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近現代史綜合スレ

1とはずがたり:2004/01/15(木) 18:45
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/zinbutu.htm
近代史の人物に関するデータベース

http://sound.jp/jyosyuu/gunkayougokaisetu.htm
軍歌用語解説

戦後政治史ファン倶楽部
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/7643/index.html

吸収したスレは>>2-6あたり。

1124とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:18
宗教よりこっちだな。

「潜伏キリシタン」世界遺産へ…日本人がしがちな誤解を解いておこう
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180701-00056354-gendaibiz-bus_all&p=1
7/1(日) 13:00配信 現代ビジネス

大浦天主堂を建てたのは誰か?
 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産への登録が決定された。

 ニュース映像では、たびたび教会の映像が流れていた。大浦天主堂や黒島天主堂である。

 見逃しそうなところだけれど、しかし考えてみると、奇妙な取り合わせである。

 「潜伏キリシタン」はキリスト教徒であることを隠し、「潜伏」していたから(表面上は仏教徒であったから)潜伏(隠れ)キリシタンなのであって、その文化に「どこから見てもキリスト教の象徴」である教会は存在しないはずだ。

 日本独自の文化である潜伏キリシタンと、大浦天主堂は、本来は直接関係がない。大浦天主堂は潜伏キリシタンが建てたものではない。

 しかしニュース映像では、教会を映したいのだろう。日本人が見たときに、あ、キリスト教徒の文化が登録されるのだ、とわかりやすい。

 大浦天主堂は、フランス人が自分たちのために長崎に建てた教会堂である。

 建てられたのは元治2年(1865年)だから明治マイナス3年、つまり3年後が明治元年になるという、幕末ぎりぎりの建立である。

 日本人が、キリスト教を信仰するのは犯罪だった時代だから、日本人信者のための教会ではない。

 ただ、建立してまもなく、浦上村の潜伏キリシタンがここを訪れ、自分たちもカトリック教徒である、とフランス人神父に告白した。そういう「隠れ(潜伏)信徒の発見」の場所であるため、今回の「潜伏キリシタン遺産」に入っている。

 しかし、その告白が遠因となったのだろう、しばらく経ってから浦上村の潜伏キリシタンはそれまでの埋葬方法を拒否した。つまりキリスト教方式による埋葬を自分たちでやろうとしたのだ。

 残念ながら、フランス人の教会が建立されようと、日本人のキリスト教信仰は犯罪である。幕府に通報され、浦上村の信者は大量検挙され、やがて流刑になり、流刑先で多くの信者が死んだ。

 浦上四番崩れ、と呼ばれる事件である。

 浦上村の史上四回目の信者摘発、という意味の呼称である。つまり江戸期を通して、それまで三度、同様の摘発があったのだ。

本部からの「勧告」
 教会堂として単体で登録されるのは、この大浦天主堂だけである。

 他のものは「長崎の教会群」で申請されたときは却下され、周辺の「潜伏キリシタン施設」を含めたものとして、つまり風景の一部として、申請しなおされたものである。

 そういう教会には以下のものがある(カッコ内は建設完成年)。

 黒島天主堂(1902年。初期建立は1878年)
旧五輪教会堂(1881年のものを1931年に移築)
旧野首教会(1908年。初期建立は1882年)
出津天主堂(1909年。初期建立は1882年)
大野教会堂(1893年)
頭ケ島天主堂(1919年)

1125とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:29

 もっとも古いものが、久賀島の五輪教会堂1881年建立であるが、それはこの島の入り口に近い浜脇地区に建てられた教会を、1931年(昭和6年)に五輪地区の山のエリアに移築したものである。

 ここへはいまだにクルマで行けないらしい。最後は山道を10分ほど歩くため、雨天やその直後には到達困難との案内がある(それで世界遺産として大丈夫なのかしら、とちょっと心配ですが)。

 たしかに他の教会に比べると、日本家屋のような建築で、西洋建築が本格化する前の、土着の教会という雰囲気がある。潜伏キリシタン時代に近い感じがしている。でも、潜伏キリシタンの施設ではない。

 ほかの施設は明治の後半から大正時代に建てられたもので、西洋建築が流行していた時代の立派な教会堂である。

 なかでも黒島天主堂が象徴的存在なので、ここもニュースで映されていた。

 立派な西洋建築で、威風堂々という印象を持った。

 でも「潜伏キリシタン」(関連)施設として紹介されているのは違和感がある。映像だけを見たとき、一瞬、ここはキリシタンが繋がれた牢獄かなんかだったのか、と奇妙な連想をしてしまった。キリスト教信仰が犯罪だった時代は、見つかれば牢獄に繋がれてたわけだから。

 最初、長崎の古い教会群を世界遺産に申請していたのが、潜伏キリシタン施設に限って申請しなさい、と勧告されたのは、そこに日本の独自性があるからで、その勧告の意味はすごくわかる。

 ただ、残念ながら「潜伏」の文化である。キリスト教徒であることが外側からわかってはいけない文化だ。

 隠れていた人たちの文化遺産というのは、犯罪者が仕方なく残した証拠のようなもので(実際にキリストを祀る道具が見つかれば犯罪者として捕縛される状況だから、比喩ではない)、人を圧倒するようなビジュアルを持っていない。

 言ってしまえば地味である。

 その背後にある精神史まで見ないと、感得できない遺産であり、おそらく指示した本部はそういう意味合いを持たせていたのだろう。

 しかし、残念ながら、日本人にはあまり“キリスト教文化理解の基盤”がないようにおもう。

 クリスマス歴史の新書(『愛と狂瀾のメリークリスマス』)を書くために日本のキリスト教史を調べて以来、とても強く感じていることである。

潜伏か、隠れか
 そもそも「潜伏キリシタン」という言葉にあまり馴染みがない。今回の世界遺産報道で初耳という人もいるだろう。

 ふつう「隠れキリシタン」と呼ばれている。

 「鎖国」が「海禁」とされているのと同じく、歴史の視点を変えて、それに沿って歴史用語も変えていくようである。ただ、この変換が「新しい発見によっていままでの概念では通用しなくなったから」ではないように見える。

 『潜伏キリシタン』(大橋幸泰=著、2014年刊)の説明によると、こういうものである(ちなみに当書は新しい知見に満ちた刺激的な好著である)。

 隠れるように活動していたことは事実なので、江戸時代のキリシタンを“隠れキリシタン”と呼ぶことが直ちに誤りだとはいえないが、「潜伏キリシタン」の呼称を使うのは、明治時代以降、禁教が解除されていったにもかかわらず、隠れるように活動していた近現代のキリシタン継承者との差異を意識するためである。江戸時代のほうはむしろ潜伏状態にあった、というのがもっとも事実に近い。

1126とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:41

 つまり、完全な禁教下で、見つかれば殺される(つまり犯罪者として死刑になる)可能性の高い時代の信仰を「潜伏」、表立った禁教が解かれた時期以降、それでも隠れて活動していたキリシタンを「隠れ」と分けているのである。一瞬、なるほどと納得してしまうが、しかし日本語として考えてみるとよくわからない。

 「隠れ」と「潜伏」の使い方の差異が明確ではない。

 そもそも「犯罪を犯した者の長期逃亡」を必ず「潜伏」というわけではない。

 「彼は隠れている」
「彼は潜伏している」

 この二文の違いをどう感じるかという問題である。

 たしかに潜伏のほうが、やや強めな印象を受けるが、あくまで印象でしかない。どちらも自分の意志で身を隠しているという意味に取れる。外的な要因によってやむなく、という意味が、どちらかに必ず含まれているわけではない。

 わかりにくい。

 しかし学術用語を決める権利は学者にあるのだがら、学者がそういう意味で使っているなら従うしかない。

 ただ、「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」の意味の違いは、通常日本語の範疇ではわかりにくいのはたしかである。あまりセンスのいい言い換えではない。

明治政府もキリスト教を禁じていた?
 「潜伏キリシタン遺産」はいくつも登録されており、かなりの長い期間にわたる遺産が並ぶ。

 ただ、じつは「日本ではいつ、キリスト教の禁教は解かれたのか」というポイントがはっきりしておらず、少しわかりにくくなっている。禁教時代の終わりが明確ではないのだ。

 「徳川幕府が倒れて、明治になったらキリスト教は許されたんじゃないの」、とざっくり考えている人もいるだろう。でもそれは違う。

 明治新政府は、べつだん開明的な存在ではなかった。

 古い徳川政府から新しい明治政府になって世の中がすべてよくなった、というのは、明治政府自身がしきりに流し続けた政治的プロパガンダであり、現実はかなり違う。

 明治新政府は、キリスト教は禁教のまま、その信者は強く弾圧した。

 政府発足当初は、仏教さえも外来宗教として扱い、神仏分離令を出して、全国の寺々の仏像が壊された時代を作った政府である(その廃仏毀釈の騒動はわりと早々におさまったが)。キリスト教信仰など認めるわけがない。

 五箇条の御誓文とほぼ同時期に「五榜の掲示」を布告し、キリスト教禁止を明確に打ち出している。

キリスト教は「解禁」されていない
 秀吉が1587年に布告した伴天連追放令に始まったキリスト教禁教の流れは、徳川幕府も継承し、1610年代に禁教令を次々と出し、1637年の島原の乱以降、国内のキリスト教徒を一掃する政策を打ち出した(俗に鎖国政策と呼ばれる「キリスト教徒の殲滅施策」である)。

 明治政府もその流れを継承した。

 キリスト教信仰は引き続き禁止。

 ただ、徳川時代とは状況がかなり違う。

 なにせ、横浜や築地あたりに限られるにしろ、異人さんがそこにいるのである。

 キリスト教徒が我が物顔で歩いてる時代のキリスト教禁教は、それまでと変わらざるをえない。

 またキリスト教を信じる日本人を捕縛し、牢に放り込んでいるのを知った西洋列強は、強く非難しはじめた。欧米を歴訪している政府高官たちから、キリスト教禁止を緩めないと、条約改正がうまくいかないと報告もあり、政府も譲歩していく。

 しかし明確に「これから日本人がキリスト教を信じても、罪とはしません」と国民に向かって明言したことはついになかった。ずっと「黙許」でしかない。

 日本のキリスト教に多くの人が興味ないのはしかたがないことであるが、そのポイントだけは押さえておいてほしい。

1127とはずがたり:2018/07/04(水) 18:46:58

 「明治政府は発足時に「キリスト教信仰は禁止」と明言したあと、その禁止を取り消すことは一度もなかった」

 つまりキリスト教信仰解禁の年、というのは、政府の公式発表を追う限り、日本史上、存在していないのである。

 今回の潜伏キリシタン世界遺産への報道では、「1873年にキリスト教解禁」という文字が見えた。

 どうやら、それが歴史的事実という認識があるようだ。

 残念ながら、錯誤である、というしかない。世界キリスト教史に、わざと錯誤されるように流された情報であり、日本史としては、間違っている、というべき事項である。

 少なくとも「解禁」という事実はない(日本人がなぜ、日本史側から追わないで、世界キリスト教史から追おうとするのか、その態度も問題だとおもうが)。

7/1(日) 13:00配信 現代ビジネス
明治政府の公式見解
 1873年の解禁と言われるのは「五榜の掲示の撤去」のことである。

 「五榜の掲示」は明治政府の民衆への五つの禁令である。

 「五輪の道の遵守」「徒党して強訴や逃散することの禁止」「切支丹邪宗門の禁止」「攘夷行為の禁止(外国人への暴力禁止)」「郷村からの逃散禁止」

 これは新政府樹立のとき(戊辰戦争の真っ最中)に打ち出された新政府の禁令である。徳川時代と同じく、高札に書かれ、辻々に立てられた。

 この五榜の掲示の立て札が1873年(明治6年)に撤去されたのだ。

 各キリスト教国は、これにて日本国はキリスト教信仰を認めたとして、自国へ打電した。

 しかし、明治政府の見解は違う。

 この撤去のあと、イギリスの新聞が「日本政府はキリスト教徒を処罰する法典を廃棄した」と報じたのを見た外務省が驚き、太政官政府にこれは本当なのかと問い質した。 

 政府の回答は「高札の文面は人民があまねく熟知したので、取り除いたまでである。もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」というものであった。

 高札での告知では、これからあらゆる分野の新法典を公布していくのに追いつかないので、告知スタイルを変えただけで、書かれた内容は今後も続行である、というのが、政府が行政機関に告知した内容である。

 これが明治政府の公式見解だというしかない。

 1873年の日本政府には「もとよりキリスト教を黙許するという意思はない」のである。

ひねり出された苦肉の策
 じつは、明治政府がとった立場はダブルスタンダードだった。

 外国に対する態度と、日本人に対する態度を変えていたのだ。

 簡単に言えば「日本人に向かってはキリスト教信仰は禁止」「外国人に向かっては、キリスト教に対して宥和的態度をとりはじめたかも、と勝手に誤解したとしても、敢えて否定しない」という面倒な両面である。

 日本の国際的な評判を落とさないための苦肉の策である。

 五榜の掲示を撤去したことによって、キリスト教宥和に動き始めたと勝手に誤解した外国人たちは、あえてそのままにしておいた。それは違う、まだキリスト教信仰は許してない、とこちらから出向いて通告することはしなかった。それは世界相手に喧嘩を売るようなものだからだ。

 日本人に向けては、「日本人のキリスト教信仰は今後も認めない」という態度は崩していない。おそらく明治6年という時期に、日本人のキリスト教信仰を認める、などという衝撃的な発表をすると、日本国中が大きく動揺し、政府転覆勢力に利用される、という恐れを抱いたのだろう。

 理由はどうあれ、200年間、犯罪者だと指定していた切支丹をいきなり解き放つと聞かされたら、ふつうの庶民はただ驚いて怖がるだけである。思想的背景まで考えて喜ぶ庶民が多かったとはおもえない。だから切支丹禁制は継続である。

1128とはずがたり:2018/07/04(水) 18:47:15

 そういうダブルスタンダードである。

 国際的立場の弱い国の政府判断としては、しかたのないところだったのだろう。正論だけを通したり、本音をぶちまけてしまっては、政治は成り立たない。苦しい政治判断である。

 この前年、1872年(明治5年)には「自葬の禁止」を通達している。

 自葬の禁止というのは、仏式か神道式でしか埋葬をしてはいけないというものである。日本人のキリスト教式の埋葬は「自葬」とされ、たびたび捕縛されている。明治政府による明確なキリスト教信仰禁止(信仰は犯罪とする)という告知である。

 明治6年に、その自葬禁止の令は継続中である。

 日本人には、キリスト教信仰を許さず、目立つ布教などは取り締まっていた。

そして黙許へ
 1875年(明治8年)には、函館でのキリスト教布教が妨害されたので、イギリス領事が抗議したところ、外務卿(つまり外務大臣)寺島宗則はこう答えている。

 「耶蘇教(キリスト教)はいまもって我が政府の制禁するところであって、いまだこの制禁を廃したことはない」

 こうイギリス領事へ明言している。

 1875年になってもキリスト教信仰は「解禁」されたとはいえない。

 外務省のトップがそう通告し、それが記録として残っている。

 何度か、キリスト教解禁を告知すべし、とキリスト教国側から要求されたことがあるが、明治政府は絶対それに応じなかった。

 ついぞ「日本人のキリスト教信仰を認める」とは一度たりとも告知していない。

 ただ、取り締まらなくなっただけである。つまり黙許である。

 だから、日本国内でキリスト教信仰が許された年は、明確には特定できない。

 これが歴史事実に対する謙虚な態度だとおもう。

 あまりテレビで「1873年キリスト教解禁」という文字を出さないほうがいいとおもいます(インターネットや雑誌でもですけど)。

 それは、私たちは、自国日本のキリスト教の歴史についてさほど関心を持っていない、と表明しているようなものだ。キリスト教徒に対して優しい気持ちで言っているようでいて、じつは真逆の態度になっている。

大日本国憲法下の「信教の自由」
 「自葬の禁止」は1884年(明治17年)に規制が解かれる。

 人種や宗旨にかかわらず、その土地で死んだ者(およびその土地に本籍を持つ者)は、そこに埋葬していい、ということになった。

 地味な政令であるが、これがかなりわかりやすいキリスト教信仰“黙許”の政令である。ひとこともキリスト教に触れてないが、そういうことである。1884年(明治17年)はひとつのわかりやすい黙許の転換点である。

 明治政府樹立当初の理念のひとつに「神道」を国の中心に置くことがあった(少なくとも狂信的にそれを目指す集団がいた)。

 しかしいくつかの挫折があり10年で諦めざるをえなくなった。

 その明治10年までは、政府首脳は(幕末の志士上がりの元勲たちは)、日本人のキリスト教信仰を認めるつもりはまったくなかったとおもわれる。あらたな宗教的理念を作り出そうとしているときに、そんなものを解き放つわけがない。

 しかし神道国教化は失敗する。やがて民権運動も起こる。

 明治10年代(1877-1886)に入り、社会は別のタームへ入りだした。

 その状況で、キリスト教信仰は黙許されるようになったようだ。

 民衆レベルでは、キリシタンであると告白すると、かなりの差別を受けたようだが(ときに宣教師が暴力的に襲撃されることも起こった)、政府が弾圧することは、なくなっていく。

1129とはずがたり:2018/07/04(水) 18:47:41
>>1124-1129
 1889年発布の大日本国憲法には信教の自由の条文がある。

 キリスト教信者である、ということだけで、捕縛され処刑される可能性は低くなった。

 「なくなった」のではなく「低くなった」というのは、この信教の自由の条文には留保事項があるからだ。

 「安寧秩序を妨げす及び臣民たるの義務に背かざる限において」信教の自由を有す、とされている。日本国の安寧秩序を妨げたり、臣民の義務に背くような宗教であれば、断固、取り締まるというもので、そこにはキリスト教徒を想定しているようにおもえる。

 明治政府の立場からじっくり見ると、常にキリスト教信仰は警戒されており、国家安寧の敵になる可能性を秘めていると見なされていただろう。

日本人とキリスト教の距離感
 今回の世界遺産には、各時代の遺産が登録されている。

 鎖国以前の島原の乱の戦場である「原城跡」がもっとも歴史的に古い。ただ、この時代のキリシタンは「棄教しなかった者たち」であり、潜伏キリシタンとは少し違う。

 鎖国時代(1639年から1853年)が、まさに潜伏キリシタンの時代である。この時代の遺物を中心にキリスト教遺産が選ばれている。しかし、見た目は地味である。

 たぶんその地味さゆえに、幕末開国期(1853年から1867年)、明治禁教期(始まりは1868年、終息は1880年代から1890年代)の「西洋ものらしい文物」が取り入れられている。わかりやすくいえば「古い教会堂」である。

 目立つアイコンが欲しいからだろう。

 おそらく、どこまで行っても、キリスト教文化は日本人にとって異文化なのだ。

 観光施設の目玉としてシンボリックな「教会群」を何とか入れたい。

 ただそうしたことによって「潜伏キリシタンの遺産」というイメージがわかりにくくなってしまった。繰り返しになるが、潜伏と教会は、基本、両立しない。

 そのあたりは、世界遺産センターの指示と、地元の思惑とが、少し行き違っている感じがする。

 世界の視点から見れば、「日本のキリスト教文化」というのは、あまりめぼしいものがない。世界的に見て、キリスト教信者がおっそろしく少ない国である。比較のうえなら、ほぼ信者がいない、と言ってもいいくらいだ(信者が全人口の1%に満たない)。

 そんな国においては、国内的視点で見れば、150年前から存在している教会堂群は、とても珍しく、保存して残し、また多くの人に見てもらって、観光資材としたいものだろう。

 しかしそれは「キリスト教徒のほとんどいない日本」だからこその感覚である。

 日本の神社もキリスト教施設と変わらない古さを持っている。2000年レベルで存在する神社たちのなかで、「明治になってから創建された神社群」だけを歴史遺産として保護しようという申請があったら「それに意味はないと言わないけど、それ以前にもっと守るべき古い神社があるんじゃないですか」と指摘されそうだ。

 世界レベルで見れば、日本の教会群は、そういう「最近できたもの」グループに入るはずである。

 世界遺産なんだから、世界レベルで判断するしかない。

 2000年近くに及ぶキリスト教文化とその遺産を持つ人たちから見れば、「日本にしか見られないキリスト教文化の特徴」は「200年を越えた国を挙げての徹底した禁教時代に、それでも信仰を守り続けた潜伏キリシタンという凄まじい土俗の力」にしかないのである。

 今回の指摘はそういう意味を持つと私はおもっている。

 世界で共有できる独特の遺産は、おそらくその「精神性」にある。

 ただ日本人は、あまりそういうことを想像しない。

 一部の人をのぞき、日本でのキリスト教の活動に、あまり興味を持っていないようにおもう。

 キリスト教施設は、いつも「エキゾチックでロマンチックで荘厳」という気分で捉えられている。

 おそらく世界遺産センターは、日本人のそういう気分を見抜いて「自国向けの視点ではなく、きちんと世界向けの視点を持ちなさい」という意味で、潜伏キリシタンに焦点を当てよ、と指導してきたのだろう。教育的指導である。

 日本人が自力でその視点を持つのは、なかなかむずかしいのだ。

 日本にとって、どこまでもキリスト教文化は異文化である。

 ひょっとしたら「日本」があり続けるかぎり、そうなのかもしれない、とあらためておもう。

堀井 憲一郎


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