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近現代史綜合スレ

1111とはずがたり:2018/04/13(金) 09:48:43
松野の党籍離脱拒否に関しては其の後の重宗得宗体制をもたらしたそうな。
因みに緑風会出身の参院議長河井弥八は掛川の人♪

松野鶴平
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%B6%B4%E5%B9%B3

参議院議長
戦後の参議院では、議事の遂行において公平を期すために議長在任中は党籍を離脱する慣例となっていた(松野以前の3人が所属していた緑風会は無所属議員のための会派であって身分的には無所属である)。だが、戦前の帝国議会で唯一の公選によって選ばれていた衆議院の議長(通常は第一党から選出)は、その党籍を維持してその権威によって議事運営を行う一方で、第一党の独断的な動きに対しては党員としての発言力によって阻止し続ける事によってその暴走を食い止めるという慣例が存在していた。

戦前立憲政友会に在籍していた松野はその時代の議長観を戦後になっても保持しており、他党の党籍離脱要求にも関わらず参議院議長在任中も党籍を維持。自民党会派にも所属し続けた。日米安保条約改訂などで政局が流動的な情勢の中、松野は己の議長観に忠実に従うことによって自民党側の強引な議事運営を防止しつつ、円滑な審議に尽力して一定の成果を収めたが、それは同時に「参議院の政党化」を促進する事にも繋がった。

松野の後任となった重宗雄三も同様に自民党所属のまま参議院議長を9年間務め、党内で絶対的な権力を持つに至った。議長の党籍、ないしは院内会派からの離脱が定着するのは、重宗の後任となった河野謙三が党籍を離脱してからである。

河野謙三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E8%AC%99%E4%B8%89

参議院副議長などを経て、参議院自民党の重鎮として存在感を増す中、佐藤栄作内閣末期に持ち上がったのが、重宗雄三参議院議長をめぐる問題で中心となって動く。重宗は1962年(昭和37年)8月から1971年(昭和46年)7月まで3期9年参議院議長をつとめる中で参議院自民党は重宗王国といわれるようになっていたが、このような長期独裁体制打破を求めて1971年(昭和46年)7月に参議院改革を内容とする「河野書簡」を発表した。河野の動きをきっかけに参議院自民党の中にも新谷寅三郎、迫水久常、鍋島直紹ら反重宗の参議院議員は桜会を結成。7月17日、この自民党首脳部から造反した桜会と野党の支持を受けて、重宗雄三の後継議長候補であった木内四郎を128票対118票と10票差で破って参議院議長に選出された。当選後、自民党籍を離脱し、在任6年間、参議院改革に努力した。

1977年(昭和52年)7月に参議院議長を退任。1983年(昭和58年)に立候補せず、政界を引退した。

なお、長男の河野鉄雄は1983年の第38回衆議院議員総選挙に自民党の公認を得て神奈川2区から立候補したが落選し[1]、続く1986年(昭和61年)の第39回衆議院議員総選挙では無所属で再び神奈川2区から立候補したが議席には届かなかった[2]。

河井弥八
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E5%BD%8C%E5%85%AB

静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)を経て、1904年東京帝国大学卒業後、内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となり、1930年から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。

1938年1月7日に貴族院議員に任命された[1]。貴族院では同成会に所属した。この間、鉄道会議議員を兼ねた。また大日本報徳社社長ともなっている。

サツマイモ栽培や砂防林の普及運動に力を尽くし「サツマイモ博士」とあだ名された[2]。

戦後、第1回参議院議員通常選挙に静岡県選挙区から立候補し、参議院議員に当選した。当選後は緑風会に所属し、3年後の第2回参議院議員通常選挙でも再選された[3]。

1953年には参議院議長に就任した。1956年の第4回参議院議員通常選挙では議長在任中だったが落選し、高齢だったこともあり政界引退を表明した。死後、従二位と勲一等旭日桐花大綬章を贈られた。


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