際的な機運を高めるとともに、核保有国と非核保有国の対立やアメリカとロシアの関係悪化の影響などで停滞する核軍縮や不拡散の取り組みに弾みをつけるきっかけとしたい考えです。

792名無しさん:2016/05/14(土) 15:16:15
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160510/k10010515681000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_067
政府 オバマ大統領広島訪問を発表
5月10日 21時26分
日本政府は、アメリカのオバマ大統領が今月下旬に開かれる伊勢志摩サミットに出席したあと、27日に、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問することになったと発表しました。安倍総理大臣も、広島訪問に同行するとしています。また、安倍総理大臣は、伊勢志摩サミットに合わせてオバマ大統領との日米首脳会談も行うとしています。
政府のこれまでの取り組み
政府は、核兵器廃絶に向けた国際的な機運を高めるには、被爆地で「被爆の実相」に触れることが欠かせないとして、各国の政治指導者らに、広島・長崎への訪問を呼びかけてきました。ただ、原爆を投下した当事国のアメリカに対しては、アメリカ国内に「原爆投下は、戦争を早期に終結させるために必要だった」と正当化する意見が根強くあることから、直接、働きかけを行うことは控えていました。
2009年4月、当時、アメリカの大統領に就任したばかりのオバマ大統領がチェコの首都プラハで演説し、核兵器の廃絶を目指す決意を表明しました。この「プラハ演説」を受けて、日本国内ではオバマ大統領の広島・長崎訪問への期待が高まりました。
同じ年の11月、オバマ大統領が初めて日本を訪問します。しかし、被爆地を訪れることはありませんでした。
内部告発サイト「ウィキリークス」が、日米間の水面下のやり取りの記録として公表した文書では、当時の外務省の薮中事務次官がルース駐日大使に対し、「原爆投下への謝罪の見込みがない以上、国民の期待を抑える必要があり、広島訪問は時期尚早だ」と伝えていたとされています。ただ、このときオバマ大統領は「今後、広島と長崎を訪れることができれば、名誉なことだと思う」と述べました。
アメリカ政府は、よくとしから、8月6日の広島での原爆の日の式典には必ず、駐日大使や臨時代理大使を出席させるようになりました。しかし、おととし4月にオバマ大統領が再来日した際も、被爆地の訪問は実現しませんでした。政府は「オバマ大統領が、日本側からの働きかけに応じる形で被爆地を訪問しても、アメリカの世論が許さないだろう」とみて、アメリカ側がみずから自然な形で決断できるように環境を整えてきました。
G7=主要7か国の議長国となったことし、政府は、外相会合を広島で開催。アメリカの現職の国務長官による初めての被爆地訪問が実現しました。各国外相は、そろって広島市の平和公園を訪れ、原爆の犠牲者を追悼し、原爆資料館や原爆ドームも訪問。G7として、各国の政治指導者らに被爆地への訪問を呼びかける「広島宣言」も発表しました。
政府内でも、「環境は整った」として、伊勢志摩サミットにあわせたオバマ大統領の被爆地訪問への期待が再び高まりましたが、あくまで「アメリカ政府が判断することだ」として、日本政府が表立ってアメリカ側に働きかけを行うことは控えるようにしてきました。
「核兵器のない世界」へ後押し期待
唯一の戦争被爆国の日本は、核軍縮・不拡散の実現には、世界の政治指導者が被爆地・広島、長崎を訪れて、核兵器の使用がもたらす悲惨な結末、いわゆる「被爆の実相」に触れることが欠かせないという立場です。中でも、原爆を投下した当事国であるアメリカのオバマ大統領が広島を訪問すれば、核軍縮・不拡散の国際的な機運を再び高めるきっかけになるという期待があります。
ただ、核軍縮を巡っては、世界の核兵器のおよそ90%を保有するアメリカとロシアがウクライナ情勢などで対立を強め、新たな交渉を始められるような状況にはありません。
また、国際社会をみますと、核軍縮の速やかな実現のためには、核兵器を全面的に禁止すべきだと主張する非核保有国が急速に増えつつあります。この主張は、「核抑止力による安全保障」を前提とする核保有国には、到底、受け入れられず、双方の溝は深まるばかりで、核軍縮への機運は「冷戦後最悪」とされるほど冷え込んでいました。
こうしたなか、伊勢志摩サミットに先駆けて広島で開かれた、G7=主要7か国の外相会合では、初めて、アメリカの現職の国務長官が原爆資料館を訪れて被爆の実相に触れたほか、核軍縮・不拡散の分野に特化した成果文書「広島宣言」を発表。岸田外務大臣は「歴史的な一歩」と成果を強調しました。
さらに「核兵器のない世界」を提唱し、ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領の広島訪問が実現すれば、核保有国と非核保有国の間を取り持つ役割を積極的に果たし、国際的な議論を主導したい日本にとっても、大きな後押しになると期待を強めていました。

793名無しさん:2016/05/14(土) 15:19:24
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160510/k10010515651000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_069
オバマ大統領 広島訪問へ 米現職大統領で初
5月10日 20時53分
日米関係筋によりますと、アメリカのオバマ大統領は今月下旬に開かれる伊勢志摩サミットに出席したあと、27日に現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問することを決め、日本政府に伝達しました。安倍総理大臣はオバマ大統領の広島訪問に同行する方向で調整に入りました。
アメリカのオバマ大統領は、今月26日から2日間の日程で開かれるG7=主要7か国の首脳会合「伊勢志摩サミット」に出席するため日本を訪れる予定で、これに合わせて被爆地・広島を訪問するかどうか検討を進めてきました。
ホワイトハウスのアーネスト報道官は9日の記者会見で、「核兵器のない世界」を目指すとするオバマ大統領が就任当初から任期中の被爆地訪問に前向きな姿勢を示していたと指摘したうえで、近く訪問するかどうか明らかにする考えを示しました。
こうしたなか日米関係筋によりますと、オバマ大統領は伊勢志摩サミットに出席したあと、27日に広島を訪問することを決め、日本政府に伝達しました。
安倍総理大臣は当初予定していたサミット関連行事の日程の一部を変更し、オバマ大統領の広島訪問に同行する方向で調整に入りました。
オバマ大統領が広島を訪問すれば、現職のアメリカ大統領としては初めてのこととなります。
オバマ大統領の広島訪問を巡って、日本政府内では、唯一の戦争被爆国として、核軍縮・不拡散の実現に向けた国際的な議論を主導するためにも大きな後押しになるとして、期待する意見がありました。そして、先月広島で開かれたG7外相会合では、初めてアメリカの現職の国務長官としてケリー国務長官が原爆資料館を訪れ、ケリー国務長官は「すべての人が広島に来るべきで、アメリカ大統領にもその1人になってほしい」と述べました。
一方、アメリカ国内で、原爆投下は戦争の早期終結のために必要だったという意見が根強くあることから、日本政府は日米関係への影響も考慮して静観を続けていて、菅官房長官も被爆地訪問を歓迎する考えを示しながらも、「アメリカ政府が決めることだ」と述べるにとどめていました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160514/k10010520981000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_002
米大統領の広島訪問 首相「争う心と決別する訪問に」
5月14日 12時06分
安倍総理大臣は東京・千代田区で開かれた集会であいさつし、アメリカのオバマ大統領の広島訪問について、「核のない世界」を実現するうえで大きな力になると強調し、「『争う心』と決別する歴史的な訪問にしなければならない」と、決意を述べました。
この中で、安倍総理大臣は「伊勢志摩サミットの終了後、私はアメリカのオバマ大統領とともに被爆地、広島を訪問する。アメリカの大統領が被爆地を訪問するのは戦後71年にして初めての出来事だ。被爆の実相に触れ、そのときの気持ちを思いを世界に向けて発信することが『核のない世界』を実現していく大きな力になる」と述べました。
そのうえで、安倍総理大臣は「世界で唯一の戦争被爆国の首相である私と、世界で唯一核兵器を使用した国の指導者が、ともに犠牲者に哀悼の誠をささげる、それが『核のない世界』に向けての一歩になると信じている。原爆や戦争を恨まず、人の中に巣くう『争う心』と決別する、そのような歴史的な訪問にしなければならないと決意している」と述べました。

794名無しさん:2016/05/14(土) 15:21:21
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160510/k10010515701000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_068
首相 米大統領広島訪問「核兵器のない世界へ大きな力に」
5月10日 21時22分
安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日、被爆地・広島を訪問することについて、原爆の犠牲者を日米で共に追悼する機会にしたいと述べたうえで、核兵器のない世界の実現に向けて大きな力になるという認識を示しました。
この中で安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の27日、被爆地、広島の訪問を決定したことについて、「伊勢志摩サミット終了後、オバマ大統領と共に、被爆地、広島を訪問することを決定した。オバマ大統領の広島訪問を、心から歓迎する」と述べました。そのうえで、安倍総理大臣は「70年前の原爆投下によって、たくさんの人々が無残にも犠牲となった。今回の訪問を、すべての犠牲者を日米で共に追悼する機会としたいと思う」と述べました。
そして、安倍総理大臣は「日本は、唯一の戦争被爆国として、2度とあの悲惨な体験を世界のどんな場所であっても、再び繰り返させてはならない、この思いで核兵器の廃絶を一貫して訴えてきた。今回、オバマ大統領が広島を訪問し、被爆の実相に触れ、その思いを世界に発信することは、核兵器のない世界に向けて大きな力になると信じている。そして、その世界を実現するために、オバマ大統領と共に全力を尽くしていきたい」と述べました。
また、安倍総理大臣は、記者団が「原爆の投下について、アメリカ側の謝罪は必要か」と質問したのに対し、「オバマ大統領が、実際に被爆地に足を運ぶ。それは、アメリカ大統領にとっては大きな決意だったと思う。そして、唯一の戦争被爆国の首相である私と共に、世界で唯一、核兵器を使用した国の指導者が、共に犠牲者に対して哀悼の誠をささげる。このことが、まさに被爆の犠牲となった方々、そして、今も苦しむ人々の思いに応えるものだと、私は信じている」と述べました。
外相「準備に万全を」
岸田外務大臣は、10日夜、外務省で記者団に対し、「オバマ大統領を、私も安倍総理大臣とともに広島で迎えたい。広島で行われたG7=主要7か国外相会合でのケリー国務長官の訪問に続いて、核兵器のない世界を目指すという国際的な機運を盛り上げるうえで、大変重要な歴史的な訪問になると考えている。日本政府として心から歓迎したい」と述べました。
そのうえで、岸田大臣は「私自身も被爆地出身の外務大臣として、一貫して世界の政治指導者が被爆地を訪問することが重要だと訴えてきた。心からうれしく思っているし、今後は準備に万全を尽くしたい」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160514/k10010520501000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
ロシア上院議長が広島訪問へ プーチン氏側近は断念
5月14日 5時20分
被爆地・広島への訪問を検討していたロシアのプーチン大統領側近の下院議長が訪問を断念し、代わりにロシア政界のナンバー3とされる上院議長が、ことし後半の広島訪問を調整していることが、政府関係者への取材で分かりました。
被爆地・広島を巡っては、アメリカのオバマ大統領が伊勢志摩サミット終了後の今月27日、現職のアメリカ大統領として初めて訪れることにしています。
一方、ロシアでは、プーチン大統領側近のナルイシキン下院議長が、来月中旬のロシア文化を紹介するイベントに合わせて東京を訪れる際に、原爆の犠牲者を追悼するため広島を訪問することを検討していました。
しかし、政府関係者によりますと、ナルイシキン下院議長は日本に滞在する日程の都合で、広島への訪問を断念したということです。
そして代わりに、ロシア政界のナンバー3とされるマトビエンコ上院議長がことし後半に広島への訪問を調整していることを、日本政府に伝えていたことが分かりました。
核戦力でアメリカと対じするロシアとしては、有力な政治家を広島に派遣し、アメリカによる原爆投下を批判するとともに原爆の被害に向き合う姿勢も示すことで、核を巡る議論がアメリカ主導で進まないよう存在感を示すねらいがあるものとみられます。

795名無しさん:2016/05/14(土) 15:22:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160513/k10010519431000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_022
広島市長 米大統領と被爆者の対話機会を要請へ
5月13日 13時05分
広島市の松井一実市長は記者会見で、アメリカのオバマ大統領が広島を訪れる際、被爆者との対話の機会を設けるよう、外務省に要請する考えを示しました。
オバマ大統領は、伊勢志摩サミットに出席したあとの今月27日に、現職のアメリカ大統領として初めて被爆地、広島を訪問し、大々的な演説は行わないものの所感を述べる予定です。
これについて、広島市の松井一実市長は13日の記者会見で、「核軍縮への決意を示した7年前のプラハ演説を一歩でも二歩でも進めるような内容があればいい。『このような思いを誰にもさせてはならない』という被爆者の思いをきちんと受け止めたことが分かるようなメッセージを出してほしい」と述べ、被爆者の思いを踏まえたメッセージの発信に期待感を示しました。そのうえで松井市長は「滞在時間との関係もあるが、被爆者と対面するようなことができないか、被爆者の思いを受け止めたと分かるような対応をしてもらえるよう、外務省に伝えようと思う」と述べ、被爆者との対話の機会を設けるよう外務省に要請する考えを示しました。

796名無しさん:2016/05/15(日) 11:46:43
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001051&g=pol
オバマ米大統領広島訪問、与野党が歓迎=核廃絶へ行動促す

 オバマ米大統領の広島訪問について、与野党からは10日、歓迎と併せ、核廃絶に向けた行動を促す声が相次いだ。
 自民党の二階俊博総務会長は東京都内で記者団に「日米のために大変良いこと、立派なことだ。再び悲劇を繰り返すことのないよう、両首脳がしっかり誓ってほしい」と強調。公明党の斉藤鉄夫幹事長代行は記者団に「感慨深い。核なき世界へ米国がリーダーシップを取る方向となるよう望む」と述べるとともに、大統領に広島平和記念資料館も見てもらいたいとの考えを示した。
 民進党の福山哲郎幹事長代理は取材に対し、「歓迎したい。原爆の悲惨さを受け止め、核兵器のない世界に向けて一層尽力していただきたい」と期待を示した。一方、共産党の志位和夫委員長は談話で「前向きの一歩だ」と評価しつつ、「(米国は)核兵器禁止条約を求める世界の声に背を向けてきた態度を改めることが必要だ」と指摘した。(2016/05/10-23:47)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001019&g=pol
「理性と良心に基づく英断」=広島市長ら-オバマ米大統領広島訪問

 広島市の松井一実市長は10日、オバマ米大統領の広島訪問が決まったことについて「大統領の理性と良心に基づく英断を心から歓迎する」とのコメントを発表した。この中で松井市長は、大統領が2009年に提唱した「核兵器のない世界の実現」に向け、「世界の政治指導者が共に歩みを進めるような具体的な道筋を示してほしい」と強調した。
 広島県の湯崎英彦知事もコメントを発表し、「停滞している核兵器廃絶の動きを再起動させる力強いメッセージを発信してほしい」と求めた。(2016/05/10-22:39)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051001006&g=pol
米世論の変化が後押し=オバマ氏広島訪問

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が被爆地・広島の訪問を決断した背景には、「核兵器なき世界」を目指す大統領自身の強い意志に加え、戦後70年以上を経て原爆投下に対する米社会の考えが大きく変化したことがある。オバマ氏は任期の締めくくりをにらみながら、機が熟したと判断したようだ。
 原爆を投下した米国の大統領による被爆地訪問の可能性は、オバマ氏の登場以前から問われてきた。ブッシュ前大統領は2008年7月の任期中最後の訪日前、ワシントンで日本人記者に米大統領の広島訪問をどう思うか聞かれたが、「興味深い考えだ」と答えるにとどめている。
 恐らくこの時、ブッシュ氏だけでなく質問した記者も、現職大統領が近い将来、被爆地を訪れるとは本気で思っていなかっただろう。米大統領の訪問自体が日本への「謝罪」と受け取られかねず、米国民の過半数が原爆投下を正当化する中では現実的な選択肢ではなかったためだ。
 一方、戦後の70年間で原爆に対する米社会の態度は確実に変化した。米調査機関ギャラップ社が原爆投下直後の1945年8月10〜15日に実施した調査によると、米国民の85%が支持していた。60年後の2005年の調査では、支持と答えたのは57%だった。
 米調査機関ピュー・リサーチ・センターが15年4月に行った調査では、56%が原爆投下を正当化したものの、18〜29歳では支持が半数を割った。イラン核問題の外交解決を主導したシャーマン前国務次官は、「将来、米国人の過半数が原爆投下を『誤り』と思うかもしれない」と指摘する。
 オバマ大統領は09年4月のプラハ演説で「核兵器を使用した唯一の国として、行動する道義的な責任がある」と表明。翌10年から駐日米大使ら米政府高官が毎年、広島、長崎を訪れるようになった。
 オバマ氏による被爆地訪問は、同氏の取り組みに米社会の変化が相まって現実味を増し、4月のケリー国務長官の広島訪問を日米の世論が前向きに受け止めたことで、実現することになった。(2016/05/10-22:00)

797名無しさん:2016/05/15(日) 11:48:57
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051000987&g=pol
核なき世界へ弾み=広島・長崎、広がる期待-「誤り認めて」要望も・オバマ氏訪問

 オバマ米大統領が27日、現職大統領として初めて被爆地広島を訪問する。「『核なき世界』へ弾みになる」。広島だけでなく長崎でも歓迎と期待の声が高まる中、「原爆投下が間違いだったと認めてほしい」との意見も出た。
 4月に広島市で開催された先進7カ国(G7)外相会合。ケリー米国務長官ら核保有国の外相は初めて広島平和記念資料館を訪れた。予定外の原爆ドーム視察も行われた。
 同行した広島平和文化センター理事長の小溝泰義さん(68)によると、外相らは資料館訪問に予定の倍近く約50分を費やした。ドームに歩いて向かった際は、ケリー氏の表情や発言などから「迷いがなく、ふっきれた」ような印象も受けたという。小溝さんは「核兵器のない世界に向け、重要なメッセージを発する場所として広島が適切だと確信し、大統領に伝えたのでは」と語る。「大統領に具体的なメッセージを出してもらえれば、核のない世界に向け弾みになる」と期待する。
 長崎でも歓迎の声が広がった。被爆者でつくる合唱団「ひまわり」のメンバー長岡幸生さん(78)は「米国では原爆を正当化する議論もありジレンマかもしれないが、被爆地に来て『核なき世界』をもっと強く訴えてもらいたい」と話した。
 核兵器廃絶に向け活動する「ナガサキ・ユース代表団」に昨年参加した長崎大4年の西田千紗さん(21)は「平和記念資料館を見て、自分たちが持つ核兵器がどんなものなのか知ってほしい」と訴える。「過去に何があったのか受け止めて、同じことを繰り返さないようにリーダーシップを取って」と注文した。
 一方、市民団体「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の共同代表、森滝春子さん(77)は歓迎ムード一辺倒の流れを懸念する。森滝さんの父は爆心地から4キロで被爆し、右目を失明した。父の姿に、森滝さんは「原爆がもたらした未曽有の悲惨さを理屈ではなく体で感じた」。「訪問は歓迎、謝罪は求めないと被爆者に言わせる風潮がある。親や身内を奪われた人にとって、許せる行為ではない」と指摘した。
 オバマ氏には「原爆投下が歴史的な間違いだったと表明して」と要望。「明確に表明しなければ、(訪問は)単なるポーズと言われても仕方ないのでは」と話した。(2016/05/10-21:29)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051000648&g=pol
月内にも準備委発足=元慰安婦支援の財団-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は10日の記者会見で、昨年末に日韓が合意した元慰安婦を支援する財団の設立に関し、「上半期の設立を目標としており、月内にも準備委員会を発足させる方針だ」と述べた。
 報道官は「合意履行に当たって最も重要なのは被害者の意見」と強調。関連省庁の当局者が元慰安婦を訪ね、合意内容の説明を続けていることを明らかにし、「財団設立に際し、被害者の意見が十分反映されるよう努めている」と語った。(2016/05/10-16:20)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051000136&g=pol
訪日日程「近く発表」=米大統領報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は9日の記者会見で、オバマ大統領の5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)出席を含むベトナム、日本の歴訪日程について「近く発表されるだろう」と述べた。
 また、大統領が今回、広島訪問を希望しているかどうかを聞かれて「大統領は2009年に訪日した際、広島訪問に関心を抱いていると述べた」と話し、オバマ氏が望んでいると示唆した。(2016/05/10-08:52)

798名無しさん:2016/05/15(日) 11:49:44
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050900363&g=pol
4島帰属解決の方針不変=菅官房長官

 菅義偉官房長官は9日午前の記者会見で、北方領土問題を含む平和条約交渉の進展に向け安倍晋三首相とプーチン・ロシア大統領が6日の会談で合意した「新しいアプローチ」に関し、「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結するという日本側の基本的立場に変わりはない」と強調した。(2016/05/09-13:01)

799名無しさん:2016/05/15(日) 20:06:04
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051500064&g=pol
少女像問題「解決できる」=元慰安婦支援財団、6月にも設立-準備作業の元韓国外相

 【ソウル時事】慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づいて設立される元慰安婦支援財団の準備作業に参加している柳明桓元韓国外相は、ソウルの日本大使館前の少女像撤去問題について「解決できると考えている。ただ、今話し合う段階ではない」と強調した。時事通信のインタビューに応じた。
 財団設立に向けた非公式作業グループの諮問役を務める柳氏は、「近く設立準備のための発起委員会を開き、6月にも財団を設立できるように努力している」と述べた。財団設立と少女像問題を切り離し、合意履行を進めていくべきだという立場を明確にした。
 財団設立の準備に関しては「活動の目的、方法などに関する定款をつくり、財団を構成する理事の候補を広い範囲から募る」と説明。「誰が理事になるかは、まだ分からない。民間人の女性指導者が担わなければならないだろう」と語った。
 少女像問題では「(韓国)政府が先に『ああしろ、こうしろ』と言えば、むしろ反発を招く」と指摘。「政府は政府がやるべきことをやり、元慰安婦が政府の措置に賛成するようになったら、次の段階で元慰安婦や設置した団体と話し合い、解決方法を検討しなければならない」と述べた。
 また、柳氏は「(慰安婦問題に関する合意で)政治的な和解ができたので、今年、来年は韓日関係が良くなると思っている」と楽観。「今年は日本で開かれる韓中日首脳会談など、安倍晋三首相と朴槿恵大統領が会う機会が何度もある。首脳が頻繁に会談すれば、関係発展への期待感が持てる」と表明した。(2016/05/15-14:34)

800名無しさん:2016/05/15(日) 20:06:35
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160515/k10010521741000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_004
沖縄 本土復帰44年「平和行進」で基地閉鎖など訴え
5月15日 11時52分
沖縄が本土に復帰してから、15日で44年となるのに合わせて、市民団体や労働組合が基地の閉鎖などを訴えて県内各地を練り歩く「平和行進」が行われ、およそ2000人が参加しました。
この「平和行進」は、市民団体や労働組合が沖縄が本土復帰した5月15日に合わせて毎年行っているもので、ことしは主催者の発表でおよそ2000人が3つのコースに分かれて、13日から県内各地を練り歩いてきました。
最終日の15日、那覇市内の公園では午前9時ごろ、700人余りが行進に出発し、「基地の県内移設反対」などとシュプレヒコールを上げていました。
3日間の行進で参加者は、返還合意から20年がたった普天間基地や、移設先とされる名護市辺野古のキャンプシュワブなど、アメリカ軍基地の周辺や沖縄戦の激戦地などを巡り、戦争の悲劇を繰り返さないことや基地の閉鎖や撤去を訴えたということです。
那覇市の30代の女性は「沖縄から世界に向けて平和のメッセージを届けたいと思い、参加しました。こうした小さな取り組みが大きな力に広がっていってほしいと思います」と話していました。また、北海道から参加した20代の男性は「基地を減らすためには、沖縄だけでなく県外の人も一緒になって声を上げることが大切だと感じました」と話していました。

801とはずがたり:2016/05/20(金) 03:13:05
カナダ首相が100年ぶり謝罪…インド人乗せた日本の「駒形丸」入国拒否事件で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160519-00000501-san-pol&pos=2
産経新聞 5月19日(木)10時14分配信

 【ニューヨーク=上塚真由】カナダのトルドー首相は18日、1914年に日本籍の汽船でカナダに入国しようとしたインド系の移民希望者らを拒否した「駒形丸」事件について、下院で公式に謝罪した。約100年前のカナダ政府の移民制限強化措置を批判し、受け入れ拡大の姿勢を改めて強調した格好だ。

 トルドー氏は「カナダ政府を代表し駒形丸事件を謝罪する。100年以上前のことだが、ひどい不正が行われた」と強調。「乗客が経験した痛みや苦しみはどんな言葉をかけても消えることはない」と述べた。

802名無しさん:2016/05/22(日) 16:02:26
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051600005&g=pol
広島訪問、正しい決断=「謝罪しない」と米大統領補佐官

 【ワシントン時事】ライス米大統領補佐官(国家安全保障担当)は15日放送のCNNテレビの番組で、オバマ大統領が27日に広島を訪問することを「正しい決断だ」と明言した。その上で、「日本は(原爆投下に)謝罪を求めていない。われわれも(謝罪を)しない」との立場を明らかにした。
 一部メディアは、ライス氏が中国との関係を重視して大統領の訪問に「後ろ向きだった」と伝えていた。
 ライス氏はまた、大統領が広島訪問の際、戦後の日米同盟の進展を強調するため「協力関係にある米軍兵士と自衛官らと面会する機会がある」と明らかにした。さらに、戦争による市民の甚大な被害や、大統領が唱える「核兵器なき世界」への取り組みについてメッセージを発信すると説明した。(2016/05/16-00:28)

803名無しさん:2016/05/22(日) 16:41:23
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160516/k10010522501000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_125
米大統領広島訪問 補佐官「謝罪はしない」
5月16日 10時51分
アメリカ、ホワイトハウスのライス大統領補佐官は、オバマ大統領の被爆地、広島への訪問について、「興味深いことに、日本側は謝罪を求めていないし、われわれはいかなる状況でも謝罪はしない」と述べ、原爆投下の是非を議論することはないという考えを改めて強調しました。
アメリカのオバマ大統領は、伊勢志摩サミットに出席したあとの今月27日に、現職のアメリカ大統領として初めて、被爆地・広島を訪問する予定です。
これについて、ライス大統領補佐官は15日、アメリカCNNテレビのインタビューで、「興味深いことに、日本側は原爆投下の再評価や謝罪を求めてこなかったし、われわれはいかなる状況でも謝罪はしない」と述べ、オバマ大統領の広島訪問が、原爆投下の是非の議論につながることはないという考えを改めて強調しました。そのうえで、ライス補佐官は「今回の大統領の訪問の第1の目的は、多くの民間人が犠牲になる戦争の大きな代償に目を向けることだ」と述べ、すべての戦争の犠牲者を追悼することが訪問の目的だと説明しました。また、ライス補佐官は「第2の目的は、核兵器のない世界の実現を訴えることだ」と述べ、停滞している核軍縮の機運を再び高めるためのメッセージを発信したいという考えを示しました。
ライス補佐官は先週、退役軍人の団体の代表などと会合を開き、こうした考えを説明しており、アメリカ国内に原爆投下を謝罪しないよう求める声があることに配慮しているものとみられます。

804名無しさん:2016/05/22(日) 16:47:17
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160519/k10010527271000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_051
米大統領の広島訪問 謝罪より非核化の努力が重要 菅長官
5月19日 18時16分
菅官房長官は午後の記者会見で、アメリカのオバマ大統領の広島訪問について、原爆投下への謝罪の有無というよりも、核兵器のない平和で安全な世界の実現を目指し、アメリカ政府とともに努力を重ねることが重要だという認識を示しました。
アメリカのオバマ大統領の広島への訪問を巡り、ライス大統領補佐官は「興味深いことに日本側は原爆投下への再評価や謝罪を求めてこなかったし、われわれはいかなる状況でも謝罪はしない」と述べました。
これについて菅官房長官は午後の記者会見で、「わが国としては、70年を経たきょう、謝罪の有無というよりも、アメリカ政府とともに、人類に多大な惨禍をもたらしうる核兵器が将来2度と使用されるようなことがないよう、核兵器のない平和で安全な世界の実現を目指して、現実的、そして着実に努力を積み重ねていくことが重要だと考えている」と述べました。
そのうえで、菅官房長官は、「わが国として、核兵器のない世界に向けた力強いメッセージを発出するため、大統領の思いを受け止め、広島訪問を心から歓迎する」と述べました。

805名無しさん:2016/05/22(日) 17:28:52
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051900067&g=pol
広島メッセージは数分間=「簡素なセレモニー」計画-オバマ米大統領・広島訪問

 【ワシントン時事】米国家安全保障会議(NSC)のクリテンブリンク・アジア上級部長は18日、ワシントンで記者会見し、オバマ大統領が27日に広島平和記念公園を訪れる際、訪問を受けたメッセージとして数分間発言する意向であることを明らかにした。また、「簡素で威厳のあるセレモニー」を計画していると説明した。
 大統領と被爆者の面会などについては「全体像が固まっていない」と回答を回避。ただ、「訪問は核兵器なき世界への決意を再確認する一方、罪なき全ての戦没者を追悼し、日米両国が歩んできた道のりを象徴的に示すものだ」と述べ、大統領のメッセージや日程はこれらの目的に沿うと説明した。(2016/05/19-06:45)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051900092&g=pol
広島訪問、米国民は好意的=大統領報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は18日の記者会見で、オバマ大統領の広島訪問について「この国には支持しない人もいるだろうが、政権に寄せられている反応の圧倒的多数は積極的か少なくとも好意的だ」と説明した。
 アーネスト氏は「第2次大戦を戦った人々にもそれは当てはまると思う。彼らの多くも日米関係が根本的に変容したことに同意するだろう」と語った。(2016/05/19-07:26)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051900884&g=pol
韓国の被爆者団体代表ら訪日へ

 【ソウル時事】韓国の被爆者団体「韓国原爆被害者協会」は19日、協会の成洛亀代表らがオバマ米大統領の広島訪問に合わせ、日本を訪れると発表した。27日に大統領との面会を要請する計画で、大統領に対し、韓国人被爆者への謝罪や賠償を求める書簡を渡したいという。(2016/05/19-20:59)

806名無しさん:2016/05/22(日) 17:29:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051900610&g=pol
歴史問題克服目指す=米大統領、被爆地・広島へ-対越関係の完全正常化図る

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は22〜27日のベトナム、日本両国訪問で、かつて戦火を交えた両国との間にある歴史問題の克服を目指す。ベトナムでは、1995年に回復した国交の完全正常化の象徴となる武器禁輸の全面解除の可能性が議題の一つとなる見通し。日本では主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後、現職大統領として初めて広島を訪問する。
 オバマ大統領のアジア訪問は2009年1月の就任以来10回目で、うち訪日は4回目。米大統領のベトナム訪問は75年の戦争終結後、3人目となる。
 国家安全保障会議(NSC)のクリテンブリンク・アジア上級部長は18日の記者会見で、域内の新興国との関係構築と同盟国との協力強化はオバマ政権が掲げるアジア太平洋へのリバランス(再均衡)政策の「重要な2大要素だ」と説明した。
 一方、中国が反発している対越武器禁輸全面解除の可能性については「武器売却はベトナム国内の人権問題などを考慮しながら、個別に判断する」と述べるにとどめた。
 大統領はハノイでチャン・ダイ・クアン国家主席、共産党のグエン・フー・チョン書記長らと会談。安保と経済の両分野に加えて、軍事交流を含む両国の関係強化や、中国が進出する南シナ海問題への対応について意見交換する。
 大統領は「ベトナム戦争後の世代の大統領」(元米政府高官)として、米越関係の過去の戦争の記憶を拭い去り、現在・未来を見渡す演説をハノイで行う予定だ。
 広島訪問では、オバマ大統領は平和記念公園で数分間の発言を行う。メッセージは被爆地を視察して感じたことが中心となるが、核兵器を使用した唯一の国としての責任に言及して「困難な歴史問題を直視し、現在の日米関係の進展と未来をたたえる」(同上級部長)内容になるとみられる。簡素な式典も執り行う。(2016/05/19-16:23)

807名無しさん:2016/05/22(日) 17:37:36
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052000108&g=pol
広島と長崎「核の犠牲の象徴」=オバマ大統領が言及へ-米高官

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官(戦略広報担当)は19日、電話で記者会見し、オバマ大統領が27日の被爆地・広島訪問で発信するメッセージに関して「(被爆地の)広島と長崎は罪なき人々の犠牲と核兵器による犠牲の両方の象徴」であることに言及する見通しを示した。
 ローズ氏によると、大統領は広島平和記念公園を視察し、原爆死没者慰霊碑に献花。その後、数分間のメッセージを発信する。安倍晋三首相も同行する。簡素な式典を執り行う予定だが、被爆者と面会する機会があるかどうかは「最終決定していない」と説明した。
 メッセージの内容については「指導者と市民は戦争による莫大(ばくだい)な犠牲に留意しなければならない。罪なき人々の犠牲を決して忘れることはできない」とも語った。また、「大掛かりな演説をする場ではない」と指摘し、核軍縮への新政策などは発表しないと話した。
 ローズ氏は一方、安倍首相が日米開戦の舞台となった米ハワイ州ホノルル市の真珠湾を訪れる案に関して「オバマ大統領の広島訪問とつながりはない。首相が自身で決めることだ」と述べた。(2016/05/20-08:30)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052000533&g=pol
広島・長崎の惨禍意識=日米関係強化に寄与-大統領の被爆地訪問・アジア上級部長

 【ワシントン時事】米国家安全保障会議(NSC)のクリテンブリンク・アジア上級部長は19日、オバマ大統領の広島訪問を控えて時事通信との会見に応じた。上級部長は「大統領は困難な歴史的事実を真っ向から誠実に直視したいと考えている」と述べ、原爆投下への謝罪はしないものの、広島・長崎の惨禍を強く意識した訪問になるという見通しを示した。また、広島訪問は「日本政府と日本国民との関係を一段と強化し、絆をさらに深める」と明言した。
 クリテンブリンク氏は広島訪問の意義として、「大統領は核兵器なき世界への取り組みを訴える意向だ。核兵器を使用した唯一の国として、米国には特別な責任がある。広島はこのメッセージを伝えるのに非常に効果的な場所だ」と説明。「大統領は戦争、特に広島での全ての犠牲者に哀悼の意を表したいと考えている」と述べた。
 さらに、「この訪問により、戦争と核兵器の使用で人々が途方もない苦しみを味わったことに世界がはっきりと注目する」と、大統領訪問の象徴的な意味を強調した。ただ、謝罪はしない立場を改めて表明。4月のケリー米国務長官の広島訪問が日本で好意的に受け止められたとし、「大統領訪問も同様だと予想している」と話した。
 クリテンブリンク氏はまた、長崎の原爆犠牲者に対しても「広島と長崎がつながっているという事実を強く意識している」と確認。「大統領訪問の間に、その事実を何らかの方法で明示することができるだろう」と、長崎の犠牲者への配慮を示す方針を明らかにした。
 一方、オバマ政権が核兵器の近代化に取り組んでいるという批判に対しては「大統領は核兵器がある限り、安全に維持する責任があると明言している」と指摘した。また、「米国民と日本のような同盟国の安保にも責任があり、核兵器と抑止力はなお重要な役割を果たしている」と理解を求めた。(2016/05/20-14:55)

808名無しさん:2016/05/22(日) 18:19:46
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052100176&g=pol
原爆投下の検証写真寄贈=政権幹部向け説明資料-米シンクタンク

 【ワシントン時事】原爆開発の「マンハッタン計画」を指揮した米陸軍のレズリー・グローブズ中将(最終階級、故人)がトルーマン政権幹部に広島、長崎への原爆投下の効果について説明する際に用いた写真パネルなど24点が、広島市の平和記念資料館(原爆資料館)に寄贈される方向で調整が進んでいることが21日、分かった。
 資料を保管しているシンクタンク「スティムソン・センター」によると、写真パネルは24点のうち21点。1945年8月の投下直後の広島の市街地を撮影した写真や、長崎への投下時に立ち上るきのこ雲などを捉えている。
 同センターのマイケル・クレポン共同創設者は「核兵器を二度と用いてはならないと思い起こすために保管してきた。資料館の使命も同じで、より多くの人が目にする機会を得られるよう寄贈を決めた」と述べた。(2016/05/21-14:38)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052100106&g=pol
核使用国の「特別な責任」言及=広島訪問時メッセージ-米大統領

 【ワシントン時事】シュルツ米大統領副報道官は20日の記者会見で、オバマ大統領が27日の広島訪問の際に発信するメッセージについて「核兵器を使用した世界で唯一の国として、米国が持っている特別な責任を認めることになると予想している」と述べ、大統領が米国の「特別な責任」に言及するとの見通しを示した。(2016/05/21-09:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052200020&g=pol
日越歴訪、広島で追悼へ=沖縄の女性遺棄事件も協議か-米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は21日、ベトナム、日本を歴訪するため、専用機でワシントン郊外のアンドルーズ空軍基地を出発した。日本滞在中、現職大統領として初めて被爆地である広島を訪問し、全ての犠牲者を追悼する。
 安倍晋三首相は20日、沖縄県の女性会社員死体遺棄事件で米軍属の男が逮捕されたことを受け「徹底的な再発防止など厳正な対応を米国側に求めたい」と述べた。大統領との会談で対策の徹底を求める構えだ。(2016/05/22-06:45)

809名無しさん:2016/05/22(日) 20:54:18
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051700809&g=pol
慰安婦合意の履行確認=日韓議会

 日韓議会未来対話の第1回会合が17日、衆院議員会館で開かれ、慰安婦問題に関する昨年末の政府間合意を着実に履行していくことを確認した。韓国側団長の鄭義和国会議長は閉会式で「両国民の間で温度差がある。本質は人権問題であり、被害者の尊厳と名誉の回復が何よりも大事だ」と述べ、日本側に誠実な対応を求めた。
 韓国側は3月に施行された安全保障関連法を取り上げ、懸念を表明。これに対し、日本側団長の大島理森衆院議長は「日本の基本は平和主義だ。ぜひ(韓国内で)伝えていただきたい」と理解を求めた。双方は北朝鮮の核・ミサイル開発問題での連携も確認した。(2016/05/17-19:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051700847&g=pol
日韓、慰安婦合意の履行急ぐ=朴氏側近辞任で不透明感も

 日韓両政府は17日、東京都内で開いた外務省局長協議で、慰安婦問題に関する昨年末の合意を「着実、迅速に履行していく」ことで一致した。しかし、韓国側では、4月の総選挙で与党セヌリ党が惨敗し、朴槿恵大統領側近だった知日派の大統領秘書室長が辞任するなど、不透明感も増している。
 石兼公博アジア大洋州局長は韓国の鄭炳元外務省東北アジア局長との17日の協議で、元慰安婦を支援する財団設立などについて協議した。鄭氏は会談後、記者団に「早い時期に財団を設立できるよう準備している」と語った。月内に財団の準備委員会を立ち上げ、6月にも発足させる方針だ。(2016/05/17-19:44)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051800068&g=pol
原爆の代償「直視して学ぶ」=大統領の広島訪問で-米副補佐官

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官(戦略広報担当)は17日、ワシントン市内で講演し、オバマ大統領の27日の広島訪問について「(原爆投下による)莫大(ばくだい)な被害を認識することになる。大統領は『核兵器なき世界』に取り組むだけでなく、歴史を直視して学ぶことが重要と信じている」と語った。(2016/05/18-06:35)

810名無しさん:2016/05/22(日) 20:58:08
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051700035&g=pol
日韓局長、合意の履行確認=慰安婦支援財団設立へ調整

 外務省の石兼公博アジア大洋州局長は17日午前、同省で韓国の鄭炳元外務省東北アジア局長と会談し、慰安婦問題に関する昨年末の政府間合意を着実に履行していくことを確認した。協議では、元慰安婦支援のため、日本が約10億円の資金を拠出して韓国が設立する財団について意見交換した。韓国政府は6月にも財団を発足させる考えを示している。
 協議は4月にソウルで行われて以来。韓国では総選挙で与党セヌリ党が惨敗し、慰安婦問題の日韓合意に尽力した李丙※(※王ヘンに其)大統領秘書室長が辞任しており、合意実施へ道筋を付けられるどうかが課題となる。(2016/05/17-13:03)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051600658&g=pol
慰安婦合意履行へ協力を=韓国国会議長と会談-大島議長

 大島理森衆院議長は16日午後、韓国国会の鄭義和議長ら超党派議員団と国会内で会談した。大島議長は、昨年末の慰安婦問題に関する日韓合意について「私どもも誠実に実行していかなければならない。サポートしたい」と述べ、履行に向けた日韓の議会の協力を提起した。日本側によると、韓国側はこの問題に言及しなかった。
 鄭議長らは17日に開かれる第1回日韓議会未来対話に出席するため来日した。(2016/05/16-18:01)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016051600470&g=pol
元慰安婦支援めぐり協議=日韓局長、17日会談

 日韓両政府は16日、外務省局長級協議を17日に東京で開催すると発表した。慰安婦問題に関する昨年末の日韓合意を踏まえ、韓国側は6月にも元慰安婦を支援する財団を発足させたい考えで、実務者レベルで調整を進める。
 協議は4月にソウルで行われて以来で、日本側から石兼公博アジア大洋州局長、韓国側から鄭炳元東北アジア局長が出席する。日韓合意では、元慰安婦支援の財団に日本側は10億円程度を拠出することになっている。(2016/05/16-15:06)

811名無しさん:2016/05/23(月) 07:38:07
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160522-00000057-mai-int
<米大統領広島訪問>元米兵捕虜も立ち会いへ 米政府が要請
毎日新聞 5月22日(日)21時13分配信

 【ハノイ西田進一郎】オバマ米大統領が27日に被爆地・広島を訪問する際、第二次世界大戦中の元米兵捕虜も立ち会うことが22日、分かった。1942年にフィリピン・バターン半島で米兵捕虜ら多数が死亡した「バターン死の行進」の生存者らで作る「全米バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」のジャン・トンプソン代表が明らかにした。

 トンプソン氏によると、大統領の広島訪問の式典に元捕虜の一人を代表として参加させてほしいとホワイトハウスから要請があった。広島訪問が、原爆投下の被害だけでなく、第二次大戦の全ての被害に目を向けたものであることを示す狙いがあるとみられる。

 代表で参加するのは、米東部コネティカット州のダニエル・クローリーさん(94)。フィリピンで旧日本軍の捕虜となり、パラワン島で飛行場建設の作業を素手で行うように強いられた。その後、日本に移送され、栃木県足尾の銅山などで強制労働をさせられた。

 クローリーさんは4月下旬に毎日新聞の取材に当時の生活の過酷さを説明したうえで「兵器は人を殺害するので、全ての兵器は嫌なものだ。しかし、戦争を引き起こしたのは米国ではなく、ドイツと日本だ」と述べ、戦争終結のために原爆投下はやむを得なかったとの認識を示した。一方、「オバマ氏の広島訪問は気にしていない。私が懸念しても世界のどこにだって行ける」と語り、訪問自体には反対しない姿勢を示した。

812名無しさん:2016/05/23(月) 17:42:01
>>811

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052300275&g=pol
大統領広島訪問、元米兵同行へ=ホワイトハウスが招請

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が27日に広島を訪問する際、第2次世界大戦中に旧日本軍の捕虜となった元米兵の一人が同行することが22日、分かった。旧日本軍が多くの捕虜を死亡させた「バターン死の行進」の生存者らでつくる「全米バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」が明らかにした。
 同協会によると、ホワイトハウスから広島での式典に参加できる元捕虜を紹介してほしいと依頼があったという。ホワイトハウスはかねて「広島訪問で全て戦没者を追悼する」と説明しており、原爆投下だけでなく、第2次大戦がもたらしたあらゆる被害に焦点を当てる狙いがあるとみられる。(2016/05/23-11:40)

813名無しさん:2016/05/28(土) 10:41:40
http://news.infoseek.co.jp/article/sankein_sk220160527554/
原爆ドーム前で在特会とオバマ氏来訪反対のデモ隊が衝突 市民ら困惑「日本人として恥ずかしい」
産経ニュース / 2016年5月27日 16時28分

 オバマ大統領の広島訪問を数時間後に控えた27日午後、広島市中区の原爆ドーム前でオバマ大統領の広島訪問を反対するデモ隊と「在日特権を許さない市民の会」(在特会)のメンバーらが“衝突”した。「オバマは来るな!」と語気を強めるデモ隊に、在特会が「頭のおかしい人たち」「エセ平和団体」と批判するなど、一時緊迫した状態に。20〜30人の警察官が取り囲む中、攻撃的な言い合いが約30分間続いた。

 「目の前の頭のおかしい人たちにだまされないでください。オバマ大統領を歓迎しないなんて、日本人とは思えない」。デモ隊が集まる原爆ドーム前の歩道に立った女性(40)が、マイクごしに叫んだ。

 デモ隊へ抗議していたのは、在特会のメンバーらでつくる市民団体「行動する保守運動」。オバマ大統領に歓迎の気持ちを示したいと、広島を訪れたという。活動に参加した広島市の男性(35)は被爆2世といい、「今日という日が、これから先の平和を見据えた第一歩になってほしい」と強調した。

 一方、デモは「被爆71周年8・6ヒロシマ大行動実行委員会」が主催。26日夕に続き、2度目の集会を原爆ドーム前で開いた。「オバマ来広反対」「全ての米軍基地を撤去せよ」などと書かれたのぼりやプラカードを持った男女30〜40人が集合。メンバーの男性が「謝罪なしにオバマが来ることは絶対反対。再び核兵器を使うに違いない」と語気を強めた。

 その後、デモ隊は「広島を戦争に利用するな」などと拡声器で呼びかけながら、市中心部を行進した。

 デモ行進を見ていた広島市中区の女性(83)は12歳のときに被爆したといい、「オバマ大統領が来るのを皆心待ちにしとるのに、あんなこと言うなんて、日本人として恥ずかしい」と顔をしかめた。

814名無しさん:2016/05/28(土) 11:30:42
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160528-00000002-mai-soci
<米大統領広島訪問>オバマ氏の所感 全文
毎日新聞 5月28日(土)1時49分配信

 オバマ米大統領は27日、広島市の平和記念公園を訪問し、安倍晋三首相とともに原爆慰霊碑に献花し、黙とう。広島市の松井一実市長や長崎市の田上富久市長、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員の坪井直(すなお)さん(91)らを前に所感を述べた。所感の全文は次の通り。

 71年前、晴天の朝、空から死が降ってきて世界が変わりました。閃光(せんこう)と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自分自身を破壊する手段を手に入れたことを示しました。

 私たちはなぜここ広島に来るのでしょうか。それほど遠くない過去に恐ろしい力が解き放たれたことを考えるために来ます。また、10万人を超える日本の男性、女性、子ども、多数の朝鮮半島出身者、12人の米国人捕虜の死者を悼むために来ます。その魂がもっと心の内を見て私たちは何者なのか、私たちはどのようになれるのか、振り返るよう語りかけてきます。

 広島を際立たせているのは戦争という事実ではありません。人間が作った道具は暴力的な紛争が古くから行われてきたことを教えてくれます。私たちの先祖は石から刃物を、木から槍(やり)を作ってきました。これらの道具はただ単に狩りをするためでなく、人間に対しても使われてきました。どの大陸においても文明の歴史は戦争に満ちています。食料不足や黄金への渇望、民族主義的、宗教的な熱狂から戦争が起こり、帝国が台頭し、衰退してきました。そして、人々は支配され、解放されてきました。その時々で数えきれない犠牲者が出て罪のない人々が苦しみ、犠牲者の名前は時とともに忘れ去られました。

 広島と長崎で残虐的な終わりを迎えた世界大戦は、最も豊かで強い国々の間で戦われました。その文明は世界にすばらしい都市や美術を生み出してきました。そして、思想家は正義や調和、真実という進んだ考えを見いだしてきました。しかし、最も単純な部族同士の紛争の原因のように、支配、征服を欲する本能という同じ根本から戦争は起きてきました。つまり、古いパターンが制約が働くことなく、新しい能力により増幅されてきました。ほんの数年間で6000万人が亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと全く変わらない人たちです。銃で撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、拘束され、飢餓に苦しみ、毒ガスにより、亡くなりました。

 世界にはこの戦争を記録している施設がたくさんあります。記念碑は勇ましさや英雄的な物語を伝え、墓地や収容所の跡は言い表せないほどの恐ろしい行為がなされたことを示しています。しかし、この空に上がったキノコ雲の姿は、最も明確に人類が抱える矛盾を想起させます。思想、想像、言語、道具作りなど、人類が自然界から離れ、自然を従わせることができると示す能力は、同時に、比類のない破壊力も生み出したのです。

 物質的な進歩や社会の革新が、どのくらいこうした真実を隠してしまっているでしょうか。私たちはどれだけ簡単に、暴力を崇高な理由によって正当化してしまっているでしょうか。すべての偉大な宗教は、愛や平和、公正さにいたる道を説いていますが、どの宗教も信仰の名のもとに人を殺す信者を抱えることを避けられません。

 国は犠牲や協力によって人々が団結するという物語を語り、台頭して偉大な成果を生みました。その同じ物語は、自分とは違う他者を虐げたり、非人間的に扱ったりすることに使われてきました。

 私たちは科学によって海を越えてコミュニケーションできますし、雲の上を飛ぶこともできます。病気の治療や宇宙の解明もできます。しかし、そうした発見が、効率的に人を殺す機械になり得るのです。

 近年の戦争は私たちにこうした真実を伝えています。広島も同じ真実を伝えています。技術のみの発展だけでなく、同様に人間社会が進歩しなければ、我々を破滅させる可能性があります。原子を分裂させた科学の革命は私たちに道徳的な進歩も要求しています。

 これが私たちが広島を訪れる理由です。

815名無しさん:2016/05/28(土) 11:31:03
>>814

 この広島の中心に立つと、爆弾が投下された瞬間を想像させられます。混乱した子供たちが抱いた恐怖感を感じ、声にならない叫びを聞きます。むごたらしい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起こるかもしれない戦争による、罪のない犠牲者に思いをはせます。言葉だけでは、このような苦しみを表すことはできません。しかし、私たちは正面からこの歴史に向き合い、このような苦しみを再び繰り返さないためにできることを問う責任を共有してきました。

 いつの日か、証言をする被爆者の声を聞くことができなくなります。しかし、1945年8月6日朝の記憶は決して消してはいけません。その記憶があるからこそ、我々は現状に満足せず、道義的な想像力の向上が促され、変われるのです。

 あの運命の日以来、私たちは希望をもたらす選択を行ってきました。米国と日本は同盟を築いただけでなく、友情をはぐくんできました。それは戦争よりもはるかに人々にとって有益でした。

 欧州の国々は貿易と民主主義の結びつきによって戦場に代わって連合を作りました。抑圧された人々や国家は自由を勝ち取ってきました。国際社会は戦争を避け、そして核兵器を規制、削減し、最終的には廃絶することを求めた機構や条約を設けてきました。

 しかし、私たちが世界で目にする、すべての国家間の侵略行為やテロ行為、腐敗、残虐行為、そして抑圧は、私たちの仕事がまだ終わっていないことを示しています。

 私たちは悪を行う人類の能力をなくすことはできないかもしれません。だから、私たちが築いた国家や同盟は、私たち自身を守る手段を持たなければなりません。しかし、我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけません。私が生きているうちに、この目標を達成することはできないかもしれませんが、たゆまない努力で破滅の可能性を少なくすることはできます。

 私たちはこれらの核兵器をなくす道のりを描くことができます。私たちは新たな(核兵器の)拡散を止め、狂信者から核物質を守ることができます。これだけでは十分ではありません。なぜならば、原始的なライフルや「たる爆弾」ですら、非常に大きな規模での暴力をもたらせるからです。

 私たちは戦争自体に対する考え方を変えなければいけません。外交を通じて紛争を防ぎ、始まってしまった紛争を終わらせる努力をする。相互依存が深まっていることを、暴力的な競争ではなく、平和的な協力の名分にする。国家を、破壊する能力ではなく、何を築けるかで定義する。そして何よりまして、私たちは人類の一員としてお互いのつながりを再び想起しなければなりません。このつながりこそが我々を人類たるものにしているからです。

 私たちは過去の失敗を繰り返すよう遺伝子で決められているわけではありません。私たちは学ぶことができます。選ぶことができます。子どもたちに違う方法を伝えることができます。共通する人間性を説明し、戦争が起こりにくく、残虐性が簡単には受け入れられないようにする物語です。被爆者の方たちの話から、それらが分かります。原爆を落とした爆撃機を操縦したパイロットを許した女性がいました。それは彼女が、自分が本当に嫌悪しているのは戦争そのものだと気付いたからです。広島で殺された米国人の家族を捜し出した男性がいました。なぜなら彼は、その米国人たちの喪失感は彼自身のものと同じだと確信していたからです。

816名無しさん:2016/05/28(土) 11:31:40
>>815

 私の国の物語は(独立宣言の)簡単な言葉で始まります。「すべての人類は平等に創造され、創造主によって奪うことのできない権利を与えられている。それは生命、自由、幸福追求の権利である」。しかしその理想を実現することは、米国内や米国民の間であっても、決して簡単ではありません。しかし、その物語にあくまでも忠実であろうとすることに価値があります。それは努力しなくてはならない理想であり、大陸と海をまたぐ理想です。

 全ての人のかけがえのない価値です。全ての人命は貴重であるということです。私たちは一つの家族の一部であるという根源的で不可欠な考え方です。それが私たちが伝えていかなくてはならない物語です。

 だからこそ私たちは広島に来るのです。それによって、私たちは、愛する人たちに思いをはせます。朝一番の子供たちの笑顔。食卓での配偶者との優しい触れ合い。親の心地よい抱擁。そうしたことを思い、そうしたかけがえのない瞬間が71年前のここにもあったのだと考えることができます。亡くなった方々は私たちと全く変わらない人たちでした。

 普通の方々はこうしたことを理解できると思います。彼らの誰もがこれ以上、戦争を望んでいません。むしろ科学の驚異を、命を奪うのではなく、もっと人生を豊かにすることに役立ててほしいと考えています。

 国家が選択をするとき、国家の指導者がこのシンプルな英知をかえりみて選択すれば、広島から教訓を得られたと言えるでしょう。

 世界はここで永遠に変わってしまいました。しかし、広島の子供たちは平和に日々を送っていくでしょう。なんと価値のあることでしょうか。それこそが守り、そして全ての子供たちに広げていく価値があることなのです。

 これこそが、私たちが選択できる未来です。広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりであるべきです。

817名無しさん:2016/05/28(土) 11:52:17
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00010001-aptsushinv-int
【映像】オバマ大統領ヒロシマ演説、被爆者と握手
AP通信 5月27日(金)20時5分配信

 [広島 日本 27日 AP]

 アメリカのバラク・オバマ大統領は27日午後、同国現職の大統領では初めて日本の広島を訪問し、70年前に原子爆弾で犠牲になった14万人に敬意を表した。

 平和公園の原爆慰霊碑で献花を終えたオバマ大統領は被爆者らを前に演説を行い、「71年前、晴れた雲のない朝に、死が空から落ちてきた。そして世界が変わった。閃光と火の壁は都市を破壊し、人類が自滅する手段を備えていることを証明した。
 なぜ、我々はこの場所に来たのか。広島に。我々は10万人以上の日本の男性や女性、子供たち、何千もの韓国人、捕虜になっていたアメリカ人を含む全ての死者を追悼するために来た。彼らの魂は我々に語りかける。我々が何者なのか、そして我々がどのようになろうとしているのか」
 「科学を人生の発展のために使用してほしい。今、広島の子どもたちは幸せに暮らしている。それを世界のすべての子どもたちに。
 広島、長崎が核戦争の夜明けとして知られる未来ではなく、私たち自身の道義的な目覚めとなる未来」と述べた。

 オバマ大統領は演説後、被爆者2人のもとへ向かい握手し、会話を交わした。

(日本語翻訳 アフロ)

(C) AP
最終更新:5月27日(金)20時5分

818名無しさん:2016/05/28(土) 12:53:17
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160528-00000504-san-n_ame
オバマ大統領広島訪問 米メディアはどう伝えたか?「心揺さぶられる瞬間」「日米の特別な関係を明示」
産経新聞 5月28日(土)0時57分配信

 【ワシントン=小雲規生】米主要メディアは27日、オバマ大統領の広島訪問について「繊細さが要求される判断だった」などとして詳しく報じた。いずれもオバマ氏が謝罪を避けながらも、「核なき世界」の実現に向けたメッセージを重視したとしている。

 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)はオバマ氏が平和記念公園での演説後に被爆者と抱擁しあったことを「心揺さぶられる瞬間」と表現。オバマ氏と安倍晋三首相が献花後に交わした握手は「日米の特別な同盟関係を明確に示すものだ」とした。一方で広島訪問には中国や韓国で懸念が出ていたことも伝えた。

 米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)は謝罪との受け止めを避けたいオバマ氏は被爆者と私的な場で会わず、公衆の場での短時間の会話に留めたと指摘。原爆資料館訪問も簡単なものだったとした。米紙ワシントン・ポスト(電子版)はオバマ氏の狙いは「核軍縮と不拡散に向けた米国の決意を改めて示すことだった」と分析した。

 CNNテレビも27日朝から広島訪問をトップニュースとして放送。オバマ氏の演説や被爆者との会話の様子を伝えた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000143-mai-pol
<米大統領広島訪問>「歴史的意義大きい」与野党とも歓迎
毎日新聞 5月27日(金)23時25分配信

 今回のオバマ米大統領の広島訪問を与野党とも歓迎した。自民党の谷垣禎一幹事長は27日の記者会見で「当時戦った米国の大統領が訪れる意義は極めて大きい」と述べた。

 公明党の山口那津男代表も「原爆を投下した国のリーダーとして被爆地を訪問したこと自体が歴史的に大きな意義がある。核のない世界を目指してともに歩んでいきたい」と記者団に語った。

 一方、民進党の岡田克也代表は「核を初めて使った国と被害を受けた国がしっかりと核廃絶に向けて努力をする。日本も具体的な歩みが求められる」と指摘。共産党の志位和夫委員長は「米国の核兵器政策の転換が必要だ」と述べた。

 おおさか維新の会の松井一郎代表は「被爆者、日本国民の心に寄り添う点で大きな意味がある。さらなる相互理解を進めるべきだ」とコメントを発表。社民党の又市征治幹事長は談話で「核兵器は二度と使われてはならないと世界に想起させることとなった」と評価した。【高橋克哉】

819名無しさん:2016/05/28(土) 12:54:53
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-36396490-bbc-int
オバマ米大統領、広島で献花 被爆者の手を握り、抱き寄せ
BBC News 5月27日(金)17時42分配信

バラク・オバマ米大統領が27日、現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問し、平和記念公園を訪れた。安倍晋三首相と共にまず平和記念資料館を見学した後、原爆死没者慰霊碑に献花した。第2次世界大戦のすべての犠牲者を追悼した。

大統領は献花の後、所感を読み上げ、広島への原爆投下について「空から死が落下し、世界が変わった」と表明。原爆投下は「人類が自らを滅ぼす手段を手に入れた」ことを意味したと述べ、「核兵器なき世界」への決意を強調。「広島と長崎が核戦争の夜明けとして知られる未来ではなく、私たち自身の道義的な目覚めとなる未来」の実現を呼びかけた。

オバマ氏は1945年8月6日の記憶は決して色あせてはならないと述べ、「広島の記憶によって自分たちは独善と戦える。広島の記憶が自分たちの道徳的想像力をかきたて、変化を促してくれる」と強調。さらに核兵器について、「恐怖の論理から脱却し、(核兵器の)ない世界を追求しなくてはならない」と述べた。

同様に核兵器なき世界実現のため「努力を積み重ねていく」と強調した安倍首相の所感発表の後、大統領は被爆者の人たちと言葉を交わした。日本被団協の坪井直代表委員の手を握りながら話にじっと耳を傾け、被爆米兵を調査してきた被爆者の森重昭さんをそっと抱き寄せた。

大統領はその後、安倍首相や岸田文雄外相の説明を受けながら、原爆ドームをじっと見上げた。

オバマ氏はかねてから表明していたように、原爆投下について謝罪はしなかった。

史上初の原爆投下で、広島では少なくとも14万人が死亡。3日後には長崎へも原爆が落とされ、さらに7万4000人が死亡した。

オバマ大統領は、主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)を終え、山口県にある米海兵隊岩国基地で米兵たちを前に演説した後、大統領専用ヘリで広島入りした。

大統領は岩国基地で「第2次世界大戦で命を落としたすべての人の思い出を尊重するための機会だ」と演説。「平和と、核兵器がもはや必要なくなる(世界の)安全保障を追及していくと、あらためて確認する機会だ」と述べた。

大統領は基地でさらに、米国と日本の同盟関係は「世界で最強の(同盟の)ひとつ」だと強調し、「いかにかつての敵国同士が単なるパートナーというだけでなく、最高の友達になれるか」を自分の訪問が示していると述べた。

米国では大勢が、原爆投下が甚大な惨禍をもたらしたと認めつつ、戦争を終結させたのだから正当だと考えている。

一方で、27日に原爆死没者慰霊碑を訪れた被爆者の家族は、被爆の苦しみが「世代を超えて続いた」と話した。ハン・ジョンスンさん(58)はAP通信に対して、「オバマ大統領にはそれを知ってもらいたい。私たちの苦しみを理解してもらいたい」と語った。

父親が原爆によって孤児となったサトウ・セイキさんは米紙ニューヨーク・タイムズに、「われわれ日本人はアジア各地で、ひどい、ひどいことをした。そしてわれわれ日本人は、それを本当に恥ずかしいと思っているのだし、アジア諸国に誠心誠意謝っていないのだから、謝罪すべきだ。しかし原爆投下はまったくの悪の行いだ」と話した。

広島で取材するBBCのジョン・サドワース記者は、オバマ氏の広島訪問について、中国の軍事的台頭を懸念するアジア地域で、米国と日本の同盟関係強化という戦略的な意味合いもあるだろうと指摘する。

岩国基地でオバマ氏はこの点について、「私は大統領として、米国が再びアジア太平洋地域で主導的立場を確実に担うように努めた。なぜならこの地域は必要不可欠だからだ」と述べた。

<解説>シンボルと暗号――ジョン・サドワース、広島

被爆者を抱きしめるオバマ米大統領の姿は、日本人の間に深い印象を残すだろう。世論調査によると、日本の大半の人が今回の訪問を歓迎しており、謝罪がないこともほとんどの人は気にしていない様子だ。

深い象徴性で十分なのだ。原子爆弾を実際に使用した唯一の国の指導者が、核の時代の危険性の記念碑となった町で、花輪を捧げたのだから。

しかし中には、確かにその演説は高邁な理想に溢れてはいたが、世界最大級の核兵器備蓄量を誇る国の最高司令官であることには変わりないと指摘する人もいるだろう。しかもその核兵器の備えを刷新するため、数十億ドルの予算措置を承認した当人でもあるのだ。

大統領からわずか数列後ろにはいつものように、核攻撃命令の暗号を収めたブリーフケースを手に、将校が待機していた。

(英語記事 Barack Obama makes historic Hiroshima visit)

(c) BBC News
最終更新:5月27日(金)22時5分

820名無しさん:2016/05/28(土) 12:56:31
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000592-san-pol
オバマ大統領広島訪問 おおさか維新・松井一郎代表「日本政府も米国民の心に寄り添う一層の努力を」
産経新聞 5月27日(金)21時58分配信

 おおさか維新の会の松井一郎代表(大阪府知事)は27日、オバマ米大統領の広島訪問について「日本国民の心に寄り添う点で大きな意味がある。日本政府も米国民の心に寄り添う一層の努力を行い、過去の不幸な戦争に関する両国民の更なる相互理解を進めるべきだ」との談話を発表した。 

 松井氏は「日米両国は中国と北朝鮮の核の脅威に直面しており、現状では残念ながらアメリカの核抑止力を必要としている」とも指摘。その上で「将来は核廃絶が実現するようあらゆる努力を傾けるべきだ。オバマ氏が当時の悲惨な状況を知り、核兵器の非人道性を肌で感じていただくことが、その契機になることを期待したい」とした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00050170-yom-int
同盟と核兵器の危険性へ焦点…米主要紙も報じる
読売新聞 5月27日(金)23時11分配信

 【ワシントン=大木聖馬】米主要紙のウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は「オバマ大統領は広島平和記念公園で献花し、原爆投下で苦しんだ無辜(むこ)の人々を悼んだ」と報じた。

 同ワシントン・ポスト(同)はオバマ氏が「核兵器の開発を再考し、完全に廃絶することを呼びかけた」と伝え、オバマ氏が被爆者と会話を交わし、抱きしめた様子などを詳報した。

 同紙はまた、「過去の米大統領は広島訪問を、原爆投下への謝罪と見なされる恐れがあることから避けてきた」とした上で、「オバマ氏は謝罪ではなく、日米同盟と現代の核兵器の危険性への警告に焦点を当てた」と解説した。

最終更新:5月27日(金)23時12分

821名無しさん:2016/05/28(土) 12:58:08
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000009-jct-soci
オバマ大統領広島訪問 あちこち「配慮」と「和解」の演出
J-CASTニュース 5月27日(金)20時35分配信

 米国のオバマ大統領が2016年5月27日夕方、現職の米大統領としては初めて広島市を訪問し、平和記念公園で献花した。直後の演説では、直接的な謝罪の言葉は避けながらも、原爆の被害に向き合う言葉を繰り返した。演説に立ち会った被爆者とも笑顔で言葉を交わしたり抱き合ったりして「和解」を強く演出した。

 異例だったのが、犠牲者についてのくだりで「韓国・朝鮮人」(Koreans)「米国人」についても言及したことだ。韓国や米国の世論にも配慮したとみられる。

■「韓国・朝鮮人」「米国人」にも言及

 オバマ大統領は約50分にわたって平和記念公園に滞在。安倍晋三首相や岸田文雄外相らの出迎えを受け、最初に公園内の広島平和記念資料館を視察。献花に続いて演説に臨んだ。約17分にわたる演説では、

  「8月6日の苦しみは消えることはない」

などと述べ、広島訪問の目的を

  「恐ろしい力がそれほど遠くない過去に解き放たれたことを深く考えるため」
  「10万人を超える日本の男性、女性、子どもたち、何千人もの朝鮮人、数十人の米国人を含む死者を悼むため」

と説明した。

 原爆投下当時、朝鮮半島から徴用された人や、少数の米国人捕虜も広島にいたと考えられている。これに関連して、韓国では5月26日に被爆者団体が記者会見を開き、すべての被爆者に対する謝罪を要求。公園内にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」をめぐる立場を表明しなかったことに対して失望感を表明した。

 一方、米国ではオバマ氏の広島訪問に元米兵捕虜が立ち会う計画が浮上していたものの、直前になって見送られることになった。この計画には、日本の加害者としての側面も強調する狙いがあっただけに、退役軍人関連団体が失望感を表明している。

 オバマ大統領は、こういった経緯に配慮した可能性もある。

『共有された責任』(shared responsibility)を強調
 これに加えて、オバマ大統領は

  「歴史の観点から直視する『共有された責任』(shared responsibility)がある。こういった苦しみを繰り返さないために、我々がどのように(核兵器使用とは)違ったことができるか問わなければならない」

とも発言。核保有国が共同で「核なき世界」を目指す努力をすべきだとした。

 CNNやBBCをはじめとする米欧メディアは、この「共有された責任」(shared responsibility)というキーワードを強調して速報していた。

 また、演説直後にオバマ大統領と言葉を交わした日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直(つぼい・すなお)さん(91)は、その後のTBSとのインタビューで、

  「我々は恨みや何かは関係ありません。だから、私たちはオバマさんが来られたことは大歓迎します、感謝しております」

とオバマ大統領に伝え、核廃絶に向けた継続的な取り組みを求めたという。これに対して、オバマ大統領は、

  「人間の、人類の幸せをどうしたらなれるのかと、そういうことをとくとくと説いた」

という。歴史的な視点で「核なき世界」を強調してきたオバマ大統領が、やはり「共有された責任」という考えで、自らの広島訪問を意義付けようとしたようだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000588-san-pol
オバマ大統領広島訪問 公明・山口那津男代表 喪服姿で「生涯忘れられないこととして胸に刻む」
産経新聞 5月27日(金)21時22分配信

 公明党の山口那津男代表は27日、オバマ米大統領が米国の現職大統領として初めて被爆地の広島を訪問したことに関し「被爆の実相を見て、感じる機会を現職の大統領が持たれたことを歓迎したい」と評価した。

 同時に「今日を一つの重要な歴史的転換点として核のない世界を目指し、ともに歩んでいきたい。生涯忘れられない重要なこととして、私自身の胸にも刻んでおきたい」とも述べた。

 山口氏は被爆者らへの哀悼の意を示し、喪服姿で国会内での記者団の取材に答えた。

 オバマ氏が被爆者に謝罪しなかったことの是非を記者団から問われると、「被爆した犠牲者に思いをはせたこと自体を評価すべきだ」と述べるにとどめた。

822名無しさん:2016/05/28(土) 12:59:25
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000033-mai-soci
<オバマ氏広島へ>世界が注目する日…外国人から評価、注文
毎日新聞 5月27日(金)11時52分配信

 オバマ米大統領の広島訪問は世界が注目している。平和記念公園や原爆資料館を訪れた各国からの観光客らからは、おおむね訪問を前向きに評価する声が聞かれた一方、核軍縮に向けた具体的な成果を求める声もあった。【蒲原明佳、村瀬優子、伊藤遥】

 米国の大学生、ローレン・リトルペイジさん(22)は日本留学中の2年前に初めて原爆資料館を訪れ、今回は旅行で広島へ。

 原爆の後遺症が今も被爆者を苦しめていることを知り、「絶対に核を使うべきでないと思うようになった」。原爆が戦争を終結させたと考える米国人もいるが、「私たちの世代は違う。多くの人が、核廃絶を難しいと感じる一方で二度と使うべきでないとも考えている。大統領の発言に注目したい」と期待を寄せた。

 一方、原爆ドーム前で、英語の説明に見入っていた米国人のシャウン・ベルクさん(37)は「当時の混乱した状況をふまえ、原爆投下が正しかったかは判断できない。戦争を体験していないオバマ氏が謝ることはできない」と言い切る。

 インドのアンジャン・ボーミックさん(39)は「核兵器削減のための具体的な行動計画を示さなければ不十分だ」とオバマ氏に注文し、「インドも核保有国だが、(領土紛争を抱える)パキスタンとの課題を乗り越え、核兵器を手放さなければならない」と話した。

 原爆の悲劇を自国の痛みと重ねる人たちもいる。バングラデシュのハルン・ラシードさん(68)は「私たちもバングラデシュ独立戦争を経験した。いつも犠牲になるのは一般市民だ。訪問が核兵器廃絶の一歩になれば」と期待を込めた。

 日本の加害の歴史に絡めた声も。香港の大学の歴史講師、張静?さん(34)は「戦争中、中国や韓国、東南アジアでも罪のない人々が日本からひどい仕打ちを受け、米国も真珠湾攻撃を受けた。オバマ氏が原爆投下を謝罪しなくても、私にはその気持ちがよく分かる」と話した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160527-00000140-mai-soci
<米大統領広島訪問>歴史的瞬間 市民から拍手
毎日新聞 5月27日(金)22時51分配信

 ◇「スタートを切ることが大切」

 広島の原爆ドーム近くの交差点には多くの市民が集まり、原爆資料館前でオバマ米大統領が車から降りると、携帯電話で中継映像を見ていた人たちから拍手が湧いた。

 看護師の栗矢美紀さん(51)=広島市中区=は、「歴史的な瞬間を見たい」と長女紗良さん(11)と駆けつけた。オバマ氏と安倍晋三首相は核兵器廃絶などには長い時間がかかると述べたが、「スタートを切ることが大切で、今日がその日。行動に移したところを娘に見せたかった」と話した。大学生の藤岡慶一郎さん(22)=同市東区=は「原爆を投下した国のリーダーとして現実に向き合う姿勢が伝わった。米国主導で核軍縮を進めてほしい」と期待した。

 一方、3歳で被爆して孤児となった心理カウンセラーの飯田国彦さん(73)=東広島市=は「核のない世界の実現を『Yes we can』と訴えたプラハ演説に比べて物足りない。放射線による被害が何十年も続く原爆の残虐性に一言触れてほしかった」と厳しい表情を見せた。【伊藤遥、蒲原明佳、藤田愛夏】

823名無しさん:2016/05/28(土) 13:00:34
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160521-00000003-withnews-int
ゲバラが広島で発した「悲痛な言葉」 いま読んでおきたい偉人たちのヒロシマ語録 オバマ氏は何を語る?
withnews 5月22日(日)7時0分配信

 アメリカのオバマ大統領が5月27日、広島を訪問します。実は、これまでにもヒロシマを訪れた著名人はたくさんいます。キューバ革命の伝説的英雄、チェ・ゲバラは急きょ日程を変更して、広島へ足を伸ばし「悲痛な言葉」を残しました。原爆資料館で資料に見入ったマザー・テレサ。慰霊碑の碑文をかみしめた「レッド・ツェッペリン」のジミー・ペイジ……。被爆地で語られた言葉を集めました。

冷戦崩壊後、あの「大物」指導者が
 アメリカと並ぶ核大国の指導者だった「大物」も、今から20年以上前、広島に来ています。旧ソ連の崩壊後、92年に夫婦で訪れたゴルバチョフ元大統領です。「ゴルビー」の愛称で知られる彼は、こんなメッセージを資料館に残しています。

【ゴルバチョフ元大統領】
「歳月がヒロシマの悲劇の痛みを和らげることはできませんでした」
「このことは決して繰り返してはなりません」
「私たちは原子爆弾の犠牲者のことを決して忘れてはなりません」

革命家は親子2世代で
 キューバ革命の伝説的英雄、チェ・ゲバラは半世紀以上も前に訪れていました。革命政権が成立した直後の1959年7月に来日し、池田勇人通産相(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望したといいます。

 1泊して慰霊碑に献花、資料館や原爆病院を訪れました。「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」と言い残したことが有名です。カメラ好きで知られ、本人が爆心地近くで撮影したモノクロ写真が見つかっています。

 広島行きを強行したのは、多数の人びとを一瞬で殺傷した原爆の残虐性に関心をもっていたからではないかといわれています。

 また、その足取りを追って、長女アレイダ・ゲバラさんも2008年に来日、広島で講演しました。ゲバラの死後、母親から「平和のために闘うためにはここを訪れるべきだ」と記した(広島訪問時の)絵はがきを見せられたそうです。

【チェ・ゲバラ】
「痛ましいのは原爆が投下されて14年たった今年も後遺症で多くの人が亡くなっていることだ」
「資料館では、胸が引き裂かれるような場面を見た」
(帰国後キューバの新聞に寄稿)

 革命の同志、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長(当時)も2003年3月に広島を訪問。資料館で「このような野蛮な行為を決して犯すことのないように」と記帳しました。帰国後、このようなメッセージを広島市に届けました。

【カストロ議長】
「何百千万の人々があの地を訪れるべきだ。あそこで起こったことを人類が真に知るために」
「あの攻撃はまったく必要のないもので、モラル上も正当化できない」
「日本国民は一言も恨みを発しなかった。それどころかそのようなことが2度と起こらないよう平和を願う記念碑を建てた」
(帰国後に国会で演説)

824名無しさん:2016/05/28(土) 13:00:59
>>823

法王やマザー・テレサ、ダライ・ラマも
 1945年8月6日午前8時15分。広島に落とされた原爆は、14万人もの命を一瞬で奪いました。ローマ法王のヨハネ・パウロ2世(81年)、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ(84年)、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世(95年)、世界的な宗教者やノーベル平和賞受賞者らも続々と訪れ、祈りを捧げてきました。

【ヨハネ・パウロ2世】
「過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです」
「ヒロシマを考えることは、平和に対しての責任を取ることです」

【マザー・テレサ】
「ヒロシマに多大な苦痛をもたらした恐るべき罪悪が二度と起こらないよう、神がわれわれ一人ひとりを愛するように互いに愛し合いましょう」
「愛と祈りの行為が平和の行為であることを忘れないようにしましょう」

【ダライ・ラマ14世】
「(平和記念資料館の印象について)本当におそろしい広島の模様をそこで見た」
「核兵器が、絶対的な権力を持っており、激情にかられ理性の入る余地のない人たちの手に入ったらどうなるのか」
「非武装化された世界を目指すべきだ。そのためには、私たちの世代がそのための考えをとりまとめなければならない」

イギリスから「レッド・ツェッペリン」、米国の巨匠監督
 戦後70年という節目の夏に訪れたのが、英国の伝説的ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のギタリスト、ジミー・ペイジさんです。平和記念公園で慰霊碑に献花しました。

 1971年、初来日の際にメンバーとともに広島を訪問。被爆の悲惨さを感じ、心に強く訴えかける体験だったといい、再び訪れたそうです。

【ジミー・ペイジ氏】
「戦後70年間、広島が被爆したことは全世界の人の心にあり続けた。平和を祈りたい」
「(「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文について)犠牲者の気持ちを思い、いまを生きる私たちが平和を守るということですね」

 「プラトーン」「JFK」などの社会派映画で知られる巨匠オリバー・ストーン監督は2013年8月、原爆ドームや資料館を訪れました。

 見学後、「私自身、最初は原爆投下の正当性を信じていた。広島を忘れてはいけない。正しく記憶しておく必要がある」と語っています。インタビューでは、核廃絶を実現するために若い世代へメッセージを送りました。

【オリバー・ストーン監督】
「いまここであの日の瞬間、爆風を感じている」
「瀕死(ひんし)の被爆者がさまよっていた。父と母の姿も見えた。川に浮き沈みする遺体も見えた」
「(米国の歴史を批判する)僕たちの主張は、米国の大手メディアは受け入れない。時々無力感を感じる」
「私の最大のメッセージは、真実を学んでほしいということ。若者に関心を高めてほしい」
「若い世代は、広島についてもっと学ぶべきだ。僕だって5、6年前まで広島の歴史を知らなかった」

オバマ大統領、何を語るか
 オバマ大統領は伊勢志摩サミット閉幕後の5月27日、広島を訪問します。ただ、2009年に「核兵器のない世界」を訴えたプラハ演説のように、広場などで多くの聴衆を集めた大々的な演説は予定していないといいます。

 今回の訪問について、核廃絶を求める活動を続け、オバマ氏を支持してきた米俳優マイケル・ダグラスさん(71)は「彼が米国大統領として決断したことを幸せに感じている。(広島で)核廃絶について強い言葉を発することを望むし、そう期待している」と話しました。

 現職の米大統領としては史上初の被爆地訪問で、何を語り、どんなメッセージを発信するのか。世界の注目が集まります。

825名無しさん:2016/05/28(土) 16:57:26
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160527/k10010537591000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_013
オバマ大統領が所感 核なき世界への決意を表明
5月27日 21時03分
アメリカのオバマ大統領は27日午後、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪問しました。平和公園で原爆慰霊碑に献花したあと、被爆者の人たちを前に「われわれは核兵器のない世界を追い求めなければならない」と述べ、核兵器の廃絶に向けて取り組む決意を表明しました。
オバマ大統領は27日、現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問し、午後5時半ごろ、平和公園に到着しました。
安倍総理大臣の出迎えを受けたオバマ大統領は、まず、原爆資料館で被爆の実相を伝える展示を見学しました。
そして、安倍総理大臣とともに原爆慰霊碑に献花し、黙とうをささげたあと、献花に立ち会った広島と長崎の両市長や被爆者の人たちを前に所感を述べました。
冒頭でオバマ大統領は「71年前、雲ひとつない晴れた朝、空から死が降ってきた。そして世界は一変した。せん光と炎の海がひとつの都市を破壊し、人類がみずからを滅ぼしうる手段を作り出したことが明らかになった」と述べました。
そして、「この地に立つと、私たちは原爆が投下された瞬間を想像せざるをえない。子どもたちが何が起きたのか分からず、恐れおののく姿を感じる。そして静かな叫びが聞こえる。われわれは悲惨な戦争で犠牲になった罪のないすべての人たちを思い起こす」と述べ、戦争のすべての犠牲者に哀悼の意を示しました。
そして「広島で亡くなった人たちは私たちと同じ普通の市民だ。彼らはもう戦争は望まない」と述べて、原爆で犠牲になった人たちの多くが一般市民であったことを強調しました。そのうえで「いつかは被爆者の声を直接、聞くことはできなくなるが、1945年8月6日朝の記憶を決して風化させてはならない」と述べました。
また、「われわれは核兵器を保有する恐怖の論理から脱する勇気を持ち、核兵器のない世界を追い求めなければならない。私が生きている間に実現しないかもしれないが、絶え間ない努力によって破滅を避けることはできる」と述べ、核兵器の廃絶に向けて取り組む決意を示しました。
さらに「われわれは、戦争についての考え方を変え、外交を通じて対立を避けるようにしなければならない。過去の過ちを繰り返してはならない」と述べたうえで、「広島と長崎を核戦争の始まりとして記憶するのではなく、人類の道徳的な目覚めにしなければならない」と述べ、被爆地の経験を伝え、核兵器が2度と使われないようにしなければならないと訴えました。
このあと、オバマ大統領は、握手をしたり抱き合ったりしながら、2人の被爆者と会話を交わしました。
そして、安倍総理大臣とともにゆっくりと歩いて原爆ドームを視察し、平和公園を後にしました。
現職のアメリカ大統領として初めてという歴史的な訪問を終えたオバマ大統領は、午後7時15分ごろ、山口県のアメリカ軍岩国基地を出発し、帰国の途につきました。
オバマ大統領が原爆資料館で記帳
アメリカのオバマ大統領は原爆資料館を視察し、芳名録に「私たちは戦争の苦しみを経験しました。ともに、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と記帳しました。

また、安倍総理大臣は「原爆によって犠牲となったすべての方々に哀悼の誠を捧げます。恒久平和を祈り核兵器のない世界の実現に全力を尽くします」と記帳しました。

826名無しさん:2016/05/28(土) 16:59:35
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160527/k10010537631000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_012
首相 核兵器ない世界の実現 日米で取り組む決意
5月27日 18時44分
安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領とともに広島市の平和公園を訪れて所感を発表し、オバマ大統領の広島訪問に「心から敬意を表したい」と述べたうえで、核兵器のない世界の実現に向けて、日米両国が力を合わせて取り組んでいく決意を示しました。
安倍総理大臣は、現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪問したアメリカのオバマ大統領とともに平和公園を訪れ、被爆者の人たちが見守るなか、原爆慰霊碑に献花したあと、オバマ大統領に続いて、所感を発表しました。

この中で安倍総理大臣は「アメリカの大統領が被爆の実相に触れ、核兵器のない世界への決意を新たにすることは、『核なき世界』を信じてやまない世界中の人々に、大きな希望を与えてくれた。広島の人々のみならず、すべての日本国民が待ち望んだ歴史的な訪問を心から歓迎したい。日米両国の和解、信頼と友情の歴史に新たなページを刻むオバマ大統領の決断と勇気に心から敬意を表したい」と述べました。
そして、安倍総理大臣は「71年前、この地にあって想像を絶するような悲惨な経験をした方々の思いは筆舌に尽くしがたいものだ。『世界中のどこであろうとも再びこのような悲惨な経験を決して繰り返させてはならない』。この痛切な思いをしっかりと受け継いでいくことが今を生きる私たちの責任だ」と述べました。
そのうえで、安倍総理大臣は「核兵器のない世界の実現について、道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうとも絶え間なく努力を積み重ねていくことが今を生きる私たちの責任だ。日本と米国が力を合わせて世界の人々に希望を生みだすともし火となる。この地に立ち、オバマ大統領とともに改めて固く決意している。そのことが広島、長崎で原子爆弾の犠牲となった、あまたのみ霊の思いに応える唯一の道である、私はそう確信している」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160525/k10010535201000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_057
オバマ大統領 広島訪問で「核兵器ない世界 目標再確認」
5月26日 0時05分
日米首脳会談後の共同記者発表で、アメリカのオバマ大統領は被爆地の広島を訪問することについて、「第2次世界大戦で犠牲になったすべての人たちを追悼するためのものだ。そして核兵器のない世界という共通の目標を再確認するとともに、数十年かけて培ってきた日米の特別な同盟関係に光を当てるものだ」と述べました。
そのうえで、オバマ大統領は「今後もアメリカ軍を派遣し、行動しなければならないときもあるだろう。しかし、戦争は苦痛を生むもので、われわれは戦争を避けるため、できるだけのことをすべきだ。それが、私がベトナムで思い起こし、広島でも改めて考えたいと思っていることだ」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160525/k10010535231000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_058
首相 「ハワイを訪問する計画はない」
5月25日 23時57分
安倍総理大臣は、オバマ大統領の広島訪問に関連してアメリカの記者から「パールハーバーを訪問する考えはあるか」と質問されたのに対し、「現在、私はハワイを訪問するという計画はないが、昨年、戦後70年の節目にアメリカを訪問し、アメリカ議会の上下両院の合同会議でスピーチを行った」と述べました。
そのうえで、安倍総理大臣は「その際、私は、先の大戦に対する悔悟の念とともに、かつて敵であった国どうしが今は同盟国となった、この日米の和解に尽力をされた人々に対する敬意と尊敬の念を表明し、感謝を申し上げた。今後はまさに心の紐帯で結ばれた希望の同盟国として、世界のさまざまな課題の解決に協力をしていきたい」と述べました。

827名無しさん:2016/05/28(土) 17:00:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160525/k10010534131000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_079
国連加盟60年 平和への誓いなど決議 参院で可決
5月25日 11時05分
日本が国連に加盟してことしで60年になるのにあたり、参議院は25日の本会議で、日本が人類の平和と助け合いのために努力することを誓うとともに、政府に対し核兵器の廃絶などに努めるよう求める決議を全会一致で可決しました。
この決議は、日本が1956年12月18日に国際連合に加盟してからことしで60年になるのにあたり、25日の参議院本会議で全会一致で可決されました。
決議は「国際平和の達成は日本と世界の悲願であるにもかかわらず、世界各地で紛争やテロが続いているほか、大量破壊兵器やミサイル技術の開発や拡散、それに難民・貧困問題など、世界全体で対処すべき課題が山積している」としています。
そのうえで、「国連が創設以来、国際平和の維持と創造のために発揮した英知と努力に深く敬意を表し、今後も日本が率先垂範して人類の平和と助け合いのために努力することを誓う」としています。
そして、政府に対し、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、核兵器の廃絶などに最大限努めるよう求めています。
決議のあと、岸田外務大臣は「国連との連携を一層強化し、国際社会が直面するさまざまな課題の解決に積極的に貢献していく」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160524/k10010533421000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_090
米大統領 被爆者と対話機会を 広島知事らが首相に要請
5月24日 18時28分
安倍総理大臣は広島県の湯崎知事らと会談し、湯崎知事らは今週27日にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問する際、オバマ大統領と被爆者との対話の機会を設けるようアメリカ側に伝えてほしいと要請しました。
安倍総理大臣は24日午後、総理大臣官邸で広島県の湯崎知事や広島市の松井市長と会談しました。
この中で湯崎知事らは、今週27日にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問することについて、安倍総理大臣に感謝を述べたうえで、「オバマ大統領の訪問が成功裏に終わるよう、地元としてはできることは最大限協力させていただきたい」と述べました。
そのうえで湯崎知事らは、訪問の際、オバマ大統領と被爆者との対話の機会を設けるようアメリカ側に伝えてほしいと要請しました。
会談のあと松井市長は記者団に対し、「うまくいくよう外務省とアメリカが調整していただいていると信じている。被爆者とオバマ大統領が会ってお話しできるような機会を設けてもらえれば、被爆者の気持ちも分かってもらえるのではないか」と述べました。

828名無しさん:2016/05/28(土) 19:55:50
http://www.yomiuri.co.jp/national/20160528-OYT1T50073.html
オバマ氏と握手の坪井さん「この人は本気だ」
2016年05月28日 16時21分

 27日にオバマ氏としっかり握手し、言葉を交わした日本原水爆被害者団体協議会代表委員の坪井直すなおさん(91)は、「強き味方がおるぞと我々を奮い立たせてくれた。核廃絶という我々の行く道を強めることができるようになった」と振り返った。

 オバマ氏については「底深い人という印象が強かった。便宜上、言っているのではなく、この人は本気だという感じを受けた」とし、「簡単に言葉通りになるとは思えない。それでも半歩でもいいから同じ向きに歩もうとしていることを確かめていきたい」と語った。

 自身も被爆者で、被爆死した米兵について独自に調査してきた歴史研究家の森重昭さん(79)は、オバマ大統領に抱きしめられる写真が世界中で報道された。「これまで被爆死した米兵の歴史を調べてきたが、昨日は自分が新しい歴史をつくることができた」と語った上で、「声明を改めて読むと、核兵器廃絶は容易ではなくても、よく考えてくれていることが伝わった」と感慨深げだった。

2016年05月28日 16時21分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

829名無しさん:2016/05/28(土) 20:17:28
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500051&g=pol
国連加盟60年で決議=参院

 参院は25日の本会議で、今年が日本の国連加盟から60年に当たることを踏まえ、国際平和への貢献を誓う決議を全会一致で採択した。決議は「国連が創設以来、国際平和の維持と創造のために発揮した英知と努力に深く敬意を表する」と評価した上で、「今後もわが国が率先垂範して人類の平和と助け合いのために努力する」と宣言した。(2016/05/25-10:13)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500046&g=pol
戦時中の旧外地会計を承認=参院、14年度決算も

 参院は25日の本会議で、戦時中に日本が運営していた朝鮮総督府など旧外地の特別会計のうち、戦後70年以上にわたり手続きが行われていなかった1944、45両年度の決算を承認した。これにより、国の会計上の戦後処理が終結した。
 旧外地特会は、日本が支配していた「朝鮮」「台湾」「樺太」「関東州」「南洋」の5地域の運営に関するもの。資料の散逸で決算処理ができない状態が長く続いていた。44、45両年度の剰余金に積立金を加えた約7億8000万円が2015年度一般会計に組み入れられる。
 また、本会議では14年度決算も承認。警察の捜査書類や証拠品の不適切な管理、NHK関連団体の不正経理など計8件について、内閣に是正を求める警告決議を採択した。(2016/05/25-10:59)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500451&g=pol
「被爆者との対面重要」=オバマ大統領訪問で-松井広島市長

 広島市の松井一実市長は25日の記者会見で、27日のオバマ米大統領訪問の具体的な日程は知らされていないとする一方、被爆者と大統領との対面について「被爆者と会い話をする重要性を伝えてきた。(実現に向け)日本政府も米当局と調整しているものと期待している」と話した。その上で「被爆者と大統領が会うのは重要だ」と改めて強調した。
 第2次世界大戦中に旧日本軍の捕虜となった元米兵の一人が訪問に同行するという一部報道については「捕虜としての悲惨な戦争体験は、事象の違いはあるが被爆体験と相通ずる」と話した。被爆者や市長との対談が実現した場合、「未来志向の面談になるよう望んでいる」と述べた。(2016/05/25-13:00)

830名無しさん:2016/05/28(土) 20:32:09
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500525&g=pol
米大統領が来日=27日に広島訪問-戦争犠牲者を追悼

 オバマ米大統領は25日夜、中部国際空港(愛知県)着の大統領専用機で来日した。26、27両日の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後、被爆地・広島を現職米大統領として初めて訪問する。自身が提唱してきた「核兵器なき世界」への取り組みの重要性を訴えるとともに、第2次世界大戦の全ての犠牲者を追悼する。
 オバマ大統領の来日は2014年4月の国賓訪問以来、4回目。今回が任期最後になる見通しで、サミット出席も最後となる。
 大統領は25日の到着後、サミット会場のホテルで安倍晋三首相と会談し、米軍属による女性死体遺棄事件への米側の対応を説明した。26日からの会議の進め方や27日の広島訪問についても擦り合わせた。(2016/05/25-23:22)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600390&g=pol
被爆者との対話調整=広島訪問の式典で-米大統領

 日米両政府は、オバマ大統領が27日に広島を訪問した際、式典に招待された被爆者と言葉を交わす方向で調整に入った。オバマ氏は1945年8月の原爆投下について「謝罪」をしない方針だが、核の残虐性を再認識し、廃絶に取り組む決意を伝えるとみられる。
 オバマ氏は主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日夕、広島の平和記念公園を訪問。平和記念資料館(原爆資料館)を視察し、慰霊碑に献花する。安倍晋三首相も同行する。
 オバマ氏は慰霊碑の横で声明形式の短い所感を読み上げた後、自然な形で被爆者に声を掛けるもようだ。(2016/05/26-12:21)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600599&g=pol
広島訪問、元捕虜の同行見送り

 【ワシントン時事】オバマ米大統領が27日に広島を訪問する際、第2次大戦中に旧日本軍の捕虜となった元米兵ダニエル・クローリーさん(94)が同行する計画が見送られることになった。元捕虜らでつくる「全米バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」が明らかにした。
 同協会によると、ホワイトハウスから21日、広島平和記念公園での式典に参加できる元捕虜を紹介してほしいと依頼があり、クローリーさんを推薦した。しかし、後日、クローリーさんは参加者に含まれないことになったとの連絡があった。
 クローリーさんは「声を掛けておいて参加させないのはばかげている」と話しているという。同協会のジャン・トンプソン代表は「クローリーさんは和解の力強い象徴になっていただろう。政権、米国、日米同盟にとって損失だ」と指摘した。(2016/05/26-15:35)

831名無しさん:2016/05/28(土) 20:36:18
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600508&g=pol
オバマ大統領の広島訪問、日米指導力の象徴=前米国務次官インタビュー

 【ワシントン時事】米国の対北朝鮮政策やイラン核問題をめぐる交渉などに携わったウェンディ・シャーマン前米国務次官は26日までにインタビューに応じ、オバマ大統領が安倍晋三首相と共に広島を訪れることについて「世界における日米の指導力の象徴になる」と高く評価した。一問一答は次の通り。
 -広島訪問をどう捉えるか。
 (大統領にとっては)困難な決断だったはずだ。大統領と首相が一緒に行くことは極めて重要だ。日米同盟の強さや、世界を舞台にした日米の指導力を象徴することになる。首相と大統領が世界の指導者として、あらゆる核兵器の開発を停止させ、核なき世界を最終的に実現するために、できる限りのことをしようと前進することが重要だ。
 -訪問は謝罪のためではない。
 ホワイトハウスは(原爆投下の)決定を再検討するのではなく、未来を見据えたいと表明してきた。米国は核兵器を使用した唯一の国であることから、核不拡散だけでなく、核なき世界を最終的に実現する特別の責任があることを理解している。米国には、核兵器が再び使われることのないよう懸命に取り組む特別の責任がある。
 -米国として被爆者に謝罪する必要はないのか。
 核兵器の使用が戦争を終わらせ、数百万人がさらに死ぬことを防いだと確信している。起きてしまった恐怖と、広島・長崎の人々の痛みや苦しみを過小評価するわけではない。戦争を終結させるという文脈の中で下された(原爆投下の)決定を再検討したところで、あまり有用だとは思わない。
 -核なき世界を唱えつつ、オバマ政権は北朝鮮の核問題で前向きな結果を得られなかった。
 北朝鮮への制裁を一段と強化しなければならないかもしれない。
 -北朝鮮の内部崩壊に備え、日米中などの間で調整するよう訴えたが。
 備えておかなければ、北朝鮮はわれわれ全員に対し優位に立つ。崩壊の可能性に対処する用意をしていないために、活用可能な全ての手段を行使することをわれわれがためらうと考えるだろうからだ。体制を転換させるという話ではない。(2016/05/26-14:28)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600801&g=pol
日本は反省を=米大統領の広島訪問で-中国外務省

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は26日の記者会見で、オバマ米大統領の広島訪問について、「日本が国際社会に責任を持つ態度で歴史をかがみとして戦争の悲劇を繰り返さないことを願う」と述べ、過去の戦争に対する日本の反省が必要との認識を改めて表明した。
 一方、主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の首脳宣言で、中国が軍事拠点化を進める南シナ海情勢が取り上げられる見通しであることに関連し、華副局長は「南シナ海問題はサミット参加国と全く関係ない。経済問題に集中すべきだ」と不快感を示した。(2016/05/26-18:33)

832名無しさん:2016/05/28(土) 20:53:34
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600950&g=pol
中国軍首脳、旧日本軍処理施設を視察=オバマ米大統領の広島訪問前

 【北京時事】中国国防省によると、軍制服組トップの范長竜・中央軍事委員会副主席は26日、吉林省敦化市ハルバ嶺を訪れ、旧日本軍が遺棄した化学兵器の処理施設を視察した。范氏は「処理作業を早めるよう日本側に促す」と述べた。

 ハルバ嶺には30万発以上の砲弾などが埋まっていると推定され、処理に必要な資金は日本が負担。ハルバ嶺の無害化処理施設は2014年に稼働を開始し、22年に廃棄作業を完了する予定。
 今回の視察は、27日に予定されるオバマ米大統領の広島訪問を控え、日本が戦争の「被害者」ではなく、「加害者」であることを印象付けようとする狙いがありそうだ。(2016/05/26-21:38)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052600647&g=pol
大戦の全犠牲者追悼へ=27日に広島訪問-被爆者と対話も・米大統領

 オバマ米大統領は主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)閉幕後の27日午後、現職米大統領として初めて被爆地・広島を訪れる。日本が植民地支配した韓国などアジアを含む第2次大戦の全犠牲者を追悼し、かつて戦火を交えた日米両国が揺るぎない同盟を構築した和解の意義を強調する。被爆者とも対話する見通し。
 オバマ氏が2009年4月にチェコ・プラハで「核兵器なき世界」に取り組む決意を表明してから7年。任期最後の年に訪れた被爆地で、核兵器を使用した唯一の国として核軍縮へ行動する道義的責任を内外に改めて訴え、自身の外交レガシー(遺産)にしたい考えだ。
 大統領は26日夜、サミット会場で記者会見し、1945年8月6日の広島への原爆投下について「現代史の変わり目だった」との見解を示した。
 さらに、広島訪問で「大戦の悲劇を振り返るだけでなく、紛争の危機を減らすための取り組みが終わっていないことを明確にする」と強調した。核軍縮に関連しては、北朝鮮の核問題を「大きな懸念だ」と批判した。
 大統領は27日夕、岩国基地(山口県岩国市)から専用ヘリコプターで広島入り。平和記念公園での式典で慰霊碑に献花し、被爆地を訪れた所感を声明形式で述べる。平和記念資料館(原爆資料館)も視察する。安倍晋三首相が同行する。(2016/05/26-21:01)

833名無しさん:2016/05/28(土) 22:19:14
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052800060&g=pol
安倍首相の真珠湾訪問に期待=大統領への批判は一部-米

 【ワシントン時事】米紙ワシントン・ポスト(電子版)は27日、オバマ大統領の広島訪問を報じた記事で、ホワイトハウスは安倍晋三首相のハワイ・真珠湾訪問を歓迎する意向だと伝えた。真珠湾攻撃から今年12月7日(現地時間)で75年となるが、ある米政府高官は安倍首相が訪問しなければ「驚きだ」と語ったという。
 安倍首相は25日の記者会見でハワイを訪れる予定は現時点でないと述べている。一方、オバマ大統領の広島訪問や平和記念公園での演説について、米国内で批判は一部にとどまっている。(2016/05/28-06:23)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052800011&g=pol
オバマ氏が手作り折り鶴=原爆資料館で小中学生に

 オバマ米大統領は27日に広島市の平和記念資料館(原爆資料館)を訪問した際、「平和の象徴」として自分で作った折り鶴4羽を持参し、広島市の代表として同席した小中学生2人に1羽ずつ、資料館に2羽贈った。資料館に贈った2羽は、オバマ氏が記帳した芳名録の横に飾られた。
 鶴は4色の和風折り紙で作られ、オバマ氏は安倍晋三首相に「少し手伝ってもらったが、私が(事前に)作った」と説明した。オバマ氏は小中学生2人に親しげに語り掛け、「英語も勉強して」と励ましたという。(2016/05/28-00:44)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052800014&g=pol
「原爆の子の像」モデルに関心=オバマ氏、熱心に視察-資料館館長

 原爆死没者慰霊碑での献花に先立ち、オバマ氏は平和記念資料館を視察。岸田文雄外相が案内した。後ろで見守っていた志賀賢治館長(63)によると、「関心が深く、事前に勉強されている。大変に熱心だった」という。
 オバマ氏は資料館全体を回らず、資料館側が用意した原爆を伝える資料を見学した。オバマ氏は、2歳のとき被爆、10年後白血病を発症して死亡し、平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんに関心が高いと聞いていたため、館長は佐々木さんが作った折り鶴などの資料を準備したという。
 館長は「大統領が国に帰り、見たことを語ると思う。語ったことを聞いた人に(資料館へ)来てもらうことを願う」と述べた。(2016/05/28-00:51)

834名無しさん:2016/05/28(土) 22:21:26
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700769&g=pol
「原爆の惨劇、忘れない」=米大統領、全犠牲者を追悼-歴史的な広島訪問

 オバマ米大統領は27日夕、現職米大統領として初めて被爆地・広島を訪問した。オバマ氏は平和記念公園で「原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。歴史を直視して、何をしなければならないかを自問する共通の責任がある」と演説し、「核兵器なき世界」を追求する重要性を訴えた。1945年8月6日朝の惨劇の記憶を薄れさせてはならないとも語った。その後、参列した被爆者と言葉を交わし、抱き寄せた。

 オバマ氏は2009年1月の大統領就任時から被爆地訪問を模索、7年越しの実現となった。一方、米大統領に原爆投下の事実と向き合うよう求めてきた被爆者にとっては、長年の願いがかなう歴史的訪問となった。
 オバマ氏は約17分間の演説で「広島を訪れるのは朝鮮人と米兵捕虜を含む10万人を超える(原爆の)死者を追悼するためだ」と切り出し、戦争が罪のない市民に多大な悲劇をもたらしたと指摘。その上で、核兵器に対する恐怖の論理から抜け出す勇気を持ち、09年4月のプラハ演説で提唱した「核兵器なき世界」を追求しなければならないと訴えた。
 また、かつて戦火を交えた米国と日本の関係にも言及し「同盟だけでなく、友情も育んだ」と強調した。広島と長崎の未来は「核戦争の夜明けではなく、われわれの道義的な目覚めの始まりである」と結んだ。大統領に同行した安倍晋三首相は「世界中のどこであろうと、このような悲惨な経験を繰り返させてはいけない。核兵器のない世界を必ず実現する」との決意を示した。(2016/05/28-00:50)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700674&g=pol
歴史の旅、未来見渡す=ベトナムと広島を初訪問-アジア重視の集大成・米大統領

 オバマ米大統領は27日、ベトナムと日本での政治日程を終えて帰国の途に就いた。オバマ氏にとっては、かつて激戦を繰り広げた両国との痛みを伴う歴史を直視する旅だった。「最終目的地」は政権が掲げてきたアジア太平洋へのリバランス(均衡)政策を未来に進める道筋を示すことだ。戦後70年を経て、米大統領の被爆地・広島訪問を初めて実現させたことは、アジア重視外交の集大成とも言える。

 ◇原爆の記憶は消えない
 オバマ大統領は27日夕、岩国基地(山口県岩国市)から専用ヘリコプターで広島入りし、平和記念公園に約1時間滞在。平和記念資料館(原爆資料館)で「私たちは戦争の苦しみを経験した。平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と記帳した。

 「1945年8月6日の朝の記憶は決して消えることはない」。オバマ氏は被爆者を含む約100人足らずの招待者を前に、原爆投下の是非には踏み込むことなく「戦争が双方の市民に悲劇をもたらした」ことを繰り返し強調した。原爆投下への謝罪は行わないものの、逆に戦争の是非にも触れないことで「われわれ(米国)も悪かった」(オバマ氏側近)ことをにじませた。
 ◇「対中国ではない」
 来日前に訪れたベトナムでは、対ベトナム武器禁輸の全面解除に踏み切った。両国の共通の課題となっている中国への包囲網といった見方がある一方で、オバマ大統領が「中国は関係ない。両国関係が完全に変化したことを示したかった」と述べた言葉にうそはないだろう。
 米国は2014年に武器禁輸を部分解除しているが、ベトナムはこれまで武器を一切購入していない。ベトナムは南シナ海の領有権をめぐって中国と激しく対立する一方で、インフラや食品の輸入など経済面では中国に依存している。
 大統領は24日、ハノイで学生ら約2300人の聴衆を前に演説し、ベトナム戦争に言及し「300万人のベトナムの兵士と市民、5万8315人の米国民が命を失った」と語った。その上で「両国は痛みと尊い犠牲を忘れてはならない」と誓った。
 ◇旧敵とも和解は可能
 大統領の今回の歴訪には、隠れたテーマがもう一つある。それは原爆投下を含めて戦火を交えた敵同士の「和解は可能」というメッセージだ。ベトナムでは、チャン・ダイ・クアン国家主席との共同記者会見で「相互利益と尊重に基づいて対話すれば、関係を変化させることが可能だ」と強調。広島では「日米は同盟だけではなく、友情を育んだ」と訴えた。
 オバマ氏はこれまで、ウクライナ情勢やシリア情勢で軍事介入を避けていることから、野党共和党から「弱腰」と批判されてきた。だからこそ大統領は、被爆地から戦争の悲惨さと和解、未来への可能性を結び付けることで、あくまで平和を追求する哲学を外交レガシー(遺産)としたい考えだ。(2016/05/27-23:54)

835名無しさん:2016/05/28(土) 22:39:00
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700890&g=pol
「歴史的意義」与野党から評価=オバマ氏広島訪問、核廃絶へ注文も

 オバマ米大統領の広島訪問について、与野党幹部は27日、「歴史的に大きな意義がある」(公明党の山口那津男代表)などとして一様に評価した。ただ、核兵器廃絶に向けた具体的な「行動」を求める声も同時に上がった。
 山口氏は国会内で記者団の取材に対し、大統領の訪問を歓迎した上で、「今日を一つの重要な歴史的転換点として、核のない世界を目指して共に歩んでいきたい」と述べた。
 民進党の岡田克也代表は東京都内で記者団に「現実の被害がどういうものか見ていただいたことは非常に良かった」と語った上で、「日本も(核廃絶へ)具体的な歩みを求められている」と指摘。おおさか維新の会の松井一郎代表は「日米両国は、将来には核廃絶が実現するようあらゆる努力を傾けるべきだ」とする談話を発表した。
 共産党の志位和夫委員長は記者団に「前向きの歴史的な一歩」としつつ、「(核兵器全廃を掲げる)核兵器禁止条約の国際交渉を開始するという具体的な行動に移る必要がある」と米国に促した。社民党の又市征治幹事長も談話で、核保有国に「核軍縮に向けた現実的かつ着実な努力」を求めた。
 生活の党の小沢一郎代表は談話で「広島や長崎の悲劇を絶対に繰り返さないという人類社会全体の約束こそ肝心だ」と強調した。(2016/05/27-21:37)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052701004&g=pol
オバマ米大統領、涙ぐむ被爆者を抱擁=「平和な世界」へ決意-広島の悲劇訴え

 1945年に世界で初めて原爆が投下された広島に27日、現職の米大統領として初めてオバマ大統領が訪問した。「閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。人類が自分たち自身を破壊する手段を持った」。慰霊碑への献花に続く演説で広島で起こった悲劇を訴えたオバマ氏は厳しい表情を崩さなかったが、柔和な表情で涙ぐむ被爆者を抱擁する象徴的場面もあった。

 終戦から71年間をかけて築いた日米の友好関係を強調したオバマ大統領。被爆地の広島と長崎から「平和な世界」をつくる決意を新たにした。
 午後5時すぎ、大統領専用ヘリ「マリーン・ワン」で、広島西飛行場に着陸し、歴史的訪問をスタート。濃紺のスーツに青色のネクタイといういでたちで平和記念公園に入ると、まず平和記念資料館(原爆資料館)を訪れた。「私たちは戦争の苦しみを経験した。平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と記帳。約10分間の視察中、「平和の象徴」である折り鶴を同席した小中学生2人に贈った。
 その後、晴天の下、前を見つめ安倍晋三首相と並んでゆっくり歩きながら、原爆死没者慰霊碑へ。地元高校生から受け取った花輪を献花した後、黙とうをささげた。一方、米国内で「謝罪」と受け止められることを避けるためか、続いて献花した安倍首相のように頭を下げることはなかった。
 続く17分間の演説は終始、神妙な面持ち。「空に上るきのこ雲の姿は人間性の中心にある矛盾を想起させる」「愛する人々、子供たちの笑顔、夫婦の触れ合い、親の抱擁。71年前、同じようにこういう大切なひとときがあった。亡くなった人々はわれわれと同じだ」-。

 その後、オバマ氏は、被爆者代表として出席していた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の坪井直代表委員(91)の元に歩み寄った。
 「自分は91歳になったが、オバマ大統領が人類の幸せとは何か語るのを見て、心がずいぶん若返った。(2009年に)プラハで語った『核兵器なき世界』の実現に向け一緒に頑張りましょう」。興奮しながらこう話す坪井さんの手を握りながら、耳を傾けたオバマ氏は、時折笑顔を見せ、「ありがとう」と応じた。オバマ氏はこの後、近くに座っていた被爆者の森重昭さん(79)が涙ぐむと背中をさすりながら抱き寄せた。
 最後は慰霊碑から原爆ドームに向かって歩き、岸田文雄外相から説明を聞いた後、こう言い残して平和記念公園を後にした。「平和にとって大切な場所だ」。(2016/05/27-23:52)

836名無しさん:2016/05/28(土) 22:39:49
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700991&g=pol
「核なき世界の出発点」=米大統領の被爆地訪問-広島、長崎両市長

 現職米大統領が初めて被爆地・広島を訪問した27日、広島市の松井一実市長と長崎市の田上富久市長は広島市内でそろって記者団の取材に応じた。平和記念公園でオバマ大統領の原爆死没者慰霊碑への献花に立ち会った両市長は「核なき世界への出発点になる」などと大統領訪問を評価した。
 松井市長は「(オバマ氏には)核兵器のない世界の実現に向けた決意を一層強固なものにしていただけたと思う」と指摘。その上で「(他の)世界の政治指導者の被爆地訪問の流れにつながればと期待している。そうすることが核兵器のない世界に向けてしっかりした歩みを始める歴史的な出発点になる」と強調した。

 同じ被爆地・長崎の米大統領訪問は実現しなかったが、田上市長は「また別の機会にでも、あるいは退任されてからでも(オバマ氏に)長崎にぜひお越しいただきたい」と話した。
 また、湯崎英彦広島県知事は「被爆の実相を伝える努力を続けていかなければならない」と改めて気を引き締めた。(2016/05/27-21:57)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700945&g=pol
オバマ米大統領演説要旨=広島訪問

 オバマ米大統領が27日、広島市の平和記念公園で行った演説要旨は次の通り。
 1、71年前、雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界が一変した。せん光と火の壁が街を破壊した。そして、人類が自分たち自身を破壊する手段を持ったことを明示した。
 1、私たちはなぜこの場所、広島に来るのだろうか。10万人を超える日本人の男女、子供、数千人の朝鮮人、捕らわれた十数人の米国人の死者を悼むためだ。
 1、広島と長崎に残酷な結末をもたらした世界大戦は最も富裕で、強大な諸国によって戦われた。こうした国の文明は世界の偉大な都市や素晴らしい芸術を生んだ。しかし、同じ場所から戦争が起きた。
 1、数年のうちに約6000万人が亡くなった。撃たれ、爆撃を受け、捕らえられ、飢えさせられ、ガスで殺害された。
 1、空に上るきのこ雲の姿は人間性の中心にある矛盾を想起させる。われわれの考えや創意、言葉といった自然界から人類を区別する能力がわれわれに不相応な破壊力も与える。
 1、私たちはこの街の中心に立ち、原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。あの戦争とその前の戦争、それに続く戦争の罪のない犠牲者全員を記憶している。私たちには歴史を直視し、こうした苦しみを止めるには何をすべきかを問う共通の責任がある。
 1、いつの日か被爆者の声は聞けなくなる。しかし、1945年8月6日の朝の記憶は決して薄れさせてはならない。あの運命の日以来、私たちは希望の選択をした。米国と日本は同盟を構築しただけでなく、友情を築き上げた。
 1、国際社会は戦争を回避し、核兵器を制限・削減して究極的には廃絶を目指す制度や条約をつくった。それでもなお、国家間の攻撃やテロ行為が世界中にあり、仕事は決して終わっていない。
 1、私自身の国のような核兵器を持つ国は、恐怖の論理から抜け出す勇気を持ち、そうした兵器のない世界を目指さなければならない。私の人生のうちにこの目標は実現できないかもしれない。しかし、粘り強い努力によって破滅の可能性を低くできる。(核兵器)備蓄の破棄につながる計画を立てることはできるし、他国への拡散や狂信者の手に渡るのも阻止できる。
 1、私たちは戦争そのものに関する考え方を変え、外交によって紛争を防止し、起きてしまった紛争を終結させる努力をしなければならない。
 1、(原爆で)亡くなった人たちは戦争を望んでいない。科学の奇跡は生活を奪うことではなく、その改善に用いることを望むだろう。国家や指導者が選択をするとき、この簡明な知恵を熟慮するなら、広島の教訓は生かされる。
 1、この場所で世界は永遠に変わった。しかしきょう、この街の子どもたちは平和のうちに一日を過ごすだろう。それは何と貴重なことだろうか。これが私たちが選べる未来だ。広島と長崎が核戦争の夜明けとしてではなく、私たち自身の道義的な目覚めの始まりとして知られる未来だ。(2016/05/27-23:51)

837名無しさん:2016/05/28(土) 22:44:05
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700992&g=pol
オバマ大統領の演説全文

 オバマ米大統領が27日に広島市平和記念公園で行った演説全文は次の通り。
 71年前の雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。そして人類が自らを滅ぼす手段を持ったことを明示した。
 なぜわれわれはこの地、広島にやって来るのか。そう遠くない過去に放たれた恐ろしい力について思案するために来るのだ。10万人以上の日本人の男性、女性、子どもたち、数千人の朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために来るのだ。彼らの魂は私たちに話し掛ける。そして彼らは私たちに内面を見つめるように求め、私たちは何者なのか、何者になるかもしれないのかを見定めるよう求めるのだ。
 広島を際立たせているのは戦争の事実ではない。暴力的な紛争は原始人にも見られることが遺物から分かる。石英から刃物を作り、木からやりを作ることを学んだわれわれの祖先は、こうした道具を狩りだけでなく、同じ人類に対して使った。全ての大陸で、文明の歴史は戦争で満ちている。穀物の不足であれ金(ゴールド)への渇望であれ、国粋主義の熱狂的な扇動や宗教的な熱意であれ、帝国は興亡し、人々は支配されたり、解放されたりしてきた。節目節目で、罪のない人々が苦しみ、無数の死者を出し、彼らの名前は時間とともに忘れられた。
 広島と長崎に残酷な結末をもたらした世界大戦は、最も豊かで最も強力な国々の間の戦いだった。彼らの文明は、世界の偉大な都市や素晴らしい芸術を生んだ。その思想家たちは正義と調和と真実についての考えを進展させた。しかし、最も単純な部族間紛争の原因となった支配や征服への同じ基本的な本能によって戦争へと発展した。古いパターンが新しい能力によって、新たな制約もなく増幅した。
 数年の間に、およそ6000万人が亡くなった。われわれと何ら違いのない男性、女性、子供たちが、撃たれ、たたかれ、行進させられ、爆撃され、収容され、飢えさせられ、ガスで殺された。世界中に、この戦争を記録する多くの場所がある。勇気と英雄の物語を示す記念碑、言葉では言い表せない悪行がこだまする墓地や空になった収容所がある。
 しかし、この空に立ち上ったきのこ雲の姿は、人間性の中心にある矛盾を最も鮮明に想起させる。われわれを種として特徴づけるひらめき、思想、創意、言語、道具を作ること、自然界から人類を区別し、自然をわれわれの意志に従わせる能力。これらがいかに、不相応な破壊力もわれわれに与えるかということを。
 物質的な進歩や社会革新が、どれほどこの真実からわれわれの目をそらさせるのだろうか。われわれは、より高度な理由のため、暴力を正当化することをいかに簡単に学んでしまうのだろうか。全ての偉大な宗教は愛と平和と正義への道を約束するが、いかなる宗教にも信教を理由に人を殺すことができると主張した信者がいた。各国は犠牲と協調の元に国民を結束させる話を説きながら台頭し、偉業が成し遂げられるが、同時にこうした話は自分たちとは異なる人々を虐げ、人間性を奪う口実に利用されてきた。
 科学のおかげで私たちは海を越えて交流し、雲の上を飛び、病気を治し、宇宙を理解するが、こうした科学的発見はより性能のいい殺りく兵器にも変わり得る。
 近代の戦争は私たちにこの真実を教えてくれる。広島がこの真実を教えてくれる。技術は、人間社会の進歩を伴わなければわれわれに破滅をもたらす。原子の分裂へと導いた科学的革命は、モラルの革命も必要とする。
 だから私たちはこの場所に来る。私たちはここ、この街の真ん中に立ち、原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。目の当たりにしたことに混乱した子供たちの恐怖を感じずにはいられない。われわれは声なき叫びに耳を傾ける。あのひどい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起きる戦争で命を落とす全ての罪のない人々のことを忘れない。単なる言葉だけでこれらの苦しみを表すことはできない。しかし、私たちには歴史を直視し、こうした苦しみを食い止めるために何をしなければならないかを自問する共通の責任がある。
 いつの日か、ヒバクシャの証言の声は聞けなくなるだろう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶は決して薄れさせてはならない。その記憶のおかげで、私たちは自己満足と戦うことができる。その記憶が私たちの道義的な想像力をたくましくしてくれる。その記憶が私たちに変化を促してくれる。
 そしてあの運命の日以来、私たちは希望を持てる選択をしてきた。米国と日本は同盟を構築しただけでなく、戦争を通して得られたものよりもはるかに多くのものを私たちにもたらした友情も築き上げた。

838名無しさん:2016/05/28(土) 22:44:16
>>837

 欧州の国々は、戦場を商業と民主主義の結束に変えた連合を構築した。抑圧された人々と国は自由を勝ち取った。国際的な共同体は、戦争を回避し、核兵器の存在を制限、縮小し、究極的には廃絶を目指すための制度と条約をつくった。
 それでもなお、われわれが目にする国家間のあらゆる侵略行為、世界中でのあらゆるテロ、汚職、残虐行為、抑圧は、われわれの仕事が決して終わっていないことを示している。悪事を働く人間の能力をなくすことはできないかもしれない。そのため、国家、そしてわれわれが締結している同盟は、自身を守る手段を持つ必要がある。しかし、私の国のように核兵器の備蓄がある国は、恐怖の論理から抜け出す勇気を持ち、核兵器なき世界を追求しなければならない。私が生きているうちに、この目標を実現できないかもしれない。しかし、粘り強い努力によって破滅の可能性を低くできる。こうした備蓄の破棄につながる計画を立てることはできるし、他国への拡散や致死性の物質が狂信者の手に渡るのも阻止できる。
 しかし、それではまだ十分ではない。今日の世界を見渡すと、最も粗末なライフルやたる爆弾でさえ、恐ろしい規模の暴力をもたらすことができる。われわれは外交を通じて紛争を防ぎ、起きてしまった紛争を終わらすため、戦争自体に関する考え方を変えなければならない。われわれの相互依存の拡大を暴力的な対立ではなく、平和協調への理念と見なそう。破壊の力ではなく、つくり上げるもので国を定義しよう。
 そして、恐らく何にもまして、われわれは一つの人類の仲間として、お互いのつながりを改めて思い起こさなければならない。これも、われわれ人類を類ない存在としている。われわれは遺伝子情報によって、過去の過ちを繰り返すよう規定されてはいない。われわれは学ぶことができる。選ぶことができる。われわれは子供たちに別の物語を話すことができる。共通の人間性を描いたり、戦争の可能性を減らし、残虐さをそれほど簡単には受け入れたりしない物語だ。
 われわれはヒバクシャのこうした話を知っている。原爆を落とした爆撃機のパイロットを許した女性がいる。本当に憎んでいたのが戦争それ自体だったと分かったためだ。この地で死亡した米国人の家族を捜し出した男性がいる。彼らと自分自身の損失は同じと信じていたからだ。
 私自身の国の物語も、簡単な言葉から始まった。「全ての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」(米独立宣言)。この理想の実現は決して容易ではなかった。わが国内や国民の間でさえそうだった。しかし、この話に忠実であろうと努力する価値はある。それは、真剣な努力に値する理想であり、大陸そして海を越えて広がる理想だ。全ての人間の絶対的な価値を示し、全て生命は大切であるという揺るぎない主張だ。われわれは皆一つの人類という家族の一員であるとの根源的で必然的な考え方だ。これこそ、われわれ皆が伝えなければならない物語だ。
 これが広島を訪れる理由だ。愛する人、自分の子供たちの朝一番の笑顔、台所の食卓越しの夫や妻との優しい触れ合い、心安らぐ親の抱擁といったことに思いをはせるためだ。こうしたことに思いを寄せると、71年前にここで同じように大切なひとときがあったということが分かる。亡くなった人々は、われわれのような人たちだ。普通の人には分かることだと思う。皆、戦争はたくさんだと思っている。科学の驚異は暮らしの向上に焦点を当てるべきで、命を奪うものであってはならないと考えている。国々やその指導者が決断を行うときにこの単純な知恵が反映されれば、広島の教訓は生かされたことになる。
 世界はここで永遠に変わってしまった。しかしきょう、この街の子供たちは平和に一日を過ごすだろう。それは何と貴重なことか。それは守るに値することであり、全ての子供がそうあるべきだ。これこそわれわれが選択できる未来だ。広島と長崎が核戦争の夜明けとしてではなく、私たち自身の道義的な目覚めの始まりとして知られる未来だ。(2016/05/27-23:38)

839名無しさん:2016/05/28(土) 22:49:58
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700807&g=pol
核なき世界へ「希望与えた」=米大統領の広島訪問を歓迎-安倍首相

 安倍晋三首相は27日夕、オバマ米大統領と訪れた広島市の平和記念公園で所感を述べ、「米国の大統領が被爆の実相に触れ、核兵器のない世界への決意を新たにする。核なき世界を信じてやまない世界中の人々に大きな希望を与えてくれた」と高く評価した。
 首相は「全ての日本国民が待ち望んだ歴史的訪問を心から歓迎したい」と表明。その上で「日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に新たなページを刻む大統領の決断と勇気に対して、心から敬意を表したい」と述べた。
 核廃絶の決意については、「世界中のどこであろうと、再び悲惨な経験を決して繰り返させてはならない。核兵器のない世界を必ず実現する」と訴えた。日米関係にも触れ、「日米が力を合わせて、世界の人々に希望を生み出すともしびとなる」と述べ、同盟深化の重要性を強調した。(2016/05/27-20:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700889&g=pol
安倍首相発言要旨=オバマ米大統領広島訪問

 安倍晋三首相の広島平和記念公園での発言要旨は次の通り。
 日米両国は戦後70年を経て、深い信頼と友情で結ばれる同盟国となった。日米同盟は、世界に希望を生み出す同盟でなければならない。
 米国の大統領が被爆の実相に触れ、核兵器のない世界への決意を新たにする。核なき世界を信じてやまない世界中の人々に大きな希望を与えてくれた。全ての日本国民が待ち望んだ歴史的な訪問を心から歓迎したい。日米両国の和解、そして信頼と友情の歴史に新たなページを刻むオバマ大統領の決断と勇気に対して、心から敬意を表したい。
 世界中のどこであろうと、再び悲惨な経験を決して繰り返させてはならない。この痛切な思いをしっかりと受け継いでいくことが、今を生きる私たちの責任だ。
 核兵器のない世界を必ず実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうと絶え間なく努力を積み重ねていくことが今を生きる私たちの責任だ。必ずやその責任を果たして、日本と米国が力を合わせて、世界の人々に希望を生み出すともしびとなる。この地に立ち、オバマ大統領と共に改めて固く決意した。(2016/05/27-19:30)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700744&g=pol
原爆投下、なお日本と認識差=「正当化される」過半数-米世論

 オバマ米大統領の広島訪問は、核兵器を実戦で使用した唯一の国の指導者が被爆地に足を踏み入れるという意味で、歴史的機会だ。だが、米国民の多数派は依然として「原爆投下が戦争終結を早め、多数の米兵の命を救った」と考えている。多くの人命を一瞬にして消し去ったキノコ雲の意味をめぐり、両国民の認識の違いはなお大きい。

 米調査機関ピュー・リサーチ・センターが戦後70年に当たる昨年実施した世論調査結果によると、広島・長崎への原爆投下は「正当化される」と考える米国人は56%に上り、「正当化されない」の34%を大きく上回った。同じ質問に日本人の79%が否定的見解を示したのとは対照的だ。
 オバマ氏の広島訪問発表後も、米当局者が「日本は謝罪を求めていない。われわれも(謝罪を)しない」(ライス大統領補佐官)と繰り返してきた背景には、こうした国民世論がある。
 米国民の意識は年代によって差があり、原爆投下が「正当化される」と回答したのは65歳以上で70%に上ったが、18〜29歳の若年層では47%と半数を割った。男女別でみると、肯定的な意見は男性の62%に対し、女性は50%にとどまった。
 米国民の見方は時代によっても変化している。米調査機関ギャラップが原爆投下直後の1945年8月に実施した世論調査では、85%が投下に支持を表明。しかし、この数字は戦後60年の2005年には57%にまで低下した。
 もっとも、同じ調査では05年時点でも、米国人の80%が「原爆投下によって(戦争終結で)米国人の命が救われた」と回答。核兵器が戦争を早期に終わらせたという認識自体は根強いことを示した。一方、「日本人の命が救われた」と答えた米国人は41%で、「そう思わない」の47%を下回った。(2016/05/27-17:45)

840名無しさん:2016/05/28(土) 22:52:18
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700076&g=pol
米大統領、今夕広島訪問=「核なき世界」重要性訴え

 オバマ米大統領は27日夕、現職米大統領として被爆地・広島を初めて訪問する。大統領は安倍晋三首相と共に平和記念公園で所感を述べ、2発目の原爆が投下された長崎を含む第2次世界大戦の全犠牲者を追悼する。また、大統領が提唱している「核兵器のない世界」に取り組む重要性を内外に向けて訴える。(2016/05/27-05:49)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700072&g=pol
外国記者の視線「ヒロシマ」へ=「歴史的」「和解の象徴」-オバマ氏訪問どう見るか

 オバマ米大統領は27日午後、現職米大統領として初めて被爆地・広島の土を踏む。主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)を取材している海外メディア記者や外国人研究者の視線も「ヒロシマ」に注がれる。「歴史的だ」「悲劇から何を学ぶか」「和解の象徴」。歴史的訪問をどう見ているか、聞いてみた。
 「(大統領の決断は)素晴らしい。原爆投下という大きな悲劇の教訓をどうくみ取り、この悲劇から何を学ぶかが問題だ」。サミットの国際メディアセンター(三重県伊勢市)で語ったのは、香港公共ラジオRTHKのワシントン支局で働く米国人記者バリー・ウッドさん(72)。
 英紙フィナンシャル・タイムズ東京支局長で英国人のロビン・ハーディング氏(37)も「(オバマ大統領は)在任中にほとんど進展のなかった『核兵器のない世界』に向けた取り組みを訴えたいのだろう。和解の象徴だ」と高く評価した。
 オバマ大統領は訪日に先立ち、日本と同様にかつて戦火を交えたベトナムを初訪問し、関係の「完全正常化」を宣言した。国営ベトナム通信のグエン・ティ・トエン東京支局長(40)は、「日本とベトナムは、共に米国と戦った国だが(より緊密な)日米関係は米越関係と全く異なる」と指摘。その上で「米越関係が今後(日米関係のように)発展していけばいい」と話した。
 毎年サミット開催地を訪れ、サミットの成果を研究している英シェフィールド大政治学部の米国人研究者ガレット・ブラウン氏(44)は、オバマ大統領の広島訪問の意義をこう解説する。
 「日米双方の戦争犠牲者に対する追悼という面はある。しかし、それだけでなく(広島訪問を通じて)政治面でいかに(両国関係を)前進できるかを表した」。一方、マイナス要因を質問すると、「大統領が仮に謝罪をにおわせれば、退役軍人や共和党から批判が出て、緊張を生む可能性はある。しかし(日米関係にとって)害にはならないだろう」と分析した。(2016/05/27-05:47)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052700060&g=pol
「核使わない」自らの言葉で=広島訪問、オバマ氏に期待-鈴木長崎大教授

 現職大統領として初となるオバマ米大統領の広島訪問を27日午後に控え、もう一つの被爆地・長崎でも期待が高まっている。長崎大核兵器廃絶研究センター長の鈴木達治郎教授(65)は「核兵器がもたらす悲惨な結末を身をもって感じてもらうのが最大の意義」と語り、「短くても、オバマ氏自身の言葉で『核兵器は使ってはいけない兵器だ』と言ってほしい」と訴える。(2016/05/27-05:36)

841名無しさん:2016/05/29(日) 15:55:22
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052400730&g=pol
米大統領の被爆者面会要請=広島知事ら

 広島県の湯崎英彦知事と広島市の松井一実市長は24日午後、首相官邸に安倍晋三首相を訪ね、オバマ米大統領が27日に広島市を訪問する際、被爆者との面会が実現するよう改めて要望した。首相からは明確な回答はなかったという。
 松井氏は会談後、記者団に「外務省と米国で鋭意調整していただいていると信じている」と述べ、面会実現に期待をにじませた。(2016/05/24-17:55)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052400403&g=pol
オバマ氏献花に被爆者招待=原爆ドーム視察も検討-日米

 日米両政府は、オバマ米大統領が27日に行う広島平和記念公園での献花に、被爆者を招待する方向で調整に入った。日本政府関係者が24日、明らかにした。同公園内の原爆ドームのオバマ氏による視察も検討している。
 オバマ氏は26日からの主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に出席後、27日午後に平和記念公園を訪れ、平和記念資料館を見学するとともに、慰霊碑に献花する。この後、被爆地を訪れた所感や核廃絶への決意を表明する見通しだ。安倍晋三首相も同行し、オバマ氏訪問の意義などについて見解を述べる。(2016/05/24-12:41)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052400054&g=pol
大統領は謝罪拒否再考を=広島訪問前に書簡-米有識者グループ

 【ワシントン時事】映画監督のオリバー・ストーン氏ら米国の有識者約70人は23日、オバマ大統領が27日に広島を訪問するのを前に、謝罪を拒否する方針を再考するよう促す連名の書簡を大統領に送付した。できる限り多くの被爆者と面会することも求めている。
 名を連ねたのはストーン氏のほか、言語学者のノーム・チョムスキー氏、元国防総省職員のダニエル・エルズバーグ氏、アメリカン大のピーター・カズニック教授ら。
 書簡は「アイゼンハワー大統領やマッカーサー元帥でさえ原爆投下は戦争終結に必要なかったと述べていた」と説明し、訪問時に原爆投下の是非に触れない方針を考え直すよう要求。また、被爆者との面会は「核廃絶への決意を誰もが強固にせざるを得なくなる貴重な経験だ」と指摘した。
 書簡はまた、「大統領は核兵器なき世界に向け、残り任期中にも決定的な指導力を発揮できる」と強調し、核兵器の近代化計画中止や核軍縮交渉の再活性化を求めている。(2016/05/24-05:37)

842名無しさん:2016/05/29(日) 16:00:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052300719&g=pol
日米首脳そろって所感表明へ=広島訪問時、核廃絶へ決意

 安倍晋三首相は、オバマ米大統領の27日の広島訪問に同行する際、被爆地を訪れた所感を日米両首脳で、そろって表明する方針を固めた。政府関係者が23日、明らかにした。両首脳は協調して、「核なき世界」に向けた国際社会の一層の取り組みを訴える見通しだ。
 大統領は、26、27両日の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)の日程を終えた後、被爆地である広島を訪問。米政府高官によると、大統領は広島で「全ての犠牲者に哀悼の意を表したい」との意向だ。首相も広島入りし、両首脳は広島平和記念資料館を見学するとともに、原爆死没者慰霊碑へ献花。原爆ドームも訪れる方向だ。
 首相は広島での所感で、大統領の広島訪問を歓迎するとともに、核廃絶に向けた決意を表明する方針だ。
 23日の参院決算委員会で、首相は「(大統領の広島訪問は)核兵器のない世界に向けて、大きな力となる」と強調。さらに、「今後とも、オバマ大統領と力を合わせ、(核廃絶)実現に向けて一歩一歩、着実に進んでいくよう努力を重ねたい」と述べた。(2016/05/23-18:50)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052800291&g=pol
謝罪なければ問題ない=オバマ氏広島訪問でトランプ氏

 【ワシントン時事】米大統領選の共和党候補指名が確定した実業家ドナルド・トランプ氏(69)は27日、オバマ大統領の広島訪問について、謝罪しなければ問題ないとの見解を示した。
 トランプ氏はカリフォルニア州サンディエゴの集会で演説し、「(オバマ氏が)謝罪しない限り全く結構なことだ。誰が構うものか」と語った。 
 一方、トランプ氏は民主党候補指名をほぼ確実にしたヒラリー・クリントン前国務長官(68)を批判、「(彼女は)私が日本を核武装させたがっていると言ったが、そんなことは全く話していない」と述べた。トランプ氏は日本の核武装を容認する発言をしたが、積極的に求めはしないことをかねて説明している。(2016/05/28-23:23)

843名無しさん:2016/06/04(土) 20:37:15
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160601/k10010542781000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_051
外相が米大使に謝意 オバマ大統領の広島訪問実現で
6月1日 17時57分
岸田外務大臣はアメリカのケネディ駐日大使と会談し、オバマ大統領の被爆地・広島への訪問が実現したことに謝意を伝えるとともに、今後、「核兵器のない世界」の実現に向けて、日米両国でさらに協力していくことで一致しました。
この中で岸田外務大臣は、先月27日にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問したことについて、「現職の大統領に被爆地を訪問してもらったことは、1人の広島市民、そして被爆地出身の外務大臣としてうれしく思っている。ケネディ大使には、さまざまな形で力添えを頂き、心から感謝したい」と述べました。
これに対し、ケネディ大使は「広島の皆さんが、オバマ大統領に示された本当に温かい歓迎の意に心から感謝を申し上げたい。歴史的な訪問に参加することができて大変光栄だ」と応じました。
そのうえで両氏は、「核兵器のない世界」の実現に向けて、日米両国でさらに協力していくことで一致しました。
また、両氏は、沖縄県でアメリカ軍関係者が逮捕された事件を受けて、実効性のある再発防止策を策定し、沖縄県の犯罪を抑止するため、連携して取り組んでいくことを確認しました。

844名無しさん:2016/06/05(日) 00:37:30
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060100687&g=pol
広島訪問は「歴史的」=米大使、岸田氏に意義強調

 岸田文雄外相は1日、ケネディ駐日米大使と外務省で会談し、オバマ大統領の広島訪問実現への尽力に謝意を伝えた。大使は「大統領個人にとっても非常に意義ある訪問だったし、日米両国にとって歴史的な訪問だった。日米同盟のさらなる大きな舞台が設定された」と強調した。
 広島が地元の岸田氏は「一人の広島市民、被爆地出身の外相として、心よりうれしく思っている」と表明。「今回の訪問は一つのスタートだ。核兵器のない世界に向けて米国と協力し、しっかり努力していきたい」と語った。両氏は米軍属による女性死体遺棄事件についても意見を交わした。 (2016/06/01-21:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060200083&g=pol
「大統領は何度も書き直した」=広島演説めぐりオバマ氏側近-米

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官は5月31日、オバマ大統領の日本・ベトナム歴訪を振り返るエッセーをインターネット上に投稿した。副補佐官はこの中で、広島平和記念公園での大統領の演説について「大統領は旅の間中、何度も(原稿を)書き直していた」と明らかにした。

 副補佐官は、大統領手書きの原稿を撮影し、その写真を併せて掲載した。「人類は自らを滅ぼす能力を手に入れた」を横線で消して「手段を手に入れた」に書き換えてあり、大統領が一言一句に気を使いながら推敲(すいこう)を重ねた様子がうかがえる。
 副補佐官はまた、「私たちは両国で圧倒的に温かい歓迎を受けた。両国とも米国が20世紀で最も激しい戦争をした国だ」と指摘。「ホーチミンの若者や広島で会った被爆者の中に共通の人間性を見つけることは全く難しくない」と記し、大統領が訴えた平和の達成は可能だと強調している。 (2016/06/02-13:28)

845名無しさん:2016/06/05(日) 11:28:29
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016053100770&g=pol
オバマ氏「広島に来て良かった」

 現職の米大統領として27日に初めて被爆地の広島市を訪れたオバマ氏が、「広島に来て良かった」との感想を周辺に語っていたことが分かった。外務省が31日の自民党外交部会で、オバマ氏側近の話として明らかにした。

 また、オバマ氏は広島市の平和記念公園から移動した際、多くの一般市民から見送られたことに感銘を受けたと話しているという。外務省はオバマ氏サイドの話について、帰国途上の大統領専用機から同省に伝えられたと説明した。 (2016/05/31-19:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016053000024&g=pol
「大統領は真珠湾に触れたか」=トランプ氏、広島訪問で批判投稿-米

 【ワシントン時事】米大統領選で共和党の指名獲得を確実にしている実業家ドナルド・トランプ氏(69)は28日、オバマ大統領の広島訪問に関連し、ツイッターに「大統領は日本にいる間に真珠湾奇襲について議論したのか。何千人もの米国人の命が失われた」と投稿した。

 トランプ氏は27日の演説で、原爆投下について謝罪しない限り、広島訪問は問題ないとの立場を示したが、批判的な立場に転じたようだ。米国が30日に戦没者追悼記念日(メモリアルデー)を迎えることも意識したとみられる。 
 大統領の広島訪問をめぐっては、トランプ氏の選挙運動を支援するペイリン元アラスカ州知事も「米国の退役軍人を侮辱している」などと語っている。(2016/05/30-05:46)

846名無しさん:2016/06/05(日) 21:07:45
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160604-00000027-nnn-soci
米・ケリー国務長官から原爆資料館に手紙
日本テレビ系(NNN) 6月4日(土)17時25分配信
 4月にアメリカの現職閣僚として初めて広島市の原爆資料館を見学したケリー国務長官から一週間前、資料館に手紙が届いた。

 ケリー国務長官からの手紙は、オバマ大統領が広島を訪れた翌日、原爆資料館の館長宛てに届いた。4月に広島市で開かれたG7外相会合に出席したケリー長官は、原爆資料館を見学し、約50分間、被爆者の遺品や資料を見て回った。資料館見学についてケリー長官は、「核兵器の脅威のない世界平和に向け努力することの重要さを確信する」とつづっている。

 原爆資料館・志賀館長「説明も聞きながら一つ一つの展示の説明文をきちんと読みながら熱心に見ていただいた」

 志賀館長は、資料館見学で衝撃を受けたケリー長官の意見がオバマ大統領の広島訪問を後押ししたと思いたいと話している。

847荷主研究者:2016/06/06(月) 22:56:29

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20160517/CK2016051702000048.html
2016年5月17日 中日新聞
内灘に消えた“北陸の宝塚” 大正・昭和「粟ケ崎遊園」

粟ケ崎遊園周辺の鳥瞰(ちょうかん)図の一部分。手前が遊園で右奥が金沢駅方面、左奥が河北潟=内灘町所蔵

本家まねるも経営基盤に難

 石川県内灘町の内灘砂丘に、一大レジャー施設「粟ケ崎遊園」があった。大正末期の1925年に開園し、41年の太平洋戦争開戦直前に閉鎖された。にぎわいを見せた“夢の国”はなぜ砂上の楼閣のごとくなくなってしまったのか。(高橋淳)

 手がかりを求めて向かったのが、「町歴史民俗資料館 風と砂の館」。学芸員の中江麻代さん(31)が、施設の概要などを教えてくれた。千人収容の大劇場や温泉、動物園、野球場、貸別荘、レストラン、六十三メートルのすべり台…。広さは兼六園の二倍近い約二十万平方メートル。「夏は近くの海水浴場と合わせて入り込みは一日一万人といわれています」

 たくさんの人がいろいろなレジャーを楽しんだようだ。にぎわいぶりを知りたいと聞いたのが、当時小学生だった金沢市の斉本信子さん(88)。年に数回、家族で出掛けた。「娯楽のない時代、みんなこぞって行った。遊園に行く電車は、男性客が車両外の手すりか何かにつかまって走る混雑ぶりだった」と振り返った。

人気を博した少女歌劇団=石川県内灘町所蔵

 最大の呼び物は少女歌劇団。とはいえ誰がいたのか、何人いたのかは不明。風と砂の館には、ショーの断片情報をかき集めて「(かつての)女優名鑑」を作ろうと奮闘している人がいた。町文化財保護審議会長の竹田菊夫さん(72)だ。竹田さんは「二百人はいたのではないか」と推測する。

 夢の国の人気はすごかったようだけど、なんで閉鎖されてしまったのか。問題を解くカギは建設のいきさつにありそうだ。

 遊園には「北陸の宝塚」という異名があった。創設者で北陸一の材木商だった平沢嘉太郎(一八六四〜一九三二年)が、阪急電鉄創業者で宝塚歌劇の生みの親・小林一三(一八七三〜一九五七年)のアイデア-鉄道と娯楽施設を組み合わせた事業展開-をまねたためとされる。平沢は金沢から遊園に客を運ぶため、両地点を結ぶ浅野川電気鉄道(現北陸鉄道浅野川線)を敷設している。

 平沢が約四十億円相当の私財を投じた遊園は、「市民の別荘を造りたい」という夢の具現化だった。だが、戦時色が強まる中で客足は遠のき、遊園は四一年に閉鎖される。

(左)粟ケ崎遊園を創設した平沢嘉太郎=内灘町所蔵(右)「女優の全体像を明らかにしたい」と話す竹田菊夫さん=内灘町歴史民俗資料館風と砂の館で

 でも宝塚は戦時中に閉鎖されたが、復活を果たしている。再起できなかった遊園との差は何なのか。

 地域史に詳しい金沢星稜大教授の本康宏史さん(58)が時代背景を解説してくれた。当時は「第二の宝塚」をもくろんで各地に郊外型遊園地を造る動きが広がり、粟ケ崎遊園もその一つだったという。

 本康さんは「小林は鉄道を重視し、宅地開発で乗客を増やして宝塚に集客した。逆に平沢は遊園への思い入れが強く、鉄道は二の次。金沢の客頼みで経営基盤がもろかった」と経営姿勢の違いを指摘する。

 遊園は閉園後、軍需工場となり鉄道事業と分離された。複数の事業で利益を生み出す見通しが立たない中、「夢をもう一度」と遊園事業を引き継ぐ経営者が現れなかったのかもしれない。

848名無しさん:2016/06/11(土) 11:46:23
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060800591&g=pol
できるだけ早期に設立を=元慰安婦支援財団で準備委員-韓国

 【ソウル時事】韓国外務省傘下のシンクタンク、国立外交院外交安保研究所の※喜庸(※恵の心が日)・日本研究センター所長は元慰安婦支援のための財団について、「韓日両政府が昨年12月28日に(慰安婦問題に関し)合意してから、相当な時間がたっている。できるだけ早く設立するのが望ましい」と強調した。電話インタビューで語った。
 財団準備委員会の委員を務める※氏は「韓日両政府間の協議も経なければならないので、今の段階でいつ創設されるのかを話すのは難しい」と述べ、当初6月中とされた設立がずれ込む見通しを示唆、「あまりに遅れれば、財団の活動に支障が出かねない」と懸念を示した。 
 一方、※氏によると、財団の準備委員長に選出された金兌玄・誠信女子大名誉教授は、財団の活動に賛同するよう説得するため、元慰安婦との面会を開始した。
 ※氏は「金委員長が直接、元慰安婦と話して、『心の傷をいやすための活動を行う』と説明すれば、説得力がはるかに高まる」と指摘し、財団への支持拡大に期待をにじませた。(2016/06/08-15:24)

849名無しさん:2016/06/11(土) 18:18:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060700074&g=pol
「想像できない歴史の重み」=広島訪問で感じる-米大統領

 【ワシントン時事】ローズ米大統領副補佐官(戦略広報担当)は6日、ワシントン市内で記者団に、オバマ大統領が先月27日の広島訪問で「実際に訪れるまでは十分に想像できない被爆地の歴史の重みを感じた」と語った。ローズ氏はオバマ氏の最側近で、今回の広島訪問に深く関与した。
 ローズ氏は、「広島を訪問するしないをめぐり議論はあったものの、間違いなく正しい行動だった。行く前よりそれを確信している」と強調。さらに「被爆地を訪れるまでは、核に関するさまざまな問題の重要性をある意味で完全に理解できない」と述べた。
 ローズ氏はこの日、カナダ在住の被爆者サーロー節子さん(84)と面会、大統領宛ての手紙を受け取った。サーローさんは面会後、大統領の広島演説で新たな政策がなかったことを指摘したとしつつ「広島まで(大統領を)お連れになった努力を感謝すると伝えた」と話した。 (2016/06/07-06:47)

850名無しさん:2016/06/12(日) 21:16:57
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160612/k10010553511000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
韓国 元慰安婦支援の財団を来月半ばにも設置へ
6月12日 4時07分
慰安婦問題の最終的な解決に向けて、韓国政府が、日本政府との合意に基づき、来月半ばにも元慰安婦たちを支援する財団を設置する見通しとなり、韓国内で依然として日韓の合意に反発する動きがあるなか、財団の準備委員会は元慰安婦たちのもとを訪れて理解を求めています。
慰安婦問題を巡っては、去年12月に日韓両政府が最終的な解決に向けて合意し、韓国政府が元慰安婦の女性たちの名誉と尊厳の回復や心の傷を癒やすための事業を行う財団を設置し、この財団に日本政府がおよそ10億円を拠出することになりました。
韓国政府の関係者によりますと、財団の名称は「和解・癒やし財団」とし、来月半ばにも設置する見通しとなりました。
財団の準備委員長を務めるソンシン(誠信)女子大学のキム・テヒョン(金兌玄)名誉教授が、これまでに10人ほどの元慰安婦のもとを訪れて、日韓両政府の合意や財団の趣旨に理解を求めています。
韓国内では依然として日韓の合意への反発があり、元慰安婦たちの支援団体「挺対協」は、政府に対抗して独自の財団を設置すると表明し、元慰安婦たちに「和解・癒やし財団」からの支援を受けないよう圧力をかけています。
このため、政府側は今後もできるだけ多くの元慰安婦たちと会い、支援を行う環境を整えたいとしています。

851名無しさん:2016/06/18(土) 22:15:54
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016061600760&g=pol
慰安婦合意、着実に履行を=国交正常化50周年が転機-別所駐韓大使

 【ソウル時事】国連大使に転出する別所浩郎駐韓大使は16日、ソウルの日本大使館で記者会見し、慰安婦問題をめぐる昨年12月の日韓合意について「きっちりと履行し、日韓関係全体を揺るがすことがないようにしていけば、明るい展望がある」と述べ、着実な履行の重要性を強調した。
 別所氏は「日韓国交正常化50周年を迎えた昨年、大きな転機があった」と指摘。昨年6月にソウルと東京で開かれた式典に朴槿恵大統領、安倍晋三首相がそれぞれ出席したことが、11月の首脳会談、12月の慰安婦合意につながったと述べた。「この流れの中で、新しい時代を開いていくという両国首脳の意思が確認された」と強調、「日韓関係には大変な潜在力がある」と語り、一層の関係発展に期待をにじませた。 (2016/06/16-17:59)

852名無しさん:2016/06/19(日) 00:02:46
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016061700881&g=pol
10億円、「少女像」と分離を=慰安婦合意の早期履行重要-駐日韓国大使

 近く離任する柳興洙駐日韓国大使は17日、東京都内の日本記者クラブで会見し、日韓合意に基づく元慰安婦支援の財団への日本政府による10億円拠出と、ソウルの日本大使館前の少女像の移転問題を切り離すよう呼び掛けた。大使は少女像移転について「前提条件ではない」と強調。財団発足後速やかに拠出を実行すべきだと訴えた。
 柳氏は財団について「(7月10日投開票の)参院選後に設立される」と見通しを語った。日本では慰安婦を象徴する少女像の移転が進展しないことに不満が強いが、柳氏は「少女像問題が条件と言ったら(日韓合意に反対する)韓国の世論を説得しにくくなる」と強調した。
 また、合意に反対する市民団体が独自の財団を立ち上げたことに触れ「早く(10億円の拠出が)実行に移され、元慰安婦が直接感じられるようにして、市民団体の活動がうまくいかないようにすることが重要だ」と述べた。 
 柳氏は2014年8月に着任。後任には李俊揆前駐インド大使が内定している。(時事)
柳興洙(ユ・フンス)、李俊揆(イ・ジュンギュ)(2016/06/17-20:17)

853名無しさん:2016/06/19(日) 11:24:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160617/k10010560121000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_016
ロシア下院議長 広島でオバマ大統領の謝罪なしを非難
6月17日 21時09分
ロシアのプーチン大統領側近のナルイシキン下院議長が東京都内で記者会見を行い、16日に安倍総理大臣に対して、終戦直後にソビエト軍が広島と長崎の被爆地の状況を撮影した映像を手渡したことを明らかにしたうえで、広島を訪れたアメリカのオバマ大統領が謝罪しなかったことを非難しました。
ロシアのプーチン大統領側近のナルイシキン下院議長は16日から来日しており、17日、東京都内で記者会見を行いました。
この中でナルイシキン議長は、16日に会談を行った安倍総理大臣に対して、終戦直後にソビエト軍が広島と長崎の被爆地の状況を撮影した映像を手渡したことを明らかにしました。
会見でナルイシキン議長は「原爆投下によって数十万人が犠牲になったことは誠に遺憾だ」と述べたうえで、先月、アメリカのオバマ大統領が広島を訪問したことについて、「被爆者に謝罪しなかったことに驚いている。アメリカの軍人と政治家は犯罪の責任がある」と述べ、被爆者に謝罪しなかったことを非難しました。また、ナルイシキン議長は17日に会談を行った公明党の山口代表に対して、日本とアメリカが進めるミサイル防衛システムの配備について、ロシアが憂慮していることを伝えたということで、「ミサイル防衛システムは地域の安定や均衡を壊すことになる。日本側はロシアの懸念と憂慮を理解してほしい」と訴えました。

854とはずがたり:2016/06/20(月) 14:07:42
靖国神社の宮司と聞いて情けない取り込まれて,と思ったけどちゃんとまともな事いっていた。
また明治維新という過ちは彼の発言でも何でも無いようで,官軍・賊軍を東軍・西軍と云っただけのようだ。

靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160620/Postseven_422520.html
NEWSポストセブン 2016年6月20日 11時00分 (2016年6月20日 11時33分 更新)

靖国神社の徳川宮司の発言が波紋
[拡大写真]

 靖国神社が揺らいでいる。来る2019年に迎える創立150周年に向けて徳川康久宮司が語ったインタビュー記事の発言が、波紋を呼んでいるのだ。
 記事は共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙(静岡新聞6月9日付、中国新聞6月10日付)に掲載されたのみだった。ところが、地方でしか読まれないはずの記事が各界の識者の注目を集め、にわかに論争へと発展している。
 徳川宮司は靖国神社が抱える課題や、神社の将来像について語った後、「明治維新を巡る歴史認識について発言していますね」という質問を受けて、自らの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。
〈文明開化という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉
〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉
 一連の発言が波紋を呼んだのは、靖国神社創建の「原点」に関わるからだ。靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社に遡る。
 明治維新に際して、薩摩藩・長州藩中心の後の「明治政府軍」と徳川家や会津藩が中心の「幕府軍」が争う「戊辰戦争」が勃発。勝利を収めた明治政府軍が“官軍”、敗北した幕府軍は“賊軍”とされた。

 この時、明治維新を偉業として後世に伝え、近代国家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰霊顕彰するため、明治天皇が創建したのが東京招魂社だ。明治12年に社号が「靖国神社」と改められて現在に至る。
 それゆえに、「賊軍vs官軍ではなく、東軍vs西軍」とする発言は、靖国神社の歴史観を揺るがしかねないと受け止められたのだ。
 靖国神社にある遊就館に展示されている「錦の御旗」には、「戊辰戦争で官軍の象徴として使用された」との解説があるように、靖国神社の見解はあくまで、「明治政府軍=官軍」だ。
 発言の背景には、徳川宮司の出自が関係している。徳川宮司は徳川家の末裔であり、“賊軍”の長であった15代将軍・徳川慶喜を曾祖父に持つ。徳川家康を祀った芝東照宮に奉職した後、靖国神社の宮司になった。「賊軍の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に立ったわけである。

◆「大村益次郎像を撤去せよ」

「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。昨年1月に発売された原田伊織氏の『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ刊)がベストセラーになったことを皮切りに、半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社刊)など、明治維新の勝者の立場に立った歴史観を見直す論考が相次いで発表されている。
 その流れで徳川宮司の発言が飛び出したことで、騒動が拡大しているのだ。著書で「薩長史観」を鋭く否定した原田氏は徳川宮司に同調するかと思いきや、意外にも「発言は中途半端」と手厳しい。「明治維新当時、東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを張ったのは明らかに薩長ですが、その責任や是非を問わず、当時ありもしなかった言葉に置き換えて流布するのはおかしい。また、靖国の持つ歴史観を見直さないのは欺瞞です。“官も賊もない”と言うならば、まず靖国神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」
 そんな意見が飛び出すほど、今回の発言は衝撃だった。波紋が広がる徳川宮司の発言について靖国神社は、「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社として行なう考えはなく、今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」と回答した。
 宮司は150年間封印されていたパンドラの箱を開けてしまったのか。

※週刊ポスト2016年7月1日号

855とはずがたり:2016/06/21(火) 14:22:32
北方領土問題は「千島20島」の帰属問題である
択捉・国後・歯舞・色丹だけの問題ではない
http://toyokeizai.net/articles/-/81453
美根 慶樹 :平和外交研究所代表 2015年08月23日

日本とソ連は1955年に交渉を開始。翌年に交渉は妥結し、日ソ共同宣言という形に結実し、戦争状態は終了。外交関係も回復したが、領土問題は解決しなかった。

その後、何回も交渉が行われ、日本とロシアは「歯舞」「色丹」と「国後」「択捉」の北方4島は平和条約において解決されるべき問題であることを双方で確認しあった(1991年4月の日ソ首脳会談)。

「南樺太」は日露戦争の結果、日本が獲得した領土なので、日本は領有権を主張しないことにしていた。なお、北樺太は戦前すでにソ連領となっていたので初めから問題にならなかった。

歯舞・色丹の返還にはすでに合意

一方、「歯舞・色丹」について、日本は、これらは北海道の一部であり、ロシアに対して占領を解いて日本に返還するよう求めた。「2島返還」という場合の「2島」とは「歯舞・色丹」のことだ。

この主張に対してはロシア側も理解し、前述の交渉結果、「ロシアは歯舞および色丹を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、両国間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と両国の共同宣言に明記された。

しかし、両国間の交渉は完了していないので、これら2島も北方4島の一部として交渉対象になっている。

「国後」「択捉」については、日本とロシアがともに領有権を主張しており、これをどう解決するかが問題だが、実は、この問題を解決するだけでは交渉は完了しない。「千島列島」を構成するその他18島(北千島)の領有権がどの国にあるかの確定がされているわけではないのだ。

ロシアは、これら18島も「国後」「択捉」も「第二次世界大戦の結果としてロシアの領土の一部となった」と主張している(日本外務省『われらの北方領土』2011年版)。18島についてはロシア以外に権利を主張している国はないが、法的にはロシア領と確定しているのではない。そのため、正式にロシア領とする決定が必要なのだ。そしてロシアは日本に対して、それをロシア領と認めるよう要求している。

一方、日本は「千島列島」についての交渉の対象を「国後」「択捉」に絞っており、18島については権利を主張していない。

つまり、ロシアは20島について権利を主張しているのに対し、日本は2島だけを交渉の対象としているので、両国の主張は部分的にかみ合っていない。ただそのズレが目立たないのは、18島については争いがないからだ。

しかし、この問題はいずれ出てくる。「国後」「択捉」についての領有権問題について結論が出ると、ロシアは、18島に対して領有権があることを日本に認めるよう要求してくる。日ソ交渉のなかで、ロシアはすでにそのことを要求していたのだが、議論されなかっただけなのだ。

なぜ、ロシアが日本にそのような要求をするかというと、それは18島に対する権利を持っているのは日本だとみなしているからだ。ロシアは、20島すべてを「戦争の結果として取得した」と主張して、すでに権利はロシアに移ったような言い方をしているが、それは主張に過ぎず、法的な権利はないことを自覚しているからこそ日本にそれを認めよと要求しているのだ。

日本にはサンフランシスコ平和条約で「千島列島」を「放棄」したので18島に対するロシアの領有権を認めるような立場にないと誤解している人がいるが、実際はそうではない。国際法的にどのように説明するかはともかく、ロシアは今でも18島の領有権は日本にある、あるいは残っているとみなしている。かりに、日本が「放棄」したことを理由にロシアの要求について応じず、たとえば、「ロシアの千島列島に対する領有権主張について日本は関知しない」と言えば、それだけで交渉はまとまらなくなるだろう。

なお、日本政府は1955年の日ソ交渉において、「千島列島」を交渉対象に含めていた。平和条約で「放棄」したからと言ってロシアとの交渉の対象外となるのではないと、当時の日本政府も考えていたのである。

856とはずがたり:2016/07/22(金) 12:39:20

下賎な安倍や麻生如きをやんごとなき五摂家と比較申し上げるなんて畏れ多いにも程があるww

四条家は院政期に院の近臣としてフィクサー的に活躍したけどその伝統があるのか!?

旧華族に序列が存在 安倍家・麻生家は「五摂家」より格下
http://www.news-postseven.com/archives/20160717_428779.html
2016.07.17 07:00


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「旧家族」の序列とは?(安倍邸)
【「旧家族」の序列とは?(安倍邸)】


「旧華族」とは明治以降の貴族階級のこと。そんな旧華族の末裔たちが人知れず集う「霞会館」は、霞が関ビル(東京都千代田区)の34階にある。ここには一般人は入ることができない。

 その旧華族にも「序列」がある。最高ランクは平安時代にルーツを持つ藤原北家の流れを汲む「五摂家」(近衞家、九条家、鷹司家、一条家、二条家)と武家の「徳川宗家」であり、明治維新後に「公爵」を授けられた。

 中でも五摂家筆頭の近衞家は戦時期の首相・近衞文麿や細川護熙元首相を輩出し、現在の当主・近衞忠煇氏は日本赤十字社の社長を務める。鷹司家の現在の当主(28代目)である鷹司尚武氏は伊勢神宮大宮司の職にある。現首相の安倍晋三(大島家)や副総理の麻生太郎(牧野家)は旧華族といえども発祥は明治期。「五摂家」とは歴史が違うのだ。

 公爵の下には位の順に「侯爵」「伯爵」「子爵」「男爵」があり、頑強な華族ヒエラルキーを形成した。戦後、華族制度は廃止されたが、培った「人脈」は失われなかった。

 恵まれた家系から信頼が厚く、各界に幅広い人脈を持つ旧華族は、昔から人と人を“つなぐ”役割を期待された。1200年の歴史を誇る「旧華族」四條家出身で、庖丁道で知られる日本料理の流派・四條司家の第41代当主の四條隆彦氏の父であり、先代の隆貞氏は、「政財界のフィクサー」として名を馳せた。

「父は田中角栄元首相のことを“エイちゃん”と呼んで親しくしていた。旧華族の一員として、霞会館を舞台に様々な業界や身分の人を繋げていた」(隆彦氏)

 影響力は政財界にいまなお現存すると、『日本の華族 その栄光と挫折の一部始終』(新人物往来社刊)の著者で静岡県立大学の前坂俊之名誉教授も指摘する。

「財閥系の閨閥には婚姻を通じて多くの旧華族が繋がっている。今も霞会館というインナーサークルを通じて新しいビジネスが生まれている」

※週刊ポスト2016年7月22・29日号

857荷主研究者:2016/07/26(火) 22:45:39

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160716_13046.html
2016年07月16日土曜日 河北新報
<北北上運河>明治の木製水門出土

公開された木製閘門の基礎部分

木製閘門の当時のイメージ図

 東日本大震災の津波で被災した宮城県石巻市の北北上運河の復旧工事現場で、明治時代に造られた木製水門「釜閘門(こうもん)」跡が発見された。県東部土木事務所は15日、遺構の一部を地元住民らに公開。木製閘門の遺構は珍しく、同事務所は「明治時代の運河が分かる非常に重要な遺構」と説明している。

 北北上運河は、石巻と東松島両市の境を流れる定川と石巻市内の旧北上川を結ぶ運河。釜閘門は、船が円滑に往来できるよう定川と北北上運河の水位を調整した。1907(明治40)年ごろ完成し、13(大正2)年の大潮で破損。16(大正5)年にコンクリート製の閘門となり、震災発生時まで使われた。

 遺構は今年2月に出土した。見つかったのは閘門の基礎部分で、木製の基礎くいや門扉のちょうつがいの役割を果たす鉄製金具「ヒンジ」など。ヒンジの土台部分は地元産の稲井石が使われていた。

 同事務所によると、発見場所には新たな水門を建設予定で、2018年3月の完成を見込む。中断していた工事は来月再開する。

 同事務所の担当者は「当時の技術を知る上で貴重。ヒンジなど回収史料の展示も検討したい」と話した。

858名無しさん:2016/07/30(土) 15:29:22
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072700010&g=pol
来月にも10億円拠出へ=元慰安婦支援、韓国財団に-政府

 政府は昨年12月の日韓合意に基づき、韓国政府が28日に設立する元慰安婦を支援するための財団に対し、来月にも10億円を拠出する方針を固めた。政府関係者が26日、明らかにした。日本側が求めていたソウルの日本大使館前の少女像撤去について、撤去に先立つ資金拠出を容認するもので、日韓関係改善を優先した判断とみられる。 
 慰安婦問題をめぐる日韓合意は、韓国政府が元慰安婦を支援するため財団を設立し、日本政府が10億円を拠出することなどが柱。少女像については、韓国政府が適切に解決させるよう努力することで合意したが、日本側には像の撤去を資金拠出の条件とすべきだとの声もあった。
 菅義偉官房長官は26日の記者会見で、「日韓それぞれが合意に責任を持って実行をしていくことが極めて重要だ」と強調した。政府は像の撤去について、引き続き「適切な対応」を韓国政府に求めていく方針だ。(2016/07/27-00:53)

859名無しさん:2016/07/30(土) 23:45:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160730/k10010614421000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_004
元慰安婦への支援事業 韓国と内容の調整急ぐ
7月30日 6時21分
慰安婦問題を巡る日韓両政府の合意に基づき、韓国政府が28日に女性たちを支援する財団を設立したことを受け、日本政府は、財団に拠出する10億円で賄われる支援事業の内容について、来月上旬にも韓国側と事務レベルで協議し、調整を急ぐ方針です。
慰安婦問題を巡り、日韓両政府は去年12月、韓国政府が設置する財団に日本政府が10億円を拠出し、元慰安婦への支援事業を行うことなどで合意し、これに基づいて韓国政府が28日に財団を設立しました。
これについて日本政府内では、岸田外務大臣が「誠実に努力した結果だと受け止めている」と述べるなど、「国内の反発が根強いなかで設置にこぎつけた」などとして、韓国側の努力を評価する声が出ています。
そして政府は、合意に基づいて来月にも財団に10億円を拠出する方針で、拠出金で賄われる支援事業の内容について、来月上旬にも韓国側と外務省の局長レベルで協議し、調整を急ぐ方針です。
ただ、韓国では一部の元慰安婦や市民団体が合意に反発し、日本では自民党内に、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像が撤去されていないことに不満もあるなかで、両政府は合意の着実な履行に向けて緊密に連携して対応していく考えです。

860名無しさん:2016/07/31(日) 12:21:03
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072800631&g=pol
任期内の履行に全力=慰安婦問題で韓国大統領

 【ソウル時事】慰安婦問題に関する日韓合意に基づき元慰安婦の支援などを行う韓国の財団「和解・癒やし財団」が28日発足したことを受けて、朴槿恵大統領は2018年2月までの任期内の合意履行に全力を挙げる。
 財団の金兌玄理事長は記者会見で、生存中の元慰安婦40人のうち、37人と個別に面会したことを明らかにし、「ごく少数を除いて財団の事業に応じる意向を明確にした」と説明。当事者の間で財団への支持が広がっていると強調した。
 「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」の保護を受け、合意への反対を声高に叫んでいる元慰安婦は「例外にすぎない」という認識だ。さらに、「財団の門はいつも開かれている」と述べ、挺対協など反対派の団体にも参加を呼び掛けた。

 財団は理事長を含め現在10人だが、増員は可能で、表向きは反対派との「和解」を目指す姿勢を取っている。だが、「合意を支持し、財団に加われば、挺対協の存在意義はほとんど失われるので、参加する可能性は極めて低い」(日韓関係専門家)。このため、朴大統領としては、表向き「和解」を掲げながらも、元慰安婦への資金分配など合意の履行を通じて支持を広げ、反対派の弱体化を図っていくしかないのが実情だ。
 これに対し、挺対協は大学生、高校生ら若年層を積極的に取り込み、集会などに動員している。財団の記者会見場に大学生が乱入したことは、合意に対する若年層の強い反感を浮き彫りにした。 
 さらに、最大野党「共に民主党」など野党との連携を強めており、17年12月の次期大統領選挙で慰安婦合意の是非が争点となる可能性も否定できない。「共に民主党」は合意の無効確認・再交渉を要求しており、野党候補が当選した場合、合意の履行は不透明となり、「問題の最終的かつ不可逆的な解決」も揺らぎかねない。

◇慰安婦問題の日韓合意骨子
 一、当時の軍の関与の下、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題として、日本政府は責任を痛感
 一、安倍晋三首相は、心からのおわびと反省の気持ちを表明
 一、韓国政府が元慰安婦支援を目的とする財団を設立。日韓両政府が協力し、全ての元慰安婦の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を実施
 一、日本政府は10億円程度の資金を一括拠出
 一、日本大使館前の少女像は、韓国政府が関連団体との協議を通じ、解決に努力
 一、心の傷を癒やす措置の着実な実施を前提に、日韓両国は慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決と確認(2016/07/28-15:57)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072800894&g=pol
10億円、使途明確化要求へ=少女像撤去は条件とせず-日本政府

 昨年末の日韓合意に基づく元慰安婦支援の財団設立を受け、日本政府は8月中の10億円拠出を目指し、近く両国外務省の局長級協議を開いて財団の事業内容を詰める。日本側は資金の使途を明確にするよう韓国側に求めていく方針。一方、懸案となっているソウルの日本大使館前の少女像撤去については、資金拠出の前提条件とはせず、韓国側の対応を静観する考えだ。
 「財団が実施する事業の詳細は、日韓両政府の間で調整中だ」。菅義偉官房長官は28日の記者会見で、日韓合意をめぐる協議状況を説明。その上で「両政府で日韓合意を誠実に守っていくことが大事だ」と強調した。
 局長級協議で日本側は、拠出金の使途について「日韓の未来につながる使い方」(政府筋)を提案する方向で調整している。政府関係者は「医療費補助や青少年交流プログラムなど、形に残るものがいい」と語った。 
 韓国側では、元慰安婦へ直接支給する案が有力とされる。これについて日本側は、「賠償金」と受け止められることを警戒。賠償問題は1965年の日韓請求権協定で解決済みとの立場を堅持しているためで、局長級協議の焦点の一つとなりそうだ。
 一方、日韓合意では、日本側が求める少女像撤去について、韓国側が「解決へ努力する」としている。日韓の協議でも、日本側は改めて合意履行を促すものの、当面は韓国側の取り組みを見守る。政府関係者は「日韓関係を前に進める方が得策だ。少女像の撤去はそれからでもいい」と指摘。早期の資金拠出を通じ、韓国側の前向きな対応を引き出す構えだ。
 ただ、安倍政権を支持する保守層の間では、少女像撤去を10億円拠出の前提とする意見が、依然として根強い。自民党の稲田朋美政調会長は28日の記者会見で、「撤去は重要な要素だ」と述べ、政府の対応をけん制。首相周辺は「日本の国内世論がどう受け止めるか心配だ」との懸念を示しており、日韓の歯車がかみ合うかは不透明な要素が残る。(2016/07/28-19:50)

861名無しさん:2016/07/31(日) 12:21:25
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072800816&g=pol
領土解決「私たちの世代で」=安倍首相

 安倍晋三首相は28日、首相官邸で北方領土元居住者の3世、4世の中学生らと面会し、北方領土問題について、「この問題は日本の悲願であり、私たちの世代において解決していきたい」と述べ、解決に向けた進展に全力を挙げる考えを強調した。
 また、9月にロシアのウラジオストクでプーチン大統領と会談することに言及し、「ここで平和条約の問題についても話をしたい」と説明。「皆さんが東京にやって来るのと同じように北方四島に足を運べる、そういう新しい時代をつくっていきたい」などと語った。 (2016/07/28-18:24)

862名無しさん:2016/07/31(日) 15:01:53
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160727-00000091-sasahi-peo
米国に嫌われた宰相・田中角栄の孤独 「秘密指定」解除された米公文書を徹底検証〈週刊朝日〉
dot. 7月28日(木)11時30分配信

 高等小学校卒ながら、首相に上り詰め、「今太閤」と呼ばれた田中角栄が逮捕されて、7月27日で40年になる。空前の角栄ブームとなった今、「米国の虎の尾を踏み、失脚した」との説が有力視されている。朝日新聞編集委員の奥山俊宏氏が裏付ける証拠を見つけ出そうと、解禁された米公文書の密林に分け入って見えてきたものとは――。

*  *  *
 ホワイトハウスの文書の数々を読むと、田中はたしかに、米政府の「虎の尾」を踏んでいた。

 国務次官だったジョンソンの回想録によれば、「田中は安保条約に不満を持っている」という記事がニューヨーク・タイムズに掲載され、ニクソンがとても腹を立てたことがあった。

 ニクソン大統領の怒りの原因となったと見られる記事は、田中の話を情報源と明示したうえで、両首脳の間で日米安保条約と台湾防衛の関係について突っ込んだやりとりがあったように紹介されている。

 その記事によれば、米国は条約上、中国本土の共産党政府の脅威から台湾を防衛する義務を負っており、その義務を果たすために沖縄など日本列島に在日米軍がある。ところが、記事によれば、田中は「日米安保条約は基本的には日本防衛を目的としており、台湾防衛については台北とワシントンの問題だ」と述べた、とされている。

 記事によれば、田中の見方は米国の立場と異なる。記事は「日本防衛は自衛隊が責任を負っている。在日米軍は、韓国、台湾、フィリピン、南ベトナムに対する米国の約束を果たすために存在している」と指摘している。

 日米双方の記録によれば、首脳会談で田中はニクソンに「日本にとっていつまでも中国との国交断絶状態を継続することはできない」と言い、台湾との断交は避けられないだろうと述べた。米側の記録によれば、ニクソンは「日中の国交回復は友人の負担の上になされるべきではない」と答えた。

 この会談の3週間余り後の9月25日、田中は北京を訪問し、29日、中華人民共和国との間で外交関係を樹立し、台湾政府と日本の国交は断絶した。

863名無しさん:2016/07/31(日) 15:02:11
>>862

 田中は、キッシンジャー国務長官に以前語った自身の言葉とは異なり、一貫して米国と歩調を合わせることなく、台湾断交に向かって突き進んだ。その結果、台湾が中国に攻撃された場合の問題は未解決のまま残され、日米安保体制は大きな矛盾を抱え続けることになった。

 73年8月1日の日米首脳会談に関するホワイトハウスの会議録には「最重要の課題を最少の準備で持ち出すのは田中首相の性癖である」と記載された。

 同8月3日に開かれた大統領外交情報諮問委員会でキッシンジャーは日本について「彼らは何でもリークする」「付き合うのが難しい」「狭量で冷血だ」「生き残るために周囲に同調できる」と評した。

 74年1月6日、電話の中で、キッシンジャーは国務省幹部に、田中の言動への不満をぶつけ、「気が狂っている」と吐き捨てるように言った。

 同11月11日朝、現職大統領として初めての訪日を控えたフォードにキッシンジャーは念押しした。

「彼らは、あなたがしゃべったことをすべてリークするだろうということを覚えておかねばなりません。あなたがしゃべっていないこともたくさんリークするのです!」

 同16日、ホワイトハウスの大統領執務室で、キッシンジャーはフォードに日本の危険性を語った。

「日本は大変な脅威です。歴史上、彼らが恒久的な同盟を持ったことは一度もありません。日本人は何でも受け入れます。何にでも適合できる異常な社会です。彼らの社会の基礎的な構造はいかなる体制にも順応できます。もし我々が大国としての地位を失えば、我々は日本も失うでしょう」

 同18日、フォードは米国の現職大統領として史上初めて日本の土を踏んだ。キッシンジャーはこれに同行した。翌19日に東京で大平に会うと、キッシンジャーは「もしあなたが田中の後任になるのなら、私は必ずしも悲嘆に暮れませんよ」と言った。(敬称略)

※週刊朝日 2016年8月5日号より抜粋

864名無しさん:2016/07/31(日) 15:07:54
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160728-00068696-playboyz-ent
田中角栄より“所得倍増計画”の池田勇人が漫画的に面白いワケ
週プレNEWS 7月28日(木)6時0分配信

先の参院選挙に続き、都知事選真っ只中ーー選挙権は18歳に引き下げられ、憲法改正論議に沖縄問題、原発再稼働の是非、そして若者らによるデモ…。

今また政治に注目が集まっている中、漫画『疾風の勇人』(モーニング連載中)が話題になっている!

戦後の日本復興から政治に関わり、GNP(国民総生産)を13兆円から26兆円まで倍増させる経済政策〝所得倍増計画〟をぶち上げ、中小企業や農業の近代化、地方の国土開発などを実施し、日本を経済大国に導いた池田勇人(はやと)内閣総理大臣の物語だ。

なぜこの時代にその人物を題材として選んだのか? 「池田勇人を主人公にした戦後政治モノをやりたい」と自ら担当編集者に提案したという作者・大和田秀樹先生に発想の動機や池田勇人の魅力を聞いた!

―ちょうど田中角栄ブームもきてますが、彼を描こうとは思わなかったんですか?

大和田 迷いましたよ(笑)。小学校までしか卒業していないのに総理大臣になる人生はめちゃくちゃ漫画になりやすいですからね。企画が立ち上がった頃は田中角栄語録ブームの前でしたけど。

ただ、角栄さんって総理になる前と辞めた後の闇将軍時代が輝いていて、総理大臣時代はたいしたことを手がけていない。語録的なものには向いていると思いますが、これは少年漫画っぽくないなぁと候補から外しました。

―池田勇人なら、少年漫画っぽくなれると?

大和田 ええ、〝おっさん向け〟の少年漫画という感じの構図がすぐ浮かびましたね。大学入試では東大を落ちて、病気(落葉状天疱瘡)で大蔵省を退職してエリートコースからも落ちこぼれて、最初の奥さんを病気で亡くした…そんな男が総理大臣になる。資料を読み進めるほど、池田勇人の人生が面白いと思ったんですよ。

それに、他には特別に有名になった映像や漫画の作品もなく、名前を知っているけど具体的には何をしたのか、いつ頃の政治家だったのか人の記憶に曖昧(あいまい)な存在だったのも良いかなと思いまして(笑)。



―単行本1巻の帯に書いてある名前は、戦後の混乱期の日本復興の礎(いしずえ)を築いた吉田茂、非核三原則の提唱や沖縄返還を成し遂げた佐藤栄作、敗戦後GHQとの折衝にあたった白洲次郎、答弁の際に前置きする「あー」「うー」が流行語になった内閣総理大臣の大平正芳、そして名言集も話題の田中角栄…その中で主人公が最も知名度が低そうですからね(笑)。それでも、人物像を掘り下げていけばその成り上がり感が面白く、また田中角栄と違って清々しいと。

大和田 ドラマティックな人生の物語は読んでいる人も気持ち良くなれますから。角栄さんは王様になった後、ロッキード事件(米・ロッキード社からの旅客機導入における汚職事件)などをやらかしていますから感情移入もしにくいですよ。

―この時代でいえば、他に吉田茂も歴史に残る迷言があったり小説や映画にもなってますが、池田勇人のドラマティックさには敵(かな)わない?

大和田 スンナリ入ってこなかったですね。元々が貴族的な雰囲気なので、あまり共感できないというか。ただ、この時代を取り上げるキッカケにはなりましたよ。「バカヤロー解散」(※)なんて、言葉の響きが面白いですよね。資料を読みながら、オッと思ったんです。
(※)1953年3月の衆議院解散の俗称。同年2月の衆議院予算委員会の質疑応答中に「バカヤロー」と発言したことがキッカケになった。

―そもそも、なぜその時代の資料を読んでいたんですか?

大和田 前作の『ムダツモ無き改革』(近代麻雀コミックス)のためです。

―小泉ジュンイチロー首相やタイゾー、パパ・ブッシュや金将軍、さらにアドルフ・ヒトラーが月面に〝新たなるドイツ〟を建国する等々、実在の人物によく似た政治家キャラが時代を問わずに登場するギャグ麻雀漫画ですね!

大和田 これを描いていた時に第2次大戦を調べたんですが、そうすると必然的に戦後について知ることになる。

―確かに第2次大戦の頃の政治家も多く登場していましたよね。

大和田 そこで、戦後をあまり知らなかったことに気付いたんです。僕らの時代は日本史の授業ではサラッとだけしかやらなかったですからね。改めて本を読んでみたら、その面白さに興味を持ったんです。

865名無しさん:2016/07/31(日) 15:08:10
>>864

―『疾風の勇人』を描くにあたっては、どのような資料を読んだんですか?

大和田 宮澤喜一(大蔵官僚、大蔵大臣などを経て総理大臣に。タレントの宮澤エマの祖父)や大平正芳らの元秘書や番記者の書いた本ですね。辞任後、すぐに亡くなったので池田本人が書いた回顧録は出版されていないんですが、周辺者が書いた本が意外と残っていて。

―漫画の中の池田勇人像はその資料から作り上げたんですね。

大和田 資料を読んだらなんとなく人物像は浮かんで、そのまま描いた感じですね。キャラ作りに苦労をしたわけでも、僕なりの付け加えもほとんどしていません。顔つきをイケメンにしたくらいです。

―実際のお写真よりシュッとして、若い印象はありますね(笑)。

大田和 やっぱり今時はイケメンにしないといけませんから(笑)。そういう意味で影響を受けたのは、渡辺謙さんがドラマで演じた吉田茂です。ムチャクチャ、イケメンだったじゃないですか。似顔絵的なことを考えていたんですが、ドラマを見てこれでいいんだと。他にもスティーブン・スピルバーグ監督の映画『リンカーン』のダニエル・デイ=ルイスも実物よりイケメンでしょ?

―確かにそうですね!

大田和 他にも登場人物のほとんどは当時50歳くらいだけど、スーツをシングルで描くことで若々しい雰囲気を出す工夫をしていますね。

―ストーリーでは独自の解釈を盛り込んだり、推理的なことは入れているんですか?

大和田 オリジナリティは意外と入れてないんです。誇張はしていますけど、基本は〝池田勇人を中心として戦後史をなぞる〟展開をしています。史実通りになぞるだけでも、意外と知らない人が多いというか。

知らないから、戦後史はまだ陰謀論や〝実は○○だった〟などエンターテインメントの創作をしていいところまで到達していないというのはありますね。例えば、戦国時代であれば〝家康が影武者だった〟幕末であれば〝実は沖田総司が女だった〟などエンターテインメントとして成立しますよね。

866名無しさん:2016/07/31(日) 15:08:20
>>865

―史実通りに進んでも面白いのは、戦後の復興から日本が成長している時代だからでしょうか?

大和田 あと景気がいいですよね、この時代は。

―42ヵ月間続いた好景気の岩戸景気(1958年7月〜1961年12月)もありますしね。前作の『ムダツモ無き改革』で現代を描いている先生なら、調べて描き比べて過去の景気の良さや勢いが肌感覚でわかるかと思いますが…。

大和田 そうですね。だって、舛添(要一)さんってトータル数百万円の世界ですよね。『ホテル三日月』に泊まった、泊まらないって…角栄さんと比べると、みみっちいなぁと(笑)。

―最近の政治家と比べると、この時代の政治家は総じて魅力的ですかね?

大和田 皆が亡くなって随分と経ったことを考慮しても、今の人よりエネルギッシュでしょうね。国会で「バカヤロー」と言う人も今はいないでしょう。

―そんな元気な時代だから、読むことで読者の活力にもなるように思えますが、先生自身も?

大和田 僕は描いていて、全部が面白いです。池田勇人の失言「中小企業経営者の5人や10人、自殺してもかまわぬ」(※1)や昭和電工事件(※2)など名前だけ知っていた歴史上の事件を〝コレはこういう事件だった〟と描くと満足感がありますね。

※1)朝鮮戦争の特需が後退して中小企業の倒産が続いていたころ、通産大臣だった池田の衆院本会議(1952年)での発言「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」を、新聞が言葉尻を捉えて報道した。

※2)1948年に起きた贈収賄汚職事件。復興金融金庫から融資を引き出すために、昭和電工の日野原節三社長が政府高官や政府金融機関幹部に対して収賄し、GHQ高官らも失脚した。

―そんな史実のホントも含めて、今後の展開も気になるところですが…。

大和田 まだまだ歴史上のスーパースターや、戦後の日本復興と高度成長期に関わる(アメリカ大統領の)ケネディ、アイゼンハワー、ニクソンなども登場して、おなじみの歴史上の話も出てきます。

―連載中のエピソードでは池田勇人はまだ通産大臣ですが、池田内閣も発足して…続きますね!

大和田 それはもう読者様の反応次第で…僕はどこまでも描きたいんですけど、厳しい世界でシビアに切られる時もありますから(笑)。

(取材・文/渡邉裕美 撮影/松井秀樹)

■大和田秀樹(おおわだ・ひでき)
マンガ家。98年、『たのしい甲子園』(角川書店)でデビュー。代表作は『ムダツモ無き改革』(竹書房)、『機動戦士ガンダムさん』(角川書店、連載中)。『週刊モーニング』で連載中の『疾風の勇人』(講談社)、第2巻は8月23日発売予定。

867名無しさん:2016/07/31(日) 18:59:23
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49263
2016年07月31日(日) 魚住 昭
昭和の妖怪・岸信介は「アヘン密売」で絶大な権力を得た!? 今さら聞けない「満州国の裏面史」

アヘンがあってこその満州国

アカデミズムの世界で広くその名を知られる京大人文科学研究所の山室信一教授は、私の高校時代のクラスメートだ。

といっても彼は飛び切りの秀才。私は部活が命の体育会系だったから、一緒に遊んだ記憶はない。私が今もかすかに覚えているのは、小柄なわりに頭が大きくて、生真面目な顔をした山室君の学生服姿である。

その山室君の労作『キメラ―満洲国の肖像 増補版』(中公新書)を読んだ。23年前に初版が出たとき、ずいぶん話題になったから、すでに読まれた方も多いにちがいない。

今ごろになって言うのも失礼だが、一読三嘆。中国東北部の大地に忽然と現れて消えた幻の国の本質に迫った傑作だった。

私は半世紀前の熊本でこんな立派な仕事をすることになる人と机を並べていた。と思うだけでちょっぴり誇らしくなった。

本の中には最近、私が追いかけている「昭和の妖怪」岸信介も登場する。とくに興味深かったのは、増補版で新たに加筆された「補章」の記述だった。

山室教授は、満州国政府で岸の忠実な部下だった古海忠之(前回登場したアヘン取引の責任者である)の言葉を引きながら、こう述べている。

〈総務庁次長を務めた古海忠之は、「満洲国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」とみていますが、満洲国のみならず、陸軍がアジア各地で広汎な活動ができたのも、満洲国が吸い上げる資金をつぎ込めたからだともいわれています。基本的な資金源はアヘンでした〉

山室教授によると、アヘンは満州国の財政を支えただけでなく、機密費の主な資金源になった。そのため満州や蒙古各地でケシを栽培させたほか、ペルシャなどから密輸した大量のアヘンを満州国に流し込んだという。

それが莫大な利益を生み、軍の謀略資金になった。関東大震災(1923年)直後、無政府主義者の大杉栄ら3人を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦が、満州で「影の皇帝」といわれるほどの権勢をふるったのもそうした裏金があったからだと指摘して教授はこう語る。

868名無しさん:2016/07/31(日) 18:59:43
>>867

〈甘粕はまた中国人労働者を満洲に雇い入れる斡旋事業においても、裏金をつくり出していました。岸信介にしても一介の官僚でありながら、甘粕の特務工作に対してその当時の額面で一〇〇〇万円(卸売物価の上昇率からみて現在の八〇億〜九〇億円にも相当します)を手渡したりしています〉

ただし、甘粕はこれらの資金を着服したりはせず、満州国から華北や蒙疆へ日本が進攻していくための特務工作に使用したといわれている。だから〈満洲国はそうした「第二の満洲国」造り工作の策源地であり、資金源であったということになります〉と教授は解説する。

なるほど、そう考えると、関東軍が陸軍中央の統制を無視して暴走を繰り返した理由も分かってくる。彼らは満州でアヘンという打ち出の小づちを手に入れた。だから中央の顔色をうかがう必要がなかったのだ。

それにしても、岸から甘粕に渡されたという1000万円は眉に唾をつけたくなるほど巨額のカネである。ホントだろうか。

山室教授が根拠にしているのは、戦後になってからの古海の証言だ。その全容は『新版 昭和の妖怪 岸信介』(岩見隆夫著・朝日ソノラマ刊)に収録されているのでご紹介しておく。

あの男から取ってきてやる

古海によると、岸が満州国政府の高官だった1930(昭和5)年代後半、岸と甘粕を中心に古海らを加えて約10人が会を作っていた。会の名はなかったが、そこでアジア政策をどうするか、日本での情宣活動はどうあるべきかが話し合われた。

会は単なる懇談に止まらず、具体的な行動もとった。日本内地の新聞の乗っ取りを企てたり、甘粕による排英工作(=英国勢力をアジアから駆逐する謀略工作)を支援したりした。その意味では会というより一派と呼んだほうがふさわしかった。

古海が言う。

869名無しさん:2016/07/31(日) 19:00:01
>>868

〈甘粕という人はたくさんのカネを持っていたが、使う方もバカ大きくて、そういう意味では、ケタ外れのスケールをもっていましたね。大量の工作資金を必要とするのに、甘粕は決して自分で資金づくりをしない。そのため、随分私どもも甘粕のために資金作りをしたものです〉

当初、甘粕には満州国総務庁の機密費を支出していた。ところが、1937(昭和12)年に大蔵省出身の星野直樹が総務長官になって「機密費の流用はまかりならん」ということになり、甘粕は資金の調達に困ってしまった。そのため甘粕から頼まれた古海が岸に取り次いだ。

「甘粕が困っている。1000万円必要だといっている」

古海が言うと、岸が答えた。

「何か担保はないか」

「鉱山の採掘権を持っている」

「そうか。採掘権さえあれば大丈夫だ。それくらいはたいしたことではない。いままで一度も鮎川から搾ったことがないから、あの男から取ってきてやる」

岸はあっさり資金調達を引き受けた。鮎川とは新興財閥・日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(岸の縁戚)のことだ。日産は1937年末、岸らの誘致で本社を満州の新京(現・長春)に移転し、社名を満州重工業開発に変更した。古海が言う。

〈岸さんは鮎川に甘粕の採掘権を一千万円で売りつけたわけです。甘粕は満州建国の功労で関東軍からあちこちの鉱山の採掘権をもらっていたのです。その後、鮎川は岸さんの斡旋で甘粕にカネを出し続けていました〉

額が真実かどうかはともかく岸は膨大なカネを自由に動かしたようだ。『岸信介-権勢の政治家-』(岩波新書)の著者・原彬久東京国際大学名誉教授は〈岸は同僚官吏はもとより、民間人、それもいわゆる満州浪人、無頼漢に至るまで彼のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えたといわれる〉と記している。

私が気になるのは、岸の豊富な資金がアヘンの密売によって作られたものだったのかだ。その謎に迫るには、上海の「阿片王」里見甫の証言に耳を傾けなければならない。

『週刊現代』2016年8月6日号より

870とはずがたり:2016/08/04(木) 20:55:40
この辺迄は対等にやり合ってたんですなぁ。。

アメリカ本土空襲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

ドーリットル空襲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AB%E7%A9%BA%E8%A5%B2

871名無しさん:2016/08/06(土) 17:00:26
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080300614&g=pol
元慰安婦支援財団の解体要求=少女像撤去に反対-韓国野党

 【ソウル時事】日韓合意に基づいて元慰安婦への支援などを行う韓国の「和解・癒やし財団」が発足し、日本からの10億円の拠出時期が焦点となる中、韓国の野党は合意や財団への批判を強めている。財団の解体などを要求するとともに、日本大使館前の少女像撤去に反対する立場も、一層鮮明にしている。
 最大野党「共に民主党」は、3日までに出した声明で「日本政府は財団発足直後から、10億円に関し『賠償金ではない』という立場を示し、『少女像撤去が合意の重要な要素だ』と主張するなど、本音をあらわにし始めた」と指摘。「韓国政府は、10億円拠出と少女像撤去を関連付けようとする日本側の主張を絶対受け入れてはならない」と訴えた。
 さらに「日本側は10億円を『賠償』ではなく『未来への投資』に使いたいと望んでいる」という見方を示し、「財団の本来の目的や趣旨は失われており、存廃を検討すべきだ」と主張した。 
 第2野党「国民の党」も、3日の声明で「財団の設立は、運営に必要な10億円がいつ拠出されるのかも分からないまま強行された」と非難。少女像の撤去が10億円拠出の「必須条件」となっていると主張した上で、「少女像はいかなる歴史教科書よりも『正しい歴史』を語る象徴であり、どんな理由であれ撤去することはできない」と強調した。(2016/08/03-16:05)

872名無しさん:2016/08/06(土) 17:03:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080600193&g=pol
10億円使途、文書で確認へ=元慰安婦支援で調整難航も

 日本政府は、昨年末の韓国との合意に基づき拠出する元慰安婦支援の10億円について、具体的な使途を確認する公式な文書を韓国側と交わす調整に入った。元慰安婦には現金支給への期待が高いが、日本側では「第2の賠償金」と受け取られかねないとして慎重論が強い。日本政府としては使途をあらかじめ限定することで、請求権問題は「解決済み」との立場を明確にしたい考えだ。
 日韓合意に基づき、韓国では7月28日、元慰安婦を支援する「和解・癒やし財団」が発足。日本政府は今後、「元慰安婦の心の傷を癒やす措置」として10億円を拠出する。ただ、具体的な使途に関しては、従来堅持してきた法的立場から注文を付けざるを得ない状況だ。
 日本側では、財団が10億円を元手に元慰安婦や遺族に現金を支給した場合、賠償請求権をめぐる問題は1965年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決済み」としてきた政府の立場に矛盾しかねないとの懸念が強い。自民党からは、強制労働を強いられた韓国人徴用工の賠償請求訴訟などへの波及を懸念する声も上がっている。
 このため、日本政府としては10億円の拠出に合わせ、日本側の法的立場を損ねない形で具体的な使途を列挙し、確認する文書を韓国政府と交わしたい考え。併せて、確認事項を徹底するよう財団への指導を求める方針だ。
 両政府は近くソウルで外務省局長級協議を開き、財団の事業内容に関する詰めを急ぐ。日本政府は元慰安婦や遺族に対する直接の現金支給でなく、10億円を原資とした医療・福祉支援などで理解を得たい考え。ただ、韓国政府の説得で日韓合意を受け入れた元慰安婦の多くは現金支給の形を希望しており、韓国側がこうした立場に固執すれば、調整が難航する可能性もある。(2016/08/06-15:12)

873名無しさん:2016/08/06(土) 19:50:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080200369&g=pol
財団への拠出に慎重論も=自民部会

 自民党は2日、党本部で外交部会などの合同会議を開き、昨年末の日韓合意に基づく元慰安婦支援の財団設立について議論した。出席議員からは、財団への10億円拠出に関し、7月下旬に韓国の野党議員が日韓が領有権を主張する島根県竹島に上陸したことなどに触れ、「今の状態では出すべきではない」と慎重な対応を求める意見も出た。(2016/08/02-11:43)

874名無しさん:2016/08/07(日) 14:45:00
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080500394&g=pol
靖国参拝「稲田氏は適切対応を」=岸田外相

 岸田文雄外相は5日の記者会見で、稲田朋美防衛相が15日に靖国神社を参拝するかどうかについて、「内閣の一員として適切に対応されるものと考える」と述べた。中国や韓国との関係悪化を招かないよう稲田氏に参拝見送りを促す発言とみられる。
 稲田氏は行政改革担当相として2013、14両年の8月15日に参拝している。 (2016/08/05-12:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080500906&g=pol
稲田防衛相に「強く憤慨」=「百人斬り」否定発言を批判-中国

 【北京時事】中国国防省新聞局は5日、日中戦争の南京攻略戦で行われたと報じられた日本兵による中国兵の「百人斬り」競争を稲田朋美防衛相が否定したことについて「強烈に憤慨させられる」と批判する論評を発表した。

 稲田防衛相は4日のインタビューで「百人斬り」に関し、「なかったと思っている」と語った。論評はこの発言に対する見解を問う記者の質問に答える形で、「日本軍は理性のかけらもない『殺人競争』を行った」と主張。「歴史を否定すれば、中日関係に未来はない」と強調した。 (2016/08/05-20:59)

875とはずがたり:2016/08/13(土) 08:50:17
岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた?
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160807-00049375-gendaibiz-soci
現代ビジネス 8月7日(日)13時1分配信

上海の「阿片王」といわれた里見甫…は戦後の1965(昭和40)年、69歳で亡くなった。われらが先達、草柳大蔵は『実録・満鉄調査部』(朝日新聞社刊)で里見をこう描いている。

 〈五尺五寸ほどの痩せた男である。頭の頂天が尖っていることのほかは、何の変哲もない風貌をしている。むしろ柔和である。路傍の地蔵尊や野際の石小法師の前をとおるときは、必ず足を停めて掌をあわせる。物静かな語り口であり、周囲の人が「どうして生きているのか」と訝るほど食事を摂らない〉

 さすが草柳である。里見の人間像が眼前に浮かぶ。里見はアヘンで中国に途方もない害毒を垂れ流したが、彼自身は私利私欲とは縁遠い、恬淡とした男だったらしい。

 草柳によれば、里見は上海・虹口の乍浦路に面したピアス・アパート3階に住んでいた。6畳と3畳の二間しかない家で、秘書はおかず、「おちかさん」という身の回りの世話をする女性が通いで来ていた。

 乗用車はビュイックの中古車で、しばしば藍衣社(=蒋介石直属の秘密結社)の狙撃の的になったが、運の強い男で、かすり傷ひとつ負わなかったそうだ。

里見と岸の関係
 里見と岸の間にはいったいどんな交流があったのだろう。岸は戦後になって『岸信介の回想』(矢次一夫・伊藤隆との鼎談・文藝春秋刊)でアヘンについてこう語っている。

 〈満州国ではアヘンの吸飲は厳重に禁止したけれど、陰で吸っているのはいたでしょう。(中略)いずれにせよ満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった〉

 読者はすでにおわかりと思うが、この発言は著しく事実に反する。満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、熱河地方ではケシの栽培を奨励した。それでも足りない分は華北などから輸入し、アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。

 岸がつづけて語る。

 〈しかしアヘンを扱ったものとして里見という男のことは知っています。ただ私が満州にいた頃は里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしていて、金も手に入れたのでしょうが、満州には来ていないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死んで墓碑に字を書いたことがあるけれど、これも茂木に頼まれたからですね〉

 茂木久平とは、満州の「夜の帝王」甘粕正彦が理事長をつとめる満州映画協会の東京支社長だった男である。どうやら岸は、里見とはそんなに深い関係ではなかったと言いたいらしい。

 たしかに岸と里見の直接的な交流を示すデータはほとんどない。唯一、佐野眞一さんの『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)に、戦後、里見の秘書役をつとめた男の証言が出てくる。

 岸は満州から帰国後の1942(昭和17)年、翼賛選挙に立候補して当選した。秘書役によれば、このとき里見は、岸に200万円(現在の約16億円相当)を提供した。「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作(後に首相)が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」という。

 しかし、これは残念ながらまた聞きである。真偽の判断はつかない。それより東京裁判に提出された里見の宣誓口述書を読んだほうが、戦時中の岸と里見の関係のバックグラウンドを知る手掛かりになりそうだ。

 〈私即ち李鳴(=里見の中国名)事里見甫は良心にかけて次のことが真実である事を誓ひます。

 1937年9月又は10月私は新聞記者として上海に参りました。私はそれ以前天津に居つたのであります。

 1938年1月又は2月に楠本実隆中佐が私に特務部(=支那派遣軍参謀部の一部)のために多量の阿片を売つて呉れるかどうか尋ねました。彼は此の阿片がペルシヤから来る途中にあると云ひました〉

 里見はこの後、ペルシャ産アヘンで得た利益は約2000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上ること、その利益は特務部(後に廃止)がある間は特務部に、それがなくなってからは興亜院(占領地の政務・開発にあたる日本の機関)に支払われたこと、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも販売し、その大部分は中華航空機で運ばれてきたことなどを語っている。

 問題は興亜院などに送られた金がその後、どこに行ったのかだ。里見は知っているはずだが口をつぐんでいる。私はいろんな文献にあたるうち、『阿片吸煙禁止処理経過事情』という文書に突き当たった。宣誓口述書と同じく東京裁判の検察側証拠として提出されたものだ。

 そこには〈売上金ノ大部分ハ東条内閣ノ補助資金、及議員ヘノ補助金ニ割当テラレル為東京ニ送ラレタ〉という衝撃的な記述があった。以下次号。

『週刊現代』2016年8月13日号より

876名無しさん:2016/08/13(土) 12:25:07
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081100315&g=pol
元慰安婦支援「相当な進展」=近く協議結果発表-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は11日、ソウルで9日に行われた日韓局長級協議で、元慰安婦支援のための「和解・癒やし財団」の事業や、日本からの10億円の拠出問題に関し「相当な進展があった」と強調、「極めて近いうちに関連内容を説明する機会があるだろう」と語った。別の韓国外務省当局者は「来週中には発表されるだろう」という見通しを示した。 
 報道官は「協議の具体的内容について、上部への報告手続きが進められているところだ」と説明、詳細には言及しなかった。
 日本からの拠出に関しては「財団の事業の円滑な実施に支障を来さない時期に行われると考えている」と述べた。(2016/08/11-16:04)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200856&g=pol
合意履行へ「緊密に協力」=財団、理事会で活動具体化へ-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は12日夜、日韓外相の電話会談に関して声明を出し、岸田文雄外相が慰安婦問題をめぐる合意に基づき、韓国の「和解・癒やし財団」に対し「10億円を迅速に拠出することを決めたと述べた」と発表した。また、「両外相は、合意の忠実な履行を通じ、一日も早く被害者の名誉と尊厳回復、心の傷の癒やしを実現することが重要だと再確認した」と説明。「緊密に協力していくことにした」と強調した。
 当初発表された声明は「少女像撤去に向けた努力」や「10億円の使途についての合意」には触れていなかった。ただ、韓国外務省は追加資料で「少女像問題に関し、日本側が関心を表明し、わが方は基本的立場に沿って対応した」と明らかにした。「基本的立場」については「昨年12月の合意発表時に表明した」と説明、解決に向けた努力を約束したとみられる。
 財団の事業の具体的内容に関しては「今後、財団で決定する予定で、決まっていない」と述べるにとどめた。日韓政府の発表を受け、財団の金兌玄理事長は「理事会を来週、開催する予定だ」と明らかにした。元慰安婦支援策の具体化に向けて協議するとみられる。 (2016/08/12-21:51)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200872&g=pol
10億円拠出、見切り発車=少女像撤去は見通せず

 日本政府が元慰安婦を支援する韓国の「和解・癒やし財団」に10億円を拠出することになり、昨年末の日韓合意に基づく支援事業は実行段階に入る。ただ、韓国が「解決に努力する」と約束した、慰安婦問題を象徴するソウルの日本大使館前の少女像が撤去される見通しは立っていない。早期に事業を具体化したい韓国政府に配慮した「見切り発車」とも言える。
 「日本側の責務はこの10億円の支出によって果たしたことになる」。岸田文雄外相は12日夜、記者団にこう強調。自民党内などに10億円拠出の前提とすべきだとの声が強かった少女像撤去に関しては、「韓国政府が適切に対応する」と述べるにとどめた。
 日本政府が10億円の先行拠出を決めたのは、「少女像を今持ち出せば、韓国の反対論が強まって合意が宙に浮く」(外務省幹部)との懸念があるからだ。韓国では日韓合意に反対する団体が元慰安婦を独自に支援する動きを見せており、少女像に敏感な韓国世論に火を付けることになれば、元慰安婦一人一人に理解を求めてきた韓国政府の努力が水泡に帰しかねない。
 10億円を元手にした元慰安婦や遺族に対する財団を通じての支援について、日本側に慎重論があった現金支給が認められる見通しだ。1965年の日韓請求権協定で全ての賠償問題は「解決済み」としてきた日本の立場と矛盾しかねない現金支給には、「第2の賠償」との懸念があったが、「医療・介護目的」に限定することで日本側が折れた。
 韓国外務省は12日夜発表したコメントで、日韓合意を「忠実に履行していく」と強調したが、少女像には言及しなかった。一方、日本政府関係者は「朴槿恵大統領を信じるしかない」と述べた。元慰安婦への支援事業が動きだす中、少女像撤去は日韓間の重い課題として持ち越された。(2016/08/12-21:24)

877名無しさん:2016/08/13(土) 12:25:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200464&g=pol
元慰安婦の医療・介護支援=日韓、10億円使途で合意

 岸田文雄外相は12日、韓国の尹炳世外相と電話会談し、元慰安婦を支援するため日本側が拠出する10億円の使途について、医療や介護目的などとすることで合意した。岸田氏は「速やかに10億円を支出すべく、必要な手続きを進める」と伝達。昨年末の慰安婦問題をめぐる日韓合意は、大きく前進した。一方、ソウルの日本大使館前の慰安婦少女像の移転については、韓国側が引き続き努力することを確認した。
 10億円の使途が決まったことについて、岸田氏は電話会談後、記者団に「支出が完了すれば、合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる」と語った。日本側は、月内の資金拠出を目指し調整を進めるとともに、少女像移転について、韓国に前向きな対応を促していく考えだ。
 韓国外務省は「両外相は、一日も早い被害者の名誉と尊厳回復、心の傷の癒やしが実現することが重要だと再確認した」との声明を発表した。
 元慰安婦への支援は、韓国側が7月に設立した「和解・癒やし財団」を通じて実施する。使途が特定されているものに限り、元慰安婦やその家族に一定額を支給する。現金での支給も想定している。
 ただ、現金給付に対しては自民党の保守系議員を中心に「賠償金と受け取られる」などと異論が残る。これに関して岸田氏は「事業を行うための支出という性格は明らかで、請求権の問題は法的に解決済みであるとの立場に変わりはない」と強調した。
 慰安婦問題は日韓間の長年の懸案だったが、昨年末に両国政府が「最終かつ不可逆的な解決」を目指すことで合意。日本側が撤去を要求している少女像について、韓国側は「関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」こととなっているが、元慰安婦の支援団体が強く反対している。 

◇日韓合意後の動き
【2015年】
12月28日 日韓外相が会談し、慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決で合意
【16年】
 3月31日 ワシントンで安倍晋三首相と韓国の朴槿恵大統領が会談。合意の着実な履行を確認
 4月13日 韓国総選挙で与党が過半数割れ
 5月31日 日韓合意に基づく元慰安婦支援のための財団準備委員会が発足
 7月10日 参院選で与党勝利
     同 元慰安婦1人が死去。生存者は40人に
   15日 ウランバートルで安倍首相と朴大統領が合意の誠実な履行を確認
   28日 元慰安婦を支援する「和解・癒やし財団」発足
  8月9日 ソウルで日韓局長級協議
   12日 日韓外相が電話会談し、財団への拠出金の使途を医療、介護目的とすることで合意(2016/08/12-21:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200869&g=pol
岸田外相発言要旨=日韓合意

 日韓合意に関する岸田文雄外相の発言要旨は次の通り。
 これまでの日韓局長協議や12日の(尹炳世韓国外相との)電話会談を通じて、財団の事業の内容について大筋で合意に至った。韓国政府が今後も日韓合意を誠実に実施していくことを改めて確認できた。日本政府としても、昨年末の日韓合意にある通り、速やかに10億円の資金を支出すべく必要な手続きを進める考えだと伝えた。
 10億円に基づき、財団が元慰安婦の方々のための事業を実施する。具体的には、財団が元慰安婦の方々やその家族からニーズを調査した上で、日韓両政府が合意する使途の範囲内で、資金が支出される。われわれは医療や介護関係という使途を想定している。
 日本政府による資金の支出が完了すれば、日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる。韓国側には合意に基づき少女像の問題の適切な解決のための努力を強く求めてきており、日韓合意の着実な実施を求め続けていく。
 -少女像の撤去は。
 韓国政府が日韓合意を誠実に実施していくと確信している。尹外相から「日韓合意を誠実に実施していく」という発言もあった。こうした考え方に基づいて、韓国側が適切に対応されるものだと考えている。
 -財団の事業内容は。
 大筋合意に至っているが詳細を引き続き事務レベルで詰めていく。
 -拠出金の渡し方は。
 10億円は元慰安婦の方々のための事業を行う支出だ。この点において合意している。
 -日韓請求権協定に基づいて賠償金ではないと確認したか。
 10億円は事業を行うための支出だ。この性格は明らかだ。慰安婦問題に関する請求権の問題は法的に解決済みだという立場は全く変わりない。(2016/08/12-21:13)

878名無しさん:2016/08/13(土) 12:25:58
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200764&g=pol
慰安婦少女像

 慰安婦少女像 元慰安婦を支援する「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」が2011年12月、慰安婦問題の象徴としてソウルの日本大使館前に設置した像。日本政府は、外国公館の品位維持を定めたウィーン条約に反するとして撤去を求めている。15年12月の日韓合意では、「韓国政府は関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」とされた。記念館や公園を新設して移設する案が検討されているが、挺対協は強く反発している。(2016/08/12-18:20)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200763&g=pol
韓国政府、独自に実施=元慰安婦への支援事業

 【ソウル時事】元慰安婦に対する支援事業は韓国政府も独自に取り組んできた。事業は元慰安婦への支援金支給のほか、介護費や生活面での活動費支援など多岐にわたる。
 韓国政府は元慰安婦として238人を登録。だが、2002年に134人いた元慰安婦は現在、40人(国外居住が2人)にまで減少した。年齢も84〜100歳と高齢となり、病気を抱える元慰安婦も少なくない。
 女性家族省は登録した元慰安婦に対し、「生活安定支援金」として1人当たり毎月126万ウォン(約12万円)を支給。これとは別に登録後、一時金として4300万ウォン(約400万円)も支給している。事業は1993年に開始。毎月の支給額は年々増加傾向にあり、一時金も98年に500万ウォンから今の支給額に拡大した。
 体の不自由な元慰安婦の介護支援もある。元慰安婦を通じ、介護する側に「看病費」が支払われ、年間で最大1600万ウォンが手当てされる。介護支援の予算は06年の開始時から2倍以上に増加し、今年は4億4300万ウォンに達した。
 さらに、元慰安婦への医療支援や住宅改修費用などを手当てする「治療事業」も行われている。昨年の予算額は2億8500万ウォンで、病院などに支払われた。 
 10億円の拠出先となる元慰安婦支援の「和解・癒やし財団」の金兌玄理事長は7月、財団発足後の記者会見で「(元慰安婦の)37人に直接会った。人によって使途は違う」と話した。政府の支援事業との違いをどう出すか、財団側の事業の進め方が今後の鍵となる。(2016/08/12-18:20)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081300162&g=pol
「少女像と関係なく拠出」=元慰安婦支援の10億円-韓国紙

 【ソウル時事】13日付の韓国紙は、日韓外相の電話会談で元慰安婦支援財団への10億円の拠出が決まったことについて「日本、少女像と関連付けず」(中央日報)、「少女像と関係なく10億円拠出」(朝鮮日報)などと報じた。
 中央日報は「これにより、昨年12月の合意を受けた政府レベルの後続協議は大枠で終了した。財団は本格的な活動に入れる」と伝えた。ただ、朝鮮日報は、日本側が10億円の使途に関し「医療や介護」を挙げているのに対し、韓国側は「決まっていない」と説明していると指摘した。
 京郷新聞は、朴槿恵大統領が植民地支配からの解放記念日(光復節)に当たる15日の演説で「慰安婦問題をめぐる合意が履行されたと強調し、『新たな次元の韓日関係』に言及するとみられる」と展望。一方で「国内的には合意への批判が強く、混乱が続くとみられる」と予測した。 (2016/08/13-09:03)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081300077&g=pol
「和解と癒やし示す」=日韓合意を評価-米国務省

 【ワシントン時事】米国務省報道担当者は12日、声明を出し、旧日本軍の元従軍慰安婦を支援するため日本側が拠出する10億円の使途で韓国と合意したことについて「これらの重要な措置は、2015年末の日韓合意で具体化された和解と癒やしへの取り組みを示している」と評価した。
 声明は、韓国が7月に設立した「和解・癒やし財団」に日本の資金が拠出されるという発表を「歓迎する」と表明。ただ、日韓の今後の行動については「両政府に聞いてほしい」と述べるにとどめた。 
 米政府は歴史問題をめぐる一連の日韓対立を受けて、オバマ大統領が14年3月に安倍晋三首相、朴槿恵・韓国大統領との日米韓首脳会談を主導するなど同盟国の日韓両国の和解に尽力していた。(2016/08/13-06:03)

879名無しさん:2016/08/13(土) 12:35:58
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081100551&g=pol
安倍首相、15日の靖国参拝見送り=4年連続、玉串料奉納へ

 安倍晋三首相は11日、終戦記念日の15日に合わせた靖国神社参拝を見送る方針を固めた。自民党総裁として、私費で玉串料を奉納する予定だ。関係者が明らかにした。終戦記念日の靖国参拝見送りは4年連続。参拝に反対する中国、韓国両国や、東アジア地域の安定を求める米政府との関係に配慮した。 
 首相は、2012年12月の政権復帰から1年を迎えた13年12月26日に靖国神社を参拝。中韓両国は激しく反発した。13〜15年の終戦記念日は参拝を見送り、いずれも代理人を通じて私費で玉串料を奉納。今年は自民党の西村康稔総裁特別補佐を通じて納める方向だ。(2016/08/11-23:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200731&g=pol
稲田氏、終戦記念日に靖国参拝せず=高市総務相は参拝へ

 防衛省は12日、稲田朋美防衛相が13〜16日の日程でアフリカ北東部のジブチを訪問し、自衛隊の派遣部隊を視察すると発表した。これにより、稲田氏は15日の終戦記念日に合わせた靖国神社の参拝を行わない。自衛隊を指揮する防衛相としての立場を勘案した判断とみられ、中韓両国などとの関係悪化はひとまず回避された。
 15日は、安倍晋三首相も4年連続で参拝を見送り、自民党総裁として私費で玉串料を奉納する予定。閣僚では、高市早苗総務相が昨年に続いて参拝する方向だ。
 ジブチには、ソマリア沖アデン湾での海賊対策に当たる自衛隊が活動拠点を置いている。発表に先立ち稲田氏は12日、石川県小松市で記者団に、靖国参拝について「靖国の問題は心の問題であり、安倍内閣の一員として適切に判断したい」と述べた。
 稲田氏は行政改革担当相在任中の2013、14年とも、自民党有志議員による「伝統と創造の会」会長として終戦記念日に靖国神社を参拝。自民党政調会長だった昨年も15日に参拝した。
 こうした経緯から、中国は稲田氏の防衛相就任に関して「日本の防衛政策が右傾化する」と懸念を表明。韓国とともに防衛相としての参拝を警戒していたほか、米政府も東アジア地域の安定確保の観点から慎重な対応を求めていた。このため稲田氏は、15日の参拝を断念し、海外視察を決めたもようだ。 (2016/08/12-20:32)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081200227&g=pol
「歴史的事実の尊重を」=閣僚靖国参拝で米国務省

 【ワシントン時事】米国務省のトルドー報道部長は11日の記者会見で、今村雅弘復興相が靖国神社を参拝したことについて「歴史的事実を尊重することが重要だ」と指摘し、慎重に対応すべきだという立場を示した。
 報道部長は、安倍政権の他の閣僚による靖国神社参拝の可能性に関しては「日本政府に問い合わせてほしい」と述べるにとどめた。 
 国務省はこれまで、歴史問題をめぐる日本と中韓両国の対立について「癒やしや和解を促進するようなやり方で歴史問題に臨むことの重要性を引き続き強調する」(トナー副報道官)と繰り返している。(2016/08/12-09:54)

880名無しさん:2016/08/13(土) 21:01:04
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160812/k10010633181000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
元慰安婦への支援事業で大筋合意 速やかに10億円拠出へ
8月12日 20時50分
慰安婦問題をめぐって、12日夕方、岸田外務大臣は韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相と電話で会談し、日本政府が拠出する10億円で賄われる元慰安婦への支援事業について大筋で合意しました。会談のあと、岸田大臣は記者団に対し、資金は医療や介護関係に充てられることを想定しているとしたうえで、速やかな10億円の拠出に向けて手続きに入ることを明らかにしました。
慰安婦問題をめぐる去年12月の日韓両政府の合意に基づき、韓国政府が元慰安婦の女性たちを支援する財団を先月設立したことを受けて、日韓両政府は日本政府が拠出する10億円で賄われる元慰安婦への支援事業の内容について、事務レベルで詰めの調整を続けてきました。
これについて12日夕方、岸田外務大臣はユン・ビョンセ外相と電話で会談し、元慰安婦への支援事業について大筋で合意しました。
会談のあと、岸田大臣は記者団に対し、日本政府が拠出する資金は、医療や介護関係に充てられることを想定しているという考えを示しました。そして、岸田大臣は、速やかな10億円の拠出に向けて手続きに入ることを明らかにしたうえで、資金の拠出にあたって慰安婦問題をめぐる賠償請求権は法的に解決済みだという、これまでの立場に変わりないという認識を改めて示しました。
さらに、資金の拠出が完了すれば、合意に基づく日本側の責務は果たしたことになるという考えを強調しました。
一方、岸田大臣はソウルの日本大使館の前に設置された少女像の撤去について、韓国側に対し、合意に基づいて引き続き適切に対応するよう求めたのに対し、ユン外相は「日韓合意を誠実に履行していく」と述べたということです。
岸田外相 資金支出で責務果たしたことに
岸田大臣は、支援事業の内容について「財団が、元慰安婦の方々や、その家族からニーズを調査したうえで、日韓両政府が合意する使途の範囲内で資金が支出されることになる。われわれとしては、医療や介護関係といった使途を想定している。日本政府による資金の支出が完了すれば、日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる」と述べました。
韓国外務省 早く女性たちの名誉回復を
韓国外務省は12日行われた日韓外相の電話会談について、元慰安婦の女性たちを支援する財団に、日本政府が速やかに10億円を拠出することになったと発表し、「一日も早い、元慰安婦の女性たちの名誉回復が重要だと再確認した」とする一方、具体的な支援事業の内容については説明を避けました。
日本の岸田外務大臣と韓国のユン・ビョンセ外相は12日夕方、電話で会談し、慰安婦問題の最終的な解決をめぐって意見を交わしました。
これについて韓国外務省は、元慰安婦の女性たちを支援するために韓国で発足した「和解・癒やし財団」に対し、日本政府が速やかに10億円を拠出するという説明があったと発表しました。そのうえで、「両外相は、合意の忠実な履行を通じて、一日も早く元慰安婦の女性たちの名誉と尊厳の回復、それに心の傷の癒やしが行われることが重要だと再確認した」としています。
これにより、問題の最終的な解決に向けた取り組みが近く始まることになりましたが、韓国外務省は財団がどのような支援事業を行うかについては明らかにしませんでした。
これまで財団の関係者たちは、10億円の大部分を元慰安婦たちやその家族に支給する考えを示してきましたが、日本側が「直接的な支給は賠償だと誤解されかねない」と懸念を示していることに配慮して、10億円の使い方に関する説明を避けたものと見られます。
また、ソウルの日本大使館前の少女像についても、韓国外務省は12日の発表では触れていません。

881名無しさん:2016/08/13(土) 21:01:34
>>880

慰安婦問題 これまでの経緯は
慰安婦問題をめぐっては、日韓国交正常化50年にあたる去年の11月に行われた、安倍総理大臣とパク・クネ(朴槿恵)大統領との初めての首脳会談をきっかけに、解決に向けた流れが加速しました。
そして、去年12月、両首脳の指示を受けて、日本と韓国の外相会談が行われ、慰安婦問題をめぐって、韓国政府が設立する財団に日本政府の予算でおよそ10億円を拠出し、元慰安婦への支援事業を行うことなどで合意するとともに、この問題を「最終的かつ不可逆的に」解決することを確認しました。
これを受けて、韓国政府は、先月28日に元慰安婦の女性たちを支援するための財団「和解・癒やし財団」を設立しました。日本政府は、今月にも10億円を拠出する方針を固め、韓国側との事務レベルの協議で、10億円で賄われる支援事業の内容について調整を進め、今月9日に行われた両国の外務省の局長レベルの協議では、詰めの作業が行われていました。
一方、日韓両政府の合意をめぐっては、韓国では、一部の元慰安婦や市民団体が反発しているほか、日本でも、ソウルの日本大使館前の少女像の速やかな撤去を求める声があがっています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160813/k10010633561000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_003
元慰安婦への支援事業 韓国に少女像の撤去促す方針
8月13日 7時57分
慰安婦問題をめぐり、政府は12日の日韓外相会談を受けて、元慰安婦への支援事業に充てられる10億円を速やかに拠出するため、手続きを進めることにしています。一方で、ソウルの日本大使館の前の少女像の撤去はめどが立っておらず、韓国側の一層の努力を促していく方針です。
慰安婦問題をめぐり、岸田外務大臣は12日、韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相と電話で会談し、日本側が拠出する10億円で賄われる、元慰安婦への支援事業について大筋で合意しました。
これを受けて、政府は日本側が拠出する資金は、医療や介護関係に充てられることを想定していて、10億円を速やかに拠出するため手続きを進めることにしています。
岸田大臣は12日、記者団に対し、「資金の支出が完了すれば、日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる」と強調しました。
一方で、去年12月の日韓合意で、韓国側が「適切に解決されるよう努力する」とされた、ソウルの日本大使館の前の慰安婦を象徴する少女像については、撤去のめどがたっておらず、自民党内などからは不満の声が上がっています。
これに関連して、外務省幹部は「日本は行うべき事は行っており、ボールは韓国側にある」と指摘していて、政府は少女像の撤去に向けて、韓国側の一層の努力を促していく方針です。
韓国の市民団体は少女像移転に応じない姿勢
慰安婦問題の最終的な解決に向け、日本政府が韓国の財団に10億円を拠出すると伝えたのを受けて、韓国政府は元慰安婦たちへの支援を進めることで少女像の問題でも進展をはかりたい考えですが、像を設置した市民団体は移転に応じない姿勢を崩していません。

12日に行われた日韓外相の電話会談で、日本政府は元慰安婦の女性たちを支援するために韓国で発足した「和解・癒やし財団」に速やかに10億円を拠出すると伝え、これにより慰安婦問題の最終的な解決に向けた取り組みが始まることになりました。
一方、日本大使館前の少女像の問題について、12日、韓国外務省の報道官は何も触れませんでした。
韓国政府や財団の関係者たちは、10億円をもとに元慰安婦たちやその家族への支援を進めていくことで、日本との合意に対する韓国国民の理解を高め、少女像を設置した市民団体と話し合う環境を整えたい考えです。
すでに、財団の理事長は生存している元慰安婦の女性40人のうち、これまでに37人と面会し、多くの元慰安婦らが支援を受ける意向を示していると明らかにしており、一定の手応えを感じています。
しかし、少女像を設置した市民団体は依然、日韓の合意に反対していて、像の移転には応じない姿勢を崩しておらず、像の問題が進展するかどうかは韓国の世論の動向が鍵を握りそうです。

882とはずがたり:2016/08/15(月) 21:50:29
“最高のシンクタンク”満鉄調査部の系譜が九州に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160815-00010001-newswitch-bus_all
ニュースイッチ 8月15日(月)8時40分配信

“最高のシンクタンク”満鉄調査部の系譜が九州に
満鉄OBが多く参画した九州経済調査協会は今年設立70年の節目
設立趣意書には「調査の不備と統計の貧困が敗戦を招いた」
 九州経済調査協会(福岡市中央区)が設立70年の節目を迎えた。記念セミナーなどを開催するとともに、30年後の九州のあり方について数年がかりでまとめる。

 初代理事長の松岡瑞雄氏は、旧南満州鉄道の調査部出身。他にも九経調設立には多数の満鉄OBが関わった。満鉄調査部は日本における草分けかつ最高のシンクタンクと称され、満鉄設立の翌年、1907年に産声を上げた。

 帝国主義時代の日本が中国東北部に建国した満州国は、かいらい国家であると同時に先進的な社会実験の場でもあった。その一翼を担った満鉄は調査部や日本の広報活動のルーツとされる「弘報係」を置いた。

 九経調が生まれた1946年は戦後の混乱期。61年の九州経済連合会の発足より15年も早い。こんな時期に、シンクタンクという発想があったのは驚異的ですらある。

 設立趣意書も興味深い。「調査の不備と統計の貧困が敗戦を招いた」として「国民経済の科学的究明による正しい判断」の必要を説き、同時に「九州人が九州を正しく理解すること」が郷土建設の第一歩とする。志の高さを感じさせられる。”シンクタンク冬の時代”といわれて久しいが、こうした過去を思い、未来を展望することには意味がある。

【関連記事】

883名無しさん:2016/08/20(土) 20:27:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160815/k10010636281000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_047
靖国神社 首相が私費で玉串料 高市・丸川大臣は参拝
8月15日 14時29分
終戦の日の15日、安倍総理大臣は、自民党の西村総裁特別補佐を通じて、自民党総裁として、靖国神社に私費で玉串料を納めました。一方、安倍内閣の閣僚では、高市総務大臣と丸川オリンピック・パラリンピック担当大臣が午後、靖国神社に参拝しました。
終戦の日の15日、安倍総理大臣は、靖国神社に参拝せず、自民党の西村総裁特別補佐を通じて、「自民党総裁・安倍晋三」として、私費で玉串料を納めました。
西村氏は、記者団に対し「総理からは玉串料を納め、参拝してくるように指示があった」と述べました。
安倍総理大臣は、第2次安倍内閣が発足して1年後となる平成25年12月に靖国神社に参拝しましたが、それ以降は参拝しておらず、終戦の日には毎年、私費で玉串料を納めています。
一方、安倍内閣の閣僚では、高市総務大臣と丸川オリンピック・パラリンピック担当大臣が午後、靖国神社に参拝しました。
参拝を終えたあと、高市大臣は記者団に対し「国策に殉じた方々に尊崇の念を持って感謝の誠をささげた。あわせて戦没者の皆様のみ霊が安らかでありますように、ご遺族の皆様が健康でいらっしゃいますようにとお祈りをした」と述べました。また高市大臣は、記者団が「閣僚の靖国神社参拝に対し、例年、中国や韓国から反発が出ているが」と質問したのに対し、「本来、自国のために殉じられた方々の慰霊の在り方は外交問題になるべきものではないと考えている。世界中の国々が遠い過去までさかのぼって慰霊の在り方や慰霊施設の是非を論じ始めたら大変なことになる」と述べました。
丸川大臣は、記者団に対し「私たちの国を取り巻く状況が緊張感を増している中で、かけがえのない平和を守るために正しい選択ができるようにお守りくださいという気持ちを込めて、平和への誓いを新たにした」と述べました。そのうえで、丸川大臣は「国策に殉じて亡くなられた方たちをどのようにおまつりするかは、その国のやり方があり、外交問題としてとらえるものではない」と述べました。
安倍内閣の閣僚では、このほか、山本農林水産大臣が閣議のあとの記者会見で、今月6日に参拝したことを明らかにしたほか、今村復興大臣が今月11日に、一般の参拝者と変わらない方法で参拝しました。
官房長官「首相が適切に判断する事柄」
菅官房長官は、閣議のあとの記者会見で、安倍総理大臣が靖国神社に私費で玉串料を納めたことについて、「政府として見解を申し上げることではない。靖国神社に参拝するかどうかは安倍総理大臣が適切に判断する事柄だ」と述べました。
また、菅官房長官は今村復興大臣や萩生田官房副長官が参拝したことについて、「閣僚等が靖国神社に参拝したことは承知しているが、あくまで私人として参拝したと理解している。閣僚が私人として参拝することに対して、個人の信教の自由に関するものであり、政府として立ち入るべきではないというのが従来の政府の立場だ」と述べました。
一方、菅官房長官は、みずからが参拝するかどうかについて、「適切に判断する」と述べるにとどめました。
共産党書記長「私費でも許されない」
共産党の小池書記局長は、東京都内で街頭演説し、「靖国神社は、軍国主義による侵略戦争を美化している神社だ。たとえ私費であっても、玉串料を奉納するということは、安倍総理大臣が、侵略戦争を肯定し、美化する立場に立つことを国内外に示すことになり、絶対に許されない」と批判しました。

884名無しさん:2016/08/20(土) 20:27:52
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160815/k10010636461000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_044
靖国神社 超党派の国会議員約70人が参拝
8月15日 11時58分
終戦の日の15日、超党派の国会議員でつくる「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の衆参両院の国会議員およそ70人が靖国神社に参拝しました。
「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」は、毎年、春と秋の例大祭と8月15日の終戦の日に東京・九段の靖国神社に参拝しています。
終戦の日の15日は、会長を務める自民党の尾辻元参議院副議長や民進党の羽田元国土交通大臣、日本のこころを大切にする党の中山代表ら、超党派の衆参両院の国会議員およそ70人が、午前11時すぎに靖国神社の本殿に昇殿し、そろって参拝しました。安倍内閣からは岸外務副大臣や水落文部科学副大臣、それに石原内閣府副大臣らが参拝しました。
このあと、尾辻氏が記者会見し「安倍総理大臣が参拝しないのは、よほどの事情があると察するしかないが、国益のためだと言うのであれば理解する」と述べました。
稲田防衛相が会長の議員グループも参拝
これに先立って、稲田防衛大臣が会長を務める自民党の議員グループ「伝統と創造の会」のメンバーも靖国神社に参拝しました。
稲田大臣は、自民党の政務調査会長を務めていた去年は参拝しましたが、ことしはソマリア沖の海賊対策で派遣されている海上自衛隊の部隊の視察でアフリカのジブチを訪れているため、15日は参拝しませんでした。

稲田大臣は訪問先のジブチで記者団に対し、終戦の日に靖国神社に参拝しなかったことについて「今の平和な日本は、いかなる歴史観に立とうとも、この国のために、家族を守るため、ふるさとや国を守るために出撃していった多くの方々の命の積み重ねの上にあると思う。そういった感謝の気持ちを日本人は忘れてはいけないと思う」と述べました。そのうえで、稲田大臣は「毎年『伝統と創造の会』で参拝していた。ことしも、私はいないが、『伝統と創造の会』で参拝し、会として玉串料を奉納したと承知している」と述べました。

885名無しさん:2016/08/20(土) 20:41:54
http://mainichi.jp/articles/20160815/k00/00e/040/279000c
終戦記念日
天皇陛下おことば(全文)…戦没者追悼式
毎日新聞2016年8月15日 12時26分(最終更新 8月15日 13時02分)

 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に71年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

 ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

886名無しさん:2016/08/20(土) 20:43:28
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081500003&g=pol
終戦記念日で与野党談話

 与野党が15日の終戦記念日に当たって談話を発表した。要旨は次の通り。
 【自民】日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中で、国民の命と平和な暮らしを守り抜かねばならない。その責任を全うするため平和安全法制を整備した。国民の理解を求めながら、子や孫の世代に平和な日本を引き渡す努力を続ける。
 【民進】戦後、日本人が育んできた平和主義が脅かされようとしている。安倍政権が目指す集団的自衛権を制約なく行使し、海外で武力行使できる国と、民進党が目指す憲法の平和主義の理念に基づき武力行使に抑制的な国のどちらを選択するか、いま一度国民にも考えてほしい。
 【公明】戦後日本は、平和憲法と国連憲章の理念を基礎として平和国家の歩みを始めた。憲法の「国民主権」「基本的人権の尊重」「恒久平和」の3原理を守り発展させていくべきだ。
 【共産】安倍政権は、憲法の平和主義を根底から覆す暴走を続けている。安倍(政権による)改憲を許さず、憲法の平和主義を守り生かすため、恒久平和を希求する全ての人が力を合わせることを呼び掛ける。
 【おおさか維新】政府の安全保障政策の合憲性を判定するため、憲法裁判所を設置すべきだと考える。わが国が国民生活を守り、世界の平和と安定に向けた主導的な役割を果たせるよう取り組んでいく。
 【生活】今この国の政治は大きな分岐点に差し掛かっている。再びこの国が判断を誤り、途方もない苦難を人々に与える惨禍をもたらすことのないよう、全力で取り組んでいく。
 【社民】安倍政権の発足以降、憲法解釈はねじ曲げられ、戦前回帰への扉が開かれようとしている。日本は平和憲法の下で「戦争しない国」を貫き、憲法9条は多くの国々の信頼と羨望(せんぼう)を得てきた。憲法改悪を断固阻止する。
 【こころ】先人たちの犠牲に応えるため、今こそ日本の歴史、伝統、文化に立脚した自主憲法を制定し、真の独立を回復し、平和を維持し、全世界の繁栄と平和に貢献することを誓う。(2016/08/15-00:13)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081500421&g=pol
安倍首相式辞=終戦記念日

 15日の全国戦没者追悼式での安倍晋三首相の式辞全文は次の通り。
 本日ここに、天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、全国戦没者追悼式を挙行するに当たり、政府を代表し、慎んで式辞を申し述べます。
 あの、苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ、戦場に倒れられたみ霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、はるかな異郷に亡くなられたみ霊、皆さまの尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時たりとも忘れません。衷心より、哀悼の誠をささげるとともに、改めて、敬意と感謝の念を申し上げます。
 いまだ、帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、脳裏から離れることはありません。おひとりでも多くの方々が、ふるさとに戻っていただけるよう、全力を尽くします。
 わが国は、戦後一貫して、戦争を憎み、平和を重んじる国として、孜々(しし)として歩んでまいりました。世界をよりよい場とするため、惜しみない支援、平和への取り組みを、積み重ねてまいりました。
 戦争の惨禍を決して繰り返さない。
 これからも、この決然たる誓いを貫き、歴史と謙虚に向き合い、世界の平和と繁栄に貢献し、万人が心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。あすを生きる世代のために、希望に満ちた国の未来を切りひらいてまいります。そのことが、み霊に報いる途(みち)であると信じて疑いません。
 終わりに、いま一度、戦没者のみ霊に永久の安らぎと、ご遺族の皆さまには、ご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。(2016/08/15-12:24)

887名無しさん:2016/08/20(土) 20:45:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081500403&g=pol
玉串料奉納を批判=共産・小池氏

 共産党の小池晃書記局長は15日午前、安倍晋三首相が代理人を通じて靖国神社に玉串料を奉納したことについて、「たとえ私費でも、侵略戦争を肯定、美化する立場に首相自身が立つことを内外に示すことになる」と批判した。JR新宿駅前での街頭演説で語った。
 小池氏は「靖国神社は、過去の日本の侵略戦争を自存自衛の戦い、アジア解放の戦争だと美化している神社だ。それを宣伝することを自らの存在意義にしている特殊な施設だ」と指摘した。(2016/08/15-12:14)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081500159&g=pol
安倍首相、靖国に玉串料=高市、丸川氏が参拝-超党派議員は集団で

 安倍晋三首相は終戦記念日の15日午前、自民党総裁として代理人の西村康稔総裁特別補佐を通じ、東京・九段北の靖国神社に私費で玉串料を奉納した。自身の参拝は見送った。閣僚では、高市早苗総務相、丸川珠代五輪担当相が同日午後、参拝。一方、超党派の「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」(会長・尾辻秀久元参院副議長)のメンバー約70人が同日午前、集団で参拝した。
 首相の終戦記念日の靖国参拝見送りと玉串料の奉納は4年連続。靖国参拝に反対している中国、韓国に配慮した。9月に中国・杭州で開く20カ国・地域(G20)首脳会議の際に合わせて調整している日中首脳会談への影響も考慮した。

 首相は15日午前、東京・三番町の千鳥ケ淵戦没者墓苑で献花。この後、政府主催の全国戦没者追悼式に参列し、式辞を述べた。
 菅義偉官房長官は記者会見で「靖国に参拝するか否かは首相が適切に判断する事柄だ」と説明。「閣僚の私人としての参拝は、個人の信教の自由に関する問題で、政府として立ち入るべきではない」と語った。尾辻氏は集団参拝後の会見で、首相の参拝見送りについて「国益での判断というなら理解していただける」と述べた。
 山本有二農林水産相は15日の記者会見で、6日に靖国を参拝したことを明らかにした。今村雅弘復興相も11日に参拝を済ませた。

 また、首相側近の萩生田光一官房副長官は15日午前に参拝。「大戦で犠牲となられた先人のみ霊に哀悼の誠をささげた。恒久平和への誓いを新たにした」と記者団に語った。
 これまで終戦記念日の参拝を続けてきた稲田朋美防衛相は、自衛隊部隊視察のためアフリカ北東部ジブチを訪問中で、15日の参拝を見送った。稲田氏が会長を務める自民党議員による「伝統と創造の会」のメンバーは同日参拝した。 (2016/08/15-13:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081600665&g=pol
「責任、謝罪、反省」裏付け=日本拠出の10億円-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は16日の記者会見で、慰安婦問題をめぐる合意に基づき日本政府が韓国の財団に拠出する10億円について、「賠償金と理解できるか」という質問に直接は答えず、「岸田文雄外相が昨年12月に表明した日本政府の責任、謝罪や反省の立場を実質的に裏付ける履行措置だ」と述べた。

 「賠償金」と断定することを避けながらも、事実上、賠償金の性格を帯びているという認識を示唆した。 
 日本政府は、拠出金が「賠償金」と受け止められることを警戒。岸田外相は12日、尹炳世外相との電話会談後、記者団に対し「慰安婦問題に関する請求権の問題は法的に解決済みだという立場は、全く変わりない」と述べている。(2016/08/16-17:00)

888名無しさん:2016/08/21(日) 10:42:59
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081800651&g=pol
10億円の使途、決定先送り=元慰安婦の支援財団-韓国

 【ソウル時事】日韓政府間合意に基づき元慰安婦の支援を行う韓国の「和解・癒やし財団」の金兌玄理事長は18日、時事通信の取材に対し、前日に理事会を開いたものの、日本が拠出する10億円の具体的な使途については決定を先送りしたことを明らかにした。金理事長は「支援方法をめぐりたくさんの意見が出たが、事業の具体的内容については決まらなかった」と述べた。
 ただ、金理事長は「支援策としては医療・介護関連が想定されている」と説明し、大枠の方向性に関しては合意が得られているという認識を示した。
 韓国外務省当局者も18日、記者団に「10億円の具体的な使途や財団の事業に関しては、まだ決まっていない」と語った。理事会関係者は「1回の理事会で決められることではない。改めて開き、論議していく」と述べた。 
 岸田文雄外相と韓国の尹炳世外相は12日の電話会談で、10億円の使途に関し、医療や介護目的などとすることで合意した。岸田外相は「速やかな拠出」を表明しているが、具体的な事業内容を詰めるまでには、なお時間がかかりそうだ。(2016/08/18-16:21)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081800156&g=pol
事業内容、非公開で協議=韓国の元慰安婦支援財団

 【ソウル時事】日韓政府間合意に基づき元慰安婦への支援などを行う韓国の「和解・癒やし財団」(金兌玄理事長)は17日夜、約3時間にわたり非公開で理事会を開き、具体的な事業内容について協議した。関係者が18日、明らかにした。

 岸田文雄外相と韓国の尹炳世外相は12日に電話会談し、日本側が拠出する10億円の使途に関し、医療や介護目的などとすることで合意、岸田外相は「速やかな拠出」を表明した。これを受けた理事会では、元慰安婦支援で突っ込んだやりとりが交わされた。
 関係者によると、一部の理事は「合意では、すべての元慰安婦の名誉と尊厳の回復、心の癒やしのための事業を行うことになっている」と指摘。「存命中の40人を支援するだけでなく、亡くなった方々の追悼事業も行うべきだ」という考えを示した。(2016/08/18-09:53)

889とはずがたり:2016/08/22(月) 14:04:05

北方領土、進むロシア化 元島民「試練は増すばかり」
http://www.asahi.com/articles/ASJ743WB5J74UTFK007.html?ref=goonews
藤田直央2016年7月10日08時33分

 ロシアの前身にあたるソ連が戦後に占領し、日本が返還を求め続ける北方領土問題。定住が進むロシア人の数は、かつて島を追われた日本人の元島民とほぼ同じ約1万7千人になる。5月の首脳会談を機に交渉が再び動き出す中、北方領土最大の島・択捉(えとろふ)島を7月初め、元島民や子孫の人たちと訪れた。

 海に突き出た約150メートルの桟橋、室内プールや全室監視カメラ付きの保育園、島内二つ目の空港から飛び立つ飛行機――。元択捉島民で神戸市の山本忠平さん(81)は3年ぶりの訪問で、様変わりに驚いた。

 今回の日本人訪問団に、博物館館長は「日本時代」を過去のものとする島の歴史の展示を説明し、中等学校では生徒が「択捉島のエコツーリズムの展望」のプレゼンで将来を語った。山本さんは1991年以来5回目の訪問。進む故郷のロシア化を痛感し、「どうしようもない」ともらした。

 北方領土は寒冷、強風の地だ。日本政府はソ連崩壊期の91年度に始めた人道支援で、主に漁業や水産加工業で暮らす住民への影響力を強めようと発電施設まで提供。だが、ロシア政府から09年に経済安定で物資すら不要と伝えられ、今は高度な治療が必要な患者の受け入れなどにとどまる。

 一方、ロシア側は07年からの「発展計画」でインフラや公共施設の整備を進めた。この地域は歳入の9割を補助金などに依存。国防相が今年3月に軍備強化を表明するなど中央政府は「国境の島々」を重視する。択捉島に住む地区行政長(56)は訪問団に、「次の訪問でもさらなる発展を見てほしい」と語った。

 山本さんはソ連支配下の択捉島で12歳になる47年まで過ごし、国籍変更を拒んだ母らと貨物船に乗せられ「送還」。ソ連兵が来た時の怖さや、樺太の収容所を経て函館にたどり着いた苦難を語り部として伝える。

 今回は訪問団が移動する船中での研修で話した。「実効支配は強まり、試練は増すばかり。私の世代では力不足で、若い力が必要です。自由に往来できる島々に早く戻ってほしい」

890とはずがたり:2016/08/23(火) 20:45:27
宋教仁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%95%99%E4%BB%81

宋 教仁(そう きょうじん)は清末民初の革命家・政治家。湖南省桃源県の小地主の家に生まれる。字は得尊、号は敦初。漁夫などの書名を用いた。

幼少より私塾で学び、1900年には生員の資格を得る。1903年に黄興と知り合った後は排満革命思想に目覚め、黄興、陳天華らと共に華興会を創設し副会長に選出された。1904年、西太后の誕生日に合わせ蜂起計画を立てるが清朝当局に露見し計画は失敗、同年末日本に亡命する。
日本亡命期間中は1905年6月に法政大学に入学、雑誌『二〇世紀之支那』を発行する。7月、宮崎滔天により孫文を紹介され。8月には広東派の興中会、浙江派の光復会、湖南派の華興会が合併して中国同盟会が成立する。12月、文部省の「清国留学生取締規則」に抗議して陳天華が自殺、宋教仁は遺体を引き取りに行き、留学生の帰国を訴える。1906年、早稲田大学留学生予科に学ぶ。1907年3月、大陸浪人古河清らと馬賊工作のため満州に赴く。夏、日本に帰る。1908年、『間島問題』を著す。1910年末、帰国する。1911年7月、中国同盟会中部総会を設立する。
同年10月、武昌蜂起が発生すると宋教仁も武昌に入った。11月、北一輝と上海に滞在、また各省都督代表連合会に湖南省都督府代表として出席。翌1912年1月、中華民国が成立し孫文が臨時大総統に就任した。翌月宣統帝が退位して清朝が滅亡、さらに翌月、孫文に代わって前政権の実力者であり、大きな軍事力を持つ袁世凱が臨時大総統に就任した。
しかし、袁は彼を大総統につかしめた革命勢力を好まず、インフラ整備などの近代化政策を自らの手で強権的に進めようとした。宋は最高権力者が専権を振るう状況よりも、議院内閣制に基づいた法による統治、大総統の権限を制限することが、中国を安定させしめると考えた(詳しくは後述)。そこで革命組織を改組して国民党を組織、事実上の党首として活躍、同年12月の選挙では圧勝した。
この間、袁世凱は宋の懐柔を図るがことごとく失敗した。業を煮やした袁は刺客を放ち、1913年3月、上海駅頭で宋を射殺した。なお、宋教仁の唯一無二の理解者であった北一輝は、宋暗殺の刺客を放ったのは孫文であったとしている。

宋教仁の思想[編集]

宋教仁
宋教仁は、中国の伝統的学問を身につけていたが、科挙の廃止に伴い革命を志向するようになった。
宋は終始孫文に対立した革命家であると言われる。革命戦略については孫文の唱えた辺境根拠地革命に対し、宋は長江流域における都市革命を主張し、中部総会を設立した。また、宋は孫文の唱えた大総統制に対し、議院内閣制を主張した。孫文が強力な権限を持つ大総統による統治を望んだのに対し、宋は民主的な議院内閣制を主張したのである。
無論、その背景には袁世凱大総統の独裁をどう抑えるか、という問題があったのだが、宋は議院内閣制により大総統の権限を抑制しようとしたのであった。そしてこの法を以て対立するという態度が袁世凱に恐れられ、ついには暗殺されるに至った。実際、民国初期の段階で政治的主導権を握ったのは、孫文派ではなく、宋教仁であった。
このように孫文と対立し、また孫文が軍事力で袁世凱に対決しようとしたのに対し、宋は法を以て対決しようとした事から妥協的であるといわれ、「革命右派」と呼ばれ、中国では批判されてきた。しかし1970年代以後、日本でも宋教仁研究が進み、現在では現実的な愛国者であると評価されるようになってきた。

891とはずがたり:2016/08/24(水) 23:35:17
2016年 08月 24日 18:31 JST
コラム:なぜドル円だけが3桁なのか=佐々木融氏
http://jp.reuters.com/article/column-forexforum-tohru-sasaki-idJPKCN10Z0O8?sp=true
佐々木融JPモルガン・チェース銀行 市場調査本部長

[東京 24日] - 先進国通貨の対ドルレートを見ると、円だけ異なる点があることに気づく。他は整数が1桁だが、円の対ドルレートだけが3桁なのだ。

実は、ドル円相場も最初は1桁だった。何しろ、もともとは1ドル=1円だ。

円は、1871年(明治4年)に「新貨条例」という法律で日本の貨幣単位として採用された。純金1.5グラム=1円と定められ、1円、2円、5円、10円、20円の金貨が製造された。

一方、米国のドルはその79年前の1792年に「貨幣鋳造法」によって公式に採用され、1ドル金貨の金の含有量が決められたが、1871年時点での日米両国の金貨幣の純金含有量を比較すると、日本の10円金貨が15グラム、米国の10ドル金貨が15.05グラムでほぼ同じとなっている。

つまり、円という通貨は、そもそも1ドル=1円という価値になるように作られたと考えられる。

<戦前にたどったヘリマネへの道>

しかし、1877年に勃発した西南戦争の戦費調達のために、政府の不換紙幣が大量に発行されると、円の価値が下落し、1897年には1ドル=2円程度まで円安が進んだ。

戦費調達のために、政府が紙幣を大量に刷って市中に供給した結果、円の価値が下がり、インフレ、他国通貨に対する円安を引き起こしたのだ。当時、東京のコメ価格は、4年間で倍になったと記録されている。

こうした事態を背景に、1882年、松方正義大蔵卿(現在の財務大臣)は、日本銀行(日銀)を創設。日銀が唯一の中央銀行として、本位貨幣(金貨や銀貨)と必ず交換する銀行券(兌換銀行券)を独占的に発行するという制度を作った。

1897年に公布された「貨幣法」では、「1円=純金750ミリグラム」と定め、5円、10円、20円金貨を鋳造した。1円は、当初定められた純金含有量のちょうど半分と同等の価値ということになったのである。

このような措置をとったのは、それまでの物価上昇を反映するためだった。そして、日銀が発行する兌換銀行券も、金貨と兌換することを定め、これによって日本の貨幣制度は完全に金本位制度になったのである。

こうした政策のおかげもあって、ドル円は1897年から1931年までの34年間もの間、1ドル=2円前後で安定的に推移した。

しかし、ここから事情が変わってくる。1929年10月24日の米国での株価大暴落(暗黒の木曜日)を発端として世界的な大不況となり、他の主要国同様、日本でも物価が大幅に下落し、デフレに陥ったのだ。

この状況下、1931年12月13日に大蔵大臣に就任した高橋是清は、金の輸出を禁止し、日銀の発行している兌換銀行券を金貨に交換することを法律で制限した。つまり、金本位制度の停止である。

さらに高橋蔵相は1932年3月、金融関係者に対し、財政政策の拡張と満州事変の戦費調達のために、国債の日銀引き受けを実施する準備がある旨を伝えた。高橋蔵相の強い意向を受け、日銀も同意した。まさに、ヘリコプター・マネーが行われたわけだ。

892とはずがたり:2016/08/24(水) 23:35:34
>>891-892
<1ドル=1万円になったのと同じ衝撃>

さて、この結果、円は暴落し、対ドルで2円前後から1932年12月の4.86円まで急速な円安が進行するとともに、日本はデフレから脱却した。

しかし、高橋蔵相は、経済が回復した後は当然、日銀直接引き受けを止めるつもりでいた。1935年10月に発表した1936年度予算編成方針では「公債漸減方針」を掲げた。

ちなみに、当時日銀は国債を直接引き受けていたが、引き受けた国債を市中に売却していた。直接引き受けは行っていなくとも、市中から購入した国債をそのまま保有し続けている現在の状況に比べると、直接引き受けていた当時の方が健全だったとも言えるかもしれない。実際、1936年当時の日銀のバランスシートの大きさは対国民所得比で20%前後であり、現在と比較しても極めて小規模にとどまっている。

日銀は引き受けた国債のうち、当初98―99%は市中で売却できていたが、1935年度には77%しか売却できなかった。公債の市中消化が滞り、日銀が発行公債を背負い込む状況を受け、高橋蔵相は、公債政策の行き詰まりを指摘し、悪性インフレーションの弊害が現れることへの警告を発した。

もっとも、健全財政路線にシフトすることで、高橋蔵相は軍部と対立。1936年2月26日に暗殺された(二・二六事件)。その後、公債漸減方針が撤回され、「対満州政策の遂行」「国防の充実」「農村の経済更生」「税制大改革」の名のもとに国債が野放図に発行され、戦争に突入していったことは歴史が示すとおりだ(国債発行額は1932年度の7.7億円から1945年度には334億円へと13年間で40倍以上に膨れ上がった)。

そして、戦後の日本は復興資金を日銀信用により賄ったことなどにより、ハイパーインフレに悩まされることになる。1944年から1951年までの8年間の物価上昇率は年率平均プラス100%にも達した。こうしたハイパーインフレを受けて、ドル円は円安方向へと大幅に修正されたのである。

ちなみに、第2次世界大戦が勃発した1939年当時は、1ドル=4.25円程度だったが、1945年8月に戦争が終結すると、軍用交換相場として1ドル=15円に設定され、1947年3月にはこれが1ドル=50円に、さらに1948年7月には270円に引き上げられた。そして、1949年4月に、連合国軍総司令部(GHQ)が発表したレート(一般に利用される相場)は、1ドル=360円となった。

1ドル=4.25円だったドル円は、たった10年間で360円までの大幅な円安になったということだ。これが先進国通貨の中で、ドル円だけが3桁になっている理由である。

要するに、日本という国は、たかだか80年ほど前に現在と同じような政策を採用しており、その結果が現代の為替相場に残っているのだ。4.25円が360円になるのは、120円が10000円(1万円)になるのと同じマグニチュードである。

後世の為替ストラテジストが、なぜドル円だけが5桁なのかを説明する時のキーワードは、「アベノミクス」「量的・質的金融緩和(QQE)」なのだろうか。

893名無しさん:2016/08/26(金) 23:28:27
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082100221&g=pol
領土問題に冷や水=「引き分け」期待に予防線-ロシア

 【モスクワ時事】国後島での邦人足止めには、北方領土問題解決に向けた日本の期待に冷や水を浴びせる狙いがありそうだ。プーチン・ロシア大統領は2012年、領土問題解決に関し「引き分け」と発言した。12月のプーチン大統領来日が確実視される中「引き分け」の中身に日本の関心は高まらざるを得ない。その期待値を下げるため、ロシア側が予防線を張り始めた可能性がある。
 安倍晋三首相とプーチン大統領は5月にロシア南部ソチで行った首脳会談で、年内の大統領訪日で基本合意している。安倍首相は13日、地元の山口県下関市でプーチン大統領を「ぜひ山口にお連れしたい」と踏み込んだ。
 しかし、山口での会談で、北方領土問題が大きく動く保証はまだ何もない。日ロ間の平和条約締結交渉は重ねられ、原田親仁日ロ関係担当大使とロシアのモルグロフ外務次官は6月に続き、26日に再びモスクワで会うが、外務省高官の話し合いで打開できるほど甘い話ではない。
 領土問題解決へ厳しい認識が日本国内で広まれば、年末の山口での首脳会談では「協議継続」で合意しても成果らしく見える。一方で安倍首相は5月のソチでの会談で「今までの発想にとらわれない新アプローチ」を提案。これは「平和条約交渉を続けつつ、それとは別に経済関係を活発化させるアプローチ」とロシア側では解釈されている。領土問題置き去りへの懸念は深まりそうだ。 (2016/08/21-23:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082200543&g=pol
安倍首相夫人が真珠湾訪問

 安倍晋三首相夫人の昭恵さんは22日、自身のフェイスブックで、米ハワイの真珠湾を訪問したことを明らかにした。昭恵さんは旧日本軍の攻撃で撃沈された戦艦アリゾナの記念館で撮った写真を投稿し、「お花と祈りをささげました」と記した。

 菅義偉官房長官は同日の記者会見で、昭恵さんが自ら主催する日米国際海洋環境シンポジウムに出席するためハワイ入りしたことを説明。「ハワイ訪問は私的なものであり、政府としてのコメントは控える」と述べた。首相のハワイ訪問の予定は「全くない」とも語った。 (2016/08/22-15:37)

894名無しさん:2016/08/27(土) 00:17:06
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082400096&g=pol
10億円拠出を閣議決定=元慰安婦支援、日韓外相会談で伝達へ

 政府は24日午前の閣議で、日韓合意に基づいて元慰安婦の女性を支援するため韓国が設立した「和解・癒やし財団」へ10億円を拠出することを決定した。岸田文雄外相が同日午後に会談する韓国の尹炳世外相に直接伝える。
 両外相は12日の電話会談で、10億円の使途を元慰安婦の医療や介護とすることで大筋合意。岸田氏は、手続きを速やかに進めると伝えていた。政府は10億円を予備費で支出する。
 岸田氏は、10億円の拠出によって「日韓合意に基づく日本側の責務は果たしたことになる」としており、今後はソウルの日本大使館前に設置された慰安婦少女像の速やかな移転を韓国側に求めていく方針だ。 
 菅義偉官房長官は閣議後の記者会見で、「韓国側に対して、それぞれの問題の解決に向けた努力を含め、引き続き日韓合意の着実な実施を求めていきたい」と語った。(2016/08/24-12:02)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082400786&g=pol
元慰安婦に1000万円=政府、月内に10億円拠出

 外務省は24日、日韓政府間合意に基づき元慰安婦を支援する韓国の「和解・癒やし財団」に日本が拠出する10億円の使途に関し、生存者1人につき1000万円程度、死亡者には200万円程度支出すると発表した。日本政府は財団への10億円を今月中に送金する方針だ。

 元慰安婦への支援は、財団が対象者の個別の需要を把握し、日韓が合意した使途の範囲内で、現金で支出する。具体的な使途としては医療・介護、葬儀関係費、親族の奨学金などを想定している。 
 昨年12月末の日韓合意の時点で、支援の対象となる元慰安婦のうち生存者は46人、死亡者は199人。財団は両政府に事業の実施状況を定期的に通知する。(2016/08/24-21:52)

895名無しさん:2016/08/27(土) 00:18:06
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082400593&g=soc
日本の10億円「受け取るな」=元慰安婦支援で韓国挺対協

 【ソウル時事】日本政府が元慰安婦を支援する韓国の財団への10億円拠出を閣議決定したことについて、韓国の民間団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」の尹美香常任代表は24日、「問題の最終的解決にはならないし、賠償金でもない。受け取ってはならない」と強調した。日本大使館前で開いた水曜日恒例の抗議集会に参加した際、語った。(2016/08/24-16:13)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082400749&g=pol
少女像撤去、誠実に履行=対北朝鮮で連携-日韓外相会談

 岸田文雄外相は24日、韓国の尹炳世外相と外務省で約50分間会談し、元慰安婦の女性を支援するため韓国が設立した「和解・癒やし財団」に、日本政府として10億円を拠出することを同日決定したと伝えた。その上で、ソウルの日本大使館前に設置された少女像の撤去を含め、昨年末の日韓合意を着実に実施するよう要請。双方は合意を誠実に履行することを確認した。

 10億円拠出決定に関し、尹氏は「岸田氏のリーダーシップの下、資金拠出の手続きが順調に進んでいることを評価する」と謝意を示した。
 両外相は、24日に潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を発射するなど核・ミサイル開発を加速させる北朝鮮への対応も協議した。岸田氏は「日米韓の緊密な連携は不可欠だ。尹外相とも引き続き緊密に連携をしたい」と表明。尹氏は、北朝鮮の核・弾道ミサイル能力向上に深刻な憂慮を示し、「日韓がいつにも増して緊密に協力していくべきだ」と応じた。
 岸田氏は、韓国国会議員団が島根県・竹島(韓国名・独島)に上陸したことを取り上げ、尹氏に直接抗議した。中国が軍事拠点化を進める南シナ海問題に関しては、関係各国が国際社会で確立されたルールに基づいて行動することが重要だとの認識で一致した。 (2016/08/24-21:23)

896名無しさん:2016/08/27(土) 14:34:43
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160824/k10010651691000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_077
政府 韓国への10億円拠出を閣議決定へ
8月24日 4時19分
政府は、24日の閣議で、慰安婦問題をめぐり韓国側が行う元慰安婦への支援事業に充てられる10億円の拠出について、今年度予算の予備費から支出することを決定する方針です。
慰安婦問題をめぐっては、岸田外務大臣と韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相が今月中旬、電話で会談し、韓国の財団が行う元慰安婦への支援事業の内容について大筋で合意し、日本側が10億円を速やかに拠出するため手続きを進めることを確認しました。
そして、政府は24日の閣議で、財団への10億円の拠出について、今年度予算の予備費から支出することを決定する方針です。
岸田大臣は24日の日中韓3か国の外相会議にあわせて行われる日韓外相会談で、こうした内容を韓国側に伝えることにしています。
また、「10億円の拠出で日本は責務を果たしたことになる」として、去年12月の日韓合意で、韓国側が「適切に解決されるよう努力する」とされた、ソウルの日本大使館前の慰安婦を象徴する少女像の撤去に向けて、韓国側のいっそうの努力を促す考えです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160824/k10010652991000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_050
元慰安婦の支援事業 本人には1000万程度の支払い
8月24日 21時29分
外務省は韓国側が行う元慰安婦への支援事業に充てられる10億円について、本人に1000万円程度、亡くなっている場合は200万円程度を現金で支払うと発表しました。
政府は24日の閣議で、慰安婦問題をめぐって韓国側が行う元慰安婦への支援事業に充てられる10億円の拠出について、今年度予算の予備費から支出することを決め、これを受けて外務省は1人当たりの支出額や使いみちを発表しました。

それによりますと、去年12月の日韓合意の時点で、韓国政府に登録された元慰安婦245人を対象とし、支援事業を行う韓国の財団が対象者本人や遺族などの代理人から使いみちを聞き取ったうえで、現金で支払うとしています。
支払う金額は元慰安婦本人に対し、日本円で1000万円程度、去年12月の時点で亡くなっている場合は200万円程度とし、使いみちは本人の場合は医療や介護などが、亡くなっている場合は葬儀に関係する費用や遺族の奨学金などが想定されるとしています。
また、支払いが適切に行われているかどうか確認するため、財団は事業の実施状況を日韓両政府に定期的に通知するとしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160825/k10010654031000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_027
韓国外務省「少女像は非常に敏感な問題」
8月25日 21時18分
日韓外相会談で、岸田外務大臣がソウルの日本大使館前にある慰安婦問題を象徴する少女像を撤去するよう改めて求めたことについて、韓国外務省の報道官は「国内的に非常に敏感な問題だ」と述べ、少女像をめぐって具体的な動きが出るまで時間がかかるという認識を示唆しました。
岸田外務大臣は、24日に行われた韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相との会談で、慰安婦問題に関して、元慰安婦たちやその家族への支援事業を行う韓国の「和解・癒やし財団」に10億円を拠出することを閣議決定したと伝えたうえで、ソウルの日本大使館前にある慰安婦問題を象徴する少女像を撤去するよう、改めて求めました。

これについて、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク(趙俊赫)報道官は25日に開いた記者会見で、「少女像の問題は国内的に非常に敏感な問題であるため、政府はそうした敏感さを十分に勘案しながら、関連する議論を進めている」と述べ、韓国政府内でこの問題についての協議を行っていることを説明する一方、韓国内では少女像の撤去や移転に反対する世論が強く、具体的な動きが出るまで時間がかかるという認識を示唆しました。

韓国政府や「和解・癒やし財団」の関係者たちは、支援事業を進めていくことで慰安婦問題での日本との合意に対する韓国国民の理解を高め、少女像を設置した市民団体と話し合う環境を整えたい考えですが、市民団体側は移転に応じない姿勢を崩していません。

897名無しさん:2016/08/27(土) 16:16:20
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082500368&g=pol
元慰安婦1000万円に異論=自民

 自民党は25日、外交部会などの合同会議を党本部で開き、日韓政府間合意に基づき、日本が元慰安婦の生存者1人につき1000万円程度を支出することについて議論した。出席議員からは「事実上の一括支給で個人賠償と取られる。納得できない」などの異論が出た。
 これに対し、外務省側は「金額は目安であって、(賠償問題は解決済みとする)日韓請求権協定には違反しない」と理解を求めた。会合ではこのほか、ソウルの日本大使館前に設置された少女像撤去に向け、「韓国側の努力の内容をきちんと国民に説明できるようにしてほしい」と求める声も上がった。(2016/08/25-12:08)

898とはずがたり:2016/08/31(水) 10:38:13
2016.8.31 05:00
【歴史戦】
習近平氏が「日本の暴行暴いた」と称賛した英国人記者、「南京事件」の現場に居合せず 在職記録もなし
http://www.sankei.com/world/news/160831/wor1608310007-n1.html

 【ロンドン=岡部伸】中国の習近平国家主席が昨年10月に訪英した際、第二次大戦で「侵略者日本の残虐行為を暴いた」と称賛した英国人記者が、所属していたとされる英新聞社に在職記録はなく、中国側が「日本の残虐行為だ」と主張する「南京事件」の現場にもいなかったことが30日までに明らかになった。

 習氏がエリザベス女王主催の公式晩餐(ばんさん)会で取り上げたのは英国人のジョージ・ホッグ氏。「第二次大戦の際、記者として侵略者日本の残虐行為を暴く記事を発表した」と紹介した。

 中国は2008年にドイツなどと合作で、ホッグ氏を主人公にした映画『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥(はる)かなる希望の道』を制作した。この中でホッグ氏は赤十字職員と偽って南京に入り、中国市民を殺害する日本兵を写真撮影。日本兵に見つかり処刑される寸前に中国共産党の軍人に助けられる。

 しかし、映画の原作となった『オーシャン・デビル』を執筆した英タイムズ紙記者のジェームズ・マクマナス氏は、「ホッグ氏の中国入りは1938年2月で、彼は南京に行っていない。映画は脚色され、事実ではない」と証言した。

 中国側が主張する「南京事件」は日本軍が南京を占領した37年12月13日から6週間程度。2月に上海入りしたホッグ氏が目撃するのは不可能だったというわけだ。

 ホッグ氏は大学卒業後、英紙マンチェスター・ガーディアンやAP通信の記者を務めたとされている。ところが、産経新聞が後継紙である英紙ガーディアンに問い合わせたところ、ホッグ氏の署名記事はもちろん、在職記録もなかった。

 AP通信やUPI通信には署名記事はあったが、紀行文などで、「日本軍の虐殺行為を暴いた」という署名記事は見つからなかった。

 マクマナス氏の著書などによると、ホッグ氏は上海入りした後、湖北省黄石市に移り、孤児施設で教師を務めた。中国の国民党政府軍が孤児たちを徴兵しようとしたため44年11月、孤児60人を連れてモンゴル国境に近い甘粛省山丹まで移動。戦火から子供たちを守った「中国版シンドラー」と評されている。

 45年8月24日付のマンチェスター・ガーディアンによると、ホッグ氏は同年7月に破傷風で病死した。

 ホッグ氏の両親からの依頼で死因を調べた在重慶英国領事館から英外務省に宛てた46年1月9日付公文書(英国立公文書館所蔵FO369/3426)は「ホッグ氏が校長を務めた山丹の学校教育が中国で最も素晴らしい教育の一つで、ホッグ氏が誠実に天職(教師)に尽くし、協同組合活動の指導者として修練を重ねる極めて良質な人物」と記している。

899名無しさん:2016/09/03(土) 11:04:51
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160903-00000058-san-pol
日露首脳会談 「経済」先行にリスク
産経新聞 9月3日(土)7時55分配信

 「この後、1対1の時間を取って議論したい」

 安倍晋三首相は2日のプーチン露大統領との会談中、通訳だけを交えた“サシ”の対話に持ち込んだ。会談は夕食も含め約3時間10分に及んだが、うち55分間は2人だけの会談だった。その結果を首相は「道筋が見えてきた。手応えを強く感じることができた」と表現。首相はプーチン氏との親密な関係を軸に北方領土問題の解決に挑むが、乗り越えなくてはならないハードルは依然高い。

 ◆ぶつかる「国益」

 「これまで築いた信頼関係に基づき、くつろいだ雰囲気だった」

 日本同行筋は2日夜、首脳会談の様子をこう説明した。とはいえ、両首脳が意見を異にする場面がなかったわけではない。核・ミサイル開発を強行する北朝鮮への対応だ。

 首相「北朝鮮が発射した潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)は新たな脅威だ。国連安全保障理事会で厳しい対応を取る必要がある」

 大統領「問題解決のためには6者協議を再開することが重要だ」

 首相「会議のための会議は意味がない。具体的な成果が出るような協議でなくてはならない」

 首相はプーチン氏と2人きりで会談した後、同行筋に「それぞれの国益を総合的な観点から判断すべきだと一致した」と説明した。しかし、両首脳の「国益」を測る尺度はそれぞれ違う。北方領土問題の解決の前には、この大きな溝が横たわっている。

 ◆「食い逃げ」懸念

 「ウラジーミル(プーチン氏のファーストネーム)の訪日では新たな歴史を開く成果を…」。首相はこの日の会談で、大統領の訪日時に領土交渉の一定の“成果”を得たい考えをにじませた。その仕掛けとなるのが、5月の日露首脳会談で打ち出した8項目の経済協力だ。ただ、経済協力と引き換えにロシア側が領土返還に前向きな姿勢に転じる保証はない。プーチン氏は5月に「何も売るものはない」と明言しており、「食い逃げ」の懸念も残る。

 また、プーチン氏は2012年3月に「引き分け」という柔道の用語を引用して日露双方による妥協の必要性を指摘した。日本政府内では平和条約締結後に歯舞、色丹を返還するとした日ソ共同宣言を根拠に「2島先行返還」が過去に検討された経緯がある。ただ、2島先行返還を容認すれば、交渉は一気に進展するとの見方もあるが、ロシア側に主導権を握られかねない。会談に同席した日本同行筋はこう断言した。

 「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する日本の基本的立場に変更はない。そこから離れるような提案は行っていない」(ウラジオストク 峯匡孝)

900名無しさん:2016/09/03(土) 21:36:17
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082900021&g=pol
第五福竜丸

 第五福竜丸 静岡県焼津市のマグロ漁船。1952年に水爆実験を成功させていた米国は、53年にソ連が行った「強化原爆(ブースト型核分裂弾)」の実験を水爆開発成功と誤認し、水爆の小型化による実用化を急ぐため54年3〜5月、太平洋のマーシャル諸島で「キャッスル作戦」と呼ばれる6回の核実験を行った。3月1日の最初の実験「ブラボー」の際、第五福竜丸の乗員23人は近海で死の灰を浴びた。2週間後に帰港するが、半年後に「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と遺言して、無線長の久保山愛吉さん=当時(40)=が死去。日本中に大きな衝撃を与えた。(アスタナ時事)(2016/08/29-05:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082900020&g=pol
マーシャル諸島

 マーシャル諸島 海抜の平均が約2メートルと低く、気候変動に伴う海面上昇で水没が危惧される太平洋中央部の国家。人口は約5万人。いくつもの環礁を構成する小さな島々を合計した全国土は180平方キロで、日本で一番面積が小さい香川県(1900平方キロ)の10分の1以下。任期4年の一院制の国会(定数33)があり、総選挙は4年に1回、投票日は11月の第3月曜日と憲法で定められている。第1次大戦に伴い、日本がドイツから奪い、第2次大戦終結まで統治下にあった。戦後は米国が支配していたが、1986年に独立した。(アスタナ時事)(2016/08/29-05:41)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082900019&g=pol
人類と核兵器、共存不能=核実験被害共通のカザフで語る-マーシャル諸島議長

 【アスタナ時事】太平洋の島国マーシャル諸島の国会をまとめるケネス・ケディ議長は28日、核軍縮国際会議参加のため訪れた中央アジアのカザフスタンで「カザフとマーシャル諸島は、大国の核実験場にされたという一点で結び付いている」と強調した。マーシャル諸島では米国の核実験が繰り返され、1954年には近くで操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした。議長は「人類と核兵器は絶対に共存できない」と訴えている。
 首都アスタナで、時事通信社の取材に答えた。カザフ北東部のセミパラチンスクは旧ソ連の核実験場にされた。これに対し、マーシャル諸島のビキニ環礁とエニウェトク環礁で核実験を行ったのは「米政府と米軍だ」と議長は語り、広島・長崎に続く米軍の核爆弾投下がマーシャル諸島で繰り返された点を強調した。
 実験が行われたのは46〜58年。計67発の核爆弾が爆発した。最も威力が大きかったのは、第五福竜丸を襲った54年の実験だ。議長は「54年の実験『ブラボー』で爆発させた水爆『シュリンプ』は(高性能火薬TNT換算で)15メガトンだ。広島の原爆(15キロトン以上と推定)の1000倍だ」と述べ、ビキニ環礁の東方にあり、第五福竜丸と共に死の灰を浴びたロンゲラップ環礁の住民を忘れないでほしいと訴えた。

 核実験が続いた12年間について「広島の原爆1.6発分を毎日落とされたのと同じ規模の実験が行われた。(日本では)広島に続いて長崎に原爆投下が繰り返された。マーシャル諸島では最初の投下に続いて全部で67回、同じことが繰り返された」と米国を批判。「それが今、カザフに私たちが来ている理由だ。同じことを繰り返してはいけない。マーシャル諸島はもう十分苦しんだ」と世界に呼び掛けた。 (2016/08/29-05:39)

901名無しさん:2016/09/03(土) 22:12:43
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016082900575&g=pol
少女像移設に反対=慰安婦追悼公園の推進委員長-韓国

 【ソウル時事】ソウルの韓国統監官邸跡地で29日、旧日本軍の慰安婦を追悼する公園「記憶の場」の除幕式が行われた。崔英姫・造成推進委員長はあいさつで、日本大使館前に設置されている少女像について「だれも動かすことはできない」と述べ、追悼公園に移設する案に断固反対する立場を表明した。

 慰安婦だった韓国人女性、金福童さん(90)も「わが国に建てた少女像に対し、(日本が)移せとは何だ」と語り、日本側の移転要請に強く反発した。 
 岸田文雄外相は24日、韓国の尹炳世外相と外務省で会談した際、少女像の撤去を含め、昨年末の日韓合意を着実に実施するよう要請している。
 しかし、設置した民間団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」の尹美香常任代表も移転に応じない考えを強調しており、早期実現は難しそうだ。(2016/08/29-17:13)

902名無しさん:2016/09/03(土) 22:53:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090200795&g=pol
北方領土は「大戦の結果」=パンドラの箱に等しい-ロシア大統領

 【ウラジオストク時事】ロシアのプーチン大統領は米ブルームバーグ通信が2日配信したインタビューで、日本との北方領土問題について、2004年の中ロ国境の最終画定と異なり、「第2次大戦の結果だ」と強調した。大統領はさらに、大戦結果の見直しは「パンドラの箱」を開けるに等しいと指摘し、北方領土問題の解決は容易ではないとの立場を示唆した。
 プーチン大統領は、04年に中ロ国境地帯を流れるアムール川のタラバロフ島を中国領と認めた時と同じように解決できないのかと問われ、「(中ロ国境画定は)非常に高いレベルの信頼を背景にしてのみ可能になった」と説明。「日本との信頼もこうした高いレベルに達すれば、何らかの妥協を見いだせるだろう」との見方を示した。
 ただ、中国および日本との領土問題には「根本的な違いが存在する」と持論も展開。「日本との問題は第2次大戦の結果生まれたが、中国との国境画定問題はそうではない」と語った。その上で、大戦の結果を見直すなら、大戦を経て旧ソ連への帰属が決まった旧ドイツ領のカリーニングラードや旧ソ連軍の占領下にあったドイツ東部地域の扱いも議論しなければならなくなると指摘し、見直しを「パンドラの箱」と形容した。(2016/09/02-19:09)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090200370&g=pol
ロシア大統領、北方領土問題解決に意欲=引き分け論に言及

 【ウラジオストク時事】ロシアのプーチン大統領は米メディアとのインタビューで、北方領土問題の解決に意欲を示した。「交換したり売却したりするのではなく、一方の国が勝者や敗者と感じないように解決したい」と述べ、「引き分け論」に再び言及した。ロシア大統領府が2日、会見録を公表した。
 この中で大統領は「日本との平和条約締結は最重要問題であり、日本の友人と問題の解決策を見いだしたいと強く思うが、ロシアは領土を取引するつもりはない」と述べた。
 ただ、2日夕の日ロ首脳会談で「この問題を協議することになると確信する」とも語っている。さらに、問題の解決は「損失を与えるのではなく、長期的かつ歴史的な2国間関係の発展の条件をつくるようにしなければならない」と強調した。 
 大統領の発言は安倍晋三首相との首脳会談を前に、領土問題の解決に意欲を示すことで、経済・民生分野の8項目の協力プラン具体化へ向け追い風にしたい考えとみられる。「経済が先行して領土が置き去りにされるのではないか」という日本側の懸念に配慮した可能性もある。(2016/09/02-13:11)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090200067&g=pol
極東で対日戦勝行事=北方領土支配を誇示-ロシア

 【ウラジオストク時事】ロシアは2日、旧ソ連の対日戦勝を祝う「第2次大戦終結の日」を迎え、極東各地で記念行事を開催した。戦勝70年の昨年と比べて規模は小さいが、北方領土支配の根拠とする「大戦の結果」を改めて誇示。日本の領土返還要求をけん制する狙いもありそうだ。
 関係者によると、ロシア政府主催の愛国集会「全ロシア青年教育フォーラム」が行われている択捉島では、中心地・紗那(クリリスク)の学校外壁に「対日戦勝記念日おめでとう」と記された横断幕が掲げられた。 
 安倍晋三首相が2日に訪問するウラジオストクでは、記念セレモニーや戦没者への献花などを実施。ハバロフスクでも、市民が献花や退役軍人との対話に参加するよう呼び掛けられた。ロシアが北方領土を編入するサハリン州のユジノサハリンスク(豊原)ではコンサートを行い、戦勝ムード一色になる。
 ロシアは、メドベージェフ首相が大統領だった2010年、日本が降伏文書に調印した9月2日を「第2次大戦終結の日」に制定した。(2016/09/02-09:23)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090100368&g=pol
財団への入金確認=慰安婦支援の10億円-韓国

 【ソウル時事】韓国外務省は1日、元慰安婦を支援する「和解・癒やし財団」の銀行口座に、日本政府から10億円が入金されたと発表した。日本政府は8月、生存者1人につき約1000万円、死亡者には約200万円支給すると発表。8月中にも財団に送金する方針を示していた。
 韓国外務省によると、10億円は8月31日に入金され、9月1日に確認された。今後、昨年末の日韓合意の時点で生存していた元慰安婦46人と死亡者199人に対し、合意で決まった使途に沿う形で現金支給される。(2016/09/01-11:51)

903とはずがたり:2016/09/06(火) 20:21:10
薩長同盟、倒幕狙ってなかった? 龍馬の役割にも異説
http://www.asahi.com/articles/ASJ9142H3J91ULZU004.html?iref=com_favorite_03
編集委員・宮代栄一2016年9月4日11時30分

異説あり、薩長同盟
 今から150年前、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允(きどたかよし)が京都で会談して締結し、両藩が倒幕へと突き進む出発点となったとされる「薩長同盟」。だが近年、「軍事同盟ではなかった」との見方が浮上している。

 「薩長同盟」は1866(慶応2)年、京都市上京区にあった薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)邸で締結された。

 歴史上、この「同盟」が画期的とされるのは、「八月十八日の政変」や「禁門の変」などで直接砲火を交えた薩摩藩と長州藩が、この時、幕府を倒すために初めて協力して軍事的行動を起こす約束をしたとされるからである。

 戦いに敗れた長州の恨みは深く、薩摩藩を「薩賊」と呼ぶほどだったが、土佐藩の脱藩浪士だった坂本龍馬と中岡慎太郎が仲介。歴史ドラマなどでは、朝敵の汚名を着せられて窮地に陥った長州藩を救うため、坂本が渋る西郷隆盛を説得して会談を実現。二大倒幕勢力がようやく手を結ぶ場面として描かれることが多い。

 だが、その実情はいささか違っていたようだ。

 当事者の木戸孝允の手紙による…

904とはずがたり:2016/09/06(火) 22:18:05
北朝鮮帰国事業 全マスコミが「北朝鮮は天国」と騙された
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160718/Postseven_428951.html
NEWSポストセブン 2016年7月18日 07時00分 (2016年7月18日 07時33分 更新)

905とはずがたり:2016/09/07(水) 10:26:26

知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記
明治大正期の貴重な証言
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49332
原 武史

906とはずがたり:2016/09/09(金) 19:59:37
日本は「無条件降伏」をしていなかった 教科書が教えない歴史の事実
http://www.dailyshincho.jp/article/2016/08240600/?all=1
『歴史問題の正解』有馬 哲夫[著]
ネット書店で購入する
■無条件降伏のウソ

 8月になると、戦争関連の記事や番組が増える。多くの日本人は、1945年に日本は連合国に対して「無条件降伏」をした、と習ってきたし、今もそう信じている人がほとんどだろう。

 しかし、有馬哲夫早稲田大学教授は、新著『歴史問題の正解』の中で、その見方に異を唱えている。第6章のタイトルは、そのものズバリ「日本は無条件降伏していない」である。

 このような見解を聞くと、「戦争を正当化するある種の人たちのトンデモ説だろう」と警戒する人もいるかもしれない。

 しかし、有馬氏はあくまでも第一次資料をもとに、それを論証している。そこで提示している事実は、私たちが信じ込んでいた「日本は無条件降伏した」という見方を覆す内容だ。

 以下、同書をもとに「無条件降伏の真実」を見てみよう。(「 」内は引用)

■海軍作戦部長も「間違い」


「無条件降伏の真実」とは
 ルーズヴェルト米大統領が、無条件降伏という方針を唱え始めたのは開戦から1年以上経った1943年のこと。敵国が無条件降伏するまで戦争を止めない、というこの方針に、陸海空軍の幹部はもとより、当時の国務長官コーデル・ハルまでもが反対した。

 なぜなら、このような方針を採れば日本など敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせることになる。そうなれば自国の兵士たちへの影響もはかりしれない。

 当時のアメリカ海軍作戦部長にいたっては、このように侮蔑的に述べている。

「このルーズヴェルトのお気に入りのスローガン(無条件降伏)は間違いであることを(戦争が進むにつれて)ますます確信するようになった」

 要するに、大統領が国民受けを狙ってぶち上げた方針に対して、政府も軍人もこれは政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると考えていた。

 ところが、ルーズヴェルトがこの世を去り、あとを継いだトルーマンもまたこの方針を受け継いでしまう。そこで、実際の交渉にあたってアメリカから日本に対しては、「無条件降伏」は、あくまでも「軍事的指導者の影響力が除去されること」であって、「日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない」というメッセージを発していた。

 日本を災厄に導いたのは軍閥であって、天皇でも日本政府でも国民でもない、ということである。

 日本政府側も、このメッセージの真意を受け止めたうえで終戦に向けて動くようになったのである。

■国際法上認められない「無条件降伏」

 有馬氏は次のように指摘している。

「私たち日本人は『日本は無条件降伏をした』と繰り返し教わってきたので、『無条件降伏』という言葉に違和感を持つ者はあまりいない。しかし、国際法の観点から見た場合、『無条件降伏』を相手に求めるというのは、当時も今も、相当異常なことだ、ということは理解しておく必要がある。

 近代の戦争においては、降伏した国から主権や基本的権利を奪うことはできず、まったくの無条件ということありえない。

 もしあるならその国民を皆殺しにし、領土をすべて奪ってもいいことになる。実際、こんなことが出来ないように、1941年に行われた大西洋会談では、すべての国には政体選択の自由、領土保全、交易の自由があり、敗戦国も例外ではないとしている。逆説的だが、無条件降伏という言葉は、何が『無条件』なのかを定義しないと使えないのだ」

 有馬氏は、同書で示した事実に関してはすべて根拠(第一次資料)を明記しているので、事実誤認だと思う方も、根拠をもとに反論してほしい、そうした事実をもとに議論することが重要だ、と述べている。

デイリー新潮編集部

907名無しさん:2016/09/10(土) 11:45:26
http://www.jiji.com/jc/article?g=soc&k=2016061800189
「黒焦げの少年」身元判明か=原爆写真展で、「兄だ」-長崎

 長崎原爆の爆心地付近で全身黒焦げで亡くなった少年を写した1枚の写真。身元などは不明だったが、長崎平和推進協会の調査で、少年が旧制中学1年の谷崎昭治さん=当時(13)=である可能性が高いことが分かった。同協会が昨年7月に長崎市で開催した原爆写真展で2人の妹が気付いたのがきっかけだった。

 妹の西川美代子さん(78)と山口ケイさん(76)は、これまで少年の写真が収蔵されている長崎原爆資料館などで谷崎さんの姿を探してきた。昨年7月の写真展で大きく引き延ばされた写真を見た時、「じっちゃん(谷崎さんの愛称)だ」と直感した。
 2人は知人を介し、同協会で原爆関連写真を調査している深堀好敏さん(87)に面会。深堀さんが九州大の法医学者に鑑定を依頼し、顔の特徴などから少年が谷崎さんの可能性が高いという鑑定結果を得た。

 谷崎さんは爆心地近くに下宿しており、原爆投下の日に実家がある現在の長崎県西海市に帰る予定だった。投下後、谷崎さんの父親は何度も下宿があった場所を訪れ、母親も谷崎さんが送った最後の手紙を肌身離さず持っていた。
 2人は昨年秋、少年の写真を手に両親の墓前に報告。山口さんは取材に「両親もほっとしたと思う」とほほ笑み、西川さんも「どこかで生きているのではと思い、気持ちの整理が付かなかった。やっと会えて安心した」と語った。
 自身も被爆者の深堀さんは「遺族の元に帰すことができ、長い間、写真展をやってきて良かった」とうれしそうに話した。(2016/06/18-15:01)

908名無しさん:2016/09/10(土) 14:35:56
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090700845&g=pol
安倍首相、少女像撤去を要請=北朝鮮へ圧力強化-日韓

 【ビエンチャン時事】安倍晋三首相は7日、ラオスのビエンチャンで韓国の朴槿恵大統領と会談した。首相は、慰安婦問題をめぐる昨年末の日韓合意について「(ソウルの日本大使館前の)少女像の問題を含め、着実な実施に向けた努力をお願いしたい」と述べた。韓国政府が努力すると明記した合意を踏まえ、少女像撤去を求めた発言だ。

 両首脳の会談は今年3月にワシントンで行って以来。朴大統領は「日韓合意を着実に実施していくことが重要だ」と応じた。
 挑発行為を繰り返している北朝鮮に対し、両首脳は日米韓が連携して圧力を強化すべきだとの認識で一致した。首相は「日韓、日米韓の防衛協力の強化は不可欠だ」と強調。朴大統領は、中国が反発している在韓米軍への高高度防衛ミサイル(THAAD)配備について「北朝鮮の脅威に対応するための安全保障策として必要だ」と指摘した。(2016/09/07-21:32)

909名無しさん:2016/09/11(日) 10:52:21
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090600695&g=pol
「現状では推進せず」=少女像撤去問題で韓国高官

 【ソウル時事】韓国外務省の林聖男第1次官は6日、国会外交統一委員会で答弁し、日本大使館前にある慰安婦を象徴する少女像の撤去問題について「政府も国民の世論を把握しながら動くため、今の状況では、政府が前に出てこの問題(の解決)を推進する考えはない」と述べた。 
 民間調査機関・韓国ギャラップが2日公表した世論調査結果によれば、76%が「日本政府が慰安婦問題をめぐる合意を履行したかどうかにかかわらず、移転に反対」と回答しており、撤去に向けた環境が整っていないと判断したとみられる。
 昨年末の日韓合意は「韓国政府は関連団体との協議を通じて、(少女像問題が)適切に解決されるよう努力する」とうたっているが、韓国政府としては当面、具体的な動きが取れないことを認めた格好だ。(2016/09/06-18:30)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090600441&g=pol
対日関係「破綻回避を」=慰安婦問題で韓国側議連幹事長

 【ソウル時事】韓日議員連盟幹事長の姜昌一議員は、慰安婦問題をめぐる日韓の政府間合意について「韓国では反発が強い」と指摘しながらも、「この問題で韓日関係を破綻させてはならない」と強調した。9日からの訪日を前に5日、時事通信とのインタビューで語った。
 合意に反対している最大野党「共に民主党」所属の姜議員は「(合意は)国家を拘束する条約や協定ではなく、安倍(晋三)政権と朴槿恵政権の約束にすぎない」という見方を示した。また、「両政権がやったことだから、再交渉の必要はないが、われわれは認めていない」と断言した。新任の長嶺安政駐韓大使と5日に会談し、こうした認識を伝えたという。 
 一方で「韓日関係は慰安婦問題がすべてではない。経済、文化交流など問題が山積している」と指摘。「互いに良い方向を模索していくべきだ」と呼び掛けた。
 姜議員は韓日・日韓議員連盟の合同幹事会出席のため、9日から議員10人前後と共に訪日する。(2016/09/06-14:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016090600066&g=pol
安倍首相が長崎に招待=カザフ大統領

 【モスクワ時事】カザフスタン大統領府は4日、今秋訪日予定のナザルバエフ大統領が安倍晋三首相から被爆地・長崎を訪れるよう招請されたと発表した。両首脳は20カ国・地域(G20)首脳会議が開かれた中国・杭州で会談。安倍首相は「カザフは核軍縮に多大な貢献をした」と指摘したという。
 1991年まで旧ソ連セミパラチンスク核実験場があったカザフは、今も放射能汚染の後遺症に苦しんでいる。今年8月に首都アスタナで核実験場閉鎖25年に合わせた核軍縮国際会議を開催。ソ連崩壊後、ウクライナとともに一時的に核保有国となったが、核弾頭をロシアに移管して廃絶した。 (2016/09/06-07:23)

910名無しさん:2016/09/11(日) 16:44:44
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160911-00000012-jij_afp-int
タイムズスクエアで終戦を祝う「キス写真」の女性が死去 92歳
AFP=時事 9月11日(日)12時10分配信

【AFP=時事】第2次世界大戦(World War II)の終結を喜ぶ水兵からドラマチックにキスをされる姿が、後に世界的に有名になった写真に撮影されていた女性グレタ・ジマー・フリードマン(Greta Zimmer Friedman)さんが8日、肺炎のため死去した。92歳だった。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)が息子ジョシュア(Joshua Friedman)さんの発言として伝えた。

 日本の降伏が伝えられた1945年8月14日、フリードマンさんは米ニューヨーク(New York)のタイムズスクエア(Times Square)で水兵に抱きしめられてキスをされた。その場面をカメラマンのアルフレッド・アイゼンスタット(Alfred Eisenstaedt)氏が撮影した。当時フリードマンさんは21歳の歯科助手だった。この写真は米誌ライフ(Life)に全面掲載され、20世紀の米国を語る一枚だと言われている。

 米海軍協会出版局(Naval Institute Press)が2012年に出版した「The Kissing Sailor: The Mystery Behind the Photo That Ended World War II(キスをする水兵:第2次世界大戦を終わらせた写真の謎)」という書籍で、この写真の女性はフリードマンさんで、水兵はジョージ・メンドンサ(George Mendonsa)さんだと特定されていた。

 情熱的な写真からフリードマンさんとメンドンサさんは恋人同士だったように思えるかもしれないが、実際には知り合いでさえなく、その場に居合わせただけだった。この写真には、ジョージさんの肩の上に将来の妻リタ・メンドンサ(Rita Mendonsa)さんの笑顔も写っている。

「退役軍人の歴史プロジェクト(Veterans History Project)」が2005年に記録に加えたインタビューで、フリードマンさんは1960年代にアイゼンスタット氏の写真集を見るまでこの写真を見たことはなかったと語っていた。

 インタビューの中でフリードマンさんは「このキスのことはあまり覚えていません…単に誰かがお祝いをしている、というだけなんです」と当時を振り返った。「ロマンチックな出来事ではなかったんです。『戦争が終わった、ああ本当に良かった』というだけだったんです」

【翻訳編集】 AFPBB News

911とはずがたり:2016/09/11(日) 23:24:07

アメリカの原爆や空襲も国際法違反だしソ連の対日参戦も同じだ。
そしてアメリカの原爆とソ連の対日参戦が日本の降伏を導いた訳だ。

「約束守るべきだった」1945年の旧ソ連対日参戦、正当化論調に異議 KGB元大佐インタビュー
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/160819/wor16081910190013-n1.html
2016.8.19 10:19

 第二次大戦後の北方領土問題や「シベリア抑留」の悲劇を生んだ旧ソ連の対日参戦(1945年8月9日)について、ロシアでは当時の日ソ中立条約(41年締結)の効力を否定して正当化する論調が強まっている。ソ連による抑留問題の実態を暴露したソ連国家保安委員会(KGB)元大佐の歴史家、アレクセイ・キリチェンコ氏(79)は産経新聞のインタビューに応じ、こうした見方が誤っていると論破した。一問一答は次の通り。

 --ソ連は45年4月5日、中立条約を延長しない旨を日本に通告した。これをもって、対日参戦に問題はなかったとの主張がある

 「ソ連のモロトフ外相は当時、日本の佐藤尚武大使に条約を延長する意思がないことを表明した。しかし、老練な佐藤大使は、条約が46年4月25日まで有効であることをモロトフに認めさせている。後にスターリン首相がこれを“修正”して対日参戦したということになるが、外相の約束は破られるべきでなかった」

 --ある日本専門家は最近の論文で、41年の日本軍人らの発言や松岡洋右外相の「北進論」を挙げ、日本には中立条約を守る意思がなかったと強調している

 「戦争のことを考えるのが軍人の仕事である。ソ連との戦争に反対する者が陸軍にも海軍にも存在していた。松岡は政府と見解が相いれず、同年7月に更迭されている。誰にどんな『計画』があったとしても、それに意味はない」

--ソ連の極東戦力が日本の対ソ攻撃を抑止したとも主張されている

 「実際には、日本は41年秋、満州の関東軍からの部隊引き抜きも含め、南方へと兵力を迅速に集中させた。9月にはソ連にも、当時の関東軍の構成では、日本に戦争はできないということが明らかだった。10月末には、スターリンが極東の軍や共産党指導者との少人数の会合を持ち、極東の部隊を西部(対ドイツ戦)に投じることが決まった。日本が攻撃してこないとの確信があったのだ」

 「ほかならぬ極東の部隊が41年11月7日にモスクワの『赤の広場』でのパレードを行い、そこから(西部の)戦闘に向かった。それによってモスクワは攻撃されることを免れたのだ。41年から43年の間に、極東から西部へと完全に訓練・武装された42個師団が振り向けられた」

 --満州からソ連への国境侵犯が頻発し、それが日本の「攻撃意図」の表れだともされている

 「日本はノモンハン事件(39年)以降、ソ連国境を破らないようにということを徹底していた。日中戦争があり、ソ連を挑発して『2正面』で戦うことはできなかったためだ。逆に、関東軍がソ連からの脱走兵や送り込まれた諜報員を収容所に入れていた事実があり、越境はソ連からの方が活発だったのではないか」

912とはずがたり:2016/09/11(日) 23:24:21
>>911-912

--ソ連はどう対日参戦に向かったのか

 「戦争の前半には、中立条約はソ連にとっても日本にとってもきわめて有利なものだったのだと考える。しかし、独ソのスターリングラード攻防戦(42〜43年)の後、ソ連は自らの力を認識し、日本との戦争準備を始めた。国防委員会は対日戦に備え、シベリア鉄道の予備支線としてコムソモリスク・ナ・アムーレ-ソビエツカヤ・ガバニ間の鉄道敷設を決め、それは予定された45年8月1日より数日早く完了している」

 --原爆投下でなく、ソ連こそが第二次大戦を終結させたのだとして対日参戦を正当化する主張も強い

 「満州の実態を見るならば、当時、片道分の燃料しかない航空機が380しかなく、その多くは8月半ばに日本に戻ってしまった。ソ連側は5000機以上も戦闘態勢にあったが、空中戦はほとんどなかった。満州には戦車もたいへん少なく、この頃には完全に弱体化していたというのが事実だ」

 --“公式史観”と異なる見方を公にする理由は

 「私は、日本をソ連の敵国の一つとして研究し始めた。だが、日本の現実を深く知るにつけ、ソ連とその後のロシアが少なからぬ過ちを犯し、それが今日に至るまで両国関係に本質的な影響を与えていることを理解した。むろん、日本も天使にはほど遠かった。将来の悲劇と困難を避けることには意味があると考える」(モスクワ 遠藤良介)

 ソ連の対日参戦 ソ連軍は1945年8月9日、当時有効だった日ソ中立条約を破って日本に対する戦闘を開始し、満州(中国東北部)や樺太(サハリン)などに侵攻。日本がポツダム宣言を受諾し、15日に終戦の詔書が発表された後も一方的な侵略を続けた。ソ連軍が日本の北方四島を占拠し終えたのは、日本が降伏文書に調印した9月2日よりも遅い同5日だった。ソ連はまた、武装解除した日本将兵など約60万人を旧ソ連各地に連行して強制労働を課し、6万人以上の死者が出た(「シベリア抑留」)。

 ◆アレクセイ・キリチェンコ氏 ソ連国家保安委員会(KGB)元大佐、ロシア科学アカデミー東洋学研究所上級研究員。1936年、旧ソ連のベラルーシ生まれ。64年にKGB大学を卒業しKGB第2総局で対日防諜を担当。80年代に研究所入りして日本人強制抑留問題に取り組み、日露間での真相解明に向けた原動力となった。著書に「知られざる日露の二百年」(現代思潮新社)がある。

913名無しさん:2016/09/19(月) 20:46:04
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160912-00050105-yom-pol
新党大地・鈴木代表と三浦瑠麗氏、日露関係議論
読売新聞 9月12日(月)23時33分配信

 新党大地の鈴木宗男代表と国際政治学者の三浦瑠麗氏が12日、BS日テレの「深層NEWS」に出演し、日露関係について議論した。

 鈴木氏は今月2日に行われた安倍首相とプーチン大統領の会談について「(首脳間で)相当な信頼関係ができ、(北方領土問題解決に)お互い自信を持っているのではないか」と評価。色丹、歯舞の2島引き渡しを明記した1956年の「日ソ共同宣言」を「(交渉の)スタートライン」と強調した。三浦氏は「(2島返還で)手打ちとなったときの日本国民の怒りは甘く見てはいけない」と述べた。

914名無しさん:2016/09/19(月) 22:56:35
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016091900201&g=pol
安倍首相から「おわびの手紙」を=元慰安婦支援の韓国財団要請

 【ソウル時事】慰安婦問題をめぐる日韓政府間合意に基づき設立された韓国の「和解・癒やし財団」(金兌玄理事長)が、安倍晋三首相から元慰安婦に宛てた「おわびの手紙」を要請していることが分かった。財団関係者が19日明らかにした。

 財団は日本政府からの10億円の入金を受け、生存者1人につき約1000万円、死亡者には約200万円支給することになっており、支給の際に手紙を添えて渡したい考えという。
 一部の元慰安婦は「日本政府は責任を認めておらず、謝罪もしていない」と主張。受け取りを拒否する立場を示している。首相名の手紙要請は合意に反発している元慰安婦や関連団体を説得する狙いもあるとみられる。 
 昨年12月28日、日韓外相が合意を発表した際、日本政府は慰安婦問題への旧日本軍の関与を認め、安倍首相名で「心からのおわびと反省の気持ち」を表明した。だが、韓国では岸田文雄外相の「代理謝罪」と受け止める向きもあり、韓国民間機関が今月2日公表した世論調査では、「日本は謝罪していないとみている」という回答が84%に上っている。(2016/09/19-16:26)

915名無しさん:2016/09/24(土) 11:54:30
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20160922-OYT1T50090.html
北方領土、2島返還が最低限…対露交渉で条件
2016年09月23日 06時07分
 政府は、ロシアとの北方領土問題の交渉で、歯舞群島、色丹島の2島引き渡しを最低条件とする方針を固めた。

 平和条約締結の際、択捉、国後両島を含めた「4島の帰属」問題の解決を前提としない方向で検討している。安倍首相は11月にペルー、12月には地元・山口県でロシアのプーチン大統領と会談する。こうした方針でトップ交渉に臨み、領土問題を含む平和条約締結に道筋をつけたい考えだ。

 複数の政府関係者が明らかにした。択捉、国後については日本に帰属するとの立場を堅持する。その上で、平和条約締結後の継続協議とし、自由訪問や共同経済活動などを行いながら、最終的な返還につなげる案などが浮上している。

(ここまで290文字 / 残り595文字)
2016年09月23日 06時07分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

916とはずがたり:2016/09/29(木) 17:37:55
面倒くさいけど何故今実現?
>このタイムカプセルの存在は何十年もの間知られていたが、カプセルに近づくには、ナチスの地雷を避け、施設の地下の分厚いコンクリートを貫かねばならず、複雑な掘削計画と根気のいる作業が必要だった。

ナチス・ドイツが80年以上前に埋めたタイムカプセルが発見される(ポーランド)
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52225318.html
2016年09月29日

 ポーランドの北西部の都市にて、ナチス・ドイツが80年以上も前に埋めたタイムカプセルが発掘され、ポーランドの国立博物館で開封作業が行われた。このカプセルはかつてのドイツ領に建てられたナチスの訓練施設の下に埋まっていたものだった。

 ようやく発掘されたタイムカプセルの中にはヒトラーの著作やナチスにまつわる物品のほか、発掘者を想定した手紙などが入っていたという。

 これらの品が入っていたタイムカプセルは、ポーランド北西部のズウォチェニエツナチス(旧ドイツ領)で、当時その地に建設されたナチスの労働者や職員の教育や訓練を行う施設の下に埋められていた。

 カプセルの形状は大きな黒色の円筒で、埋められた日はその施設の建設開始と同時期である1934年の4月22日とみられている。

 このタイムカプセルの存在は何十年もの間知られていたが、カプセルに近づくには、ナチスの地雷を避け、施設の地下の分厚いコンクリートを貫かねばならず、複雑な掘削計画と根気のいる作業が必要だった。

917名無しさん:2016/10/01(土) 20:04:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016092900593&g=pol
慰安婦合意で追加措置を=「おわびの手紙」念頭-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は29日の記者会見で、昨年末の慰安婦問題をめぐる日韓政府間合意に関連し、「日本側が慰安婦被害者の心の傷を癒やすため、感情に訴える追加的な措置を取ることを期待している」と述べた。「安倍(晋三)首相が元慰安婦におわびの手紙を書くべきだという主張が日本でも出ており、政府の立場を聞きたい」という質問に答えた。
 日韓合意に一部元慰安婦や関連団体が反発する中、合意に基づき設立された韓国の「和解・癒やし財団」(金兌玄理事長)は、安倍首相からの「おわびの手紙」を元慰安婦に渡す案を検討しており、報道官は韓国政府としても後押しする立場を明確にした。 
 財団の金理事長は取材に対し、「被害者や関連団体は、日本政府がもっと感情に訴える措置を取るべきだと強く求めており、財団内にも(そうした措置に向け)努力すべきだという意見がある」と説明している。(2016/09/29-15:31)

918名無しさん:2016/10/01(土) 20:45:33
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016093000212&g=pol
「おわびの手紙」に消極的=岸田外相

 岸田文雄外相は30日の閣議後の記者会見で、慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づき設立された韓国財団が安倍晋三首相による元慰安婦宛ての「おわびの手紙」を求めていることについて、「日韓合意は昨年12月に発表した通りだ。追加的な措置は一切合意されてはいない」と述べ、消極的な考えを示した。(2016/09/30-09:51)

919名無しさん:2016/10/02(日) 18:06:40
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100100317&g=pol
北方領土交渉、2島では駄目=自民・石破氏

 自民党の石破茂前地方創生担当相は1日、東京都内で開かれたパネルディスカッションで、安倍晋三首相が意欲を示すロシアとの北方領土交渉について「4島一括(返還)が一番望ましい」と語った。その上で「仮に(歯舞、色丹の2島)先行だとしたら、あとの2島がどうなるか、先送ってはいけない話だ」と述べ、国後、択捉両島の返還についても同時に道筋を付けるよう求めた。 
 政府が臨時国会への提出を見送った「共謀罪」創設のためのテロ対策関連法案については、来年の通常国会冒頭での衆院解散が取り沙汰されていることに絡め、「次の国会で、この法律だけはきちんと成立させて解散する。それは私たちが国民に対して果たすべき責任だ」と、法整備の必要性を訴えた。(2016/10/01-22:24)

920名無しさん:2016/10/09(日) 09:56:01
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100300024&g=pol
安倍首相「北方四島の帰属解決」=慰安婦へおわびの手紙否定-衆院予算委

 安倍晋三首相は3日の衆院予算委員会で、ロシアとの北方領土問題を含む平和条約交渉について「四島の帰属問題を解決して平和条約を締結していく考えに変わりはない」と述べ、従来の政府方針は不変と説明した。民進党の前原誠司元外相が「(歯舞群島と色丹島の)2島先行返還はあり得るか」とただしたのに対して答えた。

 また、ロシアによるウクライナ南部クリミア半島併合に関し「現状変更の試みは認めるわけにはいかないというのが日本の一貫した立場だ。それを率先して変えることはない」と表明。米政府はウクライナ情勢を理由に対ロ関係進展に慎重な対応を日本に求めているが、首相は12月のプーチン大統領訪日について「米国側から基本的に了解されている」と述べた。
 その上で「どういう考え方で訪日を実現しようとしているか、どう平和条約交渉を進めていくか(米側に)説明している」と語った。
 慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づき韓国政府が設立した財団が、首相による元慰安婦宛ての「おわびの手紙」を求めていることについて、首相は「(合意)内容の外であって、毛頭考えていない」と否定。「合意内容を両国が誠実に実行していくことが求められる」とも語り、追加的な要求は受け入れられないとの立場を示した。民進党の小川淳也氏への答弁。 (2016/10/03-12:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100400785&g=pol
おわびの手紙、応じぬ構え=追加要請に政府不快感-慰安婦問題

 元慰安婦を支援する韓国の財団が安倍晋三首相の「おわびの手紙」を求めている問題で、日本政府が不快感を強めている。手紙の送付は、財団設立などに関する昨年末の日韓両政府の合意に含まれておらず、韓国側が追加で要請してきたためだ。ソウルの日本大使館前の少女像撤去に進展が見られない中、日本は手紙の要請には応じない構えだ。
 首相は3日の衆院予算委員会で、手紙の要請への対応について「(合意)内容の外であって、毛頭考えていない」と強調。岸田文雄外相も4日の記者会見で「合意は日韓両国外相が発表した内容に尽きている。それ以上でも以下でもない」との認識を示した。
 村山富市氏から小泉純一郎氏までの各首相は、「女性のためのアジア平和国民基金」を通じた元慰安婦支援事業に関連して「おわびと反省」を表した手紙を送ってきた。韓国側はこうした手紙を念頭に置いているとみられ、日韓合意に反発する国内勢力の理解を得る材料としたい考えだ。
 しかし、日本政府は合意に基づく財団への10億円拠出で「やるべきことはやった」との立場。手紙を追加要請した韓国側の対応について、政府高官の一人は「ゴールポスト(決着点)を動かすものだ」と厳しく批判する。別の政府関係者は「相手にしないのが一番」と切り捨てた。
 自民党内でも、要請に応じない政府の姿勢を支持する声が多い。新藤義孝前総務相は4日、島根県・竹島問題に関する集会告知の記者会見で「後からハードルを上げるのは絶対に受け入れられない」と語った。(2016/10/04-19:35)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100400600&g=pol
慰安婦問題で日本と協力継続=「手紙否定」言及せず-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は4日の記者会見で、安倍晋三首相が元慰安婦宛ての「おわびの手紙」に関し「毛頭考えていない」と断言したことについて見解を問われ、「言及を控える」と述べた。一方で、「(慰安婦)合意の精神と趣旨を尊重し、被害者の名誉、尊厳の回復、心の傷の癒やしが早期に実現するよう日本側と引き続き協力していく」と強調した。
 報道官は先に「日本側が追加的な措置を取ることを期待している」と語っており、「おわびの手紙」を含め、合意を後押しする措置を引き続き求めていく考えを示唆したとみられる。 (2016/10/04-15:55)

921名無しさん:2016/10/09(日) 09:56:12
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100300835&g=pol
2島先行返還が現実的=鈴木宗男氏

 地域政党「新党大地」の鈴木宗男代表は3日のBSフジの番組で、北方領土交渉に関し、歯舞、色丹2島の返還を実現させ、国後、択捉2島に関する協議を継続する「2島先行返還」が「一番現実的だ」との認識を示した。

 鈴木氏は「私の受け止めでは、安倍晋三首相も現実的な解決しかない、1956年の日ソ共同宣言から60年の節目の年に、大きな決断をしなくてはいけないという強い意志を持っている」と指摘した。 (2016/10/03-23:32)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100500783&g=pol
北方四島、帰属譲らず=戦略対話前に日本けん制-ロシア

 【モスクワ時事】ロシア外務省のザハロワ情報局長は5日、日本との北方領土問題について「ロシアの立場は一貫しており不変だ。(四島は)第2次大戦の結果、ロシアに帰属しており、ロシアが主権を持つことに疑問の余地はない」と述べた。モスクワで外務次官級の日ロ戦略対話が近く開催されるのを前に声明を出した。

 安倍晋三首相は3日、衆院予算委員会で「四島の帰属問題を解決して平和条約を締結していく考えに変わりはない」と表明したばかり。プーチン大統領の12月の公式訪日を前に日本国内で領土問題解決への期待が高まっていることを踏まえ、ザハロワ局長は改めて日本側をけん制した格好だ。(2016/10/05-19:52)

922名無しさん:2016/10/09(日) 13:09:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100600462&g=pol
戦没者遺品の取引「自粛を」=閣僚が呼び掛け-参院予算委

 6日の参院予算委員会で、戦没者の遺品がインターネットのオークションサイトで取引されていることについて、閣僚からサイト運営会社などに出品自粛を促す発言が相次いだ。
 質問した自民党の有村治子氏は「遺族に返還されるべきものだ」と、ネット上の売買に疑問を呈した。これに対し、塩崎恭久厚生労働相は「ご遺族の心情を害する」と述べ、世耕弘成経済産業相も「遺品の横に値段が付いて並んでいる姿は、はっきり言って見るに堪えない」と語り、ともに取引自粛を訴えた。
 岸田文雄外相は「大変心の痛む思い」と述べた上で、米国などの在外公館を通じて遺品の提供を呼び掛け、遺族への返還を進める考えを示した。(2016/10/06-14:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100700844&g=pol
幕府軍、西郷隆盛の合祀を=超党派議員ら靖国に申し入れへ

 超党派の国会議員らが12日、戊辰戦争で旧幕府軍として戦った会津藩など諸藩の将兵や、西南戦争で敗死した西郷隆盛ら、幕末・明治時代に新政府と対立し「賊軍」とされた人々を合祀(ごうし)するよう靖国神社(東京都千代田区)に申し入れる。石原慎太郎元東京都知事や亀井静香元金融担当相らが呼び掛けた。
 申し入れ書は「西郷氏ら賊軍と称された方々も、近代日本のために志を持って行動したことは勝敗の別なく認められるべきだ。過去の内戦で亡くなった全てのみ霊を合祀(ごうし)願う」と要請。天皇陛下の靖国神社参拝についても「国家安寧のために必須と信ずる」としている。(2016/10/07-20:41)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100700292&g=pol
明治維新150年で記念施策

 菅義偉官房長官は7日の閣僚懇談会で、2018年に明治維新から150年となることを記念し、関連施策の検討を始めるよう各省庁に指示した。具体策を調整する連絡会議も設置する。
 菅長官はこの後の記者会見で、「わが国にとって一つの大きな節目になる。明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは極めて重要だ」と強調。国立公文書館の移転・新設に伴い、明治期に関する資料の収集・整理、デジタル化を推進する方針を説明するとともに、地方公共団体や民間の取り組みを支援する意向も明らかにした。(2016/10/07-17:22)

923名無しさん:2016/10/09(日) 22:55:51
日本のもう一人のキングの末裔

http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/02/higa-manami_n_12302650.html
比嘉愛未「琉球王朝の末裔だった」 101歳の曾祖母から明かされたと報告
ORICON STYLE | 執筆者: オリコンNewS
投稿日: 2016年10月03日 09時00分 JST 更新: 2016年10月03日 09時00分 JST HIKA

比嘉愛未、琉球王朝の末えいだった 101歳の曾祖母から知らされ「ビックリした」

女優の比嘉愛未が2日、都内で行われた映画『カノン』公開記念舞台あいさつに登壇。同作の内容にちなみ「家族から聞いてビックリしたことは?」とのテーマで、「最近(地元の)沖縄に帰った時に、101歳のひいおばあちゃんから『ウチは、琉球王朝の末えいだったんだよ』と言われました」と明かした。

会場がどよめく中、比嘉は「家の額縁に不思議な紋章が掲げられていて『あれ、何?』と聞いてみたら、そういう風に言われまして…」と説明。「そんなスゴいことを何で言ってくれなかったんだろうという、ビックリした感じがありました」と笑顔を見せると、MCも「ずいぶんの品のある顔をされているので、その流れでということですね」と納得した様子で語っていた。

同作は、祖母が遺した手紙により死んだはずの母が生きていたことを知らされた三姉妹が、自分たちの傷に向き合いながら未来への一歩を踏み出そうとする物語。過去のトラウマを乗り越えようとする次女役を比嘉、夫からの自立を願う専業主婦の長女役をミムラ、老舗料亭の新女将としてのプレッシャーと戦う三女役を佐々木希が演じる。

舞台あいさつにはそのほか、ミムラ、佐々木、鈴木保奈美、桐山漣、多岐川裕美、雑賀俊朗監督も登壇した。同映画は10月1日より公開中。

924名無しさん:2016/10/11(火) 00:21:49
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161005-00000003-pseven-soci
靖国「賊軍」合祀計画に会津出身者「戊辰戦争の総括が必要」
NEWS ポストセブン 10月5日(水)7時0分配信

 2019年に創立150周年を迎える靖国神社に祀られるのは「国のために殉じた人々」だけである。つまり神社がつくられた当時の「国=明治政府」に刃向かった幕府軍・会津軍や、西南戦争で敗れた西郷隆盛らは「賊軍」となるため、祀られる“資格”がない。

 だが、彼らの合祀を求める会を国会議員らが立ち上げ、靖国神社に申し入れをするというのだ。発起人を務めるのは保守派の重鎮、亀井静香・衆院議員。そのほか森喜朗氏や福田康夫氏ら首相経験者、二階俊博・自民党幹事長ら与党幹部、さらに、野党議員など70人を超える政治家の賛同を得ているという。

 政界重鎮たちによる申し入れは無視できない重みがありそうだが、そもそも靖国神社への合祀は可能なのか。靖国神社は、この動きについて「存じておりません」とした上で、「当神社は明治2年の御創建から終戦に至るまで、当時の国の合祀判断に基づき、その都度合祀が重ねられてまいりました。当時に遡り、その基準を変更することはございません」と否定的だ。

 だが戦後、靖国神社は国家機関から民間の宗教法人となった。そのため、合祀の可否は神社の最高責任者である宮司の判断に委ねられる部分が大きい。1978年10月には、当時の松平永芳宮司の判断で、A級戦犯14人が合祀されている。亀井氏は自信を見せる。

「A級戦犯とは異なり、中国も文句は言わないだろう。神社と一体となって事業を行なう靖国神社崇敬奉賛会の理解が必要なので、同会の扇千景会長(元国交相)にも根回しを進めている。ただし、最終的な権限は宮司にあるはずなので、徳川(康久)宮司の背中を押したい」

 今回の申し入れについて、当事者の受け止めは様々だ。明治維新後、司法卿として司法制度確立に尽力した江藤新平は征韓論を唱えた西郷隆盛に同調して下野した後、「佐賀の乱」を起こして敗れた「賊軍」だが、佐賀県選出の原口一博・衆院議員(民進党)は合祀に賛同し、提出者を買って出た。

925名無しさん:2016/10/11(火) 00:22:32
>>924

「『乱』という表現は支配者サイドからの観点であり、佐賀県民は江藤の反乱を『佐賀の乱』ではなく、『佐賀の役』と言います。支配者側の一方的な見方ではなく、日本の夜明けのために命を失った方々を改めて評価するのは重要なことです。英霊を鎮魂する場である靖国に敗者を合祀することで、平和への祈りにもなるはずです」

 一方、戊辰戦争の「賊軍」代表、会津出身の小熊慎司・衆院議員(民進党)は、「合祀には賛成」としつつも、複雑な思いをのぞかせる。

「戊辰戦争では会津側の戦死者が長期間、放置されるなど非人道的行為もあった。1864年の蛤御門の変では、会津と薩摩が御所を守り、長州が御所に発砲した賊軍です。それなのに維新後、その長州で維新への功績もない人物までが祀られたのは明らかにおかしい。単なる官軍と賊軍の戦いという見方を改めるためにも、合祀の前に戊辰戦争の総括が必要です」

 会津藩が戊辰戦争で降伏した9月22日に会津で行なわれる会津戊辰戦争慰霊の集いでは、さっそくこの話題が上がったという。しかしながら、合祀は靖国神社の意義を揺るがしかねない問題を孕む。『靖国誕生 幕末動乱から生まれた招魂社』の著者で歴史家の堀雅昭氏が指摘する。

「靖国神社は紛れもなく、明治維新の官軍vs賊軍という戦いの延長線上にある神社です。西郷以下、西南戦争を戦った面々は鹿児島の照国神社に祀られている。それぞれの故郷で祀られ、語り継がれることで、賊軍として戦った意味や、維新の『負の側面』が語り継がれます。安易な合祀は、賊軍側の行為まで蔑ろにしかねない。なによりこれを認めたら、靖国神社が依って立つ歴史的基盤がおかしくなってしまいます」

 賛否両論が渦巻く靖国合祀。当の亀井氏も敗者側の複雑な思いを認める。

「新たに合祀する側の遺族の意向は聞きません。なかには、複雑な感情を抱えて、『もう触れないでくれ』という方もいるだろうが、これまでも合祀に遺族の了承は取っていない。われわれが崇敬の心をもってお祀りするということ。合祀については、あとは宮司の対応を待つのみです」

 折しも2018年の大河ドラマが「西郷隆盛」に決まり、賊軍側に注目が集まっている。靖国神社の歴史観と自らの信念の間で、宮司はどのような判断を下すのだろうか。

※週刊ポスト2016年10月14・21日号

926名無しさん:2016/10/11(火) 00:24:00
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161004-00000010-pseven-soci
靖国神社150周年 西郷隆盛や幕府軍の合祀計画が急浮上
NEWS ポストセブン 10月4日(火)7時0分配信

 来る2019年に創立150周年を迎える靖国神社が、歴史的な大転換点を迎えるかもしれない。靖国に祀られるのは「国のために殉じた人々」だけである。つまり神社がつくられた当時の「国=明治政府」に刃向かった幕府軍・会津軍や、西南戦争で敗れた西郷隆盛らは「賊軍」となるため、祀られる“資格”がない。

 だが、彼らの合祀を求める会を国会議員らが立ち上げ、靖国神社に申し入れをするというのだ。発起人を務める保守派の重鎮、亀井静香・衆院議員が言う。

「日本は戊辰戦争、西南戦争という内戦を経て近代国家に生まれ変わった。当時は薩長と幕府・会津が二手に分かれて対立したが、敗者がいるからこそ争いが鎮まった。明治維新から150年も経つのに、内戦の死者が『賊軍』として祀られないのはおかしい。そこで有志に呼びかけて会を立ち上げ、靖国神社に合祀を求める申し入れをすることにした」

 歴史を繙(ひもと)くと、靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた「東京招魂社」に遡る。戊辰戦争、士族の乱などで命を落とした薩摩・長州軍らを「官軍」として慰霊顕彰し、明治維新を偉業として後世に伝えるための社だった。そのため官軍と戦って破れた幕府軍、会津軍らは「賊軍」とされ、祀られなかった。明治12年に社号が「靖国神社」に改められて以降も、「賊軍史観」は変わっていない。

 これに一石を投じたのが、現在の靖国神社宮司・徳川康久氏である。第15代将軍・徳川慶喜を曾祖父にもつ徳川宮司は、徳川家康を祀った芝東照宮に奉職した後、靖国神社の宮司となった。「賊軍の長の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に就任したのである。
 
 2013年1月の就任時、「幕末の動乱期、曾祖父の慶喜は身を挺して朝廷と御所を守った」と発言して注目された徳川宮司は、今年6月に共同通信のインタビューで、自らの「明治維新史観」を一歩進めてこう語った。

〈文明開花という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだったということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉

927名無しさん:2016/10/11(火) 00:24:24
>>926

〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉

「公式見解」を覆す靖国神社の根幹にかかわる大胆な発言だったが、記事は一部の地方紙にのみ掲載されたのみで反響は少なかった。しかし本誌・週刊ポスト7月1日号が、「徳川宮司『明治維新という過ち』発言の波紋」とのタイトルで大々的に報じると状況は一変し、靖国関係者や政界関係者に大きな波紋を呼んだ。

◆宮司は「私もそう思う」

 亀井氏も本誌報道に影響されたと明かす。

「私は以前からこの問題に関心があり、ポストの記事が出た後、徳川宮司に会って、『それでは、具体的に靖国合祀を呼びかけますよ』と話した。3年ほど前、徳川宮司に『賊軍が祀られてないのはおかしい』と尋ねると、『私もそう思う』と言われたことがあって以来、ずっと構想を練っていた」

 靖国神社への「合祀申し入れ書」はすでに作成済みで、こんな文面となっている。

〈白虎隊や新選組、西郷南州(西郷隆盛)、江藤新平などの賊軍と称された方々も近代日本のために志をもっていたことは、勝者、敗者の別なく認められるべきで、これらの諸霊が靖国神社に祀られていないことは誠に残念極まりないことです〉

〈有史以来、日本人が育んできた魂の源流を今一度鑑み、未来に向けて憂いなき歴史を継いでいくためにも、靖国神社に過去の内戦においてお亡くなりになった全ての御霊を合祀願うよう申し出る次第です〉

 亀井氏によると、今回の申し入れには、森喜朗氏や福田康夫氏ら首相経験者、二階俊博・自民党幹事長ら与党幹部、さらに、野党議員など70人を超える政治家の賛同を得ているという。

「山口(長州)出身の安倍首相にも申し入れ書は渡してある。政教分離の原則があるから、立場上『やれ』とは言えないだろうが……。多くの政治家に受け入れられているが、自民党の日本会議系議員の何人かは反対のようだ。彼らは皇国史観に立ち、『なぜ今さら賊軍を祀るのか』という考え方なので話にならない(苦笑)」

 この10月初旬にも、亀井氏、森氏、そして民進党の原口一博・衆院議員の3氏が靖国神社に赴き、徳川宮司に文書を手渡す予定だ。

※週刊ポスト2016年10月14・21日号

928とはずがたり:2016/10/11(火) 08:34:42
俺も西郷軍や旧幕府軍を祀ってないから靖国は日本国民(や日本の為に犠牲になった台湾や韓国・北朝鮮の方々)全体の忠魂の組織たりえないと思ってたけど,西郷軍や旧幕府軍の合祀には反対だなぁ。
じゃあ佐賀の江藤はどうなるとかそういうのではなく,帝国主義というトチ狂った時代ではあったけど日本が列強として活躍した時代の価値観をそのまま保守しとく組織として残しとくべきで,東条なんかの分祀は絶対にせず東京裁判も頑として認めないし从って現行憲法下の政治家なんかは絶対に参詣出来ないそういう施設であって欲しい。

929とはずがたり:2016/10/13(木) 21:43:26
東洋のセシル・ローズを自認する帝国主義者。首相が外相兼務した田中義一内閣で当選二回ながら事実上の外相格の外務次官に就任し東方会議を開催。
五・一五事件でさあこれからという時に病に斃れ死去。彼が死んでも日本の帝国主義政策が停まる事はなかった訳だが。一応政党政治家の森が首班となったら軍国主義を少しは抑制できたのかねぇ?

森恪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%81%AA

森 恪(もり かく、1882年(明治16年)2月28日 - 1932年(昭和7年)12月11日)は、昭和戦前期の日本の政治家、衆議院議員。名の「恪」を「かく」と読むのは有職読みで、本来の読みは「つとむ」。
「東洋のセシル・ローズ」を自認した帝国主義者。軍部と提携し、日本の中国侵出に大きな役割を果たした。

経歴[編集]
1882年2月28日[1]、大阪府大阪市西区江戸掘に生まれる。父は判事・大阪市議会議長を務めた森作太郎。慶應義塾幼稚舎を卒業したが、成績不良と素行不良のため慶應義塾普通部に進めず、大阪に帰郷。その後、東京商工中学校卒業。1901年(明治34年)東京高等商業学校(現一橋大学)入学試験に不合格となる。
父と旧知の仲であった三井物産上海支店長で、後年、立憲政友会幹事長、南満州鉄道総裁を歴任する山本条太郎の縁故で、同支店支那修業生として中国に渡る。上海支店社員時代に中国語(北京語、広東語)、英語に通じたほか、日露戦争では、東シナ海洋上を接近するバルチック艦隊の航跡をいち早く発見、打電して、日本海海戦の勝利に民間から貢献した。また、辛亥革命では孫文に対し革命資金の斡旋を行った。三井物産天津支店長を経て、1916年(大正5年)に上仲尚明と共に塔連炭砿鉱業権を得ると、翌1917年(大正6年)より東洋炭砿、小田原紡績、東洋藍業、東洋製鉄など次々と事業を興して事業家となった。

1918年(大正7年)に政友会に入党して政界に進出、党に多額の献金(推定5万円)をする。1920年(大正9年)に三井物産を退社し、政友会公認で神奈川県第7区(足柄上郡・足柄下郡)から第14回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。選挙に多額の資金をつぎ込み、金の出所をめぐり「満鉄事件」といわれる疑獄事件に発展している。この疑惑がたたり、次の第15回衆議院議員総選挙では落選する。その間1923年(大正12年)には政友会院内幹事となっている。1925年(大正14年)、栃木県選出の横田千之助が亡くなると、横田の地盤を引き継いで補欠選挙に当選し、国政に復帰する。1927年(昭和2年)田中義一内閣で外務政務次官に就任する。当選2回でありながら政務次官となるのは異例のことであったため、党内からは反対論が噴出したが、院外団の支持と、森が地盤を受け継いだ横田千之助が田中義一を陸軍から政界に進出させた立役者であったため、就任にこぎつけた。田中義一首相が外務大臣を兼摂(兼任)したため、森は政務次官ながら事実上の外相として辣腕を振るう。田中政権下で対中国強硬外交を強力に推進し、山東出兵、東方会議開催などに奔走した。また、満蒙を中国本土から分離することを目論み、張作霖爆殺事件にも関係を取りざたされた。

田中内閣が総辞職すると、1929年(昭和4年)政友会幹事長に就任する。ロンドン海軍軍縮条約をめぐり、1931年(昭和6年)2月、首相臨時代理の幣原喜重郎外相を攻撃し、浜口内閣を揺さぶる。第2次若槻内閣を経て、同年12月13日政友会の犬養内閣が成立すると内閣書記官長となる。しかし、軍部との関係を政治基盤としていた森と、生粋の政党政治家である犬養は、大陸政策をめぐって対立する。森は犬養に対して内閣改造を提言するが容れられず、辞表を提出、預かりとされる。1932年(昭和7年)5月15日の五・一五事件では、会心の笑みを漏らした様子が語られている。同年7月に発病。12月11日、持病の喘息に肺炎を併発し、滞在先の鎌倉海浜ホテルにて十河信二と鳩山一郎・薫夫妻に看取られ死去。享年50。

930名無しさん:2016/10/14(金) 22:41:46
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016100900067&g=pol
四島返還「2段階論」浮上=国後・択捉先送りも-政府

 ロシアとの北方領土交渉をめぐり、歯舞群島と色丹島の返還合意で平和条約を締結し、残る国後、択捉両島は将来の課題として先送りする「2段階論」が政府内で浮上している。北方領土問題の解決に強い意欲を示す安倍晋三首相は11月にペルーで、12月には地元の山口県長門市にロシアのプーチン大統領を迎えて会談する。四島一括での返還合意にこだわらない柔軟な姿勢で臨み、領土問題の活路を見いだしたい考えだ。

 複数の政府関係者によると、国後、択捉両島は当面、両国政府の共同管理とし、協力して開発や経済振興に取り組む案などが検討されている。日本から旅券や査証(ビザ)なしでの訪問も拡大し、交流を促進する。両島の返還については、時機を見て話し合いを行う。
 歯舞群島と色丹島の先行返還が実現すれば、日本の排他的経済水域(EEZ)が拡大することになる。政府は領土交渉と併せて漁業権についても議題とする方針だ。
 歯舞群島と色丹島の扱いに関し、旧ソ連との国交を回復した1956年の日ソ共同宣言には「平和条約締結後に引き渡す」と明記されている。それでも、旧島民や保守層の一部には、なお一括返還を求める声が根強く、かつては日本政府もそうした立場を重視していた。
 しかし、ロシアが「第2次世界大戦の結果、(北方四島は)自国領になった」と主張し、平行線をたどってきた日ロ交渉の現実を直視。関係者によると、首相は「一括返還合意に固執すれば問題解決の妨げになる」として、「新しいアプローチ」が必要だと判断しているという。(2016/10/09-19:20)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101100201&g=pol
北方領土交渉「幅広い選択肢で」=岸田外相、2島先行返還に含み

 岸田文雄外相は11日の閣議後の記者会見で、ロシアとの北方領土交渉に関し、「立場の隔たりがある中での交渉で、幅広いオプションを議論していく」と述べた。岸信夫外務副大臣が北方四島のうち歯舞群島と色丹島の先行返還も排除しない考えを示した、との一部報道に関する質問に答えたもので、2島先行に含みを持たせた形だ。
 岸氏は日本テレビのインタビューで「2島先行返還も選択肢か」と問われたのに対し、「できるだけ広いオプションの中で解決策を見いだしていく」などと語った。これについて外相は「当然のことを発言した」との認識を示した。(2016/10/11-10:12)

931名無しさん:2016/10/15(土) 14:01:53
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161014/k10010730241000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_007
元慰安婦29人 日韓合意に基づく支援受け入れ
10月14日 19時36分
慰安婦問題での日韓両政府の合意をめぐって、元慰安婦への支援事業を実施するため韓国政府が設立した財団は、これまでに元慰安婦29人が合意に基づく支援を受ける考えを示し、来週から現金の支払いを始めることを明らかにしました。
去年12月の慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意では、韓国政府が設立した「和解・癒やし財団」に日本政府が10億円を拠出し、元慰安婦245人を対象に支援事業を行うことになりました。

財団は14日、合意の時点で生存していた46人のうち、これまでに29人が面会に応じ、合意に基づく支援を受ける考えを示したと発表しました。そのうえで、支援事業の内容について、元慰安婦本人に対し日本円で1000万円程度、合意の時点で亡くなっている場合は遺族に200万円程度とし、来週から、現金の支払いを始めることを明らかにしました。

ただ、合意をめぐって韓国では、市民団体を中心に日本の法的責任が認められなかったなどとして反対する声が根強くあり、財団との面会を拒否している人もいます。
これについて財団は「被害者の方々と痛みを共有し、心の傷を癒やすため、すべての元慰安婦や遺族の方々と面会したい」として、引き続き支援事業への理解を求めていくことにしています。財団のキム・テヒョン(金兌玄)理事長は「支援を受けようとしない方々に対しては、日本政府が謝罪し反省したことも説明しながら引き続き説得していきたい」と述べました。

一方、ソウルの日本大使館前にある慰安婦問題を象徴する少女像を支援事業と引き換えに撤去するのではないかと、市民団体などから指摘されていることについて、キム理事長は「日本政府から拠出された10億円は元慰安婦の方々の心の傷を癒やす支援事業のためのもので、少女像の撤去とは別の問題だと考えている」と述べ、財団が行う活動とは関係がないという認識を示しました。
官房長官「誠実に合意履行が大事」
菅官房長官は午後の記者会見で、「日韓それぞれが昨年末の日韓合意にもとづいて、責任を持って合意を実践することが極めて重要だ。日本は合意に基づいて10億円を拠出したわけだが、そうした中で財団によって事業が行われることについては歓迎したい。引き続き合意を誠実にお互いが履行することが大事だ」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161012/k10010727511000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_047
「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら
10月12日 20時39分
亀井静香衆議院議員や石原元東京都知事らは、12日、靖国神社を訪れ、西郷隆盛や白虎隊など明治維新前後の戦いで敗れた人たちも近代日本のために志を持って行動したことは認めるべきだとして、神社に合祀するよう申し入れました。
申し入れを行ったのは、亀井静香衆議院議員と石原元東京都知事のほか、自民党の平沢元内閣府副大臣と民進党の原口元総務大臣の4人です。
4人は、戊辰戦争で敗れた白虎隊や新選組、それに、西南戦争で敗れた西郷隆盛などは「賊軍」とされて靖国神社に祭られていないが、近代日本のために志を持って行動したことは、勝者、敗者に関係なく認めるべきだとして、神社に合祀するよう申し入れました。
このあと、亀井氏は記者団に対し、「神社側は『直ちに承知するとは言えない』ということだったが、いろいろ皆さんと相談されると思う。靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってるので、われわれはそういう声を靖国神社に届けたい」と述べました。

932名無しさん:2016/10/15(土) 18:17:46
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101200617&g=pol
「賊軍」の靖国合祀要請=石原元都知事らが宮司に

 石原慎太郎元東京都知事と超党派の有志衆院議員が12日、東京・九段北の靖国神社で徳川康久宮司と会い、幕末・明治時代に新政府との争いに敗れて「賊軍」とされた人々を同神社に合祀(ごうし)するよう申し入れた。これに対し、徳川氏は「直ちにそうするとは言えない」と慎重な姿勢を示した。
 要請に訪れた議員は自民党の平沢勝栄、民進党の原口一博、無所属の亀井静香の各氏。「賊軍と称された方々も、近代日本のために志を持って行動した」として、旧幕府軍の将兵や西南戦争で敗死した西郷隆盛らの合祀を求める要望書を手渡した。要望書には首相経験者の中曽根康弘、村山富市、福田康夫各氏らも名を連ねている。
 亀井氏は同神社で記者団に「世界が相争っている中で、日本が平和を発信していく基本になる」と語った。(2016/10/12-16:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101300904&g=pol
「国民は失望」=「謝罪の手紙」否定で韓国外相

 【ソウル時事】韓国の尹炳世外相は13日の国会で、安倍晋三首相が元慰安婦宛ての「おわびの手紙」に関し、「毛頭考えていない」と断言したことについて問われ、「韓国国民をかなり失望させた」「韓国国民の心を傷つけた」と述べた。

 尹外相は慰安婦問題をめぐる日韓合意について、「政府として求めてきたことが大部分実現したとみているが、『おばあさん(元慰安婦)』の立場からすれば、足りない部分もあると考えるかもしれない」と指摘。「感情に訴える措置では、さらに努力が必要とみている。当事国がいつでも、自らの判断で提起できるとみている」と語り、日本側の今後の対応に期待を表明した。(2016/10/13-22:18)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101500108&g=pol
「慰安婦登録阻止の狙い」=日本のユネスコ分担金未拠出-韓国紙

 【ソウル時事】日本政府が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に対する今年の分担金約39億円を拠出していないことについて、15日付の韓国紙・東亜日報は、市民団体が申請した旧日本軍の慰安婦問題関連資料の「世界の記憶」(旧「世界記憶遺産」)登録を阻止する狙いがあるとの見方を示した。
 ハンギョレ新聞も「(拠出保留は)昨年10月に『南京大虐殺』関連資料が登録され、慰安婦関連資料の登録に向けた審査が始まるためだ」と報道。「日本は審査過程で関係国が意見を表明することができるよう、制度の改善が必要だと主張し、ユネスコを圧迫している」と指摘した。
 日中韓など8カ国・地域の市民団体が加わる連帯組織は今年6月、慰安婦問題関連資料2744件について登録を申請している。(2016/10/15-09:59)

933名無しさん:2016/10/15(土) 20:58:35
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161011-00000034-jij-pol
北方領土交渉「幅広い選択肢で」=岸田外相、2島先行返還に含み
時事通信 10月11日(火)10時9分配信

 岸田文雄外相は11日の閣議後の記者会見で、ロシアとの北方領土交渉に関し、「立場の隔たりがある中での交渉で、幅広いオプションを議論していく」と述べた。

 岸信夫外務副大臣が北方四島のうち歯舞群島と色丹島の先行返還も排除しない考えを示した、との一部報道に関する質問に答えたもので、2島先行に含みを持たせた形だ。

 岸氏は日本テレビのインタビューで「2島先行返還も選択肢か」と問われたのに対し、「できるだけ広いオプションの中で解決策を見いだしていく」などと語った。これについて外相は「当然のことを発言した」との認識を示した。

934名無しさん:2016/10/16(日) 19:40:13
【社会】靖国神社に会津藩など「賊軍」も合祀を 亀井静香氏、石原慎太郎氏らが宮司に申し入れ★2 [無断転載禁止]©2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1476285034/971

971 :名無しさん@1周年:2016/10/14(金) 00:52:21.78 ID:Rk/JlszP0
★ご賛同いただける方は下記までお問い合わせください
「合祀申し入れ」事務局
東京都新宿区左門町6-4 JASSETビル6階 亀井静香事務所内

【呼びかけ人】
石原慎太郎 亀井静香 原口一博
森山裕 平沢勝栄 武田良太

【賛同者】
中曽根康弘 村山富市 森喜朗
福田康夫 綿貫民輔 伊吹文明
伊藤淳二 稲盛和夫 岡村正 小松玄澄

(以下五十音順)
青山周平 秋元司 荒井聰 荒井広幸
石関貴史 石破茂 石原宏高 今村洋史
浦田勝 江藤拓 遠藤利明 大家敏志
大塚耕平 岡下昌平 奥野信亮 小熊慎司
小里泰弘 小沢一郎 尾辻秀久 小渕優子
勝沼栄明 金子万寿夫 鹿野道彦 狩野安
鴨下一郎 河井克行 河村建夫 木内孝胤
岸本周平 熊田篤嗣 小林史明 佐々木知子
佐藤公治 佐藤静雄 塩谷立 篠原孝
島村宣伸 下村博文 鈴木克昌 竹本直一
田中康夫 玉木雄一郎 柘植芳文 長崎幸太郎
中曽根弘文 中谷真一 中村喜四郎 二階俊博
野田国義 野田聖子 野間健 野村哲郎
林幹雄 原田義昭 平沼赳夫 平野達男
平野博文 福島伸享 細田博之 牧義夫
増子輝彦 松木けんこう 松島みどり 松永光
松野頼久 松原仁 御法川信英 宮内秀樹
宮崎岳志 宮路拓馬 宗清皇一 村上誠一郎
村上正邦 森本真治 保岡興治 柳田稔
矢野絢也 山口壯 山下貴司 鷲尾英一郎

及び地方自治体、民間の方々多数

935名無しさん:2016/10/16(日) 19:41:00
http://www.asahi.com/articles/ASJBD5HRTJBDUTFK017.html
「西郷隆盛や新選組、靖国合祀を」 石原氏らが申入書
2016年10月12日19時46分

 西郷隆盛や新選組、白虎隊も靖国に合祀(ごうし)を――。石原慎太郎・元東京都知事や亀井静香衆院議員らが12日、東京・靖国神社を訪れ、国家に敵対した「賊軍」と称される人々の合祀を求める申入書を渡した。

 申入書では、中曽根康弘氏、森喜朗氏ら元首相をはじめ、与野党の国会議員、経済人らが賛同者に名を連ねた。靖国には国家側で戦った官軍だけがまつられ、賊軍は除外されている。申入書は2018年に明治維新から150年を迎えることを踏まえ、「近代日本のために志を持って行動したことは、勝者・敗者の別なく認められるべきだ」として合祀を求めている。

 亀井氏によると、応対した徳川康久宮司は「ただちにそういたしますとは言えません」と答えたという。

936名無しさん:2016/10/16(日) 19:41:44
http://www.sankei.com/politics/news/161012/plt1610120024-n1.html
2016.10.12 18:04
靖国神社に会津藩など「賊軍」も合祀を 亀井静香、石原慎太郎両氏が申し入れ 

 亀井静香元金融担当相や石原慎太郎元東京都知事らが12日、東京・九段北の靖国神社を訪れ、西南戦争で倒れた西郷隆盛や戊辰戦争で敗れた旧幕府軍など「賊軍」とされた戦没者を合祀するよう徳川康久宮司に申し入れた。

 亀井、石原両氏らを呼び掛け人に、自民党の二階俊博幹事長や中曽根康弘元首相、村山富市元首相ら政界関係者のほか、稲盛和夫京セラ名誉会長ら財界人も賛同者になっている。

 申し入れ書では「賊軍と称された方々も、近代日本のために志をもって行動した」とした上で、「過去の内戦においてお亡くなりになった全ての御霊を合祀願う」としている。

 亀井氏は申し入れ後、記者団に「(合祀は)世界の中で日本が平和を発信をしていく基本になる」と語った。靖国神社側は「ただちにそういたしますとは言えない」と述べたという。

937名無しさん:2016/10/16(日) 23:11:32
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20161012-00000090-jnn-pol
西郷隆盛も合祀を、石原元知事らが申し入れ
TBS系(JNN) 10月12日(水)19時5分配信
 東京都の石原慎太郎元知事らが、西南戦争で倒れた西郷隆盛ら明治政府と対立し「賊軍」とされた人々を合祀するよう靖国神社に申し入れました。

 「靖国神社、これは日本人全体のね、心の故郷のような社ですよ。そこに賊軍と称せられた方が祀られてない」(亀井静香元金融担当相)

 石原元都知事と亀井元金融担当大臣ら超党派の議員らは、西南戦争で政府軍と戦い敗れた西郷隆盛や、白虎隊、新撰組など、「賊軍」とされた戦没者を靖国神社に合祀するよう、宮司に申し入れました。

 石原氏らは、「近代日本のために志を持って行動したことは勝者・敗者の別なく認められるべき」だとしていて、申し入れには、自民党の二階俊博幹事長や福田元総理、社民党の村山元総理らも賛同しています。(12日16:40)
最終更新:10月13日(木)2時14分

938名無しさん:2016/10/18(火) 22:26:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101700315&g=pol
北方領土、共同統治考えていない=菅長官

 菅義偉官房長官は17日午前の記者会見で、北方領土問題の打開策として日本政府が日ロ両国による共同統治案の検討に入ったとの一部報道について、「全く考えていない」と述べた。菅長官は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する従来の方針に全く変わりはない」と強調した。(2016/10/17-12:23)

939名無しさん:2016/10/22(土) 16:37:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016081600162&g=soc
「天皇、今年も深い反省」=安倍首相「謝罪なし」と対比-韓国紙

 【ソウル時事】「日王(天皇)、今年も『深い反省』」「安倍(首相)、謝罪せず」。16日付の韓国紙は、終戦記念日の全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉と安倍晋三首相の式辞を対比させて報じた。
 朝鮮日報は1面の記事で、天皇陛下のお言葉について「軍国主義を追求し戦争へ突き進んだ責任を認めた」と解釈、一方で「安倍首相は、日本が戦争の加害国であることを認定する発言はしなかった」と伝えた。中央日報も「安倍首相は4年連続で、日本の加害事実と反省に言及しなかった」と指摘した。(2016/08/16-08:47)

940名無しさん:2016/10/22(土) 16:39:08
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101900346&g=pol
法整備、通常国会目指す=生前退位で菅官房長官

 菅義偉官房長官は19日の衆院内閣委員会で、天皇陛下が意向を示唆された生前退位に関する法整備について、来年1月召集の通常国会への法案提出を目指す考えを表明した。政府高官が提出時期を明言するのは初めて。国会提出前の十分な与野党調整が必要との認識も示した。
 民進党の岡田克也前代表の質問に答えた。法整備をめぐり、皇室典範の改正か、今の天皇陛下に限って退位を認める特例法かは明確にしなかった。岡田氏が次期通常国会を目指すかただしたのに対し、菅長官は「私どもの思いとすればそうだ。有識者の論点整理で方向を出し、(衆参の)両院議長を中心に立法府で議論し、方向が決定すれば法律として、できれば通常国会に出したい」と述べた。
 政府は特例法案を来年5月の大型連休明けにも閣議決定し国会に提出。通常国会での成立を図る日程を想定している。法整備に当たっては、与野党で賛否が割れないよう合意形成を図ることが「一番望ましい」との考えも示した。
 菅長官はまた、生前退位に関する政府の有識者会議がまとめる論点の公表時期について「年明けになる」と指摘。ただ、有識者会議で女性・女系天皇や女性宮家を議論するかどうかについては、「そうした問題まで(議論が)広がってしまうと意見が拡散してしまう」と否定的な見解を示した。(2016/10/19-11:40)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101900896&g=pol
20日の日程協議見送り=衆院憲法審

 衆院憲法審査会は19日、与野党筆頭幹事がいったん合意していた20日の幹事懇談会開催を見送ることを決めた。環太平洋連携協定(TPP)の承認案審議をめぐる与野党の対立激化が飛び火した格好だ。
 与党は20日の幹事懇で日程協議に入り、早ければ27日にも昨年6月以来の実質審議を再開することを目指していた。(2016/10/19-22:06)

941名無しさん:2016/10/22(土) 23:03:01
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101800539&g=pol
北方領土解説サイトを増補=政府

 政府は、日ソ共同宣言の署名から19日で60年を迎えるのを機に、北方領土問題について解説する内閣府のインターネットのサイトを増補する。北方四島の返還への思いを語る元島民の声などを新たに紹介、領土問題の歴史的経緯もより分かりやすく解説する。
 鶴保庸介沖縄・北方担当相は18日の記者会見で「事実を知りたいと思う国民のニーズに応えられるようにしていきたい」と述べた。内閣府の北方対策本部のホームページで見ることができる。(2016/10/18-15:06)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101700408&g=pol
ロシア、2島で幕引きも=プーチン氏の姿勢一貫-日ソ共同宣言60年

 【モスクワ時事】日本とソ連(当時)が、平和条約締結後に北方領土の歯舞群島と色丹島の2島を引き渡すことを明記した日ソ共同宣言に署名して19日で丸60年を迎える。「引き分け」による領土問題の解決を目指すロシアのプーチン大統領は「両国が署名・批准した唯一の文書」と共同宣言を重視する姿勢で一貫。安倍晋三首相が「新しいアプローチ」で譲歩を示唆する中、ロシア側は2島返還で事実上の幕引きを図りたい考えとみられる。
 ◇影落とす歴史認識
 1956年10月、当時の鳩山一郎首相ら日本政府代表団は、モスクワの外務省迎賓館を交渉の拠点とした。今月13日、ここで12月のプーチン氏訪日を前に日ロ戦略対話が開かれ、杉山晋輔外務事務次官は「平和条約がない異常な状況が続いており、早期解決の必要がある」と訴えた。
 プーチン氏は9月、記者団に「ソ連は長く粘り強い交渉の結果、日ソ共同宣言に署名した。そこには2島を引き渡すと書いてある」と改めて強調。国後、択捉2島は交渉の対象外とする考えを示唆した。対象内の歯舞、色丹2島については、引き渡し方法や日ロどちらの主権に属させるかが検討課題だと述べた。
 プーチン氏の持論は、2島からロシア側がさらに譲歩する「2島プラスアルファ」どころか、2島返還にさえ条件を付けるものだ。
 ザハロワ外務省情報局長も「(四島は)第2次大戦の結果、ロシアに帰属しており、ロシアが主権を持つことに疑問の余地はない」「平和条約締結問題の進展に向けた前提条件は、日本が大戦後の領土を含む現実を認めることだ」と主張した。日ソ中立条約を無視したソ連の対日参戦を不法と見なすかどうかという歴史認識も影を落とし、問題を複雑にしている。

 ◇先行返還論に熱
 事態を打開すべく、安倍首相は5月のソチでの首脳会談で、平和条約締結に向けた新しいアプローチを提唱。プーチン氏に、経済分野など8項目の協力プランを提示し、全面的な日ロ関係の発展と、首脳間の信頼に基づく領土問題の解決に強い意欲を示した。両首脳はファーストネームで「君と僕」の間柄で呼び合い、9月のウラジオストク会談に続き、11月にペルーでも政治対話を重ねる。
 ロシア側には、プーチン氏の訪日時に領土問題で合意に達しなくても「今後の交渉の進め方やガイドラインで合意することは可能」(識者)と冷静に見る向きもある。
 一方、日本側ではこのところ「2島先行返還論」が再び熱を帯び、世論調査でも容認する意見が5割近くに上っている。しかし、仮に歯舞、色丹2島が返還された場合も、ロシア側が残る国後、択捉2島の交渉継続に応じる保証はない。「平和条約が締結されれば、領土問題は終わり」(外交筋)という声も出ている。(2016/10/17-16:50)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101700315&g=pol
北方領土、共同統治考えていない=菅長官

 菅義偉官房長官は17日午前の記者会見で、北方領土問題の打開策として日本政府が日ロ両国による共同統治案の検討に入ったとの一部報道について、「全く考えていない」と述べた。菅長官は「北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する従来の方針に全く変わりはない」と強調した。(2016/10/17-12:23)

942名無しさん:2016/10/30(日) 08:20:20
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161024/k10010741831000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_104
上海で少女像設置 官房長官「未来志向の姿勢が重要」
10月24日 12時33分
菅官房長官は午前の記者会見で、中国・上海の大学に慰安婦問題を象徴する少女の像が設置されたことについて、過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく、未来志向で取り組む姿勢が重要だという考えを示しました。
中国・上海の大学に慰安婦問題を象徴する2人の少女の像が設置され、現地の日本総領事館が大学関係者に懸念を伝えました。
これについて菅官房長官は午前の記者会見で、「こうした動きは、日中関係の改善に資するものとは言えず極めて残念だ。わが国としては、過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく、国際社会が直面する共通の課題に未来志向で取り組んでいく姿勢が重要だと考えている」と述べました。

また菅官房長官は、ソウルの日本大使館の前に設置されている慰安婦を象徴する少女像が撤去されていないことについて、「日韓両国の合意に基づいて、それぞれの国々が誠実に実行していくことが極めて重要だと思っている」と述べました。

943名無しさん:2016/10/30(日) 10:08:15
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102500752&g=pol
「東京に慰安婦像を」=菅官房長官発言に不快感-中国

 【北京時事】中国外務省の陸慷報道局長は25日の定例会見で、上海の大学での旧日本軍の慰安婦を象徴する少女像設置を踏まえ、ドイツは首都ベルリンにホロコースト(ユダヤ人大虐殺)記念碑を建立したと指摘した上で「東京にも慰安婦像を設置できれば、日本が歴史における負担を取り除き、アジアの隣国の理解を得るのに役立つかもしれない」と訴えた。

 陸局長は、上海の慰安婦像設置に菅義偉官房長官が「極めて残念だ」と述べたことに対し、「慰安婦強制は現在でも被害者と家族の心を傷つけている。時代が変わっても、歴史は変わらない。日本は軍国主義が犯した深刻な罪を直視、反省してほしい」と不快感を示した。(2016/10/25-18:15)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102400322&g=pol
慰安婦像設置は残念=菅官房長官

 菅義偉官房長官は24日午前の記者会見で、中国・上海市内の大学に旧日本軍の慰安婦を象徴する少女像が設置されたことについて、「日中関係の改善に資するものと言えず、極めて残念だ」と述べた。その上で「過去の不幸な歴史に過度に焦点を当てるのではなく、国際社会が直面する共通の課題に未来志向で取り組んでいく姿勢が重要だ」と語った。(2016/10/24-12:17)

944名無しさん:2016/10/30(日) 11:03:19
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016102900167&g=pol
「2島+アルファ」で解決を=北方領土交渉で鈴木宗男氏

 ロシア外交に詳しい鈴木宗男元北海道・沖縄開発庁長官は時事通信のインタビューに応じ、北方領土交渉について、歯舞群島と色丹島の返還に加え、国後島の共同統治などで合意する「2島プラスアルファ」の解決策が現実的だとの考えを明らかにした。
 鈴木氏はプーチン政権要人らとパイプがあり、安倍晋三首相と北方領土問題をめぐり意見交換を重ねている。
 平和条約締結後の歯舞、色丹2島の引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言について、鈴木氏は「プーチン大統領も認めている。ここがスタートラインだ」と指摘。その上で「何がプラスアルファで出てくるかで判断すべきだ」と述べ、国後島の共同統治のほか、同島への経済特区導入や元島民の自由往来、周辺海域の漁業権獲得などをロシア側が受け入れれば、平和条約締結に踏み切るべきだと主張した。
 鈴木氏は、国後、択捉両島について「その2島を返せ、と声高に唱えることは現実的ではない」との認識を表明。「ロシアの世論調査で8割が(北方領土を)返す必要がないと言っている。全部返すなら、プーチン氏は大変なリスクを負う」と語った。(2016/10/29-14:59)

945名無しさん:2016/11/05(土) 22:25:19
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161104/k10010756231000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_012
再来年は「明治150年」 関連施策の考え方取りまとめへ
11月4日 20時34分
政府は、再来年(平成30年)に明治元年から150年を迎えることに合わせた関連施策を検討する、関係府省庁の連絡会議の初会合を開き、議長を務める野上官房副長官は、施策の基本的な考え方を年内に取りまとめるよう指示しました。
政府は、平成30年に明治元年から150年を迎えるのに合わせて、明治時代の資料の収集や保存、それに各地で行われるイベントへの支援などの関連施策を検討していて、4日、総理大臣官邸で関係府省庁による連絡会議の初会合を開きました。
この中で、議長を務める野上官房副長官は「『明治150年』をきっかけに、明治以降の歩みを次世代に残すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要だ」と述べ、施策の基本的な考え方を年内に取りまとめるよう指示しました。
また、会合に出席した東京大学の山内昌之名誉教授は、明治時代に活躍した女性や若者に注目することや、日本で活躍した外国人の功績から和魂洋才の精神やグローバル化について考える機会を設けることなどを提案しました。
政府は、年内に有識者からのヒアリングを数回行うなどして、基本的な考え方を取りまとめたうえで、再来年度(平成30年度)の予算編成を見据えて、具体的な施策を決めていきたいとしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161105/k10010756631000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_005
慰安婦問題 韓国野党議員も日韓両政府の合意趣旨には賛同
11月5日 8時43分
日本と韓国の超党派の国会議員で作る議員連盟はソウルで合同総会を開き、慰安婦問題について、日韓両政府の合意に反対する立場の韓国の野党議員も、「被害者の名誉と尊厳を回復する」として、合意の趣旨には賛同する考えを示しました。
日本の国会議員で作る日韓議員連盟と、韓国の国会議員で作る韓日議員連盟の合同総会が、4日、両国の超党派の議員が参加してソウルで開催され、安全保障や経済などについて意見交換を行ったあと、共同声明を発表しました。
共同声明では、慰安婦問題について、「被害者の名誉と尊厳を回復するという両国政府の合意の趣旨に基づいて、ともに努力を続ける」とし、双方が協力していくことを確認しました。
慰安婦問題をめぐっては、韓国の野党は、日本政府が法的責任を認めていないとして合意に反対する立場を取っていますが、今回、参加した野党の議員は、その趣旨には賛同する考えを示した形です。
ただ、知人の女性実業家が職権乱用の共犯などの疑いで逮捕されたことを受けて、パク・クネ(朴槿恵)大統領の求心力が大きく低下している中、合意の履行への影響は避けられないのではないかという見方が出ています。
総会のあと、日本側の幹事長を務める自民党の河村元官房長官は「韓国の国内政治を早く正常に戻していただきたい。韓国の与野党の意見も踏まえながら、合意にのっとってやっていきたい」と述べ、韓国側に合意を着実に履行するよう求めました。

946名無しさん:2016/11/06(日) 06:50:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110400413&g=pol
慰安婦問題、合意推進=菅長官

 菅義偉官房長官は4日午前の記者会見で、慰安婦問題をめぐる日韓合意について「責任を持って実施することは両国にとって極めて重要だ。しっかりと連携して進めていきたい」と強調した。韓国の朴槿恵大統領が親友の国政介入疑惑で捜査の受け入れを表明したことに関連して答えた。(2016/11/04-12:34)

947名無しさん:2016/11/06(日) 12:40:33
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161106-00000006-nkgendai-ent
欅坂46の衣装はどこがアウトなのか 服飾史評論家に聞いた
日刊ゲンダイDIGITAL 11/6(日) 9:26配信

 人気アイドルグループ「欅坂46」のハロウィーンライブ衣装が、ナチス・ドイツの軍服を彷彿とさせるとして世界的に物議を醸している。“やっちまった感”たっぷりだが、具体的には衣装のどこがアウトだったのか? 

「軍装・服飾史カラー図鑑」(イカロス出版)の著者で服飾史評論家の辻元よしふみ氏はこう分析する。

「ワンピースやマントは確かに黒色で、ナチスの親衛隊をイメージさせなくもありませんが、デザイン的にはごく平凡。帽子もどこにでもある19世紀以来の官帽子で、これがダメなら世界中のお巡りさんや警備員が訴えられます。ただ一点、帽子に付いていた“銀色のワシ”が決定的にアウトです」

■「デザイナーは軽率」

 ワシのマークは正式に「鷲章」という。辻元氏によれば、そもそも古代ローマ帝国の国家章で、その後、ロシア帝国やナポレオン帝国、ドイツ帝国などが採用。米国がワシを用いているのもその影響だ。ナチス帝国もこれを流用。ワシが鉤十字をつかんだマークを親衛隊や国防軍の制服に採用したといういきさつがある。

「ワシはまさにナチスのシンボル。ナチスのワシは足で輪の中の鉤十字をつかんでいますが、欅坂46のものは鉤十字を他のマークに差し替えています。デザイナーは“鉤十字を使っていないから大丈夫”と判断したのでしょうが、軽率でしたね」

 もし意図的な差し替えなら、それがナチスのマークで、“そのまま使ったらやばい”ということを把握していた証拠だ。

 過去には、沢田研二も“そのまんま”な衣装を着てトラブルになった。写真や映像があっという間に世界中に拡散される今、芸能人でなくても同じような“被害”に巻き込まれる恐れがあるかもしれない。これからの忘年会シーズン、そのコスプレがアウトかセーフか、着る前に冷静に考えた方がよさそうだ。

948名無しさん:2016/11/06(日) 12:41:17
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/334732/
韓国アイドルグループのナチス風衣装に欧米から批判
2014年11月17日 17時58分

 韓国のアイドルグループがナチスをほうふつとさせる衣装を着ていると欧米を中心に批判を浴びている。

 問題となっているのは今年5月にデビューした4人組新人アイドルの「PRITZ」。今月上旬に韓国の釜山競馬公園でライブを行った際、黒のゴスロリ風ドレス、左腕に腕章をつけて登場した。腕章には赤地に白円、中にX模様の黒十字が描かれていた。

 ライブの様子がSNSやYoutubeを通して広まると、欧米からは
腕章がナチスの親衛隊などがつけた「かぎ十字(ハーケンクロイツ)」の腕章を思わせるとして批判を浴びた。

 さらにウォールストリートジャーナル電子版が13日付の記事で「韓国のガールズグループがナチのようなロゴをつけて批判を浴びている」と報じ、このニュースは一気に拡散。欧米はもとより、地元の韓国からも「恥ずかしくて声もでない」など国内からも非難の声が上がった。

 所属事務所は紋章について「速度制限の交通標識に着目した」とナチスとの関連はないと釈明した。所属事務所のホームページは騒動以来サーバーはダウンした状態が続いている。

 一方、日本のアイドルファンからは「PRITZ」のゴスロリ風の衣装やグループのロゴがそっくりなことから世界的に人気のアイドルメタルユニット「BABYMETAL」のパクリ疑惑も指摘されている。

949名無しさん:2016/11/06(日) 12:46:25
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50128
欅坂46「ナチス風衣装」の世界的炎上、いったい何が問題なのか?
アイドルはこうして政治色を帯びていく
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究者プロフィール

「欅坂46」のコスチューム騒動

日本の女性アイドルグループのコスチュームが世界的に物議を醸している。

「欅坂46」が、10月22日に横浜で行われたハロウィーンコンサートにおいて、ナチス・ドイツの軍服(制服)に似たコスチュームを着用。これがSNS上で問題視され、海外メディアにも波及し、31日、ついに米国のユダヤ系人権団体「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」が謝罪を求める声明を出すにいたったのである。

これに対する対応は早かった。11月1日、「欅坂46」所属元の親会社であるソニー・ミュージックエンタテインメントはウェブ上で「認識不足」だったと謝罪し、プロデューサーの秋元康も「ありえない衣装」だったと同じく謝罪のコメントを発した。

この騒動が今後どこまで大きくなるのかはまだ予断を許さない。だが、現在のところ次のことがいえる。

(1)これまで日本で寛容に扱われてきた「ナチカル」が、情報環境や政治情勢の変化によって、許容されなくなりつつある。

(2)一般論として、政権に近い文化人の作品は批判的に検証されるべきだ。だが、今回の騒動に関しては「認識不足」以上とはいいがたい。これのみをもって政権批判にまで持っていくのは無理がある。

(3)ただし、アイドルと政治の関係は近年東アジアで密接になりつつある。今後の動きは大いに警戒するべきだ。

以下、具体的にひとつひとつ説明していこう。

戦後日本の「ナチズム消費」

まず、戦後日本の特別な事情に言及しておかなければならない。

戦後日本には、マス・メディアを中心に、ナチズムが大衆文化として消費されてきたという歴史がある。佐藤卓己はこれを「サブカルチャー」の1ジャンルとして「ナチカル」と名付け、分析している(『ヒトラーの呪縛』単行本2000年、文庫版2015年)。

日本は、ナチス・ドイツの同盟国だったとはいえ、ユダヤ人虐殺などに直接加担しておらず、ナチズムに対する忌避感がそれほどない。ドイツなどのように、厳しい取り締まりもない。そのため、ナチズムは「悪の象徴」としてサブカルチャー全般において気軽に使われてきた。

前掲書によれば、その範囲はきわめて広い。

・新聞報道における「ヒトラーというレッテル」
・文庫本を中心に翻訳される「ナチ冒険小説」
・劇場映画で作られるナチ・イメージ
・ロック音楽に寄り添うヒトラーの影
・軍事オタクの必須アイテムであるプラモデル
・「ヒトラー・マンガ」とコミケ(コミックマーケット)文化
・ユダヤ陰謀論からUFOまでオカルト世界の「トンデモ・ナチズム」
・純文学や戯曲から中間小説まで日本文芸におけるナチ受容
・ビジネスマン文化となった新書版架空戦記
・WWWで拡大した電脳ナチズム

具体的な作品名をあげれば、『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』『キン肉マン』『鷲は舞い降りた』『わが友ヒットラー』『紺碧の艦隊』『20世紀最後の神話』など。「ナチカル」の幅広い影響がうかがい知れる。

こうした「ナチカル」はときに社会問題ともなった。だが、その多くは見過ごされ、現在に比べれば平穏に消費されてきた。

今回のコスチューム騒動について、「欅坂46」の関係者は、ナチス・ドイツの軍服との関係を否定している。とはいえ、ああいう「ナチス・ドイツっぽい」コスチュームが気軽に、無意識に使われてしまうことこそ、まさに「ナチカル」の例である。

仮にナチス・ドイツの軍服を参照していたとしても、これまでの「ナチカル」の延長線上で、まさかここまで問題になるとは思っていなかったのではないか。

しかるに、今回は「炎上」騒動に発展した。いまや「ナチカル」は急速に許容されなくなりつつあるのだ。

その理由はふたつ考えられる。

950名無しさん:2016/11/06(日) 12:47:35
>>949

時代の変化と「ナチカル」の限界

ひとつは、情報環境の変化である。SNSの普及により、どんな情報でもすぐに拡散されて「炎上」し、場合によっては海外にまで波及してしまう。これでは、日本固有の事情は通用しなくなる。

もうひとつは、政治情勢の変化である。現在世界では排外主義が広がっている。日本でも、レイシストの集団がハーケンクロイツを掲げて街頭デモを行ったことがある。こうしたなかで、ナチズムの消費はもはやブラックジョークとしても成り立ちにくくなっている。

実際、2014年に韓国でも同じような騒動があった。「PRITZ」というアイドルグループが、ナチス・ドイツの軍服風のコスチュームを着て、批判されたのである。

よく見れば、「欅坂46」のコスチュームにハーケンクロイツはない。ナチの軍服や制服と似てない点も多々あげられる。今日のように、政治情勢が険しくなく、SNSのようなツールもなければ、ここまで問題化していなかったかもしれない。

それに加え、「欅坂46」があまりにメジャーで目立ったグループであること、今回のコスチュームにあまりに必然性がなかったことなども「炎上」の一因だろう。要するに、あれだけの大組織の運営にしては、あまりに不用意だったということに尽きる。

時代が急速に変化するなかで、「ナチカル」もまた曲がり角に来ている。今後の情勢いかんによっては、似たような騒動が起きる可能性も否定できない。

個人的には、ナチス・ドイツの所業について十分な知識が共有され、排外主義の運動など起こらず、ブラックジョークも苦笑とともに放置してもらえるほどに、啓蒙された社会こそ理想だと考える。

だが、趣味とて社会の相関物だ。遺憾ながら、いまの状況下では問題視されるのはやむをえないし、これ以降はより注意深く扱っていかなければならなくなるだろう。

安倍政権批判はさすがに無理筋

今回のコスチューム騒動は、現在までの情報を見る限り、単に「認識不足」の結果であると考えられる。当事者たちに何かの信念があったならば、また議論の余地もあっただろうが、実際はそうではあるまい。

サイモン・ヴィーゼンタール・センターの抗議にあわててすぐに謝罪して幕引きを図った。この対応がすべてを表している。

しかし、今回の騒動を通じて、政権批判にまで持っていく向きもあるようだ。プロデューサーの秋元康は安倍政権と近しい。だから、そのコントロール下にあるアイドルの行動にも、何らかの政治的な意図があるのではないかというわけだ。

また、「欅坂46」の楽曲「サイレントマジョリティー」(2016年4月発売)のPVの一部が「ナチ式敬礼」に見えることなどをあげて、全体主義的な思想を継続的に広めようとしているとの批判も見られる。

たしかにプロデューサーの秋元康は、クールジャパン推進会議の議員や、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の理事を務めている。安倍政権との関係は決して浅くはない。

そして一般論として、このように政権と近い距離にある文化人が関わる作品は、特に批判的に検証されるべきだ。癒着の可能性があるし、文化芸術を使って政治宣伝を行う可能性もあるからである。

とはいえ、今回の「欅坂46」のコスチュームに政治的な意図があったとは考えにくい。女性アイドルがナチス・ドイツの軍服らしきものを着て踊ったからといって、何の意味があるというのだろう。むしろ、実際にそうなったように、「クールジャパン」政策にとってマイナスの効果しかない。

繰り返すが、政権に近しい文化人に対する批判的な検証は大いにやるべきだ。だが、今回のコスチューム騒動のみをもって政権批判にまで持っていくのは、さすがに無理筋だと思われる。

念のためいえば、「サイレントマジョリティ」PVの「ナチ式敬礼」批判もかなり無理がある。どう見ても、一連の動作の一部分を切り取ったにすぎない。そもそも同曲の歌詞は、同調圧力に対する批判と読み取れる。これを全体主義的な思想の宣伝と捉えるのは、明らかに飛躍である。

無理筋の批判は、かえって批判の矛先を鈍らせる。本当に問題があるものが出てきたときのために、その矛先は大事に磨いておいたほうがよい。

951名無しさん:2016/11/06(日) 12:48:01
>>950

中国、韓国、北朝鮮でも…

むろん、アイドルと政治の関係には警戒が必要である。というのも、東アジアにおいてこの両者は急速に結びつきつつあるからだ。

北朝鮮では、金正恩第一書記(当時)の肝いりで、2013年にガールズグループ「モランボン楽団」が結成された。彼女たちは、固くなりがちなプロパガンダ曲を現代風にアレンジし、国内外で大きな反響を巻き起こした。

中国でも、2015年に事実上の官製アイドルグループである「56輪の花」(フラワーズ56)が結成され、「中国の夢はもっとも美しい」などの愛国歌を様々なイベントで披露している。「中国の夢」は、習近平国家主席が唱えるスローガンのひとつである。

また、SNH48は、2016年10月の国慶節(建国記念日)を前に、「私と私の祖国」という愛国歌を現代風にアレンジしたMVを発表した。「私と私の祖国は片時も離れられない」という内容だ。

ちなみにSNH48は、秋元康のプロデュースで2012年上海に誕生したアイドルグループだが、2016年6月にAKB48グループを離れて独立し活動している。

そのほか、韓国ではK-POPのアイドルによる慰問公演が行われ、兵役のイメージアップのため、K-POP風の軍歌(「自分を超える」)も作られている。台湾でもかつてはアイドルの慰問公演が行われていたようである。

政治とアイドルの関係には警戒せよ

由来、プロパガンダは最新の娯楽を取り込もうとする。楽しくなければ、民衆を引きつけることができず、効果をあげられないからだ。

筆者はこうした動きをかつて「楽しいプロパガンダ」と名付けた。昨今のアイドルブームに鑑み、為政者がアイドルを取り込もうとしてもそれほどふしぎではない。

幸いに、日本は以上の国々ほど露骨にアイドルが政治利用されているわけではない。慰問の例もなくはないが、多くは自衛隊の募集ポスターやCMに使われている程度だ。

だが、押田信子が『兵士のアイドル』(2016年)で明らかにしたように、アジア太平洋戦争下の日本ではアイドルが戦争動員に利用されたことがある。アイドルは、慰問公演や慰問雑誌などを通じて、兵士のメンタルケアに使われたのである。

それゆえ、現代日本で政治とアイドルが再び結びつく可能性はゼロではない。まして巨大なアイドルグループを率いる秋元康は、安倍政権ときわめて近しい。今回のコスチューム騒動は「認識不足」にすぎないと思われるが、今後はどうかはわからない。継続してウォッチしておく必要がある。

コスチュームが本物の軍服や制服となったとき、歌詞が「同調圧力」を肯定するようになったとき、あるいは国策イベントに動員されるようになったとき──。もっと明白なサインはいくらでもある。

今回のコスチューム騒動を通じて、政治とアイドルの関係にもっと注目が集まれば、もっけの幸いである。

952名無しさん:2016/11/06(日) 15:02:30
人類史の曲がり角!? 私たちは今、どのような時代を生きているのか 【新連載】たそがれる国家(1)
現代ビジネス 10/30(日) 11:01配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161030-00050071-gendaibiz-bus_all

953名無しさん:2016/11/06(日) 15:21:53
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161101-00000362-oric-ent
欅坂46の衣装騒動 所属レコード会社が謝罪
オリコン 11/1(火) 18:49配信

 アイドルグループ・欅坂46が10月22日に開催されたコンサートで着用した衣装が「ナチス・ドイツ」の軍服を思わせるデザインであるとネットを中心に物議を醸した問題で、所属レコード会社のソニー・ミュージック公式サイトがきょう1日、コメントを掲載。「ご不快な思いをさせてしまったことに対し、心よりお詫び申し上げます」と謝罪した。また、プロデューサーの秋元康氏もグループ公式サイトで「プロデューサーとして、監督不行き届きだったと思っております。大変申し訳なく思っています」とコメントを発表した。

 先月22日に行われたイベントで着用した帽子や黒のマントなどの衣装が、公演直後から「ナチス・ドイツの軍服」に似ているなどとSNSを中心に指摘する声が多くあがり、米国のユダヤ系人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)」が31日、レコード会社などに対し謝罪を要求する事態となっていた。

■ソニー・ミュージック公式サイト、コメント全文
「平素は欅坂46を応援していただき、誠にありがとうございます。
10月22日に開催されましたハロウィンイベントにおいて、欅坂46が着用した衣装について、『ナチスドイツの軍服がモチーフではないか』とのお問い合わせ・ご指摘をいただいております。
私どもの認識不足により、衣装の色やその他を含む全体のデザインが、そのようなイメージを想起させる部分があり、ご不快な思いをさせてしまったことに対し、心よりお詫び申し上げます。
また、当該の衣装に関しては、今後一切着用いたしません。
今回のご指摘を真摯(しんし)に受け止め、再発防止に努めてまいります。
多くのみなさまにご心配とご迷惑をおかけいたしましたこと、重ねてお詫び申し上げます」。

■秋元康氏コメント全文
「ニュースで知りました。ありえない衣装でした。
事前報告がなかったので、チェックもできませんでした。
スタッフもナチスを想起させるものを作った訳ではないと思いますが、プロデューサーとして、監督不行き届きだったと思っております。
大変申し訳なく思っています。
再発防止に向けて、すべて事前にチェックし、スタッフ教育も徹底して行いたいと思います」。

954名無しさん:2016/11/06(日) 16:51:22
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161104-00000526-san-pol
抑留死亡者、新たに22人特定
産経新聞 11/4(金) 14:16配信

 厚生労働省は4日、第二次大戦後に旧ソ連に抑留され、シベリア地域と千島列島で死亡した日本人計22人を新たに特定し、都道府県別の出身地とともにホームページで公表した。これで抑留死亡者の特定はシベリア地域(モンゴル地域を含む)で3万9634人、それ以外の地域で968人となった。

 公表された22人は次の通り。(漢字の字体は厚労省発表に基づく。敬称略)

 ◇シベリア地域(21人) 【北海道】佐藤賢、【福島県】橋本利吉、【茨城県】粕谷茂、【新潟県】渡邊利衛、【石川県】前田清、吉野治夫、【福井県】土●(橋)満雄、【長野県】堀廣司、【岐阜県】杉岡一郎、【愛知県】中根三郎、【徳島県】前田茂雄、矢倉清一、【香川県】中村善吉、【福岡県】金子勝次、尾家修、【熊本県】髙山浩己、内田正美、【大分県】盛田平藏、三ヶ尻敏明、【鹿児島県】三差政夫、下温湯喜作

 ◇千島列島(1人) 【北海道】前田●(=徳の心の上に一)太郎

955名無しさん:2016/11/13(日) 11:55:57
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110900778&g=pol
「われわれは同じ被ばく者」=カザフ大統領が広島初訪問

 来日中のカザフスタンのナザルバエフ大統領は9日、被爆地・広島市を訪れた。同大統領の広島訪問は初めて。広島国際会議場で開かれた歓迎行事で、大統領は旧ソ連の度重なる核実験でカザフの国土や国民が受けた被害に触れ、「(国によって)言葉は違うが、われわれが被ばく者であることは同じだ」と述べ、核廃絶へ向けた連携を訴えた。
 歓迎行事に先立ち、大統領は平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑を訪れ、黙とうをささげた。平和記念資料館(原爆資料館)も見学した。
 大統領は、自分の目で見た原爆の被害に心が動かされたと振り返り、「われわれは核廃絶と核不拡散に向け共通目的を持っている。核兵器のない世界をつくるためにがんばろう」と呼び掛けた。
 行事では、市内の幼稚園児や母親ら約40人がカザフ国民の歌と呼ばれている「ザマナイ-時代よ」を合唱。カザフの核実験場を閉鎖に追い込む市民運動の象徴となった歌で、日本語とカザフ語で核の恐ろしさを歌い上げた。大統領は熱心に耳を傾け、「核兵器のない世界に向け、両国の象徴になる歌だ」と話した。(2016/11/09-20:15)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110600047&g=pol
外国要人、被爆地へ続々=オバマ氏訪問契機か

 今月に入り、被爆地の広島、長崎両市への外国要人の訪問が目立ち始めた。3日のマトビエンコ・ロシア上院議長を皮切りに、カザフスタンのナザルバエフ大統領ら計4人が続々と来訪。今年5月のオバマ米大統領による歴史的な広島訪問に触発された可能性もありそうだ。
 3日に長崎市を訪問したマトビエンコ氏は、原爆資料館を視察、平和祈念館で献花した後、記者団に「長崎市を最後の被爆地にという活動を全面的に支持する」と表明した。
 同市によると、2000年からの16年間で現職の元首または国会議長は同氏で4人目。中旬にはドイツのガウク大統領も資料館や平和公園を訪れる予定で、これまでと比べ「ハイペース」な印象だ。
 広島市の方は14年度と15年度で計9人いるが、元首はこの2年間で14年度のアキノ・フィリピン大統領(当時)だけ。それが今年度はオバマ氏に続き、9日にナザルバエフ氏が訪問を予定しており、16年度だけで元首は二人となる。
 カザフスタンには旧ソ連のセミパラチンスク核実験場があり、周辺住民は今も放射能汚染に苦しむ。同氏は核軍縮に積極的に取り組んでいることで知られる。4日にはスイスのコント連邦議会議長が広島市を訪問した。
 外務省幹部は、オバマ氏訪問が影響を与えた可能性を指摘し、「世界の要人が核兵器の実相に触れるいい機会だ。核なき世界に向けて効果的なメッセージを期待できる」と語る。国連で15、16両年、日本主導で「指導者や若者らの被爆地訪問」を奨励する核廃絶決議が採択された効果もあるとみられる。(2016/11/06-14:26)

956名無しさん:2016/11/19(土) 23:35:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016111600963&g=pol
韓国財団、元慰安婦23人に現金支給=支援団体は大統領退陣要求

 【ソウル時事】慰安婦問題をめぐる日韓政府間合意に基づき設立された韓国の「和解・癒やし財団」の関係者は16日、元慰安婦23人に対し、1人当たり1億ウォン(約900万円)の現金を支給したことを明らかにした。
 日韓両政府が合意を発表した昨年12月28日時点での生存者は46人(その後6人死亡)で、財団は日本政府からの10億円の拠出を受け、1人当たり1億ウォンを支給することになっている。このうち、本人または家族29人が受け取る意思を示していた。29人のうち、残る6人についても支給手続きを行っており、財団関係者は「年内の支給を目標としている」と述べた。
 一方、合意に反対している韓国の民間支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」の尹美香常任代表は16日、時事通信の取材に、朴槿恵大統領の親友、崔順実容疑者の国政介入疑惑発覚を受け、朴大統領の退陣を求めていく方針を明らかにした。(2016/11/16-23:46)

957名無しさん:2016/11/20(日) 14:47:17
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161120/k10010775651000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_009
首相 ペルーの日系人に日本での教育機会を提供へ
11月20日 6時02分
ペルーを訪れている安倍総理大臣は日本時間の19日夜、日系人協会が主催した歓迎会に出席し、ペルーの日系人を日本に招き、研究や教育などの機会を提供する事業を推進していく考えを示しました。
APEC=アジア太平洋経済協力会議の首脳会議に出席するためペルーを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の19日夜、首都リマの劇場で開かれた日系人協会主催の歓迎会に昭恵夫人とともに出席し、あいさつしました。

この中で安倍総理大臣は、20年前にリマで起きた日本大使公邸が占拠された事件で日系人も人質になったことに触れたうえで、「中南米の中で、ひときわ団結力の強いペルー日系人の皆さんが当地で培ってこられた高い評価に接するたび、身の引き締まる思いがする。日本国民は皆、これを誇りに思う」と述べました。

そのうえで、安倍総理大臣は「次の世代をになう日系人の若者にも、日本を知り、愛してもらいたいと願わずにはいられない。若い世代の日系人を日本にお招きする事業に力を注ぐ」と述べ、ペルーの日系人を日本に招き、研究や教育などの機会を提供する事業を推進していく考えを示しました。

958名無しさん:2016/11/20(日) 18:49:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112000001&g=pol
「心の絆は永遠」=安倍首相、日系ペルー人と交流

 【リマ時事】安倍晋三首相は19日午前(日本時間同日深夜)、ペルーの首都リマで開かれた日系ペルー人による歓迎会に出席した。首相は「太平洋のあちらとこちら、距離は離れているが、心は永遠につながっている」と述べ、日系人が両国の懸け橋となることに期待を示した。
 歓迎会には元国家警察長官で、1996年発生の在ペルー日本大使公邸占拠事件で人質となった日系3世マルコ・ミヤシロさん(63)ら数百人が出席。首相はミヤシロさんに「その節は本当にご苦労をお掛けしました」と声を掛けた。(2016/11/20-00:05)

959名無しさん:2016/11/20(日) 19:42:03
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112000182&g=pol
4島の帰属確認を=蓮舫民進代表

 民進党の蓮舫代表は20日、ロシアとの北方領土交渉に関し「4島の帰属を認めるとの前提条件を譲ることなく、しっかりとした協力、対話になることを期待したい」と述べ、帰属問題を曖昧にした形での決着は認められないとの姿勢を示した。また、ウクライナ情勢を受けた対ロ制裁に触れ、「日本だけが前のめりにならないよう注意してもらいたい」と注文を付けた。高知市で記者団に語った。(2016/11/20-18:40)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161120/k10010776381000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001
北方領土の元島民「領土問題 着実に前進を」
11月20日 18時47分
安倍総理大臣がロシアのプーチン大統領と会談したことを受けて、北方領土の元島民などで作る団体は、北海道根室市で記者会見し、来月の首脳会談に向けて「経済協力だけでなく、領土問題も車の両輪のように、着実に前進させてほしい」と訴えました。
安倍総理大臣は日本時間の20日朝、訪問先のペルーでロシアのプーチン大統領と会談し、会談後、記者団に対し領土交渉を大きく前進させるのは容易ではないものの、着実に進展を図りたいという考えを示しました。

これを受けて、北方領土の元島民などで作る「千島歯舞諸島居住者連盟」は根室市で記者会見し、この中で、宮谷内亮一根室支部長は「会談後の発言から領土問題の難しさを感じた」と述べました。

そのうえで、宮谷内支部長は「経済協力だけでなく領土問題も車の両輪のように着実に前進させるよう交渉してほしい。今こそ最後のチャンスだと思うので、一歩でも半歩でも前進させて、先送りにすることがないようにしてほしい」と訴えました。

960名無しさん:2016/11/23(水) 22:37:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112000192&g=pol
領土交渉、見えぬ進展=安倍首相周辺「やはり厳しい」-日ロ首脳会談

 【リマ時事】北方領土交渉の進展に向け「詰め」の協議と位置付けられた19日の日ロ首脳会談。安倍晋三首相はロシアが期待する経済協力プランの着実な実施を約束すると同時に、領土問題で踏み込んだ提案を行ったもようだ。だが、プーチン大統領の反応は芳しくなかったとされ、首相同行筋は「首相は『やっぱり領土問題は厳しい』と実感したようだ」と明かした。
 首相は会談後、こわばった表情で「そう簡単ではない」「一歩一歩前進していきたい」と繰り返した。9月のロシア・ウラジオストクでの会談後、「手応えを強く感じ取ることができた」と語ったのとは対照的だ。同行筋は「首相は表情が明るくなかった」と認め、「理由を聞くのはつらいから聞いていない」と心中をおもんぱかった。
 今回の会談に当たり、両政府は8項目の経済協力プランの作業計画を取りまとめた。プーチン氏の関心が高いロシア極東での医療事業や都市環境整備、エネルギー開発など広範な案件を盛り込み、政府関係者が「日本側の本気度が伝わるはずだし、手応えはあった」と胸を張る内容だ。
 実際、プーチン氏は首脳会談の全体会合で「作業計画を1ページ目からじっくり読み込んでいた」(同行筋)。しかし、この後、通訳を交えた首脳2人だけの会談では、作業計画に高い関心を示す一方、首相の話は「あまり聞いていなかったらしい」(同)という。
 9月の前回会談後、目立った変化は、米大統領選でロシア寄りとも取れる発言をしてきたトランプ氏の勝利と、日ロ経済協力を担当したウリュカエフ前経済発展相の訴追・解任だが、ロシア側の対応にどう影響したかは不明だ。外務省幹部は「一つの節目に近づけば近づくほど、交渉が難しくなるのは自然だ」と解説した。
 首相は、あくまで経済協力をテコに領土交渉を動かしたい考えだ。19日の会談後、12月15日に地元の山口県長門市で予定する次回会談に向け「経済協力はしっかりやってくれ」と周辺に指示した。
 だが、会談結果を受け、政府内からは領土問題で目に見える成果を上げるのは厳しいとみて、期待値を下げるかのような声も漏れ始めた。ある関係者は「12月15日はゴールではなくスタート。今後の方向性を確認できれば十分だ」と語った。(2016/11/20-18:53)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112100346&g=pol
法的立場守るのが前提条件=菅官房長官-日ロ関係

 菅義偉官房長官は21日午前の記者会見で、ロシアのプーチン大統領が安倍晋三首相との首脳会談で北方領土での「共同経済活動」を協議したと明らかにしたことに関し、「(日本の)法的立場を害さないことが前提条件だ」と述べ、ロシアの領有権を前提とした共同経済活動には応じられないとの認識を示した。(2016/11/21-12:33)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112100755&g=pol
政府、実効支配追認を警戒=ロ大統領の「共同経済活動」に

 19日の日ロ首脳会談で協議された北方領土での「共同経済活動」は、プーチン・ロシア大統領が提案したとみられる。これに対し、日本政府は慎重姿勢を示している。ロシアの実効支配を追認することになりかねず、北方四島の返還が実現しない上に経済協力だけ「食い逃げ」される恐れがあるからだ。プーチン氏訪日を来月15日に控え、政府は難しい対応を迫られている。
 「わが国の法的立場を害さないことが前提だ」。菅義偉官房長官は21日の記者会見で、プーチン氏が明らかにした共同経済活動について警戒感をあらわにした。
 共同経済活動は、そもそもエリツィン政権下でロシア側が提案したもので、1999年から日ロ両政府が協議した経緯がある。日本の法的立場を損なわないよう、陸上ではなく周辺海域での稚貝や稚魚を一定期間育てて放流する栽培漁業が検討されたが、実現しなかった。ロシア側はその後も、水産加工や農業、観光などの共同活動をたびたび提案している。
 今回の協議内容は不明だが、4島に対するロシア側の施政権を認めた形であれば、世論の反発は避けられない。民進党の野田佳彦幹事長は記者会見で、「『はい、そうですか』という話ではない」と政府をけん制した。
 プーチン氏の日本重視には、先進7カ国(G7)にくさびを打ち込む思惑があった。米大統領選でロシアとの関係改善を唱えるトランプ氏が当選したことで、こうしたプーチン氏の姿勢が変化した可能性があると日本政府関係者は指摘する。
 日ロの立場の隔たりが改めて鮮明になっているが、次回首脳会談では具体的な成果が不可欠。政府の一部には共同経済活動を「日本の潜在施政権を認めるということだ」と肯定的に受け止める向きもある。ただ、与党内では「経済協力だけ取られて終わりだ」(自民党閣僚経験者)との懸念が広がっている。(2016/11/21-20:23)

961名無しさん:2016/11/23(水) 22:39:20
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112200494&g=pol
ロシア側、これ以上の譲歩困難=日本との共同経済活動で専門家

 【モスクワ時事】日ロ関係に詳しいロシア科学アカデミー極東研究所のビクトル・クジミンコフ日本研究センター上級研究員は21日、時事通信の取材に応じ、リマの日ロ首脳会談で協議された北方領土での「共同経済活動」について、「領土問題で、ロシアにとって実現可能で最大限譲れる提案はこれになる」と語り、ロシア側が領土問題でこれ以上譲歩するのは現時点では難しいとの認識を示した。
 プーチン大統領は北方領土について「第2次大戦の結果、ロシアに主権がある」という見解を繰り返し表明。一方、日本政府は北方領土での共同経済活動はロシアの主権を認めることになるとして、容易に応じられないという立場を取っている。(2016/11/22-14:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112200872&g=pol
北方領土に最新鋭ミサイル=軍事化が一層鮮明-ロシア報道

 【モスクワ時事】インタファクス通信は22日、ロシア太平洋艦隊(司令部ウラジオストク)機関紙の報道として、ロシアが実効支配する北方領土の国後島と択捉島に、最新鋭の地対艦ミサイルシステム「バル」と「バスチオン」が配備されたと伝えた。国後にバル、択捉にバスチオンが配備されたという。これらの最新鋭ミサイルが北方領土に配備されたのは初めてとみられる。
 ロシアのショイグ国防相は3月、年内にクリール諸島(北方領土と千島列島)にミサイルを配備する計画を明らかにしていた。報道が事実なら、北東アジアの要衝として国後、択捉の軍事化を進めるロシアの姿勢が、一層鮮明になったと言えそうだ。プーチン大統領も20日、リマでの記者会見で、北方領土について「ロシアに主権がある」と明言している。
 バルは射程130キロ、バスチオンは同300キロ。バスチオンはロシアが編入したウクライナ南部クリミア半島を皮切りに順次配備されており、ロシア太平洋艦隊は7月、沿海地方から日本海に向けて発射演習を行ったと発表していた。(2016/11/22-22:18)

962名無しさん:2016/11/23(水) 22:47:13
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016112100803&g=pol
「アルゼンチンとの懸け橋に」=安倍首相、日系人と交流

 【ブエノスアイレス時事】安倍晋三首相は21日午前(日本時間同日夜)、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの「在亜沖縄県人連合会会館」で開かれた日系アルゼンチン人による歓迎会に出席した。首相は「(日系人が)勝ち得た揺るぎない信頼は日本人全体の誇りだ。引き続き日本と結ぶ懸け橋になっていただきたい」と呼び掛けた。
 歓迎会には約1000人の日系人が出席。首相は日系人がブエノスアイレスで運営する診療所に血液分析を行う機器などを贈ると発表した。(2016/11/21-22:03)

963名無しさん:2016/11/23(水) 23:28:58
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161121/k10010777091000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_051
官房長官 北方領土 政府の基本的立場変更ない
11月21日 12時29分
菅官房長官は午前の記者会見で、ロシアのプーチン大統領が、安倍総理大臣との会談で北方領土での共同経済活動についても話し合ったことを明らかにしたことに関連して、4島の帰属の問題を解決し、平和条約を締結する日本政府の基本的立場に変更はないという考えを示しました。
この中で、菅官房長官は安倍総理大臣とロシアのプーチン大統領との会談について、「首脳間の信頼関係にもとづき、くつろいだ雰囲気の中で北方領土問題をはじめとする二国間関係を中心に議論を行い、平和条約締結問題については、通訳のみを交えて、率直な意見交換が行われた。有意義な会談だった」と述べました。

そして、菅官房長官は、プーチン大統領がその後の記者会見で、北方領土での共同経済活動についても話し合ったことを明らかにしたことに関連して、「2人だけの会談なので、私から言うのは控えたい。4島の帰属の問題を解決し、平和条約を締結する基本的立場に変更はない」と述べました。
そのうえで、菅官房長官は「70年間解決できなかった領土問題なので、一挙に解決できるような、なまやさしい問題ではない。1歩1歩、超えていくべきことを超えながら、4島の帰属の問題を解決して、平和条約を締結するという立場で交渉していく」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161121/k10010777791000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_038
首相 中南米各国との関係強化に日系人の役割に期待
11月21日 22時47分
アルゼンチンを訪れている安倍総理大臣は、中南米各地の日系人との交流行事であいさつし、「皆さまが『架け橋』になっているからこそ、日本と中南米は共にやっていける」と述べ、日本と中南米各国との関係強化に向け、日系人の役割に期待を示しました。
ペルーでのAPEC=アジア太平洋経済協力会議の首脳会議を終えた安倍総理大臣は日本時間の21日午後9時半ごろから、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、中南米各国の日系人との交流行事に昭恵夫人とともに出席し、あいさつしました。

この中で、安倍総理大臣は「日本から遠く離れたこの地域にやってきて、いろいろな困難を歯を食いしばって乗り越え、尊敬の念を集めた皆さまに改めて敬意を表したい。皆さまが勝ち得た揺るぎのない信頼こそ日本人全体の誇りだ」と述べました。そのうえで、安倍総理大臣は「皆さま方のようにアルゼンチンで、中南米の至るところで、現地の人々から不動の信頼を集める方々がいてくださる。そんな皆さまが『懸け橋』になっているからこそ、日本と中南米は共にやっていける」と述べ、日本と中南米各国との関係強化に向け、日系人の役割に期待を示しました。

964名無しさん:2016/11/27(日) 22:47:14
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161125-00145689-toyo-bus_all
鈴木宗男氏「北方領土への誤解が多すぎる」
東洋経済オンライン 11/25(金) 6:00配信

第10回は新党大地の鈴木宗男代表。1956年の「日ソ共同宣言」から60年。2016年の12月15日、舞台は山口県・長門市の「大谷山荘」。日ロ関係の改善に執念を燃やす安倍首相とロシアのプーチン大統領との会談が予定され、北方領土への関心が急速に高まっている。
その安倍首相とたびたび意見交換をしているのが、日ロ関係に命を懸けてきた鈴木氏だ。波乱万丈の政治家人生を生き抜いてきた鈴木氏に、再び天が大きな仕事を与えようとしている。誤解が多い北方領土問題の「基本」から「今後のゆくえ」について、有馬氏が迫る(登場人物の肩書きは当時)。

■「日本が無条件降伏した」という事実は重い

 有馬:日本と旧ソ連が「日ソ共同宣言」に署名したのは1956年の10月19日。この時、旧ソ連との第2次世界大戦からの戦争状態が終わったわけですが、その60年後の今年12月15日、安倍首相が地元の山口県長門市の「大谷山荘」でロシアのプーチン大統領と会談します。

  北方領土やロシアとの平和条約を締結するうえで、極めて重要な会談になりそうですが、実は北方領土(歯舞<はぼまい>諸島・色丹<しこたん>島・択捉<えとろふ>島・国後<くなしり>島)の問題は、事実を知らない読者が大半です。「4島」なのか「2島」なのかという議論が漠然と盛り上がっていますが、北方領土問題の解決や平和条約締結に向けては、何がポイントとなるのでしょうか。

 鈴木:北方領土問題は、日本の戦後処理で解決されていない問題です。改めて歴史を振り返りながら、お話ししましょう。まず、旧ソ連時代のポイントは少なくとも4つあります。

 はじめに1956年の日ソ共同宣言(両国の議会によって批准された国際条約)が結ばれた背景を知る必要があります。1945年8月15日の終戦後すぐの同年9月2日、日本は東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で無条件降伏文書に署名するわけですが、これが戦勝国側から見た国際標準のスタートラインです。

 それに先立つ同年の2月、クリミア半島でヤルタ協定が結ばれます。英国チャーチル首相、米国ルーズベルト大統領、ソ連の最高指導者スターリンという3カ国の首脳によって戦後の処理方針を決めた秘密協定ですが、北方領土問題との絡みで言えば、ソ連の対日参戦と、ソ連への千島列島の引き渡しが書かれています。実際、ソ連は同年の8月9日に対日参戦してきました。

 これは1941年に結ばれた日ソ中立条約に対する明らかな違反ですが、戦勝国のソ連からすれば「日独伊3国同盟」で、ナチスドイツによって3000万人の犠牲者が出たという主張になるわけです。国際社会の中でも、ヤルタからの議論が認められているのですから、ここが最初の重要なポイントになります。

965名無しさん:2016/11/27(日) 22:48:04
>>964

国後島、択捉島についての理解が足りない
 次の二つ目のポイントは1951年のサンフランシスコ講和条約。日本が国際舞台に復帰した条約ですね。日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太を放棄したわけですが、大事なことは、この時、日本は国後島、択捉島を放棄しているのです。

 同年条約署名後の10月の国会で、吉田茂首相の答弁に引き続き、西村熊雄外務省条約局長が、「千島列島の範囲とは北千島と南千島の両者を含む。その一方で歯舞と色丹は千島に含まれないことはアメリカ外務当局も明言している」という趣旨の答弁をしています。

■国後・択捉の放棄後、再び4島返還論になった

 この事実を多くの政治家も、マスコミもわかっていないのです(内閣府は北方領土4島が日本固有の領土であり、千島列島の範囲に含まれないとし、米国もこの立場を支持するという説明をしている)。ですから、日本が国際舞台で北方領土4島の議論をするときは、日本は決して有利とはいえず、私は、サンフランシスコ講和条約を歴史の事実として考えないといけないと思います。

 しかも、その後外務省は「物語」を作ります。サンフランシスコ講和条約にソ連は署名しませんでした。それを持って、「国後島と択捉島は放棄していない」という、いわば「議論のすり替え」をするのです。

 有馬:今のような背景を知ってから、1956年の日ソ共同宣言の話を考えないといけないわけですね。

 鈴木:そのとおりです。三つ目のポイントは1956年10月の日ソ共同宣言です。鳩山一郎首相は日ソ共同宣言に署名しますが、歯舞・色丹の2島だけでも平和条約を結ぼうという意見もありました。

 しかし、国内世論や閣議の結果、2島では平和条約までは結ばないということを同年の8月に閣議決定します。ところが、この後、こうした決定をしているにもかかわらず、米国が「もし2島で日ソ平和条約を結ぶなら、沖縄を返還しないぞ」と言ってくるわけです。これがいわゆる「ダレス(国務長官)の恫喝」です。冷戦が激しくなってきたために、米国が日本に圧力をかけてきたわけですが、この「上から目線」がソ連の態度を硬化させ、問題を複雑化しました。

 そして四つ目のポイントは1960年の日米安保条約の改定時。1956年の日ソ共同宣言の直前に交わされた「松本・グロムイコ書簡」では、「日ソの外交関係再開後も領土問題を含む平和条約交渉を継続する」とされていましたが、共同宣言では最高指導者であるフルシチョフ氏の反対で、「領土問題を含む」という文言が削除されました。

 日本側は松本・グロムイコ書簡と共同宣言を一体のものと説明しながら、平和条約の前提としても4島返還を求めてきたわけですが、1960年には「外国の軍隊が駐留する国には領土を渡さない」という新たなグロムイコ外相の書簡が出ます。これによって、1956年の宣言は反故にされ、これ以降、ソ連時代、ソ連から見れば、領土問題は事実上存在しないことになってしまったのです。

 その後、1972年の田中首相とブレジネフ書記長の会談でも、田中首相は「戦後の諸問題の中に、北方領土問題は入っているな?」と、ソ連側に迫りましたが、ソ連側は聞くだけで、まったく取り合いませんでした。

966名無しさん:2016/11/27(日) 22:48:30
>>965

外務省は事実上「4島一括返還」の旗を降ろしている
 有馬:ところが、ソ連が崩壊しロシアになったことで、話が変わってくるわけですね。

 鈴木:1991年4月、ソ連時代の最後の指導者だったゴルバチョフ大統領と海部首相の間で「北方領土4島を話し合いで解決する」と変化していましたが、同年にソ連は崩壊します。ソ連は、自由と民主のロシアになり、エリツィン氏が大統領になります。彼は「戦勝国、敗戦国という枠組みにとらわれず、法と正義に基づいて話し合いで解決する」と言いました。

■外務省はエリツィン大統領登場で対応を事実上変えた

 ここで大事なことは、日本政府も、1991年10月以降は「4島一括返還の旗」を降ろしたことです。つまり、「ロシアが4島の帰属さえ認めれば、その返還時期や条件については柔軟に対応する」と事実上、対応を変えたのです。この事実は一部では報道されていますが、外務省が政治家や国民に明確に伝えていないため、さまざまな誤解が生じているのです。

 その後、1993年10月、エリツィン大統領は細川首相と会談した際には国会でシベリア抑留を謝罪。北方領土4島の名前を列挙して「4島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という東京宣言に署名するなど、旧ソ連時代とはまったく違った姿勢で臨んできました。

 さらに、1997年と98年には、橋本首相とエリツィン大統領とがそれぞれロシアのクラスノヤルスク、川奈(静岡県伊東市)で会談を行い、1997年には「2000年までの平和条約締結に向けて全力を尽くす」と決定。1998年には非公式に「北方4島の北側で両国の国境を画定し、当面はロシアによる4島の施政権を認める」という「川奈提案」も行いましたが、ロシア側が拒否しました。

 有馬:このあと2000年にプーチン大統領が登場したことで、どう変わったのでしょうか。鈴木さんも、プーチン氏に特使として会うなど、交渉には深くかかわっています。またその後は、いろいろ大変なことになりました。

 鈴木:話はここからが本番です。2000年の3月に当選したプーチン大統領(就任5月)は、1960年の安保条約改定以後のソ連・ロシアの首脳の中で、1956年の日ソ共同宣言の有効性を認めてくれた初めての最高首脳です。逆に言えば、日ロ双方にとって、国境画定の議論や領土問題は法律的に裏付けられているものは日ソ共同宣言だけという立場を明確にしました。私は小渕内閣の時に当選直後のプーチン氏と会った経験がありますし、森次期首相とプーチン氏との会談をセットしたこともあるからはっきりといえますが、プーチン大統領は約束を守る政治家です。また法律の専門家でもあります。

 プーチン大統領は2000年の9月に日本にやって来ると、日ソ共同宣言の存在を認めたうえで、「今回は記者会見だけ。文書にするのは次の首脳会談で」といい、そのとおり2001年の3月25日に文書にしてくれました。これが森首相とのイルクーツク宣言です(日ソ共同宣言を、交渉の出発点と位置付けた宣言)。私に言わせれば、日本がもっとも北方領土に近づいた日でした。

 ではイルクーツクでの首脳会談の大事な部分とは何でしょうか。ポイントは2つです。歯舞・色丹の2島について、日本への具体的引き渡しの協議をしようということ。もう一つは、国後・択捉についてはどちらに帰属するかの協議を行おう、というものです。日ソ共同宣言の引き渡し交渉と、国後・択捉の帰属も同時に話し合う並行協議案ですが、これについて、プーチン大統領は「承った」と、持ちかえって協議することになったのです。

 しかし、2001年4月に小泉政権が誕生すると、話が変わってしまいます。

 信じられないことに、2002年5月ラブロフ外相と会った川口外相は、このとき日本の側から交渉の旗を降ろしてしまうのです。米国一辺倒になった小泉政権の方針ですが、同じ政党なのに政策を大転換してきた日本の態度に、プーチン政権側がびっくりして、不信感を強めたのは想像に難くありません。このあと2012年末に第2次安倍政権が誕生するまで、日ロ関係は「空白の10年」になりました。

 私も、歴史を踏まえて行動をしているにもかかわらず、こうした「2島先行返還論」を主張したことなどで「2島返還論者」「売国奴」などとののしられることになりました。しかし、そのようなときにあっても、当時小泉首相の官房副長官だった安倍首相は、「鈴木さんは政府の方針を踏まえて日ロ外交を行っており、何の問題もない」と言ってくれていたのです。

967名無しさん:2016/11/27(日) 22:48:50
>>966

安倍首相はプーチン大統領の琴線を揺さぶった
 有馬:もともと2島先行返還でも問題なかった安倍首相ですから、首相になってからも、地球儀を俯瞰する外交で、ロシアにはかなり精力を傾けてきました。

 鈴木:安倍首相はお父さんの安倍晋太郎外相が日ソ関係の改善に尽力したこともあり、2012年末に首相に再度就任すると、翌年の2013年にはモスクワを訪問して交渉の活性化で合意しています。2014年には欧米とロシアの関係が冷え込む中、ソチ五輪の開会式にも出席しました。しかも、クリミア半島の問題が深刻化してからも、日ロ交渉の進展に向けて、態度を変えませんでした。クリミアの停戦合意後はそれこそ、さまざまなチャネルを通じてロシア側の出方を探ってきたわけです。

 それが一つの形となって表に出たのが、2016年5月のロシアのソチでの首脳会談です。ここで安倍首相はいわゆる「新しいアプローチ」として8つの経済協力を示しました。

 これにプーチン大統領はびっくりしたと思います。彼の琴線を揺さぶった。プーチン大統領はこの新しいアプローチに同意しましたが、一方で、9月2日の東方経済フォーラムへの出席を要請した。私が思うに、プーチン大統領は安倍首相の本気度を試したのです。この日は日本が無条件降伏した日です。しかし、安倍首相は即決した。

 この時の会談では、安倍首相は8つのアプローチについて具体的な説明をし、エネルギー政策・医療・インフラ・環境などの分野について丁寧に説明しました。東方経済フォーラムでプーチン大統領は公の席で初めて安倍首相に「シンゾー」と呼びかけ、安倍首相も「ウラジミール」と応じましたが、これが二人の信頼関係を物語っています。

■長門会談は日本とロシア双方にリスクがある

 有馬:ということは、12月15日の長門会談の下準備は完全だ、ということでしょうか。

 鈴木:長門会談は昨日今日に考えられたわけではありません。すでに3年前の会談で安倍首相が申し出ているように、安倍首相は用意周到にスケジュールを考えています。

 今、北方領土4島について言えば、大事なことは、一方的な期待感や期待値を上げないことです。外交には相手があり、お互いの名誉と尊厳がかかっています。静かな落ち着いた環境で首脳会談を行うのが一番です。

 両首脳の波長がとてもあっており、しかも、両首脳は現在、国民からの高い支持率を得ています。領土や国境の画定は結局トップの決断によるしかありません。

 もう一つ大事なことは、両首脳ともリスクを抱えながらの決断になるということです。1956年の日ソ共同宣言に基づいて交渉が行われると言っても、ロシア国民の約8割は「日本に領土など返す必要はない」という意見です。もしプーチン大統領がこれは義務だからなどといってカードを切ったら、いかにプーチン大統領でも大変なリスクになります。

 一方、日本の安倍首相にとってもリスクがあります。今回前半でお話したように、国民の大半は、日ソ、日ロの交渉の詳細を知りません。こうしたところで安倍首相が大きな決断をするには大きなリスクがあるのです。

 「1956年の日ソ共同宣言で、平和条約締結の後、歯舞・色丹の2島は引き渡されることになっているじゃないか」というのが漠然とした国民の理解かもしれません。よく「返還」と言われますが、正しい理解は、あくまでも「引き渡し」なのです。これは旧ソ連の善意で返してあげる、という意味で、「返還」ではないのです。過去の歴史を振り返るとき、「戦争でとられた領土は、戦争で取り返す」という繰り返しでした。一滴の血も流さず、領土が戻ってくるとしたら、これは大変なことなのです。落ち着いた雰囲気の中で、日本もロシアも良かったという決着を図らなければいけません。

968名無しさん:2016/11/27(日) 22:49:29
>>967

「落としどころ」はどうなるのか?
 有馬:過去には、北方領土問題は、麻生財務大臣が外相だった2006年に4島の面積を等分する「3・5島返還論」などが出たこともあるのですが、こうした分割による「引き分け論」はないわけですね? 

 鈴木:ないと思います。これに関連して言えば、先般、民進党の野田幹事長が歯舞・色丹の面積をもとに「ロシアは日本から昔100万円強盗しておいて、今になって7万円くらい返すといっているのと同じだ。けしからん」などという趣旨のことをブログで綴っていますが、これは首相経験者の話とは思えないほどの、低い見識に基づいた発言です。

 まず歴史の経緯から見て、世界の大国ロシアを強盗呼ばわりして、いいはずがない。もうひとつは、北方領土は陸の面積もさることながら、200カイリの排他的経済水域の概念などでわかるとおり、海の面積が非常に重要だということです。例えば今年サケマスの流し網漁は禁止されていますが、色丹島が日本の領域ということになれば、流し網漁ができる。これだけで、根室市の1年分の予算250億円に匹敵するほどなのです。野田幹事長の主張は、こうしたことがわかっていない、とんちんかんな発言だといわざるをえません。

■旧西ドイツから学べ

 有馬:結局のところ、落としどころはどうなるのでしょうか?  1956年の日ソ共同宣言をベースにするにしても、今のお話にあったように、当時は排他的経済水域のような概念はありませんでした。また強力な在日米軍もいませんでした。条件が変わっており、2島が直ちに引き渡しされることも考えにくい、というのが現実的でしょうか。プーチン大統領は、北方領土問題を機に、日米安保体制にくさびを打ち込もうとしているとも考えられますね。

 鈴木:外交には相手があります。お互いの国益を考えての結論を出すしかありません。日本もロシアもリスクを負うという中で、1956年宣言を元に決着を図るのは一つの手です。しかし、例えば極端な話、引き渡しは歯舞諸島だけだが、それをもとに次の展開が見込めるというなら、私はそれを了としなければならないと思うのです。

 この話に関しては、旧西ドイツから学ぶべきです。1972年、東方外交を進めていた西ドイツのブラント首相は、東ドイツを承認、それは東西ドイツ基本条約の形で締結され、東西ドイツは相互承認をしました。この17年後の1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊して、1990年には統一ドイツが誕生しました。ですから、歯舞・色丹の2島だけでも主権が戻ってきて国後・択捉島には出て行ける、共同経済活動ができる、となれば状況は変わってきます。

 また、日米安全保障条約など、米国との同盟関係については極めて重要です。安倍首相は、ことあるごとにオバマ大統領やバイデン副大統領に直接会って話をして、日本とロシアの領土問題についての理解を求め、納得を得てきました。

 トランプ新大統領になっても、それは変わりないと思います。私は安倍首相が、日本の国益を損なわず、日米同盟に配慮しながら、さらに日ロ関係を強固にすることで、中国を見据えたアジアの安定にも貢献するという「地球儀を俯瞰する外交」が実行できると信じています。ロシアも日本と結ぶことで、対中国や対朝鮮半島の関係からも安定が図れるのです。

 有馬:「8つの経済協力」への不安はありませんか? やはり、もし関係がぎくしゃくしたら、いざとなったらロシアが施設を接収するなどの問題も考えておく必要はありませんか? 

 鈴木:「ロシアは経済協力が目当てだ」などという議論は、さきほどの「100万円強盗して7万円返還する」と同じくらいレベルが低い議論だと、私は思います。「ソ連=ロシア」ではありません。そもそもロシア人は高い人的能力を持っていますし、今のロシアは信頼に足るエネルギー大国です。現在は財政が厳しいと言ってもソ連時代とは比べ物になりません。日本人はいいかげん、頭を切り替えなければいけません。

969名無しさん:2016/11/27(日) 22:49:40
>>968

 一方で、ロシアは日本の農業や医療などの応用技術に関心を持っています。これは20年違うかもしれず、ロシアにとっては魅力です。世界一の応用技術を持つ日本と、世界一のエネルギー資源大国であるロシアが協力することによって、世界の平和と安定につながります。

 有馬:最後に、次の衆議院選挙には出馬しますか? 

 鈴木:私の公民権は2017年の4月29日に回復します。その後に国政選挙があり、もし北海道のみなさんが「鈴木出るべし」ということなら、出馬します。もし年末の安倍・プーチン会談で北方領土の問題に道筋がついても、その仕上げには2年、3年、5年とかかるでしょう。2島だけでなく、国後・択捉などとの向き合い方にも課題が出てくるはずです。今後とも、生涯日ロ関係に命を懸けたいと思います。

【有馬の目】4島一括でなければ評価しないという意見があるなか、一歩でも進めることが大切と期待する鈴木宗男氏。安倍首相とプーチン大統領の個人的な関係は、日ソ共同宣言以来60年の歳月を埋めるチャンスと見る。北方領土に拘る族議員が見当たらないなか、ライフワークを自負する鈴木氏に丁寧に解説願った。
 (撮影:尾形文繁、構成:福井 純)

有馬 晴海

970名無しさん:2016/12/03(土) 10:53:21
http://www.sankei.com/world/news/161203/wor1612030005-n1.html
2016.12.3 00:31
北方領土の領有容認を要求 平和条約交渉の前提とロシア

 2日のロシア通信によると、ロシアのモルグロフ外務次官は、日本と平和条約締結交渉を本格的に始めるには、第二次大戦の結果、北方領土がロシア領になったと日本が認める必要があると述べた。また、3日にモスクワで行われるラブロフ外相と岸田文雄外相の会談では平和条約問題には触れるが、本格協議は予定されていないとも述べた。

 プーチン大統領の訪日が今月15〜16日に迫る中、ロシアが従来の強硬姿勢を崩していないことが鮮明に。モルグロフ氏は「平和条約問題の交渉に関する私たちの立場は変わっていない」と前置きし、「日本は南クリール諸島(北方領土)の領有も含めた第二次大戦の結果を無条件で認める必要がある」と強調。「これが平和条約問題の真剣な議論の出発点になる」とした。

 モルグロフ氏は原田親仁・日露関係担当政府代表と平和条約締結交渉を続けているロシア側の担当者。(共同)

971名無しさん:2016/12/04(日) 21:59:31
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%B2%A1%E9%96%A5
甲州財閥

甲州財閥(こうしゅうざいばつ)とは、明治期の東京や横浜で顕著な経済活動を行っていた甲州(山梨県)出身の実業家たちのことで、著名な人物は、若尾逸平、若尾幾造、若尾璋八、雨宮敬次郎、根津嘉一郎、小野金六、穴水要七、小池国三、佐竹作太郎、神戸挙一である[1]。その中でも若尾逸平と雨宮敬次郎は二大巨頭と言われている[2]。甲州財閥の実業家たちは協力し合うこともあったが、対立することもあった[2]。例えば、雨宮敬次郎は1893年10月に東京市街鉄道の設立を申請しているが、若尾逸平は翌11月に東京馬車鉄道の電化を申請しており、東京市街の鉄道(路面電車)において二人は対立していた[3]。

972名無しさん:2016/12/07(水) 22:33:37
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161205-00000101-jij-pol
安倍首相、真珠湾訪問へ=歴代初「未来に不戦の決意」―26日から、オバマ氏と慰霊
時事通信 12/5(月) 19:04配信

 安倍晋三首相は5日、今月26、27両日の日程で米ハワイを訪れ、第2次世界大戦で日米開戦の舞台となったホノルル市の真珠湾を訪問すると発表した。

 日本の現職首相が真珠湾を訪れるのは初めて。オバマ米大統領とともに犠牲者を慰霊し、併せて最後となる首脳会談も行う。首相は「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという未来に向けた決意を示したい」と訪問の意義を訴えた。首相官邸で記者団に語った。

 オバマ氏は今年5月、現職の米大統領として初めて、米国が原子爆弾を投下した広島市を訪問している。旧日本海軍が奇襲攻撃を行った真珠湾を日本の首相が訪れることは、その返礼の意味合いがあるとみられる。首相とオバマ大統領は27日に奇襲攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの記念館を訪問する方向だ。岸田文雄外相が首相に同行する。

 首相は真珠湾訪問について「犠牲者の慰霊のための訪問だ」と説明し、「日米の和解の価値を発信する機会にもしたい」と表明。日米の戦後に終止符を打つとともに、同盟深化を内外にアピールする狙いを強調した。

 昨年4月に米議会上下両院合同会議で戦後70年の節目を踏まえて演説したことにも触れ、「(それ以降)真珠湾を訪問することの意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた」と説明。11月にペルーでオバマ大統領と立ち話した際、最終的に決まったと明かした。

 首相はオバマ大統領との会談を「これまでの集大成」と位置付け、「この4年間、あらゆる面で日米関係を発展させ、アジア太平洋地域や世界の平和と繁栄のためともに汗を流してきた」と指摘。先の広島訪問に関し、「核なき世界に向けた大統領のメッセージは、今も多くの日本人の胸に刻まれている」とも述べた。

 真珠湾攻撃は1941年12月8日(日本時間)に行われ、米側に多数の犠牲者が出た。今年は75周年の節目で、日本政府はオバマ大統領の広島訪問と並行して、水面下で米政府と調整していた。

973名無しさん:2016/12/08(木) 06:28:51
「日本を殺せ」が米国で大ヒット、東京だった次の原爆
JBpress 12/8(木) 6:15配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161208-00048575-jbpressz-n_ame

974とはずがたり:2016/12/08(木) 15:12:35

70年後に見えてきた白洲次郎の意外な事実
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20161019-OYT8T50024.html?from=yartcl_outbrain1
読売新聞調査研究本部主任研究員 舟槻格致
2016年10月21日 12時30分

 日本国憲法は11月3日に、「公布70周年」の節目を迎える。連合国軍総司令部(GHQ)による「押し付け」で作られたとされる憲法の制定当時、GHQとの交渉で苦闘しながら活躍したことで知られる白洲次郎の実像に、読売新聞調査研究本部で憲法問題担当の舟槻格致主任研究員が迫る。

今なお「日本で一番カッコイイ男」

 白洲次郎(1902〜85年)の典型的なイメージといえば、戦前のヨーロッパ大陸で、ベントレーやブガッティを乗り回したダンディーな日本人。イギリス貴族仕込みのブリティッシュ・イングリッシュで、憲法を巡っては、政府の「終戦連絡中央事務局次長」として連合国軍総司令部(GHQ)に正面から戦いを挑み、吉田茂首相を助けた男――。こんな辺りだろうか。

 NHKのドラマなどを通じて人気が沸騰し、今なお「日本で一番カッコイイ男」とまで言われる人物の生き方は、調べれば調べるほど興味深い。だが、女婿の牧山圭男よしお・長女の牧山桂子かつらこ夫妻に話を伺うと、一般的に抱かれる人物像とはちょっと違う白洲の姿も浮かび上がってくる。夫妻の話も踏まえて、白洲の実像と日本の戦後史に与えた影響を考えてみたい。

疑問1・白洲はマッカーサーを怒鳴りつけたか

 東京郊外・町田市。小田急線鶴川駅から15分ほど歩いた緑あふれる住宅地に旧白洲邸「武相荘ぶあいそう」はある。かつて農家を買い取って白洲次郎・正子(1910〜98年)夫妻が暮らした邸宅が、今は一般に公開されている。その一室で牧山さん夫妻にお会いし、白洲の思い出を語ってもらった。

 「天皇の贈り物を『その辺に置け』とは何事か!」

 白洲を一躍ヒーローにしたのは、昭和20(1945)年のクリスマスのエピソードだろう。白洲が届けた天皇のプレゼントを、マッカーサーが「そのあたりにでも置いておいて」と、絨毯じゅうたんの上を指さしたところ、このセリフが飛び出したとされる。プレゼントを持ち帰ろうとする白洲の姿にあわてたマッカーサーは、台を用意させたという。

 当時の日本は、米国に敗れて国土は焦土となっていた。精神的にも、日本人の誰もが絶対的な存在と信じていたはずの天皇陛下すら「碧あおい眼めの大君」マッカーサーに屈従せざるを得ず、うちひしがれていた。そんな中にあって、一人の日本の男がマッカーサーを面前で一喝したというのだから、空手チョップで外国人レスラーをやっつけた、かの力道山並みにカッコ良すぎる逸話と言えよう。

 ところが、桂子さんは「そんな失礼なこと言いませんよ」と、このエピソードに否定的な見方を示す。以下は、圭男さんの解説である。

 「白洲は、評論家の河上徹太郎さん(1902〜80年)と非常に仲が良かった。生前、白洲はよく『若いやつが生意気なことを言うから、怒鳴りつけてやった』とか『ぶん殴ってやった』ということがあった。でもそれは心情を吐露しているだけであって、本当に殴るわけではない。白洲はマッカーサーとのことも、『マッカーサーを怒鳴りつけてやった』というように話し、それを聞いて面白がった河上さんが書いて広まったエピソードではないでしょうか。白洲は失礼なことはしないんです」

 要するに、多分に脚色が入っていたのではないか、というのである。もっともマッカーサーが慌てて台を取ってきたのはどうも事実だったようで、「白洲が紳士的に苦言を呈した」というあたりが事実に近いのかもしれない。

975とはずがたり:2016/12/08(木) 15:13:10

 「怒鳴りつけた」が仮に本当でないとしても、それで白洲の株が下がるとは全く思わない。天皇の贈り物が軽んじられないようにきちんと英語で伝え、しかもそれをマッカーサーに実行させるというスマートなことができた日本人が当時、果たして白洲以外にいただろうか。天皇に敬意を払う日本人の思いをマッカーサーに率直に伝えたことは、東京裁判などから天皇の身柄を守る意向に傾いていたとされるマッカーサーの決意を、さらに固めたに違いないとも思う。

疑問2・白洲は「押し付け憲法」を嫌ったか

 白洲が日本の現代史上、最も活躍したのは、日本国憲法の原案が作られた46年の2月から3月にかけて、当時の吉田茂外相や松本烝治じょうじ・憲法担当国務相と一緒にGHQとの厳しい交渉に当たった時期ではないだろうか。GHQは、自ら作った「マッカーサー草案」をほとんど日本側に直させないまま、3月7日には「憲法草案要綱」が新聞などで発表された。

 煮え湯を飲まされた格好の白洲は、同日付の手記に「『今に見ていろ』と云フ気持抑ヘ切レス。ヒソカニ涙ス」と書いている。

 白洲は後に、新憲法は「押し付け」られたものであると明言している。「この憲法は占領軍によって強制せられたものである」「歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大なる罪悪である」(エッセー集『プリンシプルのない日本』)とも書いている。

 こうした白洲の証言は、「今の憲法は押し付けだ」と強調する“改憲派”知識人たちの議論のよりどころの一つともなってきた。

 ところが、当の憲法の中身について、白洲は内心では評価していたというから、意外である。圭男さんが語る。

 「白洲は、『押し付けられたのは事実だし、素人が作った憲法だが、内容は良い。人の良いアメリカ人が占領軍となって作ったから、ずいぶん助かったんだ』と話していました」

 特に9条を評価していたという。朝鮮戦争を契機に米側から日本の再軍備の要請が強まり、警察予備隊が発足し、やがて自衛隊になっていくわけだが、白洲は再軍備に批判的だったという。憲法の問題点と指摘していたのは、「国の根幹にかかわるものなのに、細かく書かれすぎている。もっとザックリ書けば良かった」という点だった。

 現在の厳しい国際情勢は、9条制定当初からは一変しているし、憲法学者からは「日本国憲法は先進諸国の憲法と比べて条文が大ざっぱすぎる」という指摘はあっても逆は皆無だ。白洲の考えは、今日的に見ると正しいとばかり言いづらい面もあろうが、白洲が一筋なわでは理解できない人物であったことは、確かだ。


疑問3・白洲はGHQと対立したか

 GHQでマッカーサーの腹心だったコートニー・ホイットニー准将に「英語がうまいですね」と褒められた白洲は、こう切り返している。

 “If you study a little harder, you will improve your English.”(あなたももう少し勉強すれば、英語が上達しますよ)

 ホイットニーといえば、マッカーサーに次ぐGHQのナンバー2で、日本統治の要であった民政局の局長。ロースクールで法律を学んで弁護士も経験し、将官にまで上り詰めた人物だ。知識人であり、たたき上げの軍人ではない。だが、ケンブリッジ大学を卒業し、英国の貴族階級から英語を学んでいた白洲は、自らの英語の方が正統であると感じたに違いない。心理的には引け目を感じるどころか、優位に立っていたのだろう。

976とはずがたり:2016/12/08(木) 15:14:15
>>794-796
 「いやみったらしい英語で言う白洲の様子が、目に浮かぶようね」と、桂子さん。

 このホイットニーとのやり取りだけを見ると、学歴や階級をひけらかしたようなイヤらしさを感じる向きもあるかもしれないが、白洲のイギリス英語の使い手としての力量は、そうした表面的なものだけではなかったようだ。

 GHQの憲法原案を押し付けて完成させようとしたホイットニーに宛てて、性急すぎると白洲が苦言を呈したことで有名なのが、いわゆる「ジープウェー・レター」(46年2月15日付)だ。先進的すぎる民主主義的な憲法の拙速な導入は、本来ジープで山道を越えていくべきところを飛行機で一足飛びに目指すようなもので、過激な反動を招きかねないと、たとえ話を交えて切々と訴えた。緊張感があふれる2枚紙の英文の手紙の最後は、こう締めくくられている。

“I am afraid I have already accelerated the paper shortage by writing this mumble but I know you will forgive me for my shortcoming for which my late father is also partly responsible.”(私がブツブツと文句を書き連ねたことで紙不足に拍車をかけてしまいましたが、これは亡父の性格を一部受け継いだゆえの私の短所によるものです。どうかお許しを)

 物資が払底していた終戦直後でも、さすがに紙2枚を政府が使えないことはなかっただろう。白洲の父は、貿易会社を興した大金持ちで後に会社を倒産させ、豪放な人物として知られた白洲文平。厳しい内容が続いた文面の最後で、英国紳士を彷彿ほうふつとさせるユーモアを見せられたホイットニーは、思わずクスッと笑ったのではないか。日本語にしてみると何と言うこともないが、何とも書き手のスマートさを感じさせる機知に富んだ文章だ。

 こうした人間的な面白みも手伝ってか、GHQの人たちは、桂子さんによると、幹部クラスを含むかなりの数が鶴川の自宅を頻繁に訪れて、白洲と親しく交わっていた。白洲はGHQにはっきりとモノを申したが、それは「喧嘩けんか」ではない「主張」だったということだろう。

「誇りある文明国」GHQに印象づける

 白洲次郎が終戦直後の日本にいなかったら、どうなっていたか。

 おそらく「押し付け憲法」の内容はほとんど変わらなかったし、その後の自衛隊発足、経済復興といった日本の戦後史も、基本的にたどったコースは同じだったろう。

 だが、白洲が憲法交渉に加わっていなかったら、「押し付け」を巡る日米の亀裂はさらに深刻になり、現代にまで一層暗い影を落としたのではなかったか。プライドの高い松本国務相は、怒りのあまり交渉の途中で席を立って出て行ってしまい戻って来ないほどだった。交渉団に入っていた吉田外相が後に首相になれたのは、GHQとの折衝の前面に立つ汚れ役を白洲が引き受けたからだという見方は、決して誇張ではないだろう。白洲の能力に目を付けて引っ張り出してきた吉田の人を見る力は大したものだったと言っても良い。

 白洲は、「確かに日本は戦争には負けたが、決して野蛮な未開国ではない。誇りある文明国だ」ということを、自らの行動を通じて、GHQの幹部たちに印象づけたのだろうと思うのである。

舟槻 格致( ふなつき・かくち )
 調査研究本部主任研究員。専門分野は憲法と政治。憲法を中心とした政治の動きを、政治部で担当。首相官邸のほか与野党、国会、外務省、法務省などを取材し、憲法、衆院選、統括担当の次長を経て現職。著書「政治はどう動くか」(書肆侃侃房)、共著「基礎からわかる 憲法改正論争」(中公新書ラクレ)など。

977名無しさん:2016/12/10(土) 13:45:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120500735&g=pol
安倍首相発言全文=米真珠湾訪問

 安倍晋三首相が5日、今月下旬の米真珠湾訪問を発表した発言の全文は次の通り。
 今月26、27日、ハワイを訪問し、オバマ大統領と首脳会談を行う。この4年間、オバマ大統領とはあらゆる面で日米関係を発展させ、アジア太平洋地域、世界の平和と繁栄のためにともに汗を流してきた。
 先のオバマ大統領の広島訪問に際し、核なき世界に向けた大統領のメッセージは今も多くの日本人の胸に刻まれている。ハワイでの会談は、この4年間を総括し、未来に向けてさらなる同盟の強化の意義を世界に発信する機会にしたい。
 これまでの集大成となる最後の首脳会談となる。この際、オバマ大統領とともに真珠湾を訪問する。犠牲者の慰霊のための訪問だ。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。未来に向けた決意を示したい。
 同時に、日米の和解の価値を発信する機会にもしたい。今や日米同盟は、世界の中の日米同盟として、ともに力を合わせて世界のさまざまな課題に取り組む希望の同盟となった。その価値、意義は、過去も現在も未来も変わらない。このことを確認する意義ある会談となると思う。
 -訪問を決断したのはいつか。
 昨年、戦後70年を迎え、米議会で演説を行い、私の70年を迎えての思い、考えについて発信したところだ。その中で、真珠湾を訪問することの意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた。
 同時に、オバマ大統領との4年間を振り返る首脳会談も行うことができればと考えてきたが、先般の(ペルーの)リマでの短い会談で、12月に会談を行おう、そしてその際に二人で真珠湾を訪問しようと確認し、合意をした。(2016/12/05-20:04)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120500798&g=pol
日米和解、未来志向でアピール=同盟の意義再確認へ-安倍首相

 安倍晋三首相はオバマ米大統領とともに行う真珠湾訪問で、日米和解を内外にアピールし、戦後に区切りを付けたい考えだ。オバマ氏による5月の広島訪問と併せ、日米の指導者が未来志向で平和を誓う舞台として周到に準備を進めてきた。来年1月のトランプ次期政権への交代を前に、日米同盟の意義を再確認する狙いもある。
 「この4年間を総括する場をつくろう」。首相は11月中旬のペルー・リマで行ったオバマ氏との短時間の立ち話で、こう呼び掛け、ハワイでの首脳会談を提案。オバマ氏は快諾した。
 関係者によると、オバマ氏は5月に来日して首相と会談した際、真珠湾攻撃のあった12月8日の訪問を打診した。しかし、日本側は「謝罪色が強くなりすぎる恐れがある」(政府関係者)との理由で、同月下旬にずらせた。
 オバマ氏の被爆地・広島訪問では、日本は原爆投下への「謝罪」を求めず、未来志向を演出することに心を砕いた。これと同様に、首相は自身の真珠湾訪問でも未来志向を重視した。
 首相は昨年4月の訪米時に議会で演説し、真珠湾や太平洋戦争の激戦地に触れながら、「悔悟」の気持ちを表明。同年8月に発表した戦後70年談話でも「私たちの子や孫に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と、戦後に終止符を打つ必要性を強調していた。
 首相はその当時からハワイ訪問の構想を温めてきた。首相は5日夜、「真珠湾を訪問する意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた」と記者団に明かした。
 一方、トランプ次期大統領は選挙戦で、在日米軍駐留経費を日本が全額負担しない場合の米軍撤退や日本の核武装に言及したことから、日米同盟の先行きを不安視する向きもある。
 「日米同盟の価値は、過去も現在も未来も変わらない。このことを確認する意義ある会談になる」。首相はオバマ氏とハワイで行う首脳会談をこう位置付け、次期政権との間でも「希望の同盟」として堅持していきたいとの考えをにじませた。 (2016/12/05-22:33)

978名無しさん:2016/12/10(土) 13:47:03
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120500667&g=pol
安倍首相、真珠湾訪問へ=歴代初「未来に不戦の決意」-26日から、オバマ氏と慰霊

 安倍晋三首相は5日、今月26、27両日の日程で米ハワイを訪れ、第2次世界大戦で日米開戦の舞台となったホノルル市の真珠湾を訪問すると発表した。日本の現職首相が真珠湾を訪れるのは初めて。オバマ米大統領とともに犠牲者を慰霊し、併せて最後となる首脳会談も行う。首相は「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという未来に向けた決意を示したい」と訪問の意義を訴えた。首相官邸で記者団に語った。

 オバマ氏は今年5月、現職の米大統領として初めて、米国が原子爆弾を投下した広島市を訪問している。旧日本海軍が奇襲攻撃を行った真珠湾を日本の首相が訪れることは、その返礼の意味合いがあるとみられる。首相とオバマ大統領は27日に奇襲攻撃で沈んだ戦艦アリゾナの記念館を訪問する方向だ。岸田文雄外相が首相に同行する。
 首相は真珠湾訪問について「犠牲者の慰霊のための訪問だ」と説明し、「日米の和解の価値を発信する機会にもしたい」と表明。日米の戦後に終止符を打つとともに、同盟深化を内外にアピールする狙いを強調した。
 昨年4月に米議会上下両院合同会議で戦後70年の節目を踏まえて演説したことにも触れ、「(それ以降)真珠湾を訪問することの意義、象徴性、和解の重要性について発信したいとずっと考えてきた」と説明。11月にペルーでオバマ大統領と立ち話した際、最終的に決まったと明かした。
 首相はオバマ大統領との会談を「これまでの集大成」と位置付け、「この4年間、あらゆる面で日米関係を発展させ、アジア太平洋地域や世界の平和と繁栄のためともに汗を流してきた」と指摘。先の広島訪問に関し、「核なき世界に向けた大統領のメッセージは、今も多くの日本人の胸に刻まれている」とも述べた。
 真珠湾攻撃は1941年12月8日(日本時間)に行われ、米側に多数の犠牲者が出た。今年は75周年の節目で、日本政府はオバマ大統領の広島訪問と並行して、水面下で米政府と調整していた。(2016/12/05-23:30)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120500762&g=pol
ホワイトハウス、日米が「和解の力示す」=安倍首相の真珠湾訪問

 【ワシントン時事】米ホワイトハウスは5日、安倍晋三首相のハワイ・真珠湾訪問について声明を出し、「(オバマ大統領と首相は)共通の利益や価値で結び付いて、かつての敵を最も緊密な同盟国にした和解の力を示す」と述べた。旧日本軍による真珠湾攻撃から75年の節目を迎えることから、全ての関係者が歓迎しているとみられる。
 ホワイトハウスによると、オバマ大統領は27日、安倍首相に同行し、真珠湾にある慰霊施設のアリゾナ記念館を訪問する。声明は「(首相との)会談は、日米同盟の強化に向けた過去4年間の努力を振り返る機会となる」と述べた。
 安倍首相による真珠湾訪問案は、オバマ大統領が5月に被爆地・広島を米大統領として初めて訪問した際、日米の当局者間で浮上していた。オバマ氏は毎年12月下旬に冬休みをハワイで過ごしており、この時期に照準を合わせて首相訪問を水面下で調整していた可能性がある。
 ハワイでは今月7日(日本時間8日)、真珠湾攻撃から75年になるのに合わせて式典が行われる。米メディアによると、ハワイ選出の日系議員らがオバマ、安倍両氏に式典への招待状を送っていた。真珠湾攻撃で米側は約2300人が犠牲になった。
 米国内では現在、第2次世界大戦をめぐる反日感情が目立った形では表面化していない。安倍首相が戦後70年の2015年4月に米議会で行った演説も肯定的に受け止められており、真珠湾訪問で謝罪を求める動きが広がることはないとみられる。(2016/12/05-22:35)

979名無しさん:2016/12/10(土) 14:25:21
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600010&g=pol
安倍首相の真珠湾訪問、与党は歓迎=「謝罪はしない」の見方も

 安倍晋三首相の今月下旬の真珠湾訪問について、与党からは歓迎する声が相次いだ。自民党の保守系議員も「騒ぐことはない」「いいことだ」などとおおむね理解を示した。一方、首相に近い党幹部の一人は、真珠湾攻撃の加害責任に関し「首相は謝罪はしない」との見方を示した。
 自民党の河村建夫元官房長官は5日夜、東京都内で記者団に対し、「一つの大きなタイミングだ。首相が言う『戦後の総決算』という感じがする」と評価。「オバマ米大統領が広島を訪れたということもあると思う」と述べ、大統領の被爆地訪問への答礼の意味合いもあるとの認識を示した。
 公明党の大口善徳国対委員長は記者団に「米国民の心情に寄り添う姿を示すことは大事だ」と語った。(2016/12/06-00:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600015&g=pol
中国メディアも詳報=ネットでは「なぜ南京に来ない」-安倍首相の真珠湾訪問

 【北京時事】中国国営新華社通信(英語版)は5日、安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪問することを詳しく伝えた。オバマ米大統領が5月に米大統領として初めて被爆地・広島を訪問したと指摘した上で、「安倍首相が真珠湾訪問を決断したのは、トランプ次期政権でも日米同盟を強化する狙いがある」との見方を伝えた。

 一方、中国のインターネットでは「なぜ(中国の)南京を訪れ、大虐殺の犠牲者を弔わないのか」などと南京事件と関連付け、安倍首相の対応の違いを批判する書き込みが目立っている。(2016/12/06-00:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600115&g=pol
日本の核廃絶決議採択=23年連続、保有国の米賛成-国連総会

 【ニューヨーク時事】国連総会(193カ国)は5日の本会議で、核兵器の全面廃絶に向け、すべての国が共同行動を取る決意を新たにするとした日本主導の決議を167カ国の賛成を得て採択した。核廃絶決議の採択は23年連続。
 北朝鮮とシリアのほか、核兵器保有国の中国とロシアは反対。保有国の英仏を含む16カ国が棄権した。米国は賛成した。
 決議はオバマ米大統領の5月の被爆地・広島訪問を評価。また、核保有国と非保有国が核軍縮と不拡散の実践的措置を促進する「有意義な対話」に一層関与するよう奨励している。(2016/12/06-07:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600174&g=pol
「国民は温かく受け入れる」=安倍首相の真珠湾訪問-米報道官

 【ワシントン時事】アーネスト米大統領報道官は5日の記者会見で、安倍晋三首相が今月末にハワイの真珠湾を訪問すると発表したことについて「ほとんどの米国民は温かく受け入れるだろう」と述べた。また、オバマ大統領と安倍首相が真珠湾でそれぞれ所感を述べる見通しだと語った。
 5月のオバマ大統領の広島訪問で「米大統領と日本の首相が立ち並んだ姿には心を動かされた」と振り返った。真珠湾のアリゾナ記念館で2人が並んで立つ姿は「同じように心を動かされるだろう」と期待している。
 その上で「(首相訪問に)感情を害する人もいるかもしれないが、多くの人が個人的な敵意を脇に置いてくれると信じている」と強調。それは「安倍首相の言葉に満足するからでなく、この機会が米国にとって非常に大切だと認識しているからだ」と訴えた。(2016/12/06-09:26)

980名無しさん:2016/12/10(土) 14:25:32
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600176&g=pol
「歴史的和解」「同盟誇示」=安倍首相の真珠湾訪問-韓国紙

 【ソウル時事】6日付の韓国各紙は、安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾訪問発表について「歴史的和解」「米日同盟誇示」などと詳しく報じ、高い関心を示した。
 ソウル新聞は「第2次大戦で激しい戦いを繰り広げた両国の歴史的和解を象徴している」と伝え、「安倍首相は戦後史に区切りを付け、米日同盟関係をさらに高い段階に引き上げる主役となる」と指摘した。さらに、トランプ次期米大統領も安倍首相の真珠湾訪問を求めており、次期政権との円滑な関係を望む日本側の意向も込められていると分析した。
 ハンギョレ新聞は、安倍首相とトランプ氏のニューヨークでの会談にオバマ大統領が不快感を示したという報道を引用、「真珠湾訪問はオバマ大統領への最後の外交的な贈り物になる」と伝えた。ただ、韓国日報などは「国内の保守勢力の反発を考慮し、踏み込んだ謝罪はしない可能性が大きい」と報じている。(2016/12/06-09:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600365&g=pol
真珠湾訪問、謝罪でない=閣僚は安倍首相の決断評価-菅官房長官

 菅義偉官房長官は6日午前の記者会見で、安倍晋三首相が今月下旬に米ハワイの真珠湾をオバマ大統領と訪問することについて、「戦没者の慰霊のためで、謝罪のためではない」と強調した。首脳会談に関しては27日(日本時間28日)に行うと明らかにした。
 各閣僚の閣議後の記者会見では、首相の決断を評価する声が相次いだ。
 岸田文雄外相は「(首相の訪問は)二度と戦禍を繰り返してはならないという未来に向けた強い意志や、強い日米同盟のありようを示すものだ」と述べた。
 山本幸三地方創生担当相も「本当の意味で大戦の処理が終わることになる。トランプ政権の誕生に当たり、日米の和解、絆の強さを世界に示すことは非常に意義がある」と語った。
 麻生太郎副総理兼財務相は「日米関係で、広島と真珠湾の話は、第2次世界大戦に関する一番の象徴的なことだから、首相と大統領が相互訪問するということだろう」と説明した。(2016/12/06-11:53)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120600835&g=pol
真珠湾訪問、米新政権にらむ=安倍首相、同盟強化の継承促す

 安倍晋三首相は今月下旬の真珠湾訪問を、オバマ米大統領と取り組んできた同盟強化の「総決算」(外務省幹部)と位置付け、来年1月に就任するトランプ次期大統領に「継承してもらう」(同)考えだ。トランプ氏就任から1週間後となる1月27日の首脳会談も調整しており、歴史的訪問をてこに同盟関係の重要性への理解を促す。
 真珠湾訪問の意向を明かして一夜明けた6日、首相はカーター米国防長官と首相官邸で会談。訪問の目的を「犠牲者の慰霊」と説明し、「二度と戦争の惨禍を繰り返さないという未来に向けての強い意志と決意を、世界に向けて発信したい」と伝えた。カーター氏も「オバマ大統領をはじめ、われわれは非常に喜んでいる」と歓迎した。
 首相はオバマ政権との間で、同盟強化に腐心してきた。集団的自衛権行使を可能にした安全保障法制整備により、日米防衛協力の水準を引き上げた。中国の強引な海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発に歯止めをかけるには、アジア太平洋地域に確固たる日米同盟が不可欠との信念からだ。
 だが、トランプ氏は先の大統領選で、日本が在日米軍駐留経費の負担増に応じなければ撤収も辞さない姿勢を示すなど、同盟軽視とも取れる発言を繰り返してきた。首相は当選直後の11月17日にトランプ氏と会談し、「まさに信頼できる指導者」と称賛したが、新政権の外交政策は依然、不透明で、不安が解消されたわけではない。
 こうした中、首相は真珠湾への歴史的訪問を果たすことで、時の政権の外交政策に左右されない普遍的な「日米の絆」を内外に示したい考え。政府関係者は「トランプ支持者を含め、米国全体へのメッセージになる。高い発射台から次期政権との関係をスタートできる」と狙いを話す。
 先の大戦で戦火を交えた米国との和解を一段と進めることで、日本の戦争責任を繰り返し追及してきた中韓両国をけん制する意図も透けて見える。「世界の多くは歓迎する。『もっと反省しろ』と言うのは少数だ」。外務省幹部は、「歴史カード」に固執する中韓が国際社会で「異端視」されることに期待を示した。 (2016/12/06-19:57)

981名無しさん:2016/12/10(土) 14:44:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120700916&g=pol
真珠湾攻撃75年で追悼式=9日に初の日米共催

 太平洋戦争開戦の引き金となった旧日本軍による真珠湾攻撃から75年となるのを機に、在ホノルル日本総領事館と米海軍は8日(日本時間9日)、米ハワイの真珠湾に浮かぶフォード島で追悼式典を共同開催する。日本政府関係者が7日、明らかにした。
 日米共催の式典は初めて。日本の国会議員や米軍関係者らが参加し、日米双方の犠牲者を慰霊する。安倍晋三首相とオバマ米大統領が今月下旬にそろって真珠湾を訪れるのに先立ち、日米和解を確認することになる。(2016/12/07-22:29)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120700755&g=pol
中国にも「弔う場所ある」=安倍首相の真珠湾訪問

 【北京時事】安倍晋三首相が今月下旬に米ハワイの真珠湾を訪問することについて、中国外務省の陸慷報道局長は7日の記者会見で、南京大虐殺記念館のほか、満州事変の発端となった柳条湖事件を記念した博物館や731部隊跡地を挙げ、「日本が深刻に反省し本当に謝罪したいなら、中国には多くの弔うべき場所がある」と述べた。(2016/12/07-18:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120700522&g=pol
「真珠湾」75年で追悼声明=安倍首相訪問には触れず-米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は6日、旧日本軍による1941年12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃から75年となるのを前に、犠牲者を追悼する声明を発表し、「自由と民主主義の名の下にささげられた犠牲は、決して無駄ではなかった」と強調した。また、政府機関や国民に対して、7日は半旗を掲げるよう要請した。
 オバマ大統領は声明で、真珠湾攻撃やノルマンディー上陸作戦など第2次大戦で犠牲になった米兵について、「自由のために戦い、ファシズムを打倒し、敵国を同盟国に変えた」と称賛した。
 大統領は26、27の両日、安倍晋三首相と共に真珠湾を訪問し、犠牲者の慰霊をする予定だが、声明ではこの訪問について触れなかった。
 一方、トランプ次期大統領も6日、ノースカロライナ州フェイエットビルの集会で「あすは真珠湾攻撃から75年だ。偉大な軍服を身にまとった人々が尊い犠牲になった出来事の節目になる」と述べた。(2016/12/07-14:58)

982名無しさん:2016/12/10(土) 14:44:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120800827&g=pol
吉田首相の真珠湾訪問確認できず=政府

 安倍晋三首相が今月下旬に米ハワイの真珠湾を訪れることに関し、菅義偉官房長官は8日の記者会見で「米国の大統領とともに真珠湾を訪問するのは初めてだ」と意義を強調した。ハワイのホノルルには1951年に当時の吉田茂首相も訪れていたことに触れ、真珠湾については「範囲が広大なこともあり、吉田氏が訪問したかどうかは確認できない状況だ」と説明した。(2016/12/08-18:28)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120800093&g=pol
「自由のともしび消せない」=真珠湾攻撃75年で次期米大統領

 【ワシントン時事】トランプ次期米大統領は7日、旧日本軍によるハワイの真珠湾攻撃から75年となるのに際して声明を出し、次世代のためにも、戦争で多くの犠牲を払った勇敢な米国人から引き継いだ「自由のともしびを消すことは許されない」と呼び掛けた。
 トランプ氏は「過去75年、米国はさまざまな敵と対峙(たいじ)してきた。しかし、レーガン元大統領が述べたように『平和を追求する上で、勝利に代わる物はない』という事実は不変だ」と強調した。 (2016/12/08-06:53)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120700931&g=pol
安倍首相訪問「待ち望む」=真珠湾攻撃75年で声明-オバマ米大統領

 【ワシントン時事】オバマ米大統領は7日、旧日本軍による1941年12月7日(日本時間8日)の真珠湾攻撃から75年となるのに際して声明を出し、慰霊施設である沈没した戦艦アリゾナの記念館を「安倍晋三首相と一緒に訪問するのを待ち望んでいる」と述べた。大統領が今月下旬の首相の真珠湾訪問に言及したのは初めて。
 大統領はこの中で、「この歴史的な訪問は、米国と日本が75年前には想像できなかった同盟で結ばれ、世界の平和と安全のために手を携えて働き続ける証しになる」と強調した。
 また、「真珠湾攻撃で2400人以上の米国の愛国者が命を失った。妻ミシェルと私は本日、犠牲者の追憶と遺族らへの称賛に加わる」と追悼の意を表明した。
 大統領はこれに先立ち、政府機関や国民に対し、7日は半旗を掲げるよう要請した。
 一方、トランプ次期大統領も6日、ノースカロライナ州フェイエットビルの集会で「あすは真珠湾攻撃から75年だ。偉大な軍服を身にまとった人々が尊い犠牲になった出来事の節目になる」と述べた。(2016/12/08-00:15)

983名無しさん:2016/12/10(土) 15:19:59
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016120900128&g=pol
日米、初の合同追悼式=真珠湾攻撃75年、安倍首相訪問控え-ハワイ

 【ロサンゼルス時事】1941年の旧日本海軍による米ハワイの真珠湾攻撃から75年を迎え、在ホノルル日本総領事館と米海軍は8日(日本時間9日)、真珠湾攻撃で戦死した両国の兵士を慰霊する合同追悼式典を真珠湾で初めて開催した。安倍晋三首相の訪問を前に、参列者らは日米の友好と将来の平和を誓った。
 総領事館などによると、式典には約80人が参列。地元では日本人兵士を慰霊することに抵抗もあり、「75年の節目にひっそりと犠牲者を悼みたい」(関係者)として、招待者以外には非公開で行われた。
 出席者によると、ジョン・フラー・ハワイ海軍地域司令官は式典で「日本は米国にとってさらに重要な同盟相手となる」とあいさつ。三沢康ホノルル総領事は「かつて敵同士だった日米がどれだけ関係を前進させることができたかを示す大きな出来事だ」と式典の意義を強調した。
 日本からは武田良太元防衛副大臣、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六連合艦隊司令長官の故郷である新潟県長岡市の磯田達伸市長のほか、自衛隊関係者も出席した。安倍首相が今月下旬に訪問する予定の戦艦アリゾナの記念館を見渡せる米軍敷地内で行われ、参加者らが黙とうをささげた後、日米の国歌が演奏された。

 磯田市長は「日米関係の新たなスタートと未来志向がはっきりと打ち出された追悼式典だった」とコメントした。
 真珠湾攻撃では停泊中の戦艦アリゾナなどが沈没し、米側に約2400人の死者が出た。日本側もゼロ戦パイロットなど65人が死亡した。
 安倍首相は26、27の両日にハワイを訪問し、オバマ大統領と犠牲者を慰霊する。(2016/12/09-12:09)

984名無しさん:2016/12/10(土) 23:00:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796011000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_118
安倍首相 今月下旬にハワイへ 真珠湾攻撃の犠牲者慰霊
12月5日 19時24分
安倍総理大臣は、5日夜、総理大臣官邸で記者団に対し、今月26日と27日にハワイを訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者をアメリカのオバマ大統領とともに慰霊することを明らかにしました。現職の総理大臣が真珠湾を訪れて犠牲者を慰霊するのは初めてです。
この中で、安倍総理大臣は、「今月の26日、27日、ハワイを訪問し、オバマ大統領と首脳会談を行う。ハワイでの会談はこの4年間を総括し、未来に向けてさらなる同盟の強化の意義を世界に発信する機会にしたいと思う。これまでの集大成となる最後の首脳会談となる」と述べました。

そのうえで、安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者をオバマ大統領とともに慰霊することを明らかにし、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。未来に向けた決意を示したいと思う。同時に、日米の和解の価値を発信する機会にもしたいと考えている」と述べました。さらに、安倍総理大臣は、「昨年、戦後70年を迎え、アメリカ議会で演説を行い、私の思いや考えを発信した。その中で、真珠湾を訪問することの意義や象徴性、和解の重要性について発信したいということは、ずっと考えてきた。同時に、オバマ大統領との4年間を振り返る首脳会談も行うことができればと考えてきた」と述べました。

また、安倍総理大臣は、ハワイ訪問と真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊について、先月、APEC=アジア太平洋経済協力会議の首脳会議に出席するため、ペルーを訪れた際に、オバマ大統領との間で確認したことを明らかにしました。現職の総理大臣が、真珠湾を訪れて犠牲者を慰霊するのは初めてのことです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796101000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_116
米報道官 ハワイで日米首脳会談を発表
12月5日 20時23分
アメリカのホワイトハウスはオバマ大統領が安倍総理大臣と今月27日にハワイで会談するとともに、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため記念館を訪れると発表しました。
これはホワイトハウスのアーネスト報道官が5日早朝、日本時間の夜8時すぎに声明を出して発表したものです。

それによりますと、オバマ大統領は今月27日にハワイのホノルルで安倍総理大臣と会談するということです。そして「今回の会談は両首脳が安全保障や経済、それに地球規模の課題における緊密な協力を含め、過去4年間にわたる日米同盟を強化する取り組みを総括する機会になる」としています。

また、オバマ大統領は安倍総理大臣とともに、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため海底に沈んだ戦艦アリゾナの上につくられたアリゾナ記念館を訪れるということです。そのうえで「両首脳の訪問はかつての敵どうしが共通の利益や価値によって団結した最も緊密な同盟国に変わるという和解の力を示すものになる」としています。

985名無しさん:2016/12/10(土) 23:03:56
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796151000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_115
真珠湾での慰霊 被爆者の反応
12月5日 20時55分
安倍総理大臣が戦没者の慰霊のためハワイの真珠湾を訪れることを明らかにしたのを受けて、ことし、オバマ大統領が広島市の平和公園を訪れた際に言葉を交わした日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の代表委員を務める坪井直さんは「オバマ大統領は広島に来て戦争を乗り越え、未来志向で進むことを表明した。これに対して、安倍総理も真珠湾を訪問するというのは筋の通ったことだと思う」と評価する考えを示しました。
そのうえで、坪井さんは、「戦争で人の命が失われることは大問題であり、アメリカ人であろうと日本人であろうと犠牲者を慰霊することは非常に大事なことだ。少し時期が遅かった気はするがしっかりと弔ってきてもらいたい」と述べ、戦争のない世界の実現のために日本とアメリカが友好を深めることに期待を寄せていました。

また、ことし、オバマ大統領が広島を訪問した際に大統領と肩を抱き合って言葉を交わした被爆者の森重昭さん(79)は「すばらしいのひと言です。オバマ大統領が広島に来たのだから、安倍総理大臣も太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾に行くべきだと思っていました」と話していました。そして、「真珠湾への攻撃があった12月に訪問することは慰霊にはいいタイミングであり、安倍総理大臣とオバマ大統領が本当に平和を願っているというメッセージがよく伝わることになると期待しています」と話しました。

一方、日本被団協の田中煕巳事務局長は、5日夜、滞在している沖縄県内でNHKの取材に対し、「戦争への関心を思い起こせさせる効果はあると思うが、ことし、オバマ大統領が広島を訪問したことへの返礼のように思える。安倍総理大臣は、日米同盟の強化を考えていると思うが、私たちが求めているのは市民が戦争で犠牲にならない安全であり、今の姿勢が本当の平和につながるか疑問に感じる」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796181000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_114
首相の真珠湾訪問 海外メディアも速報で伝える
12月5日 21時15分
安倍総理大臣が今月26日と27日にハワイを訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊すると発表したことについて海外メディアも速報で伝えました。
このうち、ニューヨーク・タイムズは、安倍総理大臣が記者団に述べた「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」や「日米の和解の価値を発信する機会にもしたい」などの発言を引用したうえで、「安倍総理大臣は、真珠湾を訪れる最初の現職の日本の指導者になる」と伝えました。また、ワシントン・ポストは、オバマ大統領の広島訪問や8月に昭恵夫人が真珠湾を訪れたことなどを紹介したうえで、「安倍総理大臣は政権内の右派への共感もあるが、戦後70年にあたっての談話を出すなどプラグマティックな判断をする」との分析を伝えています。

986名無しさん:2016/12/10(土) 23:05:32
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796191000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_113
ジャーナリスト松尾文夫氏「日米間のとげが抜ける」
12月5日 21時22分
元共同通信のワシントン支局長でジャーナリストの松尾文夫さんは、日米の相互理解のために「アメリカの大統領は原爆の慰霊碑に、日本の総理大臣は真珠湾に献花をすべきだ」とする提言を執筆した本などでおこなってきました。
安倍総理大臣が、オバマ大統領とともに真珠湾を訪れて慰霊すると発表したことについて、松尾さんは「これまで日米は互いに死者を弔うことをせず、過去の清算をしてこなかった。オバマ大統領の広島訪問に続いて、安倍総理が真珠湾を訪問することによって、これまであった日米間のとげが抜けることになり、非常に評価できる」と話しています。また、ことし5月にオバマ大統領が広島を訪問した際に、トランプ次期大統領が「オバマ大統領は、日本での滞在中に真珠湾の奇襲について議論したのか。何千人ものアメリカ人の命が失われているのだ」などとツイッターで投稿したことについて、松尾氏は「安倍総理もこの発言を意識しているはずで、今後の日米関係を良好なものとするために訪問を決意したとも考えられる」と指摘しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796231000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_110
真珠湾訪問 首相の狙いは? 米国の受け止めは?(動画解説)
12月5日 22時02分
安倍総理大臣が明らかにした真珠湾の訪問。どんな狙いがあるのでしょうか。また、アメリカ側はどのように受け止めているのでしょうか。担当記者が解説します。(VTR9分30秒)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796301000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_109
真珠湾訪問 決断までの経緯(動画解説)
12月5日 22時12分
安倍総理大臣は5日夜、記者団に対し、今月26日と27日にハワイを訪れ、太平洋戦争の発端となった旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を、アメリカのオバマ大統領とともに慰霊することを明らかにしました。真珠湾訪問を決断するまでの経緯をまとめました。(VTR3分20秒)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796281000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_108
首相「大統領が広島訪れたから真珠湾に行くわけではない」
12月6日 0時15分
安倍総理大臣は、5日夜、自民党の高村副総裁や二階幹事長らとの会合で、今月下旬にハワイを訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者をアメリカのオバマ大統領と共に慰霊することについて、「オバマ大統領が5月に広島を訪れたから真珠湾に行くわけではない。オバマ大統領と最後の首脳会談を行うということだ」と説明したということです。

987名無しさん:2016/12/10(土) 23:06:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796291000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_101
首相 真珠湾訪問で米新政権発足後も日米関係維持を
12月6日 6時01分
安倍総理大臣は今月下旬にハワイを訪れ、現職の総理大臣として初めて真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することにしています。安倍総理大臣としては、今回の訪問を、トランプ新政権発足後も安定的な日米関係を維持することにつなげたい考えです。
安倍総理大臣は5日夜、今月26日と27日にハワイを訪れて、来月任期が切れるアメリカのオバマ大統領と日米首脳会談を行い、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者をオバマ大統領とともに慰霊することを明らかにしました。現職の総理大臣が真珠湾を訪れて、犠牲者を慰霊するのは初めてです。

安倍総理大臣は、5日夜、記者団に対し、真珠湾訪問について、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。未来に向けた決意を示したいと思う。同時に日米の和解の価値を発信する機会にもしたい」と述べました。安倍総理大臣は、ことし5月のオバマ大統領の広島訪問に続いて、みずからが真珠湾を訪問することで、両国の信頼関係を国民レベルでより確かなものにしたい考えです。さらに、アメリカのトランプ次期大統領が、大統領選挙の期間中、日本を含む同盟国との関係見直しを示唆する発言をしてきたことも念頭に置いて、オバマ大統領との首脳会談で、地域の平和と安定に貢献する日米同盟の重要性を確認することにしています。そして、中国による海洋進出の強化や北朝鮮による弾道ミサイルの発射など、日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増す中で、安倍総理大臣としては、今回の訪問を、トランプ新政権発足後も安定的な2国間関係を維持することにつなげたい考えです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796541000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_100
首相の真珠湾訪問 ホワイトハウスが評価
12月6日 6時34分
安倍総理大臣が今月下旬にハワイを訪れ、アメリカのオバマ大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、ホワイトハウスは「平和と和解を追求する意義を強調するものになる」と評価しました。
ホワイトハウスのアーネスト報道官は、5日の記者会見で「安倍総理大臣とオバマ大統領が真珠湾で並んで立つことは広島訪問の時と同様に力強いものになるだろう。また、最も偉大な世代の犠牲や愛国心を思い出す機会ともなる」と指摘しました。そのうえで「真珠湾訪問は平和と和解を追求する意義を強調するものになる」と評価しました。

そして、真珠湾攻撃に対する謝罪があるかどうかについては「安倍総理大臣が何を言うか現時点で予測したくない」と述べるにとどめました。一方で「安倍総理大臣が、犠牲者の慰霊のために真珠湾を訪問すると発言した気持ちを多くのアメリカ国民が温かく受け止めると思う」と説明しました。また、謝罪がない場合、退役軍人がどのように感じると思うか記者団から質問されたのに対し、「気分を害する人がいるかもしれないが、多くの人が訪問はアメリカにとって重要だと認識し、個人的な恨みは脇に置くと確信している」と述べました。

そして、両首脳が真珠湾を訪れる際に所感を述べることを明らかにするとともに、「真珠湾訪問は、安倍総理大臣自身の決断だ」と述べ、オバマ大統領の広島訪問と直接リンクしていないと強調しました。
米知日派 真珠湾訪問を歓迎
安倍総理大臣が今月下旬、ハワイを訪れて日本の総理大臣として初めて真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、アメリカで知日派として知られるアーミテージ元国務副長官は、首都ワシントンで5日、記者団に対し、「安倍総理大臣の訪問は非常によいことだ」と述べ、訪問を歓迎しました。そのうえで、アーミテージ氏は、「安倍総理大臣が真珠湾攻撃を謝罪することは想像できない。真珠湾攻撃によって、アメリカと日本は戦争に突入したが、それは歴史の一部だ。安倍総理大臣が真珠湾を訪れること自体がよい意思表示だと思う」と述べ、謝罪は必要ないとの考えを示しました。

988名無しさん:2016/12/10(土) 23:07:38
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796641000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_099
外相 首相に同行してハワイへ「日米の和解を示す」
12月6日 10時36分
岸田外務大臣は、閣議のあと記者団に対し、今月下旬にハワイを訪れ真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する安倍総理大臣にみずからも同行することを明らかにしたうえで、「訪問は、戦禍を繰り返さない強い意志や日米の和解を示すものだ」と述べました。
安倍総理大臣は、今月26日と27日にハワイを訪れ、アメリカのオバマ大統領と日米首脳会談を行い、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者をオバマ大統領とともに慰霊することにしています。

これに関連し岸田外務大臣は、閣議のあと記者団に対し、「アジア太平洋地域、さらには国際社会の平和と安定に、日米同盟が大きな役割を果たしていくことを発信するいい機会だ。私も、この4年間、外務大臣として務めてきたので、ぜひ同行したい」と述べました。そのうえで岸田大臣は、「今回の訪問は亡くなられた方への慰霊であり、未来に向けて二度と戦禍を繰り返してはならないという強い意志を示し、日米の和解をしっかり示すものだ」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796671000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_098
官房長官 首相の真珠湾訪問は謝罪のためではなく慰霊
12月6日 10時49分
菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、安倍総理大臣が今月下旬、ハワイを訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、今回の訪問は慰霊が目的で謝罪のためではないとしたうえで、不戦の決意や日米の和解の価値を発信する機会になるという認識を示しました。
安倍総理大臣は、今月26日と27日にハワイを訪れ、アメリカのオバマ大統領と日米首脳会談を行うとともに、現職の総理大臣として初めて、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することにしています。

これについて、菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、「先の大戦に関する安倍総理大臣の考え方は、昨年8月の戦後70年談話にすべて尽くされており、今回の訪問は戦没者の慰霊のためであって謝罪のためではない」と述べました。そのうえで菅官房長官は、「訪問は、『二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない』との決意を未来に向けて示すとともに、日米の和解の価値を発信する機会になる」と述べました。また、菅官房長官は、記者団が今回の真珠湾訪問と、ことし5月のオバマ大統領の広島訪問との関係について質問したのに対し、「関係するものではないと思っている」と述べました。

989名無しさん:2016/12/10(土) 23:09:42
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010796731000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_096
首相の真珠湾訪問 閣僚から評価する意見相次ぐ
12月6日 11時15分
安倍総理大臣が今月下旬ハワイを訪れ、現職の総理大臣として初めて真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、閣議の後の記者会見などで各閣僚からは日米同盟の強化につながるなどと評価する意見が相次ぎました。
このうち麻生副総理兼財務大臣は「第2次世界大戦に関して象徴的な場所のひとつはアメリカにとってはパールハーバーであり、日本にとっては広島だ。広島をアメリカの現職の大統領が初めて訪問し、パールハーバーに日本の総理大臣が初めて行くのはよいことではないか」と述べました。

石原経済再生担当大臣は「ことしは先の大戦から考え歴史的な年になるのではないか。象徴的な場所に日米両国の首脳が立ち、日米安保体制を基軸として国際社会の平和に貢献していくというメッセージを出すというすばらしい機会になるのではないか」と述べました。

稲田防衛大臣は「安倍政権になってから、日米関係は非常に強固なものになっている。今回の訪問は、未来に向けて強固な日米同盟を再確認し、希望の同盟として、アジア太平洋地域、さらには国際社会の平和と繁栄に貢献することを世界に向けて力強く発信する機会になると思う」と述べました。

山本地方創生担当大臣は「アメリカ国民にとって意義深く認識されると思うし、本当の意味で先の大戦の処理が終わることになると思う。トランプ政権が誕生するにあたって、日米の和解や絆の強さを世界に示すことは意義がある」と述べました。

また丸川オリンピック・パラリンピック担当大臣は「同盟関係のさらなる強化や国民の理解に大きなインパクトを与えるものになる」と述べたほか、加藤一億総活躍担当大臣は「今回の訪問は同盟関係をさらに強固なものにするのではないか」と述べました。さらに加藤大臣は、記者団が「内閣支持率が上がれば安倍総理大臣は衆議院を解散するのではないか」と質問したのに対し、「直接関係ないのではないか」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161206/k10010797161000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_079
首相 米国防長官と会談 真珠湾訪問で不戦の決意示したい
12月6日 17時09分
安倍総理大臣は、来日しているアメリカのカーター国防長官と会談し、今月下旬の真珠湾訪問で、二度と戦争の惨禍を繰り返さないという強い決意を示したいという考えを伝えたのに対し、カーター国防長官は訪問を歓迎する意向を示しました。
この中で安倍総理大臣は、今月下旬ハワイを訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、「日米首脳会談を行い、その際、真珠湾のアリゾナ記念館を訪問する。犠牲者を慰霊し、二度と戦争の惨禍を繰り返さないという未来に向けた強い意志、そして決意を示したい」と述べました。

これに対しカーター国防長官は、「オバマ大統領や私にとって喜びだ。双方が平和において確固たるコミットメントを示すものだ」と述べ、訪問を歓迎する意向を示しました。

また会談で、安倍総理大臣が、沖縄県最大のアメリカ軍の演習場・北部訓練場の一部返還について、「4000ヘクタールの返還を日米が協力して、今月22日に実現したい」と述べたのに対し、カーター国防長官も、「歴史上初めて大きな返還を達成できる。22日に達成することを約束する」と応じました。

990名無しさん:2016/12/11(日) 20:34:47
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121100054&g=pol
慰安婦合意見直さず=日韓情報協定も維持を-萩生田官房副長官

 萩生田光一官房副長官は11日のフジテレビ番組で、韓国の朴槿恵大統領に対する弾劾訴追案可決を受け、慰安婦問題の日韓合意の扱いについて、「どなたが大統領になっても、もう一回やり直してくれと言われても、受け付けるつもりはない」と強調した。また、「合意は不可逆的に問題を終了しようというもので、2国間だけで誓い合ったわけではなく、米国を含め国際社会の前で約束したことだ」とも指摘した。

 日韓両政府が先月締結した軍事情報包括保護協定(GSOMIA)については、「この1年間、北朝鮮に対しての情報共有が的確にできてきた。その必要性を理解できない人が大統領になることは好ましくない」と述べ、韓国側に維持を求めていく考えを示した。(2016/12/11-15:14)

991名無しさん:2016/12/18(日) 11:30:29
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121400697&g=pol
「慰安婦合意、無効化を」=朴氏弾劾受け韓国団体

 【ソウル時事】日韓両政府間の慰安婦合意に反対している韓国の民間団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会(挺対協)」は14日、ソウルの日本大使館前で水曜恒例の抗議集会を開いた。朴槿恵大統領の弾劾訴追案可決後初めてとなったこの日の集会には、小雪がぱらつく中、数百人が参加し、「朴槿恵退陣せよ」「慰安婦合意を即刻無効化せよ」と気勢を上げた。

 挺対協は声明文を発表し、「崔順実被告の操り人形、朴槿恵がついに国民から弾劾された。朴政権は、大多数の国民の反対にもかかわらず、合意を押し付けた」と批判。さらに「日本政府は、慰安婦問題の真実をカネで覆い隠そうとせず、合意を全面的に無効化すべきだ」と主張。「被害者に謝罪し、法的責任を認め、再交渉しなければならない」と訴えた。(2016/12/14-17:19)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016121600383&g=pol
吉田首相の真珠湾訪問確認=菅官房長官

 菅義偉官房長官は16日午前の記者会見で、1951年に当時の吉田茂首相が米ハワイの真珠湾に面した米太平洋軍司令部を訪問していたことを確認した。これまでは、安倍晋三首相の今月下旬の真珠湾訪問が現職首相として初めてかどうかは未確認としていた。
 菅氏は「当時はアリゾナ記念館は建設されておらず、この記念館で現職首相が慰霊を行うのは今回が初めてだ」と強調した。(2016/12/16-12:09)

992とはずがたり:2016/12/23(金) 13:04:31
やりなおす戦後史
【第5回】 2015年8月10日
蔭山克秀
今、戦後史から知っておきたい
日本を「経済の国」へと変えた男
http://diamond.jp/articles/-/76354

黄金の昭和30年代、「所得倍増計画」によって一気に高度経済成長を遂げ、「経済大国ニッポン」をつくった一人の男。それが池田勇人である。池田はどのように今の日本を形づくったのか? 東京オリンピックまでの日本の変貌を駆け足で見る。

経済の国へ――池田勇人の所得倍増計画

?第4回で見たように、新安保条約の強行採決を経て岸信介が首相を辞任した後、日本は「政治の時代」から、本格的に「経済の時代」へと移行する。

?日本はこの時期、“世界の経済大国”としての地位を確立した。そして、そのかなりの部分は、池田勇人の功績だ。

?元大蔵官僚の池田勇人は、官僚時代に病に倒れて退職した後、新規採用扱いで再び大蔵省に入省するなど苦労もあったが、最終的には最高ポスト・事務次官まで務め上げた、経済政策のスペシャリストだ。経済事情に明るく数字に強い彼の、経済偏重ともいえる政策や外交努力の数々によって、日本は戦後、驚くほど短期間で一流国家への階段を上ることができたのだ。

「経済成長をめざす首相なんて、普通じゃないか」――今の僕らはそう思ってしまうが、それは間違いだ。実は池田まで、経済政策を全面に押し出す首相なんて、ほとんどいなかったのだ。

「不況でもないのに経済しか見ない首相なんて、どうかしている。政治家は政治をしっかりやれよ」――これが昔の当たり前だった。つまり、あくまで経済は“政治の一部”、日本全体の設計図の一部にすぎず、それらは大蔵省や経済企画庁、あるいは日銀に任せるべき事柄だったのだ。

?しかし、池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティにすべきという明確なビジョンを持っていた。

?池田勇人は吉田茂の腹心中の腹心で、「吉田学校」の優等生だ。彼は官僚生活を経て1949年の衆院選で政界入りし、いきなり吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された。そこで経済政策のすべてを任され、その後も大蔵大臣・通産大臣・自民党幹事長・政調会長などを歴任した。そして岸内閣の退陣後、池田は自民党総裁選に打って出て、見事総理の座を射止めた。

?その池田が、政策の目玉として打ち出したのが「所得倍増計画」。彼は岸内閣が日米安保という「政治」で討ち死にしたのを目の当たりにし、自身は得意分野の「経済」に活路を見出すことにしたのだ。

?所得倍増計画は、一橋大の中山伊知郎教授が1959年に読売新聞に寄稿した「賃金二倍論」を、池田がアレンジして「月給二倍論」としたのが始まりだ。

?彼はこのフレーズが気に入り、選挙演説で使いまくった。そして1960年に総理となり、自身の政策として具体化した。その大まかな方針は、1961年から70年までの10年間で、GNP(国民総生産)を13兆円から26兆円に倍増させるという、長期的な経済成長戦略である。

?10年でGNPを2倍にする――途方もない夢に聞こえるが、実はそうでもない。幸い日本は、吉田茂や岸信介の努力(つまり安保条約)によって、軍事コストのかからない国になっている。ならその利点を活かして、浮いた金を重化学工業の後押し、社会資本の整備、低金利での企業融資などに回せば、決して不可能な数字ではない。

?それどころか、地方・農業・中小企業など弱い産業分野の所得底上げ、人材育成への投資、産業構造の高度化、科学技術の振興、住宅建設、工業用地開発なども行っていけば、十分現実的な数字だ。

?軍事費をできる限り節約して、経済で身を立てる――これはまさに、師匠・吉田茂が夢見た「通商国家・日本」だ。池田はその実現に向けて精力的に政策目標に取り組み、経済立国に必要な成長基盤を築き上げた。そしてその結果、日本経済は池田退陣後も成長を続け、わずか4年で名目GNPを2倍増、10年でなんと4倍増を達成したのだ。

993とはずがたり:2016/12/23(金) 13:05:14

先進国への仲間入り――GATT、IMF、OECDへの加入

?また池田の経済政策は、国内政策だけでなく、外交面にも及んだ。池田は「一流の経済立国」に必要な外交面での課題に次々と取り組み、その結果「GATT11条国への移行」「IMF8条国への移行」「OECDへの加盟」という、先進国への“大人への階段”を、一気に駆け上ったのだ。

?まず取り組んだのは、GATT11条国への移行。GATT(関税と貿易に関する一般協定)とは「世界の自由貿易の守り神」的な協定で、その12条国が保護貿易の許される“途上国扱い”の国々、そして11条国が世界に向けて市場を開かないといけない“先進国扱い”の国々だ。

?日本は「戦後弱者」として、今まで12条国の地位に甘えていた。でも一流国になるためには、過保護な坊やのままではいけない。11条国になれば、外国製品に日本市場を荒らされるリスクも生まれるけど、逆に日本製品を優秀にして外国にガンガン売るチャンスも広がる。

「野党の連中は自由化を『黒船来航だ!?欧米支配の始まりだ!』と騒ぐけど、俺のこれまでの努力を見ろよ。俺はちゃんと国内政策で、いいモノを作れる基盤は整えてきてるぞ。最近はアメリカも『市場を開け』と言ってきてるし、ヨーロッパもうるさい。やっぱここは開かないと損だ」

?池田はそう考えて「貿易為替自由化計画大綱」を発表し、段階的に自由化枠を拡大させた後、1963年、日本をGATT11条国へ移行させた。

?次に取り組んだのは、IMF8条国への移行だ。IMF(国際通貨基金)は「世界の通貨体制の守り神」的な組織で、その一四条国が通貨交換の制限が許される“途上国扱い”の国、そして8条国がそれを認めない“先進国扱い”の国だ。

?日本はこれまで14条国として、企業が輸入の支払いでドルが必要になっても、通産大臣がなかなか許可を出さず、結果的に通貨交換を厳しく制限してきた。これを「為替割当制度」という。

?これさえやれば、日本から海外への支払いが減り、貿易赤字の拡大を防げる。しかし、同時に貿易のジャマにもなる。ちょうどIMFから「そろそろ日本も大丈夫でしょ?」と打診されていたし、IMFと弟分のIBRD(国際復興開発銀行。俗に“世界銀行”)からは、戦後復興資金を借りまくった恩もある。

?また、日本が反撃に転じて輸出攻勢に出るためにも、為替は自由化されたほうがいい。
?ならここは思い切って、為替割当も廃止するか――池田はこう考えて為替割当を一部除いて廃止し、1964年、日本をIMF8条国へと移行させた。

?さらに日本は、これらの移行で先進国と認められ、同年、IMF8条国入りと同時に「OECD(経済協力開発機構)」への加盟も認められた。OECDは西側先進国だけで作られた“先進国クラブ”だ。世界経済の成長目標や途上国へのODA配分目標などが話し合われる。日本はここに、アジアから初めて加盟を認められ、これで三役揃い踏み、日本は晴れて先進国の仲間入りをした。

?池田勇人はこのように、日本が一流の先進国になるための基盤づくりに大いに貢献した“経済の人”だったが、同時に名言・失言・暴言の多い“一人名言bot”みたいな人でもあった。

「貧乏人は麦を食え」「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」――これらは池田の国会発言が曲解されて新聞報道された失言だが、所得倍増計画の説明では、その暴言吐きのイメージを逆手に取り、嘘のつけない正直な首相という体で「私は嘘は申しません」の名言を残した。

?よく考えると、そもそも「所得倍増計画」そのものがその年の流行語だし、他にも「寛容と忍耐」なんていうのもある。本当にツイッター向きの人だ。

「消費は美徳である」――経済成長と岩戸景気

?池田の「所得倍増計画」に乗せられて、この時代は景気もグングン拡大した。この頃の好景気を「岩戸景気」という。

?正確には1958年から始まった好況だが、その牽引役となったのは、「なべ底不況」で中断していた民間設備投資の再開と、池田のがむしゃらな「経済成長優先政策」だ。おかげで日本経済は再び活気を取り戻し、企業の成長だけでなく、個人消費も順調に伸びた。「消費は美徳」という言葉が流行ったのも、この頃だ。

994とはずがたり:2016/12/23(金) 13:05:26
>>992-994
?他にも1958年から61年といえば、東京タワーが完成し、民放テレビ局が次々と開局し、巨人の長嶋茂雄が4打席4三振でデビューし、南極昭和基地のタローとジローの生存が確認された時期だ。

?世の中ではフラフープが大流行し、「イカす」「シビれる」などの言葉が流行り、スバル360やスーパーカブが街中を走り回り、ファンタやチキンラーメンが発売された。

?しかし残念ながら、岩戸景気の構造は「神武景気の続き」だ。ドルがたまって、中断していた輸入中心の設備投資が再開しただけだ。だからどうしても、最後にはドル不足から輸入が限界になる「国際収支の天井」にぶつかるのは避けられない。

?結局この後には、また「なべ底不況」みたいな不況になるんだろうな――誰しもがそう覚悟した。しかしそうはならなかった。実はこの後、輸入や輸出とは無関係の好景気がやってくるのだ。それが「オリンピック景気」だ。

世界中に日本の復活を見せつけろ――東京オリンピック

?1959年、西ドイツのミュンヘンで開かれた第55回IOC(国際オリンピック委員会)総会にて、東京はデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを大差で破り、見事1964年の東京オリンピック開催を射止めた。

?国内は沸きに沸いた。そしてそれと同時に、少し焦った。ヤバい、この夢の祭典まで、あと5年しかないぞ。5年後に世紀の一大イベントが東京で開かれる以上、それまでに大急ぎで国内を“化粧”しないと。せっかく世界中から多くの人が集まってくれるのに、日本が戦後丸出しのボロ雑巾みたいな国のままじゃ恥ずかしい。

「わっ、なんて野蛮な国でオリンピックをやるんだ!??とか思われたくない。なら、この5年でやれることはやらないと」

?政府はただちに「東京オリンピック組織委員会」を結成し、オリンピック開催に必要な施設や社会資本の整備を大々的に始めた。その結果、日本武道館や国立競技場が造られ、ホテルや宿舎、観光施設が整備され、東海道新幹線や首都高速道路、営団地下鉄などが次々と造られた。

?こんな流れでオリンピックの直前に、何だかんだトータルで一兆円規模の金が動いたとされる。しかも、その多くが社会資本の整備。つまり日本は、図らずも「一兆円規模の公共事業」を行ったのと同じ形になり、その景気浮揚効果で、岩戸景気後のわずかな不況をあっという間に払拭したのだ。

?こういうラッキーな好景気がオリンピック景気だ。輸入に頼らない、国内完結型の好景気。日本経済はこれでさらに躍進し、世界45ヵ国に中継されるテレビ放送の中で、夢の祭典とともに、戦後の奇跡の成長ぶりを見せつけたのだ。


東京オリンピック(1964年)
?また国民の間では、この東京オリンピックを機にカラーテレビが大きく普及し、「テレビで観るオリンピック」の先駆けとなった。国民はお茶の間にいながらにしてオリンピックに釘づけになり、“東洋の魔女(女子バレーボール)”たちの活躍、マラソン・アベベの激走、柔道無差別級での神永vsヘーシンク、体操・遠藤の男子個人総合優勝、重量挙げ・三宅の金メダルなどに夢中になった。このオリンピックでの瞬間最高視聴率は85%を記録した。

?そして東京オリンピック閉会直後の1964年10月、病気を理由に池田勇人は辞任し、後継に佐藤栄作を指名した。さらに翌年、池田はガンで死んだ。「経済大国ニッポン」の牽引者は、わずか16年で政治家生活の幕を閉じた。

※ここから先の内容に興味をお持ちの方は、書籍『やりなおす戦後史』をぜひお買い求めください。

995名無しさん:2016/12/24(土) 16:34:05
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122100893&g=pol
日米戦後和解に尽力=ケネディ大使

 キャロライン・ケネディ大使が平和への思いを強く抱くようになったきっかけは、1978年の被爆地・広島訪問だ。当時20歳で、叔父の故エドワード・ケネディ上院議員と共に平和記念公園などを訪れ「深く心を動かされた」。それから38年。現職米大統領として初めて被爆地を訪れたオバマ大統領に同行した。
 日米外交筋は「オバマ大統領の広島訪問にケネディ大使が果たした役割は大きい」と指摘する。大使は自らの役割について詳細は語らず「オバマ大統領の広島訪問は最も印象に残る経験になるだろう」と述べるにとどめた。
 大使は、今月末に予定される安倍晋三首相のハワイ真珠湾訪問の際、オバマ大統領と共に同行する意向を表明。オバマ大統領の広島訪問、安倍首相の真珠湾訪問を「日米同盟を最強にした数十年にわたる友情、協力、信頼がもたらした歴史的瞬間だ」と強調した。
 外交経験がないケネディ氏の駐日大使就任には、オバマ大統領誕生への貢献に対する「論功行賞」と批判の声も上がった。しかし、大使就任後、ケネディ氏は被爆地の広島、長崎や米軍基地問題で揺れる沖縄のほか、東日本大震災の被災地にも頻繁に足を運び日米友好強化に貢献したのは間違いない。
 特に沖縄への思い入れは強く、大使就任後の訪問回数は7回に上る。米軍基地の過剰負担に苦しむ沖縄県民との交流も積極的に行い、大使公邸には文化交流で訪れた首里高校の染色デザイン科の生徒から贈られた2枚のタペストリーが飾られている。オスプレイ事故などで反米感情が高まる中、「沖縄県民の友情、協力には非常に感謝している」と述べた。(2016/12/21-21:47)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122100805&g=pol
真珠湾「全ての犠牲者」追悼へ=安倍首相、日米和解アピール

 安倍晋三首相は27日(日本時間28日)の米ハワイ・真珠湾訪問で予定する演説について、日米が戦端を開いた1941年の真珠湾攻撃の「全ての犠牲者を追悼する」ことを表明する方向で調整に入った。首相は今回の訪問で日米の和解をアピールしたい考えで、先の大戦への「痛切な反省」を表明した昨年4月の米議会演説も踏襲する。
 菅義偉官房長官は21日の記者会見で、首相の演説について、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないとの決意を未来に向けて示し、日米和解の価値を発信する機会になる」と語った。
 首相はハワイで、オバマ大統領とともに真珠湾のアリゾナ記念館を訪れ、献花し慰霊。演説も行う。(2016/12/21-19:43)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122100302&g=pol
安倍首相、米国立墓地訪問へ=真珠湾慰霊に合わせ

 安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪れて慰霊するのに合わせ、ホノルルの米国立太平洋記念墓地(通称パンチボウル)も訪問することが21日分かった。同墓地には、第2次世界大戦などで戦死した米兵らが眠っており、日米の和解をアピールする狙いがある。
 首相は、2001年にハワイ沖で米原子力潜水艦と衝突して沈没した「えひめ丸」の慰霊碑も訪れる。えひめ丸は愛媛県立宇和島水産高校の実習船で、生徒や指導教官ら9人が犠牲となった。(2016/12/21-11:29)

996名無しさん:2016/12/24(土) 17:30:13
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161224/k10010818401000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_003
首相の真珠湾慰霊 捕虜になった元米兵の団体も出席へ
12月24日 4時52分

安倍総理大臣が来週、アメリカのオバマ大統領と真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する際、太平洋戦争中に旧日本軍の捕虜となった元アメリカ兵の関係団体が、ホワイトハウスから招待を受けて立ち会うことになりました。
安倍総理大臣は、来週26日からハワイを訪れ、27日にオバマ大統領と首脳会談を行うとともに、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊します。

これについて、太平洋戦争中にフィリピンで旧日本軍の捕虜となった元アメリカ兵やその家族で作る団体はNHKの取材に対し、両首脳が真珠湾のアリゾナ記念館で献花したあと所感を述べる場に立ち会うことを明らかにしました。ホワイトハウスから招待を受け、団体の会長で元捕虜の娘のジャン・トンプソンさんなどが出席するということです。

トンプソン会長は、「歴史的な式典に招かれ、とても光栄だ。日米同盟はかつての敵国が今は強い同盟国であることを示す世界の模範だ」と述べました。ホワイトハウスは、両首脳が所感を述べる場に、当時真珠湾で攻撃を受けた元兵士や太平洋戦争を経験した退役軍人なども招待していて、日米両国の和解や日米同盟の重要性を内外に発信したい考えです。

997名無しさん:2016/12/24(土) 21:05:37
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122400097&g=pol
鳩山、岸首相も真珠湾訪問=60年前、現地邦字紙が報道-米ハワイ

 【ロサンゼルス時事】米ハワイの邦字日刊紙「ハワイ報知」は22日、鳩山一郎氏と岸信介氏がそれぞれ首相だった1956年と57年に、米ハワイの真珠湾を訪問していたと報じた。当時の紙面で確認されたという。報道通りだとすると、現職首相による真珠湾訪問が確認されたのは、51年の吉田茂氏を含め3人となる。

 日本の主要メディアは当初、現職首相の真珠湾訪問は今月の安倍晋三首相が初めてと報道。その後、吉田氏が51年に真珠湾の米太平洋軍司令部を訪問していたことが確認された。

 日本政府によると、攻撃で沈没した戦艦の真上にある慰霊施設「アリゾナ記念館」は62年に建てられたため、同記念館で慰霊を行う現職首相は安倍氏が初めてになる。
 ハワイ報知は22日付の1面トップで「鳩山一郎、岸両首相も訪れていた」と報じた。ハワイ報知や他の地元紙の記事で確認されたという。
 鳩山氏は56年10月、モスクワで日ソ共同宣言に調印し、欧州、米国経由で帰国する際、ホノルルに立ち寄った。ハワイ報知は当時、その様子を写真付きで報じていた。
 岸氏は57年6月、米国でアイゼンハワー大統領と会談後、帰国前にホノルルで2泊した。「ハワイタイムズ」(85年廃刊)には、岸氏が米兵の眠る米国立太平洋記念墓地(パンチボウル)や、真珠湾の「マカラパ司令部」を訪問したと記されている。
 鳩山、岸両氏とも「礼砲の歓迎」を受けるなどしたといい、ハワイ報知は「公式の訪問とみられる」と報じている。(2016/12/24-13:03)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122400098&g=pol
元米兵捕虜遺族も出席=安倍首相の真珠湾慰霊式典

 【ワシントン時事】元米兵捕虜と遺族らで運営する「全米バターン・コレヒドール防衛兵記念協会」のトンプソン代表は23日、安倍晋三首相とオバマ大統領が27日(日本時間28日)にハワイの真珠湾で行う慰霊式典に出席すると明らかにした。
 トンプソン氏は取材に対し、「ホワイトハウスから歴史的な行事に招かれ、安倍首相とオバマ大統領の所感を聞けることは大変光栄だ」と述べた。
 トンプソン氏の父親は第2次大戦中、米兵として出征していたフィリピンで、日本軍の捕虜となった。同氏は「敵国同士が今や強力な同盟国となった。しかし、依然として(和解に向けて)なすべきことも残されている」と語った。(2016/12/24-09:52)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122200126&g=pol
真珠湾攻撃の生存者ら招待=安倍首相訪問「和解がテーマ」-米高官

 【ワシントン時事】米国家安全保障会議(NSC)のクリテンブリンク・アジア上級部長は21日、ワシントン市内で記者会見し、安倍晋三首相とオバマ大統領が27日(日本時間28日)にハワイ・真珠湾で行う慰霊式典に、日本軍による真珠湾攻撃の生存者や第2次大戦の退役米軍人らを招待すると明らかにした。
 クリテンブリンク氏は、一連の行事について「和解が重要なテーマになる」と強調。生存者らの出席に関し「大統領の広島訪問で招かれた被爆者と同じで、(その意義は)とても力強いものとなる。両国の今日の指導者との交流があればよいと思う」と語った。
 日米首脳は27日午前(同28日早朝)に首脳会談を行い、「同盟の強さ」を確認。日本軍の攻撃で沈没した戦艦アリゾナの記念館で献花した後、それぞれ所感を述べる。大統領の記者会見は予定されていない。
 クリテンブリンク氏は、オバマ大統領は所感で「和解の力に焦点を当てる。(首相の真珠湾訪問は)日米両国が苦しい歴史をいかに乗り越えて、最も緊密な同盟国、友人になれるかという証左であることを語る」と述べた。(2016/12/22-12:06)

998名無しさん:2016/12/24(土) 21:21:38
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161224/k10010818911000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_001
官房長官 歴史的価値ある国の施設を積極公開
12月24日 20時16分

菅官房長官は、24日から夜間公開が行われている東京・港区の迎賓館を訪れ、ライトアップされた本館などを視察したあと、記者団に対し、引き続き歴史的価値のある国の施設を積極的に公開していく考えを示しました。
首脳会談などに使われて国宝にも指定されている東京・港区の迎賓館は、ことし4月から、外交行事などに支障がない範囲で一般公開されていて、24日と25日の2日間限定で夜間公開と本館のライトアップが行われています。

これに合わせて菅官房長官が視察に訪れ、本館の中で外国要人との会談や晩さん会、記者発表などが行われる部屋を順番に見て回りました。

視察のあと、菅官房長官は記者団に対し「迎賓館は明治期のわが国の総力を結集して造られた、すばらしい価値のある建築物であり、ふだんとは違う夜間の視察で新たな魅力を感じることができた」と述べました。

そのうえで、菅官房長官は「今回のような取り組みを通じて、若い人たちにも日本のすばらしさを知ってもらいたい。アンケートなどを踏まえて、次の夜間公開も検討する」と述べ、引き続き歴史的価値のある国の施設を積極的に公開していく考えを示しました。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122400192&g=pol
迎賓館、初の夜間公開=機会拡大も検討

 政府が管理する東京・元赤坂の迎賓館で24日、初めて夜間公開が行われた。政府は4月から、日中に観光客らへの公開を実施しているが、24、25両日の夜はクリスマスに合わせて施設をライトアップし、予約制で計2400人を対象に公開することにした。
 視察に訪れた菅義偉官房長官は「昼とは雰囲気が全然違う。ゴールデンウイーク(春の大型連休)の時などにも検討していく価値はある」と記者団に語り、夜間公開の機会拡大を検討する意向を示した。(2016/12/24-20:18)

999名無しさん:2016/12/25(日) 14:48:42
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122500026&g=pol
揺るぎない同盟、真珠湾で発信=トランプ氏へ「針路」-首相、27日米ハワイ慰霊

 安倍晋三首相は26日(日本時間27日)、米ハワイを訪れる。太平洋戦争で日米両国が戦端を開いた真珠湾での慰霊行事にオバマ米大統領とともに臨むほか、オバマ氏の任期中で最後の首脳会談も行う。両首脳は、かつて敵対した日米が和解の歩みを経て揺るぎない同盟関係を築いた姿を国際社会に発信し、絆をさらに深める決意を表明する。日米同盟の在り方の見直しに言及したトランプ次期大統領に「針路」を示す狙いもありそうだ。
 首相は東京を26日夜に出発。ホノルルには現地時間26日午前(同27日未明)に入り、真珠湾攻撃で犠牲となった米兵の墓地や日本人戦死者の慰霊碑などで献花を行う。27日午前(同28日朝)にオバマ氏と首脳会談を行った後、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの上に建つ追悼施設「アリゾナ記念館」をそろって訪問。献花と黙とうに続き、両首脳が演説する。 
 日米両首脳が一緒に真珠湾で慰霊するのは初めて。5月の両首脳による被爆地・広島への訪問と併せ、和解を象徴する歴史的な節目となる。首相は真珠湾での演説で、敵味方の区別なく全ての戦没者に哀悼の意を表し、不戦の誓いを新たにする。その上で、アジア太平洋地域の平和と安定や国際的課題の解決にとって「日米同盟は死活的に重要」との認識を示し、同盟の深化を訴える。
 首相はこうした路線をオバマ氏と再確認することで、来年1月20日に大統領に就任するトランプ氏に着実に継承してもらいたい考え。首相は1月下旬のワシントン訪問を調整しており、トランプ氏に同盟強化の重要性を直接説く意向だ。
 ただ、トランプ氏の外交・安全保障政策には不透明感も漂う。選挙戦時に在日米軍駐留経費を日本が全額負担しない場合の米軍撤退を示唆したほか、22日には「米国の核能力強化」を主張し、核軍縮を志向してきたオバマ氏との違いが表面化。米中関係の悪化も懸念されている。米政権移行で首相は細心の注意が求められそうだ。

◇安倍首相とオバマ大統領の4年間
【2013年】
 2月    安倍晋三首相とオバマ大統領がワシントンで初会談
11月    ケネディ駐日大使が着任
12月    首相が靖国神社を参拝。在日米大使館が「米政府は失望」との声明発表
【14年】
 4月    大統領来日。首脳会談で尖閣諸島が日米安全保障条約の適用対象と明言
【15年】
 4月    日米防衛協力の指針(ガイドライン)再改定
       首相が米議会上下両院合同会議で演説。先の大戦への「痛切な反省」を表
       明
 9月    集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法が成立
【16年】
 5月    大統領が広島訪問。「核なき世界」の追求表明
11月    首相、ニューヨークでトランプ次期米大統領と会談
       ペルーで日米首脳が立ち話。首相のハワイ真珠湾訪問と首脳会談開催で合
       意
12月27日 両首脳がハワイ真珠湾で会談、戦没者を慰霊
 (2016/12/25-14:05)

1000とはずがたり:2016/12/28(水) 09:53:42
「山本五十六は開戦反対」展示 真珠湾のアリゾナ記念館
http://www.asahi.com/articles/ASJDW7H69JDWUTIL04P.html?iref=com_alist_8_03
ホノルル=高野裕介2016年12月28日07時42分

 安倍晋三首相とオバマ大統領が訪れた米ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館は、日本軍の攻撃を受け沈没した戦艦アリゾナの上に、1962年に開館した慰霊施設だ。アリゾナでは乗組員ら1177人が死亡し、今も約900人の遺体が艦内に残っている。

特集:首相、真珠湾訪問
 白い外観が特徴の全長約56メートルの施設は、船でしか行き来できない。中の壁には犠牲になった乗組員らの名前がびっしりと刻まれている。年間約160万人が訪れるという。

 記念館に向かう船の発着場付近は、国立公園局などが管理するビジターセンターの施設が並び、戦争資料などが展示されている。かつては、米国側の被害中心の展示内容だったが、今は規模も広げ、日米双方の視点から歴史を語り継ぐ場へと様変わりしている。

 2005年ごろ、ダニエル・マルチネス主任学芸員らが「戦争の悲劇を理解するためには、日米双方の等身大の姿を示す必要がある」として展示内容の変更を計画。10年にリニューアルオープンした。

 展示施設内では、真珠湾攻撃の生存者や元零戦パイロットのインタビューを流す。真珠湾攻撃を指揮した山本五十六・連合艦隊司令長官が米国留学の経験があることや、対米戦争には反対していたことも紹介。広島で被爆し、12歳で亡くなった佐々木禎子さんが作った折り鶴も、禎子さんの紹介文とともに展示している。

 マルチネスさんは「キーワードはバランス。互いの国の当時の状況を理解することで和解に向かうことができる。この場所がそのきっかけになれば」と話す。(ホノルル=高野裕介)

1001名無しさん:2016/12/30(金) 16:41:07
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122600469&g=pol
安倍首相、28日に真珠湾訪問=オバマ米大統領と慰霊

 安倍晋三首相は26日、米ハワイの真珠湾を訪問するため、政府専用機で羽田空港を出発した。オバマ米大統領とともに真珠湾のアリゾナ記念館を現職首相として初めて訪問し、先の大戦の犠牲者を慰霊する。日米開戦の地で両国の和解と、未来志向の同盟深化を内外に発信したい考えだ。
 首相は出発に先立ち、羽田空港で記者団に「真珠湾攻撃から75年目、日本国民を代表して慰霊のために真珠湾を訪問する。戦争の惨禍は二度と繰り返してはならないという未来への誓い、和解の価値をオバマ大統領と世界に発信したい」と表明した。
 首相は27日午前(日本時間28日午前)、オバマ大統領とアリゾナ記念館を訪れ慰霊式典に出席。場所を移して共に演説し、大戦の全ての犠牲者を追悼する。謝罪には言及しない見通しだ。退役米軍人や旧日本軍による真珠湾攻撃の生存者と交流し、良好な日米関係をアピールする。
 式典に先立ち、来年1月に任期を迎えるオバマ大統領と最後の首脳会談に臨む。首相が取り組んできた日米関係強化の重要性を再確認し、日米同盟見直しの懸念が残るトランプ次期大統領に理解を促したい考えだ。首相は羽田空港で「この4年間を総括する首脳会談にしたい」とも語った。
 26日(日本時間27日)には、真珠湾攻撃の犠牲者らが眠る米国立太平洋記念墓地(通称パンチボウル)や日系移民の共同墓地などで慰霊。28日夜に帰国する。(2016/12/26-21:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122600276&g=pol
鳩山一郎、岸両首相も真珠湾訪問=菅長官

 菅義偉官房長官は26日午前の記者会見で、鳩山一郎、岸信介両氏が1950年代の首相当時、それぞれ米ハワイ・真珠湾を訪れていたと発表した。これまでに吉田茂首相の訪問が判明しており、過去の現職首相の真珠湾訪問は計3人となる。

 菅氏によると、鳩山氏は56年、岸氏は57年に、それぞれ真珠湾に面した米太平洋軍司令部を訪問したという。
 その上で、菅氏は「(アリゾナ)記念館において現職首相が慰霊を行うのは安倍晋三首相が初めての機会で、米大統領と共に慰霊を行うのも初めてだ」と強調した。(2016/12/26-13:00)

1002名無しさん:2016/12/30(金) 18:33:13
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122700022&g=pol
安倍首相、えひめ丸犠牲者に献花=ホノルルの慰霊碑で

 【ホノルル時事】安倍晋三首相は26日午前(日本時間27日午前)、ホノルル市のカカアコ臨海公園を訪れ、ハワイ沖を航行中に米原潜と衝突して沈没した愛媛県立宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の慰霊碑前で献花した。

 慰霊碑は2001年2月の事故から1年後、沈没現場が見渡せる場所に建立された。船体から引き揚げられたいかりが設置されている。献花には、岸田文雄外相と稲田朋美防衛相も同行した。
 事故では生徒ら9人が犠牲となった。原潜が積極的な救助活動を怠ったため、日本国内で対米感情が悪化。当時のブッシュ米大統領が遺族に謝罪するため政府特使を派遣した。
 一方、日本側でも当時の森喜朗首相が事故後もゴルフを続けて反発を浴び、官房副長官だった安倍首相が対応に追われた。(2016/12/27-06:38)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122700021&g=pol
安倍首相が米兵墓地献花=日本人犠牲者も慰霊-真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相は26日午前(日本時間27日未明)、米ハワイ・ホノルルに到着した。オバマ米大統領と27日(同28日)に真珠湾を訪問するのに先立ち、首相は旧日本軍の真珠湾攻撃で犠牲となった米兵らを埋葬した国立太平洋記念墓地(通称パンチボウル)を訪れ、献花した。

 小雨の降る中、首相は関係者の案内で献花台へ進み黙とう。日系人部隊の一員として欧州戦線に参加し、後に日米関係の進展に尽力した故ダニエル・イノウエ元米上院議員の墓標にも花を手向けた。
 首相はこの後、日本人移民や真珠湾攻撃で戦死した日本人兵士の慰霊碑があるマキキ日本人墓地を訪問。日米の犠牲者をともに慰霊することで、不戦の誓いをアピールした。
 26日午後は、ホノルル市内のカネオヘ海兵隊基地へ移動し、旧日本軍の飯田房太中佐の記念碑に献花。記念碑は、真珠湾攻撃後に被弾して燃料切れとなりながら、同基地に突入した飯田中佐の勇敢さをたたえた米軍が後に建立した。

 首相は同日午後、行方不明兵士の消息調査を行う米国防総省捕虜・行方不明者調査局(DPAA)を訪問し、日系人との夕食会に出席する。
 首相は27日午後、1月に任期を終えるオバマ大統領との最後の首脳会談に臨んだ後、共に真珠湾のアリゾナ記念館を訪問、演説する。(2016/12/27-07:51)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122700696&g=pol
「パフォーマンス」と批判=安倍首相の真珠湾訪問-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は27日の記者会見で、安倍晋三首相の真珠湾訪問について、「謝罪のない慰霊というだけでなく、かなりの部分が主に中国に向けられたパフォーマンスだ」と述べ、日米同盟強化の誇示が目的だと批判した。(2016/12/27-19:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122700510&g=pol
「和解の力、世界に示す」=日米首脳、28日に真珠湾慰霊

 【ホノルル時事】米ハワイ入りした安倍晋三首相は26日(日本時間27日)、日米双方の戦没者の墓地などを訪れ、哀悼の意を表した。首相はホノルル市内で開かれた日系人との夕食会であいさつし、「慰霊と和解の力を、日米そして世界に示したい。これからも日米は希望の同盟として地域や世界のさまざまな課題に共に立ち向かっていきたい」と強調した。
 首相は27日(同28日)には、オバマ米大統領と共に真珠湾を訪問。旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの上に建つ追悼施設「アリゾナ記念館」で犠牲者を慰霊し、黙とうをささげる。日米首脳がそろって真珠湾で慰霊を行うのは初めて。(2016/12/27-19:21)

1003名無しさん:2016/12/30(金) 20:33:22
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800082&g=pol
安倍首相演説全文=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相が27日(日本時間28日)、米ハワイの真珠湾訪問後に「和解の力」と題して行った演説の全文は次の通り。

 オバマ大統領、ハリス(米太平洋軍)司令官、ご列席の皆さま、そして、全ての、米国民の皆さま。パールハーバー、真珠湾に、今私は、日本国総理大臣として立っています。
 耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、柔らかな光に照らされた、青い、静かな入り江。私の後ろ、海の上の、白い、アリゾナ・メモリアル。あの、慰霊の場を、オバマ大統領と共に訪れました。
 そこは、私に、沈黙を促す場所でした。亡くなった、軍人たちの名が、記されています。祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、さまざまな地から来て、乗り組んでいた兵士たちが、あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いた時、紅蓮の炎の中で、死んでいった。
 75年がたった今も、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。
 あの日、日曜の朝の、明るくくつろいだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語り合う、若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。生まれてくる子の、幸せを祈る声。
 一人、ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。愛する妻や、恋人がいた。成長を楽しみにしている、子どもたちがいたでしょう。それら、全ての思いが断たれてしまった。その厳粛な事実をかみしめる時、私は、言葉を失います。
 そのみ霊よ、安らかなれ-。思いを込め、私は日本国民を代表して、兵士たちが眠る海に、花を投じました。
 オバマ大統領、米国民の皆さん、世界の、さまざまな国の皆さま。私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々のみ霊に、ここから始まった戦いが奪った、全ての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった、数知れぬ、無辜(むこ)の民の魂に、永劫(えいごう)の、哀悼の誠をささげます。
 戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を造り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
 この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、米国民の皆さまに、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。
 昨日、私は、カネオヘの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑(いしぶみ)を訪れました。その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのを諦め、引き返し、戦死した、戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。
 彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。攻撃を受けた側にいた、米軍の人々です。死者の、勇気をたたえ、石碑を建ててくれた。碑には、祖国のため命をささげた軍人への敬意を込め、「日本帝国海軍大尉(だいい)」と当時の階級を刻んであります。

1004名無しさん:2016/12/30(金) 20:33:33
>>1003

 The brave respect the brave.
 「勇者は、勇者を敬う」。
 アンブローズ・ビアスの、詩は言います。戦い合った敵であっても、敬意を表する。憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。そこにあるのは、米国民の、寛容の心です。
 戦争が終わり、日本が、見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、米国民でありました。皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は、未来へと、命をつなぐことができました。
 そして米国は、日本が、戦後再び、国際社会へと復帰する道を開いてくれた。米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは、平和と繁栄を享受することができました。敵として熾烈(しれつ)に戦った、私たち日本人に差し伸べられた、こうした皆さんの善意と支援の手、その大いなる寛容の心は、祖父たち、母たちの胸に深く刻まれています。私たちも、覚えています。子や、孫たちも語り継ぎ、決して忘れることはないでしょう。
 オバマ大統領と共に訪れた、ワシントンのリンカーン・メモリアル。その壁に刻まれた言葉が、私の心に去来します。
 「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。
 「永続する平和を、われわれ全ての間に打ち立て、大切に守る任務を、やり遂げる」。
 エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。私は日本国民を代表し、米国が、世界が、日本に示してくれた寛容に、改めて、ここに、心からの感謝を申し上げます。
 あの「パールハーバー」から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた同盟国となりました。それは、今までにも増して、世界を覆う幾多の困難に、共に立ち向かう同盟です。あすを開く、「希望の同盟」です。
 私たちを結び付けたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation、「和解の力」です。
 私が、ここパールハーバーで、オバマ大統領と共に、世界の人々に対して訴えたいもの。それは、この、和解の力です。戦争の惨禍は、いまだに世界から消えない。憎悪が憎悪を招く連鎖は、なくなろうとしない。
 寛容の心、和解の力を、世界は今、今こそ、必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値の下、友情と、信頼を育てた日米は、今、今こそ、寛容の大切さと、和解の力を、世界に向かって訴え続けていく、任務を帯びています。日本と米国の同盟は、だからこそ、「希望の同盟」なのです。
 私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー。真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。
 私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さん米国人の子どもたちが、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願います。そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに、固く、誓います。ありがとうございました。(2016/12/28-07:48)

1005名無しさん:2016/12/30(金) 20:34:18
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800084&g=pol
日米の戦後に区切り=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相とオバマ米大統領による真珠湾訪問は、戦火を交えた両国の歴史に新たなページを加えた。5月の大統領の被爆地広島訪問と併せ、戦後に大きな区切りを付けたと言える。首相にとっては、トランプ次期米大統領との間で、日米同盟堅持にどうつなげるかが今後の課題となる。
 首相が2013年末に靖国神社を参拝し、米国では「歴史修正主義者」との批判が出た。その後の首相は、懸念を取り除くことに心を砕いてきた。15年4月の米議会演説では「痛切な反省」に言及。同年8月の戦後70年談話でも「深い悔悟の念」を表明した。今回の真珠湾訪問も、こうした流れの中にある。
 日米両国民には、第2次世界大戦をめぐるわだかまりも残る。日本人には広島、長崎への原爆投下が、米国人には真珠湾奇襲が、その象徴だ。大統領が米国内の一部の批判を押し切って広島訪問を決断したことが、首相の背を押したのは間違いない。
 来年1月20日に就任するトランプ氏は、「米国第一主義」を掲げ、日米同盟の見直しにも言及してきた。首相が27日の演説で「(日米は)世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟だ」と訴えたのは、アジア太平洋地域の安定には揺るぎない日米同盟が必要との立場からだ。
 地域の安定には、近隣諸国との和解も欠かせない。首相は演説で、真珠湾攻撃を発端とする戦争の犠牲となった「無辜(むこ)の民の魂に、永劫(えいごう)の、哀悼の誠をささげる」と述べた。アジアの民間人の犠牲が念頭にあるとみられる。(2016/12/28-07:31)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800080&g=pol
安倍首相演説要旨=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相の真珠湾での演説要旨は次の通り。
 真珠湾に今、私は首相として立っている。追悼施設「アリゾナ記念館」をオバマ米大統領と共に訪れた。あの日、爆撃が戦艦アリゾナを切り裂いた時、兵士たちが炎の中で死んでいった。その厳粛な事実をかみしめる時、私は言葉を失う。
 この地で命を落とした人々のみ霊に、ここから始まった戦いが奪った全ての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった数知れぬ無辜(むこ)の民の魂に、永劫(えいごう)の、哀悼の誠をささげる。
 戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない。私たちはそう誓い、戦後、自由で民主的な国を造り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを貫いてきた。
 戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は静かな誇りを感じながら、この不動の方針をこれからも貫いていく。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たち、米国民、世界の人々に、固い決意を表明する。
 あの真珠湾攻撃から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた同盟国となった。それは今までにも増して、世界を覆う幾多の困難に共に立ち向かう同盟だ。あすを開く「希望の同盟」だ。
 私たちを結び付けたものは、寛容の心がもたらした「和解の力」だ。憎悪を消し去り、共通の価値の下、友情と信頼を育てた日米は、今こそ寛容の大切さと、和解の力を世界に向かって訴え続けていく任務を帯びている。日米の同盟はだからこそ「希望の同盟」なのだ。
 日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、米国人の子どもたち、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、真珠湾を和解の象徴として記憶し続けてくれることを私は願う。そのための努力をこれからも惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに固く誓う。(2016/12/28-07:52)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800157&g=pol
安倍首相帰国の途に=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】安倍晋三首相は27日午後(日本時間28日午前)、米ハワイの真珠湾訪問を終え、ヒッカム空軍基地から政府専用機で帰国の途に就いた。28日夜に帰国する。(2016/12/28-09:13)

1006名無しさん:2016/12/30(金) 21:13:27
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800072&g=pol
日米首脳、静かに目を閉じ=生存者から歓迎の声-真珠湾訪問

 【ホノルル時事】日米関係にとり歴史的な節目となった安倍晋三首相による27日の米ハワイ・真珠湾訪問。初夏を思わせる陽光が降り注ぎ、ワイキキビーチ沿いの繁華街が観光客でにぎわう中、20キロほど離れた慰霊施設「アリゾナ記念館」は厳粛な雰囲気に包まれた。「和解の力」をうたった首相の演説に、真珠湾攻撃の生存者からは歓迎の声が上がった。

 記念館は1962年、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの真上に建てられた。手すり越しにのぞき込むと、海底に横たわる船体が透けて見え、海面には漏れ続ける油が浮かぶ。戦死した1177人のうち900人以上の遺体が、今も艦内に残されたままだ。

 ダークカラーのスーツに紺のネクタイ姿の首相は27日午前、オバマ大統領と船に乗って記念館の船着き場に到着した。館内に入ると、大理石の壁に戦死者の名前が刻まれた慰霊の間に進み、少数の政府関係者が見守る中、2人で花輪を整える形で献花。黙とうをささげた。
 慰霊の間を出た2人は、床が吹き抜けになったスペースから、海面下の船体に向かって花びらを散らし、再び静かに目を閉じた。
 両首脳はこの後、近くの波止場に移り、強風にたなびく両国旗や日本が降伏文書に調印した戦艦ミズーリ、アリゾナ記念館を背に演説。真珠湾攻撃を生き抜いた元米兵3人をはじめ150人超の列席者が見守る中、首相は一言一言をかみしめるように「この地で命を落とした人のみ霊に永劫(えいごう)の哀悼の誠をささげる」と語った。
 大統領が演説を終えると、首相は大統領の誘導で真珠湾攻撃を生き延びた元米兵3人に歩み寄り、「サンキュー・ベリーマッチ」などと声をかけながら一人ひとりを抱擁。その一人、アル・ロドリゲスさん(96)は「訪問を楽しみにしていた。首相は期待していた以上のことをしてくれた」と、首相の訪問と演説を笑顔で歓迎した。(2016/12/28-10:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800139&g=pol
安倍首相、次期米政権にTPP働き掛け=日米首脳、中国空母の動向注視

 【ホノルル時事】安倍晋三首相は27日午前(日本時間28日朝)、オバマ米大統領とハワイのホノルルで会談した。来年1月に任期を終えるオバマ氏との会談は今回が最後。首相は環太平洋連携協定(TPP)について、「発効に至らなかったが、引き続き自由貿易を後退させてはならないとの考えで(トランプ)次期政権にも働き掛けていく」との意向を示した。
 東アジア情勢については、中国の空母「遼寧」が西太平洋に進出したことを取り上げ、「中長期的観点から注視すべき動向だ」との認識を共有した。中国の活発な海洋進出をにらみ、日米にオーストラリアやインドを交えて安全保障協力を拡大する「同盟ネットワーク」の重要性も確認した。(2016/12/28-10:55)

1007名無しさん:2016/12/30(金) 21:14:44
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800079&g=pol
日米首脳が真珠湾慰霊=安倍首相「和解の力」発信-75年の節目、同盟深化誓う

 【ホノルル時事】安倍晋三首相とオバマ米大統領は27日午前(日本時間28日朝)、旧日本軍が1941年に米国との戦端を開いたハワイの真珠湾を訪れ、犠牲者を慰霊した。首相はこの後の演説で、二度と戦争を繰り返さない決意を表明するとともに、戦後に強固な同盟を築いた日米の「和解の力」を国際社会に向けて発信した。謝罪や反省の言葉は盛り込まなかった。

 日米の首脳がそろって真珠湾を訪れるのは開戦後の75年間で初めて。攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナの上に建つ追悼施設「アリゾナ記念館」で献花し、黙とう。この後、海に花を投じ、犠牲者を悼んだ。
 首相と大統領はこの後、アリゾナ記念館から対岸の埠頭(ふとう)に移動し、並んで演説した。
 首相は「日米は歴史にまれな、深く強く結ばれた同盟国になった」と指摘。「私たちを結び付けたものは、寛容の心がもたらした『和解の力』だ」と語り、戦後の平和と繁栄を下支えした米国への謝意を示した。

 真珠湾攻撃に関して、首相は「ここから始まった戦いが奪った、全ての勇者たちの命に、無辜(むこ)の民の魂に哀悼の誠をささげる」と強調。謝罪や反省には直接言及しない一方、「(兵士らの犠牲という)厳粛な事実をかみしめるとき、私は言葉を失う」との心情を表すとともに、「戦争の惨禍は、二度と繰り返してはならない。この不動の方針をこれからも貫いていく」と力説した。
 首相は演説の最後で「世界中の人々がパールハーバーを和解の象徴として記憶し続けることを願う」と訴えた。
 一方、オバマ氏は演説で、「一番の敵対国であっても一番力強い同盟国にもなり得る。それこそがこの真珠湾が示す真実の和解の力だ」と述べ、首相の真珠湾訪問の意義を強調。日米同盟について「アジア太平洋の平和と繁栄の礎となっている。かつてなく強固だ」との認識を示し、「亡くなった人たちを悼みながら、この二つの国が共に勝ち取ってきたものに感謝をささげたい」と語った。
 両首脳は記念館訪問に先立ち、大統領の任期中では最後の会談を行った。両首脳は「日米同盟をさらなる高みに押し上げる」考えで一致。来年1月に発足するトランプ次期政権を念頭に、同盟深化への決意を誓った。(2016/12/28-11:27)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800039&g=pol
オバマ大統領、日米は「友情と平和選択」=安倍首相訪問の真珠湾で演説

 【ホノルル時事】オバマ米大統領は27日、安倍晋三首相とアリゾナ記念館を慰霊訪問した後の演説で、戦火を交えた日米両国が「友情と平和を選択した」と強調した。その上で「一番の敵対国が最も力強い同盟国になることができる。平和の果実は常に、戦争による略奪よりも重い」と述べ、日米両国が戦後に築いた同盟関係をたたえた。

 オバマ氏は、旧日本軍による攻撃を受けた真珠湾は「とても聖なる場所だ」と切り出し、勇敢に対応した兵士らの名前に言及。日系人部隊の一員として欧州戦線に参加し、後に日米関係の進展に尽力した故ダニエル・イノウエ元上院議員ら日系人を含む全兵士に謝意を表明した。
 また、大戦中に戦艦ミズーリのキャラハン艦長が特攻で死亡した日本人パイロットを米兵がつくった旭日旗にくるんで水葬した例を紹介し、日本語で「お互いのために」という言葉を思い起こすと述べた。
 日米同盟については、「アジア太平洋の平和と安定の礎石であり、かつてなく強固だ」と指摘。「和解こそが何よりも大きな褒美だと思う。二つの国が友人として、これまで勝ち取ってきたものに感謝をささげたい」と語った。
 オバマ氏はこれに先立ち、安倍首相と最後の会談に臨んだ。来年1月に退任するオバマ氏にとって、外国首脳との最後の公式会談になる見通し。
 オバマ氏は2009年1月の就任からアジア重視戦略を提唱。同盟網の再構築と併せて、ミャンマーとの歴史的な関係改善や旧敵ベトナムとの和解などを進めてきた。今年5月には、現職の米大統領として初めて被爆地・広島を訪問した。
 オバマ氏は演説で「内向きになることや、自分と違う人を悪者とすることに抵抗しなければならない」とも主張した。オバマ政権が追求した国際協調主義に否定的なトランプ次期大統領を念頭に、日米同盟を含むアジア重視の政策が今後も継続されるよう促した形だ。(2016/12/28-11:48)

1008名無しさん:2016/12/30(金) 21:17:59
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800396&g=pol
日米同盟は不変=菅官房長官

 菅義偉官房長官は28日午前の記者会見で、安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪問して日米同盟を堅持する意向を表明したことに関し、「トランプ政権が発足してもこの日米同盟は変わらない」と述べた。首相の演説については「悲惨な戦争の教訓を風化させることなく、二度と戦火を交えることなく、今後とも米国と協力して世界の平和と繁栄に貢献していくことを伝えることができた」と意義を強調した。(2016/12/28-12:41)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800360&g=pol
オバマ米大統領演説要旨=真珠湾訪問

 【ホノルル時事】オバマ米大統領が27日、真珠湾で行った演説要旨は次の通り。

 一、安倍晋三首相の歴史的な行動は、日米両国民の和解の力と同盟関係を示すものだ。戦争の最も深い傷でさえ、友情と永遠の平和に転じ得るということを思い起こさせる。
 一、米国人にとって、この港は神聖な場所だ。花を手向けたり、海に花をささげたりする時、2400人以上の犠牲者に思いをはせる。
 一、われわれはここで、戦争が、われわれの不朽の価値観にどれほど試練を与えるかに思いを巡らせる。日系米国人が戦時中、自由を剥奪されていたにもかかわらず、米国史上で最も勲章を授与された部隊の一つが日系2世らでつくる第442部隊、その中の第100歩兵大隊だった。
 一、人類史上最も恐ろしい時代の一つを経て、米国と日本は友情と平和を選んだ。
 一、日米同盟は、新たな世界大戦を防いだ国際秩序の構築を支えてきた。アジア太平洋の平和と安定の礎石となり、かつてなく強固だ。
 一、5年前に壁のような津波が日本を襲い、福島の原発で炉心溶融(メルトダウン)が起きたとき、米軍兵士は日本の友人を助けた。日米は肩を並べて、アジア太平洋や世界の安全保障の強化に努めている。
 一、安倍首相の訪問は、戦争は終わらせることができ、最も激しく対立した敵同士が最も強固な同盟関係になれると気付かせる。平和の恩恵は常に戦争の略奪品に勝るのだ。
 一、憎しみが燃え上がるときでさえ、内向きになることや、自分と異なる人々を悪者扱いすることに抵抗しなければならない。真珠湾での犠牲や戦争の悲しみによって、われわれはすべての人類に共通する崇高な啓示に従おうと気付く。
 一、われわれは受け継いだ歴史を選ぶことはできないが、歴史から引き出す教訓を選択し、未来像を描くのに生かすことができる。
 一、われわれは共に、世界に対し、報復よりも和解の恩恵の方が大きいというメッセージを発していくことを希望する。この静かな湾で、犠牲者に敬意を払いつつ。(2016/12/28-13:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800495&g=pol
真珠湾訪問「謝罪も同然」=生存元米兵3人が評価-安倍首相演説に列席

 【ホノルル時事】安倍晋三首相が27日に真珠湾で行った演説の会場には、75年前の旧日本軍の攻撃を生き延びた元米兵3人が駆け付け、首相の言葉に耳を傾けた。首相は演説後、3人に歩み寄り、一人ひとりを抱擁した。退役軍人の一部には謝罪を求める声もあるものの、3人は「謝罪は必要ない。真珠湾で献花すれば謝罪したのと同じだ」(スターリング・ケールさん)などと訪問を評価した。

 真珠湾攻撃の生存者は高齢化し、年々、減少しつつある。関係者によると、今月中旬には27日の首相の訪問を心待ちにしていた一人が死去。そうした中、3人は記憶を後世に伝えようと、アリゾナ記念館行きのフェリーが発着するビジターセンターで長年、「語り部」を続けている。
 ケールさん(95)は当時、基地内の診療所で働く衛生兵だった。攻撃時は引火した油が浮く海に入り、負傷者の救助や遺体の回収に当たった。
 各国メディアの記者に囲まれたケールさんは「首相の訪問は素晴らしい。何十年も待ち続けてきた」と強調。首相が攻撃を謝罪しなかったことを問われると、「申し訳なかったと言ってもらうより、行動で示してもらった方がいい。言葉は2分で忘れる。行動は永遠に記憶に残る」と指摘した。
 戦艦ペンシルベニアに乗務していたエベレット・ハイランドさん(93)は攻撃で全身に大やけどを負った。「首相が来てくれてうれしい。(日米は)かつては敵同士だったが、今は友人だ」と笑顔を見せ、「謝ることは何もない。戦争になればいつも人は死ぬ」と語った。
 アル・ロドリゲスさん(96)は「彼はありがとうと言い、ハグしてくれた。期待していた以上のことをしてくれた」と歓迎。「首相が来てくれて本当に感謝している。これは和解(の象徴)だ」と話した。(2016/12/28-14:53)

1009名無しさん:2016/12/30(金) 21:20:15
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800626&g=pol
日米首脳が真珠湾で慰霊=攻撃75年、「和解の力」訴え-同盟強化確認も

 【ホノルル時事】安倍晋三首相とオバマ米大統領は27日(日本時間28日)、日米が太平洋戦争の戦端を開いたハワイの真珠湾を訪問し、戦没者を追悼した。日米首脳が真珠湾攻撃の犠牲者をともに慰霊するのは初めて。1941年の日米開戦から75年で日米関係は一つの節目を迎えた。
 首相とオバマ氏は、真珠湾に停泊中に撃沈された戦艦アリゾナの真上に建つ追悼施設「アリゾナ記念館」で犠牲者の名前が刻まれた白壁に向かって献花。黙とうをささげた。
 両首脳はこの後、演説し、戦後日米が成し遂げた「和解」の意義を強調。国際社会が抱える問題解決に主導的役割を果たしていく考えを示した。
 首相は演説で、敗戦国日本を国際社会復帰に導いた米国の寛容さに謝意を示すとともに、「私たちを結び付けたものは、寛容の心がもたらした『和解の力』だ」と強調。「日米は、寛容の大切さと和解の力を世界に向けて訴え続ける任務を帯びている」と語った。
 真珠湾攻撃に関して、首相は謝罪や反省には直接触れず、全ての犠牲者に対する哀悼の意を表明。「戦争の惨禍は、二度と繰り返してはならない」と不戦の誓いを新たにした。さらに「世界中の人々がパールハーバーを和解の象徴として記憶し続けることを願う」と訴えた。首相は演説後、真珠湾攻撃を経験した米退役軍人と言葉を交わした。
 一方、オバマ氏は演説で「一番の敵対国であっても一番力強い同盟国にもなり得る。平和の果実は常に、戦争による略奪よりも重い」と指摘。「和解こそが何よりも大きな褒美だと世界中に向けて発信したい」と語った。
 記念館訪問に先立ち、首相は1月に退任するオバマ氏と最後の会談を行い、日米同盟をさらに強化する考えで一致。活発な海洋進出を繰り広げる中国を念頭に、オーストラリアやインドを交えた安全保障協力を進める重要性も確認した。中国の空母「遼寧」が西太平洋に進出したことに関しては「注視すべき動向だ」との認識を共有した。(2016/12/28-17:09)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800652&g=pol
深い反省必要=安倍首相の真珠湾訪問を批判-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は28日の記者会見で、安倍晋三首相の真珠湾訪問について、「(戦争の)加害者と被害者の和解は加害者の深い反省の上に成り立つ。何度も器用にパフォーマンスをするよりも、一回の心からの深い反省をする方が未来にとって有益だ」と批判した。
 一方、28日付の中国共産党機関紙・人民日報は「日本が侵略したアジアの被害者に向けた謝罪を優先せず、米国まで行き『慰霊』したことは日米両国で批判を受けている」と伝えた。人民日報系の環球時報は社説で「訪れる場所が間違っている」と主張し、旧日本軍による南京事件の犠牲者を追悼する記念館などを訪問するよう求めた。(2016/12/28-17:53)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800658&g=pol
「寛容」「和解」7回ずつ=反省・謝罪に言及せず-安倍首相演説

 【ホノルル時事】米ハワイ・真珠湾での安倍晋三首相の演説は、米国が第2次世界大戦後に日本に示した「寛容」と、日米両国の「和解」の力を訴えることに主眼を置き、この二つの言葉を表題を含め7回ずつ使用した。一方で、首相の昨年4月の米議会演説などでキーワードとなった先の大戦への「深い悔悟」や「痛切な反省」には言及せず、謝罪もしなかった。
 「寛容」や「和解」は首相の米議会演説や昨年8月の戦後70年談話でも使われたが、1、2回程度。今回の演説で多用したことについて、首相周辺は首相自身の判断があったとし、「日米の和解の価値を内外に発信する歴史的な機会にするためだ」と解説する。
 政府が公表した真珠湾演説の英訳は、寛容が「tolerance」、和解が「reconciliation」。「和解」については、オバマ大統領も真珠湾での演説で同じ英語表現で2回言及した。
 「悔悟」や「反省」は米議会演説や戦後70年談話で使われ、談話では歴代首相の言葉を引用する形で「心からのおわび」にも触れた。しかし、今回の真珠湾訪問について、菅義偉官房長官は当初から「戦没者の慰霊のためで、謝罪のためではない」と明言。犠牲者への「哀悼の誠」や「不戦の誓い」の表明にとどめ、全体として「未来志向」の内容とすることに意を用いた。(2016/12/28-17:59)

1010名無しさん:2016/12/30(金) 21:21:40
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800407&g=pol
オバマ米大統領演説全文=真珠湾訪問

 安倍首相、米国民を代表し、思いやりのある言葉とこの地への訪問に感謝する。歴史的な行動は、和解の力や日米両国民の同盟関係を示しており、戦争の最も深い傷でさえ、友情と永遠の平和に転じ得るということを思い起こさせる。

 来賓、米軍将兵、そして何より真珠湾を生き抜いた人々とその愛する家族の皆さん、こんにちは(アロハ)。
 米国民、中でもハワイを故郷と呼ぶ人々にとって、この港は神聖な場所だ。花を手向けたり、いまだに涙が浮かぶ海に花をささげたりする時、われわれは永遠に天国に並ぶ2400人以上の愛国の士、父親たち、夫たち、妻たち、娘たちに、思いをはせる。われわれは、12月7日を迎えるたびに少し居住まいを正すオアフ島の守護者たちに敬意を表し、75年前に示された英雄的行為を振り返る。
 あの12月の日、夜が明けた時、楽園はこれまでにないほど魅惑的に思われた。水は温かく、これ以上ないほど青く澄んでいた。水兵たちは食堂で食事したり、教会に行く支度を整えたり、さっぱりした白いショートパンツとTシャツに着替えたりしていた。港には、カリフォルニア、メリーランド、オクラホマ、テネシー、ウェストバージニア、ネバダといった船がいかりを下ろして整然と浮かんでいた。アリゾナの甲板では、海軍の音楽隊が調律の最中だった。
 あの朝、肩に示された階級に関係なくあらゆる軍人が勇気を奮い起こした。訓練用の砲弾を発射し、旧式のライフルを取り、島中で米国人があらゆる手段を使ってとにかく自らを守った。普段なら清掃業務を担当していたアフリカ系米国人の給食陸曹は上官を安全な場所に移した後、弾薬が尽きるまで対空砲を発射し続けた。
 われわれはウェストバージニアのジム・ダウニング一等兵曹のような米国人をたたえる。真珠湾に駆けつける前、彼の新妻は彼の手に聖書の一節を託した。「永遠なる神はなんじのよりどころ とこしえなる腕の支えているところ」。ジムは乗艦を救おうと戦いながら、遺族に知らせることができるよう、戦死者の名前を控えていた。あの場にいたら誰もがそうしたでしょう、と彼は語った。
 ホノルルの消防士、ハリー・ペインのような米国人をわれわれは忘れない。彼は燃え盛る炎の中、力尽きるまで航空機の鎮火作業に当たった。彼はパープルハート(名誉負傷)勲章を受章した数少ない民間人消防士となった。
 われわれはジョン・フィン上等兵曹のような米国人をたたえる。彼は20カ所以上負傷しながらも、50口径の機関銃を2時間以上発射し続け、米軍最高の名誉勲章を与えられた。

1011名無しさん:2016/12/30(金) 21:22:13
>>1010

 この場所でわれわれは、戦争が私たちの最も不朽の価値観にどれほど試練を与えるかに思いを巡らせる。日系米国人が戦時中、自由を奪われていたにもかかわらず、米国史上最も勲章を授与された軍部隊の一つは日系2世らでつくる第442連隊、その中の第100歩兵大隊だった。
 その第442連隊には、私の友人で誇り高きハワイ出身者だったダニエル・イノウエ氏がいた。私の人生のほとんどを通じてハワイ選出の上院議員を務め、上院の議場で一緒に働けることが誇らしく思える人物だった。名誉勲章と大統領自由勲章を授与されただけでなく、彼の世代で最も傑出した政治家の一人でもあった。
 ここ真珠湾で、米国にとって第2次大戦最初の戦闘が国を目覚めさせた。ここは多くの意味で、米国が成長した場所だ。私の祖父母を含む米国人の世代、あの最も偉大な世代の彼らは戦争を求めなかったが、戦争にひるむことも拒んだ。そして彼らは皆、前線や工場で、自らの役割を果たした。75年が過ぎ、誇り高き真珠湾の生存者は時間の経過とともに少なくなってきたが、ここで思い起こす勇敢さは永遠にわれわれ国民の心に刻み込まれている。真珠湾と第2次大戦の全ての退役軍人の方々で可能な人は、起立するか挙手していただきたい。恩を感じる国が感謝しているからだ。
 国家の品格は戦争で問われるが、品格を決めるのは平和な時代だ。この海原で激しい戦いがあり、数万どころか数千万人もの命が失われた。こうした人類史上最も恐ろしい時代の一つを経て、米国と日本は友情、そして平和を選択した。
 日米同盟は過去数十年にわたり、両国を成功へと導いた。新たな世界大戦を防いだ国際秩序の構築を支え、10億人以上の人々を極度の貧困から救い出した。日米同盟は今日、共通の利害だけでなく共通の価値観に根差し、アジア太平洋の平和と安定を礎石として支え、世界の進歩の原動力となっている。われわれの同盟は、かつてなく強固だ。
 良い時も悪い時も、われわれはお互いに支え合っている。5年前を思い起こしてほしい。壁のような津波が日本を襲い、福島で炉心溶融(メルトダウン)が起きた。米国の軍人男女が、日本の友人を助けに駆け付けた。地球上の至る所で、日米は肩を並べてアジア太平洋と世界の安全保障の強化に努めている。海賊行為を撃退し、疫病と闘い、核兵器拡散を抑制し、戦地の平和を維持している。
 この真珠湾の近くで、日本は今年、20余の国々と共に世界最大級の軍事演習に参加した。この演習には、ハリー・ハリス司令官が率いる米太平洋軍も加わった。ハリス司令官は、米海軍士官と日本人の母の息子だ。テネシーなまりからは分からないが、横須賀生まれだ。ハリー、傑出した指導力に感謝している。
 こうした意味で、安倍首相と私がきょう、ここを訪れたこと、すなわち政府同士だけでなく国民同士のつながりは、両国間そして両国民間で成し遂げ得るものを思い起こさせる。戦争は終わらせることができる。最も激しく対立した敵同士が、最も強固な同盟関係になれる。平和の恩恵は常に、戦争の略奪品に勝る。これこそが、この神聖な真珠湾の不朽の真実だ。

1012名無しさん:2016/12/30(金) 21:23:25
>>1011

 われわれは、憎しみが燃え上がるときでさえ、最も原始的な部族間争いのときでさえも、内向き志向には抵抗しなければならないと改めて思う。自分たちと異なる人々を悪者扱いする欲求に、立ち向かわなければならない。ここで払われた犠牲、戦争の苦悩を考えれば、われわれは人類全てに共通する崇高な啓示に従う必要があると気付く。日本の友人が「お互いのために」と呼ぶ行動に努めることが求められている。共に、互いのために、ということだ。
 これは、戦艦ミズーリのウィリアム・キャラハン艦長の教訓からも分かる。艦長は、自分の船が攻撃を受けたにもかかわらず、軍葬の礼をもって日本人パイロットを葬るよう命じた。パイロットをくるんだ日本の旗は、米国人の水兵が縫った。同様に、日本の別のパイロットの教訓もある。このパイロットは何年か後に、この湾を訪れて米海兵隊のラッパ担当だった元兵士と親しくなり、永別のラッパを吹いて、この記念館に毎月2本のバラを供えるよう彼に頼んだ。1本は米国人犠牲者、もう1本は日本人の犠牲者のためだ。
 われわれ両国民が、平凡な日常から日々学んでいる教訓もある。米国人は東京で学び、若い日本人も米国各地で学んでいる。両国の科学者は協力し、がんの未解明な部分を解き明かしたり、気候変動と闘ったり、星を探査したりしている。マイアミの球場を輝かせるイチローのような野球選手は、平和と友好で団結した米国人と日本人共通の誇りによって支えられている。
 国や国民として、われわれは受け継ぐ歴史を選ぶことはできない。だが、歴史から教訓を選び取ることはできる。われわれ自身の未来像を描くのに、その教訓を生かすこともできる。
 安倍首相、日本国民がいつも私を歓迎してくれるように、私はあなたを友好の精神でここに歓迎する。私は、われわれが世界に対し、戦争の中からより平和の中から勝ち取るものの方が多いというメッセージを共に送ることを望む。和解は報復よりも多くの恩恵をもたらすということだ。
 この静かな湾で、われわれは失った人々に敬意を表する。そして、友人として両国が共に勝ち取ってきた全てに感謝する。神のとこしえの腕の中に戦死者が居続けられますように。神がわが退役軍人や、われわれのため警戒の番をする全ての人々を見守ってくれますように。われわれ皆に神の祝福がありますように。ありがとう。(2016/12/28-23:51)

1013名無しさん:2016/12/30(金) 21:24:22
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800739&g=pol
和解へ「一層の努力」要求=安倍首相、真珠湾訪問-韓国

 【ソウル時事】韓国外務省関係者は28日、米ハワイの真珠湾を訪問した安倍晋三首相が「不戦の誓い」を表明したことについて、「日本は正しい歴史認識を基に、軍国主義の被害者だった周辺国との和解と協力のため、さらなる努力を傾けなければならない」と注文を付けた。
 聯合ニュースは、安倍首相が集団的自衛権の行使容認や安全保障関連法の成立などを進めてきたことに触れ、「就任後に見せた行動は平和国家の堅持とは正反対だった」と批判。中央日報(電子版)は「(真珠湾で)謝罪しなかったのは右翼の反発を考慮したためだ」と分析した。(2016/12/28-20:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800435&g=pol
今村復興相が靖国参拝=「被災地の再生祈念」

 今村雅弘復興相は28日、東京・九段北の靖国神社を参拝した。今村氏は参拝の趣旨について、「1年間の仕事の報告と感謝、被災地の一日も早い復興再生、わが国の安寧と繁栄を祈念してきた」と記者団に説明した。

 今村氏は本殿には入らず、一般の参拝客と同様に拝殿前で礼をし、さい銭を納めた。時期が重なった安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾での慰霊に関し「(み霊に)報告しておいた」と語った。
 今村氏は終戦記念日に先立つ8月11日にも同神社を参拝している。(2016/12/28-14:49)

1014名無しさん:2016/12/31(土) 08:38:40
古い記事

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-12-28/2013122801_03_1.html
2013年12月28日(土)
安倍政権 孤立深まる

靖国参拝 ロシア・EUも批判

 安倍晋三首相による靖国神社参拝についてのアジアと世界の非難は鳴りやまず、安倍政権は世界の中で孤立を深めています。

 政府レベルではロシア外務省高官が26日発表の声明で遺憾を表明し、“歴史への正しい理解が近隣諸国との関係の重要な土台”と強調。欧州連合(EU)の報道官も同日、靖国参拝は地域の緊張緩和に「貢献しない」と指摘する声明を発表しました。

 米国のメディア(電子版いずれも26日付)の記事には「政治的に無分別だ」(ワシントン・ポスト)、隣国の共有する過去についての「傷つきやすい感情を踏みつける」(CNNテレビ)など、安倍首相に対するいらだちと批判のコメントがあふれました。ウォール・ストリート・ジャーナルは、今回の参拝が「日本の軍国主義復活という亡霊を自国の軍事力拡張の口実にしてきた中国指導部に対する贈り物になった」と指摘しました。

 日本の侵略を受けた韓国、台湾では27日、日本の大使館などの前で市民らが抗議集会を行い、「日本は侵略の歴史を反省すべきだ」などの声を響かせました。

1015名無しさん:2016/12/31(土) 08:39:30
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161229/k10010823881000.html
稲田防衛相 靖国神社に就任後初の参拝 「どの国でも理解頂ける」
12月29日 16時06分

稲田防衛大臣は29日午前、就任後初めて東京・九段の靖国神社に参拝し、「祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表することは、どの国でも理解して頂けると考えている」と述べました。
稲田防衛大臣は29日午前8時ごろ、東京・九段の靖国神社を訪れ、防衛大臣に就任してから初めて参拝しました。稲田大臣は靖国神社に参拝したあと、記者団に対し、私費で玉串料を納め、「防衛大臣・稲田朋美」と記帳したことを明らかにしたうえで、「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝したということだ」と述べました。

そして、稲田大臣は「ことしは原爆を投下した国の大統領が広島を訪問し、きのうは安倍総理大臣が真珠湾に行って慰霊の言葉を述べた。最もしれつに戦った日本とアメリカが、今や最も強い同盟関係にあるなど、未来志向に立って、しっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」と述べました。

一方、稲田大臣は、記者団が「中国や韓国の反発も予想されるが」と質問したのに対し、「いかなる歴史観に立とうとも、いかなる敵、味方であろうとも、祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表することは、どの国でも理解して頂けると考えている」と述べました。

稲田大臣は例年、終戦の日の8月15日などに靖国神社に参拝していますが、ことしの終戦の日は、防衛大臣としての海外視察のため、参拝していませんでした。

首相「ノーコメント」
安倍総理大臣は、稲田防衛大臣が靖国神社に参拝したことについて、29日午前、神奈川県茅ヶ崎市で記者団に対し、「それについてはノーコメント」と述べました。

民進 野田幹事長「自身が内外に説明する責任」
民進党の野田幹事長は党本部で記者団に対し、「安倍総理大臣とオバマ大統領が真珠湾に行き、『不戦の誓い』で共同行動がとれたことは一定の評価をしているが、そこに同行していた方がその直後に参拝というのは、どういう意味なのか。諸外国へ与える影響も含めて、きちんと稲田防衛大臣自身が内外に説明する責任がある」と述べました。

中国外務省報道官「断固として反対」
稲田防衛大臣が就任後初めて靖国神社に参拝したことについて、中国外務省の華春瑩報道官は29日の記者会見で、「中国は断固として反対する」と述べて非難しました。
そのうえで華報道官は、稲田大臣が安倍総理大臣とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する施設を訪れたことに触れ、「今回の参拝は、一部の日本人のかたくなで誤った歴史観を表しているだけではなく、真珠湾のいわゆる『和解の旅』をこれ以上ない皮肉なものにし、世の人々の日本の行動や意図に対する警戒を高めただけだ。日本の指導者が国内外の正義の声に耳を傾け、侵略の歴史を直視し、深く反省するよう求める」と述べました。

また、関係者によりますと、29日午後、中国外務省の肖千アジア局長が北京に駐在する日本の伊藤康一公使を呼んで抗議したということです。

韓国外務省報道官「嘆きを禁じえない」
稲田防衛大臣が就任後初めて靖国神社に参拝したことについて、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク(趙俊赫)報道官は29日の記者会見で、「日本の責任ある政治家が過去の植民地支配と侵略戦争を美化し、戦争犯罪者を合祀する靖国神社に参拝したことに政府として嘆きを禁じえない」と述べ批判しました。そのうえで、「歴史を正しく直視し、謙虚で誠実な反省を実際の行動で示すことでのみ周辺国と国際社会の信頼をえることができる」と強調しました。

また、これに先立って韓国外務省のチョン・ビョンウォン(鄭炳元)北東アジア局長は、ソウルにある日本大使館の丸山浩平公使を呼び、「日韓関係を改善しようとする努力に逆行する行為で非常に不適切だ」と抗議しました。

一方で、韓国国防省も「韓国政府が未来志向の両国関係を作っていくべきだと強調してきたにもかかわらず、日本の防衛大臣が、靖国神社に参拝したことに深刻な憂慮と遺憾を表明する」との声明を発表しました。

1016名無しさん:2016/12/31(土) 10:59:15
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161226/k10010819621000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_081
首相 真珠湾攻撃の犠牲者慰霊へ 今夜ハワイに出発
12月26日 4時19分

安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日夜、ハワイに向けて出発します。安倍総理大臣は、アメリカのオバマ大統領との日米首脳会談にも臨むことにしていて、敵国だった日本とアメリカの和解の価値を内外に示し、来月のトランプ新政権の発足を前に日米同盟の重要性を確認する機会としたい考えです。
安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日夜、羽田空港を政府専用機で出発し、ハワイに向かうことにしています。

安倍総理大臣は、ハワイ到着後太平洋戦争などで犠牲になったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地や、15年前ハワイ沖でアメリカ軍の潜水艦に衝突され沈没し、生徒ら9人が亡くなった愛媛県の高校の実習船「えひめ丸」の慰霊碑を訪れ、献花することにしています。

また、安倍総理大臣は日本時間28日、来月任期を終えるアメリカのオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨んだあと、オバマ大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を追悼するアリゾナ記念館を訪れ、献花したうえで所感を発表することにしています。

安倍総理大臣は今回の訪問を通じて、二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという決意と、敵国だった日本とアメリカの和解の価値を内外に示し、来月のトランプ新政権の発足を前に、日米同盟の重要性を確認する機会としたい考えです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161226/k10010820071000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_070
戦後3首相が真珠湾訪問 官房長官
12月26日 13時47分

菅官房長官は記者会見で、安倍総理大臣のハワイ訪問に関連し、戦後、吉田茂総理大臣に加えて、鳩山一郎総理大臣や岸信介総理大臣が、真珠湾に面した当時のアメリカ太平洋軍司令部を訪れていたことを明らかにしました。
この中で、菅官房長官は、安倍総理大臣が真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日からハワイを訪問することに関連し、戦後の昭和26年に、吉田茂総理大臣が真珠湾に面した当時のアメリカ太平洋軍司令部を訪れたのに加えて、昭和31年に鳩山一郎総理大臣が、昭和32年に岸信介総理大臣が、同じ司令部を訪れていたことを明らかにしました。

そのうえで、菅官房長官は、「当時は、真珠湾攻撃の犠牲者を追悼するアリゾナ記念館は建設されておらず、記念館で現職の総理大臣が慰霊を行うのは、今回の安倍総理大臣が初めての機会であり、アメリカの大統領とともに慰霊を行うのも初めてだ」と述べました。

1017名無しさん:2016/12/31(土) 11:00:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161226/k10010820831000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_060
首相がハワイへ出発 真珠湾攻撃の犠牲者慰霊へ
12月26日 21時39分

安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日夜、政府専用機でハワイに向けて出発しました。出発に先立って安倍総理大臣は記者団に対し、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという思いや、日米の和解の価値をオバマ大統領とともに世界に発信したいという考えを示しました。
安倍総理大臣は、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、26日夜9時半ごろ、羽田空港を政府専用機で出発し、ハワイに向かいました。出発に先立って、安倍総理大臣は記者団に対し、「戦争の惨禍は二度と繰り返してはならないというこの未来への思いを、誓いを、そして和解の価値を、オバマ大統領とともに世界に発信したい」と述べました。また、安倍総理大臣は「オバマ大統領との首脳会談は最後の首脳会談となる。この4年間を総括する首脳会談にしたいと思うし、2人でともに取り組んできたさまざまな課題や、残された課題、さらに、ともに強化してきた同盟の価値を2人で世界に発信する首脳会談にしたい」と述べました。

安倍総理大臣はハワイ到着後、太平洋戦争などで犠牲になったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地や、ハワイに移住し、亡くなった日本人らが埋葬されている日本人墓地などを訪れることにしています。そして日本時間の28日、オバマ大統領との最後の首脳会談を行ったあと、大統領とともに真珠湾にあるアリゾナ記念館で献花を行って、犠牲者を追悼し、その後、所感を発表することにしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821011000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_058
首相 ハワイに到着 あす真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊
12月27日 4時10分

安倍総理大臣は、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、日本時間の午前4時ごろ、政府専用機でハワイに到着しました。
26日夜、羽田空港を政府専用機で出発した安倍総理大臣は、日本時間の27日午前4時ごろ、ハワイのアメリカ軍基地に到着しました。

安倍総理大臣は、太平洋戦争などで犠牲になったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地や、ハワイに移り住み、亡くなった日本人の墓地などを訪れることにしています。

そして安倍総理大臣は、日本時間の28日、来月任期を終えるオバマ大統領との最後の首脳会談を行ったあと、大統領とともに、真珠湾にあるアリゾナ記念館を訪れて献花を行い、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することにしています。

そのあと安倍総理大臣は、太平洋戦争の際、アメリカ軍の一員として戦った日系アメリカ人などを前に所感を発表し、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという決意と、かつて敵国だった日本とアメリカの和解の価値を内外に示すことにしています。

1018名無しさん:2016/12/31(土) 11:01:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821021000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_055
首相 ハワイの国立太平洋記念墓地で黙とう
12月27日 5時58分

ハワイに到着した安倍総理大臣は、日本時間の27日朝、太平洋戦争などで犠牲になったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地などを訪れ、献花し、黙とうをささげました。
日本時間の27日午前4時すぎに政府専用機でハワイに到着した安倍総理大臣は、国立太平洋記念墓地を訪れ、献花をし、黙とうをささげました。国立太平洋記念墓地には、太平洋戦争やベトナム戦争などで犠牲となったアメリカ軍の兵士など、およそ5万人が埋葬されていて、戦後、当時の吉田総理大臣など複数の総理大臣が訪れたことがあります。

このあと安倍総理大臣は、ハワイに移り住んだ日本人らが埋葬されている日本人墓地や、15年前、ハワイ沖でアメリカ軍の潜水艦に衝突されて沈没し、乗っていた生徒ら合わせて9人が犠牲となった愛媛県の宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の慰霊碑を訪れ、献花し、黙とうしました。

安倍総理大臣は、日本時間の28日、真珠湾を訪れ、オバマ大統領との最後の日米首脳会談を行ったあと、旧日本軍の攻撃を受けて沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で、ともに犠牲者を慰霊することにしています。その後、両首脳は、太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系アメリカ人などを前に所感を発表することにしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821111000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_052
首相 米大統領と真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊へ
12月27日 11時10分

ハワイに到着した安倍総理大臣は、アメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地などを訪れ、献花して黙とうをささげました。安倍総理大臣は28日、オバマ大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊したあと、不戦の決意と日本とアメリカの和解の価値を強調する所感を発表することにしています。
日本時間の午前4時すぎにハワイに到着した安倍総理大臣は、岸田外務大臣や稲田防衛大臣らを伴って、太平洋戦争やベトナム戦争などで犠牲となったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地を訪れ、献花して黙とうをささげました。

このあと安倍総理大臣は、ハワイに移り住んだ日本人らが埋葬されている日本人墓地や、15年前、ハワイ沖でアメリカ軍の潜水艦に衝突されて沈没し、生徒ら合わせて9人が犠牲となった愛媛県の宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の慰霊碑を訪れて、追悼しました。
日本人墓地や「えひめ丸」の慰霊碑には、アメリカのケネディ駐日大使も同行しました。

安倍総理大臣は、日本時間の28日、真珠湾を訪れます。
そして、オバマ大統領との日米首脳会談に臨んだあと、太平洋戦争の発端となった75年前の真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で、ともに犠牲者を慰霊することにしています。

その後、両首脳は、太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系アメリカ人らを前に所感を発表することにしています。
この中で、安倍総理大臣は、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという不戦の決意と、日本とアメリカの和解の価値を強調し、強固な同盟関係を内外に示したい考えです。

1019名無しさん:2016/12/31(土) 11:03:34
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821571000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_042
首相の真珠湾訪問 米専門家「おおむね好意的に受け止め」
12月27日 17時59分
首相の真珠湾訪問 米専門家「おおむね好意的に受け止め」
安倍総理大臣の真珠湾訪問について、日米関係に詳しいカーネギー国際平和財団のジェームズ・ショフ上級研究員は、NHKのインタビューで、「アメリカでは、おおむね好意的に受け止められている」と述べました。
そのうえで、「複雑な面もあり、オバマ大統領が広島を訪問したすぐあとに、安倍総理大臣が真珠湾を訪れれば、アメリカでは『お返し』のように受け止められる懸念もあった。これは外交や政治の行事ではない」と述べました。

そして、真珠湾攻撃について、日本側の謝罪が必要かどうかについては、「アメリカ国内には謝罪を求める声は、わずかながら存在する。しかし、両国の幅広い友好関係を背景に、日米の和解はもっとも成功をおさめてきた」と述べ、日米両国の間では、謝罪は必要ないという見方を示しました。

さらに、オバマ大統領の2期8年間の日米関係については、「両国にとっては、おそらくもっとも心地よい時期だったと思う」と述べたうえで、「今回の首脳会談は、その関係と成果の最終章を記すものとなり、アメリカの新しい政権の下での日米関係の基調を定義しようとする試みだ」と述べました。

また、来月、就任する予定のトランプ次期大統領については、「考え方も手法も正反対の軍事力を背景にした古いスタイルの外交姿勢で、国際協調にも関心がない。日米関係にとって大きな試練となるだろう」と述べるとともに、トランプ氏の政権移行チームでは、対日政策をはじめ、包括的なアジア政策の行方が依然、見えていないと指摘しました。
ハワイの地元紙「決定的瞬間になる」
安倍総理大臣が日本時間の28日、アメリカのオバマ大統領とともに、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、ハワイの地元紙「スター・アドバタイザー」は、26日付けの紙面の一面で大きく取り上げています。
この中で「現職の日本の総理大臣として初めてとなる、安倍総理大臣のアリゾナ記念館訪問は、道義的にも戦略的にも決定的瞬間になるだろう」という専門家の見方を伝えています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821321000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_046
首相 戦死したゼロ戦パイロットの記念碑で献花
12月27日 15時20分
首相 戦死したゼロ戦パイロットの記念碑で献花
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の27日午後、アメリカ軍が、真珠湾攻撃で戦死したゼロ戦のパイロットの勇敢さをたたえて建立した記念碑を訪れ、献花して黙とうをささげました。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、太平洋戦争などで犠牲となったアメリカ軍の兵士らが埋葬されている国立太平洋記念墓地を訪れたのに続き、日本時間の27日午後、ハワイ最大のアメリカ海兵隊の基地であるカネオヘ航空基地を訪れました。

そして、安倍総理大臣は、アメリカ海兵隊の幹部から説明を聞きながら、基地の滑走路脇に設けられた旧日本軍の飯田房太中佐の記念碑に献花し、黙とうをささげました。

飯田中佐は、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃に参加したゼロ戦のパイロットで、攻撃中に燃料タンクに被弾したため、燃料切れを意味する手信号を送ったあと、基地の格納庫に突入して戦死しました。

アメリカ軍が、飯田中佐の勇敢さをたたえて基地内に埋葬し、記念碑を建立したことから、日米友好の象徴として、毎年両国の関係者が参加して慰霊法要が行われていて、27日の安倍総理大臣の献花にもアメリカ海兵隊の幹部らが同行しました。

安倍総理大臣はこのあと、遺骨のDNA鑑定などを通じて、過去の紛争で行方不明となった兵士などの消息調査を行っている、アメリカ国防総省の捕虜・行方不明者調査局の中央身元鑑定研究所を訪れ、関係者から説明を受けながら、保管されている遺骨や鑑定作業の様子を視察しました。

1020名無しさん:2016/12/31(土) 11:04:48
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821681000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_043
首相「慰霊と和解の力を世界に示したい」
12月27日 17時58分

ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日系人らとの夕食会であいさつし、日本時間の28日にオバマ大統領と会談したあと、ともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、「慰霊と和解の力を世界に示したい」と述べ、日米の和解の価値や強固な同盟関係を内外にアピールする機会にしたいという考えを示しました。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の午後、ハワイ最大のアメリカ海兵隊の基地である、カネオヘ航空基地を訪れ、基地の滑走路脇に設けられた旧日本軍の飯田房太中佐の記念碑に献花し、黙とうをささげました。

飯田中佐は、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃に参加したゼロ戦のパイロットで、攻撃中に燃料タンクに被弾したため、基地の格納庫に突入して戦死しました。

アメリカ軍が、飯田中佐の勇敢さをたたえて基地内に埋葬し、記念碑を建立したことから、日米友好の象徴として毎年、両国の関係者が参加して慰霊法要が行われていて、27日の安倍総理大臣の献花にも、アメリカ海兵隊の幹部らが同行しました。

このあと、安倍総理大臣は太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系人らとの夕食会に出席して、あいさつしました。
この中で、安倍総理大臣は28日にオバマ大統領とともに、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、「慰霊と和解の力を日米に、そして世界に示したい。これからも日米は『希望の同盟』として、地域や世界のさまざまな課題にともに立ち向かい、ともに取り組んでいきたい」と述べ、強固な日米同盟を内外にアピールする機会にしたいという考えを示しました。

安倍総理大臣は28日、真珠湾を訪れてオバマ大統領と会談したあと、太平洋戦争の発端となった75年前の真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で、ともに犠牲者を慰霊することにしています。

戦後、日本の総理大臣が真珠湾を訪れたことはありますが、現職のアメリカの大統領とともに犠牲者を慰霊するのは初めてです。

その後、両首脳は太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系アメリカ人らを前に所感を発表することにしていて、安倍総理大臣はこの中で、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという不戦の決意と、日本とアメリカの和解の価値を強調することにしています。
真珠湾攻撃とは
太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃は、75年前の昭和16年12月に旧日本軍の空母機動部隊や潜水部隊がハワイのオアフ島にある真珠湾のアメリカ軍基地などに行った奇襲攻撃です。

戦後、旧防衛庁防衛研修所が編さんした「戦史叢書」によりますと、空母機動部隊による攻撃は日本時間の12月8日(現地時間12月7日の午前8時)ごろに始まりました。

オアフ島の北、およそ400キロに展開した旧日本軍の空母6隻から爆撃機や戦闘機、合わせて350機が2度にわたって出撃し、真珠湾に停泊していたアメリカ軍の艦艇や航空基地を攻撃しました。

当時、真珠湾には空母は停泊していませんでしたが、戦艦や駆逐艦など数十隻がいて、攻撃によって戦艦「アリゾナ」など6隻が沈没したほか、12隻が損傷しました。

死者・行方不明者は日本側が64人だったのに対し、アメリカ側では民間人数十人を含む、およそ2400人に上るなど、大きな被害が出ました。

真珠湾攻撃をめぐっては、日本は当初、アメリカに開戦の通告をしたあと攻撃を行う計画でしたが、不手際のために通告が遅れ、攻撃のあとになったことから、アメリカは「だまし討ちだ」などと強く非難しました。

1021名無しさん:2016/12/31(土) 11:04:59
>>1020

米での市民の反応は
飲食店や商店が集まるホノルルの市街地では、日本時間の28日に安倍総理大臣が真珠湾を訪れ犠牲者を慰霊することについて、「知らなかった」と答えた人も多くいた一方で、地元の人たちからは歓迎する声が聞かれました。

9歳の時に真珠湾攻撃を目撃した84歳の男性は「当時、家にいたが、飛行機が真珠湾に向かって飛んで行き、その後、炎や煙が見えた。おそろしい出来事だったことを今でも覚えている」と話しました。
そのうえで、今回の訪問について、「とてもいいことだと思う。日本の総理大臣がここに来て、75年前の出来事を再認識してもらうことは重要なことだ思う」と歓迎していました。

また、近くに住む58歳の男性は「両国の首脳が真珠湾を訪れるのはすばらしいことだと思う。日本とは観光をはじめ、いい関係を築いている。戦争は昔の出来事で、地元の人たちも日本へのわだかまりはないと思う」と今回の訪問を肯定的に捉えていました。

また、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館を訪れたアメリカの人たちからは歓迎する声が聞かれました。

このうち男性の1人は「とてもいいことだと思う。私たちは悲劇的な戦争を経験した。過去に起きたことを思い起こすことはすべての人にとって重要だ」と話していました。

また、別の男性は「過去は過去であり、私たちは今、未来に生きている。かつて日米ともに苦しんだ人たちはいるが、今は強固な同盟国として協力する必要がある」と述べ、安倍総理大臣の真珠湾訪問を機に日米同盟が一層強化されることに期待を示しました。

一方で、真珠湾攻撃によって祖父の友人が戦艦アリゾナで犠牲になったという女性は「安倍総理大臣が訪問するのはいいことだと思うが、真珠湾攻撃について謝罪すべきだと思う」と話していました。
民進 蓮舫代表「不戦の誓い語ることは大きな意味」
民進党の蓮舫代表は、千葉県匝瑳市で記者団に対し、「オバマ大統領と、わが国の総理大臣が、そろって不戦の誓いを真珠湾で語るのは、とても大きな意味がある。ただ、オバマ大統領が目指している『核なき世界』について、残念ながらアメリカの次期大統領は方向性が大きく違うのではないかと受け止められる言動が目立っており、安倍総理大臣からオバマ大統領に対して懸念を伝えてもらいたい」と述べました。

1022名無しさん:2016/12/31(土) 11:05:59
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010821561000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_041
真珠湾攻撃参加の男性「平和考えるきっかけに」
12月27日 18時01分
安倍総理大臣のハワイ訪問について、75年前、日本海軍による真珠湾攻撃の作戦に参加した97歳の男性は、若い世代が平和について考えるきっかけにしてほしいと語りました。
さいたま市に住む市來俊男さん(97)は、元日本海軍の大尉で、75年前、駆逐艦の乗組員として真珠湾攻撃作戦に参加し、爆撃機を載せた空母の後方支援などを行いました。

市來さんは「『アメリカやイギリスに負けるな』という教育を受けてきたので、特に恐怖はなかった。『トラ、トラ、トラ』と攻撃成功が伝えられると、沸き立つように喜んだ」と述べ、日米開戦に突き進んだ当時の日本軍の状況について振り返りました。

真珠湾攻撃での日本側の戦死者は64人で、市來さんも兵学校時代の同期2人を亡くしました。

市來さんは安倍総理大臣とオバマ大統領がそろって真珠湾で戦没者を慰霊することについて、「戦争のない平和な世の中を、日本とアメリカが一緒に築いていくというシンボルになるのではないか」と歓迎したうえで、「先の大戦で亡くなった人たちのおかげで戦争が終わり、あとの世代が平和を受け継いできた。今回の機会を通じて、若い人たちに『歴史』というものを勉強してほしい」と述べ、若い世代が平和について考えるきっかけにしてほしいと期待を寄せました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161227/k10010822001000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_036
首相の真珠湾慰霊 新潟 長岡市長が立ち会いへ
12月27日 21時43分
安倍総理大臣が旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため、アメリカのオバマ大統領とともに日本時間の28日に予定しているハワイの真珠湾への訪問に、長年、ホノルル市と平和交流を続けている新潟県長岡市の市長が立ち会うことがわかりました。
安倍総理大臣は日本時間の28日、オバマ大統領とともにハワイの真珠湾を訪れ、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊したあと、所感を発表し、不戦の決意と日本とアメリカの和解の価値を強調することにしています。

この両首脳の真珠湾訪問に、ホノルル市の姉妹都市である新潟県長岡市の磯田達伸市長が立ち会うことがわかりました。
長岡市は、真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官、山本五十六の出身地である一方、太平洋戦争ではアメリカ軍の空襲を受けました。

長岡市とホノルル市は、こうした歴史を超えて平和の尊さを若い世代に伝えたいと平和交流を続けていて、今回、日本の地方自治体で唯一、立ち会いの招待を受けたということです。

磯田市長はNHKの取材に対し、「これまでの平和交流が今回の総理訪問の地ならしとなったのではないか。交流に携わってきた市民を代表して、その瞬間を見届けたい」と話していました。

1023名無しさん:2016/12/31(土) 11:07:52
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822301000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_034
まもなく日米首脳会談 真珠湾慰霊へ
12月28日 4時01分

ハワイを訪れている安倍総理大臣は、まもなくオバマ大統領との日米首脳会談に臨み、この4年間で、さまざな分野で日米の協力が深まってきたとしてさらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致するものと見られます。首脳会談のあと、安倍総理大臣はオバマ大統領とともに、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、不戦の誓いと日米の和解の価値を強調する所感を発表することにしています。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の28日午前4時前から、旧日本軍の真珠湾攻撃の資料などを展示している「真珠湾ビジターセンター」を視察に訪れています。

安倍総理大臣は、まもなく、アメリカ太平洋軍の基地で、来月任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨むことにしています。

この中で、安倍総理大臣は、この4年間の双方の取り組みを通じて、安全保障や経済など、さまざな分野で日米の協力が深まってきたことなどを総括したうえで、北朝鮮の核開発や中国の海洋進出などを念頭に、日米同盟の重要性を確認することにしています。

そのうえで、会談では、日米同盟は、自由、民主主義、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台となるとして、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致するものと見られます。

首脳会談のあと、安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに、真珠湾を訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館を訪れて献花し、犠牲者を慰霊することにしています。

戦後、日本の総理大臣が、真珠湾を訪れたことはありますがアメリカの大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するのは初めてのことになります。

そして、安倍総理大臣とオバマ大統領は、真珠湾を望むキロふ頭で、所感を発表することにしています。

所感の中で、安倍総理大臣は、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという、未来に向けた不戦の決意と、かつて敵国だった日本とアメリカの和解の価値を強調し、強固な同盟関係を内外に示したい考えです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822331000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_033
日米首脳会談開始 真珠湾慰霊へ
12月28日 5時01分
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、オバマ大統領との日米首脳会談に臨んでいて、この4年間で、さまざな分野で日米の協力が深まってきたとしてさらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致するものと見られます。首脳会談のあと、安倍総理大臣はオバマ大統領とともに、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、不戦の誓いと日米の和解の価値を強調する所感を発表することにしています。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の28日午前4時前から、旧日本軍の真珠湾攻撃の資料などを展示している「真珠湾ビジターセンター」を視察しました。

このあと安倍総理大臣は、午前5時前からアメリカ太平洋軍の基地で、来月任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨んでいます。

この中で、安倍総理大臣は、この4年間の双方の取り組みを通じて、安全保障や経済など、さまざな分野で日米の協力が深まってきたことなどを総括したうえで、北朝鮮の核開発や中国の海洋進出などを念頭に、日米同盟の重要性を確認したものと見られます。

そのうえで、安倍総理大臣は、日米同盟は、自由、民主主義、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台だとして、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致するものと見られます。

首脳会談のあと、安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに、真珠湾を訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館を訪れて献花し、犠牲者を慰霊することにしています。

戦後、日本の総理大臣が、真珠湾を訪れたことはありますがアメリカの大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するのは初めてのことになります。

そして安倍総理大臣とオバマ大統領は、真珠湾を望むキロふ頭で、所感を発表することにしています。

所感の中で、安倍総理大臣は、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという、未来に向けた不戦の決意と、かつて敵国だった日本とアメリカの和解の価値を強調し、強固な同盟関係を内外に示したい考えです。

1024名無しさん:2016/12/31(土) 11:08:49
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822311000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_031
真珠湾慰霊 米メディア「歴史的な訪問」
12月28日 5時07分

安倍総理大臣がアメリカのオバマ大統領とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊することについて、アメリカの主要メディアは、「歴史的な訪問」だと伝えています。
このうち有力紙の「ワシントン・ポスト」は、27日付けの紙面で、「安倍総理大臣は、真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの上で慰霊を行う初めての日本の総理大臣になる」と紹介しています。

そのうえで、「安倍総理大臣はオバマ大統領が広島を訪れた際、原爆投下について謝罪しなかったように日本の奇襲攻撃を謝罪する予定は無いが、戦争を繰り返さないという決意を示すことになる」と今回の訪問の意義を伝えています。

また、有力紙の「ニューヨーク・タイムズ」は、27日の電子版で、安倍総理大臣が海洋進出を進める中国を念頭に日米の関係強化を重視してきたとして、「今回の訪問はその象徴的な仕上げとなるはずだ」と伝えています。

一方で、「両国の関係強化のアプローチはこれまでになく試されている」として、TPP=環太平洋パートナーシップ協定からの離脱などを掲げるトランプ次期大統領の就任で日米関係の先行きに不透明感も漂っていると指摘しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822351000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_030
日米首脳会談終了 真珠湾で慰霊 所感発表へ
12月28日 6時34分

ハワイを訪れている安倍総理大臣は、オバマ大統領との日米首脳会談を終え、オバマ大統領とともに、真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する施設で献花し黙とうをささげ、犠牲者を慰霊しました。両首脳は、真珠湾を一望できるキロふ頭で、このあと所感を発表することにしていて、この中で、安倍総理大臣は、不戦の誓いと日米の和解の価値を強調することにしています。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は、日本時間の28日午前4時前から、旧日本軍の真珠湾攻撃の資料などを展示している「真珠湾ビジターセンター」を視察しました。

このあと安倍総理大臣は、午前5時前から、アメリカ太平洋軍の基地で、来月任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨みました。この中で、両首脳は、この4年間の双方の取り組みを通じて、安全保障や経済など、さまざな分野で日米の協力が深まってきたことなどを総括したうえで、北朝鮮の核開発や中国の海洋進出などを念頭に、日米同盟の重要性を確認したものと見られます。そのうえで、日米同盟は、自由、民主主義、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台だとして、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致したものと見られます。

首脳会談を終えた安倍総理大臣はオバマ大統領とともに、真珠湾を訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館を訪れ、献花し黙とうをささげ、犠牲者を慰霊しました。その後、両首脳は、記念館内に設けられた吹き抜けから戦艦アリゾナに向けて花びらを海面にまき、再び、黙とうしました。戦後、日本の総理大臣が真珠湾を訪れたことはありますがアメリカの大統領とともに真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するのは初めてのことになります。

両首脳は、このあと真珠湾を一望できるキロふ頭で、所感を発表することにしています。所感の中で、安倍総理大臣は、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという、未来に向けた不戦の決意と、かつて敵国だった日本とアメリカの和解の価値を強調し、強固な同盟関係を内外に示したい考えです。

1025名無しさん:2016/12/31(土) 11:09:43
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822371000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_029
安倍首相所感「和解の力」全文
12月28日 7時26分

安倍総理大臣の所感の全文です。
オバマ大統領、ハリス司令官、ご列席の皆さま、そして、すべての、アメリカ国民の皆さま。
パールハーバー、真珠湾に、いま私は、日本国総理大臣として立っています。
耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。
降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入り江。
私のうしろ、海の上の、白い、アリゾナ・メモリアル。
あの、慰霊の場を、オバマ大統領とともに訪れました。
そこは、私に、沈黙をうながす場所でした。
亡くなった、軍人たちの名が、しるされています。
祖国を守る崇高な任務のため、カリフォルニア、ミシガン、ニューヨーク、テキサス、さまざまな地から来て、乗り組んでいた兵士たちが、あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いたとき、紅蓮の炎の中で、死んでいった。
75年が経ったいまも、海底に横たわるアリゾナには、数知れぬ兵士たちが眠っています。
耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。
あの日、日曜の朝の、明るく寛いだ、弾む会話の声。自分の未来を、そして夢を語り合う、若い兵士たちの声。最後の瞬間、愛する人の名を叫ぶ声。
生まれてくる子の、幸せを祈る声。
一人、ひとりの兵士に、その身を案じる母がいて、父がいた。
愛する妻や、恋人がいた。
成長を楽しみにしている、子どもたちがいたでしょう。
それら、すべての思いが断たれてしまった。
その厳粛な事実を思うとき、私は、言葉を失います。
その御霊よ、安らかなれー。
思いを込め、私は日本国民を代表して、兵士たちが眠る海に、花を投じました。

***

オバマ大統領、アメリカ国民の皆さん、世界の、さまざまな国の皆さま。
私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々の御霊に、ここから始まった戦いが奪った、すべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった、数知れぬ、無辜の民の魂に、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。
私たちは、そう誓いました。
そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。
戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。

***

昨日、私は、カネオへの海兵隊基地に、一人の日本帝国海軍士官の碑(いしぶみ)を訪れました。
その人物とは、真珠湾攻撃中に被弾し、母艦に帰るのをあきらめ、引き返し、戦死した、戦闘機パイロット、飯田房太中佐です。
彼の墜落地点に碑を建てたのは、日本人ではありません。
攻撃を受けた側にいた、米軍の人々です。
死者の、勇気を称え、石碑を建ててくれた。
碑には、祖国のため命を捧げた軍人への敬意を込め、「日本帝国海軍大尉」と、当時の階級を刻んであります。

The brave respect the brave.
「勇者は、勇者を敬う」

アンブローズ・ビアスの、詩(うた)は言います。
戦い合った敵であっても、敬意を表する。
憎しみ合った敵であっても、理解しようとする。
そこにあるのは、アメリカ国民の、寛容の心です。
戦争が終わり、日本が、見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました。
皆さんが送ってくれたセーターで、ミルクで、日本人は、未来へと、命をつなぐことができました。
そして米国は、日本が、戦後再び、国際社会へと復帰する道を開いてくれた。
米国のリーダーシップの下、自由世界の一員として、私たちは、平和と繁栄を享受することができました。
敵として熾烈に戦った、私たち日本人に差しのべられた、こうした皆さんの善意と支援の手、その大いなる寛容の心は、祖父たち、母たちの胸に深く刻まれています。
私たちも、覚えています。
子や、孫たちも語り継ぎ、決して忘れることはないでしょう。

***

オバマ大統領とともに訪れた、ワシントンのリンカーン・メモリアル。
その壁に刻まれた言葉が、私の心に去来します。

「誰に対しても、悪意を抱かず、慈悲の心で向き合う」。
「永続する平和を、われわれすべてのあいだに打ち立て、大切に守る任務を、やりとげる」。

エイブラハム・リンカーン大統領の、言葉です。
私は日本国民を代表し、米国が、世界が、日本に示してくれた寛容に、改めて、ここに、心からの感謝を申し上げます。

***

1026名無しさん:2016/12/31(土) 11:09:54
>>1025

あの「パールハーバー」から75年。
歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた同盟国となりました。
それは、いままでにもまして、世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟です。
明日を拓く、「希望の同盟」です。
私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした、the power of reconciliation、「和解の力」です。
私が、ここパールハーバーで、オバマ大統領とともに、世界の人々に対して訴えたいもの。
それは、この、和解の力です。
戦争の惨禍は、いまだに世界から消えない。
憎悪が憎悪を招く連鎖は、なくなろうとしない。
寛容の心、和解の力を、世界はいま、いまこそ、必要としています。
憎悪を消し去り、共通の価値のもと、友情と、信頼を育てた日米は、いま、いまこそ、寛容の大切さと、和解の力を、世界に向かって訴え続けていく、任務を帯びています。
日本と米国の同盟は、だからこそ「希望の同盟」なのです。

***

私たちを見守ってくれている入り江は、どこまでも静かです。パールハーバー。
真珠の輝きに満ちた、この美しい入り江こそ、寛容と、そして和解の象徴である。
私たち日本人の子どもたち、そしてオバマ大統領、皆さんアメリカ人の子どもたちが、またその子どもたち、孫たちが、そして世界中の人々が、パールハーバーを和解の象徴として記憶し続けてくれる事を私は願います。
そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに、固く、誓います。
ありがとうございました。

1027名無しさん:2016/12/31(土) 11:12:20
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822401000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_026
安倍首相 真珠湾での慰霊終え帰国の途に
12月28日 8時43分
ハワイを訪れていた安倍総理大臣は、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊や、来月、任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談など、一連の日程を終え、政府専用機で帰国の途につきました。
今月26日に日本を出発し、ハワイを訪れていた安倍総理大臣は、日本時間の28日朝早く、来月、任期を終えるオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨み、日米同盟の重要性を確認し、さらに関係強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致しました。

このあと、安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに真珠湾を訪れ、旧日本軍による攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で献花し、黙とうをささげ、犠牲者を慰霊しました。続いて、安倍総理大臣は、真珠湾に面した「キロふ頭」で、不戦の誓いや日米の和解の意義を強調した所感を発表しました。

一連の日程を終えた安倍総理大臣は、日本時間の午前8時すぎ、政府専用機でハワイを出発し、帰国の途につきました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822381000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_028
オバマ大統領「総理の所感は和解の力示す歴史的行為」
12月28日 7時30分

アメリカのオバマ大統領は、日本時間の28日朝、ハワイの真珠湾で安倍総理大臣とともに、旧日本軍による攻撃の犠牲者を慰霊したあと、所感を述べ、「安倍総理大臣の所感は和解の力を示す歴史的な行為だ」と述べて日米同盟がアジア太平洋と世界の発展を推進してきたと強調しました。
オバマ大統領は安倍総理大臣とともにハワイで真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊したあと、安倍総理大臣に続いて、およそ15分間にわたって、所感を表明しました。

この中でオバマ大統領は、「安倍総理大臣の所感は和解の力を示す歴史的な行為だ」と述べて安倍総理大臣の発言に感謝するとともに、日米両国が戦争による深い傷を乗りこえ、強固な同盟関係を築いたことを強調しました。

そのうえで「最も厳しい敵対関係にあったものでも、最も強い同盟関係を結ぶことができる。平和の果実は、戦争による略奪をはるかに上回る。これが真珠湾の揺るぎない事実だ」と述べました。

そして、「同盟は、新たな世界大戦を防ぎ、国際秩序の強化に貢献している」と述べ、日米両国が戦後、利益と価値を共有することで、アジア太平洋と世界の発展に貢献してきたと強調しました。

そのうえで、オバマ大統領は「国家や国民はみずから引き継ぐ歴史を選ぶことはできない。しかし私たちは歴史から教訓を学んで将来を描くことは可能だ。報復よりも和解がより多くの果実をもたらすというメッセージを世界に送りたい」と述べて、所感を締めくくりました。

任期終了まで、残り1か月足らずとなったオバマ大統領は、安倍総理大臣の今回のホノルル訪問を通して、みずからの8年間の任期中、強化に努めてきた日米同盟の価値について、世界に発信したいとしていました。

アメリカでは、来月20日に就任するトランプ氏次期大統領が、TPP=環太平洋パートナーシップ協定からの離脱を就任初日に表明すると明言したり、選挙期間中には、在日アメリカ軍の駐留経費の負担増額を訴えたりしていて、新政権のもとでの日米関係の行方が今後の焦点となっています。

1028名無しさん:2016/12/31(土) 11:12:38
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822391000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_027
安倍首相 所感発表 不戦の誓いと和解の意義強調
12月28日 7時35分

ハワイを訪れている安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに、旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する施設を訪れ、献花し黙とうをささげました。このあと安倍総理大臣は所感を発表し、不戦の誓いを堅持していく決意を表明したうえで、日米の和解の意義を強調し、世界の平和と安定にアメリカと協力して取り組んでいく考えを示しました。
ハワイを訪れている安倍総理大臣は日本時間の28日朝早く、来月任期を終えるアメリカのオバマ大統領との日米首脳会談に臨んだあと、そろって太平洋戦争の発端となった、75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼する「アリゾナ記念館」を訪れ、献花して黙とうをささげました。

そして安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに真珠湾を一望できるキロふ頭で、太平洋戦争をアメリカ軍の一員として戦った日系人などを前に所感を発表しました。

この中で、安倍総理大臣は、真珠湾攻撃を振り返ったうえで、「私は日本国総理大臣として、この地で命を落とした人々のみ霊に、ここから始まった戦いが奪った、すべての勇者たちの命に、戦争の犠牲となった数知れぬ無辜(むこ)の民の魂に、永劫の哀悼の誠を捧げます」と述べました。

そのうえで、安倍総理大臣は、「戦争の惨禍は二度と繰り返してはならない。私たちは、そう誓い、ひたすら不戦の誓いを貫いてまいりました。この不動の方針をこれからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆様に、世界の人々に、固いその決意を、日本国総理大臣として表明いたします」と述べました。

また、安倍総理大臣は、「あの『パールハーバー』から75年。歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな深く、強く結ばれた同盟国となりました。それは、今までにも増して世界を覆う幾多の困難に、ともに立ち向かう同盟です。明日を拓く『希望の同盟』です。私たちを結びつけたものは、寛容の心がもたらした『和解の力』です」と述べました。

そして、安倍総理大臣は、「戦争の惨禍はいまだに世界から消えない。寛容の心、和解の力を世界は今こそ必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値のもと、友情と信頼を育てた日米は、今こそ寛容の大切さと和解の力を世界に向かって訴え続けていく任務を帯びています。そのための努力を、私たちはこれからも、惜しみなく続けていく。オバマ大統領とともに、ここに固く、誓います」と述べ、世界の平和と安定にアメリカと協力して取り組んでいく考えを示しました。
元日系人部隊兵士「すばらしい」
真珠湾攻撃の後、アメリカへの忠誠心を示すために志願して日系人部隊に入隊したハワイ出身で日系2世のハーバート・ヤナムラさん(92)は、会場に招待されて両首脳の所感を聞きました。
今回の安倍総理大臣の所感についてヤナムラさんは、「すでに友好関係を築いている日本とアメリカは、この関係を永久に続ける努力をすべきだということを訴えていたのだと思う。とてもすばらしいことだ」と歓迎しました。そのうえで「大事なのは戦争が始まった理由ではなく、二度と戦争を起こさないこと。謝罪は不要で、友好関係を続けていくことこそ重要だ」と話していました。

1029名無しさん:2016/12/31(土) 11:12:49
>>1028

米軍元兵士「とても満足」
所感の発表が終わったあと、安倍総理大臣とオバマ大統領は最前列で聞いていた真珠湾攻撃を経験した3人の元アメリカ軍兵士に歩み寄りました。
安倍総理大臣は座っている3人に対してにこやかな表情を浮かべて、しゃがみ込み1人ずつ握手をしながら語りかけました。
その後、3人の元兵士1人ずつと抱擁を交わしました。さらにそのほかの出席者と挨拶をした後、再び3人に歩み寄り最後に握手をして会場を後にしました。

このうちアルフレッド・ロドリゲスさんは「期待以上の所感で、私はとても満足だ。安倍総理大臣は私のところに歩み寄って抱擁し『ありがとう』と言った。安倍総理大臣は謝罪する必要はない。最高の人物だ」と述べました。

また、スターリング・ケールさんは「この場に招待されてとても幸せな気分だ。安倍総理大臣と抱擁を交わすとは思いもしなかった。オバマ大統領にも会えて感謝している」と話していました。そのうえで「安倍総理大臣は謝罪する必要はない。献花が謝罪のメッセージであり安倍総理大臣は何も言う必要はない」と述べました。
元捕虜遺族「所感は力強く意義深かった」
また会場には、太平洋戦争中にフィリピンで旧日本軍の捕虜となった元アメリカ兵の家族などで作る団体も招待されました。
団体の会長で元捕虜の娘のジャン・トンプソンさんは「安倍総理大臣の所感は非常に力強く意義深いものだった。歴史的な日だ」と述べました。そのうえで「私は父親がこの日をどう思うか考えていた。定かではないが、父親は所感を聞いて心が安らかになったと思いたい」と述べました。また、「安倍総理大臣が謝罪しなかったことで失望し、憤りを感じる退役軍人もいるかもしれないが、安倍総理大臣が真珠湾を訪れたことが非常に重要だ」と述べました。

1030名無しさん:2016/12/31(土) 11:45:46
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822551000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_024
真珠湾慰霊 官房長官「和解の力を世界に示した」
12月28日 12時06分

安倍総理大臣がアメリカのオバマ大統領とともに旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊し、所感を述べたことについて、菅官房長官は、記者会見で、「今回の訪問で、二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないとの、未来に向けた新たな決意を示すとともに、かつて敵国として戦った日米両国を、戦後、価値を共有する同盟国へと変容させた日米の和解の力を世界に示すことができた。日米の同盟関係をさらに強化し、アジア太平洋地域、さらには、国際社会の平和と繁栄に貢献していきたい」と述べました。
また、菅官房長官は、今後の日米関係について、「安倍総理大臣は、トランプ次期大統領とすでに会談を行い、日米同盟の重要性を確認しており、トランプ政権が発足しても、日米同盟は変わらない」と述べました。
さらに、菅官房長官は、記者団が、「安倍総理大臣の所感などで、先の大戦への謝罪の表現は盛り込まれていないが」と質問したのに対し、「今回の真珠湾訪問は、戦没者への慰霊のためであり、謝罪のためではない。平和で安全な世界の実現を目指して、現実的で着実な努力を積み重ねていくことが極めて重要であり、今後とも、アメリカと協力して、世界の平和と安定に貢献していくということをしっかりと伝えられた」と述べました。
自民 二階幹事長「歴史に残る立派な演説」
自民党の二階幹事長は、記者団に対し、安倍総理大臣の所感について、「真摯(しんし)な態度で不戦の誓いを心の底から述べ、戦争の犠牲となった人に、日本国民を代表して思いを伝えた、大変感銘深い、歴史に残る立派な演説だった。オバマ大統領との合意に基づいて、真珠湾という歴史上、特殊な場所で、お互いにそれぞれの国に思いやりを示しながら、懸命に訴えたことは非常によかった」と述べました。
公明 山口代表「未来に向けて不戦の決意を」
公明党の山口代表は記者団に対し、「アメリカと激しい戦争を行った国が、寛容や和解の精神を示し、その意義を国際社会に発信したことは重要で、画期的だ。過去の歴史的な評価はいろいろ意見があるかもしれないが、そこにこだわっていることは生産的ではなく、人間が再び愚かな行為に至らないよう、未来に向けて不戦の決意をしっかりと固めることが大事だ。アメリカの次の政権も、これまで両国が築いてきた基軸を大切にしながら、世界に向けて役割を果たしていくべきだ」と述べました。

1031名無しさん:2016/12/31(土) 11:45:56
>>1030

民進 蓮舫代表「意義あるが引っかかることある」
民進党の蓮舫代表は党の仕事納めで「安倍総理大臣とオバマ大統領がそろって真珠湾で不戦の誓いを語ったことは大変大きな意義があるが、引っかかっていることが1つだけある。安倍総理大臣は不戦の誓いを言いながら、なぜ、憲法解釈を変えて安保法制に突き進んだのかということだ。世界で最も必要とされているのは、日本が中心となって平和への道を進めていくことだ。民進党は平和を基軸にしっかりと足を踏みしめて国際平和を作り上げていきたい」と述べました。
共産 志位委員長 反省なければ和解なし
共産党の志位委員長は、「日本の総理大臣が真珠湾を訪問するのであれば、アメリカ国民に対してだけでなく、アジアの諸国民や日本国民に甚大な惨害をもたらしたアジア・太平洋戦争に真摯に向き合い、この戦争をどう認識し、どう反省しているかを語るべきだった。過去の日本の戦争を『間違った戦争』と決して認めようとしない反省なき外交では、世界とアジアの諸国民との真の意味での和解と友好を築くことはできない」などとする談話を発表しました。
維新 松井代表 「未来志向で世界平和に貢献を」
日本維新の会の松井代表は、大阪市内で記者団に対し、「当時を知るアメリカの高齢者の皆さんは、今回の訪問を高く評価していると思う。長年の日米同盟の中でも小骨が刺さっていたというのが現実で、それを取り払うことができたと思う。これから未来志向で日米が同盟を深化させながら、世界の平和に貢献してもらいたい」と述べました。
社民 又市幹事長「具体的な中身は軍事面だ」
社民党の又市幹事長は、党の仕事納めで、「日本が真珠湾攻撃や侵略戦争に乗り出していったことに対する真摯な反省と謝罪が求められていたが、安倍総理大臣の演説は、そういう方向のものではなかった。日米同盟を『希望の同盟』と大きく打ち出しているが、具体的な中身は軍事面だ。『国際紛争を解決する手段として武力行使はしない』と誓った日本国憲法に基づく理念を世界に発信すべきであり、非常に残念な印象を持った」と述べました。
こころ 中野幹事長「歴史的に意義深い」
日本のこころを大切にする党の中野幹事長は、「かつて死力を尽くして戦った敵同士が、和解の努力を重ね、今や最も親密な同盟関係を構築した姿を全世界に示したことは、歴史的に大変意義深く、高く評価したい。今回の安倍総理大臣の真珠湾訪問により、今後、日米両国が、同盟関係をあらゆる面でさらに深化させ、アジア太平洋地域と世界の平和と発展に一層貢献していくことを期待する」などとする談話を発表しました。

1032名無しさん:2016/12/31(土) 11:47:25
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822431000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_025
日米首脳会談 さらなる同盟強化の必要性で一致
12月28日 9時59分
安倍総理大臣は、ハワイで、来月、任期を終えるアメリカのオバマ大統領との最後の首脳会談に臨み、日米同盟は、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台だとして、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致しました。
会談の冒頭、安倍総理大臣は、「この4年間、オバマ大統領とともに努力し、日米同盟は、経済、安全保障、人的交流を含む幅広い分野で協力が深化したことを感謝する」と述べたうえで、ことし5月のオバマ大統領の広島訪問を高く評価する考えを伝えました。

これに対し、オバマ大統領は、「地域と国際社会のために貢献するという共通の目標のために協力できたことをうれしく思う。日米同盟がこれまで以上に盤石となることを期待している」と応じました。

そして、両首脳は、日米同盟は、自由、民主主義、法の支配などの基本的価値を共有する国々との連携を強化する土台であり、さらに同盟関係の強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致しました。

さらに、安倍総理大臣は、オバマ大統領がアメリカの大統領として初めて沖縄県の尖閣諸島に日米安全保障条約が適用されると明言したことは力強いメッセージだとして、評価する考えを伝えました。
そして、両首脳は、中国海軍の空母が初めて太平洋に進出したことについて、「注視すべき動向だ」として、海洋の自由を確保するため、インドやオーストラリアなども含めた同盟のネットワークを広げることが重要だという認識で一致しました。

また、安倍総理大臣は、TPP=環太平洋パートナーシップ協定について、「自由貿易を後退させてはならない」と述べ、トランプ新政権に対しても、協定の発効に向けて、粘り強く働きかけていく考えを伝え、オバマ大統領も、TPPの推進に引き続き努力する考えを示しました。

一方、安倍総理大臣は、先に、沖縄県でアメリカ軍の新型輸送機オスプレイが不時着して大破した事故に対する遺憾の意を伝え、さらなる安全確保や情報提供を求めました。

また、沖縄県最大のアメリカ軍の演習場・北部訓練場のうち、半分以上が日本側に返還されたことは、沖縄の負担軽減に大きく貢献するものだと評価するとともに、普天間基地の移設に向けて工事を再開したことを伝えました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822721000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_020
新潟 長岡市長 ホノルル市との平和交流の意義強調
12月28日 14時24分

日本時間の28日朝に行われた日米両首脳によるハワイの真珠湾訪問で、ホノルル市と姉妹都市である新潟県長岡市の磯田達伸市長が日本の地方自治体で唯一立ち会い、磯田市長はNHKの取材に対し、ホノルル市と続けてきた平和交流の意義を強調しました。
真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官、山本五十六の出身地である新潟県長岡市は、ハワイのホノルル市との間で平和交流を続けていて、磯田市長が今回の真珠湾訪問に日本の地方自治体で唯一招待を受けて立ち会いました。

磯田市長は28日午前、NHKの電話取材に応じ、安倍総理大臣が所感で日米の和解の意義を強調したことについて、「過去の傷つけ合った歴史を互いにこえて友好関係を築こうという長岡市民の思いと重なる。現地の関係者からは『これまでの長岡の取り組みが今回の訪問につながった』という言葉も受けた。市民とともに率直に喜びたい」と述べました。そのうえで、磯田市長は「自治体どうしの濃密な交流が国どうしの関係の根底にあると思う。長岡市は今後も、青少年の交流を中心に未来に平和を伝え続けていきたい」と述べました。

1033名無しさん:2016/12/31(土) 11:48:32
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010823161000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_017
安倍首相 真珠湾慰霊など終え帰国
12月28日 18時06分
ハワイを訪れていた安倍総理大臣は、真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊や、不戦の誓いや日米の和解の意義を強調する所感の発表などを終え、午後6時前、政府専用機で帰国しました。
安倍総理大臣は、日本時間の28日未明、訪問先のハワイで、来月退任するオバマ大統領との最後の日米首脳会談に臨み、日米同盟の重要性を確認し、さらに関係強化に取り組んでいく必要があるという認識で一致しました。

そして安倍総理大臣は、オバマ大統領とともに真珠湾を訪れ、旧日本軍による攻撃で沈没した戦艦アリゾナの乗組員を追悼するアリゾナ記念館で犠牲者を慰霊したのに続いて、所感を発表し、不戦の誓いや日米の和解の意義を強調しました。

ハワイでの日程を終えた安倍総理大臣は、午後6時前、政府専用機で羽田空港に到着しました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822171000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_032
慰安婦問題 日韓合意から1年
12月28日 5時04分

慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意から、28日で1年です。韓国では、合意に基づく元慰安婦への支援事業が進む一方で、政治状況が混乱する中、合意への批判の声も上がっており日本政府は、合意を着実に履行するよう引き続き働きかけていく方針です。
慰安婦問題をめぐっては、去年12月の日韓外相会談で、韓国政府が設置する財団に日本政府が、10億円を拠出し、元慰安婦への支援事業を行うことなどで合意し、この問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認しました。

この合意に基づいて、韓国政府が設立した財団は、支援事業として元慰安婦への現金の支給を進めていて、財団によりますと、合意の時点で生存していた元慰安婦46人のうち、これまでに34人が合意を受け入れる意向を示したということです。

一方で、韓国では、パク・クネ(朴槿恵)大統領の弾劾をめぐり国内の政治状況が混乱する中、次の大統領選挙への立候補が有力視される野党の議員らからは「パク大統領の代表的な失政だ」として、合意への批判の声も上がっています。

さらに、日本政府が求めている、ソウルの日本大使館前にある慰安婦を象徴する少女像の撤去は依然としてめどがたっていません。

こうした現状について、政府内からは、選挙の結果しだいでは合意が履行されなくなるおそれがあると指摘する声も出ています。

菅官房長官は、27日の記者会見で、「日韓それぞれが責任を持って合意を実行していくことが極めて重要だ。着実な実施のために韓国政府と連携していきたい」と述べました。

日本政府は、合意の履行が滞れば、日韓関係にも影響が及びかねないとして、引き続き、合意を着実に履行するよう韓国側に働きかけていく方針です。

1034名無しさん:2016/12/31(土) 11:50:02
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161228/k10010822791000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_019
今村復興相 靖国神社を参拝
12月28日 14時48分

今村復興大臣は、28日午後、東京・九段の靖国神社に参拝しました。
今村復興大臣は、28日午後1時ごろ、東京・九段の靖国神社を訪れ、本殿の手前の拝殿で、さい銭を入れて深く頭を下げ、一般の参拝者と変わらない方法で参拝しました。記帳などはせず、本殿にも上がりませんでした。
このあと今村大臣は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れて、戦没者の霊をなぐさめました。

今村大臣は記者団に対し、「1年間の仕事のご報告と感謝、そして、わが国の安寧と繁栄を祈念した。一日本国民として、一国会議員として、一閣僚としての立ち場だ」と述べ、さい銭はポケットマネーで支払ったと説明しました。

また今村大臣は、記者団が安倍総理大臣の真珠湾訪問との関連性を質問したのに対し、「たまたま重なっただけで何かの偶然かと思う。御用納めという1つの区切りだから、きょう参拝したので、総理と直接は関係ない」と述べました。
今村大臣は、大臣に就任した直後のことし8月にも靖国神社に参拝しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161229/k10010823861000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_014
稲田防衛相 きょう靖国神社に参拝へ
12月29日 6時35分

稲田防衛大臣は29日午前、防衛大臣に就任してから初めて、東京・九段の靖国神社に参拝することになりました。
稲田防衛大臣は例年、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が主権を回復した4月28日と、終戦の日の8月15日に、みずからが会長を務める党の議員グループとともに東京・九段の靖国神社に参拝しており、行政改革担当大臣や自民党の政務調査会長を務めていた時も参拝しました。

一方で、稲田大臣は、ことし8月に防衛大臣に就任したあとは、13日からアフリカのジブチを訪れ、ソマリア沖の海賊対策のために派遣されている海上自衛隊の部隊を視察していたことから、終戦の日の参拝は行われませんでした。こうした中、稲田大臣は29日午前、防衛大臣に就任してから初めて、靖国神社に参拝することになりました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161230/k10010824541000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_006
稲田防衛相の靖国参拝 米「和解への取り組み望む」
12月30日 5時33分
稲田防衛大臣が29日、靖国神社に参拝したことについてアメリカ国務省の当局者は「アメリカは歴史問題に関してすべての当事者の癒やしと和解につながる取り組みの重要性を強調し続けている」と述べ、日本政府が歴史認識をめぐって和解に向けた取り組みを続けるよう望む考えを示しました。
稲田防衛大臣は安倍総理大臣とともにハワイを訪れ、現地時間の今月27日に行われたアメリカのオバマ大統領との、真珠湾攻撃の犠牲者の慰霊に立ち会ったのに続いて29日、防衛大臣に就任してから初めて靖国神社に参拝しました。

これについてアメリカ国務省の当局者は29日、NHKの取材に対して「アメリカは歴史問題に関してすべての当事者の癒やしと和解につながる取り組みの重要性を強調し続けている」と述べ、日本政府が歴史認識をめぐって和解に向けた取り組みを続けるよう望む考えを示しました。

一方、アメリカの有力紙ウォール・ストリート・ジャーナルは29日の電子版で「真珠湾での慰霊を終えて帰国したあとに、近隣諸国から『軍国主義の過去を美化する場所』と見られている神社に参拝した」と批判的なトーンで伝えています。

1035名無しさん:2017/01/01(日) 08:23:20
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122900566&g=pol
慰安婦合意「維持望む」=韓国首相

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領の代行を務める黄教安首相は29日、韓国の記者団に対し、昨年末に交わされた慰安婦をめぐる日韓合意について「国家間の協議を経て決定された。維持されるのが望ましい」と語った。聯合ニュースが伝えた。
 日韓合意をめぐっては、韓国野党から見直しを求める声が強まっている。だが、黄首相は「再交渉を求めても日本が応じないだろう」と見直しの可能性を否定。「すべての国民が願う合意になるのが一番だが、相手がいることで容易ではない」と指摘し、「さらに良い合意とは、どんなものか」と問い返す場面もあったという。(2016/12/29-21:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122800480&g=pol
和解の新たな一章に=真珠湾訪問、「謝罪なし」指摘も-米メディア

 【ワシントン時事】米主要メディアは27日、安倍晋三首相の真珠湾訪問について、「犠牲者への哀悼の意を示した」(CNNテレビ)、「日米和解の新たな一章となった」(ニューヨーク・タイムズ紙電子版)とおおむね好意的に伝えた。一方で「真珠湾攻撃への謝罪はなかった」とも報じた。
 28日付のニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ウォール・ストリート・ジャーナルの3紙は、安倍首相とオバマ米大統領が追悼施設「アリゾナ記念館」で慰霊する写真を1面に掲載した。
 ロサンゼルス・タイムズ紙(電子版)は「オバマ大統領と安倍首相が真珠湾に花をささげたのは、75年前の日本の攻撃に対する憎しみを鎮めるための象徴的行動だった」と評価した。ケネディ駐日米大使は、ABCテレビに「(首相の訪問は)両国にとって歴史的な瞬間だ」と意義を強調した。
 ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は、安倍首相が真珠湾で行った演説全文の英訳を掲載。今回の訪問への注目の大きさを示した。
 一方、ロサンゼルス・タイムズ紙は、日米同盟の重要性を訴え、「自分たちと異なる人々を悪者扱いする欲求に、立ち向かわなければならない」などと語ったオバマ大統領の演説に言及。同盟関係を軽視したり、移民や少数派に激しい言葉を用いたりしてきたトランプ次期大統領に「警鐘を鳴らした」と指摘した。(2016/12/29-00:57)

1036名無しさん:2017/01/01(日) 08:23:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122900489&g=pol
稲田氏、政治信条を優先=遠のく中韓との防衛交流-靖国参拝

 稲田朋美防衛相が靖国神社を参拝した。中韓両国への配慮から、就任直後の終戦記念日の参拝は見送ったものの年内参拝にはこだわりを示し、保守的な自身の政治信条を優先させた格好だ。中韓両政府は早速反発。北朝鮮の核・ミサイル開発への対応で不可欠な日韓防衛協力や中国との政治対話に支障が出れば、国益を損ねたとの批判を招く可能性もある。
 稲田氏は今年8月の防衛相就任後、靖国参拝に関し「心の問題だ。安倍内閣の一員として適切に判断し、行動する」と言い続けてきた。例年、8月15日の終戦記念日など歴史の節目に、自民党保守系議員の「伝統と創造の会」会長として参拝。今年の終戦記念日は海外視察の日程を入れ、参拝できない状況を自らつくったが、周辺によると年内参拝に意欲を示していたという。
 韓国政府は国内世論の根強い批判にもかかわらず、日本との間で11月に軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を締結しただけに、冷や水を浴びせられた形だ。協定締結を後押ししたのは、来年末までの核の弾頭化を目指しているとされる北朝鮮の脅威。協定運用に及ぼす影響について、日本の防衛省幹部は「計り知れない」と指摘した。
 中国軍空母の西太平洋進出が初めて明らかになるなど、同国が軍事力を誇示する中、自衛隊と中国軍の偶発的衝突を防ぐ海空連絡メカニズム構築も急務だが、防衛当局間で進む協議にも影響が出かねない。稲田氏は就任後5カ月近くたっても、中韓の国防相と会談するめどは立っておらず、両国との防衛交流は一段と遠のきそうだ。(2016/12/29-17:54)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122900071&g=pol
稲田氏が靖国参拝=防衛相初、対中韓で影響も

 稲田朋美防衛相は29日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。防衛省によると、2007年1月の省昇格後、防衛相の靖国参拝は初めてで、担当閣僚としては02年8月15日の中谷元・防衛庁長官以来とみられる。中国、韓国両政府は稲田氏の対応を批判。北朝鮮の核・ミサイル開発をにらんだ韓国との防衛協力や、中国との防衛交流にも影響しそうだ。

 参拝後、稲田氏は記者団に「今の平和な日本は祖国のために命をささげられた方々の尊い命の積み重ねの上にある。未来志向に立ってしっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」と説明した。「防衛大臣 稲田朋美」と記帳し、玉串料は私費で支払ったという。
 稲田氏は安倍晋三首相の米ハワイ・真珠湾訪問に同行し、28日に帰国したばかり。稲田氏はこのことに触れ、「最もし烈に戦った日本と米国が今や最も強い同盟関係にある。真珠湾訪問も報告してきた」と語った。
 自衛隊の統率を含む防衛政策の担当閣僚が靖国神社を参拝したことで、安倍政権の右傾化を警戒する中韓両国を刺激したのは間違いない。特に、北朝鮮が核実験や弾道ミサイル発射など挑発行為を繰り返す中、急務となっている韓国との連携強化に支障を来す恐れもある。
 これに関し、稲田氏は「いかなる歴史観に立とうとも、祖国のために命をささげた方々に対し、感謝と敬意と追悼の意を表するのはどの国でも理解していただけるものだ」と主張した。稲田氏の靖国参拝について、首相は神奈川県茅ケ崎市で「ノーコメントだ」と記者団に述べた。
 弁護士出身の稲田氏は保守的な政治信条で知られ、例年8月15日の終戦記念日などに合わせて靖国神社を参拝してきた。就任直後の今年は、アフリカ北東部のジブチでの自衛隊部隊視察を理由に参拝を見送っていた。(2016/12/29-17:36)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016122900468&g=pol
靖国参拝、断固反対=日本政府に抗議へ-中国

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は29日の記者会見で、稲田朋美防衛相が靖国神社を参拝したことについて、「断固として反対する」と述べた上で、日本政府に抗議する考えを示した。
 華氏は「日本の侵略の歴史を美化する靖国神社を参拝したことは、日本の一部の人物の頑固な誤った歴史観を反映している。真珠湾(訪問)の『和解の旅』を大いなる皮肉にした」と批判した。
 さらに、「侵略の歴史を正視し、深く反省し、歴史と未来に責任を負う態度で適切に対応するよう、日本の指導者に促す」と語った。(2016/12/29-17:21)

1037名無しさん:2017/01/01(日) 09:22:38
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016123000124&g=pol
相次ぐ日本の首相交代に困惑=サッチャー政権外交文書-英

 【ロンドン時事】1980年代、英国のサッチャー政権関係者が、目まぐるしい日本の首相交代に困惑していたことが、30日解禁の英外交文書で明らかになった。79〜90年の長期政権を担ったサッチャー氏の在任中、日本では大平正芳氏から海部俊樹氏まで6人が首相を務めている。
 文書は89年9月20日付で、同月訪日したサッチャー首相に同行した外交顧問が作成した。
 文書は、東京で行われた海部首相(当時)との会談を「とても友好的だった」と評価する一方、海部氏が関税など2国間の重要課題でサッチャー氏と話し合いを持った「4人目の日本の首相」であることに2度にわたり言及。交渉相手が頻繁に交代するのは「われわれ(日英)の関係(構築)にとって悩みの種だ」と記した。
 文書はまた、サッチャー氏が海部氏について「誠実で真面目、善意的だが、どちらかというと軽量(な人物)だという印象を持った」と報告している。(2016/12/30-09:42)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016123000005&g=pol
稲田防衛相の靖国参拝、慎重な対応求める=米

 【ワシントン時事】米国務省当局者は29日、稲田朋美防衛相の靖国神社参拝について「われわれは歴史問題には癒やしと和解を促進して取り組むことが重要だと強調し続ける」と述べ、慎重な対応を求めた。閣僚の靖国訪問でコメントを出すのは異例。
 米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(電子版)は、安倍晋三首相に同行した真珠湾での慰霊から帰国した後に、「近隣諸国から軍国主義の過去を美化すると見なされている神社を訪問した」と批判的に報じた。(2016/12/30-00:56)

1038名無しさん:2017/01/01(日) 11:35:20
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161226-00010001-nishinpc-soci
「真珠湾」通告遅れは意図的か 対米開戦に新説 九大教授が米記録発見
西日本新聞 2016/12/26(月) 10:29配信

 太平洋戦争の開戦通告が遅れたのは、ワシントンの在米日本大使館の怠慢だったとする通説を覆し、日本外務省が意図的に電報発信を遅らせたことが原因とする説が浮上している。九州大学記録資料館の三輪宗弘教授が、通告の訂正電報を外務省が13〜14時間遅らせて発信していた記録を、米国公文書館(メリーランド州)で発見した。開戦から75年。安倍晋三首相がハワイ・真珠湾を訪問するが、通告の遅れに関する真相究明が進んでいる。

 日本が日米交渉の打ち切りを米国に伝えた「対米覚書」が、開戦通告と位置付けられている。

 三輪教授が発見したのは、覚書の一部である二つの電報の発信記録。外務省が大使館に発信し、米海軍が傍受したもので、1941年12月7日の「午前0時20分」と「午前1時32分」(いずれも米東部時間)とある。この電報の存在と時刻が何を意味するのか。

電報は14部に分けて発信
 旧日本軍が真珠湾攻撃を開始したのは、同7日午後1時19分。覚書が当時のハル米国務長官に手渡されたのは1時間後の午後2時20分だった。この遅れが、米国から「だまし討ち」と批判される原因となった。

 覚書は、外務省が発信した暗号電報を大使館が解読し、英文に直してタイプライターで作成した。長文のため、電報は14部に分けて発信された。

 1〜13部は同6日午前8時〜11時25分に発信されており、内容はこれまでの日米交渉を確認するにとどまる。交渉を打ち切るという「結論」は14部で初めて分かるが、ぎりぎりまで機密を保持するため、13部から約15時間後の7日午前2時38分に発信された。

二つの訂正電報が出されるまで13〜14時間の「空白」
 現在の通説はこうだ。大使館は6日中に13部までをタイプライターで清書し、7日朝に14部を追加すれば開戦前に通告できたはず。しかし、大使館は7日朝から1〜14部の清書を始めたため、間に合わなかった。6日夜に大使館内で送別会があっていたことなどから、大使館の「怠慢」が通告遅れを招いた-。

 だが、三輪教授は、元外務省ニュージーランド大使の井口武夫氏が2008年の著書で触れた訂正電報の存在に注目した。当時、大使館の1等書記官だった奥村勝蔵氏が、1945年に「夜半までに13通が出そろったが、後の訂正電信を待ちあぐんでいた」と陳述していた。

 三輪教授は、大使館が1〜13部の「訂正電報」を待っていたため、清書ができなかったとする仮説を立てた。訂正が175字に上っていたことも外交資料で分かった。当時のタイプライターは途中で挿入や訂正ができない。大使館は「訂正電報」が届くまで清書ができなかったのではないか。

 発見した二つの電報は、他の電報の詳細と突き合わせた結果、「訂正電報の可能性が極めて高く、奥村証言を裏付ける証拠」と三輪教授は読む。13部が発信された6日午前11時半から、二つの訂正電報が出されるまで13〜14時間の「空白」がある。この間、大使館は清書ができない。

 これが事実とすれば、では何のために、外務省は訂正電報を遅らせたのか。

=2016/12/26付 西日本新聞朝刊=

西日本新聞社

1039名無しさん:2017/01/01(日) 12:12:24
http://www.huffingtonpost.jp/2016/12/25/story_n_13854564.html
安倍首相へオリバー・ストーン監督ら公開質問状「日本が攻撃したのは真珠湾だけではない」【全文】
The Huffington Post | 執筆者: ハフィントンポスト編集部
投稿日: 2016年12月26日 10時48分 JST 更新: 2016年12月26日 10時53分 JST SHINZO ABE

安倍晋三首相がハワイの真珠湾訪問するのを前に、日米の歴史学者ら約50人が12月25日、首相宛てに歴史認識を問いただす公開質問状を発表した。真珠湾だけでなく、中国や朝鮮半島、アジア諸国の戦争犠牲者の慰霊に行く予定があるかなどと質問している。共同通信などが報じた。

質問状を出したのは、映画監督オリバー・ストーン氏や、米プリンストン大学のリチャード・フォーク名誉教授(国際法)、アメリカン大学の歴史学の教授で核問題研究所長のピーター・カズニック氏、哲学者で東大教授の高橋哲哉氏、 放射線防護学者で立命館大学名誉教授の安斎育郎氏(平和学)ら53名。

質問状は、1941年12月8日に日本が攻撃した場所について、「真珠湾だけではありません」と指摘。安倍首相は真珠湾攻撃で死亡した約2400人のアメリカ人の慰霊のために訪問することを挙げ、「それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の『慰霊』にも行く予定はありますか」などと尋ねている。

また、安倍首相が2013年に国会で、「侵略の定義は定まっていない」と答弁したことにも言及。「連合国およびアジア太平洋諸国に対する戦争と、すでに続行していた対中戦争を侵略戦争とは認めないということでしょうか」と問いただした。

以下に、公開質問状の全文を紹介する。

1040名無しさん:2017/01/01(日) 12:12:45
>>1039

真珠湾訪問にあたっての安倍首相への公開質問状
2016年12月25日
親愛なる安倍首相、
安倍首相は先日、1941年12月8日(日本時間)に日本海軍が米国の海軍基地を攻撃した際の「犠牲者を慰霊する」目的で、12月末にハワイの真珠湾を訪問する計画を発表しました。
実際のところ、その日に日本が攻撃した場所は真珠湾だけではありませんでした。その約1時間前には日本陸軍はマレー半島の北東沿岸を攻撃、同日にはアジア太平洋地域の他の幾つかの英米の植民地や基地を攻撃しています。日本は、中国に対する侵略戦争を続行するために不可欠な石油や他の資源を東南アジアに求めてこれらの攻撃を開始したのです。
米日の開戦の場所をあなたが公式に訪問するのが初めてであることからも、私たちは以下の質問をしたく思います。
1) あなたは、1994年末に、日本の侵略戦争を反省する国会決議に対抗する目的で結成された「終戦五十周年議員連盟」の事務局長代理を務めていました。その結成趣意書には、日本の200万余の戦没者が「日本の自存自衛とアジアの平和」のために命を捧げたとあります。この連盟の1995年4月13日の運動方針では、終戦50周年を記念する国会決議に謝罪や不戦の誓いを入れることを拒否しています。1995年6月8日の声明では、与党の決議案が「侵略的行為」や「植民地支配」を認めていることから賛成できないと表明しています。安倍首相、あなたは今でもこの戦争についてこのような認識をお持ちですか。
2) 2013年4月23日の国会答弁では、首相として「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁しています。ということは、あなたは、連合国およびアジア太平洋諸国に対する戦争と、すでに続行していた対中戦争を侵略戦争とは認めないということでしょうか。
3) あなたは、真珠湾攻撃で亡くなった約2400人の米国人の「慰霊」のために訪問するということです。それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の「慰霊」にも行く予定はありますか。
首相としてあなたは、憲法9条を再解釈あるいは改定して自衛隊に海外のどこでも戦争ができるようにすることを推進してきました。これがアジア太平洋戦争において日本に被害を受けた国々にどのような合図として映るのか、考えてみてください。

1041名無しさん:2017/01/01(日) 12:13:13
>>1040

1. Ikuro Anzai, Professor Emeritus, Ritsumeikan University 安斎育郎、立命館大学名誉教授
2. Herbert P. Bix, emeritus professor of history and sociology, Binghamton University, SUNY ハーバート・P・ビックス、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校歴史学・社会学名誉教授
3. Peter van den Dungen, Formerly, Lecturer in Peace Studies, University of Bradford, UK, and general coordinator of the International Network of Museums for Peace ピーター・バン・デン・デュンゲン、元ブラッドフォード大学(英国)平和学教員、世界平和博物館ネットワーク総括コーディネーター
4. Alexis Dudden, Professor of History, University of Connecticut アレクシス・ダディン、コネチカット大学歴史学教授
5. Richard Falk, Albert G. Professor of International Law and Practice, Emeritus, Princeton University リチャード・フォーク、プリンストン大学国際法名誉教授
6. John Feffer, Director, Foreign Policy In Focus, ジョン・フェッファー、「フォーリン・ポリシー・イン・フォーカス」ディレクター
7. Norma Field, Professor emerita, University of Chicago ノーマ・フィールド、シカゴ大学名誉教授
8. Kay Fischer, Instructor, Ethnic Studies, Chabot Collegeケイ・フィッシャー、シャボット・カレッジ(カリフォルニア州)講師
9. Atsushi Fujioka, Emeritus Professor, Ritsumeikan University 藤岡惇、立命館大学名誉教授
10. Joseph Gerson (PhD), Vice-President, International Peace Bureau ジョセフ・ガーソン、国際平和ビューロー副会長
11. Geoffrey C. Gunn, Emeritus, Nagasaki University ジェフリー・C・ガン、長崎大学名誉教授
12. Kyung Hee Ha, Assistant Professor, Meiji University 河庚希、明治大学特任講師
13. Laura Hein, Professor, Northwestern University ローラ・ハイン、ノースウェスタン大学教授(米国シカゴ)
14. Hirofumi Hayashi, Professor, Kanto Gakuin University 林博史、関東学院大学教授
15. Katsuya Hirano, Associate Professor of History, UCLA平野克弥、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校准教授
16. IKEDA Eriko, Chair of the Board, Women's Active Museum on War and Peace(wam) 池田恵理子 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)館長
17. Masaie Ishihara, Professor Emeritus Okinawa International University 石原昌家、沖縄国際大学名誉教授
18. Paul Jobin, Associate Research Fellow, Academia Sinica, Institute of Sociology
ポール・ジョバン 台湾国立中央研究院社会学研究所 アソシエート・リサーチ・フェロー
19. John Junkerman, Documentary Filmmaker ジャン・ユンカーマン、ドキュメンタリー映画監督
20. Nan Kim, Associate Professor, University of Wisconsin-Milwaukee ナン・キム(金永蘭)、ウィスコンシン大学ミルウォーキー校准教授
21. KIM Puja, Professor of Gender History, Tokyo University of Foreign Studies金 富子、ジェンダー史、東京外国語大学教授
22. Akira Kimura, Professor, Kagoshima University 木村朗、鹿児島大学教授
23. Tomomi Kinukawa, Instructor, San Francisco State University絹川知美、サンフランシスコ州立大学講師
24. Peter Kuznick, Professor of History, American University ピーター・カズニック、アメリカン大学歴史学教授
25. Kwon, Heok-Tae, Professor, Sungkonghoe University, Korea 権赫泰(クォン・ヒョクテ)、韓国・聖公会大学教授

1042名無しさん:2017/01/01(日) 12:13:23
>>1041

26. Lee Kyeong-Ju, Professor, Inha University (Korea) 李京柱、仁荷大学教授
27. Miho Kim Lee, Co-founder of Eclipse Rising ミホ・キム・リー、「エクリプス・ライジング」共同創立者
28. Lim Jie-Hyun, Professor of transnational history, director of Critical Global Studies Institute, Sogang University 林志弦(イム・ジヒョン)、西江大学教授(韓国)
29. Akira Maeda, Professor, Tokyo Zokei University 前田 朗、東京造形大学教授
30. Janice Matsumura, Associate Professor of History, Simon Fraser University, Canada ジャニス・マツムラ、サイモンフレイザー大学(カナダ)歴史学准教授
31. Tanya Maus, PhD, Director, Wilmington College Peace Resource Center, Wilmington, Ohio タニア・マウス、ウィルミントン大学(オハイオ州)平和資料センターディレクター
32. David McNeill, Adjunct Professor, Sophia University デイビッド・マクニール、上智大学非常勤講師
33. Gavan McCormack, Emeritus Professor, Australian National University ガバン・マコーマック、オーストラリア国立大学名誉教授
34. Katherine Muzik, Ph.D., marine biologist, Kauai Island キャサリン・ミュージック、海洋生物学者(ハワイ・カウアイ島)
35. Koichi Nakano, Professor, Sophia University 中野晃一、上智大学教授
36. NAKANO Toshio, Professor Emeritus, Tokyo University of Foreign Studies中野敏男、社会理論・社会思想、東京外国語大学名誉教授
37. Narusawa Muneo, Editor, Weekly Kinyobi, 成澤宗男、『週刊金曜日』編集部
38. Satoko Oka Norimatsu, Editor, Asia-Pacific Journal: Japan Focus 乗松聡子、『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』エディター
39. John Price, Professor of History, University of Victoria, Canada ジョン・プライス、ビクトリア大学(カナダ)歴史学教授
40. Steve Rabson, Professor Emeritus, Brown University (U.S.A.) Veteran, United States Armyスティーブ・ラブソン、ブラウン大学(米国)名誉教授 米国陸軍退役軍人
41. Sonia Ryang, Director, Chao Center for Asian Studies, Rice University ソニア・リャン、ライス大学(テキサス州)チャオ・アジア研究センターディレクター
42. Daiyo Sawada, Emeritus Professor, University of Alberta ダイヨウ・サワダ、アルバータ大学名誉教授
43. Mark Selden, Senior Research Associate, East Asia Program, Cornell University マーク・セルダン、コーネル大学東アジア研究プログラム上級研究員
44. Oliver Stone, Academy Award-Winning Filmmaker オリバー・ストーン、アカデミー賞受賞映画監督
45. Tetsuya Takahashi, Professor, University of Tokyo 高橋哲哉、東京大学教授
46. Nobuyoshi Takashima, Professor Emeritus, the University of Ryukyus 高嶋伸欣、琉球大学名誉教授
47. Akiko Takenaka, Associate Professor of Japanese History, University of Kentucky竹中晶子、ケンタッキー大学准教授
48. Wesley Ueunten, Associate Professor, Asian American Studies Department, San Francisco State University ウェスリー・ウエウンテン、サンフランシスコ州立大学アジア・アメリカ研究学部准教授
49. Aiko Utsumi, Professor Emeritus, Keisen University内海愛子、恵泉女学園大学名誉教授
50. Shue Tuck Wong, Professor Emeritus, Simon Fraser University シュエ・タク・ウォング、サイモンフレーザー大学(カナダ)名誉教授
51. Yi Wu, Assistant Professor, Department of Sociology and Anthropology, Clemson University イー・ウー、クレムゾン大学社会学・人類学部助教授
52. Tomomi Yamaguchi, Associate Professor of Anthropology, Montana State University 山口智美、モンタナ州立大学人類学准教授
53. Lisa Yoneyama, Professor, University of Toronto リサ・ヨネヤマ、トロント大学教授
**********************************************************
Those whose signatures arrived after we released the letter. 発表後に署名が届いた人たちをここに記します(到着順)
Jenny Chan 陳慧玲, Assistant Professor of Sociology and China Studies, Department of Applied Social Sciences, The Hong Kong Polytechnic University 
Matthew Penny, Associate Professor, Concordia University (Canada)
 
(Peace Philosophy Centre: オリバー・ストーン監督、米日韓加中英豪沖台の専門家など53名 真珠湾訪問に際し安倍首相の歴史認識を問う Oliver Stone and internatonal scholars and activists send an Open Letter to Prime Minister Abe on the eve of his Pearl Harbor visitより 2016/12/25)

1043とはずがたり:2017/01/03(火) 09:22:17
奈良の空襲をググってたら引っ掛かった。

☆米軍は京都の文化財を守ってくれたのに、何故日本軍は残虐なことをしたのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138917786

messihoukou_1944さん2010/4/215:25:00
☆米軍は京都の文化財を守ってくれたのに、何故日本軍は残虐なことをしたのですか?

補足
http://jig111.mobile.ogk.yahoo.co.jp/fweb/0312zvPQUO8mYCI6/0?_jig_=...

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fuji_mikasaさん 2010/4/809:38:31
京都は、関西の他の都市を爆撃したB29が京都上空で爆弾を捨てた時の被害は受けましたが、『本格的な空襲』は受けていません。その理由は
「空襲の順番が回ってこなかったから」
です。

アメリカ軍は、日本の各都市を分析して「空襲の優先順位」を設定しておりました。その優先順位に従って空襲を行ったので、昭和20年8月15日までに空襲の順番が来なかった都市は、ある程度大きな都市でも空襲を免れました。
非常に運が悪い都市は、昭和20年8月14日の夜に「最後の空襲」を受けて市街地の74%が焼失した埼玉県の熊谷市です。
アメリカ軍のリスト上の順番が一つ違えば、空襲を受けずに済んだと思われます。

『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』 (朝日文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/402261353X/

に、その「アメリカ軍が作った空襲の優先順位リスト」が載っております。

さて、文化財がたくさんある京都市や奈良市は、「人口は比較的多いが、軍事的に重要でない」と判定されて、このリストの下位に位置していたので、空襲を免れました。

よく言われる「京都や奈良は、文化財の焼失を恐れる親日家の学者の努力で空襲を免れた」という話が、根拠がないことも上記の本で論証されています。

上記の本には
「京都や奈良の空襲を防いだとされる親日家の学者は、実際にはアメリカ軍の依頼に応じて 『日本が降伏したら、日本から賠償金代わりに持ち去ることが出来る文化財のリスト』を作っていた。かなり杜撰なリストで、持ち去ることが不可能なもの、既に存在しないものも入っていた」
というオチも書いてあります。

1044名無しさん:2017/01/07(土) 15:25:23
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170106-00000076-yonh-kr
日本との慰安婦合意交渉文書 一部公開命じる判決=韓国裁判所
聯合ニュース 1/6(金) 17:33配信

【ソウル聯合ニュース】韓国の弁護士団体「民主社会のための弁護士会」の宋基昊(ソン・ギホ)弁護士が外交部を相手取り、旧日本軍の慰安婦問題をめぐる2015年末の韓日合意の交渉に関する文書の一部を公開するよう求めた訴訟で、ソウル行政裁判所行政6部は6日、文書を公開するよう言い渡した。

 判決が確定する場合、外交部は日本との交渉で日本軍と官憲の強制連行を認めるかどうかを協議した文書を公開しなければならない。第1〜12回の局長級協議の全文などが該当する。

 判決は「情報公開法の目的は国民の知る権利を保障し、国政運営の透明性を確保するためのもの」とした上で、「慰安婦被害者問題は被害者個人では決して消し切れない人間の尊厳性侵害、身体自由の剥奪という問題であり、韓国国民の慰安婦被害者を守れず、しっかり面倒をみられなかったことへの意識、もしくは責任感の問題で、事案の重要性が大きい」と指摘。「慰安婦合意でこの問題が最終的・不可逆的に解決されるのなら、被害者だけでなく韓国の国民は日本政府がいかなる理由で謝罪と支援をするのか、その合意過程がどのような方法で行われたかを知る必要がある」とした。

 また、「日本は慰安婦合意に至る過程で、韓日外交当局の過去の協議内容を詳しく紹介し、外交慣行に反した前例もある」とも指摘した。これは韓国政府だけが非公開にする必要はないとの意味に受け止められる。

 宋弁護士は両国が合意の発表で「軍の関与」との用語を選択し、その意味を協議した文書、「性奴隷」「日本軍慰安婦」などの用語使用について協議した文書まで公開するよう求めていたが、裁判を進める中で争点を強制連行を認めるかどうかについて協議した文書に絞った。

 一方、同団体が大統領秘書室長を相手取り、朴槿恵(パク・クネ)大統領と安倍晋三首相の電話会談の内容を公開するよう求めた訴訟で、ソウル行政裁判所行政1部は「外交的、政治的な攻防の対象になる憂慮が大きく、今後の他国との首脳会談でも韓国政府の信頼性にとって大きなダメージとなり、外交交渉力が弱まりかねない」として棄却した。

1045名無しさん:2017/01/07(土) 15:26:24
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170106-00000040-cnippou-kr
釜山少女像、韓日外交戦に飛び火…日本が超強硬対応
中央日報日本語版 1/6(金) 13:48配信

日本政府が6日、釜山(プサン)の日本総領事館前に設置された旧日本軍慰安婦少女像に対する抗議の表示として在韓日本大使と釜山総領事を「一時帰国」させることにした。これに対し韓国政府は直ちに遺憾を表明した。釜山少女像問題が韓日外交戦に飛び火した。

日本政府は「釜山少女像」設置に対する「即刻対抗措置」として長嶺安政駐韓国大使と森本康敬釜山総領事を一時帰国させる一方、釜山総領事館職員の釜山市関連行事参加を見合わせることにした。また日本政府は韓国政府と進めてきた通貨スワップ交渉の中断を宣言し、韓日高官級経済協議も延期すると発表した。

日本側が釜山総領事館前の少女像設置に超強硬対応措置を取ったことで、韓日関係の悪化を警戒する韓国外交当局の悩みも深まる見込みだ。韓国政府はこの日、外交部報道官の論評を通じて「政府は日本政府が在釜山日本総領事館前の少女像に関連して今日閣議で決めた措置について非常に遺憾に思う」と明らかにした。また「政府は両国間に難しい問題があっても両国政府間の信頼関係を基礎に韓日関係を持続的に発展させていくべきだという点を改めて強調する」と述べた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170106-00000049-reut-bus_all
日韓通貨スワップ協議中断、麻生財務相「信頼ないと安定しない」
ロイター 1/6(金) 12:35配信

[東京 6日 ロイター] - 麻生太郎財務相は6日の閣議後会見で、日本政府が協議の中断を表明した日韓通貨スワップに関し、「信頼関係を作った上でやらないとなかなか安定しない」との見方を示した。

これに先立って記者会見した菅義偉官房長官は、韓国の市民団体が釜山市にある日本の総領事館に面した歩道に従軍慰安婦を象徴する少女像を設置したことを受け、日韓通貨スワップ協議の中断などを韓国側に伝えたと明らかにした。

麻生財務相はこれまでの協議の経緯を踏まえ、まずは両国の信頼関係構築が必要と強調。「当面の措置として官房長官からの談話の発表があった。中断することにしたというのは間違いない」と語った。

一方、米国のトランプ次期大統領がトヨタ自動車のメキシコ工場建設を巡って、自身のツイッターで批判したことについては、「北米自由貿易協定(NAFTA)の合意の中での話」とし「それをどういわれても、こちらとしてはどうしようもない」と明言を避けた。

その上で、トヨタが米国内でも工場を展開していることにも触れ「(トヨタは米国でも)大きな雇用を抱えてやっている」と述べた。

麻生財務相はまた、20日から始まる通常国会では「予算の成立に全力を挙げたい。早期成立が一番の景気対策になると確信している」と強調。

アベノミクスで円安・株高が進んだことなどを念頭に「これまでやってきた経済政策は間違っていなかった」と指摘した。

1046名無しさん:2017/01/07(土) 15:29:35
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20170106-00000062-nnn-pol
慰安婦像設置への対抗措置、その背景は…
日本テレビ系(NNN) 1/6(金) 18:59配信
 韓国・釜山の日本総領事館前に先月、慰安婦像が設置された問題をめぐり、菅官房長官は6日、長嶺駐韓国大使の一時帰国などの対抗措置を取ることを発表した。国会記者会館から青山和弘記者がその背景を解説する。

■なぜ政府は今回、厳しい対抗措置に踏み切ったのか

 一言で言えば、「面目が立たない」ということ。一昨年の慰安婦問題をめぐる日韓合意の際、安倍首相は冷え切った日韓関係を改善するため自らを支持する保守層の反発も覚悟して合意を決断した。そして去年9月には韓国の財団に10億円を拠出している。

 ところが合意に反する形で新たに慰安婦像を設置されてしまっては「面目が立たない」。首相周辺は「我慢の限界だ」と話している。

■今後の展開は?

 政府・与党内には日韓関係はしばらく冷え込むのではとの懸念が出ている。自民党のある閣僚経験者は「振り上げた拳をどう下ろすのか。慰安婦像が撤去されるまでとなると時間がかかるのではないか」と話している。

 政府高官は「日本は別に何も困らない」と強気の姿勢も見せているが、北朝鮮への対応などで韓国との連携が求められる上、同盟国アメリカからは日韓合意への支持と同時に良好な関係を保つように要請されている。そうした中、韓国大使が不在という状況をいつまで続けるのか。

 日本政府は今後、難しい判断が迫られることになる。

1047名無しさん:2017/01/07(土) 22:30:57
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010400921&g=pol
釜山少女像「極めて遺憾」=菅長官

 菅義偉官房長官は4日のBSフジの番組で、韓国南部・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことについて「極めて遺憾だ。国際条約の中で国家としてしっかり対応してほしい」と述べ、韓国政府に善処を求めた。慰安婦をめぐる日韓合意にも触れ、「約束したことだから合意に基づいて努力することが極めて大事なことだ」と指摘した。(2017/01/04-23:16)

1048名無しさん:2017/01/07(土) 22:52:54
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170103/k10010827541000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_072
明治元年から150年へ 文書のネット公開など検討
1月3日 4時41分

政府は、来年、平成30年に明治元年から150年を迎えることに合わせて、明治期の貴重な文書などをインターネットで公開することや、当時活躍した若者や女性らの伝記を出版することなどについて、検討を進めていく方針です。
政府は、来年、平成30年に明治元年から150年を迎えることから、明治時代の資料の収集や保存、それに各地で行われるイベントへの支援などの関連施策を検討していて、このほど関係府省庁でつくる連絡会議が基本的な考え方を取りまとめました。

この中では、立憲政治や議会政治の導入といった明治以降の歩みを次世代に残すほか、機会の平等や和魂洋才などの明治の精神に学び、さらに飛躍する国を目指すとしています。そして、明治期の貴重な文書や写真などの資料を収集・整理し、インターネットで公開するデジタルアーカイブ化を進めることや、明治期に日本各地で活躍した若者や女性、外国人の伝記を出版したり、明治にゆかりのある建築物を公開したりして、当時の文化遺産に触れる機会を充実させることなどを、施策の方向性として示しています。

政府は、これらの施策の実現に向けて、ことし夏の平成30年度予算案の概算要求を見据え、関係府省庁ごとに検討を進めていく方針です。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830491000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_028
韓国の日本総領事館前の少女像撤去を要求 外務省杉山次官
1月6日 4時37分

外務省の杉山事務次官が韓国外務省のイム・ソンナム第1次官と会談し、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、「到底許容できない」として直ちに撤去するよう強く求めました。
アメリカを訪れている外務省の杉山事務次官は5日、首都ワシントンで韓国外務省のイム・ソンナム第1次官と会談しました。この中で杉山次官は、韓国プサンの日本総領事館の前に学生などでつくる団体が慰安婦問題を象徴する少女像を設置したことを取り上げました。

そして、「おととしの日韓合意で長年にわたる慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを両国で確認しているが、このようなことは合意の大切な基礎を韓国側が一方的に崩すことを意味しており、到底許容できない」と述べ、直ちに少女像を撤去するよう強く求めました。

これに対し、イム第1次官は、「韓国政府としても、おととしの合意を着実に履行していく立場に変わりはなく、申し入れの内容は確実に政府の責任者たちに伝達する」と述べたということです。このあと杉山次官は記者団に対し、「1時間余りの会談のほとんどを少女像の問題に費やした。引き続き韓国政府や関係自治体に強く申し入れていくつもりだ」と強調しました。

1049名無しさん:2017/01/07(土) 22:54:55
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830651000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_025
韓国駐在の長嶺大使ら一時帰国へ 少女像設置で対抗措置
1月6日 11時28分

菅官房長官は閣議のあとの記者会見で、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことは極めて遺憾だとして、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることなどを発表しました。
この中で、菅官房長官は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、「おととしの日韓合意では、慰安婦問題が最終的で不可逆的に解決されることを確認している。にもかかわらず少女像が設置されたことは、日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、ウィーン条約に規定する領事機関の威厳等を侵害するもので極めて遺憾だ」と述べました。

そのうえで、菅官房長官は、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使と森本プサン総領事の一時帰国、緊急時に通貨を融通しあう通貨スワップ協定の再開に向けた協議の中断、日韓ハイレベル経済協議の延期、それにプサン総領事館の職員による、プサン市関連行事への参加見合わせを発表しました。

そして、菅官房長官は「政府としては少女像を早急に撤去するよう、引き続き韓国政府や関係自治体に強く申し入れていく。引き続き韓国側に対し、少女像の問題を含め、日韓合意の着実な実施を求めていきたい」と述べたうえで、すでに対抗措置を講じることを韓国側に通報したことを明らかにしました。

また菅官房長官は、記者団が対抗措置をいつまで続けるのか質問したのに対し、「状況を総合的に判断して対応していきたい」と述べるとともに、「韓国はまさに隣国で極めて重要な国だ。そういう中で、今回このような措置をとらざるを得なかったのは極めて残念だが、そこはお互いに国と国として約束したことは履行してほしいという強い思いだ」と述べました。
石破氏 出たとこ勝負でない対応を
石破前地方創生担当大臣は東京都内で記者団に対し、「政府は、出たとこ勝負ではなくて、どういう収め方をしていくのか判断しながら対応しなければならない。日韓両国で、お互いに感情がエスカレートしていくことは決してよいことではなく、この地域の平和と安定のために何が一番大事で、北朝鮮を利することがないように何をすべきか、よくよく考える必要がある」と述べました。
大使の一時帰国は過去にも
外務省によりますと、抗議の意思を示すため、韓国に駐在している日本の大使を一時帰国させるのは、平成24年8月に、当時のイ・ミョンバク(李明博)大統領が島根県の竹島に上陸したことを受けて、当時の武藤大使を帰国させた時以来です。この時は10日余り、韓国に大使が不在となりました。

このほか、平成22年11月に、当時ロシアの大統領だったメドベージェフ氏が北方領土の国後島を訪問した際や、平成24年7月に、中国が沖縄県の尖閣諸島の周辺で領海侵入を繰り返した際にも、日本政府は、対応を協議するためなどとして、大使を一時帰国させました。

今回の対応について、外務省幹部は「日本がとった措置は強いものだが、韓国との扉を閉ざしたわけではなく、よい方向に向かうよう願っている」と話しています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010830841000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_020
通貨スワップ協定の再開協議も中断 麻生氏「当面の措置」
1月6日 13時50分
韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの当面の対抗措置として、政府は、緊急時に通貨を融通しあう「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することになりました。これについて麻生副総理兼財務大臣は、閣議のあとの会見で、「信頼関係をきちんと作った上でやらないとなかなか安定したものにならないので、当面の措置ということで理解している」と述べました。
日本と韓国は、金融市場が混乱し外貨の確保が困難になった場合などにドルなどの通貨を融通しあう通貨スワップ協定を2001年に結びました。両国の関係悪化などを背景におととし(2015年)2月に終了しましたが、去年8月、世界経済の先行きに不透明感が増しているとして、韓国側から協定の締結が提案され、日本としては協定の再開に向けて議論を始めることに合意していました。

1050名無しさん:2017/01/07(土) 23:07:07
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170106/k10010831301000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_012
韓国 日本の大使呼び遺憾の意 少女像への対抗措置で
1月6日 19時05分

韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことに対する日本政府の措置について、韓国のユン・ビョンセ(尹炳世)外相は、韓国駐在の長嶺大使を呼んで会談し、遺憾の意を伝えました。
韓国南東部のプサンでは先月30日、日本総領事館の前に学生などで作る団体が慰安婦問題を象徴する少女像を設置し、日本政府は6日、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させ、緊急時に通貨を融通しあう通貨スワップ協定の再開に向けた協議を中断することなどを発表しました。

これを受けて、韓国のユン・ビョンセ外相は6日夕方、長嶺大使を韓国外務省に呼び、およそ1時間にわたって会談しました。

韓国外務省によりますと、会談でユン外相は、日本の対抗措置について遺憾の意を伝えたということです。
そのうえで、「両者は慰安婦合意を着実に履行していくという立場を再確認するとともに、両国関係を継続的に発展させていかなければならないという点で一致した」としています。

これに先立ち、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク報道官は、「日本政府の措置は非常に遺憾だ」としたうえで、「両国間に困難な問題があったとしても信頼に基づいて継続して関係を発展させていかなければならないという点を改めて強調したい」と述べました。

また、企画財政省もコメントを発表して遺憾の意を示しましたが、その一方で「政治や外交に関係なく、経済と金融の分野での協力が継続されることを願っている」とも表明し、経済面に影響が及ばないことに期待をにじませました。
少女像設置した団体は
日本政府の対抗措置について、像を設置した団体がコメントを発表し、日本政府の対応を非難したうえで、「日本政府は慰安婦問題をはじめとする植民地支配と戦争犯罪について、公式な謝罪と法的な賠償を行わなければならない」と主張しました。
さらに、韓国政府に対しても「日本にあいまいな態度をとり続けるのならば、国民の怒りはさらに高まるだろう」として、慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意は見直すべきだと主張しました。
韓国メディアも詳しく報道
日本政府が発表した対抗措置について、韓国の各メディアもその内容を詳しく報道しています。
このうち、公共放送KBSは、午後5時からのニュースで、「日本政府が少女像の撤去を要求し、報復措置を発表した」としたうえで、東京から特派員が菅官房長官の記者会見の様子などを詳しく伝えました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170107/k10010831521000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_009
少女像撤去の見通し立たず 日韓関係悪化は不可避
1月7日 5時18分

政府は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する大使を一時帰国させることなどを決めましたが、少女像が撤去される見通しは立っておらず、改善の流れにあった日韓関係が再び悪化するのは避けられない情勢です。
政府は、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことに抗議し、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることや、緊急時に通貨を融通し合う「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することなどを決めました。

政府は「少女像の設置は、慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府間の合意だけでなく、国際条約にも反している」として、韓国側に対し、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて、早期に撤去するよう求めていくことにしています。

菅官房長官は6日の記者会見で、「韓国はまさに隣国で極めて重要な国だ。今回、このような措置を取らざるをえなかったのは極めて残念だが、国と国として約束したことは履行してほしいという強い思いだ」と述べました。

政府としては、核実験や弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮に対応するためにも、日韓関係の悪化は避けたい考えで、防衛協力などは推進する方針です。

ただ、韓国のパク・クネ(朴槿恵)大統領の職務が停止されて求心力が低下する中、少女像が撤去される見通しは立っておらず、改善の流れにあった日韓関係が再び悪化するのは避けられない情勢です。

1051名無しさん:2017/01/08(日) 21:21:36
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600311&g=pol
駐韓大使ら一時帰国へ=少女像設置へ対抗措置-政府

 菅義偉官房長官は6日午前の記者会見で、韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことに関し、長嶺安政駐韓大使を一時帰国させるなどの対抗措置を講じると明らかにした。一昨年の日韓合意の精神に反するとして、異例の強い措置に踏み切った。

 菅長官は少女像設置について「日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、領事機関の威厳を侵害するもので極めて遺憾だ」と表明。当面の間、(1)長嶺大使、森本康敬釜山総領事の一時帰国(2)釜山総領事館職員の釜山市関連行事への参加見合わせ(3)日韓通貨スワップ(交換)協議の中断(4)日韓ハイレベル経済協議の延期-の四つの措置を取ると説明した。
 政府は6日までに、外交ルートで韓国側に伝達。措置をいつ解除するかについて、菅長官は「状況を総合的に判断する」と述べ、韓国政府の対応を注視する姿勢を示した。
 2015年12月の日韓合意では、ソウルの日本大使館前に設置された少女像に関し、「韓国政府は関連団体との協議を通じて適切に解決されるよう努力する」とされた。だが、その後、撤去などの動きは進まず、釜山の像についても韓国政府は積極的に阻止しなかった。日本政府高官は対抗措置について「日本の強い抗議の姿勢を示した」と語った。(2017/01/06-12:25)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600072&g=pol
釜山少女像、即時撤去を=外務次官が韓国に要求

 【ワシントン時事】訪米中の杉山晋輔外務事務次官は5日、日米韓3カ国の次官協議に先立って韓国の林聖男外務第1次官とワシントンで会談し、韓国・釜山の日本領事館前に設置された慰安婦を象徴する少女像について「到底許容できない」と述べ、即時撤去するよう求めた。杉山次官が明らかにした。

 杉山次官は、慰安婦問題の最終解決をうたった2015年末の日韓合意に触れ、「日本は既に(合意に基づく)10億円の拠出を済ませ、ソウルの日本大使館前の少女像撤去について、韓国の努力を固唾をのんで見守っていた」と指摘。「そのような中での新たな像の建立は、韓国が大切な合意の基礎を一方的に崩すことを意味する。直ちに撤去すべきだ」と強調した。
 これに対し、林次官は「合意を着実に履行していく立場に変わりはない。申し入れの内容は確実に、中央政府の責任者に伝達する」と応じたという。
 杉山次官は林次官に、駐韓大使の一時帰国などの対抗措置も説明したとみられる。
 杉山次官はこの後、ブリンケン米国務副長官とも会談。杉山次官が「日韓合意に逆行することは建設的でない」との考えを示したのに対し、ブリンケン副長官は「合意が双方によって着実に履行されることを強く期待する」と語った。(2017/01/06-12:48)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600412&g=pol
日韓関係、また冷却化へ=少女像撤去の見通し立たず

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前での少女像設置を受け、日本政府が6日、長嶺安政駐韓大使の一時帰国など対抗措置を発表したことで、2015年12月の慰安婦問題をめぐる政府間合意を機に好転するかに見えた日韓関係が再び冷却するのは避けられない見通しとなった。

 韓国外務省は同日、「大変遺憾に思う」との論評を発表。「両国間で難しい問題があっても、政府間の信頼関係を基に、日韓関係を引き続き発展させていかなければならない」と強調した。
 ただ、釜山の総領事館前の少女像をめぐっては、釜山市東区がいったん強制的に撤去したものの、市民からの激しい抗議を受けて、一転、設置を認めた経緯がある。このため、再び撤去するのは極めて困難で、見通しは立っていない。
 韓国外務省も論評の中で「難しい問題」があることは認めたものの、少女像問題への具体的な対応には触れなかった。
 慰安婦合意を主導した朴槿恵大統領は、国会の弾劾訴追案可決で職務停止に追い込まれている。野党は慰安婦合意の履行中断や再協議を求めており、日本の対抗措置に強く反発するのは必至だ。(2017/01/06-12:55)

1052名無しさん:2017/01/08(日) 21:24:30
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600406&g=pol
少女像設置は「非建設的」=安倍首相-米副大統領、着実な履行期待

 安倍晋三首相は6日、バイデン米副大統領と電話で会談した。韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置されたことを念頭に、バイデン氏は「米政府として慰安婦問題に関する日韓合意を支持しており、着実に履行されることを強く期待する」と述べた。首相は「日韓両政府が責任を持って実施していくことが重要で、これに逆行することは建設的ではない」と応じた。

 首相は、日米同盟について「かつてないほど強固な希望の同盟だ」との認識を示した。昨年末の真珠湾訪問で「オバマ大統領とともに日米の和解の価値を世界に向けて発信できた」と強調した。(2017/01/06-13:18)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010600697&g=pol
韓国外相、日本大使に遺憾表明=少女像問題、次期政権に-関係停滞長期化も

 【ソウル時事】韓国南東部・釜山の日本総領事館前に少女像が設置された問題で、日本政府が長嶺安政大使の一時帰国など対抗措置を発表したことを受け、尹炳世外相は6日午後、長嶺大使を呼んで約1時間会談し、「遺憾の意」を表明した。尹外相と長嶺大使はまた、慰安婦問題に関する日韓合意を着実に履行していく立場を再確認した。

 日本政府は、少女像の設置が合意に反するだけでなく、外国公館の安全や権威維持をうたったウィーン条約にも違反しているとして、即時撤去を求めている。長嶺大使はこうした立場を伝えたとみられる。
 釜山の少女像に対し、韓国政府は撤去への具体的な措置を取れない状況だ。朴槿恵大統領の親友、崔順実被告の国政介入事件を受け、弾劾訴追案が可決され、職務停止となる中、ソウルの日本大使館前にある少女像を含め、問題解決は次期政権に持ち越される可能性が高い。勢いを増す野党は、合意の破棄を求めており、次期政権の対応次第では日韓関係が長期停滞局面に入る恐れもある。(2017/01/06-20:39)

1053名無しさん:2017/01/10(火) 22:18:36
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010700060&g=pol
日韓合意、着実に履行を=釜山の少女像設置で-岸田外相

 【パリ時事】フランスを訪問中の岸田文雄外相は6日夜(日本時間7日午前)、韓国・釜山で慰安婦を象徴する新たな少女像が設置された問題について、慰安婦問題に関する2015年12月の日韓合意の履行を韓国側に求めていく考えを示した。パリで開かれた日仏外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)終了後、記者団に語った。
 日本政府は6日、長嶺安政駐韓大使を近く一時帰国させるなどの対抗措置を発表している。これに関し、外相は「こうした措置は残念だが、少女像の問題も含め日韓合意の着実な履行を求めていきたい」と述べた。
 外相は韓国について「重要な隣国であるという認識は変わらない」と指摘。その上で「日韓合意は多くの国が高く評価した。しっかり履行することが両国の大きな責任だ」と語り、韓国政府に責任ある対応を取るよう促した。(2017/01/07-08:07)

1054名無しさん:2017/01/14(土) 00:13:43
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000004&g=pol
10億円、日本に返還を=慰安婦合意で韓国野党幹部

 【ソウル時事】韓国最大野党「共に民主党」の禹相虎院内代表は9日の幹部会議で、慰安婦問題をめぐる合意に基づき日本政府が韓国の財団に拠出した10億円について「早期に返すべきだ」と述べた。「予算が足りないなら、国会で予備費を計上すればいい」と指摘した。

 安倍晋三首相は、釜山の日本総領事館前の少女像設置に関し、「日本は10億円の拠出を既に行った。次は韓国がしっかり誠意を示していただかなければならない」と述べたが、禹氏は10億円の拠出と少女像設置問題の関連付けに強く反発した格好だ。
 禹氏は「韓国が日本を相手に詐欺を働いたというような話まで出ている」と述べ、「韓国外相は抗議もできない。このような屈辱があろうか」と批判した。(2017/01/10-00:05)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000377&g=pol
韓国首相「言動自制を」=慰安婦問題の応酬過熱で

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領の職務を代行する黄教安首相は10日の閣議で、慰安婦問題について「状況悪化をもたらす言動は自制することが望ましい」と述べ、日韓双方に冷静な議論を呼び掛けた。釜山の日本総領事館前に設置された慰安婦を象徴する少女像をめぐり、日韓双方で応酬が過熱していることが念頭にあるとみられる。

 黄首相は2015年末の日韓合意に基づく事業では、被害者の名誉と尊厳回復、心の傷の癒やしが重要だと指摘。「両政府だけでなく、すべての利害当事者が合意の趣旨と精神を尊重し、努力することが必要だ」と訴えた。(2017/01/10-11:51)

1055名無しさん:2017/01/14(土) 00:13:53
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011000254&g=pol
安倍首相、駐韓大使から報告聴取=釜山の少女像設置で協議

 安倍晋三首相は10日午前、首相官邸で、韓国・釜山の慰安婦問題を象徴する新たな少女像設置に抗議して一時帰国させた長嶺安政駐韓大使から報告を受けるとともに、今後の対応について協議した。

 これに先立ち、長嶺氏は菅義偉官房長官に報告した。菅氏はこの後の記者会見で、「(慰安婦問題に関する日韓)合意を責任を持って実施することが極めて重要だ。引き続き韓国政府に対し、合意の着実な実施を求めていく」と語った。
 日本政府は、ソウルの日本大使館前に続き、昨年末、釜山の日本総領事館前に少女像が設置されたことに「合意の精神に反する」と反発。長嶺氏らの一時帰国や通貨スワップ(交換)協議の中断など4項目の対抗措置を発表した。(2017/01/10-12:09)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010800156&g=pol
駐韓大使ら、9日に一時帰国=釜山の少女像設置で対抗措置

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前に昨年末、慰安婦を象徴する少女像が新たに設置されたことを受け、長嶺安政駐韓大使と森本康敬釜山総領事は9日、日本に一時帰国する。日本の外務省が8日、発表した。
 長嶺大使と森本総領事の一時帰国は、釜山の少女像設置をめぐる日本政府による対抗措置の一つ。長嶺大使は日本に数日間滞在する見通しで、安倍晋三首相や岸田文雄外相に状況を報告し、今後の対応を協議するとみられる。
 日本政府は2012年8月、李明博大統領(当時)による竹島(韓国名・独島)上陸に抗議するため、武藤正敏駐韓大使(当時)を一時帰国させたことがある。当時、武藤氏の日本滞在は12日間に及んだ。
 ソウルの日本大使館前に続き、釜山の総領事館前に少女像が設置されたことを受け、日本政府は6日、駐韓大使や総領事の一時帰国のほか、通貨スワップ(交換)協議の中断、日韓ハイレベル経済協議の延期などの対抗措置を発表していた。(2017/01/08-19:50)

1056名無しさん:2017/01/14(土) 16:43:33
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170110/k10010833991000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_076
少女像設置 一時帰国の駐韓大使ら首相に報告 対応を協議
1月10日 11時57分

安倍総理大臣は、10日午前、総理大臣官邸で、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として一時帰国させた韓国駐在の長嶺大使らから韓国国内の現状の報告を受け、今後の対応などを協議しました。
韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことをめぐり、政府は、おととしの日韓両政府の合意に反するなどとして撤去を求めていますが、改善が図られないため対抗措置として、9日、韓国に駐在する長嶺大使と森本プサン総領事を一時帰国させました。

長嶺大使らは10日午前、外務省で杉山事務次官らと協議したあと、総理大臣官邸で、安倍総理大臣や菅官房長官と面会しました。
安倍総理大臣は、長嶺大使らから、少女像設置後の韓国政府の対応などの報告を受け、少女像の撤去に向けた今後の対応などを協議しました。

面会後、長嶺大使は記者団に対し、「内容について申し上げることはできないが、総理、官房長官にしっかりとご報告したということだ」と述べました。
また、同席した外務省幹部は「総理から指示があったが、内容は言えない」と述べました。

政府は、慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓合意に反するなどとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて撤去を求めており、韓国政府の対応も見ながら長嶺大使らを韓国に戻す時期などを決めることにしています。
官房長官「合意の着実な実施求める」
菅官房長官は閣議のあとの記者会見で「おととしの日韓合意では、慰安婦問題が最終的で不可逆的に解決をされると両政府で確認している。韓国政府も『合意を着実に実行していくという立場には変わりはない』としており、引き続き韓国側に対してこの慰安婦像の問題も含め、合意の着実な実施を求めていきたい」と述べました。

また、菅官房長官は長嶺大使らが韓国に戻る時期について「現時点では決まっているわけではなく、今後の諸状況を総合的に判断して検討していきたい」と述べました。

一方、菅官房長官は、韓国との関係について「極めて重要な同じ価値観を共有する国だと理解している。特に北朝鮮問題が厳しい中にあって、日米韓はしっかり連携して対応していく必要がある」と述べました。
防衛相「誠実に合意履行を」
稲田防衛大臣は閣議の後の記者会見で、「歴史的な日韓合意に反する行動には強く抗議し撤去を求めていく。日韓双方が誠実に合意を履行していくことが求められている」と述べました。そのうえで、稲田大臣は、「わが国と韓国は、ともにアメリカの同盟国として、東アジアの平和と安定に共通の利益を有している。長年の懸案であった、GSOMIA=安全保障上の機密情報を共有・保護するための協定の発効は、地域の平和と安定に資するものであり、安全保障をめぐる協力を強化していきたい」と述べました。
自民 二階幹事長「それほど長くはならない」
自民党の二階幹事長は、記者会見で、「韓国は、日本と緊密な歴史がある国なので、丁寧に対応することが大事だ。大使の帰国は、どこの国でもそういう対応をとることがしばしばあるが、用が済めば再び戻ることが通例であり、今回もそんなに長く引っ張ることにはならないと思う」と述べました。

1057名無しさん:2017/01/14(土) 16:45:45
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170111/k10010834911000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_058
駐韓大使ら戻す時期 韓国政府の対応見極め判断
1月11日 5時29分

政府は慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置された問題で一時帰国させた長嶺大使らを韓国に戻す時期について、北朝鮮の動向を踏まえれば長引かせるのは得策ではないという意見もあり、撤去に向けた韓国政府の対応も見極めながら判断することにしています。
政府は韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国駐在の長嶺大使と森本プサン総領事を一時帰国させ、安倍総理大臣は10日、長嶺大使らから少女像設置後の韓国政府の対応などの報告を受けました。

長嶺大使らは外国訪問を終えて11日に帰国する岸田外務大臣とも面会する予定で、少女像の撤去に向け、今後の対処方針などを協議することにしています。

政府は「パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務停止など、韓国国内の状況にかかわらず、2国間の合意は引き継がれるべきだ」として、韓国政府に対し、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含めて撤去を求めていく考えです。

ただ、政府内には長嶺大使らを韓国に戻す時期について、北朝鮮がミサイルの発射実験を強行する可能性を示唆していることなどから、長引かせるのは得策ではないという意見もあり、政府は少女像の撤去に向けた韓国政府の対応も見極めながら判断することにしています。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170110/k10010833921000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_077
少女像設置 一時帰国の駐韓大使 官邸で首相と対応協議か
1月10日 11時22分
慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、一時帰国した韓国駐在の長嶺大使らは10日午前、総理大臣官邸に入り、安倍総理大臣に韓国国内の現状などを報告し、今後の対応を協議しているものと見られます。
韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことをめぐり、政府はおととしの日韓両政府の合意に反するなどとして撤去を求めていますが、改善が図られないため対抗措置として9日、韓国に駐在する長嶺大使と森本・プサン総領事を一時帰国させました。

長嶺大使らは10日午前、外務省で杉山事務次官らと協議したあと総理大臣官邸に入りました。長嶺大使らは安倍総理大臣に、少女像が設置されたあとの韓国政府の対応などの状況を報告したうえで、少女像の撤去に向けた今後の対応などを協議しているものと見られます。

政府は、少女像の設置について慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓合意などに反しているとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていて、今後の対処方針が決まり次第、長嶺大使らを韓国に戻し、韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。

1058名無しさん:2017/01/14(土) 16:47:05
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170109/k10010832921000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_086
駐韓国大使 きょう一時帰国 少女像設置への対抗措置
1月9日 4時18分

政府は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を、9日、一時帰国させて今後の対応を協議することにしていて、少女像の撤去に向け韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使と森本・プサン総領事を9日、一時帰国させることにしています。長嶺大使らは、チェコなどの訪問を終えて11日帰国する岸田外務大臣らと面会して、現状を報告したうえで、今後の対応を協議する予定です。

これに関連して、安倍総理大臣はNHKの番組で、「慰安婦問題の日韓合意は最終的かつ不可逆的な合意だとお互いに確認している。日本は誠実に義務を実行し10億円をすでに拠出している。次は韓国がしっかりと誠意を示していただかなければならない。それはたとえ政権が代わろうとも実行するのが国の信用の問題だ」と述べました。

政府は、少女像の設置について、日韓合意に反しているなどとして、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていく考えで、今後の対処方針が決まり次第、長嶺大使らを韓国に戻し、韓国政府への働きかけを強めていくことにしています。
外相 「合意内容の着実な実施求めたい」
岸田外務大臣は訪問先のチェコで記者会見し、「日韓合意で、慰安婦問題が最終的、不可逆的に解決されることが確認されたにもかかわらず、わが国の公館の前に少女像が新たに設置された事態は極めて遺憾だ」と述べました。

そのうえで、岸田大臣は「日韓合意は、世界の多くの国々が高く評価しており、日本も韓国も、合意の内容を履行する責任を持っている。日本は履行しており、引き続き韓国側に対し、少女像の問題も含め、合意内容の着実な実施を求めたい」と述べました。
韓国メディア 問題長期化との見方
長嶺大使の一時帰国など日本政府の一連の対抗措置について、韓国メディアは問題が長期化するとの見方を伝えています。

このうち、公共放送KBSは、8日午後9時のニュースの中で安倍総理大臣がNHKの日曜討論に出演し、プサンの日本総領事館の前にある少女像の撤去を求めていく考えを示したことなどを詳しく伝えました。

そして、「韓国外務省は、慰安婦問題をめぐる日韓両政府の合意を着実に履行する立場を示すなど原則的な対応を示していて、日本側との摩擦が大きくなることを避けている」として韓国政府の対応を擁護したうえで、「日韓関係は当分の間、冷え込むことが予想されるという分析が出ている」として、問題が長期化するとの見方を伝えています。

一方、通信社の連合ニュースは、安倍総理大臣が「次は韓国がしっかりと誠意を示していただかなければならない」と述べたことについて、「日本側は合意の核心部分である謝罪と反省を誠実な態度で示さずに慰安婦問題の解決だけを求めているという批判が少なくない」として、日本側の対応を批判的に伝えています。

少女像の問題について、韓国政府は「外国の公館の保護という観点から慎重に判断する必要がある」とする立場ですが、具体的な解決策は示しておらず、パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務が停止され、求心力が低下するなか、韓国政府が主体となって像を撤去すれば、世論の反発が強くなることを懸念しているものと見られます。

1059名無しさん:2017/01/14(土) 16:52:27
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170109/k10010833211000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_082
一時帰国の駐韓国大使 ソウルを出発
1月9日 12時37分

韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの対抗措置として、政府が一時帰国させることにした韓国に駐在する長嶺大使はソウルの空港で、「少女像の設置はきわめて遺憾だ」と述べて帰国後、今後の対応を協議する考えを示しました。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を9日、一時帰国させることを決めました。

長嶺大使は午前11時すぎソウルのキンポ空港で記者団に対し、「少女像が設置されたことはきわめて遺憾だ。これから日本に帰国し関係者の間で打ち合わせをすることにしている」と述べました。長嶺大使はこのあとソウルを出発し、日本に向かっています。
一方、長嶺大使とともに一時帰国することになった森本プサン総領事は、9日午前、日本に到着しました。

政府は慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府の合意に反しているとして少女像の撤去を求めています。

一方、韓国政府は日韓合意を着実に履行する立場ですが、パク・クネ(朴槿恵)大統領の職務停止で求心力が低下する中、撤去に踏み切れば世論の強い反発を招くとの懸念もあり、具体的な解決策を示していません。
東京のコリアンタウン「残念だ」
韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことへの対抗措置として、政府が韓国に駐在する大使を一時帰国させることについて、国内最大規模のコリアンタウンがある東京・新大久保周辺では「残念だ」という声が聞かれました。

新大久保の近くに長年住んでいるという80代の日本人の男性は「慰安婦の問題に関しては、おととし両国の間で合意したと思っていたのに残念だ。韓国では政府と国民で思いが食い違っているのではないか」と話していました。

新大久保周辺で韓国の料理や化粧品などを扱うおよそ130の店が加盟する新宿韓国商人連合会のシン・デーヨン(申大永)専務理事は「政府どうしで同じ話を何度も繰り返しているようで残念だし、きちんと信頼関係を築いて大人の対応を取ってほしい。コリアンタウンに大きな影響が出るかはわからないが、こんな時だからこそ、新大久保を活気づけて街を盛り上げていきたい」と話していました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170108/k10010832731000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_087
政府 少女像設置への対抗措置 駐韓国大使あす一時帰国へ
1月8日 18時39分

政府は、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使を、9日、一時帰国させると発表しました。
政府は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことに抗議し、当面の対抗措置として、韓国に駐在する長嶺大使らを一時帰国させることや、緊急時に通貨を融通し合う「通貨スワップ協定」の再開に向けた協議を中断することなどを決めました。

これを受けて、政府は8日夕方、長嶺大使と森本プサン総領事を、9日、一時帰国させると発表しました。このあと長嶺大使らは、チェコなどの訪問を終えて今月11日に帰国する岸田外務大臣と面会して現状を報告したうえで、今後の対応を協議することにしています。

政府は、少女像の設置が慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することを確認した日韓両政府の合意に反しているとして、韓国側に対し早急に撤去するよう求めていて、韓国政府の対応が焦点となっています。
韓国では問題長期化の見方も
韓国外務省のチョ・ジュンヒョク報道官は公共放送KBSの電話インタビューに対し、「経済や交流に影響を及ぼしてはならず、日本側は積極的に韓国側と問題を解決してほしい」と述べました。

少女像の問題について韓国政府は、「外国の公館の保護という観点から慎重に判断する必要がある」とする立場ですが、像を撤去すれば世論の強い反発を招くだけに具体的な解決策を示すことができない状況で、問題は長期化するという見方も出ています。
韓国メディアも、問題を早期に収束させるのは難しいという見通しを伝えており、このうちKBSは、「長嶺大使が帰国したあと、日韓関係は重要な局面を迎えることになる」としたうえで「少女像の設置に対して日本国内の世論は悪化しており、問題を早期に収束させるのは難しいだろう」と伝えています。

1060名無しさん:2017/01/14(土) 16:53:01
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170108/k10010832431000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_092
安倍首相 少女像の撤去求める考え示す
1月8日 11時37分

安倍総理大臣はNHKの「日曜討論」で、韓国プサン(釜山)の日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する少女像が設置されたことについて、韓国は慰安婦問題をめぐる日韓合意の義務を履行する必要があるとして、ソウルの日本大使館前の像も含め撤去を求めていく考えを示しました。
この中で、安倍総理大臣は、韓国プサンの日本総領事館の前に慰安婦問題を象徴する新たな少女像が設置されたことについて、「慰安婦問題の日韓合意は最終的かつ不可逆的な合意だとお互いに確認している。日本は誠実に義務を実行し10億円をすでに拠出している」と指摘しました。
そのうえで安倍総理大臣は、「次は韓国がしっかりと誠意を示して頂かなければならない。それはたとえ政権が代わろうとも実行するのが国の信用の問題だ」と述べ、ソウルの日本大使館の前に設置された少女像も含め撤去を求めていく考えを示しました。

また安倍総理大臣は、先の日ロ首脳会談で北方領土での共同経済活動の実施に向け検討を始めることで合意したことについて、「北方四島に住むロシア人の人々が理解を示さなければ北方領土は返ってこないという現実に向き合わなければならない」と述べました。
そのうえで安倍総理大臣は、「日本人とロシア人が四島で共同経済活動をする。これは間違いなく平和条約の締結に向けて大きなプラスになる。四島の帰属を解決して平和条約を結ぶ道筋の中に共同経済活動がある」と述べました。

1061名無しさん:2017/01/14(土) 17:43:31
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011100787&g=pol
岸田外相、長嶺大使らと協議=韓国帰任「総合的に判断」-少女像問題

 岸田文雄外相は11日午後、韓国・釜山の慰安婦少女像設置への対抗措置として一時帰国している長嶺安政駐韓大使、森本康敬釜山総領事と外務省で会い、報告を受けた。少女像撤去の見通しが立たない中、今後の韓国当局への要求事項などをめぐり協議したとみられる。
 岸田氏はこの後、安倍晋三首相を首相官邸に訪ね、自身の欧州訪問について報告。併せて少女像問題への対応や長嶺大使らの帰任時期をめぐっても意見調整したもようだ。岸田氏は大使らの帰任に関し、記者団に「総合的に判断する」との考えを示した。(2017/01/11-21:07)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010900108&g=pol
駐韓大使が一時帰国=10日にも安倍首相と協議-釜山・少女像に対抗措置

 韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が新たに設置されたことへの対抗措置として、長嶺安政駐韓大使と森本康敬釜山総領事が9日、それぞれ一時帰国した。長嶺氏らの日本滞在は数日間となる見通し。10日にも安倍晋三首相や菅義偉官房長官に状況を報告し、今後の対応を協議する。日本としては、少女像撤去を含め、慰安婦問題に関する2015年末の日韓合意の着実な履行を韓国側に求めていく方針だ。
 長嶺氏は9日午後、羽田空港着の民間機で帰国。これに先立ち、ソウルの金浦空港で記者団に「少女像設立は極めて遺憾だ」と改めて強調した。森本氏は同日午前に成田空港に到着した。両氏は外務省で金杉憲治アジア大洋州局長と会い、首相への報告を前にすり合わせを行った。
 少女像はソウルの日本大使館前に続き、釜山の総領事館前に昨年12月末に設置された。これを受け日本政府は今月6日、日韓合意の精神に反するとして、大使と総領事の一時帰国に加え、通貨スワップ(交換)協議の中断や日韓ハイレベル経済協議の延期などの対抗措置を発表した。
 駐韓大使の一時帰国は、12年8月の李明博大統領(当時)の竹島上陸への抗議で実施して以来。日韓合意に基づき元慰安婦支援のため10億円を拠出した日本としては、強力な対抗措置により韓国側の誠実な対応を引き出したい考えだ。
 しかし、朴槿恵大統領の職務停止で韓国の内政は混乱しており、少女像撤去などは見通せない状況だ。日本外務省幹部は「出口戦略は描けてない。韓国側の対応を見て考える」と語った。
 韓国内では日本の対抗措置に反発する声が出ており、柳一鎬副首相兼企画財政相は8日、与野党議員らに「外交問題が経済的な影響を与えるのではないか」と懸念を示した。(2017/01/09-18:23)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010900020&g=pol
駐韓大使、午後帰国=釜山・少女像設置に抗議

 【ソウル時事】韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置された対抗措置として一時帰国する長嶺安政駐韓大使は9日昼、ソウルの金浦空港を出発した。出発前、同空港で記者団に対して「少女像設立は極めて遺憾だ」と述べた。同日午後に羽田空港に到着する。森本康敬釜山総領事は9日午前、成田空港に到着した。
 長嶺大使は日本に数日間滞在する見通し。安倍晋三首相や岸田文雄外相らに韓国の状況を報告し、今後の対応を協議するとみられる。(2017/01/09-12:25)

1062名無しさん:2017/01/14(土) 18:26:07
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300422&g=pol
潘氏「10億円返すべきだ」=少女像撤去と関連なら-韓国

 【ソウル時事】韓国次期大統領選の有力候補とされる潘基文前国連事務総長が、慰安婦問題をめぐる日韓合意に基づき日本が拠出した10億円について「少女像撤去に関わるものならば、それは間違ったことだ」と指摘し、「そうならば返した方がよい。話にならない」と発言していたことが分かった。韓国メディアが13日、伝えた。

 韓国紙・朝鮮日報などによると、12日に帰国した潘氏は、帰国途中の機内で韓国記者団のインタビューに応じた。
 また、潘氏は安倍晋三首相と昨年末に電話で会談したことを明らかにした。安倍首相に対し、「慰安婦や歴史問題で公平に歩み寄り、未来志向で解決しなければならない」と話したという。(2017/01/13-12:19)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300588&g=pol
日韓関係「変わらず」46%=慰安婦問題で対立後-時事世論調査

 時事通信が6〜9日に行った世論調査で、今後の日韓関係の見通しについて尋ねたところ、「変わらない」と答えた人が46.9%で最も多く、半数近くを占めた。「今より悪くなる」は36.8%で、「今より良くなる」は4.4%にとどまった。11.9%が「分からない」と答えた。
 韓国・釜山の日本総領事館前に昨年末、市民団体が慰安婦を象徴する少女像を新たに設置。これを積極的に阻止しようとしなかった韓国政府への対抗措置として、日本政府は今月6日、長嶺安政駐韓大使らの一時帰国を発表した。(2017/01/13-15:08)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011300803&g=pol
少女像移転に「努力」=関係者協議に前向き-韓国外相

 【ソウル時事】韓国の尹炳世外相は13日、国会の外交統一委員会に出席し、釜山に設置された慰安婦を象徴する少女像の移転について「関係当事者と一緒に可能な解決策を見つけることができるよう努力していきたい」と述べ、関係者との移転協議に前向きな姿勢を示した。

 韓国政府はこれまで「適切な場所について知恵を絞ることを期待する」との表現にとどめていた。日本政府が対抗措置として駐韓大使を一時帰国させ、帰任時期が見通せない中、慰安婦をめぐる日韓合意を着実に履行する姿勢を示す狙いとみられる。
 ただ尹氏は、市民団体との協議は「特に進展があると言えない」と明かした。合意の無効を訴える市民団体が協議に応じる見込みも薄く、移転の先行きは依然不透明だ。(2017/01/13-19:09)

1063名無しさん:2017/01/21(土) 21:44:45
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011600697&g=pol
崔被告、慰安婦合意と無関係=在日学者聴取の結果-韓国

 【ソウル時事】韓国の朴槿恵大統領の親友、崔順実被告の国政介入事件などを調べている特別検察官チームは16日午後、慰安婦問題をめぐる2015年末の日韓合意に崔被告が関与した疑惑について、「確認した結果、崔被告とは関係ないと判断した」と明らかにした。
 特別検察官チームは14日、崔被告とともに日韓合意に影響力を行使した疑いがあるとして、日韓関係を専門とする在日韓国人学者を事情聴取していた。
 尹炳世外相は昨年12月、国会で「私が知る限り、難度の高い外交政策に(崔被告が)関与する可能性はない」と答えていた。(2017/01/16-19:10)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011800507&g=pol
広島市長、オバマ大統領に書簡=昨年の訪問「大きな希望」と謝意

 広島市の松井一実市長は18日の記者会見で、20日に退任するオバマ米大統領宛てに書簡を送ったことを明らかにした。この中で昨年5月の大統領の広島訪問について「被爆者の思いを受け止めてもらったことに市民は感銘を受け、被爆体験を原点に未来志向の重要性を強調したことに大きな希望を抱いた」と謝意を伝えた。
 書簡は昨年12月16日付。市長はまた、オバマ氏が退任後も「核兵器のない世界」実現に向けて尽力するとともに、都市間の連携を通じた核廃絶を目指す「平和首長会議」(会長・松井氏)と「バラク・オバマ財団」が連携を深めるよう求めた。
 同会議の事務局がある広島平和文化センターによると、同センターの小溝泰義理事長が12月20日、ケネディ駐日大使に面会した際に書簡を手渡した。大使は「広島の願いを大統領は真剣に受け止めるでしょう」と話したという。(2017/01/18-14:48)

1064名無しさん:2017/01/22(日) 23:34:05
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170119/k10010845281000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_036
一時帰国の駐韓大使ら 帰任は当面見送る方向に
1月19日 17時11分

安倍総理大臣は、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されたことを受けた韓国への対応をめぐって、岸田外務大臣と協議し、韓国側の対応を見極める必要があるとして、一時帰国させている韓国駐在の長嶺大使らを戻すのは、当面、見送る方向となりました。
安倍総理大臣は19日午前、総理大臣官邸で、慰安婦問題を象徴する少女像が新たに設置されて以降、関係が停滞している韓国への対応をめぐり、岸田外務大臣と協議しました。

その結果、韓国側の対応を見極める必要があるとして、一時帰国させている韓国駐在の長嶺大使らを戻すのは、当面、見送る方向となりました。

これに関連して、菅官房長官は午前の記者会見で、長嶺大使らを戻す時期について「諸般の状況を総合的に判断して時期は検討していく考えに変わりはない」と述べたほか、外務省幹部は「日本側が動くより、まずは韓国側が日韓合意に基づいて対応を示すべきだ」と話しています。

韓国国内では、島根県の竹島に新たに少女像を設置する動きもあり、政府は、こうした韓国側の動きも見ながら長嶺大使らを戻す時期を検討するものと見られます。
官房長官「帰任は諸般の状況で判断」
菅官房長官は午後の記者会見で、記者団が「慰安婦像が撤去されないかぎり、駐韓大使の帰任は考えられないのか」と質問したのに対し、「総合的に判断して検討していくという考えに変わりはない。諸般の状況などを見ながら判断していきたい」と述べました。

そのうえで、菅官房長官は「日韓合意で、慰安婦問題の最終的で不可逆的な解決を確認したにもかかわらず、在プサン総領事館前に慰安婦像が設置された事態は、日韓関係に好ましくない影響を与えるとともに、領事関係に関する国際的なウィーン条約に照らしても問題であり、極めて遺憾だ」と述べました。

そして、菅官房長官は「日韓それぞれ、一昨年の合意に基づいて責任を持って実施することが重要であり、韓国政府も合意を着実に実行していく立場に変わりはないと表明している。引き続き韓国側に対して、粘り強く、あらゆる機会をとらえて慰安婦像の問題を含め合意の着実な実施を強く求めていきたい」と述べました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170117/k10010842901000.html?utm_int=news-politics_contents_list-items_063
竹島に少女像設置の動き 官房長官「強く抗議 」
1月17日 18時06分

菅官房長官は、午後の記者会見で、島根県の竹島に慰安婦問題を象徴する少女像を新たに設置する動きが韓国内で出ていることについて、「受け入れられず、極めて遺憾だ」と述べたうえで、韓国側に対して直ちに強く抗議したことを明らかにしました。
この中で菅官房長官は、記者団が、韓国の議員団が慰安婦問題を象徴する少女像を島根県の竹島に新たに設置する動きが出ているとして政府の受け止めをただしたのに対し、「竹島の領有権に関するわが国の立場に照らしても受け入れられず、極めて遺憾だ。韓国側に対しては、報道を受け、直ちに強く抗議を行った」と述べました。

また菅官房長官は、プサン(釜山)の日本総領事館の前に少女像が設置されていることに関連して、「一昨年の日韓合意は、最終的、不可逆的に解決されることを確認している。韓国でも、『日韓合意を守ることも大事だ』とユン・ビョンセ(尹炳世)外相が発言しており、合意をお互いの国が守ることが大事だ」と述べました。
韓国外務省報道官「関連の動向を確認」
島根県の竹島に慰安婦問題を象徴する少女像を新たに設置する動きが韓国内で出ていることについて、韓国外務省のチョ・ジュンヒョク(趙俊赫)報道官は17日の記者会見で、「報道があるのは承知しているが、まずは関連の動向を確認したい」と述べました。

一方で、日本政府が改めて竹島が日本固有の領土だとする立場を示したことについて、「明らかに韓国固有の領土であり、日本政府はつまらない主張を直ちにやめるよう求める」と述べ、ソウルにある日本大使館の鈴木総括公使を呼んで抗議したことを明らかにしました。

1065名無しさん:2017/01/22(日) 23:53:41
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017011900604&g=pol
竹島設置「望ましくない」=慰安婦象徴の少女像-韓国政府

 【ソウル時事】韓国外務省報道官は19日の記者会見で、慰安婦を象徴する少女像を島根県・竹島に設置する動きに関し、「少女像に関連した事案を、性格が全く異なる独島(竹島)と関連付けることは望ましくない」と述べ、反対する立場を示した。

 報道官は「少女像は普遍的人権問題で、日本軍の慰安婦被害に関連している一方、独島は、わが国の領土主権に関わる事案であり、性格が全く違う」と指摘した。
 聯合ニュースによると、中部・京畿道の議会は、竹島での少女像設置を目指し、募金活動を開始。これに対し、韓国で竹島を「管轄」している慶尚北道の知事は「不適切だ」と反対している。(2017/01/19-16:25)

1066とはずがたり:2017/01/25(水) 19:03:16

「慰安婦本」著者に無罪=名誉毀損の刑事裁判―韓国
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20170125/Jiji_20170125X873.html
時事通信社 2017年1月25日 16時41分 (2017年1月25日 18時54分 更新)

 【ソウル時事】韓国の学術書「帝国の慰安婦」で「自発的な売春婦」といった描写により元慰安婦の名誉を傷つけたとして、名誉毀損(きそん)罪で在宅起訴された朴裕河・世宗大教授(59)の判決公判が25日午後、ソウル東部地裁で開かれ、無罪を言い渡した。
 検察側は「歴史的事実を意図的に歪曲(わいきょく)し、全く反省していない」などとして、懲役3年を求刑。これに対し、朴教授は「名誉を傷つける意図はなく、虚偽でもない」「公共の利益が目的だった」と無罪を主張していた。
 元慰安婦らは2014年6月に朴教授を告訴。検察は15年11月、在宅起訴した。

1067とはずがたり:2017/01/29(日) 16:33:11

ベルリン市長「この壁を造るのをやめなさい」
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20170128-567-OYT1T50095.html
13:21読売新聞

 【ベルリン=井口馨】ベルリンのミヒャエル・ミュラー市長(52)は27日、トランプ米大統領に対し、「孤立と排斥という誤った道」に進まないように警告し、メキシコ国境沿いに壁を建設する計画の撤回を強く求めた。

 独DPA通信などが伝えた。

 ベルリンは東西冷戦時代に「ベルリンの壁」で街が分断された経験がある。ミュラー氏は「ベルリンに住む人々は、有刺鉄線とコンクリートの壁による分断が引き起こす苦しみを最もよく知っている」と指摘した。

 1987年に当時のレーガン米大統領がベルリンで行った演説でソ連側に「この壁を壊しなさい」と迫ったエピソードにも言及し、「大統領、この壁を造るのをやめなさい」と諭した。

 ベルリンの壁は、西独への住民流出を防ぐため東独が61年に建設した。89年に東西の市民が取り壊し、撤去。冷戦終結の象徴となった。

1068とはずがたり:2017/01/31(火) 13:52:45
旅順攻囲戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6

しりとり歴史人物館
乃木希典
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/siritori/nogi.html

1069とはずがたり:2017/01/31(火) 19:10:41
<ナチス医学>20万人以上障害者が安楽死、調査へ
毎日新聞社 2017年1月31日 13時49分 (2017年1月31日 18時12分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20170131/Mainichi_20170131k0000e030250000c.html

 ◇ドイツの研究機関、「負の歴史」に向き合う

 ナチス政権下で20万人以上の障害者が強制的に安楽死させられた事件を巡り、ドイツを代表する研究機関・マックスプランク研究所が近く、犠牲者の生涯や脳などの人体標本の行方について、外部研究者による委員会を設けて実態調査を始めることが分かった。同研究所は犠牲者の人体標本を使って医学研究を進めた経緯があり、戦争犯罪に加担した「負の歴史」に向き合う取り組みだ。【千葉紀和】

 ナチス政権はホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の前に、「民族衛生」を名目に障害者をガス室などで殺害した。「T4作戦」と呼ばれ、殺された人々の脳などは、マックスプランク研究所の前身のカイザー・ウィルヘルム協会に送られ、医学研究に利用された。

 こうした標本の存在はかつて問題化し、同研究所は1990年に約10万点を国内の墓地に埋葬。ドイツ精神医学会は2010年に障害者安楽死に関与したことを認めて謝罪した。しかし、一昨年に安楽死の犠牲者とみられる組織標本が同研究所にまだ残っていることが判明。また、脳標本の一部は他機関の医学者らに研究材料として提供されたとみられ、標本の行方の全容は分かっていない。

 このため、米国やオーストリアの歴史家ら4人を中心に3年間で、同研究所に残る資料や散在した標本の状況を調査。非倫理的に集められた標本がどう取り扱われたかを探るほか、犠牲者の特定も試みるという。同研究所のハインツ・ベッスレ名誉教授は「犠牲者は忘れられるべきでなく、彼らの人生を再構築することで人間としての尊厳を回復したい」と話す。

 戦時中は日本の医学者も731部隊などに参加し、中国などで細菌や毒物を使う非倫理的な人体実験を試み、戦後にその成果や関連研究で医学論文を書いたことが判明している。「戦争と医の倫理」の検証を進める会世話人の吉中丈志・京都民医連中央病院院長は「日本も調査を進めるべきだ」と指摘する。

 ◇T4作戦

 優生思想に基づく独ナチス政権の障害者安楽死政策。知的障害者や精神障害者のほか、遺伝性の視覚障害者らの一部も対象となった。公式には1939?41年に実施され、犠牲者は約7万人だが、実際はその後も続き、少なくとも20万人が殺害されたとされる。名称は作戦本部があったベルリンのティーアガルテン通り4番地に由来する。

1070とはずがたり:2017/02/09(木) 09:54:30
あ,朝日新聞が中曽根を絶賛している(;´Д`)右傾化だっヽ(`Д´)ノw

安倍・トランプ会談、80年代にタイムスリップ?
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%AE%89%E5%80%8D%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E4%BC%9A%E8%AB%87%E3%80%81%EF%BC%98%EF%BC%90%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%EF%BC%9F/ar-AAmJi9b#page=2
朝日新聞デジタル
10 時間前

 10日に米ワシントンで行われる安倍晋三首相とトランプ大統領の首脳会談の最大のテーマは、「通商」になりそうだ。自動車を含む対日貿易赤字、為替操作問題……。たびたび日本を名指しで批判するトランプ氏。外務省幹部は「1980年代にタイムスリップしたようだ」と当惑する。

 その80年代は、現在より激しい貿易摩擦が日米間に横たわっていた。外務省が1月に公開した外交文書には、両国のやりとりの内幕を書き留めた約千ページの記録があった。当時、日本のかじ取りを担ったのは中曽根康弘首相。手書きの文面に宿る生々しいやりとりから、難局を切り抜けようと奮闘する中曽根氏の姿が浮かび上がった。

 米国人労働者が日本車をハンマーでたたき壊す映像を思い出す人もいるだろう。米国の貿易赤字の大部分を日本が占め、貿易摩擦問題は再選を目指す共和党のレーガン大統領への格好の批判材料となっていた。

 そのような情勢の中、首相に就任したばかりの中曽根氏は初めての日米首脳首脳会談に臨む。拡張政策をとるソ連に対抗するためにも、同盟国・米国との関係悪化は避けなければならない。

 公開された記録を読むと、会談では初めてとは思えない突っ込んだ議論を展開していた。米側が牛肉・オレンジの関税引き下げを迫ると、中曽根氏は「オレンジの皮は固い」と切り返した。代わりに、米側が望む防衛協力について踏み込んだ。結局、レーガン氏は通商問題は軽く触れただけで先鋭化させなかった。中曽根氏にとっては、狙い通りの会談だったと思う。

 良好な日米関係は、日中関係の発展にもつながったようだ。胡耀邦総書記との関係は「友」と呼び合う間柄になり、当時の最高権力者・鄧小平氏には「43世紀まで友好を続けよう」と、言わしめた。日米をテコに日中関係を強める――。

 文書を繰りながら感じたのは、中曽根外交に一貫した戦略性だ。その根幹となった「ロン・ヤス」関係について、識者の一人は「両者には大局観で一致する胆力があった」と指摘した。翻って現在。尖閣問題もあって日中関係は悪化し、トランプ氏の就任で日米関係も揺らいでいる。40年前の為政者たちは、会談に臨もうとする今の両首脳をどう見るのだろうか。(古賀大己)

     ◇

 経済部・古賀大己 1976年生まれ。首相官邸や外務省で経済政策や通商交渉を担当している。トランプ大統領の政策が、世界の通商秩序にどう影響するのか、注視している。

1071とはずがたり:2017/02/20(月) 12:14:42
ハルノートと書いてhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1399200577/813改めてwikiを読んで復習したが,太平洋戦争は多大な,余りに多大な貴い犠牲を出しながらも,日本に所謂戦後民主主義を確立する契機となったと評価せざる得ないし,戦没者は全て日本の民主改革の革命の英雄として靖国に(w),まあ千鳥ヶ淵に祀られて然るべきであるかと思うが,そもそも戦争が回避出来なかったのかと云う思いはなくもない。

で,戦争の原因に石油の確保があった訳で,ナチス・ドイツが振り返れば無謀とも思える独ソ戦に踏み切った原因の一つにバクー油田の確保があり(他方に思想的に優性民族のゲルマン人はスラブ人を奴隷として使っても良いと云う考えもあったようだ),日本の南方進出もアメリカに依存していた石油資源の確保と云ふ狙いがあった事も良く云はわれてゐる。

wikiのハルノートにはじり貧論って記述があって石油の自給は2年分だそうな。まんが日本の歴史かなんかでも2年分とあったけど,この2年分ってのはどういう積算根拠なんだ?
と思って検索かけてみた。ちゃんと誰かが答えてるもんだ♪
しかし当時はまああんま使わなかったから2年分も貯め込めてたんだな〜。今では2年分も備蓄するとか夢の又夢だw

太平洋戦争開始の時、日本の石油備蓄は1年〜1年半くらいだったはずです しかし...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320719753
nezubadonさん2008/11/1623:41:21

太平洋戦争開始の時、日本の石油備蓄は1年〜1年半くらいだったはずです
しかしその後4年も戦争続けていたとはどういうことでしょうか?
東南アジアからそんなに大量に石油を運んでいたとは考え難いんですが

ベストアンサーに選ばれた回答
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nmurasさん 編集あり2008/11/1719:37:23
当時の統計資料から、ごく大雑把に数字を引用すると、こんな感じになります。

開戦時点での国内備蓄: 800万キロリットル
開戦前の年間消費量予測: 500万キロリットル(現実には400万キロリットル程度で収まった or それしか使えなかった)

戦争中の全消費量: 1300万キロリットル
戦争中の国内生産量: 150万キロリットル
東南アジアからの輸入総量: 500万キロリットル

東南アジアに展開した軍や企業が現地で直接消費した分は入っていない数字ですが、まあ、こうなります。
終戦の年である1945年には輸入が途絶え、燃料備蓄の減少から消費量も極端に減っているので、これらの数字の大半は1942〜1944年の3年分だと考えた方が良いかもしれません。
「800万(事前備蓄)+150万(国内生産)+500万(輸入)-1300万(消費) = 150万(残り)」ですから、輸入の途絶えた1945年にはまともに活動できるだけの燃料が残っていない現実が判ると思います。

そして事前予測通りに年間500万キロリットルのペースで石油を消費すれば、3年もたずに石油供給が破綻したであろうことも判ります。
例えば、戦争中ずっと海軍の艦隊の動きが鈍い(戦艦や空母がなかなか出動しない)大きな理由は燃料を節約するためなのですが、そうやって燃料を節約したから、4年近くも戦い続けることができたわけです。

また南方からの石油輸入は、現地の生産量にはゆとりがあり、主にタンカーの不足によって日本本土への輸送が滞っています。

1072とはずがたり:2017/04/10(月) 14:17:47
近代教育と識字率: 日本の統治が近代教育を施し、識字率を上げた説
http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-literacy.html
 
日本が学校を建ててやってハングルをどうのこうの、という物言いが本当に成り立つのか、数字で検証してみます。

 まずは手っ取り早く、大日本帝国の栄えある朝鮮文明統治20年の成果を、帝国の正確無比な(たぶん、ね)統計で確かめてみましょう。
 下記に、1930年(昭和5年)の国勢調査結果から作成した識字率のグラフを示します。

(図略)

学齢期の10代ですら識字率が男性で半分いかず、女性に至っては1割台なかばです。
 併合後に日本帝国より賜ったとかいう近代教育が朝鮮人の識字率を劇的に上げたなら、こんな事起こる筈がありません。

 この時点で早くも、日本帝国は初等教育の普及を怠っていたことが露見されます。実際、朝鮮総督府は最後まで義務教育を施行しませんでした。

 更に、併合のかなり前から朝鮮・韓国自前で、16〜20%程度の識字率を確保し、漸次改善していた事をこのデータは強く示唆しています。

1073とはずがたり:2017/05/30(火) 21:16:55
ナチスもソ連に攻め込まなければもっと延命してたかと思うとぞっとするがその思想の中に崩壊の萌芽が仕込まれてたって訳か。
さて現代資本主義・グローバリゼーション・人権というイデオロギーセットはどうだろうか?

ナチスドイツはどうしてソ連の資源を目がけて行ったのでしょうか?南に行けば石油...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14100880204
efudetarou1さん2013/1/2522:08:24

ナチスドイツはどうしてソ連の資源を目がけて行ったのでしょうか?南に行けば石油資源は手に入ったんじゃないでしょうか?どっちにしてもやらねばやられてやんでしょうか?
そういえばアフリカにも侵攻してましたよね。石油資源なら中東かアフリカに行けばよかったんじゃないでしょうか?どうして見るからに強そうなソ連を相手にクマを起こすようなことをしたんでしょうか?ソ連へ侵攻さえなかったらまだドイツは戦えていたんじゃないでしょうか?

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kdkosfpさん 2013/1/2523:45:58
『我が闘争』を読めばわかります。
東方植民を行い、劣等民族のスラブ人を農奴としてドイツ人農民の大農園でこき使うのが目的です。
ヒトラーの戦争目的はロシアを植民地にするためで、フランスやイギリスと戦ったのは成り行き上の前哨戦にすぎません。
他の人も言っていますが、当時の主要産油地はアメリカ、バルカン半島、ソ連のコーカサス地方で、中東ではボチボチと油田が発見された頃でした。
ドイツ軍がアフリカに行ったのは、同盟国イタリアが植民地リビアからイギリスの植民地のエジプトに侵攻して返り討ちにあったから尻拭いに行っただけです。

1074とはずがたり:2017/06/01(木) 14:43:53

橋下徹氏 日韓慰安婦問題で提案「他国の事例を参考にして謝罪方法の基準をつくる」
http://news.livedoor.com/article/detail/13099516/
2017年5月23日 9時56分 トピックニュース

22日放送の「橋下×羽鳥の番組」(テレビ朝日系)で、橋下徹氏が日韓の従軍慰安婦問題をめぐって、日本の謝罪の方法を見直すべきと提案した。

番組では、従軍慰安婦問題をテーマに、橋本氏と東海大学教授の金慶珠(キム・キョンジュ)氏らを交えて激論が戦わされた。

橋下氏は、2015年の慰安婦問題日韓合意について、国会は批准しておらず「(法的効力は)まずないでしょう」と、断言した。そして、韓国の立場から日本の謝罪について「『謝り、謝罪が足りない』と思っているのでしょう」と、韓国側の心情を推察する。

その上で、橋下氏は「謝りのレベルは何で決めるのか」と問題提起し、その解決策として他国の事例を参考にして、謝罪方法の基準を設けなくては、韓国側は納得しないと力説したのだ。

また、橋下氏は米、英、仏、独における慰安婦問題の事後処理を引き合いにして、日本の謝罪対応の評価を仰ぎながら、韓国側の納得を得るしかないと打開策を語った。

しかし、これに金氏は異論を唱えた。金氏は、韓国は諸外国の事例や基準を求めているのではないと断じ「真心のこもった謝罪を求めてるの!」と反論しながら、安倍晋三総理大臣からの謝罪の重要性を強調していた。

1075とはずがたり:2017/06/10(土) 07:57:21
なぜ樺太放棄した? 面積だけでは測れない「樺太千島交換条約」の真意
https://thepage.jp/detail/20161129-00000009-wordleaf
2016.11.30 12:00

 終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。

 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。

もっと知りたい北方領土
日魯通好条約の20年後に行われた領土交換

樺太を放棄し、全千島列島の領有権を得た「樺太千島交換条約」(内閣府北方対策本部ホームページ参考)

 日ロ間で初めて法的に国境を決めた1855(安政元)年、「日魯通好条約(日露和親条約)」では、樺太を両国民混住の地とし、千島列島の択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境線を定め、択捉島以南を日本領、ウルップ島以北をロシア領と決めました。

 しかし、その20年後の1875(明治8)年、樺太はロシア領、代わりにウルップ島以南を含む全千島列島を日本領とする「樺太千島交換条約」を日ロ間で交わします。なぜ、このような領土の交換があったのでしょうか。

両国民混住の樺太 たびたび日ロの紛争の種に

樺太千島交換条約には全権公使として榎本武揚の名が記されている

 日魯通好条約の後、樺太は松前藩領から江戸幕府の直轄地に。その後、明治政府の成立に伴い、1869(明治2)年には太政官直属の開拓使所管となります。一方、両国民混住の地と決めたロシアは、クリミア戦争終結後、樺太開発に乗り出し、たびたび両国間の紛争が起こるようになりました。

 事態を受け、両国間で樺太の国境線を決めることは重要な問題でした。新政府には、樺太全島もしくは半分で境界線を引き、南半分を日本のものとするという意見と、遠隔地である樺太を放棄し、北海道開拓に注力する、という2つの意見がありましたが結局、樺太放棄論が優勢になりました。

国際法に長けていた全権公使・榎本武揚

樺太千島交換条約には千島列島の島としてウルップ島以北の18島名のみ書かれている

 交渉は1874(明治7)年から、ロシアのサンクトペテルブルクで行われました。日本から派遣された旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。榎本は新政府と旧幕府側の最後の戦いとなった箱館戦争(五稜郭の戦い)で破れ、投獄されますが、オランダ留学中から肌身離さず海洋法に関する「海律全書(海上国際条規)」を持つなど国際法に通じていたことから、助命され、明治政府の一員となりました。交渉時は日本初の海軍中将、駐ロ特命全権公使に任命され、約1年近い交渉の末に、ロシア外務大臣ゴルチャコフとの「樺太千島交換条約」締結にこぎつけます。

地政学上重要だった千島列島の領有

 新政府にとり、財政力でも防衛力でも広大な樺太を統括する力がなかったとはいえ、面積的に見れば7万6400平方キロメートルある樺太を放棄し、総面積1万数千平方キロメートルしかない千島列島との交換は割に合わないようにみえます。

 しかし、ロシアの海洋進出を警戒していた英国政府のアドバイスもあり、地政学上、オホーツク海と太平洋を分ける千島列島は海洋戦略上、重要な地点という認識を、明治政府が持っていたとみられます。また千島列島は南北に約1200キロの長さがあり、水産業にとっては大きな意味を持ちました。

 また、「樺太千島交換条約」の文面をみると、日本に譲渡されるウルップ島以北の18島の名称はありますが、択捉・国後・色丹・歯舞の北方四島は含まれていません。既に先の「日魯通好条約」で択捉島以南が日本領であるということが両国間で明確に認識されていたようです。

1076荷主研究者:2017/07/02(日) 11:35:58

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201706/CK2017061702000147.html
2017年6月17日 東京新聞
陸軍板橋火薬製造所跡 近代産業遺産「高い価値」

現存する国内最古の射撃場跡。燃焼実験室(奥の建物)から弾道管が延びる=板橋区で

 16日に国の文化審議会が史跡に指定するよう答申した陸軍板橋火薬製造所跡(板橋区加賀1)には、現存する国内最古の火薬研究所と射撃場の跡があり、近代の産業遺産として価値が認められた。区は製造所跡を、史跡公園として整備。東京五輪・パラリンピックがある2020年に一部オープンし、23年に全面開業する。 (増井のぞみ)

 特に貴重とされる射撃場は一八七七(明治十)年にできた。小銃などの弾の速さを計測する弾道管が火薬の燃焼実験室から延び、五十メートルあったうち三十メートルが今も残る。現在は区立加賀公園として使われている場所の築山には、射撃場から弾を撃ち込んだレンガ積みの標的がある。

 また、敷地の一部は戦後の一時期、理化学研究所(理研)板橋分所として使われた。共にノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や朝永(ともなが)振一郎が研究室を構えた、一部レンガ造りの物理試験室が建つ。

 史跡公園は面積約一万三千平方メートル。区は本年度中に、跡地を所有者から購入。二〇二〇年、旧理研分所に湯川や朝永の研究室を再現し、区の産業史を学べる博物館を開館する。二三年には射撃場を復元するなどする。

レンガの壁が残る旧理化学研究所板橋分所の物理試験室

 いたばし観光ボランティアの辺見美代治さん(72)は「地元の小学生の郷土学習にも役立てられる」と期待する。区教育委員会の吉田政博学芸員は「火薬製造所跡は軍事研究の先駆けとなった場所で、欧米の最先端の技術を導入した日本の近代工業発祥の地。東京五輪に向け、国内外から多くの人が訪れる場所にしたい」と意気込んだ。

<陸軍板橋火薬製造所跡> 明治政府が国内で初めて建設した火薬工場。加賀藩前田家下屋敷跡に1876年に開所し、1945年8月の終戦まで稼働した。明治から昭和にかけての火薬の研究、実験、製造、貯蔵など一連の工程を示す遺構がそろっている。1903年に設けられた火薬研究所は日本初の近代的な理工学系研究所とされる。

1077とはずがたり:2017/07/12(水) 01:11:44
金正恩氏斬首後の「不統一国家」 度を超す自己主張+激高しやすい民族性+偏狭な民族&共産主義者が入り乱れ…
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/170508/wor17050810120016-n1.html
2017.5.8 10:12
【野口裕之の軍事情勢】

 韓国の新政権発足に伴い、米トランプ政権にはぜひ、大東亜戦争(1941〜45年)後の朝鮮半島情勢を学習してほしい。朝鮮人が国家体制にかかわらず、いかに統治能力を欠く致命的欠陥を持っているかを知ることは、朝鮮労働党の金正恩委員長が主導する北朝鮮を排除して誕生する?「新国家」との付き合い方や間合いの取り方に資するためだ。

 折しも、…CIA(米中央情報局)のマイク・ポンペオ長官が4月末、韓国入りした。韓国大統領選挙後の米韓関係や金正恩政権崩壊後の国体や半島情勢などについて、韓国の情報機関・国家情報院の李炳浩院長らと意見交換したもようだ。

 ■強弁だけの「抗日戦」

 大日本帝国は1945年8月15日、大東亜戦争敗戦を国民に知らせた。無政府状態を憂うわが国の朝鮮総督府は《朝鮮建国準備委員会》設置を比較的冷静・公平に対処できる朝鮮人指導者に要請した。ソ連軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行…が想定され、朝鮮人釈放や治安維持への協力を取り付ける意図もあった。

 だが、自治組織に過ぎぬ朝鮮建国準備委員会は1945年9月6日《朝鮮人民共和国》を樹立し“独立”を宣言してしまう。

 一連の流れの中で、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将(元首相/1875〜1953年)や朝鮮軍管区司令官の上月良夫・陸軍中将(1886〜1971年)が総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を掲揚させる。

 しかし“独立宣言”直後、進駐してきた米軍は太極旗を降ろさせ、日章旗を再び掲揚させた。米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付け替えられた。なぜか-。

 米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認。自らの軍政に正当性を持たせた。朝鮮が日本と別国家ならば、米国が朝鮮を「解放」したことになり、解放後は統治を朝鮮に任せる過程を生む。これを嫌った米国は終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命した。治安も朝鮮軍管区や日本の官憲に担わせた。

 上陸後も、日本人官吏は相当期間米軍の軍政を支援、治安も軌道に乗るまで日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価していた背景もあった。反面、米国は当初、朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。結果、朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められた。なぜか-。

 統治能力欠落+度を超した自己主張+激高しやすい民族性+偏狭な民族主義者&共産主義者が入り乱れ=一致団結して建国に邁進するまとまりに欠けている…など、こと朝鮮人に関し米国の学習能力は高かった。

 実際1945年秋、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制したが効果は限られた。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争を繰り返し暗殺・テロが横行した。

 そもそも、自治組織がなぜか“独立宣言”(とは註:自治組織が独立宣言してもかまわんだろーが。)して出来上がった《朝鮮人民共和国》ですら中華民国に建てた韓国臨時政府と対立。2つの“政府”それぞれの内部でも抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も政治活動も全く認めなかったのに、この有り様であった。

 かくなる混乱では、38度線の北側に陣取るソ連軍に対する力の均衡維持はおぼつかない。米国の最重要課題はソ連の半島支配阻止で、南朝鮮独立は副次程度の認識だった。米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じ権力を行使した日本と同じ統治形態ではなく、韓国に直接軍政を敷いた正解を噛み締めた。

 ■日本の欠陥憲法よりひどい韓国の歪曲憲法

 さて、統一国家か南北分断国家か、あるいは民主国家か否かは別として、「新国家」樹立に伴い、新生政府は「史実の貼り替え」に着手。憲法改正、いや憲法粉飾で「見事な腕前」を発揮するに違いあるまい。

 韓国では憲法上、韓国が日本となった《日韓併合/1910〜45年》は存在せず、代わりに併合期の《3・1運動/1919年3月1日》を起点とする建国物語が記されている。

 筆者は3・1を反日暴動、韓国は「独立運動」と認識するが、たった2カ月で収束。米国の独立戦争(1775〜83年)のような長期・大規模戦争を思い描くのは誤り。日本国憲法は“不磨の大典”を気取り進化を放棄しているが、韓国憲法は研磨し過ぎでバーチャル世界に踏み込んだ。生い立ちのいかがわしさ故に出来の悪い日本の欠陥憲法の方が、まだマシか…。

 韓国憲法前文にはこうある。

 《悠久の歴史と伝統に輝くわが大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国(韓国)臨時政府の法統…を継承》

1078とはずがたり:2017/07/12(水) 01:14:30
>>1077-1078
 朝鮮人が日韓併合期の3・1運動に際し独立を宣言した点は史実。ただ、憲法が宣言を捉え、建国をうたうのは無理スジだ。このシナリオだと、韓国は大韓帝国の正統後継国家で、日韓併合は史上存在しなくなる。《大韓帝国→大日本帝国→米国軍政→韓国》との正史ではなく《大韓帝国→日本の植民地→韓国臨時政府→韓国》との虚構だ。日韓併合は国際法上合法なのだが(とは註:歴史修正主義者なら欧米列強の植民地侵掠の正当化も修正しろよなあ)、韓国は朝鮮も大韓帝国も世界地図から消えた哀史を正視できないでいる。

 3・1運動は2カ月で終わった上、参加者は多いが逮捕→服役者は少なく、量刑も軽かった。何よりも初代大統領・李承晩(1875〜1965年)が大東亜戦争後の1948年に行った独立宣言の正当性まで問われかねず、運動に建国の起点を見いだすのは難しい(諸説アリ)。

 確かに韓国臨時政府は1919年、中華民国・上海で結成され、その後、各地を転々とした。ところが、適性を疑われ連合・枢軸国双方が国際承認を拒んだ。

 現に、「韓国臨時政府主席」の金九(1876〜1949年)は戦後、個人資格で“帰国”。自伝で憂いた。

 《心配だったのは(大東亜)戦争で何の役割も果たしていないため、将来の国際関係において、発言権が弱くなること》

 ■一蹴された連合国資格と棚ぼた式の独立

 そう。近代に入り、日本と朝鮮は本格的に矛を交えておらぬ。まともな対日ゲリラ抗戦もゼロ(とは註:こいつ(野口某)は北朝鮮の淵源の抗日パルチザンはどう評価してるのかな?まともには活動してないという評価?)。韓国は「日帝を負かして独立した」のではない。先述したが、終戦3年後、半島で統一国家建設をたくらむソ連に対抗した対日戦勝国・米国が長期信託統治を断念。米国に独立を大きく前倒ししてもらった棚ぼた式だった。

 だのに、韓国の「連合国願望」は筋金入りだ。

 李承晩は長崎県・対馬の「返還」要求と抱き合わせで、領土も画定する「サンフランシスコ講和条約署名国の資格が有る」と1949年、米国に訴えた。戦勝国=連合国入りさせろ-とゴネたのだ。駐韓米大使は米政府に口添えした。ワケがある。韓国は在日朝鮮民族の連合国民扱い=賠償を求めるなど国際の法・常識を無視する数多の無理難題を吹っ掛けたが、日本は無論、米国もほぼ呑めぬ内容だった。米国は難題を押さえ込むべく、韓国の署名要求を預かり、条約草案で一旦は締結国リストに加えた。

 けれども、日韓は戦っていないと英国が異を唱え、朝鮮戦争(1950〜53年休戦)を共に戦っていた米国も英国にならう。米国は《連合国共同宣言》への署名(1942年)がないとも指摘したが、韓国は執拗に食い下がった。連合国共同宣言参加国は最終的に47カ国。全物的・人的資源を対枢軸国用戦力に充てる方針に同意していた。

 間の悪いことに、フィリピン独立準備政府や多くの亡命政府も参加していた上、連合国(United Nations)なる用語が共同宣言で正式採用された。交渉過程で韓国は、日本の講和条約締結を終始妨害し、島根県・竹島の韓国編入すら主張した。結局、韓国が得たのは在朝鮮半島の日本資産移管のみ。講和会議へのオブザーバー参加も拒絶された。

 日本だった朝鮮の人々は、欧州列強の植民地兵のごとく人間の盾にされもせず、日本軍将兵として戦った。朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人が志願兵募集に殺到した。1942年と43年の場合、募集各4000名/6000名にそれぞれ25万5000人と30万人超が受験。競争倍率63〜50倍が裏付ける朝鮮人の戦意に日本=朝鮮一体を確信する米国専門家もいた。朝鮮人の軍人・軍属は24万2000人以上。2万1000柱の朝鮮人英霊が靖国神社に祭られる。(とは註:英霊を崇めるならもっと朝鮮人リスペクトしやがれよなあ。)

 国際社会に連合国資格を一蹴されても、韓国は歴史の粉飾・捏造に耽った。韓国臨時政府は1940年、中華民国内で《韓国光復軍》を立ち上げる。韓国の教科書にも載るが、2013年の光復軍創立73周年、韓国メディアは光復軍について講釈した。

 《英軍と連合して1944年のインパール戦闘をはじめ、45年7月までミャンマー(ビルマ)各地で対日作戦を遂行した》

 実は、光復軍の動員計画は遅れ、創設1年目の兵力は300人。米CIAの前身で抵抗活動を支援するOSS(戦略諜報局)協力の下、朝鮮半島内で潜入破壊活動を考えたが、日本降伏が先になった。…

1079とはずがたり:2017/07/12(水) 01:14:52

韓国光復軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%85%89%E5%BE%A9%E8%BB%8D

韓国光復軍(かんこくこうふくぐん、英: Korean Liberation Army)は、1940年9月17日、中華民国の支援のもとに同国臨時首都重慶で創立された大韓民国臨時政府(通称:臨政)の軍事組織である。単に光復軍とも呼ぶ。
軍隊を称していたが、連合軍の参加は認められておらず、臨政が国家として承認されなかったので国軍でもない。参戦の計画はあったが、その前に終戦に至り、9名をインドに派遣した以外はほぼ戦闘に参加することもなく、連合軍によって解体を命じられた。

概要
大韓民国臨時政府を正式な交戦国・交戦団体に昇格させて連合国の一員とするという政治目標を持った組織であり、正式な軍隊[1]を“目指した”点で、他の抗日組織とは一線を画した。
重慶では、蒋介石を長とする国民党政府軍事委員会の傘下にあった。中国全域では中国共産党影響下の朝鮮人抗日組織の方が勢力が強かったが、「光線(光復戦線)」と「民線(民族戦線)」の統合が要求されて、直接の指揮下にない朝鮮人部隊も名目上は光復軍を名乗ることがあった。結果、国家主義者と共産主義者が混在することになって、日中戦争中も消えることがなかった中国大陸内における国共内戦の対立構造の中で不和が目立った。光復軍は朝鮮半島への潜入などいくつかの計画を温めていたが、1945年の日本のポツダム宣言受諾により、実戦にほとんど参加することなく終わった。
軍政期、冷戦対立が顕在化する中で、大韓民国臨時政府は正式な政府とは認められず、光復軍も民線(左派)が含まれていたことからすでに解体を命じられ、兵士と将校はばらばらに帰国するように指示された[2]。結局、大韓民国臨時政府および光復軍を朝鮮独立の礎となすという構想は実現せず、韓国陸軍の前身もアメリカ軍政時代にアメリカ軍政庁が結成した南朝鮮国防警備隊に譲ることになった。
皮肉にも、この組織は日本軍および満州国軍の朝鮮人将校(右派)を中心幹部としていた。さらに、最大の支援者であった中国国民党も、戦後の内戦で中国共産党に敗北して中国大陸から追われて台湾に逃れ、中国には中国共産党の中華人民共和国が成立した。臨時政府の幹部の中では、臨政初代大統領も務めた李承晩がアメリカでのロビー活動で得た人脈を活かして首班候補にまでなり、1948年8月15日に建国された大韓民国でも初代大統領に擁立された一方で、光復軍を構想から立ち上げた金九は、その李承晩との政争に敗れ、1949年に暗殺された。

詳細は「大韓民国臨時政府」、「李承晩」、「連合軍軍政期 (朝鮮史)」、および「大韓民国陸軍」を参照

1080とはずがたり:2017/08/06(日) 15:42:29
引き揚げ者多く住んだ「樺太団地」姿消す 札幌 年内に1棟に
https://news.goo.ne.jp/article/hokkaido/region/hokkaido-123939.html
08月05日 12:45北海道新聞

 戦後、サハリン(樺太)から引き揚げてきた人が多く住み、かつて「樺太団地」とも呼ばれた札幌市北区北24条周辺の市営住宅が、老朽化による取り壊しで姿を消しつつある。かつて23棟あった建物は現在3棟まで減り、年内には1棟のみとなる見通し。引き揚げ者の多くは別の土地に移ったり、亡くなったりして少なくなったが、元住民らは、まちの歴史を語る建物の最後を惜しんでいる。

 この地区の発展は、戦後間もない1948年ごろから建設された引き揚げ者住宅が原点だ。辺りは舗装路もない湿地で、住民たちはぬかるむ道を夏でもゴム長靴で歩いたという。49年には市内で戦後最初の町内会「北札幌振興会」を発足。「たすけあい金庫」をつくり、生活に困る会員に無利子無担保で金を貸し出すなど地域を支えた。

 引き揚げ者住宅は61年から順次建て替えられ、引き揚げ者以外も住むことができる市営住宅「幌北団地」となったが、継続して住む人も多く「樺太団地」と呼ぶ人もいた。主に鉄筋コンクリート造3階建てで、23棟に約400戸が入居。2006年になると樺太団地も老朽化に伴う取り壊しが始まり、住民は、付近に建て替えられた市営住宅か、他地域へ移転した。

1081とはずがたり:2017/08/14(月) 09:47:27
なんだ、寧ろ向いてたじゃねえか。

昭和天皇
「不向きな性格」死去直後、英大使が報告書
https://mainichi.jp/articles/20170720/k00/00e/040/228000c?inb=ys
毎日新聞2017年7月20日 10時32分(最終更新 7月20日 10時49分)

 若き日の昭和天皇は「性格的に天皇を務めるのに向いていなかった」。1989年1月7日の昭和天皇死去の約2週間後、英国のジョン・ホワイトヘッド駐日大使(当時、故人)がこうした内容の報告書を作成していたことが、20日に英公文書館が機密解除した公文書で分かった。

 報告書は1月23日付でサッチャー政権のハウ外相(同)宛て。天皇の来歴や太平洋戦争などへの関与、戦後に果たした役割を11ページにわたって記していた。

 ホワイトヘッド氏が「性格的に不向き」と述べたのは「(天皇の)青年期」の項目の冒頭。「明治維新の指導者の後継者たちはカリスマ性のある戦闘的な天皇を望んだ」ものの、即位前の昭和天皇は「内省的で、練兵場より科学実験室にいるほうが向いている」性格だったと描写。将来の軍最高司令官として軍事教育を受けたが「ほとんど熱意を示さなかったようだ」と述べた。

 ホワイトヘッド氏は報告書で、日中戦争や太平洋戦争に日本が突き進んでいった30〜40年代、天皇自身は穏健派としてこうした動きを食い止めようとしていたというのが研究者らの共通認識だとも指摘した。

 報告書では言及がないが、死去の数カ月前、英大衆紙が天皇を戦争指導者と位置付けて病状悪化を歓迎するような記事を掲載、日本外務省が抗議する騒動があり、ホワイトヘッド氏は記事のような見方があることに懸念を持っていたとみられる。

 ホワイトヘッド氏は55年に外務省に入り、86〜92年に大使を務めたのを含めて日本に4回駐在し、計17年間を過ごした。英国の日本研究者らでつくる日本協会の理事長も務め、2013年11月に81歳で死去した。(共同)

1082とはずがたり:2017/08/20(日) 22:28:39
インパール作戦も見入ってしまった。

NHKが731部隊の人体実験証言テープを公開し、安倍政権につながる重大な問題を指摘! ネトウヨが錯乱状態に リテラ 2017年8月16日 13時33分 (2017年8月20日 22時18分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20170816/Litera_3392.html

…今回、NHKは、1949年にソ連で開かれた軍事裁判「ハバロフスク裁判」の音声データを発掘。この裁判では731部隊の関係者も被告や証人となったが、そこで発せられた当事者たちの生々しい証言の数々を、テレビで放送したのだ。

「昭和18年の末だと記憶しています。ワクチンの効力検定をやるために、中国人それから満(州)人を約50名あまり人体実験に使用しました。砂糖水を作って砂糖水の中にチブス菌を入れて、そして、それを強制的に飲ませて、細菌に感染をさせて、そして、その人体実験によって亡くなった人は12から13名だと記憶しています」(731部隊隊衛生兵・古都良雄)

「ペスト蚤(ペストに感染させた蚤)の実験をする建物があります。その建物の中に、約4〜5名の囚人を入れまして、家の中にペスト蚤を散布させて、そうしてその後、その実験に使った囚人は全部ペストにかかったと言いました」(731部隊軍医・西俊英)

 さらに、731部隊では人体実験だけでなく、当時すでに国際条約で禁じられていた生物兵器の実践も行っていた。番組では、大量感染させる目的で集落に細菌を蒔いたとする裁判での証言音声も放送された。

「使われる細菌は、主として、ペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌であることが決定しました。ペスト菌は主として、ペスト蚤の形で使われました。その他のものはそのまま、水源とか井戸とか貯水池というようなところに散布されたのであります」
「あの当時、現地に中国人の捕虜収容所が2カ所ありました。その人員は約3000名と言われていました。その饅頭をつくりに参加しました。少し冷やしてから、それに注射器でもって、菌を注射しました」(731部隊第一部〔細菌研究〕部長・川島清)

●「人体実験はなかった」「NHKの捏造」とネトウヨがまたぞろトンデモ攻撃

 証言によれば、その後、細菌を注射した3000個の饅頭を収容所の中国人に食べさせたうえで解放。
"パラチフスに大量感染させる目的だったか"との問いに、「はい。自分はそのように聞きました」と答えている。

 生きた人間を生体実験に用い、さらに大量感染させるという極めて非人道的な戦争犯罪の実態。今回、NHKが初めて報じたハバロフスク裁判での証言音声は、これまでの研究を裏付ける貴重な新資料だ。

 ところが、放送後、ネトウヨたちがNHKに対して、またぞろ「人体実験はなかった」「NHKの捏造」なるトンデモ攻撃をがなりたて始めた。…

 過去の戦争犯罪を正視できず、条件反射的に「捏造」「反日」と騒ぎ立てる知性のなさは今に始まったことではないが、まさか、731部隊まで否定するとは......。

 ネトウヨたちは〈森村誠一が書いた「悪魔の飽食」によって事実がゆがめられた防疫部隊の話〉などと言って〈人体実験は捏造〉と吠えまくっているが、そもそも731部隊の話を書いてセンセーショナルな話題となった本『悪魔の飽食』が出たのは80年代初頭の話だ。現在では前述のとおり、常石敬一氏らの実証的な研究や関係者の証言及び手記等により、731部隊による人体実験の存在は事実と確定している。

 とりわけ人体実験の有無については、秦郁彦氏をはじめとする保守派の歴史学者でも異論を挟む者はもはや皆無だ。というか、だいたい『Nスペ』を見れば、番組が『悪魔の飽食』を下敷きにしていないのは誰にだってわかるだろう。まったく、お話にならない。

 しかし、これは逆にいうと、ネトウヨたちが錯乱し、こんな噴飯モノのいちゃもんしかつけられないくらい、今回の『Nスペ』の内容が実証的で決定的だったということでもある。しかも、同番組を評価すべき点は、裁判証言の音声データを放送したことだけではない。『Nスペ』は膨大な資料と丹念な取材から、731部隊を生み出した背景に、大学と研究者の全面的な協力があったことを浮かび上がらせた。

 そして、これは、現在の安倍政権が推し進める"軍学共同"政策につながる問題だった。…

1083とはずがたり:2017/08/23(水) 18:21:01
中韓は日本のせいで植民地になったから植民地に侵掠した他の東南アジア諸国とは逆だよなあ。。台湾は中国が侵略者であったという事か。

台湾やミャンマーも侵略されたのに・・・なぜ中国と違って「日本を恨まないのか」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170823/Searchina_20170823034.html
サーチナ 2017年8月23日 11時42分 (2017年8月23日 18時05分 更新)

 中国で根強い反日感情が存在することは日本でも広く知られている。だが、歴史問題を理由とした反日感情が存在する国は中国と韓国くらいであり、過去に日本の統治を受けた台湾や東南アジア諸国には根強い反日感情が存在するという話は聞かない。

 中国メディアの今日頭条はこのほど、東南アジア諸国も第2次世界大戦中に日本によって侵略されたというのに、「なぜ日本を恨まないのか」と疑問を投げかける記事を掲載した。

 記事は、アジアの近代化の歴史は、西洋の侵略者への対応の歴史であったとし、第2次世界大戦までに独立を維持できたのは日本とタイと中国だけだったと指摘。そのほかの国は西洋の列強に植民地にされていたと伝え、なかでも日本はもっとも近代化に成功した国であり、その日本が西洋の列強によるアジア侵略に危機感を抱いたのもごく自然な流れだったとした。

 続けて、「日本の軍国主義者が中国を侵略したことを弁護するわけではない」とする一方、第2次世界大戦で、日本の多くのエリート達が植民地化されたアジア諸国の解放を目指していたのも事実であるとし、戦争が、西洋諸国とアジア人による戦いだったという側面は否定できないとした。

 さらに、ミャンマーのヤンゴン大学の教授がかつて「東南アジアの植民地政権は日本によって打ち破られ、日本は東南アジア諸国の人びとに民族独立の鼓動を与えた」と考察していることを伝え、日本人のなかには、「第2次世界大戦の終結によって、西洋の白人はアジアの植民統治を維持できなくなり、アジア諸国は解放されたのだ」と考える人がいると指摘した。

 中国人の立場からは「賛同できない」としながらも、こういった考え方は東南アジア諸国では比較的認知された考え方であり、こうした「歪んだ考え方」があるから「東南アジア諸国は日本を恨まないのではないか」と主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

1084とはずがたり:2017/08/24(木) 15:25:06
小池も歴史を直視出来ないタイプなのか?

関東大震災朝鮮人犠牲者への追悼文取りやめ 小池知事
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/ASK8S3K4NK8SUTIL00P.html
12:45朝日新聞

 東京都の小池百合子知事が、9月1日に市民団体の日朝協会などが主催する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に、都知事名の追悼文を送らない方針を決めたことが分かった。都知事は例年、追悼文を出してきたが、小池氏は今春、見直しを示唆していた。主催者からは「突然の方針転換は納得できない」と非難する声が上がっている。

 追悼式は毎年、日朝協会や日中友好協会などが、都立横網町公園(東京都墨田区)で開いている。1923年の関東大震災時には「朝鮮人が暴動を起こした」といったデマが広がり、多数の朝鮮人や中国人が虐殺された。式典では、その犠牲になった人たちも追悼している。

 都や式典の主催団体によると、式典には例年、石原慎太郎元都知事らが知事名で追悼文を寄せてきた。小池氏も昨年、「多くの在日朝鮮人の方々が、言われのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、わが国の歴史の中でもまれに見る、誠に痛ましい出来事」などとする文を主催者に送っている。だが今年は、主催団体が5月に追悼文送付を要請したところ、担当する都建設局が今月、送付中止の方針を伝えたという。

1085とはずがたり:2017/08/26(土) 22:46:06
防衛・安全保障国家・民族
昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52568
「独白録」「実録」から聖断を再考する
栗原 俊雄

1086とはずがたり:2017/09/04(月) 22:43:52
濡れ衣「戦犯」の名誉守りたい-熊本県白菊会、英霊47柱を追悼 「真面目な人ほど罪着せられ犠牲に」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E6%BF%A1%E3%82%8C%E8%A1%A3%E3%80%8C%E6%88%A6%E7%8A%AF%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%AA%89%E5%AE%88%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%EF%BC%8D%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E7%99%BD%E8%8F%8A%E4%BC%9A%E3%80%81%E8%8B%B1%E9%9C%8A%EF%BC%94%EF%BC%97%E6%9F%B1%E3%82%92%E8%BF%BD%E6%82%BC-%E3%80%8C%E7%9C%9F%E9%9D%A2%E7%9B%AE%E3%81%AA%E4%BA%BA%E3%81%BB%E3%81%A9%E7%BD%AA%E7%9D%80%E3%81%9B%E3%82%89%E3%82%8C%E7%8A%A0%E7%89%B2%E3%81%AB%E3%80%8D/ar-AAregUG#page=2
産経新聞
15 時間前

 敗戦後、「戦犯」として戦勝国に裁かれ、処刑された熊本県出身の英霊47柱を追悼する慰霊祭が3日、立田霊園(熊本市中央区)の英霊慰霊碑前で営まれた。遺族8人や隊友会関係者ら約30人が参列し、鎮魂の祈りをささげた。

 「熊本県昭和殉難者慰霊祭」は、BC級戦犯として処刑された人々の遺族でつくる「熊本県白菊会」が主催した。同会は昭和33年に発足し、37年に立田山山上に慰霊碑を建立した。

 慰霊祭で、白菊会の寺岡節会長(64)は「戦後72年がたち、ようやくあの戦争の真実が暴かれ始めた。今こそ国民が真実を知り、自覚しなければならない。海外に眠る113万柱のご遺骨を迎えに行かなくては、日本の戦後は終わらない」と述べた。

 寺岡氏の祖父、中村鎮雄・陸軍大佐は戦時中、タイにあった捕虜収容所の所長を務めた。日本軍は泰緬(たいめん)鉄道(タイ-ミャンマー)の建設を進めたが、栄養失調や疫病で、従事した捕虜らが亡くなった。中村大佐は戦後、捕虜に対する虐待(ジュネーブ条約違反)を問われ、逮捕された。

 中村大佐はシンガポールに送られ、英軍の軍事法廷で、捕虜管理の責任者として死刑判決を受けた。中村大佐が捕虜に手を下した事実はなく、英軍捕虜が減刑を嘆願するほどだったという。

 だが、死刑は執行された。享年63。辞世の句は「敗戦の贄(にえ)と散りゆく 我(われ)はまた ただ立ち上がる国 祈るのみ」だった。

 寺岡氏は「祖父は国際法にのっとった行動をしていた。戦犯は濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)。その中で、覚悟をもって刑を受けた英霊には、感謝の気持ちでいっぱい」と話した。

 慰霊祭の斎主を務めた熊本県護国神社の坂本泰彦宮司も「真面目な人ほど、罪を着せられて犠牲になられた。英霊の名誉を守らなければ、浮かばれない」と述べた。

1087とはずがたり:2017/09/05(火) 19:31:38
どっかで書いたhttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/4642けど,国連軍の金看板が有りながら開城とソウル北部近郊を確保出来なかった事が朝鮮戦争休戦での大失敗だけえがこの2人が戦犯か。。

「北朝鮮」を存続させた2人のダメ指揮官
プレジデントオンライン 2017年9月3日 11時15分 (2017年9月4日 11時11分 更新)
http://www.excite.co.jp/News/economy_clm/20170903/President_22992.html

1950年に勃発した朝鮮戦争で、国連軍は一時北朝鮮を中朝国境まで追い詰めている。その後、中国の介入によって国連軍は押し戻され、現在の38度線に国境が引かれた。その結果、韓国と北朝鮮は現在も休戦状態にある。アメリカのマッカーサー、韓国の李承晩。2人の「ダメ指揮官」の“呪い”は、現在の朝鮮半島にも影を落としている――。

■闇に葬られたある事件
朝鮮戦争が勃発して間もない1950年7月11日、まだアメリカの占領下にあった日本で、忌まわしい事件が発生しました。福岡県小倉市(当時。現在は北九州市の一部)の城野基地に一時駐屯していた米陸軍第25歩兵師団第24歩兵連隊の数千名の兵士のうち、約200名(『福岡県警史 昭和前編』による)が夜間に武装して基地を脱走。周辺の民家に侵入し、略奪や婦女暴行を働いたのです。
当時朝鮮半島では、アメリカ軍が劣勢に追い込まれていました。事件を起こした兵士たちは、日をおかず危険な前線に送られる予定であり、死を覚悟していたとされます。脱走兵たちはほどなく米軍の手で鎮圧され、部隊に連れ戻されましたが、多数の女性が被害に会いました。当時の日本は占領下にあったため、ほとんど何の対応もできず、報道もされませんでした。被害の詳細はわからず、事件は闇に葬られたままです。ただ、『福岡県警史 昭和前編』には、42〜43歳の主婦が夫の目の前で兵士たちに集団暴行されたことが記されており、松本清張はこの夫婦をモデルに小説『黒地の絵』を書いています。
この部隊はその後、小倉から朝鮮半島に派遣されて激戦地を転戦し、大きな犠牲を出すことになります。

■マッカーサーとトルーマンの対立
朝鮮戦争で米韓側の指揮をとっていた連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、何の根拠もなく「中国の半島介入はない」と大見得を切っていました。「ない」という誤った前提で作戦が展開されたため、中国「義勇軍」の介入によってアメリカ軍をはじめとする国連軍は大打撃を受け、敗走しました。そして、再び、ソウルを奪われました。2カ月後、前線の指揮を任されたマシュー・リッジウェイ中将により、国連軍はソウルの再奪還に成功しますが、戦線は膠着(こうちゃく)します。
マッカーサーは自分の大失態をごまかすため、「中国東北部に原爆を落とせ」と主張します。もちろん、そんなことをすれば中国やソ連との全面戦争となるため、ハリー・トルーマン大統領らワシントン中枢は誰一人、賛同しません。
マッカーサーはトルーマン大統領が作戦の障害となっていると批判。トルーマンは激怒し、「上級機関の了承を得て、意見表明をするように」と指示しましたが、マッカーサーはこの指示を無視。「中国をたたきのめす」と勝手に声明を出し、中国との全面戦争を主張しています。
中国が介入したことで、トルーマン大統領は停戦の方向へかじを切ります。マッカーサーはこれを非難し、両者の確執はいっそう高まります。さらにマッカーサーは、とんでもない主張をはじめます。
中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に50個もの原爆を投下し、さらに中国国境に放射性コバルトを散布して、中国軍の侵入を防ごうというのです。
トルーマン大統領は温厚な調整型の政治家でしたが、そのトルーマンもマッカーサーには我慢がなりませんでした。「なぜ、ルーズヴェルト(前任の大統領)はあのうぬぼれ屋を登用したんだ?」と、トルーマンは言っています。
イギリスなどの同盟国も、マッカーサーの資質にはっきりと疑問を呈しています。トルーマンは国務長官ディーン・アティソン、国防長官ジョージ・マーシャルとも相談していますが、彼らもまた「マッカーサーはふさわしくない」と答えています。トルーマンはついにマッカーサーの解任を決意します。
1951年4月19日、マッカーサーはワシントンで退任演説を行い、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という有名な言葉を発しています。最後の最後まで、パフォーマンスづくしでした。

1088とはずがたり:2017/09/05(火) 19:31:55
>>1087-1088
■絶たれた大統領選への野望
マッカーサーは「自分は『中国の介入はない』と言ったことはない」と主張していました。しかし、ニューヨーク・タイムズ紙にトルーマンとマッカーサーの会議録が掲載され、マッカーサーが「中国の介入はない」と断言していることが明らかになります。これは政府のリークによるものでした。当初、マッカーサーはこの件に関し、名誉毀損(きそん)だとわめいていました。議会の公聴会で、民主党議員がこの件をマッカーサーに追及したところ、マッカーサーはまともに答えることができませんでした。
虚言癖が明らかになりながらも、マッカーサーは国民から絶大な人気を誇っていました。マッカーサーは翌年に控えていた大統領選に出馬するため、全国を遊説してまわります。最初は各地で熱狂的に迎えられましたが、聴衆は次第にマッカーサーの中身のない演説に飽き飽きしていきます。マッカーサーが話せば話す程、彼の人間性の浅さが露呈し、人々の支持は急速に失われていきます。
最終的に、共和党の大統領候補者に指名されたのは、マッカーサーの元部下のドワイト・アイゼンハワーでした。

■自軍の兵士を横領で餓死させた韓国軍幹部
さてこの間に、韓国では常識では考えられないような事件が起こっています。劣勢に追い込まれていた韓国軍は、新たに徴兵制による「国民防衛軍」を創設し、戦力の増強をはかりました。ところが、その兵士たちに届くはずの食料が横領され、なんと約9万人の兵士が餓死してしまいました。1951年1月に起きた「国民防衛軍事件」です。
国民防衛軍にかき集められた新兵たちには未成年や病人も多く含まれ、そのほとんどは銃の扱い方も分からないような状態でした。中国「義勇軍」と北朝鮮軍にソウルを奪い返されると、50万人の国民防衛軍はなすすべもなく、南の大邱や釜山へと後退しました。
その過程で、国民防衛軍のために用意された軍事物資や兵糧米などを、同軍の幹部たちが横流ししてしまったのです。極寒の中、徒歩で撤退していた国民防衛軍の兵士は食糧不足でバタバタと倒れ、文字通り「死の行進」となりました。…

この横領の背後には、国防長官の申性模(シン・ソンモ)ら、政府中枢からの指示があったことが明らかになっています。横領で得た利益の一部は、李承晩大統領の政治資金に回されたとされます。
これらのことは韓国メディアによって報じられ、焦った李承晩は国民防衛軍幹部数人を処刑し、申性模国防長官を解任しました。申性模以外にも、複数の軍幹部が関わっていたはずです。

■戦いを継続できる状況ではなかった
アメリカのマッカーサー、韓国の李承晩。連載でみてきたように、このコンビは米韓側に最悪の状況をもたらしていました。米韓側は、北朝鮮や中国とまともに戦争を続けられる状況ではなかったのです。こうした状況を踏まえ、トルーマン大統領は停戦を模索しはじめます。
1951年6月にソ連がこれに応じ、以後、休戦に向けた交渉が続きますが、難航しました。1952年の1年間は交渉が放棄されていた時期が多かったのですが、1953年3月、ソ連のヨシフ・スターリン書記長が死去すると交渉が動きはじめました。アメリカでは1月に、大統領がトルーマンからアイゼンハワーに交代しています。
1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれました。この休戦協定は「停戦の合意」に過ぎず、いまだに朝鮮戦争は正式に終わっていません。2人の「ダメ指揮官」の呪いは、現在まで続いているのです。
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宇山卓栄(うやま・たくえい)

1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。
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(著作家 宇山 卓栄 写真=時事通信フォト)

1089とはずがたり:2017/09/05(火) 19:39:50
マッカーサーはなぜ大統領選で落選したのですか? アイゼンハワーとかは当選し...
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13101197083
ID非公開さん2013/1/3113:45:53

マッカーサーはなぜ大統領選で落選したのですか?

アイゼンハワーとかは当選したのに

ベストアンサーに選ばれた回答
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kouyouchinbutaiさん 2013/2/213:07:14
大統領選には出ませんでした。マッカーサーは大統領職に興味を持った時期はありましたが、結局高齢の為(大統領になっていたら73歳の時だった)陸軍士官学校の後輩でマッカーサーが陸軍参謀総長そしてフィリピン軍総司令官の時の副官だったアイゼンハワーに譲りました。別にアイゼンハワーと大統領候補の座を争ったわけではなく、共和党のシニアの連中がアメリカでは英雄として崇拝されていたマッカーサーを押し立てて独走気味で大統領候補に推薦、その時点ではマッカーサー自身も余り乗り気ではなく結局尻すぼみで10歳若いアイゼンハワーに落ち着きました。

アメリカに於けるマッカーサーとアイゼンハワーの人気の差を気にする人もいる様ですが、マッカーサーは生粋の軍人。朝鮮戦争に関してトルーマン大統領と意見を異にして解任され14年ぶりにアメリカに帰った時は「アメリカン・シーザー」と呼ばれて各地で熱狂的な大歓迎を受けました。

あの有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という演説を議会で行ったのちワシントン市で凱旋パレードを行いましたが、ワシントン市建設以来最高の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送りました。そしてその翌日、ニューヨーク市のマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋のパレードの時の4倍、約700万人がマッカーサーが乗ったオープン・カーが通る沿道を埋め尽くしてマッカーサーを祝福したといいます。

(ニューヨーク市内のパレードで沿道に集まった市民とビルの窓からの紙テープの大歓迎を受けるマッカーサー元帥の車列)

1090とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:08
産経大好きなブロガーみたいなんでどうでも良い事をうだうだ書いてるけえが興味深い。
自衛だろうが侵掠だろうが無能な旧日本軍の醜態を忘れてはならんし,日本人が負け戦するとああなる事をキモに命じておかねばならんだらう。

マッカーサーは,事実上第三次世界大戦を煽動して解任されたのであり,言動に不信感をもたれこの後の大統領選に出られもしなかったのだ。
また極東軍事裁判の時点とこの時点での状況の変化も見逃せない。

極東軍事裁判の無謬性に固執しても日帝の無謬性に固執しても真実は明らかに出来ないのだよ┐('〜`;)┌

マッカーサーは52年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/ee73689ae1fa81b116f1ccfc8571d3a1
2015-12-26 08:57:03 | 日記

友人が、昨日の産経新聞の特集もとても良いよ、と言って、手渡してくれたのが、以下の本文である。
朝日や毎日を購読している世帯に育った人たちは、全く知らなかった事実である。
朝日や毎日の人間たちにとっては、正に不都合な真実だろう。

報道とは、簡単に言えば、事実を伝える事である。
その観点からも、今の産経新聞は、日本で最もまともな新聞社だと言えるだろう。

「日本は自衛の戦争だった」
「老兵は死なず。ただ消えゆくのみ。神が示すところに従い自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」 

1951年4月19日。米上下院合同会議で、連合国軍最高司令官(SCAP)として日本を占領統治した陸軍元帥のダグラス・マッカーサーは半時間の退任演説をこう締めくくった。 

後に第37代大統領となる共和党上院議員のリチャード・ニクソンは演説を聴き、その感激は自著「指導者とは」にこう記した。

「マッカーサーは古代神話の英雄のようだった。彼は力強く議場全体が魔術にしびれ、演説は何度も拍手で中断された。ある上院議員は『共和党員は感激でまぶたを濡らし、民主党員は恐怖でパンツを濡らした』と語った。

8日前の11日、マッカーサーは第33代米大統領、ハリー・トルーマンに全ての役職を解任され、帰国した。

マッカーサーは52年の大統領選に共和党から出馬し、民主党候補として再選を狙うであろうトルーマンを完膚なきまでにたたき潰す腹づもりだったのだ。

演説でも「私の朝鮮政策だけが勝利をもたらす。現政権の政策は長く終わりのない戦争を継続するだけだ」とトルーマンを批判した。

米国内のマッカーサー人気は絶大だった。

愛機」「バターン号」がサンフランシスコに到着した際は50万人以上が出迎え、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、ミルウォーキーの各地で行われたパレードには総勢数百万人が集まった。

逆に「英雄」を解任したトルーマンに世論は冷ややかで、マッカーサーの第二の人生は順風満帆に見えた。

マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが徂いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/74b5e2d639cfb444a3019d2a70f3f469
2015-12-26 09:00:47 | 日記

共和党の策謀

米上院軍事・外交合同委員会はマッカーサーを聴聞会に召喚した。
テーマは 「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」背景にはトルーマン政権に打撃を与えようという共和党の策謀がめった。

マッカーサーは快諾した。
大統領選の指名争いに有利だと考えたからだ。
狙い通り、世界中のメディアが聴聞会の動向に注目し、事前から大々的に報じた。

1091とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:31

5月3日の聴聞会初日。証言台に立ったマッカーサ-は質問に誠実に応じ、1950年6月に勃発した朝鮮戦争の経緯をよどみなく説明し続けた。

質問者の共和党上院議員、バーク・ヒッケンルーパーは「赤化中国を海と空から封鎖するという元帥の提案は米国が太平洋で日本を相手に勝利を収めた際の戦略と同じではないか」とただした。

マッカーサーの戦略の正当性を補強するのが徂いだったが、マッカーサーの回答は予想外だった。
「日本は4つの小さい島々に8千万人近い人口を抱えていたことを理解しなければならない」
「日本の労働力は潜在的に量と質の両面で最良だ。彼らは工場を建設し、労働力を得たが、原料を持っていなかった。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、スズがない、ゴムがない、他にもないものばかりだった。その全てがアジアの海域に存在していた」
「もし原料供給を断ち切られたら1000万〜1200万の失業者が日本で発生するだろう。それを彼らは恐れた。従って日本を戦争に駆り立てた動機は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」

会場がどよめいた。
証言通りならば、日本は侵略ではなく、自衛のために戦争したことになる。
これは「侵略国家・日本を打ち負かした正義の戦争」という先の大戦の前提を根底から覆すどころか、東京裁判(極東国際軍事裁判)まで正当性を失ってしまう。
もっと言えば、5年8ヵ月にわたり日本を占領統治し「民主化」と「非軍事化」を成し遂げたというマッカーサーの業績までも否定しかねない。

この発言は共和党の期待を裏切り、激しい怒りを買った。
マッカーサー人気はこの後急速にしぼみ、大統領の夢は潰えた。

軍人マッカーサー偽らざる思い なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/da0eecbe455cab65982bc16446224a08
2015-12-26 09:18:00 | 日記

なぜマッカーサーはこのような証言をしたのか。

日本の「自衛戦争」を認めた理由についてマッカーサーは回顧録でも触れていない。
だが、マッカーサーが朝鮮戦争でどのような戦略を描いたかをひもとくと答えが見えてくる。
マッカーサーは、朝鮮戦争を通じて北朝鮮の背後にいるソ連、中国(中華人民共和国)という共産主義国の脅威を痛感した。 朝鮮と台湾が共産主義国の手に落ちれば、日本も危うく、極東での米国の陣地は失われ、防衛線は米西海岸まで後退しかねない。
それを防ぐには朝鮮半島を死守するしかない。
この見解は国務省や国防総省にも根強くあった。

ところが、トルーマンは、北大西洋条約機構(NATO)加盟国が「中ソが徹底的に対立すれば、欧州はソ連の報復攻撃を受けかねない」と動揺したこともあり、北緯38度線付近で「痛み分け」にする策を練っていた。

これに対して、マッカーサーは中国を海と空で封じ込め、毛沢東率いる共産党政権を倒さねば、将来の米国の安全を脅かすと主張して譲らなかった。

これがトルーマンがマッカーサーを解任した理由だった。
マッカーサーの主張は、その後の歴史をたどっても説得力がある。

日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/28e0880dbbc7dc71d69a36e9eac68d86
2015-12-26 09:24:18 | 日記

ただ、朝鮮半島を死守しつつ、大陸の中ソと対峙するという戦略は、日本政府が独立を守るために日清戦争以来とってきた戦略と変わりない。

「過去100年に米国が太平洋地域で犯した最大の政治的過ちは共産勢力を中国で増大させたことだ。次の100年で代償を払わなければならないだろう」 マッカーサーはこうも語った。

マッカーサーは日本の占領統治と朝鮮戦争を通じて日本の地政学的な重要性に気づいたに違いない。

1092とはずがたり:2017/09/05(火) 19:51:45
>>1090-1092
交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/c8e5575de803db29381a64b72d62c287
2015-12-26 09:26:46 | 日記

他にもマッカーサーは重要な証言を残した。

民主党上院議員、ラッセル・ロングが「連合国軍総司令部(GHQ)は史上類を見ないほど成功したと指摘されている」とたたえたところ、マッカーサーは真っ向から否定した。
「そうした評価を私は受け入れない。勝利した国家が敗戦国を占領するという考え方がよい結果を生み出すことはない。いくつか例外があるだけだ」「交戦終了後は、懲罰的意味合いや、占領国の特定の人物に対する恨みを持ち込むべきではない」 

それならば日本の占領統治や東京裁判は一体何だったのかとなるが、これ以上の追及はなかった。

別の上院議員から広島、長崎の原爆被害を問われると「熟知している。数は両地域で異なるが、虐殺はどちらの地域でも残酷極まるものだった」と答えた。
原爆投下を指示したトルーマンを批判したかったようだが、原爆を「虐殺」と表現した意義は大きい。

このように3日間続いた聴聞会でのマッカーサー証言は日本人を喜ばせたが、ある発言で一転して激しい怒りと失望を招いた。

治世を称賛した。マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。
http://blog.goo.ne.jp/sunsetrubdown21_2010/e/2dfd30ddfe06699fcedea121ffad744f
2015-12-26 09:28:29 | 日記

「科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンが45歳だとすれば、ドイツ人も同程度に成熟していた。日本人はまだわれわれの45歳に対して12歳の少年のようである」。ただ、この発言の前後で「学びの段階に新しい思考様式を取り入れるのも柔軟だ。日本人は新しい思考に対して非常に弾力性に富み、受容力がある」とも述べている。

日本人は大戦で勇猛に戦い、米軍を震撼させながら、敗戦後は驚くほど従順でマッカーサーの治世を称賛した。 マッカーサーにはその姿が「12歳の少年」に映ったのではないか。

1952年7月の共和党大会で、かつての部下で欧州戦線の最高司令官を務めたドワイト・アイゼンハワーが指名され、53年に第34代大統領に就任した。

マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政言長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。ただ、欠点も見抜いていた。「マッカーサーの最大の過誤は政治的野心を公然と示し、軍事的声望を政治的資産に転じようとしたことだった…」

64年4月5日午後2時30分、マッカーサーはワシントン近郊のウォルター・リード陸軍病院で84年の生涯を閉じた。
元首相、吉田茂は産経新聞に「天皇制守った恩人」と題した追悼文を寄せた。
昭和天皇も米大統領宛てに弔電を打った。葬儀は8日に米議会議事堂で営まれ、吉田も参列した。

毀誉褒貶の激しい人生だった。
マッカーサーの評価は日本でもなお定まらない。

1093とはずがたり:2017/09/05(火) 20:26:58
>マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政言長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。>>1092
だそうだがアイゼンハワーは少なくとも後年はマッカーサーを評価してなかった様だし耄碌してまともな戦略を描けなくなった様だ。。

ダグラス・マッカーサー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC

退任

1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイントに自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ[注釈 13]」と述べ、有名になった。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークのマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは、清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサー・グッズを販売したが、飛ぶように売れた。住居としていたマンハッタンの高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」のスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した[212]。

5月3日から、マッカーサーにとって最後の公務となる、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙にトルーマンとマッカーサーによるトラック島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している[213]。この記事により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは削がれていた。

1094とはずがたり:2017/09/05(火) 20:28:35

公聴会が始まると、マッカーサーは「ソ連は朝鮮戦争に深く関与していない」「中共が朝鮮半島から追い出されるくらいの敗北はソ連に大した影響は与えない」「極東地域のソ連軍にアメリカ軍と戦うだけの実力はなく、核兵器も劣っている、従ってソ連と戦うのなら今の方がよい、時間と共にアメリカの優位性は失われていく」など、自身のソ連への評価と情勢判断を雄弁に証言したが、統合参謀本部と議員にはソ連が例えマッカーサーの分析通りであったとしても超大国ソ連を刺激する覚悟はなく、マッカーサーの大胆な提案が現実離れしているという考えが大勢を占めていた。ブラッドレーはマッカーサーの提案を「我々を誤った場所で、誤った時期に、誤った敵との誤った戦争に巻き込むことになったであろう」と切り捨てている[214]。
また、マッカーサーのソ連への過小評価を聞き、大戦前に日本を過小評価して敗北したマッカーサーの前の過ちを思い出す議員も多かった[215]。
しかし、雄弁に公聴会をリードしてきたマッカーサーも、民主党のブライアン・マクマーン上院議員からの、ニューヨーク・タイムズの記事に書かれた通り「あなたは中国は参戦しないと確信していたのではなかったのか?」との質問を受けると、これまでのように否定することもできず「私は中国の参戦はないと思っていた」と認めざるを得なくなった。この白状によりマッカーサーの立場は弱くなっていき、マクマーンがたたみかけるように「将軍はアメリカと西側連合軍が西ヨーロッパでソ連軍の攻撃に耐えることができるとお思いか?」と質問すると、マッカーサーは「私の責任地域(極東)以外のことに巻き込まないでほしい。グローバルな防衛に関する見解はここで証言すべきことではない」と答えたが、リンドン・B・ジョンソン上院議員からのその責任地域の「中国軍が鴨緑江以北に追いやられた場合、中国軍は再度国境線を突破し朝鮮半島に攻め込んではこないのか?」という質問に対しては、まともな返答を行うことができなかった。それまで専門家を自認し自説を雄弁に語っていた強気な姿勢は完全に失われ、政権側の民主党の容赦ない質問に一方的な守勢となっていった[216]。

マッカーサーへの質疑は3日間にわたり、トルーマン政権はマッカーサーに対し勝利を収めたが、これでトルーマンが責任追及から逃れられたわけではなく、鴨緑江流域での敗北はマッカーサーと同様にトルーマン政権をも破壊し、この後民主党は政権を失うこととなる[217]。しかし、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、大統領再選を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の不当な低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人と看做されるようになっている[218]。
この3日間にわたる質疑中に、今日でもよく日本で引用される「中国に対しての海空封鎖戦略」や「日本人は12歳」証言もなされている(#マッカーサーのアメリカ議会証言録を参照)。 この聴聞会の後は軍人として活動することはなく、事実上退役したが、アメリカ軍において元帥には引退の制度がないため、軍籍そのものは生涯維持された[220]。

1095とはずがたり:2017/09/05(火) 20:28:50
>>1093-1094
退任後

マッカーサーはその後、全国遊説の旅に出発した。テキサス州を皮切りに11州を廻ったが、いく先々で熱狂的な歓迎を受けた。マッカーサーは各地の演説で1952年の大統領選を見据えて、上院聴聞会では抑えていたトルーマンへの個人攻撃や高い連邦税の批判など、舌鋒鋭い政治的発言を繰り返したが、時が経つにつれ次第に聴衆は減少していった[201]。

1951年9月にサンフランシスコで日本国との平和条約が締結されたが、その式場にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーにとことん冷淡であり、フランクリン・ルーズヴェルトの元大統領顧問バーナード・バルークなどはトルーマン政権にマッカーサーにも式典への招待状を送るようにと強く進言していたが、ディーン・アチソン国務長官はそれを断っている。首席全権であった吉田茂が、マッカーサーと面談し平和条約についての感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省よりは「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。

その後も相変わらずマッカーサーの政権批判は続いたが、英雄マッカーサーの凱旋を当初熱狂的に歓迎していた全米の市民も、1952年に入る頃には熱気も冷め始めており、ジャクソンで行われた演説は反対の叫び声などで25回も演説が中断した、と『ニューヨーク・タイムズ』紙で報じられた。マッカーサーに対する共和党内の支持は広がらなかったが、大統領の座に並々ならぬ執着を見せ、同じく劣勢であった候補者ロバート・タフトと選挙協力の密約を行うなど最後の挽回を試み、7月のシカゴであった共和党大会の基調演説のチャンスを与えられたが、その演説は饒舌で演説上手なマッカーサーのものとは思えない酷いもので、演説に集中できない聴衆が途中から私語を交わし始め、最後は演説が聞き取れないほどまでになった。マッカーサーも敗北を悟るとひどく落胆したものの、即座にニューヨークに戻り、結局共和党の大統領候補には元部下のアイゼンハワーが選出された[222]。
大統領候補となったアイゼンハワーとマッカーサーは、共和党大会後の11月に6年ぶりに再会した。かつての上司の顔を立てる意味であったのか、アイゼンハワーからの会談の申し出であったが、マッカーサーはアイゼンハワーに自らが作成した14箇条の覚書を手渡した。その内容は、ヨシフ・スターリンと首脳会談を開き、「東西ドイツ及び南北朝鮮の統一」「アメリカとソ連の憲法に交戦権否定の条項を追加」などを提案し、スターリンが尻込みするようであれば北朝鮮で核兵器を使用せよ、などという、大胆だという以外は何の価値もない提案であった。その後、アイゼンハワーは大統領本選にも勝利して第34代大統領に就任したが、アイゼンハワーらホワイトハウスもペンタゴンもマッカーサーに意見を求めるようなことはなかった[223]。

1096とはずがたり:2017/09/05(火) 21:18:39
https://books.google.co.jp/books?id=e_MkDwAAQBAJ&pg=PP57&lpg=PP57&dq=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8&source=bl&ots=jh8gDmAi1_&sig=XTnzYboaTnue-Eu-LXzRZWACQkk&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwix9dDU-I3WAhUJTrwKHRU_ARE4ChDoAQhEMAg#v=onepage&q=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E9%81%B8&f=falseで一部中身を見れたが面白そうだ♪

嘘だらけの日米近現代史 (扶桑社新書) 新書 ? 2012/9/1
https://www.amazon.co.jp/%E5%98%98%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%91%E3%81%AE%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2-%E6%89%B6%E6%A1%91%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%80%89%E5%B1%B1-%E6%BA%80/dp/4594066623
倉山 満 (著)

1097とはずがたり:2017/09/05(火) 22:58:42

ウィリアム・ミッチェル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB

ウィリアム・ランドラム・ミッチェル(William Lendrum "Billy" Mitchell、1879年12月28日-1936年2月19日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。アメリカ空軍の父。

生涯
1879年12月28日フランスのニースで生まれる。ミルウォーキーで育ち18歳でウィスコンシン州歩兵志願兵の二等兵として入隊する。米国陸軍で最年少の23歳で大尉になった。この間に陸軍通信隊として、キューバ、1899年フィリピン革命、1901年アラスカで活動する。1913年最年少のワシントンの陸軍省部員となる。1916年陸軍通信隊の航空部門で飛行訓練を行う[1]。
1917年第一次世界大戦のアメリカ参戦が決定する。在仏米陸軍航空隊司令官としてミッチェルも参加。この戦争でミッチェルは敵地を飛行したアメリカ初の飛行将校となる。ミッチェルは遠征軍の航空将校としてアメリカ初の航空隊であるハット・イン・ザ・リング隊を組織する。また単独で偵察任務を行い、ドイツに対する奇襲成功に大きな貢献をした[1]。1918年9月サンミエール攻勢でミッチェルが完全な航空優勢の獲得を図り、ドイツ軍陣地の突出部を孤立分断するように集中攻撃した。その後も類似作戦が展開され兵力の集中使用の重要性を立証した[2]。
1917年に「イギリス諸島はいつか大量の空中攻撃に対して脆弱になる」と語った。1919年に「空挺部隊は壊滅的効果がある敵地の背後へ侵入できる」と語った。1920年に「ドイツの軍国主義が世界を脅かす」と語った。1925年に「日本は太平洋で戦争を引き起こす。はじめに晴れた日曜日の朝にハワイを叩くことでアメリカに攻撃する」と語った[1]。…

ミッチェルは空軍独立論者であり、戦艦無用論の提唱者であった。1921年7月13日〜21日、ミッチェルによって陸海軍協同で戦艦に対する大規模な爆撃実験を行なわれた。陸軍航空隊のマーチン爆撃機(MB-2)で大西洋岸に浮かべた実験艦に対艦爆撃を行い、ドイツの戦艦オストフリースランドを900キロ爆弾で撃沈した。実験では他に数隻の旧式戦艦、巡洋艦なども撃沈させている。ミッチェルはその後、アメリカ空軍の設立を各方面に説いてまわったが容れられず、ついには軍首脳の不興を買い、米陸軍航空隊副司令官の要職を追われてテキサス州サンアントニオに左遷され、その後も相変わらず、戦艦無用論をしつこく宣伝したため、ついに予備役に編入されたが、自説を曲げることはなかった[4]。彼は非常に先見的ではあったがその自説はかなり過激なもので、戦艦無用論どころか海軍無用論とも取れるほどの過激さを含んでいた。上記の実験でも、海軍としては停船中かつ大戦時の損傷を受けたままで、さらになんらのダメージコントロールを施さない戦艦は航空攻撃で沈んでも当たり前だという態度をとっていた。しかしそうしたミッチェルの常軌を逸した海軍嫌いが米軍上層部からの忌避を誘ったことは否めない。

1925年、悪天候によって飛行船シェナンドー (ZR-1)が墜落した事件で、ミッチェルは友人を失い、「勇敢な飛行士が安全を処置しない無知な提督に死へ送られた」「無能、犯罪にも等しい職務怠慢、国益に反する国防行政」と新聞に声明を発表して、陸海軍統帥部を激しく批判した。このためカルビン・クーリッジ大統領はこの反抗を軍法会議にかけた。判決は軍法96条により有罪となり、「階級、指揮権、職務の五年間停止、給与、手当の没収」という処分を受けた[1][5]。唯一、少年時代からの友人であるダグラス・マッカーサーだけがこの判決に反対した[1]。ミッチェルは1926年に除隊する。除隊時の階級は准将。


除隊後はバーモント州の生家へ戻る。 1930年「将来、子供たちは生活において航空機を世界中の防衛や輸送の最大の手段とみるようになるだろう」と語った[1]。
1936年2月19日死去[1]。
1946年、アメリカ政府はミッチェルの功績と先見の明を認め、少将に任命するとともに、議会名誉黄金勲章を授けた。

1098とはずがたり:2017/09/22(金) 12:44:45
ポツダム宣言仲介のスイス、「日本と断交」検討
https://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/world/20170922-567-OYT1T50017.html
09:14読売新聞

 1945年8月のポツダム宣言受諾の仲介という日本の終戦に大きな役割を果たしたスイスが、同年5月、日本と断交しようとしていたことが、スイスの外交文書から分かった。

 国文学研究資料館の加藤 聖文 きよふみ准教授がスイス連邦公文書館で確認した。断交が行われていた場合、スイスを通じてのポツダム宣言受諾ができず、終戦が遅れて日本の被害が拡大していた可能性もある。知られざる歴史の一面を語る貴重な史料だ。

 日米開戦直前の41年7月、米国は日本人の在米資産を凍結し、翌年には日本大使館員も国外退去となった。日本にとって中立国のスイスは外交の窓口で、対米関係では紛争当事国の利益を守る唯一の「利益代表国」だった。同宣言受諾までの米国とのやり取りは、スイスを通じて行われた。

1099とはずがたり:2017/09/26(火) 08:29:51

大阪市、慰安婦像設置の姉妹都市に抗議へ「関係解消も」
http://news.livedoor.com/article/detail/13662588/
2017年9月25日 21時29分 朝日新聞デジタル

 大阪市の吉村洋文市長は25日、姉妹都市の米サンフランシスコ市に建てられた旧日本軍の慰安婦像をめぐり、現地の市営公園に組み込まれれば「姉妹都市関係は解消する」と述べた。市役所で報道陣に語った。

 大阪市によると、像は今月22日にサンフランシスコ市の市営公園に隣接する土地に中国系米国人らの民間団体が建てた。同市は今後、像のある土地を取得して公園の一部にする方針。像の碑文に「数十万人の女性が性奴隷にされた」とあり、吉村氏は「日本政府の見解と違う。一方的な主張に基づく日本バッシング」と主張した。今月中にも抗議の文書を送るという。

 両市は1957年10月に姉妹都市になった。市民の語学交流や市長の相互訪問を続け、60周年を迎える来月にはサンフランシスコから市民の代表団が大阪市を訪問する予定だが、吉村氏は「サンフランシスコ市が市の意思として(慰安婦像を)受け入れるなら、笑顔で握手できる関係じゃない」と姉妹都市解消の可能性に言及した。

 サンフランシスコ市議会は2015年9月、慰安婦像の設置を支持する決議案を採択。橋下徹・前大阪市長と吉村氏はこれまで計5回、サンフランシスコ市に抗議の文書を送っている。(半田尚子)

1100とはずがたり:2017/10/27(金) 16:30:40
2代目国連総長は暗殺か…墜落死は「外部攻撃」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171026-00050135-yom-int
10/26(木) 19:24配信 読売新聞
 【ニューヨーク=橋本潤也】第2代国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏を乗せた航空機が1961年9月にアフリカで墜落したことを巡り、国連が設置した調査委員会の報告書が25日公表された。

 報告書は、墜落原因が「外部からの攻撃や脅威」だった可能性があると指摘し、断定は避けつつも、ハマーショルド氏が暗殺されたことを示唆する内容になっている。

 墜落当時、航空機にはボイスレコーダーなどがなく、飛行高度を見誤るなど、パイロットのミスやその他の原因による「事故」と結論づけられた。ところが近年、ミサイルによる撃墜の可能性を指摘する専門家の声などを受け、国連は潘基文(パンギムン)事務総長時代の2013年、事故の再調査を決めた。

1101荷主研究者:2017/10/27(金) 22:42:57

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20171009000108
2017年10月09日 21時00分 京都新聞
戦時中の京都「独仏」火花散らす 京大調査で判明

フランスの外交文書館で見つかった1930年代の関西日仏学館(奥)の写真。手前はドイツ文化研究所で、現在は京大の施設が立っている=アンスティチュ・フランセ関西提供

 戦前にフランス政府による語学学校として日本で初めて京都市内に設立された「関西日仏学館」(現アンスティチュ・フランセ関西)が第2次世界大戦に際し、隣接する「ドイツ文化研究所」と火花を散らしていた様子が、京都大人文科学研究所の調査で明らかになった。敵対する本国の緊張関係を反映し、ドイツ文化研が展覧会中止を要求する一方、フランス側も運営面で張り合おうとしていた。立木康介准教授は「表面上は良好な関係を保ちながら、水面下では独仏の文化宣伝活動が京都でも激しさを増していたことが分かる」と話す。

 調査は「アンスティチュ-」(左京区)が創立90周年を今月迎えるのに合わせ、3年前から行われた。資料の多くが戦時中に廃棄されたため、フランスの外交文書館が保管する事業報告書を分析した。

 調査によると、フランスがドイツの占領下に置かれていた41年1月、関西日仏学館で開かれた展覧会「医学の発展におけるフランスの貢献」に対し、ドイツ文化研が「今のフランスにふさわしくない」と当局に中止を求めたことが書かれていた。一方、開戦前の38年7月16日付で駐日フランス大使が本国の外務大臣に宛てた書簡では、ナチス党の元極東担当部長で知日派の人物がドイツ文化研の所長に就くことが報告され、関西日仏学館として「ライバル」への優位性を維持するために次期館長に適した人材を注文している。

 調査の成果は、25日にアンスティチュ・フランセ関西で始まる創立90年記念の展覧会で紹介する。28日には立木准教授ら研究者が歴史を振り返るシンポジウムも開く。いずれも入場無料。問い合わせは「アンスティチュ-」075(761)2105。

■関西日仏学館
 1927年、詩人でもあった駐日フランス大使ポール・クローデルの提唱で九条山(京都市山科区)に設立。36年に現在の左京区東大路通東一条上ルに移転。戦時中も講演会やコンサートを続けた。45年4月に軍需工場として接収され、教職員が投獄されたが、終戦後に建物が返還された。2012年に現名称に変更した。ドイツ文化研究所は戦後に西洋文化研究所に改組され、のちに京大人文研所属になった。

1102とはずがたり:2017/11/04(土) 18:09:24

徳川慶朝さん死去 67歳 写真家、将軍慶喜のひ孫
https://this.kiji.is/285236032426001505
2017/9/26 10:569/27 13:56updated

江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜の直系のひ孫に当たる徳川慶朝(とくがわ・よしとも)さんが25日午前5時12分、心筋梗塞のため、水戸市内の病院で死去した。67歳。自宅はひたちなか市金上。通夜や葬儀は親族のみで執り行う。後日、お別れ会を検討している。

静岡県生まれ。カメラマンや大学講師として活躍した。2007年にひたちなか市に自宅を建てて移り住んだ後は、茨城県の風景などをテーマにした写真展を開いた。同市内のコーヒー店と連携し、自身が焙煎した「徳川将軍珈琲」を販売するなど、コーヒー研究家としても知られた。

1103とはずがたり:2017/11/05(日) 08:20:06

<訃報>荒井信一さん91歳=戦争責任資料センター共同代表
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20171105k0000m040009000c.html
02:00毎日新聞

 荒井信一さん91歳(あらい・しんいち=日本の戦争責任資料センター共同代表、茨城大名誉教授、西洋史専攻)10月11日、胆管がんのため死去。葬儀は近親者で営んだ。後日お別れ会を開く予定。喪主は長男潤(じゅん)さん。

 著書に「戦争責任論」「空爆の歴史」「ゲルニカ物語」など。

1104とはずがたり:2017/11/14(火) 11:53:57
2017.9.28 11:30
「反日」の韓国 偽りの歴史教育で日本への見方ゆがんでいる 同じテーブルに着くのはやめていい 元閣僚が激白
http://www.sankei.com/politics/news/170928/plt1709280037-n1.html

 北朝鮮が「核・ミサイル開発」を強行するなか、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権の対応がおかしい。15日に米国領グアムに届くほどの弾道ミサイルを発射するまで、800万ドル(約8億8000万円)もの人道支援を検討していたうえ、隙あらば、事実無根の慰安婦や徴用工の問題を蒸し返そうとしているのだ。国家公安委員長や自民党総務会長などを歴任し、韓国要人に知己も多かった深谷隆司元通産相が激白した。(夕刊フジ)

 あの国には常識が通用しない。北朝鮮の「核・ミサイル」は韓国にも脅威のはずだ。それなのに、なぜ文政権は北朝鮮におもねるのか。あの政権の存在自体が、極東の不安定要因に思える。

 日韓間には、慰安婦や竹島、日本海呼称の問題などが横たわる。加えて最近、徴用工問題が再燃した。文氏が演説で「個人の請求権は消滅していない」と述べたためだ。

 もっとも、安倍晋三首相と8月25日に行った日韓首脳電話会談では、文氏は発言を一部修正したが、油断はできない。

 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時の2005年、韓国政府は徴用工問題について「1965年の日韓請求権協定で解決済み」と認め、韓国政府の責任として取り組むことを表明した。

 文氏は当時、盧氏の主席秘書官を務めており、その事実を知らないはずがない。

 そもそも、日本は65年当時、徴用工問題について「個人には直接補償したい」と韓国側に申し出た。ところが、韓国側がそれを断り、すべての賠償を受け取ることを主張した。結果、日本が韓国政府に支払った賠償金は5億ドルにのぼった。当時の日本の国家予算のほぼ2倍に相当する。

 この賠償金で韓国は「漢江の奇跡」を実現した。いわば日本のおかげで、韓国は近代化を成し遂げたといえるのだ。

 そうした歴史的事実を知っている世代が生きている間はまだ良かった。私が通産相をやっていたころは、親日派の友人がたくさんいたものだ。

 しかし、今では真実を知る韓国人は少なくなった。偽りの歴史教育のせいで、日本に対する見方が歪められている。

 「最終的かつ不可逆的に解決」とされた2015年12月の慰安婦問題に関する日韓合意も、日本は10億円を拠出したのに、韓国側の義務は果たされていない。それどころか、慰安婦像はバスの中にも設置されている。もう「狂気の沙汰」としか思えない。

 韓国では政権が代わるたび、「反日」が政治的安定の道具として使われてきた。その傾向は改まるようには見えない。

 そうした国と同じテーブルに着くのは、もうやめてもいいのではないか。日本や極東アジアの安全保障にも、資することは少ないだろう。(ジャーナリスト・安積明子)

1105とはずがたり:2018/01/24(水) 09:05:59
誰だ?近衛家ちゃうの?
>であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

今上天皇に血統の近い、知られざる「男系男子」の存在が!
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/12261605/?utm_source=yahoo&utm_medium=http&utm_campaign=link_back&ui_medium=http&ui_source=yahoo&ui_campaign=link_back&all=1
社会新潮45 2017年1月号掲載

 皇位継承者の不足は、かねてより問題視されてきた。悠仁さまお一人しか将来の候補がいない現状には、旧宮家の復帰、あるいは女系天皇といったことが話題になるが、

〈意外に議論されていないのが、男系でならどういった人たちがいるかということだ〉〈皇室に近い人々の全体像を明らかにしないまま、皇位継承についての議論をすると、得た結論も粗雑で「正統性」が薄いものになりかねない〉

 と説くのは、評論家で徳島文理大学教授の八幡和郎氏だ。「新潮45」1月号に寄せた「今上天皇に血統の近い知られざる『男系男子』たち」で、現在の皇室に近い人々の存在を明かしている。※〈〉は本文より引用、以下同

 ***

 八幡氏が試みるのは、皇室典範でも採用されている「サリカ法典式」で男系男子を長子優先で系図をたどって探す〈頭の体操〉である。

“今上天皇に近い血統”と聞いてまず思いつくのは、昭和22年に皇籍離脱された11宮家ではないだろうか。JOC竹田恒和会長の「竹田宮」など、男系男子での継承が今後も見込まれる旧宮家はあるが、そのルーツはいずれも伏見宮邦家親王であるという。

〈伏見宮家は、男系では南北朝時代の北朝崇光天皇の子である伏見宮栄仁親王に始まる。孫の彦仁親王が後花園天皇となって現皇室につながり、その弟の貞成親王の子孫が伏見宮家を継いだ。

 そして、幕末の邦家親王が子だくさんだったので、その子孫がこの11宮家となった〉

 だが意外にも〈男系ということでいえば、伏見宮家の御当主と今上陛下は36親等も離れている〉という。実はより今上陛下に近い血統が存在する。例えば「華園家」である。

■今上天皇の14親等
 “華園”は、明治の苗字義務付けで、浄土真宗興正寺の僧侶である本寂が「華園摂信」を名乗ったことに始まる。

 京都の西本願寺の南にある興正寺に養子に入った本寂は、文政6年から30年にわたって関白を務めた鷹司政通の次男にあたる。さらに政通の曾祖父は東山天皇の第6皇子の直仁親王であるといい、

〈政通の嫡男輔煕の系統は絶えたので、もっとも皇室に近いのは、政通の次男で浄土真宗興正寺の門跡になった本寂の子孫ということになる〉

 その子孫というのが、本寂の玄孫に当たり、現在の興正寺の門主である第31世本顕(華園真暢)。さらには、父親である前門主真準も健在で、皇族を除けばこの人物がもっとも今上天皇に近い(14親等)という。

 ところが「華園家」には“男系男子”にあたる存在がいない。

〈真暢(59)に男子はなく、長女・沙弥香(22)、法名・真慶(しんきょう)さんが2017年4月1日に門主後継者である「嗣法(しほう)」に就任する予定だ〉

 であれば、次に今上陛下に近いのは、誰か。「新潮45」本誌では、その人物の意外な素顔を明らかにしている。

1106とはずがたり:2018/03/22(木) 12:56:40

福岡に「幻の首都」構想 太平洋戦争中に政府が検討 極秘文書に明記
https://www.nishinippon.co.jp/feature/attention/article/328970/
2017年04月18日 17時26分

 八女が日本の首都になっていたかもしれない。突拍子もない冗談のようだが、実は太平洋戦争中に政府が検討していた歴史的事実だ。「事実は小説より奇なり」とはまさにこのこと。当時の資料をひもとき「八女遷都論」について調べてみた。

 「八女遷都論」が明記されているのは、1943年10月付の極秘文書「中央計画素案」だ。内閣総理大臣直属の組織で、戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した「企画院」が作成した。現在は、国立公文書館の「アジア歴史資料データベース」で公開されている。

 この文書は朝鮮、中国、東南アジアにおける権益確立を目指す「大東亜共栄圏」建設を見据え、政治、経済、産業、文化、防衛などを含めた国のあり方について方向性を示したもの。計画の対象は日本、朝鮮、台湾。遂行目標を「一応15年」としていた。

 「首都」の項目では、候補地として岡山県行幸村(現・瀬戸内市)、朝鮮京畿道京城府(同・ソウル)と並び福岡県福島町(同・八女市)が挙げられていた。条件として、全国土の中心▽地震、風水害など天災地変が少ない▽寒さや暑さが厳しくない▽用水、電力、食料など物資が豊富▽既成の都市とは適当に離れている、など計6項目を明示。福島町は条件をクリアしていたようだ。

 首都を構成する機能を、皇居のほか、政府各機関や生活必需物資配給機関、外国公館などとしているが、「極力不要なる機能の集中を抑制する」とも記載。「防空、耐火、耐震および美術上の見地において最も完全なる都市の造成に重点を指向する」と目標を掲げており、あらたに計画都市を造ろうとしていたことがうかがえる。

 極秘文書は1967年、福岡県立花町(現八女市)出身の県職員だった故松延茂さんが発見した。松延さんは地域文芸誌「飛形」への寄稿で発見の経緯を振り返っている。当時、松延氏は県の企画室企画主査として県総合開発計画の策定に当たっていた。その参考資料を集める中で、戦前、戦中の膨大な公文書に触れる機会があり、その中から見つけたのだという。

 この「中央計画素案」策定から2年後に日本は敗戦。遷都案も消えた。松延氏は寄稿の中で、矢部川の自然豊かな風情を表現した洋画家・青木繁の書簡の一節を紹介しながら思いを語っている。「福島町中心地区が首都になっていたら、わが故郷の様相はどうなっていたことか。時折、白昼夢にも似たまぼろしの首都を思い描いてみることを楽しみにしているが、そのようなとき、青木繁の詩情が私の心をゆさぶるふるさとである」

 もし、福島町に首都が置かれたら、現在、八女はどうなっていただろう。国会や中央省庁が集まり、周辺も高層ビルが立ち並んでいるのではないか。人口も比べものにならないほど増えていたはずだ。一方で、伝統的な白壁の町並みや、丘陵地に広がる茶畑など現在の八女ならではの風景は失われていた可能性が高い。

 いずれにせよ、多くの謎を残し、八女遷都論は歴史の中に消えた。

この記事は2017年04月18日付で、内容は当時のものです。

1108とはずがたり:2018/04/13(金) 09:42:51

 その一方で第5次吉田内閣に国務相として入閣した安藤正純と大野伴睦は鳩山自由党の復党工作を展開していた。安藤と大野は「このまま党外にいたら政権は緒方に行ってしまう。へたをしたら重光に横取りされるかもしれない。吉田ももう長くはないから早く復党した方がよい」と鳩山を説得した。自由党と改進党の提携が進んで鳩山自由党は政界で孤立しており、鳩山の心境も復党に大きく傾いた。

 鳩山復党の総仕上げは松野の出番である。松野は安藤と大野の工作をじっくり見守っていたが、緒方副総理や佐藤幹事長の意向も確認した上で、吉田首相と会い、11月17日に吉田が鳩山邸を訪問して復党要請するという段取りを決定した。吉田・鳩山会談には安藤国務相と松野が同席した。吉田は「鳩山自由党の全党一致の復帰を期待しているが、それが困難なら君一人でも帰ってきてほしい」と懇請した。

 鳩山自由党は11月30日、鳩山、石橋ら27名が自由党に復帰した。当初は三木、河野らも「恥を忍んで復党する」意向だったが、松田竹千代、山村新治郎らが「吉田の軍門に下るのはいやだ」と復党を拒否したため、「彼らを見殺しにできない」として復党せず、わずか8名で日本自由党を名乗った。自由党が鳩自党を吸収したことに改進党は「保守連携への裏切り」と反発したが、防衛問題に限って自由党との連携は維持することにした。

 1954年(昭和29年)に入ると保全経済会事件、造船疑獄が明るみに出て吉田政権は三たび動揺した。同年2月、鳩山は病床にある前田米蔵を訪ねて鳩山政権実現へ協力を求めた。鳩山と前田は戦前、犬猿の仲と言われる間柄だった。前田は追放解除後、吉田首相に接近したが、選挙違反事件で摘発され、さらに病床に伏し、前年の総選挙では落選して不遇をかこっていた。

 鳩山は「その時前田君は『三木と松野はどうかね。大丈夫君の方の側かね』と聞いた。三木君とはその時一応分かれた形になっているし、松野君は吉田君の指南番のように思われている最中だったからだろう。そこで私は『三木君はもちろん問題はない。松野も大丈夫だと思う』と答えた。この話をあとですると大抵の人は『さあ松野はどうですかね』と、不満げに言葉をさしはさむけれども、私はその当時は本当にそう思っていた」と回顧している。

 息子の松野頼三は「私は吉田首相の秘書官もしているので吉田7、鳩山3のスタンスだったが、オヤジは鳩山7、吉田3のスタンスだった」と述べている。松野鶴平の行動は結果的に見ると常に吉田寄りに見えたが、これは戦前、2回も政友会分裂を経験した松野の「党を割ってはいけない」という信念に基づくもので、心情的には鳩山への思いも強かったのは事実であった。

■「総裁といえども除名するぞ」と一喝

 造船疑獄の広がりで吉田政権は窮地に陥った。吉田首相は緒方副総理、松野鶴平らと連日協議を重ね、検察当局の佐藤幹事長逮捕許諾請求に法相の指揮権を発動することを決定した。緒方副総理は局面打開のため、改進党に保守合同を呼びかけた。保守合同に向けた自由党、改進党、日自党の協議は総裁問題で行き詰まった。改進、日自両党は吉田退陣を明確にするよう求めたが、自由党は「総裁は公選で」との立場を崩さなかった。この時の保守合同運動は結局、鳩山の下に改進党、日自党、さらに自由党の鳩山派と岸派が合流する形で実現した。昭和29年11月22日、鳩山を総裁とする日本民主党が結成された。副総裁重光葵、幹事長岸信介、所属衆議院議員125名。

 吉田長期政権は最後の局面を迎えた。12月6日、民主党は左右社会党と共同で内閣不信任案を提出した。可決は確実であった。すでに人心は吉田内閣から離反していた。吉田は解散するつもりだったが、緒方副総理が解散に強く反対し、総辞職を主張した。12月7日朝の臨時閣議でも吉田の解散方針に異論が出て閣議は中断した。閣議と並行して外相公邸内の隣室では自由党幹部会が開かれていた。幹部会でも解散反対論が大勢を占め、吉田の方針を支持する池田幹事長は孤立していた。

 吉田首相は幹部会に顔を出し、大野に向かって「総務会長、誰が何といっても解散に決めましたから」と言った。大野は声を荒げて「そんなはずはない。われわれは閣議でも解散反対が多いのを知っている」と公然と反駁した。これに追い打ちをかけたのは松野である。「吉田、君は今になって何を言うか。総裁あっての党ではない。党あっての総裁であることを知らないのか。解散すれば党は壊滅するのだぞ。解散するなら総裁と言えども除名してしまうぞ」と怒鳴りつけた。普段はめったに怒った顔を人に見せたことがない松野の一喝がとどめの一撃となり、吉田は解散を断念して総辞職を決意した。

1109とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:31

 昭和29年12月10日、鳩山一郎は念願かなって民主党内閣を発足させた。自由党は野党になった。鳩山首相は左右社会党との約束に従って昭和30年1月24日、衆議院を解散した。この選挙で民主党は大きく議席を伸ばしたが、過半数には達せず、自由党は議席を大幅に減らして惨敗した。選挙後、民主党の三木総務会長は自由党に保守合同を呼びかけた。民主党と自由党の保守合同協議は総裁問題で難航したが、総理は鳩山、総裁は鳩山、緒方、三木、大野の4人を代行委員とすることで妥協が成立し、昭和30年11月15日、保守勢力を結集した自由民主党が発足した。松野は参議院自民党議員会長になった。

 1956年(昭和31年)1月、次期首相間違いなしと言われた自民党総裁代行委員の緒方竹虎が急死した。三木、大野両代行委員と岸幹事長、石井光次郎総務会長が協議した結果、緒方に代わる総裁代行委員に松野を決定した。緒方の死去で鳩山首相の対抗馬がいなくなったため、自民党は4月5日の党大会で鳩山を正式に初代総裁に選出した。この直前の4月3日、松野鶴平は第4代参議院議長に当選した。緑風会出身の河井弥八議長が同年7月の改選を控えて「選挙準備に専念したい」と突如辞意表明をした結果であった。
 参議院議長は初代が松平恒雄、第2代が佐藤尚武、第3代が河井でいずれも緑風会出身であった。松野議長の誕生は保守合同と左右社会党の統一で参議院でも政党化が急速に進み、「参議院の良識」を代表していた緑風会が凋落しつつあることの象徴であった。松野が議長になったばかりの第24通常国会は自民党と社会党が激突して参議院では新教育委員会法案をめぐって会期末に乱闘騒ぎの大混乱が起きた。

 自治体の教育委員会を公選制から任命制に改めるこの法案は鳩山内閣の目玉政策の一つで、すでに小選挙区制法案の成立断念に追い込まれた自民党執行部は何が何でも成立させる意気込みを見せた。社会党は日教組の突き上げを受けて実力で成立を阻止する構えをとった。本会議採決の攻防が始まると社会党の議員・秘書団が議長室を取り囲み、松野議長は軟禁状態になった。ようやく本会議を開いて議長席に座っても社会党議員が殺到して議事妨害を行い、隣の事務総長が負傷する事態も起きた。

 徹夜国会になり、71歳の松野議長は体力の限界に達した。混乱した議場の秩序を回復するため、松野議長は自民党執行部の要請を入れて参議院では初めて警官隊の導入を決断した。2泊3日の徹夜攻防の末に新教育委員会法は緑風会も賛成して賛成143、反対69で可決・成立した。自民党の岸幹事長が議長室を訪れ、松野議長と抱き合って喜ぶ場面が見られた。

 昭和31年7月の参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を維持し、さらに保守系議員を糾合して過半数を確保した。社会党も憲法改正阻止に必要な3分の1の議席を確保した。これにより参議院に一定の平和と秩序が訪れた。選挙後、松野は議長に再選され、翌昭和32年1月の通常国会再開の際、自民党と社会党は衆参両院で国会正常化を申し合わせた。

1110とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:41
>>1107-1110
■党籍離脱を拒否、政防法案握りつぶす

 1959年(昭和34年)7月、岸内閣の下で行われた参議院選挙で自民党は71議席を獲得し、非改選と合わせて135議席に達した。松野もこの選挙で3回目の当選を果たし、選挙後に三たび参議院議長に選出された。選挙後の岸内閣の改造で松野頼三が労相として入閣し、野田卯太郎―松野鶴平に続く憲政史上初めての親子3代大臣の誕生が話題になった。

 議長3選にあたって社会党と緑風会は松野に党籍離脱を強く要求した。これは前年、警職法改正案をめぐって国会が紛糾した際に川島正次郎自民党幹事長と浅沼稲次郎社会党書記長の間で衆議院の正副議長は党籍を離脱することを申し合わせ、参議院についても「自主性は尊重するがこの申し合わせに従って運営するよう要請する」としていたからである。松野は「私は母の胎内にいた時からの政党人だ」と言い放って党籍離脱を断固拒否した。

 松野は、国会の混乱を防ぐために議長の権威を高める必要があるが、それは党籍離脱という手段ではなく、むしろ多数党の党籍を持って多数党の横暴を内部から抑える力を持つことが大事である、という信念を持っていた。社会党の浅沼書記長が議長室に乗り込み、党籍離脱を直接勧告したが、松野は軽く一蹴した。この後、記者団の質問に答え「みんなコドモだから親爺の言うことは判ってくれるよ」と平然としていた。

 松野はこの信念を口先だけでなく、自らの行動で実行に移した。昭和36年の通常国会に自民党は民社党と共同で政治的暴力行為防止法案を提出した。社会党が強く反対し、衆議院は強行採決で通過した。池田勇人首相はこの法案の成立に強くこだわっていた。審議に協力的な民社党のメンツを立てる必要があり、国会後の訪米を控えてこの法案が不成立なら国際信用が傷つくことを懸念していた。益谷自民党幹事長が松野議長を訪ねて法案成立への協力を強く求めたが、松野は「参議院の自主性に任せてくれ」とやんわり拒否した。益谷は池田首相と会談するよう松野に求めたが、これも拒絶した。

 松野は佐藤栄作と極めて親しかったが、池田とはソリが合わなかった。参議院自民党も、この国会は農業基本法の成立で手いっぱいで政防法案の成立は無理と判断していた。結局、政防法案は参議院で握りつぶされ、継続審議となった。池田首相は政防法案不成立の経緯を見て岸・佐藤兄弟が松野と組んで倒閣を仕掛けたとにらんだ。池田は訪米帰国後の内閣改造で岸派、佐藤派を遠ざけ、大野派、河野派、三木・松村派を取り込んだ内閣改造に踏み切った。

 1962年(昭和37年)7月の参議院通常選挙を機に松野鶴平は参議院議長を辞任した。前年、糖尿病の悪化で入院するなど松野の体力は衰えが隠せなくなった。選挙後、後任の議長には岸、佐藤兄弟と並んで「長州ご三家」と言われた自民党の重宗雄三が選出された。松野は議長退任からわずか2カ月後の10月18日に日本医大病院で永眠した。77歳だった。

 松野鶴平は議長退任の際に参議院本会議で次のように述べている。「私は国会運営の根本は、国会議員の心構えにあると存じます。各党各派ないし各議員が、国民に対する責任を自覚し、お互いに参議院を辱めないようにとの気持ちをもって、忍耐強く話し合えば、大抵のことは解決するものと信じます。肝要なことは、本院は良識に従い常に自主的な態度を持するということであります。院内の事の処理に当たっては、みだりに院外の運動に左右されたり、利害団体の圧力に屈することのないようにいたさねばなりません。対衆議院の関係においても同様でありまして、両院が協調しながらも、各自が自主性を堅持することが、二院制度の要諦であります。かくして初めて参議院の権威が高まり、使命は達成されるのであります」。=敬称略

1111とはずがたり:2018/04/13(金) 09:48:43
松野の党籍離脱拒否に関しては其の後の重宗得宗体制をもたらしたそうな。
因みに緑風会出身の参院議長河井弥八は掛川の人♪

松野鶴平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%B6%B4%E5%B9%B3

参議院議長
戦後の参議院では、議事の遂行において公平を期すために議長在任中は党籍を離脱する慣例となっていた(松野以前の3人が所属していた緑風会は無所属議員のための会派であって身分的には無所属である)。だが、戦前の帝国議会で唯一の公選によって選ばれていた衆議院の議長(通常は第一党から選出)は、その党籍を維持してその権威によって議事運営を行う一方で、第一党の独断的な動きに対しては党員としての発言力によって阻止し続ける事によってその暴走を食い止めるという慣例が存在していた。

戦前立憲政友会に在籍していた松野はその時代の議長観を戦後になっても保持しており、他党の党籍離脱要求にも関わらず参議院議長在任中も党籍を維持。自民党会派にも所属し続けた。日米安保条約改訂などで政局が流動的な情勢の中、松野は己の議長観に忠実に従うことによって自民党側の強引な議事運営を防止しつつ、円滑な審議に尽力して一定の成果を収めたが、それは同時に「参議院の政党化」を促進する事にも繋がった。

松野の後任となった重宗雄三も同様に自民党所属のまま参議院議長を9年間務め、党内で絶対的な権力を持つに至った。議長の党籍、ないしは院内会派からの離脱が定着するのは、重宗の後任となった河野謙三が党籍を離脱してからである。

河野謙三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E8%AC%99%E4%B8%89

参議院副議長などを経て、参議院自民党の重鎮として存在感を増す中、佐藤栄作内閣末期に持ち上がったのが、重宗雄三参議院議長をめぐる問題で中心となって動く。重宗は1962年(昭和37年)8月から1971年(昭和46年)7月まで3期9年参議院議長をつとめる中で参議院自民党は重宗王国といわれるようになっていたが、このような長期独裁体制打破を求めて1971年(昭和46年)7月に参議院改革を内容とする「河野書簡」を発表した。河野の動きをきっかけに参議院自民党の中にも新谷寅三郎、迫水久常、鍋島直紹ら反重宗の参議院議員は桜会を結成。7月17日、この自民党首脳部から造反した桜会と野党の支持を受けて、重宗雄三の後継議長候補であった木内四郎を128票対118票と10票差で破って参議院議長に選出された。当選後、自民党籍を離脱し、在任6年間、参議院改革に努力した。

1977年(昭和52年)7月に参議院議長を退任。1983年(昭和58年)に立候補せず、政界を引退した。

なお、長男の河野鉄雄は1983年の第38回衆議院議員総選挙に自民党の公認を得て神奈川2区から立候補したが落選し[1]、続く1986年(昭和61年)の第39回衆議院議員総選挙では無所属で再び神奈川2区から立候補したが議席には届かなかった[2]。

河井弥八
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E5%BD%8C%E5%85%AB

静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、1904年東京帝国大学卒業後、内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となり、1930年から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。

1938年1月7日に貴族院議員に任命された[1]。貴族院では同成会に所属した。この間、鉄道会議議員を兼ねた。また大日本報徳社社長ともなっている。

サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし「サツマイモ博士」とあだ名された[2]。

戦後、第1回参議院議員通常選挙に静岡県選挙区から立候補し、参議院議員に当選した。当選後は緑風会に所属し、3年後の第2回参議院議員通常選挙でも再選された[3]。

1953年には参議院議長に就任した。1956年の第4回参議院議員通常選挙では議長在任中だったが落選し、高齢だったこともあり政界引退を表明した。死後、従二位と勲一等旭日桐花大綬章を贈られた。

1112とはずがたり:2018/04/13(金) 09:53:51
急逝と云えば石橋湛山が返す返すも惜しいのだが,鳩山ではなく緒方の総裁当選の可能性も高かったのに急逝したのだそうな。緒方氏に関しては戦後政治史に疎い俺としては惜しいとか以前にあんま良く知らん。

松野の一喝より緒方の根回しが効いたのかも。

緒方竹虎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E

吉田内閣退陣と緒方総裁選出
吉田政権末期、バカヤロー解散や造船疑獄をめぐり吉田が法務大臣・犬養健に命じて指揮権を発動させ、側近の自由党幹事長・佐藤栄作の逮捕を阻止したことなどにより、急速に政権は求心力を失っていった。そうした中、1954年(昭和29年)3月に緒方は保守合同を呼びかける「緒方構想」を発表した。しかし「緒方構想」による新党推進勢力には、吉田退陣を前提とする吉田棚上げ論者が予想外に多数を占めたため、吉田が消極的であり、「緒方構想」は6月にいったん打ち切られた。結局、12月に鳩山一郎を中心とする反吉田勢力は、左右両派社会党と連携し吉田内閣不信任決議案を提出する。自由党は、衆議院解散総選挙による吉田内閣延命か、吉田内閣総辞職かで真っ二つに別れる。

吉田は政権維持に執念を燃やして解散を主張したが、緒方は内閣総辞職を主張し、1954年(昭和29年)12月7日朝、「もし総理が解散を強行すれば私は閣僚として解散書類に署名しません。むしろ政界から引退します。かっこうの悪い西郷になりますよ」[12]と、自らの政治生命を賭けて吉田に直言した。吉田は緒方を罷免してでも解散するつもりだったが、同日の閣議では文部大臣・大達茂雄、運輸大臣・石井光次郎、国務大臣・加藤鐐五郎が総辞職を主張し、自由党幹部会は全員解散反対だったため[13]、吉田は解散を断念、内閣総辞職した。翌12月8日の議員総会で自由党は吉田総裁の辞任を了承し、正式に後任総裁に緒方が選出され、石井光次郎を幹事長とした。吉田内閣総辞職にともなう首班指名選挙で、緒方派の代議士らは、同じ早稲田大学出身の右派社会党書記長・浅沼稲次郎、左派社会党委員長・鈴木茂三郎らをはじめ、左右両派社会党議員に緒方への投票をはたらきかけたといわれるが、両派社会党は鳩山に投票し、第1次鳩山内閣が成立した。

保守合同と急逝
翌1955年(昭和30年)1月の「天の声解散」による第27回衆議院議員総選挙で、鳩山の与党日本民主党は185議席と単独過半数を得ることが出来ず、緒方の自由党は112議席だった。この選挙結果は、与党民主党が保守合同なしで政局運営を行っていくことが困難であることを示していた。そのため、自由党と民主党による保守合同論の気運が再び高まりを見せる中、緒方はこれを積極的に推進した。新党総裁をめぐる難航した協議の結果、総裁代行委員による集団指導体制に落ち着いた。11月15日、自由民主党が結党され、緒方、鳩山の両党総裁と、三木武吉、大野伴睦の両党総務会長の4人が総裁代行委員に就任した。

しかし、同年12月に全国各県で結成された党支部結成大会の巡回旅行で睡眠不足と過労が続き、途中でひいた風邪をこじらせて12月25日に帰京してからは静養につとめたが、翌1956年(昭和31年)1月8日に心臓発作を起こした。それでも1月25日に国会が再開されると登院、自民党の代議士会にも出席し、1月27日の福岡県人会にも出席したが、翌1月28日に東京都品川区五反田の自宅で急性心臓衰弱のため急逝した。67歳。緒方の死去によって、4月5日に実施された自民党総裁公選では鳩山一郎が初代総裁に選出された。総裁公選となれば、旧民主党が「反吉田」の寄り合い所帯のため緒方に流れる可能性のある票も少なくなかったのに対し、旧自由党の方が結束力が固く、緒方が初代自民党総裁に選出される可能性が高かった。同年末に鳩山は、日ソ国交正常化を花道として、後継者を指名せず退陣を表明し、岸信介、石橋湛山、石井光次郎(緒方派の継承者)による総裁公選が行われた。緒方の急死がなければ、戦後政治史の歩みも大きく変わったと言われる所以である。また後任の石橋が病気で短期で退陣したのち、田中角栄の登場まで15年間余り、岸・池田・佐藤の官僚出身者3名が総理総裁となった。

言論界の象徴として、左派からもその人格・識見を肯定的に評価された一方で、吉田内閣時代、1952年(昭和27年)の東南アジア歴訪の途上、中華民国国民政府の拠る台湾を訪問、総統・蒋介石に謁見し、日華軍事同盟に言及したり、前述のように1954年(昭和29年)、戦前の情報局総裁の経験から政府直属の情報機関設置構想を打ち出したりしたため、当時のジャーナリズム主流派からは「特高的言論統制復活」と揶揄された。

1113荷主研究者:2018/04/15(日) 11:32:54

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180321_63022.html
2018年03月21日水曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(1)「官名乗る賊徒に従わず」

[はらだ・いおり]1946年、京都市生まれ。大阪外語大卒。広告代理店勤務後に独立。編集ライターなどを経て2005年に作家デビュー。主な著書に「明治維新という過ち」「官賊と幕臣たち」「大西郷という虚像」など。東京都在住。

戊辰戦争後の若松城(鶴ケ城)。1カ月にわたる籠城戦で受けた砲弾跡が生々しく残る(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(上)作家・原田伊織さん

 <「明治維新という過ち」などの著書で知られる作家の原田伊織さん(71)は、東北における戊辰戦争を「討幕戦争とは別物だった」と指摘する>

◎私怨を晴らす戦

 いわゆる戊辰戦争を「討幕戦争」と位置付けるなら、会津戦争などは討幕とは無関係で性格が異なるというのが私の主張だ。1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった。

 東征軍の江戸入城(11日)や大総督府有栖川宮熾仁(たるひと)親王の入城(21日)など、どのタイミングをとっても4月中には江戸幕府は歴史の幕を閉じたと断定できる。だから、その後の東北での戦争は論理的に討幕戦争とは言えない。

 <それでもなぜ東北戦争は起きたのか>

 平たく言えば報復だ。会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職時代、テロ活動を妨害された薩摩や長州、土佐藩の恨みだ。大義名分がない私怨(しえん)を晴らす戦だ。恭順が拒否された会津藩は戦うしかなかった。

 会津は奥羽鎮撫(ちんぶ)使に何度も嘆願書を出したが、下参謀の世良修蔵が拒否する。容保の斬首にこだわった。和平工作を行った仙台藩や米沢藩なども、世良の品性の欠ける行状もあって「ならば戦うしかない」という流れになる。

 錦の御旗を振りかざして進軍した官軍は、奥羽諸藩も簡単に恭順すると読み違えた。だが、奥羽諸藩の思考回路は「長いものには巻かれろ」ではなかった。「朝廷には恭順するが、官を名乗る賊徒には従わない」という心理だった。

 官軍を名乗った薩長に、もう少しまともな人材がいたら戦争は避けられた。会津戦争や二本松戦争は無益な殺生だった。ただ、「不幸だ」だけで終わらせては意味がなく、歴史から何かを学ぼうとするなら、史実は検証されるべきだ。

 <東北の諸藩は「朝廷に逆らった賊軍」という「官軍史観」が今も残る>

◎前政権を全否定

 新政権は前政権、前時代を全否定し、自分たちを正当化する歴史を書く。これは古今東西を問わずよくあること。ただ多くの民族は一定期間を経て誤った歴史を修正する。日本人はそれをやらずに大東亜(太平洋)戦争に突き進み、国家を滅ぼした。

 戦後も検証されず、そこへ連合国軍総司令部(GHQ)支配の鬱屈(うっくつ)した社会心理を打ち払うかのような作品とともに司馬遼太郎さんが登場し、たちまち国民的作家となった。大学の大先輩で尊敬する面は多々あるが、吉田松陰、坂本龍馬をはじめ、明治維新に関して書いているものは大半がフィクション。「官軍史観」に「司馬史観」が重なり、明治維新に対する誤った理解が定着してしまった。

 <政府は「明治に学ぶ」として、国の行事に150年の冠を付ける考えだ>

 同じようなことが言われた時代があった。軍国主義がピークに達した昭和10年代だ。「明治精神への回帰」をうたう「昭和維新運動」が燃え盛り、もてはやされたのが吉田松陰の思想だ。

 そこから日本の侵略戦争が始まる。日本軍の進出した国や地域は松陰が唱えた対外侵出エリアと全くと言っていいほど一致する。日本に近代をもたらしたとされる明治維新という出来事を、われわれは一度白紙に戻し、冷静に総括しなければならない。

[松平容保]1836〜93年。会津藩9代藩主。62年に京都の治安維持のために新設された京都守護職に就く。「8月18日の政変」で長州派を追放するなどした功績で、孝明天皇から絶大な信頼を得た。
[世良修蔵]1835〜68年。長州藩士。奇兵隊出身。奥羽鎮撫総督府下参謀を務め会津討伐を声高に主張。「奥羽皆敵」と記した密書などが仙台藩士らの怒りに火を注ぎ、福島藩内で捕らえられ殺害された。

1114荷主研究者:2018/04/15(日) 11:33:23

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180322_63027.html
2018年03月22日木曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(2)新政府に国の青写真なし

二本松城を巡る戦いでは、二本松藩の12〜17歳の少年たちも戦闘に加わった。「二本松少年隊」の史実を伝える銅像が城跡に立つ=二本松市

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(下)作家・原田伊織さん

 <戊辰戦争から150年。奥羽諸藩を「賊軍」におとしめた明治維新の実像をどうみるか。作家の原田伊織さん(71)は「偽りの革命」だったと言い切る>

◎模倣にすぎない

 テロリズムを背景にしたクーデターにすぎない。「明治維新がなければ植民地化されていた」「日本を近代に導いた」といった歴史認識は真っ赤なうそだ。幾つもの隠蔽(いんぺい)や捏造(ねつぞう)を繰り返さなければ、そのような認識にはならない。

 大隈重信が維新後に語った言葉が象徴的だ。「われわれがやっていることは小栗忠順(ただまさ)の模倣にすぎない」と言っている。「明治維新至上主義者」とも言える司馬遼太郎さんですら小栗を「明治の父」と評価した。時代の違う2人が同じことを言っている。

 桂小五郎(後の木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通が「維新三傑」と呼ばれている。だが彼らは幕府を挑発し戦争を起こしたものの、その後の国の青写真を持っていなかった。だから倒幕後に個々人は強烈な虚脱感に襲われ、組織は腐敗していった。

 <尊皇攘夷(じょうい)の旗印の下、列強との不平等条約を正すために倒幕に踏み切った印象が定着している>

 「尊皇」は武家社会の教養、常識として当たり前の概念だった。(薩長の)偽勅や偽の錦旗が効力を発揮し、幕府や諸藩が恭順していくのも、そういう背景があったから。佐幕人の高い教養に裏打ちされた尊皇意識を背景として、幕末になって長州人、薩摩人が天皇を政治の表舞台に引っ張り出して「政争ツール」としてうまく利用した。

◎外面だけの勤皇

 桂は「玉を動かし」「玉を抱く」などと発言している。長州藩は天皇の拉致を計画し、御所に大砲を放つ暴挙に及んだ。外面だけの勤皇だ。薩摩・長州は「攘夷」と叫んでいる最中に大英帝国の支援を受けた。「尊皇攘夷」は単なるキャッチフレーズ。政権を奪うやいなや卑しいほどの西洋崇拝に走った。

 倒幕勢力は不平等条約の中身も分かっていない。岩倉使節団は条約改正の意識や目的を持って出発したものではない。全権委任状すら持っていなかった。そもそも政府首脳が2年も国を空けてどうするのか。新政権になって新しくできたのは、西郷、大隈、江藤新平らの留守政府による制度がほとんどだ。

 <新政府は富国強兵の名の下、殖産興業を進めた>

◎長州型政権 今も

 新政府は、国の予算で造ったものを商人や同郷の士に払い下げるなどして長州、薩摩出身者らに甘い汁を吸わせた。尾去沢銅山事件などが象徴的。歴史学者の毛利敏彦氏の言葉を借りればまさに「長州汚職閥」だ。

 「明治6年の政変」(1873年)で下野した西郷の言葉が残っている。「我脱出する人間虎狼(ころう)の群れ」。福沢諭吉も明治の要人を「人面獣心」と評した。面識のない2人が似通ったことを言っている。それほど新政府が腐敗していた。彼らが何のグランドデザインも持っていなかったことにも通じる。

 明治維新50年は寺内正毅内閣、100年は佐藤栄作内閣、そして150年は安倍晋三内閣と、いずれも長州内閣であることは単なる偶然だと思いたい。だが、森友・加計(かけ)問題などの官民癒着に限らず、展望のないキャッチフレーズを連呼するところなど、「長州型政権」は今も続いていると言わざるを得ない。

[小栗忠順]1827〜68年。幕臣。外国奉行、勘定奉行などを務め、幕府の財政改革、軍制改革を進める。大政奉還に反対し、戊辰戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦するよう訴えた。新政府軍に捕らわれ処刑された。
[岩倉使節団]1871年12月〜73年9月、岩倉具視を特命全権大使とし、欧米を歴訪した使節団。政府首脳や留学生らを含む107人で構成された。
[尾去沢銅山事件]1872年、長州藩出身の大蔵大輔(大蔵省次官)井上馨が尾去沢銅山(鹿角市)を私物化しようと鉱山を没収した事件。井上は訴えられ逮捕寸前まで追い込まれたが長州閥が抵抗し、辞職するだけで罪を問われなかった。

1115荷主研究者:2018/04/15(日) 11:33:48

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180323_63003.html
2018年03月23日金曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(3)京都守護職を辞退できず

中村彰彦(なかむら・あきひこ)1949年6月、栃木市生まれ。東北大文学部卒。「二つの山河」で直木賞、「落花は枝に還らずとも」で新田次郎文学賞。会津藩関係の本を数多く執筆。東京都在住。

京都守護職時代の松平容保の肖像写真(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎会津藩の悲劇 なぜ起きた?(上)作家・中村彰彦さん

 <戊辰戦争は会津藩の存在抜きに語れない。幕末に京都の治安を守った雄藩が一転して「朝敵」とされ、蹂躙(じゅうりん)された悲劇はなぜ起きたのか。作家中村彰彦さん(68)は「藩の歴史を藩祖保科正之、中興の名家老田中玄宰(はるなか)、幕末の3段階で考える必要がある」と言う>

◎東北の藩を救う

 1643年に初代藩主になった保科正之はユートピア思想を持っていた。農民が十分に食べ、農作業にいそしむ。被支配階層が飢えずに人生を楽しむ姿にするのが王道政治と考えた。

 第2次世界大戦後の英国の福祉制度は「揺り籠から墓場まで」と言われるが、正之は既に実践していた。新生児の間引きを禁止し、年貢率を下げ、無料の医療制度を作った。

 90歳以上には身分や男女の区別なく、終生一人扶持(いちにんぶち)(1日玄米5合)を与える「年金制度」を創設。年金保険は18世紀末にドイツのビスマルクが作ったとされるが200年以上早い。

 正之の世話になっていない東北の藩はないと言っても過言ではない。米沢藩は3代藩主が跡継ぎを決めずに亡くなった時、お家断絶の危機を救われた。伊達騒動が起きた仙台藩については、藩を取りつぶさないよう将軍に穏便な処置を助言した。

 戊辰戦争時、仙台、米沢を中心とした東北諸藩は、朝敵とされた会津藩を救うため嘆願書を新政府に提出し、奥羽越列藩同盟を結成した。会津藩への恩義が形になった。軍事同盟というより友情同盟だった。

 正之は15カ条の「会津藩家訓(かきん)」を残した。第1条には「将軍家に忠義を尽くせ。他藩と同程度の忠義で満足してはいけない」とある。自分を大藩の藩主に抜てきしてくれた腹違いの兄、3代将軍徳川家光に感謝する気持ちを持続的に伝えてほしいと願った。

 <正之の死後、鎖国の影響で藩財政は次第に傾く>

◎国防の第一線に

 田中玄宰が登用された18世紀後半、藩には大借金があった。天明の大飢饉(ききん)が起こり、食糧備蓄制度があった藩にも餓死者が出た。子捨てや放火などモラル低下を象徴する出来事が起きた。

 玄宰は教育改革で藩校日新館を創設。入学前の子どもに「什(じゅう)の誓い」を朗唱させた。「うそを言ってはいけない」など7項目のエチケット集で、「ならぬことはならぬ」と戒めた。

 玄宰は最新兵学「長沼流」を導入し、軍を立て直した。19世紀初めに樺太がロシアに攻撃されると、家訓の精神で北辺警備を買って出る。借金を返したばかりなのに、国家のための出費をいとわなかった。

 黒船来航の時も江戸湾警備を担当し、会津藩は日本の国防の第一線に立った。この頃から「困った時の会津藩頼み」という感覚が出てくる。全国に会津藩士の墓が残るのは広範囲で国防に挺身(ていしん)した証拠だ。

 <幕末、京都で「天誅(てんちゅう)」の名を借りた過激な尊皇攘夷(じょうい)派のテロが横行。会津藩が歴史の表舞台に出る>

 幕府は治安を守る京都守護職を新設し、会津藩主松平容保(かたもり)を指名した。尊攘派の憎しみを一身に集める要職。容保は断ったが、政事総裁職松平春嶽に「正之公が生きていれば引き受けただろう」と家訓を持ち出され、逃げられなかった。京都守護職を引き受けざるを得なかったところに会津の悲劇が生まれた。

[保科正之]1611〜73年。高遠藩主、山形藩主を経て初代会津藩主。玉川上水開削などを実行し、将軍補佐役として活躍。
[田中玄宰]1748〜1808年。会津藩家老。軍や教育の藩政改革を進め、絹織物や清酒、漆器など地場産業を育成。
[伊達騒動]1671年3月、仙台藩で実権を握った伊達兵部と、反対派との権力闘争で起きた同藩最大の政争。
[松平春嶽]1828〜90年。幕末の福井藩主。「幕末四賢侯」の一人。

1116荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:13

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180324_65004.html
2018年03月24日土曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(4)孝明天皇崩御一転「賊」に

孝明天皇が松平容保に贈った御宸翰の写本。会津藩への感謝の思いがつづられている(会津若松市蔵)

◎会津藩の悲劇なぜ起きた?(下)作家・中村彰彦さん

 <作家の中村彰彦さん(68)は、京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)について「誠実な人柄で、孝明天皇の信頼が厚かった」と話し、天皇崩御で会津藩を取り巻く形勢が急激に変わっていったと指摘する>

◎容保に感謝の意

 1863年2月、容保が京都に入ると、テロが鳴りを潜めた。容保が天皇との信頼関係を確実にしたのが同年の「8月18日の政変」。会津、薩摩藩は天皇の命を受け、過激な尊皇攘夷派の長州藩士や公家を京都から追放した。

 喜んだ天皇は、容保に感謝の意を伝える御宸翰(ごしんかん)と和歌2首を与えた。容保は死ぬまで御宸翰を肌身離さず持っていた。「賊と言われても、先帝と自分の関係は知る人ぞ知る」と言いたかったのだろう。

 御宸翰については明治時代、長州出身の陸軍中将三浦梧楼がその存在を示す本の出版を金を払って差し止めた。出版されれば「戊辰戦争は官軍が賊軍を討った正義の戦い」という薩長寄りの歴史観が崩れる、と考えた。

 <64年の池田屋事件、禁門の変で、会津藩は長州藩の恨みを買う>

 67年に孝明天皇が亡くなった。毒殺説があるが、天皇が代替わりした途端、容保は「幕賊」の一味と呼ばれるようになる。

 容保が「賊」とされた最初の文書は薩摩、長州藩に出された「討幕の密勅」だが、明治天皇の署名、押印「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」がない。討幕派公家3人の署名は1人の筆跡だ。明治維新は偽文書から始まった。

 江戸城開城後、容保は将軍徳川慶喜の代わりに幕賊の首魁(しゅかい)にされる。会津藩は恭順姿勢を示したが、新政府は聞く耳を持たない。会津藩は理不尽な言い掛かりをつけられ、1カ月の籠城戦を強いられた。

 容保は良識的に戦った。戦況が不利になった時、プロシア人商人がベトナムから雇い兵を連れてくることを提案するが、内戦にとどめるため言下に断った。最後の一兵まで戦うことはせず、約5000人が城から出た。次世代を残すために戦をやめたのだと思う。

 <戦後、新政府に東北差別の意識が残った>

◎明治政府の恥部

 最も虐げられたのは会津藩で、領地23万石を全部没収される滅藩処分を受けた。69年に斗南(となみ)藩3万石(青森県下北半島など)として復活を許されたが、当時の稲作の北限より北の土地で「死んでくれ」と言っているのと同じだ。明治政府の政策の恥部だった。

 77年の西南戦争で手柄を立てた元会津藩家老山川浩が陸軍少将に昇進した。昇進決定の会議を欠席した長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は「山川は会津ではないか」と怒った。差別は太平洋戦争まで続いた。

 会津の人々は苦難にめげず、各方面で名を残した。山川の弟で東京、京都、九州の3帝大で総長を歴任した山川健次郎ら、教育界で活躍した人が多かった。第1次大戦中、板東俘虜(ふりょ)収容所(徳島県鳴門市)所長の松江豊寿(とよひさ)はドイツ人捕虜を人道的に扱い、たたえられた。

 山川捨松や新島八重らは篤志看護師として活躍した。彼女たちは鶴ケ城に籠城し、親しい人が死んでいくのを目の当たりにした悔しさがあった。会津の人々は、戦の後も目的を持ち、毅然(きぜん)として知的に生きた。

[池田屋事件]1864年7月、京都の旅館「池田屋」に集まった長州藩などの過激派志士が新選組に襲撃され、多数の死傷者を出した事件。
[禁門の変]1864年8月、池田屋事件に怒った長州藩急進派が挙兵し、京都・蛤御門で会津藩などと交戦、敗走した事件。
[西南戦争]1877年、下野した西郷隆盛が挙兵した士族の武力反乱。政府軍に阻まれ敗走した。
[山川捨松]1860〜1919年。山川浩、健次郎兄弟の妹。薩摩藩出身の大山巌と結婚。「鹿鳴館の華」と言われた。
[新島八重]1845〜1932年。戊辰戦争時に籠城して銃を取り戦う。同志社大学創設者新島襄の妻。

1117荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:37

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180325_63007.html
2018年03月25日日曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(5)天皇を抱き込み権力掌握

白虎隊自刃の石版画が祭られている山口県萩市の唐樋地蔵堂。会津藩と長州藩の因縁を超え、地域の人が供養を続けている

いちさか・たろう 1966年11月、兵庫県芦屋市生まれ。大正大文学部卒。至誠館大特任教授、防府天満宮歴史館顧問。著書に「長州奇兵隊」「明治維新とは何だったのか」など。山口県下関市在住。

◎長州藩はなぜ官軍になったか(上)萩博物館特別学芸員・一坂太郎さん

 <幕末の動乱期に一度は「朝敵」となった長州藩は薩摩藩と手を組んで倒幕に成功する。長州藩をはじめとする西南諸藩がなぜ「官軍」となり得たのか。萩博物館(山口県萩市)の特別学芸員一坂太郎さん(51)は「天皇を抱き込んだことが大きかった」と話す>

<嘆願はねつける>
 長州藩にとって許せなかったのは1863年の「8月18日の政変」だった。当時、孝明天皇は長州藩や急進派公家ら攘夷(じょうい)派の操り人形にされていた。

 天皇は権威を利用され、大和行幸などの勅を出す。攘夷派の暴走を危険視する天皇の真意を知った会津、薩摩藩などが政変を起こし、攘夷派を京都から駆逐する。

 天皇は「18日以降の勅は全て本物」と政変の正当性を認めたが、それ以前の勅は「真偽不分明」とし、どれが「真」でどれが「偽」かは分からなかった。長州藩は「天皇の御前で申し開きをしたい」と何度も嘆願したが、はねつけたのが会津藩だった。

 会津藩は「天皇が駄目というから駄目」と話し合いを一切させなかったため、長州藩は会津を恨むようになった。

 戊辰戦争では、逆に会津藩が謝罪恭順を嘆願する立場になる。仙台藩は「なぜ長州は許されたのに、会津は許されないのか」と新政府に言ったが、相手にされなかった。政変で会津が同じことをしたからだ。

 歴史は話し合いがなくなった時に狂う。太平洋戦争時の軍部の増長など、その後の歴史にも言える。理屈が通らなくなり、感情や数の力、雰囲気で時代を押そうとすると、「悔いが残る歴史」になると思う。

<幕末動乱のキーマンは孝明天皇だった>

◎どちらが取るか
 会津藩主の京都守護職松平容保(かたもり)は孝明天皇から個人的に信頼されていた。一方、長州藩は毛利家が天皇家の子孫とされ、伝統的に天皇家は忠義の対象だった。天皇への忠誠心を全国版にしようとしたのが明治の国家づくりだった。

 長州藩は禁門の変で御所に発砲したため、孝明天皇は幕府に長州藩を討つよう命じた。この第1次長州征伐は「幕府対長州」ではなく、「天皇対長州」の戦いだった。

 67年に孝明天皇は崩御する。会津藩を信頼し、長州を憎んだ天皇の死は政局を揺さぶる。長州藩主は「玉(ぎょく)」を奪われないよう、薩摩藩士の大久保利通に注意を与える。玉は天皇を指す隠語。天皇の旗印をどちらが取るかが焦点だった。

 公家の岩倉具視らの画策で武力討幕派が朝廷を乗っ取り、68年1月、明治天皇が王政復古の大号令を下す。新政府は一度の会議も開かずに誕生した。開けば、将軍徳川慶喜がトップになっていたからだ。「天皇の意思だから」が絶対的な一言になる天皇制近代国家の始まりとなる。

<鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍は天皇の軍であることを示す錦旗を掲げた>

◎政治の駆け引き
 日本人は水戸黄門のような分かりやすさが好きで、印籠を見て「偽物だ」という人はいない。錦旗も皇室に代々伝わる旗ではなく、岩倉が作らせたものだったが、疑う人はなかった。効果は絶大で、旗一枚で官と賊、善と悪を色分けした。錦旗を見た各藩は雪崩を打って新政府側に付いた。

 江戸時代の天皇は基本的に政治の権限がなかったが、幕末は敵も味方も天皇を神格化した。新政府が幕府を倒せたのは、天皇を抱き込んだことが大きかった。奥羽越列藩同盟が負けたのも、政治の駆け引きで差があったからだろう。

[大和行幸]攘夷派の討幕計画。天皇が神武天皇陵を参拝し、攘夷の軍議を開くことを企てた。
[王政復古の大号令]倒幕派が天皇親政の新政府樹立を宣言した政変。幕府を廃止、政府機関として総裁など3職を創設した。

1118荷主研究者:2018/04/15(日) 11:34:59

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180326_65003.html
2018年03月26日月曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(6)朝敵は征伐 見せしめ徹底

新政府が「官軍」の戦没者を祭った靖国神社。「賊」と扱われた会津藩士らは慰霊されなかった

◎長州藩はなぜ官軍になったか(下)萩博物館特別学芸員・一坂太郎さん

 <明治天皇を擁し「官軍」となった長州、薩摩両藩を中心とする新政府軍は、「朝敵」となった会津藩の征伐に向かう。萩博物館(山口県萩市)特別学芸員の一坂太郎さん(51)は「新政府軍が東北を攻撃した理由は(長州藩士)木戸孝允の言葉に象徴される」と言う>

◎禍根残さぬよう

 木戸は戊辰戦争について「大政一新の最良法」と述べていた。岩倉具視らに宛てた手紙には「『膏薬(こうやく)療治』で速やかに表面の形だけ整えては、他日再び禍害が生じる」とある。徹底的に武力でつぶさなければ、禍根を残すと考えた。

 新政府軍の表の大義は、錦旗に発砲し、朝廷に逆らった会津藩を倒すこと。裏の大義は、天皇の名の下に統一国家を築くため「逆らえばこうなる」という見せしめをつくることだった。

 <戊辰戦争後、新政府は東北などの「賊軍」の復権を認めなかった>

◎靖国 対象色分け

 その象徴が靖国神社(東京)だ。新政府は幕府が加護した仏教ではなく、招魂という神事で戊辰戦争の戦没者を祭ろうとした。1869年、招魂場の全国版である東京招魂社を創建。10年後に靖国神社と改称した。

 古来、日本では戦死者の慰霊は敵味方の区別なく行われてきた。「禁門の変」後も会津藩、長州藩などが一緒に慰霊された。

 しかし、新政府は敵の戦死者はあくまで「賊」として扱い、慰霊対象にしなかった。同じ国民同士を色分けしたところに、靖国神社の矛盾点があった。

 靖国神社の大祭は9月22日、会津落城の日だった。他の大祭は鳥羽・伏見の戦いの1月3日、彰義隊が壊滅した5月15日、五稜郭が陥落した5月18日。政権に逆らうことがいかに不義かを知らしめた。

 明治維新は近代化の出発点になった。近代国家を造り、独立国として生き残ったことは評価できる。しかし、近代化を急ぐあまり、考える暇を与えずに力ずくで政策を進め、日本を有らぬ方向へと導いた。

 <戊辰戦争と明治維新から150年を迎える>

◎反省の視点必要

 戦争から60年後、実際に見聞きした人々を取材した「戊辰物語」が東京日日新聞に連載された。岩波文庫で出版もされているが、江戸っ子に「薩長の田舎侍が自分たちの都をめちゃくちゃにした」という意識があったことが分かる。

 100年後の1968年は政府が明治維新を美化して催しを開いた。太平洋戦争から約20年しかたっておらず、「近代化は日本やアジアにとって良かったか」と疑問視する声があった。

 150年を迎えた今年、明治維新はイベントの材料でしかなくなった。一方で「明治維新は間違い」とあおるような本の出版が相次いでいるが、どっちが正しい、悪いという話ばかりだ。そんなことで歴史は評価できない。

 歴史は「英雄偉人たちの紙芝居」ではない。吉田松陰が「老中を殺せ」などと言ったのも事実。そこを切っては歴史ではなくなる。会津戦争は悲惨だった。一般人が巻き込まれ、会津の人は大変な辛酸をなめた。多くの人が決して忘れてはいけない歴史だ。

 明治維新150年は歴史を考える年にしなければならない。その中に反省という視点が絶対に不可欠。今の政府のような、ひたすら美化して都合が悪いものにはふたをする姿勢では歴史は見えなくなる。どこで、なぜ、道を誤ったかは常に議論が必要だ。

[彰義隊]15代将軍徳川慶喜の復権を掲げ、旧幕臣らが結成。上野・寛永寺に立てこもり、新政府軍に壊滅させられた。

1119荷主研究者:2018/04/15(日) 11:35:41

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180327_63007.html
2018年03月27日火曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(7)白河口の大敗 軍内に亀裂

奥羽越列藩同盟が使用したとされる旗。作製の時期や経緯、使われた場所などは分かっていない(米沢市の宮坂考古館所蔵)

ほし・りょういち 1935年5月、仙台市生まれ。東北大文学部卒。著書に「奥羽越列藩同盟」「偽りの明治維新」「東北を置き去りにした明治維新」など。NHK東北ふるさと賞など受賞。郡山市在住。

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎奥羽越列藩同盟はなぜ敗れたか(上)歴史作家・星亮一さん

 <戊辰戦争をテーマに小説を書き続ける歴史作家星亮一さん(82)は、奥羽越列藩同盟の目的を「薩長を駆逐し、新政権をつくることだった」と語る>

◎官軍へ反感募る

 1868年1月の鳥羽・伏見の戦い後、15代将軍徳川慶喜は謹慎した。幕府の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談し、江戸城は無血開城となった。割を食い、いけにえにされたのが会津藩。将軍が恭順した以上、会津藩に罪はなかった。

 新政府は奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府を仙台に派遣。総督府は仙台藩に会津藩の攻撃を命じたが、仙台には「なぜ会津を攻撃するのか」という疑問があった。玉虫左太夫らを派遣し、会津藩の意向を探った。

 藩主松平容保(かたもり)は玉虫らに幕府に倣って恭順する意向を示したにもかかわらず、総督府の下参謀世良修蔵は怒り、仙台藩に容保の斬首を命じた。

 仙台藩と米沢藩は、会津藩の首謀者(家老)の首を条件に仲介しようと試みる。会津藩は断ったが「戦争と首謀者の首を出すのとどちらがいいか」と説得され、両藩にげたを預けた。だが、世良の要求はあくまで容保の首だった。

 怒った仙台藩士は世良を殺す。世良ら新政府軍兵士の官軍らしからぬ傍若無人な振る舞いが背景にある。仙台人を侮辱し、反感を買っていた。

 同時期に奥羽越の各藩が集まって列藩同盟を結成した。当初は会津藩への寛大な処置を嘆願する平和同盟だったが、拒否されたことで軍事同盟に転換した。

<68年6月、白河口で戦いが始まる>

◎兵器の差は歴然

 仙台藩と会津藩が白河を死守する盟約だった。ところが、戦争が始まると、午前中に負けてしまう。同盟にとって大誤算だった。

 十分な打ち合わせの時間がないまま戦闘に突入したため、両藩の連携が良くなかった。加えて主力の会津藩の総督西郷頼母に実戦経験がなかった。

 西郷は非戦派で容保の京都守護職就任に反対した。結局、会津藩は京都から戻り、藩内に西郷が正しかったという雰囲気が広がった。容保が西郷を総督にしたのは懐柔策だったのかもしれない。

 同盟はゲリラ戦法で時間を稼ぐ必要があった。新選組から夜襲を仕掛ける提案があったが、西郷は「堂々と戦う」と断った。どういう作戦を取るべきか分からない人を選んだことが失敗だった。

 兵器の差も歴然としていた。同盟軍の人数は相手の倍以上いたが、大砲は旧式。連発銃も少なく、旧態依然の軍備だった。対する新政府軍は最新式の大砲や連発銃で圧倒した。

<白河口の戦いの大敗はどう影響したか>

 同盟軍内に「大丈夫か」という疑問が湧き、仙台藩のうち水沢の軍は白河から引き上げた。白河城奪還は約3カ月試みたが、実現できなかった。

 仙台藩内部でも厭戦(えんせん)気分が出た。「会津を支援するべきだ」という主流派と、「薩長と手を握った方がいい」という反主流派の対立があり、次第に反主流派が力を付けた。

 初戦は何としても勝つ必要があった。戦争後、会津藩士秋月悌次郎は「白河が全てだった」と無念の詩を詠んでいる。

[玉虫左太夫]1823〜69年。仙台藩士。世界1周から帰国後、藩校養賢堂指南統取。
[西郷頼母]1830〜1903年。会津藩家老。非戦和平を主張した。会津戦争で一家21人が自刃した。
[新選組]京都守護職の下で京都の治安維持に当たり、尊攘(そんじょう)派を制圧した。近藤勇、土方歳三らが中心メンバー。
[秋月悌次郎]1824〜1900年。会津藩軍事奉行添役。戊辰戦争後、教育者として活躍した。

1120荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:01

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180328_63004.html
2018年03月28日水曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(8)仙台藩 人質手放す大失態

1995年に復元された白石城。戊辰戦争勃発後、奥羽越列藩同盟締結の舞台になった

◎奥羽越列藩同盟はなぜ敗れたか(下)歴史作家・星亮一さん

 <歴史作家星亮一さん(82)は、奥羽越列藩同盟の盟主、仙台藩の責任は重大だったとみる>

≪秋田藩が寝返り≫

 仙台藩の戦略は稚拙だった。仙台に滞在していた奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府総督の九条道孝は会津藩の降伏謝罪を認め、奥羽越列藩同盟と運命を共にする意向を示していた。九条は同盟にとって大切な人質だった。

 だが、仙台藩は九条奪還をもくろむ佐賀藩士前山清一郎にだまされてしまう。前山は「九条総督と、秋田にいる副総督を一緒に連れて京都に戻り、朝廷に戦争中止を訴える」と語った。仙台藩は信じて総督を手放してしまった。

 この失態は大きい。九条総督一行が秋田入りすると、秋田藩は反同盟に傾く。仙台藩は使節を派遣したが、新政府軍に同調した若い秋田藩士に皆、斬殺された。秋田藩は同盟に宣戦を布告。仙台藩は秋田攻撃に向かわざるを得なくなり、白河方面と兵力を二分された。

 <同盟に参加した各藩の意識はさまざまだった>
 秋田藩は「官軍」になったが、庄内、仙台藩などと壮絶な戦いを強いられた。戦争後は石高が少し増えただけで、得た物は多くはなかった。

 仙台藩と共に同盟を主導した米沢藩は、上杉家がかつて越後の領主で、「戦争に勝てば、越後に戻れる」と意欲を燃やした。だが、江戸家老が「江戸は薩長が支配し、大勢は決まった」という情報を入れ、同盟に疑心暗鬼になった。白河で敗れた会津藩の援軍要請を断り、越後の戦闘も及び腰となった。

 庄内藩は薩摩藩と因縁がある。庄内藩は江戸の薩摩藩邸焼き打ちを実行し、会津藩と共に朝敵とされた。焼き打ちは、江戸で騒乱を起こし、戦争に持ち込むという薩摩藩士西郷隆盛の謀略で引き起こされたとする説がある。

 秋田藩を攻めた庄内藩は、豪商本間家が金を出して新式銃を買ったため連戦連勝だった。降伏後は西郷が寛大な態度を示し、薩摩との交流が続いた。

 長岡藩は家老河井継之助が中立を宣言したが、新政府軍に受け入れられず戦いを始めた。河井は「越後の竜」といわれた傑出した人物だが、中央では無名。京都で存在感を示しておくべきだった。

 盛岡藩は家老楢山佐渡が列藩同盟は正義と信じた。同盟を裏切った秋田を攻めたが、新政府軍にしてみれば仲間同士の戦いにすぎなかった。

 戊辰戦争から50年後、藩出身の原敬は「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。勝てば官軍、負くれば賊軍」と語っている。薩長藩閥政治に挑んだ原は東北初の総理大臣に就任し、佐渡の恨みを晴らしたといえる。

 <奥羽越列藩同盟の意義は何だったのか>

≪北方政権目指す≫

 歴史上初めて東北は一つという発想で連携できたのは画期的。今の地方の時代につながる先駆的な行動だったと言えるだろう。

 基本にあったのは仙台藩の玉虫左太夫が米国で見た共和政治。公正正義、衆議、弱者への思いやりを込めた画期的な連帯だった。幕府再興ではなく、薩長新政府に対抗する北方政権を旗揚げしようとした。

 同盟はうまく戦えば、新政府に日本をリードする人材を出したかもしれない。しかし、そうならず、東北は「白河以北 一山百文」という汚名に泣いた。

[薩摩藩邸焼き打ち]1868年1月、浪士らの略奪や暴行に手を焼いた徳川幕府の江戸警備担当、庄内藩が三田の薩摩藩邸を焼き打ちした。
[河井継之助]1827〜68年。長岡藩家老。戊辰戦争で一度落城した長岡城を取り返し、奮闘した。
[楢山佐渡]1831〜69年。盛岡藩家老。奥羽越列藩同盟入りを決断。敗戦の責任を負って切腹した。
[原敬]1856〜1921年。盛岡藩出身。立憲政友会総裁を経て首相。爵位を持たず平民宰相と呼ばれた。

1121荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:26

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180329_73045.html
2018年03月29日木曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(9)強い大藩意識 同盟を主導

[くりはら・しんいちろう]1975年3月、上山市生まれ。東北大大学院文学研究科修了。著書に「戊辰戦争と『奥羽越』列藩同盟」「幕末戊辰仙台藩の群像-但木土佐とその周辺」など。仙台市青葉区在住。

家名断絶になった仙台藩士の名簿「明治5年 官省願伺綴」。戊辰戦争後、多くの藩士が過酷な処分を受けたことを示す(宮城県公文書館蔵)

◎仙台藩は何を考えていたのか/宮城県公文書館専門調査員・栗原伸一郎さん

 <奥羽越列藩同盟は仙台藩が主導し、動かなければ誕生しなかった。幕末の仙台藩は何を考え、どう行動したのか。宮城県公文書館専門調査員の栗原伸一郎さん(43)は「大藩としての強い自意識があった」と語る>

◎密約口伝の覚書
 仙台藩は国持ち大名の大藩だった。幕末の時点で直臣約1万人、陪臣約2万4000人を抱え、石高は62万石と全国で3番目。官位も高く、加賀、薩摩藩と並ぶ「外様御三家」としての自己認識があった。

 奥羽の主導者という意識も持っていた。幕末の資料に「伊達家は鎮守府将軍」という話が出てくる。鎮守府将軍は古代に蝦夷に対処するため陸奥国に置かれた軍政府長官で、実際は江戸時代になった人はいない。奥羽で問題が起きれば、解決するのが自分たちの役割と考えた。

 さらに朝廷や幕府を助ける存在だと自覚していた。真偽は不明だが、ある重臣の家には、非常時に仙台藩が江戸を守り、水戸藩が京都を守るという密約が両藩間で結ばれていたという口伝の覚書が残る。

 仙台藩が何か行動を起こす場合、奥羽の大藩としてふさわしい振る舞いかという問題が常につきまとった。藩内ではよく意見が衝突したが、どの藩士も「大藩としてどうするか」を考えた点は同じだった。

 <仙台藩は京都の政局に関与しようとする姿勢が乏しかったと指摘される>

◎国政関与を議論
 理由の一つに奥羽地域を重視する意識があったと考えられる。地域を守る「鎮守府将軍」として警護や治安維持に当たることに意義を見いだし、政局から距離を保つことを正当化した。

 ただ、京都の仙台藩士は積極的に動いた。大政奉還後は対応を協議するため奥羽各藩に呼び掛けて会議を開いた。奥羽以外の藩とも接触し、熊本藩と連携する動きにつながった。後に熊本藩内では奥羽越列藩同盟との連携を念頭に挙兵する計画も浮上した。

 政治秩序が激変すると、仙台藩内では「今こそ動いて薩長と対峙(たいじ)するべきだ」「奥羽諸藩を率いて京都に行くべきだ」などと、自藩領に待機せず、国政に積極的に関与しようという議論が展開された。

 戊辰戦争勃発後、藩内では、武力を用いずに会津藩を開城させて時局を収拾することによって発言力を得ようとする意見が出た。こうした奥羽を主導しようという大藩意識が奥羽越列藩同盟の結成につながった。

 仙台藩は薩摩、長州藩を「公論を無視し、私心で戦争や改革を進めている」と対決姿勢を鮮明にし、中央政局を転換しようとした。しかし、同盟は軍事行動を展開したため崩壊した。

 <幕末の仙台藩ではどんな人物が活躍したのか>

 あまり知られていないが、波瀾(はらん)万丈の人生を送った藩士が多い。藩全般のかじ取りをしたのは奉行の但木土佐(ただきとさ)。玉虫左太夫は全国で情報収集し、藩主に直接意見を言った。玉虫のような100石以下の、家格が高くない藩士が登用され、藩を動かした。

 但木、玉虫らは資料が少なく、不明な点が多い。幕末仙台藩の歴史は研究が少なく、まだまだ基本的なことが分かっていない。藤原相之助の「仙台戊辰史」が基本文献になり、それ以外のことがあまり調べられていない。調査は難しいが、少しでも明らかにする努力が必要だ。

[但木土佐]1817〜69年。幕末仙台藩の奉行。新政府軍の標的となった会津藩の救済を目指し、奥羽越列藩同盟を主導した。
[藤原相之助]1867〜1947年。ジャーナリスト。歴史家。東北新聞などを経て河北新報主筆。著書に「仙台戊辰史」「平泉情史 藤原秀衡」など。

1122荷主研究者:2018/04/15(日) 11:37:49

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201803/20180330_63003.html
2018年03月30日金曜日 河北新報
<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(10完)「辺境」イメージ 決定的に

河西英通(かわにし・ひでみち)1953年11月、北海道生まれ。弘前大卒、北海道大大学院博士課程満期退学。上越教育大助教授を経て2007年から現職。著書に「東北-つくられた異境」「『東北』を読む」など。

会津藩主松平容保らが臨んだ降伏式の様子を描いた「会津軍記 会津藩降伏の図」(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎軍事的敗北の影響は/広島大大学院教授・河西英通さん

 <戊辰戦争の敗北は東北にどんな影響をもたらしたのか。東北の近代史を研究する広島大大学院教授の河西英通さん(64)は「東北イコール辺境のイメージを決定づけ、その後も印象の再生産が続いた」と指摘する>

◎未開の地 固定化

 江戸時代の日本は基本的に親藩・譜代・外様といった来歴や、財政規模を示す石高で藩のステータスが決まっていた。「東北」「西南」など地域区分はなく、モザイク状の社会だった。

 中央集権的な政治行政が定着した途端、東北が「貧しい未開の地」で、西南が文明的で「進んでいる」というイメージが固定化していった。「白河以北一山百文」史観が成立する。

 近代になって進んだモノカルチャー化が背景にある。東北の産業がコメ作りに集約される中、経済発展の歴史や可能性も消えていく。凶作・飢饉(ききん)も、一元的農業ゆえの落とし穴だった。

 植民地ができてコメの輸入が増えると、東北の産業が空洞化する。宿命的な遅れではなく、国の政策的な判断もあり、結果的に「遅れた地域」とみなされていった。

 <軍事的敗北は、東北人の自己認識にどんな影響を与えたのか>

◎西南日本に対抗

 東北と一口に言っても太平洋側と日本海側で気候・風土は異なる。県内でも青森の「津軽」「南部」のように地域の成り立ちが違う。都市と地方の格差や対抗意識もある。ばらばらなのに、藩閥政府批判や西南日本に対抗するため「東北意識」が育まれていく。

 (1887年からの)明治20年代の自由民権運動の中で「第二維新論」と東北主義が生まれる。東北の運動家は「第二の維新を起こそう」と、とりあえず明治維新を「第一の維新」として肯定する。その上で「これから求められる『第二維新』はわれわれがやらせていただく」と訴える。

 明治22、23年の青森県の新聞記事などには地域や歴史への複雑な思いが語られている。レトリックの側面もあると思うが「自虐史観」。未開だから「開発されなければならない」という東北開発論につながった。

 <凶作や身売りといった東北の貧困は1935年からの昭和10年代、昭和維新運動に結び付く>

◎「正義」の視点に

 貧しさは東北だけの問題ではないのに、ひたすら東北の貧しさが強調され、帝国主義的対外膨張に突き進む。東北人自身も国家的使命感を強く意識する。自分たちは強い兵士であり、東北は食料や資源を供給し戦時体制を支える-というプライドを持つ。

 ナショナリズムの高まりの中で否定的イメージは薄まるが、敗戦で植民地を失うと東北は再び「辺境」に戻る。一方で「資源は東北にしかない」と、また東北開発論に注目が集まる。高度成長期には、失われた日本の「原郷」「異境」という印象も付与された。東日本大震災でも「我慢強い東北の人々」が称賛された。

 戊辰戦争は東北全体が敗者だったわけではない。秋田藩や弘前藩など官軍についた藩もあった。しかしその後の歴史を見ると、東北は全体として後進地化、植民地化されていく。

 戊辰後150年の歩みを眺め、これからの150年を展望するとき、浮かれた勝者や中央ではなく、苦汁をなめた東北や周辺側によって立つことが大事。その時、東北の視点は決して「敗北」ではなく、新しい歴史像を描く「勝利」「正義」の視点になるはずだ。

1123とはずがたり:2018/05/02(水) 10:17:22
「うそで政権短命化、歴史が証明する教訓」磯田道史さん
https://www.asahi.com/articles/ASL4Q52YSL4QUPQJ001.html?ref=tw_asahi
聞き手・後藤太輔2018年4月25日08時13分

 歴史家として過去の様々な記録を読むと分かるのは、江戸から明治までの日本は、細かく正確に文書を残す記録大国だったということです。その国がいま「改ざんする」「うそを書く」「残さない」という公文書3悪で歴史に残る問題を起こしてきました。

「公文書焼かれた国、歴史の空白生まれる」保阪正康さん
 江戸時代に細かく記録を残すようになったのは、農民と武士が離れて暮らすようになり、武士が統治の役割を担うようになったからです。武士は、領地での出来事の細かい記録を積み重ね、よりよい統治を行おうとしたのです。

 250年を超える江戸時代に日本人に染みついた記録をとる癖は、明治時代に力を発揮します。福沢諭吉や岩倉具視の海外使節団が残した西洋の詳細な記録は共有され、急激な近代化を支えました。

 しかし日露戦争に勝ってから記…

1124とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:18
宗教よりこっちだな。

「潜伏キリシタン」世界遺産へ…日本人がしがちな誤解を解いておこう
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180701-00056354-gendaibiz-bus_all&p=1
7/1(日) 13:00配信 現代ビジネス

大浦天主堂を建てたのは誰か?
 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産への登録が決定された。

 ニュース映像では、たびたび教会の映像が流れていた。大浦天主堂や黒島天主堂である。

 見逃しそうなところだけれど、しかし考えてみると、奇妙な取り合わせである。

 「潜伏キリシタン」はキリスト教徒であることを隠し、「潜伏」していたから(表面上は仏教徒であったから)潜伏(隠れ)キリシタンなのであって、その文化に「どこから見てもキリスト教の象徴」である教会は存在しないはずだ。

 日本独自の文化である潜伏キリシタンと、大浦天主堂は、本来は直接関係がない。大浦天主堂は潜伏キリシタンが建てたものではない。

 しかしニュース映像では、教会を映したいのだろう。日本人が見たときに、あ、キリスト教徒の文化が登録されるのだ、とわかりやすい。

 大浦天主堂は、フランス人が自分たちのために長崎に建てた教会堂である。

 建てられたのは元治2年(1865年)だから明治マイナス3年、つまり3年後が明治元年になるという、幕末ぎりぎりの建立である。

 日本人が、キリスト教を信仰するのは犯罪だった時代だから、日本人信者のための教会ではない。

 ただ、建立してまもなく、浦上村の潜伏キリシタンがここを訪れ、自分たちもカトリック教徒である、とフランス人神父に告白した。そういう「隠れ(潜伏)信徒の発見」の場所であるため、今回の「潜伏キリシタン遺産」に入っている。

 しかし、その告白が遠因となったのだろう、しばらく経ってから浦上村の潜伏キリシタンはそれまでの埋葬方法を拒否した。つまりキリスト教方式による埋葬を自分たちでやろうとしたのだ。

 残念ながら、フランス人の教会が建立されようと、日本人のキリスト教信仰は犯罪である。幕府に通報され、浦上村の信者は大量検挙され、やがて流刑になり、流刑先で多くの信者が死んだ。

 浦上四番崩れ、と呼ばれる事件である。

 浦上村の史上四回目の信者摘発、という意味の呼称である。つまり江戸期を通して、それまで三度、同様の摘発があったのだ。

本部からの「勧告」
 教会堂として単体で登録されるのは、この大浦天主堂だけである。

 他のものは「長崎の教会群」で申請されたときは却下され、周辺の「潜伏キリシタン施設」を含めたものとして、つまり風景の一部として、申請しなおされたものである。

 そういう教会には以下のものがある(カッコ内は建設完成年)。

 黒島天主堂(1902年。初期建立は1878年)
旧五輪教会堂(1881年のものを1931年に移築)
旧野首教会(1908年。初期建立は1882年)
出津天主堂(1909年。初期建立は1882年)
大野教会堂(1893年)
頭ケ島天主堂(1919年)

1125とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:29

 もっとも古いものが、久賀島の五輪教会堂1881年建立であるが、それはこの島の入り口に近い浜脇地区に建てられた教会を、1931年(昭和6年)に五輪地区の山のエリアに移築したものである。

 ここへはいまだにクルマで行けないらしい。最後は山道を10分ほど歩くため、雨天やその直後には到達困難との案内がある(それで世界遺産として大丈夫なのかしら、とちょっと心配ですが)。

 たしかに他の教会に比べると、日本家屋のような建築で、西洋建築が本格化する前の、土着の教会という雰囲気がある。潜伏キリシタン時代に近い感じがしている。でも、潜伏キリシタンの施設ではない。

 ほかの施設は明治の後半から大正時代に建てられたもので、西洋建築が流行していた時代の立派な教会堂である。

 なかでも黒島天主堂が象徴的存在なので、ここもニュースで映されていた。

 立派な西洋建築で、威風堂々という印象を持った。

 でも「潜伏キリシタン」(関連)施設として紹介されているのは違和感がある。映像だけを見たとき、一瞬、ここはキリシタンが繋がれた牢獄かなんかだったのか、と奇妙な連想をしてしまった。キリスト教信仰が犯罪だった時代は、見つかれば牢獄に繋がれてたわけだから。

 最初、長崎の古い教会群を世界遺産に申請していたのが、潜伏キリシタン施設に限って申請しなさい、と勧告されたのは、そこに日本の独自性があるからで、その勧告の意味はすごくわかる。

 ただ、残念ながら「潜伏」の文化である。キリスト教徒であることが外側からわかってはいけない文化だ。

 隠れていた人たちの文化遺産というのは、犯罪者が仕方なく残した証拠のようなもので(実際にキリストを祀る道具が見つかれば犯罪者として捕縛される状況だから、比喩ではない)、人を圧倒するようなビジュアルを持っていない。

 言ってしまえば地味である。

 その背後にある精神史まで見ないと、感得できない遺産であり、おそらく指示した本部はそういう意味合いを持たせていたのだろう。

 しかし、残念ながら、日本人にはあまり“キリスト教文化理解の基盤”がないようにおもう。

 クリスマス歴史の新書(『愛と狂瀾のメリークリスマス』)を書くために日本のキリスト教史を調べて以来、とても強く感じていることである。

潜伏か、隠れか
 そもそも「潜伏キリシタン」という言葉にあまり馴染みがない。今回の世界遺産報道で初耳という人もいるだろう。

 ふつう「隠れキリシタン」と呼ばれている。

 「鎖国」が「海禁」とされているのと同じく、歴史の視点を変えて、それに沿って歴史用語も変えていくようである。ただ、この変換が「新しい発見によっていままでの概念では通用しなくなったから」ではないように見える。

 『潜伏キリシタン』(大橋幸泰=著、2014年刊)の説明によると、こういうものである(ちなみに当書は新しい知見に満ちた刺激的な好著である)。

 隠れるように活動していたことは事実なので、江戸時代のキリシタンを“隠れキリシタン”と呼ぶことが直ちに誤りだとはいえないが、「潜伏キリシタン」の呼称を使うのは、明治時代以降、禁教が解除されていったにもかかわらず、隠れるように活動していた近現代のキリシタン継承者との差異を意識するためである。江戸時代のほうはむしろ潜伏状態にあった、というのがもっとも事実に近い。

1126とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:41

 つまり、完全な禁教下で、見つかれば殺される(つまり犯罪者として死刑になる)可能性の高い時代の信仰を「潜伏」、表立った禁教が解かれた時期以降、それでも隠れて活動していたキリシタンを「隠れ」と分けているのである。一瞬、なるほどと納得してしまうが、しかし日本語として考えてみるとよくわからない。

 「隠れ」と「潜伏」の使い方の差異が明確ではない。

 そもそも「犯罪を犯した者の長期逃亡」を必ず「潜伏」というわけではない。

 「彼は隠れている」
「彼は潜伏している」

 この二文の違いをどう感じるかという問題である。

 たしかに潜伏のほうが、やや強めな印象を受けるが、あくまで印象でしかない。どちらも自分の意志で身を隠しているという意味に取れる。外的な要因によってやむなく、という意味が、どちらかに必ず含まれているわけではない。

 わかりにくい。

 しかし学術用語を決める権利は学者にあるのだがら、学者がそういう意味で使っているなら従うしかない。

 ただ、「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」の意味の違いは、通常日本語の範疇ではわかりにくいのはたしかである。あまりセンスのいい言い換えではない。

明治政府もキリスト教を禁じていた?
 「潜伏キリシタン遺産」はいくつも登録されており、かなりの長い期間にわたる遺産が並ぶ。

 ただ、じつは「日本ではいつ、キリスト教の禁教は解かれたのか」というポイントがはっきりしておらず、少しわかりにくくなっている。禁教時代の終わりが明確ではないのだ。

 「徳川幕府が倒れて、明治になったらキリスト教は許されたんじゃないの」、とざっくり考えている人もいるだろう。でもそれは違う。

 明治新政府は、べつだん開明的な存在ではなかった。

 古い徳川政府から新しい明治政府になって世の中がすべてよくなった、というのは、明治政府自身がしきりに流し続けた政治的プロパガンダであり、現実はかなり違う。

 明治新政府は、キリスト教は禁教のまま、その信者は強く弾圧した。

 政府発足当初は、仏教さえも外来宗教として扱い、神仏分離令を出して、全国の寺々の仏像が壊された時代を作った政府である(その廃仏毀釈の騒動はわりと早々におさまったが)。キリスト教信仰など認めるわけがない。

 五箇条の御誓文とほぼ同時期に「五榜の掲示」を布告し、キリスト教禁止を明確に打ち出している。

キリスト教は「解禁」されていない
 秀吉が1587年に布告した伴天連追放令に始まったキリスト教禁教の流れは、徳川幕府も継承し、1610年代に禁教令を次々と出し、1637年の島原の乱以降、国内のキリスト教徒を一掃する政策を打ち出した(俗に鎖国政策と呼ばれる「キリスト教徒の殲滅施策」である)。

 明治政府もその流れを継承した。

 キリスト教信仰は引き続き禁止。

 ただ、徳川時代とは状況がかなり違う。

 なにせ、横浜や築地あたりに限られるにしろ、異人さんがそこにいるのである。

 キリスト教徒が我が物顔で歩いてる時代のキリスト教禁教は、それまでと変わらざるをえない。

 またキリスト教を信じる日本人を捕縛し、牢に放り込んでいるのを知った西洋列強は、強く非難しはじめた。欧米を歴訪している政府高官たちから、キリスト教禁止を緩めないと、条約改正がうまくいかないと報告もあり、政府も譲歩していく。

 しかし明確に「これから日本人がキリスト教を信じても、罪とはしません」と国民に向かって明言したことはついになかった。ずっと「黙許」でしかない。

 日本のキリスト教に多くの人が興味ないのはしかたがないことであるが、そのポイントだけは押さえておいてほしい。

1127とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:58

 「明治政府は発足時に「キリスト教信仰は禁止」と明言したあと、その禁止を取り消すことは一度もなかった」

 つまりキリスト教信仰解禁の年、というのは、政府の公式発表を追う限り、日本史上、存在していないのである。

 今回の潜伏キリシタン世界遺産への報道では、「1873年にキリスト教解禁」という文字が見えた。

 どうやら、それが歴史的事実という認識があるようだ。

 残念ながら、錯誤である、というしかない。世界キリスト教史に、わざと錯誤されるように流された情報であり、日本史としては、間違っている、というべき事項である。

 少なくとも「解禁」という事実はない(日本人がなぜ、日本史側から追わないで、世界キリスト教史から追おうとするのか、その態度も問題だとおもうが)。

7/1(日) 13:00配信 現代ビジネス
明治政府の公式見解
 1873年の解禁と言われるのは「五榜の掲示の撤去」のことである。

 「五榜の掲示」は明治政府の民衆への五つの禁令である。

 「五輪の道の遵守」「徒党して強訴や逃散することの禁止」「切支丹邪宗門の禁止」「攘夷行為の禁止(外国人への暴力禁止)」「郷村からの逃散禁止」

 これは新政府樹立のとき(戊辰戦争の真っ最中)に打ち出された新政府の禁令である。徳川時代と同じく、高札に書かれ、辻々に立てられた。

 この五榜の掲示の立て札が1873年(明治6年)に撤去されたのだ。

 各キリスト教国は、これにて日本国はキリスト教信仰を認めたとして、自国へ打電した。

 しかし、明治政府の見解は違う。

 この撤去のあと、イギリスの新聞が「日本政府はキリスト教徒を処罰する法典を廃棄した」と報じたのを見た外務省が驚き、太政官政府にこれは本当なのかと問い質した。 

 政府の回答は「高札の文面は人民があまねく熟知したので、取り除いたまでである。もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」というものであった。

 高札での告知では、これからあらゆる分野の新法典を公布していくのに追いつかないので、告知スタイルを変えただけで、書かれた内容は今後も続行である、というのが、政府が行政機関に告知した内容である。

 これが明治政府の公式見解だというしかない。

 1873年の日本政府には「もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」のである。

ひねり出された苦肉の策
 じつは、明治政府がとった立場はダブルスタンダードだった。

 外国に対する態度と、日本人に対する態度を変えていたのだ。

 簡単に言えば「日本人に向かってはキリスト教信仰は禁止」「外国人に向かっては、キリスト教に対して宥和的態度をとりはじめたかも、と勝手に誤解したとしても、敢えて否定しない」という面倒な両面である。

 日本の国際的な評判を落とさないための苦肉の策である。

 五榜の掲示を撤去したことによって、キリスト教宥和に動き始めたと勝手に誤解した外国人たちは、あえてそのままにしておいた。それは違う、まだキリスト教信仰は許してない、とこちらから出向いて通告することはしなかった。それは世界相手に喧嘩を売るようなものだからだ。

 日本人に向けては、「日本人のキリスト教信仰は今後も認めない」という態度は崩していない。おそらく明治6年という時期に、日本人のキリスト教信仰を認める、などという衝撃的な発表をすると、日本国中が大きく動揺し、政府転覆勢力に利用される、という恐れを抱いたのだろう。

 理由はどうあれ、200年間、犯罪者だと指定していた切支丹をいきなり解き放つと聞かされたら、ふつうの庶民はただ驚いて怖がるだけである。思想的背景まで考えて喜ぶ庶民が多かったとはおもえない。だから切支丹禁制は継続である。

1128とはずがたり:2018/07/04(水) 18:47:15

 そういうダブルスタンダードである。

 国際的立場の弱い国の政府判断としては、しかたのないところだったのだろう。正論だけを通したり、本音をぶちまけてしまっては、政治は成り立たない。苦しい政治判断である。

 この前年、1872年(明治5年)には「自葬の禁止」を通達している。

 自葬の禁止というのは、仏式か神道式でしか埋葬をしてはいけないというものである。日本人のキリスト教式の埋葬は「自葬」とされ、たびたび捕縛されている。明治政府による明確なキリスト教信仰禁止(信仰は犯罪とする)という告知である。

 明治6年に、その自葬禁止の令は継続中である。

 日本人には、キリスト教信仰を許さず、目立つ布教などは取り締まっていた。

そして黙許へ
 1875年(明治8年)には、函館でのキリスト教布教が妨害されたので、イギリス領事が抗議したところ、外務卿(つまり外務大臣)寺島宗則はこう答えている。

 「耶蘇教(キリスト教)はいまもって我が政府の制禁するところであって、いまだこの制禁を廃したことはない」

 こうイギリス領事へ明言している。

 1875年になってもキリスト教信仰は「解禁」されたとはいえない。

 外務省のトップがそう通告し、それが記録として残っている。

 何度か、キリスト教解禁を告知すべし、とキリスト教国側から要求されたことがあるが、明治政府は絶対それに応じなかった。

 ついぞ「日本人のキリスト教信仰を認める」とは一度たりとも告知していない。

 ただ、取り締まらなくなっただけである。つまり黙許である。

 だから、日本国内でキリスト教信仰が許された年は、明確には特定できない。

 これが歴史事実に対する謙虚な態度だとおもう。

 あまりテレビで「1873年キリスト教解禁」という文字を出さないほうがいいとおもいます(インターネットや雑誌でもですけど)。

 それは、私たちは、自国日本のキリスト教の歴史についてさほど関心を持っていない、と表明しているようなものだ。キリスト教徒に対して優しい気持ちで言っているようでいて、じつは真逆の態度になっている。

大日本国憲法下の「信教の自由」
 「自葬の禁止」は1884年(明治17年)に規制が解かれる。

 人種や宗旨にかかわらず、その土地で死んだ者(およびその土地に本籍を持つ者)は、そこに埋葬していい、ということになった。

 地味な政令であるが、これがかなりわかりやすいキリスト教信仰“黙許”の政令である。ひとこともキリスト教に触れてないが、そういうことである。1884年(明治17年)はひとつのわかりやすい黙許の転換点である。

 明治政府樹立当初の理念のひとつに「神道」を国の中心に置くことがあった(少なくとも狂信的にそれを目指す集団がいた)。

 しかしいくつかの挫折があり10年で諦めざるをえなくなった。

 その明治10年までは、政府首脳は(幕末の志士上がりの元勲たちは)、日本人のキリスト教信仰を認めるつもりはまったくなかったとおもわれる。あらたな宗教的理念を作り出そうとしているときに、そんなものを解き放つわけがない。

 しかし神道国教化は失敗する。やがて民権運動も起こる。

 明治10年代(1877-1886)に入り、社会は別のタームへ入りだした。

 その状況で、キリスト教信仰は黙許されるようになったようだ。

 民衆レベルでは、キリシタンであると告白すると、かなりの差別を受けたようだが(ときに宣教師が暴力的に襲撃されることも起こった)、政府が弾圧することは、なくなっていく。

1129とはずがたり:2018/07/04(水) 18:47:41
>>1124-1129
 1889年発布の大日本国憲法には信教の自由の条文がある。

 キリスト教信者である、ということだけで、捕縛され処刑される可能性は低くなった。

 「なくなった」のではなく「低くなった」というのは、この信教の自由の条文には留保事項があるからだ。

 「安寧秩序を妨げす及び臣民たるの義務に背かざる限において」信教の自由を有す、とされている。日本国の安寧秩序を妨げたり、臣民の義務に背くような宗教であれば、断固、取り締まるというもので、そこにはキリスト教徒を想定しているようにおもえる。

 明治政府の立場からじっくり見ると、常にキリスト教信仰は警戒されており、国家安寧の敵になる可能性を秘めていると見なされていただろう。

日本人とキリスト教の距離感
 今回の世界遺産には、各時代の遺産が登録されている。

 鎖国以前の島原の乱の戦場である「原城跡」がもっとも歴史的に古い。ただ、この時代のキリシタンは「棄教しなかった者たち」であり、潜伏キリシタンとは少し違う。

 鎖国時代(1639年から1853年)が、まさに潜伏キリシタンの時代である。この時代の遺物を中心にキリスト教遺産が選ばれている。しかし、見た目は地味である。

 たぶんその地味さゆえに、幕末開国期(1853年から1867年)、明治禁教期(始まりは1868年、終息は1880年代から1890年代)の「西洋ものらしい文物」が取り入れられている。わかりやすくいえば「古い教会堂」である。

 目立つアイコンが欲しいからだろう。

 おそらく、どこまで行っても、キリスト教文化は日本人にとって異文化なのだ。

 観光施設の目玉としてシンボリックな「教会群」を何とか入れたい。

 ただそうしたことによって「潜伏キリシタンの遺産」というイメージがわかりにくくなってしまった。繰り返しになるが、潜伏と教会は、基本、両立しない。

 そのあたりは、世界遺産センターの指示と、地元の思惑とが、少し行き違っている感じがする。

 世界の視点から見れば、「日本のキリスト教文化」というのは、あまりめぼしいものがない。世界的に見て、キリスト教信者がおっそろしく少ない国である。比較のうえなら、ほぼ信者がいない、と言ってもいいくらいだ(信者が全人口の1%に満たない)。

 そんな国においては、国内的視点で見れば、150年前から存在している教会堂群は、とても珍しく、保存して残し、また多くの人に見てもらって、観光資材としたいものだろう。

 しかしそれは「キリスト教徒のほとんどいない日本」だからこその感覚である。

 日本の神社もキリスト教施設と変わらない古さを持っている。2000年レベルで存在する神社たちのなかで、「明治になってから創建された神社群」だけを歴史遺産として保護しようという申請があったら「それに意味はないと言わないけど、それ以前にもっと守るべき古い神社があるんじゃないですか」と指摘されそうだ。

 世界レベルで見れば、日本の教会群は、そういう「最近できたもの」グループに入るはずである。

 世界遺産なんだから、世界レベルで判断するしかない。

 2000年近くに及ぶキリスト教文化とその遺産を持つ人たちから見れば、「日本にしか見られないキリスト教文化の特徴」は「200年を越えた国を挙げての徹底した禁教時代に、それでも信仰を守り続けた潜伏キリシタンという凄まじい土俗の力」にしかないのである。

 今回の指摘はそういう意味を持つと私はおもっている。

 世界で共有できる独特の遺産は、おそらくその「精神性」にある。

 ただ日本人は、あまりそういうことを想像しない。

 一部の人をのぞき、日本でのキリスト教の活動に、あまり興味を持っていないようにおもう。

 キリスト教施設は、いつも「エキゾチックでロマンチックで荘厳」という気分で捉えられている。

 おそらく世界遺産センターは、日本人のそういう気分を見抜いて「自国向けの視点ではなく、きちんと世界向けの視点を持ちなさい」という意味で、潜伏キリシタンに焦点を当てよ、と指導してきたのだろう。教育的指導である。

 日本人が自力でその視点を持つのは、なかなかむずかしいのだ。

 日本にとって、どこまでもキリスト教文化は異文化である。

 ひょっとしたら「日本」があり続けるかぎり、そうなのかもしれない、とあらためておもう。

堀井 憲一郎

1130とはずがたり:2018/07/18(水) 12:09:06
韓国元慰安婦支援団体「挺対協」が「正義連」に名称変更
https://www.asahi.com/articles/ASL7J6WS7L7JUHBI033.html?ref=goonews
ソウル=武田肇2018年7月16日21時30分

 韓国の元慰安婦支援団体「韓国挺身(ていしん)隊問題対策協議会」(挺対協)は16日、組織改編を行い、新たに「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)の名称で活動に取り組むと明らかにした。挺対協は韓国で最大の元慰安婦支援団体。名称変更は1990年の発足以来初めて。

 発表によると、挺対協は、2015年の日韓慰安婦合意に対抗し、元慰安婦を対象に独自に福祉事業を行うために設立された「正義記憶財団」と組織統合する。

 今後は、①戦時性暴力の再発防止②日本軍慰安婦問題に関する調査・研究▽次世代に歴史を継承する活動に力点をおくという。理事長には尹美香(ユンミヒャン)挺対協常任代表が就いた。

 挺対協は元慰安婦の証言集の出版や生活支援を手がけ、ソウルの日本大使館周辺で毎週水曜日、日本に謝罪と賠償を求める「水曜デモ」を主宰している。11年には同大使館前に設置した「少女像」が日韓の外交問題となった。また最近はベトナム戦争での韓国兵による性暴力や、アフリカ・コンゴ紛争での性暴力の被害者も支援している。(ソウル=武田肇)

1131とはずがたり:2018/07/20(金) 18:45:27

大西洋は「大」、太平洋は「太」になった“本当の理由”
https://excite.co.jp/News/it_g/20180720/Itmedia_nl_20180719089.html
ねとらぼ 2018年7月20日 11時00分

「タイセイヨウ」「タイヘイヨウ」と音が似ているのもあって、ややこしい。

 ヨーロッパ、アメリカのあいだに位置する海は「『大』西洋」。アメリカ、アジアのあいだにあるのは「『太』平洋」。よく似ていますが、後者は「大」に点が入ります。テストでうっかり間違ってしまった経験がある人も多いのでは?

 この違いについて「太平洋は『Pacific Ocean』を翻訳したもの。Pacificには平和、太平という意味があるから『太』と書く」などと説明されることがありますが、これは誤りなんだとか。一体、どういうことなんです?

●大西洋は「大」、太平洋は「太」になった“本当の理由”

 16世紀、史上初の世界一周に成功したとされるマゼランは、ある大洋をラテン語で『Mare Pacificum(平穏な海)』と命名。この英語訳が「Pacific Ocean」で、日本語訳は「太平洋」――。このような説明は辞典などにも掲載されているものの、岩手大学名誉教授・米地文夫氏によると“短絡的な理解”とのこと。

 同氏の解説をざっくりまとめると「そもそも太平洋にはさまざまな呼称や書き方があり、スムーズに定着したわけではない」というものになります。

 例えば、イタリア人宣教師マテオ・リッチが17世紀初頭に作成した「坤輿万国全図」(こんよばんこくぜんず)では、太平洋がいくつかに分けられ、以下のような呼称が使われているとのこと。

・大東洋

・墨瓦蝋泥海

・寧海

 この他にも「東海」「東洋海」「大日本海」などさまざまな名前があり、太平洋という表現が初めて使われたのは、マゼランの航海から約300年後のこと。…

イギリス人宣教師が手掛けた「地理全誌」(1853〜1854年)に見られるそうです。しかし、ややこしいことに、その著者自身は点が入らない「『大』平洋」を用いているといいます。

※Pacific Oceanには「Grand Ocean」という呼び方も存在。米地文夫氏は、両者を合わせた「Grand Pacific Ocean」の訳として『大』平洋が採用されたとしている。

 また、明治初期の日本でも「『大』平洋」という書き方が見られ、「大」「太」のどちらも使われていたとか。この表現の混在は1903年、国定教科書に「『太』平洋」と記載されたことで収まったとのこと。

 つまり、歴史をさかのぼると「『太』平洋」「『大』平洋」はともに間違いではなかったというわけ。元も子もない話になってしまいますが、その片方「『太』平洋」だけが正解とされるようになった理由は「教科書にそう書いてあるから」ということができそうです。

●主要参考文献

・太平洋は当初「大平洋」であった ?(季刊地理学/米地文夫氏)

・How the oceans got their names(OxfordWords blog)

1132名無しさん:2018/08/12(日) 23:21:43
http://jyouhouya3.net/2013/07/_1950.html

2013/07/05
[貴重画像] ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

共有ツイートピンメールロシアのフォーラムで紹介されていた1950年代の日本の画像。撮影したのは旧軍パイロットのアメリカ人。日本に訪問した際に撮影したものです。似たような画像で、元米軍の方が、撮影した、昭和40年頃の自衛隊駐屯地の画像を見たことがありますが、日本のこういった画像は海外の方が持ってる場合もあるんだなぁと実感させられます。今回紹介する画像は、カラー写真で写りも綺麗です。
[貴重画像] ロシアのサイトに掲載された1950年代の日本

1133とはずがたり:2018/08/14(火) 13:43:29
平和教育に赤信号 沖縄県・ひめゆり資料館の来館者はほぼ観光客
2017年6月19日 07:55
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/103431

 沖縄戦の記録や証言などを展示している糸満市の沖縄県平和祈念資料館とひめゆり平和祈念資料館の県内の入館者数が低迷している。県資料館の2016年度の県内有料観覧者数(無料の学校団体除く)は7963人で、開業翌年の01年度と比べて8割減少。ひめゆりでは県内の利用状況が分かる小中高校の来校数が、ピークだった1995年度の140校から2016年度は72校と、ほぼ半減した。終戦から72年を迎え、沖縄戦の証言者が年々少なくなる中、施設関係者は「平和学習も含め、県民の関心の薄れを感じる」と危機感を抱いている。(学芸部・座安あきの)

 観光客を含めた全体の入館者総数も減少傾向。県資料館の16年度の入館者は37万2502人で10年前の06年度に比べて17%減。ひめゆりは同比約36%減の57万9865人となり、初めて60万人を割り込んだ。来館者のほとんどを観光客が占める。国内は減少傾向にあるが数年前から海外が増加し、県資料館の担当者は「全体的には下げ止まりつつある」と話す。

 一方、県内の入館者数は依然低迷が続く。県資料館の県内(有料)は開館効果があった00年度の約11万人を除くと、01年度の4万3820人が最多。08年度からは1万人を下回る。有料観覧者に占める県内の割合は05年度まで10%前後だったが、08年度以降は2%台で推移。県内小中高校の利用も00年度の368校(3万1947人)から、16年度は224校(1万8982人)に減った。

 県資料館は開館当初から、ひめゆりは08年度から県内の学校団体の入館料を無料にしているが、入館者の増加にはつながっていないという。識者や関係者は、県内客が低迷する要因の一つに、学校現場での平和教育の取り組みに課題があるとみている。

 平和祈念資料館学芸班長で、中学校で社会科を教えていた古謝将史さんは「県内の学校現場はここ数年、学力向上に力を入れ、校外学習行事を減らす傾向がある。一方で地域の身近な戦跡を活用した学習を進める学校も出始めている」と話す。「沖縄戦の体験者が少なくなる分、記憶を残す『場所』が一層重要になる。教育現場でも『場所』を活用し、共感する場面をどうつくるか、考えていく必要がある」と指摘した。

1134とはずがたり:2018/08/21(火) 12:37:42
正統史観年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-565.html

「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判

産経ニュース 2011.12.7 22:41
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n2.htm

ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874〜1964年)が、
日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の
大統領だったフランクリン・ルーズベルト
(第32代、1882〜1945年)について、
「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った
『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

1135とはずがたり:2018/08/23(木) 19:48:00
昭和天皇、戦争責任で苦悩=晩年の姿、元侍従が日記に
https://www.excite.co.jp/News/society_g/20180823/Jiji_20180823X137.html
時事通信社 2018年8月23日 16時35分



 昭和天皇が85歳だった1987年4月、太平洋戦争の責任をめぐり苦悩する姿を、元侍従の小林忍氏(故人)が日記に書き残していたことが23日分かった。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記されていた。

 小林氏は人事院出身で、74年4月に昭和天皇の侍従に就任。89年1月の昭和天皇逝去後も香淳皇后に仕え、2001年6月に皇太后宮職御用掛で退任した。06年7月に83歳で死去した。

 日記は74年から香淳皇后が逝去した00年まで27冊あり、家族が保管。共同通信を通じて、23日公開した。85歳だった昭和天皇が戦争責任を気に掛けていたとの内容は87年4月7日の欄に「昨夕のこと」として記述。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減を検討しており、同年2月には弟の高松宮が逝去した。

 これに対し、小林氏は「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と述べたと記している。

 75年11月24日の欄には、同22日の侍従長の話として、「訪米、帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており、自信を失っておられる」と記述。訪米後の75年10月の記者会見で原爆投下や戦争責任についての発言が波紋を呼んでいた。「お上の素朴な御行動が反(かえ)ってアメリカの世論を驚異的にもりあげたことなど申しあげ、自信をもって行動なさるべきことを申し上げたところ、涙をお流しになっておききになっていた」と記している。 



Read more: https://www.excite.co.jp/News/society_g/20180823/Jiji_20180823X137.html#ixzz5OzsyonXa

1136とはずがたり:2018/09/02(日) 09:56:02

会津藩士への弔辞見つかる
汚名返上の思い伝わる史料
https://this.kiji.is/408526774184477793
2018/9/1 16:38
c一般社団法人共同通信社

 150年前の戊辰戦争で犠牲になった会津藩士の家族らが、戦争から22年後に移住先の青森県で営んだ法要で読み上げたとみられる弔辞6通が、仙台市の藩士子孫宅から見つかった。専門家は「朝敵の汚名を着せられ、一刻も早く名誉を回復したい会津出身者の思いが伝わる貴重な史料だ」としている。

 弔辞は仙台市の小池純一さん(70)が自宅で発見した。1890年5月、円通寺(青森県むつ市)で開かれた二十三回忌で男女6人が読んだとみられる。

 「弾丸を援軍のない城に受けたが、盾を布団に、矛を枕にして国のために戦死した」「諸君の忠義は世の中の称賛を浴びるだろう」などとつづられていた。

1137とはずがたり:2018/09/02(日) 09:59:43
1918年米騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95

騒動の広がり
第一次世界大戦による好景気がまだ続いていた1918年(大正7年)に伊勢の福寅一派の相場師の買いあおりにより米穀取引所における期米相場は遂に50円(1石当たり)に迫り、小売価格も1升30銭から50銭を超すに至り世の中は物情騒然となった[17]。

米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年(大正7年)8月1日には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)とのねつ造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。

東京市では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた[18]。しかし、8月10日に宮武外骨を発起人として山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による野外演説会を日比谷公園で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにも関わらず当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた[18]。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている[18]。東京市での暴動は、他の地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった[18]。

こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日頃からは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、9月12日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。

炭坑への飛び火
8月17日以降には、米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県峰地炭坑などにおいて、炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ち毀しや遊郭への放火などが起こった。出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど(陸軍のねつ造)、死者13名を数える惨事となった。陸軍が発砲理由とした坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は、陸軍が発砲を正当化するためにねつ造したコメントを、『大阪朝日新聞』(大正7年8月23日付)などが取材なしに記事化したことにより流布された可能性が高い[19]。

1138とはずがたり:2018/09/02(日) 09:59:59
>>1137
騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間に渡る一連の騒動は最終的に、1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された[20]。呉市では、海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙する中、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴[21]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。

被差別部落との関わり
米騒動での刑事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった[22]。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている[23]。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。

1920年(大正9年)、事態を重く見た原内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。

軍人の参加、警官による暴動への加担
呉市では、水兵が騒動に参加して検挙された。また、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。

政府対応
政府は8月13日に1000万円の国費を米価対策資金として支出する事を発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。

平民宰相の誕生
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。

寺内は体調不良もあり8月31日に山縣有朋に辞意を告げ、9月21日に正式に辞表を提出した。

山縣は西園寺公望に組閣を命じたが、西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして9月27日に原に組閣が命じられ、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。

爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。

1140荷主研究者:2018/09/02(日) 22:14:57

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/218167?rct=n_hokkaido
2018年08/14 16:57 北海道新聞
検体求め倫理を逸脱? 北大教授、旧満州で人体実験か

 戦時下、北海道帝国大教授が軍の協力を得て、被験者の同意を得ずに人体を使った実験を行っていたことが明らかになった。背景には当時の外地の国民に対する人権意識の低さがあるが、近年、民生分野にも活用できる「デュアルユース(軍民両用)」の研究の是非が議論になる中、軍事と科学技術の距離は今も問われている。

 「この材料からどういふ方法で睾丸(こうがん)をとり出して薬品処理したかといふ事ですが(中略)相当重大な問題でもあり(中略)口を緘(とざ)して置きます」

 中国人から摘出した睾丸で染色体を観察する研究を行った北海道帝国大教授の小熊捍(おぐままもる)氏は、1939年の講演でこう述べ、手法の詳細への言及を避けた。当時は、医学研究について被験者の同意が不可欠とする国際倫理指針「ニュルンベルク綱領」が作られる前だが、小熊氏に非倫理的な人体実験との自覚があったことをうかがわせた。

 旧満州(現中国東北地方)では、関東軍防疫給水部本部(通称・731部隊)が36〜45年、生物兵器開発などのため中国人らに対する人体実験を繰り返した。犠牲者は2千〜3千人に上るとされる。

 31年の満州事変以降、日本の占領政策に抵抗する武装勢力による襲撃が相次いだ。戦時下の人体実験に詳しい神奈川大の常石(つねいし)敬一名誉教授(科学史)は当時の時代背景について「抗日運動に対する憎しみが日本で高まり、殺してもいいという考えが広がった」と語る。

 731部隊の上位部隊・関東軍の元参謀副長だった旧日本陸軍大将は回顧録で「某国立大学の外科教授が来訪し、匪賊(ひぞく)処分の機会を与えてくれと頼まれた」と振り返った。常石名誉教授は「満州は人体実験など『国内ではできない研究』ができるとされ、多くの研究者が訪れた。小熊氏も検体が欲しいあまり、非倫理的な手段をとったのだろう。資料を読む限り被験者の同意はなく、戦時とはいえ生命倫理に反する研究だった」と話す。

 見返りに軍は大学から優秀な人材を送ってもらえる利点があり、時流に乗って軍と科学者が互いに利用し合っていた構図が浮かぶ。

 各分野の科学者でつくる日本学術会議は2016年、軍事的な研究を行わないとする声明の見直しを議論。結局、昨年3月に従来の声明を継承することを決めたが、研究者の間には「自衛のための研究は許される」「基礎研究の段階では軍民の区別はない」などの声もある。戦後、科学者が一線を引いてきた軍事と科学技術の関わりは、転換点を迎えている。

 小熊氏について調べている北大大学院の川本思心(ししん)准教授(科学技術社会論)は「小熊氏の研究は軍事応用ではなく基礎的研究だが、社会環境によって研究者の良識のたがが外れ得ることを示している」と指摘。「重要なのは資金源だけでなく、研究結果がどう利用されるか。今の研究者も望んだ研究ができる環境になったとき、一線を越えないか深く考えるべきだ」と警鐘を鳴らす。(吉田隆久)

1141荷主研究者:2018/09/02(日) 22:20:54

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180814_13029.html
2018年08月14日火曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(上)勤労の日々/貴重な青春、無為に消費

火薬廠で働いていた当時の笠松さん(手前左)=1945年4月ごろ

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 大河原町の市場貞子(ていこ)さん(89)が火薬廠に動員されたのは1944年11月。旧白石高等女学校に通う15歳だった。

 「女の自分でも国のために働ける」。動員が決まった時は、不安よりも喜びが勝った。

 工場に入ると、身なりは一変する。セーラー服から作業着、スカートからもんぺ。頭には日の丸の鉢巻きを結んだ。

 寮の起床時間は午前5時。シューマンの「トロイメライ」が流れると、急いで身支度を整えた。

 食事は白米にサツマイモの葉を混ぜてかさを増やした「糧飯(かてめし)」やかゆ。粗末なものばかりだった。

 火薬廠の入り口に着くと、班長の市場さんが「白石高女隊100人入ります」と守衛に敬礼。履き慣れない地下足袋で「丘にはためく あの日の丸を…」と軍歌を歌いながら歩いた。

 敷地は530万平方メートルと広大で、入り口から持ち場まで歩いて1時間近くかかった。

 機銃火薬を定規に合わせて切断するのが市場さんの仕事。火薬はプレス機械で圧縮され、うどんのように落ちてきた。仕事は12時間勤務で夜勤もあった。

 45年3月に女学校を卒業するまで、火薬廠で働き続けた。「10代半ばの少女にとっては大変な重労働だった」と振り返る。

 火薬を取り扱うだけに仕事は危険を伴った。やけどを負ったり、機械で指を切断したりする人がいたという。

 中には命を落とす学徒もいた。旧角田中の男子生徒が作業中、機械の歯車にマントを引き込まれ、頭を強く打って亡くなる事故があった。

 「戦争で勝つにはみんなが働かなくちゃいけない」。旧大河原高等女学校から火薬廠に動員された笠松ヤエ子さん(88)=仙台市=は当時、自分の置かれた状況を当然のことと捉えた。

 終戦から時間がたつにつれ、考えが改まる。「二度と来ない青春を無為に消費させられた」。そんなやりきれなさを感じるようになった。

 一方で「女学校時代から学徒動員を取ったら何も残らない」とも思う。同級会の話題は火薬廠ばかり。当時歌った軍歌を合唱したり、習った手旗信号をしたりして昔を懐かしむ。

 貴重な学業の時間を戦争によって奪われた学徒たち。理不尽な目に遭いながらも、類を見ない経験を共にして互いの絆を強めた。

[メモ]第一海軍火薬廠は1939年、現在の柴田町船岡地区と角田市北郷地区に海軍火薬支廠として開庁し、41年に改称。機銃火薬や爆弾用爆薬の補充、供給のほか、東北開発が開設目的だった。太平洋戦争末期には学徒を含め毎日1万人が働き、終戦まで操業を続けた。

1142荷主研究者:2018/09/02(日) 22:21:31

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180815_13009.html
2018年08月15日水曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(中)戦火の中で/「敵機近づけぬ」神話も

陸上自衛隊船岡駐屯地に残る第一海軍火薬廠時代の防空壕。現在は立ち入り禁止となっている=柴田町

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 太平洋戦争末期、第一海軍火薬廠(しょう)(宮城県柴田町、角田市)の動員学徒らの間で一つの「安全神話」がささやかれていた。

 「蔵王連峰の影響で起きる乱気流のため、火薬廠に敵機が近づけない。阿武隈川から立ち上る霧で下界も見えない」

 実際には、多くの米軍機が火薬廠の上空を飛んでおり、単なるうわさ話にすぎなかった。

 話の信ぴょう性を高める事故が起こった。1945年3月10日未明。蔵王連峰の不忘山で、3機の米爆撃機B29が相次いで墜落した。

 旧白石中から火薬廠に動員された阿部雄次さん(89)=白石市=は「B29が落ちたぞ」と聞き、寮から蔵王連峰を眺めた。「確かに山が燃えていた」と振り返る。

 動員学徒は皆が皆、火薬の製造ラインに配置されたわけではない。阿部さんは防空壕(ごう)の掘削に汗を流した。「ただ国が勝つことだけを信じて働いた」と言う。

 動員学徒が火薬廠時代を追想した冊子「戦争の頃の思い出」では、旧角田中の卒業生が「火薬を作りながら、竹やりの訓練も受けた」とつづる。

 指導官は「隠れていて敵が来たら、一突きすればいい。一人一殺だ」と厳命。「アメリカが来たら、女は強姦(ごうかん)され、男は睾丸(こうがん)を抜かれる」とも語ったという。

 空襲警報が鳴ると、学徒たちは敷地内のあちこちにある防空壕に駆け込んだ。「暑いし、蚊が多いし、気持ちのいい場所ではなかった」と思い起こすのは、旧黒沢尻高等女学校(北上市)から来ていた小原崇(たか)さん(89)=北上市=だ。

 B29が火薬廠の上空に飛来することもしばしば。威嚇のためか、地上数メートルの高さまで急降下することがあった。「パイロットのゴーグルまではっきり見えた。おっかない顔だと感じた記憶がある」

 45年7月10日には、火薬廠周辺から仙台空襲の光景が見えた。空が真っ赤に染まっていたことだけが脳裏に焼き付いている。

 B29や仙台空襲を目の当たりにしても、不思議と怖さは感じなかった。「当時の自分たちには兵隊さんと同じような覚悟があったのかもしれない」と振り返る。

 結局、火薬廠は爆撃を受けずに終戦を迎える。大規模な軍需工場が標的にならなかった理由は不明だ。いずれにしても「安全神話」のおかげではないだろう。

 学徒たちの覚悟は幸いにも、空振りに終わった。

[メモ]1941年12月に太平洋戦争が開戦し、国は43年6月、労働力を補うため学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定。44年3月には動員の通年実施を決めた。同8月には学徒勤労令が発布され、第一海軍火薬廠にも学徒が逐次動員された。

1143荷主研究者:2018/09/02(日) 22:22:09

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180816_13012.html
2018年08月16日木曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(下)迎えた終戦/放心 絶望 交錯した感情

終戦直後、動員学徒が仲間からノートに寄せてもらったサインやメッセージ

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 1945年8月15日。今年の夏のように、うだるような暑さだった。

 正午、第一海軍火薬廠(宮城県柴田町、角田市)の工員が広場に集まった。旧黒沢尻高等女学校(北上市)から動員された佐々木静子さん(88)=北上市=もその一人だ。

 ラジオからの玉音放送は雑音も多く、よく聞こえなかった。「日本は戦争に負けた」。誰かがそう言うと、周りは一気に騒がしくなった。泣きだす人もいた。

 動員された旧制二高(現東北大)の学生は「慚愧(ざんき)、慚愧」と悔しがり、地面に拳をたたきつけた。

 一般の工員の一人は、やり場のない怒りを抑えられず、工場の椅子を倒し、そばにあった物を放り投げた。

 佐々木さんは「今まで頑張ったのは何だったのか」と放心状態になった。「戦争に負けたら男も女も奴隷として連れて行かれる」。そんなことを聞いていただけに絶望感にも襲われた。

 午後になると、動員学徒たちが再び広場に出てきた。旧制二高の学生は「日本は確かに戦争に負けた。だが、民族の誇りを失わず、国の再建のために頑張ろう」と年下の学徒たちを鼓舞した。

 「私は朝鮮で生まれ、幼い頃に日本に来た」。旧制中学のある生徒が立ち上がり、告白した。「日本が敗戦国となり、朝鮮に帰ることになる。けれど、日本国民だったことを忘れず、再建に力を尽くしたい」。声を詰まらせながら訴えた。

 佐々木さんは生徒の心情を思い、胸が苦しくなった。涙と汗でハンカチがぐっしょりとぬれた。

 敵機が上空を飛び交うごう音は、もう聞こえない。ジー、ジー、ジー。セミの鳴き声が久しぶりに耳に響いた。

 終戦により、数日で片付けを済ませ、古里に帰ることになった。動員学徒の仲間たちとの別れを惜しみ、佐々木さんら女学生たちはそれぞれ、ノートにサインを求めて回った。

 「作業中に明るい声で笑っていたね」。言葉を交わしたことのない二高生からこんなメッセージを贈られ、驚くような恥ずかしいような気分も味わった。

 「あの朝鮮出身の生徒は母国に帰った後、日本に戻ろうとし、スパイ容疑で処刑された」。後に風のうわさでそんなことを聞いた。

 火薬廠を離れてから73年。「さまざまな感情が押し寄せたあの日のことを忘れることはできない」。今年も終戦記念日を迎え、胸がざわめいた。

[メ モ]終戦後の1945年9月、米軍が第一海軍火薬廠に進駐。同11月に火薬廠が閉庁した後、米軍が敷地や建物を接収した。58年3月、火薬廠の接収を解除し、日本政府に返還。跡地には現在、仙台大や陸上自衛隊船岡駐屯地、角田宇宙センターなどがある。

1144とはずがたり:2018/09/05(水) 08:44:36

おお,未だお元気そうでなによりだ。今年は平成の最後にして余りにも多くの昭和人が逝ったからな。。

熊谷空襲
「戦争、国が人生奪う」 作家・森村誠一さん、終戦前夜を語る /埼玉
https://mainichi.jp/articles/20180828/ddl/k11/040/215000c
会員限定有料記事 毎日新聞2018年8月28日 地方版

埼玉県
 「人間の証明」などの作品で知られる作家森村誠一さん(85)は、終戦前夜の1945年8月14日夜から15日未明にかけ、故郷の熊谷市で空襲を経験した。闇夜を切り裂く焼夷(しょうい)弾に、川を埋め尽くした無数の遺体。玉音放送を聴いて感じた喜び。共同通信の取材に「戦争とは、国が人々の人生を奪うこと」と、平和への思いを語った。

 森村さんは当時12歳。8月14日深夜、米軍機が次々に落とす焼夷弾で、熊谷市中心部にあった自宅も瞬く…

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1145とはずがたり:2018/09/16(日) 20:24:48

発掘された「西郷どん」の新史実 最後の内戦、西南戦争
https://www.asahi.com/articles/ASL8T6W4WL8TUCLV005.html?ref=tw_asahi
編集委員・宮代栄一2018年9月16日18時59分

 元号が明治に変わって150年。NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」など、その時代に注目が高まっている。近代日本を方向付け、日本最後の内戦となった西南戦争。熊本城炎上や田原坂(たばるざか)の戦いについて近年、発掘の成果をもとに研究が進み、新たな史実が見えてきている。

 事件は、1877年2月19日に起きた。官軍がこもる熊本城の天守閣が「謎の失火」で焼失。薩軍(鹿児島軍)の工作員が火をつけたという放火説のほか、官軍関係者による失火説などが従来は唱えられてきた。

 出火元とされる本丸御殿跡を、熊本市が1999〜2006年に発掘。報告書を作る過程で新事実が判明する。御殿の中でも「小広間」と呼ばれる部分が激しく焼けており、詳細な火元がほぼ特定されたのだ。

 市文化振興課によると、小広間は出土品などからみて、官軍幹部の執務室だった可能性が高い。小広間が位置するのは御殿の一番奥。そこまでに火をつけやすい場所はたくさんあり、「工作員がわざわざそこまで潜入して放火したとは考えにくい」と同課の美濃口雅朗主幹は推理する。

 ではなぜ出火したのか。「特定の軍関係者以外は入れない場所から火が出、かなり離れた天守閣に延焼するまで有効な消火活動が行われた節がない。官軍の幹部が自ら火をつけたとみていいのではないか」。この説は昨年、熊本市で開かれた西南戦争に関するシンポジウムで発表され、大きな反響を呼んだ。

 官軍による自焼説は、熊本博物…

1146とはずがたり:2018/10/03(水) 09:08:01
超特急の阪和電鉄の凄さはどっかで読んだことあったけど,それよりなにより昭和16年位迄豊かに白浜観光出来る人が多かったのは暗い世情だからこそ無理して遊んでたのかアメリカ並みの大衆消費社会の萌芽が日本にもあったのか元々日本人遊び好きなのに戦争でねじ曲げられて今でもこじらせているのか?

2017-05-04
天王寺駅の怪と阪和電気鉄道の歴史 前編【昭和考古学】
https://parupuntenobu.hatenablog.jp/entry/%E9%98%AA%E5%92%8C%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E9%A7%85#%E9%98%AA%E5%92%8C%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3%E8%B6%85%E7%89%B9%E6%80%A5

1147とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:18

中国の正体にやっと気付いたドイツ 「中独合作」は崩壊するのか?
https://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/180806/wor18080610300006-n1.html
2018.8.6 10:30
【野口裕之の軍事情勢】

 憲法改正で「終身皇帝」への道筋を切り開いた中国の習近平国家主席は「独裁者」と批判されるが、「予言者」と称賛されたとは寡聞にして知らない。2017年、習氏はドイツのアンゲラ・メルケル首相と会談し、投資協定早期締結などを確認し、中独関係をこう表現した。

 「ドイツとの関係は、新たな段階に入ろうとしている」

 確かに、1年ちょっとたった現在、中独関係は「新たな段階」を迎えた。が、習氏も予想外だったに違いない。関係に陰りが見える点が新しい。中独蜜月を「中独合作」と警戒してきた小欄だけに、独伝統の「中華大好き文化」が消滅したとは思わない。ただ、冷戦時代の真っ最中に中国へ兵器&関連機器を供給していたドイツが、やっと邪悪な正体を正視するようになった、とは感じる。

 独メディアによると、独政府は8月にも、中国企業のライフェルト・メタル・スピニングの買収申請を却下する方針だった。同社は宇宙船や航空機の部品製造技術で知られ、原発など核関連分野にもノウハウを持つ。独政府関係者はDPA通信に「公的秩序や安全保障を危険にする可能性がある」と却下理由を明らかにした。もっとも、独政府の動きを察知した中国企業は自ら買収を撤回した。

 小欄も繰り返し批判したが、ドイツでは2016年に産業用ロボット大手クーカが中国家電大手・美的集団に買収された後、技術流出懸念が深刻化した。クーカの技術は米軍の最新鋭戦闘機F-35の機体製造に使われており、身売りは同盟国を裏切る行為。クーカ買収を機に17年、欧州連合(EU)域外企業による買収規制を強化。政府の審査・却下対象を国防関連からIT・通信や電力・水道など「戦略的重要分野」に広げた。スピニング社買収を却下すれば初適用となるはずだった。

 さらに、独経済・エネルギー省は7月、送電大手50ヘルツの株式を20%取得すると発表した。同社株式はベルギーの電力会社が80%を保有。中国国営送電会社・国家電網は豪州の投資会社が有する残り20%の取得を目指したが、独側が買い取った。50ヘルツは「脱原発」の下で再生可能エネルギー普及を目指す独戦略上極めて重要な企業で、中国は技術獲得を狙ったようだ。規制適用はEU域外企業が議決権の25%以上を取得することが前提で、政府が株式買い取り阻止に動いた。

今も昔もドイツが舌なめずりする対中貿易

 かくして、中国企業による独企業買収・出資件数は減少傾向にあるが、筆者は毎年の如くドイツにドキリとさせられる。

 例えば、2016年の伊勢志摩サミット=主要国首脳会議。先進7カ国は、東シナ海や南シナ海における中国の海洋侵出に対する厳しい現状認識を共有し、首脳宣言に盛り込んだ。中国をカネのなる木としか見られず、凶暴性を実感できぬ欧州勢にしては上出来だった。半面、ミキモト真珠島で、メルケル首相の夫君らが体験したサミットに伴うイベント=真珠の取り出しで「ドイツ・裏切りの歴史」が唐突に脳裏に浮かんだ。

 第1次世界大戦(1914〜18年)開始直後、大日本帝國はドイツに宣戦布告した。独降伏で「東洋の真珠」と呼ばれた文化都市・青島は日本統治となり、ドイツの一大権益は吹っ飛んだ。以来、後述するが、日本に恨みを抱くドイツの中国への肩入れは、日独伊三国同盟締結後もひそかに続けられた(とは註:ドイツを参考に君主権の強い憲法を作り,ドイツとしては中立を期待してた日本の裏切りと見えたであろう。)。

1148とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:28

 同盟関係を裏切るドイツのDNAを、中国は見逃さない。習氏は日本も標的に、「中独合作」の21世紀復活を謀る。

 習氏は2013〜14年にかけ、経済を武器に影響力圏を拡大していく《一帯一路》戦略を明らかにした。けれども、もっと早く「中独合作」は進行していた。中国製生活用品を積んだ試験運行の貨物列車がドイツに着いたのは08年1月。ドイツは今も昔も有数の武器輸出国であり、北京を出発して1万キロの旅を終えた列車は「中独合作」の幕開けに映った。“日独親善”に隠れ、しぶとく密着していた薄汚い近代史=中独関係の復活を予感した。

 ドイツが舌なめずりする対中貿易は1750年代以来の国家的課題で、英国に対抗し1885年、清国直行汽船への補助金を支出、英国に次ぐ貿易量を達成した。英国やフランスに比し帝国主義色が薄いドイツに、清国が日清戦争(1894〜95年)で日本の大脅威と化す東洋一の巨大堅艦《定遠/鎮遠》建造や、日露戦争(1904〜05年)で日本軍におびただしい数の犠牲を強いた旅順要塞の造成を要請したのもこの時代だ。

 その後、ドイツは帝国主義を強め、1897年にはドイツ人宣教師殺害を機に出兵、清国に山東省膠州湾岸の租借をのませた。以後、中心都市・青島は要塞・文化双方の顔を見せつつ急成長する。陸上兵力は2200人を数え、周囲の山や海岸に築いた砲台が援護。海上では独東洋艦隊が南太平洋の独植民地との間を遊弋した。

 一方で港/鉱山/銀行/鉄道/麦酒会社/学校/病院/ホテル/教会/食肉処理場を建設。郵政にも着手し、消印で青島が独支配下にあることを世界に宣言した。650種・数百万本もの木が世界中で集められ植樹(1240ヘクタール)されてもいる。

 先述したが、第1次大戦開始直後、日本はドイツに宣戦布告した。独降伏で「東洋の真珠」「小ベルリン」と称された青島は日本統治となり、一大権益が吹っ飛ぶ。ドイツの“日本嫌い”は「青島の恨み」が起点だと思っている。

 清国同様に対日戦略上、軍近代化を迫られた中国・国民党は満州事変(1931〜33年)後、独ワイマール共和国や次のナチス政権に接近。ドイツは1927〜38年まで軍事顧問団を送り続けた。 

 とりわけ、1934年より団長を務めたハンス・フォン・ゼークト退役陸軍上級大将(1866〜1936年)は、第1次大戦で壊滅状態に陥った独軍の再建と将来(電撃)戦への青写真を確立し「独軍の頭脳」と畏敬された名将。国民党の蒋介石前国民政府主席(当時/1887〜1975年)に、大規模・低練度だった国民党軍の装備や機動性の向上を具申した。後継団長アレクサンドル・フォン・ファルケンハウゼン退役陸軍中将(後に歩兵科大将に現役復帰/1878〜1966年)も、独式教育訓練を踏襲した。

 方針に沿い、8割が非近代兵器だった国民党軍に鉄帽/小銃/各種大砲をはじめ戦車や戦闘機まで輸出。ドイツで教育した中国人技術者運営の各種工廠では双眼鏡/狙撃銃用照準/小銃/機関銃/迫撃砲/装甲偵察車両/大砲/ガスマスクを生産した。国民党軍の軍装が独軍ソックリなのは当然といえた。毒ガス製造施設建設こそ中止されたが、化学研究所は独企業の支援で完成した。

 折しも、国民党軍の攻撃に日本軍が応じ第2次上海事変(1937年)が勃発するや、ファルケンハウゼンは蒋に消耗・ゲリラ戦に持ち込み大日本帝國陸海軍を疲弊させる作戦を進言。塹壕とトーチカが造る要塞線=ゼークト線に日本軍をおびき寄せんとした。日本軍は圧勝したが損害は予想外に大きかった。

1149とはずがたり:2018/10/05(金) 13:39:44
>>1147-1149
 軍事資源を産む鉱山・工業地帯と沿岸を結ぶ鉄道敷設でも中独は利害が一致。独技術を投じた貴陽〜南昌〜杭州や漢口(現・武漢)〜広州路線は、軍用としても日本軍を悩ませる。

 ようやく、独総統アドルフ・ヒトラー(1889〜1945年)の政策転換で「中独合作」は変質する。とはいえ「青島の恨み」はゾッとするほど根深い。1936年に(対ソ)日独防共協定を結びながら、対中武器密輸を継続。37年の中ソ不可侵条約で態度を硬化させたヒトラーが新たな兵器輸出を禁じるまで続く。

 それでも受注済み兵器は契約通り輸出され、完全な禁輸・顧問団撤退はドイツが満州国を承認した38年。国民政府と断交、“親日”の汪兆銘政権(1940〜1945年)を認めたのは、何と日独伊三国同盟締結後1年近くもたった41年になってだった。

「空母技術」を中国に売り渡したドイツ

 「中独合作」は今も存在する。中国化工集団公司がドイツの重機大手クラウス・マッファイを買収したときものけ反った。

 マッファイは磁気浮上鉄道の業界で一目置かれる。日本も実用化を目指すリニア・モーターカーもそうだが、磁気浮上技術は空母のカタパルト技術につながる。

 カタパルトは、滑走環境が制約される空母上にある艦上機を射出する、パチンコのゴムに例えられる。カタパルトの有無や性能は、艦上戦闘機の搭載兵器の数・重量や発艦機数など航空戦力に巨大な影響を及ぼす。高い技術力が必要で、空母を建造する中国が開発に困り果て、米国などより盗みたがっている筆頭格のシステムだ。しかも、マッファイ分社化後、他社との合併で再編された系列会社は、戦車大国ドイツでも屈指の戦車・自走砲メーカーとくる。

 ドイツの半導体製造装置メーカー=アイクストロンの、中国・福建芯片投資ファンドによる買収は2016年9月に承認されたが翌月、撤回となった。半導体製造装置は軍事技術の一角で、独経済・エネルギー省の「承認当時に安全保障情報を把握していなかった」との弁明は、あきれるほかない。

 ところで、外国の投資は被投資国の経済成長を促し、雇用を創出する。しかし、中国の対外投資は、投資で被投資国の企業を買収→開かれた外国市場内で先端技術をごっそり頂戴し→閉鎖された中国市場内で莫大な利益を上げる。やがて、「合法的」に頂戴した先端技術が生み出した中国の閉鎖市場における莫大な利益を元手に、巨大国営企業を設立する。

 巨大国営企業は、技術供与でお世話になった被投資国の企業と競合関係となり、被投資国の同業他社は、中国政府の為替操作支援を受けた中国巨大国営企業の攻勢を前に経営が圧迫される。

 独政府には、こんな言葉を贈ろう。

 「閉鎖的で排他的なやり方は正しい選択ではない」

 正論である。ただし、中国が入れぬ環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)を念頭に、習氏の口から出た言葉でなければ…。

1150とはずがたり:2018/10/09(火) 10:59:12
「慰安婦問題いじめ」右翼団体に相談しろと言う日本政府
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181009-00031805-hankyoreh-kr&pos=2
10/9(火) 7:37配信 ハンギョレ新聞

ニューヨークの日本領事館相談窓口で 右翼団体紹介して物議 民間団体「ひまわりJAPAN」、慰安婦記念碑設置に反対 「慰安婦は売春婦、報酬も十分に受けた」主張 歴史問題でいじめ主張自体が無理という指摘も
 ニューヨークの日本総領事館が、歴史問題でいじめにあった場合、相談を要請できる窓口として右翼団体を紹介し物議をかもしていると東京新聞が8日伝えた。

 駐ニューヨーク日本総領事館は、6月から「歴史問題によっていじめ被害を受けたり被害の事実を知っている人は領事館に連絡するなり、以下の民間団体に相談することを望む」という案内文をホームページに出した。日本総領事館が相談窓口の運営を委託した民間団体は「ひまわりJAPAN」という団体だ。米国に建てる慰安婦被害者記念碑建設反対運動の先頭に立ってきた団体だ。

 この団体は、ホームページで自分たちを「2016年6月ニューヨークとニュージャージーに住む日本女性たちが集まって結成し、米国に住む日本人に正しい日本の歴史を伝え子どもたちが日本人として誇らしく生きていくよう支援する団体」と紹介した。

 ひまわりJAPANは、ホームページに他の極右団体である「なでしこアクション」が作成した日本軍「慰安婦」資料集を載せた。資料集には「慰安婦は“慰安所”で売春婦として仕事をした女性」とし「報酬も十分に受けた」という主張が含まれている。この団体が結成後に主催した初の講演会には「LGBT(性的少数者)は子どもを産むことができない。生産性がない」という話で波紋を起こした杉田水脈・自民党議員など極右が参加した。

 日本の外務省は、慰安婦問題をめぐる韓日間の葛藤が尖鋭化すると、2014年からワシントンの駐米日本大使館と駐サンフランシスコ、駐ロサンゼルス領事館などに「慰安婦問題を含む歴史問題によるいじめ」にあった場合に相談できる窓口を作り始めた。

 一方、読売新聞はこの日、複数の韓日関係消息筋を引用して、カン・ギョンファ外交部長官が先月11日、ベトナムのハノイで日本の河野太郎外相に対し、年内に「和解・癒やし財団」を解散する計画を通知したと伝えた。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は先月25日、ニューヨークで安倍晋三首相に「慰安婦被害女性たちと国民の反対で和解・癒やし財団が正常に機能できず枯死せざるをえない状況」とし解散の方針を示唆したことがある。河野外相はこの出会いで、文大統領の早期訪日を要請したが、カン長官が文大統領の訪日は和解・癒やし財団の解散以後になるだろうと答えた同新聞は伝えた。

東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

1151とはずがたり:2018/10/12(金) 08:04:07

知りたかったなんで韓国・中国を初めとする諸国が黙っていたのかが書いてないが,当時は韓国とも国交恢復前どころかり李承晩ライン(1952.1.18宣言)の頃で日本の漁船とか拿捕しまくってた頃。国交がないから文句も着けてこなかったと見える。中国も1950年には大陸を失い(アメリカが傍観してたのが今にしてみれば最大の誤りであったねえ。1950.6の朝鮮戦争で一旦拡大が停まったのが大きかったか),中共が支配していたが1952年に日本は桑港平和条約と共に台湾と日華平和条約を締結して国交を恢復。昭和29年当時文句を云えるのは中華民国だったが国共内戦を抱えそれどころではなかったということか。

■ JOG Wing ■ 国際派日本人の情報ファイル■
旭日旗がそのまま自衛艦旗として受け継がれた経緯
伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1427 ■ H20.04.14 ■ 9,690 部
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/wing1427.html

 海上自衛隊の艦艇が掲げる旭日旗(自衛艦旗)をご存じだろうか。日の丸から16条の旭光が出ているデザインである。各国の海軍軍艦は、それぞれの軍艦旗を掲げるが、「自衛艦」は国際的には日本海軍の軍艦であり、自衛艦旗はその「軍艦旗」にあたる。

 軍艦は国土の延長とされ、軍艦旗を掲揚する艦艇に行き会った民間船は自らの国旗を少し下げ、元の位置に戻す、という形で敬礼をするのが国際慣行である。

 実は自衛艦旗は戦前の日本海軍の軍艦旗そのままのデザインなのである。海軍が「海上自衛隊」、軍艦が「自衛艦」などと戦後の言い換えが進められた中で、なぜそのシンボルである軍艦旗のデザインがそのまま護られたのか。そこには軍艦旗を護ろうとした人々の陰ながらの苦心があった。

 昭和29年(1954年)の自衛隊創設の際に、当時の反軍的世論を鑑みて、軍艦旗のデザインも再考することとなり、米内穂豊画伯に図案作成の依頼が持ち込まれた。

 画伯は悩み抜いた末、結論に至る。
「軍艦旗は黄金分割による形状、日章の大きさ、位置光線の配合など実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがない。それで、軍艦旗そのままの寸法で1枚書き上げた。お気に召さなければご辞退致します。画家としての良心が許しませんので」

  “画伯の作品”は「創設する海自への影響」「国民感情」などを焦点に庁議にかけられたが、保安庁長官は裁可した。

 …説明を聞いた(自衛艦旗を最終的に承認した吉田茂)首相は、こう語っている。

「世界中でこの旗を知らぬ国はない。どこの海に在っても日本の艦だと一目瞭然(りょうぜん)で誠に結構だ。海軍の良い伝統を受け継ぎ、海国日本の守りをしっかりやってもらいたい」[1]

 こうして日本海軍の旭日旗は、そのまま海上自衛隊の自衛艦旗として引き継がれた。…

■参考■
1. 産経新聞、H20.04.03「【野口裕之の安全保障読本】軍艦旗救った画家の良心」、東京朝刊、5頁

1152とはずがたり:2018/10/21(日) 11:28:16
知ってはいけない──隠された日本支配の構造
http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/japan-taboo/
矢部宏治著

定価 本体予価840円 + 税
発売日 2017年8月16日
発行 講談社 現代新書
ISBN 978-4-06-288439-6
判型 新書判
ページ数 264ページ
旭屋書店さんの「本TUBE」に、著者・矢部宏治氏のインタビュー動画が公開されました!
【著者出演】知ってはいけない隠された日本支配の構造<前編>
概要
私たちの未来を脅かす「9つの掟」、
最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」とは?
なぜ日本はアメリカの意向を「拒否」することができないのか?
3分でわかる日本の深層!
みなさんは、世田谷区や中野区、杉並区の上空が米軍に支配されていることをご存じですか?

あるいは、米軍に与えられた治外法権が、日本の国土全体に及んでいることを知っていましたか?

「なにをバカなことを……」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。

しかし、これらは複数の公文書によって裏付けられた、疑いようのない事実なのです。

じつは、私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相やエリート官僚でさえもよくわかっていない、「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を大きく歪めています。

そうした「ウラの掟」のほとんどは、じつはアメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としているのです。

3つの「裏マニュアル」ともいうべき最高裁の「部外秘資料」、検察の「実務資料」、外務省の「日米地位協定の考え方」を参照しながら、日米合同委員会の実態と対米従属の根幹に迫るとともに、日本における「真の権力構造」を徹底解明します。

累計17万部を突破したベストセラー『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』の著者・矢部宏治氏が、「戦後史の闇」に光をあてた渾身の決定版!

1153とはずがたり:2018/10/27(土) 15:38:44
まあ独裁者は客死した土地で眠るしか無いだろな。革命家への列席の栄誉なんか認められんだろう。

革命家墓地受け付けず
https://this.kiji.is/428803004221703265
2018/10/27 15:31
c一般社団法人共同通信社

 【ベルリン共同】旧東ドイツの共産党独裁政権を率いたホーネッカー元国家評議会議長(1912〜94年)の遺灰の埋葬先が死後24年たっても宙に浮いている。ホーネッカー氏には墓がなく、ドイツ共産党の革命家らが眠るベルリンの墓地に葬りたいと親族が表明。地元当局は90年のドイツ統一前から現地での埋葬は行われておらず「不可能」と説明したという。地元紙が22日伝えた。

 ホーネッカー氏は70年代から東ドイツ政権を率いてきたが、89年の民主化運動で失脚した。ドイツ統一後、娘が暮らす南米チリへの出国を許され、94年に同国で死去、火葬された。妻も2016年にチリで亡くなった。

1154荷主研究者:2018/11/03(土) 16:31:27

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201809/20180928_33047.html
2018年09月28日金曜日 河北新報
<原敬>「平民宰相」誕生100年(上)原点/東北蔑視に強い反感

原敬(原敬記念館提供)

 今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856〜1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

 17年9月8日の盛岡市の報恩寺。戊辰戦争で死亡した盛岡藩士らの50回忌に、立憲政友会総裁で、1年後に首相となる原の姿があった。

 「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。当時勝てば官軍、負くれば賊との俗謡(言い習わし)あり。其(その)真相を語るものなり」

 原は旧藩士を代表して祭文を朗読。記録に残る限り、12歳で経験した戊辰戦争について原が心情を口外したのは生涯でこの一度きりだった。

 原は幼名を健次郎という。1856年2月9日、盛岡藩士の家に生まれた。盛岡市本宮(旧本宮村)には今も生家が残る。

 戊辰戦争に敗れた盛岡藩は領地の召し上げ、70万両の制裁金といった新政府による重い処罰に疲弊していく。家老格だった原家は制裁金を用立てなければならない藩に備蓄米や骨董(こっとう)を献納。家屋の5分の4も売却して没落に至った。

 「よしこの家運挽回してみせる」。窮地に奮い立つ年若い原を、弟の誠は後にこう回想している。

 その言葉通りに19歳で上京。司法省法学校などで法学や歴史学を修め、郵便報知新聞の記者を経て外務省に入省。卓抜した交渉術から伊藤博文、陸奥宗光ら新政府の大立者に引き立てられ、政界に転じた。

 親交のあった新聞記者前田蓮山は著書「原敬伝」に「南部藩(盛岡藩)は亡(ほろ)びた。然るに天は、一人の復讐(ふくしゅう)者を残した」と記し、原を政治に駆り立てたのは薩長への恨みであったと断じた。

 その根拠が原の俳号「一山(いっさん)」だったと前田は論じる。東北をあざ笑う「白河以北一山百文」から採った俳号に原の反骨がみて取れるという。

 ただ、政治家原の深奥に薩長閥への恨みがあったことをうかがわせる史料は、いまだ見つかっていない。生前の原が長く残すよう指示した「原敬日記」(全83冊)にも。

 原敬記念館(盛岡市)の田崎農巳(あつみ)主任学芸員は「原が戊辰戦争の『復讐者』だったとは言い切れない。むしろ東北蔑視への反感の方が強かった」と推測する。

 「各種史料からせり出す原敬像は、歴史を公平中立に捉えようとする冷静な政治家だ。『藩閥政治と渡り合って賊軍の汚名をそそいだ平民宰相』のイメージは、戊辰戦争以来虐げられてきた東北の人々の思いが作り上げたのかもしれない」

[戊辰戦争]「鳥羽・伏見の戦い」に始まる新政府軍と旧幕府軍の内戦。薩摩、長州両藩を中心とする新政府軍は、仙台藩と奥羽諸藩に会津、庄内両藩の追討を命令。これに反発した陸奥、出羽、北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成して抵抗するも敗れた。

戊辰戦争殉職者50回忌で原がささげた祭文の碑=盛岡市内丸のもりおか歴史文化館

1155荷主研究者:2018/11/03(土) 16:31:47

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201809/20180929_33026.html
2018年09月29日土曜日 河北新報
<原敬>「平民宰相」誕生100年(下)信条/清廉潔白自ら奉じる

19歳から亡くなる直前までしたためた全83冊の「原敬日記」=原敬記念館収蔵

 今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856〜1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

 憲法や議会といった近代政治の道具立てが未整備だった明治前期。政府を牛耳る「藩閥政治」と言論の自由を求める「自由民権運動」の対立は日々激しさを増していった。

 盛岡から上京して5年、24歳になった原敬(はらたかし)(1856〜1921年)は、郵便報知新聞の記者として健筆を振るっていた。

 「理を以(もっ)て交わるの間に情を存し、情を以て接するの間に理を存す」。1880年の新聞論説「官民相対するの道を論ず」から、後の政党政治家原の信条が読み取れる。

 原は「官(藩閥政治)」と「民(自由民権運動)」の反目をいさめつつ、英国に倣った二大政党制の導入を提唱。平穏な政権交代による治安の安定、殖産興業の推進による国際競争力の強化をたびたび論じた。

 論説執筆から38年後の1918年9月29日、立憲政友会総裁の原を首相とする政党内閣が成立した。

 高校新設による教育の充実、地方鉄道網の整備など「平民宰相」の功績は数多い。一方で「平民出」らしからぬ政治判断が大衆の落胆を招く。

 男子普通選挙の即時実施を求める世論を「時期を見て」と一蹴し、衆院を解散してまで選挙法改正を阻止。野党は「西にレーニン、東に原」とやゆした。

 岩手大副学長の丸山仁教授(政治学)は「理想を実現するために現実的な手段を選択する政治家だった」と評する。

 立憲政友会員らによる汚職事件の処理に追われていた21年11月4日、原は東京駅で右翼テロの凶刃に倒れる。65歳だった。

 原内閣で朝鮮総督府政務総監を務めた水野錬太郎は、原が「平民宰相」と呼ばれる真の理由を「自ら奉ずるところが清廉潔白で、すべての行状がいかにも平民主義であったから」と振り返っている。

 「平民主義」の政治は、原の古里に今日も息づいていた。盛岡市議会の会派「盛友会」の名称は、原が率いた立憲政友会に由来する。

 盛友会幹事長の遠藤政幸議員は「常に市民目線で声を拾い、伝えるのが地方議会の使命。原さんが公利を追い求めたように、まちの隅々まで行き届く政治を目指したい」と話す。

1156とはずがたり:2018/11/06(火) 16:05:14
徴用工「解決済み」企業に説明、安易な和解警戒
2018年11月01日 16時06分
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20181101-OYT1T50101.html

 政府は、韓国大法院(最高裁)による元徴用工を巡る判決を受け、同様の訴訟を起こされている企業向けの説明会を始めた。「徴用工問題は解決済み」とする政府方針を説明し、損害賠償や和解に応じないよう周知を徹底する方針だ。

 韓国では係争中の同様の訴訟が計14件ある。新日鉄住金に対する今回の判決を受け、他の被告企業である三菱重工業や不二越などに対しても裁判所の賠償命令が相次ぐ可能性がある。

 説明会は、外務省や経済産業省、国土交通省、法務省が合同で10月31日から始めており、2日まで計3回開く。徴用工問題は1965年の日韓請求権・経済協力協定で解決済みとする政府の立場を改めて紹介し、韓国政府に国際法違反の状態の是正を求めている現状などを説明している。

(ここまで322文字 / 残り587文字)
2018年11月01日 16時06分 Copyright c The Yomiuri Shimbun

1157名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:11
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181215-00000157-sph-soci
【平成回顧】〈1〉新元号発表会見の裏側…流行語「24時間タタカエマスカ」
1/2(水) 14:04配信 スポーツ報知
 天皇陛下の生前退位により4月30日で30年の歴史を終える「平成」。スポーツ報知では、平成の30年間を1年ごとにピックアップし、あらためて当時を振り返る。初回は平成元年。新元号ができるまでの経緯と、象徴的な場面としていまだに映像で流される「新元号発表会見」の裏側を追った。また、この年には栄養ドリンク「リゲイン」のCMがブレイク。話題を呼んだキャッチフレーズ「24時間タタカエマスカ」にも迫る。(この記事は2018年5月6日の紙面に掲載されたものです)

 平成が始まる3年半前の1985年7月。内閣内政審議室長に就任した的場順三氏は、新元号制定の担当者として水面下で動き始めた。頭を悩ませたのが秘密保持。的場氏によると、79年の元号法制定前後から、有事に備えて各界の学者らが選んだ「新元号候補」が存在していたという。今では知られた事実だが、当時は「天皇の生前に元号候補を決めていた」とは明かせない。自身の在任中、中曽根、竹下両首相ら以外には伏せていた。

 隠密活動を続けるなか、87年2月にアクシデントが起こる。候補考案者3人のうち2人が相次いで亡くなったのだ。建前上「天皇崩御後に元号考案を学者に依頼する」ことになっていたので、故人の案はボツ。急きょ新しい学者を見つけ、考えてもらう必要があった。大人数で探せば周囲にバレる。文科省職員と2人だけで選定。適任の学者2人をようやく探し出した。

 当時は天皇陛下の容体悪化によりマスコミの新元号スクープ合戦も過熱。ある候補の学者の自宅に依頼のあいさつに行くと、大勢の記者が張り込んでいた。考案者の名前もマル秘。自宅訪問を断念し、学者の会議に紛れて面会、ようやく依頼にこぎつけた。最終的に東大の宇野精一名誉教授(中国哲学)、九大の目加田誠名誉教授(中国文学)、東大の山本達郎名誉教授(東洋史)に考案を依頼。宇野氏が「正化」、目加田氏が「修文」、山本氏が「平成」を第一候補とし、郵送で届けられた。

 1989年1月7日午前6時33分、天皇陛下崩御。この時点でどれが元号に採用されるかは決まっていなかった。当日午後に予定していた新元号発表会見まで約8時間。有識者による「元号に関する懇談会」や衆参両院の正副議長の意見聴取、全閣僚会議など各機関の了承を経て決定する手はずだった。「各所でアレコレ議論されちゃったら、時間的に間に合わない。すんなり決まるよう、こちらが『誰もが納得できる1案』を提示しなければいけなかったんですよ」

 午前8時20分の臨時閣議が近づいた。3案を見つめていた的場氏に妙案が浮かんだ。元号をアルファベットの頭文字を使って表すと「修文」「正化」は旧元号の「昭和」の「S」と重なる。これは後々、不都合が起こるのではないか―。各会議ではポイントを絞って説明、熱弁が効いたのか各会議が全会一致で「平成」支持となった。まさに綱渡り。想定通りに改元手続きを進めることができた。

 胸をなで下ろしたのも束の間。後日、予想外の落とし穴が待っていた。元号の制定手続きの要領には「俗用されているものでないこと」の条件がある。人名や商品名に使われていればアウト。岐阜県のある村の小字(こあざ)に「平成(へなり)」という地名があったのだ。「中華料理店の屋号とかまでチェックし、探し尽くしたつもりだったんですが…」。幸い大事には至らなかった。「正直、小字まで調べられるか!って心境でしたよ」。新元号制定の立役者は、約30年前の冷や汗止まらぬ瞬間を、苦笑いで振り返った。(樋口 智城)

1158名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:28
>>1157

 ◆的場 順三(まとば・じゅんぞう)1934年9月15日、滋賀県生まれ。大蔵省主計局主計官などを経て、86年から内閣官房内閣審議室長。退任後は国土事務次官を務めた。退官後は中小企業金融公庫副総裁などを歴任。06〜07年に安倍内閣の内閣官房副長官を務めた。

 「新しい元号は『平成』であります」。小渕恵三官房長官は白木の額縁に飾られた「平成」の書を顔の右横に掲げた。傍らで会見をプロデュースした小渕氏秘書官・石附弘氏が安どの表情で見つめていた。

 テレビの生中継で新年号を発表するのは史上初。石附氏は見せ方次第で「新時代への期待感や雰囲気」が変わると考え、会見を重視していた。「昭和」は発表前に「新元号は光文」と報じられたほか、主要メディアがラジオで漢字の持つ独特の雰囲気を伝えられず、大衆の期待感を高められなかった経緯があった。

 各有識者と相談の上、まず「会見で年号が記された書を見せる」と決めた。「テレビの利点を生かせるのはこれしかないと思った。一発で『平成』を印象づけられる」。元号を披露する際の動きも研究。顔の横に掲げるのが最も印象的だと結論づけた。「半紙をアクリル板に貼り付ける」予定だったが、直前に相談したメディアに「カメラのフラッシュで光って見えない」と指摘され「半紙プラス白木の枠組み、アクリル板なし」となった。

 会見当日。石附氏は「平成」の文字を見て、書道につきものの「かすれ」がほとんどないことに気づいた。後に文字を書いた書家の河東純一氏に聞くと「確たる未来と新時代への力強さを見せるため、あえて抑えました」と説明された。テレビ会見の重要性は、全員が理解していた。

 後に小渕氏は、「ちびっ子に『テレビで見た平成オジサン』とはやされて困っているんだ」とうれしそうに話していたという。平成の幕開けを告げる会見は、昭和が作ったテレビ時代の集大成だった。

 ◆バブル時代の象徴フレーズ「24時間戦えますか」 「24時間タタカエマスカ」。栄養ドリンク「リゲイン」の広告に使われたキャッチコピーは、1989年の流行語大賞で銅賞に選ばれた。リゲインは製薬メーカー三共(現・第一三共ヘルスケア)が1988年4月に発売開始。翌年、俳優の時任三郎をCMのイメージキャラクターに起用すると、エネルギッシュな時代にマッチして大ブレイクした。

 時はバブル景気真っただ中。日本企業は次々と海外に進出。当時を知る同社関係者は「風邪薬のルルに代表される温かく優しい(企業)イメージだったので、挑戦的なコピーは経営陣の了承をすぐに得られたわけではなかった」と回想。「当時の事業部トップの決断でCMが誕生した。攻めたものであることは社内共通の認識だった」。世はイケイケの時代だったのだ。

 狙いは当たった。CD化したテーマ曲「勇気のしるし」は約60万枚の大ヒットに。忘年会シーズンのカラオケで定番となったのはもちろん、入社式や運動会、90年の夏の甲子園でまで流れるようになった。

 時任が出演したシリーズは15編作られ、91年に終了。働き方への意識の変化などとともにキャッチコピーも変わっていく。2014年に同社とライセンス契約したサントリーフーズから出た「リゲインエナジードリンク」のCMソングの歌詞は「24時間戦うのはしんどい」だった。

 働き方改革が進められ、今はパワハラや過労死が問題視される時代。このコピーが象徴するイケイケ時代は、今や「遠くなりにけり」だ。(甲斐 毅彦)

1159名無しさん:2019/01/02(水) 17:12:39
>>1158

 【元号アラカルト】  

 ▼ルール 閣議決定された元号制定手続きによると〈1〉よい意味〈2〉漢字2字〈3〉書きやすい〈4〉読みやすい〈5〉これまでに元号又はおくり名として用いられたものでない〈6〉俗用されてないもの、の中から選ぶ

 ▼元号数 645年制定の「大化」から「平成」まで247個。漢字4文字は5つ、それ以外は2文字

 ▼使用漢字 トップは「永」の29回。「平成」の「平」は12回で19位、「成」は初使用だった。

 ▼過去に候補 「平成」は、明治の1つ前の「慶応」改元の際にも候補に。「大正」は過去5回の候補入りの末に採用。

 ▼決定機関 昭和以前は菅原道真の末裔「菅原家」が中心になって制定。平成から学者が考案し、政府が決定するシステムに。

1160名無しさん:2019/01/03(木) 14:56:22
会員が告白「フリーメイソンへの不正確な報道を正したい」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190103-00000002-courrier-soci

1161名無しさん:2019/01/19(土) 19:21:56
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190119-00055248-jbpressz-int
北方領土「二島先行」に世論が反対しなくなった理由
1/19(土) 6:35配信 JBpress
 (舛添要一・国際政治学者)

 1月14日、北方領土・平和条約問題をめぐって、モスクワで日露外相会談が行われた。これは、22日に行われる安倍首相とプーチン大統領の首脳会談の準備と位置づけられる。

 昨年(2018年)の11月14日、シンガポールで日露首脳会談が行われ、安倍首相とプーチン大統領は、1956年の日ソ共同宣言に基づいて、問題解決のための交渉を加速化させることで合意した。日ソ共同宣言を基礎にするということは、平和条約締結後に歯舞・色丹二島が日本に引き渡されるということである。

 しかし、国後・択捉については、これからの協議次第である。これは、「四島一括返還、その後に平和条約」という我が国の従来からの主張とは大きくかけ離れている。歯舞・色丹二島のみを切り離し、先行して返還することを是とする理由は何か。

■ 圧倒的だった「四島一括」より「二島先行」が多数派に

 12月8、9日に産経新聞社とFNNが実施した世論調査で、北方領土帰属問題についてどの案を目指すべきかを問うたところ、「歯舞・色丹二島返還先行、国後・択捉引き続き協議」が50.0%、「四島一括返還」が30.8%、「歯舞・色丹の二島だけでよい」が7.7%であった。

 かつては「四島一括返還」が圧倒的に多かったが、今回「二島先行論」が過半数になったとことに驚いている。しかもこの調査は、保守色の強い新聞社・テレビ局が行ったものだけに尚更である。他のマスコミの調査でも、6割前後が二島先行返還論に賛成しているのである。

 この変化はなぜ起こったのか。私は、日本人が北方領土問題への関心を失いつつあるからではないかと思っている。北方領土担当大臣が、四島の名称を正しく発音できない時代である。

 「戦後外交の総決算」という安倍首相の決意を評価する雰囲気が支配的になり、「四島一括返還、その後に平和条約」という日本のこれまでの主張が一気に反古にされそうである。それでも構わないということを、安倍首相は内外に説明することができるのであろうか。

■ 「日本は第二次世界大戦の結果を認めない唯一の国」

 タテマエ上は、「まず平和条約締結、そして二島返還、その後に四島を取り戻す」ということであろうが、平和条約を締結することがそんなにも重要なのであろうか。1956年の日ソ共同宣言以降は、平和条約が存在しているのと同じ状況にあり、日露両国民とも何の不便も感じていない。形式的には、平和条約締結が「戦後外交の総決算」となるのかもしれないが、実質的にはほとんど意味の無いことである。

 ロシアには国後・択捉を返還する意思はないので、二島先行返還論は、結局は二島のみ返還になってしまうということである。

 ロシア側は、北方領土は、第二次大戦の結果、ロシア(当時のソ連)が獲得したものであり、不法な占拠ではないと主張している。ラブロフ外相は、「北方領土」という呼称も批判しているし、16日の記者会見では、国連憲章107条(旧敵国条項)に言及し、「日本は第二次世界大戦の結果を認めない唯一の国」と批判した。そして、日露関係は「国際関係でパートナーと呼ぶにはほど遠い」と厳しい見方をした。

 このようなロシアが二島を日本側に引き渡すのは、一つの恩恵を与えることを意味し、経済支援など何らかの見返りが必要だとロシア側が考えて当然である。この論理を突き詰めれば、かつてアラスカをアメリカに売ったように、自らの領土を売却するということになる。

 二島の引き渡しにしても、歯舞島には軍関係者しかいないが、色丹島には約3000人のロシア人が住んでおり、土地の所有権をはじめ、彼らの処遇をどうするのか、旧日本人住民の権利や賠償をどうするのかといった様々な問題が出てくる。

1162名無しさん:2019/01/19(土) 19:24:21
>>1161

 北方領土解決策としては、従来の四島一括返還論と「二島+α」論がある。後者は、「平和条約締結後に歯舞・色丹二島が返還される、その後、国後・択捉については協議を進め、共同で開発を進めたり、日本人の自由往来を可能にする措置をとったりする」という考え方である。

 この考え方の人たちは、サンフランシスコ平和条約で千島列島の放棄を定めたときには、国後・択捉は千島列島に含まれていると解釈されていたと主張する。吉田茂首相は、両島を「千島南部」と呼び、歯舞・色丹の二島については「北海道の一部」という異なった表現をしたことを根拠とする。

 安倍首相がこの主張を取り入れて国境線の画定を行えば、ロシアとの間で協議がまとまるかもしれないが、従来の主張との整合性がとれなくなる。この点を考えると、解決が容易ではないことが分かる。安倍首相の支持基盤である保守層は、四島一括返還論に固執するであろう。

 四島一括論を弊履のように捨て去ると、それは他の領土問題にも影響する。竹島や尖閣諸島は、それぞれ韓国と中国が領有権を主張している。日本は容易に主張を撤回する国と見られれば、韓国や中国はますます態度を硬化させるであろう。

 一方、四島一括返還に固執すれば、一島たりとも永遠に戻ってこないという観測もまた成り立つ。つまり、時間が経てば経つほど、北方領土のロシア化が進み、返還はますます困難になる。従って、二島だけでも帰ってくるときにチャンスを逃すなというわけである。

 つまり、「時間の経過がどちらの側に有利に働くか」という観点からは、四島一括論者は日本、「二島+α」論者はロシアと考えるのである。そこで、前者は「焦る必要はない」、後者は「急げ」となる。

■ ロシアにとって認めがたい「北方領土への米軍駐留」

 交渉が順調に進む前提は、安倍首相、プーチン大統領の権力基盤が強固であることであるが、日本では春に統一地方選挙、夏に参議院選挙が行われる。その結果次第では、安倍首相のレームダック化の可能性もある。

 ロシアにとっては、アメリカ政府の意向も問題となる。ロシアが絶対に避けたいのは、返還した北方領土に米軍が展開することである。トランプ政権が、米軍を駐留させないことを日本側に約束できるのか、これも大きな論点である。

 先に北方領土に対する国民の関心が薄まっていることに言及したが、その背景には領土の経済的効用についての冷徹な視点が広まっているのではあるまいか。石油や金が大量に埋蔵されているような領土なら別だが、寒冷地の領土の資源的価値は大きくない。北方領土の場合、水産資源が最大の経済的利益をもたらすが、島を管理するためにかかるコストと経済的利益を天秤にかける発想が出てくるのも仕方ない。

 1970年代に中国が尖閣列島に対する領有権を声高に主張し始めたのは、周辺海域に石油資源が眠っているという観測が1960年代に出たからである。竹島に関しては、漁業資源以外にはめぼしいものはない。

 しかしながら、領土は、単に経済的利益のみならず、ナショナリズムのシンボルとして大きな意味を持っている。韓国が竹島を実効支配しているのは、反日ナショナリズムの砦にしたいからであるが、ナショナリズムは高くつくこともある。20世紀が生んだナショナリズムや民族自決主義のイデオロギーは21世紀には克服する対象と考えてもよいのかもしれない。

 いずれにしても、平和条約締結・北方領土問題の解決はロシアという相手との交渉次第である。両国の国民世論をはじめ、乗り越えなければならないハードルが山積している。

舛添 要一

1163名無しさん:2019/01/19(土) 22:52:43
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190119-00010003-wordleaf-pol
「2島返還プラスアルファ」論も記載 公開された「外交文書」とは?
1/19(土) 20:15配信 THE PAGE
 昨年末に公開された「外交文書」に、北方領土交渉に絡み、歯舞群島(はぼまいぐんとう)と色丹島(しこたんとう)返還を軸とした「2島返還プラスアルファ」論が記述されていたことがニュースになりました。アメリカでは一定期間を過ぎて公開された外交文書からさまざまな歴史の真相が判明する例がありますが、日本では外交文書の扱いはどうなっているのでしょうか。元外交官で平和外交研究所代表の美根慶樹氏に解説してもらいました。

2010年から30年経過した文書は原則公開に
 昨年12月19日、外務省は1950年代から80年代にかけての外交文書22冊を公開しました。

 1957年の岸信介首相の訪米や、沖縄返還交渉などに関する記録が主であり、その中には北方領土問題に関係する言及も含まれています。そのため、今回の外交文書公開は現在行われているロシアとの平和条約交渉と関連があるのではないかと注目されました。

 そもそも外交文書とは、外務本省と在外公館の間で交わされた電信や各国との交渉の記録などであり、それを綴じて「ファイル」になったものが保管されています。1冊のファイルはざっと5センチくらいの厚さですが、キリのよいところで綴じられます。大きさはA4版が大多数です。

 外務省では、2001(平成13)年4月の情報公開法施行に先立つ1976(昭和51)年から、自主的な取組みとして外務省「外交史料館」において戦後の外交文書の公開を開始しました。そして2010(平成22)年、外部有識者が参加する外交記録公開推進委員会を設置し、その審査を経た上で,国民の関心の高い外交記録を自主的に公開しています。

 2010年からは、30年を経過した外交文書は原則すべて公開されています(30年ルール)。公開された文書はだれでも閲覧可能であり、また、原則インターネットで見ることができます。なお、古い外交文書(実物)は外交史料館で閲覧できます。

交渉中などの理由で公開できない文書もある
 外交文書の公開からどのようなことが判明するでしょうか。公開されたものを見ていくのには、いくつか注意が必要です。

 第1に、1950年代から80年代に至る期間の外交活動のすべてが今回公開されたのではありません。公開されたのはごく一部です。同じ期間の記録でもすでに公開されていたものは多数あります。例えば今回公開された「岸総理第1次訪米関係一件」では第1巻、第2巻、第6巻というラインナップでした。国連や関連機関で進められてきた軍縮に関する諸交渉の記録はすでに公開されています。

 また今回の公開後も、未公開の文書は残るでしょう。外交文書全体の中ではごく一部ですが、ファイルの数で言えば、推測ですが、数十冊に上る可能性があります。

 第2は、公開の定期性です。外交文書の公開あるいは未公開が恣意的に決定されてはなりません。外務省もそのことについては注意を払い、定期的な外交文書の公開に努めてきました。最初の公開は前述したように1976年でしたが、それ以来、2年に約1.5回の頻度で公開が実施されています。

 しかしながら外交記録の中には、現在も交渉が進行中のため公開するのが困難なものがあります。国民の側からすればそのような例外は作らず、すべてルールに従って公開してもらいたいところですが、交渉中にこちらの手の内を見せてしまえば相手国との関係で著しく不利をこうむることになるので、原則として案件が終わったことを公開の条件とするのはやむを得ないでしょう。

 ロシアとの平和条約・北方領土に関する交渉の記録は膨大な量にのぼりますが、原則として公開されていないと思います。

1164名無しさん:2019/01/19(土) 22:53:18
>>1163

米国の外交記録公開で判明した「核密約」
 第3に、外交文書公開は米国が先輩格になっています。米国では民主的な外交の伝統が強く、情報公開法(FOIA: Freedom of Information Act)に基づき、作成後30年以内に外交文書を公開することになっています。30年以内に公開という点では日本と同じ、というより、日本は米国に倣ったのです。

 例外的に公開しないことがありうることは日米共通ですが、どの文書を例外とするか、つまり公表しないこととするかの判断は各国が独自に判断しています。その結果、例えば、日米間の特定の交渉に関する記録が、日本では公開されないのに米国で公開されることが起こります。そういうことが起こらないよう両国とも気を付けていますが、それでも時折生じています。ただし、日本が先で米国が後ということはなく、いつも米国の方が先になるので、研究者にとっては米国の公開記録が貴重な情報源となります。

 実際、沖縄返還の際(1972年)に日米間で核に関する密約があったことが米国で公開された外交文書から2007年に発覚しました。沖縄返還時の米国大統領補佐官のヘンリー・キッシンジャーが、1969年11月19日から21日にかけての日米首脳会談のためにニクソン大統領に宛て作成したメモの中に、それをうかがわせる記述があったのです。

 そして、民主党政権時代の2010年、外務省は岡田克也外相の下で調査を行い、核の持ち込みについて、「広義の」という形容詞をつけてはいましたが、密約があったことを確認しました。

ファイルを開けてみないと詳しい中身は分からない
 第4に、外交記録は「ファイル」に収められています。ファイルがどのように作成されるか決まったルールはありません。執務上、便利なように作成されるといっても過言でないでしょう。ファイルは、首相の訪米であれば何冊にもなりますが、もっと簡単なケースであれば、他の案件と一緒に一つのファイルに収められることがあります。

 1冊のファイルの中には、さまざまな記録が収録されていますが、完璧な索引はありません。例えば、今回公開された岸首相の訪米に関するファイルの一つは、「岸総理第1次訪米関係一件 第1巻」です。外務省はその内容について簡単な説明を加えていますが、それだけで本当に必要な記録にたどり着くのは困難でしょう。他にも昭和天皇の「終戦の詔書」は「ポツダム宣言受諾関係一件」という名称のファイルに収められています。1945年9月27日の昭和天皇とマッカーサー連合国軍最高司令官との最初の会見記録は、「本邦における外国人謁見及び記帳関係雑件 米国人の部」の中に含まれています。要するに、ファイルを実際に開いてみなければ、書いてある中身は分からないのです。

 公開された外交文書を読み解く際には、以上に注意しつつ、どのような外交状況であったか経験と知識により補い、推測しながら能率よく記録を探すことが必要です。例えば、ファイルからは分からなくても、同時期に進められていた第三国との交渉や国内情勢にも注意が必要です。それを頭に入れておくと、ファイルの中の外交記録の背景が分かりやすくなります。

今回の公開に政府の意図は関係しているのか?
 最後に、今回の公開において日本政府が進めようとしているロシアとの平和条約・領土問題交渉に関係する意図が働いていたかの問題ですが、「歯舞、色丹プラスアルファ」に関する記述は政府の考えを記したものではなく、新聞報道の中で言及されたことでした。また「沖縄返還が北方領土問題の解決に役立つ」というのは、1950年代、ソ連との交渉が始まる前から常識でした。

 ロシアとの交渉記録は別にまとめられていることは前述しましたが、重要な記録はすべてそちらの方にあります。岸首相の訪米に関する記録の中で北方領土問題に関係する言及があったのは事実ですが、外務省としては現在の日露交渉への影響はないと判断して公開したと思います。

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■美根慶樹(みね・よしき) 平和外交研究所代表。1968年外務省入省。中国関係、北朝鮮関係、国連、軍縮などの分野が多く、在ユーゴスラビア連邦大使、地球環境問題担当大使、アフガニスタン支援担当大使、軍縮代表部大使、日朝国交正常化交渉日本政府代表などを務めた。2009年退官。2014年までキヤノングローバル戦略研究所研究主幹

1165名無しさん:2019/01/21(月) 07:58:20
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190121-00000004-kyodonews-pol
安倍政権、2島決着案を検討 北方4島返還「非現実的」
1/21(月) 2:00配信 共同通信
 安倍晋三首相は北方領土問題に関し、北方四島のうち色丹島と歯舞群島の引き渡しをロシアとの間で確約できれば、日ロ平和条約を締結する方向で検討に入った。複数の政府筋が20日、明らかにした。2島引き渡しを事実上の決着と位置付ける案だ。4島の総面積の93%を占める択捉島と国後島の返還または引き渡しについて、安倍政権幹部は「現実的とは言えない」と述べた。首相はモスクワで22日、ロシアのプーチン大統領との首脳会談に臨む。

 「2島決着」に傾いた背景には、択捉、国後の返還を求め続けた場合、交渉が暗礁に乗り上げ、色丹と歯舞の引き渡しも遠のきかねないとの判断がある。

1166名無しさん:2019/01/25(金) 01:19:16
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190124-00000188-kyodonews-pol
新元号は「日本を元気に」 衛藤首相補佐官が予想
1/24(木) 18:03配信 共同通信
 衛藤晟一首相補佐官は24日、東京都内で開かれた共同通信加盟社論説研究会で講演した。5月の新天皇即位に伴う改元で、4月1日に公表される新元号に関し「今回は喪に服する期間がない。『日本はもう一回、元気を出そう』という方向で選ばれるのではないか」と予想した。前回は昭和天皇逝去による改元だったが、今回は天皇陛下の退位と皇太子さまの即位による祝賀ムードの中で行われることを理由とした。

 新元号の選定に関し「有識者会議には絞り込んだ3案が示されると思うが、一つでも漏れたらボツになって次の案に代わるだろう」と語った。

1167とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:25
興味深い論攷である。

2018.12.08
「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々
戦争責任の苦悩も明らかになったが…
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58837
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究者

12月8日は、太平洋戦争開戦の日である。

この戦争を巡っては、昭和天皇が晩年の1987年まで「辛い」「戦争の責任のことをいわれる」などと悩んでいたことが、今年発見された資料で明らかになった(「小林忍侍従日記」)。

日本軍は緒戦で驚異的な快進撃を続けた。1941年12月に開戦するや、日本海軍は、真珠湾攻撃でアメリカ太平洋艦隊主力を戦闘不能ならしめ、またマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊主力を海の藻屑と葬り去った。

日本陸軍もこれに負けじと同月に香港を占領し、1942年1月にマニラ、2月にシンガポール、3月にラングーンおよび蘭印(オランダ領東インド諸島)をつぎつぎに占領、連戦連勝の凱歌をあげた。

続々ともたらされる勝報に、不安に苛まれていた天皇も気が大きくなっていった。1941年12月25日には早くも、

「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」(「小倉庫次侍従日記」)

と戦勝後のことを語り、南方作戦が一段落した1942年3月9日には、

「余り戦果が早く挙がりすぎるよ」(『木戸幸一日記』)

といって、喜びを隠さなかった。

そのため、同年4月にアメリカの空母部隊によって東京が初空襲されても(ドゥーリトル爆撃)、なかなか信用せず、すぐに避難しようとしないぐらいだった。

――よく知られるように、1942年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うなど大敗を喫し、戦争の主導権をアメリカ側に譲り渡してしまった。祝杯の準備までして戦果報告を待っていた海軍中央は、これに大きな衝撃を受けた。

この敗北は国民には伏せられたが、天皇には正確に伝えられた。天皇は6月7日に永野修身軍令部総長より報告を聞くや、

「之により士気沮喪を来さゞる様に注意せよ、尚、今後の作戦消極退嬰とならざるようにせよ」(『木戸幸一日記』)

といって、注意を与えた。残念な気持ちはあったものの、それほど動揺せず、むしろ大局的観点から士気を励ましたのである。

しかるに、天皇はいつまでもその態度を貫けなかった。同年8月、今度は南太平洋のガダルカナル島で日米の攻防戦がはじまった。日本軍は、米軍の本格的な反攻を読みきれず、戦力を小出しにして、いたずらに消耗を重ねていった。

1168とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:38


天皇も段々と不安になり、ガダルカナル島の戦況を尋ね、大丈夫か、どうなっているのか、確保できるのかと質問を繰り返した。

「近頃我戦果揚らざる傾向あるが如何」(『侍従武官城英一郎日記』)

これは、8月28日の「お言葉」である。3月には「戦果は早く挙がりすぎる」といっていたのに、この変化には驚かざるをえない。

数多の戦闘を重ねたにもかかわらず、日本軍は結局ガダルカナル島の確保を果たせなかった。そして12月31日、ついに同島からの撤退を決するのやむなきに至った。天皇はこの決定を受けて、

「ただガ島攻略を止めただけでは承知し難い。何処かで攻勢に出なければならない」(井本熊男『作戦日誌で綴る大東亜戦争』)

とこぼした。急速な戦局の悪化に焦った天皇は、もはや以前のようにどっしりと構えられなくなっていた。

1943年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年だった。米軍は、新型空母や戦闘機を次々に配備して、戦力を大幅に強化した。日本軍はこれに抗しきれず、各地で後退を強いられた。

4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。

天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。その頻度はいささか異常だった。

「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)

いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。1944年に入っても、

「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度いものだね」(2月16日、上同)

といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島のサイパン島まで陥落してしまった。

つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を残したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。

よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。

「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編『昭和史の天皇1』)

1169とはずがたり:2019/01/27(日) 12:00:50
>>1167-1169
つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。

「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)

こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできようはずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。

昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、

「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)』)

と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和の海上特攻につながったとの指摘が存在する。

これについては、本当にそんな発言があったのか疑う声も少なくない。『昭和天皇実録』にも、別の「お言葉」が採用されている。

「現地軍は何故攻撃に出ぬか、兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」(『戦史叢書 大本営陸軍部(10)』)

制海権・制空権がないなかでの逆上陸は、特攻的といえなくもない。これはこれでかなり厳しく重い「お言葉」ではあった。

天皇はいつ敗戦を覚悟したのか。これも諸説紛々たるところだ。

天皇が早く手を打たなかったので戦禍が拡大したとの批判がある一方で、ここまで待たなければ軍部を抑えられず、終戦処理など不可能だったとの見解もある。

いずれにせよ、1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。

そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。

単純な二者択一では実態に迫れない
以上をみてもわかるとおり、昭和天皇は戦時中たいへん多弁だった。一旦開戦した以上、大元帥としての役割を果たそうとしたのかもしれない。明治天皇はここまでではなかったので、これは昭和天皇に顕著な特徴だった。

もちろん、これのみをもって好戦的だと断ずるのは早計すぎる。昭和天皇の「お言葉」は、平時の平和志向のものも実に多いからだ。だからこそ議論を引き起こして止まない。

平和主義者か、軍国主義者か。そんな単純な二者択一から卒業しなければ、その実態に迫ることはできないだろう。来年の改元で、昭和もいよいよ遠くなる。これをより冷静で多元的な議論のきっかけにしたいところである。

1170とはずがたり:2019/02/01(金) 13:18:50

成金がお金を燃やす風刺画はいかにして出来上がったか?
http://onew-web.net/6125.html
2017/2/13

1171とはずがたり:2019/02/06(水) 08:52:32
残虐な日本兵をアピールしたい時期のアメリカの公文書だから多めに書いてあろうけど有る無しに関しては無かったとか云ってる奴の気が知れない。

2019.02.01 2019.02.02
南京大虐殺の犠牲者は「50万人」以上??アメリカ公文書「RG59-793.94/11631」が従来説を大きく覆す
https://rondan.net/14536

1172とはずがたり:2019/04/15(月) 14:23:41
ベルギー、過去の強制連行謝罪
数千人の子供を植民地から
https://this.kiji.is/486795004733604961?c=39546741839462401
2019/4/5 16:084/5 16:17updated
c一般社団法人共同通信社

 【ブリュッセル共同】ベルギーのミシェル首相は4日、同国がかつて植民地にしていたコンゴ(旧ザイール)など現在のアフリカ中部3カ国から1959〜62年、ベルギー男性が現地女性との間にもうけた子供数千人を強制的にベルギーに連れ去ったことを、国家として初めて謝罪した。欧州メディアが伝えた。

 ベルギーは現地で人種隔離政策を行い、ベルギー人と現地住民の結婚を法律で禁止したが、違反が目立ち、子供が多数誕生。ベルギー当局はこうした子供らの存在は政策遂行を妨げ植民地支配を脅かすと考え、本国の孤児院などに送っていた。

1173とはずがたり:2019/04/15(月) 14:26:15
ベルギー国王は可成り陰惨な植民地支配してた筈。その一環か延長かに起きた出来事か。

1174とはずがたり:2019/06/09(日) 22:28:46
日鐵め,日清戦争の賠償金で生まれ太平洋戦争にも組み込まれた反省や自己認識が全くないな

日鉄、北九州市の平和資料館に懸念 「戦争の内容多い」
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/516842/
2019/6/8 6:00 (2019/6/8 17:23 更新)

 北九州市が建設準備中の「平和資料館(仮称)」を巡り、新日鉄住金(現日本製鉄)八幡製鉄所が展示計画について「戦争に関する内容が多い」との懸念を市側に伝えていたことが分かった。資料館は終戦直前の八幡大空襲を映像やコンピューターグラフィックス(CG)で追体験できる展示などを予定。空襲の標的が同製鉄所や市街地だったとされ、結果的に県内最大規模の空襲被害となったことを踏まえ、識者は「歴史的な経緯に会社が敏感になっているのではないか」とみている。

 資料館は、戦争の悲惨さなどを考える機会を提供する目的で、市役所近くに約8億円を投じて建設予定。開館は2021年度の見込みで、18年11月の市議会では基本的な展示内容案などが示された。

 直前の同年10月31日、市は主要な関係先として新日鉄住金に同案を説明。西日本新聞の情報公開請求で市から開示された「対応メモ」で、同社は「当初聞いていた内容に比べ、戦争に関する内容が多いという印象」との見方を伝え、市側は「空襲の話なども避けては通れないものである」と理解を求めていた。

 八幡製鉄所総務部は取材に「17年12月に説明を受けた時は戦時中の市民生活の紹介を主体とするとのことだったが、(内容が)戦争そのものになっていると伝えた。設立趣旨は理解しているが、(建設については)否定も肯定もしない」との見解を示した。

 市総務局は今後、同社に関連資料の提供を要請する計画だが「今回の件は開館スケジュールには影響しない」としている。市は有識者による懇話会を本年度中に設け、展示案に対する最終的な意見を集める方針。

 九州大の施光恒(せてるひさ)准教授(政治学)は「製鉄所があったから北九州が発展したことも事実だろう。平和資料館が何を継承していく施設なのか議論を深め、コンセプトをしっかり固めるべきだ」と話している。

1175とはずがたり:2019/06/14(金) 15:19:39

可成り率直に語っていて好感が持てる。
>私は、歴代の総理大臣のうち、ベストは伊藤博文(1841〜1909)だと考えています。明治維新の原動力になったのは坂本竜馬(1836〜1867)でもなければ西郷隆盛(1828〜1877)でもなく、岩倉具視(1825〜1883)でさえない。木戸孝允(1833〜1877)だと私は考えております。
>自民党にも友人は少なくないですが、実は最も知人が多いのは国民民主党です。

榛葉さん激推しの小笠・掛川人だけど住民票あっても家広さんに投票してしまいそうだなぁ〜。

徳川宗家「第19代目」が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190613-00565651-shincho-pol
6/13(木) 6:00配信 デイリー新潮

反原発の“お殿様”
 新聞各紙は、政治経済評論家の徳川家広氏(54)が5月28日に会見を開き、今夏、参院選静岡選挙区から出馬すると報じた。まずは朝日新聞(電子版)の「参院選静岡選挙区に徳川家19代目 立憲が擁立発表」からご紹介しよう。

 ***

《立憲民主党は28日、夏の参院選静岡選挙区(改選数2)に、徳川宗家19代目に当たる政治経済評論家の徳川家広氏(54)を公認したと発表した。初代家康が駿府城を居城にしたこともあり、徳川氏は会見で「先祖代々縁が深い。土地勘も愛着もある」と述べた。

 徳川氏は徳川宗家18代当主・恒孝(つねなり)氏の長男。徳川記念財団の理事や家康をまつる久能山東照宮(静岡市駿河区)の祭司を務めている》

 徳川家というだけでもインパクトは充分だが、ご本人の経歴も華やかである。慶応大経済学部を卒業し、アメリカのミシガン大学大学院で経済学、コロンビア大学大学院で政治学の修士を取得した。

 また、国連食糧農業機関(FAO)に勤務後、2001年から日本でフリーの翻訳家として多くの書籍を上梓している。中でもジョージ・ソロス著『ソロスは警告する 超バブル崩壊=悪夢のシナリオ』(講談社)はベストセラーになった。

 しかしながら、“華麗なる経歴”を見れば見るほど、「なぜ立候補するのか?」という素朴な疑問は増すばかりだ。そこでインタビューを依頼し、数々の疑問をぶつけさせてもらった。以下は、その一問一答である。

――改めて、なぜ出馬を決心されたんですか? 

徳川家広氏(以下、徳川):私は19代ですが、16代の徳川家達(1863〜1940)は1898(明治31)年に東京市長選に担ぎ出されそうになりました。そこで勝海舟(1823〜1899)に相談へ行ったんですね。

 すると勝から「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスされたそうです。

 家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、90(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。

 1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。貴族院に選挙はありません。人選は内閣が行い、陛下のご下命で就任いたします。(註:正確には満25歳に達した伯爵・子爵・男爵に叙されている者の同じ爵位の華族による互選で選ばれた)

 その後、家達は「よほどのこと」が起こり、国際政治の表舞台に立ちました。1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めたのです。

1176とはずがたり:2019/06/14(金) 15:19:53


 会議では保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に日英同盟が失効し、米・英・仏・日の四カ国条約を結びました。会議の結果に反発する世論も少なくなかったわけですが、だからこそ家達しかできない仕事だったのではないかと思っております。

 私も、今の日本では「よほどのこと」が起きていると判断して立候補を決断いたしました。今年4月に行われた北海道知事選に出馬するか検討していた際も、同じ問題意識を持っていました。

 日本は少子高齢化から人口減少社会に突入しました。加えて、公文書の改竄や、首相が省庁幹部と面談した際の議事録を作成しない事実が発覚するなど、日本が文明国の座から滑り落ちているという恐怖感を覚えます。怒りではございません。恐怖心です。日本で底なしの堕落と衰退が始まっているという恐怖があって、「これを建て直す必要があります」と有権者に訴える必要性を痛感しているのです。

――出馬会見では“反原発”を訴えました

 そもそも中部電力が持つ発電所のうち、浜岡原発は中電本社からの距離が最も遠いとされております。この姿勢が大問題ですし、危険な状態にあることは言うまでもありません。

 もし浜岡原発がシビアアクシデント(過酷事故)を引き起こせば、静岡県が人口稠密地帯です。更に東京と名古屋、大阪を結ぶ大動脈が壊滅的被害を受けます。もちろん私のルーツという観点からも、他人事ではございません。

 2011年に東日本大震災が発生し、参院選は13年と16年に実施されました。ところが静岡県選挙区で、原発問題は全く争点になっていないわけです。これは非常に問題ではないかと考えております。

 原発の現場レベルでは、メーカーや電力会社、経産省などの関係者であっても、「原子力政策を今のまま継続させることは無理」だと分かっているのではないでしょうか。

 そういう声が表に出ないのは、「確かに日本は原発ゼロにしなければならないが、そうすると自分の仕事はどうなるんだろう?」という不安や、仲間から「反原発を口にするなんて裏切り者だ」と非難されるのが辛いということがあるのだと思います。

 もちろん私は、「電力がなくても幸せに生きられる」などと主張したいわけではありません。そうではなく、「浜岡原発を廃炉とし、その跡地に火力発電所を建設すれば、誰も文句を言わないのではないですか?」と問いかけたいのです。

 世界最先端の火力発電所を建設することは、メーカーにとってもビジネスチャンスです。メイドインジャパンの名にふさわしいものが誕生すれば、世界的なニーズが起こるでしょう。また、日本が世界中で植林事業を行うなど、二酸化炭素の排出問題に関して断固たる姿勢を示すことも重要でしょう。

 日本における原発政策は失敗だったとはっきり受け止める。前向きに打開策、他のエネルギー政策を探す。それを強く訴えれば、静岡県選挙区で有権者の意識、考え方が変わる。それを日本中に広げていく、というのが私のビジョンです。

歴代総理大臣のベストは? 
――憲法改正には否定的という理解でよろしいでしょうか? 

徳川:安倍晋三首相(64)は憲法改正を既定路線のように語っておられますが、私は護憲を訴えたいと思っています。日本国憲法とは、進駐軍が資金力と軍事力にものをいわせ、日本人が嫌がる新憲法を無理矢理に呑みこませたということではありません。

 そもそも太平洋戦争で、日本人は全員が死ぬかというところまで追い詰められました。文字通りの一億玉砕です。そして、あの大戦を「自衛戦争」と呼ぶ人もおられますが、他国が日本の領土を侵略した事実はありません。

1177とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:07

 1943(昭和18)年、大本営は絶対国防圏を設定しますが、44年7月にサイパンは陥落します。国防圏が破られたら停戦交渉を始めるはずだったのですが、政府は戦争を続行してしまいます。

 神風特攻隊だけでなく、桜花(航空特攻兵器)、回天(人間魚雷)、震洋(爆装特攻艇)、伏龍(人間機雷)といった特攻・自殺兵器を開発します。(註:マルカッコ内は編集部が補った)

 惨(むご)いのは開発段階のテストで多くの若い兵士が命を落としていることです。そして最後には竹槍が登場しました。

 45(昭和20)年8月15日、終戦を迎えます。日本は何とか、あそこで踏みとどまったわけです。それも自然に停戦が成立したわけではありません。陛下の御聖断があったわけですが、そこに持っていくまでに大変な苦労が、あまり語られない苦労があったわけですね。

 あの時の日本人は「あの戦争が、あともう少し続いたら、みんな死ぬところだった」と真摯に反省し、それが帝国議会における新憲法の議論に反映されます。憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入した「芦田修正(編註:日本政府憲法改正小委員会において委員長の芦田均[1887〜1959]が加えた修正)」は、その代表例です。

 ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)も、「日本の皆さんで、しっかり議論してください」と言いました。貴族院も、自分たちの名誉と天皇陛下に対する忠誠心から、極めて真面目に議論しています。その上で日本国憲法が誕生し、陛下の御裁可をいただきました。これを“GHQの押し付け憲法”と評するのは無茶苦茶です。

 日本人が真摯に議論して作った憲法という事実を無視し、「もう憲法は時代に合っていない」とか「緊急事態条項を創設しよう」という指摘は、あまりに乱暴です。昨年7月に西日本を中心に大豪雨が発生しましたが、被害者の皆さんは改憲が必要だと指摘されたでしょうか? 

 敗戦における軍部の責任は否定できません。つまり憲法9条とは、「日本を敗戦に追い込んだ旧日本軍を復活させない」ことを主旨としたのです。警察予備隊、自衛隊を創った方々は、そのことを熟知していました。もっと言えば、自衛隊に入隊される方々も、同じです。

 中には漫画『沈黙の艦隊』(かわぐちかいじ:講談社)に憧れた人もいるでしょうが、それは極めて少数で、自ら戦争を引き起こすことはない、よほどのことがない限り戦場には駆り出されない、という前提で自衛官になられた人が大半でしょう。ですから、安保法制を審議した際、「裏切られた」という声が自衛官の方々からも漏れたわけです。

――徳川さんのような“エリート”が、ドブ板選挙を戦えますか? 

 戦前、徳川家は、国が認める特権階級でした。華族令で伯爵になりましたが、私の父である徳川恒孝(79)は、会津松平家の分家に産まれましたから華族ではありません。

 祖父の松平一郎(1907〜1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに行っておりました。終戦で収容所に入れられますが、父とその兄、私の祖母は御殿場に疎開しており、秩父宮さまの元に身を寄せておりました。秩父宮さまは立派な方なので、一切、ヤミ物資には手を付けられません。ですので皆さま、戦後の平均的な日本人の中でも、相当に貧しい暮らしをしておられたんですね。

 祖母は結核で片肺しかなかったのですが、それでも懸命に畑を耕しました。貧しい食べ物を3人で分け合い、たまに宮さまから卵を賜わると、父は泣いたそうです。旧華族は1000軒に達しましたが、あれほど貧しかったのは我が家だけだったでしょう。

 だから特権階級どころか、実情は庶民と全く変わりませんでした。皆さんと同じように空襲で逃げ惑い、疎開先でいじめられ、食糧難に苦しんだのです。戦争で本当に酷い目に遭ったという認識を持っているからこそ、そうした歴史的事実をすっ飛ばして改憲議論が行われるのには賛成できません。

 私がドブ板の選挙活動を行うことは当然ですし、それをしなければならないと思っております。日本人が滅亡寸前まで追い詰められたからこそ、私たちは1票を持っているのです。

1178とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:19

 政治家として、その貴重な1票を分けてくださいとお願いするわけです。敗戦を経て、日本人は自分たちの血で1票を購(あがな)いました。よく「日本人は戦わずして民主主義を手に入れた」と指摘する方もおられます。確かに内戦などが起きたわけではありませんが、充分すぎる犠牲を払っている。血まみれの1票なのですから、ドブ板選挙を行わなければ、政治家になってはいけないとも思います。

――安倍首相の選挙区は山口4区、つまり昔の長州です。「徳川家が長州に挑戦状」と面白おかしく書かれたら、どう感じますか? 

 実は薩摩の方々は、徳川幕府に対して非常に同情的だった歴史があります。篤姫、つまり天璋院(1836〜1883)は島津家の一門に産まれ、徳川家に嫁ぎました。薩摩の皆さまが徳川家を守ったという表現もできるでしょう。

 私の母親も薩摩の出身です。私には会津家だけでなく、島津家の血も入っています。実は旗本の子孫が薩摩藩の子孫と結婚したというケースは、意外に多いんです。薩摩人と江戸っ子は相性がいい。私は“黒潮連合”と呼んでいます(笑)。

 また私は、歴代の総理大臣のうち、ベストは伊藤博文(1841〜1909)だと考えています。明治維新の原動力になったのは坂本竜馬(1836〜1867)でもなければ西郷隆盛(1828〜1877)でもなく、岩倉具視(1825〜1883)でさえない。木戸孝允(1833〜1877)だと私は考えております。

 もちろん伊藤も木戸も長州人です。私は長州人というのは大したものだと思っております。確かに私が立候補すると、安倍首相のルーツが長州であることを面白おかしく書くメディアがあるかもしれません。ですが私としては、長州にそういう考えを持っているということは知ってほしいですね。

なぜ立憲民主党なのか? 
――なぜ立憲民主党から立候補されたのですか? 北海道知事選では自民党の候補として出馬すると報道されました。

徳川:北海道知事選では、自民党の皆さんと相談していたことが、たまたま記事になりました。しかし、他党ともやり取りはあったんです。北海道は衰退する日本の象徴と言えます。ここで対策を講じることができたなら、それは日本全体で参考になる政策でしょう。

 その経験を踏まえて、参院選では静岡選挙区から立候補することを決めました。なぜ立憲民主党かと言えば、私の考えは立憲民主党の政策と同じだからです。

 徳川幕府の最高法規の1つに、禁中並公家諸法度があります。天皇陛下の政治的中立が謳われており、これを当時の“憲法”と表現することが可能です。

 そして諸法度は制定されてから大政奉還までの250年間、ただの1行も変えられていません。天皇陛下から国政を預っているという意識を徳川家は強く持っていました。つまり徳川家の基本方針は、立憲主義と平和主義だったのです。

 また現在、日本の有権者の平均的な感覚は、立憲民主党の主張に近いと思うんです。自民党ではない。

 例えば、今の上皇が退位の意向を明らかにされた際、朝日新聞の世論調査では90%以上、産経新聞でも60%近くが賛成しました。つまり日本人の85%くらいが賛成したと考えられるでしょう。

 ところが当初、官邸も自民党も難色を示していたことは、皆さんもご記憶でしょう。天皇の政治的中立を問題視したわけですが、そんな話ではなかったのです。

 個人の幸福追求権や生存権という文脈で受け止められるべきことでした。上皇陛下は当時、「85歳になったので辞めさせてください」と国民に相談されたわけで、それに圧倒的多数の国民が共感と賛意を示した。それが今の日本人の感覚ですが、与党自民党の感覚はズレていたと思います。

1179とはずがたり:2019/06/14(金) 15:20:47
>>1175-1179
 丸山穂高議員(35)の戦争発言も、1つだけ良いところを見つけるなら、日本人全体の感覚と政治家の感覚がズレていることを、如実に示したわけです。これだけは不幸中の幸いと考えられます。

――反アベノミクス、反新自由主義も主張しておられます。

徳川:反原発、護憲、そして反アベノミクス(反新自由主義)が、私の主張の3本柱です。2008年のリーマンショックを経て、日本の経済学会も、新自由主義的な理論を主張する経済学者が増えています。

 しかし、それが散々たる結果に終わっているのは、私たちの生活実感からも明らかでしょう。どこの会社も苦しいのです。日本の人口の1%に満たない人はアベノミクスの恩恵を受けたかもしれませんが、残りの方は生活が苦しく、将来に対する不安を抱えています。

 バブル景気は1986年から始まったとされていますが、その前の経済水準と比べても現在は貧困が拡大し、経済格差は広がっています。

 国民の誰もが「おかしい」と思っているのですが、テレビを筆頭とする大手メディアは「安倍政権の経済政策はおかしい」と指摘しないため、誰も「おかしい」とは言えない状況になってしまっています。

 戦後、日本経済が生んだ最高傑作は、1979年にソニーが発売したウォークマンかもしれません。あれは日本ではないと開発されなかった。満員電車で通勤・通学する人たちが、「ぎゅうぎゅうの車内でも、なんとかプライベートな空間を確保できないか」と願ったのが原点です。

 普通の日本人の希望が反映されたわけですが、重要なのは、当時の日本人は“夢の新商品”を買うお金を持っていたということです。日本人なりの幸せが製品の形で具現、更に世界中に輸出され、「メイドインジャパン」の名を高めていった。

 ビデオデッキもそうです。当時の日本人は残業が多かったので、ニーズがあったんですね。当時の10万円というのは相当な高価格ですが、非常に早いスピードで普及していった。あの頃の日本には、しっかりとした中間層が存在していたのです。

――最近、立憲民主党の支持率が低下していることは、どうお考えですか? 

徳川:自民党で上手くいくように見えてしまっているのが原因でしょう。総理大臣が「高度経済成長の時代に戻れます」と旗を振り、国民もファンタジーを信じてしまう。信じざるを得ないという側面もあるでしょう。

 一方の立憲民主党は、結党して間もないという点もあります。ただ、野党共闘が進み、立憲民主党が「私たち日本人の伝統的な価値観に照らし合わせると、自民党の主張はここが間違っています」という主張をできるようになれば、きっと支持率は上がっていくと思います。

――政治家になろうと決心されたのは、いつ頃からですか? 

徳川:一昨年か去年というところでしょうか。私は翻訳と著述をしていましたので、活字文化の衰退を通して日本の衰退を実感するようになりました。

 北海道知事選もそうですが、もともと政治家の皆さんと話をする機会は多かったのです。自民党にも友人は少なくないですが、実は最も知人が多いのは国民民主党です。

 そういうことになりますと、私は旧民主党における右派に最も知り合いが多いということになります。とはいえ、政治家としてどこの党から出馬するか、各党の皆さんとお話をさせていただく中で、最終的に一番主張が合う立憲民主党にしました。

週刊新潮WEB取材班

2019年6月13日 掲載

1180とはずがたり:2019/07/12(金) 20:09:05
フィリピン戦没者遺骨収集“日本人ゼロ”疑惑…厚労省が隠蔽した真実
https://dot.asahi.com/aera/2019051700022.html?page=2
大平誠2019.5.20 07:00AERA

1181とはずがたり:2019/08/17(土) 17:40:34
戦没者を追悼する像が安置される平和祈念堂 参観収益減り運営の危機 運営する沖縄協会が寄付呼び掛け
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/444020
2019年7月12日 08:00

 沖縄県糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂を管理している公益財団法人沖縄協会(野村一成会長)が、参観料や資産運用収入の減少に伴う財政難に陥っている。経費節減に努めてきたが、経年劣化による補修工事などの予算確保に苦慮し、毎年約2千万円を財団の資産から取り崩している。このままでは継続的な運営も危ぶまれ、協会側は支援の寄付を募っている。

 1978年に開堂した祈念堂内に安置されている高さ約12メートルの平和祈念像は、戦没者を追悼し世界平和を希求する象徴として、芸術家の故山田真山さんが18年余りをかけて原型を制作。建造から41年がたち、数年後に1億円前後をかけて大規模な防水補修工事が必要になるという。

 協会によると、参観者は減少傾向で、2018年度の有料入館者は約6万1千人。参観料収益は17年度2032万円から18年度1797万円に減った。金融機関に委託した資産運用も、近年の低金利などの影響で思わしくないという。

 協会側は「協会のみの努力では予算確保が限界に来ている」とし、祈念堂の安定した管理・運営のため、県内外からの寄付を呼び掛けている。

 協会は16年から税額控除対象法人と認定され、寄付した人は税制優遇措置が受けられる。本年度の寄付目標は200人。新垣昌頼専務理事は「平和祈念のシンボルでもある祈念堂を守っていきたい。ぜひ協力をお願いしたい」と話した。

 東京都内の県関係者でつくる「三月会」の重田辰弥会長が9日、都内の協会本部を訪れ「窮状に役立ててほしい」と同会と個人分を合わせて計10万円を寄付した。

1182とはずがたり:2019/09/12(木) 14:41:37
インド訪問の英国教会大主教、植民地時代の虐殺現場でひれ伏す
https://www.afpbb.com/articles/-/3244048?cx_part=top_latest
2019年9月11日 23:23 発信地:アムリツァル/インド
[ インド アジア・オセアニア 英国 ヨーロッパ ]

インド北部アムリツァルにあるジャリヤーンワーラー・バーグ記念碑で、犠牲者を追悼する英国国教会のジャスティン・ウェルビー大主教(2019年9月10日撮影)。(c)NARINDER NANU / AFP
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【9月11日 AFP】英国の植民地下にあったインド北部アムリツァル(Amritsar)で1919年に起きた大虐殺をめぐり、英国国教会のジャスティン・ウェルビー(Justin Welby)カンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)は10日、個人の立場で謝罪の意を伝えるべく、事件現場でひれ伏した。この出来事をめぐって英政府は、これまで謝罪したことはない。

 インド・アムリツァルで1919年4月13日、武器を持たない男性や女性、子どもたちに向かって英国軍部隊が発砲。当時の記録によると、犠牲者は379人とされているものの、インド側の数字では計1000人近くとされている。


 アムリツァルを訪れたウェルビー大主教は、「政府当局者ではないので、英国政府を代表することはできない。だが私は、キリスト(Christ)の名の下に話すことができる」と発言。「犯された罪が及ぼした影響について、私は恥じ入り、申し訳ないと思っている。私は宗教の指導者であり、政治家ではない。宗教指導者として、ここで起きた悲劇を悼む」と語った。

 さらに、ウェルビー氏はフェイスブック(Facebook)への投稿で、現地ではジャリヤーンワーラー・バーグ(Jallianwala Bagh)と呼ばれる現場への訪問が「この場所で起きたことへの強い恥じらい」を喚起したとし、「英国の歴史に残る数々の深刻な汚点の一つだ。世代を超えて続く痛みと悲しみは、決してはねつけられたり、否定されたりしてはならない」と訴えた。

 100年前に起きたこの事件は、英国のインド統治における最悪の事態とされ、インド人のナショナリズムを高め、独立への支持を強固なものとすることにつながった。

 英国のエリザベス女王(Queen Elizabeth II)も1997年、インド訪問中に現地で花輪を手向けたが、失言癖で知られる夫のフィリップ殿下(Prince Philip)が、死者数に関するインド側の推定は「大きく誇張」されていると発言したと報じられ、見出しをさらった。(c)AFP

1183とはずがたり:2019/09/12(木) 14:42:00
(世界発2019)奴隷の子孫に補償、米で高まる声 初の「上陸」から400年
有料記事
https://www.asahi.com/articles/DA3S14172859.html
2019年9月11日05時00分

 黒人奴隷が英植民地に初めて連れてこられてから400年。米国で、奴隷の子孫への補償を求める声が高まっている。社会に深い傷を残す人種間の差別や格差が背景にあるが、かえって分断を深めるとの懸念も出ている。(ハンプトン=沢村亙)

 ■経済格差や人種偏見、背景

 6月19日、ワシントンの米下院司法委員会で…

残り:1690文字/全文:1840文字

1184荷主研究者:2019/09/15(日) 22:25:16

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48326750X00C19A8AA1P00/
2019/8/8 7:00 日本経済新聞 関西
明治元年、幻の大阪遷都論 大久保利通に前島密が反論

1185とはずがたり:2019/09/23(月) 19:41:51
2019年05月07日 08時00分メモ
第二次世界大戦中にナチス・ドイツとイギリスが繰り広げた「電波の戦争」とは?
https://gigazine.net/news/20190507-battle-of-the-beams/

1186とはずがたり:2019/10/09(水) 10:11:23
フランス紙記者が見る日韓対立「徴用工問題と似たようなことが戦後のヨーロッパでも起きていた」
2019年10月03日
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2019/10/03/109847/
取材・文/川喜田 研 撮影/長尾 迪

悪化の一途をたどり、改善の糸口も見えない日韓関係。日本と韓国の双方を取材するヨーロッパメディアのジャーナリストはこの問題を客観的にどう見ているのか? 「週プレ外国人記者クラブ」第144回は、フランス「ル・モンド」紙の東京特派員、フィリップ・メスメール氏に聞いた――。

***

──いわゆる「徴用工訴訟問題」に端を発した今回の日韓対立を、メスメールさんはどう見ていますか?

メスメール 徴用工訴訟問題は、日韓双方が輸出管理の優遇対象国から排除する「貿易問題」や、韓国政府によるGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の破棄という「安全保障問題」といった、まったく別の問題にまで発展しています。私が気になるのは、両国の「対立」ばかりが注目されていて、個々の問題を切り分けた冷静な議論が行なわれていない点です。

政府、民間の両面で関係が修復不能に陥らないための努力が続いていて、話し合いのチャンネルが完全に閉ざされてしまったわけではありませんが、ここまでこじれると修復にはかなりの時間が必要でしょう。

両国の対立が深まった経緯を振り返ると、昨年10月に韓国の最高裁にあたる「大法院」が日本製鉄に対し、戦時中、徴用工として動員された韓国人4人へ1人あたり約1000万円の損害賠償を命じた判決がきっかけでした。この判決に対して、日本政府は徴用工への補償問題は「1965年の日韓請求権協定ですべて解決済み」と主張し、「司法の判断を尊重する」とする韓国政府と激しく対立しています。

ここで検証する必要があるのは、日韓請求権協定が結ばれた1965年当時の韓国の状況です。この合意は、日韓の和解を強く望んでいたアメリカの強い意向を受け、当時、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の独裁政権下にあった韓国と日本政府の間で結ばれたものです。このとき、朝鮮戦争で荒廃した韓国は戦後復興のために巨額の資金援助が必要な状況でした。一方、すでに戦後の経済成長が軌道に乗り始めていた日本は新たなマーケットを求めていて、韓国はそのひとつでした。

個人への補償分も含め、日本政府が韓国に巨額の賠償金を支払う形で合意に至ったわけですが、朴政権は経済復興を優先し、賠償金の大部分をインフラの建設などに使ったため、戦争や日本統治下での被害者には十分な補償が行なわれなかった。当然、「その責任は誰にあるのか?」という議論はあるでしょう。ただし、韓国には日本統治下で徴用工として働きながら未だに補償を受けられていない人たちが存在するというのは紛れもない事実で、人権的な観点で言えば、彼らが救済を求めて声を上げる権利そのものは否定できないと思います。

もうひとつ考慮しなければいけないのは、日韓請求権協定が結ばれた当時の韓国には、「自らの被害を名乗り出られずにいた人たち」が数多くいたという点です。これは従軍慰安婦問題にも共通することですが、韓国には戦後長い間、日本統治下で自分が徴用工や従軍慰安婦として働かされたことを心理的に「恥」と感じ、その事実を隠していた人たちが少なくありませんでした。

そうした「隠れた被害者」たちが、ようやく公に声を上げられるようになったのは独裁政権が終わり、民主化が始まった80年代後半に入ってから。つまり、日韓請求権協定が結ばれた65年時点で彼らの被害は表面化していなかったのです。

──65年時点では明らかになっていなかった「被害」があり、彼らが未だに補償を受けられずにいるという現実は無視できないと?

メスメール 第二次大戦後のヨーロッパでもこれと似たようなことが起きていて、戦争中に迫害されたユダヤ人の中にも、終戦直後には心理的な被害を名乗り出ることができなかった人たちが数多くいました。第二次大戦中にナチスの占領下にあったフランスでもユダヤ人に対する迫害はあり、その被害者たちの存在は1960年代後半になるまで、なかなか表面化しませんでした。

先日亡くなったシラク元大統領が、戦時中のユダヤ人迫害に対する政府の責任を初めて認めて謝罪したのは、終戦から半世紀を経た1995年のこと。このように、戦争や植民地支配などが残した傷は戦争が終わると同時に全貌が明らかになるわけではなく、30年、40年という長い年月を経て表面化するものも少なくないのです。過去の戦争や植民地支配がもたらした傷は、条約や賠償金だけで癒えるものではなく、それで不幸な歴史が消えてしまうわけでもありません。

1187とはずがたり:2019/10/09(水) 10:11:44
>>1186
例えば、ポーランドへの戦後補償についてドイツは「政治的・法的に解決済み」という立場を取っています。それでもナチス・ドイツのポーランド侵攻から80年の節目にポーランドで行なわれた、今年9月1日の式典にはドイツのシュタインマイヤー大統領が出席し、「かつて、独裁国家だったドイツの犠牲者となったポーランド国民の前に私は頭を下げ、許しを乞う」とポーランド語で謝罪の言葉を述べました。日本の安倍首相もアメリカに対しては、ハワイの真珠湾を訪問したときに、真珠湾攻撃の犠牲者たちに頭を下げ、哀悼の意を表していたではありませんか。

おそらく、日本政府が韓国に対してこれだけ強硬な態度を取っているのは、元徴用工の個人的請求権を認め日本企業への賠償を求めた韓国大法院の判決が、今後、他の日本企業への大量提訴に発展することを危惧しているからでしょう。しかし、そうした「現実的な理由」を差し引いても、両国間の歴史的背景を考えれば、強硬な態度が韓国側の強い反発を招くことは、日本政府にとって十分に予想できたことだと思います。

ちなみに日中間の徴用工問題について言えば、1972年の日中共同声明で解決済みということになっていますが、2000年代に入ってから、戦時中の中国人強制徴用について西松建設や三菱マテリアルなどの日本企業が賠償や和解に応じているケースもあります。

いずれにせよ、「補償の責任が誰にあるのか」という議論はともかく、徴用工の問題が「日本の植民地支配下で起きた」という歴史的背景があるのですから、日本政府は「補償問題はすべて解決済み」という公式な立場を頑なに繰り返すだけでなく、この問題の「当事者のひとり」として韓国政府と協力し、被害者の救済のためにあらゆる可能性を検討する必要があると思います。そのためには日韓両国がお互いをリスペクトする姿勢が欠かせませんが、現状はそれとは程遠いところにあるのが残念です。

──「嫌韓」や「反日」といった言葉に代表される、両国の感情的な対立の背景には何があると思いますか?

メスメール その点に関しては2点ほど指摘したいと思います。ひとつは、日韓両国の首脳の、あまりにも対照的な政治的バックグラウンドの存在です。

日本の戦争責任や従来の歴史認識に否定的な「右派的ナショナリズム」を背後に抱える安倍首相は、日本会議などに象徴される右派の支持を得るために、今回の徴用工を巡る問題でも、韓国に対して常に強硬な態度を取り続ける必要がある。

一方、学生時代から韓国の民主化運動に関わり、長く人権派弁護士として活動してきた経歴を持つ文在寅大統領にとっては、旧日本軍の朝鮮人将校だった朴正煕大統領が交わした日韓請求権協定は、忌まわしい独裁政権時代の遺物だと感じているはずです。こうした韓国の「左派的ナショナリズム」を背景に持つ彼も、日本に対して強硬な態度を貫かざるを得ない。

こうした日韓のリーダーの「極端に異なる政治的背景」が対立を必要以上に悪化させ、両国民の間に感情的な対立を引き起こしているように感じます。

──では、もうひとつのポイントは?

メスメール もうひとつは「メディアの問題」です。先日、大きな批判を受けた「韓国なんていらない」という週刊誌の特集が象徴的ですが、テレビや新聞、ラジオなども連日のように日韓対立を報じている。

しかし、冒頭でも述べたように、その多くは個々の対立点について丁寧な検証を行なうのではなく、単に日本政府や韓国側の公式見解を伝えるだけのものや、相手側の問題を批判するだけで、この問題について国民が深く理解し、議論するための材料を提供しているとは言い難い。しかし、本当はそれこそがジャーナリズムの果たすべき大切な役割のはずで、こうしたメディアの現状も両国の感情的な対立を深めている、大きな要因ではないかと思います。

繰り返しますが、過去の戦争や植民地支配によって生まれた傷は、簡単に癒えるものではありません。それは日韓の問題だけでなく、フランスを含め、かつて多くの植民地を支配したヨーロッパの国々も、そうした歴史がもたらした被害について、すべての責任を果たしているとは言い難い。その傷を癒すためには、過去の歴史と正面から向き合うことが必要ですし、何よりもお互いが敬意を持って、丁寧な対話を続けていくしかない。それは簡単なことではないと思いますが、結局、それ以外に解決の道はないと思います。

●フィリップ・メスメール
1972年生まれ、フランス・パリ出身。2002年に来日し、夕刊紙「ル・モンド」や雑誌「レクスプレス」の東京特派員として活動している

1188荷主研究者:2019/12/29(日) 19:18:44

https://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20191215/CK2019121502000039.html
2019年12月15日 中日新聞
火薬庫立哨台が門横に戻る 関ケ原の戦跡を後世に

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2019121402100338_size0.jpg
門の横に戻された立哨台に触れる岩津区長=関ケ原町玉で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2019121402100339_size0.jpg

 関ケ原町の旧日本陸軍の火薬庫「名古屋陸軍兵器補給廠(ほきゅうしょう)関ケ原分廠」の入り口にあり、終戦直後に仮置き場に放置されていた「立哨台」が、数十年ぶりに当時あった場所に復元された。地元住民は「あの頃を乗り越えて今の平和がある。そんな思いを、実際に見て、かみしめてほしい」と話す。

 名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠は一九一二〜四三年にかけて、滋賀県境に近い旧玉村(関ケ原町玉)から買収した軍用地(二百二十ヘクタール)に作られた。鉄筋コンクリート製倉庫の上に土を盛って木を植えたり、山腹に横穴を掘ったりと、米軍の飛行機から分からないように工夫されており、全体で二百カ所近く。その規模は当時、東洋一ともいわれた。

 火薬庫一帯の警備体制は厳重で、入り口の門のそばには、高さ二メートルの立哨台があり、衛兵が目を光らせていた。柵で囲われた用地に入るには、中に耕作地を持つ農民でも「門鑑(もんかん)」と呼ばれる木製の通行証を見せる必要があり、所持品検査もあったとされる。

 終戦後、火薬庫はすぐに閉鎖された。今では門柱や洞窟など一部が公開されているが、当時の面影はほとんど見られない。

 そんな中、地元の戦跡を後世に伝えようと、住民有志が五年前から、一帯の草刈りをするなど整備を進めてきた。その過程で、立哨台が本来の位置から七百メートルほどずれた場所に放置されていたことが判明。

 住民の間から「門柱の横の元の場所に戻そう」との声が高まり、十月、業者に依頼して移転、復元した。

 玉地区の岩津隆之区長(74)は「昔はここに大規模な火薬庫があり、地元住民でさえ入るのに厳しいチェックがあったということを、若い人たちにも知ってもらい、平和の思いを継いでいきたい」と願っている。

 (服部桃)

1189荷主研究者:2019/12/29(日) 20:01:49

https://www.yamagata-np.jp/news/201912/20/kj_2019122000352.php
2019年12月20日 09:22 山形新聞
「蔵王山測候所」現した姿 1940年代に観測、山形大・柳沢教授が写真入手

柳沢文孝教授が入手した「蔵王山測候所」の写真(山形大提供)

 蔵王周辺の自然環境などを調べている山形大の柳沢文孝教授は19日、1943(昭和18)〜47(同22)年に蔵王山の地蔵岳山頂で気象観測を行っていた「蔵王山測候所」の写真と地図を入手したと発表した。文献を通じて存在は知られていたが、建物の外観などがはっきりと分かる資料が見つかるのは初めてという。

 柳沢教授によると、測候所は第2次世界大戦時、軍用機の通過ルートの安全確保を目的に、風速などの情報を収集する施設だったとみられる。戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の許可を経て気象観測を行っており、そのころの観測データと現在のデータの比較解析から、現在の樹氷の衰退は山頂気温の上昇によると断定している。

 今回、柳沢教授が入手したのは、絵はがきとして使われていた写真。52年から使用されている「第五種郵便」の記載があることや、51年に蔵王が観光地百選に選ばれた際のスタンプが押されていることから、その当時に撮られたとみられる。地図は観光目的の内容で、地蔵岳山頂に測候所を意味する記載を確認。49年に山形大となった「山形高等学校」の位置が表記され、戦時中に印刷地図が作られたとは考えにくいことなども踏まえると、46年ごろに作成されたものと推測されるという。

 文献を通じ、測候所は平屋の一部3階建てで、平屋部分は居住スペースだと考えられてきた。それを裏付ける一つの資料となり、柳沢教授は「どのような施設だったかが写真で証明された」と価値を話している。

1190とはずがたり:2020/03/20(金) 00:27:57
「絶対に勝てるか」“抹殺できなかった公文書”が伝える昭和天皇の大声
残された重要史料が今に教えるもの
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68981

「太平洋はなお広いではないか!」

アジア太平洋戦争の開戦へ突き進む中、昭和天皇が杉山元参謀総長をこのように叱責したことはよく知られている。1941年9月5日のことである。

昭和天皇ははじめ、杉山に「日米事起こらば、陸軍としては幾許の期間に片づける確信ありや」と質問した。これに杉山は、「南洋方面だけは3ヶ月くらい」と答えた。

これに満足しなかった昭和天皇は、続けて問うた。「汝は支那事変[日中戦争]当時の陸相なり。その時陸相として『事変は1ヶ月くらいにて片づく』と申せしことを記憶す。しかるに4ヶ月の長きにわたり、いまだ片づかんではないか」。

厳しい追及を受けた杉山は恐懼(きょうく)して、「支那は奥地が開けており、予定どおり作戦し得ざりし事情」をくどくどと弁明した。これにしびれを切らした昭和天皇は、励声一番、最初に引いた発言を行ったのである。

「支那の奥地が広いと言うなら太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって3ヶ月と申すか」

杉山はこれに答えられず、隣にいた永野修身軍令部総長に「統帥部として大局より申し上げます……」と助け舟を出してもらったのだった。
別の史料では「絶対に勝てるか」と質問
以上は、当時の首相・近衛文麿の手記に見えるやり取りである(『近衛文麿手記集成』より。なお引用にあたって、表記を一部改めた。以下同じ)。

ところで、この場面を記録した別の史料があることを知っているだろうか。

杉山自身の記録がそのひとつである。より正確には、歴代の参謀本部戦争指導班(第20班)長が杉山の伝達事項を聞き取り、浄書・整理したもので、今日『杉山メモ』というかたちで公刊されている。

これを読むと、会話の内容が近衛手記と微妙に異なっている。

たしかに昭和天皇は、杉山にたいして「予定通り出来ると思うか。お前の大臣の時に蒋介石は直ぐ参ると云うたが、未だやれぬではないか」と同じ主旨の質問をしている。だが、その後の「太平洋はもっと広いではないか」という厳しい発言は記されていない。

昭和天皇にやり込められた恥ずかしい場面は、部下に伝達しなかったのだろうか。

そのいっぽうで、近衛手記にない記述も見られる。

昭和天皇は、大声で「絶対に勝てるか」と質問した。これに対して、永野が「絶対とは申し兼ねます」と言いながらも、「半年や1年の平和を得ても、続いて国難が来るのではいけないのであります。20年、50年の平和を求むべきであると考えます」などと答えた。

昭和天皇はこれに対して、やはり大声で「ああ分った」と答えたという。

この翌日(9月6日)、御前会議で「対米、(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」などとする「帝国国策遂行要領」が可決された。

その会議の最後、昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治天皇の御製を詠んだ。これは一般に平和への意志を示したとされている。

とすれば、「ああ分った」という声も、開戦同意の意味ではなかったのだろう。

杉山は、自分の意志がなく、押したほうに動くことから「便所の扉」とあだ名され、永野も、会議でよく居眠りしていた(若い後妻をもらったためと陰口された)ことから「ぐったり大将」とあだ名されていた。

昭和天皇が大声になったのも、こんなふたりへの苛立ちのあらわれだったのかもしれない。

焼却処分をまぬかれた重要文書
それはともかく、実はこの『杉山メモ』(の原形)を含む重要文書は、ほかの公文書と同じく、終戦時に焼却処分されるはずのものだった。

ところが、陸軍省軍務課庶務将校・中根吾一少尉が、高級課員山田成利大佐の許可を得て、これを密かに自宅に持ち帰り、ドラム缶につめて地下に埋めたことで、焼失をまぬかれた。

1191とはずがたり:2020/03/20(金) 00:28:13
>>1190

その後同文書は、各地で分割保管されるなどしながら、最終的に1960年6月以降、防衛庁防衛研修所戦史室にすべて移管された。

そしてこの史料群の一部が、のちに『杉山メモ』として公刊されるにいたったのである。なお同書以外の部分も、『敗戦の記録』『機密戦争日誌』として公刊されており、いずれも昭和史の研究に欠かせないものとなっている。

以上は、昭和史に通じたものにはよく知られたことだが、過日、昨今の杜撰な公文書管理に絡めてツイッターで言及したところ、思わぬ反響を引き起こした。そこで、今日に教えるところもあろうかと思い、あらためて記した次第である。

「大東亜共栄圏」の実態を明らかに
もうひとつ『杉山メモ』から貴重な記録を取り上げて、公文書が残された有り難みを噛み締めておきたい。

1943年11月、東京で大東亜会議が開かれた。東条英機首相、中華民国の汪兆銘行政院長、満洲国の張景恵国務総理、タイのワンワイタヤーコン首相名代、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバモオ首相が参加し、さらにオブザーバーとして自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が陪席し、「大東亜共同宣言」が採択された。

この宣言については、「大東亜各国」の共存共栄、自主独立の尊重、人種差別の撤廃などをうたったことから、現在でも高く評価する声がないではない。

だが、『杉山メモ』に収録された「大東亜政略指導大綱」を見ると、その裏事情が浮かび上がってくる。

「大東亜政略指導大綱」は、同年5月31日の御前会議で決定された「大東亜」地域に関する基本方針である。大東亜会議の開催も、これにもとづいて決定されたものだった。

その内容を見ると、フィリピンの独立などを打ち出すいっぽうで、一部の占領地については「帝国領土」とする決定が下されている。

 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努む。
つまり、現在のマレーシアやインドネシアにほぼ相当する地域を、日本の領土に組み込むとされていたのである。これは明らかに、「自主独立の尊重」などと相反するものだった。

だからこそ、上記の条項は「当分発表せず」と秘匿されなければならなかった。千言万語を尽くすより、この箇所は「大東亜共栄圏」の実態をよく示してくれている。

今日「大東亜共同宣言」が一部でしか評価されていないのは、こうした史料も関係しているのである。

大事な政治的記録は何らかのかたちで残る
中国の古典『春秋左氏伝』に、こんな話が載っている。

春秋時代、斉の崔杼(さいちょ)が荘公を殺した。史官はこれを「崔杼、荘公を弑(しい)す」と記録した。「弑す」とは主君を殺すという意味である。

怒った崔杼はこの史官を殺した。ところが、その弟が史官を継いで、また「崔杼、荘公を弑す」と記録した。崔杼はふたたび史官を殺した。それなのに、またその弟が史官を継いで、やはり「崔杼、荘公を弑す」と記録した。さすがの崔杼も、ついに記録の改竄を諦めた――。

どんなに消そうとしても、大事な政治的記録は何らかの形で残されてしまうものなのである。この『左伝』の箇所がたびたび参照されるのは、そうした真実を衝いているからにほかならない。

もちろん、「役人は殺されても記録せよ」と言いたいのではない。そんな使命感に訴えなくても、何らかの記録は残されるだろう。というのも、記録を完全に破棄してしまうと、政治家/上司に「官僚/部下が勝手にやった」などと責任を押し付けられるリスクがあるからだ。

仮に公文書自体は完全に処分されているとしても、担当者が身を守るために記したメモや日記、下書きなどは数年後に出てくるのではないか。

終戦時にさえ抹殺できなかった公文書の存在は、そんな期待をわれわれに抱かせてくれる。そして未来に出てくるであろう「史料」は、目の前の倒閣運動には役立たなくても、長い目で見たとき、かならず後世のひとびとの役に立つはずである。

1192荷主研究者:2020/03/29(日) 15:40:32

https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=622618&comment_sub_id=0&category_id=112
2020/3/14 中国新聞
海自呉基地れんが倉庫群研究に力 呉高専と広島工業大

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200314chugoku01.JPG
海自呉基地内のれんが倉庫の前で現状を確認する呉高専と広島工業大の教員と学生有志

 呉高専(呉市)と広島工業大(広島市佐伯区)の教員と学生が、呉市の海上自衛隊呉基地に現存するれんが倉庫群の研究に力を入れている。これまでは昭和初期以前の経過が詳しく分からなかったが、倉庫が明治期に建設されたことなどが徐々に分かってきた。

 れんが倉庫群は海自呉地方総監部南側の一角にあり、同じ大きさの倉庫が3棟建つ。2階建て延べ約690平方メートルの倉庫は縦8・7メートル、横36メートル、高さ11・3メートル。倉庫は戦時中に市中心部で大規模な被害が出た空襲で旧海軍の呉鎮守府庁舎(現・同総監部第1庁舎)と同様に屋根が焼け落ちたが、その後に修復された。現在は同総監部が備品などを保管するために使う。

 海自呉基地に残り、旧海軍が使っていた地下施設の研究を進める呉高専と広工大が本年度から、れんが倉庫群についても本格的に調査に乗り出した。これまでは海自の台帳に記載されている1930年以前の経緯は詳しく分からなかったという。

 調査を通じて、防衛省防衛研究所(東京)で倉庫の図面などを見つけ、明治後期の00年に完成したことを確認。オーストラリア戦争記念館所蔵の写真なども入手し、明治期に発生した芸予地震や空襲で被害を受けた後に屋根の形状が変わっていることも把握した。

 海自の協力を得た上で、今後は保存の観点で参考になるような研究も進めたい考え。呉高専の専攻科2年難波宗功さん(22)は「外壁は建設当時のままで、呉鎮守府の歴史を物語る倉庫。役割を変えずに今も使われている点が興味深い」と話している。(浜村満大)

1193とはずがたり:2020/06/02(火) 17:17:49

大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか
https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180808-OYT8T50018/2/
2018/08/15 05:20

… 私がキャスターを務める「深層NEWS」では、『大本営発表 改竄かいざん・隠蔽いんぺい・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書)を書いた近現代史研究者の辻田真佐憲つじたまさのりさんをお招きして話を聞いた。辻田さんは、でたらめ発表が行われた背景に、「情報軽視」と「内部対立」という2つの構造的な欠陥があったと分析している。

情報軽視の悪癖、現場の報告を鵜呑みに
 大本営発表が最初からでたらめだったわけではない。真珠湾攻撃の戦果は、航空写真を綿密に確認するなどした上で、3度も修正されている。戦闘機から見た艦船は点のようなもので、本当に沈んだのか、沈んだ艦は戦艦なのか、駆逐艦なのかを判別するのは、熟練度が高い搭乗員でも簡単ではないからだ。

「深層NEWS」より
 戦線が拡大し、熟練度が低い搭乗員が増えるにつれ、戦果の誤認が急増した。誤認は米軍にもあったが、大本営には情報を精査したり、複数の情報を突き合わせたりする仕組みがなかった。特に作戦部には現場からの情報を軽視する悪癖があった。根拠もなく報告を疑えば「現場の労苦を過小評価するのか」と現場に突き上げられる。誤った報告は鵜呑うのみにされ、そのまま発表されていった。

「敵空母11隻、戦艦2隻撃沈…」幻だった大戦果

 誤報の極みとされるのが、1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は、「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟ごう撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」。米機動部隊を壊滅させる大勝利に、昭和天皇(1901〜89)からは戦果を賞する勅語が出された。だが、実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗だった。


 熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半だった。多くは米軍の反撃で撃墜され、鹿屋基地(鹿児島県)に帰還した搭乗員の報告は「火柱が見えた」「艦種は不明」といったあいまいな内容ばかりだった。だが、基地司令部は「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電した。翌日に飛んだ偵察機が「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果に上乗せされた。

 さすがに疑問を感じた海軍軍令部は内部で戦果を再検討し、「大戦果は幻だった」ことをつかんだが、それを陸軍の参謀本部に告げなかった。陸軍は大本営発表の戦果をもとにフィリピン防衛作戦を変更し、レイテ島に進出して米軍を迎え撃ったが、台湾沖で壊滅させたはずの米空母艦載機の餌食となり、壊滅した。各部署は大本営発表から戦果を差し引いた独自の内部帳簿を持っていたが、その数字は共有されず、共有しても相手は参考にしなかったという。

「水増しと隠ぺい」内部対立がさらに歪める
 情報の軽視によって水増しされた戦果は、公表範囲を決める幹部会議に持ち込まれ、「軍事上の機密」を理由に都合の悪い部分が隠ぺいされた。報道部が大本営発表の文書を起案する時点で、すでに戦果の水増しと隠ぺいが実施済みだったわけだが、ここからは「内部対立」でさらに戦果は歪められていく。

 大本営発表は軍の最高の発表文で、起案された文書は主要な部署すべてのハンコがなくては発表できない。陸軍を例にとると、参謀本部に参謀総長、参謀次長、作戦部長、作戦課長、情報部長、主務参謀などがいて、陸軍省に陸相、次官、軍務局長、軍務課長らがいた。特に、作戦部にはエリート中のエリートが集まり、他の部署を下に見ていたという。他の部署は作戦部を快く思わず、何かにつけていがみあっていたから、すべてのハンコをそろえるのは大変な作業だった。

1194とはずがたり:2020/06/02(火) 17:18:08
>>1193
 それでも勝っているうちはよかったが、日本が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなった。「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前にすぎず、「敗北を認めると、その責任を負わされかねない」というのが本音だった。発表が遅れれば、報道部の責任が問われる。報道部はハンコが早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになった。

予期せぬ敗北で損害隠し…ミッドウェー海戦「日本の勝ち」
ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を回避しようとする日本海軍の空母「赤城」(1942年)
 軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。

予期せぬ敗北で損害隠し…ミッドウェー海戦「日本の勝ち」
ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を回避しようとする日本海軍の空母「赤城」(1942年)
 軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。


 報道部は「空母2隻沈没、1隻大破、1隻小破」とする発表文を起案したが、作戦部が猛反対した。3日後に発表された味方の損害は「空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破」に減らされた。一方で、敵の損害は「空母1隻の大破」が「2隻撃沈」に水増しされ、「沈めた空母の数で日本の勝ち」と発表された。

 報道部の担当者は戦後、ミッドウェー海戦の大本営発表のなりゆきについて、「真相発表とか被害秘匿とかそんなものを飛び越えた自然の成り行きであった。理屈も何もない」と述懐している。誰かの決定も指示もなく、あうんの呼吸で部署間のバランスに配慮した結論が出された。情報軽視と軍内部の対立という欠陥は放置されたまま、空気を読んで戦果を忖度そんたくし、でたらめを発表する仕組みができ上がった。

 良心の呵責かしゃくもあったのか、ミッドウェー海戦以降、いったん大本営発表の回数は激減する。しかし、しばらくして再び増え始めた大本営発表には、当たり前のようにウソが混じるようになる。辻田さんは「ウソをつくことを覚えたのだろう」と分析する。海軍はミッドウェーでのごまかしは、すぐに勝って帳尻を合わせればよいと思っていたようだが、戦いの主導権は二度と戻らなかった。

 一部の海戦については後から戦果を訂正する発表もあったが、これは誤りが判明したからでなく、過去のウソから生じた矛盾を取り繕うためだった。しかし、同時に新たなウソをついていたから、実際の戦果との開きは拡大するばかりだった。

「撤退」は「転進」…言い換えで責任不問に

 1943年(昭和18年)になると、ごまかしは戦果以外にも及ぶ。ガダルカナル島からの撤退は「転進」に、アッツ島の守備隊全滅は「玉砕」に言い換えられ、大本営の作戦や補給の失敗は不問とされた。

 44年(昭和19年)以降、本土が空襲にさらされ、戦いの前線が迫ってきても、大本営はウソを発表し続けた。ごまかしや帳尻あわせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられた。特攻隊の戦果は大幅に水増しされたが、国に身を捧ささげて得た戦果を疑うことは許されない。大本営は特攻隊まで戦果の取り繕いに利用したのだ。

 辻田さんの集計によると、大本営発表では太平洋戦争中に敵の空母は84隻、戦艦は43隻が撃沈されているが、実際は空母は11隻、戦艦は4隻しか沈んでいなかった。でたらめな戦果は昭和天皇にも奏上され、天皇は戦争末期に「(米空母)サラトガが沈んだのは、今度で確か4回目だったと思うが」と苦言を呈したといわれる。



 でたらめな大本営発表には、記者発表で仕上げの尾ひれがつけられた。発表後に軍の担当者が「この発表の意図はこうだ」「ここはこう書いてくれ」とオフレコでレクチャーし、記者たちは軍の意向に寄り添った記事を書いた。軍の意向に逆らわず、むしろ積極的に空気を読んで戦争の片棒を担いだメディアの責任も大きい。

1195とはずがたり:2020/06/03(水) 17:29:53
この流れでイランにいたポーランド軍がクマを軍役に就かせる一幕https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%AF_(%E5%85%B5%E9%9A%8A%E3%82%AF%E3%83%9E)があったのか

ポーランド亡命政府
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BA%A1%E5%91%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポーランド亡命政府(ポーランドぼうめいせいふ、ポーランド語: Rz?d Rzeczypospolitej Polskiej na uchod?stwie)は、1939年のポーランド侵攻後のナチス・ドイツ及びソビエト連邦による国土の分割占領により、ポーランド第二共和国政府を継承して組織された亡命政府である。

ポーランド亡命政府は、ポーランド地下国家(英語版)と国内軍の組織構造を通し、第二次世界大戦期間に影響力があったとされる。終戦後、ポーランドはソ連の衛星国ポーランド人民共和国の管理下となり、亡命政府は存在したが影も薄く影響力も無かった。共産主義支配の終了後、亡命政府は正式に責務を新政府の第3共和制に移行した。

ポーランド亡命政府は1939年にパリで発足し、1940年にアンジェに移転。その後、1940年から1990年までの間はロンドンを拠点とした。

歴史
独ソ両国のポーランド侵攻を受け、1939年9月17日、ポーランド大統領イグナツィ・モシチツキは上院議長ヴワディスワフ・ラチュキェヴィチ(英語版)を、憲法規定に従い後継指名する。9月30日、モシチツキの辞任を受けたラチュキェヴィチは、亡命先のパリにおけるポーランド大使館で大統領への就任を宣誓し、首相にヴワディスワフ・シコルスキを任命。ポーランド亡命政府が発足する。ポーランド海軍の大部分は脱出していたためこれを指揮下に収め、さらに脱出に成功した一部の陸軍将兵も指揮下に入る。翌年アンジェに移転。そしてフランスが降伏しヴィシー政権が立ち上がると、ロンドンに移された。

1939年、ソ連のポーランド侵攻により亡命政府はソ連と外交を断絶する。

ほとんどのポーランド海軍は英国へ逃げた[1]。数万のポーランド軍人らはハンガリーやルーマニアを越えて逃げ、フランスで続けて戦った。多くは同盟国ノルウェー軍の戦いに参戦した。バトル・オブ・ブリテン、大西洋の戦い (第二次世界大戦)、アフリカではトブルク包囲戦、イタリアのアンコーナやモンテ・カッシーノの戦いなど他の同盟国と共に戦った。ポーランドとソ連は、シコルスキー・マイスキー協定(英語版)により、ソ連管理下に置かれたポーランド市民の解放およびナチス・ドイツに抗戦する同盟軍の軍隊を組織する。

1941年、ドイツがソ連を攻撃した(独ソ戦)。これを期に亡命政府はソ連との外交関係を築く[5][6]。

1196とはずがたり:2020/06/03(水) 17:30:12
>>1195
1941年12月11日、ポーランド亡命政府が日本に宣戦布告した[7]。

ポーランド軍人は独ソ両国の捕虜となっていたが、独ソ開戦に際し、ソ連側の捕虜は連合国側の戦力に目されるが、ナチス・ドイツとの秘密議定書により本土を蹂躙したソ連の指揮下で戦うことは無理があるため、英ソの勢力が隣り合っていたイランにおいてイギリスに引き渡された。彼らはポーランド亡命政府の指揮下に収められ、エルヴィン・ロンメルのドイツアフリカ軍団の抗戦(北アフリカ戦線、ガザラの戦い)において英国のために戦った。この軍隊は、後にポーランド第2軍団(英語版)となり連合国と共に戦う。

1943年、ドイツはカティンの森で、ソ連に虐殺された多数のポーランド軍人捕虜の死体を発見した事を公表した[10]。ソ連は、ドイツの仕業であると主張し、亡命政府に同調を要求したが、拒否されたため亡命政府と断交した。1943年、亡命政府とポーランド軍のリーダーであったシコルスキを含む政府・軍関係者13人が飛行機事故(en)で亡くなった[11]。

1943年 - 1944年、同盟国のウィンストン・チャーチルはソ連と亡命政府の会談再開を試みたが、幾つかの問題(カティンの森事件、領土問題など)により放棄された[12]。亡命政府の党首ミコワイチクは領土問題において拒否した。

1944年8月には東側からナチス・ドイツを攻めるソ連の呼び掛けに応じ亡命政府の国内軍主導によりワルシャワ蜂起が起きるが、ソ連のワルシャワ進撃がなかったため、国内軍と多数のワルシャワ市民が犠牲となる。11月ミコワイチクはソ連に不信を持つにも関わらず辞任[13]、ポーランドに戻りソ連占領下の新政府の挙国一致臨時政府(英語版)において副総理となり、首相は社会主義者のモラフスキ、もう1人の副総理は共産主義者のリーダー、ゴムウカとなる。

1945年6月、亡命政府と共産主義系のルブリン政権が合同し、国民統一臨時政府(RTRP)(英語版)が成立した。ルブリン政権発足当初は、ボレスワフ・ビェルト (ソ連のNKVDエージェント)が国家法議会議長に就任し、労働者党書記長をヴワディスワフ・ゴムウカが務めた。

1945年7-8月のポツダム会談までにポーランドはソビエトの勢力範囲となり、亡命政府の放棄は西欧の背信行為(en:ProvisionalWestern betrayal)と批難された[14]。

1945年、国内軍は切り捨てられ、ソ連の傀儡政権であった共産政権側による亡命系の大臣や政治家の逮捕や国外追放などで安全な帰国ができず、さらに7月、英国とアメリカ合衆国は亡命政府に対する正統政府としての承認を取り下げた。ロンドンのポーランド人はポーランド大使館から撤退しなければならなかった。亡命政府系のポーランド人の多くはアメリカ合衆国等に移住した。

東欧革命の流れで1990年に共産主義政権が崩壊、レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)政権(ポーランド第三共和国)が成立した。これに伴い、亡命政府大統領のリシャルト・カチョロフスキはそれまで保持していた政権の正統性を示すレガリア(1918年ポーランド憲法〈ポーランド第二共和国憲法〉正文、ポーランド国旗正旗など)を第三共和国へと承継し、その役割を終えて消滅した。ワレサ政権は成立式典にポーランド亡命政府を招き、自らを第二共和国の正統な後継者として位置づけたが、前共産主義政権のヴォイチェフ・ヤルゼルスキ前大統領の式典招待はなかった。

1197とはずがたり:2020/06/11(木) 00:42:58

https://twitter.com/laurusesq/status/1270686785366978566
百年前新聞社・社主
@laurusesq
返信先:
@laurusesq
さん,
@100nen_
さん
長崎海軍伝習所のオランダ人カッテンディーケの『日本滞在記録抄』によると、

・すぐどこかに行って帰ってこない
・注文したものが期日までに届かない
・正月の挨拶まわりに数日かける

(孫引きです。原典にあたってません)

と言って呆れているようです。

1198さがら療法(さがらセラピー)心の健康法うつ病の予防と改善:2020/06/12(金) 11:48:04
うつ病の予防と改善の他、引きこもり不登校いじめパニック障害潔癖症摂食障害睡眠障害不安悩みイライラストレス自信がない勇気がないなどの改善方法や人材育成の方法を紹介しています

1199とはずがたり:2020/06/17(水) 23:32:55
日本は良い事もした厨はいい加減滅んで欲しいけど,最近はその前に日本人は好かれてる(から酷い事しなかった)厨が出てきてどうにもならん。

インドネシア中学歴史教科書-第21章 インドネシアにおける日本の占領
http://honnesia.doorblog.jp/archives/39352526.html
2014年07月29日

1200荷主研究者:2020/06/21(日) 21:43:51

https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/202004/CK2020040902000273.html
2020年4月9日 東京新聞 夕刊
<新型コロナ>警察、戦前は防疫担う 首相、協力要請の可能性言及で物議

弥生慰霊堂には、防疫活動で命を落とした警察官ら殉職者がまつられている=東京都千代田区の北の丸公園で

 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い緊急事態宣言が発令され、安倍晋三首相らが外出自粛要請などで警察の協力に言及したことが議論を呼んでいる。現在の防疫業務は政府と地方自治体が当たるが、戦前は感染症対策も警察の重要任務で、多くの犠牲者も出ていた。 (木原育子)

 一八八六(明治十九)年に国内でコレラが大流行し、東京府内(当時)では七〜九月の三カ月間に九千八百七十九人の死者を出した。現在の東京都民に換算すると、十一万人が亡くなる割合だ。

 「一(ひと)たび伝染病が蔓延(まんえん)すると、その防圧には昼夜の別なく必死の活動を続けねばならなかった」。警視庁史明治編にはそう記され、「その惨状は目をおおわすものがあって、市民を極度の恐怖に落入(おとしい)れた」と伝えている。

 警察行政は戦前、特別高等警察を所管する「警保局」や、地方行財政を担当する「地方局」を持つ内務省に管轄された。防疫は警保局の仕事で、感染症が流行すれば、現在の厚生労働省のように対策や予防広報などで活動した。

 警視庁によると、明治時代に防疫活動中に亡くなった警察官は少なくとも百十五人に上り、北の丸公園内(東京都千代田区)の弥生慰霊堂に鎮魂されている。

 一九二九(昭和四)年の警視庁内の広報雑誌「自警」には、ある署長が明治時代に体験した防疫活動を回顧している。患者を病院に隔離したり、遺体を運んだりする際に感染することを恐れた警察官たちを鼓舞するため、警察署の玄関に酒が入った大樽(たる)が備えてあったという。当時は珍しかったブランデーでねぎらわれ、「今考えてもぞっとするようなものだった」と振り返っている。

 大正時代も警察官の防疫活動は続いた。警視庁史大正編によると、一九一三(大正二)年のペスト菌の流行時には、日本橋の下水にいたネズミがペスト菌を持っていたことが分かり、警視庁が「捕鼠隊」を組織。一日に八千匹のネズミを捕らえたと記されている。

 一七(大正六)年に入り、スペイン風邪といわれるインフルエンザが流行した際には「マスクをお用いなさい〜身の為(た)め人の為(た)め〜」「予防注射をなさい〜転ばぬ先の杖(つえ)〜」などと書かれた「予防心得書」を東京府内の各家庭に配布。百年以上たった現在のコロナ対策を彷彿(ほうふつ)とさせる文言にあふれている。

 元新聞記者で至誠館大の三木賢治教授(マスメディア論)は「警察は当時、現在の厚労省業務も担う内務省の管轄だったため、防疫活動を担ったのは必然だろう。一方で、ハンセン病においては強制隔離政策の最前線で、偏見と差別に満ちた方法で連行していった史実も忘れてはならない」と指摘する。

1201とはずがたり:2020/06/26(金) 14:35:31
興味深い。我が父母の故地各和は今では掛川市内に在るけどもともと袋井の方が近いしな。

2020年03月31日
塘沽停戦協定の駐屯部隊
http://szkganz.seesaa.net/article/474338521.html

日中戦争が始まる1年前、昭和11(1936)年8月24日に静岡・袋井局で引き受け、中国河北省馬蘭峪(ばらんこく)の部隊に宛てられた軍事郵便はがきです。裏面の中国印から河北省唐山局を8月28日に経由し、表面の着印で8月29日に馬蘭峪局に着いたことが分かります。

馬蘭峪とは聞き慣れない地名ですが、「馬蘭関」と記す資料もあるように、万里の長城の南壁に沿った関門の1つでした(下地図参照)。古北口と喜峰口の中間ぐらいに位置し、関門としては小規模なものだったようです。山海関や唐山、塘沽などの中都市に比べれば奥地の小集落に過ぎなかったと思われます。

塘沽停戦区域図.jpgそんな辺鄙な場所になぜ日本軍がいたのでしょうか。天津に司令部を置く日本の支那駐屯軍は北平(北京)-天津-山海関を結ぶ北寧鉄道沿線にしか駐屯できない取り決めだったので、それではありません。調べてみると、1933年に日中間で結ばれた塘沽停戦協定による関東軍からの派遣隊と分かりました。

関東軍は本来は「満州国」を守備する部隊です。万里の長城が中国との国境だったので、長城の南側(関内)に部隊を侵出させることはできません。しかし、関東軍はこの一帯を南京の中国国民政府から切り離して傀儡政権を建て、満州国を防衛する中立地帯とすることを目論んでいました。「華北分離工作」と呼ばれます。

それを初めて実行に移したのが1933年5月に発動した関内作戦でした。1月に始めた熱河平定作戦に乗じて関東軍の大部隊が長城の各関門から一挙に南下、侵攻します。北平(北京)や天津の陥落を恐れた中国側が停戦を申し入れ、5月31日に塘沽で関東軍との間に停戦協定が結ばれました。

勝ち誇る関東軍は中国側に強請して延慶と芦台を結ぶ停戦ラインの北方、長城線までの区域を「停戦地帯」に設定し、中国軍を停戦ライン南方に追いやりました。引き換えに関東軍も長城より北側(満州国内)に撤退したのですが、長城線確保のため長城南壁に沿った戦略的重要地点への駐屯を中国側に無理やり認めさせました。

長城南側の駐屯地名は停戦協定本文ではなく、協定の「善後申合せ」に付属する「了解事項」という秘密協定に書き込まれました。それが馬蘭峪を含む山海関、喜峰口、古北口など6地点です。関東軍・満州国が中国本土内に打ち込む侵略のクサビとなりました。満州国が領土外なのに山海関と古北口に堂々と郵便局を開設できたのは、このためです。

話が長くなりすぎましたが、馬蘭峪に日本軍が駐屯していたのにはこういう事情がありました。塘沽停戦協定は出先同士の現地協定という扱いで、本文は公表されませんでした。まして付属秘密協定は南京の国民政府にさえ報告されていません。この1通のはがきはそうした歴史の闇を暴く証拠物件となっています。

(この記事を書くに当たって、アジア歴史資料センター(JACAR)の「北支停戦協定ノ成立」「停戦協定善後処理ニ関スル北平会議々事録」を参照しました。)

1202とはずがたり:2020/06/26(金) 14:38:03
まあこれは俺も読んでてエビデンスは持ってなかったがそう思ったな。

2011-02-01
Wikipediaにおける山海関事件記述の嘘
https://marc73.hatenadiary.jp/entry/20110201/1296580393

Wikipediaでは「外国の信頼できる情報源の多くは日本側の報道を支持した」とあるが、これは日本軍の行動を正当化するのに都合のよい報道を集めたに過ぎない*2。

参考文献となる[21][22]は、いずれも「North-China Daily News」*3である*4が、これは上海国際租界の英仏米の大商人たちによる御用新聞である。1930年代当時の中国ナショナリズムによる利権回収運動で中国側と対立する利害関係を持っており、山海関事件では日本側に偏った見解を出しているにすぎない。
なお、山海関事件に関しては、「サンフランシスコ・クロニクル」、「ポートランド・オレゴニアン」、「シカゴ・デイリーニュース」、「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」、「ワシントン・ポスト」、「ボルチモア・サン」、「ニューヨーク・アメリカン」、「ニューヨーク・ワールド・テレグラフ」、「ニューヨーク・イブニング・ポスト」(以上、アメリカ)、「ガーディアン」、「クロニクル」、「ヘラルド」(以上、イギリス)、「アルゲマイネ・ツァイツング」、「フルンクフルター・ツァイツング」、「フォルヴェルツ」(以上、ドイツ)が、日本側の侵略行為であると非難する論調を掲げている*5。

1203とはずがたり:2020/07/13(月) 20:32:16
『戦場の兵士の大部分は敵を射撃しない』という神話
dragoner | Webライター(石動竜仁)
https://news.yahoo.co.jp/byline/dragoner/20200521-00179236/
5/21(木) 11:05

1204荷主研究者:2020/07/14(火) 21:40:10

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/429836?rct=n_hokkaido
2020年06/11 23:15 北海道新聞
稚内赤れんが通信所修復完了 真珠湾攻撃暗号を中継

屋根を修復した稚内赤れんが通信所のB棟

 【稚内】稚内市恵北にある歴史的建造物「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」(通称・稚内赤れんが通信所)で、壊れていた屋根などを修復する工事が終わった。1941年の日米開戦時、真珠湾攻撃を命じる大本営の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」を中継送信したとされる施設で、修復に取り組んだ市民団体は7月以降、一般公開を目指している。

 修復されたのはA〜Cの3棟あるうちのB棟(木造平屋建て480平方メートル)で、中央にシンボルの望楼がある。老朽化が進み、雪害で全体的に屋根が崩れ落ちていた。資金的な制約もあるため、望楼を含む中央部分の屋根や窓を修復し、正面と側面の2カ所に扉も取り付けた。

残り:165文字/全文:455文字

1205とはずがたり:2020/08/19(水) 18:27:37
日本が太平洋戦争に総額いくらを費やしたか、知っていますか
国家予算の280倍、今で換算すると…
加谷 珪一 プロフィール
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52599?page=2

1206荷主研究者:2020/09/05(土) 15:00:22

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/448584?rct=n_hokkaido
2020年08/08 05:00 北海道新聞
文化財33件、政令市で最少 札幌市、指定増やす方策探る

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200808hokkaido01.JPG

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200808hokkaido02.JPG
2018年に札幌市の有形文化財に指定された旧札幌控訴院(札幌市資料館)

 国や道、市町村が指定する文化財について、札幌市内は33件と全国20の政令指定都市の中で最も少ない。最多は京都市の2870件。札幌で都市開発が本格的に始まったのは明治時代で、他市に比べて古い建造物や美術工芸品が少ないことが理由とされる。一方で、市は「文化財となるメリットが所有者に周知されていない」として、文化財を増やす方策を検討している。

 市内の文化財は、国指定が旧札幌農学校演武場(時計台)や道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)など17件、道指定は旧永山武四郎邸など4件、市指定は旧札幌控訴院(札幌市資料館)など12件。最近30年間で新たに指定されたものは、市が4件、道は1件にとどまる。

 国や道は、それぞれの文化財保護審議会や市町村の推薦を受けて文化財を指定するが、道の担当者は「札幌市からの推薦が少ない」と説明する。市指定文化財については、市文化財保護条例で「国または道が指定したものを除き、市にとって文化的価値が高いと認めるものを、所有者らの同意を得て市の文化財に指定することができる」と規定。所有者の申請を前提とし、市文化財保護審議会で諮った上で指定する。

 文化財に指定されれば、所有者は補修などに対して補助金を受けられるほか、知名度が向上して観光客の増加が期待できるなどのメリットもある。一方、所有者には文化財を管理する義務が生じ、建造物の場合は改修などが大幅に制限される。市文化財課は「指定されれば規制が増えるため申請が少ない」と分析する。

 7月に開かれた本年度最初の市文化財保護審議会では、市内の文化財の少なさについて協議。委員からは「文化財(の価値があるもの)がどれだけあるか精査すべきだ」「文化財に指定されるメリットをもっとPRすべきだ」などの意見が上がった。市文化財課は「札幌は歴史が浅いという認識が市民にあり、文化財に関心が低いのではないか。市指定を年1件でもできるよう調査を進めたい」としている。(久保吉史)

1207名無しさん:2020/09/17(木) 03:15:47
https://news.yahoo.co.jp/articles/9fbfd0c36cccf36dc3c95188abd8f49153185b16
「戦争は悲惨という以前に…」記録への意識低い日本 “美談”が後世への冒涜に
9/14(月) 12:16配信

 戦後75年に合わせて考えている「平和学習」。世界史や教育の意義を読み解く多くの著書がある立命館アジア太平洋大(APU)の出口治明学長に現状や課題を聞いた。

-平和学習の現状をどう見ているか。
 「情緒的に平和が尊い、戦争は悲惨だということ以前にまずなすべきことは、過去と向き合うには正確な記録を残すという教育だ。正確な過去が分からなければ反省もできず、教訓も引き出せない」

-日本では記録することへの意識が低い。
 「今夏に見たNHKの戦後企画は、米国の公文書館の新たな公表資料を基にしていた。米国との戦争だったので米国に記録が残っており検証できたが、日本に資料がないということ自体が恥ずかしい。一部の政治家は『秘密は墓まで持って行く』ことを“美談”として語るが、これは後世の人々に対する冒涜(ぼうとく)。少なくとも米国並みに公文書を残し、一定のルールで公開すべきだ。最近では新型コロナウイルス対策に対する政府の専門家会議で、議事録を作っていなかった」

-日本が例外なのか。
 「何百年も前から海外では歴史を記録してきた。(唐の太宗・李世民の言行録)『貞観政要(じょうがんせいよう)』に関する本を著したが、この時代にも歴史を記録する役職を置いていた。太宗が『良く書いてくれよ』というと、記録係は『良いことも悪いことも全部書き留めております』と返答し、干渉させないよう記述内容を見せることも拒んだ。当時から、国のトップの言動はしっかり残さなければ、後世の人が善しあしを判断できないという知恵があった」

-記録があれば、それを基に教育もできる。
 「教育基本法を読んでみたが、教育の目的は二つある。一つは、自分の頭で考え、自分の言葉で意見を言えるようにする。もう一つは、社会に生きていく上での武器(知識)を与えること。政府や政治、選挙やお金とは何か。抽象論ではなく、具体的に社会で役に立つことを教える必要がある」

-二つの目的に基づく教育は行われているか。
 「戦後の日本は復興が第一だった。結果的に学校は製造業の工場で働く人を育成してきた。今もその傾向にあり、(1)偏差値がそこそこ高い(2)素直(3)我慢強い(4)協調性が高い(5)先生の言うことを聞く-の5要素がベースになっている。素直であれば常識を疑わず、我慢強ければブラック企業でも耐え、協調性が高いと周囲に忖度(そんたく)し、先生の言うことを聞く人は上司に反抗しない。工場労働ならそれでもいいが、これだけでは新しいアイデアや豊かな個性が生まれるはずがない」

1208名無しさん:2020/09/17(木) 03:16:33
>>1207

-学校は子どもの自由な発想を育んでいないのか。
 「現在の日本の教育が全て悪いという意味ではない。小中学校の先生は努力している。経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち、国内総生産(GDP)に占める教育への公的支出の割合は、日本はいつも最低水準。ところが、15歳を対象にした学習到達度調査(PISA)の結果では、先進7カ国(G7)の中で最良。お金をかけていないのに子どもが優秀な理由は先生の情熱だ。でも、情熱におんぶに抱っこのままではいけない。国民の税負担を引き上げ、教育にもっとお金をかけないと」

-文部科学省の対応は。
 「文科省も気が付いている。(本年度から小中高に順次導入する)学習指導要領は、問いを立てる力、探究力が何よりも大事だといっている。要するに社会常識を疑う力を養うということだ。まず探究力を大人が持たないといけない。大人ができないことを子どもに教えられる訳がない」

-探究力は浸透しているか。
 「していない。問いを立てる力や探究力があれば、(生活維持に不可欠な)エッセンシャルワーカーに対して、新型コロナウイルスに感染したといって差別するなんてあり得ない。私たちがステイホームできるのはエッセンシャルワーカーのおかげ。国が感染者を差別しないよう通達を出すのは恥ずかしいことだ」

-今後の平和学習の在り方をどう思うか。
 「平和学習ではもちろんだが、データ(数字)、ファクト(事実)、ロジック(論理)で考える癖を身に付けてほしい。探究力を育てず5要素のままでは、日本は衰退していく。情緒的な議論がファシズム(全体主義)のベースになったことはナチスの歴史が物語っている」

 (編集委員・四宮淳平)

出口治明(でぐち・はるあき)さん
 1948年、三重県生まれ。72年、京大法卒、日本生命入社。2008年にライフネット生命を開業し、18年からAPU学長。著書に「『教える』ということ」など。

西日本新聞

1209荷主研究者:2020/09/23(水) 22:29:27

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/451526?rct=n_hokkaido
2020年08/19 05:00 北海道新聞
戦争遺跡保存の動きなく 旧日本軍沼ノ端飛行場の掩体壕跡 「歴史の証し失う」 住民懸念

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido01.JPG
沼ノ端飛行場の掩体壕の跡地。コの字形の盛り土は木々に溶け込み、小高い土手のように見える=2019年11月(藤原康成さん提供)

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido02.JPG

 人口増が続き、住宅が立ち並ぶ苫小牧市沼ノ端地区には太平洋戦争中、広大な旧日本軍の沼ノ端飛行場があった。終戦から75年、飛行場の痕跡は開発で消え、現在確認されているのは戦闘機を格納する掩体壕(えんたいごう)跡が1カ所のみだ。行政側には保存に向けた動きはなく、一部住民からは「このままでは貴重な戦争遺跡が失われてしまう」と懸念の声も上がる。

 市沼ノ端のJR日高線沿いの国有地に一辺25メートル前後のコの字形をした、高さ数メートルの盛り土がある。現存する唯一の沼ノ端飛行場の掩体壕跡。戦時中はネットなどで上部を覆い、戦闘機を隠したとの話も伝わる。ただ、ここがそうした戦跡であることの案内板や説明文などは見当たらない。

 「開発されにくい場所にあるため、残ったと思う。ただ、草木が生えて今は人工物だと分かりづらい」。戦争遺跡に詳しい勇武津資料館の藤原康成学芸員(63)は、こう説明する。7年前には2基が確認されていたが、1基はその後、工場建設でなくなったという。「掩体壕は盛り土で、いつかはなくなってしまう。貴重な戦争遺跡を保存したい」と危機感をにじませる。

 沼ノ端飛行場は、現在の東開町や沼ノ端一帯に広がっていた。1943年(昭和18年)12月、旭川に司令部を置く陸軍第七師団が整備した。滑走路は1500メートル2本と1200メートル1本の計3本。兵器製造工場があった室蘭の防衛が目的で、住民も動員し、数カ月程度の突貫工事で完成させた。

 旧日本軍の掩体壕はコンクリート製が多いが、沼ノ端飛行場では土製で36基あった。戦闘機「隼(はやぶさ)」が一時配備されたが、戦況悪化に伴い、道外へ送られた。同飛行場からの出撃記録は45年7月14、15日の北海道空襲時を含め、ないという。

 沼ノ端生まれの不動産経営の星野邦夫さん(77)によると、飛行場は終戦直後、米軍が滑走路を爆破。残った掩体壕は冬場、子どもたちがスキーで遊んだという。昭和40年代から宅地造成が始まり、飛行場の痕跡は消えていった。

 星野さんは「戦争遺跡を残すのは正直難しい。ただ、忘れてはいけない歴史の証しが消えていくのもどうなのか」と歯がゆさをにじませる。

 戦争遺跡の保存に積極的な自治体もある。東京都府中市は2007年、旧陸軍の調布飛行場の掩体壕1基を市の文化財に指定した。年1回、内部を一般公開している。市の担当者は「文化財に指定したことで市民に周知され、平和について考えるきっかけになっていると思う」と話す。

 一方、苫小牧市教委は沼ノ端の掩体壕跡を把握しているものの、「負の遺産を残すことには賛否ある。市民の保存活動の動きもなく、市として保存に向けた検討はしていない」(生涯学習課)としている。(山田一輝)

1210名無しさん:2020/10/19(月) 12:28:15
https://news.yahoo.co.jp/articles/2752e0e301faa55211ce13bd8ca2cf293e7bc1fb
【NEW】安倍前首相が靖国参拝
10/19(月) 9:42配信

安倍晋三前首相は19日朝、東京・九段北の靖国神社を秋の例大祭にあわせて参拝した。
安倍前首相は、参拝後、記者団に対し、「ご英霊に尊崇の念を表するため参拝した」と語った。
安倍前首相は、9月に首相を退任した直後に、靖国神社を参拝していて、退任後二度目の参拝になる。
首相在任中は、例大祭にあわせての参拝は行ってこなかった。

FNN

1211とはずがたり:2020/10/28(水) 14:49:20
2020-08-22
憲兵までゆるふわ化してしまった『この世界の片隅に』
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/08/22/083835

1212とはずがたり:2020/11/18(水) 20:35:14
財界四天王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E7%95%8C%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

財界四天王(ざいかいしてんのう)は、池田勇人内閣を表裏で支えた4名を指す。経済記者の重鎮、三鬼陽之助によって命名された。

氏名 出生年 死亡年 財界役職 自社役職
小林中 1899年 1981年 富国生命保険社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油社長
水野成夫 1899年 1972年 経済同友会幹事 産経新聞社長、フジテレビジョン社長
永野重雄 1900年 1984年 日本商工会議所会頭 富士製鐵社長
櫻田武 1904年 1985年 日経連会長 日清紡績社長
概略
財界四天王の呼称は、1961年(昭和36年)『文藝春秋』新年号で三鬼陽之助により初めて使用された。それ以後、池田内閣のご意見番として君臨する4名を示す言葉として広く使用されるようになった。

そもそも、池田勇人を支持するきっかけとなったのは、財界四天王の師匠、宮島清次郎(日本工業倶楽部元会長、日清紡績元社長)の存在に尽きる。宮島は吉田茂元首相と東京帝国大学時の同級生であり、一緒に下宿する程の大親友であった。さらに第1次吉田内閣当時には資金援助もしていた。そのような関係もあり、吉田は第3次内閣を組閣する際、財界の重鎮となっていた宮島に大蔵大臣就任を要請した。宮島は若き頃、首相を務めた犬養毅に一時師事し、代議士経験もあるなど政治に精通していたものの、これを拒否し、逆に櫻田武の推挙により池田を大蔵大臣に推薦し就任させた。ここから、財界四天王と池田との深い関係が始まる。

敗戦からまだ20年前後で、旧財閥は以前ほどの力がなく、働き盛りの4人が日本の財界を牛耳った[1]。この4人が相談すると、日本国の大抵のことは決められるともいわれた[1]。政治資金規正法という面倒な法律もなく、この4人を中心に集金して、ジャンジャン政治家に献金した。スポンサーとして金も出し意見もした。財界優位の時代で、ときの総理といえども聞かざるを得なかった[1]。池田内閣の「所得倍増計画」という根幹の政策からして、財界の意見をそのまま政策に反映するもので、貧乏だった日本経済が急激に上昇した時代であった。財界四天王は池田内閣時、財務面でのバックアップのみならず、政策にも大きくかかわった。池田の死後も、池田派により結成された宏池会の後見人として、政治の世界に影響力を持ち続けた。

1213名無しさん:2020/11/21(土) 22:02:58
https://news.yahoo.co.jp/articles/1a9fb9f448cdf02bd33652d98c246d6ae403a8cc
田中角栄に向けてニクソン大統領が放った、ヤバい「差別発言」をご存じか?
11/21(土) 6:02配信

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1973年7月31日、田中角栄はニクソン米大統領と2度目の首脳会談に臨んだ。しかし日中国交正常化に不満を抱くアメリカ側は、角栄に対して高圧的な態度で接する。そしてとうとう、ニクソンの口から衝撃的な「差別発言」が飛び出した…! 緊張が高まる当時の日米関係の様子を、新刊『ロッキード疑獄』から一部編集して紹介する。
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角栄とニクソンの関係悪化
 この頃、双方は7月31日〜8月1日に設定された、田中とニクソンの2回目の首脳会談の準備作業にとりかかっていた。

 両首脳にとって悩みは、大統領も首相も支持率が低下していたことだ。ニクソンはウォーターゲート事件、田中は金権政治が問題にされ、両者は人気回復策で悩んでいた。

 当時、日米間の主要課題は、(1)対中国政策の調整と、(2)日米貿易不均衡だった。しかし、(1)は既に「主要な論点」ではなく、(2)は「解決への道筋が付けられたよう」に見えた。

 だから、キッシンジャーはニクソンに「相互に関心がある多国間問題での協力」について、次のような協議をするよう提案した(注1)。

 ・日本の経済力に比例した役割を地域および世界で演じるよう求める。
・日本はエネルギー問題で、日本の協力が重要とされる地域で建設的に取り組む。
・新しい分野で米国とともに同盟関係への新たな日本の関心を創出する。

 「こうした議題は、CIAの報告によれば、田中が好む」と付記されている。

 二度目の田中との会談に向け、ニクソンは手ぐすね引いていたとみられる。田中に意見してやる、と意気込んでいたのだろう。

 第一に、両首脳は一緒にゴルフする計画だったが、理由もなく止めた。

 前年、1972年のハワイでの首脳会談の際、ロジャーズ国務長官は、次にワシントンで会う時は大平と「一緒にゴルフしないか」と話していた。今回、大平からインガソル駐日大使を通じて「プレーのお招きをいただけたら大平も田中も大変ありがたい」と提案した。

 だから、首脳同士のゴルフも「同意されるなら、(会談前日の)7月30日でアレンジする」とロジャーズはニクソンに伝えた(注2)。

 しかし、この計画について、キッシンジャーの部下は、7月18日付のキッシンジャーあてメモで「先月日本側から提案があったが、あきらめた」と連絡。キッシンジャーも、大統領あてメモで「ゴルフの可能性はない」と伝えた(注3)。ニクソンが断ったとみられる。

 第二に、8月1日の会談終了後に、ホワイトハウスの「ローズガーデンを両首脳が散策し、2人で共同声明を発表。宇宙中継で日本のテレビにライブ映像を送信する」という日本側提案の演出も、同じ憂き目に遭った。

 日本の提案は会談前日の7月30日、キッシンジャーに伝えられた(注4)。しかし、当日の「大統領日誌」によると、「大統領は別れのあいさつをして、3分後に執務室に戻った」。米国側は、会談開始予定を30分繰り上げて午前9時半とし、テレビの宇宙中継はやるが、両首脳による共同声明発表には応じなかったのだ(注5)。

1214名無しさん:2020/11/21(土) 22:03:32
>>1213

争点は貿易赤字と日中関係
 日米首脳会談前、課題とされていたのは二つ。第一に米国の対日貿易赤字削減、第二に対中関係で異なる日米の政策をいかにして両立させるか、だった。第二点、日米の対中政策の相違は、まだ問題化していなかった。

 米国の対日貿易赤字は前年の約40億ドルの半分以下に削減されることが確実となっていたので、ニクソンが高く評価して当然だった。

 だが、会談1日目、7月31日のニクソンは上から目線で、傲慢な話し方が目立つ(注6)。

 田中は「1973年上半期、日本の対米輸出額は前年同期比8%しか増加せず、逆に米国からの輸入額は49%増加して、日本の貿易黒字額は約12億ドルに大幅削減となった。日本政府の景気刺激策で内需が拡大し、達成した」と成果を明らかにした。

 しかし、ニクソンはこれに対し、労をねぎらうわけでもなく、「日米のような高度に発達した先進国は競争の運命にある。……こうした競争が激しい政治的対決に発展しないようにすべきだ」と将来の日米対決に警告した。

 その上で、ニクソンは「首相は『コンピューター付きブルドーザー』と呼ばれている。どれほど難しくても首相のような指導者は、危機回避に貢献してくれる」と期待感も示している。

日本人は「裸で立っているピグミー」
 その後、ニクソンは次のように、計3回、日本をアフリカの「ピグミー族」にたとえる差別的な発言をした。

 ニクソン「自分の基本的な見方だと、経済大国は政治的なピグミーにとどまることができないということだ。それは自然の法則に反する。経済大国は政治的ピグミーにとどまれない……首相は日本が将来歩むべき道をどう考えるのか」
田中「すべての日本国民は米国が過去四半世紀、日本に与えた援助に感謝している。それによって、日本は全面的敗北から復興するまれな成果を挙げた。日本国民の基本的な願いは、米国と緊密に協議し、永久に自由諸国とともに地位を維持することだ」

 ニクソン「中国、ソ連、日本、米国を見ると、一つの事実が際立っている。日本は近隣諸国の中でソ連などとは対照的に、経済大国ながら軍事的かつ政治的にはピグミーとして裸で立っている。……現在の安保関係の取り決めは、それら諸国が熟れたスモモのような日本を見ても、むしり取ろうと思わないよう、最良の保障となっている」
田中「大統領の見方と同感です。米国と日本の固い結合が他のあらゆる関係にとっても重要です。それなしに日本は中国と国交正常化できなかった」(太線筆者)

 田中はニクソンから「ピグミー」と侮辱されても、反発することなく、戦後米国から受けた支援に感謝し、安保条約のおかげで日本は守られていると認めた。そして、日米安保があったから日中国交正常化ができた、とも主張した。論理的には、のれんに腕押しのような反論だ。

 では、「5年後の世界」はどうなるか。ニクソンは「日米安保条約が廃棄され、日本で支持されなくなったら、多くのアメリカ人は喜んで出て行く。韓国から米軍も撤退する」と言った。言うことを聞かなければ米軍を撤退させる、というカードをここで見せた(注7)。

 それにしても、日本と日本人に対して、これほど侮辱的な言葉を使った米大統領がいただろうか。日本側の会談記録はどうなっているのか。外務省に情報公開請求して入手した(注8)。

 外務省の会談記録では、ピグミーを訳さず「政治的な小人(political pygmy)」とカッコ付き、あるいはカッコなしで英文のまま記していた。

 「田中総理・ニクソン大統領会談の模様」と題する1973年8月23日付9ページの文書は、こうした刺激的な発言を省いていた。この会談が外交問題化しないよう配慮した形だ。

 「ピグミー」は、『リーダーズ英和辞典』(研究社)によると、「アフリカ赤道森林地帯の矮小黒人種」とある。それが転じて「こびと」「知力の劣った人」という意味もあるとしていて、差別的に使用され得る言葉であることが分かる。

1215名無しさん:2020/11/21(土) 22:07:10
>>1214

ニクソンはさらに醜態を重ねる…
 ニクソンの荒っぽい発言はそれにとどまらなかった。同日夜の公式夕食会で、乾杯の際に、ニクソンはもっとひどい醜態をさらけ出している。

 あきれるほどの不規則発言をしてしまって米政府高官を慌てさせ、後になって発言が日本側に勘付かれてしまっていないか、とキッシンジャーが通訳に確認を求めた。通訳がまとめたメモが残されていた(注9)。

 アメリカ大使館の通訳、ジェームズ・ウィッケルがまとめたメモは、「注」として、次のような経緯を説明している。

 大統領は投げやりな様子で、低い声でブツブツ言いながら、「あなたは自分が望めば誰を祝して乾杯してもいい……やりたければ、悪魔に乾杯してもいいんだよ」と言った。田中首相は、通訳してもらいたいとウィッケルの方を向いたので、ウィッケルは「誰でも、望む人を祝して乾杯をしてもかまわない」と訳した。しかし、外務省の通訳、沼田はやり取り全体を聞いていたようで、田中首相の耳元でささやいた……ウィッケルが聞き取れた唯一の単語は「悪魔」だった。田中首相が一連の言葉と翻訳をどのように受け止めたかは分からない。(……は原文の通り。太線は筆者)

 メモから想像すると、夕食会で、ニクソンと田中は誰を祝して乾杯すべきか、と短い会話を交わしていた。ニクソンが外交儀礼上、日本の国家元首とされる天皇陛下の健康を祝して乾杯すべきだと言い、田中は「私は大統領の健康を祝して乾杯したい」と話した。しかし、ニクソンは脱線して「悪魔に乾杯してもいいんだよ」と言ったようだ。

 1ページのこの文書、「7月31日ホワイトハウス」、キッシンジャーあて。「シークレット、センシティブ(機微)、アイズオンリー」と、最高ランクに次ぐ機密に指定されている。キッシンジャーは、日本側に本当の発言を気付かれていたら大変だと考え、具体的な経緯をウィッケルに報告させたのだ(注10)。

 「沼田」とあるのは、田中、福田、大平の歴代三首相らの英語通訳を務めた外務省の沼田貞昭(後にカナダ大使)のこと。筆者は沼田の知己を得ていたので、2009年、沼田と駐日米大使公邸のレセプションで偶然会った機会に、このことを確かめようとしたが、「覚えていない」と確認を拒否された。

 当時の田中の秘書、木内昭胤は「ピグミー」の件も「悪魔に乾杯」の件も「まったく記憶がない」、としている(注11)。

 こうした事実は、ニクソン回想録で確認されていた。1978年に出版された回想録で、ニクソン自身がこの舌禍事件を認めていたのだ。

 田中に対する失礼な発言は「3カ月にわたりウォーターゲート事件による業務の停止で、国内問題、国際問題で議会の仕事はほとんど止まった。この状況への私の怒りは、7月の田中首相との公式夕食会での私の乾杯スピーチの際に突出した」と白状している(注12)。

 原因は、ウォーターゲート事件で追及され、イライラしていたからだった。田中はそんな怒りをぶつけるのに便利なサンドバッグだったようだ。古い友人の国務省元高官によると、ニクソンは泥酔していたとみられている。

1216名無しさん:2020/11/21(土) 22:07:20
>>1215

 〈注釈〉

 (注1)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council Institutional (“H”)Files, Study Memorandums(1969-1974), National Security Memorandums, NSSM-172 (2 of 3), Box H-197、Memorandum For: The President, From: Henry A. Kissinger, Subject: Japanese Prime Minister Tanaka’s Visit: The Question of Focus

 (注2)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3 ) to (3 of 3), Box 927, Secretary of State, June 7, 1973, Memorandum For The President, Subject: Possible Golf Match with Japanese Prime Minister Tanaka and Foreign Minister Ohira

 (注3)同、National Security Council, July 18, 1973, Memorandum For : Mr. Kissinger From: John A. Froebe, JR. Subject: Proposed Schedule for U.S. Visit by Japanese Prime Minister Tanaka

 (注4)同、National Security Council, Urgent Action, July 30, 1973, Memorandum For: Mr. Kissinger From: John A. Froebe, Subject: Prime Minister Tanaka Request

 (注5)President Richar Nixon’s Daily Diary, August 1, Nixon Library,  2019年11月26日アクセス

 (注6)FRUS, 1969-1976, Volume E-12, Documents On East And Southeast Asia, 1973-1976, Document 179. Memorandum of Conversation, Washington, July 31, 1973,11 a.m.

 (注7)同

 (注8)外務省情報公開第00014令和2年4月2日、開示請求番号2019-00903

 (注9)NA, Nixon Presidential Materials Stuff, National Security Council (NSC) Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973 (1 of 3), Box 927、Secret Sensitive Eyes Only- Henry Kissinger, July 31, 1973 The White House, Subject: Remark Before / President’s Toast, James J. Wickel, American Embassy - Tokyo August 4, 1973

 (注10)同、NSC Files, VIP Visits, Japan PM Tanaka Visit July 31, 1973, Box 927, Secret Sensitive, Eyes Only - Henry Kissinger, July 31, 1973, the White House

 (注11)2020年1月29日インタビュー

春名 幹男(国際ジャーナリスト)

1217荷主研究者:2020/11/21(土) 22:19:27

https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20201105579279.html
2020/11/05 11:00 新潟日報
戦争遺跡 五泉で発見
旧陸軍の「秘匿飛行場」や塹壕

塹壕とみられる跡=五泉市

秘匿飛行場の滑走路があったとみられる場所=五泉市

 新潟大人文学部の清水香助教(48)=考古学=の研究チームが、新潟県五泉市の新大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション(村松ST)内で、旧陸軍の「秘匿飛行場」の滑走路や塹壕(ざんごう)の跡とみられる戦争遺跡を発見した。新大の史料や聞き取り調査で施設の存在は知られていたが、考古学の面からも裏付けが取れた形だ。清水氏は「県内にも戦争遺跡があると知ってもらうきっかけになってほしい」と期待している。

◎新大研究チーム 史料や住民証言裏付け

 新大は2014年から当時の建物の配置図を分析。周辺住民らへの聞き取り調査を続けている。発掘の実績がある清水氏が18年に新大に赴任。分析結果などを基に今年8月、発掘調査が行われた。現在はほ場として使われている4カ所の試掘で、塹壕の凹型のくぼみが埋め戻されたような形跡を発見した。その上の層からは自然堆積では形成されない石や砂が混ざった地質も確認できた。

 清水氏は「石や砂が含まれている層は人為的に搬入されたと考えられる」とする。これは聞き取り調査で複数の住民が語った「練兵場には塹壕があり、それを平らにした」「滑走路はローラーで固めた」などの証言と符合し「この場所に秘匿飛行場があったと思われる」と説明する。

 これまでの研究で「陸軍用地」と記された石の標柱が複数見つかった敷地南西部の森林も調査した。この周辺でも今回、塹壕とみられる幅2メートル、深さは最大1・6メートルの落ち込みが確認された。清水氏らは「くぼみの規模や地質からほ場の塹壕と同時期に作られたものだと推測できる」とみている。

 南部の一角からは医療用アンプルや1920〜50年代のものとみられる酒の王冠や歯磨き粉、統制品の陶器も見つかっている。清水氏は「塹壕の地質からもこうしたものが見つかれば、ほぼ間違いなく戦争遺跡であることが分かる」と指摘する。

 今回の発見について清水氏は「住民の口承証言を考古学的に目に見える形で示せた」とし「本県では戦争遺跡の調査がまだ進んでいない。身近な所にある戦争の記憶を後世に残していくことは大きな意義がある」と語った。

<新潟大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション> 広さ約33ヘクタール。日清戦争後の1897年に国の軍備拡張の一環として兵営が置かれ、陸軍歩兵30連隊が駐屯した区域に立地する。太平洋戦争末期には村松少年通信兵学校が設置され約7千人の少年兵を養成したが、終戦で解散。米軍の駐屯地を経て、1946年に新潟大農学部の前身となる県立農林専門学校が移転した。兵舎もそのまま使用されていたが、新施設の建設に伴って解体された。

1218名無しさん:2020/11/25(水) 19:03:38
https://news.yahoo.co.jp/articles/3fab4f61b1914286e17a1c5fc3a1f75241ad7ff2
加藤長官「衝撃的な出来事でしっかり覚えている」 三島由紀夫決起から50年
11/25(水) 18:37配信

 加藤勝信官房長官は25日午後の記者会見で、作家の三島由紀夫が昭和45年に陸上自衛隊施設に立てこもり自決してから50年たったことについて「私も15歳のときだったが、大変衝撃的な出来事だったとしっかり覚えている」と述べた。

 三島は自決の4カ月前に将来の日本について「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目(ぬけめ)がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」との文章をサンケイ新聞(現・産経新聞)に寄稿した。

 加藤氏はこれに対し「三島氏の言葉に反論するということではないが、この間、先人、現在いる方々の努力でこの国は繁栄と平和を構築してきた。少子高齢化、コロナ禍などさまざまな課題はあるが、そうした形で国づくりをしっかり進めてきたと認識している」と強調した。

1219とはずがたり:2020/12/01(火) 21:54:16
# 戦争# 国家・民族# 日本
インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
本当に、牟田口ひとりの責任だったか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56995?page=3
広中 一成 プロフィール

河辺は唯一、作戦を支持した
作戦は雨季に入る前の春先一ヶ月間とされた。しかし、上述のとおり、インパールまでの道のりは険しく、正攻法で挑んでも作戦を達成することが難しかった。

そこで、牟田口は行軍を少しでも早めるため、作戦に参加する将兵に持たせる食料や装備をできるだけ少なくした。そして、作戦中に将兵の食料が足りなくなったら、道端に生える野草を食べるか、作戦部隊が引き連れてきた羊や牛などの家畜を殺して食べるよう命じた。

この計画を、牟田口はかつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンが家畜を率いて戦いに出た故事から「ジンギスカン作戦」と名づけて自賛した。

この荒唐無稽な作戦計画は、当然ながら軍司令部の誰もが反対した。しかし、そのなかで、唯一、牟田口の計画を支持したのが河辺だった。河辺の存在は、インパール作戦の実現に邁進する牟田口の心の支えとなった。

1944年3月、日本軍は兵力約9万人を擁してインパール作戦を発動した。しかし、多くの軍司令部幕僚の不安は的中し、インパール作戦は日本軍に3万人あまりの戦死者を出して失敗に終わった。食料を失った日本軍将兵は、撤退途中で次々と倒れ、命を落とした。屍が並んだ道は別名「白骨街道」と呼ばれた。

牟田口は、インパール作戦の責任を取って、第十五軍司令官の職を解かれた後、陸軍を退官し、召集先の陸軍予科士官学校で敗戦を迎えた。

あなたも「牟田口」にされるかもしれない
戦後、牟田口はインパール作戦を実行した敗戦の将として、世間から猛烈に批判され、「愚将」という不名誉なレッテルを貼られたままこの世を去った。

インパール作戦は、牟田口が勝手に始めたのでなく、上官の河辺、さらには東条首相の支持がなければ実現できなかった。よって、本来であれば、インパール作戦の敗北の批判は、牟田口だけでなく、河辺らにも向けられなければならなかったはずだった。



しかし、河辺はインパール作戦後、ビルマ方面軍司令官の職を退くが、特に作戦の責任を問われることなく、終戦前に陸軍大将にまで進んだ。そして、河辺は世間から「愚将」と罵られた牟田口とは対照的に、戦後静かな余生を送った。

河辺にとって、牟田口はインパール作戦の批判を一身に受けたスケープゴートだった。

昨今、様々な不祥事が起き、誰かひとりが批判の矢面に立つと、加熱する報道やSNSでの書き込みも手伝って、国民総出でそのひとりを徹底的に追いつめる風潮がある。みんなが集まりよってたかって敵を叩く習性は、よそ者に厳しい日本人独特の「島国根性」の表れなのかもしれない。

しかし、敵を批判することに熱中するあまり、私たちはその不祥事がなぜ起きたのかという問題全体を見通す視野を失っていないだろうか。しかし、実はその「敵」はスケープゴートに過ぎず、「敵」の裏に潜んでいるのが、本当の批判の対象かもしれない。

愚かな判断の裏には、それを黙認し、かつ支持しながら、いざ失敗が明るみになると、「自分は関係ない」と姿を隠す人間が必ずいる。

いま、あなたは気づかないうちに「牟田口」になっているかもしれない。もしそうなら、あなたの後ろには「河辺」がいる。

1220とはずがたり:2020/12/08(火) 15:59:08

その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その…
https://www.tokyo-np.co.jp/article/73024/
2020年12月8日 06時40分

 その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その朝とは、一九四一(昭和十六)年十二月八日。日米開戦の日だという▼開戦の臨時ニュースが校内に伝えられた。教授は廊下に飛び出し、「万歳」と叫んだそうだ。当時の学生が書き残している▼作家、半藤一利さんの『十二月八日と八月十五日』にあったが、とりわけ珍しい話ではなかろう。<やみがたくたちあがりたる戦(たたかい)を利己妄慢(ぼうまん)の国国よ見よ>斎藤茂吉。長く続く米英との緊張。当時の国民はうっとうしさや閉塞(へいそく)感の中にあり、真珠湾攻撃はその暗雲を吹き飛ばすかのように受け止められた。「利己妄慢」の米英という大国に挑む痛快さもあったという。茂吉もそうだったのだろう▼十一年後の五二年に建立された、広島の原爆死没者慰霊碑。碑文は<安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから>である。その言葉を考案したのは十二月八日に「万歳」を叫んだあの教授だそうだ▼歴史の皮肉を書きたいわけではない。教授の名は当時広島大学教授の雑賀忠義さんとおっしゃる。この人も被爆している▼あの日、今から考えれば、勝てるはずもない日米の開戦に国民の大半が高揚した。記憶にとどめなければならぬ戦争の過ち。それは軍や政府によるものだが、感情に任せたわれわれの側の「万歳」をそこから除く理由もまた見当たらぬ。繰り返すまい。

雑賀忠義
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E8%B3%80%E5%BF%A0%E7%BE%A9-1076528
1894-1961 大正-昭和時代の英文学者。
明治27年3月25日生まれ。大正13年広島高教授,昭和24年広島大教授となる。同年,浜井信三市長の依頼で広島市平和記念公園の原爆慰霊碑文に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の一文をえらび,揮毫(きごう)した。昭和36年2月8日死去。66歳。和歌山県出身。京都帝大卒。著作に「英詩入門」など。

1221とはずがたり:2020/12/11(金) 15:17:46
戦時補償債務
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E8%A3%9C%E5%84%9F%E5%82%B5%E5%8B%99
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戦時補償債務(せんじほしょうさいむ)とは、太平洋戦争中に当時の政府が命令または契約の形で支払を約束した保証や戦争保険金などを指す。主に軍需品の未払代金や徴用された後に撃沈された船舶に対する補償、工場の疎開経費などがこれにあたる。


概要
1945年の敗戦後、幣原内閣は個人財産増加税や財産税の臨時賦課を財源としてこれらを支払う方針であったが、連合国はインフレーション促進につながるこの方針に反対した。そもそも連合国は日本の企業が政府とともに自分達と敵対したことに対して何らかの制裁を課す必要があると考え、戦時補償債務打ち切りもその一環であった。

1945年11月24日にGHQは「戦時利得の除去および国家財政の再編成に関する覚書」を日本側に通告した。1946年4月、連合国は日本に対して戦時補償債務支払の打ち切りを正式に要求したが、直後に就任した第1次吉田内閣の石橋湛山大蔵大臣は、自由経済の根幹にある契約の論理が破壊されることによる日本経済への打撃を危惧して強く反対した。だが、対日理事会におけるソビエト連邦の強い要求によって8月8日になって日本政府はこれを受け入れることとし、形式上は戦時補償債務は全額支払うが別途新税を設けて支払額に対して100%の税率を賦課することで連合国側の同意を得た。

1946年10月29日に戦時補償特別措置法が公布され、同法に基づく「戦時補償特別税」が戦時補償債務917億円余に課税、実質無効とされた。このため、多くの銀行や企業の資金繰が困難となったため、会社経理応急措置法・金融機関経理応急措置法などが公布されて救済策が講じられた。

1222とはずがたり:2020/12/15(火) 00:03:22

三菱、中国の強制徴用被害者に初めての補償金支給…「不法は認めていない」(1)
https://s.japanese.joins.com/Jarticle/273315
? 中央日報/中央日報日本語版
2020.12.14 07:34

中国山東省の済南時報は今月7日、三菱重工業が第2次大戦中に強制的に連行した中国人30人に対する補償金を支給したと報じた。遺族30人は1人あたり10万人民元(158万円)を受け取った。日本戦犯企業の三菱が中国人に初めて支給した補償金だった。

山東省強制徴用被害者連合会の劉煥新会長は「たとえ金額は大きくなくても、これは数十年間続いてきた問題提起を通じて勝ち取った結果」とし「戦争がもたらした罪悪と犯罪は忘れられてはならず、今後三菱の『黒歴史』を明らかにしていく開始点になるだろう」と強調した。

補償を受けるまでのこれまでの過程は長く険しいものだった。中国政府は1972年「日中共同声明」で戦後補償問題に対して明確に言及せず、問題を避けた。

民間から問題提起があったのは1990年に入ってからだ。1944年9月、旧日本軍によって33歳という年齢で故郷の山東省から日本の三菱鉱業株式会社のある鉱山に連れて行かれた劉連仁さんが1996年に日本政府を相手に最初の損害賠償訴訟を起こした。

東京地方裁判所は2001年7月、劉さんの訴えを認めた。日本政府が戦後救済義務を違反したとし、遺族に2000万円の損害賠償をするよう命じる判決を下した。

しかしその4年後、東京高等裁判所が判決を覆した。2007年最高裁判所は原審を確定し、中国が請求権を放棄したので賠償責任はないとの結論を下した。その後、この最高裁の判決はその他の一連の中国被害者の訴訟に引用されてすべて棄却される根拠になった。

反転の契機は中国政府の介入が始まってからだ。2014年、中国人民抗日戦争博物館が日本強制徴用対象者3万4282人の名簿を公開した。終戦70年を控えてのことだった。

山東省から強制連行された人だけで9177人にのぼる。その年2月に三菱を相手取って訴訟が再開された。死亡者722人を含めた3765人の遺族が原告として参加した。生存者はたった4人、10代の時に日本に連れて行かれた80〜90代の高齢者だった。彼らは老骨に鞭打って東京の法廷に出席し、自分たちが体験した強制労役の惨状を証言した。

1223名無しさん:2020/12/21(月) 23:45:12
https://news.yahoo.co.jp/articles/1891bcd748733cc8aba27189bd1bc056b287399c
【75年目の告白】岐阜・黒川開拓団 満州で性的な接待を強いられた女性たち「歴史の渦の中で引き回され、きょうまで生きるとは」
12/21(月) 18:09配信

中京テレビNEWS

中京テレビNEWS

1224名無しさん:2020/12/23(水) 23:01:02
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca0bca32e7688a717dbc7a53987c4c448a25d3ec
基地と男性に頼りたくない 20歳の女性は沖縄を旅立った【#コザ騒動50年】
12/23(水) 18:12配信

琉球新報

琉球新報社

1225名無しさん:2021/02/13(土) 21:18:43
https://news.yahoo.co.jp/articles/0c456a793d4afdb9646cc778c237aad67df59615
「もし、東京五輪が中止になったら…」研究者が“警戒”すること
2/13(土) 15:09配信
BuzzFeed Japan
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、患者や事業者への罰則を設けたふたつの改正法が2月13日に施行された。戦前の歴史に詳しい研究者は、「戦前と同じように、人々が自ら自由や権利を差し出してしまった」と懸念する。空気による同調圧力、美談や恐怖に巻き起こされる感情的な議論。その先に待っているものとは何なのか。そして、なぜ私たちは東京五輪の「あと」を警戒しなければいけないのか。【BuzzFeed Japan / 籏智広太】

「外側からくる戦前ではなく、人々の内側からくる戦前を、懸念しています。われわれが自発的に、自由や権利を差し出してはいけないはずなのに……」

BuzzFeed Newsの取材にそう語るのは、近現代史研究者の辻田真佐憲さんだ。

「日本人にとって、太平洋戦争は大きな教訓であり、失敗の比喩として用いられます。私はあらゆることについて『戦前』ということに対しては反対ですが、いまこそ言わなければならないと感じています」

「戦前の歴史で気をつけなければいけないのは、政府からではなく、民衆の側から私権制限を求めてしまうという動きがあったことです。私たちは政府から押しつけられたものには警戒感を持っている一方で、我々が自発的に権利を差し出してしまうことには無警戒なのです」

辻田さんがこのように「警戒」するのは、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い今国会で改正された特措法と感染症法をめぐる議論だ。

改正されたふたつの法律では、都道府県知事の営業時間の短縮の命令に従わない事業者や、入院拒否や逃亡をした患者、保健所の調査を拒否した人には行政罰としての「過料」が科されることになった。

私権制限に前のめりだった「リベラル」
一時は「懲役」を含む刑事罰の導入も議論の遡上にあがったが、結核やハンセン病の強制隔離で患者の人権が侵害された歴史を踏まえ、患者に対する差別や偏見を煽りかねないとして、専門家らが強く反対。行政罰である過料にとどまった。

なお、特措法においては特定地域における重点的取り組みを実施するための「まんえん防止措置」も新設された。緊急事態宣言と同様に罰則を伴う措置にもかかわらず、その発動要件に対しては恣意的な運用への懸念もあがっている。

一方で、多くの世論調査では強制力のある法改正を求める声が高まっていたのも事実だ。

NHKの昨年6月の世論調査では、「外出を禁止したり休業を強制したりできるようにする法律の改正が必要」と答えた人は42%に対し、「必要ない」は18%だった。

また、毎日新聞の今年1月の世論調査でも、罰則が「必要だ」との回答は51%で、「必要ない」の34%を上回った。辻田さんはいう。

「このような感染症ですから、市民が自分で考えて、自らの行動を制限するのは問題がないと思います。しかし、政府による私権制限や、それをもとにした同調圧力が用いられていることについて、私たち市民はもっと自覚、危機感を持つべきだと思います」

「また、感染拡大の防止策をめぐっては、リベラルと言われる野党側やその支持者も私権制限に前のめりだったように感じています。そうなってしまうと、制限によって奪われる移動の自由や集会の自由を擁護するのは誰になるのでしょうか」

1226名無しさん:2021/02/13(土) 21:18:55
>>1225

美談、恐怖、そして空気
戦争協力のため「慰問金品受付所」に自らの貴金属を寄付する人たち(1937年)

日中戦争から太平洋戦争に突き進んだ日本。メディアや多くの企業もそれに乗じ、熱狂が生まれた。人々は率先して戦争に協力し、多くの権利を「お上」へと差し出した。その悲惨な結果は、今を生きる私たちが知る通りである。

「前線も苦労している、人も亡くなっているのだから、少しだけでも辛抱しなければならないーー。美談や恐怖など、感情を刺激するような報道がメディアを通じて流れ、人々がそうした『空気』に煽られ、同調圧力に走り、政府が私権制限へと動いていくのは、戦前とまったく同じです」

「医療従事者がいかに大変なのか、重症患者がいかに苦しんでいるのかを伝えることは、止むを得ないでしょう。しかし、そうした感情的なものと私権制限は本来であれば切り離して議論をしなくてはいけないと思います。こういうことをいうと、反発が寄せられると思うのですが……そこまで、戦前と同じですよね」

戦前といま。日本社会において、変わらず大きな力を発揮しているのが、「空気による同調圧力」だ。

戦時中は「隣組」によって相互監視をし、戦争協力をしない人たちが「非国民」と後ろ指を刺されていた。これは近代日本社会において、普遍的なものであると辻田さんはいう。

「『空気』を気にして生まれる日本社会の同調圧力は、戦時中に限ってあったわけではありません。東日本大震災のときにも『節電警察』のような振る舞いがあったように、非常時に現れやすいものなのだと思います」

評論家の山本七平はいまから40年以上前の『「空気」の研究』(1977年)で「『空気』とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である」と指摘している。

日本社会では「いざというときは(…)すべてが空気によって決定され」、合理的な判断から遠ざかっていく、というものだ。辻田さんはこの考え方に触れながら、コロナ禍の特殊性についても言及した。

「いまの日本社会では東京五輪が予定されていたため、みんなでやろう、感情でひとつになろうという同調圧力が広がっていました。それがコロナに置き換わり、自粛の同調圧力へと変化した。政府も五輪を開催したいがために本来は強制力を用いたいがそれをせず、人々の同調圧力を煽るような振る舞いをみせた」

「警察が警棒を持って巡回したり、自治体が県外ナンバーを監視したり……。そうしてできた特有の空気によって差別なども横行し、SNSでの特定など人権侵害に近いようなことも起きてしまった。ハンセン病などの教訓が普段はあれだけ叫ばれているにもかかわらず、非常時にはここまで変わってしまうのだな、と感じましたね」

1227名無しさん:2021/02/13(土) 21:20:52
>>1226

もし、東京五輪が中止になったら…
今回の法改正は、第3波における緊急事態宣言下という、やはり特殊な「空気」のなかで議論が進んだ。懲役刑などの刑事罰の制定は回避されたとはいえ、罰則付きの法改正がされたことには変わりがない。

「本来であれば、冷静なときに議論をすべきだったのに、なぜそれをしなかったのか。この法改正では、さらなる感染拡大が起きた場合、営業している店舗の通報合戦や脅迫など、より激しい同調圧力を目覚めさせてしまう恐れもあると思います」

「また、日本は先進国のなかでも強制力を持たずに感染者を比較的抑えられてきている。第3波も減少傾向に入っています。それにもかかわらず、ここで自由を捨ててしまうのであれば、次の感染拡大では際限なく私権制限が広がり、歯止めが効かなくなってしまうという怖さもある」

このように語る辻田さんが特に警戒するのは、東京五輪が中止になった場合だという。

「いまの自民党政府は、その憲法改正草案からもわかる通り、国民に権利よりも義務を科したいと考えている。五輪があるからそのような強権的な姿勢は出していなかったわけですが、中止になれば、ロックダウンができないのならできるように憲法改正をしよう、という流れになりかねないと思っています」

実際、新型コロナウイルスの感染拡大当初の昨年1月末には、自民党の重鎮である伊吹文明元衆院議長が、コロナ禍が「緊急事態のひとつ」として、「憲法改正の大きな実験台と考えた方がいいかもしれない」などの発言が飛び出したこともあった。

「憲法改正そのものは否定しませんし、変わっていくべきだと思っていますが、政府ではなく国民を縛るための改正には反対です。非常時にこうした議論をすれば、感情的に進んでしまうわけですから、私たちは次の感染拡大のときに、どう振る舞えるのか、政府が何をしようとするのかを、より警戒しないといけないと感じています」

新たな「失敗」にならないために
では、そうした政府の振る舞いを警戒するために、どうすべきなのか。辻田さんは「冷静でいるために、歴史を参照するべき」と語る。

「法律や憲法を変えるような、われわれの権利や自由に関わる議論をするときは、冷めた態度をどこかで持つことが大切だと思っています。沸騰した議論を冷静にするために、効果を発揮するが過去の非常時の『失敗』なのです。現代日本社会のおける最大の失敗は、やはり戦争ですよね」

「一方で、戦争から教訓を学ぶというパターンに、『昔の話でしょ』と感じてしまう人が多くなっているのも事実です。政権批判のたびに『戦前』が用いられすぎたことも関係しているでしょう。政治の側だけではなく、自分たちの内側にある『戦前』の要素にも自覚的になるように、言葉の使い方や、歴史を伝えるアプローチを変えるべきなのかもしれません」

「このような非常事態は、何十年に一度しか訪れません。社会は進歩したところもある一方で、やはりパニック状態における振る舞いは変わらない。歴史を知っていれば、政治も、私たちも、同じことをやっているなと冷静になれるはずだと思っています。いまのコロナ禍が、後世に『失敗』として参照されないためにも、まず自分のなかにある『戦前』を見つめて見ると良いのかもしれません」

あの戦争は政府によって生み出された失敗であるという、わかりやすい「戦前」だけではなく。人々が率先して熱狂という空気を作り出し、自らすべてを捧げていった「戦前」を、私たちは改めて知る必要がある。

______

1984年、大阪府生まれ。評論家・近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。近刊『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』(文春新書)、『教養としての歴史問題』(共著、東洋経済新報社)、『新プロパガンダ論』(共著、ゲンロン)。

1228名無しさん:2021/03/11(木) 19:07:05
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4007683a9bee4d37b3671ecd035e9f0eb1bf813
空襲補償法案、今国会成立目指す 超党派議連が確認
3/10(水) 20:09配信
時事通信
 太平洋戦争中の空襲で被害を受けた民間人への補償を目指す超党派の「空襲議連」(会長・河村建夫元官房長官)は10日、衆院議員会館で総会を開いた。

 一定の要件を満たせば特別給付金50万円を支給する議連がまとめた法案を今国会に提出し、成立を目指すことを確認した。

 この日は推定10万人以上が亡くなった東京大空襲から76年目。河村氏は「全国で空襲があったが、民間被害者への対応は何もできていない」と訴え、その後、自民党本部で二階俊博幹事長に面会して協力を求めた。二階氏は「われわれの代でやらないといけない課題だ」と答えた。

1229名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:08
https://news.yahoo.co.jp/articles/5be2ad91f4d389de55cfa9fc0ce6822657853171
大出世蹴った首相、馬肉の委員長、総務省疑惑に想う清廉な政治家
3/23(火) 12:40配信
Wedge
 近年、あまり聞かれなくなった言葉に、「清廉潔白」、「謹厳実直」がある。「井戸塀政治家」もそのひとつだろう。

 古い言葉を持ち出したのは、総務省の接待疑惑に関与した政治家、役人の卑しさに呆れたからだ。

 かつては、金銭、名誉などに目もくれず、ひたすら国のために奔走した人たちがいた。官僚時代に出世を2度も辞退した総理大臣、馬肉が唯一の好物という野党第一党委員長……。清貧に甘んじた大先輩たちは、不肖の後輩のご乱行に眉をひそめているかもしれない。

“ライオン首相”の自宅は借家
 古くは明治の元勲、西郷隆盛、自由民権運動の闘士、板垣退助らを思いうかべるむきもあろう。そんな歴史上の人物にまでさかのぼらなくとも、昭和以降でも、偉大な政治家は何人もいた。

 筆者は“独断と偏見”で、昭和初期の宰相、浜口雄幸を真っ先にあげたい。

 1929(昭和4)年に総理大臣に就任、日本経済を世界の標準に合わせることを目的に金輸出解禁(金解禁)を断行した。主要艦以外の制限をめざしたロンドン軍縮会議では、海軍軍令部の猛反対を押し切って調印。強い信念、誠実、剛毅な人柄とその容貌から“ライオン宰相”と親しまれた。

 しかし、世界恐慌のあおりで景気は悪化、軍縮会議では補助艦のトン数で欧米より不利を強いられたため、不満を持つ青年に東京駅ホームで撃たれ、志半ばで倒れた。 

 浜口が偉かったは、まず公私混同をしない。破格の収入を伴う高い地位にも目をくれず、ひたすら自らの職務に精励した。質素、謹厳実直という表現は、数多くある浜口の伝記に必ずと言っていいほど登場する。

 首相の印綬を帯びて自宅で新聞社の写真撮影に応じた時、カメラマンに「あまりマグネシウムをたかんでくれ。借家だから天井を焦がしては家主にすまぬ」とあわてて制止した。当時はカメラの照明用にマグネシウムを発火させていたため、熱で家を傷めることを心配したらしい。記者団は笑って相手にしなかったが、本人はいたってまじめだったという(城山三郎『男子の本懐』)。 

 首相に就任してから、鎌倉の別荘で週末の静養をとることがあった。わずか4、50坪、2階屋ながら階段は段梯子というあばら家。ゴルフをするでもなく、随筆を書いたり、思索にふけった。その鎌倉行ですら、「面倒だ」といってめったに出かけなかった。

1230名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:19
>>1229

出世断り地味な仕事に精励
 破格の出世を2度断っている。

 最初は専売局長官として塩田整理という厄介な仕事に取り組んでいるとき。初代満鉄総裁の後藤新平が、堂々たる見識を持ちながら誠実な態度で地味な仕事に黙々と取り組む浜口にほれ込み、満鉄理事に来てほしいと口説いた。

 国策会社、南満州鉄道の理事といえば、中央官庁の次官以上といわれ、報酬もはるかに多かった。華やかさに欠け、中小の製塩業者からの恨みを買う損な役回りから逃げ出すには、渡りに船という以上だったろう。

 浜口は惜しげもなく断った。「今の仕事を途中で投げ出すわけにはいきません」というのが理由だった。 

 後藤の誘いはこれで終わらない。第2次桂太郎内閣の逓信大臣に就任すると、今度はその次官の椅子を用意した。浜口はまたも「塩田整理がまだ終わっていませんから」とにべもなかった。

 こうなるともはや頑迷という方が適当だろうが、後藤もしぶとい。桂の3回目の組閣で逓信大臣に再度就任したのを機に3たび浜口を口説く。

 延々と続いた塩田整理も終了していたため、浜口も今度は断る理由がみつからず、ついに逓信次官のポストを受けざるをえなかった。

 内閣が短命であることを承知で、後藤の恩義に応えるためにあえて引き受けた(川田稔『浜口雄幸 たとえ身命を失うとも』など)あたり、いかにも浜口らしい。

 大風呂敷というあだ名を奉られた後藤と、正反対のタイプの浜口の心の触れ合いも興味深い。 

 近年、政界の有力者とのコネクションを求め、その力を利用してのし上がろうという目前が利く官僚が少なくないことを考えると、浜口の行動は愚直とでも評すべきか。

 現代史研究家の間でも浜口の点は高い。波多野勝は「金権腐敗で名を高めた首相は数多いが、公明正大、謹厳実直という視点で国民の付託を受けた首相は浜口ただ一人と言い切っても過言ではない」(『浜口雄幸 政党政治の試験時代』)と激賞する。

1231名無しさん:2021/03/23(火) 17:46:42
>>1230

ぼろアパートが終の棲家
 もうひとり筆者が触れたいのは、浜口同様、暗殺という非業の死を遂げた元日本社会党(現社民党)委員長の浅沼稲次郎だ。

 年配の読者は覚えているだろう。1960(昭和35)年、革命前夜を思わせた日米安保条約改定反対の闘争を指導、その年の10月、日比谷公会堂で演説中に右翼少年の凶刀に倒れた。

 魁偉な容貌でエネルギッシュ、それでいて気さくに国民に語りかける活動ぶりから、親しみを込めて“人間機関車” “ 演説百姓”などというニックネームで呼ばれた。 

 死後出版された追悼集『邁進 人間機関車ヌマさんの記録』の中で、生前ゆかりの人たちが大衆政治家・浅沼をいきいきと描いている。

 驚くのは、死去するまで住んでいた東京の下町、深川のアパートだ。

 戦前の建設当初はモダンさを誇ったようだが、浅沼の晩年は、壁や窓は荒れ放題。洗濯物があちこちに干され、質素という表現すら誉め言葉に聞こえるほどのぼろアパート。いわれなければ、社会党現職委員長が住んでいるとは到底想像できなかったろう。

 浴衣姿の浅沼が当時の子供たちの娯楽、紙芝居をベランダからニコニコしながら、のぞき込んでいる写真が残っている。どうみても下町の好々爺だ。

楽しみは“馬肉パーティー”
 食べ物にしても贅沢なものは好まず、好物はさくら肉、つまり馬肉だ。党本部の職員を慰労するときなど、かならず登場する。もちろん、自分も大いに食べる。

 浅沼の前任委員長の河上丈太郎は何度か“馬肉パーティー”によばれたことがある。多くの人に囲まれてうまそうに頬張る浅沼は楽しそうだったと回想している。

 夜討ちに訪れる新聞記者にふるまわれるのはカクテル「深川割り」。何のことはない国産3級ウィスキーを番茶で割っただけの代物。味などはおかまいなし。

 子宝に恵まれず、かわいがっていた秋田犬が唯一の自慢の種という嘘のような話もある。

 昨今のコロナ対策のために、自衛隊の看護師らが迷彩服姿で他の病院に応援に出動している中、最高指揮官の総理大臣が高級レストランで夜の会食を楽しんだり、総務省の役人が業者の接待で7万円ものステーキに舌鼓を打つなどとは、時代も違うが、まるで別世界の出来事のようだ。

 浅沼が亡くなった時、当時の首相、池田勇人が衆議院本会議で追悼演説をした。さわりを引用する。

 「君は、日ごろ清貧に甘んじ、30年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます」――。

 浅沼について、すべて言いつくされているだろう。 

 池田の秘書官だった伊藤昌哉の筆になるこの演説は国民の間に感動を呼んだ。池田は後に「5億円か10億円の価値があった」と、好敵手の死を悲しみながらも満足気げだった(伊藤昌哉『池田勇人 その生と死』)。

1232名無しさん:2021/03/23(火) 17:47:03
>>1231

疑惑の時代の清涼剤
 身辺清潔だったのは浜口、浅沼だけではない。冒頭に触れた西郷、板垣のほか、憲政の神様といわれた尾崎行雄、「五・一五」事件で暗殺された犬養毅、最近では、「首相の座を蹴った男」、元官房長官、伊東正義らの名もしばしば聞かれる。

 浜口、浅沼についても異なった評価もあるだろう。しかし、あえて取り上げたのは、総務省のスキャンダルにうんざりしている国民も、かつて身辺清潔な政治家、官僚が活躍していたことに救われる思いを感じるだろうと思うからだ。

誠実さ欠く疑惑の政治家、官僚
 総務省の問題に少しだけ触れてみたい。

 今回の問題は、多額のワイロが動いたケースではなく、高額ではあるものの接待、饗応だ。そのせいか、検察など捜査当局に表立った動きはみられないようだ。

 しかし、国会でのやり取りなどからみるかぎり、総務省の当事者はじめ、菅首相ら政府首脳に誠実さ、正直さの欠けることが、国民の強い反発を呼んでいると思えてならない。

 国会で追及を受けた同省の官僚がうそを重ね、省内調査が進行中であることを盾に答弁を拒む。総務相自ら委員会の席で事務方に「記憶にないと言え」と指示、追及されると「無意識に口に出た」と人を食ったような弁明をする。

 野党の舌鋒が政権の失点探しと感じられることを割り引いても、不十分な省内調査を国権の最高機関に優先させ、大臣が不誠実な答弁を指示したりすることは許されまい。

 2人の総務大臣経験者にも驚いた。元部下が国会で窮地に立っているときに、同様に業者と会食していた事実をひた隠し、発覚すると、「会費を払った。それを上回る費用がかかっていたなら先方の約束違反だ」と開き直る。職務に関する依頼はなくとも、饗応を受けただけでも収賄になることを知らないのだろうか。

  追及逃れのように辞職した官邸の高官の退職金は5000万円にものぼるという。

 饗応役人に平均的な国民の何倍もの退職金を税金から払うほうも払うほうだが、罪の意識もなく受け取る方も受け取る方だ。実際に支給されたとしたら、コロナ騒ぎに苦しみながら額に汗して働く納税者の悔しさをどう感じるか。  

 疑惑の時代にあって、私利私欲がなく、身辺を飾らない政治家がいかに新鮮に思えることか。

 かれらがいま健在だったら、何と言うだろう。

樫山幸夫 (元産經新聞論説委員長)

1233とはずがたり:2021/03/28(日) 12:17:57
和田 豊治
わだ とよじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%B1%8A%E6%B2%BB

生年月日 1861年12月19日
(文久元年11月18日)
出生地 日本の旗豊前国
没年月日 1924年3月4日(62歳没)
出身校 慶應義塾
前職 富士紡績社長
日華紡績社長
明治神宮奉賛会理事長
称号 従五位勲三等瑞宝章(1924年)
藍綬褒章(1911年)
日本の旗 貴族院議員
選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1922年 - 1924年

和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。

従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。

人物

豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。

はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に奇食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。明治17年(1884年)7月に慶應義塾を卒業して翌年に渡米し、甲斐織衛の商店や葉巻煙草製造所で職工として働く。

1891年(明治24年)に帰国し、日本郵船神戸支店へ入社したが翌年退社し、三井銀行を経て鐘淵紡績東京本店支配人に就任。欧州の先進技術を導入して同社の経営を立て直し、その功績により1911年(明治44年)に藍綬褒章を受けることになる[1]。 1893年(明治26年)から1900年(明治33年)まで中国に漫遊し、日清戦争や遼東還附、義和団の乱を見聞した。帰朝後の1901年(明治34年)に三井家を辞職し、富士紡績に身を移し、専務取締役となった。東洋協会評議員、南亜公司相談役となり、大正元年(1912年)にエジプトで行われた万国紡織聯合会に日本国代表者として出席。

1913年(大正2年)に東京商業会議所特別議員となり、日本興業銀行総裁を辞退、以来政府の国策政策に次々と関わるようになり、大正4年(1915年)正六位、同年に明治神宮奉賛会理事長。大正6年(1917年)日本郵船取締役、東洋製鐵会社取締役、翌年日華紡績会社社長。大正8年(1919年)輸出綿織物連合会組長、第一生命保険会社相談役。大正9年(1920年)日華実業協会副会長。大正10年(1921年)皇典研究所理事、同仁会理事に就任し、理化学研究所創立に奔走した。大正11年(1922年)貴族院勅選議員、日本経済連盟会常務理事、南洋協会副会頭、山東鉱業会社を創立し、中国を漫遊。南満州鉄道株式会社に入り社長に推されるも辞退。大正12年(1923年)には、山本内閣の下で帝都復興審議会委員(大臣待遇)として聘され、内務省社会局参与に就任した。大正13年(1924年)に多忙により健康を損ね、胃癌のため早世した。叙従五位勲三等瑞宝章。

「鴎会」を創立してよく中国を漫遊し、中国と日本の間の友好と相互的経済発展を促進したことでも知られる。ワシントン会議と期を同じくして、原敬内閣の下では、首相官邸で話し合いが行われ渋沢栄一以下、井上準之助、和田、藤山雷太、団琢磨の五人が発起人となって実業団を編成して「英米訪問実業団」が途についた。財界に大きな足跡を残し、渋沢敬三の晩酌人を務めた。渋沢栄一が財界から身を引いた後は、和田と井上準之助の二人が「財界世話役」としてこれを継がんとしたが、両君ともに他界してからは、政界と密接に癒着して頭角をあらわしてきた「番町会」のパトロン・郷誠之助がその座に就いた。

皇典講究所理事としては、國學院大學(当時皇典講究所が経営母体であった)の渋谷移転に尽力。皇典講究所・國學院大學の創立以来、校地に神殿がないことを遺憾とし、校庭に学神を鎮祭する神殿建立を希望してその費用1万5千円を指定寄付したが、関東大震災で着工が遅れ、1930年(昭和5年)5月1日の鎮座を目にすることなく死去した[1]。

1234名無しさん:2021/03/29(月) 06:47:34
https://news.yahoo.co.jp/articles/964543370be0c6c8641f58c031ad68af0d297663
李鶴来さん死去 96歳 韓国人元BC級戦犯の政府補償求め活動
3/28(日) 19:57配信
毎日新聞
 元日本人軍属で、日本政府に補償を求めている韓国人元BC級戦犯者でつくる「同進会」会長の李鶴来(イ・ハンネ)さんが28日、外傷性くも膜下出血のため亡くなった。96歳だった。葬儀は家族で営む。

 日本統治時代の朝鮮半島全羅南道出身。1942年、17歳で日本軍の軍属となった。タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設現場で捕虜監視員として働いたが敗戦後、シンガポールでの裁判で「戦犯」とされ死刑判決を受けた。懲役20年に減刑され、56年まで巣鴨プリズンに収容された。日本が52年に独立した際、旧植民地出身者は日本国籍を失い、日本政府は日本人の元軍人や軍属に対しては行う補償や援護を拒んだ。李さんは仲間とタクシー会社を起こす一方で、歴代の首相に解決の要望書を出すなど活動を続けた。司法にも訴えたが99年に最高裁で敗訴が確定。その後、立法による救済を求めて活動していたが、近年は病気などで入退院を繰り返していた。今月24日、自宅で転倒して頭を打ち入院していた。

1235とはずがたり:2021/04/05(月) 10:23:15
旧日本軍を学ぶためにおすすめ本
2021年3月25日2021年4月4日 5分
https://www.paya-paya-kun.jp/?p=442

1236とはずがたり:2021/07/13(火) 13:20:28
五輪控えた日本が公開的赤恥…ユネスコ「軍艦島歪曲」に警告
? 中央日報/中央日報日本語版
2021.07.12 18:03
https://s.japanese.joins.com/JArticle/280680?sectcode=A10&servcode=A00

ユネスコが日本の強制徴用被害歪曲の試みに公開的に警告状を投げかけた。

ユネスコ世界遺産委員会は12日、日本が2015年6月に「軍艦島」(端島)など7カ所の朝鮮人強制労働施設を含む23カ所の近代産業施設が世界文化遺産として登録された当時に約束した「犠牲者を記憶にとどめるための適切な対応」をまともに履行していないと指摘した。

この日公開された世界遺産委員会の決定文には、1940年代に該当施設で韓国人などが強制労働の被害を受けたという事実をしっかり伝えておらず、犠牲者に対する追悼措置もやはり不十分だったとされている。特に決定文には日本の後続措置未履行に対し「強い遺憾を示す」という表現が盛り込まれた。「強い遺憾」という表現自体も強度が高い上に通常は政治的な判断をしないユネスコがこのような形で事実上の警告をしたこともまた異例と評価される。日本としては東京五輪開幕をわずか11日後に控えて強制徴用問題で国際的に恥をかいた格好だ。

1237とはずがたり:2021/09/24(金) 21:30:35

731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か
https://mainichi.jp/articles/20210911/k00/00m/030/011000c
イチオシ 前谷宏
毎日新聞 2021/9/12 14:00(最終更新 9/12 14:00) 有料記事 1396文字

 ロシアのプーチン政権が第二次大戦中の日本軍の戦争責任を強調する動きを続けている。8月には旧関東軍の細菌兵器開発などに関する文書を公開。今月には旧ソ連が日本の戦犯を裁いた「ハバロフスク裁判」に関する学術会議を開き、プーチン大統領が歴史の「改ざん」を批判するメッセージを寄せた。専門家の見方を交え、その背景を考える。

 「事実や公文書に基づく議論は、第二次世界大戦の歴史をゆがめる試みに対抗するために重要だ」

 ロシア極東ハバロフスクで6日に開かれた学術会議の冒頭で、司会者がプーチン氏のメッセージを読み上げた。ラブロフ外相も「日本の軍国主義者の残虐行為を将来まで記憶することが重要」と述べるビデオメッセージを送った。

 ハバロフスク裁判は1949年に関東軍の幹部や、細菌兵器の開発などに取り組んだ731部隊の隊員らを裁いたソ連の軍事裁判だ。ロシアの情報機関・連邦保安庁(FSB)は8月、学術会議に先立って、関連する文書を機密解除し、国営メディアが大きく報じた。731部隊がソ連兵らの捕虜を細菌兵器の人体実験に使ったとの文書や、関東軍がソ連との戦争を準備していたとする文書が含まれているという。

 学術会議はナルイシキン対外情報庁長官が代表を務めるロシア歴史協会や内務省、国防省などが主催者となり、「ソ連軍が日本軍の細菌戦を防ぎ、世界を救った」ことが強調された。

 プーチン政権は北方領土交渉で、「第二次大戦の正当な結果として北方領土の主権がソ連に移った」と主張するなど、しばしば日本に対し歴史問題を取り上げてきた。学術会議にオンラインで参加したナルイシキン氏も「日本が大戦の結果を認めることが、最も敏感な問題も含めて露日関係を新たな水準に発展させる基礎となる」と発言。ソ連軍による北方領土の不法占拠を訴える日本の立場をけん制した。

この時期に歴史問題を持ち出す理由は
 ただ、ロシアの歴史問題での「攻撃」がどの程度まで対日関係に影響するのかについて、学術会議に出席したドミトリー・ストレリツォフ・モスクワ国際関係大教授(日本史)は「それほど深刻にはならない」との見方を示す。機密解除された文書の内容はすでに知られている事実がほとんどで、日本の新たな「戦争犯罪」を追及するような資料ではないためだという。

 むしろストレリツォフ氏が指摘するのは…

1238とはずがたり:2021/10/15(金) 21:10:19
北海道と北方領土つなぐ海底通信ケーブル、ついに発見…専門家ら40人が発掘
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211011-OYT1T50002/
2021/10/11 09:03

1239荷主研究者:2021/11/27(土) 22:54:42
>>1238
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/598325?rct=n_hokkaido
2021年10/09 20:00 北海道新聞
根室と国後島を結んだ通信用海底ケーブル発見 陸揚庫で初の発掘調査

陸揚庫海側の敷地内で発掘されたケーブル(手前)

 【根室】終戦直後まで根室と北方領土国後島を結んだ通信用海底ケーブルの中継施設「陸揚(りくあげ)庫」周辺で9日、初めての発掘調査が行われた。施設海側の地下から、国後島方面に延びるケーブルの一部が見つかった。陸揚庫は国の登録有形文化財になることが決まっており、根室市は調査結果を今後の保存や活用に役立てる。

 陸揚庫は鉄筋コンクリート造り平屋建て。ケーブルは旧逓信省が1900年(明治33年)に国後島との間に38キロにわたって敷設し、戦後は切断されたまま放置されていた。99年にホタテ漁に支障があることから沿岸近くの1・5キロを撤去したが、陸上部分は手つかずだった。

 市が実施した調査にはボランティアら約30人が参加。施設の海側を重機やスコップで掘ると、深さ約50センチの場所で直径5・5センチのケーブルが見つかり、陸揚庫内部にも通じていた。

 調査を指導した北海道博物館(札幌)の右代啓視(うしろ・ひろし)学芸員は「建物がケーブルの中継に使われていたことが明確になった。北方四島とのつながりを示す象徴的な建物だ」と話した。(武藤里美)


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