したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

近現代史綜合スレ

583名無しさん:2015/06/14(日) 13:27:43
>>582

?一四年一月、偶然チャンネルを合わせたBS ― TBSの二時間特集番組に引き込まれた。番組の最後になって、予想しなかった地名「郭山」が初めて現れた。疎開隊の名簿は、私の故郷を遠く離れた九州の地で保管されていた。東京周辺でそれなりに問いかけてきたにもかかわらず、反応を得られなかったわけも納得できた。私のなかで歯車がカチッと音を立てて?み合い、二十年近くも揺るがなかった厚い壁が一気に崩れた。「当事者」として行動しなければならないと思った。

一人の視聴者としてTBS「報道特番」にメールを送り、祖母が書き残した「一三班」の名簿の確認をお願いした。ほどなく宮本晴代ディレクターから返信をいただいた。

「昨夜、郭山疎開隊員名簿を見ましたところ、一三班のところに確かに井上さんご一家のお名前があり、ボロボロの紙を持つ指先が震えました。あの名簿の持つ重みを、改めて認識させられたような気が致します」。番組に出演した鹿児島県在住の田中友太郎さんは私の面会の願いを聞き入れてくれた。持参した伯母の手記も読み、事情を理解してくださった。

?田中さんの紹介で福岡県在住の扇京一さん、熊本県在住の白石ヤス子さん、中尾(田中)陽子さんとお会いできた。私の家族が言葉を交わしたかもしれない方々である。故松本健次郎さんの妻幸子さんにも話をうかがった。私が「当事者」であることを知った扇さんは、七十年近く大事に保管してきた二冊の「郭山避難民団の記録」のファイルを妻サカヘさんに託し、手紙を添えて送ってくださった。

?松本さんの手による「疎開日誌?其ノ二」の最初のページには、祖母のそばで亡くなった木幡とも子さんを含む三人の仮葬の記録が正確に書き込まれていた。のちにお会いした白石さんは、祖母の手記を繰りながら病室の場面で手を止め、小さく声を上げた。「脊椎(せきつい)カリエスの女性……。これ、私だ!」。手記の内容は裏付けられた。

?この本のなかでやってきたのは、一〇〇〇人超の郭山疎開隊のうち、北緯三八度線を越えて日本に引き揚げたほぼ半数の「南下班」と満洲に戻ったやはり半数の「北上者」の間に横たわる歳月と距離を乗り越えて、全体をつなぎ直す作業だったかもしれない。


?井上さんは本書「終章」の最後で、次のように綴ります。


?郭山疎開隊を引率し、本書に記したような詳細な記録を残した満洲国経済部官吏一〇人のうち、すに八人はこの世にいない。残留班を率いて最後に三八度線を越えた山谷橘雄(やまやきつお)医師も二〇一三年に他界している。朝鮮北部の日本人が「難民」として辛酸を嘗(な)め尽くした被害者としての記録は、今、日本の現代史のなかにきちんと位置づけておかなければ、永遠に消え去ってしまうだろう。そして遠からず、また同じような被害がくり返されることを危惧する。

?それはまた、昨今の靖國神社公式参拝の是非をめぐる議論からはじかれ、やはり置き去りにされようとしている民間人被害者の存在を再認識することにもなるはずである。その認識こそが、唯一の本土決戦を経験した沖縄はもとより、原爆投下や無差別空襲によって、国内外を問わず無数の民間人が犠牲となった先の大戦の本質を捉えることにつながるものと信じたい。

*?*?*

?作家の半藤一利さんは本書を読み、「国に棄てられた人々の過酷な運命に、驚き、涙し、憤った。戦後70年の今、この悲劇に光が当てられた意義は、はかりしれなく大きい」というコメントをお寄せくださいました。
『満洲難民〜三八度線に阻まれた命 』をぜひお読みいただけると幸いです。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板