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近現代史綜合スレ

1233とはずがたり:2021/03/28(日) 12:17:57
和田 豊治
わだ とよじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E8%B1%8A%E6%B2%BB

生年月日 1861年12月19日
(文久元年11月18日)
出生地 日本の旗豊前国
没年月日 1924年3月4日(62歳没)
出身校 慶應義塾
前職 富士紡績社長
日華紡績社長
明治神宮奉賛会理事長
称号 従五位勲三等瑞宝章(1924年)
藍綬褒章(1911年)
日本の旗 貴族院議員
選挙区 貴族院勅選議員
在任期間 1922年 - 1924年

和田 豊治(わだ とよじ、1861年12月19日(文久元年11月18日) - 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の明治・大正期の財界人、貴族院勅選挙議員。富士紡績会社や理化学研究所など、創立に携わった会社は数十社を超え、渋沢栄一に続く大正時代の「財界世話人」として君臨した。

従五位勲三等瑞宝章(1924年)。藍綬褒章(1911年)。

人物

豊前国(現・大分県)生まれ。中津藩士・和田薫六の長男。

はじめ川端楊坪の塾で書を学び、次いで大久保逕造の塾で四書五経を修める。藩校・進脩館の後身校「中津市学校」に入学し、村上家に奇食して医者を目指す。上京し、小幡篤次郎の推薦で1882年(明治15年)に慶應義塾へ入学。明治17年(1884年)7月に慶應義塾を卒業して翌年に渡米し、甲斐織衛の商店や葉巻煙草製造所で職工として働く。

1891年(明治24年)に帰国し、日本郵船神戸支店へ入社したが翌年退社し、三井銀行を経て鐘淵紡績東京本店支配人に就任。欧州の先進技術を導入して同社の経営を立て直し、その功績により1911年(明治44年)に藍綬褒章を受けることになる[1]。 1893年(明治26年)から1900年(明治33年)まで中国に漫遊し、日清戦争や遼東還附、義和団の乱を見聞した。帰朝後の1901年(明治34年)に三井家を辞職し、富士紡績に身を移し、専務取締役となった。東洋協会評議員、南亜公司相談役となり、大正元年(1912年)にエジプトで行われた万国紡織聯合会に日本国代表者として出席。

1913年(大正2年)に東京商業会議所特別議員となり、日本興業銀行総裁を辞退、以来政府の国策政策に次々と関わるようになり、大正4年(1915年)正六位、同年に明治神宮奉賛会理事長。大正6年(1917年)日本郵船取締役、東洋製鐵会社取締役、翌年日華紡績会社社長。大正8年(1919年)輸出綿織物連合会組長、第一生命保険会社相談役。大正9年(1920年)日華実業協会副会長。大正10年(1921年)皇典研究所理事、同仁会理事に就任し、理化学研究所創立に奔走した。大正11年(1922年)貴族院勅選議員、日本経済連盟会常務理事、南洋協会副会頭、山東鉱業会社を創立し、中国を漫遊。南満州鉄道株式会社に入り社長に推されるも辞退。大正12年(1923年)には、山本内閣の下で帝都復興審議会委員(大臣待遇)として聘され、内務省社会局参与に就任した。大正13年(1924年)に多忙により健康を損ね、胃癌のため早世した。叙従五位勲三等瑞宝章。

「鴎会」を創立してよく中国を漫遊し、中国と日本の間の友好と相互的経済発展を促進したことでも知られる。ワシントン会議と期を同じくして、原敬内閣の下では、首相官邸で話し合いが行われ渋沢栄一以下、井上準之助、和田、藤山雷太、団琢磨の五人が発起人となって実業団を編成して「英米訪問実業団」が途についた。財界に大きな足跡を残し、渋沢敬三の晩酌人を務めた。渋沢栄一が財界から身を引いた後は、和田と井上準之助の二人が「財界世話役」としてこれを継がんとしたが、両君ともに他界してからは、政界と密接に癒着して頭角をあらわしてきた「番町会」のパトロン・郷誠之助がその座に就いた。

皇典講究所理事としては、國學院大學(当時皇典講究所が経営母体であった)の渋谷移転に尽力。皇典講究所・國學院大學の創立以来、校地に神殿がないことを遺憾とし、校庭に学神を鎮祭する神殿建立を希望してその費用1万5千円を指定寄付したが、関東大震災で着工が遅れ、1930年(昭和5年)5月1日の鎮座を目にすることなく死去した[1]。


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