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近現代史綜合スレ

664名無しさん:2015/10/10(土) 23:32:17
>>663

権力の座に居座り続けた吉田茂
 鳩山の体調が回復すると、鳩山陣営の三木や河野一郎たちが、吉田側に、約束どおり政権を鳩山に渡せと執拗に迫った。

 だが、吉田は鳩山側の要求を拒否した。吉田は『回想十年』第一巻で次のように書いている。

 「鳩山君の病?よく独立再建の国務に堪え得るや、重責に堪ゆるの明かならざる限り、私として党総裁および総理大臣の重任に鳩山君を推挙するのは、情誼はともかく、総理大臣として無責任であると感じ、これを躊躇せざるを得なかった」

 建前はともかく、ホンネは獲得した権力を手放したくなかったのである。そして鳩山たち公職追放組が大量に政界に戻ってくることに大変危機感を募らせ、吉田は追放解除組の選挙準備が整わないうちに先手を打って総選挙を行った。

 そこで冒頭に記した日比谷公会堂での鳩山一郎の復帰第一声となったのである。

 鳩山は脳溢血の後遺症を抱えながらの選挙戦で、自由党ではあったが、反吉田、というより悲願は吉田首相打倒であり、主張は憲法改正と日ソ交渉であった。

 吉田は自衛隊は軍隊でないと言っているが、これはごまかしであって、あきらかに軍隊であり、それもしっかりした軍隊であらねばならない。そのために憲法改正が必要である――と、鳩山は吉田批判と憲法改正を直接的に結びつけた。

 選挙は熾烈な分裂選挙となり、自由党は240議席を獲得して過半数は握ったが、追放解除の反吉田派も大量に当選し、三木は鳩山グループの強硬派を集めて自由党内に反吉田の民主化同盟を結成した。

 そして翌53年、吉田の「バカヤロー」発言で、吉田内閣不信任案が出されると、民主化同盟の22人はこれに賛成したので不信任案は可決され、ふたたび総選挙となった。

 この総選挙以後、吉田支配体制は崩れ、さらに保全経済会事件や造船疑獄などの汚職事件で吉田内閣は末期症状を呈すようになった。

 一方鳩山の方も、分党派自由党を結成したり、かと思うと吉田の自由党に復党したりと試行錯誤を重ねるのだが、54年11月に、改進党、日本自由党(1953年結党のミニ政党)、自由党の反吉田グループという三派合同による日本民主党を結成した。所属議員数は衆院121人で、自由党の185人に迫る第二勢力となった。

 仕掛人は三木と、幹事長となった岸信介であった。ここで、鳩山を上回る強硬な憲法改正論を主張し続けた岸信介について記すことにする。


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