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近現代史綜合スレ

1191とはずがたり:2020/03/20(金) 00:28:13
>>1190

その後同文書は、各地で分割保管されるなどしながら、最終的に1960年6月以降、防衛庁防衛研修所戦史室にすべて移管された。

そしてこの史料群の一部が、のちに『杉山メモ』として公刊されるにいたったのである。なお同書以外の部分も、『敗戦の記録』『機密戦争日誌』として公刊されており、いずれも昭和史の研究に欠かせないものとなっている。

以上は、昭和史に通じたものにはよく知られたことだが、過日、昨今の杜撰な公文書管理に絡めてツイッターで言及したところ、思わぬ反響を引き起こした。そこで、今日に教えるところもあろうかと思い、あらためて記した次第である。

「大東亜共栄圏」の実態を明らかに
もうひとつ『杉山メモ』から貴重な記録を取り上げて、公文書が残された有り難みを噛み締めておきたい。

1943年11月、東京で大東亜会議が開かれた。東条英機首相、中華民国の汪兆銘行政院長、満洲国の張景恵国務総理、タイのワンワイタヤーコン首相名代、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバモオ首相が参加し、さらにオブザーバーとして自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が陪席し、「大東亜共同宣言」が採択された。

この宣言については、「大東亜各国」の共存共栄、自主独立の尊重、人種差別の撤廃などをうたったことから、現在でも高く評価する声がないではない。

だが、『杉山メモ』に収録された「大東亜政略指導大綱」を見ると、その裏事情が浮かび上がってくる。

「大東亜政略指導大綱」は、同年5月31日の御前会議で決定された「大東亜」地域に関する基本方針である。大東亜会議の開催も、これにもとづいて決定されたものだった。

その内容を見ると、フィリピンの独立などを打ち出すいっぽうで、一部の占領地については「帝国領土」とする決定が下されている。

 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し、重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努む。
つまり、現在のマレーシアやインドネシアにほぼ相当する地域を、日本の領土に組み込むとされていたのである。これは明らかに、「自主独立の尊重」などと相反するものだった。

だからこそ、上記の条項は「当分発表せず」と秘匿されなければならなかった。千言万語を尽くすより、この箇所は「大東亜共栄圏」の実態をよく示してくれている。

今日「大東亜共同宣言」が一部でしか評価されていないのは、こうした史料も関係しているのである。

大事な政治的記録は何らかのかたちで残る
中国の古典『春秋左氏伝』に、こんな話が載っている。

春秋時代、斉の崔杼(さいちょ)が荘公を殺した。史官はこれを「崔杼、荘公を弑(しい)す」と記録した。「弑す」とは主君を殺すという意味である。

怒った崔杼はこの史官を殺した。ところが、その弟が史官を継いで、また「崔杼、荘公を弑す」と記録した。崔杼はふたたび史官を殺した。それなのに、またその弟が史官を継いで、やはり「崔杼、荘公を弑す」と記録した。さすがの崔杼も、ついに記録の改竄を諦めた――。

どんなに消そうとしても、大事な政治的記録は何らかの形で残されてしまうものなのである。この『左伝』の箇所がたびたび参照されるのは、そうした真実を衝いているからにほかならない。

もちろん、「役人は殺されても記録せよ」と言いたいのではない。そんな使命感に訴えなくても、何らかの記録は残されるだろう。というのも、記録を完全に破棄してしまうと、政治家/上司に「官僚/部下が勝手にやった」などと責任を押し付けられるリスクがあるからだ。

仮に公文書自体は完全に処分されているとしても、担当者が身を守るために記したメモや日記、下書きなどは数年後に出てくるのではないか。

終戦時にさえ抹殺できなかった公文書の存在は、そんな期待をわれわれに抱かせてくれる。そして未来に出てくるであろう「史料」は、目の前の倒閣運動には役立たなくても、長い目で見たとき、かならず後世のひとびとの役に立つはずである。


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