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近現代史綜合スレ
668
:
名無しさん
:2015/10/11(日) 12:47:29
>>667
自由民主党の誕生
保守合同のためには、鳩山自由党、重光改進党と、首相であり総裁である吉田を排除した吉田自由党を合体させなければならない。
岸は、まず鳩山と重光、さらに三木、石橋らを加えた会談を実現させ、保守合同で一致させた。さらに吉田が頼みとする副総理の緒方竹虎には、「とりあえず鳩山を新総裁にして、次は必ずあなたを総裁にする」と約束して、吉田からの離反を図った。
10月20日、新党結成準備会拡大大会が開かれ、12日後、11月1日に鳩山が新党結成準備委員長となった。つまり鳩山が新党総裁になることが確定したわけだ。舞台裏を仕切ったのは岸と、保守陣営きっての策士である三木武吉であった。
そして11月24日の日本民主党の結成となったのである。衆参あわせて142人の議員が参加した。
総裁は鳩山、副総裁は重光、そして岸は幹事長となった。三木武吉は総務会長になったが、緒方は日本民主党には参加しなかった。
このとき、吉田自由党の衆院議員は180人で、数の上では民主党を大きく上回っていたが、総務会長の大野伴睦をはじめ、少なからぬ自由党議員が、実は反吉田であった。岸、三木たちの根回しが自由党の隅々までいきわたっていたのである。
11月30日に臨時国会が召集されると、岸は左派、右派社会党の書記長を口説いて、吉田内閣不信任案を提出する態勢を固めた。
岸は三輪寿壮など右派社会党にパイプを持っていたのだ。民主党と左、右社会党が結束すれば、不信任案は可決される。そこで吉田は衆院を解散しようとしたが、それを支持したのは子飼いの佐藤と池田勇人だけで、緒方をはじめ議員の大半が解散に反対した。
こうして吉田はついに通算7年2ヵ月で辞任に追い込まれたのである。
12月9日、後継首相指名選挙で、鳩山が指名された。三木と岸が、早期解散、総選挙を実施するための「選挙管理内閣」だといって左、右社会党を説得したのである。
鳩山は55年1月に衆院を解散した。ワンマン吉田の長期政権に厭きた国民の多くが、脳溢血に倒れて、舞台裏を三木や岸にまかせた、いわば担がれ神輿としての弱々しさを歓迎して「鳩山ブーム」が起き、民主党は124議席から185議席へと大きく伸び、逆に自由党は180議席から112議席へと激減した。
だが、三木と岸は、勝ったとはいえ危惧を強めていた。過半数にほど遠い少数政権であったうえ、左・右社会党が21議席も増やして156議席も獲得していた。
岸たちは、社会党の左・右が合併し、近い将来政権奪取するのではないかと危機感を抱いていたのだ。現に左、右社会党内では権力奪取のための合併話が進んでいたのである。
三木と岸はなんとしても保守合同を急がねばならないと思い、自由党で強い影響力を持つ大野伴睦に目をつけた。大野と三木とは東京の市会議員の時代から不倶戴天の間柄であったが、三木は「このままでは赤化の危機にさらされる」と大野を口説き落とした。三木と岸の作戦は成功した。
10月13日に政権奪取を目指して社会党が統一された。そして1ヵ月後、11月15日に民主党と自由党が解体されて自由民主党が誕生した。いわゆる55年体制がスタートしたのである。
ただし、このときは「総裁」は空席で、鳩山、緒方、三木、大野の4人が代行委員となった。岸はあえて一歩退くかたちで、しかし抵抗なく幹事長となった。このあたりが岸の手堅さであり、したたかさである。
実は、岸が「初代総裁は鳩山で、ただし日ソ交渉を花道にして早晩緒方に譲る」と大野たち自由党の幹部に話をつけ、自由党の顔を立てるために、結成時は「総裁」の空席というかたちをとったのだ。
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