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近現代史綜合スレ

1190とはずがたり:2020/03/20(金) 00:27:57
「絶対に勝てるか」“抹殺できなかった公文書”が伝える昭和天皇の大声
残された重要史料が今に教えるもの
辻田 真佐憲文筆家
近現代史研究
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68981

「太平洋はなお広いではないか!」

アジア太平洋戦争の開戦へ突き進む中、昭和天皇が杉山元参謀総長をこのように叱責したことはよく知られている。1941年9月5日のことである。

昭和天皇ははじめ、杉山に「日米事起こらば、陸軍としては幾許の期間に片づける確信ありや」と質問した。これに杉山は、「南洋方面だけは3ヶ月くらい」と答えた。

これに満足しなかった昭和天皇は、続けて問うた。「汝は支那事変[日中戦争]当時の陸相なり。その時陸相として『事変は1ヶ月くらいにて片づく』と申せしことを記憶す。しかるに4ヶ月の長きにわたり、いまだ片づかんではないか」。

厳しい追及を受けた杉山は恐懼(きょうく)して、「支那は奥地が開けており、予定どおり作戦し得ざりし事情」をくどくどと弁明した。これにしびれを切らした昭和天皇は、励声一番、最初に引いた発言を行ったのである。

「支那の奥地が広いと言うなら太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって3ヶ月と申すか」

杉山はこれに答えられず、隣にいた永野修身軍令部総長に「統帥部として大局より申し上げます……」と助け舟を出してもらったのだった。
別の史料では「絶対に勝てるか」と質問
以上は、当時の首相・近衛文麿の手記に見えるやり取りである(『近衛文麿手記集成』より。なお引用にあたって、表記を一部改めた。以下同じ)。

ところで、この場面を記録した別の史料があることを知っているだろうか。

杉山自身の記録がそのひとつである。より正確には、歴代の参謀本部戦争指導班(第20班)長が杉山の伝達事項を聞き取り、浄書・整理したもので、今日『杉山メモ』というかたちで公刊されている。

これを読むと、会話の内容が近衛手記と微妙に異なっている。

たしかに昭和天皇は、杉山にたいして「予定通り出来ると思うか。お前の大臣の時に蒋介石は直ぐ参ると云うたが、未だやれぬではないか」と同じ主旨の質問をしている。だが、その後の「太平洋はもっと広いではないか」という厳しい発言は記されていない。

昭和天皇にやり込められた恥ずかしい場面は、部下に伝達しなかったのだろうか。

そのいっぽうで、近衛手記にない記述も見られる。

昭和天皇は、大声で「絶対に勝てるか」と質問した。これに対して、永野が「絶対とは申し兼ねます」と言いながらも、「半年や1年の平和を得ても、続いて国難が来るのではいけないのであります。20年、50年の平和を求むべきであると考えます」などと答えた。

昭和天皇はこれに対して、やはり大声で「ああ分った」と答えたという。

この翌日(9月6日)、御前会議で「対米、(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」などとする「帝国国策遂行要領」が可決された。

その会議の最後、昭和天皇は「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という明治天皇の御製を詠んだ。これは一般に平和への意志を示したとされている。

とすれば、「ああ分った」という声も、開戦同意の意味ではなかったのだろう。

杉山は、自分の意志がなく、押したほうに動くことから「便所の扉」とあだ名され、永野も、会議でよく居眠りしていた(若い後妻をもらったためと陰口された)ことから「ぐったり大将」とあだ名されていた。

昭和天皇が大声になったのも、こんなふたりへの苛立ちのあらわれだったのかもしれない。

焼却処分をまぬかれた重要文書
それはともかく、実はこの『杉山メモ』(の原形)を含む重要文書は、ほかの公文書と同じく、終戦時に焼却処分されるはずのものだった。

ところが、陸軍省軍務課庶務将校・中根吾一少尉が、高級課員山田成利大佐の許可を得て、これを密かに自宅に持ち帰り、ドラム缶につめて地下に埋めたことで、焼失をまぬかれた。


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