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近現代史綜合スレ
911
:
とはずがたり
:2016/09/11(日) 23:24:07
アメリカの原爆や空襲も国際法違反だしソ連の対日参戦も同じだ。
そしてアメリカの原爆とソ連の対日参戦が日本の降伏を導いた訳だ。
「約束守るべきだった」1945年の旧ソ連対日参戦、正当化論調に異議 KGB元大佐インタビュー
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/160819/wor16081910190013-n1.html
2016.8.19 10:19
第二次大戦後の北方領土問題や「シベリア抑留」の悲劇を生んだ旧ソ連の対日参戦(1945年8月9日)について、ロシアでは当時の日ソ中立条約(41年締結)の効力を否定して正当化する論調が強まっている。ソ連による抑留問題の実態を暴露したソ連国家保安委員会(KGB)元大佐の歴史家、アレクセイ・キリチェンコ氏(79)は産経新聞のインタビューに応じ、こうした見方が誤っていると論破した。一問一答は次の通り。
--ソ連は45年4月5日、中立条約を延長しない旨を日本に通告した。これをもって、対日参戦に問題はなかったとの主張がある
「ソ連のモロトフ外相は当時、日本の佐藤尚武大使に条約を延長する意思がないことを表明した。しかし、老練な佐藤大使は、条約が46年4月25日まで有効であることをモロトフに認めさせている。後にスターリン首相がこれを“修正”して対日参戦したということになるが、外相の約束は破られるべきでなかった」
--ある日本専門家は最近の論文で、41年の日本軍人らの発言や松岡洋右外相の「北進論」を挙げ、日本には中立条約を守る意思がなかったと強調している
「戦争のことを考えるのが軍人の仕事である。ソ連との戦争に反対する者が陸軍にも海軍にも存在していた。松岡は政府と見解が相いれず、同年7月に更迭されている。誰にどんな『計画』があったとしても、それに意味はない」
--ソ連の極東戦力が日本の対ソ攻撃を抑止したとも主張されている
「実際には、日本は41年秋、満州の関東軍からの部隊引き抜きも含め、南方へと兵力を迅速に集中させた。9月にはソ連にも、当時の関東軍の構成では、日本に戦争はできないということが明らかだった。10月末には、スターリンが極東の軍や共産党指導者との少人数の会合を持ち、極東の部隊を西部(対ドイツ戦)に投じることが決まった。日本が攻撃してこないとの確信があったのだ」
「ほかならぬ極東の部隊が41年11月7日にモスクワの『赤の広場』でのパレードを行い、そこから(西部の)戦闘に向かった。それによってモスクワは攻撃されることを免れたのだ。41年から43年の間に、極東から西部へと完全に訓練・武装された42個師団が振り向けられた」
--満州からソ連への国境侵犯が頻発し、それが日本の「攻撃意図」の表れだともされている
「日本はノモンハン事件(39年)以降、ソ連国境を破らないようにということを徹底していた。日中戦争があり、ソ連を挑発して『2正面』で戦うことはできなかったためだ。逆に、関東軍がソ連からの脱走兵や送り込まれた諜報員を収容所に入れていた事実があり、越境はソ連からの方が活発だったのではないか」
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