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近現代史綜合スレ

1188荷主研究者:2019/12/29(日) 19:18:44

https://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20191215/CK2019121502000039.html
2019年12月15日 中日新聞
火薬庫立哨台が門横に戻る 関ケ原の戦跡を後世に

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2019121402100338_size0.jpg
門の横に戻された立哨台に触れる岩津区長=関ケ原町玉で

http://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2019121402100339_size0.jpg

 関ケ原町の旧日本陸軍の火薬庫「名古屋陸軍兵器補給廠(ほきゅうしょう)関ケ原分廠」の入り口にあり、終戦直後に仮置き場に放置されていた「立哨台」が、数十年ぶりに当時あった場所に復元された。地元住民は「あの頃を乗り越えて今の平和がある。そんな思いを、実際に見て、かみしめてほしい」と話す。

 名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠は一九一二〜四三年にかけて、滋賀県境に近い旧玉村(関ケ原町玉)から買収した軍用地(二百二十ヘクタール)に作られた。鉄筋コンクリート製倉庫の上に土を盛って木を植えたり、山腹に横穴を掘ったりと、米軍の飛行機から分からないように工夫されており、全体で二百カ所近く。その規模は当時、東洋一ともいわれた。

 火薬庫一帯の警備体制は厳重で、入り口の門のそばには、高さ二メートルの立哨台があり、衛兵が目を光らせていた。柵で囲われた用地に入るには、中に耕作地を持つ農民でも「門鑑(もんかん)」と呼ばれる木製の通行証を見せる必要があり、所持品検査もあったとされる。

 終戦後、火薬庫はすぐに閉鎖された。今では門柱や洞窟など一部が公開されているが、当時の面影はほとんど見られない。

 そんな中、地元の戦跡を後世に伝えようと、住民有志が五年前から、一帯の草刈りをするなど整備を進めてきた。その過程で、立哨台が本来の位置から七百メートルほどずれた場所に放置されていたことが判明。

 住民の間から「門柱の横の元の場所に戻そう」との声が高まり、十月、業者に依頼して移転、復元した。

 玉地区の岩津隆之区長(74)は「昔はここに大規模な火薬庫があり、地元住民でさえ入るのに厳しいチェックがあったということを、若い人たちにも知ってもらい、平和の思いを継いでいきたい」と願っている。

 (服部桃)


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