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近現代史綜合スレ

663名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:42
>>662

「自衛隊は軍隊ではない」という主張
 なお、鳩山は自衛隊の存在は違憲であり、だからこそ憲法改正が必要だと主張し続けたのだが、吉田は、朝鮮戦争が起きてGHQの要請で警察予備隊が発足し、それが保安隊になり、自衛隊となっても「再軍備反対」の姿勢を変えなかった。

 『回想十年』第二巻の中で、「一体、私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい」と言い切り、その理由を三つ挙げている。

 「米国はその戦勝の余威を以て、且つまた世界に比類なき富を以て、あの巨大な軍備を築き上げたもので、他の国があれに匹敵し得る軍備を持つということになれば、それこそ大へんな負担であり、仮りにその負担に堪え得るとしても、あれだけの費用をかけてさえ、果して今日の米国の如き進歩した高度の武装を実現し得るや否やは疑問とされるそうである。況んや、敗戦日本が如何に頑張ってみても、到底望み得べきことではない。これが私が再軍備に反対する理由の第一である。

 第二に国民思想の実情からいって、再軍備の背景たるべき心理的基盤が全く失われている。第三に、理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っておって、その処理の未だ終らざるものが多い」

 そして、警察予備隊が、保安隊、自衛隊となっても、吉田は「戦力ではない」と言い切り、憲法改正には否定的であった。

 ところで、鳩山一郎は51年8月5日に追放を解除されたのだが、その5、6日前に脳溢血で倒れた。68歳であった。

 追放解除が近いという空気になり、音羽の鳩山邸に、三木武吉、安藤正純、大野伴睦、石井光次郎などが集まって、鳩山の追放解除後の政治活動を論議していた。安藤たちは自由党復帰を提案した。三木は断固として、新党結成を主張し、鳩山も三木の説を強く支持した。激論となり、鳩山は途中でトイレに立って、そこで倒れたのである。

 鳩山の再起を賭けた闘病生活がはじまった。

 そして51年9月8日、サンフランシスコ講和条約調印が行われた。日本は独立したのである。吉田は講和条約と、その日の午後に結ばれた日米安全保障条約とに調印した。両条約が発効するのは52年4月である。


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