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近現代史綜合スレ

582名無しさん:2015/06/14(日) 13:27:32
http://blogos.com/article/115859/
幻冬舎plus2015年06月10日 06:00「日本人難民」という戦後史の闇第5回 - 日本人の難民がいたことを知っていますか?〈戦後70年を考える〉 - 井上卓弥

今から70年前、百万人にものぼると言われる日本人が、敗戦によって「難民」となり、中国大陸や朝鮮半島などで、過酷な生活を強いられました。その日本人難民をテーマにしたノンフィクション『満洲難民〜三八度線に阻まれた命 』(井上卓弥著)が刊行されました。
?本連載では、若い世代の方にはなかなか分かりにくい、終戦前後の日本をとりまく情勢の解説などもまじえながら、本の読みどころを5回にわたってご紹介します。

?郭山疎開隊をはじめ、大戦後の混乱のなかで朝鮮半島の北部に放置された日本人は、世界史のなかでもまれにみる悲惨な難民生活を強いられました。しかし、1949年に刊行されてベストセラーとなった『流れる星は生きている』(藤原てい著)などを除いて、これまでその史実が語られ、検証されることは、ほとんどありませんでした。
?本書の著者・井上卓弥さんは、戦争取材や難民取材など国際報道に携わったジャーナリストであり、また郭山疎開隊の「当事者」でもありました。

*?*?*

?この本に登場する井上寅吉と喜代の長女、泰子は、私の父で井上家の長男、昌平の姉である。つまり私にとって伯母になる。喜代は私の祖母にあたり、泰子にとって私は甥になる。伯母は結婚して長谷部姓となり、両親と同じく小、中学校の教壇に立った。退職後、戦後五十年にあたる一九九五年、手記『北朝鮮・郭山への墓標』を自費出版し、父母と私、三つ下の妹あてに一冊ずつ送ってくれた。私は当時、新聞社に入社して五年目だった。

?のちに知ったことだが、その手記は祖母、喜代が戦後間もない四七年に手書きの原稿用紙一〇〇枚にまとめて製本した『新京(満洲国)より終戦時北鮮に疎開して』を下敷きにして、伯母らの体験や思いが書き加えられていた。二〇〇五年には、父昌平が満洲に戻った一家の引き揚げまでの苦闘も含めて自伝『追想のわが来し方』を著した。

?父が保管していた祖母の手記とともに、父の半生記を読み終えた時、私は「当事者」になっていた。家族の歴史を何らかのかたちで残すことは、八五歳になる伯母との二十年越しの約束になっていたのかもしれない。

?日本に引き揚げてから建てた家の庭に、祖父母は離れをつくり、近所の子どもたちを集めて小さな書道教室をはじめた。私と妹も習いに行ったが、教室での祖母は厳しい先生だった。常に身近にいた祖母と祖父は、私が高校在学中の一九八一年に相次いでこの世を去った。孫の私に満洲や北朝鮮の話をすることはなかった。

?それだけに、伯母の手記で初めて知った飢餓地獄の事実は重かった。それなりに幸せに暮らしている自分の家族は半世紀ほど前にこんな恐ろしい体験をし、それでも何とか命をつないで日本に帰ってきていた。叔父にあたる末弟は満洲の地で亡くなった。もし父が同じような目に遭っていたら、私たちきょうだいはこの世に生まれて来なかった。

?その後、国際報道に携わった私は、紛争や難民受け入れの現場に立つ機会を得た。最初は九九年、旧ユーゴスラビア・コソボ紛争のアルバニア系難民の取材だった。国境を越えて隣国アルバニアに逃れてくる難民の姿が、半世紀前の家族に重なって見えた。しかし、近年に至るまで、先の大戦に伴って満洲から北朝鮮に疎開した日本人の記録はほとんど見当たらなかった。日頃の大々的な難民報道に比べても、明らかに悲惨な状況に置かれた北朝鮮の日本人難民たちの証言がなぜ表に出て来ないのかと、もどかしい思いにとらわれた。

?二〇一〇年代に入ると、当時を知る人々が次々に亡くなりはじめた。政治・外交交渉に期待を見いだせず、民間の独自ルートを通じて北朝鮮への墓参が動きだした。


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