したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

近現代史綜合スレ

1109とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:31

 昭和29年12月10日、鳩山一郎は念願かなって民主党内閣を発足させた。自由党は野党になった。鳩山首相は左右社会党との約束に従って昭和30年1月24日、衆議院を解散した。この選挙で民主党は大きく議席を伸ばしたが、過半数には達せず、自由党は議席を大幅に減らして惨敗した。選挙後、民主党の三木総務会長は自由党に保守合同を呼びかけた。民主党と自由党の保守合同協議は総裁問題で難航したが、総理は鳩山、総裁は鳩山、緒方、三木、大野の4人を代行委員とすることで妥協が成立し、昭和30年11月15日、保守勢力を結集した自由民主党が発足した。松野は参議院自民党議員会長になった。

 1956年(昭和31年)1月、次期首相間違いなしと言われた自民党総裁代行委員の緒方竹虎が急死した。三木、大野両代行委員と岸幹事長、石井光次郎総務会長が協議した結果、緒方に代わる総裁代行委員に松野を決定した。緒方の死去で鳩山首相の対抗馬がいなくなったため、自民党は4月5日の党大会で鳩山を正式に初代総裁に選出した。この直前の4月3日、松野鶴平は第4代参議院議長に当選した。緑風会出身の河井弥八議長が同年7月の改選を控えて「選挙準備に専念したい」と突如辞意表明をした結果であった。
 参議院議長は初代が松平恒雄、第2代が佐藤尚武、第3代が河井でいずれも緑風会出身であった。松野議長の誕生は保守合同と左右社会党の統一で参議院でも政党化が急速に進み、「参議院の良識」を代表していた緑風会が凋落しつつあることの象徴であった。松野が議長になったばかりの第24通常国会は自民党と社会党が激突して参議院では新教育委員会法案をめぐって会期末に乱闘騒ぎの大混乱が起きた。

 自治体の教育委員会を公選制から任命制に改めるこの法案は鳩山内閣の目玉政策の一つで、すでに小選挙区制法案の成立断念に追い込まれた自民党執行部は何が何でも成立させる意気込みを見せた。社会党は日教組の突き上げを受けて実力で成立を阻止する構えをとった。本会議採決の攻防が始まると社会党の議員・秘書団が議長室を取り囲み、松野議長は軟禁状態になった。ようやく本会議を開いて議長席に座っても社会党議員が殺到して議事妨害を行い、隣の事務総長が負傷する事態も起きた。

 徹夜国会になり、71歳の松野議長は体力の限界に達した。混乱した議場の秩序を回復するため、松野議長は自民党執行部の要請を入れて参議院では初めて警官隊の導入を決断した。2泊3日の徹夜攻防の末に新教育委員会法は緑風会も賛成して賛成143、反対69で可決・成立した。自民党の岸幹事長が議長室を訪れ、松野議長と抱き合って喜ぶ場面が見られた。

 昭和31年7月の参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を維持し、さらに保守系議員を糾合して過半数を確保した。社会党も憲法改正阻止に必要な3分の1の議席を確保した。これにより参議院に一定の平和と秩序が訪れた。選挙後、松野は議長に再選され、翌昭和32年1月の通常国会再開の際、自民党と社会党は衆参両院で国会正常化を申し合わせた。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板