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近現代史綜合スレ
1125
:
とはずがたり
:2018/07/04(水) 18:46:29
もっとも古いものが、久賀島の五輪教会堂1881年建立であるが、それはこの島の入り口に近い浜脇地区に建てられた教会を、1931年(昭和6年)に五輪地区の山のエリアに移築したものである。
ここへはいまだにクルマで行けないらしい。最後は山道を10分ほど歩くため、雨天やその直後には到達困難との案内がある(それで世界遺産として大丈夫なのかしら、とちょっと心配ですが)。
たしかに他の教会に比べると、日本家屋のような建築で、西洋建築が本格化する前の、土着の教会という雰囲気がある。潜伏キリシタン時代に近い感じがしている。でも、潜伏キリシタンの施設ではない。
ほかの施設は明治の後半から大正時代に建てられたもので、西洋建築が流行していた時代の立派な教会堂である。
なかでも黒島天主堂が象徴的存在なので、ここもニュースで映されていた。
立派な西洋建築で、威風堂々という印象を持った。
でも「潜伏キリシタン」(関連)施設として紹介されているのは違和感がある。映像だけを見たとき、一瞬、ここはキリシタンが繋がれた牢獄かなんかだったのか、と奇妙な連想をしてしまった。キリスト教信仰が犯罪だった時代は、見つかれば牢獄に繋がれてたわけだから。
最初、長崎の古い教会群を世界遺産に申請していたのが、潜伏キリシタン施設に限って申請しなさい、と勧告されたのは、そこに日本の独自性があるからで、その勧告の意味はすごくわかる。
ただ、残念ながら「潜伏」の文化である。キリスト教徒であることが外側からわかってはいけない文化だ。
隠れていた人たちの文化遺産というのは、犯罪者が仕方なく残した証拠のようなもので(実際にキリストを祀る道具が見つかれば犯罪者として捕縛される状況だから、比喩ではない)、人を圧倒するようなビジュアルを持っていない。
言ってしまえば地味である。
その背後にある精神史まで見ないと、感得できない遺産であり、おそらく指示した本部はそういう意味合いを持たせていたのだろう。
しかし、残念ながら、日本人にはあまり“キリスト教文化理解の基盤”がないようにおもう。
クリスマス歴史の新書(『愛と狂瀾のメリークリスマス』)を書くために日本のキリスト教史を調べて以来、とても強く感じていることである。
潜伏か、隠れか
そもそも「潜伏キリシタン」という言葉にあまり馴染みがない。今回の世界遺産報道で初耳という人もいるだろう。
ふつう「隠れキリシタン」と呼ばれている。
「鎖国」が「海禁」とされているのと同じく、歴史の視点を変えて、それに沿って歴史用語も変えていくようである。ただ、この変換が「新しい発見によっていままでの概念では通用しなくなったから」ではないように見える。
『潜伏キリシタン』(大橋幸泰=著、2014年刊)の説明によると、こういうものである(ちなみに当書は新しい知見に満ちた刺激的な好著である)。
隠れるように活動していたことは事実なので、江戸時代のキリシタンを“隠れキリシタン”と呼ぶことが直ちに誤りだとはいえないが、「潜伏キリシタン」の呼称を使うのは、明治時代以降、禁教が解除されていったにもかかわらず、隠れるように活動していた近現代のキリシタン継承者との差異を意識するためである。江戸時代のほうはむしろ潜伏状態にあった、というのがもっとも事実に近い。
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