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近現代史綜合スレ

1209荷主研究者:2020/09/23(水) 22:29:27

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/451526?rct=n_hokkaido
2020年08/19 05:00 北海道新聞
戦争遺跡保存の動きなく 旧日本軍沼ノ端飛行場の掩体壕跡 「歴史の証し失う」 住民懸念

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido01.JPG
沼ノ端飛行場の掩体壕の跡地。コの字形の盛り土は木々に溶け込み、小高い土手のように見える=2019年11月(藤原康成さん提供)

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20200819hokkaido02.JPG

 人口増が続き、住宅が立ち並ぶ苫小牧市沼ノ端地区には太平洋戦争中、広大な旧日本軍の沼ノ端飛行場があった。終戦から75年、飛行場の痕跡は開発で消え、現在確認されているのは戦闘機を格納する掩体壕(えんたいごう)跡が1カ所のみだ。行政側には保存に向けた動きはなく、一部住民からは「このままでは貴重な戦争遺跡が失われてしまう」と懸念の声も上がる。

 市沼ノ端のJR日高線沿いの国有地に一辺25メートル前後のコの字形をした、高さ数メートルの盛り土がある。現存する唯一の沼ノ端飛行場の掩体壕跡。戦時中はネットなどで上部を覆い、戦闘機を隠したとの話も伝わる。ただ、ここがそうした戦跡であることの案内板や説明文などは見当たらない。

 「開発されにくい場所にあるため、残ったと思う。ただ、草木が生えて今は人工物だと分かりづらい」。戦争遺跡に詳しい勇武津資料館の藤原康成学芸員(63)は、こう説明する。7年前には2基が確認されていたが、1基はその後、工場建設でなくなったという。「掩体壕は盛り土で、いつかはなくなってしまう。貴重な戦争遺跡を保存したい」と危機感をにじませる。

 沼ノ端飛行場は、現在の東開町や沼ノ端一帯に広がっていた。1943年(昭和18年)12月、旭川に司令部を置く陸軍第七師団が整備した。滑走路は1500メートル2本と1200メートル1本の計3本。兵器製造工場があった室蘭の防衛が目的で、住民も動員し、数カ月程度の突貫工事で完成させた。

 旧日本軍の掩体壕はコンクリート製が多いが、沼ノ端飛行場では土製で36基あった。戦闘機「隼(はやぶさ)」が一時配備されたが、戦況悪化に伴い、道外へ送られた。同飛行場からの出撃記録は45年7月14、15日の北海道空襲時を含め、ないという。

 沼ノ端生まれの不動産経営の星野邦夫さん(77)によると、飛行場は終戦直後、米軍が滑走路を爆破。残った掩体壕は冬場、子どもたちがスキーで遊んだという。昭和40年代から宅地造成が始まり、飛行場の痕跡は消えていった。

 星野さんは「戦争遺跡を残すのは正直難しい。ただ、忘れてはいけない歴史の証しが消えていくのもどうなのか」と歯がゆさをにじませる。

 戦争遺跡の保存に積極的な自治体もある。東京都府中市は2007年、旧陸軍の調布飛行場の掩体壕1基を市の文化財に指定した。年1回、内部を一般公開している。市の担当者は「文化財に指定したことで市民に周知され、平和について考えるきっかけになっていると思う」と話す。

 一方、苫小牧市教委は沼ノ端の掩体壕跡を把握しているものの、「負の遺産を残すことには賛否ある。市民の保存活動の動きもなく、市として保存に向けた検討はしていない」(生涯学習課)としている。(山田一輝)


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