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近現代史綜合スレ
1141
:
荷主研究者
:2018/09/02(日) 22:20:54
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180814_13029.html
2018年08月14日火曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(上)勤労の日々/貴重な青春、無為に消費
火薬廠で働いていた当時の笠松さん(手前左)=1945年4月ごろ
太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)
大河原町の市場貞子(ていこ)さん(89)が火薬廠に動員されたのは1944年11月。旧白石高等女学校に通う15歳だった。
「女の自分でも国のために働ける」。動員が決まった時は、不安よりも喜びが勝った。
工場に入ると、身なりは一変する。セーラー服から作業着、スカートからもんぺ。頭には日の丸の鉢巻きを結んだ。
寮の起床時間は午前5時。シューマンの「トロイメライ」が流れると、急いで身支度を整えた。
食事は白米にサツマイモの葉を混ぜてかさを増やした「糧飯(かてめし)」やかゆ。粗末なものばかりだった。
火薬廠の入り口に着くと、班長の市場さんが「白石高女隊100人入ります」と守衛に敬礼。履き慣れない地下足袋で「丘にはためく あの日の丸を…」と軍歌を歌いながら歩いた。
敷地は530万平方メートルと広大で、入り口から持ち場まで歩いて1時間近くかかった。
機銃火薬を定規に合わせて切断するのが市場さんの仕事。火薬はプレス機械で圧縮され、うどんのように落ちてきた。仕事は12時間勤務で夜勤もあった。
45年3月に女学校を卒業するまで、火薬廠で働き続けた。「10代半ばの少女にとっては大変な重労働だった」と振り返る。
火薬を取り扱うだけに仕事は危険を伴った。やけどを負ったり、機械で指を切断したりする人がいたという。
中には命を落とす学徒もいた。旧角田中の男子生徒が作業中、機械の歯車にマントを引き込まれ、頭を強く打って亡くなる事故があった。
「戦争で勝つにはみんなが働かなくちゃいけない」。旧大河原高等女学校から火薬廠に動員された笠松ヤエ子さん(88)=仙台市=は当時、自分の置かれた状況を当然のことと捉えた。
終戦から時間がたつにつれ、考えが改まる。「二度と来ない青春を無為に消費させられた」。そんなやりきれなさを感じるようになった。
一方で「女学校時代から学徒動員を取ったら何も残らない」とも思う。同級会の話題は火薬廠ばかり。当時歌った軍歌を合唱したり、習った手旗信号をしたりして昔を懐かしむ。
貴重な学業の時間を戦争によって奪われた学徒たち。理不尽な目に遭いながらも、類を見ない経験を共にして互いの絆を強めた。
[メモ]第一海軍火薬廠は1939年、現在の柴田町船岡地区と角田市北郷地区に海軍火薬支廠として開庁し、41年に改称。機銃火薬や爆弾用爆薬の補充、供給のほか、東北開発が開設目的だった。太平洋戦争末期には学徒を含め毎日1万人が働き、終戦まで操業を続けた。
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