したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

近現代史綜合スレ

662名無しさん:2015/10/10(土) 23:31:15
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151010-00045700-gendaibiz-pol
自民党「憲法改正」の系譜〜吉田茂・鳩山一郎・岸信介、それぞれの憲法観 「戦後レジームの正体」第7回(前編)
現代ビジネス 10月10日(土)11時1分配信

鳩山一郎の改憲論
 1952(昭和27)年9月12日、鳩山一郎は日比谷公会堂で政界復帰の第一声の演説を行った。憲法改正と、ソ連との国交回復交渉を訴えたのである。

 ――憲法はいうまでもなく独立国が拠って立つ根本法である。ところが現在の憲法は占拠下に占領軍の手によってつくられたものであり、しかも非武装が前提になっている。平和を追求するためには自衛の軍備を持つ必要がある。

 吉田茂首相は戦力は持たないと言っているが、保安隊(後の自衛隊)がある。これはあきらかに戦力であり、この大矛盾を解消するには憲法改正が必要である――。

 これが鳩山の強い主張であった。吉田茂首相はその矛盾をごまかしているのだというわけだ。

 さらに、東西冷戦が厳しくなってきて、米ソ戦争が始まれば、このままでは日本は戦場になってしまう。ソ連はアメリカの基地がある日本を攻撃する。だから、ソ連との国交をなるべく早く正常化すべきだというのである。

 当時シベリアには4万人以上の日本人が抑留されていた。このことも重大な問題になっていた。

鳩山一郎と吉田茂の食い違う「記憶」
 ところで鳩山一郎は戦前から穏健派の政治家であった。そして戦後に自由党(結党時は日本自由党)を結成してその総裁となり、敗戦の翌年1946(昭和21)年4月10日の第1回総選挙で、自由党は141議席(進歩党94、社会党93)を獲得して第1党となった。

 そこで鳩山が首相になることになったのだが、その直前にGHQが鳩山は公職追放令に該当すると政府に通達した。

 鳩山が戦前に自著でヒトラーを礼賛したことや、文相時代に京都帝国大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授の辞任要求をしたことなどが原因だとされたが、鳩山自身は、総選挙を前にして厳しい共産主義批判をしたことがソ連の横槍となり、GHQに睨まれたと捉えていたようだ。

 そして、幣原喜重郎内閣の外相だった吉田茂を口説いて首相にした。鳩山は、その事情を『鳩山一郎回顧録』(文藝春秋新社)で次のように書いている。

 「吉田君が総裁を引受けることになった時、四ヵ条かの書いたものを向うから持って来た。この書いたものはその後何うなったか、紛失してしまったが、あの時二人でこんな話をした。自分は政党のことは全く関係がなくて分らんから、政党の人事については一切君の方でやってくれなきゃ困る。政党は一切君の力で押えてくれ。但し内閣の人事については干渉してくれるな――とこう吉田君が私に話した。

 又吉田君は自分は金はないし、金作りも出来ない。金の心配は君の方でやってくれなきゃ困る。俺は辞めたくなったら何時でも辞めるんだ。君のパージが解けたら直ぐ君にやって貰う、とこういって吉田君はこれを四ヵ条に書いて私のところに持って来た」

 吉田茂も『回想十年』(新潮社)の第一巻で、「鳩山君を麻布市兵衛町の外務大臣官邸に呼んで、最後の話し合いをした。私はそのとき、三つの条件を出した」と明かしている。

 「金はないし、金作りもしないこと、閣僚の選定には君は口出しをしないこと。それから嫌になったら何時でも投げ出すことの三点であった」

 これが三つの条件であり、「パージが解けたら直ぐ君(鳩山)にやって貰う」という項目は吉田の『回想十年』には入っていないのである。

 もっとも吉田は「長くやろうという気はなかった」と書いているのだが、鳩山が1951(昭和26)年8月に追放解除になり、52年10月の総選挙で当選しても、吉田は権力の座を固守し続け、54年12月まで通算7年2ヵ月も首相の座に居続けた。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板