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近現代史綜合スレ

1110とはずがたり:2018/04/13(金) 09:43:41
>>1107-1110
■党籍離脱を拒否、政防法案握りつぶす

 1959年(昭和34年)7月、岸内閣の下で行われた参議院選挙で自民党は71議席を獲得し、非改選と合わせて135議席に達した。松野もこの選挙で3回目の当選を果たし、選挙後に三たび参議院議長に選出された。選挙後の岸内閣の改造で松野頼三が労相として入閣し、野田卯太郎―松野鶴平に続く憲政史上初めての親子3代大臣の誕生が話題になった。

 議長3選にあたって社会党と緑風会は松野に党籍離脱を強く要求した。これは前年、警職法改正案をめぐって国会が紛糾した際に川島正次郎自民党幹事長と浅沼稲次郎社会党書記長の間で衆議院の正副議長は党籍を離脱することを申し合わせ、参議院についても「自主性は尊重するがこの申し合わせに従って運営するよう要請する」としていたからである。松野は「私は母の胎内にいた時からの政党人だ」と言い放って党籍離脱を断固拒否した。

 松野は、国会の混乱を防ぐために議長の権威を高める必要があるが、それは党籍離脱という手段ではなく、むしろ多数党の党籍を持って多数党の横暴を内部から抑える力を持つことが大事である、という信念を持っていた。社会党の浅沼書記長が議長室に乗り込み、党籍離脱を直接勧告したが、松野は軽く一蹴した。この後、記者団の質問に答え「みんなコドモだから親爺の言うことは判ってくれるよ」と平然としていた。

 松野はこの信念を口先だけでなく、自らの行動で実行に移した。昭和36年の通常国会に自民党は民社党と共同で政治的暴力行為防止法案を提出した。社会党が強く反対し、衆議院は強行採決で通過した。池田勇人首相はこの法案の成立に強くこだわっていた。審議に協力的な民社党のメンツを立てる必要があり、国会後の訪米を控えてこの法案が不成立なら国際信用が傷つくことを懸念していた。益谷自民党幹事長が松野議長を訪ねて法案成立への協力を強く求めたが、松野は「参議院の自主性に任せてくれ」とやんわり拒否した。益谷は池田首相と会談するよう松野に求めたが、これも拒絶した。

 松野は佐藤栄作と極めて親しかったが、池田とはソリが合わなかった。参議院自民党も、この国会は農業基本法の成立で手いっぱいで政防法案の成立は無理と判断していた。結局、政防法案は参議院で握りつぶされ、継続審議となった。池田首相は政防法案不成立の経緯を見て岸・佐藤兄弟が松野と組んで倒閣を仕掛けたとにらんだ。池田は訪米帰国後の内閣改造で岸派、佐藤派を遠ざけ、大野派、河野派、三木・松村派を取り込んだ内閣改造に踏み切った。

 1962年(昭和37年)7月の参議院通常選挙を機に松野鶴平は参議院議長を辞任した。前年、糖尿病の悪化で入院するなど松野の体力は衰えが隠せなくなった。選挙後、後任の議長には岸、佐藤兄弟と並んで「長州ご三家」と言われた自民党の重宗雄三が選出された。松野は議長退任からわずか2カ月後の10月18日に日本医大病院で永眠した。77歳だった。

 松野鶴平は議長退任の際に参議院本会議で次のように述べている。「私は国会運営の根本は、国会議員の心構えにあると存じます。各党各派ないし各議員が、国民に対する責任を自覚し、お互いに参議院を辱めないようにとの気持ちをもって、忍耐強く話し合えば、大抵のことは解決するものと信じます。肝要なことは、本院は良識に従い常に自主的な態度を持するということであります。院内の事の処理に当たっては、みだりに院外の運動に左右されたり、利害団体の圧力に屈することのないようにいたさねばなりません。対衆議院の関係においても同様でありまして、両院が協調しながらも、各自が自主性を堅持することが、二院制度の要諦であります。かくして初めて参議院の権威が高まり、使命は達成されるのであります」。=敬称略


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