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近現代史綜合スレ

1とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

1108とはずがたり:2018/04/13(金) 09:42:51

 その一方で第5次吉田内閣に国務相として入閣した安藤正純と大野伴睦は鳩山自由党の復党工作を展開していた。安藤と大野は「このまま党外にいたら政権は緒方に行ってしまう。へたをしたら重光に横取りされるかもしれない。吉田ももう長くはないから早く復党した方がよい」と鳩山を説得した。自由党と改進党の提携が進んで鳩山自由党は政界で孤立しており、鳩山の心境も復党に大きく傾いた。

 鳩山復党の総仕上げは松野の出番である。松野は安藤と大野の工作をじっくり見守っていたが、緒方副総理や佐藤幹事長の意向も確認した上で、吉田首相と会い、11月17日に吉田が鳩山邸を訪問して復党要請するという段取りを決定した。吉田・鳩山会談には安藤国務相と松野が同席した。吉田は「鳩山自由党の全党一致の復帰を期待しているが、それが困難なら君一人でも帰ってきてほしい」と懇請した。

 鳩山自由党は11月30日、鳩山、石橋ら27名が自由党に復帰した。当初は三木、河野らも「恥を忍んで復党する」意向だったが、松田竹千代、山村新治郎らが「吉田の軍門に下るのはいやだ」と復党を拒否したため、「彼らを見殺しにできない」として復党せず、わずか8名で日本自由党を名乗った。自由党が鳩自党を吸収したことに改進党は「保守連携への裏切り」と反発したが、防衛問題に限って自由党との連携は維持することにした。

 1954年(昭和29年)に入ると保全経済会事件、造船疑獄が明るみに出て吉田政権は三たび動揺した。同年2月、鳩山は病床にある前田米蔵を訪ねて鳩山政権実現へ協力を求めた。鳩山と前田は戦前、犬猿の仲と言われる間柄だった。前田は追放解除後、吉田首相に接近したが、選挙違反事件で摘発され、さらに病床に伏し、前年の総選挙では落選して不遇をかこっていた。

 鳩山は「その時前田君は『三木と松野はどうかね。大丈夫君の方の側かね』と聞いた。三木君とはその時一応分かれた形になっているし、松野君は吉田君の指南番のように思われている最中だったからだろう。そこで私は『三木君はもちろん問題はない。松野も大丈夫だと思う』と答えた。この話をあとですると大抵の人は『さあ松野はどうですかね』と、不満げに言葉をさしはさむけれども、私はその当時は本当にそう思っていた」と回顧している。

 息子の松野頼三は「私は吉田首相の秘書官もしているので吉田7、鳩山3のスタンスだったが、オヤジは鳩山7、吉田3のスタンスだった」と述べている。松野鶴平の行動は結果的に見ると常に吉田寄りに見えたが、これは戦前、2回も政友会分裂を経験した松野の「党を割ってはいけない」という信念に基づくもので、心情的には鳩山への思いも強かったのは事実であった。

■「総裁といえども除名するぞ」と一喝

 造船疑獄の広がりで吉田政権は窮地に陥った。吉田首相は緒方副総理、松野鶴平らと連日協議を重ね、検察当局の佐藤幹事長逮捕許諾請求に法相の指揮権を発動することを決定した。緒方副総理は局面打開のため、改進党に保守合同を呼びかけた。保守合同に向けた自由党、改進党、日自党の協議は総裁問題で行き詰まった。改進、日自両党は吉田退陣を明確にするよう求めたが、自由党は「総裁は公選で」との立場を崩さなかった。この時の保守合同運動は結局、鳩山の下に改進党、日自党、さらに自由党の鳩山派と岸派が合流する形で実現した。昭和29年11月22日、鳩山を総裁とする日本民主党が結成された。副総裁重光葵、幹事長岸信介、所属衆議院議員125名。

 吉田長期政権は最後の局面を迎えた。12月6日、民主党は左右社会党と共同で内閣不信任案を提出した。可決は確実であった。すでに人心は吉田内閣から離反していた。吉田は解散するつもりだったが、緒方副総理が解散に強く反対し、総辞職を主張した。12月7日朝の臨時閣議でも吉田の解散方針に異論が出て閣議は中断した。閣議と並行して外相公邸内の隣室では自由党幹部会が開かれていた。幹部会でも解散反対論が大勢を占め、吉田の方針を支持する池田幹事長は孤立していた。

 吉田首相は幹部会に顔を出し、大野に向かって「総務会長、誰が何といっても解散に決めましたから」と言った。大野は声を荒げて「そんなはずはない。われわれは閣議でも解散反対が多いのを知っている」と公然と反駁した。これに追い打ちをかけたのは松野である。「吉田、君は今になって何を言うか。総裁あっての党ではない。党あっての総裁であることを知らないのか。解散すれば党は壊滅するのだぞ。解散するなら総裁と言えども除名してしまうぞ」と怒鳴りつけた。普段はめったに怒った顔を人に見せたことがない松野の一喝がとどめの一撃となり、吉田は解散を断念して総辞職を決意した。

1109とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:31

 昭和29年12月10日、鳩山一郎は念願かなって民主党内閣を発足させた。自由党は野党になった。鳩山首相は左右社会党との約束に従って昭和30年1月24日、衆議院を解散した。この選挙で民主党は大きく議席を伸ばしたが、過半数には達せず、自由党は議席を大幅に減らして惨敗した。選挙後、民主党の三木総務会長は自由党に保守合同を呼びかけた。民主党と自由党の保守合同協議は総裁問題で難航したが、総理は鳩山、総裁は鳩山、緒方、三木、大野の4人を代行委員とすることで妥協が成立し、昭和30年11月15日、保守勢力を結集した自由民主党が発足した。松野は参議院自民党議員会長になった。

 1956年(昭和31年)1月、次期首相間違いなしと言われた自民党総裁代行委員の緒方竹虎が急死した。三木、大野両代行委員と岸幹事長、石井光次郎総務会長が協議した結果、緒方に代わる総裁代行委員に松野を決定した。緒方の死去で鳩山首相の対抗馬がいなくなったため、自民党は4月5日の党大会で鳩山を正式に初代総裁に選出した。この直前の4月3日、松野鶴平は第4代参議院議長に当選した。緑風会出身の河井弥八議長が同年7月の改選を控えて「選挙準備に専念したい」と突如辞意表明をした結果であった。
 参議院議長は初代が松平恒雄、第2代が佐藤尚武、第3代が河井でいずれも緑風会出身であった。松野議長の誕生は保守合同と左右社会党の統一で参議院でも政党化が急速に進み、「参議院の良識」を代表していた緑風会が凋落しつつあることの象徴であった。松野が議長になったばかりの第24通常国会は自民党と社会党が激突して参議院では新教育委員会法案をめぐって会期末に乱闘騒ぎの大混乱が起きた。

 自治体の教育委員会を公選制から任命制に改めるこの法案は鳩山内閣の目玉政策の一つで、すでに小選挙区制法案の成立断念に追い込まれた自民党執行部は何が何でも成立させる意気込みを見せた。社会党は日教組の突き上げを受けて実力で成立を阻止する構えをとった。本会議採決の攻防が始まると社会党の議員・秘書団が議長室を取り囲み、松野議長は軟禁状態になった。ようやく本会議を開いて議長席に座っても社会党議員が殺到して議事妨害を行い、隣の事務総長が負傷する事態も起きた。

 徹夜国会になり、71歳の松野議長は体力の限界に達した。混乱した議場の秩序を回復するため、松野議長は自民党執行部の要請を入れて参議院では初めて警官隊の導入を決断した。2泊3日の徹夜攻防の末に新教育委員会法は緑風会も賛成して賛成143、反対69で可決・成立した。自民党の岸幹事長が議長室を訪れ、松野議長と抱き合って喜ぶ場面が見られた。

 昭和31年7月の参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を維持し、さらに保守系議員を糾合して過半数を確保した。社会党も憲法改正阻止に必要な3分の1の議席を確保した。これにより参議院に一定の平和と秩序が訪れた。選挙後、松野は議長に再選され、翌昭和32年1月の通常国会再開の際、自民党と社会党は衆参両院で国会正常化を申し合わせた。

1110とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:41
>>1107-1110
■党籍離脱を拒否、政防法案握りつぶす

 1959年(昭和34年)7月、岸内閣の下で行われた参議院選挙で自民党は71議席を獲得し、非改選と合わせて135議席に達した。松野もこの選挙で3回目の当選を果たし、選挙後に三たび参議院議長に選出された。選挙後の岸内閣の改造で松野頼三が労相として入閣し、野田卯太郎―松野鶴平に続く憲政史上初めての親子3代大臣の誕生が話題になった。

 議長3選にあたって社会党と緑風会は松野に党籍離脱を強く要求した。これは前年、警職法改正案をめぐって国会が紛糾した際に川島正次郎自民党幹事長と浅沼稲次郎社会党書記長の間で衆議院の正副議長は党籍を離脱することを申し合わせ、参議院についても「自主性は尊重するがこの申し合わせに従って運営するよう要請する」としていたからである。松野は「私は母の胎内にいた時からの政党人だ」と言い放って党籍離脱を断固拒否した。

 松野は、国会の混乱を防ぐために議長の権威を高める必要があるが、それは党籍離脱という手段ではなく、むしろ多数党の党籍を持って多数党の横暴を内部から抑える力を持つことが大事である、という信念を持っていた。社会党の浅沼書記長が議長室に乗り込み、党籍離脱を直接勧告したが、松野は軽く一蹴した。この後、記者団の質問に答え「みんなコドモだから親爺の言うことは判ってくれるよ」と平然としていた。

 松野はこの信念を口先だけでなく、自らの行動で実行に移した。昭和36年の通常国会に自民党は民社党と共同で政治的暴力行為防止法案を提出した。社会党が強く反対し、衆議院は強行採決で通過した。池田勇人首相はこの法案の成立に強くこだわっていた。審議に協力的な民社党のメンツを立てる必要があり、国会後の訪米を控えてこの法案が不成立なら国際信用が傷つくことを懸念していた。益谷自民党幹事長が松野議長を訪ねて法案成立への協力を強く求めたが、松野は「参議院の自主性に任せてくれ」とやんわり拒否した。益谷は池田首相と会談するよう松野に求めたが、これも拒絶した。

 松野は佐藤栄作と極めて親しかったが、池田とはソリが合わなかった。参議院自民党も、この国会は農業基本法の成立で手いっぱいで政防法案の成立は無理と判断していた。結局、政防法案は参議院で握りつぶされ、継続審議となった。池田首相は政防法案不成立の経緯を見て岸・佐藤兄弟が松野と組んで倒閣を仕掛けたとにらんだ。池田は訪米帰国後の内閣改造で岸派、佐藤派を遠ざけ、大野派、河野派、三木・松村派を取り込んだ内閣改造に踏み切った。

 1962年(昭和37年)7月の参議院通常選挙を機に松野鶴平は参議院議長を辞任した。前年、糖尿病の悪化で入院するなど松野の体力は衰えが隠せなくなった。選挙後、後任の議長には岸、佐藤兄弟と並んで「長州ご三家」と言われた自民党の重宗雄三が選出された。松野は議長退任からわずか2カ月後の10月18日に日本医大病院で永眠した。77歳だった。

 松野鶴平は議長退任の際に参議院本会議で次のように述べている。「私は国会運営の根本は、国会議員の心構えにあると存じます。各党各派ないし各議員が、国民に対する責任を自覚し、お互いに参議院を辱めないようにとの気持ちをもって、忍耐強く話し合えば、大抵のことは解決するものと信じます。肝要なことは、本院は良識に従い常に自主的な態度を持するということであります。院内の事の処理に当たっては、みだりに院外の運動に左右されたり、利害団体の圧力に屈することのないようにいたさねばなりません。対衆議院の関係においても同様でありまして、両院が協調しながらも、各自が自主性を堅持することが、二院制度の要諦であります。かくして初めて参議院の権威が高まり、使命は達成されるのであります」。=敬称略


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