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近現代史綜合スレ

1093とはずがたり:2017/09/05(火) 20:26:58
>マッカーサーを尊敬するニクソンは、GHQ民政言長だったコートニー・ホイットニーを通じてホテルの自室に招かれ、その後何度も教えを請うた。>>1092
だそうだがアイゼンハワーは少なくとも後年はマッカーサーを評価してなかった様だし耄碌してまともな戦略を描けなくなった様だ。。

ダグラス・マッカーサー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC

退任

1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイントに自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ[注釈 13]」と述べ、有名になった。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨークのマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まってマッカーサーを祝福した。その日ビルから降り注いだ紙吹雪やテープは、清掃局の報告によれば2,859トンにもなった。また、1942年にマッカーサーがコレヒドールで孤軍奮闘し国民的人気を博していた時に、コーンパイプやマッカーサーを模したジョッキなどのキャラクターグッズで儲けた業者が、また大量のマッカーサー・グッズを販売したが、飛ぶように売れた。住居としていたマンハッタンの高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」のスイートルームには15万通の手紙と2万通の電報と毎日3,000件の電話が殺到し、家族にも各界から膨大な数のプレゼントが送られてくるほど、マッカーサーの国民的人気は頂点に達した[212]。

5月3日から、マッカーサーにとって最後の公務となる、上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」と「極東の軍事情勢」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマンら民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーとの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン政権側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙にトルーマンとマッカーサーによるトラック島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと自分は言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している[213]。この記事により、マッカーサーの国民的人気を背景にした勢いは削がれていた。


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