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近現代史綜合スレ

617名無しさん:2015/08/15(土) 21:13:00
>>616

近衛新体制の末路
 日本は日本的なファシズム体制をめざす。日本的とはいっても、ファシズム体制である以上、大衆に支持される「独裁者」が必要だった。日本の場合、その「独裁者」は近衛以外に見当たらない。本章1節(→こちら)でふれたように、近衛は三度、政権の座に就くことになる。

 近衛に対する大衆の期待は変わることがなかった。「近衛氏のほかに、人なしとして、同氏にだけ、のぞみをつないでいるというありさま」だった(筒井清忠『近衛文麿』)。

 その近衛は第二次組閣に際してのラジオ放送において、政府と国民が一体となって社会の平準化(より正確には戦時下における下方平準化)をめざすべきことを訴えた。

 「国民の全部が皆私心を去り、一面積極的増産に力を致すと共に、他方大節約に努めなければならない。/凡そ奢侈逸楽を事として興隆せる国家は未だ曽て之を見ない。政府に於ても予算に出来るだけ削減を加え、不急を除き、冗費を節したい」(1940〈昭和15〉年7月23日放送)。

 大衆が支持したのは、近衛の下での社会の下方平準化だった。

 新体制の確立をめざす近衛を勇気づけたのは欧州情勢である。ヒトラーの電撃戦の成功は欧州新体制をもたらしつつあるようにみえた。近衛にとってヒトラーのドイツは、近衛の「弱い性格」を補完する。仮装パーティでヒトラーに扮した近衛の写真がある。この写真は近衛の二面性を示唆する。

 一方では近衛はヒトラーを揶揄しないではいられなかっただろう。ヒトラーの出自と野蛮な暴力主義の権力奪取の手法は、近衛とは相容れないところがあった。他方では、ヒトラーの存在は近衛の決断力不足、優柔不断さの心理的補償作用となった。

 近衛がめざしたのは、そのヒトラー(とムッソリーニ)との三国同盟による国際新体制およびこの国際新体制と連動する国内新体制の確立だった。

 近衛にとっての国内新体制とは、ナチズム体制に類似した一国一党体制のことである。しかしこの国家路線を追求する過程で、近衛は帝国憲法の改正という難問に直面する。憲法改正をためらった近衛が作ったのは大政翼賛会だった。大政翼賛会は、一国一党体制とはほど遠い、諸政治勢力の寄せ集めにすぎなかった。

 他方で国際新体制に関しても、元老西園寺がさきの近衛のラジオ放送を評して「実にパラドックスに充ちていた」と述べたように、三国同盟と日米関係の調整を両立するのは困難だった。三国同盟は近衛の主観的な意図とは異なり、客観的な結果としてはアメリカに対日戦争の覚悟を固めさせることになったからである。第三次近衛内閣は総辞職する。

 それでも写真壁新聞の1941(昭和16)年10月28日号は「大活躍の我が野村駐米大使」との記事において、ワシントンで対米交渉をつづける野村(吉三郎)大使の写真を掲載している。依然として政府は、国民に対米国交調整の努力を伝えていた。

 しかし日米交渉は不調に終わる。政党内閣崩壊後、残されたほとんど唯一の切り札だった近衛を失った日本に真の危機が迫っていた。

 (了)

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井上 寿一(いのうえ・としかず)
1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程などを経て、現在、学習院大学法学部教授。法学博士。専攻は日本政治外交 史。主な著書に『危機のなかの協調外交』(山川出版社、吉田茂賞)、『日中戦争下の日本』(講談社選書メチエ)、『昭和史の逆説』(新潮新書)、『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)、『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)がある。
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井上寿一


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