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近現代史綜合スレ

1142荷主研究者:2018/09/02(日) 22:21:31

https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201808/20180815_13009.html
2018年08月15日水曜日 河北新報
<火薬工場の学徒たち>柴田・船岡の記憶(中)戦火の中で/「敵機近づけぬ」神話も

陸上自衛隊船岡駐屯地に残る第一海軍火薬廠時代の防空壕。現在は立ち入り禁止となっている=柴田町

 太平洋戦争の時代、柴田町船岡地区などに「第一海軍火薬廠(しょう)」があった。東洋一と称された旧海軍の火薬工場だ。戦争末期、労働力不足を補うため3000人ほどの学徒が動員された。90歳近くになった当事者たちを訪ね、記憶をたどってもらった。(大河原支局・柏葉竜)

 太平洋戦争末期、第一海軍火薬廠(しょう)(宮城県柴田町、角田市)の動員学徒らの間で一つの「安全神話」がささやかれていた。

 「蔵王連峰の影響で起きる乱気流のため、火薬廠に敵機が近づけない。阿武隈川から立ち上る霧で下界も見えない」

 実際には、多くの米軍機が火薬廠の上空を飛んでおり、単なるうわさ話にすぎなかった。

 話の信ぴょう性を高める事故が起こった。1945年3月10日未明。蔵王連峰の不忘山で、3機の米爆撃機B29が相次いで墜落した。

 旧白石中から火薬廠に動員された阿部雄次さん(89)=白石市=は「B29が落ちたぞ」と聞き、寮から蔵王連峰を眺めた。「確かに山が燃えていた」と振り返る。

 動員学徒は皆が皆、火薬の製造ラインに配置されたわけではない。阿部さんは防空壕(ごう)の掘削に汗を流した。「ただ国が勝つことだけを信じて働いた」と言う。

 動員学徒が火薬廠時代を追想した冊子「戦争の頃の思い出」では、旧角田中の卒業生が「火薬を作りながら、竹やりの訓練も受けた」とつづる。

 指導官は「隠れていて敵が来たら、一突きすればいい。一人一殺だ」と厳命。「アメリカが来たら、女は強姦(ごうかん)され、男は睾丸(こうがん)を抜かれる」とも語ったという。

 空襲警報が鳴ると、学徒たちは敷地内のあちこちにある防空壕に駆け込んだ。「暑いし、蚊が多いし、気持ちのいい場所ではなかった」と思い起こすのは、旧黒沢尻高等女学校(北上市)から来ていた小原崇(たか)さん(89)=北上市=だ。

 B29が火薬廠の上空に飛来することもしばしば。威嚇のためか、地上数メートルの高さまで急降下することがあった。「パイロットのゴーグルまではっきり見えた。おっかない顔だと感じた記憶がある」

 45年7月10日には、火薬廠周辺から仙台空襲の光景が見えた。空が真っ赤に染まっていたことだけが脳裏に焼き付いている。

 B29や仙台空襲を目の当たりにしても、不思議と怖さは感じなかった。「当時の自分たちには兵隊さんと同じような覚悟があったのかもしれない」と振り返る。

 結局、火薬廠は爆撃を受けずに終戦を迎える。大規模な軍需工場が標的にならなかった理由は不明だ。いずれにしても「安全神話」のおかげではないだろう。

 学徒たちの覚悟は幸いにも、空振りに終わった。

[メモ]1941年12月に太平洋戦争が開戦し、国は43年6月、労働力を補うため学徒戦時動員体制確立要綱を閣議決定。44年3月には動員の通年実施を決めた。同8月には学徒勤労令が発布され、第一海軍火薬廠にも学徒が逐次動員された。


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