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近現代史綜合スレ

705名無しさん:2015/11/02(月) 22:58:07
>>704

●肉親を殺害した日本兵への恨み

 「実は義兄は日本兵をひどく恨んでいた。1950年にジャングルに潜んでいた残留日本兵に弟と甥を殺されていたんです。殺され方もあまりに無残だった。銃殺されたり、ナタのような刃物で切り殺された。肉親を奪われた義兄の怒りはすさまじく、『絶対に犯人を捜し出してやる』とよく言っていたものです。それに2人の遺体は、横井さんを発見した場所の近くで見つかっていたんです」

 事実、横井さんが“容疑者”として疑われていたフシもある。

 グアムの警察当局は発見当初、横井さんが先の2人を殺害した可能性が否定できないとみていたようだ。殺人事件の再捜査を求めるか否か、警察はデグラシアさんの義母に問うてきたというのだ。

 これに対して、義母は警察の申し出を断ったうえでこう語ったという。

「遺体となってしまったが、子供は私のもとに帰ってきた。すでに犯人は許していますので、捜査をやり直す必要はありません」

 義母はカトリック信者として、残留日本兵もまた戦争の被害者で、責めることはできないという慈悲の精神を持っていた--デグラシアさんは義母の心情を代弁している。

 「日本兵も被害者」。日本兵に子供を殺された母親にそう言わせたグアム島の戦争とは、そもそもどんなものだったのか。

 太平洋戦争の主導権を米軍に握られていた1944年。サイパン島を攻略した米軍は7月21日、約5万5千人の兵力でグアム島に上陸した。

 グアム島は戦前、米国領だったが、開戦直後に日本軍に占領されていた。

 だが、6月に米軍はマリアナ沖海戦で日本海軍の機動部隊を壊滅させ、マリアナ諸島の制海権、制空権を奪取した。グアム島に残された約2万人の日本軍守備隊は、援軍や補給のない絶望的な戦いを強いられた。

 日本軍は7月25日、上陸した米軍に対してマンガン山から夜襲による総攻撃を試みるが、米軍の機銃掃射の前に次々に倒れ、3日後には司令官の高品彪中将が戦死する。

 生き残った日本軍は密林地帯に逃れて抵抗を試みるが、8月11日には小畑英良中将が大本営に向けて「己の身を以て、太平洋の防波堤たらん」とした決別の電報を打った後、叉木山(マタグアック)の地下壕で自決する。日本軍の組織的戦闘は終結し、米軍は全島を制圧した。

 日本軍は捕虜になることを厳しく禁じていたため、食料も武器もなく追い詰められた兵士には自決した者も多い。2万人いた日本兵のほとんどが二度と祖国の土を踏むことはなかった。追い詰められた日本兵が、現地住民を虐殺する事件も発生した。
 グアム島在住の日本人男性(50)はこう語る。

「私も30年ぐらい住んでいますが、いまだに高齢者から肉親が日本兵に殺された話を聞くことが多い。日本兵につけられた傷跡を見せてくる人もいます」

 島南部の密林に逃げた兵士のなかには、横井さんもいた。終戦後も投降を拒み続け、28年間、ジャングルのなかで自給自足の生活を続けることになる。

 日本軍が玉砕した叉木山は現在、「南太平洋戦没者慰霊公苑」として整備されている。日米両軍の戦没者を祭る慰霊塔が設置されているほか、敷地内の「平和寺」と書かれた建物には仏像も安置されている。ただ、日本軍兵士の鉄兜などの遺品が一部ガラスケースに展示してあるが、乱雑に置かれ、まったく手入れされていないようだ。

「以前に比べて訪れる人も少なくなってきています。駐グアム米軍が定期的に芝刈りを行っていますが、国営ではないので管理は不十分な状態です」(前出の日本人男性)

 一方、アサン湾の高台には現地住民と米軍の戦没者の追悼碑があった。現地住民は約1万6千人、米軍は約2500人の戦没者の一人ひとりの名前が金属製プレートに刻まれている。ところが、今年7月上旬には、一部のプレートが剥がされ、くず鉄として中国に輸出される事件も発生している。
 戦争の記憶は確実に薄らいできているのだ。


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