[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
1
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/03/18(火) 23:56:08 ID:QU46JH2Y
馬・人物・キャラの誕生日はもちろん、過去の出来事や記念日、ホモが好きそうな商品の発売日などについて語るスレ
AILE君へのネタ提供になればよいのだけれど、やりすぎると逆にネタ潰しやまとめの催促にもなりかねないので、まったり雑談していきましょう
個別誕生日スレを否定するスレではないので、個別スレは予告や告知をどうぞ
671
:
Republica de Venexia
:2015/07/10(金) 00:00:31 ID:???
7月10日はハドリアヌスが死去した日です
>>281
で見たようにローマ皇帝ハドリアヌスはトラヤヌスの拡張政策から一転し、ブリタニアに長城を築くなどその領土を守ることを重視しました
またその帝国領土を自ら巡回し、特にギリシア、小アジアの属州における都市政策を重視し、均質な帝国を目指したのです
彼の行政面での施策は多岐に渡ります
行政の効率化を進めるため、彼の治世で植民市は増えませんでしたが既存の都市への介入は強まりました
また帝国全体に皇帝直轄下で様々な任務を担うプロクラートルが設置され、いわゆる官僚の役割を果たすようになります
その職務を務めたのが騎士階級で、その下で解放奴隷が下級官僚として従事しました
そしてイタリアを直轄地域とする4名の裁判官が設置され、これを元老院議員か務めることとなりました
このようにハドリアヌスの治世では皇帝直属の部下が様々な任務を担うようになり、それまで都市や市民個々に委ねていた徴税請負をはじめとする属州任務を皇帝が直轄するようになったのです
こうして帝国統治を安定させたハドリアヌスは138年7月10日に死去し、その後を養子のアントニヌス=ピウスが継ぐこととなるのでした
本日はローマ皇帝アントニヌス=ピウスの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南川高志『ローマ五賢帝』講談社、1998年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
672
:
Republica de Venexia
:2015/07/11(土) 00:14:42 ID:???
7月11日は劉裕が禅譲された日です
中国では280年、
>>122
の三国時代を西晋が統一しましたが、初代皇帝司馬炎が死去するとその後継者を巡る八王の乱が起こり、そのなかで軍事力として活躍した遊牧民が勢力を拡大していきました
316年には遊牧民の1つ匈奴が永嘉の乱を起こし西晋を滅ぼします
西晋の王族司馬睿は建業にて皇帝に即位し東晋として復興しました
華北では匈奴をはじめとする五胡と総称される遊牧諸民族が興亡を繰り返す五胡十六国時代となり、戦乱を避けた多くの漢人が東晋へと移住し、長江中・下流域は大いに発展することとなります
しかし東晋は勢力基盤が脆弱で皇帝権力も弱く、約100年続いた王朝の末期には政治が乱れていきました
そのなかで台頭してきたのが劉裕で、華北への反攻や土断法の施行などで功績を挙げて独裁的な権力を確立するようになります
そして420年7月11日、劉裕は東晋の皇帝恭帝を禅譲させて自ら帝位につきました
こうして東晋は滅亡し、南朝最初の王朝となる宋が成立したのでした
本日は宋(南朝)の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
673
:
Republica de Venexia
:2015/07/12(日) 06:09:47 ID:???
7月12日は嘉吉の変が起こった日です
室町幕府の最盛期を築いた足利義満の後を継いだ第4代将軍義持の時代、当初は将軍と有力守護との均衡が保たれ幕政は安定していました
しかし1416年に鎌倉公方足利持氏に不満を持つ前関東管領上杉禅秀が反乱を起こすという事件も起こります
やがて義持は隠居し第5代将軍義量が将軍となりますが、1425年に義量は急死、義持も後継者を定めないまま1428年に病死しました
そして次代の将軍はくじ引きによって選ばれ、義持の弟の義教が将軍に就任、「くじ引き将軍」となったのです
義教は混乱した幕政を引き締めるため将軍権力の強化を図り、将軍に従わないものを力で抑えつける恐怖政治を展開しました
これに反発したのが鎌倉公方である足利持氏でした
幕府と鎌倉府との関係が悪化したため、義教は持氏と対立する関東管領上杉憲実支援の名目で討伐軍を派遣し、持氏を滅ぼします
また持氏の遺児を奉じた下総の結城氏朝も討伐し、幕府の権威は向上することとなります
その後も義教は専制政治を強行し、有力守護の一色義貫や土岐持頼を謀殺しましたが、このために政治不安が高まっていきました
義教は公家、武家、僧侶など多数の人々を処罰するようになり、1441年7月12日、処罰を恐れた有力守護赤松満祐が嘉吉の変を起こし、義教を暗殺するに至りました
この事件以降将軍の権威は大きく揺らぎ、代わって有力守護が実権を握るようになり、やがて応仁の乱へと発展するのでした
本日はくじ引き将軍の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・今谷明『籤引き将軍足利義教』講談社、2003年
・永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』中央公論新社、2005年
・桜井英治『日本の歴史12 室町人の精神』講談社、2009年
674
:
Republica de Venexia
:2015/07/13(月) 00:03:58 ID:???
7月13日はエムスから電報が届いた日です
>>82
で成立した北ドイツ連邦ですが、南ドイツへの拡大にはフランスのナポレオン3世が障害となっていました
隣国に強大な統一国家が誕生することはフランスにとって大きな脅威であり、ナポレオンとしてはこれを何としても阻止したかったのです
局面打開のきっかけはスペインの王位継承問題でした
1868年9月にスペインでは革命が起こり、ブルボン家のイサベル2世が追放され王位が空席となっていました
そこで候補者として挙がったのがホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家のレオポルトでした
プロイセン王家とつながりのあるこのレオポルトの即位をプロイセン宰相ビスマルクは支持し、1870年6月には合意へと至ります
しかしレオポルトが即位する前に情報がフランスに漏れ、フランスはレオポルト即位を激しく非難、レオポルトは即位を辞退することとなりました
こうしてフランスは外交的勝利を収めましたが、それをさらに確実なものとするため、フランス大使に命じプロイセン王ヴィルヘルム1世に対し、今後ホーエンツォレルン家の一員がスペインの国王候補になることがあっても同意しないよう働きかけました
エムス温泉で行われたこの時のやりとりを知らせる電報が、1870年7月13日にビスマルクの下へと届きます
ビスマルクは長文の電報を書き換え、スペインとホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家との問題なのにフランスがヴィルヘルムに不当な要求を持ち出し、ヴィルヘルムは今後一切フランス大使と会わないと通告する文章としました
まるで国交断絶を通告するような文章であり、これがドイツでも発表されたため反フランスの気運が高まりました
そして
>>221
で見たようにフランスからの宣戦布告によって普仏戦争が始まることとなるのでした
本日はエムス電報事件の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
675
:
Republica de Venexia
:2015/07/14(火) 00:04:44 ID:???
7月14日はフィリップ2世が死去した日です
フランスでは
>>388
のアンジュー帝国成立により、国土の半分がプランタジネット朝が支配することとなり、カペー朝によるフランス統一が妨げられることとなりました
しかし尊厳王と称されたフィリップ2世の登場によってカペー家の領土は大きく広がるのです
フィリップは官僚制を整備し王領の管理に努め、都市との結びつきを強めることで諸侯を牽制、王権の強化を進めていきます
またイングランド王ジョンと戦って王領を拡大し、プランタジネット家の領土はアキテーヌに残るのみとなりました
そしてフィリップにとって最大の
快挙となったのが
>>229
のブービーヌの戦いでした
この戦いはイングランドだけでなく、神聖ローマ帝国とも雌雄を決する戦いでもありました
というのも、フィリップはすでに1202年にローマ教皇インノケンティウス3世から、フランス王はいかなる上位者も持たないというお墨付きを得ており、これは神聖ローマ皇帝に挑戦するようなものだったからです
ブービーヌの戦いはフィリップの勝利に終わり、これによってフランスのヨーロッパ最大勢力にまでのし上がったのです
フィリップは1223年7月14日に死去し、43年の長きに渡る治世が終わりました
後を継いで即位したのがルイ8世で、彼は王権が確立したフランスを引き継いだだけでなく、母親がカロリング家の血筋であったためカペー家とカロリング家両方の血が流れる王であったため、フランスを支配する正統王家という地位を得ることとなったのでした
本日は獅子王ルイ8世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年
676
:
Republica de Venexia
:2015/07/15(水) 00:46:36 ID:???
7月15日はロゼッタ=ストーンが発見された日です
>>73
のフランス革命政府のオーストリアへの宣戦布告により、革命戦争が始まりました
これに対しイギリスは対仏大同盟を結成しフランスとの戦争状態へと突入します
一方フランスはイギリスとインドとの連絡を遮断するためナポレオン=ボナパルトをエジプトへと派遣しました
このエジプト遠征に際しナポレオンは学術調査団を同行させ、エジプトの遺跡調査も行います
これによって1799年7月15日に発見されたのがロゼッタ=ストーンでした
ロゼッタ=ストーンには神聖文字、民用文字、ギリシア文字でエジプト王プトレマイオス5世を称える文章が書かれており、ギリシア文字を基に神聖文字を解読する重要な手がかりとなったのです
そして1822年、フランス人のシャンポリオンによって神聖文字が解読されるに至るのでした
本日は神聖文字解読事業の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・D・メイヤーソン、藤井留美訳『ナポレオンと言語学者 ロゼッタストーンが導いた天才たちの運命』河出書房新社、2005年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年
677
:
Republica de Venexia
:2015/07/16(木) 00:53:01 ID:???
7月16日はナバス・デ・トローサの戦いが行われた日です
>>582
のアル=アンダルス成立以降、イスラーム勢力はイベリア半島で勢力を拡大していきました
11世紀後半にはモロッコにベルベル人王朝のムラービト朝が興り、イベリア半島にも進出しますがその勢力は不安定で、キリスト教勢力が推し進めるレコンキスタを抑えることができませんでした
12世紀になると同じベルベル人王朝でイスラーム原理主義を掲げるムワッヒド朝が台頭します
ムワッヒド朝はムラービト朝に比べその勢力基盤は強固だったものの、その重心は北アフリカにありアル=アンダルスでは大幅な自治が認められていました
とはいえ1195年にはアラコルスにてカスティーリャ王アルフォンソ8世を撃破するなど、キリスト教勢力に対し優位に立てるチャンスはあったのです
しかしムワッヒド朝はこのチャンスを活かすことができませんでした
ムワッヒド朝には北アフリカとイベリア半島との連携が欠けており、勢力こそ大きかったもののその内部には分裂が見られたのです
この分裂は1212年7月16日に行われたナバス・デ・トローサの戦い後にも露呈します
この戦いでキリスト教勢力に大敗したムワッヒド朝はアル=アンダルスにて危機的状況に陥ったにも関わらず、北アフリカの人々はこれに無関心で、アル=アンダルスのムワッヒド朝は崩壊の一途を辿ることとなるのです
またこの敗戦はムワッヒド朝崩壊の引き金となっただけでなくイスラーム勢力全体にとっても決定的なものでした
一方カスティーリャにとってはイベリア半島における覇権を確立するきっかけとなり、レコンキスタをさらに進めていくこととなものでした
本日はアル=アンダルス崩壊の誕生日です、キリスト教徒の皆さんおめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
678
:
Republica de Venexia
:2015/07/17(金) 00:03:05 ID:???
7月17日は燕王朱棣が皇帝に即位した日です
中国では紅巾の乱によって元の動揺が決定的となり、この乱の中で台頭した朱元璋が明を建国して元を駆逐、中国を統一しました
朱元璋は中書省・丞相を廃止して皇帝独裁を進め、里甲制・衛所制などを制定、賦役黄冊・魚鱗図冊を作成、六諭・明律・明令を発布するなど王朝の基礎を整えました
この朱元璋洪武帝には26人の男子がおり、長子の朱標を皇太子とし第二子を秦王に、第三子を晋王に、第四子を燕王に封じて対モンゴル防衛にあたらせ、残りの子たちも各地の重要拠点に封じられました
このうち皇太子の朱標が洪武帝の生前に死去し、皇太孫を後継者に定め、1398年に皇帝として即位したのが建文帝です
建文帝は側近の進言に従って諸王抑圧策をとり、これに対し諸王のなかでも最大勢力であった燕王の朱棣が反発しました
朱棣は建文帝を誤らせた側近を排除するという名目で「君側の奸を除いて帝室の難を靖んず」をスローガンに反乱を起こします
これが靖難の役で、朱棣は首都金陵を攻略、建文帝は自殺したとされ、1402年7月17日、朱棣は皇帝に即位するのでした
本日は永楽帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・檀上寛『永楽帝 華夷秩序の完成』講談社、2012年
679
:
Republica de Venexia
:2015/07/18(土) 00:03:21 ID:???
7月18日はジュネーヴ4巨頭会談が行われた日です
第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営が対立する冷戦の時代となりました
各陣営とも軍事同盟を結成し、アメリカのソ連封じ込め政策、ソ連の核開発、社会主義圏のアジアへの拡大などで対立は激化していきます
しかし1953年にソ連の独裁者スターリンが死去すると緊張緩和の動きが高まります
新たにソ連の共産党第一書記となったフルシチョフは平和共存路線を打ち出したのです
53年7月には朝鮮戦争の休戦協定を結び、54年にはインドシナ戦争終結のためのジュネーヴ会議に参加、55年にはユーゴスラヴィアと和解、オーストリアとの国家条約を締結、西ドイツとの国交を樹立するなど、東西協調を進めていきます
そして1955年7月18日、ソ連のブルガーニン首相、アメリカのアイゼンハウアー大統領、イギリスのイーデン首相、フランスのフォール首相との間で4巨頭会談が開かれ、ドイツ統一問題、軍縮、東西交流などが議論されました
これらの具体的な合意には至りませんでしたが、米ソの首脳が集まった会談はポツダム会談以来であり、協調気運の高まりはジュネーヴ精神として各国に歓迎されたのでした
本日は「雪どけ」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・松戸清裕『世界史リブレット92 歴史のなかのソ連』山川出版社、2005年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年
・猪木武徳・高橋進『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』中央公論新社、2010年
680
:
Republica de Venexia
:2015/07/19(日) 12:22:39 ID:???
7月19日はメアリ1世が即位した日です
イングランドではヘンリ8世の死後エドワード6世が王位を継承しましたが、即位当初は幼少であったためサマセット公エドワード=シーモアが政務を取り仕切っていました
サマセット公のプロテスタント信仰のもとイングランドでは宗教改革がさらに進行します
しかしサマセット公はスコットランド政策で失敗、ウォリック伯ジョン=ダドリによって失脚に追いやられました
ウォリック伯はノーサンバランド公となり、さらなる改革路線を推し進めました
またノーサンバランド公は王位継承にも干渉するようになります
というのも、王位継承者に定められていたメアリはカトリックであったため、彼女が即位するとなると自身の失脚が明白だったからです
そこでノーサンバランド公はエドワードを説得しメアリとその妹エリザベスの王位継承権を剥奪し、自身の息子の妻であるジェーン=グレイへの王位継承を認めさせました
こうして新国王の義父として権力の確保を図ったノーサンバランド公ですが、エドワード6世の死後、肝心のメアリの身柄拘束に失敗します
1556年7月10日、ジェーンは即位を宣言したものの、メアリもまた13日に即位を宣言しその下には続々と支持者が集結しました
ノーサンバランド公は支持を失い捕らえられた後に処刑されます
そして7月19日、メアリは正式にイングランド女王となり、カトリック政策を進めていくのでした
本日は「ブラッディ・メアリ」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・水井万里子『図説テューダー朝の歴史』河出書房新社、2011年
681
:
Republica de Venexia
:2015/07/20(月) 00:19:55 ID:???
7月20日はクンディナマルカ共和国が成立した日です
ラテンアメリカでは、18世紀末に起こったアメリカ独立革命やフランス革命、いわゆる大西洋革命によって自由・平等の観念が普及しました
最初に独立を達成したのがハイチで、フランス領だった同地はフランス革命の理念に共鳴し、「黒いジャコバン」と称されたトゥサン=ルーヴェルチュールの指導によって1804年に独立を勝ち取ります
これに影響を受け、特に南アメリカ植民地の本国であったスペインがナポレオンによって征服されると自立化がさらに促進され、本格的な独立運動が展開されました
南米の北部では18世紀初めにヌエバ・グラナダ副王領がペルー副王領から分離して成立し統治していましたが、その近隣のベネズエラ総督領におけるミランダによる独立戦争に触発され、ヌエバ・グラナダ副王領でも独立戦争が始まりました
そして1810年7月20日、解放軍の指導者ナリーニョが副王を追放し、ボゴタを中心としてクリオーリョによるクンディナマルカ共和国が成立、スペインからの独立を宣言したのでした
現在、この日はコロンビアの独立記念日となっています
本日は独立コロンビアの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
682
:
それが世界の選択か…
:2015/07/20(月) 00:41:39 ID:???
はえ〜すっごい・・・
683
:
Republica de Venexia
:2015/07/21(火) 00:12:48 ID:???
7月21日はクチュク=カイナルジャ条約が締結された日です
オスマン帝国は1683年、
>>280
の第二次ウィーン包囲失敗によって打撃を受け、オーストリアやロシアの南下に直面することとなりました
1699年に
>>451
のカルロヴィッツ条約、1718年には
>>223
のパッサロヴィッツでオーストリアやヴェネツィアに領土を割譲し、1700年のコンスタンティノープル条約ではロシアにも領土を割譲します
ロシアはこれによってアゾフを占領、アゾフ海に進出しましたが、
>>205
の大北方戦争中の1711年にオスマン帝国に敗れたことでアゾフ喪失を余儀なくされました
しかし南下政策の成就を目指すロシアは再び同地への圧力を強め、1736年にはクリミア半島への侵入に成功します
当時クリミア半島はオスマン帝国の宗主下でクリム=ハン国が支配していました
このクリム=ハン国が1768年、ロシア南部を襲撃したことでオスマン帝国とロシアとの第一次露土戦争が勃発します
戦争は終始ロシア優位で進み、1774年7月21日、クチュク=カイナルジャにて講和条約が締結されました
オスマン帝国はこの条約でクリム=ハン国の宗主権を放棄させられ、ロシアにアゾフ海周辺地域を割譲、さらにボスポラス・ダーダネルス両海峡の商船自由航行権を与えました
これによってロシアは黒海への出口を得、南下政策をさらに進めていくこととなるのでした
本日は第一次露土戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
684
:
Republica de Venexia
:2015/07/22(水) 00:04:15 ID:???
7月22日はシャルル7世が死去した日です
フランス王シャルル7世はジャンヌ=ダルクの活躍もあって百年戦争における劣勢を挽回し、
>>219
のカスティヨンの戦いで決定的な勝利を収めました
1453年10月に百年戦争は終結し、シャルルは内政の整備を進めていきます
高等法院を全国に設置し、財務総督区を設けて財務行政を整え、行政管区の再整備を行い、フランス統治の体制は盤石となったのです
しかしそんなシャルルにも後継者には頭を悩ませることとなりました
というのも、王太子ルイがシャルルに対し反抗的な態度をとっていたからです
シャルルの国制改革によって国王権力は増大していきましたが、これに諸侯や貴族が反発、そしてルイがこれに加担したのです
1440年の蜂起はすぐに鎮圧されルイの処分も軽かったものの、1446年のクーデターに加担した際にはルイは宮廷を追放され、王太子の両国ドーフィネへと逃れました
さらにルイはこのドーフィネで公然とシャルルに反抗する姿勢を見せます
領内に大学や高等法院を設置、また領民に独自に課税を行うなど半ば独立国として振る舞うようになったのです
その後も度々反逆的な態度をとるルイに対し、シャルルは軍を派遣しドーフィネを占領、ルイはまたも逃亡を余儀なくされました
ところがここでルイか逃亡先に選んだのがブルゴーニュ公国、しかも当時は
>>278
のフィリップ善良公が治める、フランス王権にも匹敵する権力を有していた一大勢力、ブルゴーニュ公国でした
これにはシャルルも手を出せず、遺恨を残したまま1461年7月22日に死去します
そしてルイはこれを機にフランスへと急行し、フィリップ善良公の強力な後ろ盾もあってランスでの戴冠式、パリへの入城を果たし、フランス王ルイ11世としての統治を始めることとなるのでした
本日はシャルル勝利王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
685
:
Republica de Venexia
:2015/07/23(木) 00:04:03 ID:???
7月23日は朝鮮でクーデターが起こった日です
朝鮮は17世紀以降清の従属下にあり、19世紀には官僚間党争などによって政治的動揺が続いていました
1860年代には欧米列強が朝鮮に対し開国を要求するようになりますが、朝鮮国王高宗の父である大院君は攘夷政策をとってこれを拒絶します
開国を要求したのは欧米列強だけでなく、日本もまた朝鮮に圧力をかけ、1875年の江華島事件をきっかけに不平等条約である日朝修好条規が結ばれました
この条約の締結は朝鮮の宗主国である清の反発を招き、清は李鴻章を中心に朝鮮への干渉政策を推進、また朝鮮の政治抗争も絡んだ朝鮮における日本と清との対立が深まっていくこととなります
その最中の1882年7月23日、日本に接近して内政改革を進めていた閔妃の政府に対し、保守派である大院君が軍隊を煽動しクーデターを起こしました
これを朝鮮に対する干渉を強化する好機と判断した清は直ちに軍隊を派遣し大院君を捕縛、閔妃政権を復活させたのです
これ以後閔妃は清に接近するようになり、清は朝鮮への影響力を大きく高めることとなったのでした
本日は壬午軍乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・糟谷憲一『世界史リブレット43 朝鮮の近代』山川出版社、1996年
・岡本隆司『歴史のなかの日清韓関係史 交隣と属国、自主と独立』講談社、2008年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
686
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/24(金) 00:19:07 ID:2sW7zDJ.
7月24日はブリアン・ケロッグ条約が結ばれた日です
>>659
のパリ講和会議によって第一次世界大戦は終結し、ヴェルサイユ条約やアメリカ大統領ウィルソンが提唱した十四ヵ条による国際体制、ヴェルサイユ体制が形成されました
この体制下で国際連盟が組織され、各種の国際機関によって平和を維持しようという試みがなされます
1921〜22年にはワシントン軍縮会議で海軍軍備制限条約が結ばれ、また九ヶ国条約、四ヶ国条約からなるワシントン体制も形成され、ヴェルサイユ体制とともに国際秩序を支えることとなりました
しかしドイツへの莫大な賠償金支払い要求が国際関係を悪化させていきます
特にドイツに強く迫ったのがフランスとベルギーで、1923年にヨーロッパ有数の工業地帯、ルール地方に軍を進駐させるという強硬手段に出るほどでした
これを受けてアメリカはドーズ案を提示し賠償金支払いの一時猶予を図り、国際関係はひとまず小康状態となります
ドイツ外相のシュトレーゼマンは英仏との協調を進め、1925年にはイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコとの間で集団保障条約であるロカルノ条約が結ばれ、ドイツの国際社会復帰とヨーロッパの緊張緩和が実現されました
そして1929年7月24日、フランスのブリアン首相とアメリカの国務長官ケロッグが、国際紛争の解決手段として武力を行使しないことを宣言するブリアン・ケロッグ条約が発効され、国際協調の気運がさらに高まることとなったのでした
本日は不戦条約の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
687
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/25(土) 00:34:12 ID:NHpXUvKo
7月25日はアンリ4世がカトリックに改宗した日です
宗教改革によってフランスでカルヴァン派、ユグノーの信仰が拡大していくと、旧教徒との間で対立が深まっていきました
1559年にフランス王アンリ2世が事故死すると、後継者のフランソワ2世が若年だったこともあって王権が弱体化し、弟のシャルルとカトリック強硬派のギーズ公フランソワが実権を握ります
フランソワ2世はわずか1年の治世で急死し、弟シャルルがシャルル9世として即位しました
これに対しプロテスタント陣営もブルボン家当主アントワーヌやコンデ親王ルイ、コリニー提督が対抗し、フランス貴族はこの両派に分かれて権力闘争に加わります
さらにアンリ2世の妃カトリーヌ=ド=メディシスも権力維持を図り、三つ巴の抗争となり、これに宗教対立も巻き込んでユグノー戦争が勃発するのです
この宗教戦争は1570年、サン=ジェルマン=アン=レーの和議でユグノーが大幅な信教の自由を獲得します
そのなかでプロテスタントのコリニーの発言力が高まり、シャルル9世にネーデルラントのカルヴァン派を支援するよう迫りますが、ネーデルラントを支配するスペインとの対立を避けたいカトリーヌ=ド=メディシスはコリニー暗殺を決定します
1572年8月24日、カトリーヌの娘マルグリットとユグノーの指導者アンリ=ド=ナヴァールとの婚礼に参列したユグノーともども、コリニーは殺害されました
事件はこれに留まらず狂信者と化したカトリックの民衆がユグノーを三日間に渡って虐殺するというサン=バルテルミの虐殺へと発展しました
これにプロテスタントは激しく反発し、カルヴァン派の中心地南フランスでは南仏連合州が結成され、カトリックもまたカトリック同盟を結成して対抗します
1584年には国王アンリ3世の弟が死去し、王位継承者がプロテスタントのアンリ=ド=ナヴァールとなったことにカトリックが反発して再び戦争が勃発しました
アンリ3世はカトリック同盟のギーズ公アンリを暗殺、次いでアンリ=ド=ナヴァールと協調しますが、これに反発した狂信的なカトリック修道士に暗殺されてしまいます
アンリ3世の死によってヴァロワ朝は断絶し、アンリ=ド=ナヴァールが国王アンリ4世として即位、ここにブルボン朝が始まりました
アンリ4世は宗教対立を収めるため、1593年7月25日、カトリックへの改宗宣言を行います
これによってアンリはカトリックの支持を得ることに成功し、カトリック同盟の諸侯も次々と帰順、1598年に
>>65
のナントの勅令によって宗教対立は終結をみるのでした
本日は旧教徒アンリ4世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
688
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/26(日) 00:05:08 ID:xSkkhk26
7月26日はリベリアが独立した日です
アメリカでは19世紀に入るとナショナリズムが高揚し、奴隷解放によって増大していた自由黒人を国外に移住させ、白人共和国としてのアメリカ合衆国を目指す動きが高まります
そのために1816年に設立されたのがアメリカ植民協会で、リパブリカン党の意向を反映し黒人奴隷制に対処するようになりました
自由黒人のアフリカへの移住は、黒人のための祖国再建運動として1822年から開始され、ギニア湾岸西部地域へと移住が進められていきます
同地はLiberty(自由)からとったリベリアと命名され、首都名は植民開始時のアメリカ大統領モンローにちなんだモンロビアと命名されました
そして1847年7月26日、リベリアはアメリカ合衆国憲法を基にした憲法を制定、共和国としての独立を宣言します
以後独立国として歩んだリベリアは、ヨーロッパ列強による植民地化も逃れ、現在に至るのです
本日はリベリア共和国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
689
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/27(月) 00:23:21 ID:Dzi1e5C6
7月27日はロベスピエールが逮捕された日です
1789年に始まったフランス革命はまず立憲王政派が国制改革を行い、91年憲法を制定し自由主義貴族手動の下で制限選挙制が採用されたため、第三身分の政治化に関しては遅れていました
この91年憲法体制下で1791年10月に立法議会が成立し、右翼に立憲王政派のフイヤン派、左翼に共和政派のジャコバン派が陣取りました
このジャコバン派のうちマラー、ダントン、ロベスピエールらを中心とする急進派のモンターニュ派と、穏健派のジロンド派が対立し、ジロンド派は国内外の反革命運動を絶つため対オーストリア宣戦へと動かします
しかしこの戦争は長期化し、オーストリア・プロイセン軍はパリに迫る事態となりました
ここでかねてから外国と通じているのではないかと疑われていたフランス王ルイ16世に矛先が向き、テュイルリー宮殿が襲撃されて王権は停止、国民公会が招集されます
普通選挙で招集された国民公会ではフイヤン派は姿を消し、ジロンド派が右翼、モンターニュ派が左翼となりました
民衆運動と結合して革命の成果を守ろうとするモンターニュ派は次第に勢力を拡大し、1793年6月にはジロンド派が国民公会から追放されモンターニュ派が独裁権を握ります
国民公会は1793年憲法を採択し革命政府体制を宣言、公安委員会の権限が強化され、ロベスピエールによるいわゆる恐怖政治が行われるようになりました
革命政府は反革命勢力に対する戦いとともに独走しがちな民衆運動のコントロールを図り、厳正な規律の下に政治を主導したのです
しかし94年春にダントン派、そして民衆運動に影響力を持つエベール派を粛清、さらに議会刷新を図るなど、次第に独善的となっていったロベスピエールは孤立を深めていきます
そして1793年7月27日、ロベスピエールは革命政府解消を図る右派、そしてロベスピエールの個人独裁に反発する左派によって逮捕されました
このクーデターによって恐怖政治は終わりを告げ、革命政府は解消に向かい、総裁政府が成立することとなるのでした
本日はテルミドールのクーデターの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年
690
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/28(火) 00:23:56 ID:30C.xg5g
7月28日はペルーが独立した日です
>>681
のコロンビア独立の流れで見た通り、18世紀末から南米では各地で独立運動が盛んになりました
北部ではベネズエラのミランダが逮捕された後はシモン=ボリバルが独立運動を指揮し、1811年にベネズエラ・コロンビア、19年に大コロンビア共和国、25年にはボリビアと、各地域を次々と解放、独立させていきました
一方南部でもアルゼンチン出身のサン=マルティンが独立運動を指導し、1818年にチリ、1821年7月28日にペルーを解放、独立させました
しかし独立後のペルーにおいてサン=マルティンは統治に失敗し、1822年にシモン=ボリバルと会談しその協力を得ようとしますがこれも断念、失意のうちにヨーロッパへと渡ることとなったのでした
本日は独立ペルーの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
691
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/29(水) 00:04:45 ID:YBCqMwzQ
7月29日はキスカ島撤退作戦が成功した日です
キスカ島は1942年、ミッドウェー作戦と同時に行われたアリューシャン攻略作戦で日本軍が占領し、拠点が置かれました
やがてアメリカが反攻作戦を開始すると、アメリカ本土に近い同地も攻撃にさらされるようになります
1943年5月、アメリカ軍はアリューシャン列島に本格的な上陸作戦を行いキスカ島よりも日本本土に近いアッツ島に上陸、守備隊は奮戦したものの玉砕しアメリカの支配下となりました
これでキスカ島はアッツ島とアメリカ本土に挟まれた孤立無援状態となり、キスカ島周辺の制海・制空権はアメリカ軍の手中に収まることとなったのです
この状況でアリューシャン方面の放棄が決定され、キスカ島に残る約5000人の守備隊の撤収作戦が企図されました
この撤収作戦を指揮したのが第一水雷戦隊司令官、木村昌福少将でした
木村少将は艦隊への電探配備、そしてキスカ島周辺に発生する濃霧に紛れての撤収を考えます
電探については当時の最新鋭駆逐艦で電探と逆探を備えた「島風」の配備によって解決します
そして濃霧の発生を確認するため潜水艦をキスカ島周辺に派遣し天候情報の収集を図りました
1943年6月29日、木村少将はキスカ島撤収作戦を開始、旗艦「阿武隈」に軽巡「多摩」「木曾」をはじめ十数隻の部隊でキスカ島へと出撃します
しかしこの日はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れ、木村少将は反転を決意しました
部下はキスカ島突入を主張したものの木村少将は撤退を断行、その際に「帰ろう、帰ればまた来られるからな」と言ったとされています
再び第一水雷戦隊がキスカ島へと出撃したのが同年7月28日で、この時は霧も晴れず、翌7月29日、艦隊はキスカ島へと突入し守備隊5000人の収容に成功したのです
8月1日にはアメリカ軍に見つからないまま幌筵島に到着しました
一方のアメリカ側は日本軍が撤収したことに気付かないままキスカ島への上陸作戦を実施、友軍を日本軍と誤認し同士討ちを行うという有様でした
こうして木村少将の指揮する第一水雷戦隊は、困難な撤収作戦をまさに完遂したのでした
本日は「奇跡の作戦」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社、2010年
・将口泰浩『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』新潮社、2012年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年
692
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/30(木) 00:28:56 ID:xHyUWr4s
7月30日はプラハ窓外投擲事件が起こった日です
>>288
の大シスマによってローマ教皇の権威失墜は決定的となり、各地で教会の世俗化や腐敗がさらに進行していきました
14世紀後半にはオックスフォード大学のウィクリフが教皇権を否定し教会が財産を蓄えることを批判、そしてイングランドの教会・国王の教皇からの独立を訴え、聖書の英語訳を進めます
このウィクリフの説に共感したのがベーメンのフスで、彼もまた教会の土地所有や世俗化を批判、また聖書のチェコ語訳を進め、民衆もこれを支持するようになりました
教皇はこれに対しフスを破門、また神聖ローマ皇帝ジギスムントは1415年、コンスタンツ公会議にてフスを焚刑に処しました
この結果ベーメンではジギスムントに対し激しい怒りが沸き起こり、より急進的なフス派の信仰が広がるようになります
そしてジギスムントがベーメン王も兼ねることになるとついにプラハ市民は決起、1419年7月30日、プラハ市庁舎を襲撃し市長と市参事会員を窓から投げ落とすというプラハ窓外投擲事件が起こります
この事件がきっかけとなって勃発したのがフス戦争です
フス派にはプラハの都市貴族・大学を中心とするウトラキスト派と、農民・職人・下層騎士を中心とするより急進的なターボル派がおり、当初両派は協力したびたび皇帝軍を撃破しました
やがて教皇がバーゼル公会議で妥協案を出し、ウトラキスト派はカトリックと結びターボル派が敗れることになります
1436年にウトラキスト派とカトリックは和約を結びフス戦争は終結しますが、宗教改革やチェコ人の民族運動の先駆として後世に影響を与えることとなるのでした
本日はフス戦争の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・薩摩秀登『物語チェコの歴史 森と高原と古城の国』中央公論新社、2006年
693
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/31(金) 23:08:36 ID:1wozN2uA
7月31日はブレダの和約が結ばれた日です
>>554
で第一次英蘭戦争が終結し、オランダの航海法承認やオラニエ=ナッサウ家の政権中枢からの排除などが取り決められます
この時のオラニエ=ナッサウ家当主が
>>487
のオラニエ公ウィレムで、総督位を世襲してきたオラニエ家が遠ざけられたことでオランダの総督位が空位となりました
しかしイングランドは第一次英蘭において決定的な勝利を収めたわけではなく、オランダへの締め付けは引き続き行われます
1660・63年には、イングランド国内で台頭してきた親スペイン・反オランダ勢力やロンドン商人の支持を背景に航海法が再公布され、これに反発したオランダとの第二次英蘭戦争が勃発します
この戦争ではオランダが決定的勝利を挙げたものの、
>>267
のフランス王ルイ14世がネーデルラント継承戦争を起こしたことでそちらへの対応が急務となり、オランダはイングランドと妥協せざるを得ない状況となります
そして1667年7月31日、イングランドとのブレダの和約が結ばれ、第二次英蘭戦争は終結することとなるのでした
本日は第二次英蘭戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
694
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/01(土) 14:10:31 ID:n7mi3D4w
8月1日はスイス誓約同盟が結成された日です
ドイツではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の対立、12世紀末と13世紀半ばのフランスとイングランドの国王選挙介入、そして大空位時代など、分裂が進んでいきました
1273年にハプスブルク家のルドルフ1世の即位によって大空位時代は終わりを告げますが、今度は様々な家系からの国王選出、また対立王が出現する跳梁選挙時代となるなど、不安定な状況が続いていました
このハプスブルク家のルドルフは自家の領土拡大を第一としており、そのなかで出身地であるスイス地方での支配権確立も目論みます
この動きにスイスの農民や市民は抵抗し、1291年8月1日、ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの3邦が誓約同盟を結成、自由・自治を守るために相互援助を行うことを誓い合いました
この同盟にはその後も他邦が次々と加盟し、
>>441
や
>>650
で見たモルガルテンの戦い、ラウペンの戦い、ゼンパッハの戦いなどハプスブルク軍を度々撃退、1499年のシュヴァーベン戦争にも勝利し、独立を勝ち取ることとなるのでした
本日はスイスの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
695
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/02(日) 00:41:29 ID:p/p7pyaE
8月2日はカイロネイアの戦いが行われた日です
>>667
で見たように、ギリシアではペルシア戦争の後アテネ、ペロポネソス戦争の後スパルタが覇権を握り、ついでテーベが台頭・没落し再びアテネが勢力拡大を目指すなど、ポリス間の抗争が繰り返される混迷の時代が続きます
とはいえこの間にも、ポリス形成が遅れていた辺境の地アイトリアやアカイアで都市同盟が生まれ、成熟しつつありました
そしてそのさらに北方で台頭してきたのがマケドニアでした
マケドニアはポリス形成が遅れ、長らく未開の部族国家としてみなされていましたが、フィリッポス2世の代で国制改革がなされ、急速に勢力を拡大するようになります
マケドニアの強さの理由はフィリッポスによる軍制改革で、テーベが覇権を握っていた頃に人質として滞在していたフィリッポスはテーベの斜線陣・騎馬兵による新戦術を学び、ギリシアのファランクスにも改良を加え軍事力を増強したのです
このマケドニアの脅威に対し、アテネの弁論家デモステネスは反マケドニア同盟の結成を主張し、アテネ・テーベが同盟してマケドニアに対抗することとなります
そして前338年8月2日、マケドニアとアテネ・テーベ連合軍はカイロネイアにて激突し、新戦術を駆使したマケドニアが大勝しました
この勝利によってマケドニアはギリシアでの覇権を握り、翌年にはコリントス同盟を結成してスパルタを除く全ポリスを支配下に収めるのでした
本日はマケドニアの覇権の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年
696
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/03(月) 00:03:18 ID:h6366vJY
8月3日は『ウィリアム・テル』の初演が行われた日です
ウィリアム・テルは
>>694
のスイス独立運動の時代、その口火を切った人物とされています
テルはハプスブルク家が派遣した代官に反発、罰を受けることとなりましたが、息子の頭の上に乗せられたリンゴを見事撃ち抜いたことで許された...というエピソードはよく知られています
ハプスブルク家に立ち向かった英雄として、テルはスイス人の心の拠り所となったのです
テルの活躍は1804年、シラーが戯曲『ヴィルヘルム・テル』で描かれました
折しもフランス革命の思想がヨーロッパ全土へと広がっている頃...テルの伝承が人々の心に響くものがあったのでしょう
そしてイタリアのロッシーニがシラーの戯曲をオペラとして作曲し、1829年8月3日、『ウィリアム・テル』の初演がフランスの王立音楽アカデミーにて行われることとなったのでした
本日はオペラ『ウィリアム・テル』の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・宮下敬三『ウィリアム・テル伝説 ある英雄の虚実』日本放送出版協会、1979年
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
697
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/04(火) 00:27:31 ID:9MqUOMiQ
8月4日は劉秀が漢を再興した日です
漢では武帝の代に行われた数々の外征によって財政難に陥り、社会不安が増大していきました
やがて宮廷では外戚や宦官が勢力を持つようになり、皇帝の権威が失われていきます
一方で地方では豪族が力を付けて地方政治を握るようになり、漢王朝の支配はますます揺らいでいきました
8年には外戚の王莽が実権を握って自ら皇帝となり新を建国しますが、極端な復古政策は各方面での反発を招きました
18年には農民反乱である赤眉の乱が勃発、地方豪族もそれに乗じて反乱を起こし、新はわずか15年で滅亡します
この混乱のなかで、河南省の豪族出身で漢の一族でもある劉秀が諸豪族を率いて勢力を拡大、25年8月4日、皇帝に即位し漢を再興したのでした
本日は後漢の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・金文京『中国の歴史4 三国志の世界(後漢 三国時代)』講談社、2005年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年
698
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/05(水) 00:12:49 ID:3/U7JyyM
8月5日は犬上御田鍬が唐に派遣された日です(旧暦)
中国では618年、
>>425
の隋に代わった唐が統一王朝を建て、律令を中心とする国家体制が整えられました
その勢力は中国のみならず周辺諸国にも広がり、唐を中心とする冊封体制が成立します
唐の都長安には各地から人や商品、文化が流入し世界的な国際都市として発展、東アジアに唐を中心した政治・文化圏が形成されたのです
唐建国当時の日本はというと聖徳太子や蘇我馬子が活躍していた時代で、隋の衰退により途絶した遣隋使に代わり、唐への使節派遣の計画が進みつつありました
622年に聖徳太子が、626年に蘇我馬子が死去すると実権は蘇我蝦夷に移り、彼が擁立した舒明天皇が遣隋使派遣を進めることとなります
そして630年8月5日、遣隋使にも参加した犬上御田鍬が唐へと派遣され、894年に菅原道真の献策による中止に至るまで十数回、遣唐使が派遣されます
この間に日本は唐の政治や文化を取り入れ、日本の国家体制や文化の形成に大きな影響を与えることとなったのでした
本日は遣唐使の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
699
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/06(木) 00:07:49 ID:MTGlx0Nk
8月6日はハインリヒ3世が死去した日です
>>512
で見たように、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世とヴェルフェン家のハインリヒ傲岸公との対立が激化し、神聖ローマ帝国は混乱に陥ることとなりました
傲岸公は1139年に死去したものの、その後を継いだハインリヒ3世獅子公もまたホーエンシュタウフェン家と対立します
1142年、この両家の対立の軟化が試みられ、獅子公にザクセン大公領を授封しバイエルンも与えることでひとまずの妥協が成立しました
獅子公はこの後ドイツ北部、ポーランド北部、バルト海沿岸への十字軍、いわゆるヴェンデ十字軍を指揮し、北方へと勢力を拡大していきます
ドイツにおいても同様に北部へと手を伸ばし、1149年にはオルデンブルク・ラッツェブルク・メクレンブルクの司教区を再建し、そこにドイツ人を入植させます
これらの行動は、後に本格化する東方植民や周辺地域のドイツ化・キリスト教化・ヨーロッパ化の、まさに先駆といえる行動だったのです
獅子公がこのように勢力を拡大している最中、1152年に神聖ローマ皇帝にフリードリヒ1世バルバロッサが即位しました
獅子公をザクセン、バイエルンに授封したのもフリードリヒによる試みで、これは諸侯を帝国秩序に組み込み、その支持を背景に帝国を統治するという狙いがありました
これは一定の成果をあげ、ドイツが安定したことでイタリア方面へと進出したことは
>>625
でも見た通りです
しかしフリードリヒがイタリアへ遠征している間、ドイツは不穏な情勢になりつつありました
ハインリヒ獅子公がフリードリヒに反発して兵士を提供せず、帝国内で私闘を繰り返していたのです
獅子公は1180年、平和令への違反から諸侯に訴えられ、法廷への出頭を拒否したため帝国から追放されてしまいます
獅子公はイングランドへと亡命し、ザクセンとバイエルンの領邦は分割されることとなりました
やがてフリードリヒが死去しハインリヒ6世が後を継ぎ、1191年にはシチリアへの遠征を行います
この隙にハインリヒ獅子公はイングランド王リチャード1世の支持を背景にザクセンへと侵攻しますが、リチャードが第3回十字軍からの帰還中にオーストリア大公レオポルト5世に捕らえられたため、援助を受けられなくなった獅子公は勢力を失います
リチャードはハインリヒ6世に引き渡され、身代金を払ってようやく解放されました
ハインリヒ獅子公は1194年、ハインリヒ6世と和解することとなり、その翌年の1195年8月6日、波乱に満ちた生涯を閉じるのでした
本日はハインリヒ獅子公の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・カール・ヨルダン、瀬原義生訳『ザクセン大公ハインリヒ獅子公 中世北ドイツの覇者』ミネルヴァ書房、2004年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
700
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/07(金) 00:42:27 ID:WH6yUvno
8月7日はルイ=フィリップが即位した日です
>>175
のワーテルローの戦いで敗れたナポレオンはセントヘレナ島へと流され、フランスではルイ18世によるブルボン朝が復活しました
ルイは選挙権を大きく制限するなど反動的な政治を推し進め、ルイの後を継いだシャルル10世もその路線をさらに拡大していきます
シャルルは亡命した貴族の財産を保障し、軍の統帥権を握るなどしたため国民の不満は増大し、その不満を逸らすためにアルジェリア出兵が行われました
しかし1830年7月に行われた選挙で国王反対派が多数派となり、シャルルは議会の招集前に解散、さらに選挙結果を無視し大規模な出版規制を行ったため、国民の不満はますます高まりました
7月27日、ついにパリ市民は決起し、3日間の戦闘によって国王側は敗北、新政府が誕生します
これが七月革命で、新政府では立憲王政派と共和派の対立のなか、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ=フィリップが国王に推されたのです
そして1830年8月7日、ルイ=フィリップは国王に即位し、フランスではやや緩和された制限選挙制による立憲君主政が成立したのでした
本日は七月王政の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
701
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/08(土) 00:56:50 ID:EOmHQ.TY
8月8日はメルセン条約が結ばれた日です
>>488
で見たヴェルダン条約によってフランク帝国は三分割され、ロータル1世は皇帝位と中部フランクを、ルートヴィヒ2世ドイツ人王は東フランクを、シャルル2世禿頭王は西フランクを領有することとなりました
855年にロータル1世が死去すると、中部フランクはその3人の息子によって分割され、長男ルートヴィヒ2世は皇帝位とイタリア王国を、次男ロータル2世はその名にちなむロートリンゲンを、シャルルがプロヴァンスとブルグント南部を相続しました
この時点で皇帝は実質的にイタリア王に過ぎない存在となります
863年にシャルルが亡くなるとその領土は分割され、長兄のルートヴィヒ2世がプロヴァンスを、次兄のロータル2世がブルグント南部を相続しました
869年、ロータル2世が死去するとその領土は叔父にあたる西フランク王シャルル2世禿頭王にいったんは帰属しましたが、その領土配分を改めて明確としたのがメルセン条約でした
870年8月8日、西フランク王シャルル2世禿頭王と東フランク王ルートヴィヒ2世ドイツ人王との間で領土配分が行われ、ロートリンゲンがマース川・モーゼル川・ソーヌ川・ジュネーヴ湖のラインで東西フランク王国に分割され、フランク帝国の大陸部は二分されることとなったのです
これが今日に至るフランス・イタリア・ドイツの原型となるのでした
本日はフランス・イタリア・ドイツの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
702
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/09(日) 01:04:51 ID:361DLUVs
8月9日はアドリアノープルの戦いが行われた日です
ローマ帝国では3世紀の危機
のなか即位したディオクレティアヌスが
>>507
のように四分統治を行い属州の反乱や外敵の侵入に対処しました
ディオクレティアヌスの死後は
>>331
のコンスタンティヌスが統一の皇帝となったものの、基本的には東西に分かれて統治が行われていました
一方ローマ帝国の周辺異民族ですが、そのうちの1つゴート族は1〜3世紀頃にポンメルンから黒海沿岸まで南下し、3世紀半ばからはローマ帝国領の小アジアやバルカン半島へと侵入し251年には皇帝デキウスを戦死させたこともありました
しかし皇帝クラウディウス以降の軍人皇帝たちはゴート族に対し勝利を続け、この方面の脅威は無くなったかのように見えました
しかし4世紀後半、アジアから遊牧民のフン族が西進、黒海沿岸に居住していたゴート族はフン族によって壊滅的打撃を受けます
ドナウ川の北岸に居住していたゴート族もフン族の圧迫を受け、376年、東の皇帝ウァレンスの許可を得てドナウ川を渡りローマ領内に移住することとなりました
ところがこのゴート族はローマ帝国からの冷遇もあって食糧難に苦しみ、ローマ官僚の不正もあって暴徒化してしまいます
ゴート族の暴動によりトラキアの情勢は不穏なものとなり、ウァレンスはこれを鎮圧するため親征を決定しました
この際、西の皇帝となっていたグラティアヌスとウァレンティニアヌス2世は援軍を送りますが、ウァレンスはこの援軍を待つことなく単独でゴート族鎮圧に向かいます
378年8月9日、ウァレンスはアドリアノープルから出撃しゴート族に攻めかかりますが、結果はあえなく大敗、ウァレンス自身も戦死するという壊滅的敗北を喫しました
帝国東方ではこれを受けてテオドシウス1世が皇帝となり、ゴート族を同盟部族と認め、ローマへの軍事力提供と引き換えにトラキアへの定住を許可し、事態を収集することとなるのでした
本日はウァレンスの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
703
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/10(月) 00:08:01 ID:DrhEjHhU
8月10日はヴェルダン条約が結ばれた日です
フランク帝国は
>>455
でも見た通り、分割相続と帝国の統一維持という矛盾に直面し、シャルルマーニュの後を継いだルートヴィヒ敬虔帝は817年に帝国計画令を発しました
これに基づき、共同皇帝となっていたロータル1世はルートヴィヒ敬虔帝の死後、帝国全土を継承することとなります
その弟のピピンとルートヴィヒドイツ人王は、皇帝ロータルの宗主権下にあるという前提のもとで、それぞれアクィタニアとバイエルンを与えられました
こうして帝国計画令のもとで帝国の統一性維持の枠組みが作られ、ルートヴィヒ敬虔帝とロータルが帝国を統治、その周辺に位置する先のアクィタニア・バイエルンに加えイタリアの三王国が組み入れられたのです
ここではあくまで分割相続に則った上で帝国は全体として階層的に統一されるという構想が実現したものの、やがて頓挫することとなってしまいます
>>488
で見たように、ルートヴィヒ敬虔帝は晩年、四男にも王国を与えようとしたことで兄弟間の対立が激化し、敬虔帝の死後ルートヴィヒドイツ人王とシャルル禿頭王が皇帝ロタールに挑戦するという事態に陥ったのです
843年8月10日、この3人はヴェルダン条約を結び、対立はひとまず収まりました
この条約においても名目上は帝国の統一は維持されていましたが、実質的には完全な主権を持った国家による分割であり、帝国の統一性は失われることとなったのでした
本日は中部・東・西フランク王国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
704
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/11(火) 00:14:15 ID:kv90O9q2
8月11日はヴァイマル憲法が制定された日です
ドイツでは第一次世界大戦末期、
>>339
で見たようにキール軍港にて水兵反乱が勃発し、これに陸軍兵士や労働者も加わって運動は急速に拡大し、各地で労働者・兵士の評議会であるレーテが成立して権力を握りました
皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、社会民主党のエーベルトは社会民主党・独立社会民主党の連立による人民委員政府を発足して事態を収拾します
その後社会主義勢力は3つに分裂して対立します
まずローザ=ルクセンブルク、カール=リープクネヒトらのスパルタクス団はドイツ共産党となり、最も急進的な改革を目指しました
独立社会民主党はレーテを存続させ、基幹産業の社会化と軍・行政機構の民主化を図りました
社会民主党は憲法制定を第一とし、革命運動は混乱を助長するものとして否定的に捉えていました
この中で優位となったのが全国的な組織を有しその支持も得ていた社会民主党で、これにより革命の阻止が進むこととなります
また、1918年12月の全国レーテ大会で議会制民主主義が支持されたこともあって翌1919年1月に国民選挙が実施され、社会民主党勢力の反革命運動に反発した独立社会民主党が人民委員政府を離脱したことで社会民主党単独の政府が成立したのです
同時期にはルクセンブルク、リープクネヒトらが暗殺され、社会民主党の勢力はますます増大していきます
こうして第一党となった社会民主党は、革命派の勢力が強いベルリンを避けてヴァイマルに国民議会を招集し、中央党・民主党との三党連立政府、ヴァイマル連合が成立しました
この議会で新しい憲法案が審議され、1919年8月11日、ヴァイマル憲法が制定されます
この憲法は国民の参政権をはじめとした公民権を保障し、生存権・労働権をも保障、青少年・家族の保護も盛り込んだ福祉国家の基本的な枠組みも備えた、当時最も民主的な憲法として評価されることとなったのでした
本日はヴァイマル共和国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治他『世界歴史大系ドイツ史3 1890年〜現在』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二他『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
705
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/12(水) 00:43:19 ID:b1VWl9Pc
8月12日はクレオパトラ7世が死去した日です
>>165
でアレクサンドロス大王が亡くなった後、彼の後継者候補は互いに争い、各地に王朝を建てます
その一つプトレマイオス朝ではエジプトの伝統に則り、ファラオの神聖性を維持するために近親婚を繰り返していました
そのため庶子の産まれであるプトレマイオス12世が前80年にファラオとなった際にはその正統性の弱さから国内の支持が弱く、ローマの支援に依存するようになったのです
他国の介入を嫌ったエジプト人は前58年に反乱をお越し、プトレマイオス12世はローマへの亡命を余儀なくされました
この時ローマのポンペイウスはプトレマイオスを助け、ファラオへと復位させます
その後前51年にプトレマイオスは死去し、その娘クレオパトラ7世と息子プトレマイオス13世が共同統治という形で後を継ぐこととなります
しかしこのローマの支援を得ようとするクレオパトラと、ローマの影響力を排除しようとするプトレマイオスは激しく対立しやがてローマも巻き込んだ内戦にまで発展しました
この内戦を調停し収めたのがカエサルで、クレオパトラはカエサルの支持によってもう一人の弟プトレマイオス14世との共同統治者になることを認められます
>>533
のカエサルの死後、クレオパトラはカエサルの後継者候補の一人でローマ東方を支配していたアントニウスに近付きます
クレオパトラとアントニウスとの間には3人の子が産まれ、地中海世界における覇権を目指しますが、アントニウスと同じくカエサルの後継者候補であったオクタウィアヌスはアントニウスを弾劾しプトレマイオス朝に宣戦を布告しました
こうして前31年9月に起こったのが
>>268
のアクティウムの海戦で、この戦いでアントニウス・プトレマイオス朝連合軍は敗れ、クレオパトラとアントニウスはエジプトへと逃れます
これを追撃したオクタウィアヌスは各地で連合軍を撃破し、前30年8月にはアントニウスが自殺しました
クレオパトラもまた、ローマに連行され晒し者となることを拒み、アントニウスの後を追うように自殺します
こうしてエジプトはオクタウィアヌスによって制圧され、クレオパトラとカエサルとの息子カエサリオン、ファラオとしてはプトレマイオス15世も殺害され、プトレマイオス朝は滅亡することとなったのでした
本日はプトレマイオス朝最後の女王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・小川英雄・山本由美子『世界の歴史4 オリエント世界の発展』中央公論新社、2009年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
706
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/13(木) 00:34:46 ID:xehV8b4o
8月13日はブレニムの会戦が行われた日です
1665年に即位したスペイン王カルロス2世は、ハプスブルク家の度重なる近親婚により病弱で、世継ぎがいないまま1700年11月に亡くなってしまいます
彼の遺言で後継者に指名されたのはフランス王ルイ14世の孫フィリップで、フェリペ5世としてスペイン王に即位しました
しかしフランスの勢力拡大に反発する神聖ローマ皇帝レオポルト1世は息子カールのスペイン王即位を宣言し、フランスに宣戦布告します
こうして始まったのがスペイン継承戦争でした
フランスに対しては神聖ローマ帝国、イングランド、オランダが同盟の中心となり、ハノーファー選帝侯やブランデンブルク選帝侯など多くのドイツ諸侯が同盟国側につきました
フランス側にはスペイン、サヴォワ、ポルトガル、バイエルン選帝侯が味方します
フランス軍はボフルール公、ヴィラール公、ヴィルロワ公、ヴァンドーム公などが軍司令官となり、同盟国側は
>>451
の対オスマン帝国戦争で活躍したプリンツ=オイゲンが帝国軍を率いました
そしてイングランド軍を率いることになったのがマールバラ公ジョン=チャーチルでした
マールバラ公は1650年生まれで、若い頃はフランスの名将テュレンヌに従い、その機動戦・攻城戦・兵站などを直に学ぶ機会を得ていました
彼はイングランド王ウィリアム3世には疎まれていたものの、ウィリアムの死後女王となったアンには重用され、イングランド軍司令官に抜擢され、オランダもまた彼に軍を任せるのです
スペイン継承戦争の緒戦、フランスはドイツ方面に軍を展開、バイエルン選帝侯マクシミリアンがドナウ川沿いに軍を進めたのに呼応し、ヴィラール公はウィーンを直接攻撃する態勢を整えました
この局面を打開するため、マールバラ公はイングランド・オランダ軍を率いてバイエルンに向かい、フランス・バイエルン連合軍を撃破する大遠征作戦を行います
1704年4月、マールバラ公はイングランドを出立してオランダに向かい、そこからバイエルンに向けて約400kmという常識外れの長距離機動を開始しました
フランスのヴィルロワ公はこれを追うものの、マールバラ公の行軍ルートがフランス本国を含む複数の拠点攻撃の可能性を残していたため慎重な行動を取らざるをえず、マールバラ公は巧みにフランス軍の追撃をかわして8月上旬にはプリンツ=オイゲンの帝国軍との合流に成功したのです
こうして態勢を整えたマールバラ公は1704年8月13日、ブレニム近郊に布陣するフランス・バイエルン連合軍に対し攻撃を仕掛けます
マールバラ公はまず連合軍の両翼に攻撃をかけ、連合軍が予備兵力を両翼に投入したのを見計らって連合軍中央を突破しました
連合軍は総崩れとなり、壊滅的な打撃を受けたバイエルン軍は撤退、ブレニムの街に押し込められていたフランス軍も降伏します
この勝利によってフランス・バイエルン連合軍がウィーンを攻撃する危機は去り、バイエルン選帝侯領は神聖ローマ帝国の支配下となりました
マールバラ公はブレニムへ向かう際の欺瞞機動、ブレニムの会戦における柔軟な戦術指揮によってその判断力・決断力・創造力を高く評価されることとなったのでした
本日はマールバラ公会心の勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーファー朝誕生史』彩流社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
707
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/14(金) 00:18:50 ID:dP4Tj2/6
8月14日はアルジュバロータの戦いが行われた日です
>>555
でも見たようにポルトガルではフェルナンド1世の死後、カスティーリャ王フアン1世の介入が始まり、それを嫌ったポルトガル人がジョアンを国王に選出、ジョアン1世として即位します
もちろんこれで問題が決着したわけではなく、フアンは妻でフェルナンドの娘でもあったベアトリスの王位継承を主張してポルトガルに乗り込んできました
ポルトガルはフアン派とジョアン派に分かれた内戦状態となり、ジョアンはフアンについた諸都市を攻撃し直接対決への準備を整えます
ジョアンはまた
>>552
のランカスター公ジョン=オブ=ゴーントの娘フィリッパとの結婚によってイングランドと同盟を結び、その援軍を得たジョアンは都リスボンの北方に位置するレイリアに布陣し防衛戦を築き待ち構えました
一方のフアンはフランスと同盟を結びその騎士軍を加えレイリアへと南下していきます
英仏百年戦争の真っ只中の時期、両軍の対決はイベリア半島における英仏の対決でもあったのです
1385年8月14日、カスティーリャ・フランス軍の突撃によってアルジュバロータの戦いは始まりました
ポルトガル・イングランド軍は数においては劣勢だったものの、防衛陣地を有効に活用し、またイングランド長弓隊の活躍もあってカスティーリャ・フランス軍に大打撃を与え、敗走させたのです
フアンは戦場から離脱し、この勝利によってポルトガルにおけるジョアンの地位は確実なものとなりました
以後も国境付近で散発的な戦闘はあったものの、ジョアンはカスティーリャの影響力を排除しポルトガルの繁栄を導くこととなるのでした
本日はジョアン1世の王位確立日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年
708
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/15(土) 00:41:54 ID:4gPfspic
8月15日はミカエル=パレオロゴスが即位した日です
>>227
で見たように、ビザンツ帝国の亡命政権ニケーア帝国のミカエル=パレオロゴスは1261年7月にコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を再興しました
同年8月15日にミカエル8世として即位すると、彼は自らをコンスタンティヌス大帝になぞらえ、ギリシアにおける勢力回復に奔走します
まずペラゴニアの戦いで捕虜としたアカイア公ギョームを解放する代わりにペロポネソス半島の領土を譲渡させ、翌年にはブルガリアにも勝利し黒海沿岸に領土を獲得したのです
しかしそのミカエルの前に強大な敵が出現します
それが
>>504
などで見たシチリア王シャルル=ダンジューでした
シャルルは娘をラテン帝国最後の皇帝ボードゥアン2世の息子に嫁がせてラテン帝国の相続権を得、またイェルサレム王国の相続権も得て東地中海に大帝国を築く野望を抱いていました
1267年にはアカイア公ギョームと同盟し、コンスタンティノープル遠征計画を立てましたが、これはホーエンシュタウフェン家のコンラーディンのイタリア侵入によって中止されます
シャルルは
>>332
のタリアコッツォの戦いでコンラーディンに勝利し、1270年、再びコンスタンティノープル遠征を企てました
しかし今度は
>>576
で見た、兄であるフランス王ルイ9世の十字軍を支援するため、またもやコンスタンティノープル遠征は延期することとなります
またシャルルと敵対するジェノヴァの行動も活発となり、その対応のため新たなコンスタンティノープル遠征を計画することができなくなったのです
この間ミカエルは東西教会の合同を持ちかけ、1274年のリヨン公会議で教会合同が実現、シャルルのコンスタンティノープル遠征に大義を失わせることに成功しました
ミカエルはさらにジェノヴァとの同盟を強化し、ジェノヴァを通じてカスティーリャとも連携、さらに1275年のデメトリアスの海戦でエーゲ海の制海権を握った後はヴェネツィアとの条約も結び、ギリシアでの勢力を確保しつつありました
しかし東西教会の合同に関しては国内で反対派が多く、その実現は不透明なままでした
やがてローマ教会では1281年、シャルルと親密なマルティヌス4世が即位し、シャルルの要請もあって教会合同の交渉を打ち切り、またラテン帝国復活を目指すシャルルのコンスタンティノープル遠征にお墨付きを与えたのです
ミカエルは窮地に陥りました
ヴェネツィアもまたシャルルの遠征に参加し、ギリシアのラテン人、バルカン半島のスラヴ諸国やビザンツ亡命政権もまた攻撃の機会をうかがっていたのです
この状況でミカエルが頼みとしていたのはアラゴンの艦隊でした
ミカエルはアラゴンの宰相ジョヴァンニ=ダ=プロチダと連絡を取り、反シャルル勢力間の同盟に成功していました
またシチリア住民のシャルルの統治への不満を煽り、資金援助も行って反乱を起こす下地も整えていました
そうしていわゆるシチリアの晩鐘事件が起こったのは
>>632
でも見た通りです
このシチリアの晩鐘とその後のアラゴンとの抗争、いわゆる晩鐘戦争によってシャルルのコンスタンティノープル遠征は以後計画されず、ミカエルはバルカン半島と小アジアに専念する余裕を得ました
このように彼はコンスタンティノープルを奪回して帝国を再建し、その敵対勢力を封じ込めて帝国に安定をもたらすという功績を挙げ、その治世を終えたのでした
本日はパレオロゴス朝初代皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
709
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/16(日) 01:53:54 ID:z8iKiIqs
8月16日は「金剛」が竣工した日です
19世紀末、各国では艦隊決戦を想定した装甲巡洋艦の建造が進みました
20世紀に入るとこの装甲巡洋艦を圧倒る火力を持ち、かつ巡洋艦と共に行動できる速力を備えた巡洋戦艦が登場します
その先駆となったのがイギリスの「インヴィンシブル」で、この情報を入手した日本は巡洋戦艦の導入を検討しました
しかし当時の日本の技術力では新艦種である巡洋戦艦の建造は困難であったため、イギリスに建造を発注し、超弩級戦艦の建造技術を国内に移転することを図ったのです
イギリスはアームストロング社とヴィッカース社が試案を提示し、日本はそれを元に14インチ連装砲4基のB39案、同3基のB40案、12インチ連装砲3基のB41案が練られましたが、軍令部が50口径12インチ連装砲を主張したため、1910年5月に50口径12インチ連装砲4基のB46案がまとまりイギリスへと持ち込まれました
同年7月にはアームストロング社とヴィッカース社から設計書と見積書が提示され、ヴィッカース社の方が設計に優れより安価であったためヴィッカース社へ建造を依頼することとなりました
ヴィッカース社と交渉を進めるなかで、日本は同社から提案された45口径14インチ砲の採用を勧められ、これに同意しました
最終的には同年11月に建造計画がまとまり、翌1911年1月にヴィッカース社のバーロー造船所にて「伊号装甲巡洋艦」として建造が始まります
その翌年1912年5月には無事進水し名前も「金剛」と正式に命名、翌1913年8月16日、竣工するに至ったのです
こうして完成した金剛型巡洋戦艦1番艦「金剛」は当時としては世界初の14インチ砲を装備した艦であり、また世界最大の巡洋戦艦でもありました
以後ヴィッカース社の資材提供・技術移転を受けて日本国内でも姉妹艦の「比叡」「榛名」「霧島」も建造され、その就役は日本海軍の戦力増強に大きく貢献することとなったのでした
本日は帝国海軍最後の外国製戦艦の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・「世界の艦船 1999年6月号 特集巡洋戦艦 軍艦史上の異彩を顧みる」海人社、1999年
・福井静夫『日本戦艦物語1』光人社、2008年
・「丸 2014年3月号 金剛型戦艦」光人社、2014年
710
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/17(月) 00:01:17 ID:IK9R1v2o
8月17日はトラヤヌスの門の戦いが行われた日です
>>133
で見たように、ブルガリアはシメオン1世がコンスタンティノープル総主教から皇帝として加冠され、またブルガリア大主教を総主教に格上げさせてブルガリア正教会の独立を実現、第一次ブルガリア帝国の最盛期を現出しました
しかし彼の度重なる征服戦争は国力の疲弊を招き、財政は破綻することとなります
927年にシメオンが死去すると以後は積極的な行動を取れなくなったのです
シメオンの後を継いだのはペタル1世でしたが、彼の治世でブルガリアはビザンツ帝国の一従属国となり、セルビア人やマジャール人との戦いで疲弊していきます
ペタルの後を継いだボリス2世の代でもブルガリアの劣勢は続き、969年にはキエフ大公国の攻撃で壊滅的な打撃を受けました
971年にはブルガリアを併合し、ボリスはコンスタンティノープルにて退位、ブルガリア正教会も再びコンスタンティノープル総主教の管理下に置かれることとなったのです
しかし976年、ビザンツ皇帝ヨハネス1世が急死し新たにバシレイオス2世が即位すると、ビザンツ帝国では反乱が勃発します
貴族が起こしたこの反乱は約2年間に渡って続き、これに乗じてブルガリアでは地方長官の子であったサムイルが独立国家を建設、シメオン1世の後継者を自称して皇帝を名乗りました
バシレイオスはこれを鎮圧するため自ら軍を率いブルガリアに侵攻しますが、986年8月17日、トラヤヌスの門の戦いにてサムイルに大敗、コンスタンティノープルへの撤退を余儀なくされます
その後ビザンツ帝国では軍事権を掌握していた大貴族バルダス=フォーカスの反乱が起こり、これに多数の貴族が加担したためバシレイオスはその鎮圧に謀殺されました
一方サムイルはビザンツ帝国への反撃を開始、一時は旧ブルガリア帝国領の大半を回復、バルカン半島をほぼ制圧することとなったのでした
本日は第一次ブルガリア帝国復興の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
711
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/18(火) 00:31:33 ID:RXUVJ782
8月18日は第1回全国中等学校優勝野球大会が開幕した日です
1915年7月2日、日本全国の中等学校から各地方代表を代表する学校が集まり、選手権を行うとの告知が朝日新聞の紙面上で発表されました
しかし発表が開催のわずか一ヶ月前だったためすぐに予選を始める必要があり、予選に参加できない学校がほとんどで、全国で73校のみによる予選が行われることとなります
北海道地区は当時対外試合が禁止されていたため全校不参加でした
東北地区は単独での参加を申し込んだ秋田中(現秋田高校)が無条件での参加の許可がおりなかったため、県内の3校で予選を行い、これを勝ち抜き東北代表として出場を決定します
関東地区は予選が間に合わなかったため、春の東京府大会で優勝していた早稲田実業、今大会にも出場しベスト4進出を決めている早稲田実業が代表校となりました
東海地区は愛知・岐阜・三重からそれぞれ2校ずつが参加し、これを三重の山田中(現宇治山田高校)が出場を決めます
北陸地区は8月下旬に北陸大会が開催されるため日程が合わず不参加となりました
京津地区では京都・滋賀合わせて11校が参加し、京都二中、今大会3回戦まで進んだ現鳥羽高校が代表となります
兵庫県は単独出場が認められ、7校による予選を勝ち抜いた神戸二中(現兵庫高校)が出場することとなりました
関西地区は大阪・和歌山で予選を行い、和歌山中、今年春の選抜で21世紀枠で出場した現桐蔭高校が代表権を得ます
山陰地区は鳥取・島根が戦い、鳥取中(現鳥取西高校)が出場を決めました
山陽地区は広島と岡山の間で争われ、広島中(現広島国泰寺高校)が代表となります
四国地区は香川・徳島が参加し高松中(現高松高校)が勝ち抜きました
九州地区は福岡・長崎の参加で行われ、久留米商が代表校となります
以上の出場を決めた10校の間で選手権が行われることとなり、今からちょうど100年前の1915年8月18日、大阪府の豊中グラウンドにて開幕しました
23日まで行われたこの大会で京都二中(現鳥羽高校)は決勝戦で秋田中(現秋田高校)を破って記念すべき初優勝校となったのでした
本日は「甲子園」の誕生日です、おめでとうございます
712
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/19(水) 01:42:35 ID:kvaKH/XU
8月19日はフリードリヒ3世が死去した日です
神聖ローマ帝国では
>>296
などで見たジギスムントが1437年に死去したことでルクセンブルク朝が断絶し、ハプスブルク家のアルブレヒト2世がドイツ王となりました
しかしアルブレヒトは正式に皇帝となることのないまま急死し、息子のラディスラウスが若年であったために、はとこのフリードリヒがラディスラウスの後見としてドイツ王となります
ハプスブルク家の宗家であったアルブレヒトに対し、フリードリヒは傍系の出にすぎませんでしたが、1457年にラディスラウスが夭折するとその遺領はフリードリヒのものとなり、オーストリアを手に入れることとなりました
やがてフリードリヒの弟アルブレヒトが元服すると、所領の分割を巡って2人は争い、フリードリヒは弟によって幽閉されます
フリードリヒは辛うじてウィーンから逃亡し、そのうちにアルブレヒトが急死したためにウィーン帰還に成功するという風に、悪運の強さを発揮するのです
フリードリヒの悪運は対外政策においても発揮されます
1452年、彼は正式に皇帝として戴冠しフリードリヒ3世となりますが、その翌1453年に
>>146
で見たようにビザンツ帝国が滅亡し、長年問題となっていた二帝問題が解消され、フリードリヒが単独の皇帝となったのです
またオスマン帝国の脅威に対しハンガリー王マーチャーシュ1世はオーストリアを併合して対抗することとし、実際にオーストリアに侵攻しオーストリア大公の地位を獲得、ウィーンを占領するという勢いでした
しかしこのマーチャーシュもまた急死し、フリードリヒはウィーンに帰還するのです
ブルゴーニュ公国のシャルル突進公に対しても悪運が働きました
>>414
で見たように、シャルルはフリードリヒに対し「ローマ人の王」の称号を要求し帝国諸侯のなかにもこれを支持する者がいた状況で、フリードリヒはのらりくらりと名言を避け、そのうちにシャルルはナンシーの戦いで戦死したのです
そしてこのシャルルの娘マリーと、フリードリヒの息子マクシミリアンが結婚することでネーデルラントを獲得します
このマクシミリアンが
>>540
で見た神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世でした
フリードリヒの治世は50年以上に渡るものとなり、1493年8月19日、77歳で死去します
その間にフリードリヒの敵対勢力はことごとく力を失い、ハプスブルク家の世襲が確立することとなります
そして
>>502
で見たように帝位はマクシミリアン1世からカール5世へと相続され、広大なハプスブルク帝国が実現するのでした
本日は単独王マクシミリアンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
713
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/20(木) 00:27:10 ID:VjQbeii6
8月20日はイシュトヴァーン1世が列聖された日です
>>394
で見たように、ハンガリーのイシュトヴァーン1世はパンノニアにてキリスト教国家を確立し、神聖ローマ皇帝オットー3世同意の下、ローマ教皇シルウェステル2世によって1000年、ハンガリー王として戴冠しました
ここにハンガリー王国が成立し、またその王冠は「聖イシュトヴァーンの王冠」として代々ハンガリーで受け継がれ王権の象徴となり、またその領土は「聖イシュトヴァーンの王冠の地」としてハンガリーの基礎となったのです
こうしてイシュトヴァーンはハンガリーの国際的地位を高め、国内の統一を達成し、また王国全土に王城県を設置して地方長官を置くなど、以後のハンガリーの国制の基礎も築きました
イシュトヴァーンは1038年に死去し、彼の男子が皆早逝していたこともあって後継者争いが勃発します
これを収め1077年に即位したのが聖王ラースロー1世で、彼は再びハンガリーをキリスト教国家として整備した後の1083年8月20日、キリスト教国家の基礎を確立したイシュトヴァーンの功績を讃え、列聖しました
この日はハンガリーの建国記念日として祝日となっているのです
本日はハンガリーの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
・南塚信吾『図説ハンガリーの歴史』河出書房新社、2012年
714
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/21(金) 00:14:57 ID:1nA5IZXA
8月21日は源頼朝が征夷大将軍に就任した日です
>>378
の平治の乱の後、平清盛は平氏一門による専制政治を確立し、繁栄を謳歌していました
しかし貴族、寺社、地方武士の平氏への不満は高まり、1180年には以仁王と源頼政が園城寺や興福寺支持のもと挙兵、全国の武士へ平氏打倒の令旨を発します
2人は平清盛によって討ち取られますが、この挙兵に呼応した武士が各地で決起し、治承・寿永の内乱が始まったのです
反平氏勢力のうち特に有力だったのが伊豆で挙兵した源頼朝で、石橋山の戦いに敗れたものの盛り返し、鎌倉を本拠として東国の武士を糾合していきました
平氏は頼朝追討軍を派遣しますが富士川の戦いで大敗し、さらに1181年に平清盛が病没、西国での大飢饉も重なり大打撃を受けます
1183年には信濃で挙兵した源義仲に倶利伽羅峠の戦いに敗れ、義仲はそのまま京都に乱入し平氏は西国へと逃れることとなりました
義仲は京都を占領するもののその統治に失敗し、頼朝が派遣した源範頼・義経の軍によって滅亡します
この間平氏は福原に戻りますが一ノ谷の戦いで再び福原から追い落とされ、屋島の戦いを経て1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡するに至りました
この後、後白河法皇は頼朝の勢力拡大を危惧し、義経を取り込み頼朝追討の軍を発しますが失敗し、義経は奥州平泉に逃れたものの藤原氏ともども討ち果たされ、頼朝の地位が確立したのです
この間頼朝は鎌倉から動かず、新政権の準備を進めていました
1180年に侍所、84年に公文所、後の政所と問注所を設置し、85年には全国に守護・地頭を置き、この時点で鎌倉幕府の基礎が出来上がります
そして1192年8月21日、頼朝は征夷大将軍に就任し、ここに名実ともに鎌倉幕府が確立することとなったのでした
本日は鎌倉幕府将軍の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
・高橋典幸『日本史リブレット人26 源頼朝 東国を選んだ武家の貴公子』山川出版社、2010年
715
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/22(土) 00:38:51 ID:nhOneSBg
8月22日はスティリコが処刑された日です
>>702
のアドリアノープルの戦いでローマ軍が大敗し皇帝ウァレンスが戦死した後、東の皇帝となったテオドシウス1世は軍の再編を行い、ゲルマン人の兵士も数多く編入されました
ローマ軍の指揮権を握るゲルマン系将軍も現れるようになり、そのなかの1人がスティリコでした
ヴァンダル人の父とローマ人の母を持つスティリコはテオドシウスの護衛隊長として信頼を寄せられ、テオドシウスは自身の姪とスティリコを結婚させるほどでした
スティリコはテオドシウスが死去しローマ帝国が最終的に東西に分裂した後、西の皇帝となったホノリウスの後見役となります
しかしスティリコがダキア・マケドニアの帰属問題で東ローマ帝国と対立すると、これに乗じて西ゴート族のアラリックがギリシアで略奪したのは
>>259
でも見た通りです
スティリコはアラリック討伐に向かいますが、東ローマ帝国はスティリコを撤退させ、さらにアラリックをイリュリクムの総司令官に任じたのです
401年にはアラリックはイタリアへと侵入しますが、これはスティリコによって撃退されました
405年にもゲルマン人の混成軍がイタリアに侵入しますがこれもスティリコが撃退します
しかしこのスティリコの活躍を快く思わない人々がいました
蛮族であるヴァンダル人出身の将軍が軍事・政治の実権を握っていることを嫌う元老院、皇帝側近の人々です
彼らはホノリウスに讒言を行い、これを真に受けたホノリウスはスティリコの処刑を決定しました
408年8月22日、スティリコはラヴェンナにて処刑され、これにより配下の将軍もローマ軍から離脱、さらにゲルマン人兵士の多くもアラリックの下へ奔るなどローマ軍は大きく弱体化、
>>259
のローマ刧掠に至るのでした
本日は西ゴート優勢の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
716
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/23(日) 00:27:37 ID:/XOyfk82
8月23日はプラハ条約が結ばれた日です
ドイツ統一を主導するプロイセンに対しオーストリアが反発し、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題が直接のきっかけとなって勃発した普墺戦争は、
>>198
のケーニヒグレーツの戦いでプロイセンが大勝を収めます
しかしイタリア方面ではイタリア軍を破ったオーストリア軍が態勢を立て直しつつあり、またフランス皇帝ナポレオン3世が介入しようとしていました
プロイセン国内では国王ヴィルヘルム1世をはじめウィーン入城やベーメン侵攻を主張する声が大きかったものの、プロイセン宰相ビスマルクはこれ以上の戦いは無益と判断し、停戦交渉に入ります
ケーニヒグレーツの戦い後の1866年7月26日、ニコルスブルク仮講和条約が結ばれ、これをもとに正式な講和条約交渉が進められました
そして1866年8月23日、プラハ条約が締結され、プロイセンはヴェネツィアをイタリアに割譲させた以外はオーストリアに一切の領土割譲を要求せず、ドイツ連邦の解散、オーストリアを除外したドイツ統一を受け入れさせるだけに留めたのです
これによってドイツ統一の方向性としての大ドイツ主義は最終的に断念され、プロイセンは新しい連邦として
>>82
の北ドイツ連邦の結成に進んでいくのでした
本日はドイツ連邦・大ドイツ主義の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
717
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/24(月) 00:34:56 ID:RlUYK1bY
8月24日はサン=バルテルミの祝日です
>>687
で見たように、16世紀半ばのフランスではギーズ公フランソワを中心とするカトリック派、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌを中心とするプロテスタント派、そして摂政カトリーヌ=ド=メディシスの三つ巴の対立からユグノー戦争が勃発しました
戦いは第一次、第二次と断続的に行われ、 第三次戦争が終結することになった1570年のサン=ジェルマン=アン=レーの和議において、ユグノーは大幅な信教の自由を獲得することに成功します
ここで宮廷復帰を果たしたのがプロテスタント派の最高指導者であるコリニー提督でした
幼い頃に父親をなくしていた国王シャルル9世はこのコリニーを父親として慕い、その政策はコリニーの意向に従うようになります
1572年にはイングランドとブロワ条約を結び、ともにスペインに対抗し、スペイン支配下のネーデルラントのカルヴァン派を支援すると約束したのです
しかし母であるカトリーヌ=ド=メディシスはこれに反対しました
スペインと本格的に戦うことになれば、フランスが窮地に追い込まれることは明白だったからです
しかしコリニーを中心に宮廷で優位を確立していたプロテスタント派の声は大きく、スペインとの対決はますます進められていきました
ここに至り、カトリーヌは融和政策を放棄し、プロテスタント派の最高指導者コリニー暗殺を決定します
カトリーヌは自身の娘であるマルグリット=ド=ヴァロワを、プロテスタントの指導者の1人であるアンリ=ド=ナヴァールと結婚させ、カトリック・プロテスタント両派の和解を図っていました
しかし融和政策を捨てたことで、この2人の結婚式が利用されることとなります
プロテスタント派が結婚式への参列のためにパリに集まっていた1572年8月24日、カトリーヌと彼女と共謀したギーズ公アンリによってコリニーはじめ多くのプロテスタント派が虐殺されたのです
虐殺はパリに留まらず各地に広がり、9月初頭まで続けられた虐殺でその犠牲者は一万人以上に及びました
カトリック・プロテスタント両派の和解となるはずだった結婚式は最悪事態へと変貌し、両派の関係は決定的に悪化、ユグノー戦争はますます激化することとなったのでした
本日はサン=バルテルミの虐殺の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
718
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/25(火) 00:07:16 ID:c/94u.qg
8月25日はイヴァンが産まれた日です
「タタールのくびき」の下にあったロシアでは1472年、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティヌス11世の姪であるソフィアと、モスクワ大公イヴァン3世が結婚し、ビザンツ帝国の後継者・ギリシア正教の保護者としての地位を得ました
1480年にはモンゴルの大ハーンへの歳貢を停止し、モンゴルが派遣した軍も撃退、約250年続いた「タタールのくびき」からロシアを解放することに成功します
イヴァン3世はロシアの諸公国を併合してほぼロシア統一を達成し、全国一律の法典を整備、大公の権威を示すモマノフの冠、双頭の鷲の紋章を用い、皇帝を表すツァーリの称号を自称しました
イヴァン3世が1505年に死去した後は息子のヴァシリー3世が後を継ぎ、彼の代でモスクワが第三のローマであると主張されるようになります
「タタールのくびき」から脱したロシアは新たな道に進みつつあったのです
このヴァシリー3世の長男として1530年8月25日に産まれたのがイヴァンでした
彼は父の急死によってわずか3歳で即位し、イヴァン4世となります
1547年に正式にツァーリとなったイヴァンは全国会議を招集して中央・地方行政の整備に努め、カザン=ハーン国とアストラハン=ハーン国を併合しクリミア=ハーン国にも遠征するなど、対外的にもその権威を誇示しました
しかし1553年に重病にかかると、貴族はイヴァンの従弟であるスタリツキー公を後継者に据えようとします
父の急死後から貴族の権力争いの真っ只中にあったイヴァンはこの一件でますます貴族に対する不信感を強め、両者を仲介していた后のアナスタシアが死去すると貴族への不信は決定的なものとなりました
この頃からイヴァンはいわゆる恐怖政治を始め、専制政治を強化することとなったのでした
本日は後のイヴァン4世「雷帝」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
719
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/26(水) 01:09:41 ID:zl4obF4E
8月26日はクレシーの戦いが行われた日です
イングランド王エドワード3世は
>>653
のスロイスの海戦で制海権を得た後、フランドルに上陸したもののフランス王フィリップ6世の軍に度々敗れ、一時撤退を余儀なくされました
両者は休戦に同意し、1342年までの休戦協定が成立します
この間に勃発したのが
>>300
で見たブルターニュ継承戦争で、エドワードはこれに介入しブルターニュに上陸、1343年に教皇仲介のもとで休戦協定が結ばれ、エドワードはイングランド軍をブルターニュに駐屯させる権利を得たのです
以後エドワードはこのブルターニュを拠点とし、休戦協定明けの1346年3月から再びフランス領への進軍を開始しました
イングランド軍はブルターニュ、フランドル、アキテーヌへと展開し、エドワード自身はノルマンディーに上陸、パリ近郊まで攻め寄せます
これに対しフィリップも応戦、サンドニに兵を集めた後、イングランド軍を討つため北上しました
そして1346年8月26日、両軍はクレシー郊外にて対峙することとなったのです
イングランドの兵力は騎兵約6,000、弓兵約6,000の計約12,000の兵、一方のフランスは約6,000のジェノヴァ弩弓兵に国内外から集まった諸侯の騎兵隊の、計30,000〜40,000という大軍でした
戦いはフランス側のジェノヴァ弩弓兵の射撃で始まり、ついで騎兵隊が突撃をかけましたが、ここでイングランド長弓隊が迎撃し、高地に陣取っての射撃ということもあって絶大な威力を発揮、フランス軍は総崩れとなります
夕刻にはフランス軍は壊滅的な被害を受けて撤退、フィリップが負傷した上に多くの要人が戦死という大敗でした
一方この戦いに勝利したイングランドは戦局を優位に展開、
>>237
で見たようにフランスの重要拠点であるカレーを占領することとなったのでした
本日は長弓優位の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
720
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/27(木) 00:28:36 ID:DFz8zJ5c
8月27日はイギリス=ザンジバル戦争が起こった日です
1884年、
>>89
のコンゴ自由国成立のきっかけにもなった、アフリカ分割を話し合ったベルリン会議が終わった後、ドイツはタンザニアにドイツ領東アフリカ植民地を建てました
この際にザンジバルはドイツとイギリスによって分割されることになり、イギリス領東アフリカ植民地も成立します
やがてドイツではヴィルヘルム2世が皇帝となり、
>>549
で見たように新航路政策を推進するようになりました
それは対外政策や通商・関税政策でよく表され、
>>647
のロシアとの再保障条約の更新を拒否した一方で、イギリスとは関係改善を図ります
そのなかで締結されたのが1890年のヘルゴラント=ザンジバル協定でした
この協定でドイツはヘルゴラント島やタンザニア沿岸地域を獲得、ウィトゥランドをイギリスに譲渡し、ザンジバルに対するイギリスの行動への不干渉を認めたのです
イギリスは同年にザンジバルを保護領としましたが、1896年に親イギリス派だったトゥワイニがクーデターで倒れ、反イギリス派のバルガシュがスルタンとなりました
イギリスはバルガシュ政権を打倒するためザンジバルに艦隊を派遣し、1896年8月27日、バルガシュの立て籠もる宮殿に向けて砲撃を開始します
バルガシュはこれを支えきれずわずか40分で抵抗を諦め逃走、早々に戦争は終結しました
これは史上最短の戦争としてギネス記録となっています
一方、イギリスはこれ以後ザンジバルの実効支配を進めていくのでした
本日は40分戦争の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』講談社、1997年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
721
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/28(金) 00:26:38 ID:/OvT2ymk
8月28日は平沼騏一郎内閣が総辞職した日です
世界恐慌後ファシズムが台頭した日本・ドイツ・イタリアはそれぞれワシントン体制・ヴェルサイユ体制の打破を目指すようになりました
1936年にはスペイン内戦でのフランコ支援を通じてドイツ・イタリアが手を組み、ベルリン・ローマ枢軸が成立します
一方日本は
>>430
で見たようにワシントン海軍軍縮条約を破棄、ロンドン海軍軍縮会議から脱退し、それによって国際的孤立を深めていました
日本はドイツ・イタリアに接近し、ともに現状の打破を図るようになります
その頃ソ連ではスターリン指導の下で五カ年計画が進み、国連にも加盟してその勢力を増大させていました
これを脅威に感じた日本・ドイツは日独防共協定を結び、これにイタリアが加わって日独伊三国防共協定が成立、枢軸陣営が形成されたのです
1930年代後半になるとドイツは対外膨張政策をいっそう進めるようになり、イギリスやフランスとの対立が深まりつつありました
そのなかで日独伊三国同盟を軍事同盟に発展させようとする動きが活発化し、日本でも陸軍はこれに積極的でしたが、海軍や外務省はイギリスやアメリカと戦争になる危険を主張し、これに反対します
当時の平沼騏一郎内閣はこの両派の対立によって閣内対立が起こり、政局は混乱しました
平沼はイギリス・アメリカと交渉し、ドイツとも反共について協議を進めていましたが、そこに独ソ不可侵条約が結ばれたという知らせが届くと平沼首相は外交の方向性を見失ってしまいます
そして1939年8月28日、平沼騏一郎内閣は総辞職し、ドイツのポーランド侵攻によってヨーロッパは第二次世界大戦へと突入していくのでした
本日は「欧州情勢は複雑怪奇」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
722
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/29(土) 00:42:39 ID:fbOJ5x0Y
8月29日はプロイセンがザクセンに侵攻した日です
>>319
のアーヘンの和約によってプロイセンのシュレジエン領有が国際的に認められましたが、オーストリアはシュレジエン奪回を最優先事項としてその準備を整えていきました
その一環としてフランスとの同盟が成立しましたが、これは驚くべき事件でした
というのもオーストリアとフランスは15世紀以来、宿敵といえる関係にあったからです
発端は
>>545
でも登場したブルゴーニュ公領を巡る争いに遡り、神聖ローマ皇帝選挙でオーストリア・ハプスブルク家のカール5世とフランス・ヴァロワ朝のフランソワ1世が対立、両者はイタリア戦争においても火花を散らしました
その対抗意識は、オーストリアを打倒するためオスマン帝国と同盟するほどのものだったのです
ブルボン朝となって以降も三十年戦争においても
>>305
で見たように宗教対立の壁を超えて反ハプスブルクの立場から参戦し、ルイ14世は
>>280
で見たようにまたもオスマン帝国と同盟し再びのウィーン包囲が実現したのです
このようなフランスとの宿敵関係でしたが、オーストリアはシュレジエン奪回のために外交政策を大転換しました
主導したのはオーストリア宰相カウニッツ、当時ヨーロッパで最も冷静な頭脳を持つと称された政治家でした
こうしてフランスとの同盟、いわゆる外交革命が1756年に実現し、すでに成立していたロシアとの同盟と合わせ、シュレジエン奪回の準備が整えられたのです
一方のプロイセンはイギリス・ハノーファーと協定を結んだのみで、イギリスは植民地戦争に注力していたこともあってほぼ単独でオーストリア・フランス・ロシアという大国の大同盟軍と戦わざるをえない状況でしたが、1756年8月29日、プロイセン王フリードリヒ2世は先手をとってザクセンへと侵攻、ここに七年戦争が勃発したのでした
本日は七年戦争の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
723
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/01(火) 00:18:27 ID:Eak2gcqs
9月1日はドイツがポーランドに侵攻した日です
>>534
で見たように、ドイツは1933年に国際連盟を脱退後、35年にヴェルサイユ条約を破棄して徴兵制を復活、再軍備宣言を行いました
36年にはロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐するなど、ヴェルサイユ体制の打破を進めていきます
これに同調したのがイタリアで、35年にエチオピアを侵略、翌年に併合しました
これらの動きに対し国際連盟は経済制裁を加えましたが石油禁輸措置を取らなかったため効果は上がらず、イギリス・フランスはドイツ・イタリアの行動を黙認する宥和政策をとったのです
ファシズムの台頭に危機感を持った共産主義勢力はコミンテルンを結成、反ファシズム人民戦線の結成を目指し、1936年にはフランスとスペインで人民戦線政府が成立しました
しかしスペインでは人民戦線政府に対しフランコが反乱を起こして内戦が勃発、これを支援したドイツ・イタリアが連携を強めてベルリン・ローマ枢軸を結成、これに日本も接近し、日独伊三国防共協定が成立したのは
>>721
で見た通りです
これらファシズム三国はイギリス・フランスのような広大な植民地・勢力圏を持たない、不利な立場の「持たざる国」として、対外膨張政策を進めていきます
ドイツは1938年にオーストリアを併合、さらにチェコスロヴァキアにズデーテン地方割譲を要求し、これに対しイギリス・フランスはドイツ・イタリアとともにミュンヘン会談を開いたものの、戦争を避けるため宥和政策をとり、ドイツの要求は認められました
ところがドイツは1939年3月にチェコスロヴァキアを解体、さらに8月にソ連と独ソ不可侵条約を結んで互いの勢力範囲を取り決めるのです
そして1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻してついに戦争が勃発、これに対しイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、世界大戦へと発展していくのでした
本日は第二次世界大戦の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
724
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/02(水) 01:10:21 ID:heFX6BUs
9月2日は科挙が廃止された日です
中国の官吏登用制度である科挙が始まったのは隋を建国した文帝の時代でした
それまでの官吏登用は門閥貴族形成の温床となっていた九品中正でしたが、文帝は中央集権化を進めるため、家柄や財産に関係なく有能な人材を高級官僚に登用するために科挙の実施に踏み切ったのです
科挙は唐の時代にも継承され、発展拡充しますが、この時点ではまだ貴族の勢力は強く科挙官僚の影響力は小さいままでした
転機となったのが宋の時代で、
>>470
で見たように唐滅亡後の五代十国の戦乱時代で貴族層が没落し、科挙官僚が重視されるようになったのです
また宋では科挙制度の変革も行われ、それまでは地方でお、行う州試と中央の尚書省礼部で行う省試の二段階だったのが、最終選考として皇帝自らが試験官となる殿試が加わり三段階となりました
これによって皇帝と官僚が直接結ばれ、皇帝中心の官僚体制が確立することとなりました
こうして整備された科挙は元の時代に一時中断はあったものの、皇帝独裁体制を支える柱として明・清時代にも継承されていきます
しかし清代末期、欧米列強や日本の中国進出によって国政改革が進行するなかで、科挙制度の見直しが進められることとなります
西欧技術導入による近代化のなかで、形式主義に陥り暗記に偏った科挙は時代にそぐわないものとなっていたのです
そして1905年9月2日、袁世凱や張之洞などの意見によって科挙の廃止が断行され、清は憲法大綱を制定するなど立憲国家への移行を図っていくのでした
本日は科挙の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・平田茂樹『世界史リブレット9 科挙と官僚制』山川出版社、1997年
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
725
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/03(木) 00:02:04 ID:H99TyNP2
9月3日はイギリス・フランスがドイツに宣戦布告した日です
>>723
で見たようにドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦への戦端が開かれましたが、イギリス・フランスのドイツへの対応は鈍いものでした
イギリス・フランスともにポーランドと協定を結んで安全保障を宣言していたにも関わらず、ドイツへの宣戦布告がポーランド侵攻から2日経った1939年9月3日にずれ込みます
宥和政策を積極的に進めていたイギリスのネヴィル=チェンバレン首相は、ここに至ってもその姿勢を覆せなかったのです
フランスもまたマジノ線に拠って攻勢には出ず、西部戦線においてはイギリス・フランスは圧倒的に有利な戦力を有しながら戦闘らしい戦闘が行われない奇妙な状態が続くこととなります
この間にポーランドはドイツとソ連によって分割占領され、ソ連はさらにフィンランドに対し冬戦争を起こし国際連盟から除名されることとなり、さらにバルト三国を併合、ルーマニアからベッサラビアを割譲させました
1940年4月にはドイツがデンマーク・ノルウェーに侵攻し、ここに至ってようやく奇妙な状態が破られました
イギリス国内では宥和政策をとっていたチェンバレンが辞任し、新たにチャーチルが首相となってドイツに対する徹底抗戦の構えを明確に示します
一方フランスは5月にオランダ・ベルギー・ルクセンブルクを占領し攻勢に出るドイツ軍に圧倒され、6月にはパリを占領されてペタン政府が成立、ド=ゴールはロンドンに亡命し自由フランス政府を組織して対抗することとなるのでした
本日は「奇妙な戦争」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
726
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/04(金) 01:46:51 ID:bup9UsnI
9月4日は李世民が即位した日です
>>425
で成立した隋は、
>>724
で見たように科挙を開始するなど中央集権化が進められましたが、文帝の後を継いだ煬帝による大運河の建設や高句麗遠征で民衆の不満が高まり、618年、農民反乱によってわずか38年で滅亡しました
この混乱の中いち早く関中を抑えたのが、山西で挙兵した李淵・李世民でした
李淵は隋最後の皇帝である恭帝から禅譲を受ける形で皇帝となり、新たに唐を建国し長安を都としました
しかしこの時点では未だ各地に群雄が割拠しており、特に河北の竇建徳や洛陽の王世充は大きな勢力を有していました
これらの群雄を従えていったのが、第二代皇帝李世民でした
李世民は皇太子であった兄の李建成を殺害し、626年9月4日、皇帝に即位します
李世民は群雄を平定し、628年には全国統一を達成します
対外的にも東突厥を討伐して西北遊牧民の首長から天河汗の称号を贈られ、また西域交易の一大拠点となっていた高昌を滅ぼし同地を直轄地としました
内政面においても李世民は整備を進め、律令体制を基本とし、科挙・均田制・租庸調制・府兵制などの諸制度を隋から継承しつつその発展拡充を図っていきます
特に三省六部はこの時代にほぼ完成され、律令体制が確立したのです
このように李世民の治世は国内外ともに充実し、中国史上においても最もよく治められた時代とも称されるものとなるのでした
本日は「貞観の治」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
727
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/05(土) 00:00:22 ID:O9qIdCwo
9月5日はポーツマス条約が締結された日です
日本はロシアと開戦するにあたって、国力が劣ることを鑑み短期決戦を想定していました
戦争期間をおよそ一年と考え、戦局を優勢に進めながら講和を仲介してくれる国を探していたのです
この方針のもと日本は1905年1月に旅順を攻略、3月には奉天会戦で勝利、そして
>>621
の日本海海戦で完勝した時点で講和へと動くこととなりました
外相小村寿太郎はワシントンに駐在する高平小五郎公使に打電し、開戦当初から水面下で講和の仲介役を依頼していたアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトに、正式に講和の仲介を申し入れます
6月9日にはアメリカ政府から日露両国に講和勧告が行われ、日本は9日に、ロシアは12日にこれを受け入れました
こうして講和会議への準備が始まり、日本は小村寿太郎を、ロシアはウィッテを全権委員とし、講和会議の開催地をポーツマスと決定し8月10日から会議が始まることになります
10回にわたる会議の中で、日本が講和条件として提示した、日本の韓国支配権に対するロシアの承認、ロシア軍の満州からの完全撤退、日本への遼東半島租借権の譲渡、日本への南満州鉄道の所有権・経営権の譲渡に関してはロシアはすんなり同意しました
しかし賠償金支払い、樺太の譲渡に関しては交渉が難航します
というのも、ロシア皇帝ニコライ2世はウィッテに対し、いかなる賠償金も領土も渡してはならないと厳命していたからでした
しかしロシアも
>>656
で見た第一次ロシア革命に対処するために早期講和を望んでおり、樺太の南半分を譲渡することに同意します
国力の限界に達していた日本も賠償金支払い要求を取り下げ、この両国の譲歩によって1905年9月5日、ポーツマス条約が締結され日露戦争は終結することとなったのでした
本日は日露戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・横手慎二『日露戦争史 20世紀最初の大陸間戦争』中央公論新社、2005年に
・隅谷三喜男『日本の歴史22 大日本帝国の試練』中央公論新社、2006年
728
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/06(日) 01:23:00 ID:xxkkZUXs
9月6日はネルチンスク条約が結ばれた日です
明に代わって中国を統一した清は、北方民族出身ということもあって、明を苦しめ続けた北方民族の脅威とはほぼ無縁でした
清の初代であるヌルハチの時代にホルチン部と同盟を結び、第二代のホンタイジはチャハル部を服属させ内モンゴルを平定、さらに黒竜江沿岸部にも支配地を広げ、万里の長城の北方に勢力を拡大していたのです
そんな清と北方で対峙することになったのがロシアでした
ロシアは16世紀後半からシベリアへの進出を積極的に行い、17世紀前半にはオホーツク海に到達、1643年には黒竜江に進出したのです
ここに両国は衝突することになり、小規模な抗争が1680年代には本格的な軍事衝突に発展しました
清の康煕帝は鄭氏台湾を平定し、三藩の乱も鎮圧したことで北方に目を向ける余裕ができ、またジュンガル部の進出でモンゴル方面の緊張が高まったことでロシアに講和を申し入れます
1689年9月6日、ネルチンスクにて両国の境界画定の交渉が行われ、スタノヴォイ山脈とアルグン川が国境となることが取り決められ、また国境での交易も認められます
こうして清は中国東北地方の全域を確保し、ロシアの南下を防ぐことに成功したのでした
本日は中国における対等条約の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
729
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/07(月) 01:36:34 ID:Xikyf7hg
9月7日は北京議定書が調印された日です
日清戦争での敗戦後、欧米列強は清の弱体化を見て取り、中国分割が進みました
また中国の伝統的な専制体制をあくまて維持しようとする洋務運動では限界があると判明し、専制体制の改革と立憲政治の実現を目指す変法運動が盛んとなります
これを主導したのが公羊学派の康有為や梁啓超で、光緒帝は彼らを登用して政治改革を行う戊戌の変法を進めました
しかし光緒帝の母后である西太后は1898年9月、保守派によるクーデタを起こして戊戌の変法を挫折させます
こうして西太后のもと保守派が実権を握り、排外的な傾向が強まることとなりました
折しも華北一帯では扶清滅洋を掲げる義和団が勢力を拡大しており、排外運動を進める西太后ら保守派はこれを支援します
そして1900年6月、西太后は列強に宣戦布告し、これに対し日本・ロシア・ドイツ・オーストリア・イギリス・フランス・イタリア・アメリカの8国は共同出兵を行い、8月には北京を占領して鎮圧しました
この戦後処理は翌1901年9月7日の北京議定書でなされ、清は多額の賠償金を支払い、北京周辺の軍備撤廃、外国軍隊の北京駐留権を認めさせられるなど、半植民地化がますます進むこととなるのでした
本日は義和団事件の命日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
730
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/08(火) 02:01:00 ID:u8aMBWzw
9月8日はクリコヴォの戦いが行われた日です
13世紀末までウラジーミル大公国の辺境の町に過ぎなかったモスクワは、
>>629
で見たモンゴルのルーシ侵入期にノヴゴロド公だったアレクサンドル=ネフスキーの子、ダニールの治世以降発展していきました
ダニールの子ユーリーの時代にはウラジーミル大公位をめぐる争いに参加するまでに成長し、ユーリーはトヴェーリ公ミハイルと抗争を繰り広げました
これが決着したのがユーリーの弟イヴァン1世カリターで、トヴェーリの反モンゴル暴動を利用してモンゴルに取り入り、その協力を得てウラジーミル大公であったトヴェーリ公アレクサンドルを追放し自らが大公位を得たのです
イヴァン=カリターはその後もモンゴルに協力して地位を盤石なものとし、モスクワ公の優位を確立しました
やがてイヴァン=カリターの子イヴァン2世が死去すると、わずか9歳のドミトリーが即位します
これに乗じてスーズダリ・ニジェゴロド公ドミトリーとトヴェーリ公ミハイル=アレクサンドロヴィチが介入しましたが、辛うじて撃退することに成功します
ドミトリーにとって転機となったのが対モンゴルの戦いで、当時モンゴルは内紛によって分裂しており、ルーシに対し組織的な支配を行う力が失われていました
ドミトリーはこれを好機と見て「タタールのくびき」からの解放戦争を開始するのです
そして1380年9月8日、リトアニアと同盟を結んだモンゴルの武将ママイと、これを迎え撃つドミトリーがドン川沿いのクリコヴォで激突しました
激しい戦いの末モスクワ軍が勝利し、その勝利は140年にわたって「タタールのくびき」に苦しんできたルーシ諸侯に大きな影響を与えました
モスクワにとってはその威信が大きく高まり、ルーシにおける指導的地位を確立することとなったのでした
本日はドミトリー=ドンスコイ(ドン川のドミトリー)の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
731
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/09(水) 00:46:38 ID:5jtgoVoQ
9月9日は大宝律令が成立した日です
>>726
で見たように、中国では唐の時代に律令国家体制が頂点を迎えていました
そして日本が遣唐使を派遣し、唐の文化や制度を導入しようとしたのは
>>698
で見た通りです
本格的な律令としては668年に近江令、681年に飛鳥浄御原令が施行され、飛鳥浄御原令で庚寅年籍と合わせ律令国家体制の萌芽が見られるようになります
694年には条坊を備えた日本最初の本格的な都城である藤原京に遷都し、天皇制と官僚制を軸とする中央集権的な律令国家体制の建設へと進んでいきました
そして701年9月9日、文武天皇、持統太上天皇、藤原不比等、刑部親王によって大宝律令が完成したのです
これによって律令が整えられ、二官八省からなる官僚制が確立、ここに中央集権的律令国家体制が成立することとなったのでした
本日は日本の律令国家体制の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青木和夫『日本の歴史3 奈良の都』中央公論新社、2004年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
・渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』講談社、2009年
732
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/10(木) 00:24:50 ID:rjeARyo6
9月10日はサン=ジェルマン条約が結ばれた日です
>>163
で成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国は支配の重点を東欧に置くようになりました
やがてロシアがパン=スラヴ、主義を掲げバルカン半島へと進出してくると、オーストリア=ハンガリーは自国内のスラヴ系諸民族にその影響が及ぶのを恐れ、パン=ゲルマン主義を掲げてロシアと対立、これに大セルビア主義が絡み第一次世界大戦へと至ったのは
>>191
で見た通りです
この第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリーは
>>340
で見たようにヴィットリオ・ヴェネトの戦いに敗れ、最終的に敗戦することとなりました
ドイツが
>>659
のヴェルサイユ条約を結んだ後、オーストリアもまた1919年9月10日のサン=ジェルマン条約を結びます
その内容は領内からチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、ポーランドの独立を確定し、南チロルをイタリアへ割譲、軍備の制限、ドイツとの合併の禁止などで、この条約によってオーストリアは大戦前と比べて面積・人口が1/4に減少することとなるのでした
本日はオーストリア=ハンガリー二重帝国の最終的な命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
733
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/11(金) 01:16:25 ID:pe9FpyOo
9月11日はゼンタの戦いが行われた日です
1683年、
>>280
で見た第二次ウィーン包囲の失敗はオスマン帝国に大きな打撃をもたらし、イスラームとヨーロッパとの力関係が逆転するきっかけとなりました
オーストリアはポーランド、ヴェネツィア共和国とともに神聖同盟を結成、後にロシアも加わりオスマン帝国との断続的な戦争へと突入します
まず総司令官ロレーヌ公シャルルはオルフェルドで戦い、ペストをはじめハンガリー北部を占領しました
1688年にはブダを奪い、さらに
>>264
で見たようにかつて惨敗を喫したモハーチの地でオスマン帝国軍に大勝します
これによってオーストリアはクロアチアとトランシルヴァニアからオスマン帝国を駆逐し、ベオグラードも奪う勢いを見せました
ヴェネツィア共和国もまた海からバルカン半島に攻勢をかけ、ペロポネソス半島からオスマン帝国軍を追い払うことに成功します
>>297
で見たパルテノン神殿崩落はこの時に起こりました
オスマン帝国も大宰相ムスタファ=キョプリュリュのもと反撃を行い、1690年にはベオグラードを奪回、ドナウ川沿いの戦線を立て直します
神聖同盟はその提唱者であるローマ教皇インノケンティウス11世が死去したことでまとまりを失い、オスマン帝国の反撃に有効な対策ができませんでした
1695年、オスマン帝国ではムスタファ2世がスルタンとなり、本格的な反撃を開始します
彼はベオグラードからハンガリーに向けて軍を進めましたが、1697年9月11日、ゼンタの町の側でティサ川を渡っている最中、オーストリアの指揮官プリンツ=オイゲン率いるオーストリア軍の急襲に遭い、約3万人が溺死するという壊滅的敗北を喫するのです
この戦いは対オスマン帝国戦争におけるオーストリアの決定的勝利となり、プリンツ=オイゲンの名声はヨーロッパ中に広まりました
この戦いの後和平交渉が進み、
>>451
のカルロヴィッツ条約の締結に至るのでした
本日は名将プリンツ=オイゲンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
734
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/12(土) 00:59:43 ID:piRSlqmE
9月12日はマラトンの戦いが行われた日です
前550年に成立したアケメネス朝ペルシアは次第に西方へと勢力を拡大し、小アジアのリディアを滅ぼして小アジア西岸のギリシア植民市、イオニア諸市を支配するようになりました
735
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/12(土) 01:07:27 ID:piRSlqmE
ア ケ メ ネ ス 朝 が フ ェ ニ キ ア 人 を 優 遇 し た こ と で イ オ ニ ア 諸 市 の 不 満 は 高 ま り 、 ま た ア ケ メ ネ ス 朝 が 僭 主 制 に し よ う と 圧 力 を か け た こ と も あ っ て 前 4 9 9 年 、 ミ レ ト ス を 中 心 に 反 乱 を 起 こ し ま す
736
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/12(土) 01:07:49 ID:piRSlqmE
この反乱はすぐに鎮圧されましたが、アケメネス朝の専制支配に対しポリスの民主政を守るため、アテネが反乱諸市に援軍を送り込んでいたことがアケメネス朝のギリシア侵攻のきっかけとなります
前492年、アケメネス朝のダレイオス1世はギリシアに侵入し、ここにペルシア戦争が勃発しました
最初の遠征は艦隊が嵐に遭ったことで失敗しますが、前490年に2回目の遠征が行われます
アケメネス朝軍はトラキア、マケドニアを征服し、アッティカ地方のマラトンに上陸、これを迎え撃つのはアテネとプラタイアのみで、スパルタは宗教祭典のため参加できませんでした
そして前490年9月12日、アケメネス朝軍とアテネ・プラタイア連合軍は激突し、連合軍の重装歩兵部隊はミルティアデスの指揮のもとアケメネス朝軍を破ったのです
この時伝令の兵士がアテネまでの約40kmを走り、勝利を告げたという逸話があります
本日はペルシア戦争におけるギリシア勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
737
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/13(日) 00:31:34 ID:ZbcZa2S6
9月13日は新羅が朝鮮半島を統一した日です(旧暦)
中国が五胡十六国の分裂状態となっていた頃、朝鮮半島でも国家形成が進んでいきました
北部では中国東北部に興った高句麗、魏によって公孫氏が滅ぼされるた後に朝鮮半島に進出し、楽浪郡を滅ぼすなど強勢を見せます
南部では馬韓・辰韓・弁韓に分かれた小国家群でそれぞれ百済・新羅・加羅諸国となり、加羅諸国はやがて百済と新羅によって支配され、これに高句麗を加えた三国が7世紀まで抗争を続ける三国時代となりました
このような状況の朝鮮半島に対し日本は進出を図り、また中国からも隋・唐が高句麗に遠征軍を送りますが、高句麗の抵抗は強く事態は進展しませんでした
そこで唐は新羅と結んで平定を図り、660年に百済、668年には高句麗を滅ぼすことに成功します
日本もまた百済復興を援助するため軍を派遣しますが663年の白村江の戦いに敗れ朝鮮半島から撤退することとなりました
こうして唐と新羅によって支配されることとなった朝鮮半島ですが、676年9月13日、新羅は唐の勢力を駆逐し朝鮮半島の統一に成功します
新羅は都を金城に置き、特権的身分制度である骨品制によって貴族支配を確立、仏国寺を建立するなど仏教を奨励し最盛期を迎えることとなるのでした
本日は統一新羅時代の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
738
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/14(月) 00:10:50 ID:uDFuOFNY
9月14日は薩摩藩士がイギリス人を殺傷した日です
江戸末期、
>>153
で見たようにアメリカのペリーが黒船で来航し、開国を要求しました
1854年には日米和親条約が結ばれ、次いでロシア・イギリス・オランダとも同様の条約を結びましたが、これらが不平等条約であったため、諸外国の排斥運動、いわゆる攘夷運動が起こるようになります
江戸幕府は安政の改革で国防の充実に努め、諸藩でも軍事力の強化が図られました
しかし1858年、大老の井伊直弼が天皇の勅許を得ないまま不平等条約である日米修好通商条約を結び、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました
これは大きな反発が巻き起こしましたが、直弼は反対派を次々と弾圧する安政の大獄に踏み切ります
1860年、直弼は江戸城桜田門外にて攘夷派の水戸脱藩浪士に暗殺され、攘夷派の運動は活発化していきます
攘夷運動が盛んとなる中で外国人襲撃事件も起こり、1860年にハリスの通訳だったヒュースケンが江戸の三田で薩摩脱藩浪士によって殺害され、翌61年には高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩浪士に襲撃されました
そして1862年9月14日、神奈川宿近郊の生麦村にて、薩摩藩主島津久光の大名行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する事件が起こったのです
この報復としてイギリス艦隊が薩摩を砲撃する薩英戦争が勃発しますが両者とも被害が大きく、この戦争の講和交渉を機に薩摩とイギリスは関係を深め、やがてフランスと組む幕府討伐へと向かっていくのでした
本日は生麦事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』中央公論新社、2006年
・井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末改革』講談社、2009年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
739
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/15(火) 01:53:20 ID:E70qRotA
9月15日はマンチェスター・リヴァプール鉄道が開業した日です
イギリスでは17世紀にニューコメンが炭坑用に開発していた蒸気機関をワットが18世紀に改良し、安定した動力が得られるようになりました
この蒸気機関は様々な機械に応用され、19世紀になるとトレヴィシックが蒸気機関を動力とする機関車、蒸気機関車を開発し、これをスティーヴンソンが改良します
まず1825年、スティーヴンソンが開発した蒸気機関車ロコモーション号がストックトン・ダーリントン間での貨車・客車牽引に成功します
そして1830年9月15日、スティーヴンソン・ロバート父子によって開発された蒸気機関車ロケット号がマンチェスター・リヴァプール間で営業を開始し、これによって交通環境の飛躍的発展が促され、交通革命に貢献することとなったのでした
本日は鉄道の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・川北稔『イギリス近代史講義』講談社、2010年
740
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/16(水) 13:03:16 ID:8geExgN.
9月16日はドロレスの演説が行われた日です
>>681
や
>>690
で見たように、ラテンアメリカでは18世紀末から独立運動が盛んとなっていました
メキシコではスペイン植民地、ヌエバ=エスパーニャが統治を行っていましたが、イベリア半島出身の白人であるペニンスラールが行政府高官や高位聖職者の地位を独占したため、植民地産まれの白人であるクリオーリョとの対立が深まっていました
イダルゴもクリオーリョの一人で、ドロレスで神父を務めていた彼もまた、ヌエバ=エスパーニャからの独立運動を計画することとなります
ちょうどその頃、スペイン本国ではナポレオン支配に対する独立戦争が起こり、これに乗じてメキシコでも独立の気運が高まるようになりました
そして1810年9月16日、イダルゴはドロレスにおいて演説を行い、ヌエバ=エスパーニャやペニンスラールに対する抵抗を訴えかけたのです
この演説はドロレスの叫びと呼ばれ人々を熱狂させ、各地で独立運動が始まりました
イダルゴはやがて捕らえられ処刑されるものの独立運動は続き、1821年に独立を達成することとなるのでした
本日はメキシコ独立革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・増田義郎・山田睦男『世界各国史25 ラテン・アメリカ史1 メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社、1999年
・大垣貴志郎『物語メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』中央公論新社、2008年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
741
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/17(木) 00:49:47 ID:IaSaP1N.
9月17日はミュリオケファロンの戦いが行われた日です
>>557
で見たように、ビザンツ帝国中興の祖アレクシオス1世、ヨハネス2世の後を継いで即位したマヌエル1世は、ユスティニアヌス1世以来の征服称号を名乗った皇帝でした
その征服事業もユスティニアヌスの再現、地中海帝国復活のための世界戦略を打ち出します
まずは1155年、イタリアへの遠征が開始されました
当時の南イタリア南はビザンツ帝国を駆逐したノルマン人、
>>566
などで見たロベール=ギスカールの甥であるルッジェーロ2世がシチリア王国を治めていましたがその死後に混乱が起こり、これに乗じてイタリア上陸作戦が行われたのです
しかしその後がうまくいきませんでした
>>639
などで見た、ローマ皇帝権の確立を図る神聖ローマ皇帝、フリードリヒ1世バルバロッサが立ちはだかりました
フリードリヒは西欧諸勢力を結集して反ビザンツ同盟を結成し、シチリア王国はもちろん、ヴェネツィア共和国までも敵に回すこととなります
1156年、マヌエルは南イタリアのグリンディジで敗れ、イタリア方面作戦は失敗に終わりました
これ以後も神聖ローマ帝国に対抗し、イタリアへの干渉を続けますが、それによりヴェネツィア共和国との関係が決定的に悪化し、1171年にはヴェネツィアと断交、帝国内の全ヴェネツィア人を逮捕・財産没収という事態に発展します
ジェノヴァ・ピサとは条約を結んだもののイタリア方面での成果は芳しくなく、今度は小アジア方面への遠征に至ります
当時小アジアを支配していたのは
>>261
で見た、マンジケルトの戦いでビザンツ帝国に破滅的な敗北をもたらしたセルジューク朝の後継国家、ルーム=セルジューク朝でした
マヌエルは自ら軍を率い、ルーム=セルジューク朝を討伐し小アジア奪回に向かったのです
そして1176年9月17日、ビザンツ帝国軍はミュリオケファロンにて再び惨敗し、マヌエルは辛うじて戦線離脱しコンスタンティノープルに撤退する有様でした
これによってマヌエルの世界戦略の破綻が決定的となり、ビザンツ帝国の威信は大きく失墜することとなります
この戦い以降マヌエルはふさぎ込みがちとなり、度重なる外征で国力を大きく消耗したビザンツ帝国は衰退に向かうことになるのでした
本日はマヌエルの世界戦略の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
742
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/18(金) 01:17:04 ID:GHkyEmhg
9月18日はフィリップ2世が即位した日です
フィリップ2世の治世は
>>675
などで見てきました
ここではフィリップ即位までを見ていくことにしましょう
フィリップは1165年、フランス王ルイ7世の嫡男として産まれました
このルイ7世の治世はフランス王権にとって大きな脅威が出現した時代でした
>>604
で見たように、ルイの王妃であったアリエノール=ダキテーヌと離婚し、さらにアリエノールがアンジュー伯アンリと結婚、このアンリがイングランド王ヘンリ2世として即位したことで、広大なアンジュー帝国が成立したのです
もちろんルイもただ手をこまねいていたわけではありませんでした
カスティーリャ王女コンスタンスを王妃に迎え、さらに同じくアンジュー帝国に脅威を覚えるシャンパーニュ伯、ブロワ伯、フランドル伯を引き込み、反アンジュー帝国同盟を作り上げます
もっとも、この王妃コンスタンスとの間には嫡男は産まれず、フィリップ2世は3人目の王妃であるシャンパーニュ伯女アデルとの間に産まれました
ルイは待望の嫡男フィリップに王国を託すため、諸問題の解決に務めることとなります
イングランド王ヘンリ2世に対しては和睦を図り、時にはその要求に譲歩して平和を維持しようとしました
一方で自身の娘をヘンリ2世の長男である若ヘンリと結婚させ、アンジュー帝国の相続争いの際に若ヘンリを支持し、イングランドに内紛を起こさせます
ヘンリ2世はこの内紛をいったんは収め、ルイ7世とは1177年に和睦を結びました
そのうちにフィリップ2世は順調に成長し、1179年には父との共同王となります
そして1180年9月18日、ルイ7世の死去によってフィリップは単独王となり、その輝かしい治世が始まることとなるのでした
本日はフィリップ尊厳王の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年
743
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/19(土) 00:01:35 ID:JPE88gx6
9月19日は後醍醐天皇が崩御した日です
>>661
で見たように、後醍醐天皇が倒幕運動を呼びかけ、新田義貞によって鎌倉幕府が滅亡します
幕府を倒した後、後醍醐天皇は醍醐・村上天皇の治世を模範とした新しい政治、建武の新政を開始します
その内容は天皇指揮下での八省や国司制度の復活など天皇中心の政治への回帰で、天皇の権限強化が進むこととなります
しかし性急な改革は各方面からの反発を招き、また新政府に参画した層が多岐に渡っていたためその方向性がまちまちで、さらに幕府の存在を否定したことは武士にとっては容認できないものだったのです
建武の新政への不満は地方武士の反乱として表面化し、特に鎌倉で起こった中先代の乱は大規模でした
しかも独断でその討伐に向かった足利尊氏が鎌倉に居座り、後醍醐天皇に反旗を翻しました
後醍醐天皇は尊氏討伐に新田義貞を派遣しますが尊氏はこれを破り京に侵入します
一時は北畠顕家に敗れ九州に逃れたものの勢力を挽回し、1336年、後醍醐天皇は尊氏によって廃位され新たに光明天皇が擁立されました
後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに朝廷を開き正統な天皇であることを主張します
しかし南朝に味方した北畠顕家や新田義貞が戦死したことで南朝の勢力は衰え、1339年9月19日、後醍醐天皇は失意のうちに死去することとなったのでした
本日は後醍醐天皇の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社、2005年
・森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年
・新田一郎『日本の歴史11 太平記の時代』講談社、2009年
744
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/20(日) 00:08:32 ID:pn7AGqQ2
9月20日はライスワイク条約が結ばれた日です
>>106
で即位したフランス王ルイ14世は財政改革や重商主義政策によって得た経済力を基盤に軍制の再編、軍律の強化、兵舎の増設、兵数の増強を行い、当時ヨーロッパ最強ともされる軍隊を作り上げました
そしてルイはこの軍事力を背景に、フランスの安全を固めるため戦略拠点の確保を図り、各方面への戦争を開始します
まず
>>495
で見たように、1667〜68年にスペイン領南ネーデルラントに侵攻した南ネーデルラント継承戦争を起こしますが、これはオランダの抵抗に遭って失敗し、次いでルイはイングランドと同盟し1672〜78年にオランダ侵略戦争を起こしますが、こちらはイングランドとオランダが講和を結び、フランスへの対応に専念できたオラニエ公ウィレムによって撃退されました
この2つの戦争はネーデルラントに対するものでしたが、その中でドイツもまたルイの標的となります
オランダ侵略戦争中の1679年にフランスとドイツの国境付近のフランシュ=コンテやアルザス・ロレーヌに侵攻し、1681年にはストラスブールを占領しました
そしてこのドイツへの侵攻は、ファルツが対象となったことでさらに本格化していくこととなります
1688年、ルイはファルツ選帝侯の継承権を主張し侵攻、ファルツの首都ハイデルベルクが破壊されました
当時、ルイの勢力拡大を危惧して1686年に神聖ローマ皇帝やドイツ諸侯、オランダ、スペイン、スウェーデンがアウクスブルク同盟を結成していましたが、ルイのファルツ侵攻に際し同盟諸国が結集して対抗します
>>487
の名誉革命後はイングランドも同盟に加わり、ドイツだけでなくヨーロッパ全体を巻き込んだ大戦争へと発展したのです
さしもの軍事大国フランスも優位を保ったものの決定打をうてず、1697年9月20日、オランダのライスワイクにて講和条約が結ばれることとなりました
この条約によってフランスはファルツに対する権利を放棄し、オランダ侵略戦争以後に得た領土をほぼ変換することとなったのでした
本日はアウクスブルク同盟戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
745
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/21(月) 01:36:48 ID:DKF6SXGs
9月21日は戊戌の政変が起こった日です
中国ではアロー戦争終結後、従来の排外主義を転換し、西欧の進んだ技術を取り入れ近代産業の育成や富国強兵を図る洋務運動を始めました
その中心となったのが李鴻章・曾国藩・左宗棠ら漢人完了で、洋務運動が進んだこの期間は同治中興と称されます
しかし洋務運動は中体西用といわれるように、あくまで中国の伝統的な政体を根幹とし、西洋文化のうち利用されたのは主に軍事関係の技術であって、議会政治や立憲君主制は議論されませんでした
この洋務運動の限界が露呈し挫折に至ったきっかけが日清戦争での敗北で、敗戦後中国では近代化のために伝統的専制体制を変革し、議会政治や立憲君主制の導入が主張されるようになります
これが変法運動で、公羊学者の康有為や梁啓超らが中心となって進められたこの運動は時の皇帝光緒帝に受け入れられ、1898年6月、戊戌の変法として国家政策となり、新官庁の創設や近代学校制度と整備が発令されます
しかし戊戌の変法はあくまで知識人階層の運動に留まり、民衆の広範な支持を得ることができませんでした
また運動を主導した康有為らも民衆運動を蔑視・警戒するエリート知識人の意識を抜け出すことができずにいました
やがて宮廷では西太后を中心とする保守派が挽回し、1898年9月21日、クーデターを起こして光緒帝を幽閉、変法派を弾圧し康有為・梁啓超は日本へと亡命します
こうして変法運動はわずか3ヶ月で挫折し、以後中国は西太后指導の下保守的な政策が復活することとなるのでした
本日は変法運動の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』講談社、2005年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
746
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/22(火) 00:59:06 ID:kt1ijM5A
9月22日はセリム1世が死去した日です
>>587
でオスマン帝国スルタン、メフメト2世が没した後にスルタンとなったバヤジット2世は優柔不断で軍事的才能にも乏しく、オスマン帝国を脅かした内外の危機に対抗することができませんでした
その危機とはサファヴィー朝の台頭が最大の要因でした
トルコ人騎兵キジルバシュの強大な軍事力に支えられたサファヴィー朝はシーア派を掲げており、これはスンナ派としてイスラームの正統を自認していたオスマン帝国にとって大きな衝撃だったのです
またサファヴィー朝はオスマン帝国支配下の小アジアの諸部族にシーア派を勧め、一定の成果を挙げたこともオスマン帝国の危機感につながりました
このような状況で1512年、兄であるバヤジット2世を廃して即位し、他の兄やその息子たちを抹殺して地位を確立したのがセリム1世でした
セリムはまず国内のシーア派に対し空前絶後の大粛清を行って基盤を固め、問題の大本であるサファヴィー朝の討伐に向かいます
こうして起こったのが
>>258
のチャルディラーンの戦いで、これに勝利したオスマン帝国は小アジアでの支配を確立しました
セリムは次いでマムルーク朝を標的に定めます
マムルーク朝はイスラームの聖都であるメッカとメディナを有し、またアッバース朝滅亡後にカリフの末裔を迎えたことでイスラーム世界の中心の1つとなっていました
同じくイスラーム世界の中心的存在として台頭するオスマン帝国にとっては打倒すべき存在だったのです
セリムはシリア方面からマムルーク朝に侵攻し、アレッポやダマスクスなど重要都市を制圧した後エジプトへと侵入、1517年にカイロを占領しマムルーク朝を滅ぼしました
マムルーク朝征服によってオスマン帝国はシリア・エジプトを通る交易ルートを確保し、紅海の交易ルートも合わせユーラシア・アフリカをつなぐ交易ルートをほぼ掌握しました
またメッカ・メディナもオスマン帝国に臣従し、セリムはメッカとメディナの二聖都の守護者の称号も獲得し、名実ともにイスラーム世界の中心に君臨することとなったのです
そして1520年9月22日、わずか8年の治世に幕を下ろしました
しかしこの8年でセリムはシーア派をはじめ反対派を次々と粛清、時には大宰相をも処刑するなど、その冷酷性を発揮します
またオスマン帝国歴代スルタンの中でも屈指の軍事的天才でもあった彼はその才能を遺憾なく発揮し、オスマン帝国の地位を確立させることとなったのでした
本日は「冷酷者」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年
747
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/23(水) 00:54:18 ID:XHK/76PY
9月23日はサウジアラビア王国が成立した日です
17〜18世紀、
>>280
などで見たようにオスマン帝国はヨーロッパに対し劣勢となり、その衰退は決定的でした
イスラーム世界では君主が影響力を失い、スーフィーやウラマーによる改革運動が進みます
スーフィー教団はネオ・スーフィー教団として急進化し、ウラマーもまたイスラーム復興運動の担い手となりました
その指導者の一人ムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブはサウード家の支援を受けアラビア半島で勢力を拡大、ワッハーブ王国が成立します
彼は厳格なイスラーム原理主義を掲げ、聖者崇拝、霊廟や木、石の崇拝も批判し、ムハンマドやフサインの廟をも破壊しアラビア半島を掌握、メッカやメディナを占領、ダマスクスも脅かすほどとなりました
これに対しオスマン帝国はムハンマド=アリーに討伐を命じ、1818年、ワッハーブ王国は一時滅亡します
しかしすぐさま1823年には復興し、19世紀を通じてエジプトやオスマン帝国との抗争を繰り広げました
しかしワッハーブ王国内ではサウード家の内紛が頻発し、1889年には再び滅亡することとなります
この時もワッハーブ派は粘り強く運動を続け、1902年、イブン=サウードによってかつとの首都リヤドが奪還され三度ワッハーブ派は復興します
そしてヒジャーズ=ネジド王国の建国、イギリスとのジェッダ条約による独立承認を経て、1932年9月23日、サウジアラビア王国と改称し、今日に至る国家が築かれることとなったのでした
本日はサウジアラビアの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・坂本勉・鈴木董『新書イスラームの歴史 イスラーム復興はなるか』講談社、1993年
・佐藤次高『世界各国史8 西アジア史1 アラブ』山川出版社、2002年
・山内昌之『世界の歴史20 近代イスラームの挑戦』中央公論新社、2008年
748
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/24(木) 01:25:27 ID:9dzLYkgM
9月24日はルートヴィヒ4世が死去した日です
>>703
のヴェルダン条約、
>>701
のメルセン条約を経てフランク王国は分割され、東フランク王国はルートヴィヒ2世ドイツ人王が統治することとなりました
カール3世肥満王の代では西ローマ皇帝・イタリア王・西フランク王も兼ね、帝国の守護者としての役割が期待されましたが、彼はノルマン人、マジャール人、イスラームのいずれにも対処できず、東フランク貴族によって廃位されます
新たに東フランク王に選出されたのがルートヴィヒドイツ人王の息子カールマンの庶子にあたるケルンテン公アルヌルフで、そのアルヌルフの死後王位を引き継いだのがルートヴィヒ4世幼童王でした
しかしこのルートヴィヒはその呼び名のごとく若くして死去します
911年9月24日、東フランク王ルートヴィヒ4世の死によって東フランク王国ではカロリング家の血筋が断絶しました
東フランク貴族は血統へのこだわりを放棄し、国内の有力貴族から国王を選出します
こうして東フランク王となったのがフランケン公コンラートでした
このカロリング家の断絶、そしてコンラートの国王選出は東フランクにおいて重要な転換点となりました
カロリング家の慣習であった分割相続が廃止され、王国不可分の原則が新たに登場したのです
これ以後、王国の領域は王朝という枠を越えて存続することとなり、
>>242
でも見たように東フランク王国からドイツ王国へと移行していくこととなったのでした
本日は東フランク王国カロリング朝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
749
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/25(金) 00:02:27 ID:zML.o0wM
9月25日はアウクスブルクで帝国議会が開かれた日です
>>334
で始まったルターによる宗教改革は1521年、
>>412
のヴォルムス帝国議会で否定され、ルターの教義に従うことやそと著作の印刷・出版が禁止されるなどしました
しかし破門されたルターはザクセンのフリードリヒ賢公に匿われて活動を続け、またドイツ各地でも改革運動が広がっていきます
その1つが
>>601
で見た、ミュンツァーらによるドイツ農民戦争でしたが、これに関してはルターも否定的で、その鎮圧後はルターから離れる農民が多かったものの、改革運動は反カトリック・反皇帝派の諸侯・都市を中心に進められました
農民戦争が完全に終息した1526年、シュパイアーで帝国議会が開かれ、神聖ローマ皇帝カール5世はヴォルムスの勅令を実行するよう命じましたが反論も多く、ここでは現状維持のまま閉会します
1529年に再びシュパイアーで帝国議会が開かれ、多数派がヴォルムスの勅令を再確認したことに対し抗議が巻き起こり、ここにプロテスタントという呼称が生まれることとなりました
ところでこの1529年は、
>>298
で見たように神聖ローマ帝国に対抗するフランスのフランソワ1世とオスマン帝国のスレイマン1世が結び、第一次ウィーン包囲を行った年でもありました
カール5世はこの脅威に対抗するため帝国諸侯の協力が必要となり、妥協に応じることになります
1530年、アウクスブルクで帝国議会が開かれ、メランヒトンによるアウクスブルクの信仰告白やツヴィンクリの信仰箇条が示されますがカトリックの反発も大きく、この議会でもヴォルムスの勅令を確認するにとどまりました
これに対し帝国諸侯は中部ドイツにてシュマルカルデン同盟を結成しカールに対抗します
カールは先のオスマン帝国の脅威やフランスとのイタリア戦争が継続中であったため妥協を余儀なくされ、1532年にニュルンベルクで平和条約を締結しました
1544年、クレピーの和約でフランスとの講和が成立するとカールはドイツ国内に集中できるようになり、シュマルカルデン同盟の中心人物であったザクセン公モーリッツを引き入れたこともあって同盟軍を破り、シュマルカルデン戦争に勝利します
この勝利によってカールは1548年、プロテスタントに様々な制約を課すアウクスブルク仮信条協定を定め、プロテスタント諸侯にこれを強制しました
ところがこれに対し北ドイツにて反乱が勃発し、モーリッツも再びプロテスタント側に合流してカールと戦うこととなりました
カールはプロテスタント諸侯軍に敗れ、またイタリア戦争においてもフランスに敗れたため、ついに退位するに至ります
カールが引退したことでカトリック・プロテスタント両派に和解への動きが生まれ、1555年に再びアウクスブルクにて帝国議会が開かれました
そして同年9月25日、アウクスブルクの宗教和議が成立し、ルター派の公認や帝国諸侯の信仰の自由が認められたのです
もっとも個人の信仰の自由やカルヴァン派が認められなかったように、この宗教和議はあくまで妥協であり、その後
>>614
で見た新教同盟ウニオンと旧教連盟リガの対立、そしてその対立から発展した三十年戦争を経た
>>327
のウェストファリア条約で1つの解決をみることとなるのでした
本日はアウクスブルクの宗教和議の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
750
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/26(土) 09:36:08 ID:DBKgSXzQ
9月26日は小谷城が落城した日です
1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長は尾張を平定、さらに美濃に侵攻して齋藤龍興を破り67年には美濃も平定します
ついで近江に進出しますが、この時に同盟を結んだのが江北の浅井長政でした
その際、同じ浅井氏の同盟相手である越前朝倉氏を攻めないというのが同盟条件だったとされていますが、1570年、信長は長政への相談なしに越前へと侵攻します
このため長政は信長から離反し朝倉とともに挟撃し信長は窮地に陥りますが、辛うじて逃亡に成功しました
京に帰還した信長は反撃の準備を整え、同年中に徳川家康とともに姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を破り、浅井氏の拠城である小谷城の包囲に取り掛かります
小谷城は標高約400mの小谷山に築かれた梯郭式の山城で、尾根伝いに曲輪が並びそれらが石垣や砦で守られる戦国屈指の巨大山城でした
しかしその広大な城域に比べて浅井氏の勢力は小さく、浅井氏のみで小谷城全体を守ることは困難でした
そこで小谷城では本丸の背後に大堀切を設けて城域を分断し、一城別郭の構えとすることで対応します
さらに本丸より高所に位置する曲輪群には朝倉氏、京極氏、寺社勢力などに守備を任せ、信長に対抗することとなります
1570年から始まった小谷城籠城戦を長政は3年間耐え抜きますが、73年には武田信玄が病没、足利義昭が京から追放され、信長は本格的に小谷城の攻略を進めました
この時すでに小谷城の支城群は信長によって攻略が進められ、特に最重要支城とされる山本山城が羽柴秀吉によって調略されたことは大きな痛手となります
もはや頼みとなるのは朝倉氏のみとなっていました
そこで信長はまず朝倉氏の攻略から始め、小谷城でも朝倉軍が守っていた部分に突如として攻めかかり、意表をつかれた朝倉軍は敗走します
信長はそのまま朝倉軍を追撃し、その本国の越前にまで乱入、朝倉氏当主朝倉義景は家臣の裏切りにもあって自害し、ここに朝倉氏は滅亡します
こうして孤立無援となった小谷城ですがそれでも頑強に抵抗を続けました
ここで活躍したのが羽柴秀吉で、尾根伝いに伸びる小谷城の側面から奇襲をかけて京極丸を制圧、浅井久政と長政の分断に成功します
数多くの曲輪群で構成され、それぞれが独立して戦える小谷城ですが、劣勢が明らかとなった状態では各個撃破が容易となってしまったのです
1573年9月25日、まず浅井久政が自害に追い込まれ、そして9月26日には浅井長政も自害、さしもの堅城小谷城もここに落城することとなったのでした
本日は浅井氏の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年
751
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/27(日) 00:14:41 ID:vHz0EJrw
9月27日は日本・ドイツ・イタリアが同盟を結んだ日です
日本・ドイツ・イタリアは
>>721
で見たように「持たざる国」としてヴェルサイユ・ワシントン体制の打破を図り、共産主義への対抗でも一致し協力体制を築きました
もっとも日本はドイツ・イタリアとの軍事同盟に関しては、同盟締結に積極的な陸軍と消極的な海軍・外務省との間で対立があり、これが平沼騏一郎内閣の総辞職に至ります
やがて
>>723
でドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発し、この時阿部信行内閣は大戦への不介入を表明し、続く海軍大将の米内光政内閣もまた軍事同盟締結には消極的で大戦への不介入を続け、イギリス・アメリカとの関係改善を模索します
しかし
>>725
で見たようにドイツがめざましい電撃戦を展開しイギリス・フランス軍を撃破、イタリアもドイツ側で参戦し、さらにフランスがドイツに降伏すると、日本でもドイツに与する空気が高まっていきました
これに乗じて陸軍を中心にイギリス・アメリカとの戦争を覚悟してでもドイツと軍事同盟を結び、南方に進出するべきという主張が沸き起こり、19407月、陸軍の圧力によって米内内閣が倒れます
新しく内閣を組織したのが近衛文麿で、近衛内閣は外務大臣に松岡洋右、陸軍大臣に搭乗日を起用、大戦への不介入の方針を転換しドイツ・イタリアとの連携強化、南方への積極的な進出を図るようになりました
そして1940年9月27日、日本・ドイツ・イタリアの間で日独伊三国同盟が結ばれ、日本はヨーロッパにおけるドイツ・イタリアの、ドイツ・イタリアは東・東南アジアにおける日本の指導的地位を互いに認め合い、政治的・軍事的相互援助を約束し共同でイギリスやアメリカに対抗することとなったのでした
本日は日独伊三国同盟の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
752
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/28(月) 00:03:44 ID:fJk6UY5I
9月28日はハインリヒ6世が死去した日です
>>639
の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの死後、その後を継いだハインリヒ6世は父帝の政策を継承しました
彼は
>>454
で見たようにシチリア王女コンスタンツェとの結婚によってシチリア王国の継承権を得ていましたが、ノルマン貴族がシチリア王グリエルモ2世の異母弟タンクレーディを国王に擁立し対抗します
タンクレーディはイングランド王リチャード1世獅子心王と同盟しますが、
>>699
で見た通りリチャードは第3回十字軍からの帰還中にオーストリア大公レオポルトに捕縛され、さらにハインリヒ6世に引き渡されたためタンクレーディは同盟者を失いました
ハインリヒはリチャードから多額の身代金を獲得しシチリア遠征の軍資金とし、タンクレーディが病死したこともあって1194年シチリアを征服、シチリア王となったのです
これによってフリードリヒの時代に強化された皇帝権はさらに強大なものとなりました
アペニン半島のほとんどが皇帝権の支配下に置かれ、スポレート公領にコンラート=フォン=ウルスリンゲンを、トスカーナ公領に弟のフィリップを、アンコーナ辺境伯領・ロマーニャ公領にマルクヴァルト=フォン=アンヴァイラーを置き、帝国とシチリア王国とを結合する街道を確保します
こうして従来の皇帝の支配地域であった三王国、すなわちドイツ・イタリア・ブルグントに加えシチリア王国も加わり、ハインリヒはさらに範囲を拡大しようとしました
ムワッヒド朝にはトリポリとチュニスに対する皇帝の上級高権を承認させ、アルメニア・シリア・キプロスの各国王は皇帝のレーエンとしてその領土を受領したのです
さらにビザンツ皇帝イサキオス2世の娘イレーネがハインリヒの弟フィリップと結婚したことでホーエンシュタウフェン家にビザンツ皇帝位の相続請求権まで転がり込みました
そしてイサキオスがアレクシオス3世によって皇帝位を簒奪されたことにハインリヒは反発し、コンスタンティノープル征服のための十字軍を計画することとなります
ハインリヒの政策は古代ローマ帝国領の復活を目指しており、いわゆる世界支配計画が着々と進められていたのです
内に目を転じると、帝国とシチリア王国との関係が課題となっていました
シチリア王国は国法上は独立したままでしたが、帝国との堅い結合が望まれていたのです
この目標を達成するため、待望の嫡男が1194年に産まれます
>>395
で見た、後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です
フリードリヒはホーエンシュタウフェン家・シチリア王家双方の遺産相続者であり、ハインリヒはこの遺産を確保し帝国とシチリア王国との国法上の結合を実現しようとしました
そして皇帝権を教皇権から完全に分離させ、ホーエンシュタウフェン家による世襲帝国計画を企てたのです
この世襲帝国計画は教皇や帝国諸侯の強い反発に遭いなかなか進展しませんでしたが、1196年にはフリードリヒがドイツ王に選出され、ホーエンシュタウフェン家の権力基盤は着々と固められていきます
しかし1197年9月28日、ハインリヒは十字軍計画の準備中に急死、その若すぎる死が皇帝権にとって重大な破局をもたらすこととなったのでした
本日は世界支配計画・世襲帝国計画の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
753
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/29(火) 11:18:35 ID:Qo20xywk
9月29日はポンペイウスが産まれた日です
マリウスが軍制改革を進めていた前106年9月29日に産まれたポンペイウスは、若くしてスッラのもとで軍事的才能を発揮し、マリウスとの戦いで軍功を重ねていきました
アフリカ・シチリアでマリウス派を破り、ヒスパニアでのセルトリウスの反乱も鎮圧し、スパルタクスの起こした剣奴の大反乱をも鎮圧して民衆の人気を獲得し、前70年にはクラッススとともにコンスルに当選します
前68年にローマで穀物不況が起こると、イタリアへの穀物供給を妨げるエーゲ海の海賊を討伐するためポンペイウスには地中海沿岸における属州総督の権限を3年間行使できる権限を与えられ、ポンペイウスはこれに応えすぐさま海賊討伐に成功しました
また苦戦に陥っていたミトリダテス戦争の指揮権もまたポンペイウスに与えられ、ポンペイウスはただちにミトリダテスを破り、ヘレニズム諸国を制圧、シリア・ビテュニア・ポントゥスが新しい属州となります
こうしてポンペイウスの人気が日に日に高まるなかで、クラッススもまた名声を求め、多くの政治家に融資し裁判での弁護活動で影響力を持ち、また積極的な外征を進めようとしました
カエサルもまた頭角を現し、ポンペイウスに対する軍事権付与への支持やアッピア街道への私財投入などで民衆の人気を得、民衆派のリーダーとして活躍します
この中で特に名声の高いポンペイウスと、彼をライバル視するクラッススは不仲で、カエサルが両者を仲介する形で前60年に成立したのが第1回三頭政治でした
三頭政治は前53年にクラッススが対パルティア戦争で戦死して瓦解、そしてカエサルがガリア遠征で大いに威信を高めることになると、ポンペイウスは自分の地位を脅かすものとしてカエサルを敵視するようになり、元老院と協力してカエサルを事実上の国敵としたのです
これに対しカエサルが武装解除せずにルビコン川を渡り、ローマへと進軍したのは
>>423
で見た通りです
ポンペイウスはギリシアに移り、持久戦によってカエサル軍を苦しめましたが、
>>244
のファルサロスの戦いで敗北、エジプトに逃れますが、プトレマイオス朝のファラオであるプトレマイオス13世によって暗殺されました
奇しくも誕生日と同じ9月29日、カエサルの宿敵は歴史の舞台から去ったのでした
本日はポンペイウスの誕生日にして命日です
参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
754
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/09/30(水) 23:54:05 ID:em5pI4DA
9月30日はヘンリ4世が即位した日です
>>552
のヘンリ=ボリンクブロクは1399年9月30日ヘンリ4世として即位し、ランカスター朝が始まりました
当時はフランスとの百年戦争の最中で、ランカスター朝第2代のヘンリ5世はアザンクールの戦いでフランス軍に大勝するなど戦局を優位に進めます
しかし第3代ヘンリ6世はフランスに敗れて撤退し、さらに薔薇戦争が起こることとなるのでした
本日はランカスター朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
755
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/01(木) 15:20:25 ID:zW52qkbY
10月1日は厳島の戦いが行われた日です(旧暦)
大内氏の家臣であった毛利元就と陶晴賢は郡山合戦で協力して尼子軍を撃退しましたが、その主君大内義隆が月山富田城攻めに失敗し自堕落な日々を送るようになると、晴賢は元就賛同のもと義隆を討ち取りました
これは大内家臣の大多数に支持されましたが反発したものもあり、江田氏が大内氏を離反し尼子氏に属します
1553年、元就は晴賢の要請を受け江田氏の旗返山城を制圧、三次盆地を支配するようになりました
しかし晴賢は元就の勢力が拡大するのを危険視し、江良房栄を旗返山城主とし、元就の三次盆地への進出を阻みます
同年、晴賢は自身に背いた石見の吉見氏討伐を決め元就にも出陣を要請、元就はこれを受け入れようとしますが長男の隆元は主戦論を主張し、元就はとの決戦を決意するに至ったのです
元就はまず調略を始め、江良房栄に対し密使を送りましたが房栄が広大な領地を望んだため断念します
元就はここで房栄の叛意を晴賢が知るよう工作し、晴賢は弘中隆包に命じて房栄を殺害してしまいました
この混乱に乗じ元就は旗返山城を再び占拠し勢力を広げることに成功します
1554年、晴賢は元就討伐のため3,000の兵を派遣しますが、これは元就によって撃退されました
戦力の小出しを反省した晴賢は一挙に毛利領へ侵攻することを決定、厳島を攻略して海上から侵入しようとしました
1555年9月21日、晴賢は大軍を率いて厳島に上陸し、元就も27日に出陣し厳島の対岸に布陣します
元就は厳島に上陸するため村上水軍に協力を要請し、小早川隆景率いる毛利水軍と合流、30日深夜に厳島東岸の包ヶ浦に上陸した後に山道を上り、尾根筋の博奕尾に布陣しました
そして1555年10月1日、元就は日の出前に博奕尾から一気に駆け下り、晴賢の本陣を目がけて奇襲をかけます
これに呼応して隆景は厳島正面から上陸して陶軍を挟み撃ちにし、村上水軍も陶水軍を撃破し晴賢の退路を断ちました
大混乱に陥った陶軍は総崩れとなり、晴賢は戦線離脱を試みるも陶水軍が壊滅していにことでそれも断念、自害を遂げたのです
この勝利によって元就の勢威は大いに高まり安芸を平定、さらに周防・長門に進出し中国地方の覇者へと踏み出していったのでした
本日は陶晴賢の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「毛利戦記 大内、尼子を破った元就の権謀」学研パブリッシング、2010年
756
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/02(金) 12:35:14 ID:BfYA6JjI
10月2日は上杉氏憲が反乱を起こした日です(旧暦)
室町幕府を開いた足利尊氏は鎌倉幕府の中心であった関東を特に重視し、嫡男義詮の弟基氏を鎌倉公方とし鎌倉府を開かせました
鎌倉公方は関東8ヶ国に加え伊豆・甲斐の計10ヶ国を支配し、基氏の子孫が世襲するようになります
鎌倉公方の補佐として関東管領も設けられ、こちらには代々上杉氏が世襲しました
鎌倉公方は当初は室町将軍に従属しましたが、諸権限が移管されて幕府から半ば独立する形で関東支配を行うようになると将軍との対立が表面化していきました
関東管領もまた守護・地頭を管理し、関東武士を実質的に支配したことで鎌倉府以上の権力を持つようになり、鎌倉公方は将軍だけでなく関東管領との対立も起こすようになります
1409年、足利持氏がわずか11歳で鎌倉公方となると、関東管領の上杉氏憲がこれを補佐しました
しかし持氏は次第に氏憲を疎んじるようになり、氏憲もまた若年の持氏にかわって鎌倉府の実権を握ろうとします
この2人の対立は1415年に表面化し、氏憲が関東管領を辞任する事態となりました
そして翌1416年10月2日、氏憲は持氏の叔父である足利満隆や関東の諸将とともに持氏に対し反乱を起こします
持氏は一時鎌倉を追放され、氏憲が関東を掌握することとなりますが、翌年になって将軍が派遣した駿河の今川範政や越後の上杉房方によって鎮圧され、氏憲は討たれました
この反乱後も鎌倉公方と関東管領の対立は続き、永享の乱や結城合戦に引き継がれるのでした
本日は上杉禅秀の乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社、2005年
・森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年
・小国浩寿『動乱の東国史5 鎌倉府と室町幕府』吉川弘文館、2013年
757
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/03(土) 18:49:52 ID:TQ6Uy2kY
10月3日はアレシアの戦いが終結した日です
ポンペイウスとクラッススを仲介し第1回三頭政治を成立させたカエサルは、イリュリクムとガリアに対する特別命令権と4個軍団を獲得し、前58年、執政官級属州総督としてガリアに着任しました
当時のガリアは多くの部族に分裂しており、アッロブロゲス人の反乱からの復興途上にありました
そこへ現在のスイスからヘルウェティイ人が西進し、カエサルはこれを激戦の末撃退します
さらにガリア人部族の要請でガリア中部のスエビ人を討伐しローマの勢力を拡大、前57には現在のベルギーでベルガエ人諸部族を撃破しました
前56年、カエサルはポンペイウス、クラッススと協力関係を再確認・更新し、5年間の命令権の延長が認められます
やがてウェネティ人が反乱を起こすもカエサルはこれを海戦で撃破、その他諸部族の反乱も鎮圧し、つかの間の平和が訪れました
翌前55年にはライン川を渡りガリアに侵入したウシペテス人とテンクテリ人を撃退し、ウェネティ人の反乱を支援していたブリタニア諸部族の討伐を試みますが、これは不調に終わりました
前54年になるとベルギカでローマ軍が敗れ、これをきっかけに各地で反乱が起こるようになります
カエサルはガリアを転戦し鎮圧していきましたが、反乱の首謀者のセノネス人貴族アッコが処刑されると、ローマによるガリア支配への反発が一気に高まることとなりました
前52年、カエサル不在のなかケナブムでのローマ人虐殺を皮切りに再び反乱が勃発、この指導者となったのがアルウェルニ人のウェルキンゲトリクスでした
ウェルキンゲトリクスはローマに反発する諸部族をまとめて反乱を指揮し、カエサルは急遽ガリアに戻り反攻を開始しました
これに対しウェルキンゲトリクスはゲリラ戦と焦土戦術で対抗し、ローマ軍を悩ませます
しかし天然の要害であったアウァリクムは焦土戦術からは外され、カエサルはここに立て籠もるウェルキンゲトリクスを包囲しました
湿地と川で三方を囲まれたアウァリクムに対し、カエサルはローマの土木技術を活かして接城堤を築き攻城櫓を設置、約一ヶ月の包囲戦の末アウァリクムは陥落、町は破壊され住民は虐殺されました
逃れたウェルキンゲトリクスは今度は丘陵の町アレシアに立て籠もり、カエサルは再び包囲戦を開始します
カエサルはここでアウァリクム包囲戦以上の大工事を行い、高く長大な塁壁に三重の堀を設け、内側だけでなく外側対しても防御施設を建設、鉄壁の包囲陣が築きました
ガリア人は高い丘のため包囲陣が築かれなかった北西方面に援軍を送るものの突破できず、ウェルキンゲトリクスの脱出も失敗に終わりました
そして前52年10月3日、ついにアレシアは陥落しウェルキンゲトリクスは降伏、大規模な反乱はここに終わりを告げました
その後カエサルは小規模な反乱の鎮圧に努め、翌年には全ガリアを平定することとなるのでした
本日は実質的なガリア戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
758
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/04(日) 14:28:17 ID:R1Z/wUC.
10月4日はフランスで憲法が改正された日です
第二次世界大戦におけるドイツの敗北によってフランスは解放され、ド=ゴールによる臨時政府が組織された後、1946年に新憲法制定によって第四共和政が成立しました
この新憲法は女性参政権や下院の優位などが規定されていたものの、基本的には第三共和政の憲法を引き継いでおり、共産党・社会党・人民共和派という三大政党の協力の上に立つものでした
しかし冷戦が進んでいくと共産党は下野し、さらにド=ゴール率いるフランス国民連合の反発もあり、左右両派から脅かされる中道政治は不安定なものとなります
さらにインドシナ、アルジェリアでの植民地独立運動への対応に失敗したことで、第四共和政は大きく揺らぐこととなったのです
特にアルジェリアは1830年、
>>700
のアルジェリア出兵以来フランス植民地として長い歴史を持ち、フランスからの入植者も多く非常に重要な植民地でした
アルジェリアではフランスからの独立を目指してアルジェリア民族解放戦線の運動が活発となり、現地・本国ともにアルジェリアの独立を阻止する空気が強くなります
しかしアルジェリア問題は泥沼化し、戦争の財政的な負担もあって本国では独立の承認へと向かっていきました
しかし1958年5月、植民地放棄に反対する現地の軍部と市民が反乱を起こし、コルシカ島を占領してさらにパリへと進撃する動きを見せます
反乱軍はド=ゴールの政権復帰を要求し、政情不安のなかコティ大統領はド=ゴールに首相就任を要請せざるを得ませんでした
6月には国民議会の賛成多数でド=ゴールの組閣が承認され、ド=ゴールはアルジェリア問題解決への全権委任と憲法改正の提案権を獲得します
そして1958年10月4日、ド=ゴールの憲法改正案が国民投票の圧倒的賛成を得て承認され、ここに第五共和政が発足することとなったのでした
本日は第五共和政の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年
759
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/05(月) 21:09:55 ID:/r2Vm88s
10月5日はハインリヒ3世が死去した日です
>>633
で見たように、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は強大な皇帝権を発揮し、帝国、そしてローマ教会の支配者として君臨しました
ローマ教会はザクセン朝・ザリエル朝で進められてきた帝国教会制のなかに組み入れられ、教皇という地位も単なる最高位の帝国司教に過ぎないものとなりつつありました
彼はまたイタリア王としても強権をふるい、反抗的なトスカーナ伯を抑え込みます
トスカーナ伯ボニファチオが1052年に暗殺された後、その妻ベアトリーチェはロートリンゲン公ゴドフロワと再婚し、このゴドフロワが以前にも増してハインリヒに反抗的な態度を取ったため、1055年、ハインリヒは軍を率い討伐に向かいます
これに対しゴドフロワはすぐさま逃亡し、トスカーナにはベアトリーチェと三人の幼児が残されました
この時幼児のうち2人が暗殺され、残ったマティルダがトスカーナ女伯となるのですが、このマティルダが
>>448
のカノッサの屈辱の際のカノッサ城主であり、一貫して親教皇・反皇帝の姿勢をとったマティルダでした
また当時の教会では
>>294
で見たように教会改革が進められ、ハインリヒもまたこれに協力して改革を推進しましたが、教会改革運動は世俗支配からの脱却を目指すようになり、皇帝の存在は邪魔なものとなりつつあったのです
イタリアにおけるこの諸問題は、ハインリヒが健在なうちはその強権によって抑え込まれていました
しかし1056年10月5日、ハインリヒが38歳という若さで死去すると状況は一変します
後を継いだハインリヒ4世はわずか6歳、当然政務をとれるはずもなく、
>>294
で見たように諸侯や教皇に翻弄され、叙任権闘争へと発展していくのでした
本日はハインリヒ黒王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
760
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/06(火) 20:29:35 ID:edRKdRBI
10月6日はサムイルが死去した日です
>>710
で見たように、ブルガリアではシメオン1世の死後衰退し、一時はビザンツ帝国に併合されたものの、ヨハネス1世急死後のバシレイオス2世の即位に対し起こった反乱に乗じ、サムイルがブルガリアの独立国家を建国、皇帝を称しました
これを鎮圧しようとするバシレイオスをトラヤヌスの門の戦いで撃破したサムイルは、貴族反乱鎮圧に謀殺されるバシレイオスを尻目に勢力を拡大、ブルガリア帝国の旧領をほぼ回復したのです
しかしバシレイオスは反乱を鎮圧、
>>375
で見たように自身の妹であるアンナをキエフ大公のウラジーミル1世に嫁がせてその協力を得るなどして態勢を挽回していきます
1004年までには北部ブルガリアを占領し、1014年には
>>232
のクレディオン峠の戦いで大敗を喫しました
この戦いでバシレイオスは1万5千人のブルガリア兵を捕虜にし、その捕虜を100人ずつの集団に分け、各集団のうち99人の両目をくり抜き、残りの1人だけは片目を残して道案内役をさせ、ブルガリアに送り返します
この凄惨な光景を目の当たりにしたブルガリア王サムイルは卒倒し、2日後の10月6日、息を引き取ったのです
サムイルの死後、ブルガリアでは二代の皇帝が続きますがもはやバシレイオスの勢いに対抗できず、サムイルの死から四年後の1018年に滅亡することとなるのでした
本日はブルガリア皇帝サムイルの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年
761
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/07(水) 21:42:57 ID:py1qjr7I
10月7日はドイツとオーストリア=ハンガリーが同盟を結んだ日です
ビスマルクによって統一が進められたドイツは1871年、普墺戦争からわずか5年でドイツ帝国成立に至り、ヨーロッパ五大国の一角として大きな力を持つようになりました
他の大国はドイツが1871年時点の国境で満足するかどうか、不信感を募らせます
ドイツとしては安全保障を確保するため、外交関係の構築に努めました
四大国のうち、フランスからはアルザス・ロレーヌを奪ったため敵対関係が固定されてしまい、残りのロシア・イギリス・オーストリア=ハンガリーを相手に安全保障を図るのです
ビスマルクは1873年にロシア・オーストリア=ハンガリーとの間に三帝協約を成立させましたが、これは三国の友好関係を宣言しただけのものであり、安全保障を約束するものではありませんでした
そして1875年にフランスが幹部法を成立させ軍事力を増強させたことは、戦争が目前に迫るものとしてドイツに大きな危機感をもたらしたのです
ビスマルクはフランスに対し脅しをかけたものの、ロシア・イギリスがフランスを支持し介入する姿勢を見せたため、ビスマルクは撤退せざるを得ませんでした
しかし当時イギリスとロシアとがヨーロッパ・アジアで対立関係にあり、イギリスとフランスも地中海・北アフリカで対立していたことがドイツにとって有利に作用します
ビスマルクはこれらの対立関係に対し、ドイツは局外中立に立つことを宣言しました
この姿勢は露土戦争後のベルリン会議で明確となります
オスマン帝国とのサン=ステファノ条約でロシアは保護下にあるブルガリアの領土を拡大させたことにイギリス・オーストリア=ハンガリーが強く反発し、戦争の危機が迫ったことでビスマルクが利害関係調整に乗り出したのです
1878年のベルリン会議でビスマルクはドイツの誠実な仲介人としての立場を宣言し、大国間の利害調整に徹してドイツの利益を求めず、これによって諸大国のドイツへの不信感は拭われました
しかしベルリン会議でロシアへの支持が不十分だったことでロシアとドイツの関係が悪化してしまいます
そこでビスマルクはオーストリア=ハンガリーと同盟を結び安全保障を図ろうとしました
1879年10月7日、秘密同盟である独墺同盟条約を結び、ロシアが戦争をしかけてきた場合に両国が共同で戦うことを約束します
しかしドイツとフランスとの戦争に関してはオーストリア=ハンガリーは中立を保つに留まり、ドイツにとっては十分な安全保障をもたらすものではありませんでした
そこでビスマルクはその後も数々の同盟条約を結び、いわゆるビスマルク外交を進めていくこととなるのでした
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
762
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/08(木) 00:24:28 ID:26YMMDgc
10月8日はビスマルクが首相に就任した日です
>>550
で見たようにビスマルクはゲルラッハ兄弟を中心とする側近党に接近し、高官への道を切り開きました
当時のプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世はフランクフルト国民議会による皇帝就任要請を拒否し、オーストリア以外のドイツ諸侯と同盟しプロイセンを中心とした連邦国家の建設の目指すウニオン政策を推進しました
しかしこれはオーストリアやロシアの抵抗にあって挫折し、1850年、
>>368
で見たようにオルミュッツ協定が結ばれウニオン政策は放棄されます
これに伴い、議会でウニオン政策放棄を支持する演説を行っていたビスマルクが側近党に高く評価され、ドイツ連邦議会におけるプロイセン公使に任命されます
1859年にはロシアの駐在公使となり、62年にはフランスの駐在公使に任命されました
これは側近党をはじめとする保守主義陣営の後ろ盾によるものでしたが、彼らとビスマルクとは国家統一の方向性や対オーストリア・対フランス政策などで意見の違いが生じ、次第に側近党とは疎遠になっていきます
しかしフリードリヒ=ヴィルヘルム4世が精神的に病み弟のヴィルヘルムが摂政となったことで側近党の影響力が小さくなり、ビスマルクの地位は保たれました
その後
>>301
で見たように新王ヴィルヘルム1世のもとで1862年9月30日、暫定的に首相に任命され「鉄血演説」を行います
そして同年10月8日、正式にプロイセンの首相に就任し、ドイツ統一を進めていくのでした
本日はプロイセン首相ビスマルクの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
763
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/10(土) 15:09:14 ID:fq.TB7mM
10月10日はトゥール・ポワティエ間の戦いが行われた日です
クローヴィスによって建てられたメロヴィング朝フランク王国は分割相続制を採用し、代を経るごとに王国が分立、特にアウストラシア・ネウストリア・ブルグンドの三分王国が強力となっていきます
これらの分王国には宮宰が置かれて政治を統括し、次第に権力を掌握して副王的な存在となりました
アウストラシアの宮宰として勢力を伸ばしたのがピピン1世(大ピピン)で、ブラバント地方やナミュール地方に所領を有し、さらに妻イッタが持っていた二ヴェル地方も合わせ、広大な所領を有するようになります
大ピピンはイッタの間に産まれた長男キルデベルトをアウストラシアの分国王にしようとしますがこれは失敗しました
娘のベッガはメッス司教アルヌルフの息子アンセギゼルと結婚し、2人の間にピピン2世(中ピピン)が産まれます
中ピピンはプレクトルードを妻とし、これによりベルギーのマース川流域からトリーア・メッスの位置するモーゼル川流域におよ領域を支配するようになり、河川交易による経済基盤が整えられました
中ピピンはさらにアルパイダを側室として迎え、これによって重要な商業拠点であるマーストリヒトも得ます
そしてこのアルパイダと中ピピンとの間に産まれたのがカール=マルテルでした
714年に中ピピンが死去した後はプレクトルードが実権を握り、彼女によってカール=マルテルは幽閉されます
カールは716年に脱出して実権を奪い、当時フランク王国を牛耳っていたネウストリアの宮宰ラガンフリードを破ってフランク王国全体の宮宰となり、さらにフリーセン人やザクセン人を討伐しました
さらにテューリンゲン・アレマニエン・バイエルンの諸族を平定、プロヴァンスなど南フランスへも遠征、フランク王国における権威は高まっていきます
一方その頃、イベリア半島では
>>582
で見たようにイスラームが西ゴート王国を滅ぼし、やがてピレネー山脈を超えてフランク王国領内へも侵攻するようになります
これに直面したアキテーヌ公ウードは、宿敵であるカール=マルテルに救援を要請せざるを得ず、カールはこれに応え重装騎兵軍を編成しイスラーム軍を迎え撃ちました
732年10月10日、両軍はトゥールとポワティエとの間で激突し、イスラーム軍は指揮官アブド=アッラフマーンが戦死し撤退します
この勝利によってカール=マルテルの名声は大いに高まり、フランク王国における権力は絶大なものとなりました
そしてカールの息子であるピピン3世(小ピピン)の代でメロヴィング朝が廃され、カロリング朝が成立することとなるのでした
本日はカロリング家の覇権の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
764
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/12(月) 09:32:04 ID:DSXJrpZM
10月12日はドン=ペドロが皇帝に即位した日です
>>573
で成立したポルトガルの植民地ブラジルは、以降開発が進んでラテンアメリカ唯一のポルトガル領として重要な位置を占めました
時代は降り19世紀に入ると、ポルトガル本国がナポレオンによって征服されるという事件が起こります
その際ポルトガル王室は亡命し、大西洋を渡ってブラジルに移動、リオデジャネイロに遷都し拠点としたのです
一方で
>>681
や
>>690
で見たようにラテンアメリカではクリオーリョ指導の下で独立運動が進められており、ブラジルもまた1822年から独立運動が開始されました
この頃ポルトガル王室は本国で革命が起こったため帰還しており、王太子ドン=ペドロが残っていましたが、クリオーリョはブラジルの地位向上のためポルトガル王室の権威を必要しており、このペドロを擁立して独立運動を進めます
そして1822年10月12日、ペドロはブラジル皇帝ペドロ1世として即位、ブラジルは独立を果たすこととなるのでした
本日はブラジル帝国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
765
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/14(水) 13:06:57 ID:hftCl/gg
10月14日はイエナ・アウエルシュタットの戦いが行われた日です
フランス革命に際しプロイセンはオーストリアとともにピルニッツ宣言を発して反革命の姿勢を明確にし、フランスへの干渉を進めました
もっとも両国にとってはオスマン帝国やロシアの進出に対抗する方が急務であり、
>>364
などで見たようなポーランド分割が行われます
一方フランスはピルニッツ宣言を脅威に感じ両国に宣戦布告、1792年のヴァルミーの戦いでの勝利後は攻勢に出、94年にはライン川左岸一帯を領有するようになります
このフランスの進出に対し、93年なはプロイセン・オーストリアにイギリスなども加わって第一回対仏大同盟が結成されますが、プロイセンは95年にフランスと単独講和を結び同盟を離脱します
これでオーストリアは事実上孤立してしまい、カンポ・フェルミオの和約でベルギーを、リュネヴィルの和約でトスカーナを放棄し、フランスのライン川左岸領有も認めさせられました
しかしその補償としてライン川以東の諸領邦を統廃合しプロイセン・オーストリアに与えられるという条項も盛り込まれていました
こうして1803年、神聖ローマ帝国の諸領邦はナポレオンによって整理され、バイエルン・ヴュルテンベルク・バーデンなどが領土を拡大してプロイセン・オーストリアに続く第三勢力として台頭、ナポレオンの保護下に入ります
この諸領邦の統廃合の過程で
>>211
のライン同盟が成立し、ここに神聖ローマ帝国が解体されました
このようにナポレオンがドイツに進出し大きな影響力を持ったことは、当然プロイセンの警戒を呼び起こします
直接のきっかけとなったのがハノーファー支配を巡る両者の利害対立で、プロイセンは宣戦布告し軍を南下させます
しかし1806年10月14日、イエナ・アウエルシュタットにおいてプロイセンは大敗を喫し、ナポレオンは勢いに乗じてプロイセンの首都ベルリンまで侵攻するのです
そして翌年には
>>668
で見た屈辱的なティルジット条約が結ばれることとなるのでした
本日はプロイセンの決定的敗北の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
766
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/15(木) 17:01:32 ID:zKUdO05Y
10月15日はアブド=アッラフマーン3世が死去した日です
>>233
で見たアッバース革命によってウマイヤ朝が滅亡した時、ウマイヤ家のアブド=アッラフマーンはイラクから逃れ、やがてイベリア半島に上陸しました
当時のイベリア半島は
>>582
で見たようにイスラームが支配していましたが、有力な指導者を欠いて混乱状態に陥っていました
そこにウマイヤ家出身のアブド=アッラフマーンが現れたことはアル=アンダルスのムスリムにとっては朗報であり、アブド=アッラフマーンは彼らの指導者となったのです
756年、アブド=アッラフマーンはコルドバへと進軍、同地のアミールを破って後ウマイヤ朝を開きアブド=アッラフマーン1世としてアミールの地位に就きました
しかしアッバース朝はこれを認めず後ウマイヤ朝に対し度々干渉し、またベルベル人も各地で反乱を繰り返したことで、その知世はアル=アンダルスの平定に費やされました
やがてレコンキスタが進行しイベリア半島北部のキリスト教諸勢力が次々と反乱を起こすようになり、アル=アンダルスでもイブン=ハフスーンがアグラブ朝と結んで反抗、一時はコルドバが孤立するほどまでに追い込まれます
このような状況でアミールとなったのがアブド=アッラフマーン3世でした
アブド=アッラフマーン3世は各地の反乱鎮圧に努め、917年にはイブン=ハフスーンを破り、932年にはトレドを再征服しアル=アンダルスの再統一を達成します
またアッバース朝カリフ、ファーティマ朝カリフに対抗してアブド=アッラフマーン3世もまたカリフを称し、ここにイスラーム世界は三カリフ鼎立時代を迎えました
こうして領土を回復し、イスラーム世界の指導者としての権威も大いに高めたアブド=アッラフマーン3世は後ウマイヤ朝の全盛期を築き、961年10月15日、半世紀に及ぶ治世に幕を降ろしたのでした
本日は後ウマイヤ朝初代カリフの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
767
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/19(月) 21:59:32 ID:PnPTMUN6
10月19日はイサベルとフェルナンドが結婚した日です
15世紀のスペイン、カスティーリャ王国ではフアン2世・エンリケ4世と指導力に欠ける王が続き、貴族勢力が政治を牛耳るようになりました
特にエンリケ4世の評判は悪く、その治世で貴族はますます勢力を伸ばしていきます
またエンリケには嫡男が産まれず、王位は王女のフアナあるいはエンリケの異母妹イサベルが継承することとなります
このうちフアナはラ=ベルトラネーハと呼ばれたように、エンリケの寵臣ベルトラン=デ=ラ=クエバが父親であるとされました
真偽はどうあれ、エンリケはロス=トロス=デ=ギサンド協定でフアナの王位継承権を否定し、イサベルを王位継承者としたのは事実です
エンリケに反対する勢力はこれを認めず、エンリケの異母弟アルフォンソをアルフォンソ12世として擁立しますが、アルフォンソが急死したため計画は頓挫、イサベルの王位継承が決定されました
一方アラゴン=カタルーニャ連合王国でも混乱が起こっていました
アラゴンは度々ペストに襲われたことで国土が荒廃し、また王権・貴族層・中産階級層・都市平民層・農民層など様々な勢力が対立し、分裂していたのです
これはナバラ王アルフォンソ5世の弟フアン2世がアラゴン王になったことでさらに激化します
ナバラ王国内の紛争が隣接するカタルーニャに持ち込まれ、内戦に発展しました
これを収拾するためフアンはフランス王ルイ11世に救援を求め、ピレネー山脈のフランス側のカタルーニャを譲渡する代償を払ってようやく状況を打開できたのです
この平定後の状況を固めるために行ったのが、息子フェルナンドとカスティーリャのイサベルとの結婚でした
1469年10月19日、イサベルとフェルナンドは結婚し、ここにカスティーリャとアラゴンの合同が成立します
1474年にエンリケ4世が死去したことで2人は共同でカスティーリャ王となりました
もっともこの時点ではカスティーリャとアラゴンはそれぞれの慣習が引き継がれ、国家としての連合は希薄でした
1479年にアラゴン王フアン2世が死去し、フェルナンドが王位を継承したことでカスティーリャとアラゴンは連合王国として機能するようになるのでした
本日はカスティーリャ・アラゴン連合の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
768
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/20(火) 11:13:22 ID:UFgP4x0M
10月20日はハインリヒ10世が死去した日です
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の時代、ヴェルフェン家のヴェルフ4世はバイエルン大公国を与えられ、以後ヴェルフェン家はこの大公位を保持し帝国における権力を確立していくこととなります
もっとも、当初から全てがうまくいっていたわけではなく、ローマ教皇との叙任権闘争の過程で紆余曲折を経ます
ヴェルフ4世は最初皇帝ハインリヒ4世側につきましたが、教皇グレゴリウス7世との争いが激化すると教皇側につき、そのためにバイエルン大公位を罷免されたのです
ヴェルフ4世はその後イタリアで勢力を拡大し、息子のヴェルフ5世をトスカーナ女伯マティルダと結婚させ、その領地の相続権を得ようと図りました
しかしマティルダが財産を教会に寄進したためこの計画は頓挫し、ヴェルフ4世はハインリヒ4世と和解、バイエルン大公に復帰します
このヴェルフ4世の死後、バイエルンはヴェルフ5世が、イタリアはハインリヒ9世が継承しました
黒公と称されるハインリヒ9世は兄の死後バイエルン大公となり、またザクセン大公マグヌスの長女ヴルフヒルトとの結婚により、ヴェルフェン家はザクセンにも権力基盤を得、その勢威をますます高めることとなりました
このハインリヒ黒公とヴルフヒルトとの間に産まれたのがハインリヒ10世、の血に傲岸公と称される人物です
黒公は傲岸公をザクセン大公ロタールの長女ゲルトートと結婚させましたが、このロタールは皇帝ハインリヒ5世の強力なライバルでした
ハインリヒ5世の死後、王位は血統権に従いホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世に渡るものとされましたが、黒公はこれに反発しロタールの即位を支持します
こうして
>>512
でも見たようにホーエンシュタウフェン家とヴェルフェンとの長年に渡る対立が始まったのです
ロタールは即位当時すでに50歳となっとおり長期の統治は望めず、その死後ザクセン大公国がヴェルフェン家のものになることが期待されました
また傲岸公はロタールのイタリア遠征に随伴し、その際に教皇からトスカーナ辺境伯領を得ることとなりました
1137年にロタールが死去すると傲岸公はザクセン大公国を受け継ぎ、その権力は帝国諸侯のなかでも最大のものとなりました
ロタールはまた傲岸公に帝国権標を引き渡したとされ、傲岸公が次期国王になるのが有力となります
しかし傲岸公はその名のごとく高慢・尊大な性格であり、帝国内に多くの敵を作っていました
さらにその即位によって強力な皇帝が出現することを怖れた諸侯は、ホーエンシュタウフェン家のコンラートを国王に選出したのです
傲岸公はこれに従わず忠誠誓約を拒否し、またザクセンにおけるアルブレヒト熊公との継承権争いを調停するヴュルツブルク帝国会議に出頭しなかったことで、帝国から追放されてしまいます
こうしてザクセン大公国は熊公のものとなり、傲岸公はバイエルン大公国とトスカーナ辺境伯領も剥奪されました
しかし傲岸公はすぐさま反撃、1139年、ザクセンに進軍し熊公は防戦一方となり逃走、ザクセンは再び傲岸公の支配下に置かれました
傲岸公はさらにバイエルンへも進軍しようとしますが、その準備中の1139年10月20日、40歳で急死してしまいました
傲岸公の突然の死はヴェルフェン家にとって痛手でしたが、
>>699
のハインリヒ獅子公が傲岸公の事業を引き継ぎ、ヴェルフェン家のさらなる隆盛へと導いていくのでした
本日はハインリヒ傲岸公の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・カール・ヨルダン、瀬原義生訳『ザクセン大公ハインリヒ獅子公 中世北ドイツの覇者』ミネルヴァ書房、2004年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
769
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/21(水) 12:39:53 ID:M7fOJ7Ss
10月21日は民衆十字軍が壊滅した日です
>>366
での教皇ウルバヌス2世の演説の後、彼自身がフランス各地を巡り、また説教師を派遣して十字軍への呼びかけを進めていきました
諸侯や貴族はこれに応え十字軍の準備を始めましたが、それには莫大な資金と多数の随員を必要とし、その間にも民衆の熱狂は高まっていきます
この民衆への説教を積極的に進めたのが隠者ピエールでした
北フランスのアミアン出身の隠修士であるピエールは、カリスマ的説教師として北フランス・西ドイツで十字軍参加を呼びかける説教を行い、十字軍への民衆の参加という要素を付け加えました
もっともウルバヌス2世としては十字軍参加者の精選を求め、条件付きでの参加を前提とし、王侯貴族や高位聖職者からなる十字軍を想定していましたが、もはや民衆の熱狂を抑えることはできない状態となっていました
民衆は隠者ピエールのもとに押し寄せ、ウルバヌスの十字軍が準備に時間がかかっている間に聖地を目指すこととなります
ピエールと民衆はケルンに集まり、1096年4月に出発、ライン・ドナウ川沿いに進みました
無秩序な集団となったこの民衆十字軍は、キリストの敵をユダヤ人にも拡大しつつ各地で虐殺・略奪を繰り返し、8月にはコンスタンティノープルに到達します
ビザンツ皇帝アレクシオス1世はこの暴徒の到来に驚き、コンスタンティノープルへの入城は拒絶しました
民衆十字軍はボスポラス海峡を渡ってヘレノポリスにて野営することになります
彼らはアレクシオス1世に正規の十字軍が到着するのを待つようにとの忠告を受けますが受け入れず、ニケーア周辺のトルコ人領を略奪して回り、ニケーアから出撃してきたトルコ軍も撃退します
この事態を重く見たルーム=セルジューク朝スルタンのクルジュ=アルスラーンは大軍を派遣し、民衆十字軍に奪われたニケーア近郊のクセリゴルドンを奪還しました
彼はさらに謀略を仕掛け、民衆十字軍の陣営に間者を派遣し、民衆十字軍の分遣隊がニケーアを陥とし戦利品を分配してるという虚報を伝えます
これを聞いた民衆は我を忘れ、欲に目が眩んだ無秩序な集団となってニケーアへと殺到しました
そして1096年10月21日、ニケーア近郊で待ち構えていたルーム=セルジューク朝軍の奇襲によって民衆十字軍は壊滅し、コンスタンティノープルへと逃げ帰ったのです
彼らは後に正規の十字軍と合流し、
>>224
で見た第1回十字軍によるイェルサレム攻略に参加することとなるのでした
本日は民衆十字軍の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・エリザベス・ハラム、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
・池谷文夫『世界史リブレット人31 ウルバヌス2世と十字軍 教会と平和と聖戦と』山川出版社、2014年
770
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/10/23(金) 11:54:29 ID:a.dkhUVU
10月23日はサグラハスの戦いが行われた日です
>>766
の後ウマイヤ朝カリフ、アブド=アッラフマーン3世の死後、アル=ハカム2世が後を継ぎ父が築いた繁栄をさらに発展させました
しかし次代のヒシャーム2世が12歳で即位すると、国政は母親のスブフと寵臣のアブ=アミル=ムハンマドによって牛耳られてしまいます
それでもアル=マンスール、勝利者の称号を持ったムハンマドはバルセロナを占領、ガリシアにも侵攻するなど軍事的成功をもたらします
しかしアル=マンスールの死後、王朝の分裂は決定的となります
アル=マンスールの創設した新王朝の支持者とウマイヤ朝の支持者との間で軋轢が生じたのです
王宮の支配をめぐる争い、ベルベル人軍隊の台頭、戦争によって戦利品を求める下層民など、様々な利害対立が起こり、1031年に後ウマイヤ朝は消滅しました
後ウマイヤ朝の統一はカリフを中心とする強力な中央政府に依存しており、それが消滅したことでアル=アンダルスはターイファと呼ばれる小君主の割拠状態となるのです
その頃、イベリア半島対岸の西サハラでも新たな動きが起こっていました
マーリク派の法学者イブン=ヤーシーンが神秘主義的な教説によってベルベル人のサンハージャ族を動かし、その熱狂的な宗教運動はやがて政治運動に転化、1056年にムラービト朝が興ることとなります
ムラービト朝はジハードを唱えて南下、ガーナ王国を滅ぼし、モロッコや西アルジェリアも制圧します
ユースフ=ブン=ターシュフィーンの治世の1062年にはマラケシュが建設され、1084年にはセウタを占領するなど、ムラービト朝はモロッコからアルジェに至る肥沃な農耕地帯を支配下に収めました
一方イベリア半島では1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世によってトレドが征服されました
ターイファ諸王国はユースフに救援を求め、これに応えたユースフは翌年イベリア半島へと遠征します
そして1086年10月23日、ユースフ率いるムラービト朝軍はメリダ近郊のサグラハスにてカスティーリャ軍を破りました
その後もユースフはイベリア半島への遠征を続け、二度目の遠征ではアレードの戦いに勝利しキリスト教徒の南下を阻止します
三度目の遠征ではターイファ諸王国のうちグラナダ王国、マラガ王国、セビージャ王国を滅ぼしてその直接支配を行うようになり、アル=アンダルスはムラービト朝領となるのでした
本日はムラービト朝のアル=アンダルス侵攻の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板