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近現代史綜合スレ

665名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:50
>>664

軍隊に逆らった岸信介
 岸信介は、1896(明治29)年11月13日に山口県の山口町(現山口市)で生まれた。日清戦争に日本が勝利して、山口県の下関市で講和条約が調印された翌年である。

 1920(大正9)年に東京帝大を卒業すると、岸は先輩たちのすすめを拒んで農商務省に入省した。官僚の花形は内務省と大蔵省であった。

 岸は農商務省の官僚となって欧米を視察し、とくに強い印象を受けたのがドイツであった。第一次世界大戦で惨敗し膨大な賠償金に喘ぎながら、「国家統制化」という名の産業合理化運動で経済再建の成果を上げていたのである。ドイツモデルは、岸が学生時代から抱いていた国家社会主義のイメージと見事に重なっていた。

 1936(昭和11)年、二・二六事件が起きた年の10月に、満州国実業部総務司長、(翌年、産業部次長)として満州というフロンティアに赴任した岸は、産業開発の五ヵ年計画を遂行し、国家社会主義的な統制経済を徹底させた。

 岸の統制経済は満州では成功し、時の関東軍参謀長だった東条英機にも高く評価された。そのためもあってか、東条が首相になると岸は商工大臣に引っ張られている。

 なお、満州を離れるとき、岸は記者たちに「出来栄えの巧拙はともかくとして、満州は私の描いた作品である」と語った。満州については自信に満ちていたわけだ。

 東条に商工大臣として迎えられながら、岸はオポチュニスト的優等生ではなかった。

 1944(昭和19)年にサイパン島の日本軍守備隊約3万人が玉砕し、日本本土が完全にB29の攻撃射程に入ると、岸は「サイパンを失っては戦争継続は不可能」だと東条に主張したが、東条は「そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるか」と一蹴し、岸を辞めさせて内閣改造を図ろうとした。

 だが、岸は断固として辞任を拒否し通し、そのために閣内不一致で東条内閣は総辞職に追い込まれてしまった。岸は東条政権を潰した後、憲兵隊につけ回され、身の危険にさらされ続けた。

 1945(昭和20)年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わった。約310万人の日本人がこの戦争で命を失った。そして9月15日に岸は戦犯容疑者として占領軍に逮捕された。

 「名に代へて この聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代までも伝へ残さで」

 逮捕される直前に岸が山口の田布施の自宅で詠んだ歌である。

 A級戦犯を裁いた東京裁判について、『岸信介回顧録』(廣済堂出版)で次のように述べている。

 「東京裁判はドラマとしては壮大で、また深刻きわまりなかったが、今は、人間の知恵の浅さを思い知らせたことと『文明』の名に汚点を残したという記録に過ぎないのである。

 こういうわけで、巣鴨に収監されている間も『我々は、法律に違反した犯罪人である』という意識は全くなかった。あるものは勝者対敗者の関係であった。その関係において、敗者は勝者の手によって裁かれ、処刑されるのはやむを得ないと覚悟していた。

 従って、死は免がれないものの、それまでに我々の意見、立場を堂々と主張し、日本だけが悪事を働いたという一方的な押し付けに反駁し、彼らの理非曲直を明らかにして真実を後世に伝えん、と意気軒昂といってもよい心境であった」

 さらに岸は、占領初期のGHQの基本方針について次のように述べている。

 「日本の軍事力や工業力の抹殺はいうまでもなく、このような日本人の精神構造の変革、つまり日本国民の骨抜き、モラルの破壊に主眼があったことは間違いあるまい。

 日本人の復讐心の芽をつみ、日本人は欧米人種に比べて劣等であることを思い込ませ、現在の敗北と苦痛は、あげて日本人の不法かつ無責任な侵略によってもたらされたものであることを徹底させるために、天皇の権威の否定から戦争犯罪人の逮捕、神道及び神社への公共資金による財政的支持の禁止、果ては、歌舞伎忠臣蔵の上演禁止に至るまで、日本の国民生活の全分野にわたって強制、干渉、監視が仮借なく実施された。そしてその集大成が、今の日本国憲法である」


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