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近現代史綜合スレ

669名無しさん:2015/10/11(日) 12:48:48
>>668

防御態勢の確立と国家社会主義
 22日に、鳩山は首相に三選された。三木、岸、大野、石井光次郎の密約では、翌56年4月には緒方が総裁に選ばれ、首相に就任することになっていた。ところが緒方は56年1月28日に急死した。67歳だった。7月4日には岸が頼りにしていた三木武吉も死去。71歳だった。

 三木と岸の作戦は、鳩山を早晩引退させて、緒方に「権力」という贈り物をして、緒方から首相の座を岸に禅譲させるということになっていたのだが、岸の目論見は潰えた。自力で権力を奪取せざるを得なくなったのである。

 なお岸は『風聲』56年1月号に、「巣鴨の拘置所で送った三年三ケ月の生活及びそれに続く追放時代より一貫して把持し来つた私の政治的信念」として次のように書いている。

 一、憲法の改正と防衛態勢の確立
二、自由主義国家群との連繋の強化と東南アジアに対する経済外交の推進
三、放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進による経済自立の達成
四、教育制度の根本的改革による道義の昂揚

 岸のいう防御態勢の確立とは、GHQが日本弱体化を狙って作成した憲法九条を改正して交戦権のある軍隊、つまり自衛軍をつくり上げることであった。それと「放漫なる自由主義経済の是正と計画経済の推進」という指摘には、国家社会主義による満州経営の自信が底流にあったのであろう。

 なお、岸は小選挙区制の実現を自民党の主目標の一つにした。憲法改正のためには各議員の総議員の3分の2以上の賛成を獲得しなければならず、そのためには小選挙区制の実現が必要だと考えていたのである。

 鳩山も憲法改正を主張したが、これは反吉田という意味合いが強く、首相になって政治生命を懸けたのは日ソ交渉であった。もっとも一時は北方領土問題で完全に行き詰まったが、日本側が棚上げすることで妥協し、56年10月19日にモスクワで日ソ国交回復の共同宣言が発表された。

 日本側にソ連との国交回復を急がなければならない事情があったのだ。シベリアに抑留されたままになっている数多くの日本人(帰国がかなったのは2689人)の帰還問題に加え、ソ連が賛成してくれないと国連加盟ができなかったのである。日本の国連加盟が実現したのは12月18日であった。

 鳩山はソ連から帰国すると、11月2日に退陣を表明した。吉田と違って権力に執着しなかった。病?で気力を失っていたともいえる。引退後2年2ヵ月余で死去した。

 岸は権力奪取のため、それなりに根回しを計ったようだが、頼りの三木がいなくなり、1885年に日本で議員内閣制が発足して以来はじめての総裁選挙となった。岸、石井、そして石橋湛山の三者が立候補した。岸派が3億円、石橋派が1億5000万円、石井派が8000万円をばらまいたともいわれる金権選挙でもあった。

 第1回目の投票で、岸は1位とはなったが過半数に達せず、決選投票では2、3位連合が功を奏して、石橋が首位となった。ところが首相となった石橋が体調を壊し、代わって岸が念願の首相となった。衆院議員となって3年10ヵ月しかたっていなかった。


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