したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

近現代史綜合スレ

1とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

992とはずがたり:2016/12/23(金) 13:04:31
やりなおす戦後史
【第5回】 2015年8月10日
蔭山克秀
今、戦後史から知っておきたい
日本を「経済の国」へと変えた男
http://diamond.jp/articles/-/76354

黄金の昭和30年代、「所得倍増計画」によって一気に高度経済成長を遂げ、「経済大国ニッポン」をつくった一人の男。それが池田勇人である。池田はどのように今の日本を形づくったのか? 東京オリンピックまでの日本の変貌を駆け足で見る。

経済の国へ――池田勇人の所得倍増計画

?第4回で見たように、新安保条約の強行採決を経て岸信介が首相を辞任した後、日本は「政治の時代」から、本格的に「経済の時代」へと移行する。

?日本はこの時期、“世界の経済大国”としての地位を確立した。そして、そのかなりの部分は、池田勇人の功績だ。

?元大蔵官僚の池田勇人は、官僚時代に病に倒れて退職した後、新規採用扱いで再び大蔵省に入省するなど苦労もあったが、最終的には最高ポスト・事務次官まで務め上げた、経済政策のスペシャリストだ。経済事情に明るく数字に強い彼の、経済偏重ともいえる政策や外交努力の数々によって、日本は戦後、驚くほど短期間で一流国家への階段を上ることができたのだ。

「経済成長をめざす首相なんて、普通じゃないか」――今の僕らはそう思ってしまうが、それは間違いだ。実は池田まで、経済政策を全面に押し出す首相なんて、ほとんどいなかったのだ。

「不況でもないのに経済しか見ない首相なんて、どうかしている。政治家は政治をしっかりやれよ」――これが昔の当たり前だった。つまり、あくまで経済は“政治の一部”、日本全体の設計図の一部にすぎず、それらは大蔵省や経済企画庁、あるいは日銀に任せるべき事柄だったのだ。

?しかし、池田は「日本らしさ=経済」に変えていく青写真を持ち、軍隊のない日本は、政治よりも経済をアイデンティティにすべきという明確なビジョンを持っていた。

?池田勇人は吉田茂の腹心中の腹心で、「吉田学校」の優等生だ。彼は官僚生活を経て1949年の衆院選で政界入りし、いきなり吉田内閣の大蔵大臣に抜擢された。そこで経済政策のすべてを任され、その後も大蔵大臣・通産大臣・自民党幹事長・政調会長などを歴任した。そして岸内閣の退陣後、池田は自民党総裁選に打って出て、見事総理の座を射止めた。

?その池田が、政策の目玉として打ち出したのが「所得倍増計画」。彼は岸内閣が日米安保という「政治」で討ち死にしたのを目の当たりにし、自身は得意分野の「経済」に活路を見出すことにしたのだ。

?所得倍増計画は、一橋大の中山伊知郎教授が1959年に読売新聞に寄稿した「賃金二倍論」を、池田がアレンジして「月給二倍論」としたのが始まりだ。

?彼はこのフレーズが気に入り、選挙演説で使いまくった。そして1960年に総理となり、自身の政策として具体化した。その大まかな方針は、1961年から70年までの10年間で、GNP(国民総生産)を13兆円から26兆円に倍増させるという、長期的な経済成長戦略である。

?10年でGNPを2倍にする――途方もない夢に聞こえるが、実はそうでもない。幸い日本は、吉田茂や岸信介の努力(つまり安保条約)によって、軍事コストのかからない国になっている。ならその利点を活かして、浮いた金を重化学工業の後押し、社会資本の整備、低金利での企業融資などに回せば、決して不可能な数字ではない。

?それどころか、地方・農業・中小企業など弱い産業分野の所得底上げ、人材育成への投資、産業構造の高度化、科学技術の振興、住宅建設、工業用地開発なども行っていけば、十分現実的な数字だ。

?軍事費をできる限り節約して、経済で身を立てる――これはまさに、師匠・吉田茂が夢見た「通商国家・日本」だ。池田はその実現に向けて精力的に政策目標に取り組み、経済立国に必要な成長基盤を築き上げた。そしてその結果、日本経済は池田退陣後も成長を続け、わずか4年で名目GNPを2倍増、10年でなんと4倍増を達成したのだ。

993とはずがたり:2016/12/23(金) 13:05:14

先進国への仲間入り――GATT、IMF、OECDへの加入

?また池田の経済政策は、国内政策だけでなく、外交面にも及んだ。池田は「一流の経済立国」に必要な外交面での課題に次々と取り組み、その結果「GATT11条国への移行」「IMF8条国への移行」「OECDへの加盟」という、先進国への“大人への階段”を、一気に駆け上ったのだ。

?まず取り組んだのは、GATT11条国への移行。GATT(関税と貿易に関する一般協定)とは「世界の自由貿易の守り神」的な協定で、その12条国が保護貿易の許される“途上国扱い”の国々、そして11条国が世界に向けて市場を開かないといけない“先進国扱い”の国々だ。

?日本は「戦後弱者」として、今まで12条国の地位に甘えていた。でも一流国になるためには、過保護な坊やのままではいけない。11条国になれば、外国製品に日本市場を荒らされるリスクも生まれるけど、逆に日本製品を優秀にして外国にガンガン売るチャンスも広がる。

「野党の連中は自由化を『黒船来航だ!?欧米支配の始まりだ!』と騒ぐけど、俺のこれまでの努力を見ろよ。俺はちゃんと国内政策で、いいモノを作れる基盤は整えてきてるぞ。最近はアメリカも『市場を開け』と言ってきてるし、ヨーロッパもうるさい。やっぱここは開かないと損だ」

?池田はそう考えて「貿易為替自由化計画大綱」を発表し、段階的に自由化枠を拡大させた後、1963年、日本をGATT11条国へ移行させた。

?次に取り組んだのは、IMF8条国への移行だ。IMF(国際通貨基金)は「世界の通貨体制の守り神」的な組織で、その一四条国が通貨交換の制限が許される“途上国扱い”の国、そして8条国がそれを認めない“先進国扱い”の国だ。

?日本はこれまで14条国として、企業が輸入の支払いでドルが必要になっても、通産大臣がなかなか許可を出さず、結果的に通貨交換を厳しく制限してきた。これを「為替割当制度」という。

?これさえやれば、日本から海外への支払いが減り、貿易赤字の拡大を防げる。しかし、同時に貿易のジャマにもなる。ちょうどIMFから「そろそろ日本も大丈夫でしょ?」と打診されていたし、IMFと弟分のIBRD(国際復興開発銀行。俗に“世界銀行”)からは、戦後復興資金を借りまくった恩もある。

?また、日本が反撃に転じて輸出攻勢に出るためにも、為替は自由化されたほうがいい。
?ならここは思い切って、為替割当も廃止するか――池田はこう考えて為替割当を一部除いて廃止し、1964年、日本をIMF8条国へと移行させた。

?さらに日本は、これらの移行で先進国と認められ、同年、IMF8条国入りと同時に「OECD(経済協力開発機構)」への加盟も認められた。OECDは西側先進国だけで作られた“先進国クラブ”だ。世界経済の成長目標や途上国へのODA配分目標などが話し合われる。日本はここに、アジアから初めて加盟を認められ、これで三役揃い踏み、日本は晴れて先進国の仲間入りをした。

?池田勇人はこのように、日本が一流の先進国になるための基盤づくりに大いに貢献した“経済の人”だったが、同時に名言・失言・暴言の多い“一人名言bot”みたいな人でもあった。

「貧乏人は麦を食え」「中小企業の5人や10人自殺してもやむを得ない」――これらは池田の国会発言が曲解されて新聞報道された失言だが、所得倍増計画の説明では、その暴言吐きのイメージを逆手に取り、嘘のつけない正直な首相という体で「私は嘘は申しません」の名言を残した。

?よく考えると、そもそも「所得倍増計画」そのものがその年の流行語だし、他にも「寛容と忍耐」なんていうのもある。本当にツイッター向きの人だ。

「消費は美徳である」――経済成長と岩戸景気

?池田の「所得倍増計画」に乗せられて、この時代は景気もグングン拡大した。この頃の好景気を「岩戸景気」という。

?正確には1958年から始まった好況だが、その牽引役となったのは、「なべ底不況」で中断していた民間設備投資の再開と、池田のがむしゃらな「経済成長優先政策」だ。おかげで日本経済は再び活気を取り戻し、企業の成長だけでなく、個人消費も順調に伸びた。「消費は美徳」という言葉が流行ったのも、この頃だ。

994とはずがたり:2016/12/23(金) 13:05:26
>>992-994
?他にも1958年から61年といえば、東京タワーが完成し、民放テレビ局が次々と開局し、巨人の長嶋茂雄が4打席4三振でデビューし、南極昭和基地のタローとジローの生存が確認された時期だ。

?世の中ではフラフープが大流行し、「イカす」「シビれる」などの言葉が流行り、スバル360やスーパーカブが街中を走り回り、ファンタやチキンラーメンが発売された。

?しかし残念ながら、岩戸景気の構造は「神武景気の続き」だ。ドルがたまって、中断していた輸入中心の設備投資が再開しただけだ。だからどうしても、最後にはドル不足から輸入が限界になる「国際収支の天井」にぶつかるのは避けられない。

?結局この後には、また「なべ底不況」みたいな不況になるんだろうな――誰しもがそう覚悟した。しかしそうはならなかった。実はこの後、輸入や輸出とは無関係の好景気がやってくるのだ。それが「オリンピック景気」だ。

世界中に日本の復活を見せつけろ――東京オリンピック

?1959年、西ドイツのミュンヘンで開かれた第55回IOC(国際オリンピック委員会)総会にて、東京はデトロイト、ウィーン、ブリュッセルを大差で破り、見事1964年の東京オリンピック開催を射止めた。

?国内は沸きに沸いた。そしてそれと同時に、少し焦った。ヤバい、この夢の祭典まで、あと5年しかないぞ。5年後に世紀の一大イベントが東京で開かれる以上、それまでに大急ぎで国内を“化粧”しないと。せっかく世界中から多くの人が集まってくれるのに、日本が戦後丸出しのボロ雑巾みたいな国のままじゃ恥ずかしい。

「わっ、なんて野蛮な国でオリンピックをやるんだ!??とか思われたくない。なら、この5年でやれることはやらないと」

?政府はただちに「東京オリンピック組織委員会」を結成し、オリンピック開催に必要な施設や社会資本の整備を大々的に始めた。その結果、日本武道館や国立競技場が造られ、ホテルや宿舎、観光施設が整備され、東海道新幹線や首都高速道路、営団地下鉄などが次々と造られた。

?こんな流れでオリンピックの直前に、何だかんだトータルで一兆円規模の金が動いたとされる。しかも、その多くが社会資本の整備。つまり日本は、図らずも「一兆円規模の公共事業」を行ったのと同じ形になり、その景気浮揚効果で、岩戸景気後のわずかな不況をあっという間に払拭したのだ。

?こういうラッキーな好景気がオリンピック景気だ。輸入に頼らない、国内完結型の好景気。日本経済はこれでさらに躍進し、世界45ヵ国に中継されるテレビ放送の中で、夢の祭典とともに、戦後の奇跡の成長ぶりを見せつけたのだ。


東京オリンピック(1964年)
?また国民の間では、この東京オリンピックを機にカラーテレビが大きく普及し、「テレビで観るオリンピック」の先駆けとなった。国民はお茶の間にいながらにしてオリンピックに釘づけになり、“東洋の魔女(女子バレーボール)”たちの活躍、マラソン・アベベの激走、柔道無差別級での神永vsヘーシンク、体操・遠藤の男子個人総合優勝、重量挙げ・三宅の金メダルなどに夢中になった。このオリンピックでの瞬間最高視聴率は85%を記録した。

?そして東京オリンピック閉会直後の1964年10月、病気を理由に池田勇人は辞任し、後継に佐藤栄作を指名した。さらに翌年、池田はガンで死んだ。「経済大国ニッポン」の牽引者は、わずか16年で政治家生活の幕を閉じた。

※ここから先の内容に興味をお持ちの方は、書籍『やりなおす戦後史』をぜひお買い求めください。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板