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なぜエスペラントは普及しないのか?

1papageno:2008/01/04(金) 23:25:54
すでにいろんなスレッドで語られて来たことではありますが、単独のスレッドが無かったので立てさせていただきます。

いろんな視点からのいろんな意見を出して行きましょう。

2Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/01/07(月) 23:44:30
時代的に需要がない。以上。
人工言語の国際補助語運動が盛んになるのは17世紀や19世紀などのヨーロッパ大陸内で
突出した軍事力・経済力を持つ国がない時代。
17世紀はフランスもドイツもスペインもオランダもオーストリアもロシアもそこそこ強いものの、
18世紀には、ルイ14世とかのフランスが周囲に戦争を仕掛け、突出した軍事力と
文化力と経済力を得ていたわけです。
17世紀はデカルトやライプニッツも人工言語による国際補助語の構想を持っていましたが、
18世紀になるとフランス語が一番ヨーロッパ大陸内で通用する言葉だからそれを使えばいいということで、
そういう活動は下火になりました。
ナポレオンの第一帝政が滅びて、1815年からのウィーン体制になると、
フランスだけが突出した大陸の覇者ではなくなり、今まで小国集合体だったドイツやイタリアが
統合したり、ロシアもポーランドを併合したり東に領土を広げたりして、
さらにオーストリアもそこそこ強くなってきたためまた各国の力が均衡状態になりました。
そうなるとフランス語が国際語でいいじゃんという話にはならず、
またまた人工言語による国際補助語と言う発想が生まれます。
そして、そういう国際情勢の追い風を受けて、ヴォラピュクやエスペラントが普及したわけです。

ただし現在は、ヨーロッパ大陸内ではないものの、アメリカが突出した軍事力と経済力をもっていて、
18世紀と同様、というかそれ以上に特定の超大国の言葉を使うのが現実的という状況です。
ヨーロッパでも、実際ドイツを中心に日本同様米軍基地がいっぱいあって、
若干植民地気味ですし。

つまり現在の国際情勢ではあまりそういう話は需要がないということです。
将来、中国とロシアがアメリカに匹敵する軍事力経済力を持つようになるまで、
冬の時代だと思います。
ただし、エスペラントでなく最新の言語学の成果を取り入れた覚えやすい新規の
人工言語が選ばれる可能性もありますが。
19世紀にはもはやジョージ=ダルカーノの考えた図書館分類法そっくりの人工言語が受け入れられなかったように。

3Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/01/07(月) 23:45:41
参考文献
セレン=アルバザード『新生人工言語論』「人工言語学」
http://www2.atpages.jp/kakis/%90V%90%b6%90l%8dH%8c%be%8c%ea%98_/fol.html

4松戸彩苑:2008/01/08(火) 03:16:43
そもそも「発表されてから100年以上もたつのに使用者がほとんどいない、どこの国の言
葉でもない言語」なんてものを憶えようと思う人が世間にほとんどいないのは当然だと、私
は思うんですよね。

これだけでもハンディが大きいのに、「世界平和」だの何だのと言うせいで、世間の人たち
からイデオロギーか新興宗教だと思われてしまってるんですね。

これでは、普及するわけがありません。

(もちろん私は、エスペラントを普及させる方法についても考えているわけですが、それは
今まで書いてきたことですので、ここでは割愛します)

5ベダウリンデ:2008/01/10(木) 11:01:51
>「世界平和」だの何だのと言うせいで、世間の人たち
>からイデオロギーか新興宗教だと思われてしまってるんですね。

そうなんです。イデオロギーか新興宗教に見えちゃうんです。
私の場合ですが、最初は「言語なんてツールなんだから、思想とは無関係のはず。」と思ってたんです。
Ĉiuj lingvoj povas esprimi ĉiujn ideojn. つまり、言語はどんな思想でも表現できる、と思ってた。
たとえ考え方が異なる者同士でも議論できて、歩み寄りするにしてもしないにしても、
少なくとも相手の言い分に耳を貸すことができる、そのための道具が言語なんだ、と。
エスペラントはどの国の言語でもないから、それこそ平等に、様々な立場の人々が意見交換できるものと思ってた。
その結果として、できるかどうかわからないけど、「世界平和」もありうるだろう、という流れかと思っていた。

でも、掲示板とか読んで、そういう考え方はマヌケすぎるんだと、気づき始めた。
エスペランチストは自分たちをサムイデアーノと言う。「同じ思想の人」
なんで同じ言語を勉強してるだけで「思想同じだよね」と言われなければならないのか。
それとも、ある特定の同じ思想を信奉していなければ、仲間に入れてもらえないのか。
(有名な言葉に、「こんな人がなぜエスペランチストなんだ!?」ってのがあるんですよね)
そうやって「思想」なるもので人を選別してるから、イデオロギーっぽく思うんです。
信じてなければ信者にしない、という点では新興宗教ですね。
色々な意見を話し合うために言語はあるのに、最初から同じ思想の人しか受け付けないんじゃ、
エスペラントって何のためにあるの?と思う。だから普及しないんですよ。

6Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/01/10(木) 21:15:33
聞けば聞くほどサムイデアーノ。

どこかの国に属している言葉は国際語に相応しくないという主張ですが、
歴史的に見ても国際交流に使われる言語は、国などの勢力に属していて、
軍隊を持っていて、金もたくさん持っていて、文化的コンテンツも充実しているものが選ばれるのです。
例えばシュメール語や漢文やアラム語やラテン語やサンスクリッドやアラビア語などなど。

一方、エスペラントは軍隊も資金力もなく、独自の文化コンテンツも貧弱。
ほとんどの文化コンテンツは翻訳物やマルクス主義やキリスト教の借り物で、
それだったら他の自然言語をやったほうが読めるものも多いし、
英語やフランス語で話すことが多いほかのユネスコ・ユニセフのような団体に入った方が
世界平和の理想にとって現実的だし人も多いし、
キリスト教やユダヤ教コンテンツが好きなら、ラテン語やギリシャ語やヘブライ語を
やったほうが楽しいと。
言葉の壁を何とかしたいなら、本気なら相手の言語を必死に学ぶと。
たぶん、他の有力な左派系の受け皿が多いというのも原因だと思います。

アンサイクロペディアに「エスペランティストとは世界平和を希望するが希望するだけで何もしない人を示す」
と書いてありましたが、ブラックジョークの中に真実を見た感じです。

7Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/01/10(木) 21:35:58
下のまとめによると、一つの言語が圧倒的に優位な時代では人工言語の国際補助語は流行らないとか。
そして生き残るには「秘密の言語」か「空想の言語」の道を選ばないと需要がないそうな。
その辺は松戸様の主張と同じようです。

新生人工言語論 「国際語・国際補助語」「グローバル社会の人工言語」
http://lanxante.higoyomi.com/fol_17.html
http://lanxante.higoyomi.com/fol_18.html

なんだかんだいって、エスペラント陣営にも勉強になる物が多いです。

8Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/01/11(金) 12:23:39
特殊なイデオロギーに牛耳られてるのは日本のエス界だけですよ。
外国のエスペランティストは様々の思想の人がいますし何でも率直に
語り合えます。インターネットのおかげで日本の団体を通さずに外国
のエスペランティストと直接知り合い交信できるようになったので、
もはや悩むことはありません。

9なつ:2008/01/12(土) 12:12:57
>>5
はい、私はJ-K氏にお前はエスペラントを学ぶなと、強い口調で言われましたからね。
思想偏重そのものです。

10松戸彩苑:2008/01/12(土) 12:48:05
エスペラント界には「社会思想」にこだわってる人が多いんですが、皮肉なことに、世間の
進歩的な人たちからも、ほとんど相手にされてないんですよね。

つまり、社会思想について語っているときは話がスムーズに通じるんだけれども、エスペ
ラントの話になると、とたんに理解してくれなくなるわけですね。

ですから私は「個人的に社会思想をもつのは構わないけれども、エスペラントの宣伝をす
るときに社会思想を前面に出しても効果がないと思う」と言ってるわけなんですね。

11松戸彩苑:2008/01/12(土) 15:36:06
富岡多恵子(著)『「英会話」私情』(日本ブリタニカ 1981年)という本に、エスペラントに
関する文章が載っていますので、引用しますね。

この人は学者ではないので、思ったことをどんどん書いていくという感じの文章なんです
が、私の考えでは、かなり正しいことを書いてるように思うんですね。

はっきり言って、エスペランティストや言語学者なんかよりも、よっぽどマトモだと思うんで
すけど、この本が出た1981年当時ですと、エスペラント界のトップにいた人たちの多くは、
戦争や弾圧を体験した人たちですから、おそらく「シロウト考え」だとして無視したんじゃな
いですかね?
---

さて、エスペラントは人工語ということでかなり偏見をもたれているようである。どこにもエ
スペラントを喋っているひとだけの住むエスペラント国というのはない。

ところでわたしはエスペランティストではない。エスペラントを自由に使いこなすことができ
てこそエスペランティストであって、ほんの少し入門書をのぞいたくらいではエスペランテ
ィストではない。わたしはエスペランティストでもないが、エスペラント教徒(?)或いは狂
信者でもない。本当は、狂信者でないエスペランティストであればいちばんいいのだろう
が、今のところわたしはそのどちらでもない。

エスペラントは人造語である点で、共通語としてはまったく中立たりうる。しかし、エスペラ
ントが、インド・ヨーロッパ語を基礎にしてつくられている点で、その中立性をはじめから疑
ってかかり、アジア人には中立でないという偏見もある。けれども、世界のあらゆる少数
民族の言葉を包摂した共通語が出現せぬ現在、エスペラントは、どの国の人間の生活文
化の背景もないという点では中立である。わたしは、エスペラントがヨーロッパ語を基礎に
していても、それは中立であると考える。

もうひとつの偏見は、エスペラントが人工語ゆえに、現実に共通語として使用されても、そ
れはあくまで一時の便宜の、共通語としての役割しかもてず、人間同士の深い感情、情緒
まで表現しえないのではないかとの疑いをもたれることである。わたしはエスペランティス
トではないが、人工語でもそれに熟達して慣れることで人間の深い感情や情緒を表現しう
るはずだと思う。なぜならそれを喋るのが人間だからである。わたしは人間の想像力を信
じるので、エスペラントが人工語ゆえに記号に始終するという偏見をもたない。すでにエス
ペラントによる文学もあり、異る国の男女がエスペラントで恋を語り結婚して、家庭内では
エスペラントを喋って家庭生活をしている例もある。

ところで、「エスペラントは単なる言語であるだけでなく、重要な社会問題なのである」とい
う、エスペラントの創造者ザメンホフの言葉は、そのままエスペラントのもつ重要な問題を
提示している。

一九七一年七月号の雑誌『潮』に出ている「知られざる素顔の日本」という対談で、梅棹忠
夫氏は、韓国で行われた公開学術講演会で「文化人類学から見た韓国と日本」と題して
「エスペラントで講演し、韓国語に通訳してもらった」と話している。それは、中年以上のひ
とは日本語で話してもわかるが、過去の歴史のことを思うと、やはり気持の上で抵抗があ
るだろうし、話す方にも遠慮がある、ところがエスペラントなら気兼ねがいらないので、エス
ペラントで話した、というのである。朝鮮で年配のひとが日本語を喋ることができるのは、日
本がかつて朝鮮人に日本語を強制したためである。

この場合、まさに、エスペラントの中立性がよくあらわされている。

ただし、わたしはここで、ミーちゃんハーちゃんのひとりとして、エスペラントを考えたい。ミ
ーちゃんは常に「重要な社会問題」に興味をもつとは限らない。ミーちゃんにとっては、水
は「ウォーター」しか知らなかったのが、たとえばイタリアへいって、辞書で見たばかりの
「アクア」と叫んだところコップの「水」が目の前にあらわれたら、「ウワー、通じた!」と感
動することが大事である。つまり、ミーちゃんは、幼児のように、言葉が実際にモノを示し、
言葉でモノが呼び出されることに単純に感動する。そして、この種の単純な感動が、たと
えばイタリアでならイタリア及びイタリア語への親愛を呼ぶ場合があって、イタリア語のカ
タ言を五ツや六ツは食事している間に覚えてしまうこともある。これは、言葉を覚える、い
わば原初的なよろこびといえる。

12松戸彩苑:2008/01/12(土) 15:37:47
>>11 の続き)

それからもうひとつ、ミーちゃんというのは、努力するのが好きではない。ということは、ほ
んの少々の努力をしても、すぐにその結果が明らかにならないと決して次の少々の努力
もしない。ミーちゃんは「重要な社会問題」や「人類の平和」や「イデオロギー」のために、
新しい言葉を覚える努力なんてしない。いかに、エスペラントが人類の共通語として中立
であり、そういう中立語がこれからの人類には必要であろうとも、目先のよろこびや目先の
結果、効果をミーちゃんは求める。エスペラントを覚えて、それを旅行先のエスペラント国
で使ってみて、すぐに目の前に水が出てきたり、ほしいモノが目の前に出てくるなら、ミー
ちゃんはそれを覚えるが、それができないと関心をもたない。

勿論、エスペラント国はないが、世界中にエスペランティストはいる。そのひとたちと会えば、
他のひとが驚き、うらやましがるような、エスペランティスト同士の通じ合いがある。しかし、
それは意志的でなければならぬ。エスペラントを覚えること自体、最初から意志的であり、
思想的である。エスペラントを学習すること自体がひとつの思想の表明となる。また、共通
語への強い思想があってこそ、エスペラントを使い切るまでの学習がありえる。これは、エ
スペラント自体の強さであると同時に、ミーちゃんに対する拡張作戦というより、ミーちゃん
への認識不足をあらわしている。人間は、意志的な人間や思想的な人間ばかりではない。
実際には、英語よりもエスペラントの方が、文法も発音も簡単である。それなのに、エスペ
ラントに興味を示すミーちゃんはいない。

これにはいくつか理由があると思える。勿論、エスペランティストでないわたしの推測を出な
いから、見当はずれかもしれない。以下のような邪推をご容赦ねがいたい。

エスペラントを学び使うことが意志的であり、思想の表明をするといったことと矛盾するが、
はたしてエスペランティストすべてがそうであるかどうか。むしろ、青春期の好奇心や、少々
変ったホビーとしてエスペラントに出会って熱中したために、エスペラントを使いこなすまで
にはなったが、趣味の同好会意識から出られぬひとも稀にはいるかもしれない、ということ。
しかしそのひとたちは、マニアックに学んだために実力はあるから、それが逆に同好会意
識を強めることになるかもしれぬ。そういうひとにはミーちゃんを思想的にまきこむオルガナ
イザーとしての力はない。

またその逆に、エスペラントを学ぶことを平和運動とか平和主義と結びつけすぎて窮屈なも
のにしてしまい、ミーちゃんが旅行英語に示すような単純な興味を軽蔑し、問題にしなさすぎ
るのではないかと邪推する。エスペラントを学べばこれだけ現実的トクになるという風なミー
ちゃん向けの宣伝を今まで見たことも聞いたこともない。

(同書130〜134ページ)

13松戸彩苑:2008/01/13(日) 21:32:40
>>5 >>8 >>9
そういえば、論語のなかに「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」って言葉があり
ますよね。

エスペラント界も「和して同ぜず」であってほしいものです。

14ベダウリンデ:2008/01/16(水) 08:53:55
>富岡多恵子(著)『「英会話」私情』(日本ブリタニカ 1981年)
一般の人への普及方法を全く考えてない、という指摘ですね。
30年近く前に既に今と同じような指摘がされているんですね。
ということは、エスペラント界はその時点からずっと変わっていないのですね。
理由として私が思うのは、
一、そういう意見を敢えて無視してきた。
二、分ってるけど、やりようがなかった。
とあると思う。

一、としては、掲示板でもふとした拍子に出るように、異なる考え方の者をエスペラントから排除しようとする言葉に表れてる。
異分子には入ってほしくない、という本音が出ちゃう。
ゆるやかな表現でも、誘う人は限定してる、とか、思想が無ければどうせ長続きしない、という内容の書き込みもありました。

二、としては、実際問題として、一般の人を引き付ける要素が、エスペラントには全く無い。
「ミーちゃん」をなめてはいけない。「ヨン様ファンのおばさまが韓国語を習う」事例を出すまでもなく、
外国の何かが本気で好きになれな、言語の壁を乗り越えたいという強い意思になる。
日本が誇るアキバ系オタク文化でエスペラントを宣伝すれば、という意見もありますが、
世界のotakuは既にガンガン日本語を学習してるという。その人達も元はただの「ミーちゃん」のはず。

エスペラントが出せる独自色は「平和思想」しかない、と主流派は思ってるのかもしれない。
けど、掲示板見てると、それに不満を抱いてるエスペランチストは、少なからずいる。
一、の問題とからんで、非常に不快な思いをさせられているように思う。
すごくもったいない事だと思う。

15ベダウリンデ:2008/01/16(水) 09:19:00
「平和思想」でないなら、何をエスペラントに期待してるのか。
秘密の日記を書きたいなら、確かに、エスペラント以上にマイナーな言語を選ぶ方が賢明。
秘密、ではなく、人と交流したいから、人工言語の中でもメジャーなエスペラントを選ぶんだと思う。
特定の国だけが好きなら、その言語だけ深く追及した方が有意義。
特定ではなく、比較文化的に、色々な国から情報を集めたい、という期待があるからエスペラントにしたんだと思う。
英語でもいいけど、英語だとどうしても英語圏の人の比率が高まるから、人工言語に期待するんだと思う。
自分だったら、そんな感じかも。

そもそもみんな、エスペラントに何を期待して始めたのか、気になる。

16松戸彩苑:2008/01/18(金) 04:22:39
たしか半年くらい前だったと思いますが、私はこの掲示板のどこかに「町田健という言語学
者がエスペラントについて論じている」と書いたんですが、最近、部屋の掃除をしているとき
にこの文章をコピーしたものが見つかりましたので、ここに引用することにします。

出典は、町田健(著)『言語学が好きになる本』(1999年 研究社)の172〜177ページで
す。

なお、この文章には脚注がついているんですが、これを忠実に再現することは困難ですの
で、本文のあとに注を付すという形にしておきました。

エスペラントをやっている我々のような者が読むと、あちこちに文句をつけたくなるような文
章なんですが、しかしこれが、東大の大学院を出たプロの言語学者なんですよね。
---

Q24 英語とエスペラントはどっちが国際語にふさわしい?

  エスペラントは本当にやさしい?

エスペラントは、一八八七年にポーランドの眼科医である(注1)ザメンホフが考案した人
工言語です。人工言語に対して、日本語や英語のような「普通の」言語を「自然言語」とい
います。自然言語は、まさに自然に、いつの間にかできあがっていたコトバでして、誰かが
作ったものではありません。一方、人工言語は、エスペラントの場合のように、誰がいつ作
ったかちゃんと分かっているコトバのことをいいます。

人工言語として一番有名なのはエスペラントですが、人間なら誰でも使える人工言語の
発想は(注2)十七世紀からあり、特に十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて、
たくさんの人工言語が作られています。たとえば、「ボラピュク」「インテルリングア」「イド」
「オクシデンタル」「ノビアル」などで、ほとんどが英語とかラテン語とかの、ヨーロッパの言
語をもとにして作られた言語です。

さてエスペラントは、世界中の誰でもが、同じコトバでコミュニケーションを取り合うことが
できるようにすることを目的として作られた言語ですから、覚えなければならない単語の数
は自然言語よりも少ないですし、語形変化などの文法規則にも例外がないようになってい
ます。

そういう点では、英語や日本語に比べると覚えやすい言語なのでして、それじゃあなんで
エスペラントが世界のどこでも通じる国際語として使われるようになっていないんだろう、
と思う人がいても不思議ではありません。多分、(注3)世界に百万もいるというエスペラン
トの愛好者(「エスペランチスト」と呼ばれます)もそう思っているはずです。

その理由としては、まずエスペラントそのものの性質があります。エスペラントは覚えるの
が簡単だと申し上げましたし、エスペランチストもそう言っているのですが、それはヨーロッ
パ諸語を話す人々にとってであって、日本語とか中国語などを使う非西欧人にとってはそ
うではありません。

エスペラントでは(注4)「人間」は homo、「本」は libro、「パン」は pano、「美しい」は bela、
「持つ」は havas と言うのですが、こういう単語は、イタリア人とかスペイン人なら、大体の
ところの意味の見当はつくでしょう。でも私たち日本人の大多数は、イタリア語もスペイン
語も知らないのですから、pano はパンかなあ、そういえばどっかの本屋の名前が「リブロ
栄」とか言ってたから、libro っていうのは「本屋」っていう意味なのかなあ、みたいな感じ
でぼやっと分かる程度ではないでしょうか。

英語を使う人々だって、やっぱりスペイン語なんかを勉強していないんだったら、意味の見
当がつくのは、havas ぐらいだと思います。エスペラントで覚えるべき単語の数は少ないと
いっても、全部で一万五千もあるのだそうですから、これだったら英単語を覚えるほうが楽
かもしれませんよね。

17松戸彩苑:2008/01/18(金) 04:25:06
>>16 の続き)

  あなたもエスペランチストになれるか

それから、エスペラントには定冠詞の la があって、名詞が「定」であるという性質を表すの
ですが、「英語の冠詞の使い方に決まりなんてあるの?」の項目でお話ししましたように、
日本人にとっては、名詞の指すモノがどういう性質をもっている場合に定冠詞を使えばい
いのかということは、なかなか理解するのが難しいのです。エスペラントには不定冠詞の
ほうはないんだそうですが、(注5)それにしても冠詞があるということは、日本人(それに
中国人や韓国人など冠詞のない言語を使っている人々)にとっては厄介な問題だと思い
ます。

この他、仮定法があったり、関係代名詞があって用法はむしろ英語より複雑だったりと、
私たちが英文法で頭を悩ませるアイテムは、エスペラントにもきっちりそろっています。ま
た逆に、エスペラントには、日本語の「〜ている」や「〜ていた」のような意味を表す(注6)
進行形がありません。ですから、「いま雨が降っている」と言う代わりに「いま雨が降る」と
言ったり、「私が帰宅したとき、家族はテレビを見ていた」ではなく「私が帰宅したとき、家
族はテレビを見た」のように言うエスペラントは、私たち日本人にとってはどこか不正確な
ような気がするかもしれません。

こういうわけですから、ヨーロッパ諸語、特にイタリア語、スペイン語、フランス語などのロ
マンス系諸語を使っている人々でなければ、エスペラントを覚えるのが、英語に比べて特
に簡単だということはないのではないかと思います。

もちろん、日本人をはじめとするアジア系の人間でも、英語とかフランス語あるいはイタリ
ア語などがよくできる人であれば、文法規則に例外がないだけに、エスペラントは大変や
さしい言語に見えるでしょう。

(注7)しかし単語をそれなりの数だけ覚えて、文法規則もちゃんと理解したからといって、
外国語が自由自在にあやつれるようになるわけではないことは、私たち日本人には身にし
みて分かっていることです。ですからエスペラントだって、基本をマスターしたあとは、会話
の訓練をしたり、小説などの文章をできるだけたくさん読んだり、自分でもきちんとした作
文をしたりと、いろいろと努力をしなければ、結局はうまくなることはできないわけです。

  エスペラントと英語

だったら英語と同じじゃないかと思われるでしょう。そうです。私たちの母語ではない以上、
エスペラントも英語も一緒です。もちろん、英語のほうが、覚えるべき単語はエスペラント
よりは多いですし、文法規則にも例外がたくさんありますから、最初に勉強するときには、
英語のほうがエスペラントよりも大変だということは確かでしょう。

しかし、一度基本を覚えたあとに、一層うまくなるためにしなければならない努力は、英語
もエスペラントも別に変わるところはありません。日本のような国だったら、駅前に英会話
学校はいくらでもありますし、本であれ雑誌であれ新聞であれ、英語で書かれたものを手
に入れるのに不自由はしません。ですから英語の力をみがくための環境は、エスペラント
よりははるかに充実しているわけで、(注8)気力さえあれば(気力を出すのが問題ではあ
るのですが)いくらでも上達する可能性は与えられてます。

さらに、今の日本の社会では、英語が上手であることによるメリットには大変大きなものが
あります。大学入試、就職、昇進など、いろいろな機会に、英語の能力が望ましい目標を
達成することの手助けをしてくれます。一方、エスペラントの達人だからといって、一流の
会社の人事担当者に有能だという印象を与えるのは難しいでしょう。

お見合いの席でだって、「美佐子さんは英会話が達者でいらっしゃいますのよ」と言うと、
ああ美佐子さんは知的な女性なんだろうなと、一応は思います。一方、「美佐子さんはエ
スペラントが達者でいらっしゃいますのよ」と言ったって、「ええっ? そんなエスニック料
理あったっけ」と思う人がいるだけかもしれません。たとえエスペラントのことを知っていて
も(もちろん知っていてほしいですが)、(注9)それだけで美佐子さんを高く評価する相手
は、そうそうはいないのではないでしょうか。

18松戸彩苑:2008/01/18(金) 04:27:02
>>17 の続き)

つまり、日本では英語を勉強するための「動機」をもたらすものがたくさんあるのに、エス
ペラントを学習させる動機を与えるものはあんまりないのです。これは日本だけでなく、ど
の国でもそうだろうと思います。巨大な経済力と高い文化をもつアメリカを背景とする英語
と、主としてヨーロッパと東アジア(日本、中国、韓国)に百万人程度しか使用者がいない
エスペラントでは、学習の魅力ということについては、勝負になりません。

結局エスペラントは、クラシック音楽とか日本舞踊とか俳句のような、一種高尚な趣味の
一つといった雰囲気に包まれているんでして、(注10)国際語としての実用性を発揮する
のは、残念ながら難しい状況にあるといえるでしょう。

ですから、現実的に考えると、英語が国際語として普及するのは致し方ないと考えるしか
ありません。しかも幸いなことに、英語というのはエスペラントに似て、動詞の活用とか名
詞の形の変化とかが比較的単純ですから、最初に学習する外国語としてはとっつきやす
い性質をもっています。そして世界の多くの国で英語が第一外国語としてすでに学習され
ているのですから、このまま英語が国際語としての道を歩み続けることになるでしょう。

  英語が国際語でいいのか

しかし、日本人である私は悔しい! なぜならば、英語が国際語としてのゆるぎない地位
を確立してしまったら、英語を母語とする国の人々は、世界的レベルのコミュニケーション
で圧倒的に優位に立つからです。日本語が国際語になればいいのですが、フランスでさ
えあれだけフランス語の普及に努力しているのに、結局は英語に押されっぱなしという事
実を考えると、(注11)日本政府はフランス政府ほどの努力もしていないのですから、日
本語が国際語になれる可能性は薄いと思います。

交渉とか議論とかを英語でする際に、相手が英語を母語とする人間だと、どうしてもそれ
だけで気後れしてしまいますよね。相手は全然たいした内容のことを言っていないのに、
それに対するまともな反論もできない自分がなさけなくなることさえあります。ところが、相
手も英語を母語とする人間じゃないと、どうせお互い下手なんだからという安心感があって
か、けっこう堂々と英語が話せたりします。

というわけで、世界の人々がすべて対等にコミュニケーションをするためには、誰かの母
語ではない言語を国際語として用いるのが絶対に望ましいのです。そしてそのような国際
語としていま通用する可能性があるのは、多分エスペラントだけだと思います。

しかし先ほども申し上げたように、エスペラントは国際語になれそうにないのです。この二
律背反をどう解決するか、うーん、コトバだけの問題ではないだけに、私にも名案はありま
せん。


(注1) L.L.Zamenhof(一八五九−一九一七)

(注2) ベーコンとかライプニッツのような哲学者もこういう人工言語を考えたということです。
もちろん、失敗したわけですが。

(注3) このことは、「日本エスペラント学会」のホームページにそう書いてありました。

(注4) 「人間」「本」「パン」は、イタリア語で uomo、libro、pane、スペイン語で hombre、libro、
pan です。エスペラントとよく似ていますよね。

(注5) ま、冠詞の使い方を間違えたって、通じることは通じるんでしょうが。

(注6) もっとも、進行形のない言語は世界にいくらでもあります。ドイツ語とかロシア語が
そうです。

(注7) 英語学の大家といわれる学者でも、「話すのはなかなか大変でねえ(もちろん英語
のことです)」と言っているのを聞いたことがあります。

(注8) 外国語は、基本を覚えたあとの上達が、最初よりはぐっと遅くなるので、中級以降
の努力が苦しいですね。

(注9) エスペラントが上手であることは、日本では、英語も同様に上手だということを意味
する場合が多いのですが。

(注10) でも、エスペラントを知っていると、世界中のエスペランチストの家に泊めてくれる
ので、旅行が楽だと、ある日本のエスペランチストが言っていました。

(注11) 最近では日本語教師の海外への派遣なんかも行われるようになりましたが、フラ
ンスはそんなことずっと前からやっています。

19ベダウリンデ:2008/01/18(金) 20:18:38
思ったんですが、「平和思想」はエスペラントだけの専売特許じゃないよね、と。
世界中の良識ある人々が(各自考えてる方法は色々あるんだろうな、と思うけど)平和を望んでると思う。
言葉は違っても、通訳などを介して、どうにか意思疎通して、平和を築ければ、それでいいように思う。
とすると、エスペラントの独自性って何が残るんだろう?って思う。

>『言語学が好きになる本』
私も数年前に読みましたよ。その時はエスペラントなんて全く関心が無かったせいか、
上記引用の箇所は全く記憶にないです。他の部分は結構勉強になって面白かった、と記憶してます。
曲がりなりにもエスペラントが紹介されてたのに、人工言語?ありえなーい、無視!という感覚だったんですね。
数か月前の自分を思うと、一般人の感覚なんてそんなもの、と思います。

20松戸彩苑:2008/01/19(土) 08:46:22
「言語学者は、エスペラント&エスペラント運動をどう見ているか」という点について知るの
に役立つと思われる文章が、日本エスペラント学会の機関誌である「La Revuo Orienta」
2001年7月号に載っていましたので、ここに転載しますね。

なお、この文章を書いたのは臼井裕之氏です。

  1998年、わたしは krokodili について書いた一文を『現代思想』なる雑誌に載せても
  らう機会を得た。きっかけは、林正寛さんという言語学者(かの田中克彦氏の弟子であ
  る)に推薦してもらえたからだが、この林先生いわく、「エスペランティストの文章って押
  しつけがましいでしょ? でも君の文章にはそういうところがなくて、エスペラントではこ
  うだと、淡々と書いてあるから推薦しようと思ったんだ」。

  (「La Revuo Orienta」2001年7月号29ページ)

ネットで調べると判るのですが、この林正寛という言語学者の方の専攻は「言語社会学」な
んですね。
そういう人物が、「エスペラントは重大な社会問題である」と主張するエスペランティストの
文章を「押しつけがましい」と言ってるわけですね。

エスペラント界には「従来の宣伝のしかたで良いんだ」と考えておられる方も少なくないよう
ですが、こういった文章をみると、とてもそうは思えないんですよね。

21松戸彩苑:2008/01/19(土) 12:11:21
ルイ=ジャン・カルヴェ(著)『超民族語』(文庫クセジュ776 1996年 白水社)という本
があるんですが、この本のはじめのところに田中克彦氏が執筆した「解説:この本を手に
する読者へ」という小文があって、このなかに次のように書いてあるんですね。

  エスペラント語は、たとえばトルストイは2時間でマスターしてしまったほど学びやすい
  言語だと言われ、私もそのように宣伝してはいるが、やはり使ってなれないと、そう自由
  にというわけには行かない。私はかつて同好の市民をさそって、国立(くにたち)公民館
  で学習会を開いたことがある。噂を聞いてある日、古参の老練なエスペランチストでチェ
  コ文学者でもある栗栖継さんが突然会場に現われて授業参観をなされ、「田中さん、エ
  スペラントはやってみると案外むつかしいもんですよ」と言い残して立ち去られたときの
  ことをありありと思いうかべるのであるが、全くその通りなのだ。ことばの勉強ほど、口さ
  きでごまかせないものは他にあまりないのである。

  (同書8ページ)

私はこれを読んで「アーア」と思ったんですよね。

これまでエスペランティストは一生けんめい「エスペラントは学習容易である」と宣伝してき
たわけですね。
しかし、エスペラントについて多少は知っている著名な言語学者に、それを真っ向から否定
するようなことを本に書かれてしまったわけです。

なお、この本の著者であるカルヴェというのは、1942年生まれの世界的に有名なフランス
の言語学者なんですが、そういう人の本(しかも1000円弱の新書)ですから、言語社会学
あるいは言語学一般に関心のあるすべての日本人が目にする可能性があるわけですね。
そういう本のなかにこんなことを書かれたというのは、やはりマズイよなと思いました。

とは言っても、考えてみれば、この本が出る以前から、エスペラントには社会的な信用は
無かったわけです。
そもそも、もし本当にエスペランティストが言うように、エスペラントが学習容易でなおかつ
レベルの高いものだったら、もっと広まってるはずなのに、そうなってないのですから、世
間の人たちがエスペランティストの言うことを信用するはずがありません。
ですから、進歩的な人たちでさえも、エスペランティストの言うことに耳を傾けようともしてく
れないわけですね。
ということで、この本によって信用が無くなったというわけではないのですが、いわば「ダメ
押し」にはなってるのではないかと思いました。

この発言の主である栗栖氏も、自分の発言が、まさか本に書かれるなどとは夢にも思わな
かったのでしょう。
また、おそらく栗栖氏は「そうは言ったが、でも英語などの民族語を自由自在に使えるよう
になるのと比べれば、やはりエスペラントは易しいんだ」ということも考えておられたのだろ
うと思います。
しかし、エスペラントについてまったく知らない一般の人たちには、そんなことは判るはずが
ありません。
「エスペラントは、ドイツ語・ロシア語・モンゴル語なんかに堪能な田中氏にとっても、やっぱ
り難しいんだ」としか思われないだろうと思います。

ということで、いろいろと考えてきましたが、問題は、栗栖氏や田中氏の個人的な責任に帰
せられるものではなく、

(1) 学習途中で挫折したり eterna komencanto になってしまう人が昔からたくさんいたの
    に、学習方法の改善についてあまり真剣に考えてこなかった。

(2) それでいて、宣伝のときには「エスペラントは学習容易である」と言っていた。

ということにあると思うんですね。
つまり、エスペラント界あるいはエスペラント運動全体の問題だと私は考えます。

もちろん、このように言えば「学習方法をどのように改善すれば良いのか」という質問が出て
くることになるのでしょうが、それは「エスペラントの学習法」スレで論じることにします。

22ベダウリンデ:2008/01/19(土) 16:35:21
言語学者のエスペラント嫌いについては、分かる気がします。
私は今「言語は全て平等である」「全ての言語はどんな内容でも表現できる」という考えを持ってますが、
この考えは、私が読んだことのある言語学入門書から聞きかじって覚えたものだった、んですよ。(今でも賛同してるけど)
「よろず」の方にザメンホフ氏の演説が紹介されていましたが、それを見ると、ザメンホフ自身がエスペラントと特定の思想を結びつけていた、らしいですね。
つまり、エスペラントのみ、特別な「平和の言語」なんです。
「日本語は言霊が宿る神聖な言語」とか言うのと、全く同じレベルです。
これは言語学者の「言語は平等」という常識から見ると、アホらしすぎる、んだと思います。
今現在、平和愛好者からもエスペラントは注目されてなく、エスペランチストの考え方も様々、という事実からすると、
言語学者の説の方が絶対正しい、と思います。

23松戸彩苑:2008/01/19(土) 18:20:44
>>22
いくつかコメントしたい事があります。

まずザメンホフは、自分の思想(Homaranismo と言います)を、あくまでも「個人的な意見」
として発表してるんですね。
つまり「誰にも無理強いしない」ということを自ら明言してるんですね。

それから、ザメンホフの思想の内容ですけれども、これについて説明する前に、まずザメ
ンホフが生きていたころのヨーロッパ情勢について知っておく必要があります。

ザメンホフが生きていたころは、ポーランドという国は無く、ポーランドの東半分はロシア領、
西半分はドイツ領、そして南側のほうはオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったんで
すね。

で、ザメンホフが住んでいたのはロシア領となっていたポーランドの東半分だったんです
が、ロシアにおいてはユダヤ人がひどく差別されていたんですね。

高校に入りたくても、ユダヤ人の受け入れ人数はものすごく少ないとか、基本的にユダヤ
人は公務員になれないとかというのはまだ序の口で、何十年かに一度「ポグロム」と呼ば
れる反ユダヤ暴動が起こって、キリスト教徒の一般民衆がユダヤ人を襲撃して殺害する
ということまであったわけです。
ザメンホフ自身も、生涯のあいだにポグロムに2度遭遇してまして、そのときは地下室に何
日か隠れていたそうです。

日本では「ユダヤ人差別」というと、ナチスによるものと、ドレフュス事件くらいしか知られて
いないみたいなんですが、現実には、昔は今以上にキリスト教色が強かったわけですから、
程度には差があっても欧米全体に反ユダヤ的な雰囲気というものがあったわけです。

で、ロシアは特にユダヤ人差別がひどかったんですね。

ザメンホフの思想というのは、このような当時の社会のなかで「生存の権利」を求めるもの
だったんですね。

「思想」というと、なんだか胡散くさいものだと思ってしまう人が多いわけですが(もちろん、
胡散くさい思想が多いのも事実なんですが)、しかし、ザメンホフの要求したものは、あくま
でも「生存の権利」を求めるものであり、きわめて真っ当なものだと思うんですよね。

ザメンホフの思想について考える際には、こういった当時の事情を理解していただきたい
ものです。

また、こういったことについてもっと詳しく知りたい場合には、ザメンホフの伝記であるとか、
あるいはザメンホフの演説や論文を邦訳した水野義明(編・訳)『国際共通語の思想』(19
97年 新泉社)という本を精読されると良いと思います。
---

それから「ザメンホフやエスペランティストたちが、エスペラントを特別視する」というお話で
すが、これには理由があります。

つまり「民族語」のあいだには優劣は無いのですが、しかし「国際共通語」として使われる
言語については、学習が困難で、ネイティブとそうでない人とのあいだに深刻な差別を生
む民族語であってはならず、必ず、合理的に作られた人工語でなければならない、という
考え方がエスペラント界にはあるんですね。

これは「国際語思想の本質と将来」という1900年ごろに執筆・発表されたザメンホフの論
文のなかに書いてありまして、先述の『国際共通語の思想』のなかにも収録されています。

ということで、ご指摘のような「自国語至上主義」などとはまったく違うんですけれども、ど
うもこの点がなかなか判っていただけないようですね。
まぁ、説明のしかたが良くないのかもしれませんが。

24ベダウリンデ:2008/01/20(日) 17:01:36
>まずザメンホフは、自分の思想(Homaranismo と言います)を、あくまでも「個人的な意見」
>として発表してるんですね。
>つまり「誰にも無理強いしない」ということを自ら明言してるんですね。

「あいさつ・雑談」スレで「外の人」さんが、リンクをはってる個所から、「ザメンホフの演説」を読んだんですが、
そこでは、はっきりと、「実用のためにエスペラントを使おうとする人は仲間になるな。もしそんな人間が増えたら私はエスペラントやめる!」という趣旨の事を言ってますよ。
印象としては、ヒステリックで短気、自分の気に入らない人間は排除したいという傲慢さ、言う事きかないなら創始者のくせにやめると言い出す無責任さ、を感じます。
「外の人」さんも、あの演説でかなり悪印象だったみたいですが、私も同感です。
私の場合、たとえザメンホフ氏があの演説の印象どおりの「き○○い博士」だとしても、その制作物がツールとして有効活用できれば、それでいいじゃない、と思っていますが。

ザメンホフ氏の演説が正しいなら、「平和思想でなく一般人に普及を」という松戸さんのご意見も、ザメンホフ氏の意思からはずれてしまいます。
まずザメンホフの思想なりを説明して、賛同してくれた人だけ勧誘すべきです。
松戸さんじゃなくても「エスペラントをEUの公用語に」という意見だって、EUという「実用」に使うという点では、ザメンホフ氏の意思に反します。
その理由が「翻訳などの手間が省け経済的だから」だとしたら、ザメンホフ氏ぶっとびます。

PS。歴史はこれでも結構かじってきてるので、「ポグロム」とか、知ってます。
ザメンホフ氏の演説の内容には関係なく、民族差別の中で苦渋を味わう気持ちのつらさ、分ります。
映画とかにも描かれているので感情移入できます。
差別に甘んじながらも、異民族と共存しながら、ささやかに生きていたのに、ある日突然「隣人」が牙をむくんです。
それも正当な理由は全くなく、いきなり家族などが殺される。でも「復讐」とかできない。それにも甘んじなければならない。という

25松戸彩苑:2008/01/20(日) 20:16:35
>>24
ベダウリンデさんがお読みになったのは、「エスペラントよろず相談室」の administranto
さんが投稿した「私が好きなザメンホフの演説」(投稿日:2008年1月13日(日)01時45分5
秒)に引用してある文章のことだと思います。

これは、1906年にジュネーブで行なわれた第2回世界エスペラント大会におけるザメン
ホフの演説の一部ですね。

この演説のこの箇所はひじょうに有名なものなんですけど、同時に、たいへんな誤解をさ
れてるものでもあるんですね。
いや、「誤解」と言うよりは、はっきり言って「意図的な曲解をされている」と言ったほうが正
解だったりします。

この部分の意味を正確に把握するには、この部分だけではなく、この部分の前後にある文
章をも読まないといけないんですが、「理念」が大好きな人たちは、意図的にこの部分だけ
をクリッピングして、あたかも自分たちのやってることが、ザメンホフの遺志を正しく受け継
いだものであるかのように主張してるんですね。
---

この演説の全文を邦訳したものが >>23 で紹介した『国際共通語の思想』という本に収録
されている(同書197〜211ページ)ので、できればそちらを読んでいただきたいんですが、
ここではザメンホフの真意をかんたんに紹介しておきましょう。

まず、「エスペラントを実用に使うこと」と「エスペラントを理念のために使うこと」というのが
問題になってるわけですが、これを次のように図式化します。

(1) 実用のみOKで、理念は禁止。

(2) 実用も理念もOK。

(3) 理念のみOKで、実用は禁止。

で、ザメンホフがこの演説で言ってるのは、(1)「実用のみOKで、理念は禁止」というのを
主張する人たちに対して「それは絶対に受け入れられない。(2)「両方OK」でなければなら
ないんだ」と反論しているだけなんですね。

ということで、ザメンホフは決して(3)「理念のみOKで、実用は禁止」などと言ってるわけで
はないのですが、先ほども申しましたように、理念が大好きな人たちは、演説の一部分だ
けを取り出して、ザメンホフがまるで(3)「理念のみOKで、実用は禁止」と言ったかのように
思わせようとしているわけですね。
---

それから、この部分でザメンホフが少々常軌を逸したように激しく激昂してるのにも、わけ
があります。

じつは、この演説がなされる何ヶ月か前に、ロシア各地でポグロムが発生して、ザメンホフ
の住んでいた町でも暴動が起こるんですね。

ロシアはそういう状態なのに、西ヨーロッパのエスペランティストたちは、そういったこととは
まったく無関係ですから「理念みたいなものは無いほうが良いよな」みたいに思う人がいた
らしいんですね。

ザメンホフは、それに激しく反対しているわけです。

そういった事情が判らないと、頭がおかしいのかと思ってしまうのでしょうが、けっしてそうで
はないのです。

26りょほう:2008/01/20(日) 20:55:09
>>25
>第2回世界エスペラント大会におけるザメン
ホフの演説のエスペラント原文はここです
http://www.esperantouniverse.com/?pid=art0693464389_355

>ベダウリンデさんがお読みになったのは、「エスペラントよろず相談室」の administranto
さんが投稿した「私が好きなザメンホフの演説」(投稿日:2008年1月13日(日)01時45分5
秒)に引用してある文章のことだと思います。

引用されている文章は9段落目の途中から10段落目の途中までです。

27松戸彩苑:2008/01/20(日) 21:05:11
大事なことを忘れていました。

「エスペラントよろず相談室」に引用してある文章のなかに「思想」という言葉が出てきます
が、これは >>23 で言及した Homaranismo のことではないですね。

Homaranismo は、あくまでもザメンホフの個人的な考えなんですが、「エスペラントよろず
相談室」に引用してある文章のなかに出てくる「思想」というのは、la interna ideo (内在思
想)とザメンホフが名づけたものですね。

とは言っても、これは「思想」と言うほどのものではなくて、ただ単に

  ここ(エスペラント大会)に来ている皆さんはエスペラントをやってますけど、皆さんがエ
  スペラントをやってるのは、やっぱり単なる実利を求めているからではなくて「言葉の壁
  をのりこえて、世界中の人間が仲良くなるべきだ」と考えてるからだと思うんですよね。

  ブローニュ宣言には「エスペラント運動においては、思想はまったく関係ない」って書い
  てありますけど、しかし、この「言葉の壁をのりこえて、世界中の人間が仲良くなるべき
  だ」というエスペランティストに共通する思いだけは、無くしたり否定したりすべきではあ
  りません。

といったことを述べているんだと、私は思いますね。

当然のことながら、理念が好きな人たちの解釈では、私とは違って、「革新的な運動に邁
進すべきなんだ」と言ってるって事になってますね。

だいたいこんなところで判っていただけたでしょうか?
もっと判りやすく説明できると良かったんですが。

28ベダウリンデ:2008/01/21(月) 09:07:23
ありがとうございます。大体分かりましたし、期待したようなお答えが得られました。

ここで余計ながら自分の考えを言わせてもらいますと、私は
「どこの国(民族)のものでもない人工言語で、平等に国際交流を」という意見には賛同します。
またエスペラントの言語仕様には、今のところ十分満足しております。
以上の2点から、私はエスペラントを支持します。

私は「ザメンホフ教」の信者になりたくてエスペラントに目をつけた訳ではありません。
だから、ザメンホフの伝記、演説、思想(?)などに触れることをちょっと敬遠してるところがあります。
ザメンホフ氏が高潔な人格者なら喜ばしいですが、へんてこ博士でも十分なのです。
それに演説だと、ご指摘のような「時流」や、単にその場の雰囲気に合わせて変わる事もありえますから、
演説のこの部分が変だ、だからエスペラント全否定、とはならないです。

で、思ったんですが「エスペラント教」にとってはザメンホフの演説は「経典」なんでしょうね。
聖書もコーランもあるいは仏教の経典も、もともとは聖者の言動を記したものがベース。
そこにはどうしても、曖昧な点、矛盾する点があって、それをどう解釈するのかが神学とか法学とか(仏教だと何だっけ?)で、
その時々の時流に合わせ柔軟に解釈するのが、現代の目線では「マトモ」な学派で
一部だけ取り上げてそこだけ頑なに守ろうとするのは「原理主義」で、一般日本人目線では、ちょっと・・という世界なのでしょう。
おそらくエスペラント界にも、両方存在するのでしょう。でもそれはそれで、信仰は個人の自由、なんですよね。

「エスペラントは平和の言語である」とか言って、言語と思想を一体化する意見には今でも反対です。
また「エスペラントやるならザメンホフの思想を理解すべきだ」という意見がもしあるなら、
それも私にとっては余計な事です。
実用でも理念の表現でも、両方に使える言語であってほしいものです。てゆうか言語ってそういうもの。

29Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/01/21(月) 20:28:01
ザメンホフの大会演説ならこっちのほうがよさそうですよ。
http://www.steloj.de/esperanto/paroloj/

30松戸彩苑:2008/01/22(火) 04:31:06
>>28
ザメンホフは、自分の考えをエスペランティストたちに押しつけようとは思っていなかった
わけですが、しかし、現実に存在している民族間の対立まであっさり無視されたのでは、
苦労してエスペラントを作って宣伝してきた意味が無くなってしまうわけですね。

こういった事情があったので、ザメンホフは「エスペラントは、いかなる思想からも独立して
いる」んだが、しかし「思想をいっさい禁止するというのには断固として反対する」とか「エス
ペラント運動のなかにも内在思想というものはあるんだ」といった、なんとも判りにくい、綱
渡りのような議論を展開するわけですね。

厳密に考えれば、こういったザメンホフの主張には矛盾があるんじゃないかと思うんですが、
しかし、そういうややこしい議論を展開せざるを得なかった事情というのもあるわけですね。

ザメンホフは論理学者ではないのですから、そのあたりは大目に見ないといけないのでは
ないかと思います。
---

それから、いちおう言っておきますと、エスペラントをやっている人間のすべてが、ザメンホ
フの考えに100%賛同しているわけではありません。

というか、今どきザメンホフの考えに100%賛同しているエスペランティストなんて、まず居
ないんじゃないかと思いますね。

私も、ザメンホフに対して敬意は持っていますが、彼の思想がそのまま現代社会に役に立
つとは思っていません。

ということなので

> 私は「ザメンホフ教」の信者になりたくてエスペラントに目をつけた訳ではありません。
> だから、ザメンホフの伝記、演説、思想(?)などに触れることをちょっと敬遠してるところ
> があります。

と書いておられますが、関心がなければ読む必要はありません。
「ひょっとしたら、ザメンホフの思想に関心があるのかな?」と思ったので、>>23 で本を勧め
てみたってだけなんですね。

ベダウリンデさんも、エスペラント界における「個人崇拝」みたいなのに抵抗を感じておられ
るのでしょうが、じつはザメンホフ自身も嫌がってたんですよね。
本人が「やれ」と言ったわけではないのに、周りの人間が勝手に祭り上げてしまったわけで
す。

31松戸彩苑:2008/01/23(水) 03:28:31
個人崇拝みたいだってことを考えてて気がついたんですが、アムネスティ、ロータリークラ
ブ、ライオンズクラブ、ボーイスカウト&ガールスカウト運動なんかでも創始者はいるわけ
ですが、そういう人たちを運動の前面に大々的に押しだしたりはしてないんですよね。

もちろん調べれば判るんですが、わざわざ調べないと判らないというくらいの扱いしか受け
てないんですよね。

赤十字社については創始者も有名ですが(アンリ・デュナンですね)、しかし赤十字社が
「創始者の思想や生涯を学びましょう」などと言ったりはしてません。

ということで、創始者の思想や生涯を重視する運動とは何かと考えてみると、やっぱり宗教
やイデオロギーくらいのものなんですよね。

こういったことを考えますと、やはりエスペラント運動は、創始者について語りすぎているの
で世間から誤解されてるんじゃないかなぁって思いますね。

32ベダウリンデ:2008/01/23(水) 10:38:30
>創始者について語りすぎているの
>で世間から誤解されてるんじゃないかなぁって思いますね。

それはあると思います。創始者を崇拝してるように見える人もいます。
それはその人の信仰の自由だから、「崇拝するな」とは言えないんだけど、
そういう人に限って声高に主張するので、全体がそう見えてしまう。

だから松戸さんのような「マトモ」な学派(現代の感覚に合わせて経典を柔軟に解釈できる人)は必要だなーと思います。
(色々教えて頂いて感謝してます)
一部の人に「経典ではそう言ってる」と言われると、「そうなのかなー、だとしたら、やっぱ自分には合わないのかなー」と思って不安になります。
自分で経典を読み解く気にはなれないし、経典も読まずに「いや絶対違う」という自信も無い。
経典に詳しい別の学者さんにお伺いして一安心、という感じでした。

それから例の演説、崇拝者にとっては感動物で、ほんとにいいと思って紹介してるんだろうけど、
あの部分だけをいきなり読まされた一般人はいい印象持たないです。
そういう感覚のズレも、致命的だな、と思います。
(一般人が入らないように、敢えて一般人が嫌悪を抱くように仕向けてるのかな、と思う時もあります。)

33ベダウリンデ:2008/02/08(金) 19:22:33
Ĉu Esperanto havas propran kulturon?
エスペラントに固有の文化ってあるのかな?

Kompreneble, Esperanto havas literaturon kaj kantojn.
Kio ekzistas krom ili?
もちろん、文学と歌はあるけど、他に何かある?

Mi ŝatas Esperantajn kantojn.
Sed ĉu ili estas propraj ĝenroj?
Ili estas rokoj,pop-muzikoj,folkoloroj,regeoj(?),tangoj,ktp....
エスペラントの歌は好きだけど、あれは固有のジャンルかな?
ロックとかポップス、フォークロア調、レゲエ(かな???)、タンゴとか・・・

Mi pensas, ke kulturo ligiĝas kun naciaj vivoj.
文化って民族の生活に結びついたものだと思うんですよ。

----Mi estas komencanto.Pardonu miajn erarojn.------

34松戸彩苑:2008/02/09(土) 12:55:05
>>33
「民族文化」みたいなのは無いと思いますよ。
エスペラントを恒常的に使うような社会があるわけじゃないですから。

しかしそもそも、そういうものを国際人工語に求めるというのが、無茶というか、無いものね
だりだと思うんですよね。

世間には「エスペラントには文化が無いからダメなんだ」みたいなことを言う人がたくさんい
ます。

しかし私の考えでは、遊びや旅行といったことで良いからエスペラントを使う人が今以上に
増えて、「エスペラントがそれなりに役に立っている」ということが世間の人たちにとっても
無視できないくらいになれば、こんな「文化」がどうしただなんてことを言ったりはしなくなる
んだと思いますけどね。

彼らの議論はその程度のものだと私は思っています。

ですから「文化の無い言葉はダメだ」などという偏見なんかは相手にせず、

(1) エスペラントの使用者を増やす。
    言い換えれば、学習途中で挫折する人や eterna komencanto になってしまう人を
    減らす。

(2) 日常生活に関する語彙・表現を整備する。

ということが必要だと思うんですね。

35Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/09(土) 13:32:42
「エスペラントは文化がないからダメだ」というしばしば投げかけられる批判には
多数の文学作品の存在で反論するのがお定まりになっているようですね。
無意味な反論ですね。英文学を読みたくて英語を学び、フランス文学を読みたくて
フランス語を学ぶように、エスペラント文学の存在を知ったらそれを読みたくなって
エスペラントを学ぶ人が出るでしょうか。反論のための反論、批判者をやりこめて
黙らせるためのだけの反論ですね。こんなことばかりやっていれば世間から相手に
されなくなります。

36Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/09(土) 14:46:35
Reta Vortaroではkulturi,kulturoはこんな調子です。日本語の「文化」とは
異なります。
http://www.reta-vortaro.de/revo/

37la presenza certa:2008/02/09(土) 15:09:16
>日常生活に関する語彙・表現
文化が定まらないと定まらないモノの最たる例なんですが。

38ベダウリンデ:2008/02/10(日) 08:50:04
Mi havas malgrandan eo-eo-vortaron.
En ĝi 'kulturo' estas jena:
私が持ってる小さい辞書では、kulturoはこうなってます。

“ĉio,kio ne estas naturo; ”...ktp,ktp...
“organizado de kaj vivado en socio, kun normoj kaj kutimoj kaj la lingvoj uzataj;” …ktp…
“plibeligo de la ĉirkaŭaĵo per bel-arto,teatraĵoj,literaturo,konstruarto…”

「自然でないもの全て」等々、(「耕す系」の説明は省略)
エスペラント文の翻訳は責任重大なので、自分なりのとらえ方で言うと、
「習慣」「芸術」も含んだ説明ですよね。

Ĉu bel-artoj enhavas muzikon?
Se jes, plibeligo de la ĉirkaŭaĵo per muziko estas kulturo, ĉu ne?
芸術には音楽も入るよね?
そうなら、音楽で周囲をより美しくする、というのは、kulturoだよね???

39ベダウリンデ:2008/02/10(日) 08:57:57
Reta Vortaroも見たけど、私の持ってる辞書の方が丁寧な説明で、日本語の「文化」に近い感じがします。
Retaの説明にはちょっとがっかり。
でも、両方「ガイジン」が書いた物ですよね?なんでこんなに違うのか?
各自の「民族文化」でkulturoの定義が違うのか?
そしたらこれも日常語の混乱の最たる例ですよね?
物の名前なら名付けちゃえばそれですむけど、概念は各自の思い込みによる所が大きいから
もっと大変です。

まあ、相手が分からないようなら、私はkulturoをこう定義しています、日本人は大体そうです、
とか言えば、理解ある人なら「へー、そういう定義もあるんだ〜」と思ってくれるかもしれないですが、
そこまでするのはメンドーですよね。

40松戸彩苑:2008/02/10(日) 09:32:13
>>37
la presenza certa さん、はじめまして。

たしかに「日常生活に関する語彙・表現」のなかには、ある民族(あるいは一地域)に特有
なものというのも少なくありませんね。

それは私も認めますが、しかし私の考えでは、いわゆる先進国といわれる地域に共通する
ようなモノやコトもかなりあるわけですね。

エスペラントでは、まず最初に、そういう国際的なモノやコトをちゃんと表わすことが出来る
ようにすべきであって、その次に、よりマイナーなことも表わすことが出来るようにする、と
いったやりかたで語彙・表現を増やしていくべきであろうと、私は考えています。

41Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/10(日) 11:49:26
「多文化共生」という言葉を近年よく耳にしますが、この「文化」はkulturoじゃ
ないんですね。じゃあ、何と言えばいいんでしょう。

42ベダウリンデ:2008/02/10(日) 14:59:25
『4時間で覚える地球語エスペラント』の一節に、次の様にあります。

そもそも、文化とは「学問・芸術・宗教など人間の精神活動の産物」(「広辞苑」による)です。

ところが私が見れる「広辞苑」では、次の様です。

衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。

「4時間」では、敢えて、文化の定義から「衣食住」「技術」「道徳」「政治」を外してる、と思えたのですが、
どうなのでしょう?
それとも、別バージョンの広辞苑では本と同じなのでしょうか?

エスペラントは地域的な人間の集合体ではないので、民族文化的な「衣食住」「道徳」の形式は持たない。
もし文化の定義にそれらを含むと、エスペラントには文化が無い、と言われかねない。
だから、故意に文化の定義を捻じ曲げている!?という疑念を抱いたのですが、どうなのでしょうか。
Retoでも精神性ばかり強調し「習慣」は無視しているように見えますが、これも同じ理由???

ちなみに、ウィキペディアでは
La kulturo estas kion faras la homoj, iliaj manĝoj, konstruoj, vestoj, pensoj, ktp.だって。
誰が書いたか知らないけど、日本人のイメージする「文化」に近い。

43Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/10(日) 19:59:16
>>42
>エスペラントは地域的な人間の集合体ではないので、民族文化的な「衣食住」「道徳」の形式は持たない。
>もし文化の定義にそれらを含むと、エスペラントには文化が無い、と言われかねない。
>だから、故意に文化の定義を捻じ曲げている!?という疑念を抱いたのですが、どうなのでしょうか。
きっとそうでしょう。

44松戸彩苑:2008/02/10(日) 20:43:26
しかし考えてみると、エスペラントのような世界中に話者がいるような人工語は「人類史上
初めて」と言って良いわけですし、しかもそれが世間の圧倒的多数の人たちには知られて
いないわけですから、世間における「文化」の定義が、エスペラントの世界のそれをうまく
説明できないとしても、それは当然だろう(あるいは、止むを得ないだろう)と思うんですよ
ね。

45ベダウリンデ:2008/02/11(月) 09:06:13
「多文化共生」って英語で何と言うのでしょうか?Multi cultural かな?
似たような概念でmulticulturalism多文化主義というのがあります。
これは世界的な概念のようで、この場合のculturalはほぼethnicと同様のように思えます。
ただethnicという語は、ヨーロッパ人以外の民族を指す差別的表現、と聞きます。
nationだと、民族国家的ニュアンスが強い、とも。
ヨーロッパ人も含めて差別なく「民族」と言う語がヨーロッパ語には無い。
だからculturalという語に「民族」というニュアンスを含めるようになったのかな?と思いました。

日本語でも右に倣えで、多文化=色んな民族の文化=色んな民族、という感じなのでしょう。
多文化共生=国内の様々な民族グループが国内で不利益を被らないようにサポートしましょう、的な
市民&行政の運動、かな、と。

またmulticulturalismはヨーロッパ語では大体直訳みたいですね。
cultureもほとんど、culture 、cultur 、culturaです。
だからどのヨーロッパ語でも、cultureという語に「民族」のニュアンスを含むようになるのは自然の流れ、のように思います。
詳しい人は教えて下さい。

エスペランチストの一部(一部であると信じたいです)sennacio無民族という概念を標榜してます。
だから、kulturoという語に、民族に依存する概念を付け加えてしまうのはヤバイ事なのです。
すなわち、sennacioはsenkulturoという事になる。
senkulturaは既にエスペラント単語にあり、英語のuncultivated無教養な、という意味。
つまり、エスペラントは無教養になってしまうのです!
もちろん、私自身はエスペランチストが無教養だとは思いません。
しかし、自分の都合で世界中が認識してる定義を勝手に捻じ曲げるなんて、
国際語として成り立つのでしょうか????と言いたいのです。

46Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/11(月) 12:10:27
エスペラントにはgentoという単語があります。ザメンホフも使っていますが、
いい単語です。少数民族、未開民族異民族等の意味合いは特にないようです。
etno,etnaは近年英語から入って来た単語のようです。古い辞書では見かけません。
(もちろんわたしの乏しい知見の範囲でです)。etnologo,etnologioは載っていま
す。ethnic cleansingはエスペラントではetna purigadoと表現されていますが、
これは訳というよりはethnic cleansingの"なぞり"でしょう。etnoという単語は
わたしには、いかがわしい使いたくない単語です。

47ベダウリンデ:2008/02/12(火) 11:44:22
gentoを調べたんですが、「同じ祖先」がメインの意味に思えました。
私は日本人ですが、同じ(ひとりの?)祖先から出てきたとは、感覚的に思えないです。
日本人は、色んな所から人々が流入してできた「民族」と言われます。
イザナギ・イザナミに生み出された子孫(そんな神話あったっけ???)という気は全くしないです。
gentoがいい意味っていうのは、ザメンホフがユダヤ人だから??と思えます。
他の民族だって(ヨーロッパ人でも)、結構混ざってるでしょう。

Reta vortaroでは、gentoのもう一つの意味として、
歴史やkuluturoを共有する(かなり意訳)人間集団、という定義もあるみたいですね。
(gentoにはkulturoがあるんだ〜て思った)
逆にnacioには「国家」的ニュアンスはあまり与えていないようですね。
(nacioは言語、習慣、歴史、伝統が同じだそうだけど、そこにkulturoの語は無いです。nacioにはkulturoは無いのね〜)

「民族」を表す良い語がなかなか、ないですね。

48ベダウリンデ:2008/02/12(火) 20:49:08
一応書くけど、手持ちの辞書(この辞書ネット版もありますね)とウィキペディアでのnacioの定義には
kulturoの語が入っています。意訳では「共通のkulturoを意識する人々」みたいな〜
この感覚の方が一般人の私にはしっくりきます。
変なのはreto vortaroだけなので、良かったと言えば良かったです。この作者、絶対sennacio信奉者ですよね〜
まあ、みんながそうじゃないみたいだから、いいや、と。
皆さんがsennacio信奉者だったら失礼をお許し下さい。

49ベダウリンデ:2008/02/13(水) 09:43:32
私は「民族文化」が好きなので、sennacioが嫌なんです。
確かに、nacioはデリケートな概念だ、とは思う。
エスペラントでも、まれに「国家」の意味で使用される(英語からの流用で)、とある。
支配者側から見れば、nacioの語は、分離独立運動を招きかねない危険な語。
被支配者側から見れば、nacioの名のもとに、自分達のアイデンティティーが否定され、巨大な集団に同化させられるという恐れのある語。
ザメンホフは被支配者側だから、nacioを嫌ったのかな。
今現在「民族」の意味でcultureを使うのは、nationの毒々しいイメージを避けるため、なんでしょう。
「文化」なら大事にしてあげるよ、的な、当たり障りのない語?

私は、自分の民族だけが最高で、他の民族を否定したい訳ではないんです。
お互い認め合って「それも素敵ね」と言いたいだけなんです。
sennacioな世界なんて味気なくてつまんない、と思う。あるのは「思想」だけ、ってね。

ウィキペディアでŜtato kaj nacioの項目にある一行を持ってきます。

Zamenhof: "Kaŭze de konstanta intermiksiĝado de la popoloj, neniu (krom kelkaj heredaj kastoj kiel ekzemple la kastoj hindaj aŭ la hebreaj kohenoj kaj levidoj)
en la nuna tempo povas scii, al kiu gento apartenis lia prapraavo." (El: Gentoj kaj Lingvo Internacia.)

ザメンホフ:「popolo(民衆?)の絶え間ない混ざり合いにより、(幾つかの相続身分、例えば、インドのカーストや、ヘブライのコーヘーン・レビ人のようなものを除き)
現代では誰もが、自分のひいひいじいさんがどのgentoに属していたか、知ることができない。」
てめーらにはgento無い、って言われてるようなもんですね

50ベダウリンデ:2008/02/14(木) 09:25:42
続けて書くけど、みんながなぜエスペラントをやってるのか、よく分からないです。
この掲示板でも「私は左翼です」と高らかに公言する人がいて、そういう人はまたアグレッシブに自己主張するから、とても分かりやすいです。
左翼の思想(中身はよく分からないですが)を世界に広めるための「道具」として、エスペラントを利用しているんだろうな〜と分かります。
でも他の人は総じて、動機面においては寡黙ですよね。
私の予想では、英語が国際語になるのを何としてでも阻止したい=言語の平等を目指しているのかな?と思ったりする。
また、ガイジンサンとお友達になれるのが楽しいだけ、というのもありかもしれない。
また、左翼とは違った何がしかの思想(アナーキズムとか)をエスペラントで実現しようとしてる人もいるかもしれない。
色々あっていいし、別にみんながみんな饒舌に自己を語る必要は無いのですが、
でも、一部の人だけ自己主張して他の人が寡黙だと、一般人に誤解されると思うんですよね。(私も誤解してます。みんなブキミと)

で、一つの例としての自分なりの動機を書きます。左翼以外にもあるんだよ、と。
私はエスペラントは「簡易ヨーロッパ語」「汎用ヨーロッパ語」みたいな存在であってほしい。
ヨーロッパの事を調べてみたいけど、各国語をマスターするなんて無理。
英語だと、英語という特定の民族語で他の民族語を置き換える、という不自然さがでてくる。
例えば映画で、設定・キャラクターでは英語を話してる訳ないのに、映画の中では英語で話してる、という不自然さ。
エスペラントには文化なんて無くていいから、無色透明なトレース言語であってほしい。
どのヨーロッパ語でも違和感なくトレースできるような言語があれば、
我々アジア人はエスペラントだけやれば、ヨーロッパ圏の情報収集は一網打尽。いいと思いませんか?
実際、こんな私でも、複数の国籍のエスペランチストの書いた文を読んだけど、「違和感」はないです。
でも、一部ではあるものの、「思想」がこの言語を縛ってしまっている面があるのが、ちょっと残念。
それに、ヨーロッパでも「スタレテル」と聞きますし、困ったものです。

51松戸彩苑:2008/02/15(金) 01:03:34
>>50
> みんながなぜエスペラントをやってるのか、よく分からないです。

私の場合は「たとえ使用者が少なくても、エスペラントで国際交流をやることには意味があ
ると思うし、また自分にとっても楽しい」ということがあるから、やってるんですね。

しかし「今のままでは問題が多すぎて、これでは広まるものも広まらない」「せっかくエスペ
ラントを始めたのに、学習途中で挫折したり eterna komencanto になってしまう人も少なく
ない」ということもありますので、あえて苦言を呈しているというわけです。

私にしても社会についてそれなりに考えてはいるんですけれども、そういったことは私的な
ことですし、また「革新だろうが、保守だろうが、ノンポリだろうが、現時点でエスペラントを
やろうなどと考えるのは、ごくごく少数の人間にすぎない」と思っていますので、エスペラント
運動とは切り離して考えるべきだろうと思ってるんですね。

52ベダウリンデ:2008/02/15(金) 09:53:22
松戸様、お答えを頂いて、とても嬉しいです。理由も分かって少し安心しました。
「自分にとって楽しい」というアピールが一番、一般人の共感を得やすいと思います。
私にとってもエスペラントの勉強は楽しいです。
Por mi Esperanto estas ludo.私にとっては遊び、です。

53ベダウリンデ:2008/02/15(金) 10:19:57
Mi fojfoje legas 'raporto.info’n. En ĝi skribas ankaŭ japanoj.
私は時々raporto.infoを読みます。日本人も書き込んでますね。

Por ni Esperanto estas ilo, per kiu ni ne nur ricevas novaĵojn de la tuta mondo,
sed ankaŭ sendas niajn novaĵojn al la mondo, ĉu ne?
我々にとってエスペラントは道具なんですよね。それを使って、世界中のニュースを受け取るだけでなく、
我々のニュースを世界に送るんですね。

Ni parolu plu pri Esperanto, por ke neesperantistoj sciu pri ĝi.
もっとエスペラントについて語りましょう、エスペランチストでない人達がエスペラントについて分かるように。

(Legi estas facile, skribi estas malfacile, paroli estas pli malfacile, ĉu ne?)
(読むのは簡単、書くのは難しいですね、話すのはもっと難しいんでしょうね?)

54Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/15(金) 21:21:33
わたしは英語が得意じゃないのでエスペラントでkomunikadoしています。
昔エスペラントの会に入っていたときはKamelioさんのようなボスの監視と
干渉と統制下に組織動員されるだけでしたが、今はインターネットのおかげで
外国のエスペラントと直接知り合って自由に率直に何でも語りあっています。

55Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/15(金) 21:22:27
わたしは英語が得意じゃないのでエスペラントでkomunikadoしています。
昔エスペラントの会に入っていたときはKamelioさんのようなボスの監視と
干渉と統制下に組織動員されるだけでしたが、今はインターネットのおかげで
外国のエスペラントと直接知り合って自由に率直に何でも語りあっています。

56Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/15(金) 21:23:57
すみません。55を削除してください。

57ベダウリンデ:2008/02/16(土) 17:16:46
>エスペラントでkomunikado
エスペラントの実用で最も楽しいのは、やはりそれなのでしょうね。
私も作文練習を(この掲示板もお借りして?)やらないとなーと思っているところです。
(練習と自覚してますので、間違い等あったら遠慮せず、教えて下さい)

暫くぶりにブログ村見たのですが、登録数増えてますね。
エスペランチストって 意外と日本にいっぱいいるんだ〜と思いますね。

58KamelioJapana:2008/02/16(土) 19:06:43
>54
何の根拠もなしに勝手に人の名を引用し、他人に誤解を与えるような書き方は
謹んで頂けないでしょうか。
これは公の掲示板ですので。。。
直接に言いたいことがあれば、私信でお願いします。

59Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/16(土) 20:10:06
「Kameliaさんのような」とは「"エスペラントの思想"に忠実に日中友好やら反核
やら憲法九条やらに熱心な」の意味ですが、何がいけませんか。
話は変わりますが、わたしの文通相手である某旧共産国のエスペランティストが、
エスペラント団体にまで浸透した監視と統制ののシステムについて語ってくれまし
た。その時の指導者がいすわっているので詳しいことはここでは書けませんが、
資本主義国でも左翼全体主義者(Kameliaさんのことじゃありませんよw)にのっと
られた団体は同じようになるんですね。

60松戸彩苑:2008/02/16(土) 22:59:05
山口誠(著)『英語講座の誕生』(講談社選書メチエ214 2001年)という、日本における
ラジオの英語講座の歴史を調べた本があるんですが、このなかにエスペラントに言及した
箇所がありましたので、引用・紹介しますね。

なお、引用文1のなかに「一八八七(明治三九)年」と書いてあったんですが、これは明ら
かに「一九〇六(明治三九)年」の誤りですので、訂正しておきました。
---

  【引用文1】

  大正一四年七月一二日付の東京朝日新聞に、ラジオ放送の「英語講座」を名指して批
  判する投稿文が掲載された(15)。「英語放送」と題したこの新聞記事は、「プルルル生」
  というラジオの電子音を真似たペンネームの読者による投稿を、新聞社が編集して掲載
  したものである。

  「プルルル生」はまず、「街に出れば横文字は必ず英語であり、鉄道省でも盛んに使うし、
  中学女学生の習う外国語は英語と相場が定まっている」という現状を批判して、「之じゃ
  日本はまるで英国か米国の属国じゃないか」と嘆く。「上手に使えば書物以上に文明促
  進に役立つ」ラジオでさえ、「昨今新聞に『JOAK、英語放送』の広告が盛んに」出ている
  始末で、「最新式機械を装置して宝の持ち腐れはもちろんのこと、折角の本放送も値打
  ちが下がるじゃないか」と憤っている。

  さらに彼は「元来、ラジオほど普へん性のあるものは少ない」と述べ、「雲の中はもちろん
  の事、工場であろうと、貴族の家にも、レストランの中にも、労働住宅にも教室にもここに
  も入って行く」のだから、「こんな平等なものは少ない。だからラジオで放送するものはど
  うしても多人数の為のものでなければいけない」とラジオ放送の公共性を主張する。こう
  した意見から、投稿の主は、ラジオの公共性に適うのは「もっと普へん性のある国際語」
  であるとし、英語ではなくエスペラント語の番組の放送を提案している。

  彼は外国語の学習については否定的ではない。学ぶべき言語を英語の代わりにエスペ
  ラント語にせよ、と主張しているのだ。エスペラント語は「今日では国際的で、三箇月でペ
  ラペラになれるほどやさしい、科学的な」言語であるという。

  エスペラント語は、一八八七年に公表された人工の国際言語であり、主にロマンス語や
  ゲルマン語やスラヴ語などの(つまり印欧語圏の)複数言語から共通性の高い単語と文
  法を採用し合理化して作られた。その基礎単語は一九〇〇語にとどまる。日本では、は
  やくも一九〇六(明治三九)年に「日本エスペラント協会」が設立されている。日本に紹
  介されて約二〇年後の大正末期では、エスペラント語の存在は既に知識階級の知ると
  ころとなっていた。

  さらに、「プルルル生」の投稿と関係があるのか不明だが、東京放送局は初年度に「エス
  ペラント語講座」という教養番組を放送したという記録が残っている。残念ながらこの講
  座に関する原資料は見つかっていないが、後の日本放送協会の機関誌である『調査時
  報』ではエスペラント語について間接・直接に言及する記事が幾度か掲載されている。
  こうした断片的な資料からも、放送局が英語だけでなくエスペラント語にも高い関心を持
  っていたことがわかる。だが、初年度以降に「エスペラント語講座」がシリーズ化された
  記録はない(16)。

  (15) 「東京朝日新聞」、大正一四年七月一二日、第三面。

  (16) 「プルルル生」が無自覚に主張するほど、エスペラント語は非政治的でもないし、
  どの国民にとっても等しく中立的な言語ではないのは明らかであろう。例えば、その文
  法はやはりヨーロッパ系の言語を骨組みとしているので、日本語を母語とする人が学習
  しても「三箇月でペラペラ」になるのは難しい。

  (56〜58ページ、239ページ)

61松戸彩苑:2008/02/16(土) 22:59:59
>>60 の続き)

  【引用文2】

  だが、こうした外国語を大量に発信する放送協会の方針は、聴取者たちの生活意識に
  反していたどころか支持されており、より一層の語学放送の拡充が求められていたこと
  を示す資料がある。それは「カレント・トピックス」が始まった一九三二年に日本放送協
  会と逓信省が合同して実施した聴取者調査『第一回全国ラヂオ調査』である。これはサ
  ンプリングという調査手法がなかった時代の、聴取契約者全員に質問票を配布した大
  規模な量的調査であり、一九三二年五月一日から八月末までの四ヵ月間で、一二三万
  三九〇八件の配布件数に対して約三〇パーセントにあたる三五万八〇三九件の回答
  を得ている(20)。

  この全国ラジオ調査で教養番組に寄せられた意見の約二割にあたる三二六四件が、
  「語学講座」に対する要望であった。その内訳は、語学講座全体の「時間増加」を希望
  するものが一四一件に対して「時間減少」は四一件。同じく「回数増加」を希望するのが
  三四五件に対して「回数減少」が三二〇件であった。さらに「種目範囲拡張」という別の
  項目では、「英語会話」の番組新設を望む声が三番目(二〇件)に多く寄せられている。

  ちなみに一位はエスペラント語で圧倒的多数の二二四件、二位はロシア語の四五件で、
  既にみたようにエスペラント語講座は東京放送局が開局した大正一四年度に短期間放
  送されたが、全国番組としてシリーズ化されたという資料はない。また「指導者選抜」とい
  う番組講師への希望を訊ねた項目では、「外国人講師の登用」を望む声が最も多く、ラ
  ジオ聴取者が持つ外国語への欲望(とくに話し聞く外国語の学習意欲)の高さをうかが
  わせている。

  この『第一回全国ラヂオ調査』の結果が刊行された一九三四年、放送協会は「英語会
  話」の全国放送を開始するのだが、この聴取者調査の結果と新番組の誕生の間に直
  接の因果関係を読みとることは難しい。だが、こうした資料から考えられるのは、満州
  事変後の時局化が進むこの時代でも、ラジオ聴取者の多くは外国語への違和感をそれ
  ほど持たなかったこと、それどころか独自の古典文学を持たず、基本的に会話をするた
  めに作られた人工言語であるエスペラント語の人気の高さと語学番組への外国人講師
  の登用を望む声に象徴されるように、話し聞く外国語への要求は決して低くなかったこ
  とである。

  (20) 逓信省・日本放送協会『第一回全国ラヂオ調査』、一九三二年実施(出版は一
  九三四年)。なお、調査票の配布と回収は郵便と受信契約料の集金人によったという。

  (169〜171ページ、246ページ)

62KamelioJapana:2008/02/17(日) 06:57:22
>59
はい、いけません。
この文は、前後の脈絡が無いと

「Kamelioさんのようなボス」

と読むのが日本語が分かる人の常識です。
それに「ボス」はそれ以下の一連の言及に連動しておりますから、この文を素直に
読んだ方は私に対する心証を悪くするでしょう。

楽様が何処のEグループに所属していたかは分かりませんが、余程ひどい心の傷を負ったのでしょうね。
私の知る限り、全体主義グループのようなEグループは日本では聞いたことがありませんが。。。
まあ、本人がそう思っているのなら、仕方ありませんが、そんなグループが日本エスペラント界を
象徴するものとは思わないでください。
いずれにせよそのようなグループで苛められたことはお気の毒と言う外ありません。

63Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/17(日) 10:42:33
左翼全体主義の概念を拒否する人にとってはエスペラント運動の中にも外にも
左翼全体主義は存在しないでしょう。無意味なことは言わないでください。
概念をめぐるいい争いなどくだらないからしません。
共産国が激減し、インターネットが普及した現在ではもう昔のやりかたはできなく
なっているでしょうが、ローカルなエスペラント会の役割は"エスペラントの思想"
の注入以外にはなくなったと言えるでしょう。

64KamelioJapana:2008/02/17(日) 17:46:30
>63
貴方が言いたいことは何となく分かるのですが、私は唯単に貴方の論理展開のおかしさを
指摘しているまでです。
問題を逸らさないでください。

以前にもありましたね。
例えば、

>山川均さんや荒畑寒村さんや宇野弘蔵さんの思想がザメンホフの思想と一致してるんですね。

というような決め付けですね。

何処から引き出した結論なのでしょうか。何処かにそういうことが書かれていたのでしょうか。
そうでしたら、私も大変興味のあることですから出処を教えてください。

ちなみに、

>左翼全体主義の概念を拒否する人

とは、誰のことでしょうか。もし、私に向けられているといるとした大誤解と言っておきましょう。
何の根拠も無く、自分の思い込みでなされているなら見過ごせない問題です。

こういう言葉のレトリックで論争相手の見解をあらぬ方向に捻じ曲げ、第三者にあらぬ疑いを抱かせ
かねないやり方は、貴方の嫌いなファシズムの宣伝者が昔よく使った手口なんですがね。。。

65ベダウリンデ:2008/02/18(月) 09:00:09
>64
Kamelioさん、そんなに怒らないで下さい。
54でRakuさんが「Kamelioさんのようなボス」と書いていますが、
私は、「Kamelioさんのような(意見を持った別人の)ボス」と読みました。
Kamelioさんは、この掲示板でも沢山ご意見をお書きになっているので、ご意見は大体分かります。(難しすぎて理解不可能な個所もありますが)
その意味では「○○さんのような」という書き方でも十分通じました。(別の人が自分と勘違いするかもしれないですが)

Kamelioさんがボスかどうか、と言う事は、私が掲示板をウオッチしてる限りでは、Kamelioさんが
どこかの会のリーダーをしてる、という自己紹介は見たことないので、そういう理解はしませんでした。
もし「ボス」と誤解されるのが嫌なら「私はボスではありません」で済むことです。

またKamelioさんは62で
>いずれにせよそのようなグループで苛められたことはお気の毒と言う外ありません。
とお書きになっていますが、54のRakuさんのコメントでは単に、(Rakuさんにとっては不本意な)組織動員をされた、としか書いてありません。
苛められたなんてどこにも書いてありません。それこそ、「何の根拠も無く、自分の思い込みでなされている」ことではないでしょうか。

また54のRakuさんのコメントは、50で私がした「みんながなぜエスペラントをやってるのか、よく分からないです。」
と書いたことへ答えて下さったもの、と理解してます。
「組織動員」がエスペラント会で普遍的に行われていることなのかどうかは、私には判断できませんが
Rakuさんの経験としては一つの真実、決して嘘ではないだろう、と私は読み取りました。
別の箇所でRakuさんは「国内のエスペランチストとは接触しない」という旨の事を書いてらして、
私は「なんで?」と思っていましたが、「そんな理由があったんだ」と納得できました。
むしろ不快な事を思い出させてしまって悪かったな、と思っています。

市民の趣味の会では、勘違いリーダーや「先生」が私利私欲で会員さんを利用しようとする事は
エスペラントの会に限らず、ありうる事でしょう。もしそんな会がエスペラント界に存在するならば、
「そのような事態はなるべく無くしていきたいものですね」とコメントすれば済むことです。

66KamelioJapana:2008/02/18(月) 09:53:31
>いずれにせよそのようなグループで苛められたことはお気の毒と言う外ありません。

Raku様がよく断定的になされる言い方を私が皮肉を込めて意識的にやってみました。
Raku様のこれまでの言動の中にいかに決め付けが多いかをこの投稿を続けて読んでいる
方はご察知のことでしょう。
彼には、残念ながら、この位言ってやらないと自分の言動に対する客観的的に見る自覚が
もてない様に私には思われるのものですから。。。

それに彼の意図はどう考えてもEsperantismoを貶めるものとしか思われないものが幾つか
在りますから、それが日本エスペラント界の大多数の真面目な活動家たちに泥を塗りかねない言動を
黙って見過ごすことは出来ません。

ベダウリンデ様は真剣にエスペラント拡大のための組織活動をしている方々とは未だ距離をおいて
おられるかも知れませんが、日々活動を展開している方々に誤解を与える言動には大変腹が立ちます。

67KamelioJapana:2008/02/18(月) 10:09:41
昔エスペラントの会に入っていたときはRakuさんのようなボスの監視と干渉と統制下に
組織動員されるだけでしたが、今は他のグル−プに参加したおかげで国内外の
エスペラント[イスト]と直接知り合って自由に率直に何でも語りあっています。

68Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/18(月) 12:48:25
>>67
それはよかったですね。

69KamelioJapana:2008/02/18(月) 16:36:47
>>68
本当によかったです。

70松戸彩苑:2008/02/18(月) 22:48:31
このスレのタイトルである「なぜエスペラントは普及しないのか?」という話に戻りますが、
エスペラントを長年やってる方たちは、どのように考えておられるのでしょうかね?

私は >>4 のように考えてるんですが、おそらくこの意見には納得しないでしょうし。

71ベダウリンデ:2008/02/19(火) 09:52:22
>>66
>日々活動を展開している方々に誤解を与える言動には大変腹が立ちます。
私はRakuさんの言葉だけで全てを判断しませんよ。
Kamelioさんの事はKamelioさんの書き込みだけを見て判断してます。
エスペラントのイメージアップにつながるような事を、負けずに書いてください。
このスレのテーマについても、是非ご意見をお聞かせ下さい。

72Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/19(火) 12:09:55
>>67
中国人と自由に率直に何を語り合ってるんでしょうね。

73Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/19(火) 12:21:00
そりゃ「自由に率直に」でしょうよ。中国は日本と違って言論の自由が保障されてる
国ですからね(笑々々々々々

74KamelioJapana:2008/02/19(火) 18:07:34
>>72
>「中国人」と自由に率直に何を語り合ってるんでしょうね。(注「 」は私が挿入)

「中国人」と言う加筆はRakuさんの幻覚か幻聴ですか。いったい脳内の思考回路はどう
なっているのでしょうかねぇ。
それとも意図的だとしたら全く真面目には「お相手する価値無し」ですね。
そういう方に対する対応は、それ相応のやり方があるのでしょうけど。。。

75松戸彩苑:2008/02/20(水) 06:52:23
こんな話もありますね。
http://www.liberafolio.org/2008/orbanesperanto

76KamelioJapana:2008/02/20(水) 18:38:06
私も読みましたが、こんなものでしょうね。公式な判断は。。。
EUにおける E の公用語化も未だ遠い道のりでしょう。

記事に関する様々なコメントも面白いです。

77Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/20(水) 19:56:37
う〜ん・・・・

78松戸彩苑:2008/02/21(木) 03:15:10
私の見るところでは、エスペラント界の人たちは「知識人」たちに自分たちの活動を理解し
てもらおうと努力しているようでありますが、しかしそれはうまく行くはずがないと私は思い
ます。
---

私の考えでは、知識人というのは「現代社会の枠組のなかの重要な一要素であるところ
の学校(公的教育機関)において、きわめて優れた成績をおさめた人」だと思うんですね。

つまり、これを言いかえれば「現在の社会のなかでも十二分に生きていける人」だという
ことです。

ということで「必要は発明の母」とは正反対の「必要でないことは、いくら頭が良くてもやら
ない」という事になってしまうんですね。

こういう人たちは「世間で広く認められているような問題」にしか取り組みませんし、当然
エスペラントなんかはまずやらないって事になるわけです。

もちろん例外的な人物もいないわけではないですが、しかしそういう人は、あくまでも「例
外的」にしか存在しないのですね。
---

このように言えば「エスペラント界だって、かなり高学歴ではないか」という反論が出てくる
と思います。
たしかにそうなんですよね。

しかし、こういう人たちについて調べてみると、ほとんどの場合は「若いとき、あるいは子供
のときにエスペラントに出会っている」んですね。

年のいった人ですと「これまで何十年も生きてきたけど、エスペラントなんて全然使われて
ないじゃないか」と思ってしまうわけです。
でも、これはまったく反論しようのない純然たる事実であって、世間においてはエスペラン
トは、古代エジプト語よりも目にする機会が少ないわけですから、そんなものが「国際共通
語」だなんて言われても「はい、そうですか」というふうに思えるわけがないのです。

一方、子供や若い人の場合であれば「世間には、まだまだ知らない事がたくさんある」と思
ってくれますから、面白そうだと思えば、けっこう話を聞いてくれるわけです。

私の見るところでは、20代だと、わりとエスペラントみたいなものにもそれなりに関心を持
つみたいですが、40を過ぎてしまうと、まずダメみたいですね。
---

それから我々は「知識人というのは、ほんとうに革命的な発明については、理解してくれな
いどころか、むしろ邪魔したりする事さえある」ということを知っておかないといけません。

例えばこれは、私がここの掲示板にかつて書いたことですが、19世紀末から20世紀初頭
にかけて、多くの人たちが空を飛ぶ機械を作ろうと努力していたのですが、その一方で「空
を飛ぶ機械などというものを作るのは理論的に不可能だ」と主張する学者がけっこういたん
ですね。

A・セント=ジェルジ(著)『狂ったサル』(サイマル出版会 1972年)という本によると、そうい
ったことを述べた論文が、フランス学士院で発表されたこともあったそうです。

で、そういった学者たちによる下らない議論は、自転車屋の兄弟でともに高校中退という
学歴のライト兄弟が1903年に実際に飛行機を発明するまで無くならなかったわけです。

この飛行機が発明されるときの事例と、現在のエスペラントの状況とを比べてみますと、ま
ったく同じなんですよね。

79松戸彩苑:2008/02/21(木) 03:16:13
>>78 の続き)

また、ザメンホフじしんも「国際語思想の本質と将来」という論文の冒頭部分で、よく調べも
しないで蒸気機関車に反対した知識人がいたということを書いてますね。

  蒸気の力とその効用が人びとに示されたとき、良識ある人なら誰も反論できないだろ
  うと思われた。けれども、蒸気の発明者は長年にわたって悪戦苦闘し、嘲笑に耐えな
  ければならなかった。さらに、ようやく目的を達成し、英国ではすでに三年間も蒸気機
  関車が運転されて多大の利益をもたらしているときになっても、ヨーロッパ大陸では学
  識者や学術団体までが、まず実態をよく調べもせずに深遠な論文を書いて、機関車の
  製造は子供じみた仕事だとか、実現不可能だとか、有害だなどと反対した。これは、
  いったいどういうことだ、と疑問が生じる。すべての人が流行性痴呆症にかかっていた
  のか。ほんとうにそういう時代があったのだろうか。そのとおり、そういう時代があった
  のだ。いまそれに驚いている我われだって、その時代の人びとよりも実際にすぐれて
  いるわけではない。我われの子孫も我われよりすぐれているわけでもない。腹が立つ
  ほどくだらない反対論や攻撃をしかけたこれらの人びとは、げんざいの我われの目に
  映るほど馬鹿ではなかった。彼らは、次の点で間違っていただけである。つまり、人間
  だれもがもつ生来の精神的惰性にわざわいされて、世に出ようとする新しい思想につ
  いて判断を下す気もなく、無難な笑いにまぎらせるだけにしておくか、それともそんな
  事業は実行不可能だとあらかじめ確信をもって一方的な判断に突き進んだのだ。彼ら
  は、この既成の結論に自分たちの議論をむりやり合わせようとし、その議論がまったく
  根拠のないことに気付かず、新思想を支持する人の議論に対して自分の頭に頑丈な
  錠前をおろしてしまう。だから、「万人が不可能だと認めていること」の可能性を証明し
  ようとする新思想の側の議論は、そういう精神的惰性に陥っている人びとには子供じみ
  た行為と見える。当時の彼らの反対論が今の我われに子供じみて見えるのと同様だ。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』15〜17ページ)

これだって、べつにザメンホフが嘘を書いてるはずもないのですから、やっぱり実際にあっ
たことなんですね。

そして考えてみれば、エスペラントというのは、飛行機や蒸気機関車に匹敵する(あるいは、
それら以上の)革命的な発明なのですから、飛行機や蒸気機関車とまったく同じように、知
識人から下らない批判を受けるのは当然なんですね。

なんで知識人がこういう馬鹿げた振舞いをするのかという事について私も考えてみたんで
すが、知識人というのは「本」をたくさん読んでるわけですが、「本」に書いてあることという
のは要するに「過去のこと」ばかりなんですよね。

で、ほんとうに革命的な発明については、当然のことながら「本」のなかには絶対に書いて
ないわけですから、若いころから「本」に全面的に依存することで社会の頂点で生きてこれ
た知識人には理解ができないし、また反感を抱かせる事さえあるのではないでしょうか。

ということで、知識人というのは「本」に書いてあるような「過去のこと」に関してはよく知って
いますが、しかし、ほんとうに革命的な発明を正しく評価させるのには、もっとも不適当な人
種なんだと私は思います。
---

それから、ここで「言語学」について一言述べておきましょうか。

私は高校生だったころから素人むけの言語学の本をたくさん読んできました。

その経験から言いますと、「現在の言語学は、エスペラントを理解したり、あるいはエスペ
ラントやエスペラント運動が抱えている問題について考えたりするのには、ほとんど役に
立たない」と思うんですね。

それは >>16-18 で引用した町田健というプロの言語学者の書いた文章を読んでみても
判ると思います。
しかし、この人なんかは、まだマシなほうなんですよね。
エスペラントについてロクに調べもせずに、もっといい加減なことを書いている言語学者が、
世間にはいくらでもいます。

それから田中克彦氏は『エスペラント ― 異端の言語』(岩波書店 2007年)のなかで

  正統の言語学をやったせいで、私にはエスペラントを冷ややかに眺めるくせがついて
  いた。

と書いておられるんですね(同書208ページ)。
理由は書いておられませんし、私にも理由は判りませんが、そういうものらしいです。

80松戸彩苑:2008/02/21(木) 03:17:06
>>79 の続き)

また、私はエスペラントの問題について長年考えてきたわけですが、はっきり言って言語
学はほとんど関係ありませんでした。
やはり「エスペラントはそれなりによく出来ていると思われるのに、どうして現実には、あま
り広まっていないのだろうか?」「学習途中で挫折したり eterna komencanto になってし
まう人が大量に出るのはなぜだろうか?」といった問題意識を持ちつつ、実際にエスペラ
ントを学習したり、エスペラント運動の歴史や現状について調べたりするといったことから
判ったことのほうが圧倒的に多かったんですね。

だいたい、エスペラント界にもプロの言語学者が何人かいるわけですが、そういう人たちで
さえも「日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱している」といったことにまったく気づか
なかったのですから、現在の言語学なんてその程度のものだとしか思えないんですね。

さらに言えば、エスペラントをやっている言語学者でさえもこの程度なのですから、エスペ
ラントをやってない言語学者に期待をしたってどうしようもないとも私は思っています。
---

ということで、私が言いたいのは「知識人に期待するのはやめたほうが良い」ということです。
知識人をアテにせず、現在エスペラントをやっている人間でやっていかないといけないと思
います。

私はこのように考えていますので「娯楽を利用すべき」だとか「自分の家族や知人でもやり
そうな方法を採用すべき」だとか「宗教やイデオロギーを信奉している人たちならエスペラン
トをやるかもしれない」とか言ってきたわけです。

もちろん、知識人のなかにも数千人に1人くらいはエスペラントに理解を示す人がいるかも
しれませんので、そういう人は大事にしないといけませんが、しかしそれ以上増やせるなど
と考えてはいけないと思います。

知識人たちは結局、エスペラントを使う人間が実際に増えないかぎり、エスペラントを評価
しないんですね。
過去に知識人がエスペラントを評価したことがありましたが、私が見るところでは、そういっ
た発言は、エスペラントが盛んだった1920〜30年代とか1950〜60年代になされている
ものが多いように思います。
要するに、世間の流行に合わせてたってだけなんですね。

しかし考えてみれば、知識人といったって、エスペラントに関しては完全に「素人」なんです
から、これは当然なんですね。
むしろ、そういう人たちにむやみやたらと期待するほうが間違ってるわけです。

これまでの私の議論から理解していただけると思いますが、私は(たぶん皆さんとは違って)
「知識人に対する幻想」というものをまったく持っておりません。
これは、栗本慎一郎氏の本を読んだせいでもあります。
詳しく説明するのは面倒くさいのでやめときますが、栗本氏のもともとの専攻分野である経
済学においても、厳密に考えてみると理屈に合わないことがたくさんあるらしいのです。
で、そこのところを指摘しても、旧来の経済学の信奉者たちはまったく反論しないんだそう
です。

そういった話をたくさん見てきたので、知識人がエスペラントを理解しないのを見ても、私は
ぜんぜん驚かないんですね。

このような結論は、皆さんにとっては信じたくないものだろうと思います。
「上手に説明すれば、わりと簡単に国連やEUに採用してもらえるんだ」と本気で信じること
が出来たからエスペラントをやってるという人がかなりいるように思われるんですが、残念
ながらそういうことは絶対にありえないと思いますね。

(終わり)

81ベダウリンデ:2008/02/21(木) 16:00:00
>>75
私も(読めることだけざっと)読んでみましたが、誰か要約してくれると、一般の人にも話が通じて面白いと思います。
EUの人、マトモだよ、と私は思いました。(最近エスペラントの面白さに幻惑されそうになってたから、ハッと我に返った感じ)
我々は道楽とか思想(これだって立派な道楽)でやってるんだから、
これをEU共通言語にしろだなんて、アツカマシイです。

82papageno:2008/02/21(木) 19:16:29
ややお久しぶりです。私は飛行機や蒸気機関車の話から、どちらかというとエスペラントより翻訳機のことを考えてしまいますね。「(高精度の)翻訳機など不可能だ」という声を時折聞きますが、飛行機や蒸気機関車は不可能だと言った人々と何が違うんでしょう?

83Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/21(木) 21:22:49
papagenoさんお久しぶりですね。ブログの更新もありませんしどうしてらっしゃ
るのか心配してました。お元気そうで何よりです。
ところでなぜエスペラントにそんなにこだわられるのですか。エスペランティスト
が翻訳機の開発を妨げているわけではないのですよ。papagenoさんのお考えなら
翻訳機の完成を座して待つか又はみずからその開発に参加されるのがいいので
はないでしょうか。わたしは嫌味や皮肉を申し上げているのではありません。
ほんとに不可解なのです。


84Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/21(木) 21:25:57
>>81
現在の世界はものすごい変化の渦中にあります。この変化がエスペラントを
最終的に葬り去ってしまうのか新たな生命力を付与するのか予測が付きません。

85松戸彩苑:2008/02/22(金) 02:19:48
>>81
そうなんですよね。

つまり私の言いたいのは、たとえて言うならば、エスペラントは「草野球」レベルで良いの
か、それとも「プロ野球」レベルを目指すのか、どっちかにしろという事なんですね。

「草野球レベルで満足なんです」というのであれば、私だってうるさいことは言いません。
それだったら「楽しければ良いんじゃない?」って言いますよ。

しかし困ったことに、エスペラント界には「草野球レベルで楽しんでいれば、そのままプロと
して通用するようになるんだ」みたいに考えてる人がけっこういるみたいなんですね。
で、それに対しては「そんなことは絶対に無いよ」「それは甘すぎるよ」と言いたいわけです。

どう見たって、世間の人たちがエスペラント運動に求めているのは「理念」などではなく「使
用者の数」であるとか「実利性」だったりするんですね。
その証拠に、知識人だろうが、革新派の人たちだろうが、判で押したように「使用者はどの
くらいいるんですか?」とか「どんなことの役に立つんですか?」としか訊いてきません。
また逆に、エスペランティストが理念を説明したら、それを聞いて感激して、ただちにエスペ
ラント運動に加わったなどという話も、寡聞にして知りません。

ですから、学習途中で挫折したり eterna komencanto になってしまう人を減らしたり、日常
生活に関する語彙・表現を整備したりすることが「使用者の数」や「実利性」を高めることに
なり、世間の人たちにとっても(ほんのわずかながら)受け入れやすいものになるわけです
ね。

私ももちろん理念は大事だと思いますが、しかし「使用者の数」や「実利性」を高めることな
く理念を連呼しても(革新派の人たちからさえ)おかしいと思われてしまいますので、やはり
それは控えるべきだと思います。

86松戸彩苑:2008/02/22(金) 02:32:05
>>82
私は「高性能の翻訳機を作るのは永遠に不可能だ」などと断言するつもりはありません。

しかし、現在のコンピューターや翻訳ソフトのレベルを考えますと、現在の技術の延長線上
でそういったものを作るのは、ほとんど不可能ではないかと思うんですね。

スーパーコンピューターと呼ばれているものであっても、それはただ単に「計算が早い」「記
憶容量が莫大である」というだけであって、人間のように「言葉の意味を理解している」わけ
ではないわけです。
ですから、現在の技術ですと「オウムが言葉をしゃべっている」のと同じなんですね。

とは言っても、いつなんどきコンピューターが質的な大進化を遂げるか判ったものではあり
ませんし、また世間においては、エスペラントよりも翻訳機械のほうが前途有望だと思われ
ているということも無視できないとは思っております。

87ベダウリンデ:2008/02/22(金) 10:02:03
>>75のリベラフォリオの記事の話に戻りますが、お許しを。
EU多言語主義担当のレオナルド・オルバンさんという人が、ネットフォーラムでみんなの意見を集めたんだって。
エスペランチストも活発に書き込んだのですが、オルバンさんは、EUでのエスペラント使用を拒絶したんだって。
理由としては、新しい使用分野で専門用語を整備するのは、すごく大変だから。
あれもこれも「無」から作らなきゃならないから大変だろうって。
また個人的には「橋渡し言語」を信じてないんだって。エスペラントだろうが、ラテン語だろうが、英語だろうが。
「橋渡し言語」は社会言語学上、歴史的な自然発生現象だから、法律や政治で決める事じゃないんだって。
(私個人としてはこの部分がカッケーと思いました)

実態はどうかというと、EU公用語は、加盟国の憲法で認められた公用語なら、申請認可すればいいんだって。
(国が無いエスペラントはこの時点でボツ)
で、今23言語が公用語になってるらしいけど、実際は全部を全部に翻訳するのは無理なんだって。
多くのヨーロッパ人が分かる言語が、実際には主に使われてるらしいです。(英語、とは断言されていません)

で、エスペランチストの反論も載ってるのですが、予想通り「用語は整備されてるぞ」というもの。
「こいつ調べてないんじゃないのバーカ」的な、大変親しみやすい反応まで。
EU公用語の条件については「法を変えればすむ」。それはそのとおり。
また「後を考えれば節約では?」と、これもよく言われそう。
でも、「橋渡し言語」を法律や政治で決めて良いものかどうか、という事に関しては、ノーコメントでした。

以上、お勉強のため頑張りました。間違い、不足はご訂正下さい。

また、ここで私が疑問に思うのは、ヨーロッパのエスペランチストはどうやら、
「用語が混乱してて使えない」とは思っていないようだ、ということです。
松戸さんは常日頃、用語の不備を主張していらっしゃいますが、それは、対日本語に限っての話でしょうか?
ヨーロッパは大体同じ文化圏だし、物の呼び名が多少異なる、というのはあるかもしれないですが、
そんなに混乱する事があるのかな、と思いますが、いかがでしょう?

88ベダウリンデ:2008/02/22(金) 20:46:18
フォーラムそのものもリンクされてて読むことができますね。(未読ですが)
あのような公的な場で、エスペランチストがガンガン発言できるというのは、
何だかんだ言ってもヨーロッパは進んでますね。エスペラント健在なり、と世界に示してます。
日本ではあんな風に自己主張できるのか、疑問ですね。みんな大体、自己の世界(個人またはグループの)で満足してるから。

それから、私は今までEUの事なんて関心無かったのですが、
エスペラントやって、月並みですが「世界が広がり」ましたね。
英語でも一生懸命勉強してたら、同じ体験できたんだろうけど、
英語ではできなかった事がエスペラントでできた、というのは、やはり驚きです。

89松戸彩苑:2008/02/23(土) 11:03:38
>>87
> また、ここで私が疑問に思うのは、ヨーロッパのエスペランチストはどうやら、
> 「用語が混乱してて使えない」とは思っていないようだ、ということです。

「エスペラントには専門用語が不足している」と考えてるエスペランティストは、欧米にもい
るはずですよ。
専門用語を一生けんめい作っている人たちがいますし、また「〜用語を作る際の問題」の
ような題目の論文や講演が少なくありませんから、気づいてる人はちゃんと気づいてるん
ですね。

でも、そういう人はやはり、ある特定の分野の専門家にかぎられていて、エスペラント界の
なかでは少数派なんですかね?
---

私は、法律についてはまったくの専門外なので詳しいことは判らないんですが、しかし考え
てみますと、エスペラント界には、まともな「法律用語辞典」が無いはずなんですよね。

もちろん、たしかにPIVやNPIVには法律法語がいろいろと載ってはいますが、しかし、あの
程度では、実務に使うのにはぜんぜん足りないだろうと思いますね。

ネットで調べてみますと Esperanta Jura Asocio という団体があるらしいんですが、この団
体のサイトを見ても、まともに活動してるのかどうか、よく判りません。
(単に、サイトを管理する人がいないだけかもしれませんが)

http://es.geocities.com/ejaaeu/index.htm
---

私はこのように考えてるんですが、それでもエスペランティストたちが平然としていられるの
には理由があります。

それは彼らが、ザメンホフの言った

  「エスペラントは使っているうちに自然に発展する」

  「必要な語彙・表現が無いことに気づいたら、既存の語根を組み合わせれば表現できる」

という考えを、今でも固く信じて、まったく疑わないからなんですね。
こういったことを信じられる人は、語彙・表現の不足・混乱に気づいても「そのうち自然に解
決するさ」と考えることが出来ますから、いたって呑気でいられるわけですね。

で、言うまでもなく私は、このような考えに断固として反対しておりまして、こういった考えが
間違っているということを示すために、この掲示板にいろいろと書いてるわけなんですが、や
はり、カリスマ性の無い人間が頑張っても、なかなか判ってはいただけないようです。

90松戸彩苑:2008/02/23(土) 13:07:38
ということで、多くのエスペランティストたちは「使っているうちに自然に発展する」などとい
うことを本気で信じているから、「EUの公用語として直ちに使える」と思ってるわけですね。

つまり、たとえ不足している語彙・表現が少々あったとしても「使っているうちに自然と発展
する」のだから心配することはない、というわけです。
だから「まずEUで使ってみることが先なんだ」というわけです。

まったくとんでもないことが信じられるものだと私なんかは呆れているんですが、でも、エス
ペラント界では、これがふつうの考え方なんですね。
---

しかし、エスペラントの歴史をひもといてみれば、「テレビ」とか「コンピューター」といったも
のをエスペラントでどう表わすかということで、さんざん揉めているということが判ります。

つまり、複数のエス訳語が提案されてしまって、何年たっても一つに決まらなかったので、
どれか一つにしようと話し合いをしても、全員を納得させるような意見が出なかったという事
が何度もあったんですね。

もちろん最終的には、それなりの結論が出たわけですが、しかし結論が出るまでに、さんざ
ん揉めてるんですね。

こういった歴史を虚心坦懐に見てますと、とても「使っているうちに自然に発展する」などと
いう話が信用できなくなるんですが、しかし私以外のエスペランティストたちは、こういった
歴史を「もう済んだ話だ」とでも思ってまったく顧みないせいなのか、いまだにザメンホフの
説を信じて疑わないわけです。
---

このザメンホフの説を信じていますと、今後も困ったことが起きると、私は思うんですね。

たとえば、EUの公用語として採用されたとします。
で、当然、さまざまな用語を作っていくことになるわけですが、このときに100%すんなりと
用語が決まるとは、私にはとても思えないんですね。

だいたい120年もたつのに、エスペラント界には、まともな「法律用語辞典」が無いみたい
なのですから、急にこしらえたとしても、そううまく行くとは思えません。

で、うまく用語を作ることができない場合には、困ってしまうわけです。
なんせEUの公用語として採用されたのですから、これまでのように「自然に発展しますよ」
などと言って、何年も放ったらかしにしておくというわけには行かないからです。

このようになったとき、下手をすると、かつて「テレビ」や「コンピューター」のエス訳語をめぐ
ってさんざん揉めたとのまったく同じような対立が、用語を作っているエスペランティストたち
の間で生じる危険があるんですね。

私のように「ザメンホフが間違っているんだ」と考えられれば、たとえ意見が異なっていても、
それほど深刻にならないと思うんですが、エスペラント界ではザメンホフの考えは「真理」と
されていてまったく疑問視されていませんから、用語を作っていてうまく行かなかったら、そ
れは必ず「用語を作っている人間」の側に問題がある、というふうに決めつけられてしまうん
ですね。

ですから、仲間どうしであるはずなのに、たった一つのエス訳語をめぐって激しく対立してし
まうという、まったく悲劇的としか言いようのない事態が発生してしまうんですね。

私は、このような事態が発生してほしくないと思っているからこそ、「ザメンホフが間違って
いるんだ」と言ってるんですね。
もちろん、私がこう言ったからといって、エス訳語が簡単に決まるようになるというわけでは
ないのですが、しかし「仲間どうしで激しく対立する」という最悪の事態だけは回避できるの
ではないかと思うんですね。

91松戸彩苑:2008/02/23(土) 17:14:11
エスペラントを仲介言語として使って、児童書の翻訳をするって話がありますね。
http://www.liberafolio.org/2008/eubaratalibro

このくらいの事からやっていって、少しずつ信用をつけていくのが良いですね。

92ベダウリンデ:2008/02/23(土) 17:57:09
>多くのエスペランティストたちは「使っているうちに自然に発展する」などということを本気で信じているから
確かに、この掲示板上でも、「自然に」派が多いように見受けられました。

>つまり、複数のエス訳語が提案されてしまって、何年たっても一つに決まらなかったので、どれか一つにしようと話し合いをしても、全員を納得させるような意見が出なかったという事が何度もあったんですね。
この掲示板でもミニチュア版を見ることができますね。「日常生活に関する語彙・表現」のスレでは、
コンビニの訳語をめぐって、この板の有識者の皆さんが議論をしても、結局まとまりませんでしたね。
日本だけかと思ったら、レルヌ掲示板で欧米の初心者仲間達(みんな実力派ですが)が
database-driven websiteの訳をめぐって喧々諤々してますね。
エスペラント未進出の分野では、まだまだ訳語不足なのかもしれないですね。

テレビ、コンピューターなどは、外来語として、英語をそのまま取り入れちゃえばいいのに、
下手にエスペラントっぽくしようとしたから揉めたんだろうなーと思います。

93松戸彩苑:2008/02/24(日) 10:27:51
理数系の学問や医学というのは、国や文化による違いがありませんし、また用語も国際的
に統一されています。

それから動植物名にしても「学名」というものがありますから、こういったものをエス化するの
は、けっこう簡単なんですね。

ですから、現行のエスペラントの辞書には、一般人は母語でも一生使うことのないような学
術語が、ものすごくたくさん収録されてるわけです。

これを見て、エスペランティストたちは「エスペラントはもう十二分に発展している」と信じて
しまってるんですが、しかし私の考えでは、先にあげた以外の分野(つまり社会科学とか人
文科学など)の術語は、まだまだ出来ていないと思うんですね。

また、術語以外にも「生活に関する物・事」というのもそうです。

こういったものは「自然に発展する」などと考えて放っておくのではなく、意識的に整備して
いかないといけないと私は考えています。

94ベダウリンデ:2008/02/24(日) 10:51:43
「実社会」が存在しない、というのは、言語の発展においては非常に不利なんだろうな、と思います。
特に人工的に作った言語の場合、「国家」が無い、というのは致命的かもしれないです。
ヘブライ語が現代に復活したのは国家があったからでしょう。
法律用語などは国家の義務で真っ先に整備しなければならないだろうし、国民がIT社会に順応できるようになるには、
国民の言語でのコンピューターマニュアルは必要だろうし。
日本のように新語がサーッと社会に広まるのはマスコミのおかげだろうし。
エスペラントにはマスコミも無いし、裁判所もIT産業も無いから、なかなか発展しないのでしょう。

国家無き人工言語が永遠に「草野球」なのは宿命なのではないでしょうか?
みんなは実はそれを知ってて、「プロ野球」になりたい人なんていないのでは?
EUにアピールしてるのも単に「宣伝」のためであって、実際に要求が通るなんて、誰も思ってはいないのでは?

95Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/24(日) 13:05:30
松戸彩苑さんとベダウリンデさんのおっしゃってることが
本質を突いています。ミモフタモナイ話ですが( ̄。 ̄)ホーーォ

96松戸彩苑:2008/02/24(日) 13:32:19
>>94
> 国家無き人工言語が永遠に「草野球」なのは宿命なのではないでしょうか?
> みんなは実はそれを知ってて、「プロ野球」になりたい人なんていないのでは?
> EUにアピールしてるのも単に「宣伝」のためであって、実際に要求が通るなんて、誰も
> 思ってはいないのでは?

いや、そんなことは絶対にないです。
彼らは本気で信じているはずですよ。


> 「実社会」が存在しない、というのは、言語の発展においては非常に不利なんだろうな、
> と思います。

それはそうだと思いますね。

プロの言語学者がそろいもそろってエスペラントに否定的なのは、現在のエスペラントのよ
うな状態から国際語になった言語が、これまでにまったく存在しないからなんだと思います
ね。

しかし現在ではインターネットもありますから、頑張れば、かなり発展させることができると
思いますよ。

とにかく、「エスペラントはすでに十二分に発展している」とか「不足・混乱している語彙・表
現があったとしても、使っているうちに自然に決まっていく」といった神話を打ち棄てること
が先決だと思いますね。

97KamelioJapana:2008/02/25(月) 07:09:08
松戸様。
>「エスペラントは使っているうちに自然に発展する」
>「必要な語彙・表現が無いことに気づいたら、既存の語根を組み合わせれば表現できる」

ザメンホフの言及ということですが、私も何所かで読んだような気がしますが、
彼のUKでの演説集からでしょうか、それとも他の著作からでしょうか。
記憶が定かでありませんので、もう一度詳しく読み直してみたいと思います。
出処を教えてください。

98ベダウリンデ:2008/02/25(月) 08:38:09
すみません、私も質問なんですが、松戸さんがお忙しそうなら誰か別の人が答えて下さっても良いのですが

>エスペラントの歴史をひもといてみれば、「テレビ」とか「コンピューター」といったも
>のをエスペラントでどう表わすかということで、さんざん揉めているということが判ります。

具体的にどういう揉め事になったのでしょうか? 経緯を詳しく教えて下さい。
松戸さんの90のレスでは『「仲間どうしで激しく対立する」という最悪の事態』とありますが
そんなに酷い事態だったのでしょうか?

それが分かれば、「自然に決まる」派がなぜそういう主張をするのか、
というヒントにもなると思いますので。

(松戸さん質問攻めでかわいそうですが)

99松戸彩苑:2008/02/25(月) 23:25:10
>>97
出典は、ちょっと調べないと判りません。

これは pvz で読んだのだったと思うんですけど、エスペラントの最初期(1887年−1895
年)とか、Theophile Carl と論争したころ(1904年−1905年)とかに、エスペラントについ
ていろいろと言ってるなかで言ってたと思うんですが、ちょっとはっきりしません。

ただし、「国際語思想の本質と将来」のなかに

  人工語の第二の特質は、その完璧性である。言い換えれば、数学的精確さと柔軟さと
  無限の豊富さだ。

  人工語が自然言語より完璧であり、またとうぜん完璧であるはずだということは、次の
  事情を考えれば、誰にでも分かる。

と書いてから、エスペラントの造語力について論じている箇所はあるんですね。
(水野義明(訳編)『国際共通語の思想』55〜58ページ)

でも、これ以外にも言ってたように記憶してるんですが、調べてみないと判りませんね。
ですから、『Lingvaj respondoj』や、先に言及した箇所なんかを調べてみようと思います。
たしかに、うろ憶えの状態で議論をしてはいけませんね。


>>98
よく考えましたら「テレビ」の場合は、複数の語が提案されましたが、そのために特別に揉
めたという話はありませんね。
ということで、これは撤回させていただきます。

しかし「コンピューター」のほうは、これはずいぶん揉めています。

これについて日本語で読めるのは、フランソワ・ロ・ジャコモ(著)『言語の発展』(大村書店 
1992年)の214〜227ページですが、詳しいのは、エスペラントで書かれたバーナード・
ゴールデンの「Terminologia kaoso: komputilo, komputero, komputoro」という論文です。

これは『Centjara Esperanto』(Fonto 1987年)と『Akademiaj Studoj 1988-1990』(Esper-
anto press 1990年)に収録されていますが、後者のものでは167ページのところで割り
付けのミスをしてまして、本来くるべきはずの文章が無くて、その代わりに168ページの文
章があるという問題があります(つまり167ページと168ページの文章がまったく同じになっ
ている)。

それから本当に揉めた事例としては、1932年に出版された、エスペラントで詩作をする人
のための『Parnasa Gvidlibro』という本があるんですが、この本に収められた「詩語」という
のが議論の対象となったことがあります。

その他にも、論争というほどではないんですが、たとえば「tajp-ilo という表現は要らない。
skrib-maŝino で充分だ」といった話を熱心にする人がいたり、あるいは、新しい書籍や辞
書が出版されると雑誌に書評が出ますが、そのなかで新語を批判しているということが、
よくあったりするんですよね。

「コンピューター」の事例は、時間のあるときに簡単に説明してみようと思います。

100松戸彩苑:2008/03/01(土) 09:36:08
>>97 の KamelioJapana さんのご質問なんですが、土日もちょっと用がありまして、調べる
時間がほとんど取れないみたいなんですね。
ということで、ご返事はかなり遅れると思います。

ところで「こういうことをザメンホフが言ったかどうか」ということももちろん大事なんですが、
しかし「現在のエスペラント界において、こういうことが(ザメンホフの説として)絶対視され
ている」ということは事実なんだろうと思うんですね。

で、私は

(1) エスペラントの語彙・表現を整備していく際には
    「現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば誰でも知っているような物・事」
    を中心に作っていくべきである。

(2) しかも、それらは「長すぎてはいけない」し、また「耳で聞いた際に、他の単語や表現
    と似すぎていて紛らわしいものであってもいけない」。

(3) そして、(1)(2)を実行していくうえで障害となるものは、たとえザメンホフの言ったこ
    とであっても間違っていると判断すべきである。

という行動指針を立てたわけですが、いろいろと考えてみても、従来のやりかたには問題
が多すぎると思ったんですね。

とは言っても、私はむやみやたらと新語根を導入すべしなどと言うつもりはないんですね。

具体例は「エスペラント改造論」スレにあげてありますので、そちらを見ていただいて理解し
ていただきたいと思います。

101松戸彩苑:2008/03/06(木) 04:12:55
私は >>78-79 で「飛行機や蒸気機関車についても、すなおに認めない知識人がいた」と
いうことを論じましたが、こういったものは最終的には認められたわけです。

そもそも実物があってちゃんと機能してるのですから、受け入れられるのは、まぁ当たり前
なわけです。

しかしエスペラントの場合には「世間にエスペラントを実用する人がたくさんいる」という状態
にならないと、「エスペラントは学習が容易で、なおかつ役に立つ」ということを証明できない
んですね。

現在でもエスペラントを実用する人間はいるんですが、世間からはほとんど見えませんし、
また伝書鳩などと同じで「一部の熱心なマニアがやってるもの」「一般的ではないもの」だと
しか思われてないのです。
だから、革新派の人たちからもほとんど支持されないわけですね。

(余談ながら書いておきますと、伝書鳩・ハム無線・郵趣は世間ではマイナーな趣味だと思
われていますが、これらの愛好者でそれらの団体に入会している人たちが、日本には数万
人はいるんですね)

ということで、エスペラントの有用性を証明してみせるのには「使用者を増やす」という困難
な作業が必要不可欠であり、飛行機や蒸気機関車などの有用性を示すのよりも、何百倍
も何千倍も困難なんですね。

で、私がこれまでに何度も言ってるように、せっかくエスペラントを始めたものの、学習途中
で挫折したり eterna komencanto になってしまうという人があまりにも多いのですから、こ
ういった人たちを減らすような努力が必要不可欠なわけですね。

ですから私は、なかなか筆が進まないのですが「エスペラントの学習法」スレで、そういった
ことについて書いているわけです。
---

それから私は

(1) 「理性」や「善意」といったものに過剰に期待するのはやめるべき。

(2) むしろ「楽しさ」や「面白さ」といったものを、エスペラントの宣伝や学習に利用すべき。

だと考えているわけです。

まずは(1)ですが、今までの宣伝というのは「理性」や「善意」といったものに訴えかけよう
というものだったと思うんですが、これまでさんざん頑張ってきたのにも関わらず、ほとんど
効果が無かったわけです。

そもそも、ビジネスライクにしか考えられない人たちはエスペラントなんかやるはずがありま
せんし、また社会問題などに関心のある人たちは、環境問題とか貧困問題といった「人の
生死」に関係のあるような問題には目を向けるでしょうけれども「国際的な言語差別」といっ
たものは人の生死とは直接的な関係はありませんし、それに何よりもエスペラントに信用が
無いのですから、やはりエスペラントの重要性が判らないんですね。

だいたい「エスペラントの素晴らしさ」とか「潜在的な可能性」とかいったものは、実際にエス
ペラントをやってみないことには絶対に判らないんですね。

ベダウリンデさんのように最近になってエスペラントを始められた方であれば「エスペラント
を実際に勉強してみて、それまではエスペラントの素晴らしさとか潜在的な可能性といった
ものをまったく知らなかったし想像することも出来なかったのだが、そういったものが実感
できるようになった」と痛感しておられることだと思います。

これは言ってみれば「食べ物の味は、食べてみないと判らない」「食べたことのない物の味
は、どんなに頭が良くったって絶対に判らない」ようなものなんですね。
たとえばオーストラリアには「ベジマイト vegemite」っていう食べ物があるんですが、私も食
べたことがないので、どういう味がするのかまったく判らないんですね。
みなさんだって、食べたことがなければ絶対に味は判らないわけです。

ということで「食べ物の味を、実際に食べることなしに、言葉による説明だけで理解させなけ
ればならない」とか「頭が良ければ判るはずなんだ」などとは誰も考えないのですが、しかし
「エスペラントの素晴らしさや潜在的な可能性について、言葉で説明すれば、少なくとも頭の
良い人たちには判ってもらえるはずなんだ」と信じて疑わない人は、エスペラント界にたくさ
んいるわけです。
しかし、どう考えても、それは無理なんですね。

エスペラントというのは「革命的」なものなのですから、その素晴らしさや潜在的な可能性が、
言葉による説明だけで十二分に伝えられないのは当たり前なんですね。
なんで、そんなことが判らないのでしょうか。

102松戸彩苑:2008/03/06(木) 04:13:59
>>101 の続き)

次に(2)の説明をしますが、この「楽しさ」や「面白さ」というものは、一般的には「理性」や
「善意」なんかよりも軽視されていると思うんですけれども、けっしてバカにしてはいけない
と思うんですね。

たとえば、日本のアニメやマンガが好きで日本語を勉強する人というのがいるわけですね。
もちろん、実利的な意味というのも皆無ではないんでしょうけれども、しかしけっして実利だ
けを求めているわけではないし、漢字の多い言語を勉強しようという気にさせるというだけ
でもすごいことだと思うんですね。

また日本には、韓国映画が好きで韓国語を勉強する人というのもいるわけです。

それからスタートレックのファンが、クリンゴン語を憶えるということもあるんですね。

このように見ていきますと、一般的には語学というのは「実利」や「生活上の必要性」のた
めに行なわれるものだと考えられていますが、しかし実際には「楽しさ」や「面白さ」を求め
てなされることもけっこう多いということが判りますね。

ということで、エスペランティストもこのような「楽しさ」や「面白さ」を求める力のすごさという
ものを素直に認めて、これをエスペラント運動のために利用することを考えるべきだと思う
んですね。

こう言えば「エスペラントは世界平和のための言葉なのに …」という反論が出てくることで
しょう。
それはたしかにそうなんですが、しかし「世界平和のためにエスペラントを普及させよう」な
どと言っても、革新派の人たちでさえ耳を傾けようとしないのですから、そんなことを言って
も仕方がないんですね。
私は何度も書いてると思うんですが、「世界平和のためにエスペラントを普及させよう」と言
って世間の人たちがすんなりと認めてくれるのであれば、私だってそう言うんですね。
でも、それは無理だということが判りきっているのですから、私はやらないわけです。

「楽しさ」や「面白さ」を利用して、曲がりなりにもエスペラントが使える人間を増やせば、世
間の人たちも「無くなったと思っていたけど、けっこう役に立つんだな」と思うでしょうし、さら
にレベルの高い活動を目指すこともできるわけですね。

そもそも「娯楽はダメだ」みたいなところがエスペラント界にあるから、新興宗教か、偏狭な
イデオロギーだと思われてしまうってこともあるわけです。

で、このようなことを考えますと、やはり「現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であ
れば誰でも知っているような物や事」を表わす語彙・表現というものの整備も急務となるわ
けですね。
---

このようにしてでもエスペラントが使える人間を増やしていかなければ、エスペラントが世間
から認められる可能性は無いと、私は考えているわけですね。

今のままでは、飛行機や蒸気機関車などとは違って、世間の人たちから永遠にバカにされ
つづけるだけになってしまうと思うんですね。

逆に、エスペラントができる人が1000人に1人の割合でいるということになれば、世間にお
いても目立つようになって、馬鹿げた批判をする人間もいなくなると私は思うのです。

ということで、囲碁・将棋をやるような感覚でエスペラントと付き合うことができるような環境
をつくることが大事だと思いますね。

(終わり)

103ベダウリンデ:2008/03/11(火) 19:58:58
>せっかくエスペラントを始めたものの、学習途中
>で挫折したり eterna komencanto になってしまうという人があまりにも多いのですから、こ
>ういった人たちを減らすような努力が必要不可欠なわけですね。

エスペラントを始めたのに途中で放棄してしまう、というのは、
やってはみたものの、思ったほど面白い事が無かった、というだけかと思います。
eterna komencanto になってしまうという人、というのは、エスペラントまたはエスペラント「運動」を楽しいとは思っているものの、
やはり難しすぎて上手になれないだけだと思います。
私は今は堂々と「初心者」を名乗れますが、2年後3年後には「エテルナコメンツァントです・・トホホ・・」と言わなければならないでしょう。
英語など外国語が不得意だと、やっぱり限界あると思う。みんなにとって平等に簡単だ、というのは嘘だと思う。

問題は「やってはみたものの面白くなかった」のはなぜか、です。
率直に言うと、今のエスペラントには「面白くて楽しい」面はあんまり無い。
国際交流や外国人との交流が好きな人には向いていると思う。
「特定の国だけが好き」な人でなく、「幅広く好き」な人が特に向いていると思う。

ワールドフェスティバルみたいな、国際交流イベントは結構人気なので、日本人は外国好きだと思う。
私もそういうお祭り好きだけど、そこには民族料理の屋台や、雑貨のお店、舞台では歌や演奏、踊りなどがある。
そういうのが楽しいのに、エスペラントには、そういった、おいしい物や目や耳で楽しめるものが何も無い。
エスペラントは、ただひたすら「言語脳」だけを駆使する楽しさなので、
これを楽しいと思える人はすごく限られると思う。

外国人と文通するのは楽しいと思うけど、
一対一のやり取りは、日本語でも見知らぬ人とのやり取りは苦手なので、無理かも。
複数の外国人との交流にしても、「初対面なのに超フレンドリ〜」みたいな雰囲気だったらやだ。
私個人は、エスペラントにはあんまり向いていないと思う。
でも、掲示板とかちょっとしたニュースとか読むのは好きなので、
エスペラントにもそういうのがたまたまあったから、今はそういうのを読むのが面白くてやっている。
エスペラントは文芸が盛んだから、そういうの好きな人はいいかもしれないけど、私は詩とかは嫌い。
自分が面白くても、他の人も面白いとは限らないし、エスペラントの「楽しい」面って少なすぎる。

ほんと、みんな何が楽しくて何十年も続けていられるのか、聞きたいですよ。

104ベダウリンデ:2008/03/12(水) 09:45:02
そうそう、私はやんないけど、好きな人によっては楽しいだろうな、と思える事としては
エスペラントでブログを書く、とか、動画にエスペラント字幕を付けて投稿する、とか。
世界の人に読んでもらえるという、壮大な満足感が得られそう。
色々探せば、その人なりの楽しみは見つけられるかもしれないですね。
(もちろん、文通や交流パーティが好きな人だったら即楽しめそうですね)

それからもう一つ大きいのが「思想」ですね。
「英語が国際語になるのが何としても許せない」とか「言語の平等の実現のため自分も何かしなければ」とか、
何か崇高な目的があって、そのために敢えてエスペラントを選ぶ場合。
私にはそういう「思想的動機」は全く無いのですが、「思想を抱く」というのは、それなりに充実感のある事なんだろうな、と想像します。
日本の全人口の比から考えると、思想が常に頭の中心にある人は少数派だろうけど、エスペラント界では主流派かな? そういう印象。

105なつ:2008/03/18(火) 00:23:05
偶然目にしたんですが、「日韓基本条約」(昭和40)。
この最後に「...日本語、韓国語及び英語により本書二通を作成した。解釈に相違がある場合は、
英語の本文による」と、書いてあります。
この英語の役目をエスペラントができるか、ということなんですよね。
日韓が国交正常するという国家間で極めて重要なものを果たしてエスペラントができるだろうか。
語義にも文法にも揺れがあり、それを解決できるスベを放棄しており、逆にそれを誇りにさえ思っている
能天気なエスペランティストが多い中、とてもじゃない、、荷が重過ぎる。
例えばEU国家間の文書は翻訳できるという建前になっていますが、
そうでしょうかね、一つ間違えば大袈裟に言ったら戦争にでもなるような大事な文書を
本当に責任もってできるのか?甚だ疑わしい。

106胡人:2008/03/18(火) 08:15:00
日韓に関しては、米国がまとめているという証拠にほかなりません。
英語というより米国を背景としているという事ですね。

文法等に関してはUEAから独立した委員会があるのだから、それを基本にすれば良いのでは?
単なるボランティアとしてのE組織には荷が重いでしょうが、一つ間違えば…はちょっと大袈裟ですよ。翻訳と解釈の違いは良くあることでしょう。

EUが英語を公用語にするという事は結局米国の影響を免れなくなるという事もその選択を難しくしている要素の一つだと思われます。
責任ある組織、あるいはそういう状況が必要という事でしょう。

107なつ:2008/03/18(火) 23:30:47
>>106
ええ、仲介者がアメリカというのが前提の条約だから英語も一つの言語にはされているのですが、
そういうのを除いて、いいたいのは、条約の非当事者言語なのにその条文の正文書たりえるのかということです。

大袈裟?どういうレベルのことをお思いなのかな?
ガキの使いでエスペラントを使うというレベルを考えるか?それとも
侃々諤々外交でぎりぎりのところをつめていくものにでも耐えうるものか考えるのか?
私は後者のことをいっている。あなたは前者?

読み違いで実際、一大事になった、あるいは一つの要因となった可能性もありうるうというのが
日本においてさえあります。あくまでも逸話ですが、
「黙殺」をignoreと翻訳されたのを、原爆投下決定の一要因なった、とか、
(西郷隆盛について)ハヤク(早く)シサツシ(視察し)という電報を手にして、
刺殺しと読み間違えて怒った反政府側が西南戦争を決定させたとか。
解釈の違いで笑い話にならない事態は考えられます。
実際、日韓基本条約の「無効」という文言についていつから無効なのかで
日韓の解釈の相違があるそうです。(それは翻訳ではなくそれ以前のはなしですが)
対華21箇条の要求やリットン調査団報告書がエスペラントでやる責任はもてるのかです。
>>翻訳と解釈の違いは良くあることでしょう。
どういうレベルの話でしょうか
私の言ってるのは「internacioは国際じゃなくてintergentoの意味かハハハ
じゃ済まされない次元の話をしています。
>>文法に関してはUEAから独立した委員会があるのだから、それを基本にすれば良いのでは?
どこに権威をもたせるかの問題ですか?それは否定されていませんか

もっと視野の大きい話なんです
個人のメールレベルを思ってはいませんか?

108松戸彩苑:2008/03/19(水) 05:35:00
エスペラントって、国内レベルの政治のために使われたことも一度も無いんですよね。

そういうものが、いきなり国際政治の舞台で使えるなどと考えるのは、やっぱり無理がある
と思いますね。

109胡人:2008/03/19(水) 07:24:16
国内レベルには必要はあまり感じられません。

先日の日米間の条約、協定に関しても、日本的には玉虫色の翻訳をして、米国側の英文と差異が見られたと思います。
紛争間の調停能力がエスペラントにあるとは全く思いませんし、またそれは言語自体にその要因をもってくるのは違うと思います。それ以前の積み重ねであって、単なる引き金に利用されたというものです。

そういった意味で状況というものが必要と書いたつもりです。
現実にEU議会でそのために活動されている方々が多くおられるのも事実です。
それなりの確信がなくてはその活動を続けておられる訳がないじゃないでしょうか?

110なつ:2008/03/19(水) 18:07:52
>>109
非当事者の中立言語としてエスペラントが正式外交文書、
世界的規模の条約文言などとしてやれるのか、という疑問を言ってるわけです。
実にシンプルな主題なんですけど。

使うという状況に仮に明日なったら即、正式な外交文書に堪えうるほど、
語義や文法に整合性が既に具備されているということなんでしょうか。

>>現実にEU議会でそのために活動されている方々が多くおられるのも
どういう活動なんでしょうかね。
議事録の当たり障りのない翻訳ならできますよ。大きな流れの内容さえあっていれば
細かい差異は関係ありませんから。いい加減な洋画の字幕的でも分かればオーケーということです。
あるいは、翻訳すらせずに、「できるのだ!」とカルト的な活動もできるでしょう。
日本のエスペラント運動自体カルトがかったものが多いですし。

まあ、「できる」いや「できない」となって行きそうで、
水掛け論で終わりそうですね。

111KamelioJapana:2008/03/19(水) 19:14:30
横から失礼します。

>使うという状況に仮に明日なったら即、正式な外交文書に堪えうるほど、
語義や文法に整合性が既に具備されているということなんでしょうか。

松戸さんなんかも普段から言われているようにまだまだ未解決な問題はあるとは思います。
しかし、語義や文法に整合性がないという問題ではありません。あくまで専門用語の不足や
未整理といった様なことです。
E の歴史を見る限りこの種の公式文書は国連関係のものや、また E 界内部においても
近年ではプラハ宣言に代表される、UEAを始めとする各種団体の世界大会毎に出される宣言や
公式文書等でその有用性及び有効性は、粗、証明済みです。
EU議会の公式文書においても E が関わる機会が増えれば増えるほど徐々に不備不完全な
面が改善されて行くものと思われます。勿論そのためには多くのエスペランチストたちの
努力が必要とされるのは云うまでもありません。
しかし、そのことと E が橋渡し言語として耐えうるものかどうかとは無関係です。
E 自体は十分耐え得るポテンシャルを持っているものと私は考えています。

>議事録の当たり障りのない翻訳ならできますよ。大きな流れの内容さえあっていれば
細かい差異は関係ありませんから。

仰る趣旨は、当然 E についての翻訳であると思いますが、貴方の認識は E では当たり
障りのない翻訳しか出来ないだろうということでしょうか。
そうだとしたら全く認識を欠いたものだと云う他はありません。

>いい加減な洋画の字幕的でも分かればオーケーということです。

ついでですが、貴方はいい加減な字幕映画にしか出会ってはいないのでしょうか。
映画の字幕ほど適切に行うには難しい翻訳作業はないのですよ。
それとも E の字幕映画はいい加減だということでしょうか。

>日本のエスペラント運動自体カルトがかったものが多いですし。

貴方の認識も世間一般と変わりませんね。

112松戸彩苑:2008/03/20(木) 04:36:18
>>111
> E 自体は十分耐え得るポテンシャルを持っているものと私は考えています。

もちろん、それはそうですよ。
私だって「必要な語彙・表現を一生けんめい整備すれば、エスペラントはどんなことにでも
使うことのできる言語になりうる」と考えています。

しかし「そのような言語にするには、かなり頑張らないといけない」「今のようなやりかたを
していたのでは、とてもじゃないが間に合わない」とも思ってるんですね。

私は法律には詳しくないので、エスペラントの法律用語がどのていど出来ているのかよく
判らないのですが、日常生活に関する語彙・表現を見ているかぎりでは、今のようなやり
かたではダメだろうなって思うんですね。

たとえば『エスペラント日本語辞典』の skribaĉi の項を見ますと「書きなぐる、落書きする、
あしざまに書く」という訳語が載ってるんですが、しかしよく考えてみますと、この3つの概念
はまったく違うものなんですよね。
つまりエスペラントでは、このまったく異なる3つの概念を、文脈から判断しないといけない
わけです。

NPIVには「落書き」を表わす grafitio という新語根が載ってるんですが、『エスペラント日本
語辞典』の編者には「不必要」だと判断されたのか、載っていません。
私は必要だと思うんですけどね。

また『エスペラント日本語辞典』の aparato の項には radio-aparato という副見出しがあるん
ですが、これには「ラジオ受信機;無線機」という訳語が与えられているんですね。
当然のことながら、これもまったく違うものですね。

ということで、こういった例を見ていきますと「今のままではダメだよな」って思いますし、また
「日常生活に必要な語彙・表現だけがダメで、法律用語はちゃんと出来ているなんてことは、
まずありえないよな」とも思うんですね。

113KamelioJapana:2008/03/20(木) 09:28:57
>>112
松戸さんとはこれまでもイロイロと議論してきましたが、云ってみれば主観的見方の違いでしょうね。

これまでも具体的な例を挙げてこられて「日常生活に関する語彙・表現」の不足・混乱を指摘されて
来られました。
その殆どの事柄には私もなるほどと思います。そのこと自体は、所謂、客観的事実です。

しかし、主観の相違という意味は、我々の「昔の論議」を総括してみますと凡そ以下の2点になると
思われます(今、私の頭で考えられる範囲では):

1.優先順位。
私の見解は松戸さんが指摘してきた一連の問題は E界の進出分野が質量ともに限られているからで、
その解決のためには何よりも運動の発展が第一の課題であって、その逆ではないこと
(松戸さんの見解は語彙等の問題があるため運動が広まらないとい事を強調しておられる)。

2.評価の違い。
こちらの方が主観的というか、一連の問題をプラスに考えるかマイナスに考えるかの見解の相違が
大きいところでしょう。

例えば、

>たとえば『エスペラント日本語辞典』の skribaĉi の項を見ますと「書きなぐる、落書きする、
あしざまに書く」という訳語が載ってるんですが、しかしよく考えてみますと、この3つの概念
はまったく違うものなんですよね。
つまりエスペラントでは、このまったく異なる3つの概念を、文脈から判断しないといけない
わけです。

一つ指摘しておきたいのは、辞典の訳例は概念を整理はいたしますが、それを分けるものでは
決してないのです。分けているように見えても、実はそうではなくて、あくまで一つの言語における
単語の語義範囲が示すものを他言語において該当する幾つかの表現に置き換えたものだけなのです。

特に E の様な人工言語の場合にはハッキリと云える事ですが、諸民族語の伝統的慣用的表現の影響を
強く受けたもの(例、eldoni)以外は単語を構成する形態素が示す意味でのみ、その語義範囲は判断
されるべきものなのです。
skribacxiの意味はskrib-acxiという二つの形態素が絡み合う意味範囲を示しているとしか云えない
訳で上に挙げた日本語の三つの和訳は、いずれの表現もその意味範囲に該当するものであるいうこと
です。
三つ以外にも考えればまだあるでしょう。例えば、「ぞんざいに書く」等々。

諸言語間の語義範囲が全く一致することは日常表現においては稀といっても過言ではありますまい。
それに関してはここに投稿されている皆々様が例を挙げて書いておられる通りですね。
逆の場合も云える事でして、例えば日本語の「お菓子」に当たるものを E で表現するとなると、
sukerajxo, dolcxajxo, kuko, konfitajxo, bombono 等になるわけで、しょっぱい物を含めると
まだまだ違う表現も出てくるでしょう。こう言ったEの表す語が日本語の「お菓子」の概念を
幾つかのものに規定してしまうなんてことはありませんね。
これは当然他の諸民族語についても云えることで、云ってみればお互い様のことです。

前置きが長くなりましたが、要するにこの問題は、私の見解では E にとっては少しも弱点ではないし、
その論理性やその結果として学習面という観点からはむしろ、長所ともいえることだと考えています。
例えば、「文脈から判断しないといけない」ということは欠点なのでしょうか。
日本語の様な同音異義語(ピッチが異なるもの以外にも更に存在する)が多い民族語は文脈から判断
しなければならない場面が多々あるでしょうが、それが生活に不都合をきたしているなどとは
聞いたこともありません。

言語学的に云えば「必要は発明の母」と云うことでしょうか。
現に使用されている語彙の内容で欠陥が生じてきた場合には「生きている(活きている)言語」
である限り必ず是正されていくということです。

E は既に「生きている言語」です。従って、その欠陥を是正していくのも E が「生きて(活きて)
使用される人々の広がり」に規定されるものなのです。

EUで使用される頻度が多くなればなるほど不備等は是正されていくでしょう。
なぜなら、頻度が多くなるということは E 界の質・量の発展を意味しているからです。
尤も、私見ですが、現状ではまだまだ目標にはかなりの努力がいると思いますが。。。
いずれにせよ、私の観点では、E の前途は松戸さんのお考えより遥かに楽観的といえるかも知れません。
所謂、これが主観的相違と私が云いたいところです。

114Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/03/20(木) 11:51:43
話の流れを断ち切ってもうしわけありませんが、胡人さんが>>109
「国内レベルには必要はあまり感じられません。」とおっしゃたのは
どんな意味なのでしょう。他民族多言語国家でも必要ないという意味
でしょうか。だとしましたらザメンホフがエスペラントを作った動機とは
まったく相容れないお考えと思いますがどうなのでしょう。

115松戸彩苑:2008/03/20(木) 19:22:19
>>113
> 特に E の様な人工言語の場合にはハッキリと云える事ですが、諸民族語の伝統的慣用
> 的表現の影響を強く受けたもの(例、eldoni)以外は単語を構成する形態素が示す意味で
> のみ、その語義範囲は判断されるべきものなのです。
> skribacxiの意味はskrib-acxiという二つの形態素が絡み合う意味範囲を示しているとしか
> 云えない訳で上に挙げた日本語の三つの和訳は、いずれの表現もその意味範囲に該当
> するものであるいうことです。
> 三つ以外にも考えればまだあるでしょう。例えば、「ぞんざいに書く」等々。

エスペラントを観察しますと、「単語を構成する形態素が示す意味でのみ、その語義範囲は
判断される」などということには必ずしもなってないんですよね。

たとえば mon-ujo という表現がありますね。
これは理論的には「おカネを入れる、ありとあらゆる種類の容器・袋など」を表わすことにな
るはずなんですが、しかし現実には「財布」の意味でしか使われないわけですね。
「金庫」なんかは kaso、mon-ŝranko、mon-kesto などと言うわけです。

また libr-ejo という表現も、理論上は「本に関係のある、ありとあらゆる場所」を表わして良
いはずなんですが、現実には「本屋」「新刊書店」に限定されてるわけです。
「出版社」は eldonejo、「図書館」は biblioteko、図書館などの「書庫」は libro-tenejo、「古
本屋」は libro-brokantejo などと言うわけですね。

それから『改訂 新撰エス和辞典』の boli の項に bol-ilo という表現が載ってるんですが、
「湯わかし」「ボイラー」という2つの訳語が与えられていたんですね。
もちろん、どちらも「boli に関係のある ilo」なわけですから、どちらも間違いではないんです
が、しかし「湯わかし」と「ボイラー」が区別できないのでは不便です。
ですから Waringhien が編纂した『Grand Dictionnaire Espéranto-Français』においては
「やかん = bol-ilo」「ボイラー = bol-ujo」とされたんですね。
これが旧版のPIVやNPIVにも踏襲されまして、『エスペラント日本語辞典』にも収録されてい
るわけです。

それから「やかん」を表わす表現としては bol-kruĉo というのもあるんですね。
これは『Esperanta Bildvortaro』の 41/73 に載っています。

ということで、意味を限定したうえで使われている表現の実例をお見せしましたが、このよう
に意味を限定しておかないと、精密な意思疎通ができなくなるんですね。
現在の skrib-aĉi というのも、あまりにも多義的ではないかと思います。

116松戸彩苑:2008/03/20(木) 21:02:40
>>113
> 1.優先順位。
> 私の見解は松戸さんが指摘してきた一連の問題は E界の進出分野が質量ともに限られ
> ているからで、その解決のためには何よりも運動の発展が第一の課題であって、その逆
> ではないこと(松戸さんの見解は語彙等の問題があるため運動が広まらないとい事を強
> 調しておられる)。

意見の相違の内容については、まったくその通りですね。

で、私が語彙・表現の問題にこだわるのは、次のような理由があるからです。

(1) 世間の人たちは、「理念」や「理論」を前面に出した宣伝では、絶対に納得しない。
    革新派の人たちでさえも、こういった宣伝によってエスペラントを理解するようにはな
    らない。
    やはり「実際にエスペラントを使って、何かの役に立てている人がたくさんいる」という
    事にならないと、世間の人たちがエスペラントに注目するようにはならないと思います。

    言いかえれば、エスペラントは「実演販売」しないと絶対に信用してもらえないというこ
    とです。

(2) で、現在でも少数ながらエスペラントを何らかの役に立てている人はいるわけですが、
    しかし、たとえばエスペラント版 Wikipedia などの記事を書いているときに、必要な語彙・
    表現が判らない(あるいは、無い)ということがあったりするんですね。

    もちろん、特殊な専門語みたいなものであれば無くても仕方がないかなと思うわけで
    すが、現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば誰でも知っているような
    物や事を表わす語彙・表現がはっきりしないということになれば、どう考えたって問題
    なわけですね。

    こういう問題があまりにも多いと、運動が盛り上がるわけがありません。
    ですから、こういったものについてみんなで考えることが必要だと私は思うわけです。
---

「とにかくエスペラントを採用してもらうことが大事なんだ」という考えには、次のような問題
があると思います。

(A) (1)で述べた理由から、そもそも採用してもらえない。

(B) 「問題がある」ということが判っても、すぐに良い解決法が見つかるとは限らない。
    だから、ふだんから問題を見つけて、解決法を考えるようにすべきである。

(C) 「不備があったら直していけば良い」などという言語をEUに採用させようというのは、
    あまりにも乱暴すぎると思います。
    これは要するに「EUを、エスペラントを poluri するための実験台に使おう」ということで
    はないですか。

    こんなことをするのはEUに失礼ですし、また大きなミスをすれば、EUにおけるエスペラ
    ントの信用も台無しになる危険性があります。

    だいたいエスペランティストたちは「エスペラントは民族語にひけをとらないくらいの表
    現力を備えている」などと言ってるわけですから、それがまったく違うということになれ
    ば、ただちに出入り禁止になるでしょう。
---

私の見るところでは、エスペラントというのは「同人レベルの言語」なんですよね。
同人レベルにしては結構すごいと思うんですが、しかし、重大な責任のともなうようなことに
使うのには、はなはだ心もとないと思うんですね。

それで私は、エスペラントがそこそこ役に立つことは百も承知していながら、あえて厳しいこ
とを言っているわけです。

117胡人:2008/03/20(木) 23:03:39
Rakuさま、
> 胡人さんが>>109
> 「国内レベルには必要はあまり感じられません。」とおっしゃたのは
> どんな意味なのでしょう。

日本国内という意味ですが・・・他民族多言語国家の事を指すとは思ってもみませんでした!?

118Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/03/20(木) 23:06:57
「多民族多言語」に訂正します。

119Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/03/20(木) 23:18:17
日本に限定してのお話でしたか。それならわかります。しかし、松戸彩苑さんの
おっしゃってることはそうじゃないように受け取れましたが。

120KamelioJapana:2008/03/22(土) 12:40:19
>>113
ご丁寧な解説ありがとうございます。

monujoの意味範囲はあくまでmono+ujoです。日本語で大雑把に言って「お金入れ」です。
お金の入れ物として日常圧倒的に多く使われるものとして「財布」と云う意味が第一義的な
ものとして定着したにすぎません。日本語でも財布を「札入れ」といういう方をする方が
いるのと同じことです。この場合、敢えて厳密に定義をするための用語を作り出さなくても
十分に事足りますね。また、予てから私が申し上げている通り学習者にとっても負担を軽減
するものでしょう。

逆に初心者が「金庫」という単語が分からなくてもmonujoという語を使っても一向に構い
ません。殆ど文脈で理解されるでしょう。語義が固定してしまった民族語の場合はそうは
いかないですね。「金入れ」といわれると、我々日本人としては仮令前後関係で意味を理解
出来ても、どうも気持ち的には何かすっきりとしない違和感が残りますね。
「札入れ」と来た場合には金庫の意味に取るにはかなり頭を柔軟にしておかないと無理
でしょう。

以下、詳しい説明は省略しますがlibrejo等に関しても同じことが言えます。
総じて、実際の交流場面で混乱をきたすようなことは、私の場合に限っても、殆どありません
でした。

121KamelioJapana:2008/03/22(土) 13:23:32
失礼。
前回、>>113 と書いたのは、>>115 の間違いでした。

>>114
>こういう問題があまりにも多いと、運動が盛り上がるわけがありません。

お書きになっているほど問題はそれ程深刻であるとは思いませんが、百歩譲ってもその事が
E がなかなか普及しない理由ではありません。松戸さんがそう主張されるのは勿論ご自由です。
しかし、これまでのE運動史を良くご研究なさったほうが宜しいかなとも思いますが、E運動を
阻害している理由というものは、圧倒的に政治経済上の力学関係に依存しているからです。

この事は平和の問題に関しても云えることで、いかに軍事関係に占める世界の予算が不合理な問題
を世界中に齎しているにも拘らず、これが「現実だから」ということで理想を遠ざけてしまってい
ます。
このこととE運動の現状には似たようなものといえるでしょうね。

従って、
>こんなことをするのはEUに失礼ですし、また大きなミスをすれば、EUにおけるエスペラントの
信用も台無しになる危険性があります。

このような心配は皆無です。それどころか、Eが試される世界史における歴史的場面では
立派にその役割を果たしてきました。

122松戸彩苑:2008/03/23(日) 03:49:51
>>120
NPIVで mon-ujo、libr-ejo を引いてみますと

  monujo. Poŝsaketo de 〜eroj: (後略)

  librejo. Vendejo de 〜oj: (後略)

って書いてありますから、そういう解釈は難しいような気がしますけどね。


>>121
> E運動を阻害している理由というものは、圧倒的に政治経済上の力学関係に依存してい
> るからです。

それは私もよく判っているつもりです。

とは言っても、せっかくエスペラントを始めても学習途中で挫折してしまったり eterna kom-
encanto になってしまったりする人がたくさんいるわけですが、これはどう考えても国際政
治のせいではないと思いますね。

また世間においても、韓国語やイタリア語を学習する人がけっこう多いなんてことがあります
が、これだって「国際的な政治・経済上の力学関係」とは無関係に「面白そうだから」という
理由で勉強する人が意外といるということなんだと思うんですね。

それから、現在の「国際的な政治・経済上の力学関係」に批判的な人は少なくないわけで
すが、そういう人たちでさえエスペラントをやろうとはしないではないですか。

ということで、エスペラント運動がうまく行かない原因をすべて「国際政治上の力学」だけで
説明するというのには賛成できません。

123松戸彩苑:2008/03/23(日) 10:01:57
私に理解できないのは、日常生活に必要な語彙・表現が不足・混乱していることが判って
いるのに、どうしてそれを改善しようとせず、後生大事にとっておこうと考えるのかってこと
なんですね。

そんなことをして、一体どんなメリットがあるんでしょうか?

欧米においても、またエスペラントを政府がバックアップしている中国においても、エスペラ
ント運動がいまひとつパッとしないのは、日常生活に必要な語彙・表現が不足・混乱してい
るせいだと私は思うんですけどね。

124松戸彩苑:2008/03/23(日) 10:55:26
余談になりますが、ヘブライ語を話し言葉として復活させることに成功したベン・イェフダとい
う人について書いた

  ロバート・セントジョン(著) 『不屈のユダヤ魂』 (ミルトス 1988年)
  ロバート・セントジョン(著) 『ヘブライ語の父ベン・イェフダー』 (ミルトス 2000年)

という本があるんですが、これはエスペラント運動について考える際にも役に立つんじゃな
いかと私は思うんですね。
なお、1番目の本と2番目の本は、中身はまったく同じで、タイトルだけを変更したもののよ
うです。

ベン・イェフダは1858年にリトアニアで生まれて1922年にパレスチナで亡くなった人です
ので、ザメンホフと同時代人なんですね。

で、ベン・イェフダが「ヘブライ語を、イスラエルが復活した際の公用語にする」と周囲の人た
ちに話したときに、多くの人は「それは無理だ」って言ってたわけなんですが、結局それが
現実のものとなったわけですね。

このように見事に成功したヘブライ語と、世間の人たちからは失敗したと思われているエス
ペラントとの違いはどこにあるのかということを考えてみる必要があると思います。

また、この他にも

  デボラ・オメル(著) 『ベン・イェフダ家に生まれて』 (福武書店 1991年)

という本もあるんですが、これは従来のベン・イェフダの伝記には書かれていなかったエピ
ソードを集めたような本ですので、セントジョンの本を読んでからでないと理解しにくいと思
います。

125松戸彩苑:2008/03/23(日) 13:30:26
民族・国家・宗教といった後ろ盾をもたない言語が生き延びるには、一般人の家庭生活の
なかに定着させるしか方法が無いんですね。

しかし、日常生活に必要な語彙・表現が不足・混乱していますと、それが不可能になるわ
けです。

欧米人はエスペラントが使いこなせるようになるのが早いですが、しかし、その割にはエス
ペラント運動が盛り上がっていない。
いや、それどころか、西欧においては落ち目になってさえいるわけです。

こういうのを見ていますと「今のままで良い」などという話は、とうてい信じることができませ
ん。

126KamelioJapana:2008/03/24(月) 18:44:18
>そういう解釈は難しいような気がしますけどね。

Eでは、十分可能です。辞典というものは現実社会において該当単語が最頻に指示しているものを
挙げているのですが、民族言語と違い論理を最重要視するEでは、常にmonujoやibrejoの意味する
範囲は形態素自体の意味が変わらない限り同じです。


>エスペラント運動がうまく行かない原因をすべて「国際政治上の力学」だけで
説明するというのには賛成できません。

「すべて」とは云っておりません。圧倒的主要原因であると申し上げているのです。
eterna komencantoとなる理由は主としてE界を含めたバックアップ体制に問題が
あると思います。実利目的というには程遠い(この状況にEを置いているのが正に
国際政治経済上の力学)学習し続けるためには、効率的でenkuragxigiな教授法や仲間の
支えが必要ですね。
松戸さんが主張する「日常生活に必要な語彙・表現が不足・混乱」を感じられる方が
居られたとしても、その方はもうkomencantoではありませんね。

127KamelioJapana:2008/03/25(火) 07:44:44
>中国においても、エスペラント運動がいまひとつパッとしないのは、日常生活に必要な
語彙・表現が不足・混乱しているせいだと私は思うんですけどね。

私の知る限り、そのようなことは聞いたことがありません。

>私に理解できないのは、日常生活に必要な語彙・表現が不足・混乱していることが判って
いるのに、どうしてそれを改善しようとせず、後生大事にとっておこうと考えるのかってこと
なんですね。

松戸さんは組織運動に関わっていないので、分からないと思いますが、改善論議はZamenhofが
第一書を発表して以来、これまでその努力はなされてきましたし、今も続いています。
松戸さんも評論家を卒業してE界にご自分の意見を反映する努力を為される事をお勧めいたします。

>このように見事に成功したヘブライ語と、世間の人たちからは失敗したと思われている
エスペラントとの違いはどこにあるのかということを考えてみる必要があると思います。

御意。良いですね。
松戸さんは如何思われますか。

>欧米人はエスペラントが使いこなせるようになるのが早いですが、しかし、その割にはエス
ペラント運動が盛り上がっていない。
いや、それどころか、西欧においては落ち目になってさえいるわけです。

このことの理由も「語彙の不足・混乱」の所為にお考えなのでしょうか。
欧米人にとっても、我々同様にEがいくら学習が容易であるといっても他の民族語に比べて相対的
にそうであるといえることで、第二言語を習得する難しさは絶対的なものがあるのです。
特に、日本人等の非印欧語族には誤解されていることですが、トルストイの逸話にもあるように
文章を見ただけで凡その意味がつかめることは確かである反面、それを実際に使いこなせるには
それなりの努力と経験が必要であることは云うまでもありません。
逆に、Eの実用における受動的な面と能動的なものとのギャップは我々以上に感じるところがある
といえます。

総じて松戸さんのご意見はE界に深く関わろうとしない多くの言語学者のものと通ずるものがある
と私には思われてならないのです。

128胡人:2008/03/25(火) 12:09:17
正直、私も Kamelioさま とほぼ同じ思いをもっています。

>私に理解できないのは、日常生活に必要な語彙・表現が不足・混乱していることが判って
いるのに、どうしてそれを改善しようとせず、後生大事にとっておこうと考えるのかってこと
なんですね。

私達の学習グループでは日常生活に必要な語彙・表現が不足・混乱という感覚はありません。反対に、この様な表現方法の方が興味深いとか、こんな表現方法を何処何処の本で読んだ事があるとか・・・

翻訳をしていて面白いのは、例えば英語教室なら正解は、ほぼ一つなのでしょうが、エスペラントでは、7人いれば7様のエスペラント訳が生まれ、また、ほぼどれも正解という事があります。あとはある面、感覚的に好きな訳とか、ゴツゴツした訳とか、ちょっと大袈裟な訳とか的な違いを各々が楽しむものとなります。
講習の指導者達の中には、勿論これが一番正しいと指導者として明確にされる方々もおられるし、またその様にしなければ指導も難しいと思いますが・・・

Zamenhof の文章が長々として読みにくいので大嫌いという先輩方も多いです。良いエスペラントを読むのなら Edomond Privat だ!或いは誰々がお薦めだ!また Zamenhof はこの様な単語の使用をしているが、これは戴けないダメだ!とか。

国家的組織が、選定すればもちろん松戸さまの感じられる不足・混乱は無くなると思いますが、またエスペラントの面白さも半減しそうです。
TV番組でケンミンクイズが面白いのとエスペラントのこの面白さもある面共通していると思います。

>このように見事に成功したヘブライ語と、世間の人たちからは失敗したと思われている
エスペラントとの違いはどこにあるのかということを考えてみる必要があると思います。

国家の意思が有るか、無いか?と経済的に有利かどうかだと思います。

私は先輩方から、イスラエル建国の時、エスペラントの採用という話もあったが、Zamenhof 自体がその建国によって、自分達と同様の第2のユダヤ民族を生む形になり、憎悪の連鎖のため、活火山の上に住む様なもので、決してパレスチナが安住の地とは言えないと賛成しなかった経緯のゆえ、その選考の枠からはずされたと聞いたことがあります。

島ごとに違う言語を持っていたインドネシアも、戦後、独立戦争後、言語選定委員会を設け政治家専門家が集い、ほとんどそれまで使用されていなかった或る島の言語を様々な考慮のすえ現在の公用語として採用し現在にいたっている事。
またパキスタン等も独立後、二百数十の言語があり英語しか共通言語がなかったため、イスラム聖職者達が現在の公用語を作った事。
その様に、国家が必要として関与した事が、成功した一番の要因だと思います。

129護憲29:2008/03/25(火) 23:36:18
>>128
お前、知っててそんなこと言ってんのか?
ベン・イェフダーは何年にエルサレムに移住したのか?
ザメンホフは何年死んだのか?
イスラエルは何年に建国したのか?
キチガイか?
お前、共産主義に受動的にいいなりになる典型例だな

130松戸彩苑:2008/03/26(水) 03:50:58
1999年に Hejma Vortaro という60ページほどの小冊子がUEAから出版されてるんです
が、ご覧になったことはあるでしょうか。

この本の前書きには、次のように書かれています。

  Tiu ĉi vortareto celas helpi tiujn parolantojn de Esperanto, kiuj uzas la lingvon hejme
  kiel ĉiutagan komunikilon. Ordinaraj vortaroj ja ne ĉiam utilas, kiam oni serĉas nom-
  on por iu enhejma aĵo aŭ ago. Kompreneble oni ofte povas utiligi la riĉan vortfaran
  sistemon de Esperanto por mem krei taŭgajn vortojn, sed estas bone ekscii, kiel aliaj
  familioj Esperant-lingvaj solvis similajn problemojn.

  (同書5ページ)

つまり、家庭でエスペラントを使っている人たちは、家庭生活に必要な語彙・表現が判らな
くて普通の辞書では役に立たないということがあるから、この小辞典を作ったんだってこと
ですね。

日本のエスペランティストたちは「欧米のエスペランティストのレベルになれば問題ないん
だ」と本気で信じているようですが、しかし、家庭でエスペラントを使っている欧米のエスペ
ランティストは、家庭生活に必要な語彙・表現が判らなくて困ってるんですね。

131松戸彩苑:2008/03/26(水) 03:54:16
>>130 に訂正。

困ってる → 困ることがある

132胡人:2008/03/26(水) 07:44:37
護憲29さま。私はキチガイではありませんし共産主義者でもありません。またたぶん地域的には Kamelio さまとは全然異なります。たぶん話した事もないと思います。

時間的に、ずれがある事は当然知っています。詳細に書くと長くなりすぎるため若干短くしすぎて、貴方には理解出来ませんでしたか?残念です。

初めはザメンホフもシオニズム運動をしていましたが、日露戦争〜第一次世界大戦の暗雲がたちこめようとしてきたころ、兄弟の戦争における戦死や自殺、様々な現実の中でシオニズムから離れていった様です。

133やぱーの@管理人:2008/03/26(水) 08:45:21

護憲29 様

言葉使いは少々気をつけましょう。

よろしくお願いします。

                一回目

134胡人:2008/03/26(水) 12:50:36
> 家庭でエスペラントを使っている欧米のエスペランティストは、家庭生活に必要な語彙・表現が判らなくて困ってるんですね。

その Hejma Vortaro、私も実はもっています(^^) 独学の一助として利用しています、便利で面白いと思って買いました。
需要はあると思いまが、松戸さまの様にはとらえていませんでした。

別になるかもしれませんが、欧州の人にとってもエスペラントは充分難しいようです。エスペラントクラブは数多くあっても上手に話せるエスペランチストは案外すくない様です。結構真剣に勉強しなければモノに出来ない様でス。その面では、案外私達日本人と五十歩二百歩くらいじゃないでしょうか?

長続きしない一番の問題は、活用する場が少ないことに尽きると感じています。経済面でも文化面でも学習面でも、または宗教面でも思想面でも、とにかくどのような面であれ活用する場がなくては、永久初心者で終わってしまうと思います。そういう様々な面を各々が充実させていくことが結局、エスペラントの普及につながると思います。

135KamelioJapana:2008/03/26(水) 19:17:20
>つまり、家庭でエスペラントを使っている人たちは、家庭生活に必要な語彙・表現が判らな
くて普通の辞書では役に立たないということがあるから、この小辞典を作ったんだってこと
ですね。

そうですね。普通の辞書では検索に不便なこともあるでしょう。家庭でEを使っている状況には、
様々あると思いますが、主にエスペランチスト同士の国際結婚や同じ言語同士の場合であっても
自分たちの子供をdenaskalingvanoにしようと思ってる方たちが該当することでしょう。
謂わば、かなり未来を先取りする実践をしている方たちを如何サポートするかはE界にとっては
大変重要なことです。
そのためにも家庭生活の細かな言葉の用法のモデルを示す必要がありますね。
私たちがガスティーゴする場面とはまた違う内輪の会話なんかもありますから。

もっとも、それぞれの家庭で独自のEの表現を作り使うこともEでは十分出来ますが、
denaska-infanoj同士が集まった時に、用語が統一されていなければやはり不便でしょう。
欧州では主としてE家族を中心に集まる機会(familia renkontigxo)が随分あります。

しかし、
>家庭でエスペラントを使っている欧米のエスペランティストは、家庭生活に必要な語彙・表現が判らなくて
困ってるんでことがあるんですね。

松戸さんに案じて頂けることは有り難いのですが、このために家庭生活がうまくいかなかったとか、子育てに
支障をきたしている例をご存知なら逆にお聞きしたいです。

どうも松戸さんは如何あってもEが広まらない理由を語彙の問題にしたいがために細かいことに拘り過ぎて
いるように私には思えます。
語彙にまつわる問題は、Eに限らず総ての現存する言語に問題の側面こそ違え、存在しています。
日本語でも用語の世代間のギャップとかカタカナ英語等、考えればいろいろありますね。

necesejo >かわや、トイレ、お手洗い、便所、WCなんてのもありましたね。
これも、用語の混乱でしょうかね。私はそうは思いませんが。
私、俺、僕、おら、わし、わっち、あっし、われ、手前、
これらは言語の内包的特徴にあたります。E にもその弱点含めて言語特有の属性があるものです。

胡人さま。
これまでのご意見を伺うと共通するところが多いです。
お互いの所属する会で素敵な体験を積み重ねていきましょう。
今年はどこかの大会でお会いしたいですね。

136KamelioJapana:2008/03/26(水) 19:21:38
>困ってるんでことがあるんですね。

訂正します。

→困ってることがあるんですね。

失礼しました。

137護憲29:2008/03/27(木) 00:25:10
胡人
分からんな。どう自分のしったかを正当化しているのだ。
Z死亡とイスラエル建国とでは幅があきすぎだ。
なお
ベン・イェフダーはZと同時期にzと違い夫婦でエルサレムに乗り込み
zが無理だと思った共通ヘブライ語普及を努力していった
のちイスラエル建国時そのヘブライ語が公用語とされた。
どこにエスペラントのかかわる余地があるのだ

138胡人:2008/03/27(木) 07:07:20
 ユダヤ民族が、パレスチナは神の約束された地として、当時の列強に対し、Zamenhof が生まれる前から、資金力政治力で長年建国のために努力してきた歴史があります。
 Zamenhof が10代の青年期、初めに原エスペラント語をつくった要因の一つは、ユダヤ人同志の共通言語というものもあったようです。その地域での彼らの言語イーディッシュはドイツユダヤ語とも言われ、ユダヤ人の共通言語が必要というのは当時のユダヤ人知識階級の共通認識だったようです。

 その面で、後に、その原エスペラントをもとに作られ発表された現エスペラントが欧州中心の言語というのは、欧州全体にちらばっているユダヤ人にとってある面当然だと思います。

 後に、Zamenhof がホマラニスモを強く主張していくのも、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教等宗教間の争いを無くさねば、真の平和は来ないとユダヤ人として感じていたのだと思います。でも、その面を強く主張すればするほど、ユダヤ社会からは孤立していき、資金的には恵まれませんでした。

 エスペラントの単語の"gento"というのは、DNAを共有する民という感覚を感じます。普通は民族というと、言語・文化(宗教を含む)の一致でもって一つの民族という概念で、現在も世界各地での分離、独立運動でのその概念での対立ですが、ユダヤ民族は、長年の離散でほぼ宗教上でのみの概念に近いものがありました。その意味でユダヤ民族というよりもユダヤの民という雰囲気の方が当時はふさわしかったのではないでしょうか?当時の欧州には独立をゆるされない、言語の使用も公式には許されない地域民族がまだまだ多くありました。

139KamelioJapana:2008/03/27(木) 07:58:42
胡人さんへ
「護憲29」の様なえたいの知れない無礼な輩を相手にする必要はありませんよ。
時間の無駄です。勝手に吠えさせておいた方がよろしい。
まあ、彼au彼女にたいする精神療法としてカウンセリングをやっているなら話は別ですよ。

私の場合は胡人さんの様に人が善くはないので到底その気にはなれませんが。。。

140松戸彩苑:2008/03/28(金) 03:11:17
>>137
「イスラエルが建国されたとき、ベン・グリオンはイスラエルの公用語としてエスペラントを
採用しようかとも考えたが、結局やめた」という話を、エスペランティストが書いたか話した
かしたもののなかで私も読んだことがあります。

しかし、この話には確たる証拠が無いんですよね。

エスペラント界には、この手の「伝説」がけっこうあるんですが、私は確かな証拠が出てく
るまでは信じないことにしております。

実際これまでにも「スペイン内戦のときに、エスペランティストから成る部隊があった」など
という噂があったのですが、調査によって間違いであることが判明しています。

141護憲29:2008/03/29(土) 02:37:55
>>ユダヤ人の共通言語が必要というのは当時のユダヤ人知識階級の共通認識だったようです。

はあ?何を証拠にそんなことを言ってるのだ?
だれがそういうことを求めるというのか?
だから共産主義の意見を鵜呑みにする受動的な人間だとおれがいってるのだ。
共産主義者のカメリオも論理的に意見が言えないから、無言を続けるしかないのだ

中立的なベン・イェフダーの伝記1冊くらい読めよ。
東欧系、西欧系別れ共通言語不必要だと思っているやつら、
フランス語で充分だと思っている開拓村あるなか
命を賭してバンビちゃんという新聞を発行し続けたのだ。
ザメンホフとは違う。
イスラエル建国時、エスペラントが公用語?
なんで??
全く不必要なんだよ、無視はなはだしい。
既に生きたヘブライ語があるんだよ。


エスペラントがイスラエルの公用語??
そういうのを信じるから共産主義者のいうことを無批判に受動的に信じているおかしなやつだというのだ

142護憲29:2008/03/29(土) 02:46:15
無視 訂正→無知

イスラエルでのエスペラント公用語というのは全くの捏造。完全な捏造。
論理的、あるいは証拠を言うまでもない。
それはヘブライ語というアイデンティティがユダヤ人間で存在するからだ。

エスペラントは歴史的捏造をせず、ヘブライ語を手本にどうすれば成功するか
それを考えることだな。まあカメリオ連中が死ぬまで無理だろうがな

143胡人:2008/03/29(土) 06:01:19
ものの見方は、それぞれですね(^^)V

なかなかお若い方の様ですね。もっと様々な本をお読みなった方が視野がより広くなると思います。

私は様々な立場のイスラエル人達とも実際にいろいろ話した経験があります。

144KamelioJapana:2008/03/29(土) 18:14:48
>>143
Jes, vi pravas.

Ju pli junagxa
li estus
Des pli malsagxa
li restus

Kaj mi opinias ankaux:

Kiu restas malgxentila
Tiu bojas senutila

145松戸彩苑:2008/03/30(日) 10:54:10
>>121 で KamelioJapana さんは

> Eが試される世界史における歴史的場面では立派にその役割を果たしてきました。

と書いておられますが、私はエスペラントが「世界史における歴史的場面」で使われたとい
う話は聞いたことがありません。
具体的には、どんなことを指しているのでしょうか?
---

また >>134 で胡人さんは

> 欧州の人にとってもエスペラントは充分難しいようです。エスペラントクラブは数多くあって
> も上手に話せるエスペランチストは案外すくない様です。結構真剣に勉強しなければモノ
> に出来ない様でス。その面では、案外私達日本人と五十歩二百歩くらいじゃないでしょう
> か?

と書いておられますが、これはエスペランティストがいつも言ってる「エスペラントは学習容
易な言葉だ」という宣伝文句とはまったく違いますよね。
---

で、これらの2つの言葉を組み合わせますと

  エスペラントは欧米の人たちにとっても充分に難しく、上手に話せる人は案外少ないのだ
  が、世界史における歴史的場面では立派にその役割を果たしてきた。

ということになるんですが、なんだかおかしくありませんか?

(もちろん一方は KamelioJapana さんの意見であり、もう一方は胡人さんの書いたものなん
ですが、>>128>>135 を見ますとほぼ同意見のようですので、一緒に論じても差し支え
ないと判断しました)

可能性として考えられるのは「上手に話せる人は案外少ないが、その少数の上手な人たち
がエスペラントで成果を上げてきた」ということですが、そうすると、それは英語などとあんま
り変わらないという事にはなりませんか?
---

ということで、お2人の話をうかがっていますと、どうもいろんな疑問がわいてくるんですね。

エスペラントをまったく知らない世間の人たちが読んだとしても、このように理論的に説明す
ることは出来ないでしょうが、やはり何となくおかしいと感じるのではないでしょうか。

(終わり)

146Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/03/31(月) 12:57:43
Kamelioさん胡人さん、松戸彩苑さんに答えてあげてくださ〜い。

147胡人:2008/03/31(月) 17:09:46
> Eが試される世界史における歴史的場面では立派にその役割を果たしてきました。
と書いておられますが、私はエスペラントが「世界史における歴史的場面」で使われたとい
う話は聞いたことがありません。具体的には、どんなことを指しているのでしょうか?

 すみません、私は詳細はわかりません。ただ、

 新渡戸稲造が国際連合事務局次長の頃、エスペラント語の言語としての能力を実際に体験し国際連合における公用語として採用しようとしたとされたという事、また前のEU議会で、エスペラントの公用語採用は残念ながら否決されましたが、近年になく接戦になり現実に可能性が出てきた事は知っています。そのEU公用語については一部で結構なニュースとして流され、まったくエスペラントをしていない方から、それについて聞かれた体験を今年しました・・・
 その他、現在の国連会議においてエスペラントの採用について、様々な委員会で、代表者の発言があったりもします。それが歴史的というかどうかは・・・

また >>134 で胡人さんは

> 欧州の人にとってもエスペラントは充分難しいようです。エスペラントクラブは数多くあって
> も上手に話せるエスペランチストは案外すくない様です。結構真剣に勉強しなければモノ
> に出来ない様でス。その面では、案外私達日本人と五十歩二百歩くらいじゃないでしょう
> か?

> と書いておられますが、これはエスペランティストがいつも言ってる「エスペラントは学習容易な言葉だ」という宣伝文句とはまったく違いますよね。

 学習は、比較的容易だと思いますが、やはり語学ですから結構真剣にしないとモノにはならないと私は正直思います。ただ、日常会話程度なら案外簡単に出来ると自分の体験からして思います。また学習歴3ヶ月〜半年の何人かの初心者が、海外でのエスペラント大会、セミナー等に実際に参加して、それなりの成果をあげています。

 私達のグループでは、「比較的簡単だけど、所詮言語なので、それなりに集中しなければモノにならない。」といつも入門者にお話しています。ただ、海外のエスペランチストとの交流は、辞書さえもてば、すぐにでも出来ますし、安価な海外旅行もヤル気にさえなれば案外簡単に出来ることも伝えますし、要望があれば手伝います。

 また、前記のポーランド人の事に関していえば、その地から来日したエスペランチスト初心者が、日本で約2週間学習をした後、すっかり先生級のエスペランチストになった事をお伝えします。要は集中して学ぶ事なのかなぁとその時思いました。現地ではエスペラントをサカナに楽しいサークル活動という雰囲気の様でした。

 ノーベル賞受賞経済学者のゼルテン博士は、その経済的側面から、ポーランド、ドイツでの小学生への実験から、エスペラントは英語とくらべて約三分の一〜四分の一の学習時間で習得でき、また、初めにエスペラントをある一定期間学んでから英語を学んだ生徒の成績と、初めから英語を学んだ生徒の英語(エスペラントの学習時間分も英語を学習)の成績を比べるとエスペラントを初めに学んだ生徒の方が成績が総じて上回ったということから、民族語よりも先にエスペラントを学ぶ方が言語そのものに関して掴みやすいと講演しておられました。

148胡人:2008/03/31(月) 19:29:36
訂正
> 国際連合⇒国際連盟

149KamelioJapana:2008/03/31(月) 21:24:21
胡人さんの補足です。

>可能性として考えられるのは「上手に話せる人は案外少ないが、その少数の上手な人たち
がエスペラントで成果を上げてきた」ということですが、そうすると、それは英語などとあんま
り変わらないという事にはなりませんか?

「英語と変わりないという事」どういう意味かが良く分かりませんが。。。

世界中で英語を学んだ人の数(しかも殆どの人は3年から6年間の義務教育として)とEを学んだ人
の数(しかも多くの人がその存在すらも知らず、そして学習者のかなりの人は独学で)を比べて
みてください。恐らく4桁くらいの違いになるのではないかな。

そのギャップにも関わらず英語と同じくらいの時間と労力(しかも、英語の様に親切丁寧な教材に
恵まれている訳でもなく)でEを学習した人の言語力の到達度を比較して考えてみてください。
尤も数理統計的な資料が手許に無いので想像でしかないのですが、少なくとも自分自身に照らし
合わせる(英語学習に費やした時間)とEの圧倒的優位性に十分確信が持てる結果を引き出せます。

そして、学習人口が他の有力な民族言語に比べて圧倒的に少ないにも拘らず、近年、UKと並んで
毎年開催される新渡戸シンポジュームや最近の欧州における様々な言語に関する会議や研究・討論
またはそれらの発表会等では、共に使用される民族語と並んで、殆ど引けを取らない同時通訳者や
翻訳者を擁しています。

150松戸彩苑:2008/04/03(木) 04:57:47
みなさん、書き込みありがとうございます。

しかし、どうも話がかみ合わないなと思って、いろいろと考えてて気がついたんですが、「エ
スペラント運動は今のままで良い」と考えておられる方というのは、英語とエスペラントを単
純比較して、使いやすさという点では英語よりもマシだから問題ない、みたいな発想をして
るんですね。

私の場合はまったく違います。
私の考えでは、エスペラントというのは最初っから合理的に作られているんだから、英語よ
りも使いやすいのは「当たり前」なんですね。
ですから、そんなところで満足してたのでは仕方がないと思うんですね。
(話者の数も、4ケタくらいは違うわけですしね)

私の場合はむしろ、学習容易であるはずなのに、現実には学習途中でやめてしまう人や
eterna komencanto になってしまう人があまりにも多いというのは根本的におかしいではな
いかと思ってるんですね。
私の問題意識はそういうところにあります。

もちろん、学習者の100%がエスペラントに習熟するなどということは実現できないでしょう
が、しかし少なくとも学習者の半数が本人の好きなことにエスペラントを役立てられるように
ならなければ「成功」とは言えないと思ってるんですね。

エスペラントは英語とは違って希望者だけが勉強するわけですし、また私の見るかぎりでは、
世間の平均よりも学歴も高いと思います。
そういう人たちが学習しているのにも関わらず、挫折する人や eterna komencanto が多い
というのは大問題なのであって、「英語よりマシだから…」などと言って済ましていられるも
のではないと思うのです。

みなさんの意見をうかがっていますと、学習途中で挫折した人や eterna komencanto のこ
とをすっかり忘れて「うまく行ってるんだ」と主張しているようにしか見えないので、それには
断固として反対しなければならないと思ったわけです。
---

で、私が >>145 みたいなことを書いたのには理由があります。

私の見るところでは、どうもエスペランティストは、問題だらけの現在のエスペラント運動の
ありかたを正当化するために「その場しのぎの言いわけ」みたいなものをたくさん作りだして
るようにしか見えないんですね。

これらの「言いわけ」というのは、ある特定の問題を説明するのには成功しているように見
えるんですが、しかしそういったものをつなぎ合わせますと、やっぱりツジツマが合わない
んですね。

この手の「言いわけ」めいた理論というのは

(1) 現在のエスペラント運動の問題を隠蔽し、真の問題解決の妨げになる。

(2) エスペラントをやってない人たちに「うさん臭さ」を感じさせる。

というものであって、百害あって一利なしだと思うのです。

まぁ厳密にいえば、この手の理論には「エスペランティストの精神衛生に良い」という一利
だけは確実にあるんですが、しかし、こんな理屈はエスペラント運動について真剣に考え
るうえで邪魔にしかなりませんから、ちょうど「アヘン」みたいなものなんですね。

151松戸彩苑:2008/04/03(木) 04:58:45
>>150 の続き)

私は思うんですが、エスペラント界に長くいますと「学習容易なはずなのに、学習途中で挫
折する人や eterna komencanto がたくさんいる」とか「理念を前面に押し出して宣伝してい
るのに、革新派の人たちでさえエスペラントを一顧だにしない」といったことに慣れてしまっ
て(というか鈍感になって)、疑問に思わなくなってしまうみたいなんですね。

しかし言うまでもなく、これは決定的にまずいんですね。
これでは、世間の人たちと話がかみ合うわけがありません。
一生けんめい話せば話すほど、世間の人たちから「ものすごい洗脳を受けてしまってるんじ
ゃないか」などと思われてしまったりするんですね。

私はこういったことを徹底的に考えていますから、この手の誤解を受けたことはありません。
(もっとも、よほど親しい人にしかエスペラントの話はしないんですが)

ということで「エスペラント界の常識」みたいなものを無批判に受け入れてしまえば考える必
要が無くなってとっても楽なのは事実なんですが、しかしそれは袋小路なんだと思いますね。

(終わり)

152松戸彩苑:2008/04/03(木) 05:32:28
それから「エスペラントを身につけられない人がいるのは、学習する時間が取れないから
だ」って意見がありますね。

まぁ、それは確かにあるでしょうが、しかしエスペラントが学校で広く教えられるようになる
のは、エスペラントの有用性が広く世間に認められてからの事になりますので、当分の間
はそういうふうにはならないわけです。

ですから、このハンディマッチを学習容易性でカバーできなければダメなんですね。
私が「好きなことをやるべきだ」「娯楽を利用すべきだ」と言っているのは、こういったことを
考えているからです。

153胡人:2008/04/03(木) 08:59:18
> ですから、このハンディマッチを学習容易性でカバーできなければダメなんですね。
私が「好きなことをやるべきだ」「娯楽を利用すべきだ」と言っているのは、こういったことを
考えているからです。

松戸さまの上のご意見に、私もほぼ同感です。
ただ、自身の経験上、日常会話の単語等の不足と混乱に原因があるとは思っていないということです。

ただ世界で一番外国語を学ばないのは米国人と言われるように、欧州、日本等、先進国と言われてきた国々は、外国語を学ぶことによる、楽しみも含めた個人的利益があまりなく、情報も含めてほとんど、その母国語で謳歌する事ができる環境を、現在は持っていると思うのです。

自然、まだまだ情報を含めてその環境に無い国々が多い、東欧、アジア、南米、アフリカで、エスペラントの普及活動が元気なのだと思います。

日本等先進国と言われて来た国々では、そのため、一般メディアにのりにくい情報(アングラ情報的な、少数意見的な)が、得意分野としてエスペラント活用の道を保持でき得るとも、私は思うのです。だから一部その使用者の中には、アングラ言語としてのエスペラントに期待している方も存在するようです。

私はそれが良いとは思っていません!だから、昨年RO誌上での、一部偏った様に思える特集に対して怒りを持ったのです。
エスペラントを使用しての思想信条の表明、宗教活動は自由ですし、良いことでもありますが、公の立場としてのエスペラントを失くしてしまっては、その道具としての特性が失われる危険があると思うのです。

あくまで、あらゆる方面に対して間口を広く開けておかねば、エスペラントを使用する希望がもてないと思うわけです。
それ故、現在は様々な問題があろうと、EUでの公用語化に期待し応援するのです。それがひいてはエスペラント自身の特性をより拡大して、あらゆる面において好循環に結び付くと思うからです。

154松戸彩苑:2008/04/05(土) 12:08:20
>>153
> 現在は様々な問題があろうと、EUでの公用語化に期待し応援するのです。

エスペラントをやっていない知り合いに対して「エスペラントをEUの公用語に採用してもら
うべく運動をしてるんですよ」って言ってみて、相手がどういう反応をするか見てみると良い
と思います。

「ああ、それは良いアイディアですね」と言ってくれれば良いんですが、たぶん、そうは言わ
ないと思います。

要するに、世間の人たちは、そういうことが実現するとは思っていないから、革新派の人た
ちでさえエスペラントを支持してくれないのです。
そしてエスペランティストは、そういうことを信じているから、エスペラントをやってるというわ
けです。

世間の人たちから見れば、古代エジプト語よりも見聞きすることが少ないエスペラントを、ど
うして国際共通語にできると信じていられるのかまったく判らないでしょうし、それゆえに、
ものすごい洗脳を受けてるんじゃないかと思ったりするわけですが、理由はものすごく単純
なんですね。

私の場合は、今の状態では、エスペランティストたちが働きかけたくらいではEUに採用され
たりはしないと思っています。
ですから、娯楽などを使ってでも、多少なりともエスペラントが使える人間を増やすというこ
とを提案しているわけです。
---

>>149
> そして、学習人口が他の有力な民族言語に比べて圧倒的に少ないにも拘らず、近年、
> UKと並んで毎年開催される新渡戸シンポジュームや最近の欧州における様々な言語に
> 関する会議や研究・討論またはそれらの発表会等では、共に使用される民族語と並ん
> で、殆ど引けを取らない同時通訳者や翻訳者を擁しています。

たしかに、これはすごいことだと思います。
しかし、だからといって「語彙・表現の問題は無い」ということにはならないと思うんですね。

考えてみればエスペラント界というのは「言語問題に関心のある人間の集まり」なんですね。
そういう人間が集まっているところだから、言語問題を語るのに必要な語彙・表現もそろっ
てるわけです。
また、言語問題を語るのに必要な語彙・表現というのは「術語」のたぐいであって、国際的
に整備されてるものですから、エスペラント化するのもそれほど困難ではなかったんだろう
と思いますね。

しかし、たとえばスポーツ用語なんかを見てみますと、かなりあやしくなるわけです。
私は以前「引き分け」に相当するエスペラント訳語がまちまちだということを論じたことがあ
りますが(↓)

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160642811/173-175

こういうのを見ていますと、やっぱりエスペランティストというのはスポーツに関心のない人
が多いんだろうなぁって思いますね。

それでもこのくらいならまだマシなんですが、エスペラントでは「鈍行列車」にあたる表現が
どうもはっきりしていないというのは、やはり問題だと思うんですね。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160642811/107-109

21世紀に入ってるのに、いまだに「鈍行列車」にあたる表現がはっきりしないなんてのは、
一体どこの発展途上国の言葉なんだ!って感じがしますね。

だいたいエスペラント界では、エスペラントを使った海外旅行が奨励されてるわけですから、
「鈍行列車」という表現だって必要不可欠だと思うんですね。

断わっておきますと、「引き分け」とか「鈍行列車」に相当するエス訳語を1つに絞るべきだ
と言ってるわけではないんですね。
術語の場合は1つに決める必要があるでしょうが、それ以外の概念については複数あって
も構わないんですね。

しかし複数あっても良いんですが、どの表現であっても「間違いなく通じる」というふうになっ
てないとまずいだろうと考えるわけです。
で、どうみても現在はそうなってないようなので、それはまずいだろうと言ってるわけです。

155胡人:2008/04/06(日) 07:49:11
 松戸さまとはやはり平行線の様ですね(^^)

> エスペラントをやっていない知り合いに対して「エスペラントをEUの公用語に採用してもらうべく運動をしてるんですよ」って言ってみて・・・

 「もしかしたら、エスペラントはEUの公用語になるかもしれないんですよ。」と最近、国際交流のフェスティヴァル等で、私は訪問される方々に言っています。自分が運動しているわけではないので、おこがましくて運動しているとはいえませんから(^^)

 それを聞いた方々の反応は良いです。正直一番感心を引くフレーズです。
 わが地方ではジャイカとか、各国国際友好団体とかも、エスペラントは認知していますし好意的に感じてくれています。時々は、他の国際友好団体とも共同で、海外からのお客様を歓迎する集い等の行事を開きますし、グループの幾人かはその様な団体に所属もしています。その様な方々は少なくとも夢物語とは受取っていません。

 以前、書いた様に、それを聞いていた人から、最近のEUでの公用語問題についてのニュースを聞いたのです。エスペラントを全然していない方からです。

> 鈍行列車

 それ自体大変日本文化に溢れた表現に思われます。そのまま文学的に表現するためには、各々のセンスの問題になりますね。日本人向けにはその表現は必要でしょうが、海外への翻訳的にはどの様に表現するかはなかなか難しい問題です。日本人同士には別に翻訳する必要もありませんが・・・
 しかし一般的に海外もしくは世界中の方々と同時に話し合う際には、その様な表現は必要自体ないと思います。日本語的に言うと、普通列車、各駅停車列車とすれば表現すれば良いわけですよね?国によっては全ての列車がその様な列車という事もあります。そのため急行列車、特急列車という表現があるのだと思います。

156松戸彩苑:2008/04/06(日) 11:37:05
>>155
> それを聞いた方々の反応は良いです。正直一番感心を引くフレーズです。

それは意外ですね。

エスペラントがかなりのていど認められているから、そういう反応が返ってくるのでしょうが、
一体どのような活動をされているのか興味がありますね。

そういうエスペラントに理解のある団体の活動にエスペラントを役立てることが出来れば、
エスペラントの有用性を確実に認めてもらえるんですよね。

たとえば、UEAやJEIはユネスコと関係があるわけですが、エスペラントを使ってユネスコの
活動に協力することが出来れば、ユネスコ内部にエスペラントを支持する人が増えると思う
んですね。

しかし実際には、エスペランティストも、本業のあいまにエスペラントの活動をやるというの
で手一杯で、そこまで手が回らないというのが実態なんでしょうね。
---

いちおう言っておきますが(すでに何度も書いたと思うんですが)、私だって、現在のエスペ
ラントでも、かなりのていど役に立つということは知っています。
エスペラントの書籍・雑誌なども読んでおりますし、エスペラントによる講演なども聞いたこと
があります。

しかし、エスペラントの行く末をまじめに考えるというのであれば、現状に満足しきってしまう
のではなく、あえて厳しく考えないといけないと思うんですね。

私がエスペラント界を見ていて呆れるのは、エスペラント界に長くいる人ほど楽天的である
(ようにしか見えない)ということなんですね。
どんな団体であっても、上のほうの人間というのは、自分たちの活動に問題がないか厳しく
チェックしているものだと思うんですが、エスペラント界はそうじゃないんですね。

欧米においてエスペラント運動が落ち目になってるというのに、どうしてこうも緊張感が無い
のか不思議でならないんですが、そういうのを見てますと、これまでうまく行かなかったのも
当然だよなって思いますし、また今のままでは今後もうまく行くことは無いだろうとも思うん
ですね。

たとえば、今から20年前の1988年にも「われわれの運動は間違っていない」「もう少しで
世間に認められるんだ」みたいなことを言ってたんだろうと思いますが、20年たった現在で
も、あいかわらず世間に認められていませんし、欧米においては運動が衰退しているわけ
です。

で、今までやってきたことを今からさらに20年やったとしても、2028年には欧米の運動が
さらに衰退してるだろうと予想されますし、英語を頂点とした多言語主義の進展や、翻訳機
械の進歩・普及によって、アジア・アフリカの運動も停滞あるいは落ち込む可能性があるわ
けなんですね。

まぁ、実際にはこうはならないかもしれませんが、しかしこの程度のことは十二分に予想で
きるわけです。
しかし、エスペラント運動の先頭に立っている人たちの意見を聞いていますと、これまでの
失敗から目をそむけて、希望的観測ばかりを語ってるようにしか見えないんですね。

これではうまく行くはずがないと思いましたので、ここの提示板で、あえて厳しいことを言っ
てるわけです。

(終わり)

157松戸彩苑:2008/04/06(日) 13:42:20
そういえば『Cxu Esperanto postvivos la jaron 2045?』という本を書かれた Tazio Carle-
varo という方がいますが、Wikipedia によりますと、エスペラントをやめてしまったそうです。

http://eo.wikipedia.org/wiki/Tazio_Carlevaro には

  Jam delonge li kabeis, (後略)

と書いてありますし、また

  Li estis tre aktiva esperantisto (後略)

というように、本人はまだご存命なのに過去形(estis)で書いてあります。

このように、40年ものあいだエスペラントのために働いてきた優秀なエスペランティストで
さえも、『Cxu Esperanto postvivos la jaron 2045?』のような本を残して、エスペラントをやめ
てるんですね。

こういうのを見ても、やはりエスペラント運動が危機をむかえているということを痛感せずに
はいられません。

エスペラントの行く末について考えられるような人は、エスペラントの未来に絶望して、やめ
てしまうんですかね?
で、そういうことが考えられない人ばかりが残ってるのですかね?

そうでないことを期待したいものですが。

158松戸彩苑:2008/04/06(日) 17:05:01
このほかにも Internacia Televido 程度のものが(経済的な理由から)維持できない、とい
ったこともあるわけです。
これも、エスペラント運動というものが、エスペランティストの想像している以上に弱体化し
ている証拠の一つだと、私は思いますね。

それから、最近UEAのサイトを見ましたら「UEAの会員数で、日本が1位になった」ってこと
が書いてあるんですね。

http://www.uea.org/dokumentoj/komunikoj/gk.php?no=284

この、エスペラントというものが世間ではほとんど知られていない日本が「世界一」だという
んですが、ずいぶんと心細い世界一だと思いますね。

もちろん、日本よりも人口が少ないのにUEA会員はけっこういる(つまり、人口比に直すと
日本よりも会員数が多い)という国も無いわけではないんですが、それでも計算してみま
すと、日本の10倍もいるってわけではないんですね。

こういったことを考えていきますと、とてもじゃありませんが楽観的にはなれないんですね。
どうして「今までのやり方で大丈夫」だと思えるのか、不思議でなりません。

159ベダウリンデ:2008/04/06(日) 17:23:08
思うんですが、今現在エスペラントの会に入って、楽しく活動してる人は、
それだけで満足なはずだから、問題意識なんて出てこないのが、むしろ当然だと思います。
新人なんて入っても入らなくてもいい、自分が死ぬまでこの楽しい会が存続していてくれれば、それで本望。
そう思っていても、全く普通のことで、責められません。

私はネットでしかエスペラントの事を知らないですが、語彙や文法の不安定さは、多くの人が感じている風です。
でも、必ず「そのうちいつか決まるさ」で終わります。
今が楽しければ、文句を付ける必要なんて全く無いですから、それでいいのです。

逆に私は会に入らないで単独でやっているので、非常に不安です。
一つは、語彙の曖昧さです。巷の記事では、辞書すら間違っているとの事で、
初学者は何を信頼したらいいか、不安です。
辞書の記述を信じてきたのに、ある時それが間違いだと分かったら、ショックのあまり投げ出してしまうかも。

もう一つは、メディア的楽しみが少なすぎて、いつか飽きてしまうのではないか、ということも不安です。
民族語なら、映画やドラマを見たり、歌を集めたり、会に入らなくたって学習の励みになる事が沢山ある。
海外旅行だって、民族語をやれば、一人で行ける。
エスペラントは、その国のエスペランチストに付き添ってもらう、というのが前提。
一人や気心の知れた仲間で、見ず知らずの国で自分達で試行錯誤しながら行動する、という楽しい体験は
エスペラントだけやっていたのでは得られない。ツアーガイドの下での安心旅行しかできない。

160松戸彩苑:2008/04/06(日) 18:31:48
>>159
> 巷の記事では、辞書すら間違っているとの事で

「辞書すら間違っている」なんていう「巷の記事」が、そんなにありますかね?
私の書いたもの以外には、そんなに無いと思うんですが。

>>156 でも書いたように、現在のエスペラントでもかなりの表現力を持ってはいるんですよ。
私が書いているのは、それを認めたうえでの話です。
私が指摘している問題というのも、エスペラント全体から見れば、ごく一部に過ぎないわけ
ですね。

ですから私は、すでに上達している人にはよくよく考えていただきたいと思っている一方で、
初心者はあまり心配する必要はないと思ってるんですが、実際には、それとは正反対のこ
とになってしまってるみたいなので、本当に困ってるんですよね。

161胡人:2008/04/06(日) 23:11:46
> 最近UEAのサイトを見ましたら「UEAの会員数で、日本が1位になった」ってこと
が書いてあるんですね。

世界大会が日本で開催された関係で1位になったのだと推測します。世界大会への参加費はUEAの会員獲得の手段として会員価格が安く設定されているからです。今年だけの事と思います。

162松戸彩苑:2008/04/08(火) 03:51:30
>>161
たしかにそうでしたね。
この部分(>>158 の後半)は撤回させていただきます。

163松戸彩苑:2008/04/08(火) 04:08:48
D・クリスタル(著)『消滅する言語』(中公新書1774 中央公論新社 2004年)という本
のなかに、エスペラントに言及した箇所がありますので、これを引用してみようと思います。

  言語の数が減ることは、人類にとっての利益であって悲劇ではないという、広く支持さ
  れている ― だが、誤った ― 信仰がある。いく通りかの考え方がこれを支えている。
  そのひとつは、聖書のバベル神話をはじめとするいくつかの神話に見られる伝統的な
  考え方である。世界の言語の多様化は人類に科された罰であり、その逆のことが起こ
  れば、もとの全き姿を回復することができるというものだ。この見方によれば、理想的な
  世界ではただ一つの言語のみが存在し、それが相互理解と啓発と平和を保障すること
  になる。世界の言語の数が減るということは、つまりこの目標に近づくのを可能にする
  ことであり、したがって望ましいこととされる。

  この見方には二つの大きな問題がある。第一に、単一の言語を話すことが相互理解や
  平和、新たな国際協調と結束を保障するという発想はあまりにも短絡的にすぎる。これ
  に反する例はあまりにも多く、枚挙にいとまがない。わかりやすい例を挙げよう。世界の
  主な単一言語国家はすべて内戦を経験しており、二〇世紀最後の数十年に戦争が起
  こった地域を見れば、その多くが主に単一言語の国々 ― ベトナム、カンボジア、ルワ
  ンダ、ブルンジ(とくに後の二つは、多言語使用状況がないということでアフリカでは例
  外的である)― であるという驚くべき事実がある。つまり、どの言語にせよ、単一の言
  語を皆が話せば平和になるというのは、まったくの神話にすぎない。英語、エスペラン
  ト語、あるいはほかのどの言語が最終的に世界共通語となったとしても、野心や敵意を
  生む我欲を排除できるとは考えにくい ― 想像上単一の言語のみを使用していたとされ
  るバベルの塔以前の時代においても状況は同じであったろう。

  (同書40〜41ページ)

また、D・クリスタル(著)『地球語としての英語』(みすず書房 1999年)のなかにも、ほぼ
同趣旨のことが書いてあります。

  地球言語の出現がもたらすであろうプラスは大きい。でもそれがもたらしかねない危険
  性について指摘している論者もいる。地球言語は自己満足的で他言語に対し否定的な
  考え方をもつ、単一言語のエリート集団の誕生を助長しうる。そのような地球言語を押
  さえている人々 ― とくにそれが母語である場合 ― はそのことばで考え仕事をしてい
  くことが容易なままに、自らの利益をはかるべく策動し、そうでない人々を犠牲にし、言
  語の袖に隠れては富者と貧者との乖離を固定化しようと努めるだろう。地球言語の存
  在は、母語以外のことばを習得することに怠惰で、その機会を減らすことに熱心な人々
  を生みだすだろう。地球言語の存在は、少数言語の消滅を促進し、究極的な脅威であ
  る、それ以外のいっさいの言語を無用の長物たらしめよう。「他者と話し合うには一つの
  言語で足りるので」という論議も聞かれる。「だから世界言語がひとたびその地位に就く
  や、他の言語は死に絶えるだけ」というわけである。この事態と結びつくのは、言語的
  弱肉強食という何ともいただけない死である。つまり自分のことばの勝利を、他者の敗
  北と引きかえに祝う、という状況が到来しうる危険性である。

164松戸彩苑:2008/04/08(火) 04:09:47
>>163 の続き)

  これらの危険性に正面から向い合い、それが広く存在していることに気がつくのは重要
  である。英語を母語とする人々の中で、言語面での進化論的な見方の信奉者は決して
  払底してはいない。世の中は適者生存なので、もし英語が適者であるとするなら、それ
  でもいいではないかとか、英語が今日占める世界的地位を「幸運な偶然」と呼ぶような
  人々がこれである。言語学習をはなから時間の浪費と決めつける向きも少なくない。ま
  た世界がたった一つの言語で成り立つのはよいことだとする見方に何ら奇異なものを
  感じようとしない人々はもっと多い。これらの中には、このような世界は統一と平和のそ
  れであり、すべての誤解は洗い去られる、とする人々も含まれる。現にエスペラント〔ポ
  ーランドの眼科医ザメンホフは、一八八七年ロシア語で「エスペラント博士による国際
  的言語」を発表。その筆名が彼の創案した国際語の名称となる。〕のような、普遍的な
  人工言語を支持する運動にあっては、これは広く信奉された見方である。また、単一
  言語論者の中には、このような世界こそ、人間がバベルの塔を経験する以前の、純一
  無垢の時代への好ましい回帰であるとする向きもある。

  この種の懸念があまりにも思弁的にすぎ、確たる証拠に欠ける以上、それの軽減ない
  しは除去のために何か打つ手があるかどうかを見極めるのは難しい。が、さいごの点だ
  けは容易に退けることができる。ある地域社会が単一の共通言語を使うといって直ち
  に社会の調和や相互の理解を保証するとは限らぬ、という点がこれで、アメリカの南北
  戦争やスペイン内戦、ベトナム戦争や、ユーゴスラビア、現在の北アイルランドなど実
  例にはこと欠かない。逆に、地域社会の中に複数の言語が存在するからといって対立
  抗争が必ず招来されるわけではなく、現にフィンランド、シンガポール、スイスなどに見
  られるように、複数言語の平和共存の成功例もいくつか実在する。

  (同書22〜24ページ)

これを読みますと、どうやらクリスタル氏は「エスペラント運動というのは、民族語を全廃す
ることを目標としているもの」だと思ってるみたいなんですね。

また、そのような誤解が生じるのは「バベルの塔」の話をするからではないかという予感も
してくるわけですね。
今はどうなのか知りませんが、かつて欧米においてエスペラントの話をする際に「バベルの
塔」の話を持ちだすことがあったみたいなんですが、これが世間の人たちに「民族語を全
廃して、エスペラントのみを使うようにする」と主張していると誤解される原因になってるの
ではないかと思います。
ということで、「バベルの塔」の話は誤解をまねく比喩なので、使わないほうが良さそうだと
いうことになりそうです。
(もっとも日本では、聖書になじみが無いせいか、エスペラントを宣伝する際に「バベルの
塔」の話を持ちだすことはほとんど無いんですが)

それから、エスペランティストたちは「世界平和のためにエスペラントを」と主張してきました
が、クリスタル氏は「言葉が統一されれば平和になるというわけではない」と批判している
わけです。
ですから、これまで「世界平和のためにエスペラントを」と主張してきた人たちは、これに対
して何らかの反論をすべきだと思いますね。

私の場合は「理念や理論を前面に出した宣伝は効果が無いのでやめよう」と主張しており
ますので、反論する義務はないわけです。

165松戸彩苑:2008/04/08(火) 04:13:29
>>164 の続き)

黒田龍之助(著)『にぎやかな外国語の世界』(白水社 2007年)という本のなかにも、エ
スペラントについて論じた文章がありましたので、これも見てみましょう。

    国際共通語という夢

  「エスペラント」というのを、聞いたことがありますか。

  エスペラントはポーランドの眼科医であるザメンホフという人が1887年に発表した人工
  言語です。人工言語というと、なんだかコンピュータみたいな気がしますが、そうではな
  く、人間の言語と同じ発想で創られた、国際共通語なのです。ちなみにエスペラントとい
  うのは、「希望する人」という意味だそうです。

  国際共通語を目指して作られた人工言語は、エスペラントだけではありません。他にも
  ヴォラピュクとかイドなど、いろいろとあるのですが、その中でもいちばん成功している、
  つまり、普及しているのがエスペラントです。

  エスペラントのような人工言語の利点は、誰にとっても平等であることだといわれていま
  す。人工言語が母語という人はいないわけですから、誰もが勉強してこれを使うという
  条件は同じだからです。たとえば英語が国際共通語として使われるようになると、英語
  を母語とする人がどうしても有利になってしまいますが、そういう不公平がありません。

  みんなに平等なエスペラントは、国際的な場面でのコミュニケーションに役立つことを目
  指しています。そのため、エスペラントの普及活動が世界中でおこなわれています。

  またエスペラントは、みんなが覚えやすいようにやさしく創られています。文法の基本規
  則はたった16で、しかも例外が一切ありません。文字もラテン文字だし、勉強するのが
  とても楽だといわれています。

  でも、わたし個人としては、残念ながらエスペラントにあまり興味が持てません。

  まず、やさしいといわれていますが、あまりそういう気がしないのです。語彙はヨーロッパ
  の諸言語が基本です。たとえば数字「1、2、3」はエスペラントで「ウヌ、ドゥ、トゥリ」とい
  い、スペイン語やイタリア語によく似ています。他の語彙もそうで、英語やフランス語など
  をすでに知っている人にはいいかもしれませんが、そうでなければ覚える手間は同じで
  はないでしょうか。それに、これはわたしが素直でないからかも知れませんが、例外が
  ない文法なんて、なんだかつまらないのです。

  みんなに平等という発想は立派です。でも国際共通語1つだけでみんながコミュニケー
  ションできる世の中は、果たして幸せなんでしょうか。少なくとも、にぎやかな外国語の
  世界を目指すわたしにとっては、英語だろうとエスペラントだろうと、たった1つの言語の
  世界はやっぱりつまらないのです。

  エスペラントの普及を目指している人は、立派な目的をもってやっているので、それを否
  定するつもりはありません。世の中にはいろいろな考え方がありますからね。つまらない
  というのは、あくまでわたしの個人的な意見です。

  (同書156〜157ページ)

黒田氏というのは、大学でロシア語を勉強して通訳になった方であり、またロシア語以外
にも数多くの言語を勉強している方なんですね。
それで、ロシア語やその他のスラブ諸語に関する教科書を出す一方で、「マイナーな言語
をもっと楽しく勉強しようよ」といった趣旨の本も何冊か出しておられるんですね。
そういう人がエスペラントに関心が持てないというのは、ちょっと残念ですね。

また、黒田氏のような人でさえも「エスペラントはヨーロッパ語」という程度の認識だという
ことも判りますね。
まぁ、エスペラントの使いやすさというのは、部外者の方にはなかなか判っていただけない
ものだと思うんですが、たとえば forgesi と ema をくっつけて forgesema(忘れっぽい)が
でき、これに iĝi をつけると forgesemiĝi (忘れっぽくなる)が出来る、みたいなことを説明
すれば、少しは判っていただけるのかもしれませんね。
つまり「たしかに単語はヨーロッパ語に由来しているんだが、しかし、それを自由に使って
文章を書いたり、造語をしたりすることが出来るので、欧米語を母語としない人たちにとっ
ても、民族語を使うのよりもずっと楽なんだ」ということを具体的な例をあげて説明するとい
うことですね。

166松戸彩苑:2008/04/08(火) 04:28:42
>>165 の続き)

また、この文章から「たとえ目的が立派だったとしても、支持してもらえるとは限らない」とい
うことも理解することが出来ますね。
---

こういった文章を読んでいますと、どうやら言語学のプロたちが理想としているのは「多言
語主義」であり、そしてエスペラントというのは、この「多言語主義」に反するものだと考え
られてるみたいなんですね。

かんたんに言ってしまえば、エスペランティストは

  小言語を滅亡に導いているのは、英語(やフランス語・ロシア語・中国語・スペイン語と
  いった大民族語)であって、エスペラントが広まれば、こういった小言語を守ることが出
  来るんだ。

と考えてるわけですが、世間の言語学者たちは

  エスペラントが広まれば、英語に代わって小言語を滅ぼすことになるんじゃないか?

って考えてるみたいなんですね。
それでエスペラントは注目されないというわけです。

私の場合は、たとえエスペラントが広まったとしても、(まことに残念ながら)話者の少ない
言語はやっぱり廃れていくんじゃないかと思いますね。
交通や通信といったものが発達すれば、当然「大言語のほうが便利だよね」ということにな
ってきますし、また学習の機会も増えるわけですからね。
ですから、小言語を守る最良の方法は、交通や通信といったものを全廃することだと思うん
ですけど、そんなことをするはずがありませんしね。
---

それからこの他にも、エスペラント運動が誤解される理由があると思うんですね。

それは「理念や理論を論じて勧誘する」という運動のスタイルが、イデオロギーや新興宗教
の勧誘のしかたとそっくりだということです。

それで「あぁ、思想と言葉を一つに統一して、それ以外の思想や言葉を全廃すれば、世界
が平和になるっていう話なんだな」と思ってしまう人が出てくるんだと思いますね。

ですから私は、娯楽を利用することを主張しているわけです。
これならば、イデオロギーや新興宗教と間違えられることはないと思います。

ということで、あんまりまとまりのない論じ方になってしまいましたが、これで終わりとさせて
いただきます。
みなさんも、エスペラントを支持していない人たちのエスペラント観というものを研究すると
宜しいかと思います。

(終わり)

167なつ:2008/04/12(土) 22:47:30
>>166
最後の数行は真理だと思いますね。
すぐ、左翼か否かで終始しますからね。
最大の辞書PIVが自他ともに認める左翼団体から出ていますし。
日本最大のエス-日、日-エス辞書は他称左翼団体から出ています。
平和憲法論議も正直一般庶民にはどうでもいい。
HELが左翼団体かどうか、そのメルマガの学習担当者が左翼かどうかなんて
一般庶民にはどうでもいいんですよ。
エスペラントに娯楽が入ればそういうのはすべて駆逐するでしょう。
スポーツネタもない、お笑いもない。
映画もない。数年前JEIに映像的なものはないかときいたら、南京大虐殺を涙ながらプロパガンダする
中国人エスペランティストのDVDしかありませんでしたね(500円也)。
ペ・ヨンジュン氏(の映画、ドラマ)が好きで韓国語を学んだ人は日本で多いはず。それはエスペラントではまずありません。
下ネタも実はかなり重要ですね。世界一のベストセラー、聖書でも下ネタはでますからね

168なつ:2008/04/12(土) 23:17:13
追記。先日、アニメでエスペラントの歌詞の歌が出ましたが、
あれだけでも、過去十年の普及運動を認知の面で完全に凌駕しているんですよね。

169ベダウリンデ:2008/04/14(月) 16:11:11
>アニメでエスペラントの歌詞の歌が出ましたが、
「ルーミス・エテルネ」って遅ればせながら私も聞いてみました。
素敵な歌ですね。あれを聞いて興味を持った人は、エスペラントって何て素敵な
夢の国の言葉みたいって思うでしょうね。(でも実態見たらドロドロ?)
しかし過去十年で全く変わったのはインターネットの普及ですね。
あの歌聴いた人はネットで素早くエスペラントの事調べたみたいだし、
私が追ってアニメの歌を聴ける、なんてのもネットのおかげなんですよね。
これからのエスペラント界は望む望まないとは別に、どんどん変わっていくかもしれないですね。

170Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/04/14(月) 19:29:14
支援up。確かにこれの洗脳力は過去10年を超えるかも。

Lumis Eterne http://jp.youtube.com/watch?v=uggnwtmxCI0

Vesperrug^o, fluas en ondetoj.
G^i estas kiel la kanto, bela kanto de felic^o.
C^u vi rimarkis birdojn, portanta afableco?
Super la maro flugas, ili flugas kun amo.
Orang^a c^ielo emocias mian spiriton.
Stelo de l'espero, stelo lumis eterne,
Lumis eterne.

夕日が沈み 流れるさざ波
それはまるで無垢な幸せの歌のよう
鳥たちは優しさを運ぶ遣い
海を越え飛ぶよ 愛を風に乗せ
心ふるえる黄昏の空に
永遠(とわ)に輝く希望の星よ
ルーミス エテルネ


アルカ系もついでに
ランティスの子守唄 http://jp.youtube.com/watch?v=ey11xMd99GI
アルミヴァの覚え歌 http://jp.youtube.com/watch?v=AUS7uUZ5RPQ

字幕だけですが最新作
【鏡音リン】ココロ【アルカ字幕】修正版 http://jp.youtube.com/watch?v=lKCPkAYaxg8

171なつ:2008/04/14(月) 22:29:37
>>170
いいですねえ、とてもいい。
エスペラントはその言われている人口に比べてYoutubeに少なすぎる。

で、これ、どなたが歌っているんですか?
ついでに、帝国華撃団もお願いします(ご自身ですか?)。

172Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/04/15(火) 11:29:09
帝国華撃団と幻字の歌はセレン=アルバザード氏(バツイチ)です。
ランティスの子守唄とアルミヴァの覚え歌は、エスタ=アルバザード氏(元妻)です。
鏡音リンとハンマーソングとスマブラは字幕のみです。

エスペラントは少なくともYoutubeに関してはEsperantoで検索すれば海外系の動画はたくさんあります。
ただ、ニコニコ動画へはこのLumis Eterne以外の投稿はなく、進出が遅れている様子です。
つまり、海外ではいまだ動画をupする若者が多少いても、日本には若いユーザーは余りいないということでしょう。

負けず嫌いなので、アルカ訳も作ってみました。

後期制アルカ(2005/12/19〜)訳
dovpar en et ment, tiseev en et ekx.
夕日 が関 也 沈, 小波 が関 也 流.
沈む夕日、流れる小波

tu et yun miks, miks lant e nol.
是 也 如 歌, 歌 美 之 幸
是は歌の如し、幸なる美しき歌

ti atap-a kuto se, al pioan onen nol?
汝 目印とした 鳥 ら, に 運者 をの 幸?
汝は鳥らを目印にしたか、幸せの運び手として?

rak aka kern-i, laso kern-i ok tial.
超 海 飛ぶ, あの人ら 飛ぶ 伴 愛.
海を越え飛ぶ、彼らは愛と共に飛ぶ

jan lisik nand-i seles e an.
空 柑 感情的にす 魂 之 我
橙色の空が我が魂を感情的にす

ifa e lana, ifa en at flip rax teom,
星 之 希望, 星 が関 けり 輝 副詞 永遠,
希望の星、 永遠に輝いた希望の星

en at flip rax teom.
が関 けり 輝 副詞 永遠
永遠に輝いた。

173Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/04/15(火) 11:37:35
ちなみに最近のアルカは国際補助語指向の学習効率のいい言語から、
話しやすく聞きやすい民族語指向に方向性転換して結構大変なことに。
目茶苦茶、女言葉が発展したり、n対語を廃止して雅な語形にしたり、
フランス語っぽいエリジオン・アンシュマンの概念が導入されるとか・・・。

2008年4月10日改訂版新生アルカ訳(女言葉)
cuuf l'et mend, liseev l'ekx.
tu et yun xilem, xilem lant e nil.
tyu atapat kuto se, a pioan e nat?
rak tier kern, lain kern ok tiia.
jan lisik nand seles nono.
liifa e lax, liifa l'at flip rax teom.
l'at flip rax teom.

174ベダウリンデ:2008/05/01(木) 11:11:29
>松戸様
ここ数日「よろず」に出張してベテランさんに説得を試みていらっしゃる様ですが、全く平行線のご様子ですね。
申し訳ないですが、やっぱりなーという感じです。
あちらの方のご意見を私なりにまとめると、「普及」より今のサークル活動が楽しい、という感じみたいですね。
もちろん「個人的見解」と注意書きがありましたが、想像するに、今のベテランさんは大体同じような価値観なんじゃないか、と思います。
他の人達は必ずしも「普及」が目的ではないので、「普及」を第一に考える松戸様とは、根本的に意見が一致しないのだと思います。

ベテランは松戸さんの意見を聞かないのに、初心者の方が却って影響される、と危惧されていっらしゃる様でしたが、
御心配には及びません。なぜなら、私はエスペラントのダメな所も知った上で納得してやりたいからです。
何も知らされず「楽しいよ〜」「簡単だよ〜」「これをやると世界が平和になるんだよ〜」とか言われて、
それを信じてエスペラントやるなんて、まっぴらです。
もしエスペラントの全てがそんな調子だったら、私はエスペラントやめてます。
(よく、初心者にはそこまで話す必要はない、とかいう意見があるけど、ばかにするな、といいたいですよ)

ですから、そうではない意見を言える松戸さんの存在って、意外と有意義ではないか、と思っているのです。
あちらのベテランさんには「全否定」されてる感がありますが、気を落とさないで下さい、と言いたいですね。
これからも、「語彙の不備な点」をどんどん問題提起して頂きたいです。
初心者は「あーそういうとこ、まだ未定なのか、もし使う時があったら気をつけよう」と思います。
むしろ初心者やこれから始めようという人をターゲットにアピールしてみたらどうでしょうね?

175松戸彩苑:2008/05/04(日) 07:43:50
>>174
暖かい励ましのお言葉をかけてくださって、ありがとうございます。

よろず相談室のほうに「好きな事をやるのは良いんですが、でも分析は必要だと思います」
という文章を載せてみたんですが、どうでしょうかね?

http://6607.teacup.com/helesp/bbs/665

176ベダウリンデ:2008/05/05(月) 14:51:30
松戸さんも、「よろず」の管理人さんも、英語ヒエラルキーに風穴を開ける、という目的でエスペラントをやっている、
という点では一致していましたね。(「全否定」は訂正します)
私からすれば、ご両者とも、極めて明確に社会変革の意図を持っている、と言えます。
(私にとっては、世界が英語中心に回っていようと、関係ないです。変革の意図なんてさらさらありません)

社会変革の意図は同じなのに、松戸さんは「分析を」と言い、「よろず」の管理人さんは、今のまま各自で好きな事をやればよい、と。
この点では、私は「よろず」派。誰だって、嫌な事、気のむかない事は強制されたくないですよ。
いくら高尚な理念があっても、所詮「道楽」なんですよね。
戦時中、戦争に反対して、違法扱いされて殺されちゃった人はいた。
しかし、信ずる事のためならば死さえ厭わない、という人はエスペラントにはいないでしょう。
MATの活動には、「著作権法違反になるのが怖くて」参加を躊躇した様子だし。
その程度の道楽なんです。「高尚な理念」でエスペラントやるのも、言語オタクが面白半分でやるのも、同レベルです。
私も同じです。私は言語オタクじゃないけど、エスペラントが面白いからやってます。
みんな道楽なんだから、これをすべきだとか、他人には言えないですよ。

177ベダウリンデ:2008/05/05(月) 15:02:07
「普及」を第一優先し、そのためには「娯楽を」いう松戸さんのご意見と
MATの活動の方向性はぴったり合っています。
オタクアニメが好きなら参加すればいいけど、もしオタクアニメに関心が無かったら、参加する義務はないでしょう。
誰だって、興味関心が無い事を強制されるのは、嫌だと思う。

178松戸彩苑:2008/05/06(火) 01:49:30
> 社会変革の意図は同じなのに、松戸さんは「分析を」と言い、「よろず」の管理人さんは、
> 今のまま各自で好きな事をやればよい、と。
> この点では、私は「よろず」派。誰だって、嫌な事、気のむかない事は強制されたくない
> ですよ。

どうやら、私の言わんとしていることが正しく伝わっていないようですね。
私は

(1) エスペラント界はこれまでさんざん頑張ってきたのに、エスペラントは世間の人たちに
    受け入れられていない。
    それはどうしてなのか本気で考える必要があるし、これは長年エスペラントをやってい
    る人にとっての義務であるとも思う。

(2) しかしそれと同時に、エスペランティストは「自分に向いたやり方」でエスペラントを宣
    伝して良いとも思う。

    私が「娯楽」擁護をしたのは、現在のエスペラント界ではこういったものを差別する傾
    向がまだ残っているんじゃないかと思ったからであり、べつにエスペランティスト全員
    に押しつけるためではない。

ってことを言いたかっただけなんですよね。
実際、私だって「漫画」「アニメ」などを利用することを理論的には推奨しておきながら、一方
では、だにょさんの提案に協力しなかったわけですから。

しかし、ベダウリンデさんがそう思われたのであれば、やはり私の書き方に問題があるので
しょう。

179松戸彩苑:2008/05/06(火) 08:27:07
>>178 の続き)

とは言っても、エスペラント運動の歴史や現状を調べていきますと、どうしても「理念や理論
を前面に出した宣伝では、世間の人たちや自分の家族や知人にさえも、なかなか理解して
もらえない」という結論が出てくることも事実なんですね。

たとえば、私は以前ここの掲示板に書いたんですが

(1) エスペラント運動がマスコミに取り上げられることはきわめて少ないが、しかしよく考え
    てみると「国際交流」とか「市民運動」といったものはマスコミが好んで取り上げるネタ
    のはずである。
    しかし、それにも関わらずエスペラントが取り上げてもらえないのはなぜなのか。

(2) 私の考えでは、「エスペラント運動は単なる国際交流を目指したものではなく、特殊な
    思想である」とマスコミ関係者に思われている。
    マスコミにおいては「特定の思想に偏らない」ということを指針にしていることが多いの
    で、エスペラント運動はこれに抵触してしまう。
    それで、マスコミが取り上げることが少なくなってしまう。

    またこのほかにも「エスペラントは落ち目である」とマスコミ関係者に思われているとい
    う事もあるだろう。
    革新派のメディアに取り上げられないのは、こちらの理由のほうが大きいと思われる。

(3) こういった理由があるので、オタクの人たちのイベントはしばしばマスコミに取り上げら
    れるのに、エスペラントは取り上げられない、という事になっていると私は推測する。
    だから、エスペラント界ももっと軽めの活動をしたほうが、マスコミに取り上げられる可
    能性が高くなるのではないかと私は思う。

という事があるんですね。

私は、世間というのは「かなり軽薄」なものだと思っています。
ですから、正面から「世界平和」だの「世界の言語問題」などと言っても、話を聞いてくれない
んですね。
軽薄な人たちには軽薄なやり方でエスペラントを広めるしかないだろうと私は考えているん
ですが、理念や理論でエスペラントを広めようとしている人たちは「世間は軽薄である」という
ことが判っておられないようなので、この点を強調しようと思ったんですね。

でも、だからといって、私は「理念や理論に関する活動をぜんぶやめろ」などと言う気はまっ
たくありません。
「世間は、理念や理論に関心を持たないことが多いし、またしばしば誤解をしたりする」という
事実を把握したうえで、そういった活動をすれば良いんだと思っています。

180ベダウリンデ:2008/05/06(火) 10:06:20
>理念や理論でエスペラントを広めようとしている人たちは「世間は軽薄である」という
ことが判っておられないようなので、この点を強調しようと思ったんですね。

理念重視の人は、「軽薄な人」にエスペラントをやってもらいたくないんですよ。
例え、そういう人が入ってきても、読まされる本がつまんない本だったりして、
必然的にやめさせるようになっているんですよ。
そして「やっぱり理念がない人はダメだね〜」と陰口たたいて喜んでるんですよ。
(これは、この掲示板の過去の書き込みから、私が推測しました)

かといって、明確な意図で、「軽薄な人」を排除しようとしてる訳ではないでしょう。
積極的に彼らの好みに合わせることをしないだけです。
合わないからやめちゃうのは自然な流れ、でもそれで構わないさ、というだけでしょう。
自分に無理して他人の好みに迎合してまで、そこまでしてエスペラントを広めようという気になれない、というだけでしょう。

「よろず」の人たちは参加しないまでもMATの活動に理解は示していました。
自分の会に「軽薄な人」が入って来ても定着するか分からないけど、
他の団体が勝手にやるなら、構わないですよ、という構図でしょう。

ベテランはエスペラントを全ての人に広めたいと思っている、という前提が、
そもそも現実と違うと思う。

181松戸彩苑:2008/05/06(火) 10:18:40
>>180
> 理念重視の人は、「軽薄な人」にエスペラントをやってもらいたくないんですよ。

まぁ、それはそうなんでしょう。

でも私の言いたいのは

(1) 革新派の人たちでさえも、大部分の人たちは、理念や理論ではエスペラントをやる気
    にならない。

(2) こういう人たちでさえも、理念や理論よりも「エスペラントで海外旅行をした」といった
    ことのほうに注目する。

といった事なんですね。

でもまぁ、こういったことは不愉快な事実なので、絶対に認めたくないんでしょう。
だから、こういったことをウヤムヤにしたままで運動をしてるんだろうと思うんですね。

で、今みたいな運動をしていても、ほんの僅かながら、自分たちと同じような価値観をもっ
た人間がエスペラント界に入ってきますから、そういう人たちと友達になれるということで
十二分に満足してるんでしょうね。

でも、こんな事をしていたのでは、エスペラントは絶対に広まるわけがありませんね。

182松戸彩苑:2008/05/06(火) 11:31:30
それから私が言ってるのは

  エスペラントのように、真に革命的で、奥の深いものが、そう簡単に理解できるわけが
  ない。

ということですね。

理念や理論を前面に出して宣伝している人たちは、こういったことも判っていないと思うん
ですね。
で実際、革新派の人たちや、自分の家族や知人でさえも理解してくれないわけじゃないで
すか。

ですから、「エスペラントで娯楽を楽しむ」といったことで良いからエスペラントに興味をもっ
てもらって勉強してもらうようにすれば、ついてこれる人も多いんじゃないかって思うわけ
です。

で、自分で実際にエスペラントを勉強して、多少なりともエスペラントが使えるようになれば、
エスペラントの素晴らしさとか潜在的な可能性だとかも徐々に判ってくると思うんですね。

どうも私の見るところでは、理念重視の人には「戦略」というのがまったく無いんですね。
「目的が正しければ、それを訴えるだけで(少なくとも頭のいい人や革新的な人たちは)判
ってくれるんだ」みたいな考え方をしているように思えます。

要するに「ひどくせっかち」で「世間の人たちの知的レベルを過大評価している」んだと思う
んですけど、エスペラントのように革命的なものの場合には、革新的な人たちや知識人で
さえも理解できないんですね。

ですから「遠回り」のように見えるかもしれませんが、目標は何でも良いからエスペラントを
勉強してもらうような工夫が必要なんだと私は考えています。

183ベダウリンデ:2008/05/07(水) 08:47:48
初心者の分際で生意気言わしてもらうと、いわゆる今のベテランさんに、
エスペラントの普及を期待しても無理ですね。
彼らは理念に惹かれてエスペラント初めて、理念が好きで続けてきて、そして今ベテランになった。
理念というと何か高尚か感じで、そういうものを掲げてる人は理念の普及に命をかける崇高な人・・・
という連想をしてしまいますが、それは思い違いかもしれないです。
彼らも単に「楽しいから」やってるだけで、「好きな事」=「娯楽」=「理念」なんです。
彼らは、エスペラントを世界に広めたいのに、バカだから、その方法が分析できないのではなく、
はなから、その気がないのです。それでいいのです。我々同様の凡人なんですから。
(理念を掲げてる人って、自分が他人より高級な人間だと思っちゃうみたいですが、そんなことないと思うよ)

彼らに期待するのは、初心者が文法や語彙など質問したら、派閥問わずに親切に答えてほしい、ということだけです。
「よろず」の人はMATに参加はしないけど、作文に関してなら答えますよ、と言ってました。
それで充分です。

私はむしろ今後に期待してます。
いままでの「理念派」とは異なった価値観の人々がどんどんエスペラントに入ってきてほしいと思っています。
松戸さんも、ベテランへの説得を虚しく続けるよりは、初心者やこれから始めようとする人をターゲットにした方が、
より「普及」の実践になるのでは?と思うのですが。

184松戸彩苑:2008/05/10(土) 11:10:47
>>183
> いわゆる今のベテランさんに、エスペラントの普及を期待しても無理ですね。

まぁ、そうなんですよね。

理念が大好きな人というのは、はっきり言っちゃえば「エスペラント」よりも「理念」のほうが
大事なんですよね。
で、「理念が理解できる人間なら、エスペラントも理解できるはずなんだ」くらいに思ってい
たのでしょう。

だから私に「理念を全面に出した宣伝をしても、革新派の人たちの圧倒的多数は、エスペ
ラントに関心をもたないではないか」って指摘されるのが嫌なんだろうと思います。
もちろん、それが嫌なのであれば、革新派の人たちに受け入れられるような宣伝方法を考
えれば良いんですが、それも出来ないので、沈黙するしかないと。

もちろん私も、単なる嫌がらせのために、こんなことを言ってるわけではありません。
「間違った前提をもとにしてエスペラント運動のやりかたを考えても意味が無い」から、しつ
こく言ってるわけです。

世間においては「英語を頂点とした多言語主義」と「翻訳機械・電子辞書の発達・普及」が、
エスペラント運動とは比較にならないほど大規模に、進んでいるわけです。

一方、エスペラントはと言えば、発表されてから100年以上もたっているのに、世間におい
ては古代エジプト語よりも見聞きすることが少ないわけですし、多くの人たちから「昔はあっ
たが、今は無くなった」「今でもやってる人はいるが、すでに失敗しており、普及する見込み
はまったく無い」と思われているわけです。
で実際、エスペラントが流暢に使える人というのは、社会全体からみれば、きわめて少ない
わけです。

こういうきわめて厳しい状況のなかにエスペラントは置かれているわけですから、希望的
観測だらけの甘えた計画を立てることは許されないんですね。
---

私は「娯楽を利用する」ことを主張してきたわけですが、これは要するに、「理性」や「善意」
なんかよりも「楽しいことを求める欲求」のほうがアテになるよ、と言ってるわけですね。

ここの掲示板のどこかに書いてあるのをすでにお読みになったかもしれませんが、私は

  人間というのは「カネになること」「楽しいこと」「人から誉められること」くらいしかやらない。

  もちろん「世のため人のためになること」をやろうという気持ちも無いわけではないが、し
  かし、そういう気持ちをもつ人は環境問題のような「世間一般に認められた活動」をやる
  のであって、エスペラントをやろうとはまず思わない。

と考えておりますので、カネにもならず、人から誉められることもないエスペラントを普及させ
るには「楽しいことを求める欲求」を利用するしかないだろうと考えたわけです。

日本では、ここ10年ばかりのあいだにインド映画のファンが増えたらしいのですが、このな
かからインドの言葉を勉強する人も出てきたそうです。

また、フラダンスやウクレレをやる人たちですと、ハワイ語を勉強する人もけっこういるみた
いですね。

経済的なメリットだけを考えれば「インドやハワイの言葉を勉強しても意味が無い」ってこと
にしかならないと思うんですが、しかし「楽しいことを求める欲求」というのは、そういう味気
なくて民族差別的な発想をあっさりと打破する力をもっているんですね。

それから、日本のアニメやマンガについて知りたくて日本語を勉強する人たちもいるわけで
すが、これもすごいことだと思います。

現在では、シェイクスピアが読みたくて英語を勉強する人は、ほとんどいないでしょう。

また、毛沢東が読みたくて中国語を勉強するとか、マルクスが読みたくてドイツ語を勉強す
るとか、レーニンが読みたくてロシア語を勉強するなんて人も、めったにいないと思います。

つまり、語学学習をさせる力という点で考えますと、日本のアニメやマンガは、シェイクスピア・
毛沢東・マルクス・レーニンよりも偉大なんですね。

185松戸彩苑:2008/05/10(土) 12:05:02
>>184 の続き)

それから私が「娯楽」を重視するのは、次のような理由もあるんですね。

日本のエスペラント界を見ていますと、学生時代にエスペラントを始めたものの、社会人に
なってしばらくすると仕事や家庭のほうが忙しくなってしまって、エスペラントをやめてしまう、
という人がものすごく多いんですね。

で、この人たちの一部分は、定年を迎えると、またエスペラントを再開するんですね。

もちろん再び戻ってきてくれるのは有難いんですけれども、しかし30年だか40年だかのあ
いだエスペラントから完全に縁が切れてしまうというのは困ったことです。

たしかに「忙しいから仕方がない」とは思うんですけれども、しかし仕事や家庭で忙しいとは
言っても、まったく娯楽をやらないかというと、決してそうではないと思うんですよね。

つまり「娯楽をやる時間はあるんだが、エスペラントをやる気にはならない」という事になっ
てるように思われるわけです。

で、どうしてこんな事になるのかというと

(1) 現在のエスペラント運動において行なわれている事はあまりにも小難しすぎて、やる
    気が出ない。

(2) もっと気楽な娯楽に流れてしまう。

(3) 気楽な娯楽じゃないと、気分転換にならない。

って事ではないかと私は推測したわけです。

こういった問題を解決するには、やはり「エスペラントで娯楽をやる」しか方法が無いんじゃ
ないかと私は考えたわけですね。

で、私の理想としては「娯楽でいいから、家族全員でエスペラントをやる」ようになれば良い
と思ってるんですね。

ネット上で、お父さんはスポーツについて議論をし、お母さんは旅行やファッションについて
話し合い、子供も、親の助けをかりて外国の子供とメールのやりとりをする、みたいになれ
ば良いと思うんですけどね。

もちろん、こういうことが普通にできるようにするのはかなり大変で、日常生活に関する語
彙・表現を整備し、なおかつそれらが簡単に学習・検索できるようになってないといけない
んですね。
---

話を戻しますが、私も「理念重視派の人たちを説得するのは、やっぱり無理なのかな?」と
思っているんですが、しかし彼らの理論にも不徹底なところがあるということを多少なりとも
示すことが出来たのではないかと思いますので、まったくムダだったとは思っておりません。

また彼らだって、もともとは大きな理想をいだいていたのだろうと思いますから、ひょっとした
ら(部分的にでも)協力してくれるようにならないかな?とも思っています。

とくに「日常生活に関する語彙・表現」の整備みたいなものは、ベテランじゃないと出来ませ
んからね。

でも、彼らにとっては触れられてほしくないはずの「革新派の人たちの圧倒的多数も、エス
ペラントを理解しない」ということを私は徹底的に論じてしまったわけですから、まぁ無理なの
かなと思います。

ということになりますと、やはり新人さんに期待したほうが良いのかもしれません。

とりあえず今は、新人さんが学習途中で挫折しないようにサポートしていくことを考えるべき
なのかもしれませんね。

(終わり)

186ベダウリンデ:2008/05/12(月) 08:50:14
>ネット上で、お父さんはスポーツについて議論をし、お母さんは旅行やファッションについて
話し合い、

当初は私もそういうのを理想としていたんです。すぐに「ここはそういう世界じゃない」と悟ったんですが。
エスペラントやる人は基本「社会派」が多いんでしょうね。それと言語オタクと若干の芸術家(?)かな???
外国のエスペランチストも同じ感じなのかなーという印象です。
かなり前にレルヌのフォーラム見てて(ご存じあそこはほとんど欧米人しか書きこまないですが)
コミュニスト或いはアナーキストと自称する人が多かったのに驚きました。
もちろんそれ以外の人もいた様ですが、「片寄具合」に驚いてしまった。
ヨーロッパでは共産国はほとんど消滅してる筈なのに、コミュニストって。
またアナーキストって。そんなの歴史上ですでに消えてしまった政治思想だと思ってました。
レルヌでも「アナーキズムってまだあるの?」なんて突っ込みが入ってて
「あるよ」ってどっかのアドレスがリンクされてましたが。(クリックはしなかったんですが)
とにかくびっくりの世界です。

そんな世界に影響されず、「普通の人」が増えてほしいと思うこのごろ。

187ベダウリンデ:2008/05/12(月) 09:58:45
「社会派」とまで言えないけど、他にもよくいそうなのが「おめでたい派」でしたね。
外国人の文で「私はなぜエスペランチストになったか」というのがあって、「なんで?なんで?」と期待を込めて読んだけど、
「世界の平和を望んでいるから」だってさ。
世界の平和がなんでエスペラントに直結するの?
その「おめでたさ」がアナーキストやコミュニスト以上に、私に「ついてけねー」感を湧き立たせるのです。
ガイジンエスペランチストも概してこんな感じだろうから、文通とかもあんまり興味ないのです。

188ベダウリンデ:2008/05/13(火) 08:20:46
いや、よく考えたら「おめでたい派」が一番「普通の人」な気がしました。
何かのきっかけでエスペラントの名を知って、調べてみたら「平和のために作られた国際語で文法も簡単」
だと知ったら、普通に「やってみたい」と思うじゃないですか。
私だって同じでした。もしも「文法は超合理的」「語彙は超平等」な言語があったとしても
「悪の組織が世界制覇を企てる過程でできた言語」だったらやりたくないです。
表向き「平和」だから安心できる。(ただ安易にそれを信じすぎちゃうのはオメデタイな、と、個人的には思う)

ただ、そういう「普通の人」は、せっかく始めても途中でやめてしまう人も多そうな気がする。
「普通の人」が楽しめるネタがもっと沢山あるといいんですが。

189ベダウリンデ:2008/05/13(火) 08:45:18
例の「エスペラント4週間」の内容を具体的に紹介してあるブログを見つけました。
「4週間」は読んだ事ないので、「左翼的」とか言われるけど、実際どんなんだろう?と思ってました。
思った以上にぶっとびでした。
「労働者と学生が通りを行進しています」「警察が彼らを逮捕しました」とか、本当????
逆に面白いというか、今となってはドラマみたいなノリだな、と思うのですが。
その後のお話の展開が気になる。
ドキュメンタリー風に人生を追うのか、獄内での過酷な取り調べだったらほとんどバイオレンスもの?(読みたくない)
マルクスマン、レーニンマン、毛沢東マンが助けに来てくれる、とかいいではないですか。(センターはマルクスマンで)
あ、ザメンホフ氏の出番がないねー。最初三人のマンが言葉が通じなくて困ってて、ザメンホフ少年が通訳機を発明する、とか。

190ベダウリンデ:2008/05/13(火) 08:53:31
変身アイテムのマスクを被ると自然にエスペラント語を発して、意思疎通できる.
それを取るとさえないおっさんに戻る。

191ベダウリンデ:2008/05/13(火) 10:04:41
ザメンホフ少年はマルクスマンの甥っ子当たりの設定で。
三人のマンはふとしたきっかけで知り合い、ザメンホフ少年の発明品でマンに変身できるようになる。
モウタクマンはマイペース、傲慢で扱いづらいが、カンフーの相当な使い手である。
レーニンマンはクールで頭がいいが、スターリンという旧知の友がいて、この男は敵と密通して金をもらうようなワルである。
レーニンマンはその悪友となぜか縁を切る事ができない。その理由は!?
マルクスマンは二人の間で時に振り回され、裏切られながらも、ザメンホフ少年の機智に助けられながら、三人で協力して悪と戦うのであった。

頭のいいエスペランチストの皆様なので、「そんな話はもうあるよ」と言われそうですが。

192松戸彩苑:2008/05/14(水) 04:11:42
>>189
ここをご覧になったんですか?

ttp://www.kanshin.com/keyword/1352917

こういう例文が載っているのは事実なんですが、しかし例文のすべてがこういうものだとい
うわけでもないんですね。

割合から言えば、むしろイデオロギー色のない、ふつうの例文のほうが多いと思うんです
が、とは言っても、ふつうの語学教科書ですと、こういうイデオロギー色の強い例文という
のはまず載ってないわけですから、やはりかなり変わってるって事になるわけです。
その程度のことなんですね。

この本を書いた大島義夫という人は、1920〜30年代にプロレタリア・エスペラント運動とい
うのに参画してるんだそうです。

また、この本が出版されたのは1961年(昭和36年)なんですが、このころは今となっては
信じられないくらい、マルクス主義に対する期待が高かったみたいですね。

1957年にソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げていますが、これを見
て、ソ連がアメリカを凌駕するんじゃないかと本気で思った人がたくさんいたらしいんですね。

また中国では1958年から「大躍進」というのが始まっています。
日本の左派の人たちは当然これを礼賛したわけですが、これは大失敗に終わって、数千
万人の餓死者を出したそうです。
しかし、実態が世界的に知られるようになったのは、もっと後になってからのようですね。

それから日本では、60年安保なんてものもありました。

こういった時代背景のもとで執筆されたということを考えれば、こういう教科書ができるのも
不思議ではないんですが、しかし考えてみれば、マルクス主義なんてものは20年くらい前
に破綻したものなんですよね。
(現在のマルクス主義者たちは「あれは本当のマルクス主義ではなかった」と言って頑張っ
ていますが)
世間の多くの人たち(とくに若い人たち)からは時代錯誤にしか見えないのも無理はありま
せん。

しかし、そうは言っても、この教科書は、そういう点をのぞけば、けっこう優れていると思い
ますけどね。

193ベダウリンデ:2008/05/14(水) 09:09:34
・・・「4週間」が意外と普通だったら逆につまんないですね。
昔の共産主義礼賛も、結局は経済競争でどっちにつくか的な発想だったんですね。
ところで、お話の続きですが「敵」を何にするか、です。
下っ端の大勢いる奴は「グミンドモー」で、正義の味方マルクスマン達は決して殺さず、再教育に送る。
セイジカー大佐、シホンカー中佐などがいて、大ボスは謎の存在である。
大嘘つきの「ウソナーノ」と名乗っているが?エスペランチストの皆様はその正体はもうお分かりですね!?

194ベダウリンデ:2008/05/15(木) 09:28:16
Mi komprenis, kial mi sentis esperantujon stranga.
なぜ自分はエスペラント界が奇妙に感じたか、分かった。
Esperantujo estas kvazaŭ sanatorio por esperantistoj.
エスペラント界ってエスペランチストのサナトリウムみたいなものなんだ。
Mi hontas, ke mi ŝercis kaj mokis al esperantujo.
茶化してしまってお恥ずかしいです。
Mi plu ne mokos...
もう嗤わないです...

195ベダウリンデ:2008/05/18(日) 13:18:15
Mi fariĝu tolerema kontraŭ esperantistoj.
エスペランチストに優しくなろう。
Estas bone, ke oni montras grandanimon al aliuloj,ĉu ne?
他人に対して寛大になるっていい事だもんね?

196ベダウリンデ:2008/06/04(水) 16:59:21
独白:
色々書き込みしながら自分の考えがまとまる事ってあるんですね。
私は、「よろず」みたいに二言目には「理念」「理念」という人に対して
最初から不信感、恐怖感、生理的な嫌悪感を感じていたみたいです。
なぜかというと、理念とか主義でイメージされる言葉って
「イスラーム原理主義」とか「キリスト教原理主義」とか、なにやら恐ろしい思想。
旧・現の共産国(あるいは戦時の日本も?)では「思想犯」の名目で人が殺された。
「思想犯」というのは、国家の「理念」にそぐわない者を犯罪とみなす事でしょ。
犯罪的な新興宗教の教義も、それに近いものがある。
そういう所の教義ってけっこう複雑と聞いたことがある。
それを理解しないと無能呼ばわりの屈辱を受け、それに耐え、「理解」して洗脳されるとか??
(なので信仰者には高学歴が多かったという・・・)
さすがに「よろず」の人の「理念」は、そんな危険なものじゃないだろう、と楽観してますが。

私は絶対に「理念」で生きる人間にはなりたくないな。
「理念」なんかに染まったら、自分が何するか分からないから。
今まで本能で生きて来て、そこそこ平凡ながら無事な人生を送っている。
一番信頼できるのは、「理念」じゃなくて、自分自身だと思う。

でもさ、自分に自信がなく不安だったら、宗教はじめ、何か「絶対的」なものにすがりたくなる
っていう気持ちも分からなくもない。
「理念」にすがってる人も、そうなのかな、と思う。
私ももし、人生で大きな挫折をしたら、「思想」だの「理念」だのって、言いだすのかな?
今までみたいに、自分で解決できる人でありたいな・・・・

197丹花:2008/06/14(土) 21:00:39
Esperantujo は、人が3人いれば、どこにでもできます。実は私も、フリーのエスぺランチストです。

198だにょ:2008/06/15(日) 22:12:22
エスペラントに対する無理解と反論
http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/esp04.htm

日本は超大国。今も世界の富の8%程度を支配。経済力だけにあらず。極東最大の軍事国家。日本語話者数もトップ10以内。運用規則に例外が少なくて学習しやすい。科学技術、歴史の深さ、ODA・国連負担金額も巨大。日本は戦争でアメリカや中国に負けたのに、アメリカ自動車産業を壊滅に追い込んだ。中国は気を使ってくれる。「もはや戦後ではない」。なのに日本語は日本語以外の国々に拡散せず。経済力や軍事力が言語の普及状況に影響を与えるとしても、それだけではない?エスペラントはかなり人気があるのに広まらない。何故?

199ame:2008/06/15(日) 22:31:14
>私は絶対に「理念」で生きる人間にはなりたくないな。

これも一種の理念ですね。
極端なものだけ見て判断してはだめですよ。
現にあなたはそういう「理念にすがりたくない」という「理念」にすがって生きている。

200ベダウリンデ:2008/06/16(月) 09:09:09
ま、そうですけどね。
一つ違うのは、「理念」を意識してる人って同類でまとまりたがる。
そして自分「達」は正しいと思ってる(みたいに見える)
「理念を持たないという理念」(なんじゃこりゃ!? やっぱ単なる詭弁じゃん!!!)だと、
常に「個人」なんですよ。
「自分は正しい」と思ってるけど、それはみんな同じ。
人を見る時も「理念が同じだから仲間」「理念が無いからダメ人間」と思うのではなく、
相手についても個人個人で判断しようとする。
同じ個人でも「この人とはここの意見とは一致、あとは違う」というように、
奥深ーく、人が見れるんですよ。

正して言うと「○○主義」とか言葉で定義できるような「理念」を持ってる人にはなりたくない。
「理念なんていらない、という理念」に私はすがってま〜す。(何か?)

201ベダウリンデ:2008/06/16(月) 09:27:40
あ、そうそうameさんへ。
私は「論理」「哲学」は非常に不得意でして、興味すら無いし、
せっかくご教授頂いてもチンプンカンプンだと思いますので
あんまり難しい事書かれたら、無視しちゃうかもしれないです。
アンタウパルドーノンです。

202ame:2008/06/16(月) 17:29:52
>>200
わかります。ベダウリンデさんの体系的な思想及び理念、倫理への懐疑ってのはもっともなものがあって
それはやっぱり、宗教的倫理への固執や盲目的遵奉がテロの動機となったり、悲惨な殺戮の動機となったりするからですよね。
そういった歴史的事実ってのが、人間の記憶の中に刻まれているからこそ、体系だった思想や理念に対するアレルギーがあるんだと思うんですね。
それはそれで、正しいことであると思います。

203ベダウリンデ:2008/06/17(火) 09:41:26
物分かり良すぎるameさんってのも・・・まあいいや、気持ち悪いから自己批判しちゃうけど
私ってきっと自分の知力とか分析力に自信がないんですね。
だから「これが正しい理念だよ、理論だよ」とか言われて、もし洗脳されちゃったら
変な宗教団体にも入っちゃうかもしれない。
それが怖いから、「理念」だ「理論」だ、言う話は避けてるんだと思います。
「理論」と言っても、日常会話レベルの誰でも分かる論理性ならいいけど、
常人の理解を超えた観念とか持ち出したりしてると警戒します。(ameさんの事じゃなくて他の話でね)

204ベダウリンデ:2008/06/17(火) 09:46:23
あ、でもホントに怪しい団体は、テニス同好会とか仲良しクラブを装って
ターゲットに近づくらしいから、おおっぴらに「理念」とか言ってる人は逆に安全かも

205松戸彩苑:2008/06/18(水) 06:27:35
>>204
> ホントに怪しい団体は、テニス同好会とか仲良しクラブを装ってターゲットに近づくらしい

私は「娯楽を利用してエスペラントを広める」ってことを提唱してるわけですが、こんなことを
しても、世間の人たちからは「仲良しクラブを装って近づく怪しい団体」にしか見えないかも
しれませんね。

もう、どう頑張ってもエスペラントを広めることは無理なのかな…。

世間では「イデオロギー色の強いもの」だと思われているし、しかしそれにも関わらず、革新
派の人たちからもほとんど相手にされてないんですから。

206ベダウリンデ:2008/06/18(水) 08:39:28
いやいや、ほんとに「完全なる娯楽」にしてしまえばいいいのです。
少なくとも、完全なる娯楽でやってる人が肩身を狭くしなければいけないような
今の事情を変えてほしいです。松戸さん、頑張って!応援してます。

私なんか、平和運動でエスペラントをやってる偉い人間にお前のような下らない人間が
チャチ入れるな、と、某人物に罵られましたから。
(某人物に言われたこと、恨んじゃいないけど、冷静になって読むとかなり酷い、本音出てるな、と思います)

207ベダウリンデ:2008/06/18(水) 16:48:43
私がなぜ松戸さんを応援するか、馴合いムードになりたいからではありません。
松戸さんは、この掲示板で、どこかに書いていました。
エスペラントを長年使って、そこそこ使える良い言語の割に普及していない、その理由を色々考えてる、と。
私は、松戸さんはエスペラントを良い言語だと思っていて、だから、みんなに普及させたいと思っているんだ、と理解しました。
娯楽を利用してでも「みんな」(=同じ理念じゃない人にも)に普及したい、という所に共感を感じました。
おおげさだけど、「博愛」とか「人間愛」とか感じます。

松戸さんは「よろず」で孤軍奮闘してて、多勢に無勢のように見えますが、
あそこでの松戸さんのコメントは私にはすごくよく理解できます。
大本の「牛の尻」について言及してた時も、私もこの言葉初めて聞いたんですが、
「言わんとしてる事」がすぐに分かりました。
逆に「よろず」メンバーが過剰に反応してたので「これは怪しい」と思いました。

とにかく、私から見ると松戸さんは「非常に有意義」な活動をしておられるのです。
だから「頑張って」なのです。

208ベダウリンデ:2008/06/19(木) 16:28:27
>しかしそれにも関わらず、革新派の人たちからもほとんど相手にされてないんですから。
革新派の人は分かってるんです。「エスペラントは単なる言葉遊び」「国際交流ごっこ」だって。
一応「平和」とか「9条賛成」とか言ってる人に対しては、革新派の人から見たら仲間だから、邪険にはしないと思う。
でも、だからといって「理解されてる」だなんて、勘違いしないほうがいいと思う。
もしかしたら「ホントに真面目に考えてるならもっと他の活動せい!」とか、思われてるかもしれない。
「お遊び重視のお気楽な奴ら」、と、心の中では思われてると思う。

エスペラントなんて「山登り」とかの趣味と一緒。
「山登り」する人は常に頭の中「山」だけで一杯かというと、そんなことない。
政治のことなど、他の事も色々考えてるはず。
かといって、みんな「同じ思想」だなんてのもありえない。
人により色々違う考えがあるのは、当たり前。エスペラントも同じこと。
「趣味」として楽しみながら、その人なりの様々な思想を発展させればいいと思う。

なんでこんな当たり前の事が、エスペラントでは許されないんだろう・・・・

209ベダウリンデ:2008/06/19(木) 18:51:59
某人物は私に言いました。
『大人しく自分の満足する世界に浸ってEを使えば、良かったのに、大胆にもEを真面目に
平和活動に結びつける人にちゃちを入れてきたのは貴方ですよ。』

Iu japana esperantisto insultis min:
"Vi devus senvoĉe uzi esperanton por nur la plezuro,
sed vi aŭdacis plendi al mi, pacmovadanto!"

Alivorte, li diris al mi, ke mi ne parolu pri paco.
言い換えると、私は、平和について語るな、と言われたんですよ。
Kial mi ne havas la rajton paroli pri paco?
なぜ、私には平和について語る権利が無いのだ?
Ĉu nur li kaj liaj kamaradoj ĝin havas ? Nekredeble!
某人物とその仲間たちだけに権利があるのか。 信じられない!

210ベダウリンデ:2008/06/19(木) 19:10:55
Mi kritikis lin kaj li ekkoleregis.
私は某人物を批判した、そしたら、その人物は非常に怒った。
La ĵusa eldiraĵo estas tiama.
先の発言はその時のものです。
Li nenion respondis al mia kritiko sed nur insultadis min kaj eĉ aliajn.
その人物は私の批判には答えずに、罵り続けたのである。

211ame:2008/06/20(金) 07:32:44
>物分かり良すぎるameさんってのも・・・

私は物わかりの悪い、硬直的な人間だと思われているのかな...
私は、私にとっての是を是、非を非というだけで、物わかりが良いとか悪いとかの問題ではありません。

エスペラントが革新派の人から相手にされないのは、おそらくはエスペラントが平和に繋がるという思想に全くのリアリティがないからでしょう。
エスペラントによって言語的な平等が解消される、とエスペランティストは言いますが、そんなものを解消したところでなんになる?というわけです。

現状のままでは、これ以上エスペラントが普及することはきわめて難しいでしょう...。

212ベダウリンデ:2008/06/20(金) 08:30:48
>私は物わかりの悪い、硬直的な人間だと思われているのかな...
いいえ、訂正します。こないだの某件で、私はameさんにかなりしつこく「諭され」ちゃったので
その印象が残ってただけでした。今は、イメージ変わりました。(なんと単純な)

>おそらくはエスペラントが平和に繋がるという思想に全くのリアリティがないからでしょう。
私も全く「同じ意見」です。(同じ思想じゃないけどね)

213ベダウリンデ:2008/06/20(金) 09:17:39
Mi forgesis aldoni gravan aferon.
重要な事、忘れてた。
Mi devas certigi, ke la persono, kiu insultis min, deklaris sin komunisto.
某人物は、コミュニスト自称してた。
Legis mi aliloke iun artikolon, en ĝi troviĝis jena frazo.
他の所で読んだ記事に、こんな文が・・・
"iu komunisto tuj silentigis min."
「あるコミュニストがすぐさま私を黙らせた」
Ĉu komunisto kutime volas fermi buŝojn de ĝenulojn?
コミュニストはいつでも邪魔者の口を封じたがるものなのだろうか?
Espereble ne tamen eble jes.
そうじゃないことを望みたいが、そうかもしれない。
Almenaŭ la persono estas tia homo.
少なくとも、その人物はそういう人間だ。

214ame:2008/06/20(金) 17:06:59
>かなりしつこく「諭され」ちゃったので

この一文から、私に対して良い印象を持っていないということはわかりました。
先日の私の過干渉のせいで気分を害されたようですね。
申し訳ない。

215ame:2008/06/20(金) 17:12:41
>かなりしつこく「諭され」ちゃったので

この一文から、私に対して良い印象を持っていないということはわかりました。
先日の私の過干渉のせいで気分を害されたようですね。
申し訳ない。

216ベダウリンデ:2008/06/20(金) 18:54:02
いえいえ、今は全く気にしてません。どうかもうお気になさらずに・・・
今はむしろ、ameさんと意見が一致して、大変喜んでいるんです。
エスペラントなんて絶対、平和と直に結び付く訳ないですよねー。
それなのに、平和運動でやってる自分は偉い、と勘違いしてる人がいるんですよ。

217ベダウリンデ:2008/06/22(日) 11:10:56
某人物(コミュニストで自称平和活動家)は私に言いました。
『大人しく自分の満足する世界に浸ってEを使えば、良かったのに、大胆にもEを真面目に
平和活動に結びつける人にちゃちを入れてきたのは貴方ですよ。』
言い換えると『黙れ!平和活動家に文句付けるな!』

Iu japana esperantisto,komunisto, memnomita pacmovadanto, insultis min:
"Vi devus senvoĉe uzi esperanton por nur la plezuro,
sed vi aŭdacis plendi al mi, pacmovadanto!"
Alivorte: "Silentu! Ne plendu al pacmovadanto!"

Mi ne scias detale pri komunisma ideologio.
コミュニズムのイデオロギーって詳しく知らないんですが、
Ĉu ĝi estas malpermeso de privata posedaĵo?
私有財産の禁止?
Eble ne. Vidu Ĉinion.
違うかも。中国をごらんよ。
Ĉu rezigno de milito?
軍事力の放棄?
Nepre ne! Nepre ne! Vidu Ĉinion!
絶対違う!絶対違う! 以下同
Ĉu silentigo de ĝenulo?
邪魔者を黙らせる事?
Probable...jes......Vidu.....Ĉinion......
たぶん、、、そうかも、、、以下同

218ベダウリンデ:2008/06/22(日) 12:19:45
Kio okazos, se oni silentigos ĝenulojn?
もし邪魔者を黙らせたとして、どうなる?
Probable pli da malamo naskiĝos en la mondo,
おそらく、さらなる憎しみが世界に生じるだろう。
kaj paco pli malproksimiĝos.
そして平和はますます遠のく。
Do mi ne ŝatas tiun, kiu silentigas ĝenulon.
だから、私は邪魔者を黙らせる人が嫌いなんです。
Se li intencas t.n. pacmovadi, mi ne deziras tian pacon.
もしその人がいわゆる「平和活動」を企ててるとしても、そんな「平和」は嫌だな。
Tia paco estas malvera.
そんな「平和」は偽物だよ。

219ベダウリンデ:2008/06/22(日) 12:35:22
La persono asertis, ke ideala mondo neniam realiĝos.
その人は「理想社会は決して実現しないであろう」って主張してたよ。
Mi ne ŝatas ankaŭ ĉi tiun aserton.
そういう主張も嫌いだな。
Ĉar ĝi vundos ies senton voli pacon.
だって、平和を望んでる人の気持ちを傷つけるだろうから。
Male ĝojas iu, kiu malamas la mondon.
逆に、世界を憎んでる人が喜んでるよ。

220ベダウリンデ:2008/06/23(月) 15:42:28
松戸彩苑様
「よろず」で頑張っておられる様子ですが、私もだんだん空しくなってしまいました。
松戸さんがあそこで主張してる事は私にはすごくよく理解できます。
私の理解では、「エスペラントの話者を増やそうよ」「そのためには娯楽も大事だよ」
という事だと思いますが、非常にシンプルで分かりやすく、
エスペラントへの愛が感じられ、真摯でピュアな訴えだと思います。

もし、この訴えに共感しない人がいたら、それはもう「馬の耳に念仏」(ごめん、正確には釈迦に説法?でしたかな?)
なので、無視した方がいいと思います。

一方、「よろず」の論者さんは「自覚」とか「理性」とか言いますが、
その言葉の定義自体が、一般人が日常語で使用しているものとはかけ離れすぎているようで、
私には全然理解できません。
自分だけの定義だけに頼って自分の世界が完成されちゃってる人、という感じがします。
これは禁句だけど。。。。。。「キモイ」。。。。。
(こんな感想でごめんね。私、理性もヘッタクレも無いもので、お許しを)

一般人が日常語で使う「理性」って、そりゃ、人によりニュアンスは違うと思うけど、
私的には、「感情」に対してそれを抑えるものが「理性」かな、と思います。
「キモイ」と言いつつ謝るのは、私の最小限の「理性」です。
逆に、切れて、罵り大爆発、というのは「反理性」ですね。

自分の世界ができちゃってる人には、何を言っても無駄だろうな、と思いますね。
(松戸さんのおかげで、世の中色んな人がいるもんだ、って分かりましたよ。)

221ame ◆HREx5v8CFA:2008/06/23(月) 16:40:05
>私には全然理解できません。
>自分だけの定義だけに頼って自分の世界が完成されちゃってる人、という感じがします。
>これは禁句だけど。。。。。。「キモイ」。。。。。
>(こんな感想でごめんね。私、理性もヘッタクレも無いもので、お許しを)

なんか、ベタリウンデさんはどうも、「自分には論理も理性もない」から
何を言っても許される、といった風に考えている節がありますね。

理性がなくても、許されないことは許されないんです。
自分の「論理性と理性のなさ」を盾にとって他人に好き勝手言うことはやめてください。

222ベダウリンデ:2008/06/23(月) 20:02:49
あーそうだねー。まあ、悪いと分かってるから謝りつつ書いたんだけどね。

223ame ◆HREx5v8CFA:2008/06/23(月) 20:51:15
謝りながら書いたからなんだっていうんですかね。
だいたい、本当に悪いと思ってるなら書かないでしょうよ。

むしろわざわざ謝っている分、非常に姑息。
謝るくらいなら書かないで。

224ベダウリンデ:2008/06/23(月) 21:03:58
分かりました。ame さんは非常に正義感あふれる人ですね。
その正義感を、是非、良い方向へ向けて下さいね。

225ame ◆HREx5v8CFA:2008/06/23(月) 21:26:32
正義感があるからこういうこと言ってるんじゃありません。
別に、「キモい」とかくらいはぜんぜん言っても構わないと思ってる。それくらいなら。

ただ、最初から謝るくらいなら書くべきではない。
そう考えているだけです。

226ベダウリンデ:2008/06/26(木) 17:12:59
Probable ĉiuj esperantisto fieras pro sia esperantisteco.
たぶん、全てのエスペランチストは自分がエスペランチストである事を誇りに思ってる。
Do se iu esperantisto diras al alia ;"lau mia kriterio restas ne komprenebla via E-isteco",
だから、もし、誰かが他のエスペランチストに「私の基準ではあなたがエスペランチストであることは不可解なことです。」と言ったら
ĉi tiu eldiraĵo estas la plej granda ofendo por tiel dirita esperantisto.
この発言はそう言われたエスペランチストにとっては最大の侮辱になるのです。

227ベダウリンデ:2008/06/26(木) 17:30:46
Se iu pensas, ke tio estas bona, li ne povas kompreni la homan senton.
もし「べつにいいじゃない」と思うなら、その人は人の気持ちが分からない人です。
Se la dirinto intence ofendis al opoziciulo, li estas la plej malestiminda esperantisto.
もし、発言者が政治的な反対者を意図して侮辱したなら、その人は最低のエスペランチストです。

228ベダウリンデ:2008/06/27(金) 08:32:21
Kio estas la homaj rajtoj?
人権って何だろう?
Mi pensas, tio estas la rajto vivi laŭ libera volo.
私思うに、自由な意思で生きる権利かな。
Kiu ajn rajtas esti esperantisto, ĉu ne?
誰でもエスペランチストになれるんですよね?
Se deziras, iu ajn povas resti esperantisto, ĉu ne?
もし望めば、エスペランチストであり続けていいんですよね?
Mi pensas, tio estas unu el la homaj rajtoj.
これって、人権の一つだと思うんです。
Iu diris al alia esperantisto(opoziciulo);"lau mia kriterio restas ne komprenebla via E-isteco".
ある人は、他のエスペランチスト(政治的反対者)に、「私の基準ではあなたがエスペランチストであることは不可解なことです。」と言いました。
Ĉi tiu eldiraĵo neigas la rajton de la dirito resti esperantisto.
この発言は、言われた人のエスペランチストである権利を否定してる。
Neigas ĝi ankaŭ la homan rajton.
そしてそれは人権をも否定してる事になるのです。

229松戸彩苑:2008/06/28(土) 20:46:54
>>220
たいへん遅くなりましたが、拙文を読んでくださって有難うございます。

230ベダウリンデ:2008/06/29(日) 09:00:34
読んでましたよ。松戸さんの論旨を(故意に?)曲解されて、不当に罵られていた場面もありましたが、
非常に冷静に対応なさっていて、私から見ると説得力がありました。
(私なんか、相手の論理展開が下手で誤解しただけなのに、その報復として人格否定までされちゃった経験がありますので)

ただ、「よろず」メンバーに多くを期待しても無理ですね。
彼らも一般人だし、単なる趣味であるエスペラントに、人生を費やしてはいられないのでしょう。
誰しも好きな分野で頑張ればいいんですよ。(ただし、気に入らない人間を排除するのはNG!)

まあ、私みたいな馬鹿人間からすると、「理念」だ「論理」だ言われると、却って引きますね。
「理性に訴えてもだめ」というのは松戸さんの説でしたっけ?
「理性」って「感情」に対するものだと、私は理解してますが、
人間ってしばし「理性」より「感情」が勝ることがありますね。(例:キレル)
「小難しい事ばっか言ってるから嫌い」とか「感情」で思われたら、
いくら「この理念は正しい」とか主張しても、もう修復できないと思う。
間口を広げて「理念」「理論」でない入口を確保するってのは大事だと思う。
それには、新しい人に期待です。

231ame ◆HREx5v8CFA:2008/06/29(日) 20:16:48
非常にシビアな話ですが、私はもう、エスペラントが普及することはないと思っています。
松戸さんは、「エスペラントで交流する楽しさ」というもので広げようということを仰られましたけども、それはやっぱり英語でもできるわけじゃないですか。
しかも英語の方が話者は遙かに多くて、交流の幅もエスペラントより広いでしょうし、前も言ったように「英語が出来る」という実益は計り知れないのですね。

かかる状況の中で、エスペラントを普及させるにはどうするべきかを考えると、やはり「娯楽」でも「理念」でもない「実益」を考えるべきだと思うんです。
言語を普及させるには、「実益」がないと、「娯楽」も「理念」も役に立たない。「実益」とは結局、「エスペラントが出来ることによって得られる利益」のことですね。
エスペラントの方が確かに英語より習得し易いといえばそうですけども、それは「英語が出来ることによって得られる利益」に吹き飛ばされてしまう。

ではどのようにその実益を確保すればいいのかと。これが容易ではないわけで。
エスペラントを習得することでしか得られない利益の確保が出来れば、という話になりますが、そんな利益は果たしてあるのか(作れるのか)、と。

私は、そんな利益はない、と思うんです。すべて英語でこと足りる、わざわざエスペラントで代替する必要はない。
でも、これからの普及運動を真に考えるなら、「娯楽」でもなく「理念」でもなく、「実益」という地平から切り開いていけば、まだ可能性はゼロではないのではないでしょうか。

232ame ◆HREx5v8CFA:2008/06/29(日) 20:47:39
松戸さんは以前、このようなことを言っておられました。

>一般的には語学というのは「実利」や「生活上の必要性」のた
>に行なわれるものだと考えられていますが、しかし実際には「楽しさ」や「面白さ」を求め
>てなされることもけっこう多いということが判りますね。
>ということで、エスペランティストもこのような「楽しさ」や「面白さ」を求める力のすごさという
>ものを素直に認めて、これをエスペラント運動のために利用することを考えるべきだと思うんですね。

それは確かにそうですが、ではエスペラントが出来ることによって得られる楽しさ、面白さ、は果たしてあるんでしょうか。用意できるのでしょうか。
結局のところ、日本のアニメが好きで日本語を学ぶ人も、韓国の映画が好きで韓国語を学ぶ人も、言語それ自体に興味を抱いているのではなくて
それを習得することによって得られる楽しさ(アニメや映画に直に触れることが出来る楽しさ)を得たいから始めたのであって、これはつまるところ趣味追求のための「実利」の範疇ではないでしょうか。

233ベダウリンデ:2008/06/30(月) 16:00:30
私もそろそろ「前向きな会話」がしたいし、松戸さんと会話して癒されたいので、そろそろ戻って来て下さい。
(不毛な言い争いには、さすがに疲れた)

エスペラントの「楽しさ」と「実益」ですが、これは実際使ってる人の証言が一番ではないでしょうか。
実益面で英語に勝てる訳ないのは分かってるけど、私なんか、結構楽しんでますけど。
私の場合「人的交流」はゼロですが、そんな事してなくても結構楽しいです。
もちろん人的交流が好きな人は、それが一番楽しめると思いますが。

ネットでニュース読むだけでも楽しいです。
今はまだ実力が伴わないけど、日本語読解力と同レベルで一読で読みこなせるようになれば、
外国人のブログとかも読みたいなー、なんて思ってます。
一気読みできれば、ラジオ聞き取りも可能になるんだろうけど、まだまだです。

英語の「イディオム」(ですか?)字面と全く異なる意味を表現する用法は無いと思うので、
その点で、英語より取っつき易いのは実感してます。
でたらめ文書いても許されちゃう面があると思うので、気楽でもあります。
その意味では日本人、生真面目すぎかな?英語と同じように「間違いは許されない」とか思っていそう????
ちゃんと教科書で学ばないと、とか、思っていそう????

234胡人:2008/06/30(月) 21:09:16
エスペラント!ホントに面白いと思います!

ベダウリンデさま、人的交流ゼロでも面白いってのは結構前向きで良いと思います。
でも良い環境があれば(それが難しいのかもしれませんが)生の会話交流はより面白いです(^^)

私の参加しているクラブは、現在、正直、大変面白いです。
アジア系留学生(英検900点以上)と外国語大学教授のお二人が春から増えて、とても学習自体が面白くなっています。
お二人とも、ネット独学でエスペラントを始められ、独学歴半年くらいですが、実際の会話術を獲得するために当クラブを探して参加されるようになりました。加入されてから2、3ヶ月たちましたが、もう翻訳とかはほぼ完璧ですし、会話(耳も口も)もこの頃は大変スムーズに美しく分りやすくなってきたように思われます。

お二人の考え方、また其々の知識の蓄積の披露を互いにエスペラントで会話しながら楽しんでいます。外国語教授はヨーロッパの中世史〜第一次世界大戦の歴史も長年の専門の一つで、その専門的な薀蓄も私には大変面白いです。あっという間の2時間です。

留学生は、仕事では必ず英語が必要なお国柄なので、子供の時から自然に学ばなければならない環境だったし、また、正直、試験で点数を取るのは簡単だし何処が難しいのかわからない的な発言の後、何故エスペラントなのか?という話題になり、彼的には、結局エスペラントが楽しいから、続けているそうです。何かエスペラントのもつ、その言葉自体の自由さ加減が心のリフレッシュに良いと思うとエスペラントで言っていました。

結局エスペラントは、意志の疎通をはかる言語という道具です。使用する人によって様々だという事で、右も左も中立も結局、その人によるわけです。
所詮道具なので、言語自体が歪んでいるとかではなく、問題があるとすれば、それを使用している人々に結果、帰する様に思えます。

だから、どの様な方法においてでも、より多くの様々な人々がエスペラントに参加されればそれがひいてはより良い方向に結び付くと思えます。
その意味で松戸さまが様々な切り口で普及を考えていらっしゃるのだと思います。

ただ松戸さまとの相違点は、用語、単語についての考え方の様です。
難しい事は分りませんが、エスペラントで会話すればするほど、日本語的な言い回しを考えるよりも、今自分は何を人に伝えたいのか、とエスペラントで考える様になってきます。自然、日本語的な言い回しをしない様に会話している今日この頃です。文学の翻訳はまた別の問題でしょうが・・・

235松戸彩苑:2008/07/01(火) 05:41:00
>>231-232
たしかに、きわめて難しいんですよね。
とにもかくにも英語が幅をきかせていますから、多少なりとも英語を身につけざるを得なくな
ってますからね。

しかし考えてみますと、エスペラントには、英語には無い長所もあるんですよね。

(あくまでも日本国内で英語を勉強した場合の話ですが)英語を勉強すれば、それなりに読
めるようにはなりますが、しかし細かいニュアンスまで理解できるようにはなかなかなりませ
んし、話すことなんかですと、まともな英語で言いたいことを自由に表現できるようになるの
は至難の業です。

一方エスペラントですと、語根をしっかり身につけるだけで(もっともこれも、それなりに大変
なんですが)、書いたり話したりというアクティブな言語使用の際にも、自信をもって行なうこ
とが出来るんですね。

これが、英語よりもエスペラントのほうが有利であるという数少ない点なんですよね。

そして私は、このエスペラントの長所を最大限に活かせるのが「エスペラントで雑談をするこ
と」(ネット上での雑談なども含む)だと考えたわけです。
まともな英語で自由自在に雑談をするのはたいへんに難しいと思うんですが、しかしエスペ
ラントでなら(少なくとも理論上は)易しいわけです。

私が「雑談」にこだわるのには次のような理由もあります。

(1) 「文献」について考えてみると、エスペラントの文献はきわめて貧弱であるし、また当
    面はこれを大幅に改善することも見込めない。
    だから、文献を売りにすることは出来ない。

(2) 「自由自在に雑談を行なう能力」というのは、誰にとっても必要になるだろうと予想さ
    れるし、また多くの人にとって楽しいものであるとも思う。

(3) 「自由自在に雑談を行なう能力」というのは、小説を読んだり、エスペラント書きのサ
    イトを作ったり、エスペラントをつかって海外旅行をするといった際にも大いに役立つ
    と考えられる。

こういった事情がありますので「雑談が自由にできる」というのを売りにすれば良いだろうと
考えたわけです。

つまり英語はすでに「文献を読む」とか「必要最小限のことを言ったり書いたりする」ために
必要不可欠になってしまっていて、この状況を簡単にくつがえす方法は無いわけですが、
エスペラントは「自由自在に雑談をする」という方面でその利点を活かしてエスペラント話者
を増やし、そこからさらに他の分野での使用を増やしていく、というゲリラ的な戦術をとるしか
ないんだと私は考えたわけですね。

簡単に言えば「英語とエスペラントで棲み分ける」「ニッチを探して、そこに定着して、徐々に
勢力を拡大していく」ということです。
なんといっても英語とエスペラントではあまりにも力が違いすぎますから、正面からぶつかっ
たのではエスペラントに勝ち目はまったく無いわけです。
ビジネスの世界では「大企業が手を出さないことをやることで、中小企業が生き延びる」と
いうことがあるわけですが、エスペラントもそういうことをしないと絶対に生き残ることは出来
ないと私は考えたんですね。

236松戸彩苑:2008/07/01(火) 05:42:54
>>235 の続き)

ame さんは >>232

> 日本のアニメが好きで日本語を学ぶ人も、韓国の映画が好きで韓国語を学ぶ人も、言語
> それ自体に興味を抱いているのではなくてそれを習得することによって得られる楽しさ(ア
> ニメや映画に直に触れることが出来る楽しさ)を得たいから始めた

と書いておられますが、それはたしかにその通りです。

少なくとも現時点では、エスペラントでないとアクセスできないような魅力的なコンテンツを
エスペラント界が作りだすということは不可能だと私も思います。

(すでに存在している作品にエスペラントの字幕をつけることは可能ですが、それは「エスペ
ラントでないとアクセスできない」ものではないわけです。
そもそも魅力的な作品は、ただちに世界の主要言語に訳されるようになっています)

しかし私は、そういうことが出来なくても「自由自在に雑談ができる」ということさえ可能であ
れば、エスペラントは十二分に魅力的なものたりうると考えているんですね。

考えてみれば判ると思うんですが、たとえば日本人とフランス人が日本のアニメやマンガに
ついて「英語で」論じるということは普通にあるわけです。
要するに英語というのは、アメリカやイギリスなどの文化的コンテンツにまったく魅力を感じ
ていない人たちのあいだでも使われているということなんですが、これを考えますと「自由
自在に雑談ができる」のであれば、エスペラントでも良いってことになるんじゃないかって
思うんですよね。

ということで、私はエスペラントが「自由自在に雑談ができる」言語としてやっていけば、生き
延びることもできるし、話者の数が増える可能性もあるんじゃないかと考えてるわけです。

もちろん、このレベルまでエスペラントに習熟するのは(とくに欧米語を母語としていない人
にとっては)楽ではありません。
しかし考えてみますと、将棋・碁・チェスというのは「頭を使い」なおかつ大部分の人にとって
は「やってもカネにならない」ものなんですが、しかし愛好家はたくさんいるんですよね。
ですから、将棋・碁・チェスをやるような感覚でエスペラントをやる人が増えれば良いんじゃ
ないかなと考えてるんですね。

また、アマチュア無線・切手収集・伝書バトなどを見れば判るように、楽しいものであれば、
マイナーであってもそれなりに愛好者がいるんですよね。
(もっともこれらの趣味は、マイナーとは言っても、日本国内にある当該の団体の会員は数
万人はいるんですが)

とにかく「エスペランティストが、エスペラントを楽しんでいる」というのを世間の人に知っても
らうというのが、最良の宣伝になると思うんですね。
現に「エスペラントを利用して海外旅行をする」なんてことは、世間においてもけっこう好意
的に言及されたりしてるんですね。

ですから「エスペラントをつかって世界中の人たちと楽しく雑談をする」そして「そういう活動
ができるんだということを世間の人に知ってもらう」というのが良いと思うんですね。
---

ということで私は「自由自在に雑談ができる」言語としてやっていくことを考えているんです
が、しかし残念ながら、今のところ「あくまでも理論上の話」「潜在的な可能性」というレベル
にとどまっていると私は見てるんですね。

話題はアニメやマンガでも良いし、スポーツ・園芸・音楽・釣りでも良いし、日常生活に関す
ることでも良いんですが、こういったことをエスペラントで自由自在に話すことができる人と
いうのがあんまり多くないような気がしますし、日本人ですと、結局は英語などの欧米語が
得意な人だったりするんですね。

またそれだけではなく、こういったことを話すのに必要な単語が不足・混乱しているというこ
とさえあると思うんですね。

237松戸彩苑:2008/07/01(火) 05:45:07
>>236 の続き)

ここの「エスペラント改造論」スレを見ていただくと判ると思うんですが、たとえば

(1) 「引き分け」に当たる表現が、辞書によってバラバラ。
    http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160642811/173‐175

(2) 「作詞家」という表現は、辞書によってバラバラ。
    http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160642811/177

みたいなことがあるわけですね。
(ほかにもいろいろあるんですが、くわしくは当該スレをご覧ください。
また、このスレに書いたもの以外にも、この手の問題はたくさんあります。
今後もそういった問題について論じていくつもりです)

もちろん術語以外の表現については、複数あっても、ちゃんと理解されるのであれば良い
のです。

しかし、どうも私の見るところでは、エスペランティストというのはこの手の語彙・表現という
のをなめていて「そのうち自然にできる」と思っているので、まともに出来ないということが
あり、辞書を編纂してみて初めてこの手の語彙・表現が大量に不足・混乱していることに気
づいて慌てるわけですが、なにか載せないと仕方がないので、辞書編纂者が適当に考えて
辞書に載せるということがあるから、この手のエス訳が辞書によってバラバラになってしまう
んだと思うんですね。

で、こういう状態では「自由自在に雑談ができる」言語としてやっていくことは不可能ですし、
また、この手の、母語であれば誰でも知っているような概念を表わす語彙・表現が不足・混
乱しているというのでは、エスペラントの信用を大きく下げるような事態が起こりかねないと
も思いますので、私は「現在の文明社会に住む成人であれば誰でも知っているような語彙・
表現」の整備についてうるさく言っているわけなんですね。
---

ずいぶん長くなりましたが、私はこのように考えているわけです。
しかし私も、これでもかなり楽観的だろうなと思いますね。

今後は「英語を頂点とした多言語主義」が徐々に広まっていき、自国内で生活している庶民
であっても、英語に接したり、あるいは英語が必要になったりする機会は、ますます増えてい
くでしょう。

また、翻訳機械も進歩・普及していくでしょうから、そうなりますと、私の提唱するプランが実
現する可能性もどんどん減っていくわけです。

そういうことがありますから、私は長年エスペラントをやっている人たちに対して「残念だけれ
ども、今のようなやり方をしていたのでは衰退するだけなんだよ」としつこく言ってるわけなん
ですが、私の言い方が悪いのかもしれませんが、どうもベテランほど耳を傾けないみたいなん
ですよね。

ベテランの人たちはどうやら

  たしかに問題はあるかもしれないが、これまでこういう状態で何とかやってこれたんだか
  ら、今後も何とかなるんじゃないか。

  ネガティブなことを言うと、これからエスペラントをやろうとしている人たちにマイナスイメー
  ジを与えることになる。

ということを考えておられるみたいなんですが、これほどナンセンスな話はありません。

そもそも世間の人たちから見れば、エスペラント運動というのは完全に「失敗」しているもの
なんですね。
ですからベテランのエスペランティストが「これまで大丈夫だったから」みたいなことを書いて
るのを世間の人たちが読むと、はげしく違和感を感じるはずなんですね。

むしろ私のように「こういう問題があるから、さんざん頑張ってきたにも関わらず、うまく行か
ないんだ」と論じているほうが、よっぽどマトモに見えるわけです。
「少なくとも現状についてはちゃんと判っているんだな」と思うはずなんですね。

残念ながらベテランの人たちはその程度のことでさえさっぱり判っていないのですから、や
はりエスペラント運動は衰退していくしかないのかなと思いますね。

(終わり)

238松戸彩苑:2008/07/01(火) 05:57:42
>>233
私と話したいことがある場合には、私の意見が訊きたいということを明記したうえで書いて
おいていただけると有難いですね。

この掲示板に書いてあることはけっこう読んでると思うんですが、私に対する呼びかけが
無い場合には、たとえ読んでも私のほうに特にコメントしたいことが無くて、「なるほど」「た
しかにそうだよね」と思うだけということが多いですから。


>>234
あとでコメントさせていただきます。

239ベダウリンデ:2008/07/01(火) 08:30:11
>胡人様

>結局エスペラントは、意志の疎通をはかる言語という道具です。使用する人によって様々だという事で、右も左も中立も結局、その人によるわけです。
>所詮道具なので、言語自体が歪んでいるとかではなく、問題があるとすれば、それを使用している人々に結果、帰する様に思えます。
>だから、どの様な方法においてでも、より多くの様々な人々がエスペラントに参加されればそれがひいてはより良い方向に結び付くと思えます。

全く同感です。エスペラント会に所属している方から、このように言って頂けると、
エスペラント界って結構捨てたもんじゃないな、と見直します。
ちょっと希望が出てきました。dankon!

240ベダウリンデ:2008/07/01(火) 09:04:46
>松戸様
>残念ながらベテランの人たちはその程度のことでさえさっぱり判っていないのですから、や
>はりエスペラント運動は衰退していくしかないのかなと思いますね。

「ベテラン」に頼るのはもう諦めましょうよ。
「よろず」でさんざん説得しても全く聞く耳無しではなかったですか。
Nさんなんて、私がここで「予想」していたことまで持ち出して(理念が好きでやっていて、今の人間関係が楽しい、ということ)いました。
「もうこれ以上は言うな」というメッセージでしょう。
松戸さんは松戸さんなりに、頑張ればいいと思います。

検索して他人のブログを見てると、せっかく意気揚々とエスペラント始めても、だんだんと興味が薄れていってしまった様な人も見受けられます。
そういう人は、明確な政治意識で始めたのではなく、なんとなく「平和」って感じに惹かれて始める感じです。
また、私の想像で失礼かもしれないですが、
今時誰もやっないであろう「エスペラント」なんてできたら自慢かも、みたいな「ネタ」として始める人も結構いるんじゃないか、と思ってます。
そういう人たちはきっと、(私のように)サークル活動は求めてないと思います。
だから、ネット上で気軽にエスペラントを「使える場」があるといいなあ、と思います。
日本語併用で外国人も交えて会話する場とかあったらいいと思います。(ROMしてるだけでも)
(初心者にはエスペラントオンリーのサイトは存在しないに等しいんです、どうせ読めないから)

241ame ◆HREx5v8CFA:2008/07/01(火) 15:53:36
>考えてみれば判ると思うんですが、たとえば日本人とフランス人が日本のアニメやマンガに
>ついて「英語で」論じるということは普通にあるわけです。
>要するに英語というのは、アメリカやイギリスなどの文化的コンテンツにまったく魅力を感じ
>ていない人たちのあいだでも使われているということなんですが、これを考えますと「自由
>自在に雑談ができる」のであれば、エスペラントでも良いってことになるんじゃないかって
思うんですよね。

なるほど。言われて見れば確かに、そこにエスペラントの活路があるかもしれない。
例えば、日本の学者とフランスの学者が共同研究したりするときは、英語を使って意思の疎通をするんですが
そりゃ、フランス人学者のほうが多少なりとも日本人学者より得意だったりするけれども
それでもやっぱり、相応の苦労をして英語を使っています。

そういった場面に、「英語よりも簡単に習得できて公平」というエスペラントの武器を活かせれば...。

242松戸彩苑:2008/07/06(日) 10:09:59
最近は暑くって、まとまった文章を書く気になかなか成れなかったんですが、みなさまはい
かがお過ごしでしょうか。

>>234
エスペラントの会話を楽しんでおられるようで、たいへん結構なことだと思います。
私もエスペラントの「会話」「雑談」を重視・奨励しているわけですが、この意見の正しさが
改めて確認されたように思いました。

ただし

> ただ松戸さまとの相違点は、用語、単語についての考え方の様です。
> 難しい事は分りませんが、エスペラントで会話すればするほど、日本語的な言い回しを考
> えるよりも、今自分は何を人に伝えたいのか、とエスペラントで考える様になってきます。
> 自然、日本語的な言い回しをしない様に会話している今日この頃です。文学の翻訳はま
> た別の問題でしょうが・・・

と書いておられるのを拝見しますと、私の言わんとしているところが伝わっていないのだな
と感じないわけにはいきません。

「エスペラント改造論」スレに私が投稿した文章を読んでいただければ、私の言ってるのは
「日本語的な言い回し」といったレベルの問題ではなく

  現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば誰でも知っているような物・事に
  ついて、エスペラントは厳密に表現できるようになっていない。

  エスペラントが発表されてから100年以上も経ってるのにこのような状態なのだから、
  今までのようなやり方ではダメだということであるし、ザメンホフの見通しは甘かったと
  いうことでもある。

と論じているのだということが判るはずなんですけどね。
つまり私は

  どう考えても、文明国の言語であれば必ず備えているであろうような語彙・表現が、エス
  ペラントでは不足・混乱している。

ということを言ってるわけですね。

まぁ確かに、「エスペラント改造論」スレで私があげているような表現というのは、ちょっと会
話をする程度であれば、ほとんど必要が無いようなものかもしれません。
それは以前から認めているんですが、しかしだからといって「今までのように放ったらかしに
しておいても良い」ということにはならないはずです。

私の考えでは「こういった語彙・表現をちゃんと作っておかないことが、エスペラントの潜在
的な可能性をおおはばに削いでいる」「逆に、こういった語彙・表現をちゃんと作れば、エス
ペラントは今まで以上に素晴らしい言語になる」と思うんですね。

(私もそうですが)みなさんはエスペラントを英語に太刀打ちできるようにしようと考えている
わけですから、こういった問題についても真面目に考えていただきたいと思います。

そうしないと、いつまでたっても「それなりに表現できるんだが、ちょっと難しいことになると
精密に表現することが出来ない言葉」だということになってしまいます。
これでは英語に太刀打ちできるわけがありません。

世間の人たちは「それだったらブロークン・イングリッシュとあんまり変わらないし、通用度や
学習環境といったことを考えれば、エスペラントにはメリットが無い」と判断するだろうと思い
ますね。

243松戸彩苑:2008/07/06(日) 10:10:41
>>242 の続き)

また、欧米においてもエスペラント運動は停滞ないしは衰退をしているわけですが、これも
私の指摘するような「日常生活に必要な語彙・表現の不足・混乱」というのが原因の一つに
なってると思うんですね。

そもそも、ほんとうに学習容易で、なんでもちゃんと表現できるようになっているというので
あれば、そういう便利なものが欧米で広まらないわけが無いんですね。
もちろん英語には敵わないでしょうが、しかしエスペラントがほんとうに便利であれば、エス
ペラントの便利さや楽しさというものがエスペランティストの周囲にいる人にも理解されて、
そういう人たちのなかからエスペラントを始める人が出てきて、少しずつではあっても話者
が増えていくというふうになっても良さそうなものです。

しかし現実には、そうなっていないわけで、日本以上にレベルの高い運動をしていたはずの
欧米で、エスペラント運動が停滞・衰退してるんですね。
こういったことを考えますと「日常生活に必要な語彙・表現の不足・混乱」というものがエス
ペラント運動の足を引っぱっているのではないかと疑わざるを得ないんですね。

エスペラントというのはきわめてチグハグな発展のしかたをしてまして、詩にはむやみやたら
と力を入れてきたのですが、日常生活に必要な語彙・表現のほうは「放っとけば自然にでき
る」とでも考えていたのか、それとも社会改革を目指していたので、日常生活に必要な語彙・
表現といった「形而下」の問題には関心が持てなかったのか、理由は判りませんが、とにか
く現在に至るまで放ったらかしにしてたんですよね。

そのせいでエスペラントは、ノーベル文学賞候補を2人(カロチャイ、オールド)も出している
一方で、「3つの角(tri anguloj)」と「複数の三角形(trianguloj)」を口頭で区別することが出
来ないという、きわめてイビツな発展をしてきたわけです。

それで私は、このような歪みをみんなで直していくべきであると訴えているわけです。
一生けんめい詩を作っている人たちには悪いのですが、どう考えても、詩よりも、日常生活
に必要な語彙・表現のほうが、多くの人たちにとって必要だと考えたからです。
(もちろん、詩は必要ないと言ってるわけではありません)
---

どうもエスペラント界のベテランの方というのは「エスペラント界の常識」と「自分の経験」だけ
で判断するので、「日常生活に必要な語彙・表現の不足・混乱」と言われてもピンとこないみ
たいですね。

しかしそれでは「すでに英語が国際語」「エスペラントなんて失敗したことが歴史的に証明さ
れている」と言ってる世間の人たちと発想がまったく一緒なんですよね。
この人たちも「世間の常識」と「自分の経験」でしか考えられないから、エスペランティストの
言ってることにまったく耳を傾けないんですね。

で、考えていることのレベルが同じであれば、数の多いほうが勝つに決まっています。

これではいけませんので、私があげるような「エスペラント界全体や社会全体における具体
的な事例」と「それについての解釈」といったことにも注目していただきたいと思いますね。

(終わり)

244松戸彩苑:2008/07/06(日) 10:30:00
>>243 の続きを書きます。

私は「エスペラントは文明語としてちゃんと出来ていない」とか「今までのエスペラント運動
のやりかたには問題がある」とか主張していますが、しかしこのような意見をベテランの方
たちが見聞きすると、ひょっとすると

  これまでにエスペラントを介して築いてきた「友情」や「信頼」はニセモノである。

と言われているように感じるのかもしれないですね。
しかし当然のことながら、私はそういうことを言ってるわけではないのです。

ベテランのみなさんがエスペラントを利用して得たものがニセモノであるはずがありません。
ただ、これまでのやりかたを改めれば、もっと運動が大きくなり、楽しいことが増えるのでは
ないだろうかと言っているだけなのです。

長年エスペラントをやってこられた方というのは、あまりにもエスペラントと密着しすぎていて
(というか、エスペラントと精神的に一体化してしまっていて)、エスペラントやエスペラント運
動を少し離れたところから冷静に観察して得られた意見というものを受け入れられなくなっ
ているのではないかと、私は思ったんですが。

245松戸彩苑:2008/07/12(土) 10:36:15
>>240
たいへん遅くなりましたが、私もそうなんだろうなと思いますね。

私としては「日常生活に関する語彙・表現」の整備だけは、政治思想に関係なく出来るの
ではないかと思っていたんですが、それもどうやら無理っぽいですね。

やはり新人さんに期待したほうが良いんでしょうね。

246松戸彩苑:2008/07/13(日) 09:35:42
藤原直哉という経済アナリストの方がいらっしゃるんですが、この方が書いた『国家破綻
Ⅱ』(2004年 あ・うん)という本のなかに、エスペラント運動を進めていくうえでも参考に
なりそうなことが書いてあったので、引用することにします。

なお、引用文中に「思い」という言葉が何度も出てきますが、これは「将来の目標」「ビジョ
ン」といった意味です。

  成功している企業は、みな会社の中で思いがきちんと定義されている企業である。自
  分たちは誰のために、何をすべきなのか。この事業が社会にどのように貢献し、必要と
  されているのか。そういうことをきちんと経営者が思いとして口にし、社員教育を徹底し
  ている企業は、勝ち組に入っている。

  「そうはいっても、そんなことでは飯が食えない。とにかく今日の飯代を稼ぐために働い
  ているんだ」というような会社は、形はあるが、思いがない。そういう会社ほど変化に弱
  いので、ちょっとした状況変化に経営が傾き、危うくなっていくのである。

  みなさんもご存じだと思うが、NHKの『プロジェクトX』という番組がある。毎回さまざまな
  話が出てくるが、共通したテーマはただ一つ。偉大な人が偉大な仕事をするのではなく、
  普通の人が偉大な仕事をする物語なのである。

  本当の企業の力というのは、じつはそこにあるのではないか。どこかのプロ野球チーム
  のように、金にまかせて他球団の四番打者ばかりをそろえても、チームワークが整わな
  ければ優勝することはできない。

  これと同じようなことが、大なり小なり企業でも起こっている。とくに外資系の企業に顕著
  だが、ヘッドハンティングで優秀だと言われる人材を集めてきても業績が上がっていか
  ないのである。

  逆に、普通の人をきちんと教育している企業のほうが業績を伸ばしている。それは先に
  述べたように、思いを共有化しているので変化に強いからである。だから、人材が長続
  きし、その人がまた新しい社員を育てるという好循環をもたらしている。

  じつはアメリカでも、本当に好業績を続けている会社は、スタープレイヤーが集まった会
  社ではなく、普通の人が愚直なやり方で、だが思いを持ってやっている会社なのだ。

  一九九〇年代から、企業改革の方法論として、リストラクチャリングやアメリカ式コーポレ
  ート・ガバナンス、アウトソーシング、情報インフラの導入など、さまざまな理論が日本に
  入ってきたが、本当によい業績を継続的にもたらすための決定打ではなかった。九〇年
  代にアメリカから入ってきた経営手法やITが発達してできた経営手法は、一時的に会社
  を良くすることには貢献したが、一〇年、二〇年といった長期的に安定して業績を向上さ
  せる手法ではなかったのである。

  むしろ、会社経営を場当たり的にしてしまった感が強いように思う。たとえば、コーポレー
  ト・ガバナンスと称して誰にでもわかる経営を目指したために、素人でもわかるような経
  営しかできなくなり、本来専門家でしかわからない独自の投資が行なえないという弊害
  も出てきている。

  一九九〇年代に登場した経営の教科書は間違っていたとまでは言わないが、少なくとも
  中途半端なものであった。しかし、もっと抜本的に企業経営のやり方を変えていかないと、
  うまくいかないということだけははっきりした。

  世界的に見ても、継続的に好業績を続けている企業は、「プロジェクトX」のように、普通
  の人が偉大な仕事をしているところなのである。アメリカに経営品質賞というものがある
  が、その考え方はまさしく「プロジェクトX」そのものである。普通の人が偉大な仕事をする
  仕組みづくりを行っている企業を評価するものなのだ。そのため、普通の人をいかに教育
  して、チームワークを高めていくかということが、企業成功の方程式として改めて見直され
  はじめている。

247松戸彩苑:2008/07/13(日) 09:36:19
>>246 の続き)

  「プロジェクトX」の世界を築き上げるには、気持ちの問題が非常に重要になる。とくに、経
  営者は顧客にもいい顔をし、株主にもいい顔をなどと八方美人的な考えでいると、その場
  限りの経営で終わってしまいがちだ。時間をかけて人を育てていかなければならないとい
  う強い信念を持って経営にあたらなければ、本当にいい仕事をすることはできない。社長
  任期の三年間でうまく業績をあげて、高額な退職金をもらおうという発想の経営者には時
  間をかけた経営も人材の育成もできないし、継続的な業績向上ものぞめない。

  二一世紀に入って、そうしたことがはっきりと見えるようになってきた。企業成功の方程式
  は、もはやアメリカ型の教科書ではない。アメリカ型教科書とは、言ってみればウォール街
  のための教科書。「ウォール街型教科書よ、さようなら」である。これからはウォール街の
  常識とは別のところに、企業成功の方程式が存在する。

  (同書213〜217ページ)

248松戸彩苑:2008/07/27(日) 01:21:18
私は ladio さんから教えていただいた若田恭二(著)『大衆と政治の心理学』を読んでいる
んですが、この本を読んでいて、私は「世間の人たちのメンタリティ」よりもむしろ「エスペラ
ンティストのメンタリティ」のほうが気になったんですね。

私の見るところでは、エスペランティストは

  本来は、政府や国際機関がエスペラントを推進すべきなのである。

  政府や国際機関がエスペラントをやるのが当たり前なのであって、これらの組織の代わ
  りに自分たち(エスペランティスト)だけが現在エスペラントをやっているわけだが、こうい
  う状態は根本的におかしい。

って考えてるんですね。

ですから、政府や国際機関がエスペラントに対して援助をしたりするのは「当たり前」なんだ
っていう意識がどこかにあるんだと思います。

また逆に、ちょっと前にポーランドの国際放送がエスペラントの放送をやめたわけですが、
ああいう事があると、あたかも永遠の愛を誓った恋人に突然捨てられたかのように、本気
で腰を抜かすことができるんですね。

私なんかは、欧米においてエスペラント運動が停滞ないしは衰退してるんだから、エスペラ
ント放送が無くなるのも止むを得ないだろうとしか思わなかったんですが、しかし「本来は、
政府や国際機関がエスペラントを推進すべきなんだ」と信じて疑わない人にとっては、絶対
にあってはならない出来事だったみたいですね。

ということで、エスペランティストの考えている事というのは、世間の人たちの考えとは根本
的に違っているわけです。
このような意識のズレというのを無くしていかない限り、いくら宣伝しても効果が無いし、世
間の人たちから認められることも無いと思いますね。

249松戸彩苑:2008/07/27(日) 11:49:05
最近、私が考えていることを書いてみようと思います。

ピジン・クレオール語というのがありますが、これは19世紀末にフーゴー・シューハルトとい
う言語学者が本格的に研究をはじめるまでは、言語学者は「まともな言語」だとは考えてい
なかったんですね。

正確に言いますと、シューハルトの研究以降も、ピジン・クレオール語をまともな言語だとは
考えない言語学者はたくさんいたわけで、言語学の世界でもピジン・クレオール語をまとも
な言語だと考えるのが普通になったのは20世紀後半になってからのようなんですね。

また、現代ヘブライ語にしても、エリエゼル・ベン・イェフダという人が復興運動をはじめてか
らしばらくの間は「絶対に不可能」だと思われていたわけです。

それから「手話」だって、長い間まともな言語体系だとは思われていませんでした。

ということで、これらは皆「昔はまともな言語だと思われていなかったのだが、現在ではちゃ
んと認められている」というわけなんですが、これらが「まともな言語」だと認められるように
なった理由というのを、もっと考えてみようと思ってるんですね。
---

それから、ヨーロッパには現在でもラテン語を自由自在に使いこなすような人がいますし、
インドには現在でもサンスクリット語に堪能な人がいるわけなんですが、そういう人がいる
からといって「ラテン語やサンスクリット語は生きた言語だ」とは言われないわけです。

もちろん「ラテン語やサンスクリット語は、まともな言語ではない」などと言う人はいないわけ
なんですが、しかし少数ながら流暢に話すことのできる人がいるからといって「生きた言語」
であるとは言われないのはなぜなんだろう?と思ったわけです。

私がこういうことを考えようと思ったのは、言うまでもなく「いまだにエスペラントが認められて
いない」からなんですが、現時点での予想では「その言葉を使って生活している共同体が存
在するか否か」という点で区別されているのではないかと思います。

(終わり)

250松戸彩苑:2008/07/27(日) 12:05:54
>>249 に補足しますが、世間の人たちの間では、エスペラントというのはラテン語みたいな
ものだという印象があるのではないでしょうか。

つまり「生活感が感じられない」「浮世離れしている」「ごく少数の熱心な人たちが、俗人に
は理解できないような小難しいことをしている」といったイメージですね。

まぁ、こういったことについて、もっと考えてみようと思っております。

251Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/07/27(日) 23:18:29
まともと見られるには、政府があって、軍隊があって、
多少国なり、民族なりがないと無理かもしれませんが、
現在のところ、19世紀のパレスティナに移住したユダヤ人のような
需要を持った集団がいないというのが問題ですね。

そういえば、人工言語アルカは掲示板を引っ越しました。
エスペラントも最終的には『ARIA』のような文学作品の調味料という
他の芸術言語と同様の地位に落ち着くかもしれません。
伝統芸能の世界です。
http://www2.atchs.jp/kakis/

252松戸彩苑:2008/07/28(月) 23:48:18
>>251
エスペラントを話す人間が「国」を持つってわけにはいきませんので、「国」なしでエスペラン
トを発展させなければならないんですよね。

そういや昔(20世紀前半に)、ヨーロッパに「エスペラントのみを使う街」を作るっていう構想
があったらしいんですが、結局実現しなかったんですよね。

253Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/07/29(火) 05:21:31
>エスペラントを話す人間が「国」を持つってわけにはいきませんので、
多民族国家の共通語、公用語、国語となることは理論的には可能です。
それはザメンホフの本来の目的の一つでもあったわけです。

254松戸彩苑:2008/07/29(火) 23:26:34
>>253
エスペラントが「多民族国家の共通語、公用語、国語となること」が「ザメンホフの本来の
目的の一つ」だということは私も当然存じ上げておりますし、おそらく Kakis Erl Sax さんも
ご存じだと思います。

しかし、ヘブライ語復興運動もエスペラント運動も1880年代に始まったわけですが、前者
は完全に成功したのに対して、後者はいまだに不本意な状態にあるわけですね。
と言うか、世間の多くの人は「エスペラントはすでに完全に失敗している」と考えてるわけ
です。

このように、ヘブライ語復興運動と比べますと、エスペラント運動のダメさ加減がよく判るん
ですね。

また、パプア・ニューギニアには「トク・ピシン(Tok Pisin)」という英語から派生したクレオー
ル語があるんですが、これが今ではパプア・ニューギニアの公用語の一つになってまして、
国会での討論にも使われているんですね。
(ただし議事録は英語で書かれるそうですが)

言っちゃあ何ですが、もともとトク・ピシンを使っていた人たちの大部分は、近代的な教育な
んてものはほとんど受けていなかったはずなんですね。
そういう人たちが作りあげた言語が、今や一国の公用語となっているわけですが、これに
対して、エスペラントの話者は世間の平均以上の学歴をもっているのにも関わらず、エスペ
ラントのステータスは、トク・ピシンに遠く及ばないわけですね。

で、「これはどうしてなんだろう?」と考えざるを得なくなるわけですが、「やっぱり国とか民
族主義みたいなものが無いとダメなのかな」という話になったわけですね。
私もこれを完全に否定することは出来ません。
やっぱりそういうものが無いとダメなのかなという気もいたします。

ただ一つ言えることは、私はロバート・セントジョン(著)『ヘブライ語の父ベン・イェフダー』と
いう本を持っているんですが、この本を読みますと「ヘブライ語復興運動と比べると、エスペ
ラント運動は真剣さが足りない」ように思えるんですよね。

そこが問題じゃないかと思って、私はこの掲示板でいろいろと言ってるわけなんですが、長
年エスペラント界におられる方たちには、どうもなかなか判っていただけないようですね。

255松戸彩苑:2008/07/29(火) 23:31:22
>>254 に補足しますが、エスペランティストの方たちが頑張っておられることは、私だって
よく判っているんですよ。

それはよく判るんですが、しかし、どうも頑張る方向性が良くないんじゃないかって思うん
ですね。

256松戸彩苑:2008/08/01(金) 03:59:52
1954年以来、世界エスペラント協会(UEA)は、ユネスコと関係を結んでいます。

そういうことがあって、世界エスペラント協会の主催で年に一度開かれる「世界エスペラント
大会(UK)」の際には、ユネスコ事務局長の名前で祝辞が届きますし、日本ユネスコ協会
連盟のサイト内にあるリンク集のなかにも、日本エスペラント学会が入っていたりするわけ
です。
http://www.unesco.jp/contents/link/link2.html

(余談ながら、UKにおけるユネスコからの祝辞は、UEAの機関誌「Esperanto」にしか掲載さ
れませんので、世間の人たちはまったく知らないはずです)

このように「ユネスコからも認められている」ということが、エスペランティストにとっては大き
な誇りや自信となってるものと思われます。
---

しかし私は、このような見方に、あえて異議を唱えたい。

たしかにユネスコが、エスペラントに一定の価値を認めていることは間違いありませんが、
しかし冷静に考えてみますと、ユネスコがエスペラント運動のためにしてくれているのは

(1) 1954年以来、世界エスペラント協会と公式な関係を結ぶ。

(2) 世界エスペラント大会に祝辞を送ってくれる。

という事だけではありませんか。

エスペラント界には「政府や国際機関がエスペラント運動を推進すべきなんだ」と考えてい
る人が少なくないと思われますが、ユネスコみずからがエスペラント運動のために積極的
に活動をしたということは一度も無いんですね。

もちろん、ユネスコがエスペラントのために予算を割くというのは困難だと思います。
しかし例えば、ユネスコが発行している雑誌に、エスペラント運動に関する記事を載せたり
するという事であれば、おカネをかけずに出来るはずなのです。
でも、そういうことをしたという話は聞いたことがありません。

私じしんは、ユネスコが発行している雑誌を読んだことはありませんが、しかしもしもユネス
コの雑誌にエスペラントに関する記事が掲載されれば、エスペラントの雑誌がそれを取り上
げないわけが無いんですね。
しかし、そういう記事を読んだことがありませんから、やはりそういうことをしてくれたことは
無いのでしょう。

それにだいたい、ユネスコが本当に大事だと判断すれば、世間に対して、協力や寄付を呼
びかけることだって出来るんですね。
日本ユネスコ協会連盟のサイトを見ますと「世界寺子屋運動」なるものを展開していて、募
金を呼びかけていますが、もしもユネスコが本気でエスペラントが大事だと考えるのであれ
ば、こういうことだって出来るはずなのです。
でも現実には、やってないんですね。
---

このように考えていきますと、結局ユネスコは、エスペラントの意義を部分的には認めている
が、しかし「政府や国際機関がエスペラント運動を推進すべきなんだ」という考えはまったく認
めていないんだと判断するしかないんですね。

1954年以来、UEAはユネスコに対して定期的に、エスペラント運動に関する情報を送り届け
ているはずなんですが、しかしそれにも関わらず、上記のような対応しかしてくれないというの
が、残念ながら事実なんですね。

(終わり)

257松戸彩苑:2008/09/20(土) 15:59:16
エスペラント運動の歴史を勉強すると判るんですが、日本においても欧米においても、19
50〜60年代のエスペラント界には、今では考えられないくらい知識人がたくさんいました。

それで現在でも「エスペラント運動をこの時代のようにしたいものだ」と考えてる人が少な
くないみたいなんですが、しかし私は、この考えには賛成できません。

というのも「1950〜60年代のエスペラント界には知識人がたくさんいた」というのは事実
なんですが、しかしそれにも関わらず、それ以降はエスペラント運動は「落ち目」になったか
らなんですね。
つまり

  知識人がたくさんいたにも関わらず、エスペラント運動は落ち目になった。

という事実がありますから、知識人に過大な期待をかけても仕方が無いと私は思うのです。
また

  1950〜60年代にエスペラント界にいた知識人たちの次の世代の知識人たちは、エス
  ペラントを支持しなくなった。

  つまり、1950〜60年代にエスペラント界にいた知識人たちは、自分たちの後輩たちを
  エスペラント界に引き入れることが出来なかった。

  また言い方を換えれば、エスペラントは知識人層から見放された。

ということもあるわけです。

私はこのように考えますので、知識人に期待をしたり、1950〜60年代のエスペラント界を
羨ましがったりする気にはまったくなれないのです。

むしろこれは「知識人をアテにしてもうまく行かない」ということを実証しているだけなのだと
思うんですね。
---

これまでにも何回か述べたと思うんですが、パプアニューギニアで発達した「トク・ピシン」と
いうクレオール語は、エスペラントとはまったく正反対の条件のもとで発展してるんですね。

トク・ピシンというのは元々は、パプアニューギニアを訪れた英語話者と現地人との接触に
よって生まれた片言の共通語だったわけです。

で、現地人は近代的な教育なんか受けてるわけが無いですし、欧米人のほうだって船乗り
とかですから、高い教育を受けてる人間はそんなに多くはなかったと思います。

しかしそれにも関わらず、トク・ピシンは大いに発達・普及して、現在ではパプアニューギニ
アの公用語の一つとなってるんですね。

このように考えますと、エスペラントとは好対照といって良いわけです。

で、どうして知識人の多かったエスペラントが落ち目になって、逆に、話者のなかに教育を
受けた人間がほとんどいなかったトク・ピシンが発展・普及したのかと考えますと、やはり
「日常生活のなかで使っていたか否か」という点が対称的な結果を生んだんだと思うんで
すね。

ということがありますから、私は「たとえ娯楽でも良いから、エスペラントを日常生活のなか
で使う人を増やすべきなんだ」と言ってるわけですね。

258松戸彩苑:2008/09/20(土) 16:10:17
>>257 の続き)

それから以前から気になっていたのですが、エスペランティストというのはどうも

  高級なことが出来れば、それよりもレベルの低いことは全部できるんだ。

というような考えをもってるみたいに私には見えるんですね。
もっと具体的に言いますと

  文学作品を書く(という高級な)ことが出来るから、日常生活に必要な語彙(などという
  低レベルの語彙)は十二分にそろっているんだ。

といった考え方をしてるってことですね。

こういう考えを持っているから、私が一生けんめいに「日常生活に必要な語彙・表現を整備
しないと、エスペラント運動は落ち目になるばかりですよ」と言っても、ぜんぜん理解できな
いんじゃないかと思うんですね。

しかし、こういう考えというのは明らかに間違ってるわけですね。

たとえて言えば、小学校の1〜5年で習う漢字を憶えずに、6年生で習う漢字だけをぜんぶ
憶えたことをもって「小学校で教える漢字をぜんぶ身につけました」と言ってるようなものな
わけですが、もちろんこんなのは間違ってるわけです。

結局、「高級」だろうが「低級」だろうが、そういうことには関係なく、整備するとか憶えるとか
しないとダメなわけです。

私の見るところでは、エスペラント界には「抽象的」にばかり考えるクセがあって「具体的」に
考えようとはしない人が多いという印象を受けるんですが、これもその一例だと思いますね。

具体的に考えようとしないから、トク・ピシンにも負けてしまうんじゃないかと思います。

(終わり)

259松戸彩苑:2008/09/28(日) 11:37:53
私は今まで「娯楽を利用しよう」とさんざん言ってきたわけですが、たとえ娯楽を利用したエ
スペラント運動を展開したとしても、パチンコや競馬が好きだなどというような人間は、やっ
ぱりエスペラントなんかやらないと思うんですね。

エスペラントで遊ぶにしても、数千もの単語を憶えて使いこなせないといけないわけですか
ら、勉強するのが好きだという人しかエスペラントをやるわけがないのです。
---

エスペラント界に長年いる人であれば、エスペラントを始めたものの数年でやめてしまった
という人を何人も知ってるはずです。

私もそういう人を何人か知っていますが、そういう人たちだって決して頭が悪かったり、い
い加減な人間だったりしたわけではないんですね。
かなり頭も良く、真面目な人たちだったんですが、それにも関わらず挫折してるんですね。

私は、こういう人たちを挫折させないための方法が必要だと思って、「娯楽を利用しよう」と
言ってるわけです。
---

また、町田健という言語学者が『言語学が好きになる本』(1999年 研究社)という本のな
かでエスペラントについて論じていますが( >>16-18 )、このなかに

> 結局エスペラントは、クラシック音楽とか日本舞踊とか俳句のような、一種高尚な趣味の
> 一つといった雰囲気に包まれているんでして、国際語としての実用性を発揮するのは、
> 残念ながら難しい状況にあるといえるでしょう。

と書いてあるんですね。

この文章を書いた町田健という人は、東大の大学院を出たプロの言語学者であり、ソシュ
ールの解説書なんかも書いてる人なんですが、そういうきわめて頭の良い人でさえも、エ
スペラントのことを「一種高尚な趣味の一つといった雰囲気に包まれている」と言ってるん
ですね。

こういう知的な人物から「高尚だ」と思われてしまうようでは、広まるわけがありません。

やはりエスペラントは、もっともっと大衆化しないとダメだと思いますね。

(終わり)

260松戸彩苑:2008/09/28(日) 12:47:15
たとえ遊びであっても、現時点でエスペラントをやろうと考える人というのは、とても貴重な
人材なんですね。

なんせ、日本共産党や、町田健氏のような優秀な言語学者でさえもエスペラントのために
何かしようとは思わないわけですから、これは当然なんですが、しかしこの当たり前のこと
がまったく判っていないエスペランティストが多いんですね。

こういうことが判っていないから、欧米や日本のエスペラント運動は停滞・衰退してるんだ
と思います。

261松戸彩苑:2008/10/11(土) 12:21:15
鈴木孝夫、田中克彦(著)『対論 言語学が輝いていた時代』(2008年 岩波書店)という
本がありますが、この本のなかに「言語学者はエスペラントに好意的ではない」という話が
出てきます。

  【田中】(中略)ところで、エスペラントにいちばん反対するのが言語学者なんです。とい
  うのは、一八六六年のパリ言語学会の規定に、「言語の起源に言及する論文は採用し
  ない」というタブーがありましたが、それと「新しい国際語について議論する論文は載せ
  ない」というのがセットになっているんです。一八六六年頃というのは目白押しに新しい
  ことばの提案がでてきた時代だから、その流行をシャットアウトするために、言語学会
  がそういう規程を設けた。そしてボラピュックができて、エスペラントが発表されたのが
  そのちょっとあと、八七年なんです。言語学者は本質的に新しいことばをつくることに敵
  意を示している。

  それからもう一つ ― これはぼくの分析ですよ ― ヨーロッパの言語学の伝統の中に、
  人間がことばをつくってはいけないというタブーがあるんですよ。イデオロギー的に人間
  がことばをつくるのを許さない。これは強いですよ。ことばは神がつくったものだからとい
  うんですね。

  【鈴木】無意識の抵抗ね。

  【田中】言語学の教育、教科書を通して教師の心情にもそれがあるから、エスペラントを
  ばかにする習慣がずっとあって、ぼくにもそれはあったんです。「ばかにする」という言葉、
  ちょっと適切ではないけれどもね。

  【鈴木】そう。あんまりシンパセティックでない。心情的に何か賛成できないと言うのでし
  ょうが、私には、どうしてもやはり世界共通語は理屈の上から考えてもできないし、また
  あるはずがないというさっき話した考えがある。ただ、現実に共通語が必要な面は認め
  るから、その範囲に限って使用するのは止むを得ない。

  (同書101〜102ページ)

この引用文の最後の部分で、鈴木氏が

  私には、どうしてもやはり世界共通語は理屈の上から考えてもできないし、またあるは
  ずがないというさっき話した考えがある。

と言っておられますが、この「さっき話した考え」というのは、おそらく次の箇所だと思われ
ます。

  【鈴木】私は言語は環境に対応して変化すると言いましたが、言語のすべての面がいま
  の知識のレベルでは、日本語がこうなっているのは日本人が住んでいた環境の結果だ
  とすべてを一対一にきれいに説明できるわけではないけれども、日本の風土とアラビア
  などを比べると、日本は世界でもすごく雨が多いので、家のつくりや衣服、味噌醤油にし
  ても、キノコ類にしても日本の文化というのは大体湿り気を前提としている。女の肌がす
  べすべ餅肌なんていうのも日本の湿りのせいであって、ヨーロッパ人の女の肌がサメ肌
  なのは風土なんですよね。

  それに合わせて日本語の語彙というのは、やはり日本人が住んでいる四季が変化する
  環境に適合するように選別されたというか、そうなっているわけね。アラビア語ではラク
  ダの語彙が何百とあることがよく例に使われるけれども、やはりその場所で生きていく
  ために、その民族が必要とするものに語彙が集中するという形で、結果的に言語の多
  様性がそこにできる。ただし、言語というのは一ぺんできてしまうと、環境が変わっても
  すぐ明日から変えますというふうな一対一の即時変更性がないために、移住したため
  に風土的な裏付けを失うとか、時代遅れになってしまった言語特徴、昔の文化の段階
  で適合したものがまだ残っているということがあったり、また、よその言語の影響を受け
  るとか、簡単にいかないところがある。けれども、人間の言語というのは、人間が違った
  環境に出会っても自分を壊さずあまり変化させずにいられるために、変える必要のある
  中間世界としての文化の一部であるがゆえに、どうしても変わらざるを得ない。

262松戸彩苑:2008/10/11(土) 12:22:41
>>261 の続き)

  そうなってくると、地球環境が均一ではない以上、地球規模に広がった人類の言語が
  どこでも同じ一種類になるはずがない。そして地球環境を均一にしようとすれば、人工
  のエネルギーでもって北極は温める、南洋は冷やすということです。これがまさに現代
  社会がいまグローバリゼーションの名の下にやっていることです。南方の涼しい竹の風
  通しのいい家をコンクリートにして冷房し、北国では石油を使って暖房するというふうな
  エネルギー消費の非常に多い、自然を破壊して人工環境に変える方向へと人間が収
  斂しているわけですね。でも人間が環境を人工化するのはそろそろ限界です。同じよう
  に、世界中の違った環境に適応するために異なった文化をもっている多種多様な人間
  が、一堂に会して同じ言語で会議をするというのも、もともと無理なことなんです。本当
  はするべきではない。

  じゃ国際語は要らないのかというと、世界中を旅行してまわる人が多い今みたいな現状
  では、ホテルとか空港での言語などは単一の言語にしてもかまわない。ただ、一般の日
  常生活とか人々の感情まで世界中の人が単一の言語で喋るべきだとか喋ったらいいな
  というのは、幻想に過ぎないし、あり得ない。つまり、いろいろな人間の住む環境が違う
  以上、この違いに対応するために言語が違うのは当然どころか、必然なんですから。だ
  から人間にとって大事な部分は住む場所が違えば違うのが当たり前だと言っているの
  です。

  (同書94〜96ページ)

ずいぶん難しいことを考えてるものだと感心せずにはいられませんけれども、この引用文を
読んで感じるのは

(1) とりあえず、書いてあることは正しいと思う。
    しかし、だからといってエスペラントを否定する理由にはならないとも思う。

(2) ひょっとすると鈴木氏も「エスペラントというのは民族語を全廃することを目標としてい
    る」というふうな誤解をしているのではなかろうか。(してないかもしれないが)

    「国際共通語」という名称に問題があるのかもしれない。
    民族語における「共通語」というのは、方言にとって代わるべきものだと考えられるこ
    とが多かったから、「国際共通語」は同じことを世界規模で行なうものだろう、などと
    誤解する人がたくさんいても当然なのかもしれない。

    だから我々は、エスペラントを宣伝する際には、必ず「そうではない」と何度も強調す
    べきであろう。

(3) こういうことを考えられる人というのは、たしかに頭が良いのだろうと思うが、しかし、
    その頭の良さというのは、エスペラントを実際にやってみることなしに全否定してしま
    うという、まことに困った態度を生んでいる。

    また、こういう人を理論や理念で説得するのは、きわめて困難であると思われる。

それから鈴木氏は「平等と言うけれども、ヨーロッパ語中心じゃないか」という、よくある疑問
についても言及しておられます。

  【鈴木】ヨーロッパでは、歴史的にフランス語の大変に優位な時代が一九世紀まであって、
  それから英語に移っているのだけれども、英語、またはフランス語だけが威張るのはけし
  からん、というわけで、エスペエラントというヨーロッパ語全体のごったまぜみたいなもの、
  ヨーロッパ語の簡略版みたいなものを普遍言語にしようという考えが出てきたのは無理
  もない。けれども、私が田中さんにエスペラントのことを伺いたいいちばんの理由は、ヨー
  ロッパ以外の全世界の民族言語がエスペラントから閉め出されているのは、「すべての
  人に等距離」という平等理念から言えば、おかしいじゃないか、あまりにヨーロッパ中心
  じゃないか。なぜ日本の学者で、モンゴル語もでき、日本語もできる田中さんが、不満と
  か文句を言われないのかなというのが私の疑問なんです。

  【田中】必ずそれは出てくる疑問なんです。国際語だなんていったってヨーロッパの言語
  じゃないか、ヨーロッパの言語の変形だと言うんですけれども、そうはいってもアジアの
  共通語が現実問題としていまつくれないでしょう。ぼくはエスペランティストじゃないけれ
  ど、エスペラント語とその運動、支持者のことをなるべく理解してあげようと思っている。

  (同書99ページ)

これについても反論しようと思えば反論できるわけですが、しかし説得するのは、なかなか
大変だということが判りますね。

263松戸彩苑:2008/10/11(土) 12:25:21
>>262 の続き)

ところで最初の引用文中で、田中氏が「言語学者がエスペラントを支持しない理由」につい
て述べておられましたけれども、この本のなかには以下のような記述もあるんですね。

  【田中】そうそう、インテルリングア。ぼくは鈴木さんのイングリックと非常に近いと思って
  いるんだけれども、ただ、イングリックは自然発生的にできる。エスペラントは計画的に
  つくる。だから言語学者がどうしても反感を持ってしまう。ぼくも、歴史的に発展しない言
  語は言語じゃないという考え方を数年前まで持っていたんですよ。(中略)

  一九世紀がつくった言語学のタブーに口を封じられている状態ではよくない。言語学と
  いうのは、いろいろなタブーを置くでしょう。ソシュールのように歴史を考慮してはいけな
  いとか、ブルームフィールドのように意味を考えてはいけないとかいったタブーを置くこと
  によって言語学が成り立っているようなところがある。そのタブーを基準にしてほかの言
  語を判断してはいけないと、ぼくはいま少し悔い改めているんですよ。

  (同書108〜109ページ)

また私の考えでは「言語学者がエスペラントを支持しない理由」として、このほかに、次のよ
うなものがあると思うんですね。

(1) 言語学者というのは「言語を学問的に扱う」という事をきっちりと身につけた人たちで
    ある。
    で、この「言語を学問的に扱う」という事のなかには「実際に使われている、ありのま
    まの言語のありようを、そのまま正確に記述する」といったことが含まれている。
    これは逆に言えば「現実の言葉のありようを無視して、勝手に作ってはいけない」と
    いう事である。

    つまり、言語学というのは、本質的に「作る」という発想が欠けてると思うんですね。
    「整理する」というのはあるんですが、「何にも無いところから作る」ということは絶対
    にやらない学問なんですね。

    こういうことを骨の髄まで身につけた人たちから見ると、シロウトが勝手に作っている
    ようにしか見えないエスペラントみたいなものは、どうしても「安易」「いい加減」に見
    えてしまうのではないでしょうか。

    判りやすく言うと「子供の暗号遊び」みたいなものではないかと思ってしまうということ
    です。

(2) 「エスペラントを日常的に話す社会」というものが存在したことが無い。

    考えてみれば、現代ヘブライ語にしても、トク・ピシンにしても、この言葉を日常的に話
    す社会があったから、数百万人もの母語話者を獲得することが出来たのだが、エスペ
    ラントの場合は、現在にいたるまで、そういうものが存在しない。

    だからエスペラントというのは、現代社会においてラテン語やサンスクリット語などを
    流暢に話せる人たちのようなもの(つまり個人的な趣味)にしか見えないのだろう。

    また、エスペラントには、モノリンガルのネイティブ・スピーカーが存在しない(現在にお
    いても過去においても)ので、他の言語の影響を受けてばかりいて「独立した言語」で
    はないように見える。

(3) 単純に「エスペラントは広まっていない」「成功しているようには見えない」から、関わ
    りをもつ気になれない。
    成功すれば、当然、関わっても良い。

    これまでにも言語学者がエスペラントに言及したことがあったんですが、調べてみると、
    好意的な意見の多くは、エスペラントが盛んだった1920〜30年代か1950〜60年
    代のものなんですね。

    こういう事実を知って、私は「言語学者というのも、ずいぶん現金なものだ」と思いまし
    た。

こういった事があって、言語学者はエスペラントに関わろうとしないのだろうと思いました。

結局、残念なことなんですが、「現在の正統的な言語学を身につけてしまうと、エスペラント
みたいなものを素直に受け入れることが不可能になる」ということがあるみたいですね。

264松戸彩苑:2008/10/11(土) 12:27:11
>>263 の続き)

周知のように、田中氏はエスペラントに好意的な人物ですが、田中氏も、かつてはエスペ
ラントに批判的だったわけです。

『エスペラント発表百周年記念 社会言語学シンポジウム 講演録 言語的多様性の中の
国際語を考える』(1987年)という本があります。
これは、1986年8月5〜7日に行なわれた同名のシンポジウムの講演録なんですが、その
なかに田中氏による次のような発言がありました。

  【田中】今から十年くらい前になりますか、トンキンさんと、「危険な言語」を書いたリンス
  さんと三人で、日本エスペラント学会で対談をしたことがあります。当時、私はエスペラン
  ト運動に対し非常に批判的でしたが、今は少し違っています。私はもう五十を越えた人
  間でありますけれども、年をとってから言葉に対する考え方がどんどん変ってきておりま
  す。それはマルの理論に対してもそうでありますし、印欧語の比較言語学についてもそ
  うであります。十数年前はクレオールとかピジンとか、こういう言語は本当に劣った言語
  だと思っていたのでありますが、それ以後いろいろ生活上の経験も、理論上の経験もし
  たわけです。本を読むことにもよりましたし、何よりも人間経験をたくさんしました。そのこ
  とによって今では、私は、さまざまな国際語が考えられるけれども、エスペラントについて
  言えば語彙は大部分、西洋の起源をもってはおりますけれども、今の段階ではエスペラ
  ントは非常に現実的な、先ほどの講演の中で申しましたように、エスペラントの理論的な
  面よりも経験的に綜合された言語であるという面を、私は強調したいと思っております。
  そこで、どうしても国際的に使える言語として、そして中立性という理想をかなえる言語
  として、かなり批判的な気持があっても、私はエスペラントの運動に水をかけるようなこ
  とはしたくないと思っております。

  (同書21ページ)

「では、どういった理由からエスペラントに好意的になったのか」ということが問題になるわ
けですが、それについては田中克彦(著)『エスペラント ― 異端の言語』(2007年 岩波
書店)に書いてありました。

  私たちは何か外国語を学んでみようと思いたつとき、どんなふうにかはっきりとは言え
  ないが、その外国語が帯びているイメージにひかれている。ではそのイメージは、いっ
  たい何によってつくられるのだろうか。ことばそのものというよりは、そのことばが話され
  ている国、そのことばで登場するファッションだの映画だのによるところが大きい。

  最近も、その映画に登場する俳優さんに夢心地でになってしまったおばさまたち、それ
  も、そのときまでこれといった外国語を本気でやったことのないような人たちまでが、俳
  優さんの話すことばの熱心な学習者になってしまったというできごとがあった。

  そのことを思いあわせてみると、エスペラントには国もなければファッションもない。まし
  てや、エスペラント女優さんもいない。そうすると私たちは、エスペラントのイメージを何
  によってつくるのだろうか。

  おそらくエスペラントを学んだり話したりする人からではなかろうか。たぶんあの人がエ
  スペラントをやっているらしいと聞けば、その人が代表してエスペラントのイメージをつく
  る。そうなると、エスペラントを学ぶ人は、どこか魅力のある人であってほしいし、また、
  学ぶことによってそうなってほしい。

  その点では、本書にたびたび登場していただいた、ブランケさん、クズネツォーフさん、リ
  ンスさんたちは、その著書と同様、御本人もまことに魅力あふれる人たちである。私が
  本気でエスペラントに心ひかれるようになったのは、これらの本の著者、そしてその作
  品のなかに登場する人たちによってである。

  (同書211〜212ページ)

いちばん最後の段落に、ちゃんと書いてありますね。

265松戸彩苑:2008/10/11(土) 12:28:24
>>264 の続き)

また『シンポジウム「いま、国際交流の言語とは?」講演録』(1988年)という、1987年8
月30日に行なわれたシンポジウムの講演録があるんですけれども、このなかに田中氏の

  問題は、言葉は、やさしいから広まるのではない、ということであります。私は前にいつ
  か、エスペラントを広めるにはどうしたらいいかということを講演の場でたずねられたの
  でありますが、これからほかの講演者もでられまして討論をしますけれども、これは最
  後に言うべきことであるかもしれません。しかし、もう1回、いいことは繰り返して言いた
  いと思いますが、エスペラントは、やっている人が魅力的であれば、ほかの人も学ぶと
  いうことです。私は田舎で生まれた人間ですが、子供のときに、親戚のすてきな女医さ
  んが一所懸命ドイツ語やフランス語をやっていたから、私もあのお姉さんがやっている
  ような言葉を勉強してすてきになりたいと思った記憶があります。それと同様に、エスペ
  ラントをやる人はやっぱり魅力的であってほしいのです。

  (同書17〜18ページ)

という発言が載っているんですね。

さらに『対論 言語学が輝いていた時代』のなかにも

  【田中】(中略)いま、函館に、ロシア極東大学の分校ができているんです。そこの教授
  でロシア語の先生なんだけれどもエスペラント語がすごいうまい人がいて、彼と付き合っ
  ているうちに、エスペラントのことをもっと理解してあげようという気持ちになったんです。

  (同書109ページ)

などと書いてあるんですね。

これらの発言・文章を総合しますと

(1) 田中氏は、以前はエスペラントに批判的であった。
    しかし、エスペランティストと付き合うようになって、考えが変わった。

(2) ここで重要なのは、「理論的な知識」によって考えが変わったというよりは、むしろ「エ
    スペラントを使う人との付き合い」によるところが大きかったということである。

(3) そういう個人的な体験があったからこそ「エスペラントをやっている人には魅力的であ
    ってほしい」と何度も言っている。

(4) 以上のことを簡単に言えば、「理論」などよりも、「エスペラントをやっている人の魅力」
    という「理論とは関係のない部分」のほうがよっぽど重要だということである。

(5) 田中氏のような、1970年代から社会言語学の本を書いてきた学者でさえもそうなの
    ですから、世間の人たちなんかは、余計そうなんですね。

ということで、鈴木氏や田中氏などを見ても、やはり「理論や理念でエスペラントを理解させ
るのはムリ」だということが言えると思いますね。

それから「むしろ、エスペラントを遊びとしてやろうと考える人のほうが、よっぽど頼りになりそ
うだ」という私の持論も、こういった考察から導き出されるわけです。

学者より遊ぶ人のほうが頼りになるというのは矛盾しているように見えますが、しかしエスペ
ラントというのは現代の常識をはるかに超えてるものですので、現代の常識にしばられてい
る人間よりも、そうでない人のほうが良いという事なんですね。

(終わり)

266ベダウリンデ:2008/10/14(火) 06:30:19
エスペラントで何が一番嫌いかって、いうと、「運動」っぽいところ。
エスペランチストは普及活動をしなければならない、という暗黙の了解がありそうなところ。
普及活動と言っても、宣伝活動だけでなく
「宣伝よりエスペラントを使うのが先決だ」みたいな感じで、
他人の行動にとやかく口出ししがちな傾向があること。
「趣味」なんだから、みんな勝手に好きにやればいいじゃん、って思う。
他人の行動に口出ししやすい点が「運動」っぽい。
私は意見・感想は書くけど、あれするな、これするな、とかは、書いたつもりはない。

267ベダウリンデ:2008/10/15(水) 06:27:02
「あいさつ・雑談」スレから、Rakuさんに追い出されてしまったので、
続きをこちらに書きます。
「あいさつ」スレで、「自然」に会話が発展してしまった中で、
松戸さんが
>世間には英語一辺倒の風潮がある
    が、これを打破するのにエスペラントが有効であると考えられるから
とおっしゃいました。
これって、エスペラントでは右派左派中道問わず、ほぼ全員の意見だと思います。
でも、私はこれすら気に入らないんです。
英語の支配する現世界=悪
それを打破するエスペラント=善・正義
ゆえにエスペランチストは正義
エスペラントを理解しようとしないもの(もしくはこの社会)は悪、少なくとも、愚か者
こういう発想が嫌なんです。
中には、「共通の言語でなければ真の理解はできない」とか言う人もいます。
「あーこの人、心がきれいだな、エスペラントに惚れこんでいるんだな」というのは分かるけど、
そんな「いい人」でさえ、時に「自分は正義である」という傲慢さを見せるので嫌いです。
まとめると「エスペラントって正義の運動だから嫌い」

268松戸彩苑:2008/10/16(木) 02:52:07
ベダウリンデさんの言わんとしていることが、ようやく判ってきたような気がするんですが、
次のような事でしょうか。

(1) 松戸彩苑は「エスペラントを取り巻く状況は厳しい」と書いているが、これは事実だと
    思う。

    「世間の人たちは、エスペラントの話者の数が増えないかぎり、エスペラントに興味を
    持たない」「日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱している」「日本や欧米のエス
    ペラント界は高齢化している」というのは、おそらくその通りだと思う。

(2) 松戸彩苑は、こういった問題を解決するための方法を提案している。
    しかしそれは、エスペランティストに多大な労働や忍従を強いるもののようにしか見え
    ない。

    もちろん、エスペラントの現状は厳しいのだから、エスペラントを広めようとするのなら
    ば、そのくらいの事をしなければならないのかもしれない。
    しかし、ベダウリンデさんは「エスペラントはやりたい」けれども「こういう事のために動
    員されたくはない」と思う。
    また、エスペラントをやってる他の人たちも、そうなのではないか。

(3) 松戸彩苑のやってることは、それなりに理由があるとは言え、結局「他のエスペランテ
    ィストのやってることを批判する」とか「自分の意見を押しつける」という事になってしま
    っているのではないか。

    しかし考えてみると「他人の批判」「自分の意見の押しつけ」というのは、松戸彩苑に
    限った話ではない。
    他のエスペランティストも、世間に対して「英語の批判」や「エスペラントや思想の押し
    つけ」をやっているのではないか。

(4) エスペラント界において「批判」や「押しつけ」が横行するのは「エスペラントを無理に
    普及させようとしている」からだと思う。
    結局、これが元凶だったのである。

    だから、普及させようなどとは考えず、エスペラントの現状をそっくりそのまま受け入れ
    て、ただただ実用するだけにすれば、「他人の批判」や「押しつけ」が無くなって良いと
    思う。

これでだいたい合ってるでしょうか?

269松戸彩苑:2008/10/18(土) 07:56:43
>>268 で「ベダウリンデさんの言わんとしていること」を予想して書いたんですが、もう1つ
の可能性もあるんですよね。

つまり(1)は同じですが、(2)以降は

(2) つまり「どんなに頑張っても、エスペラントは広まらない」ということだと思う。

    松戸彩苑は、エスペラントを広めるための方法を提案しているが、エスペランティスト
    に多大な労働や忍従を強いるもののようにしか見えないし、これだけ頑張ったとして
    もエスペラントが広まるとはとても思えない。

(3) だから、むりに普及させようなどとは考えず、エスペラントの現状をそっくりそのまま受
    け入れて、趣味として実用していけば良いのではないか。

というものです。
---

もちろんこれだって合ってるという保証は無いんですが、でもいちおうこのくらいにして、まず
最初に >>266 にある

> エスペランチストは普及活動をしなければならない、という暗黙の了解がありそうなところ。

という点について考えていきましょうか。

1905年に第1回世界エスペラント大会がフランスのブローニュ・スュル・メールという田舎町
で開催されたんですが、このときに「エスペラント運動の本質に関する宣言」、通称「ブローニ
ュ宣言」というのが採択されました。

この5か条から成る宣言の邦訳は、水野義明(編訳)『国際共通語の思想』(1997年 新泉
社)などで読むことが出来るんですが、これの第1条は次のようになっています。

  一、エスペラント運動とは、中立的人間言語を全世界に普及させる運動である。この言語
  は、諸民族の内的生活に干渉せず、現存の民族言語の排除を目的とすることも決してな
  く、民族を異にする人びとに相互理解を可能にし、さまざまの民族が言語をめぐって紛争
  が絶えない国ぐにで公共機関のための仲介言語となることができ、すべての民族にひと
  しく興味ある作品を発表できる言語である。これとはべつの思想や希望をエスペラント運
  動に付け足すエスペランチストがいても、それはまったく個人的な問題であって、エスペラ
  ント運動は責任を負わない。

  (同書192ページ)

これを読めば判るように「エスペラント運動とは、中立的人間言語を全世界に普及させる運
動」なんですね。

とは言っても、私の解釈では「エスペラントを使いはするが、しかし普及活動は一切しない」
という人がいても、べつに構わないとは思うんですね。
つまり、そういう個人がいるのは構わないけれども、しかしエスペラント界全体に「普及活動
をやめる」よう提案するってわけには行かないだろうと思います。

270松戸彩苑:2008/10/18(土) 08:08:36
いま思いついたんですが、ひょっとするとベダウリンデさんは >>268 の(1)でさえ関心が
無いのかもしれませんね。

つまり、世間においては伝書鳩・切手収集といった趣味があって、一部の人たちからは「マ
イナーな趣味だな」などと思われたりしています。

しかしおそらく、やってる当人たちは「楽しいんだから、マイナーだろうとどうでも良いじゃん」
と考えてるんだろうと思うんですね。

ベダウリンデさんは、これと同じようなことをお考えになってるのかもしれませんね。

(いちおう言っときますと、私は伝書鳩・切手収集を軽蔑してはおりません)

271松戸彩苑:2008/10/18(土) 09:28:07
ベダウリンデさんは

  なんでエスペラントは、他の言葉とは違って、判りにくい思想だとか理論だとかがくっ付
  いてくるんだろう?

とお考えなのだろうと思いますが、エスペラントの場合「社会運動」として始まって、これまで
続いてきたという歴史があるんですね。

もちろん、>>269 の「ブローニュ宣言」の第1条を見れば判るように、エスペラントの普及活
動以外の思想や希望は「個人的」なものであって、エスペラント界全体には関係が無いっ
てことになってますが、しかし現実には、エスペラント運動全体の性格というものに決定的
な影響を及ぼしてきました。

ですから「理屈ぬきで、ただ単にエスペラントを使うだけでも良いじゃないか」ということを言
うのにも理屈がいる、みたいな困った雰囲気が、まだ多少は残ってるように思いますね。

272松戸彩苑:2008/10/18(土) 10:46:29
それからベダウリンデさんは
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1158175917/558
において

> 英語は所詮民族語だから、「不得意です、できません」で逃げられるし(就職等で不利に
> はなると思いますが)

と書いておられますが、今後30年もすると状況は大きく変わるだろうと思いますよ。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1163065578/190-191
に西江雅之という方の書いた「英語はできて当たり前」という文章を引用しておきました。

この人は有名なポリグロットであり、けっして英語一辺倒の人ではないんですが、しかしそ
ういう人であっても、現状を冷静に観察して、このような発言をしてるんですね。

押しつけがましい人というのはエスペラント界の外にもたくさんいますから、英語ができない
人間に対する圧力というのは、どんどん強くなっていくと思いますね。

もちろん、高性能の翻訳機械が普及すれば話は別でしょうが、しかし、そういうものが近い
将来において実用化されるという保証はありませんので、やはり「英語ができないんじゃダ
メ」というふうになる可能性がきわめて高いということになるでしょう。

273松戸彩苑:2008/10/18(土) 11:49:40
ザメンホフは「中立的な言語と、中立的な宗教的基盤があれば、戦争や民族間対立を無く
すことが出来るのではないか」と考えたわけなんですが、これをそのまま受け入れる人は、
エスペラント界にもほとんど居ないと思います。

しかし、ザメンホフの提案した「解決策」はダメだとしても、戦争や民族間対立を無くす(ある
いは減らす)という「ザメンホフの立てた問い」についてはきわめて重要だと考える人がエス
ペラント界にはたくさんいまして、そういう人たちがこれまで頑張ってきたというわけなんで
すね。

で、私の場合は、戦争や民族間対立を無くす(あるいは減らす)ということはもちろん重要だ
と思うんですが、これについては「人間の本性」について考察することが必要不可欠だと考
えてまして、これまでそういったことを考えてきました。

これは言い換えれば「エスペラントのような国際共通語と、これまでに唱えられてきたような
思想だけでは、戦争や民族間対立を無くす(あるいは減らす)ことは不可能である」と考えて
るってことなんですね。

「それでは松戸彩苑は、エスペラントにどんな役割を期待しているのか」という疑問がわいて
くるだろうと思いますが、私が期待しているのは

  世界は、英語を頂点とした多言語主義にむかって進んでいるが、このようなヒエラルキー
  に多少なりとも風穴を開ける。

ということなんですね。

たとえば津田幸男という先生が1991年に出版した『英語支配の構造』なんかを読んでいた
だけると判るんですが、世界中で流されている国際ニュースというのは、英語のものが中心
になってるんですね。
ですから、アメリカ・イギリスなどの英語国にとって都合のいい解釈がなされた報道が世界
中に流されてしまうという状況があって、報道がひどく偏ったものになっているという問題が
あるというわけです。

こういう問題を多少なりとも正すということに、エスペラントが役に立てば良いなと思っている
わけです。

日本の場合、ネットが普及する以前ですと、テレビや新聞が流す報道に対して批判ができる
のは週刊誌くらいのものだったわけですが、ネットが普及してからは、ネット上の掲示板やブ
ログなどで個人が自由に批判できるようになったわけです。

これと同じように、大マスコミの世界は英語中心のままであっても、世界各地にいる個人が
ネットをつうじてエスペラントであれこれと情報交換ができるようになれば、英語中心のマス
コミ情報に多少は批判ができるようになると思うんですね。

(断わるまでもなく、こういうことに関心のない人にムリやり押しつけるようなことは絶対にし
ません)

もちろんこういったことは、すでにネット上で始まってはいるんですが、しかし「日常生活に必
要な語彙・表現の整備」であるとか「学習途中で挫折したり eterna komencanto になったり
してしまう人を減らす」といったことも必要だと思うんですね。

274ベダウリンデ:2008/10/19(日) 09:07:42
>1) 松戸彩苑は「エスペラントを取り巻く状況は厳しい」と書いているが、これは事実だと
>    思う。
普及が前提条件ならば、おそらくその通りだと思います。

>(2) 松戸彩苑は、こういった問題を解決するための方法を提案している。
>    しかしそれは、エスペランティストに多大な労働や忍従を強いるもののようにしか見え
>    ない。
松戸さんは、「語彙の不備を発見する」ことを楽しんでいると思います。
それは、忍従といった苦痛とは異なると思っています。
「語彙の不備を発見することを趣味とする」人が、他にも、もっといていいと思うのですが、
どうやら、いないようですね。

>(3) 松戸彩苑のやってることは、それなりに理由があるとは言え、結局「他のエスペランテ
>    ィストのやってることを批判する」とか「自分の意見を押しつける」という事になってしま
>    っているのではないか。

松戸さんが「押し付け」ようと思ってるなら押し付けです。
でも、他の人が「そんなことやっても、エスペラントの普及には貢献しない」と、
松戸さんの行動を否定するようならば、それも押し付けです。
お互いに「押し付け」合ってるように、私には見えます。

>だから、普及させようなどとは考えず、エスペラントの現状をそっくりそのまま受け入れ
>    て、ただただ実用するだけにすれば、「他人の批判」や「押しつけ」が無くなって良いと
> 思う。

そう思ってます。「押し付け」がまかり通ってるから、不快なんです。

>(3) だから、むりに普及させようなどとは考えず、エスペラントの現状をそっくりそのまま受
>    け入れて、趣味として実用していけば良いのではないか。

「押し付け」の発生する原因は、無理に普及させようとしてるから、だと思っています。
普及という多義名分のためには、全員一致団結して、最も効率的な行動を行うべきだ、となるからです。

また、それとは別に、普及が目的だと、
「普及する人偉い人、させない人ダメな人」という図式も出来上がります。
押し付けや忍従以上に、私にとっては、こういう「ランク付け」が嫌いです。

でも、エスペラントが、もともと「運動」であった、という事実からすると、
「普及」は逃れられない宿命かもしれませんね。
少なくとも私は、「運動」で「言語」はやりたくないです。

275丹花:2008/10/19(日) 17:34:59
私も賛成です。説権箱の上に、人が乗るくらい実用は大変だと、先生はたとえて言われました。でも使えばいいのだと思います。

276丹花:2008/10/19(日) 17:39:35
石けん箱、固形シャンプーの上でなければ、いみがつうじない。

277丹花:2008/10/19(日) 17:41:35
石けん箱、固形シャンプーの上でなければ、いみがつうじない。

278ベダウリンデ:2008/10/20(月) 08:56:12
>世界は、英語を頂点とした多言語主義にむかって進んでいるが、このようなヒエラルキー
>  に多少なりとも風穴を開ける。

たとえ「英語が頂点」でも、最近は「多言語主義」が見直されているので、
私はそれでいいと思っています。

日本人は日本語で何不自由なく生活できて幸せです。
願わくば、世界の全ての人々が、それぞれが自分の母語で、
何の不自由なく生活できるように、社会全体が発展してほしいと思っています。

日本にも言語面で不自由してる人はいる、という意見があると思いますが、
行政などが指導して、できるだけ多言語対応するようにすれば、それでいいと思います。

多言語対応は、必要に応じて自然発生もしてますね。
(大きな?)駅の構内案内には中韓語併記が当たり前だし、
レジの前には「両替できません」の表示が、ロシア語やアラビア語でさえ書かれています。
どうしても伝えなければならない事は、民族語で対応しないと、実際問題として困ると思う。

エスペラントは相手もエスペラントができないと、全く何ら、意味を持たない。
世界中の人がエスペラントを使いこなす、というのは無理でしょう。
(丹花さんの先生も、実用は大変だ、とおっしゃっています)
同様に、世界中の人が英語を使うようになる、というのも、ありえないと思います。
多言語対応こそ、これからの世界、もっともっと必要になると思います。

エスペラントはお遊び言語として楽しく発展していくべきだったけど、
生みの親ザメンホフが余計な事言ったばっかりに(思想が重要だ、と)
ただの「運動」として、日陰で細々生きながらえる運命になってしまいました。

279ベダウリンデ:2008/10/21(火) 09:14:38
全ての運動=日陰の存在、とは限りませんね。
社会に役立ちそうな、或いは、現に役立っている「運動」はいくらでもあるでしょう。
エスペラントは「運動」を標榜する割には、社会への貢献度は低いですね。
実態は限りなく「遊び」なのに、「運動」を名乗る。

エスペラントは何のための「運動」なのか、非常に理解しがたいです。
英語は悪だからエスペラントで打破しよう、と言われても、
英語という言語そのものが悪である、とは思えない。
英語圏国家の政治が悪い、という政治見解だったら理解できるし、
多言語主義「運動」も、言語運動として非常に良い方向性だと思う。
それに比べエスペラント運動は、全くもって「意味」が分かりません。

また、一部のエスペランチストですが、言語運動ですらない、政治運動としてエスペラントをする人もいます。
9条を広めるためにエスペラントを使用する、などです。
でも、本気で9条を広めたいなら、ターゲットとする国の民族語でアピールしなきゃダメでしょう。
「どうしても伝えなければならない事は民族語で」ですよ。
政治運動としても、エスペラントは非常に中途半端です。

まあ、エスペラントで政治運動をしたい、という人は、
単に、エスペラントというお遊びにハクをつけたいだけなんだろうな、と思ってます。
き真面目な人は、お遊びにも大義名分が無いと、安心して遊べない、ってこともありますからね。
むしろ大義名分をつけてでも「遊ぶ」って大切ですから、それはそれでいいのかな?

280ベダウリンデ:2008/10/22(水) 09:35:53
よく考えたら、「多言語主義」も「理念」なんですよね。
今まで私は「理念は嫌い」とか言ってたけど、「多言語主義の理念」には大賛成です。
細かい中身や問題点までは分からないけど、名前を聞いただけで「賛成!」と思える。

逆に「エスペラントの理念」については、そこここの掲示板を含め、私は多数読んできました。
しかし、全く「納得」することはできませんでした。
屁理屈・ゴタクのオンパレードで、自分の思い込みを他者に押し付け、エスペラントの意義を理解しない者に対しては「理性が無い」とか、馬鹿扱いで終り。
「エスペラントの理念」を読んでも、常に不快感しか残らなかったので、
「ああ、私って理念が嫌いなんだ」と思ってしまった。
でも、違った。「理念」が嫌いなのではなくて、「エスペラントの理念」なるものが嫌いだったのです。

ただ、遊びとしては、そこそこ面白いんだろうな、と想像はつきます。
エスペラントは「理念」を売りにするのではなく、
「遊び」としてアピールすれば、一般受けも向上すると思いますよ。
「遊び」だから、興味のない人はやらなくて結構。
でも、やらないからといって「理性が無い」だのは言われない。
そんなエスペラントになったらいいね。

281ベダウリンデ:2008/10/23(木) 08:33:46
多言語主義は現在のEUの方針でもあるようで、私は「良い傾向だ」と思っています。
しかし、エスペラントの普及を目指す人から見ると、これは逆に「脅威」のようです。
このままでは、ますますエスペラントの出番が無くなってしまう!ということなのでしょう。
それに対抗するため言われる事が、「翻訳にかかる膨大なコストをエスペラントの採用で削減したらどうか」という案です。

私は、お金は必要な所にはかけるべきだ、と思います。
多言語主義は、民族の言語の保護、という世界的福祉の目的にかなっています。
そんな大切な事なのだから、お金は惜しまず使っていいと思います。
ケチらせて浮いたお金で何したいんですか?軍事費の拡張ですか?(これは単なるイヤミですが)

それにエスペランチストはもともと金儲けには執着しない性格の人々だと思います。
金儲け第一主義なら、今頃エスペラントなんかで遊んでいないでしょうから。
それなのに、エスペラント普及の話になると、突如「金」の話をする。
その当たり、エスペラトを普及させるためだったら、理屈は何でもありなんだなー、という気がしますね。

282ベダウリンデ:2008/10/24(金) 08:27:55
今、「エスペラント文専用スレ」で繰り広げられてる丹花さんとRakuさんの会話がいいですね。
意外と、他の掲示板含めて、こんな雰囲気は初めて、画期的な事ではないですか?
良いと思える理由。まず第一に、一行文で私でも読める内容の文章なので、親しみが持てます。
他の掲示板などでは、エスペラント文のみ(書いたの日本人)の長文も目にしたことがありますが、
あんまりスゴすぎてもね、ついていけないんですよ。(無理してでも読みたいほどでもないし〜)
(こう言っては失礼ですが)英語習いたての中学生が嬉しくて書いてる感じ。
「エスペラントの楽しさ」がそのまま伝わってくる感じ。
これは「なんでも掲示板」の快挙では?

283丹花:2008/10/24(金) 13:51:44
べダウりンデサン、ありがとう私も、あなたの喋りが好きです。私には、できない会話をされています。

284ベダウリンデ:2008/10/25(土) 06:25:03
ありがとう丹花さん。あなたは心が広いです。
エスペランチストの皆さん、丹花さんの寛大さを是非とも見習ってほしいものです。
エスペランチストたるもの、心広き寛大な人々であってほしいと思うんですが、
現実は逆のようで、気に入らない人間は意地でも追い出そうとしたり、
「偏狭」な面も目立ちます。
エスペランチストに対しては、物申したいことがまだまだあります。

285ベダウリンデ:2008/10/25(土) 17:45:43
そもそも「世界を一つの言語で統一しよう」という発想自体が
「全体主義的」で今の時代にそぐわないのではないか、と思います。

「なんで世界共通語は無いんですか?」「エスペラント語がありますよ」的なやりとりは、ネットで頻繁に見ますけど、
質問者の方も「あったら便利だろうな」的な単純な発想で聞いてるんだと思う。
もしも本当に(たとえ英語であれ)一つの言語で統一されたら、
代償として便利さを得るにしても、個々の人間にとっては、苦労することや失うものの方が多いだろうと思う。

「エスペラントこそ真の国際語にふさわしい」とか言うと、
非エスペランチストにまでエスペラントを押し付ける形になってしまいます。
自分が趣味でやってる言語を世界中の人に押し付けようだなんて、なんとゴーマンな、と思うのです。
それも、その背景には「これこそが正義だ」という発想があるからますます怖いんです。

今英語は共通語として機能はしてるけど、地球人全てに課せられてる訳ではない。
英語で統一すべきだという思想が正義としてまかり通っている訳ではない。
英語は強いけど、「多言語主義」はそれに十分対抗できる「理念」だと思う。

286ベダウリンデ:2008/10/26(日) 11:27:53
でも、現在の状況が調子が続くなら、エスペラントが世界の統一言語になることはありえない。
現在の状況・・・・
例えば、エスペランチストが核爆弾のスイッチを手にし、「エスペラントを共通語にしないと世界中を爆破する」と脅すとか、そういう事がない限り。
まあ、そんなSF的な発想をしなくても、EUの公用語のひとつになれば、少しは進展するかもしれないけど。
でも、それも難しそうですよね。
なぜならば、エスペラント界自体がまだ、一致団結してEUにプッシュをかける、という統一見解に至ってないみたいなので。
すなわち、エスペランチストの中には、EUのような世俗の汚い(?)権力者集団がエスペラントという崇高な理念を理解できる筈がないと、
EUに全く期待すらしてない人もいるようなので。

で、結局今の状態が続き、ほそぼそと「下から」の普及をしなければならない。
せいぜい頑張っても、現状維持に留まるんだろうな、と思います。

だから、私も「安心」なんです。
エスペラントはエスペランチストのコミュニティの中で、楽しく国際交流をしていればいいと思う。
誰に迷惑掛ける訳でないし、いい事だと思う。これからもそういう路線でいてほしいと思う。

「普及」に関しては、「正義」などを露骨に表に出さない方が、逆に感じよく思われるのではないですかね?
各種趣味団体も愛好者を獲得すべく、「普及活動」してます。
エスペラントも、そんな感じで、市民へのPRとか普及活動すればいいと思う。

287なつ:2008/10/26(日) 12:26:57
>>「世界を一つの言語で統一しよう」という発想
言語統一をかかげるエスペランティストは異端的だと思いますよ。
ザメンホフはもちろんだれもメジャーな人は言っていません。
あくまでも非母語以外の第一、第二の共通的言語が第一の目標だと思います。

ちなみに少なくとも現在科学の世界では完全に英語が共通語として統一されてますね。
北欧で開かれるノーベル賞関連のものも英語でされると思いますし。

288ベダウリンデ:2008/10/27(月) 10:23:51
なつさん、すごいお久しぶり。
私が言っているのは、エスペランチスト達の意思(統一を目的とするか否か)ではなく
結果予想として、です。

「共通語を作ろう」は、結果として「世界を同じ言語で統一しよう」と
同じ事になるのでは、と危惧しているのです。

今、英語が世界を席巻して母語が失われている国がある、といいますが
エスペラントだって、それと同じ結果になると思います。
つまり、万が一エスペラントが世界共通の第二外国語となって、
エスペラントさえできれば国際的に通用するようになったら、
母語教育をないがしろにしてでも、エスペラント教育をしよう、
という国が出てきても全くおかしくないです。(今の英語と同じ)
エスペラントには英語に比べ「正義」や「平等?」の名目があり、
その作用で、英語以上に世界を席巻する速度は速いかもしれない。
そしたら民族語は軒並み衰退するのでは?と危惧しているだけです。

ただし、今は、内輪のコミュニティで「第二外国語」として使って遊んでるだけみたいなので、全く安心です。
「平等」も大方の人が疑念を抱いてるみたいだし、「世界の第二外国語」には、たぶんならないと思うから、安心。

289ベダウリンデ:2008/10/27(月) 17:54:51
最後の2行、「第二外国語」じゃなくて、「第一外国語」です。
今の日本の常識では(第一)外国語は英語、第二外国語は大学とかで選択するもの、でした。
エスペラントが英語の代わりの外国語になるって意味です。

290ベダウリンデ:2008/10/30(木) 08:59:58
今「よろず」でDさんが頑張ってて、私は心打たれた。
一部引用すると、『オイラ達が望んでいるのは“言語の統一による平和の樹立”ではなくて、“豊かな社会を実現するために現代的な流通環境を構築して社会貢献すること”だもの!』
『言語の中立性ってのは、語根を民族語から採ったかどうかというだけで決まるんじゃない。その単語(シニフィアン)が、特定の民族の文化(のシニフィエなりレフェランなり)とのみ結合してしまっているかどうか点がかなり重要なんだ、と。』

エスペラント語の捉え方とそれへの期待度は、私とDさんは、たぶん、意見が全然違う。
でも私には伝わってきた。
エスペラントがどのような理想の言語であってほしいか、という、Dさんの真摯な思いが。

文章って、そして言語でのコミュニケーションって、基本は相手に自分の気持ちや考えを伝えることだけど、
受け取る側も、それを精一杯読み取る義務があると思う。
たとえ意見は違っても、それとは別に、自分と異なった意見を言ってくる相手の気持ちを理解しようとする努力が
コミュニケーションの上では重要なのではないか、と思うんです。

「よろず」では、Dさんの長文の真摯な訴えは、『特にコメントもない』の一言でスルーされてしまいました。
日本語で他人の気持ちも読み取ることもできない人間が、エスペラントで一体どんなコミュニケーションをしてるのでしょうかね?
サルートンとか表面的な会話して、これこそ異文化コミュニケーションだ! カンドー!とか言ってるのかな?
日本語ですら、他人に歩み寄ることもできない人間が。

291丹花:2008/10/31(金) 10:11:21
私も若いころ、悩みましたよ。日本人同士でも、通じないことが多いのに、エスペラントをしてもだめなのではないかと。デ今は面白くなりました。

292丹花:2008/10/31(金) 10:13:53
でーーーでも、

293ベダウリンデ:2008/10/31(金) 10:24:07
290でとりあげた「よろず」のコメント、「編集」入ってました。
実は、私が見た時には、「コメントもない」発言に加え、「○さんを見てるようで怖い」という旨の表記がありました。
昨日は、○さんの名誉も考慮し、敢えてそこは引用しませんでしたが、
その文言は、今は消されてしまいました。
よって、私の「怒り」は、うまく読者には伝わらないかもしれませんが、
まあ、その人も自分の暴言を反省したって事だから、良しとしましょう。

294ベダウリンデ:2008/10/31(金) 10:46:30
私は心優しい人間だから、書き移すのも酷過ぎる文言ほど、敢えて触れなかったりするんですが、
後で消されちゃうと、こっちが不利になっちゃうかもね。。
この掲示板は編集できないから、常に真剣勝負ですね。
後で消したくなるような、なまっちょろい気持ちでは書けないです。

丹花さんは性格が良さそうだから、
日本語でもエスペラント語でも、きっと素敵なコミュニケーションをしてらっしゃると思います。

295ベダウリンデ:2008/10/31(金) 17:26:05
言葉って、いったん放ったらもう戻らない、矢のようなものだと思う。
飛んでった先で誰に刺さっているか分からない。
自分の意図しない所で誰かに刺さってるかもしれない。
それでも、放った人はその責任を持つべきだと思う。

これは、リアルな会話でも、ネットの書き込みでも同じだと思う。
気分にまかせてネットに暴言を書き込んで、その後ですぐ編集削除。
それで最初から無かったことになるとでも思っているのだろうか?
自分の発言には最後まで責任を持つ意気込みで書いてほしいものだ。
おこちゃまじゃないんだろうから。

そりゃエスペラントは出来損ないのへっぽこ人工語かもしれん。
でも少なくとも「コトバ」に関心があるからエスペラントやってるんだろうから、
自分が日本語で放つコトバにも細心の注意を払ってほしいものだと思う。

296ベダウリンデ:2008/11/02(日) 07:03:07
「よろず」で特定の個人名をあげ、中傷的な文言を書いたのは「よろず」のAさんです。
編集削除は誰でもしますが、Aさんは、私が読んだ後、そして、それへの批判的な文をここにアップした後
(即ちかなりの時間が経過した後)でそういった問題発言を削除してしまいました。
私は優しいから、中傷発言まではコピペできなかったんですよ、それをいいことに、卑怯ですね

感情のままにネットに暴言を書き込むのは、
いつまでもおこちゃまじゃないんだから、本気で反省してほしいものです。
(「よろず」見たけど、Aさん開き直ってたよ)
(Dさんが、自分のこと言われたのかと勘違いして反省してた、ごめんね)

297ベダウリンデ:2008/11/02(日) 09:14:50
だにょさんへ。
「よろず」の投稿文『れ:箸、そろばん、ハンガー 投稿者:だにょ 投稿日:2008年10月28日』に、
私は感動したんですよ。だにょさんが、エスペラントに対して抱いてる期待が理解できました。
私はだにょさんとは違って、エスペラントには社会的な期待は一切していないんですが、
だにょさんの「美しい心」は伝わってきました。

期待度は違うけど、だにょさんと同意見の部分もあります。例えば
『英語を積極的に取り入れることは植民地主義じゃないと思うにょ。長い年月をかけて合意してきた共通語を使っている人達にエスペラントの使用を進めることは構わないけど、全面変更を求めることは非常に酷なことにょ。』
これには「賛成」。
英語の「おかげ」で世界的に通用する単語(特に物の名前)が普及したのは、人類にとって非常に便利です。
海外旅行先で「テレフォン」「タクシー」「トイレ」ETC・・・
そういう「緊急事態」に必要な単語が(発音が通じれば?)、世界で通用するというのは、便利です。
外国人が日本に来た場合も同じです。
「トイレット」っぽい発音をしてるな、と思ったら、案内してあげればいいのです。
ネツェセーヨなんて言っても、どこの国でも理解してもらえず、悲惨な目に会うのはエスペランチスト自身です。

エスペラントでは、英語=打破しなければならない悪、とみなして、
英単語の流入を非常に警戒してる面がある。
でも、既成事実となった「世界語としての英語」を認めないと、
いつまでたっても実用不能な、エスペラントオタクのためのお遊び言語の域を出ないと思いますね。

298ベダウリンデ:2008/11/02(日) 09:33:09
それから、「アバーコ」(算盤)、「シャーコ」(チェス・将棋)に対する問題提起も、非常に本質的と思います。

私は、結論としては「アバーコ」「シャーコ」でいいじゃん、と思います。
だから結論としては、「よろず」のNさんと同じですが、理由は全く異なります。
私の理由は「エスペラントはヨーロッパ語なんだから、アバーコ、シャーコで仕方ないよ」というものです。

ザメンホフさんがエスペラントを考えた時、彼の頭にはおそらく、ヨーロッパ語しか無かったと思います。
Nさんは、
『したがって、もしザメンホフがエスの基本語彙を定めるときに日本(人)のそろばんの凄さを知っていたら、あるいはsorobanoが公用語になっていたかもしれません。しかし彼にはわからなかったし、そろばんの類は各地にあり、それらを一括して代表させるのに、歴史をさかのぼり、古語に頼ってabakoを選んだのではないでしょうか。』
と言っていますが、たとえザメンホフが「日本の算盤」を知っていたとしても
私は「アバーコ」になったと思います。

なぜなら、エスペラントは最初から徹頭徹尾、ヨーロッパ人のために作られた言語だからです。
いちいち、世界各国にある物の、それぞれの完成度を比較検討して、その上で単語を選定した、とは思えません。
それをNさんのように「もしも」の話で納得させようとするのは、私にとってはそれは「屁理屈」以外の何ものでもありません。

だにょさんは、エスペラントに「平等」を期待してますが、私は全く期待してません。

299ベダウリンデ:2008/11/02(日) 09:48:38
ただし、エスペラントは「生きた」言語でもあるのです。(内輪の仲間内で、ね)
民族語と同様に、新語は入ってくるのです。

「ハイコ」(俳句)、「ゴーオ」(碁)は、エスペラント語に取り入れられた、と聞きます。
ハイコは、エスペラント語根の合成語に打ち勝ち、
ゴーオは中国語語源のそれに打ち勝ったそうです。
つまり、エスペラントでも、勝負の結果強い物が勝ち残る、弱肉強食の世界なんです。
ハイコ、ゴーオが勝ったのは、エスペラント界での俳句、囲碁の普及を通じて広まったのですが、
その裏には、組織力(と、金)の力があったから、成し遂げられたのだと思います。
算盤も、エスペラント界で「日本の算盤文化はすごい」と認めさせれば「ソロバーノ」の語が普及するかもしれないです。

同様に、英単語語源の単語も、なし崩し的に入ってくるんじゃないでしょうかね?
フトバーロ(サッカー)、バスバーロ(野球)とか、避けられないと思う。

300Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/11/02(日) 10:03:11
ベダウリンデさん、大丈夫ですか?わたしはあなたの精神の健康が心配です。

301丹花:2008/11/02(日) 10:22:58
この板の勢いにきずいたら、良いのにね、非エスペランチストの人も、私はそれを期待したいです。

302松戸彩苑:2008/11/02(日) 12:08:20
最近ベダウリンデさんがさまざまな問題提起をされています。
私もそれなりに理解はしたものの、しかし少なからず違和感も感じていたんですね。

今回はそういったことについて論じてみようと思います。
---

まず最初に気になったのは、ベダウリンデさんは「エスペラントの押しつけがましさ」につい
ては激しく批判するのですが、その一方で「英語の押しつけがましさ」にはまるで無頓着だ
という印象についてです。

もちろん、エスペラントを無理やり押しつけたり、エスペラント界の内部で、ある特定の思想
を押しつけたりするというのは絶対にやめなければなりません。

しかし、そういうことはありますが、世界的な規模で見れば、英語のほうがよっぽど押しつけ
がましいんですよね。

そういうことにも気づいてほしいのですが、ベダウリンデさんにとっては、そういう事はどうで
も良いみたいですね。

私をはじめとして大部分のエスペランティストは、あくまでも「英語の押しつけがましさ」を批
判しているわけであって、「英語は言語学的にダメな言葉なんだ」などと言ってるわけでは
ありません。

それから「多言語主義が進んでいる」というのは事実なんですが、しかし、だからといって
「英語に関心のない人は、英語を勉強しなくても良い」というふうにはなってないんですね。
むしろ逆に「英語は義務」という考え方がどんどん強くなってるわけです。

また、多言語主義が進んだと言っても、ありとあらゆる場面でそういうふうになるというわけ
でもないんですね。

行政のほかに小売業の世界でも多言語化が進むだろうと思いますが、しかし、それ以外の
ところでは難しいと思いますね。

また商業においても、多言語化が進むのは、一般人相手にモノを売る場面だけであって、
国際的な商取引の場面では、英語の地位は揺るがないだろうと思うんですね。

こういうことがありますので、私は「多言語主義」が進んでいることは認めますし、それは国
際化が進めば必要になるんだということも認めるんですが、「これで国際的な言語問題は
すべて解決したんだ」などと楽観的に考えることができないんですね。
---

それから、ベダウリンデさんは >>278

> エスペラントはお遊び言語として楽しく発展していくべきだったけど、
> 生みの親ザメンホフが余計な事言ったばっかりに(思想が重要だ、と)
> ただの「運動」として、日陰で細々生きながらえる運命になってしまいました。

と書いておられますね。

しかし、ザメンホフがエスペラントを作って普及させたのは、ユダヤ人迫害をはじめとする世
界の民族間の不和を少しでも緩和したいと考えたからだったんですね。

もちろん >>269 にあるブローニュ宣言の第1条を読めば判るように、思想は義務ではあり
ませんから、一生、思想とは関係なくエスペラントをやっていても、まったく構わないのです。

とは言うものの、ベダウリンデさんのように、ザメンホフの願いというものを「余計な事」呼ば
わりするというのは、あまりにも無神経ではないかと思います。

これではまるで「ザメンホフをはじめとするユダヤ人は、ときどき起こるポグロムによって殺
されても構わなかったんだ」って言ってるみたいに私には思えたんですね。
(実際には、ただ単にそこまで考えてないだけだと思いますが)

ということで、ベダウリンデさんはザメンホフの願いにはひどく冷淡なんですが、その一方で
>>280-281 において多言語主義を手放しで礼賛しておられるんですね。

>>281 には

> 私は、お金は必要な所にはかけるべきだ、と思います。
> 多言語主義は、民族の言語の保護、という世界的福祉の目的にかなっています。
> そんな大切な事なのだから、お金は惜しまず使っていいと思います。

とまで書いておられるんですね。

「エスペラント運動によって、ポグロムのような暴力によって殺される人がいなくなってほし
い」というザメンホフの願いについては「余計な事」呼ばわりした人が、多言語主義の前で
は「お金は惜しまず使っていいと思います」などと書いてるのを見て、私は、軽いショックを
受けたんですね。

ベダウリンデさんの人権感覚というのが、まったく理解できなかったからです。

303松戸彩苑:2008/11/02(日) 12:10:04
>>302 の続き)

ということで、ベダウリンデさんのおっしゃることというのは、部分部分だけを見るとそれなり
に理解できることも書いてあるんですが、全体として見ますと、ずいぶんバランスの悪い議
論だなと思ったんですね。

それで私は「どうして、こんなふうに考えるのかなぁ」と思ってあれこれ考えてみたんですが、
おそらくベダウリンデさんは

  エスペラント界を、自分にとって居心地の良い場所にしたい。

という願望が強すぎて、こういうチグハグなことを言ってるんだろうな、という結論に達しまし
た。

「エスペラント界を、自分にとって居心地の良い場所にしたい」と考えて無茶なことを言う人
というのは、ベダウリンデさんに限りません。
自分の思想を押しつける人たちだって、まったく同じように考えているんですね。

なぜこんな事をするかというと、エスペランティストの多くはエスペラントを「自分の精神を安
定させるための道具」として利用したいと思っているからなんですね。

俗世間のなかにいると、精神的に疲れてしまいます。
だから、精神の休まる場所を確保するために、エスペラント界を自分にとって居心地の良い
場所にしておこうと考えるのは判らないでもないんですが、しかし、あまりにも自分勝手なこ
とを言ったりやったりされると、やっぱり困るわけですね。

もちろん、エスペラントを楽しいことに使うのは大いに結構なんですが、でも「エスペラントの
普及活動は禁止」とか「エスペラントと思想を結びつけるのは禁止」などと言ってもらっては
困るのです。
(こういうことを言うのも、やはり「押しつけ」だということを忘れないでいただきたいものです)

やはりブローニュ宣言にあるように

(1) エスペラント運動は、エスペラントの発展・普及を目的としている。

(2) エスペラント運動は、特定の思想とは結びついてはいないが、しかし個人的に結びつ
    けることを禁止してもいない。

というのが、もっとも合理的であり、多くの人の自由を保障するものだと思うんですね。
---

ベダウリンデさんは >>280 において、エスペラントの理念は嫌いだと書いておられますが、
しかし私なんかは「だったら、エスペラント以外の人工語をやれば良いんじゃないか」と思う
んですよね。

たとえば Ido なんて言葉はエスペラントとそんなに違わないですから、すぐに憶えることが
出来るだろうと思います。

またノシロなんかは、世界中の言葉から単語を採用していますので、ヨーロッパ語中心で
はなく、一つの言葉のなかで多言語主義を実践しているものと考えることが出来るでしょう。

ほかにもいろんな人工語がありますが、遊びが目的ならば、こういった言葉でも充分では
ないかと思いますね。

どうして、そうされないのでしょうか?

(終わり)

304Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/11/02(日) 14:09:32
松戸彩苑さん、ベダウリンデさんにかまってはいけません。

305ベダウリンデ:2008/11/02(日) 17:13:17
松戸様、私は、自分の「エスペラント論」を展開してるだけです。
「エスペラントなんて(社会的には)意味無いよ」というのが結論です。
世間の、大部分の人と一緒です。
こんな事書いたらエスペランチスト達は全員怒り心頭だろうと、分かってました。
彼らは、エスペラントが本当に救いの言語だと信じてるから。
誰だって、信じてるのもをけなされたら怒るでしょう。

だから、Rakuさんの「怒り」も、私は理解できます。
松戸さんについても同じです。いくら「ザメンホフの正しさ」を私に説教しても無駄です。
ザメンホフ氏の切なる「願い」は分かるけど、エスペラント語が現実の解決策として、それに答えられるとは思えないのです。
これが私の「結論」です。私は自分の発言に責任を持ちます。

ちなみに私は「エスペラント界を、自分にとって居心地の良い場所にしたい。」なんて思ってません。
エスペラントの勉強も最近してない。現実の日本語人生で十分満足だなーとつくづく思うこの頃。
だから、日本語含めた多言語世界を大事に、と思ったんです。

ただ、自分なりに色々考えるって事は、何事につけ、楽しい事ですね。
エスペラントっていったい何?と考え、ここにアップすることは、
しばらくの間、私の楽しみでした。

みんなも頑張れ! エスペラントの良さをもっと一生懸命アピールしなよ!!!
私に突っ込まれて怒ってるようじゃ、マダマダだよ!

306松戸彩苑:2008/11/02(日) 20:50:22
>>305
「世間の、大部分の人と一緒です」という言葉で、納得のいった点もあれば、まだ納得いか
ない事もありますね。

たとえば世間の人たちにとっては「ザメンホフの願い」なんてものは、ほとんど意味を持た
ないでしょう。
大部分の人は「今、エスペラントが具体的に役に立つのかどうか」という点にしか関心が無
いだろうと私も思います。

ですから、これについては納得がいったんですが、しかしベダウリンデさんが「普及活動」ま
で目の敵にしているというのが、いまだによく判らないんですね。

たしかに「押しつけ」になってはいけないんですが、しかし押しつけがましくない程度にやる
のであれば、べつに問題は無いはずなんですね。

その程度の活動もダメだというのであれば、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・インターネット上な
どで大量に流れている英会話学校の宣伝だって押しつけがましいからダメって事になりそ
うなものだと思います。

それに「普及活動はいっさい止めました」なんて言ったら、世間の人たちだって驚くんじゃな
いですかね?

こんな極端なことは、世間の人たちだって、さすがに考えないと思うんですけどね。

「自分にとって居心地の良い場所にしようとした」という事でないのであれば、あとは「あまり
よく考えないで、極端なことを言っちゃった」って事くらいしか思いつかないんですが、どうな
んでしょうか。
---

ところで私は >>303 の最後の部分に「エスペラントの理念が嫌いなのであれば、どうしてエ
スペラント以外の人工語をやろうとしないのか?」と書きました。

これはもし、ベダウリンデさんが「エスペラント以外の人工語は話者が少ないから」なんて答
えてきたら、私は

  エスペラントの話者が多いのは、ベダウリンデさんが批判してやまない「普及活動」を熱
  心にやってきたからだ。

  また、ベダウリンデさんが嫌っている「エスペラントの理念」に関心を寄せる人が、それな
  りに居たからだ。

  だから、「普及活動」や「エスペラントの理念」をさんざん批判しておきながら「話者の多さ」
  だけは遊びのために利用したい、などというのは筋が通らない。

と言ってやろうと思ってたんですが、読まれてしまいましたかね?
(まぁ、私が指摘する前に気づいてくれたほうが良いんですが)

これまでに何度も書いてきたように、「思想」も「普及活動」も関心が無ければ無視してれば
良いんですね。
でも、こういったものをエスペラント界から無くせと言われても、それはとうてい受け入れるこ
とは出来ないわけです。

(終わり)

307松戸彩苑:2008/11/03(月) 09:46:50
>>305
「普及するか、しないか」ということですが、たしかにベダウリンデさんがおっしゃるように、
私も広まらない可能性のほうが圧倒的に高いとは思います。

ベダウリンデさんは

(1) 今みたいな事をしてたのでは絶対に広まらない。
    それは松戸彩苑の分析からも明らかである。

(2) それは正しいのだが、しかし、それを克服するためのものとして出された松戸彩苑の
    提言にしたがって普及活動をやったとしても、(多少は広まるかもしれないが)大々的
    に広まるということは絶対に無いだろう。

といったことをお考えになっているのでしょう。

私にしても、ただ単に「現在考えられうる最善の方策を提示した」ということであって、これ
を実行したからといって「1000人に1人がエスペラントを使える」という状態に必ずなると
考えてるわけではありません。

しかし、諦めなければ多少は広まる可能性がありますが、諦めてしまえば、それで終わりだ
と思うんですね。
---

また、ベダウリンデさんはご存じないのだろうと思いますが、かつては(1960年代までは)
エスペラントというのは世間においてもそれなりに認知されていたんですね。

当時は、現在よりもエスペラントを学習する人が多かったんですね。
とは言っても、せいぜい現在の数倍くらいのものだったんだろうと思うんですけれども(数値
化されたデータを持っていませんので、こんな言い方しかできません)、しかし今では信じら
れないくらい世間はエスペラントにそれなりの理解を示していたらしいのです。

そういう事がありますから、学習途中で挫折する人や eterna komencanto になってしまう
人を減らしたり、日常生活に関する語彙・表現を整備したりして、エスペラントを使って何ら
かの活動をする人が少しずつでも増えていけば、世間の人たちもそれなりに認めてくれる
んじゃないかって思うんですよね。

世間の人たちは、スローガンや議論だけですとまったく認めてくれないでしょうが、たとえ単
なる遊びであっても具体的な活動であれば、それなりに認めてくれるんじゃないかって私は
思ってるんですが。

そういえば、こんなニュースがありました。

  http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/57314

    漫画で日韓交流推進 北九州市で初のフォーラム

  第1回北九州まんがフォーラム(北九州市、県主催)が2日、小倉北区のリバーウォーク
  北九州「北九州芸術劇場」で開かれ、韓国の漫画文化の現状報告や人気漫画家のト
  ークショーがあった。県内外から約100人が参加し、満員の会場は熱気に包まれた。

  著名な漫画家を多く輩出する北九州市は、漫画をテーマに地域活性化に取り組んでお
  り、日韓交流を促進しようとフォーラムを企画。第1部は、韓国で日本漫画を販売する出
  版社の柳在玉(ユジェオク)局長が「韓国では漫画雑誌の売り上げが年々減っているが、
  人気上位は日本の漫画」と現状を説明。

  第2部では韓国の人気女性漫画家の朴素〓(パクソヒ)さん(30)が「北九州は漫画に
  関心を持つ人が多い。交流の場を作ってくれた市民に感謝したい。日本が舞台の漫画
  も描きたい」と語った。朴さんはトークの途中で日本でも約180万部を売り上げた漫画
  の主人公を描くサービスも見せた。市は2010年度に漫画を通した体験・交流施設「漫
  画ミュージアム」(仮称)を小倉北区に開設する予定。

308松戸彩苑:2008/11/03(月) 09:48:01
>>307 の続き)

読めば判るとおり「マンガで国際交流」という事なんですが、この程度のことで良いんです
ね。
「マンガで国際交流なんて、ふざけてるじゃないか!」なんて言って怒る人は、(たまには
居るでしょうけど)ほとんど居ません。

つまり世間というのは、エスペランティストが「国際的な言語問題」だとか「世界平和」だと
か連呼しても無視するのですが、「マンガで国際交流をする」ということですと、県や市が
おカネを出しますし、マスコミもニュースにするんですね。

世間というのはこういうものなんですね。

ベダウリンデさんは不思議に思われないでしょうけれども、エスペランティストの多くは、こ
のあたりのことが判ってないんじゃないかと思いますね。
---

ということで、エスペラントの普及をはばむのは

(1) 「絶対にムリだ」と考えて、はなから諦めてしまうこと。

(2) 「従来のエスペラント運動は間違っていない」と考えること。

なんだと思うんですね。

こういった考えを改めて努力をすれば、英語には敵わないにしても、しかし世間の人たちか
ら見てもそれなりに価値のある活動ができると思うんですけどね。

(もちろんエスペラント界は、これまでにもさまざまな活動をやってきたわけですが、しかしそ
れらは、世間の人たちから認められ、ながく記憶にとどめられるには至らなかったのです)

でも、それがなかなか出来ないようですから、結局エスペラントが広まることは無いんだろ
うなと考えざるを得ませんね。

また、サブプライム問題で始まった世界的な不景気というのもありますから、よけい厳しいで
すね。

でもまぁ、望みを捨てずに「なにが問題なのか」「どうすれば良いのか」ということを提言して
きたわけですし、これからも続けていこうかなと思ってるわけです。

(終わり)

309ベダウリンデ:2008/11/03(月) 17:26:55
>306 お返事だけとり急ぎ・・

>しかしベダウリンデさんが「普及活動」ま
>で目の敵にしているというのが、いまだによく判らないんですね。
一般の趣味活動と同程度の「普及活動」なら、外部の人間から見ても全く抵抗ないです。(初心者講習会等)

>「自分にとって居心地の良い場所にしようとした」という事でないのであれば、あとは「あまり
>よく考えないで、極端なことを言っちゃった」って事くらいしか思いつかないんですが、どうな
>んでしょうか。
自分の気持ちに正直に向き合えば「居心地が良い場所でなくて残念だった」という気持ちです。
部外者の私が既存のエスペラント界を改造しようだなんて、大それた話です。
既存のエスペランチストの皆様が「今が居心地良い」と感じていれば尚更です。
合わない者は去れ、ということです。
でも、私も一時期一生懸命勉強してたから、悔しくて、それで過激発言になっちゃったのかな?と思う。

>「エスペラントの理念が嫌いなのであれば、どうしてエ
>スペラント以外の人工語をやろうとしないのか?」と書きました。
人工語なんてどれも似たり寄ったりだろうから、関心が無いのです。日本語で十分!

初めてこの掲示板を見た時「理念がない者は続かない」と書いてあり、ショックでした。
でも、結果、そうなってしまったんですよ。書いた人、今頃嘲笑ってるだろうなーって思う。
でも言いたい。理念がない人=軽薄、飽きっぽい、だから続かない、というのではないのです。
既存のエスペランチストの皆さんに「ついていけない」から、続かないんです。

解決策の提案:
「理念」とか抽象的な語でなくて、「エスペラント語が世界平和をもたらす救世主だと信仰できない人は続かない」って書く。
「これは宗教です」って明言してほしい。

310松戸彩苑:2008/11/03(月) 19:02:26
>>309
> 初めてこの掲示板を見た時「理念がない者は続かない」と書いてあり、ショックでした。
> でも、結果、そうなってしまったんですよ。書いた人、今頃嘲笑ってるだろうなーって思う。
> でも言いたい。理念がない人=軽薄、飽きっぽい、だから続かない、というのではないの
> です。
> 既存のエスペランチストの皆さんに「ついていけない」から、続かないんです。

エスペラント界には、理念や思想なんかとはまったく関係なくエスペラントをやってるって人
がたくさんいるんですけどね。

関心が無ければ無視してれば良いし、押しつけがましいことを言われたら、ブローニュ宣言
の第1条をもちだせば良いんですよ。

とは言うものの、要するにベダウリンデさんは「思想重視派の人たちの押しつけがましい議
論」に対して免疫が無いんでしょうね。
それで、必要以上に怖がってしまうって事があるんでしょう。

私が大学生のときは、すでに学生運動みたいなものは消滅してたので、そういうものを肌
で体験したことは無いんですね。

その代わりに、元は革新派だったけど、さまざまな疑問を感じて脱退したという人が書いた、
革新派の人たちの問題点や矛盾なんかを指摘・批判するような本をたくさん読みましたの
で、私にはそれなりに免疫があるんですよね。

そういや10年以上前に、かの有名な篠沢秀夫先生(若い人は知らないかな?)が日本エ
スペラント学会に入会されたことがあったんですが、すぐに止めてしまったみたいなんです
よね。
私は「機関誌の内容があまりにも左翼的だったから止めちゃったのかな?」って思ったん
ですけどね。(単なる推測ですが)

311ベダウリンデ:2008/11/04(火) 08:44:41
>エスペラント界には、理念や思想なんかとはまったく関係なくエスペラントをやってるって人
>がたくさんいるんですけどね。

>関心が無ければ無視してれば良いし、押しつけがましいことを言われたら、ブローニュ宣言
>の第1条をもちだせば良いんですよ。

「ブローニュ宣言」を持ち出す所が既に宗教っぽいんですいよ。
経典のここにはこう書かれているから、そこにすがる、みたいな。
私は「世間の常識」で「言語と思想は無関係の筈だ」と思ってます。
(宗教色の強い人は、この「世間の常識」を否定するんでしょうね)

他に宗教っぽい所は「ザメンホフ無謬説」です。
「今の時代の視点で見れば、ザメンホフにも至らぬ点はある。それは認めるが
それは時代がそうだったから仕方ない、ザメンホフのせいではない」という意見です。
例えば「ザメンホフが日本の算盤を知っていたらソロバーノが採用されたかもしれない、でも知らなかったから仕方ない」みたいな意見です。
「もしも」の話をしてまで「完璧な人間」ザメンホフを祀りたがるのって、「宗教」だなーと思います。

「よろず」メンバーは(各自個性はあるけれど)全体的に内省的で、反世俗で、一方で自己主張は自信満々で、もろ「信者」って感じなんですが、
比較的自由そうに見えるRakuさん、松戸さんあたりも、結構「ザメンホフ教」なんじゃないか、と私は読んでるんですが・・・
エスペロさん、ヤパーノさんあたりはどうなのかなー?とか思う。

312松戸彩苑:2008/11/04(火) 23:54:44
>>311
> 「ブローニュ宣言」を持ち出す所が既に宗教っぽいんですいよ。
> 経典のここにはこう書かれているから、そこにすがる、みたいな。
> 私は「世間の常識」で「言語と思想は無関係の筈だ」と思ってます。
> (宗教色の強い人は、この「世間の常識」を否定するんでしょうね)

先にお話ししたように、ザメンホフは「民族間の争いを緩和したい」と思ってエスペラントを
作って普及させたわけですが、しかし、こういった思想をエスペラントと抱き合わせにして他
人に無理やり押しつけようとは考えていなかったんですね。

それでザメンホフは「エスペラントと思想との間には直接的な結びつきは無い」ということを
ブローニュ宣言において明言しておいてから、あくまでも私的な活動として、民族問題解決
のための運動を始めるんですね。

こういう事情があったわけですから、べつにおかしくないと思うんですけどね。

要するにブローニュ宣言というのは「会則」みたいなものなんですね。
エスペラントの団体に限らず、不特定多数の人たちが集まって出来ている団体ですと、どこ
でも会則というものがあって、それに則って団体を運営しているわけですが、こういうやりか
たのどこが「宗教っぽい」んでしょうか?

そもそもブローニュ宣言のなかには、神だとかいった言葉はいっさい出てきません。
団体が決まり(それも、メンバーの思想上の自由を保障するような決まり)を作っただけで
「宗教っぽい」と言われても、それは納得いきませんね。

どうもベダウリンデさんは、宗教や法律みたいなものに対してアレルギーがあって、「そんな
ものが無くても、世間の常識があれば大丈夫」って考えておられるみたいですね。

これは要するに「普通の日本人」だということです。

宗教や法律というものに慣れている外国の人であれば「ブローニュ宣言を持ち出す所が既
に宗教っぽい」なんてことは絶対に言わないはずです。

結局、ベダウリンデさんのおっしゃる「世間の常識」というのは、現代日本の常識にすぎない
のではないかって気がしますね。

余談になりますが、国際化が進めば、日本国内においても「日本の常識」が通用しなくなっ
てくる可能性があるんですよね。
そういうことも考えておいてほしいですね。

とは言うものの、「ベダウリンデさんのような考え方が、日本の一般人の考え方なんだろうな
ぁ」とは思いますので、エスペラント界のほうでも対応を考えないといけないだろうと思います。
(とは言っても、ブローニュ宣言を廃止したりはしませんが)
---

それから後半の「ザメンホフ無謬説」ですが、私はこの掲示板において従来のエスペラント
運動のありかたを批判していますが、その際に「ザメンホフの考えには間違いがあった」と
明言してるんですよね。

もちろん、あの時代に独力であれだけの事をしたというのは、ものすごいことだと思います。
でも、やはり間違いは間違いだと思っています。

ですから、私はザメンホフを尊敬してはおりますが、信仰はしていません。
ベダウリンデさんの「ザメンホフ無謬説」はおかしい、宗教じみているというご意見には賛成
ですね。

(終わり)

313ベダウリンデ:2008/11/06(木) 08:34:02
確かに、「宗教」と言ってしまうと語弊があるかもしれないですね。
私がエスペラントでイメージした「宗教」は、(もちろん揶揄的な意味で)
日本で時々ニュースになるような「怪しげな新興宗教」です。
世界の各地域で、住民に根差し、その地で「世間の常識」になってる「宗教」には
悪いイメージはありません。

ただの普通の人間(実際には、普通以上に悪人かもしれない)を「教祖」として称えるのが「怪しげな新興宗教」です。
松戸さんがザメンホフを「尊敬」するのは、個人の心情の自由で、良いことなのですが、
特定の人物を尊敬する人が集団化すると、傍から見ると「怪しげな新興宗教」に見えます。
「思想」がバックボーンにあるから、ただの「ファンクラブ」とも、ちょっと違う。
また「尊敬」も度を超すと、「信者」っぽく見える原因かもしれない。(あくまで日本語のニュアンスで「信者」)
Rakuさんも、松戸さんも、私がザメンホフをけなしたら怒ったので、信者だなー、と思ったのです。

「ザメンホフ無謬説」も、ただの水道水を神の水と信じるような、
「真実を捻じ曲げる欺瞞」としか思えませんでした。
あと、世俗や一般世間に対してやたらと「排他的・批判的」なのは、「怪しげな新興宗教」の特徴ですよね。
ちゃんとした(?)の「宗教」は、逆に、世俗とか一般世間のルールを作ってる面もありますから。

314ベダウリンデ:2008/11/06(木) 09:02:15
Mi amis Esperanton sed malamis esperantistojn.
エスペラントは魅力的な言語で、それを勉強する事は私の楽しみでありました。
しかし、掲示板で目にするエスペランチスト達の発言には「ついていけ」ませんでした。
互いに発言しては無条件に賛美し合ってるから、あれがエスペラント界では普通の価値観なんだと思うけど、
私には「嫌悪」の情しか抱けなかった。
なんでだろう、、と思うけど、「極端に反世俗」だからかな?と思う。

言語は愛しつつ、それの同好者には、嫌悪の情を抱かざるをえない。
エスペラントは私には、自分が二分され引き裂かれるような、「苦しみ」をもたらしました。

同じ悩みを持った人、他に誰もいないのかな?と思ったのですが、
もしかして「異端の言語」の筆者がそうかも?と思いました。
エスペラントのシンパを自称しつつ、決してエスペラントの入門以上に入り込まない筆者。
言語学者なんだから、ちょっと本気出せば、ちょちょいとマスターできるであろうに、それをしない。
そこで、もう一度、本を読み直しました。ありましたよ、ヒントが。

P192 『修正を許さないほとんど唯一の方法は、ザメンホフという教祖様をほめたたえる伝記を書き・・・・』
P208 『あのヒゲの大きなザメンホフをあまりほめたたえて偉人物語にしてしまう運動は好きになれなかったし』

そしてP211
『エスペラントを学ぶ人は、どこか魅力のある人であってほしいし、また、学ぶことによってそうなってほしい。』

私は当初は、「エスペランチストは平和を愛する人達だから、きっと人間的にも尊敬できる人達なんだろうな」と思った。
そして、筆者の言葉のように、エスペランチストは自覚して、自己の「魅力」を増すように努力してる人達なんだろう、と思った。でも、違った。
で、改めて読むと「そうではないから、そうであってほしい」という筆者の願いのようにも読み取れる。
だって実際に魅力的な人が多ければ「魅力のある人が多い」って書くじゃないですか?
願いとして書くってことは、実際はそうじゃないから、なのかも。
そこまで読み取れなかったのは、私の不覚でしたね。

ちなみに時を同じくして偶然に「よろず」にも、この本に関する話題が書かれてました。

315松戸彩苑:2008/11/06(木) 23:10:21
>>313
たしかに、私も以前論じたことがあるんですけれども、エスペラント運動においては創始者
の名前や顔を前面に出しすぎなんですよね。

国際的に有名なNGOには、赤十字社、ボーイスカウト&ガールスカウト運動、ライオンズク
ラブ、ロータリークラブ、アムネスティなんかがありますけれども、創始者が有名なのは赤十
字社くらいのもので、それ以外の団体の場合には、創始者の名前はほとんど知られていな
いんですよね。

また赤十字社の創始者であるアンリ・デュナンにしても、ノーベル平和賞を受賞したので有
名なわけですが、しかし赤十字社は「創始者の思想を学びましょう」なんて言ってるわけで
はないですし、アンリ・デュナンの顔写真をあちこちに貼りつける、なんて事もしてないんで
すよね。

こういったことを考えますと、やはりエスペラント運動というのは他の社会運動とはずいぶん
違っていて、個人崇拝みたいだよなって思いますね。

こういったことは私もやめたほうが良いと思っています。
---

それから、現在にいたるまでエスペラント界には、ザメンホフの思想や意見というものを突き
はなして客観的に見ていこうという発想が無かったんですね。
私はこの掲示板において、そういうことを提唱してきたつもりなんですけどね。

しかし

> (Rakuさんも、)松戸さんも、私がザメンホフをけなしたら怒ったので、信者だなー、と思っ
> たのです。

と書いておられますが、これはたぶん、ベダウリンデさんが「ザメンホフが思想とエスペラント
とを個人的に結びつけることを禁止しなかったのが嫌だ」と言ったことに対して、私が反論し
た事なんかを指しているのでしょうかね?

どうもベダウリンデさんには、あまり調べたり、他人の立場に立って考えたりしないで、思っ
たことをどんどん書いていってしまうという傾向があるように思いますね。
(というか、反応を見るために、わざとけなしてみたんじゃないかって気もするんですが)
そういうところに、多少腹を立ててしまったかもしれませんね。

でも、エスペランティストの大部分だって、世間の人たちのエスペラント観について知ろうと
もしませんし、世間の人たちの立場に立って考えようともしないわけですから、まぁ似たよう
なものだとは思っております。

さらに言えば、こういう「自分とは違う思考・行動パターンをもつ個人や集団についてまとも
に調べたり、そういう個人や集団の立場に立って考えたりしない」という態度が、民族問題
の解決を阻んでいるんだと私は思いますね。

もっとも、その個人・集団がヤバそうなものであれば、とりあえず逃げなければなりませんし、
理解しようなんて気になれないのも当然なんではありますが。
---

それから田中克彦氏の「エスペラントを学ぶ人は、どこか魅力のある人であってほしいし、ま
た、学ぶことによってそうなってほしい」という発言ですけれども、これに関して
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1199456754/264-265
に私の考えを書いておきました。(少々読みにくいかもしれませんが)

エスペラントは世間においては全然認められていないわけですから、こういうものを長年やっ
てる人が「頑固」なのは仕方が無いのかな、とは思いますね。

でも、自分の家族や知人にさえも理解されないというのでは広まるわけがないんですから、
自分の家族や知人にも理解できるようなことを言ったりやったりしてほしいなと思いますね。

(終わり)

316ベダウリンデ:2008/11/10(月) 09:40:46
>(というか、反応を見るために、わざとけなしてみたんじゃないかって気もするんですが)
わざとじゃなく、本気でけなしました。
外に出ると世間はエスペラントとは無関係に回ってる。
心から良かったなーと思う。
でもエスペラント掲示板は面白いから、そこここ、つい見ちゃいますね。
「他人を理解できない」のは、私だけじゃないみたいですよ。

317隣の隠居:2008/11/10(月) 11:58:57
思想問題もものすごく大きな問題なんだけど、それは「いったんエスペラントに興味が出た人を排除する原因」の話のような気がします。

エスペラントが普及しない最大の問題は、「普及していないから、誰も学ぼうとしない。誰も学ばないから普及しない」の悪循環という話だと思うんです。
これって、結局、パソコンのOSがマイクロソフト製だったり、VHSビデオとベータビデオの規格争いの話と同じですよ。
OSにしろ、ビデオにしろ、結局は、どれだけソフトを揃えたかということで決まってしまったわけで、エスペラントを普及させるのも地味にコンテンツを増やすしかないと思います。

つまり、
 一般人に普及させる策:コンテンツを充実させて、「普及していないから学ばない。誰も学ばないから、普及しない」という悪循環から脱出。
 エスペラントに興味を持って学ぶ人を引きつけ続ける:思想問題を持ち込ませない
という2段階に分けて考えるべきだと思うんです。

この掲示板で報告があるオタク向けのコンテンツの充実の話なんかは、いいんじゃないかと思います。
期待してます。

318ベダウリンデ:2008/11/10(月) 17:54:14
>302
>「エスペラント運動によって、ポグロムのような暴力によって殺される人がいなくなってほし
>い」というザメンホフの願いについては「余計な事」呼ばわりした人が、多言語主義の前で
>は「お金は惜しまず使っていいと思います」などと書いてるのを見て、私は、軽いショックを
>受けたんですね。

>ベダウリンデさんの人権感覚というのが、まったく理解できなかったからです。

これは完全に私の意図する範囲を超えた松戸さんの誤読です。
「余計な事」とは、ザメンホフの願いではなく、
創始者の立場なのに、思想を重視せよ、と言った事が「余計な事」だと思ったのです。
創始者の発言は影響力大でしょう。
そのせいで、のちのち現在に至るまで、エスペラントは思想に支配され続けているのです。
「皆の者、好きに使うが良し」とか言っていれば、また別の発展をしたのでは?と思っただけです。

また、なぜ「多言語主義」にお金を費やしてはいけないのか、も理解できません。
どこの国でも、少数民族の言語保護対策をしようと思ったら、それなりにお金はかかるでしょう。
でも、お金かけてでもやったほうがいい、と思ったのです。この発想のどこが「悪」なんでしょう?
それでどうして「人権感覚」まで疑われちゃうのか、そこも意味不明。

319ベダウリンデ:2008/11/10(月) 18:13:26
>315
>ベダウリンデさんが「ザメンホフが思想とエスペラント
>とを個人的に結びつけることを禁止しなかったのが嫌だ」と言ったことに対して、私が反論し
>た事なんかを指しているのでしょうかね?

私は「思想とエスペラントとを個人的に結びつけることを禁止しなかったのが嫌だ」
なんて、一度たりとも思った事ないし、おそらく書いた事もないですよ。
思想については、私は完全に個人主義の立場で、
エスペラントでも思想でやりたい人はやればいいじゃん、という考えを貫いてきましたよ。
「嫌悪」はしても、その思想をやめろ、とは一切言ってませんよ。

嫌悪は生理的なものだから、仕方ないです。
嫌ってるからって「迫害」とかするつもりないし、
むしろ、こちらから静かに去るべきだ、と思いました。
嫌いなタイプが多い集団に、あえて近寄く必要無いです。遊びなんですから。

320隣の隠居:2008/11/11(火) 23:30:45
松戸さんとベダウリンデさんの立場って、そんなに違わないと思うんですけどね。
ただ、松戸さんは問題意識は豊富にあって、いろいろ考えてはおられるのは分かるんですけど、従来型のエスペラント運動の発想にまだ引きずられているような気がします。
うまくは説明できないんですけどね。

321ベダウリンデ:2008/11/12(水) 06:28:04
どひゃーっという驚き発言を「よろず」で発見!!
コピペします。また削除するだろうから。
なぜコピペするか、、、エスペランチストってこういう人なんだよって
エスペラントに関心を持った心が美しい人に知らせたいから。
表向きは装っても、本心はこう思なんだよ、って。

Dさんの発言(英語で普及してる単語をエスペラントに置き換えたら大変だろう、という意見)に対して、Aさん

>エスペラント界から出て行けばいいのではないですか。
>サッキングがそれほど現実的だと思うのなら。

>つまり、こういう人間なんだな。
>これが本音だ。
>英語帝国主義の手先だな。

322ベダウリンデ:2008/11/12(水) 09:57:14
エスペラントに関心を持つ人って、心がきれいな人だと思う。
世界中の人と会話して、誤解や争いのない平和な世界が作れたらいいな、という願いを持てる人。
「ザメンホフ氏の願い」そのものだと思う。

Dさんも、きっと、Dさんなりの理想(私も細かい点までは把握してないけど)を求めてエスペラントに近づいたんだと思う。
オタク文化でエスペラントを広めるというコンセプトを持ち、
その実践として、コスプレなどのオタク語を含む文章を翻訳しようとして、
その上で、実際問題として、エス語置き換え問題にぶち当たり、悩んだんだと思います。

そこまでしてる人に、どうして「出て行けばいい」などと言えるのだろうか?

まだ「削除」してないみたいだけど、よろずのお仲間さんたちは、どうコメントするのかな?
いつもどおり、全面賛成と賛美? それとも「無かったこと」にする? あはは

323隣の隠居:2008/11/12(水) 23:15:40
>>322
まだログは残ってるようですね。
全部を完璧に読んだわけじゃないんですが、オタク用語だと”コスプレ”は英語で"Cosplay"であって、他の外国語でもこれに準じた綴りになっています。
エスペラントだけ、"Kosupure"って綴っても、日本人以外には意味は通じないと思いますよ。

英語憎しのあまり、国際的に通用するかどうか考えていないんでしょうね。
ローマ字をヘボン式にするか訓令式にするかと同じような問題でしょう。

324隣の隠居:2008/11/12(水) 23:23:19
>>323
エスペラント界のコスプレの定番的な訳語は"kostumoludo"ですか・・・
こりゃ、絶対通じませんよ。

オタクはネットウヨっぽい人も結構多いから、エスペラント界的なやり方を押し通せば、反感かうだけなのに・・・

325ベダウリンデ:2008/11/13(木) 06:27:29
Dさんが考えたコスプレの訳語はKospleoです。Kosupureではありません。
(私がめんどくさがってカタカナで書いたから誤解をまねきましたね、すみません)
またDさんは決して「ネットウヨ」ではないと思います。

Aさんのコメント、削除したら「卑怯」だし、削除しなければそれがAさんの正真正銘の意見ってことだし、
(エスペラント界の排他的性質を示す重要証言となるでしょう)
どっちにしろ「やっちまったなー」って感じ。

326ベダウリンデ:2008/11/13(木) 09:26:34
よろずのお仲間さんがどうコメントするかも見物。
Aさんのコメントに対しノーコメントだったら、私は「賛同」とみなしますね。
つまり、エスペラント界全体の傾向として、「異端児は容赦なく排除」いう証拠です。

Dさん、何も悪くないですよ。エスペラントに期待を抱き、頑張って翻訳して、
そしてオタクとして「コスプレ文化」に誇りを持ち、コスプレの語感をそのまま尊重したい、と思っただけだと思う。
その延長で、「サッキング」など業界用語も、その世界の人にとっては「誇り」なんだろうから、尊重しないといけないのでは?的な発想?
と、そう、私は理解してるんですが(違ったらすみません)、それのどこが「英語帝国主義」なんだろうか?って思う。

不当なレッテルを貼りつけてでも、自分と異なる考えを持つ人間を追い出そうとする。
そんな事が平然とまかり通っている団体が、自分達の言語こそ真の国際語にふさわしいなどと、ぬかしてるんですよ!?
「自分の考えと異なる者は排除したい」。だから世界では紛争や人権侵害が絶えないんじゃないですか?
排除体質の団体が支配する言語がもしもホントに国際語になったら(実際にはありえないから安心)、世界は恐ろしいことになると思う。

世界が平和になればいい、と思ってエスペラントに関心を持った心の美しい人達が、ある人は「洗脳」され、
排他的で自分達だけが正しいと信じる団体、それこそ「怪しげな新興宗教っぽい」団体に取り込まれる。
幸いにも「洗脳」されなかった人は、屈辱的な気分を味わいながら「出ていく」。
それが「エスペラント」なんだな

327隣の隠居:2008/11/13(木) 19:57:43
>>325
Dさんは、国際的に通用しやすい"Cosplay"に近い"Kospleo"だということは承知しています。
個人的には"Cosplejo"とか"Kosplajo"とかいった候補も浮かびますが、"Kostumoludo"はあり得ないでしょう。
全くの机上の空論です。

「腐女子」は"Fujxosino"でしょうかね、それとも「やおい」の派生語として"Jaojulino"とかもあり得るかな?
まぁ、DさんのHPを訪問すればいろいろ分かると思いますが・・・

こういう新しい試みを叩いて排除しようとしながら、「普及しない」と嘆いても・・・と思います。
自分が何をやっているか分かってないんでしょうね。

328ベダウリンデ:2008/11/17(月) 08:15:38
「よろず」の方で、Aさんからコメントを頂きました。
>いま、「なんでも」の掲示板を覗いて、書き込みをしようとしたら、海外からの書き込みは
>できない仕組みなんですね。

>それで彼等、この掲示板を覗いてるそうですから、返事させて貰いますね。

>彼等によると、だにょさんは「異端児」だそうです。
>でも私に言わせると、田舎者、です。世界基準価値の作法も満足に使えない、田舎者です。
>そんなのがエスペラントを改造するとか言って、陰でこそこそと悪口を言うしか脳が無い。

>まあ、土人の祈祷師、そういうのを感じます。



言いたい事、2つほどあります。
>彼等によると、だにょさんは「異端児」だそうです。
「彼等」(読みは「彼ら」でOK?)って誰と誰と誰・・・・ですか?
ここで「Dさん擁護」をしているのは私だけです。
遠慮なく「なんでものBさん」とでも書いて下さい。

「隣の隠居」さんもレスつけて下さいましたが、直接やりとりするのはこれが初めてだし、
今までのやり取りをリアルタイムで読んできた上でのレスなのかも、疑問です。
きっと、掲示板が寂れれるから「親切心」でコメントしてくれたと思うのですが、「それだけのこと」です。

「よろず」と違って「なんでも」には「仲間意識」なんて微塵も無いですよ。
常連さんである、Rakuさんや松戸さんも、私は怒らせちゃったし、
怒らせはしてないけど、「政治的見解」が異なる立場の人もいっらっしゃいます。
逆に、私は「よろず」メンバーが互いに議論し合っている所を読んだ事が無いんです。
いつも、ちゃらちゃらとお世辞を言い合って、賛同し合っている。
『この掲示板は「よろず」とは違うんです!』(流行語大賞候補の言い回し)

その上、下記の様なコメントまでついてます。

329ベダウリンデ:2008/11/17(月) 08:26:06
「よろず」Aさん筆
>子供が学校から帰って来て、いじめのことでお母さんと話しています。
>子供「だって学校でA君は汚いから、触っちゃいけない、ってみんなが言ってたもん」
>お母さん「そのみんな、って言うのは誰なの。名前を言ってごらん」
>子供「C君とB君とD君と、それからえー、、、(沈黙)」

>子供の言う「みんな」というのは、既成事実ではなく、空想の中でのみんな、なのですね。
>だにょさんの、
>「英語をそのまま使うことは植民地主義と同様です。これからはエスペラントを使うべきです」と、悩みもなくあっさり変更を促す
>も、子供の言う「みんな」と同じで、具体的にそれを言ったエスペランチストの名前を上げて
>ごらん、と言うと、黙り込む程度のものなんです。
>「だって、エスペランチストのみんなが言ってたもん」。

>こんなのは大人の会話ではない、というのはどうなんでしょう、日本では一般的に知れて
>いないのかも知れませんね。
>(にっこり)。

Aさん自身が、私の個人的発言を「彼等」という不特定多数の発言にすり替えた事も、
「空想の中」ですよ。

330ベダウリンデ:2008/11/17(月) 08:54:47
それから二つ目は

>でも私に言わせると、田舎者、です。世界基準価値の作法も満足に使えない、田舎者です。

>まあ、土人の祈祷師、そういうのを感じます。

「異端児」ではなく、「田舎者」「土人」だそうです。
「異端児」では生ぬるいから、悪口をより強めるニュアンスで「田舎者」「土人」と言いたいのでしょう。

「田舎者」・・都市部ではなく山間部とかに住んでる人が、これを悪口として使われたらどう思うでしょうね?
また、「土人」とは、どういう民族を想定した上での発言ですか?
私はこの言葉は、民族差別用語だと思っています。
いくら頭にきてカッとしたとしても、「悪口」として、この言葉を使うことは、私だったら絶対できません。
民族差別はいけないことだ、と思ってるからです。

Aさんという方は某欧州国在住のエスペランチストで、奥様はその国のエスペランチストだそうです。
「よろず」の会話などから察するに、Aさんは某欧州国で生活している上で、東洋人として「民族差別」を感じることがあるそうです。
私も海外旅行した時に、「これって差別?」的な漠然としたものは感じたことがあるから、分かる気はする。
でも、日本にいれば、自分は主体民族だから「民族差別」を「受ける」感覚は全くない。
(「与える」ことは、なるべく避けたいとは思ってる)

「受ける」立場として、そういう状況に常に身を置くのは、つらいと思う。
でも「負の連鎖」というのかな? 差別を受けた者がより弱い者へ差別を向ける、ということもあるのかな?
とAさんの「土人」発言を読んで思った。
あらゆる民族から民族差別の感情が無くなるといいね。。。

あ、それからDさん、私が「擁護」なんてしちゃったから
かえって「書き込み」しづらくなっちゃったのかな?
私が「出ていけ」発言に触れなければ、こっそり「削除」されて
「何もなかった」ことになったのかな?

331隣の隠居:2008/11/17(月) 12:40:34
ベダウリンデさん
>>今までのやり取りをリアルタイムで読んできた上でのレスなのかも、疑問です。
>>きっと、掲示板が寂れれるから「親切心」でコメントしてくれたと思うのですが、「それだけのこと」です。
おっしゃるとおり、リアルタイムでは読んでません。
結構トンチンカンなことを書いたかもしれないです。m(_ _)m
あまりトンチンカンなことを書くと「過去ログ嫁!」って怒られますが、ネットではそれぞれ関心のあることは違いますし、通りすがりでコメントをつけることも多いです。

この「なんでも掲示板」は、みんな自分の考えていることを思い思いに書いているので、一枚岩ではないですよ。
ここに限らず、ネットってそういうものです。

332隣の隠居:2008/11/17(月) 12:45:46
>>331は、ベダウリンデさんに向けて発言したんじゃなくて、エスペラント運動の中の人たちが排他的で、特定の答えしか求めていないように見えるので、ネットってそういうもんじゃないよということを言いたかったんです。

>>330の発言は、本当にひどいですね。
自分の考えにあわなければ、どんなことを言っても許されると思ってるんでしょう。(怒

333ベダウリンデ:2008/11/17(月) 16:29:38
「よろず」でのDさんとAさんのやり取りは、今から追っかけてもよく理解できないと思います。
というのは、Aさんは、相手に悪印象を与える書き込みをし、しばらく後にそれを削除してしまうからです。
Aさんの悪意ある書き込みでDさんが感情を害し、それで論争がややこしくなった面もあるのに、
Aさんはその部分を削除してしまっているので、
結果、Dさんだけがおかしなことを言ってる風に読み取られる可能性が出てきています。

その意味でも、Aさんは「かなり悪質」です。
私はAさんとはやりとりしたくないな、と思う。

334ベダウリンデ:2008/11/18(火) 09:42:47
「よろず」問題に関しては、Dさんが早く自己弁護してほしいんですけど。
私は「Dさん弁護」したくてウズウズしてるんですけど。
で、勝手に「弁護」しちゃうんですけど。。。

Dさんの「よろず」投稿文『れ:箸、そろばん、ハンガー 投稿日:2008年10月28日』は、
何度も言うけど、私から見ると「渾身の一文」だと思う。
初心者が真剣にエスペラントに向き合って、その結果疑問を抱き、それを正直にぶつけてた。
それのどこが「出て行けばいい」と言われるほど、悪いんだろう、と思ってた。
疑問を抱く事すら許されないエスペラント界だったら、
なーんにも考えないで、先輩の言うことを鵜呑みにして、すぐ「洗脳」されちゃうヘタレしか、
エスペランチストにはなれないじゃないですか??
(だから「怪しげな新興宗教」って揶揄したくなる)

で、「よろず」のNさんいわく、「曲解された」と思っているらしい。
Nさん筆
>・エスを導入したら英語は禁止
>・英語至上主義否定のエスを導入したら、日本の商習慣(その他専門性の高い集団内での習慣(日本語、英語、ジャパニーズイングリッシュによる表現)は全部エスにしなければならない
>という発言はまったくの曲解です。

私は、これと同じ主張を、過去の時点で、はっきり明示的には読んでいないです。
私は、AさんとNさんは、英語由来の単語を極度に嫌ってる印象を持ってました。
今更「そんな事思ってない」とか言われても「え?そうだったの?」という感じです。
つまり、Aさん・Nさん自身が「誤解されても仕方ない」書き方をしていたのです。
それでは「曲解された」とは言えません。

335ベダウリンデ:2008/11/18(火) 09:47:12
「よろず」の雲行きが怪しくなったのは(それまでは和気あいあい)
Dさんがコスプレの訳で悩み始めた10月15日の時点からです。
「よろず」の誰もがkospleoの訳語にゴーサインを出しませんでした。
私は「Dさんがそう思うならそれで行けばいいのに。広まるか広まらないかはDさんの力量次第だろうけど」と思った。
でも「よろず」では全面否定された。
Aさんは「kostumoludoのどこに問題があるのか(にっこり)」みたいな書き込みをし(既に削除)
その後S氏(たぶん大御所)が『私はkostumumo,kostumumado を推します。』と書いたとたん、
Aさんは「いいですねー」みたいに、今までのkostumoludo案はどこへやら、ちゃっかり即座に「大御所」にしっぽを振って見せました。(これも削除)

また「丑の刻参り」の例の中で「辞書を持っていない」事例をDさんが挙げたら、
Aさんは「曲解」して、Dさん自身が辞書を蔑視してる=「先人を敬っていない」という旨の書き込みをしました。(これも削除)
私は「こんな曲解されて、Dさん、怒らないのかな?」とハラハラしてました。

336ベダウリンデ:2008/11/18(火) 09:53:07
なぜkospleoは否定されるのか?Dさんは理由を色々考えたんだと思う。
その結果が『れ:箸、そろばん、ハンガー 』だと思う。
その中の一文に
『外部から「英語をそのまま使うことは植民地主義と同様です。これからはエスペラントを使うべきです」と、悩みもなくあっさり変更を促すのは何だか違う気がするにょ。』とあります。

ここで、Dさんは決して「エスペランチストのみんながこう言ってる」なんて書いていません。
おそらく、「よろず」の反応から、そういう風潮があるのではないか、と察知したのだと思う。
プラス具体的な実例から(WWWとTTTなど)、既成の用語を排除してエスペラント化してる実態が事実、存在するので、
それに対して疑いを抱いたんだと思う。

『またオイラ達が望んでいるのは“言語の統一による平和の樹立”ではなくて、
>“豊かな社会を実現するために現代的な流通環境を構築して社会貢献する
>こと”だもの!』の文もあります。
これ関しては、Nさんは非常に反感を抱き、Dさんが「平和の樹立」ではなく「豊かさ」を望んでいる、と「曲解」しました。
この部分、Nさんは巧みに「言語の統一による」の部分を欠落させて引用しています。

337ベダウリンデ:2008/11/18(火) 10:00:00
Dさんは、『回答します 投稿日:2008年11月 8日』で、今まで説明不足だった点を補ってます。
Dさんの言いたいことは、
『世の中にはさまざまな分野があって、どの分野も累積的な知識や用語の積み重ねがある。それを全部エスペラントに置き換えることができるとは思えないからです。』
だと、私は思います。
ここにまた、Aさんが拘る一文もあります。
流通業者は既に『英語の用語を用いた専門の教育を施している。』だから、
『たとえば商品の袋詰めのことは、「サッキング」といいますが、おそらく、これをエスペラント化すると別の言い方になるでしょう。でも、そうやってエスに置き換えていったら大変じゃないですか?非現実的ですよ。』と思った。

これに対してAさんは
>「そうやってエスに置き換えていったら大変じゃないですか?」
>それがエスペラント運動の全努力でしょう。
とコメントしてます。

これを読むと、Aさん個人は、英語の用語を嫌って全部エスペラント語根に置き換えようとしている人、
としか思えないです。

そんなこんなの流れがあるので、今更、
>・英語至上主義否定のエスを導入したら、日本の商習慣(その他専門性の高い集団内での習慣(日本語、英語、ジャパニーズイングリッシュによる表現)は全部エスにしなければならない
>という発言はまったくの曲解です。
と言われても、全く納得できませんね。

338ベダウリンデ:2008/11/20(木) 09:00:31
「よろず」でDさんの書き込みありましたが、淡々とした印象。
Aさんへは「にっこり」の一言で、受け流してた。(大人だな、と思った)
私は、Dさん、色々曲解され、怒号(?)のようなもの(Aさん)まで浴びせられて、
(はたまた私がここで余計なちょっかいまで出したから)
エスペラントが嫌になってしまったのではないか、と心配してた。

私は、エスペランチストが嫌いで、エスペラントから離れた。
Dさんにも同じ事が起こったら、自分の事以上に、なんか、悲しい。
Dさん、「よろず」の溶け込もうと頑張ってた。
MATの活動などに貢献して、色々調べたりして、頑張ってた。
それなのに・・・・と思うと、ね。

個人的には、「めげずにこれからも頑張って」と言いたいです。

339ベダウリンデ:2008/11/20(木) 09:23:44
それから、「よろず」でDさんが書いてた「ゆでだこの件」って何だろうと思って、
ググッたら、すぐ分かった。
Dさんの書き方だと、「一部のエスペランチストが危険な活動をしている」ように読み取れたので、
私も心配したけど(私もこんな所に書き込みをしてるから、一味と思われて取り調べが来たらどうしよう、と)
エスペランチストのみで活動してる訳ではない様です。
世間によくある抗議活動に「名を連ねてる」程度かな?
逆にちょっと「期待はずれ」ではありました。
ドッカーンと目立ってテレビニュースでエスペラント団体が取り上げられれば
エスペラントも超有名になれるのに・・・・?

エスペランチストが抗議活動に加わってはいけない、という掟は無いと思うので、
誰であっても、自分の思う通りに活動すればいい、と私は思いますね。
(エスペラント単語の導入でも何でもそうです)
Dさんが「不安」になった理由はちょっと分からなかった。

下らない雑談ですみません。

340隣の隠居:2008/11/20(木) 21:47:02
よろずの掲示板をよく読んでないので「ゆでだこ云々」にコメントする気はないのですが、似た言葉で「ゆでガエル」という言葉もあります。
カエルを容器に入れて急に加熱すると飛び出して難を逃れるのですが、ゆっくり加熱するとそのまま我慢してしまい、気づいたときには出るに出られずそのまま死んでしまうというものです。
エスペラント運動も、ゆでガエルのように、衰退してきていることになれてしまい、気づいたときには回復する術もなく、滅びてしまう可能性も高いのではと思っています。

341ベダウリンデ:2008/11/21(金) 08:31:00
「ゆでガエル」ジョークに便乗
そのカエルさん達は、徐々に熱せられてる途中の段階では
「暖かくて気持ちいいいなー」「居心地いいなー」と思ってるらしいです。
で、その気持ちいい状態に、文字通り「水を差す」ような物が入ってくると、
「今が居心地いいんだから邪魔しないで!」って、それを排除するんだって。
で、最後は熱せられて死んじゃうんたって。ま、両生類だから

342隣の隠居:2008/11/22(土) 05:52:49
>>341
「ゆでガエル論」はビジネス環境の変化に対応しようとせず、結局は、自滅するというたとえ話ですから、そういう理屈は大いにありえると思いますよ。

343やぱーの@管理人:2008/11/23(日) 16:11:43

たびたび失礼します。
松戸彩苑様より15日に受信したメールを貼り付けます。
遅れて申し訳ありません。m(_ _)m



松戸彩苑ですが、どういうわけだか先週の土曜日から、この掲示板に書きこむことが出来
なくなってしまいました。
何度「書き込む」ボタンを押しても「ERROR!!! ホスト規制中!!」という画面が出て、書きこむことが出来ないのです。
(「オレはホストじゃねぇぞ!」と思うんですが)

ところで、>>312 で私は「神という言葉を使っていないから、エスペラント運動は宗教ではない」と書きましたが、その後つらつらと考えているうちに私の考えが変わりまして、やっぱり宗教くさいところがあるよなぁって思うようになりました。

つまり「自分たちの言うことは100%正しい」と言っていて、疑問や矛盾を指摘しても、まともに取り合わない。

みたいなところがあるからです。
また世間の人たちから変に思われることを、まったく気にしていないとしか思えないような言動・行動が少なくない。

ということもあります。

これでは、宣伝すればするほど逆効果になってしまうのではないでしょうか。

ということで、ベダウリンデさんと意見が一致したと思います。

344ベダウリンデ:2008/11/25(火) 08:25:06
松戸さんまで規制にかかってしまったとは、この掲示板も寂しくなりますね。

松戸様
>ということで、ベダウリンデさんと意見が一致したと思います。
「それは良かった」とい言いたい所ですが、他の面では、おそらく一致してないと思います。
例えば、松戸さんはエスペラントを広めたいと思ってるだろうけど、私はその正反対。
エスペラントなんて自己満足の遊びの言語、社会の役には全く立たない言語だと思ってる。
箸(バストネートイ=小棒)にも棒(バストーノイ)にもかからないヘタレ言語。
むしろ、この言語が万が一「国際共通語」になったら、逆に恐怖です。

やぱーの様、いつも管理御苦労さまです。
私がこのように「エスペラントの悪口」を書けるのも、「なんでも掲示板」の懐の広さのお陰です。
思えば、この掲示板に「サミデヤーノ」なんて(過去の一部投稿者を除き)、いませんね。
一部意見が一致すれば、その部分では「賛同」は出るけど、全ての面で一致するとは限らない。
誰が敵か味方かも分からない「混沌」とした世界。
でも、だからこそ、自分の意見を自分だけの責任として、自由に書けるんだ、と思う。

345ベダウリンデ:2008/11/25(火) 08:46:03
「よろず」読んでると、思う。
エスペラント界には「思想のマニュアル」のような物があるのではないか、と。
それにのっとった理屈を言っていれば、それだけで「仲間」と認められる。
「仲間」と認められれば、他の仲間から批難されたり、否定されたりすることは絶対に無い。
マニュアルどおりの発言さえしていれば、賛同とお世辞を、思う存分受けられる。
確かに、そういう「世界」に入ってしまえば、居心地良くて、「幸せ」すら感じるんだろうな、と思う。
でも、思う。そういう「世界」に、自分、入りたいか?と。答えはもちろん「ノー」。
ビーカーの中のカエル達は身を寄せ合ってうっとりと心地よさそうにしているけれど。

346ベダウリンデ:2008/11/25(火) 08:57:37
カエルってさ、変なもの食べると、胃袋をひっくり返して、吐き出すっていう。「ペッペッペ」って感じですか?
そんなに激しく拒絶しなくてもいいのにね。
なんでもかんでも飲み込んで消化してしまえればいいのにね。

カエルってさ、周りの色で、自分の色が変わる。
ビーカーのカエルは「エスペラント緑」一色。
外を飛び回ってたカエルは、当然違う色。
そんなカエルがいきなりビーカーに飛び込んだら、
「エスペラント緑」のカエル達は仰天し、必死になって追い出すのでしょう。

347隣の隠居:2008/11/25(火) 10:41:15
>>346
ベダウリンデさん
ゆでガエル論が気に入っていただいたようで。(^^;

個人的な思想信条はどうでもいいですから、そういうものをエスペラント運動に持ち込んでほしくはないですよね。
でも、自分としては、こういう状況があらたまることはないだろうと思ってます。
ただでさえ、学ぶ人は減る一方なのに、せっかく来てくれた人を特定の思想を持たないことうを理由に排除する必要はないですよ。

348ベダウリンデ:2008/11/26(水) 09:01:24
「カエル」気に入っちゃいまいた^^
ちっちゃいビーカーから顔だけ出して「自分たちこそ正しいぞ!」とケロケロ鳴いてるカエルもいますね。
世界はビーカーの外で回っているのにね。

>でも、自分としては、こういう状況があらたまることはないだろうと思ってます。
同感です。
人工語っていうのは、全部そうだと思うけど、一般社会から見たら、存在してもしなくても関係ない。
やってる人達が楽しいから、やってる、というだけで。そしておそらく彼らは「仲間」を求めているんでしょう。
エスペラントに限らず、人工語愛好者の世界って仲間意識が強そ〜、と想像してます。
まあ、その事だけなら、どんな趣味の世界にも通じますから、問題は無いですが。

で、「仲間」を集めるにはどうするか。
人工語の場合、それぞれ、その人工語特有の「売り」があるんだと思う。
エスペラントの場合、それは「エスペラント思想(?)」とかいうものかもしれないけど、
「思想が売り」っていうのは、言語としては全く使い物にならない、という証拠みたいだと思う。
もしも「思想」が無くなったら、もともと使用に耐えないこの言語は、必然的に風化してしまうだろう、という事は、
本人達が一番分かってるのかもね。
だから、自分達の「思想」に少しでも反するものが入ってきたら、必死になって拒絶する。

でも、いくら自己保存の本能とはいえ、胃袋ひっくり返してまで、吐き出さなくてもいいと思うんだ。
見てて見苦しい。醜悪。
ぐっと飲み込んでみれば、意外と消化できて、個体そのものの生命力も強まるかもしれないのに。
それができないで、本能的に吐き出してばっかりいる。
だから、両生類は両生類で進化しないんだよ   なあ、カエル

349ベダウリンデ:2008/11/27(木) 09:24:17
「よろず」後日談としては、結局Dさんに対する「出て行けばいい」発言は
誰もお咎めせずに終結しました。つまり、この発言は「よろず」統一見解として認可されました。
最終的には「じっくり考えずに曲解したDさん一人が騒動の原因」(Nさん)という結論らしいです。
(Dさんは「曲解」なんかしてないし、悩みに悩んで、よく考えた末に投稿したと、私は読み取ったんだけどねー)
たったひとりに全責任をなすりつけて平然としてるのは、「冷酷」だと思います。
あのAさんに反論するのが「怖い」のかもしれないけど、
個人の意見としても「出ていく必要ないですよ」って言える人が、誰一人としていないのは、
団体として寂しいものがあるよなー、と思います。(ビーカーは既にかなり煮詰まっているのかも)

人間はみんなそれぞれ違う考えを持っている。
そういう人間達を仲介して、つなげているのが「言語」。
エスペラント語は、「共通の思想」を基盤としてるから、そこには「違う考え」そのものが存在しない。
だから、「違う考え」と共存し、話し合って理解し合うという経験そのものが無いのかもしれない。
エスペラント脳になってしまうと、日本語を話してる時ですら、
「違う考え」というものへの対処の仕方を忘れ、「激しい拒絶」しかできなくなるのかもしれないなー

350ベダウリンデ:2008/12/01(月) 08:34:01
カエル応援歌
カエルさんはビーカーの外にも生息してて、頑張って生きてる。
私はビーカーの外のカエルさん達を応援したいな。
少し前、日本のカエルが絶滅するのではないか、というニュースがあったと思う。
カエルなんて人間の生活には関係ないよ、とか言っても、
今までいたものが絶滅するのは、やっぱり寂しいものです。
外のカエル達は逞しく繁殖してほしいなーと思います。
(外の世界はヘビ、トカゲがうようよいて、カエルの存在をアピールするだけでも大変だろうけどね)

ビーカーの中のカエルさん達は、ビーカーの中からでもいいから、外の世界を覗いてほしい。
そして、自分達がいかにグロテククな緑色に統一されてしまっているかを、察してほしいな。
まあ、何はともあれ、ビーカーのカエルも頑張って生き延びて下さい。

351ベダウリンデ:2008/12/01(月) 08:57:25
カエル観察日記
ビーカーガエルに、一見よく似た色のカエルが、ビーカーの外側に跳びついた。
そのカエルはある時、大きな虫を捕まえた。
ビーカーのカエル達は仲間のカエルかと思って、
「おめでとう!」「でかしたぞ!」「お手柄だケロ!」と大喜び。
でも、そのカエル「違うよーん」と言って、ぴょーんと跳んでってしまった。
残されたカエル達はちょっと興ざめ気味。
「ビーカーの中の方がいいよね」「賛成だケロ」と言い合うのみ。
でも、私=観察者の予想では、「ビーカーの中にいないのはケシカラン!」と
いきり立って怒るのではないか、と思ってたので、その予想は外れた。
ビーカーガエルも少しは「学習」して、「丸くなった」のかな?と思った。
世間の常識に合わせて、ナチュラルカラーな発言をするって、進歩だと思うよ。

352ベダウリンデ:2008/12/01(月) 09:20:04
ビーカーの縁から顔だけ出してたカエルが、こっちの存在に気づいたようだ。
人間様に向かって、ケロケロと威嚇してる。
『この掲示板参加者への悪態をつくことで気炎を上げています。』だって。
悪態、じゃなくて、観察です。観察面白すぎだから、これ以上ネタ提供しないで〜
『主張の「論理の展開」には、相変わらず可笑しなところがあります。』だって。
論理、じゃなくて、どっちかっていうと、ジョーク? エスペラント界って笑いが無いからねー
『味噌糞なE運動への敵意を抱いた発言』だって。
結構、応援してるんだけどなー。趣味としてなら、いーんじゃない?と。
『あの掲示板自体の品位を落とす』
自分の過去の書き込みを読んでから言って下さいよ〜
『そういえば、一世を風靡したギター侍のハタ・ヨウクは何処へ云ったんだろう。』
普通の洋服でテレビに出てますよ。
いつまでも同じ思想に凝り固まってる人に比べたら、世間を読んで賢く動いてますよ。

353KamelioJapana:2008/12/01(月) 14:31:58
>352

貴方の独断場のところにお邪魔して悪いので、この場ではご返事しません。
一言だけ、
「ジョーク?」?マークが付いていますので、脈絡から云ってこの部分の意味が
不鮮明です。
もし、貴方がジョークの心算で云っているのでしたら、せめて読み手に伝わる様に
発信すべきではないでしょうか。貴方が「復活」してからの言動はこの掲示板の
参加者として先刻承知でした。

私の言及に直接反論をされたので私も応じざるを得なくなりました。
但し、HELの掲示板を応援したいので、今後は「よろず掲示板」にてお相手します。
宜しかったら貴方もお出でください。

354ベダウリンデ:2008/12/05(金) 21:00:11
>私の言及に直接反論
はあ??そちらが先によろずに「Be氏の発言」と書いたのですよ?
カエルさんに申し上げる事は何も無いので、よろずには書きませんよ

355ベダウリンデ:2008/12/07(日) 09:44:07
一年以上も前からずっと観察してたから、その生態はよく分かってる。
外から跳び込んだカエルその他の動物が、ビーカーの中でリンチの様な悲惨な目にあっていた。
ビーカーの中はマナぬるいだけではなく、血なまぐさい悪臭すら漂ってるように感じられる。
最初、人工言語愛好者が入り込み、その人達は「出入り禁止」にされた。
その段階で「ビーカーはヘーサ的」と分かりました。
彼等は「荒らし」のつもりではなく、議論したくて入って来たみたいだったので、
「出入り禁止」扱いは、さぞかし「屈辱」だろうな、と思ってました。

「自由主義史観」もダメらしく、出入り禁止とされました。
禁止にした後で「(人に自分の意見を押し付けるとは)何様のつもりでしょう」なんて言ってるカエルがいましたっけ。

その後、Mさんという人がカエル語の発展・普及のため、ビーカーガエル達の意識変革を促すべく
意を決してビーカーに入り込んだのですが、それはもうたいへん、全員総出でボコボコにされました。
Mさんの意見には一切耳を貸さず全否定。それどころか、侮蔑的な発言を浴びせ、人格の否定までする始末でした。
私は「気の毒だなー」と思いつつ、その「孤独な戦い」に敬意を表し、静かに観察を続けておりました。
その後、Mさんを弁護する別の人が介入し、Aさんと話し合おうとするも、
Aさんは聞き耳持たず、その人にも不快感を与え続け、結局その人も出て行きました。
そして、Dさん事件。Dさんは頑張ってビーカーの中に溶け込もうとしてたのに、
異色と悟られたとたん、ボコボコにされました。(しかも、ちっちゃな子ガエルだったよ)
これには、さすがの私も黙っていられませんでしたので、ここで観察日記を公開しました。

ビーカーには入らず、外側にへっついて、時々「事務的連絡」だけしているカエルもいる。
自分の生命を守るには、賢いやり方だと思う。

今までの観察からすると、ビーカーガエルは他者の意見に耳を傾ける(カエルに耳は無いけど鼓膜はあるらしい)
ことは一切しない。それどころが、全員総出で「曲解」と「侮辱発言」という武器で「敵」をボコボコにする。

>「よろず掲示板」にてお相手します。
ですか?
血に飢えた残虐なカエルが次なる生贄を探しているようですが、
私はカエルではなく、人間語を話す人間なので、「観察」はビーカーの外からします。
興味本位で指でも突っ込んだら、バイキンが入りかねないですからね。

356ベダウリンデ:2008/12/10(水) 10:02:30
「よろず」には行かないけど、「なんでも」では「お相手」します。
カメリオさんの別スレ発言
『Eが必要とされる、お尻に火の付く状況とは、なんでしょうかね〜。考えさせられますね。』
は笑えました。笑える発言、大歓迎ですよ。
「お尻に火を付けられてエスペラントやってる図」・・・カエルの絵で想像するとより楽しいです。

357ベダウリンデ:2008/12/11(木) 08:36:34
別スレにて、見つけたこんな発言
政治的見解が異なるエスペランチストに対するKJ氏
『前にも申し上げました様に
このような言動を今後も続けられるなら、もう貴方とのUK等での復縁は無いことは勿論、お会いした時
も、きっちり私の思いをお伝えすることになるでしょう。
貴方が、次回のUKに参加されるかどうかは分かりませんが。。。』

二人は仲良く議論して楽しんでいると思ってた。なのに、一方的な絶縁宣言。
違う意見の人とも、「表面的には」そつなく振る舞えるのが大人じゃないか?
世界を視野に置けば、宗教・政治・文化的背景の違いから、異なる意見の人なんてざらにいるのが当然でしょう。
もし他にも意見が異なるエスペランチストがいれば、いちいち全員と「絶縁宣言」するのかな?
それとも、日本人の一部エスペランチストと絶縁するだけで、外国人にはヘコヘコしてるのかな?
それとも、外国人には「サルートン」くらいしか通じないから、意見の食い違いが表面化しないだけなのかな?

『貴方が、次回のUKに参加されるかどうかは分かりませんが。。。』
これは「脅し」かな?
てめー、俺様に逆らいやがって、次回のUK行けると思うなよ、的な(?)
氏は作文の先生らしいから、エスペラント界ではかなりの権力を有していると思われ。
裏で手をまわして、仲間外れにしていじめる、なんてお手の物なのかも?

358ベダウリンデ:2008/12/12(金) 08:58:26
あははー、読んだよ「よろず」。
KJ氏
>ベダウリンデ氏に関する私の意見をこの掲示板で書くことにしました。
>その理由ですが、
>一つ、
>「E 何でも掲示板」に書けば、彼の書き込みのスレがトップに来て多くの人の目に触れることで E 運動に在らぬ誤解を与えてしまうこと。
>一つ、
>この掲示板のヒット数を上位に維持したい。
>一つ、
>私が「何でも・・・」で専ら書き込んでいるEと国家権力やまたEと憲法9条のスレを常に上位に置きたい。
>からです。
>また、皆様が「何でも・・・」に書き込んで頂いて、その掲示板の歪んだ様々な見解を正す事も可能なのですが。。。
>そうなれば、その管理者の見解(以前と変わらないか否か)も含めてその掲示板が今後どうなって行くのか、皆様の出方次第では興味ある展開になっていくかも知れませんよ。

Nさんの答え「慎重にお願いします。」

だよねー。KJ氏は両方書き込めるんだから、わざわざ「遠隔レス」しなくてもねー。
楽しく和気あいあいしてる他のよろずメンバーに迷惑でしょう。(そんな事にも気を使えないのか!という)
ただし、こんな事書いる人がいます、とコピペするのは許可しますよ。
その時はBe氏でもBさん、でも、匿名にしてほしいな。その掲示板では直接やりとりしてないんだから。

359ベダウリンデ:2008/12/12(金) 09:23:11
「なんでも」に書きたくない理由が、これまたエゴイスティックで、KJ氏の性格がよく出てますね。

>「E 何でも掲示板」に書けば、彼の書き込みのスレがトップに来て多くの人の目に触れることで E 運動に在らぬ誤解を与えてしまうこと。
あのー、これでも遠慮してsageで書いてるんですけど・・・・こっちの気遣いが分からないですかね〜?

>この掲示板のヒット数を上位に維持したい。
視聴率競争ですか? ヒット数を競い合うなんて、なんと浅ましい!!! 

>私が「何でも・・・」で専ら書き込んでいるEと国家権力やまたEと憲法9条のスレを常に上位に置きたい。
KJ氏自身が、そんな事ばっかし書いてるから、エスペランチストは全員、特殊な政治的思想で統一されているのでは?
と、一般人に不安を抱かせるんですよ。
「そんなひとばかりじゃないよ」と必死に張り合ってるエスペロさんがいるから、かろうじてバランス保たれてますが。

『E 運動に在らぬ誤解』ですか?
「エスペラントは特定の政治思想と密着してる」というのは、『在らぬ誤解』ではないのですか?
KJ氏はそれを「真実」と言い張るでしょうが、全てのエスペランチストがそう思ってるとは限りませんよ。
KJ氏だけが自分の思想ばかり語ると、それがエスペラントの全てだと、一般人が誤解すると思います。
特定の思想を持ち合わせてないと、それに染まらないと、エスペランチストとして受け入れてもらえないのでは? と
不安になると思いますよ。『在らぬ誤解』をばらまいているのはKJ氏自身ではないのですか?

360ベダウリンデ:2008/12/15(月) 08:29:24
「よろず」KJ氏。
>ベダウリンデ氏が、相変わらずHELメンバーの悪口を書いています。
>彼なりには一生懸命でしょうが、可愛そうに誰からも相手にされないので苛立っているようにみえます。
>興味のある方は「何でも掲示板」で見てください。
>でも、関わりにならないほうが此方の精神衛生のためにも好いかも知れませんね。
>彼のカウンセリングのために奉仕したいのなら別ですが。。。

KJ氏、「よろず」でも浮きぎみです。
Nさんは「慎重にお願い」って言ったのに、それも読めずに、しつこい。
当然KJ氏の「提言」には、みんな無反応。
KJ氏は元祖Kuŭki Jomenai氏ですね。 あ、これエスペラント新語に提案しましょうか?
KYなんて語、もう流行ってないぞ、ですと?
いーんですよ、エスペラントなんてどうせ、世界の時流から常に2歩も3歩も遅れているんですから。

361ベダウリンデ:2008/12/15(月) 08:45:16
>ベダウリンデ氏が、相変わらずHELメンバーの悪口を書いています。
「悪口」は書いてないですよ。観察した事実と感想のみ、書いてるだけです。

「Aちゃんの悪口を、Bちゃんが言ってたよ」とCちゃんがAちゃんに言いました。
あなたがAちゃんだったら、BちゃんとCちゃん、どっちを警戒する?
答え「警戒すべきはCちゃん」です。
Cちゃんの目的は、自分は善人ぶって、Aちゃんを不安にさせることです。
そして、AちゃんとBちゃんに争いを起こさせ、それを高みの見物しようと目論んでいるのです。

キャメリオさんは、どう思いますか?

362なつ:2008/12/16(火) 23:34:41
まさに反日運動家の手法。
だって共産主義者だもの(みつを)

363なつ:2008/12/18(木) 00:16:28
ノーベル賞はスウェーデンですが、
どうして全て英語でスピーチするんでしょうか?
会見や受賞者同士の公式的会話も全て当たり前のように英語。
以前は、ヨーロッパではフランス語、ドイツ語、ロシア語などなどが
がんばってて、だからこそエスペラントが必要だったのでしょうが、
今、現在、ヨーロッパの言語も淘汰されて、英語が少なくとも科学の分野
あるいは、コンピューター関連では
完全に共通語化していると思われます。
「エスペラントは普及しないのか?」ではなく、
「普及しなかったね(完)」という状況。
今後エスペラントは何を目標にすべきなんでしょうかね?
以前なら、宗主国や強国の人に有利だ、という意見がありましたが、
現在世界的に英語で固定されてるのですから。
例えて言うなら、東北人が東京弁をもとにする共通語を小さいときから学ぶように
英語を学べばいいことです。いや親が子に学ばせる義務があるかもしれません。
大人になっても英語ができずエスペラントに一縷の望みを抱いてもダメです。

364ベダウリンデ:2008/12/19(金) 10:38:08
いま「よろず」見たらNさんとAさんが「なんでも」にコメントしてた。
コピーする程の内容でもないから放置しとくけど、
KJさんが浮いてるって書いたとたんに反応する所が愉快だな。
仲間意識が相当強いな、と思う。

Nさんへ、ひとことだけ、
>ただ、komencanto以前の人が「なんでも」だけをのぞいて「怖い。イヤだ」と反応しないことを願うのみである。

ちなみに、私はエスペラント初めて3か月かこそらの時でした。
エスペラント界の事、何も知らないで、エスペランチストってどんな人?
と素朴な疑問で「エスペラント 掲示板」で検索した。
その時「よろず」は何となく近づき難い印象だった。
こっちも相当敷居が高かったけど、幾分マシだったからこっちを選択した、という経緯があります。
ちなみに私は「反左翼」じゃないんですよ、過去も今も。
ただ、当時の「よろず」の書き込みに「アメリカ文化の存在自体を憎む」様なニュアンスの文があって、
「これは単なる反米主義か!?怖〜」と思ったのは確かです。

「よろず」もエスペラントのイメージアップに貢献してあげてほしいと思うけど、
今のままじゃ駄目だよ、と言いたいです。
「よろず」にだって新人さんの書き込みがほとんど無いという事実が、それを物語ってると思う。

365なつ:2008/12/21(日) 00:57:47
>>364
僕も同じ感じですね。
ひさしぶりに「よろず」を覗いてみました。

ここで「よろず」のことについて「陰口」をたたくなと「陰口」をされていましたねw

「よろず」のことをここで書いても、
あるいは「よろず」でここのことを書いても、
両者公開の場だから、別に「陰口」じゃないと思うんですけどね。
相互作用でいいと思うんですけどね。やはり視野も了見も狭い思想のにおいがにじみ出ている感じがします。
しかも「陰口」はいけないと某少数宗教の言葉を用いて、自身がここの「陰口」にもとれるようなことを言うのはいかがなもんでしょうか?
自己矛盾はなはだしい。陰口はいいよという意見をもったうえで陰口すべきです。

僕も反左翼では本来ないんですけど、こうガンガンに左翼を全面に出されると
逆に嫌悪を抱きますね。エスペラントにはマイナスですね、このクレイジーな「イデオロギー」の対立は。
いや、対立じゃなくて、エスペラントには左翼思想はプラスだと信じているのが一番のマイナスでしょうね。
それをマイナスなんだよって言っても、かたくなにそのマイナスを全面に出してプロパガンダをやってる。
「よろず」が、イデオロギー全面なのに、怖くないと考えているのが怖いですね。
エスペランティストだけですからね、こんなに○○主義という言葉の定義や論議が好きな人たちは。
好きな人たちが多くいるから我々もそれらの人に嫌悪を抱く。悪循環です。

366エスペロ:2008/12/21(日) 07:56:59
>エスペラントには左翼思想はプラスだと信じているのが一番のマイナスでしょうね。
>それをマイナスなんだよって言っても、...

Vi tute pravas...mirindas ke Japanaj maldekstruloj estas, dume de kelkdekoj da
jaroj, deklamintaj 'pacon','homrajton','bonfarton','protekton de malfortuloj',
'medion'...,sed dume ilia tiuspeca taktiko sukcesas kaj prosperas...
en Japanio neniuj dubas ĉu maldektruloj egalus je konscienculoj...
全くそのとおりです・・・日本の左翼は、何十年間、「平和」「人権」「福祉」「弱者保護」「環境」・・・を唱えてきたことは
驚くべきことです・・・しかし、反面、彼らのこの手の戦略は成功しています・・・
日本では、左翼が良心的な人々だということに疑問を呈する人は誰もいないでしょう・・・

Maldekstruloj en Japana E-ujo ankaŭ absolute kredas ke E-movado NE disvolviĝus SEN ideo de 'pacismo'...mi mem dubas ĉu de ili
deklamata 'pacismo' estus vere justa,prava...ĉar mi,antaŭ ĉ 40 jaroj,
vidis ke tiama 'KontraŭMilita Movado je Vjetnamio' estis trompa...
日本エス界の左翼も、「平和主義」思想なしにはエス運動は発展しないと堅く信じています・・・
私自身は、彼らの言う「平和主義」が真に正しいのか疑問に思うのです・・・それは
それは、約40年前に、当時の「ベトナム反戦運動」が欺瞞だったことを見ているからです・・・

Ene de Japana E-ujo videblas pluraj organizaĵoj,kiuj deklaras 'pacismon': Rondo Ken,JPEA,
Esperanta Asocio de Artikolo 9...mi mem staras kontrau ili,kaj min emas
moknomi ili etikedante '...ne indas e-isto'...Tion mi ja abomenas...
日本のエス界には、「平和主義」を公言する複数の組織があります・・・ロンド・ケン、
JPEA、エスペラント9条の会・・・私自身はそれらの組織には反対の立場なのですが、
「エスぺランチストには相応しくない」とレッテル貼りされて、彼らに罵られてしまいます・・・
これがとても嫌です・・・

367ベダウリンデ:2008/12/21(日) 10:09:08
そもそも、「よろず」に「なんでも」の話題が出たのは、
KJ氏が私を攻撃をさせようと促した事が発端なのですが、
Nさんは「なんでも」全体を攻撃してしまって、皆様にまで不快な思いをさせてしまって、残念に思います。

「なんでも」は「よろず」と違って、「統一思想」はないから、個人個人で考えは違う。
Nさんはそれに気付かず、自分が嫌いだと思う点を寄せ集めて「なんでも」という一つのモンスターを作ってしまっている。
一番残念だと思うのは、次の部分でした。

>理由は、そこに熱心に書き込みをする人たち(Ekz.ベダウリンデ氏)が、エスを愛し、エスを楽しみ、エスを積極的に実用している人だとは思えなかったからだ。

私個人は、初心者の時に、「よろず」系の人の書き込みに嫌気がさして、
エスペラントを捨てたので、「エスを愛し」てないのですが、
他の人は、私が文面を読む限り「エスを愛し」ている人が多いです。
書き込み総数が多い人しか判定できないのですが、例えば常にエスペラントで書くエスペロさん、
今はホスト規制で書き込みできない松戸彩園さん、Rakuさんも、エスペラント&ザメンホフを愛してるんだなー、と私は感じてました。
Nさんて、人間を個々に分けて深く観察できない人なんだなーと思います。

>なぜ「なんでも」の面々は憲法9条をかくも忌み嫌うのか。理解に苦しむ。

この部分からも、9条支持者=いい人=「よろず」、9条否定派=悪人=「なんでも」、と
単純に白黒に分けてしか、人間を見られない人、というのが伝わってくる。
ちなみに私個人は9条は現状維持を支持。(支持の理由は「よろず」とは違うと思ってるけど)
でも私は「なんでもメンバー」=悪人、なんです。
それに私は、改憲派=人間として理解できない、とは全く思わないです。
そんな風に人間を単純に二分したくないんです。

Nさんとか、「平和」とか「戦争反対」とか、言ってる事は偉そうなんだけど、底の浅さが滲み出てる気がする。
だから、私は「よろず」読んで感銘を受けた事は全くない。

368ベダウリンデ:2008/12/25(木) 09:36:44
「よろず」っていつもお互いに賛同と称賛しかしないって、私はここで書いたけど、
それじゃまずいと思ってもらえたのか、最近、意見しあうようになったね。
AさんとKJさんが、お仲間なのに、不毛な言い合いに陥ったりしてる。(Lさんが止めちゃったけど)
KJさん、ダメですよ、Aさんの書いてくれた事、ちゃんと受け止めて答えないと。
(議論、下手だよねー、すぐ感情に流されて)

369ベダウリンデ:2009/01/02(金) 17:48:49
Bonan Novjaron!
Mi deziras al ĉiuj sanon kaj feliĉon.
新年おめでとうございます
皆様のご健康とご多幸をお祈りします

Dさんへ。「よろず」見ました。
ネット自粛だそうで、こちらを見てもらえるかも不明ですが、
メッセージ、ありがとう。

370丹歌:2009/03/05(木) 20:47:47
今日は,SINJOR0TADEOは面白い本でしたよ。ポーラエスペラント協会が1986年に発行した

本です。わかりやすい本ですよ。

371KamelioJapana:2009/03/05(木) 22:06:15
丹歌さん。
しばらくでしたが、お元気で何よりです。
アダム・ミツケーヴィッチの原作を例のTagigxoでお馴染みのグラボ−スキーが翻訳した
名著ですね。私も、Eを始めた、もう30数年前になりますかね、学生時代に先輩から
本を借りて勇んで読もうとしましたが、当時の私にはまだ難し過ぎて結局読まず仕舞い
で返してしまいました。
その本は、貴方の読まれた1986年発行のものよりはきっと古いヴァージョンでしょうね。
もう発行所も覚えていません。

372丹歌:2009/03/06(金) 14:25:09
kamelioさん、ありがとうございます。、私も今であつたから、うれしいのだと思います。コンピュウターも、始めてからやつと1年になりました。

373KamelioJapana:2009/03/07(土) 11:44:57
コンピューターを始めてよかったですね。
これからもネットにより、貴方のE世界が益々広がることを期待してやみません。
私は、もう若くはありませんが、御年配のE-istojの方がもっとネットを活用すれば
Eの実利性が今までより遥かに高まるのにと思い、皆さんに始めるよう勧めています。
思い切って初めて仕舞えば、思ったほど厄介なものではないのですが、年配の方は、
やはり、食わず嫌いの方が多いのでしょうかねぇ。

374丹花:2009/03/07(土) 15:49:44
本当です。 
皆さんにあえてよかつたです。私は、すばらしいエスぺランチストにも会えるし、ここでもお話しできるしよかつたです。

375あちょー:2009/04/25(土) 00:26:01
憲法判断が出来る様(大人)に成りましょう。
先ず通用するまで考えましょう。
知能(感性)を増やしましょう。
政治道徳参考
本質を見抜き、本質から行動しよう。

376北辰:2009/04/25(土) 15:27:11
丹歌 様
 昔読んだ本、内容は忘れてしまうことが多い。あなたのメッセージの
S-ro Tadeo を見て、第1頁をあけると、読んだことあるな、だけどザメンホフの
何かで見たような ---- 感じ。たしか大会演説? と探すと1907年ロンドンの
Guildhall の演説で祖国 Litovujo (この歴史背景が複雑です)への
切ない思いを述べている。だが詩の形はない。するとあれか? と
VIVO DE ZAMENHOF(E.Privat)を開くと本文の1頁に出ていました。
 どうやらあちこちで断片的に読んで「知ってるつもり」になっていただけで
通して読んでいないようです。丹歌さんが読んでおもしろかったところを教えて
ください。手元の本は丹歌さんのと同じ POLA E-ASOCIOの 1986 年版です。
 ふと ANTAU~PAROLO(Humphrey Tonkin) を見るとトップに(ここにも!)
1907 年の Guildhall演説のことが出ている。そうでした。「愛国」を唱えて
民族間の反目・憎悪をあおる s^ovinismo への嫌悪をザメンホフが はっきり
表明したのがこの演説でした。

377丹花:2009/04/25(土) 18:07:46
北辰様、私も、ダートしか、読んでいませんが、私は、若い頃、子供たちにエスペラントを教えていたせいもあり、日常生活のことや、お花のことがわかりやすく書いてあると、それ誰で、感動します。これでは、答えにならないけれど、単細胞なのでお許しください

378丹花:2009/04/25(土) 21:45:07
今日、ローマン婦人の送迎会で、タデーオの事を聞きました。エスぺラント
の基礎が書いてあると、北辰さんは、よく勉強しておられるのですね。

379北辰:2009/04/26(日) 15:25:34
丹歌 様
 S-ro Tadeo の書き出しの
> LITVO! Patrujo mia! simila al sano;
で 始まる部分は 前にも書きましたが E. Privat の VIVO DE ZAMENHOF の
冒頭にそのまま出ています。
もう一つ、この部分を引用した文学作品を見つけました。別の訳者です。
 QUO VADIS で有名な作家 H. Sienkiewicz の作品 Lanternisto(灯台守)、
日本語訳されたものには「アスピンウォルの灯台守」と題がついていました。
 外国を放浪したあと移民として米国に入ったポーランド人が、四十年ぶりに
手にした母国語の詩に感動して声を出して読むうちに職務(灯台の点火)を
忘れて解雇される。求職のためニューヨークへ向かう船の中、これだけは
放さない、という様子で彼はその本をしっかり握りしめていた ---- という筋です
が、その本が S-ro Tadeo でした。日本に しばらくいた Joel Brozovsky は
ポーランド移民の子孫でしたね。
 この作品、百年前の KABE の訳ですが、詩の部分はザメンホフ訳だそうで
> Litova, kara patroland', la sanon vi prezentas!
と 始まります。GRABOWSKI の訳とリズムが違いますね。

380丹花:2009/04/26(日) 15:55:46
北辰様、ありがとうございます。詩も素敵ですね、今思うことは、若いころに、もっと本を読んでおけばよかったななのですでもあなたに会えたので、ザメンホフやグラボ
ウスキーのを読むことにします。。

381ベダウリンデ:2009/04/28(火) 19:56:45
とうとつですが、民族音楽は感動しますね。
歌詞が何言ってるか分からなくも、心に通じてくるものがあります。
エスペラントの歌ってなぜか感動しません。
自分音楽聞くの好きだから、エスペラントも歌で勉強できたらいいなと思って
前は歌を探したこともあったんですが、あんまりいいのが無くて、「歌で勉強」はやめました。
コミックソング系に、多少面白いのがあったなーと思いだす程度です。
歌詞もアーモだのパーツォだの、いかにもーな感じが多かったし、
「反体制」っぽい歌はある意味レトロで面白いなとも思ったんですが、
末尾の母音を省略するのに耐えられなかったなー。
今また改めて、エスペラント音楽も検索したんですが、いいのなかったです。
民族音楽はいいですよ。言葉なんか通じなくても感動できる。
エスペラントにも「エセ」民族音楽風はありますが、表面的なコピーって感じする。
文化が無いエスペラントは、音楽で人を感動させるのは無理???

382丹花:2009/04/29(水) 07:18:36
べダウリデさン:お久しぶりです。歌では、十分な表現ができないことは、わかります。しばらく悩んでいましたから、私は、会話ができるようになりたい巣のためには、歌つくりは役に立ちます。

383丹花:2009/04/29(水) 07:22:48
其のためとンを間違えました。でも作っていると、人を感動させたりできるものが、時々できますよ

384N:2009/04/29(水) 08:37:36
Saluton, Nです。

>文化が無いエスペラントは、音楽で人を感動させるのは無理???

文学(エスペラント原作文学;翻訳でなく)についても、「エスペラント
は文化がないから、文学で人を感動させるのは無理」という無理解な謂い
がNe-E-istoのあいだにはままあるようです。でも実際にはそんなことは
ないですよね。クロアチアのスポメンカ・シュティメツ氏のように、原作
文学をたくさん上梓し、高い評価を得ている人も少なくありません。

文学で可能なことが、音楽では難しいのでしょうか?
私は「すそ野」の広さの問題かな、と考えますがどうでしょう。文学は紙
とペンがあれば作品を書けるけれども(それを出版という形にもっていく
のは手間がかかりますが)、音楽だと録音装置や媒体といったものがない
と制作ができない。ソロでなくグループでの作品ともなれば、集まれる範
囲にメンバーが住んでいなければならない。そういった点で、音楽にはハ
ードルがいろいろあって、陽の目を見る作品が少なくなりがちなのではな
いでしょうか。母数がたくさんあれば優れた作品も多くなると思います。

385松戸彩苑:2009/04/29(水) 10:11:33
>>381
私は数年前に「過去に流行ったポピュラーソングにエスペラントの歌詞をつけて流行らせれ
ば良い宣伝になるのではないか」と考えたことがありました。

ladio さんが大衆扇動によってエスペラントを広めようと考えておられますが、これも似たよ
うなものですね。

しかし考えてみますと、この手の曲というのは権利関係がとても厳しいので、許可をとるのが
ものすごく大変だろうなと思いました。
(もちろん、おカネさえ出せば可能なんでしょうけれども)

386Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/29(水) 22:47:10
>>381
言葉は付属品だから、主役次第で結構輝いていると思う。

Rumis Eterne
http://www.youtube.com/watch?v=uggnwtmxCI0

紀元の樹海
本家 http://www.nicovideo.jp/watch/sm4023702
PV http://www.nicovideo.jp/watch/sm6700952?oldplayer=1
アルカ訳 http://www.youtube.com/watch?v=1IjcswFbfMc&feature=channel_page

387ベダウリンデ:2009/04/30(木) 09:46:12
>384
>「エスペラントは文化がないから、文学で人を感動させるのは無理」
私はそこまでは思いません。
ある言葉で何がしかを書いて、それが他人に理解されて、そこに共感が生じたならば、「感動」すると思う。
逆に、特定の文化に依存し過ぎたお話になると、基底にある文化背景や価値観が理解できず、作者が何を言いたいのか全く分からない、
分かった気でも結局的外れだった、とか、そういう場合があると思います。
つまり、文学と「文化」はあまり関係ないと思います。

ちなみに、私は「文化」=「民族文化」の意味で使いました。
エスペランチストは「文化」=「広く一般に人間の知性」みたいにとらえているかもしれないので、
そこはズレがあるかもしれないです。

>私は「すそ野」の広さの問題かな、と考えますがどうでしょう。
事情通のNさんでも、エスペラント音楽にもこんなに感動できるものがあるよ、
と書けなかったのは、やっぱり現時点では「いい音楽は無い」ということなんでしょうか。
自分と他人が同じ感動を受けるかどうかはどうでもいいことで、誰かが感動できる曲があればいいのですが、
私にもNさんにも無い、となると、「ホントに無いんだな」という気がしました。

>音楽だと録音装置や媒体といったものがないと制作ができない。
そんなことないですよ。地下室の倉庫でギター一本でカセットテープに録音された歌でも
本当に良いものだったら、例えエスペラント界の中だけという限られた世界の中であっても、
「語り継がれる名曲」になるのではないですか? そういうのは無いんですよね?
今ではYOUTUBEもあるし、ちょっとリンクでも張って紹介すれば
本当にいい曲ならすぐに噂になって広まると思いますが、そういうの、無いんですよね?

だから「なんで無いんだろう」という気はすごくありますね。
「無い」理由を、私は「民族文化が無いから」かな、と思いました。(正解ではないかもしれないですが)

388ベダウリンデ:2009/04/30(木) 10:12:13
>「過去に流行ったポピュラーソングにエスペラントの歌詞をつけて流行らせれ
ば良い宣伝になるのではないか」
オリジナルの歌詞に勝るものはないでしょう。
外国の原曲に日本語歌詞をつけて流行る場合はありますが、
「母語で歌える」から流行ったのでしょう。
オリジナルで勝負できなきゃダメでしょう。

>言葉は付属品だから、主役次第で結構輝いていると思う。
それは言えてますね。
エスペラントにも良い歌手はいると思うけど、私個人としては「好きになる」程の人が
いなかったなー。いれば、エスペラントももっと好きになったかも、と思います。
ルーミスエテルネに感動してエスペラントに興味を持った人もいるから、
一概に「いい曲は無い」とはいえないですね。
でも、そういう人も、「もっとこういうの集めたい」と思って期待したけど結局他には無かった、
なんだがっかり、ということになってそうな気がしますが、どうなんでしょう?

389Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/30(木) 10:13:46
エスニックな香りが薄さに不満を持つあなたに
こゆい民族文化を持つアルカ文学をお勧め。と宣伝してみる。

『紫苑の書』(2009/04/24改定版)
http://cid-dd6eff55a81cbf67.skydrive.live.com/self.aspx/arka/xion778.pdf

辞典ないと後半はきつい
http://www8.atwiki.jp/arbazard/pages/553.html

紫苑の書読み終えたよ掲示板 感想give us
http://www8.atwiki.jp/arbazard/pages/710.html

390Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/04/30(木) 10:27:30
とりあえず、エスペラントの裾野拡大→人工言語愛好家増大→アルカ知名度アップと思っているので、
一応擁護してみる。
最近聞いたものでは、「銀河鉄道の夜」の挿入歌がいい感じだったと思う。
幅が狭いのは否めないところだけど。

賛美歌306番(320番)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6618060

素人っぽさがラブリーなヘタリア
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6855656

391北辰:2009/05/01(金) 07:33:57
 エスペラントは「ことば」ですから、それを使った作品・芸術は「文学」になり、
百年の歴史の間に原作・翻訳を含めてかなりの量の作品が知られています。
ノーベル賞候補になった作家もいましたね。
 音楽はこれと違って音を使った(メロディ・リズム・ハーモニーの要素があるが)
芸術。ことばだけで(エスペラントでも、日本語でも)音楽は作れません。
> エスペラントは、音楽で人を感動させるのは無理か?
という設問自体ちょっとおかしいと思う。ことばは
音楽の一部の材料(歌の場合、その歌詞)は供給出来ますが、音楽として重要な
ほかの部分(作曲、演奏)にかかわる人の問題が大きいようです。
 感動する、しないはその作品に対する個人の理解、感受性などで人さまざま
でしょうが、目的意識を持ってかかわる活動の中で「感動」が見つからないのは
残念ですね。どこかで「感動」を発見するように Kun espero antau~en!

392ベダウリンデ:2009/05/01(金) 09:26:43
>390
聞いてみましたよ。どっちかっていうと、私はヘタリアの方がお気に入り。
エスペラントはコミックソング系が意外と似合うように思う。
「賛美歌」の方は、字幕一部おかしくないですか?
(こんなこと指摘できるなんて、私もいっぱしのエスペランチストですねーなんちゃって)
Son ĝojve nigu min, Dio pli apud Vin.
Sonĝoj venigu なら 意味取れる。

あとは、松戸彩苑さんの掲示板でだにょさんが紹介してたサイトも役立ちますね。

初心者のためのエスペラント音楽番組
http://worldtv.com/esperanto_muziko_tv

「歌で勉強」しようとしてた時点では、こんなのあるとは知らなかったから
1年ちょっとで随分便利になったものだと思う。

393ベダウリンデ:2009/05/01(金) 09:44:10
今ではすっかり「エスペラントの敵」の私ですが、
はじめは期待を持って勉強しようとしてたんですよ。
それで歌も、当時の私の検索レベルで一生懸命探して聞いてみたんです。

音楽を乱暴にも2分すると、「民族色の濃いもの」と「汎民族的な」ジャンルと、に分けられると思う。
私は「こゆい民族調」が基本大好きで、そういうのに「感動」するんですが、
エスペラント音楽にも民族調のものがありまして、
それが民謡からの翻訳なのか、オリジナル作曲なのか、私には分からないものもありまして(もちろん知ってる民謡もあった)
そういう曲はメロディ的には大好きなんですが、「どうせなら○○語で聞きたいな」と思ってしまうんですよ。
民族音楽ジャンルでは、エスペラントは「どうせ民族語には負ける」のです。

ならばエスペラントは「汎民族」的な、ポップス・ロックがイケルのではないか、と思いました。
ロックなら「反体制的」で「エスペラントの精神」にもぴったりでしょう?
聞いてみて気に入った曲が無かった、とはいいません。
ありました。でも、幻滅しました。
名詞の末尾のOを滅茶苦茶省略しまくってたから、です。

394ベダウリンデ:2009/05/01(金) 10:00:10
私は、エスペラントは末尾が母音で終わる所が、日本語に近い気がして気にいっていたのです。
それがなせ、詩のジャンルになると、邪魔物の如く排除されなければならないのでしょうね?

言葉は、民族が自分のものとして当たり前のものとして持つもの。
歌や音楽のリズムは、基本的には、その言語が持つリズムを反映しているはずです。
有名な説ですが、ヨーロッパの音楽にアウフタクトがあるのは、その言語に冠詞が存在するからで、
日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い、というものです。(適当なキーワードで検索すれば出てきます)
スラブ諸語にも冠詞は無いし、スラブ系民族音楽も、アウフタクト無いです。

エスペラントはエスペラントが持つ末尾Oという本来のリズムを、どうして排除するんですか?
エスペラントを事実上担っているヨーロッパ人が、自分達が民族的背景として持っている美意識から離れられず、
それで排除してるのではないですか?
ザメンホフの16か状にも、詩ならOを省略してもよい、とありますが、
その言語が本来もつ特性で「美」を追求できないのはなぜですか?

395ベダウリンデ:2009/05/01(金) 10:15:16
エスペラントができて100年?でしたっけ?
いまどきの「民謡」なんて、100年前以降にできたものも多いと思う。
それなのに「エスペラント民謡」が無いのはなぜですか?
ザメンホフ作詞の「ラ・エスペロ」ってありますが、
あれをしのぐどころか、追随できる程度の音楽すら、今なお無いんじゃないですか?
それって、すごくレベル低くないですか?

ちなみに「ラ・エスペロ」って、歌詞見たら、Oの省略があるのは、歌の終わり部分だけです。
前半部メインは省略なしですね。
この曲は「タンタ、タンタ」というリズムが印象的ですが、
それは、末尾母音を省略しない場合、末尾から2つめにアクセントが来る、という
エスペラントが本来持つ言葉のリズムを反映したから、ではないでしょうか?

だから「タンタ、タンタ」を追求すれば、「エスペラント民謡」という色もできたかもしれないですが、
O省略=>言語の個性の否定=>ろくな音楽現れず、という結果になったんじゃないでしょうかねー

396N:2009/05/01(金) 20:06:35
ベダウリンデさんへ。
私はエスの音楽に関しては「事情通」ではないです。(^^;)残念ながら。

テープを2本だけ持っています。komencantoの頃にエスと宮沢賢治の研究
の第一人者だった岩手の故・佐藤勝一先生(釜石線の各駅にエスの愛称
をつけた方として有名)からいただいたものです。片方は世界のさまざま
な歌のエス訳を集めたもの、いまひとつはオランダの「Kajto」というロ
ック(?)グループのものです。私は前者のほうが気に入っていたのです
が、その理由が「あんなのも、こんなのもエス訳されているんだ!スゴイ
な!」というkomencantoの素朴な感動によるものが大きかったようなので、
客観的に比較することはできません。

語尾の-oの省略多用が残念とのことですが、多分、(特に訳の場合)「詰
め込むためにはやむを得ない」という単純な理由ではないかと私は思いま
す。たとえば英語やドイツ語といった子音の多い言語からエス訳する場合、
類似の単語(の前のほうの部分)に母音が挟まるので、語尾は犠牲になる
のではないかと思うのですがどうでしょう。

ベダウリンデさんの「La Espero」評には一理あるような気がします。「La
Espero」の旋律は何種類もあって、今歌われているのは比較的新しいものだ
そうです。ひとりで口ずさむにはイマイチという気がしますが、大会などで
大勢で歌うと荘重な感じがして、私は気に入っています。

397胡人:2009/05/02(土) 03:35:49
詩の最後に「’」が来るのは、そのリズム「強、弱、強、弱、・・・」が歌うために必要だからと聞いています。
たぶん、民族語自身が持つそのリズムを表現するために様々な工夫がなされているのだと思います。

中国語の4声はそれをもって中国語のリズムがあり、
キリスト教の讃美歌は、その詩の意味と共に、その元のユダヤになるのか、ローマになるのかそれ自身が持つリズムを表すために工夫がされているのだと思われます。
また日本語本来のリズムは、皇室の歌会始での朗詠の様なものが本来でしょうし、その様に詠える様に、詩も工夫するのが本当だと思われます。

その意味でエスペラント自身のリズムにあった音楽の追求は、エスペラントオリジナルの音楽が必要とすれば、
本当の音楽を知る才能のある方の出現が必要です。
まぁボサノバ的なものはエスペラント化は簡単だと思えますが(^^)

私は、歴史や、その民族のリズムを感じることが出来る意味で、エスペラントが好きです。
語順の自由さや、母音、アクセント等の条件があいまって、その使用者の文化、価値観を感じられるところが大変興味深く、交流言語として素晴らしいと思います。

その意味で、共通語ではなく、交流語としての有り方の追求が、その必要性をまた創造するものとなると思いますが・・・

398丹花:2009/05/02(土) 07:40:32
私は、ザメンホフの、La vojoを朗読した時、自分もこのような、花の詩を作ってみたいなと思いましたができませんでした。皆さ
んのお話は面白いです。

399ベダウリンデ:2009/05/02(土) 15:06:14
>英語やドイツ語といった子音の多い言語からエス訳する場合、
類似の単語(の前のほうの部分)に母音が挟まるので、語尾は犠牲になる
のではないかと思うのですがどうでしょう。

>民族語自身が持つそのリズムを表現するために様々な工夫がなされているのだと思います。

これでは、「エスペラントには文化が無い」と言われても仕方ないですよ。
エスペラントは、既存の民族文化を翻訳するための言語にすぎない、とお二人は認めています。
まあ、翻訳も高度な知的作業だから、「文化的」なお仕事ではありますが。

外国語(ヨーロッパ語をイメージ)の歌に日本語歌詞をつける時、直訳ではメロディにおさまりきらない。
そこで、日本語では、思い切って意訳して、
時には日本人が共感しやすいように、内容まで一部変更して、歌詞をつけてることがあります。
エスペラントでは、こうはしないのですか?
エスペラントはなまじっかヨーロッパ語にそっくりなので、翻訳が簡単で、
そのために独自色をもった「エスペラント文化」が発展しなかった、ともいえませんか?

エスペラントは民族間交流を目指した人工語なんだから、独自の文化なんて必要ないと、そう言いきってもらえると納得するのですが、
いつもお決まりで「文学があるから文化があるんだ」的に反論されると納得できません。

>その意味でエスペラント自身のリズムにあった音楽の追求は、エスペラントオリジナルの音楽が必要とすれば、
本当の音楽を知る才能のある方の出現が必要です。

結局、エスペラントオリジナルの音楽は、必要が無いから存在しない、ということなんでしょうね。

400N:2009/05/02(土) 19:50:29
Saluton, Nです。

>エスペラントはなまじっかヨーロッパ語にそっくりなので、翻訳が簡単で、
>そのために独自色をもった「エスペラント文化」が発展しなかった、とも
>いえませんか?

その可能性はありますね。

日本語からエスへの歌詞の翻訳の場合には、ベダウリンデさんがおっしゃる
ような「大胆な意訳」が結構使われているんですよね。少し前まで「La Movado」
誌で日本語の歌のエス訳の名人・小西岳さんが「歌の訳し方」という連載を
されていたのですが、ちょうど私自身が購読を始めた頃と入れ替わりに終了
となってしまい、十全には読むことができず、残念でした。そのなかに、確か
に胡人さんがおっしゃるような、

>詩の最後に「’」が来るのは、そのリズム「強、弱、強、弱、・・・」が歌
>うために必要だからと聞いています。

といった記述があったようです。

401ベダウリンデ:2009/05/02(土) 21:40:40
私も改めてエスペラント音楽を聴きなおして「考察」してみました。
敵対的なことばかり書いてもなんですから・・・

>まぁボサノバ的なものはエスペラント化は簡単だと思えますが(^^)
「初心者のためのエスペラント音楽番組」に『イパネマの娘』が入ってました。
タターンタ、タタンタみたいな弾むリズムなので、エスペラントに合ってるかもしれない、と思った。
ただし、エスペラントだと、若干語感がきつくなるような。
エスペラント語で「けだるい感じ」とか、出せるのかな?
いつも強い語調で自己主張してるイメージがあるんですが。

ロックも聴きました。
昔ダウンロードした曲は削除してしまいましたが、かろうじて歌詞を残してました。
私はpersoneとか、dolchemarを気に入ったみたいです。
語尾O省略しまくりですが、曲を聞いたら、ロックは語尾を伸ばすんですよね。
だから、省略せざるをえなかったのか、と、気づきました。
ロックにはウキウキ弾むリズムは似合わないし、エスペラントはリズム的には、ロックは合わないのですね。
語調のきつさは、ロック向きだと思います。

Kajtoもありました。どこぞのヨーロッパ民謡調ですが、こゆい感じはなく、
リズムも弾んだ感じで、ちょっとコミカルでもあり、いい感じでしたよ。
語尾省略も最小限で、その点でも好ましいかったです。

402北辰:2009/05/03(日) 01:28:10
ベダウリンデ様
 「ラ・エスペロ」を例に出しておいでですが、おっしゃるようにこの曲は
「タンタ、タンタ」というリズム(強弱リズム)で出来ています。定形詩で
1行の音(母音)の数も決まっているので1番〜3番まで通して同じメロディで
歌えるわけです。
 O(名詞語尾)の省略 1ヵ所    Al la mond' eterne militanta
 定冠詞の母音省略 2ヵ所     signo de l' espero
song^o de l' homaro
ですが、このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?
> 日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い
初めて聞く ふしぎな話です。日本民謡で、例えば
木曾節、佐渡おけさ、最上川舟歌、をどう歌い出していますか? 全部
アウフタクトで始まっているのですが。伝統を無視して自分の好きなように
編曲する人も あるかもしれないが、私は見たことありません。
 語尾省略のない詩を作ろう、という考えには反対しません。わかりやすい詩を、
という趣旨には賛成です。Brendon Clark の作品、好きですか?

403Kanva:2009/05/03(日) 23:52:48
ベダウリンデさんがどんな範囲で「スラブ系民族音楽」と言っておられるか
よく分かりませんが、いわゆるロシア民謡でアウフタクトで始まる曲ないし
フレーズはいろいろ思いつきますね。
有名どころでは「トロイカ」「カリンカ」「ステンカ=ラージン」
「鐘の音は単調に鳴り響く」「バイカル湖のほとり」「オレグ公の歌」など。

思うに、アクセントのない短い音節が、文や句の頭に来ることができれば、
それが冠詞である必然性はないのではなかろうかと。

404松戸彩苑:2009/05/04(月) 11:45:57
私は「エスペラント改造論」スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1160642811/l50
において

  あまりにも長すぎる単語・表現は、より短い単語・表現に換えても良いのではないか。

と主張しているんですが、これは

(1) 作詞する場合や、歌詞を翻訳する場合には、単語・表現が短いほうが便利である。

ということがあるからなんですね。
ほかにも

(2) 合成語をつくる場合にも、短いほうが長くならなくて都合がよい。
(3) エスペラントで話すときにも、短いほうが口が疲れない。
(4) 同時通訳をする際にも、短いほうが楽。
(5) 雑誌などでは使えるスペースが限られているので、短いほうが便利。
(6) ラジオ放送の場合には使える時間が限られているので、短いほうが都合がよい。

といったメリットがあります。

405北辰:2009/05/04(月) 12:01:49
Kanva 様
 あなたのあげたロシア民謡のうち「オレグ公の歌」は、私の見る楽譜
(三沢郷作詞・河西保郎編曲)では4分の4拍子の第1拍から始まっており
アウフタクトではありません。ほかの曲はみなアウフタクトです。
ロシア語には冠詞はありませんが、冠詞のあるなしとアウフタクトは
全く関係無いことが(日本語も同じ)よくわかります。
> アクセントのない短い音節が、文や句の頭に来ることができれば、
その場合 当然作曲家はアウフタクトで始めます。冠詞の有無に関係ないこと、
御説の通りです。

406ベダウリンデ:2009/05/06(水) 08:30:31
北辰様
>> 日本語には冠詞がないから、伝統的にはアウフタクトも無い
>初めて聞く ふしぎな話です。

民族音楽研究の日本での先駆けである、(その筋でその名を知らなかったらモグリでしょう)
故小泉文夫さんの説を、自分なりのうろ覚えで書きました。
ネットで適当なキーワードを入れて検索したら、同じような言い回しが出てきましたので、一般的に流布しているのかと思いました。
出典の本『音楽の根源にあるもの』も持っているので、改めて読み直しました。
それに近い記述は確かにありまして、それは後で引用するとします。

本をよく読むと「緊張」と「弛緩」の言葉を使い、リズムを分析しています。
西洋式の楽譜に採譜して、小節線の前に音符があれば即、西洋式アウフタクトと同じ、と決めつけられるわけではないようです。
小泉氏の説はそんな単純ではないようなので、ぜひ、ご一読を。

407ベダウリンデ:2009/05/06(水) 08:41:57
アウフタクト=上拍、を「体感」したことはありますか?
私の場合、某ダンスなのですが、これが「アウフタクト」か、とやっと体感できた経験があります。
一拍目の強拍を目指し、そこへの準備のために、その直前に体をふわっと上にあげる感じです。
音楽では、タラ、とか、ター、とか、一拍目の前に小さい音が入るんですが、そこを意識するといいんです。
小泉氏の説では、ドイツ民謡は、一拍目が「弛緩」で、その前の弱拍は「緊張」だそうで、
私の「体感」もそれに合ってます。小さい動きなんだけど、準備のための緊張があるんです。

こういう感覚でのアウフタクトって、日本民謡やロシア民謡には無いんじゃないか、
と私は「経験上」感じてました。あくまで経験なので、間違いかもしれませんが。

(まだ続くので待っててね)

408ベダウリンデ:2009/05/06(水) 09:14:00
ロシア民謡で「カリンカ」は、楽譜では、最初の「カ」は、小節線の外の8分音符ですが、
私が知ってるロシア民謡では
「カ〜〜〜〜、リン!! カ、カリン! カカリンカマヤ」という感じで歌います。
ここでは、「カ」の文字のアウフタクトはさして重要ではないようです。

佐渡おけさでも、出だしの「さどー」の「さ」が、楽譜上では「アウフタクト」なんだろうけど、
「さ」は「ど」のための「準備」「緊張」なのかな?と思います。
あくまでも一単語で、たまたま「ど」にアクセントがあるだけで、
西洋式のアウフタクトと違うんじゃないかな、と思います。
私は専門家ではないので、自分の「感覚」で言ってますけど。
(まだ続く)

409Kanva:2009/05/06(水) 09:34:19
西洋音楽に比べて長めの時間での「緊張」と「弛緩」の円環周期を持つ
インド古典音楽でも、同様の重心感覚があると私は感じます。
そして最強拍(「サム」・解放拍)からフレーズが始まるものではなく、
周期の反対側付近の最弱拍周辺(重心が一番高く感じる辺り)から始まり、
最強拍へ向かっていきます。
それで、そういうのも私はアウフタクトの一種だと思っていますが、
一般にはどうなのでしょう。

私も自分の感覚とも照合しながら、どこまでを「アウフタクト」の言葉で
括ってよいのか、改めて考え直したいと思います。

410ベダウリンデ:2009/05/06(水) 10:06:38
小泉氏の本では、民謡の一例をあげ、
『前のフレーズの解放点において、緊張より弛緩の方向に転じたエネルギーを
再び次のフレーズの準備のために緊張の方向へ誘う』とあり、(平凡社ライブラリー、P58)

日本民謡の「アウフタクト」は、これではないか、と私は思います。
弛緩の準備のための緊張ではなく、一拍目の緊張にそのまま持続する緊張。
ロシア民謡のアウフタクトも、私はそれに近いように思います。

本から引用
『ドイツやイギリスの民謡にはアウフ・タクトではじまる(弱起の)旋律が多いが、日本の民謡にはほとんど弱起のものはない。』(同、P58)
『ドイツ語や英語には、前置詞や冠詞が多いので、アクセントのあるシラブルがそれらのあとのニ番目にくることが多い。』』(同、P140)
(例・・中略)
『こうした洋楽のイディオムを持つ旋律は、ヴァイオリンやピアノのような歌詞をもたない器楽の旋律にもあらわれ、
例えばシューマンのトロイメライヤやリストの愛の歌など、アウフタクトで始まる旋律は案外多い。
ただしヨーロッパもスラブやハンガリーなど東欧諸民族の言語では、必ずしもこのようなシラブルの原則は見られないので、
民謡の旋律もしたがって、アウフタクトが少ない』(同P141)

スラブ系の音楽に関しては、民族音楽を聴いてみて「アウフタクト」少ない(てゆーか無い!)と経験的に感じました。
(つづく)

411ベダウリンデ:2009/05/06(水) 10:34:45
北辰様
>このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
>わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
>これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?

エスペラントのことをちょっとでも批判すると、すぐに「逆上」するんですね。怖いです。
エスペランチストって全員そういう人なんですか?

なぜ、省略形の無い本来のエスペラント語のリズムより、定型に決められたリズム配置を優先するのですか?
そのリズム配置が美しいと、誰が決めたのですか?
定型に無理に合わせるのなら、省略せずにすむ別の単語を選択すればいいのではないですか?
定型リズムなんて気にしなければ、日本人の感覚では、de la homaroでもなんの違和感ありません。

そもそも私は、「言葉と、歌や音楽は密接に関係してる」という事を言いたかったんです。
冠詞がどうとが、楽譜上に出る弱拍がどうとか、そういう瑣末な事の学術的検証をしたいのではありません。
北辰さんは、言葉と音楽は関係ない、とおっしゃりたいのですか?

ちなみに、日本民謡はアウフタクトだ、という説もあるようです。
他人のブログから無断コピペしてしまいますが、

(引用開始)
これについては、服部龍太郎氏が、著書『日本の民謡』(角川新書186)の中で次のように指摘しています。
「日本の民謡を観察すると、ほとんどがいつの場合でもアクセントの弱い音からうたいだし、
第二音になってようやくアクセントを強めるということをしている。
すなわち、弱起のかたちをとっているのであって、これは、日本語のアクセントにふかいつながりがあるものとおもわれる。
この一事は音楽にたずさわるひとはもちろんのこと、音楽に関係のない日本人でもよくこころにとめておいてもらいたいことである。
日本民謡がアップ・ビートの弱拍からはじまるということはじつに徹底したものであって、百曲中の九十曲中まではそうである。」(同書206-207ページ)
(引用終了)
ここで注目したいのは、例え日本民謡をアウフタクトと定義したとしても
それは『日本語のアクセントにふかいつながりがある』のです。

(いちおう終わり)

412Kanva:2009/05/06(水) 11:22:32
ベダウリンデさん>

日本語訳によって歌詞のアクセントの位置が原詩とずれていると、ついつい
音楽のアクセントの感じ方も訳詩に合わせてしまう、ということがあります。
日本語の意味を伝えるにはそうする方がいいけれども、楽曲のノリは原曲と
大きく違ってしまいます。
例えばそういう経験から、「言葉と、歌や音楽は密接に関係してる」という
論旨には、賛成します。

「アウフタクト」についても、どこまでをアウフタクトに含めるかの問題を
(連続的なものとして)一旦脇に置くことと、「有る/無い」ではなく
「多い/少ない」という表現だと判りましたから、それならほぼ抵抗なく
賛成できます。

413Kanva:2009/05/06(水) 11:42:10
「La Espero」の件では、
・1番から3番までを全く同じリズム割・旋律形で歌うことは、多少の便利さは
 あるだろうが、音楽的にあまり重要なこととは感じられない。
 歌詞のリズム・音節数・アクセントに応じて変わっても構わないのではないか。
・当たり前のように句末の-oを落としてしまうのでなければ、歌詞1番あたりに
 一ヶ所くらいの省略は構わないのではないか。
と、個人的には感じます。

414松戸彩苑:2009/05/06(水) 12:39:58
音楽好きな人が多いんですね。
これをエスペラント運動に生かせると良いと思います。

415丹花:2009/05/06(水) 16:00:23
昨日60人で、賛美歌を歌ってきましたが、エスペラントを広めるために、文学を、翻訳したり歌を作り、詩を作ったのでは、ないのですか?議論するより、作曲 
してからのように思われます。

416ベダウリンデ:2009/05/06(水) 17:13:47
私は、名詞が-oで終わる所が、エスペラントの好ましい点だと思っていたのですが、
歌を聞くと、-oを省略してばかりだったので嫌気がさし、
エスペラントの歌を好きになる事を諦めたのです。
詩でも、どうせきっと省略の連続だろうから、読む気すらおきませんでした。
よって、ニュース文などの「散文」ばかり読んでいました。
それもそのうち飽きて、今はエスペラントから離れています。

それなのに、そんな私に対して「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、
「作曲しろ」(丹花さん)だの、みなさんトンチンカンだなあ、と思います。
私は「運動」なんてしないです。あなたたちの仲間ではないのですから。

それより、詩の定型リズムはどこの美意識から由来していて、
なぜエスペラントでも、省略という操作をしてまで、
それと同じ形を取り入れているのか、誰か説明して下さい。

417Kanva:2009/05/06(水) 18:56:42
エスペラントではないですが、漢詩の平仄の規則の起源は、学問的にまだ
解明されていないと、今年の時点で、漢語の学生さんから聞きました。
漢語に影響を与えたとも言われるサンスクリットの韻律も、そもそもが
一番古い文献が韻文なので、成立過程を辿ることは難しいでしょうね。

ところで、一つの言語の韻律が数種以内に限られるということはなくて、
サンスクリットなら何百種類とありますよね。
曲の付く詩は定型に限ると、いうことも、ないはずですしね。

418Kanva:2009/05/06(水) 19:18:15
そういえば私は、名詞の語尾を-oに固定するのはそもそも好きじゃなかった
(複数種類の型を持つか、語幹末音自由が理想)し、単語のアクセント位置の
固定も好きじゃない(活用形式や単語によって変動する方が響きとしては
より好ましい)ので、その時点で立ち位置がベダウリンデさんとは異なります。

ただ、しばしば語尾省略が見られるのは好ましくなくて、散文と同じ音構造の
ままで、詩も作れるのが理想だと思っています。
早くもザメンホフの第一書に「Ho mia kor'」という詩がありますけれど、
いくらラテン語の単数主格が/cor/であるにせよ、こういう形を例にしない
方が良かったのにと思います。

419松戸彩苑:2009/05/06(水) 20:24:29
>>416
残念ながら私は音楽とか詩とかいうものに詳しくないので話に加わることができないんで
すが、みなさんの知識には大いに感服させられましたので、それで「そういう才能がエスペ
ラント運動に役立てば良いなぁ」って思ったんですが、しかしひょっとしたら話の腰を折って
しまったかもしれませんね。

ところで『Parnasa Gvidlibro』という、エスペラントで詩をつくる人のための本がありますけれ
ども、これを元にして語尾の -o の省略を説明できる方はおられないですかね?

私もこの本をもっているんですが、なにしろ詩には関心がありませんでしたので、ほとんど
読んでないんですよね。

詩の用語である jambo とか trokeo といったものが何のことなのか、関心がないので、いま
だに判っておりません。
(調べれば当然判るんですが、今までそういう気にならなかったということです)

私の印象では

(1) エスペラントの詩形というのは基本的に欧米語の伝統的な詩形を踏襲しているが、そ
    れに合わせるために語尾の -o を省略する必要が出てくる。

(2) 語尾が -o ばかりだと単調になるので -o を取り去る。

(3) 音節数を減らすために -o を略す。

といったことなのかなと思ったんですが、なにしろロクに勉強してない人間の印象にすぎま
せんので、どなたか詳しい方のご教示を待ちたいと思います。

420Raku:2009/05/06(水) 23:10:04
語尾の母音を省略せずに脚韻を踏めば品詞をそろえなければ
なりませんが、それでは脚韻の効果は失われてしまいます。
日本語詩に脚韻がないのも似たような理由が関係しています。
詩のための特別な語形などは歴史的に発展してきたもので
ない限り不合理なものです。

421ベダウリンデ:2009/05/07(木) 09:42:52
Kanvaさん、松戸さん、ちょこっとでも説明して頂けて、ありがとうございました。
北辰さんは別スレには書き込みしてるのに、ここには返事してくれませんでした。

422北辰:2009/05/08(金) 07:50:32
松戸彩苑さん、 「語尾の -o の省略」は『Parnasa Gvidlibro 』を持ち出す
までもなくザメンホフの Fundamento の中の16条文法の第16条にあります。
英語版には euphoniae gratia (音調を整えるために許容される)が入って、
詩人の特権としてリズムや韻を揃えるために許される、と理解されています。
 その実用上の問題は Parnasa Gvidlibro の LA ARTO POETIKA の
Kanto kvara のなかで細かい注意(乱用の戒め)があります。
しかしこのあたり、すごいですね。Kanto unua から Kanto sesa まで
詩の作り方の極意を、見事な詩の形で述べています。
ベダウリンデさん、
> 「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、「作曲しろ」(丹花さん)
> だの、みなさんトンチンカンだなあ
とは何?? 私はそんなことは聞いたことはないが、かかわりありそうなのは
> Brendon Clark の作品、好きですか?
と おたずねしたことかな? あなたの主張を聞いて、Clark は当然ご存じだろう、
と思ったのですが --- 人の発言をゆがめて非難するのは demagogo の手段です。
説明します。Brendon Clark は詩での母音省略に反対し、省略のない詩作を
実践しています。彼の「マオリの航海の歌」は、太平洋の波のうねりのような
リズムに酔わされる感じです。あなたなら、母音省略のない雄大な詩から
エスペラントの詩の視界が開けるものを感じておられるのでないか、と
思ったのですが。これが トンチンカン ですか? ご返事ください。

423ベダウリンデ:2009/05/08(金) 09:13:25
北辰さま
>> Brendon Clark の作品、好きですか?
>と おたずねしたことかな? あなたの主張を聞いて、Clark は当然ご存じだろう、
>と思ったのですが --- 人の発言をゆがめて非難するのは demagogo の手段です。

その事です。私にとっては聞いたこともない人の名をあげられ、
突然「好きか?」と聞かれたのです。その人がどんな詩を書くのかも知らされずに。
私には、「読んだのか、読んでないなら読め」というように聞こえました。
「こんなのも読んでないくせにでかい口たたくな」的にも聞こえました。

その発言の前には「これより良い作品(音楽も)が出来ると思いますか? 作って見せてくれますか?」
と恐喝じみた言い回しさえ受けています。

こういう言い回しを受けて、私は「怖いな」「不快だな」と感じましたが、
そのように反応したら「demagogo」なんですか?
あなたの意図が私に通じなかったのならば、あなたの「書き方」に問題があるのです。

丹花さんも悪気はないとは思うけど、突然割り込まれ、あのように言われたら
「文句言うなら自分で作曲してみろよ」的に聞こえたんです。
もちろん、悪気はないとは、分かっています。
でも、私には「本当に聞きたいこと」があったのに、それから議題をそらされたように感じました。

424ベダウリンデ:2009/05/08(金) 09:22:03
北辰さんも「母音の省略に反対」の立場を理解し、
すでにそういう詩もある、と紹介して下さいましたが、
「なぜ、省略する形式の詩が多いのか」という疑問には答えてくれませんね。

北辰さんは
>このリズムを維持し、定形詩を構成するために必要だったことは
>わかりますね。この省略をやめれば(リズム、定形の崩れはどうします?)
すごい強い口調で「定型詩のリズムは重要なんだ」と主張なさっているように聞こえます。
なぜ、そこまで定型リズムが重視されるのか、その由来はなんなのか、
私はそこを質問してるんです。

それには答えようともしないんですね?

425丹花:2009/05/08(金) 14:28:04
わたしがつくつてみられたらと言ったのは、そうしてみないとわからないとおもつたからです。2人の方は、懇切丁寧に説明しておられますよ。cつたのはきょくしてみたら

426丹花:2009/05/08(金) 14:31:10
コンピュウターの調子が悪いので、大きく間違えてしまいました。

427ベダウリンデ:2009/05/08(金) 17:23:18
Kanvaさんがおっしゃってた例から・・・

>早くもザメンホフの第一書に「Ho mia kor'」という詩がありますけれど、
>いくらラテン語の単数主格が/cor/であるにせよ、こういう形を例にしない
>方が良かったのにと思います。

私も「ホー、ミーア、コーロ」のままで充分美しい響きだと思います。
それなのに、なぜザメンホフは「ホー、ミーア、コー」でなければ美しくない、と感じたのでしょうかね。
(私は語尾が子音になると聞き取れないので、だから嫌いなのですが)
自分が作った言語そのままの形では「醜い」とザメンホフが感じた「文化的背景」は何なんですか?

そういう点が知りたいんです。(自分で作ってみろよ、というレスは無しでお願いしますね)

428松戸彩苑:2009/05/09(土) 03:31:32
『Parnasa Gvidlibro』(私が持ってるのは1984年に出た第3版)のなかを探してみましたら、
41ページに Ho, mia kor' が載っていました。

この詩は「弱強五歩格(エスペラントでは kvin-jambo、英語では iambic pentameter)」とい
う韻律だそうです。
これは、アクセントの弱い音節と強い音節とが交互に現われるというのを5回くり返すという
もののようですね。

アクセントの弱い音節を小文字、強い音節を大文字で表わすと

  ho MI a KOR' ne BA tu MAL trank VI le
  el MI a BRUS to NUN ne SAL tu FOR
  jam TE ni MIN ne PO vas MI fa CI le
  ho MI a KOR'

というふうになるわけです。

ということで、この韻律にするためにはやはり kor' という形にしないといけないわけです。
---

しかし、私もエスペラントを長いことやってますけれども、欧米人の詩に対する情熱というの
はいまだによく判りませんね。

もちろん、欧米では文学はホメーロスの『オデュッセイア』と『イーリアス』という叙事詩に始
まるんだといったことは知識としては知っていますけれども、しかしなんでそんなことに今で
もこだわるんだろうと思います。

429松戸彩苑:2009/05/09(土) 06:30:11
それから私は、語尾の -o の省略は気にならないんですが、しかし詩において語順がゴチ
ャゴチャになるってのにはかなり違和感を感じます。

具体例をあげますと Ho, mia kor の3行目の

  jam teni min ne povas mi facile

なんかがそうですね。
ふつうだったら

  jam mi ne povas teni min facile

みたいになると思うんですが、これが jam teni min 〜 になっていますので、エスペラントを
始めたばかりのころは頭にスッと入ってこなくてイライラさせられました。
やはり我々は、日本語の語順と英語の語順にしか慣れていませんので、そのどちらでもな
い語順の文章は、なかなかすんなりと理解できるようにはなりませんね。

このほかにも La espero には

  nun de loko flugu g'i al loko

  g'i la homan tiras familion

なんて行がありますね。

そういえば、ギリシア語やラテン語なんかにも語順がゴチャゴチャになるというのがよくあり
ます。

430ベダウリンデ:2009/05/09(土) 13:14:51
私も、詩には全然興味なくて何も知らなかったのですが、ウィキペディアなどで、自分で調べましたよ。
それなりに勉強になりました。
(北辰さんは、やっぱり答えてくれないですね。そういう人なんですね)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%BB%E5%BE%8B_(%E9%9F%BB%E6%96%87)
(引用開始)
例えば日本語の伝統的韻律では、モーラ(拍)が最小単位となり、5拍・7拍を基本とする七五調・五七調などがよく使われる。
フランス語でもこれに似て、韻文では時間的最小単位である音節が一定数繰り返される(5音節、6音節など)。
またアクセント・強勢や音節の長さ、あるいは声調が重視される言語も多い。
例えば古典ギリシャ語とラテン語では音節の長短、英語やドイツ語ではアクセント・強勢、中国語(漢詩)では声調(平仄)に関して特定のパターンが用いられる。
イタリア語やスペイン語では、フランス語と同様の音節数に加え、アクセントのパターンが重視される。(
(引用終わり)

西洋文明の古典・ギリシャ・ローマの詩において、長短リズムの詩があったのですね。
英語・ドイツ語は、たまたま強弱リズムの言語であったので、古典詩の長短をそのまま強弱に置き換えて
その伝統を引き継ぐことができたのですかね?
エスペラントも強弱リズムなので、自然と英語・ドイツ語の詩に近づいたのでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0#.E8.A8.80.E8.AA.9E.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.83.AA.E3.82.BA.E3.83.A0
『音節リズムはスペイン語やフランス語などに見られ、各音節が時間的にほぼ等間隔で現れることによって生じる。』
フランス語は、強弱リズムの言語とは異なるので、詩においても、英語・ドイツ語の詩とは違った様相を示すのでしょう。
自分たちの言語を無理に操作してまで古典の基準に合わせる、ということをフランスでは行わなかった、という事なんでしょうから、
そこらへんにフランスの「文化」というものが感じられます。

431ベダウリンデ:2009/05/09(土) 13:34:07
エスペラントがギリシャ・ローマ風の詩に近づける特徴を持っていたとしても、
無理な操作を行わずにすむ韻律の型を選べばいいのに、と思います。

http://eo.wikipedia.org/wiki/Piedo_(poetiko)
韻律は、長短(強弱)の組み合わせで、何種類もあります。
その中で、最後が「長」で終わる型は、本来的に、エスペラントには合わないと思います。
ヴィキペディーオからの例をとると、

trokeo: —∪ ("En la mondon venis nova sento") これは合う
jambo: ∪— ("Mi amis vin")  終りに来る単語を vin とか miとかに限れば可能。
daktilo: —∪∪ ("Kanto sincera de mia animo")  最後に休符を足せば、合う
anapesto: ∪∪— ("Ne riproĉu la sorton, ho juna animo")  最後-o省略しないと合わない。
amfibrako: ∪—∪ ("Tra densa mallumo briletas la celo") 合う

このように、 やっぱ、最後は短いので終わるものは、無理なく自然に合うんですよ。
anapesto型でも、最後に「短」を字余り的に追加すればいいと思う。「型」は崩しますが。

>429
エスペラントは、アクセントが固定という不自由さがあるから、
その代わりに、語順の自由は認めてあげるといいと思います。

432北辰:2009/05/10(日) 07:51:26
-->429:松戸彩苑さん、
> 日本語の語順と英語の語順にしか慣れていませんので
ですか。ずいぶん英語に慣れておいでのようですね。英語を習い初めてから
5年後エスペラントをやり出した私とはだいぶ違うのでしょうか。
 英語はかなり語順が固定され、日本語、エスペラントに比べて不自由なことば。
日本語は「が(は)のにを」の助詞が西洋語の格表示に当たる機能をもつので
「動詞が最後」という一応の語順固定はあるが、わりと自由ですね。
ザメンホフの詩で比べてみます。
jam  teni min       ne povas  mi    facile
もう 私を支える(ことは) できない、(私は) 容易には
------------------------------
と、頭から日本語で読みくだして スンナリ わかりましたので、
> 頭にスッと入ってこなくてイライラ
する方がいる、のに意外な感じがしますが、それだけ
英語に慣れて(囚われて?)いる方が多いのでしょうか。
 エスペラントでは格表示と前置詞の活用で、文の要素間の関係は はっきり
表示されるので、格表示を失った英語に比べると語順の自由度は大きく、
詩作や作文に有利な言葉です。表現したい内容にに合わせて語順を変えても
文法違反にならず表現の可能性が格段に大きい。
 「最初にエスペラントを習ったあとで外国語を学ぶほうが学習効果は大きい」
という教育研究結果が多いが、言語の表現可能性と多様性を先に知っておく
ことの意味が大きいのかも、といま気がつきました。

433松戸彩苑:2009/05/10(日) 09:37:02
>>432
それほど英語ができるわけではないんですが、しかし語順には慣れましたので、その影響
はあるのだと思います。

それから考えてみたんですが、私の場合はエスペラントを「読みくだす」ということはしてい
ないんですよね。
どうやら、語順に依存してバッと大づかみにするというやりかたで理解していたらしくて、ふ
つうの語順から外れた文章を見ると、それだけで心のなかで拒否反応を起こしてしまって
いたようです。

もちろん今では、こういう文章にもかなり慣れましたが。

おそらくこの手の文章は、ロシア語やドイツ語なんかを母語としている人たちには理解しや
すくて、英語やフランス語なんかを母語にしている人たちには、ちょっと判りにくいのではな
いでしょうか。

434ベダウリンデ:2009/05/10(日) 13:18:33
>英語はかなり語順が固定され、日本語、エスペラントに比べて不自由なことば。
英語は印欧語の中でも孤立語化した言語だから、語順に依存するのは仕方ないのではないですか?
その代わりに、英語では格変化は退化してるから、格変化だらけの屈折語に比べたら、日本人には馴染みやすいです。
それを「不自由」と言い切るなんて、英語はじめ他の諸言語に対しても「失礼」ですよ。
みんな普通は「母語が基準」なんだから、エスペラントと母語の異なる点に対して「違和感」を感じるのは当然だと思う。
日本人が英語を経ずに直接にエスペラトを習ったとしても、日本語には無いエスペラントの特徴(それは英語にも共通する特徴だと思うけど)
が存在するんだから、難しさは同じだと思う。

てゆーか、北辰さん、エスペラント詩において定型リズムがなぜそんなに重要なのか語って下さい。

435ベダウリンデ:2009/05/10(日) 13:38:00
ところで、私思うに、「文化」って「美意識」なんですよね。
ヨーロッパ人にとってはギリシャローマ文明は誇りであり、憧れであるのは分かる。
エスペラントだと、ラテン語風の詩が、ラテン語の知識が無くても、お手軽に書けるから、
それでエスペラントに飛びついたヨーロッパ人も多いんだろうな、と思う。
ラテン語の詩には「短+長」という型のリズムが存在するから、エスペラントでも存在しなければならない、と
硬直的に考えて、無理やり「ホミー、アコー」なんて言ってるんだろうな。

でも日本人の私からすると、長短を規則的に組み合わせだけのリズムって、単調に感じる。
そこに美しいメロディがつけば、異文化の私にでも「美しさ」は理解できるけど、
言葉だけ聞かされても「美しい」とは感じない。
ヨーロッパ人が自分たち特有の美意識にとらわれてるうちは、エスペラントの「文化」も生まれないんだろうな。

日本民謡のアウフタクトについて、ちょっと考えたんですが、
民謡に限らず、日本人が「うた」う時、一文字目と2文字目は、くっつくんですよね。
「たびーゆけーばー」の浪曲(たぶん、規定のリズムは存在しない、いわゆる無拍のリズムというやつかな?)でも、
百人一首の読みでも、そこが共通してると思う。
リズムが決まっていて採譜できる民謡も、その特徴をひきついでいて、
見かけ上の「アウフタクト」ができるんだ、と思った。

436松戸彩苑:2009/05/10(日) 16:13:39
「エスペラントの詩の上手な朗読」というのを聞いてみたいものですね。
でないと、良さが判らないですね。

437Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2009/05/10(日) 20:11:34
>英語はかなり語順が固定され
スターウォーズのヨーダのセリフを聞くとその固定観念はもろくも覆ることに。
fight the darkside we must!

ところでセレン氏が有名なメルトをうたった動画をupしたので宣伝します。
http://www.youtube.com/watch?v=eoS0NnUfC5g

438Kanva:2009/05/11(月) 00:20:34
初期からあるキリスト教典礼文は散文であり、ミサ曲なんか数多く
作曲されてきているわけですから、
「定型に沿った韻文でないと(ヨーロッパで)名曲は生まれない」
ということは、誰にも主張できないことだと思います。
縦の揃わないポリフォニーなんかにおける韻文の意味って何でしょう?

また、古代ギリシア語の長短アクセントの韻文は、アクセント位置が
規則正しく現れるタイプのものではなかったので、ベダウリンデさんが
引用したような韻律の先祖とは、見なせないものだと思います。

439Kanva:2009/05/11(月) 00:36:26
> 長短を規則的に組み合わせだけのリズムって、単調に感じる。

私も、その点に同感です。
単純拍子と言われる2拍子・3拍子・4拍子で、中のリズムも殆ど同じ
形が続く楽曲は、単調でつまらなく感じられます。
私にとって自然に湧き出る音楽は、交替拍子や複合拍子のものであり、
たとえ同一の単純拍子が続く曲でも、中のリズム分割がいろいろ変わる
ものが好きです。
また、無拍子の音楽も好きです。

> 「文化」って「美意識」なんですよね。

少なくとも芸術の文化について言えば、「何が美しいか・かっこいいか」
という感じ方・考え方が、文化の違いですよね。
それぞれの文化圏での楽典や、演奏法のルールを知って音楽を聞くことで、
より深く本当に分かるようになるわけですね。
ヨーロッパも、長短のリズムを重視する言語や、強弱アクセントの言語の
葛藤によって音楽や韻律を変遷させてきたわけですが、その結実に我々が
縛られる必要はないと思います。

440Kanva:2009/05/11(月) 00:49:29
「アウフタクト」という用語は、私の身の周りでは、ドイツ語で本来意味する
リズム感覚を離れて、「練習番号○○のアウフタクトから始めてください」と
いうふうに、弱拍から始まるフレーズの、その弱拍部分一般を指すものとして
使われています。
小節番号や練習番号が、小節単位で振られているので、「○○の前の小節の
何拍目」、と言うより、「○○のアウフタクト」と言う方が早いというだけの
ことですが、色々な学校等の出自の人を含む団体で意味が通じているので、
そんなに変な使い方ではないのだろうと思っています。

441北辰:2009/05/11(月) 04:05:24
-->430: ベダウリンデさん、
私はあなたに何度か問いかけて、1度も まともな答をいただいていません。
> 402 名前:北辰 投稿日: 2009/05/03(日) 01:28:10
での私の問いかけに、まともな返事はなく、私の問いかけた
> Brendon Clark の作品、好きですか?
に対して、次のように 私の発言をゆがめた非難が ありました。
> 416 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/06(水) 17:13:47
> 「誰それの詩は読んだか」(北辰さん)だの、みなさんトンチンカンだなあ
しかも続けて次の文があり、あれ! と驚きました。
> 421 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/07(木) 09:42:52
> 北辰さんは別スレには書き込みしてるのに、ここには返事してくれませんでした。
いったい何についての返事を期待されていたのか、心当たりないのですが?
そこで松戸さんへの返事と、あなたの「みなさんトンチンカン」の意味を伺おうと
> 422 名前:北辰 投稿日: 2009/05/08(金) 07:50:32
で私の真意を説明し ご返事を求めたのですが返事がないまま
> 430 名前:ベダウリンデ 投稿日: 2009/05/09(土) 13:14:51
> (北辰さんは、やっぱり答えてくれないですね。そういう人なんですね)
とは、どういうことですか。何か私の答えを待つ問いかけがあったのですか。
 確認したいのですが、上に出した私の何度もの問いかけ、読んでおいでですね?
そして無視されたのか? それとも読んでない?
いま気がついた。私の何度かの書き込みが次のアクセスの時にはもう見えなく
なっていた。常時こんなことがあれば、目にふれない書き込みがあるかもしれない。
とすると。掲示板管理者の問題ですが、あるいはあなたも その被害者か?
 となるとあなたを責めるのは間違いかも。管理者さん、説明をどうぞ。人の回答を
求める書き込みはその返事が出るまで目にふれるように出しておくべきです。
そうでないと メンバー間に 無用の不信、混乱を起こします。ご返事を!
ベダウリンデさんは 私から聞きたかったことを知らせてください。

442ベダウリンデ:2009/05/11(月) 15:36:45
>いま気がついた。私の何度かの書き込みが次のアクセスの時にはもう見えなく
なっていた。

北辰さん、すれ違いの原因が分かりましたよ。
ここのように、スレ(○○について語ろう、のようなタイトル・テーマ)が複数ある掲示板では、
各スレにつき最新の幾つかのコメントしか表示されないのです。
そのスレの書き込みを全部読みたいなら、右上の 「All」 とか「Last50」をクリックしないといけないんです。

それはさておき、私は北辰さんの質問には「答えた」つもりです。
「トンチンカン」に関しては、突然聞いたこともない詩人の名をあげられ「好きか」と聞かれたので、
私は困惑し、「どうせ読んでないんだろう、読んでから言えよ」という「脅し」のように聞こえた、というのが原因です。
「脅しだ」と真に受けるのも大人げないので「トンチンカン」と、言葉を和らげたのです。
もしも北辰さんが「○○いう詩人は母音省略しないで書いてますし、私はこの詩人好きです」などと書いてくれていれば、
私だって「そうなんだー、読んでみようかなー」と思ったと思います。
今は北辰さんへの反感が強すぎて、読む気はありません。

私がしつこく、「答えて下さい」と言っているのは、
北辰さんは、このスレでの私に対する最初のコメントで「定型のリズムが崩れますが、どうするんですか?」
と強い語調で威圧してきたので、「そこまで定型リズムにこだわるのはなぜか」と聞いたのです。
(もう一回、Last50して読んでください)

443ベダウリンデ:2009/05/11(月) 15:56:46
Kanvaさん
アウフタクトの概念自体が、今はばらけているのでしょうね。
アウフタクトの概念が「強弱」を基準にした「弱」であるなら、
日本民謡には「強弱」自体が無いので、「アウフタクトは存在しない」となるのでしょう。
また、現代では日本人の耳も、アウフタクトに慣れ過ぎて、
4分音符の前に8分音符があるだけで、体がアウフタクトっぽく反応してしまうのかもしれないです。

444ベダウリンデ:2009/05/11(月) 16:36:31
百人一首など、和歌の「詠み」についてなんですが、
「一文字目とニ文字目をくっつける」以上に大きな特徴は「語尾をめいっぱい伸ばす」ことだと思います。
(『音楽の根源にあるもの』のP165に「追分様式」の説明として、同じ様な事が書かれていました。)
エスペラントでもTANKAOは盛んなようで、丹花さん、北辰さんも趣味となさっているんですよね?
私は創作の才は無いので、そういうのができる人が羨ましいので、
けなすつもりは決して無いのですが、ひとつ疑問が生じました。

日本語とエスペラント語では、言語の特質が異なります。
日本語芸術である短歌をエスペラントに移植するとなると、
和歌の様式と、エスペラントの言語的個性のどちらかを犠牲にしなければならないと思うのです。
その当たり、どうなってるのかな?と思いました。

詠唱のイメージでは「ありあけの〜〜〜」と語尾を伸ばしたいところですが、
エスペラントでは、語尾-oを省略しないと、末尾を伸ばせない。
-oを省略すると、西洋詩同様、日常語からの乖離、という現象になる。
省略しないで、「デラホマーロ〜〜〜」と詠唱しても、私は構わないと思うけど、エスペランチスト達が許すかどうか。
そうではなく、和歌の詠唱形式を諦めて「デラホマ〜〜〜〜〜ロ」と詠唱するか?

下記のサイトでは、
http://www.epa.jp/arangxo.html
朗詠できるエスペラント短歌として、西洋詩のように強弱の繰り返しになるような作詞を推奨しています。
太鼓のリズムに合わせて朗詠したいみたいなので、これはもう「ナンミョーホーレンゲーキョー」と同じ世界であって、
和歌の世界ではないな、と私は思ったのですが、
実際、エスペラント短歌の世界って、どんなものなんですか?

北辰さんへ「タイトル右上のLast50をALKLAKU!」

445胡人:2009/05/11(月) 22:57:30
「ナンミョーホーレンゲーキョー」がどの様なたとえなのか、実際に聞いたことがないので、よくわかりませんが・・・

謡などでも同じ様に、根本的に日本の和歌なども基本的には強弱のリズムで詠う様にできています。
それを鳴り物で奏することもあります。
また様々な流派、地域で、様々な詠い方、リズムがあります。

短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

それで短く詠う、2番目、4番目のところに「’」を使用し韻をふむことが一つの方法となる様に思われます。

446Kanva:2009/05/11(月) 23:44:36
「ナンミョーホーレンゲーキョー」は、私の知っている範囲の宗派では、
太鼓を入れるときには、「ダダダンダンダンダンダン」と7回打ちます。
6拍(ウラを数え入れると12拍)のリズムですが、6拍ともほぼ同じ強さ
なので、西洋流のいわゆる6拍子ではありません。
ひょっとすると、宗派によってかなり違う可能性がありますね。

思うにベダウリンデさんも、同じ強さの強拍が規則的に出てくる例として
おっしゃっているのだと思います。

日本語短歌で、二音節ごとに一つの強拍(長いor高いor強いor重い音節)が
出てくるとは私は思っていませんが、そういう説がどこかにありますか?
べダウリンデさんが 444>> でご紹介のサイト
http://www.epa.jp/arangxo.html
では、エスペラントで短歌を作る際に、強弱を二音節ごとに規則正しく
繰り返すように単語を置くように勧めているので、これでは日本語のリズムと
大きく違うように感じました。

胡人さんは、
> 謡などでも同じ様に、根本的に日本の和歌なども基本的には強弱の
> リズムで詠う様にできています。
と書かれていますが、これも強・弱を規則正しく反復することを意味しない
ように思われます。

ところで、胡人さんがおっしゃっている
「2番目、4番目のところに「’」を使用し韻をふむ」
というのは、いま一つピンと来ないのですが、
2番目の7と4番目の7に「’」を使って音節の強弱を合わせると同時に、
2番目の句末と4番目の句末を強拍にして脚韻を踏む
ということで宜しいでしょうか?

447ベダウリンデ:2009/05/12(火) 09:32:12
胡人様
>短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
>始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

確かに、おっしゃるように、百人一首を読む時も、
1番目と3番目の後は伸ばして、2番目と4番目の後は伸ばさないように読むと、よりリズミカルです、が、
でも、それって「絶対的な規則」とは言えないのではないですか?
5行全部を伸ばす例も普通に見かけると思いませんか?(歌会始の映像で確認しました)

Kanvaさん
>思うにベダウリンデさんも、同じ強さの強拍が規則的に出てくる例として
>おっしゃっているのだと思います。

そのとおりです。
太鼓の音は和太鼓風に複雑なリズムを刻むのもありますが、
それに合わるお経は、タンタンタンタンと規則的な拍で読んでるように聞こえました。
(そうじゃない宗派もあるのかもしれないですが)

北辰さんへ「タイトル右上のLast50をALKLAKU!」

448北辰:2009/05/12(火) 11:53:35
ベダウリンデ 様
> 右上の 「All 」 とか「Last50」をクリックしないといけない
なるほど、原因がわかりました、ありがとうございます。失礼しました。
 あの詩人の名をあげた理由は前に説明した通り。あなたの「語尾 -o の省略反対」
の主張を見て、「B.Clark と同じだな、さては読んでいるな」と思ったので、--
「読んでない」こともありうるが、調べればわかること、面倒なら相手
(この場合私)に「どんな人?」と説明させればいい、この件は終わりですね。
> 定型リズムにこだわるのはなぜか
La Espero についての話でした。リズムを変えたり、母音省略をやめ音の数を
増やせば、今の楽譜では歌えなくなる。この詩には2人が作曲していますが、
どれもザメンホフの原作の詩についてのもの、あなたの考える内容改変したものは
見た事なく、具体的な詩(楽譜も)を見なければ いいも悪いも判断できません。
 この歌(La Espero)を、わかりやすい日本語歌詞をつけて エスペラントを
知らない人にも歌ってもらおうと している友人がいます。うまくできれば
いいな、と思っているのですが。1番だけ作って様子を見ています。
「やってみよう」と思う方、歌える試訳を どうですか?
> エスペラントでもTANKAOは盛んなようで、丹花さん、北辰さんも
> 趣味となさっているんですよね?
私は「趣味」と言えるほどには とてもとてもだが、外国にも紹介したい
国内の作品をいじっているうちに 短歌に当たってしまったのです。
 俳句は興味を持つ外国人が多く英語、ドイツ語その他で作る俳人が結構
いますね。エスペラントでもこの頃下火か、と思ったら「モバード俳壇」で
盛り上げている。日本の伝統的短詩型が外国人を魅する、のは愉快ですね。

449ベダウリンデ:2009/05/12(火) 16:34:15
胡人様
>短歌31文字では、ただ、5、7、5、7、7すべての句をのばすのではなく、
>始の5、中の5、最後の7をのばし、2番目の7、4番目の7を短くすることで抑揚が生まれ実際に詠える短歌になります。

学校で習った事を思い出したのですが、短歌には七五調だけでなく、五七調もあります。
その場合は、
あまのはら〜、ふりさけみればかすがなる〜〜   ではなくて
あまのはらふりさけみれば〜〜 かすがなるみかさのやまに〜〜 となると思います。

胡人さんが「詠える短歌」いう読み方は、私にもリズミカルに感じられますが、
それは、我々現代日本人が4拍子のリズムに慣れすぎているから、そう感じるのではないでしょうか?

あま、のは、らー、休
ふり、さけ、みれ、ばー
かす、がな、るー、休
みか、さの、やま、にー
いで、しつ、きか、もー

と、ついついこう読んでしまいがちではないか、という事です。

450ベダウリンデ:2009/05/12(火) 17:28:09
胡人様
「同じ強さの強拍が規則的に出てくる例」は、日本の歌で何があるか、考えたのですが
「手まり唄」的なものならありえますね。
手まり唄があるのだから、私が知らない日本の古典音楽でも、同じようなものがあるかもしれません。
ただし、手まり唄は、一拍の中が「タンタ」と細かくはずんでいますので
(例、あんた、がーた、どーこ、さ)
お経のような等間隔性とはまた違うようにも感じます。
(お経のようなリズムで歌う日本の歌があるのか、改めて探してみます)

http://www.epa.jp/arangxo.html で推奨されていた短歌形式は
お経のリズムなのか、手まり唄的なリズムなのか、実際聞かないと分からないですね。

北辰さん
単に「今の楽譜」に合うか合わないかだけを考えてたのですね。なーんだ、という感じです。
私は、歌詞がなぜ定型リズムなのか、そのリズム配置の由来は何なのか、を考えていたのです。
北辰さんはそういう事には興味無いでしょうから、質問は取り下げます。

エスペラントの詩の形式って、英語詩の形式に近いように思いました。
でも、英語を敵視してるエスペランチストが英語詩に倣うわけないし、と思って、
その由来をちゃんと知りたかったのです。
誰か詳しい人いたら、どうか教えて下さい。

451ベダウリンデ:2009/05/13(水) 09:15:23
「同じ強さの強拍が規則的に出てくる例」は、能の「大ノリ、中ノリ」がありましたね。
私は素人なので、単にセリフを読んでいるだけのように聞こえていましたが、
「謡」ともいうし、演じてる人は「うたってる」のかもしれないですね。
それに、敢えて棒読み状態で「うたう」事による音楽的効果もありますね、きっと。
緊迫感とか、鬼気迫る感じ、とか、やわな感情では立ち向かえない状態、とかを表現できるんだと思う。
お経もそうですね。(等拍に読むタイプのお経です。声明もお経の一種だから、ただし書きが必要です)
棒読みは感情を抑えてる感じがするので、それにより逆に、鬼気迫る凄味が感じられるのかもしれないです。

日本語は音節リズムの言語だから、何も感情を入れないと、単純な等拍の棒読みになる。
日常語では感情が入るので、多少等拍性が崩される。
感情を堂々と表現した「歌」となると、等拍性は意図的に崩され、はずんだり、語尾が伸ばされたりする。
和歌は感情を表現する芸術だから、等拍ではないリズムで歌うのが「正統」なのではないか??と。。
以上は私の推論です。

エスペラントや英語など、強勢リズムの言語はどうなのでしょう?
何も考えないで喋ると、強弱のリズムがバラバラになるので、その点を「醜い」と感じるのでしょうか?
日本語とは逆に、拍節にきれいに並べることが、彼らにとっての「美」であり「感情がこもってる」事になるのでしょうか?

こういう話には興味のない人が多いと思いますが、皆様のご意見をお聞かせ下さい。

452北辰:2009/05/13(水) 17:38:03
ベダウリンデさん
> 短歌には七五調だけでなく、五七調もあります
?? 七五調の短歌? どんなものか、例を教えてください。
五七調の例のつもりか、あたたが出している
> あまのはら〜、ふりさけみればかすがなる〜〜
は、五七五七七の 5句の、短歌と 呼ばれているものですね。
> 「今の楽譜」に合うか合わないかだけを考えてたのですね
違います。あなたは La Espero の改変を考えている。 -o などの母音省略を
やめて音の数、リズムが変われば当然楽譜も変わらねば歌えません。おもしろい
ものができたら拝見したい、とは思うが具体的なものは 何も見えないので
判断のしようがない、ということです。
 ザメンホフの La Vojo, 長く R,G,Tomblin の曲で歌われていたが g^anfranko は
これに全然ちがうメロディをつけてギター弾き語りで歌った。なかなか
おもしろいな、と思いました。もっとも原歌詞の改変は一切ありませんが。
> 歌詞がなぜ定型リズムなのか、そのリズム配置の由来は何なのか、
> を考えていたのです
詩を作るのが人間だからでしょう。人間のすべての動作は 心臓の鼓動、呼吸など
基本に強弱リズムがあり、若干の変化を加えて変種も作れます。あとは表現者
(作者)が自己の表現内容にふさわしいリズムを選ぶ、表現の自由を発揮するだけ。
> 英語を敵視してるエスペランチストが英語詩に倣うわけないし
ずいぶん不思議なことを言いますね。エスペラントの詩も(特に定形詩では)
英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。使いやすいから私は
エスペラントを主に使っているが、英語でしか 話せない人や、読めない情報に
出会えば英語を使う。どちらもコミュニケーションの道具で、場合場合で
便利に使えばいいことです。

453松戸彩苑:2009/05/13(水) 22:23:03
先に述べたように私は語尾の -o の省略が気にならないんですが、それは、合成語をつく
るときにしばしば(okul-vitroj のように)語尾の -o を省くということがあるからではないかと
思いました。

454Kanva:2009/05/14(木) 00:26:29
時に、日本語の定型詩と比較する対象としては、琉歌あたりがまず不可欠だと
思うのですが、まだ話題に出てこないようですね。

さて韻文には、強弱を主な要素とするものと、そうでないものの両方があります。
また、強弱を等間隔に繰り返すものと、不均等に配置されるものがあります。
例えば中古漢語以降の漢詩(詩詞)は、主に声調(平仄)に由るものですね。
この漢詩では、各音節(語)の間に、目立った強弱はつけないと思います。

私は、強弱が等間隔に繰り返される韻律は、「当たり前ではない」と思って
います。恐らくロシア語でもドイツ語でも似たような韻律をしているので、
サメンホフが採用したのでしょうが、エスペラントの内的リズムから自然に
導出できるものかどうかは大いに疑問に思います。
(私は高校時代、レールモントフの詩に曲をつけたりして遊んでいましたが、
もう遠いかすかな思い出です。)

そして、韻律に合わせるために語順を倒置することは比較的普通のことですが、
散文にない語尾省略をすることは、当たり前ではないと思っています。

ちょっと当面、書く時間が十分取れませんが、視座の一助になればと、追々、
インドの韻律の話を書ければと思っています。

455ベダウリンデ:2009/05/14(木) 09:56:44
北辰さん
>?? 七五調の短歌? どんなものか、例を教えてください。
五七調  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%BA%94%E4%B8%83%E8%AA%BF/
七五調  http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%83%E4%BA%94%E8%AA%BF/

>あなたは La Espero の改変を考えている。
そんな事全然考えてませんよ。ザメンホフがなぜ母音省略したのか考えてます。

>詩を作るのが人間だからでしょう。
北辰さんは私が考えてるような事には一切興味が無いのだと思います。
人はみな興味対象が異なりますから、それはそれで構いません。
北辰さんの「答え」は私には「答え」になってないのですが、
興味の対象が異なるので仕方のないことです。

456ベダウリンデ:2009/05/14(木) 10:11:38
>英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。

どうやらそのようですね。私は西洋詩の事は全く知らなかったので、
今回初めて関心を持って色々調べることができました。

参考文献  http://www.venus.dti.ne.jp/~kaisaki/gengoken/pdf/vol2/ueda2.pdf

『ロシアにおいて近代的な意味で言うところの文学の1 ジャンルと
しての詩が盛んになったのは17 世紀初めのことだが、この時期の
詩は各詩行のアクセント数のみを基準とし、音節数やアクセントの
規則的な配置は問題にしないアクセント詩法( тоническое
стихосложение)によって作られた。』

『上記の詩法は17 世紀も中期になる頃には衰退し2 、代わって主にポーランド詩から
音節詩法(силлабическое стихосложение)が輸入された。
この詩法はギリシア・ラテン詩法に起源を持つもので、
各詩行の音節数のみを一定にして、アクセントは問題にしないというものである3。
音節詩法は音節に長短の区別のある言語
(例えばギリシア語やラテン語)の詩法としては有効なものだが、ロシア語の
ように語のアクセントに著しい強弱があり、また音節に長短の区別がない言語の詩法としては、
その特徴を十分に生かせないことから、適したものとは言い難い。』

『初めてこの疑問を公にしたのはВ. К. トレジャコフスキーТредиаковский(1703-69)である。
彼は1735 年に『新簡易ロシア作詩法(Новый и краткий способ к сложению российских стихов)』と
題する論考を発表し、ロシア詩法の改良案を呈示した。
彼の改良案というのは、ギリシア・ラテン詩の模倣である音節詩型ではなく、
アクセント詩型こそがロシア詩に適している、というものだった。
また、彼はロシア詩に詩脚(ロシア語ではстопа)の概念を導入し、(以下略)』

『これに対してМ. В.ロモノーソフЛомоносов(1711-65)は1739年に
『ロシア詩法に関する書簡(Письмо о правилах российского
стихотворства)』7を著し、トレジャコフスキーの上記論考の不徹底性の数々を批判し、
ロシア詩法の改革案を呈示した。
彼の主張とは、アクセント音節と無アクセント音節の交替を詩行の一次指標に
高め、2 音節詩脚のみならず3 音節詩脚を認め、
強弱格以外にも弱強格(ヤンブямб)、強弱弱格(ダークチリдактиль)、弱強弱格
(アンフィブラーヒーамфибрахий)、弱弱強格(アナーペストанапест)を認め8、(以下略)』

『いずれにせよ、この2 人の活動により、ロシア詩には新しい詩法―すなわち
音節アクセント詩法(силлабо-тоническое стихосложение)―が導入された
のである10。』

『ロシア詩法の用語を英詩法、フランス詩法の用語と比較しながら見て来たが、
そのいずれもに語感の共通性があることが気付かれる。
それは、これらの詩法用語が本来はギリシア・ラテン詩法のものであったのを
後代のヨーロッパ諸国が輸入し、それを彼らの詩法に合わせるべく用いたからにほかならない。
つまり、このことはヨーロッパの詩法というものがギリシア・ラテンの模倣から出発し、
それぞれの言語に合わせるべく進歩したものであることを表している。
もちろん、その過程において、ヨーロッパ各国の詩法が互いに影響し
合って発展したこともまた事実である21。』

強勢アクセントのロシア語も、はじめは独自の形式の詩を持っていた。
しかし時代が下がるにつれ、ヨーロッパ色に染まって(?)いったことが分かりました。

457ベダウリンデ:2009/05/14(木) 10:21:55
Kanvaさん
>私は、強弱が等間隔に繰り返される韻律は、「当たり前ではない」と思って
います。

そうかもしれないですね。

>恐らくロシア語でもドイツ語でも似たような韻律をしているので、
サメンホフが採用したのでしょうが、エスペラントの内的リズムから自然に
導出できるものかどうかは大いに疑問に思います。

私も、散文のエスペラントでも、「十分美しい」という印象を持ってました。
なのでそこから独自の「美」を作ればいいになー、(と他人事だけど)そう思ったのです。

>散文にない語尾省略をすることは、当たり前ではないと思っています。

全くもって同感です。

458松戸彩苑:2009/05/14(木) 21:04:31
語尾の -o の省略の話が続いていますけれども、それに似た話を思い出しました。

エスペラントには dank' al (〜のおかげで)という表現があります。
これはザメンホフが使い始めたものですが、しかし、この表現を批判する人がいるんですね。

(1) エスペラントの16条の文法は、名詞の語尾 -o を省略することは認めているが、それ
    以外の品詞の語尾の省略は認めていない。

(2) だから dank' al は(たとえザメンホフが使ったものであっても)間違いであり、danke al
    としなければならない。

というのがその論旨なんですが、これについてはどう思われますか?
私の意見は、みなさんの意見をうかがった後で書きます。
---

それから余談になりますが、今日の昼ごろに「花より団子」に相当する表現を思いつきました。

  rizo pli ol rozo

というものですが、いかがでしょうか?
脚韻は踏んでいないんですが、一文字違いで意味が大きく異なるというところが面白いんじ
ゃないかと思ったんですけどね。

ちなみに『日本語エスペラント辞典』の「団子」「花」の項には「花より団子」の訳として

  regaloj pli ol flor-petaloj

というのが載っています。

459松戸彩苑:2009/05/15(金) 06:18:33
いま思い出しましたが、エスペラントの16条の文法においては「名詞の語尾の -o の省略」
だけでなく「冠詞の la を l' とすること」も認めているんですよね。

これについては、どのように思われますでしょうか?

460北辰:2009/05/15(金) 07:59:16
ベダウリンデさん
> ザメンホフがなぜ母音省略したのか考えてます
私が次のメッージで説明した通りです。
> 402 名前:北辰 投稿日: 2009/05/03(日) 01:28:10
La Espero の例でしたが、「詩のリズムを維持し、定形詩を構成するために必要」
と言う説明が、どうもあなたには理解できないようで、さらに
> 定型リズムにこだわるのはなぜか
と言われた時、根本的に「定形詩に対する理解がない人」と知るべきでした。
これはその後 あなたの
> > 英語も含むヨーロッパの詩の伝統を受け継いでいます。
> どうやらそのようですね。私は西洋詩の事は全く知らなかったので、
で明らかになりましたが、どうぞ理解を深めてください。
La Espero は kvin-trokeo(強、弱のリズム5個で1行の定形詩)なので、
それに揃えるためザメンホフは苦労してますね。しかし見事にできています。
 定形にこだわらず自由詩を作るのも、作者の「表現の自由」ですから、
面白いものができたら 見せてください。

461ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:17:06
定型詩といえば、短歌や俳句も日本の定型詩と言えるでしょう。(音節数の定まった詩)
5文字7文字の組み合わせは、日本人にはとても安定的に響きます。
それは万葉集の時代から現代まで、日本人の言語的美意識としてずっと続いています。
淡々と等拍的に「しずけさや」と言うだけで、とても安定感が感じられます。
「しずかだ」「しずかだよね」より「しずかだな」の方がリズム感が出ます。
このような言語的美意識は日本語の特質から出ているのでしょう。
私にだってちゃんと、母語の日本語では「定型詩に対する理解」はありますよ。

エスペラントにもtankao やhajkoもありますが、
エスペラントを5音節で言ったとして、はたして日本語のような美しい安定感は得られるのでしょうか?
「わがこころ」と同じリズムで「ほみあころ」と言っても、エスペラントらしくないでしょう。
エスペラントだったら「ホーミーアコーロ」と堂々と言った方がずっと美しいと思いますし、
わざわざ5音節にしなくても、いきなり「ミーアコーロ」と言ったとしても、全く遜色ないと思います。

462ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:35:44
エスペラントでtankaoやhajkoを作るのはなぜですか?
本当に、その音節数の組み合わせがエスペラントにぴったり合って美しい、と言えるのでしょうか?
日本の文化を外国人に紹介して親しみを持ってもらうためのツールとしては役立つでしょう。
でも、5,7,5音節のエスペラント文を読んだ外国人は、
日本人が日本の俳句で感じる美しさと同じ印象を持つのでしょうか?

ラテン詩型定型詩についても同じです。
それは西洋一般に普及して、彼らの美意識に染みついているので、
彼等にとっては、日本人が575で句を作りたいのと同様な理由で、そう作りたかったのでしょう。
でも、それは本当にエスペラントに合っているのでしょうか?
母音省略という、日常語を不自然に加工してしか生み出すことのできなかった
ザメンホフの「ラエスペロ」って、そんなに素晴らしいのでしょうか?
定型に無理やり押し込めた努力って、そんなに称賛される事なのでしょうか?

もし「西洋型定型詩はエスペラントにぴったり合っている」としたら、どうでしょう?
単語、文法はエスペラントはヨーロッパ的です。
それは我慢できるとしても、それ以上の「言語的美意識」までも、
ヨーロッパ流に染まらなければならない、という事です。
エスペランチストが「それでいい」と思ってるなら、私は何も言わないです。

463ベダウリンデ:2009/05/15(金) 17:52:37
そうそう、日本人は普通に喋る場合でも、ちょっと気をきかせば
すぐ5,7,5口調で言えますね。
なんでだろ、やけにくいつく、ほくしんさん(最後はちょっと字余り)
(まあ、俳句が芸術的になるには、内容が重要なんですけどね。)

エスペラントでも、『それに揃えるためザメンホフは苦労してますね。』
なんていうような「苦労」なんてしなくても、
誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語だったら、
エスペラントはきっと魅力的な言語になってたと思う。

464Kanva:2009/05/15(金) 22:17:53
>松戸彩苑さま

まず、「散文と違う語形を、韻文で韻律に合わせるために頻繁に使うこと」が
問題なのであって、散文や口語先行で広まったものが韻律に入ったり、
或いはほぼ同時並行で入ったりする分には、違和感がないと思います。
また、韻文の方に古形が残ったために散文と違うのも、自然なことです。
どの言語でも、その言語に合った「美」を、文筆家が模索してきた歴史が
あります。言語という土壌がまずあって、その特性に合った文芸・文学が
花開きます。
そこを、「計画言語でもちゃんと文芸・文学ができるんだぞ」ということを
早く見せるために、無理して近隣言語の韻律を移植してきたのだとしたら、
それは何かおかしいぞ、というわけですね。
世界中の韻律の中から、作り手がどんどん好きな韻律を持ち込んで、
独自のエスペラント詩の世界を開拓するのが、筋としては望ましいことです。
……私は多分、やらないけれど。

dank' al は、もう群前置詞として機能していて、副詞としての danke の
意味が変質してしまっているので、副詞を示す語尾を省略しても構わないと
思います。
明らかに名詞として使っているのに名詞語尾を省略するのとは、違います。
それに、「韻文だから省略している」のでもありません。

465Kanva:2009/05/15(金) 22:43:51
インドの韻律は、皆様ご案内のとおり、大きく二つの流れがあります。
『リグ=ヴェーダ』を最古の文献とする、インド=アーリア語派のものと、
『サンガム』を最古の文献とする、ドラヴィダ語族のものですね。

後者は、大野晋氏が、日本語の五七調の源流ではないかと論じたもので、
文節を単位として各行を組み立てる独特のシステムを持っているそうです。

前者は、ヴェーダ語に端を発する、やはり膨大なシステムですが、
音節の長短(発音にかかる時間)を最も主要な要素として展開します。
音節は、
G (重=guru)と
L (軽=laghu)との
二種類に大別され、三音節の並びの略号として、順列組み合わせ的に
Y = L G G、
R = G L G、
T = G G L、
Bh = G L L、
J = L G L、
S = L L G、
M = G G G、
N = L L L、
というのがあります。
この辺はラテン語と似ていますね。
ただ、この三音節の並びというのは、意味のまとまりでも、韻律の感じ方の
単位でもありません。単に一脚の頭の音節から三つずつ数えて略号に
置き換えるだけの、諳記の道具のようなものです。

466Kanva:2009/05/15(金) 23:03:39
古典サンスクリットで、おそらく最も大量に使われてきた韻律として、
「シュローカ」(狭義の「アヌシュトゥブ」)があります。

○を、軽重どちらでもよい音節の記号とすると、

○○○○ LGG○, ○○○○ LGL○ |
○○○○ LGG○, ○○○○ LGL○ ||

という形式の韻律です。
8音節で一つのまとまりを持ち、その5音節目が軽く、6音節目が重い
リズムがミソです。全体としては、アクセントは不規則なはずなのに、
心地よい4拍子で歌える調子になっています。

エスペラントでは、このシュローカを構成するにも、句末から2番目の
音節を軽くするのがネックになりそうですね。

467松戸彩苑:2009/05/16(土) 09:40:16
>>464
たしかにその通りですね。

私の場合は「エスペラントでよく詩を作るなぁ」という感嘆(と呆れ)の気持ちが先に立ちます
ので、-o の省略とかはほとんど気にならないんですよね。
たぶん、そこのところで意見の相違が出てくるのでしょう。

ところで、これまでは「日本のエスペラント界は、欧米と比べると、詩に関心をもつ人の割合
が少ない」と言われてきたんですが、Kanva さんやベダウリンデさんのように詩にこだわる
人がいらっしゃるのを見て、正直言って驚いております。

残念ながら私は詩には詳しくないので、専門的なことは『Parnasa Gvidlibro』や詩集なんか
を取り寄せて研究していただきたいと思いますね。

あるいは、他のエスペラント掲示板で尋ねてみるという手もあるでしょう。

468Raku:2009/05/16(土) 09:49:35
>>460
北辰さんお勧めのエスペラント「自由詩」を教えてください。

>>462
>そうそう、日本人は普通に喋る場合でも、ちょっと気をきかせば
>すぐ5,7,5口調で言えますね。
一般に定型詩は西洋の詩でも漢詩でもそんな安直なものではありません。
かなり勉強を要します。なぜそうような詩形が出来たのかは、言語の音韻的
特質だけでは説明できない歴史的文化的背景があります。
「誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語」とはどの言語ですか?
そんな言語はわたしは知りません。

>>464
>そこを、「計画言語でもちゃんと文芸・文学ができるんだぞ」ということを
>早く見せるために、無理して近隣言語の韻律を移植してきたのだとしたら、
>そそれは何かおかしいぞ、というわけですね。
>世界中の韻律の中から、作り手がどんどん好きな韻律を持ち込んで、
>独自のエスペラント詩の世界を開拓するのが、筋としては望ましいことです。
>……私は多分、やらないけれど。
同意です。「私は多分、やらないけれど。」の部分も含めて。
和歌の翻訳を考えてますが、一人ではできませんし協力できる能力を
備えたエスペランティストはいませんから絶望的ですね。

469北辰:2009/05/16(土) 10:30:54
-->458 松戸彩苑さん
ちょっと訂正します。
> (1) エスペラントの16条の文法は、名詞の語尾 -o を省略する
> ことは認めているが、それ以外の品詞の語尾の省略は認めていない。
文法第16条ですが、名詞の語尾 -o と 定冠詞の語尾 -a の省略を認めています。
いま気がついた。あなたは 459 で この件追加していました。
ほかは認められてないので、 dank' al については
> 間違いであり、danke al としなければならない
と 言えます。しかし、現実には「広く便利に」使われており
「文法原理主義」も なかなか優勢に なれません。
ザメンホフは dank' al と同じ意味に danke 〜-on も使っていますが、こちらは
前置詞省略の対格となり、文法違反にはなりません。
 この第16条の母音省略、詩人にとっては福音ですね。定形詩の音の数や
リズムを合わせるのに四苦八苦するとき、ほんとに助かりますから。
母音省略に反対し、わかりやすい詩を、と主張し実践している
Brendon Clark も おりますが、立派なもの、と思います。
> rizo pli ol rozo
おもしろい! もっとできそうですね。

470Raku:2009/05/16(土) 11:57:11
>>462
エスペラント短歌とエスペラント俳句の形式はエスペランティストの発明では
ありません。日本語歌人日本語俳人が非日本語人に短歌俳句を作らせるために
考え出した形式です。

471Raku:2009/05/16(土) 12:12:06
わたしの知っている限りでは日本語を除くあらゆる言語で短歌は
5音節、7音節、5音節、7音節、7音節の5行で書かれます。もちろん
日本語短歌のリズムを理解する助けにはなりませんし、それ自体としても
快いものではありません。

472Raku:2009/05/16(土) 17:25:33
エスペラント版ウィキペディアではこのようになってます。
Poemo
http://eo.wikipedia.org/wiki/Poemo

Poezio
http://eo.wikipedia.org/wiki/Poezio

Verso
http://eo.wikipedia.org/wiki/Verso

473北辰:2009/05/16(土) 19:03:49
Raku さん、
> 北辰さんお勧めのエスペラント「自由詩」を
寡聞にして、心当たりはありません。詩集を見てもみな定形詩、なかに
行の長さ不そろいで これは非定形=自由詩か、と思ってみると作者が組み立てた
独自のリズムと脚韻で組み立てた定形詩だったり でお求めには答えられません。
リズムも 韻も ないものは詩でなく、散文 ということでしょうか。
 このスレで母音省略を嫌い、詩のリズムの必要についても疑問を持つ方が
いるので、その考えを実行したら自由詩(自由律?詩)だろうと思い、
> 面白いものができたら 見せてください。
と書いただけです。
 日本の詩歌には自然と人間の関わりが多い。死後も「草葉の陰から」縁者を
見守ったり。英語文化の中から出た歌でも「千の風になって」が日本で受けたのは
そのためか。しかしヨーロッパ文化ではこんな思想は見えないようですね。
Mediuma Poemaro(ブラジル、 1972)は その性格上 生と死を扱った詩99編が
出てますが、ほかの生き物と違って人間だけは 神のもとへと 天をめざし、
「千の風」になる気配は全くなし。あの歌が元来アジア起源でアジアと共通の
自然観をもっていたインディアンからでないか、と言われる所以ですね。
この詩集の作品、構成は多様ですが、やはり全部 定形詩です。

474Raku:2009/05/17(日) 20:52:27
北辰さんお答えありがとうございます。
「詩=poezio/poezia?o」という理解は決定的に間違いということでしょう。

475Raku:2009/05/17(日) 22:30:58
エスペラント短歌俳句についてはベダウリンデさんがすでに指摘されましたが、
拍がすべて同じ長さと意識される日本語と違って、強弱アクセントでアクセントの
ある音節が長めに発音される言語では、強弱の並べ方に規則性がなければ
リズムは成立しません。

476ベダウリンデ:2009/05/18(月) 09:11:41
>このスレで母音省略を嫌い、詩のリズムの必要についても疑問を持つ方が
>いるので、その考えを実行したら自由詩(自由律?詩)だろうと思い、

それは誤解です。
私は「エスペラントならでは」の「エスペラントの言語の特性を生かした」
「母音省略という不自然な操作せずに、誰でも自然に口に出せる」エスペラント定型詩は
なぜ生まれなかったのか、という疑問を持っています。

西洋詩はラテン語の呪縛に縛られながら(ラテン語というお手本から離れられずに)発展してきた。
中国詩も(よくは知りませんが)古典詩の偉大さが大きすぎて、
現代中国人からすると「縛られている」と感じたりするかもしれません。

幸い私は日本人ですが、5文字7文字の組み合わせという日本の定型は
とても良くできたものだと、関心せずにはいられません。
古代から続き、現代の小中学生でも現代口語で短歌俳句が作れちゃう。
文字数という、最も単純な基礎だけ決まっている。
ジャンルによって規則(俳句の季語)や技巧(枕詞、掛詞)があり、
それによって単純さだけでない変化が加わる。
文字数の規則も厳密ではなく、字余り字足らずも許され、それでいてリム感が損なわれない。
5文字に合わせるために、不自然な言語的な操作をする「苦労」なんてないんです。

>「誰でもさらっとリズム感ある詩句が言える言語」とはどの言語ですか?
>そんな言語はわたしは知りません。
日本語ですよ。日本語で575口調で言うのに「苦労」しますか?
日本語の他に外国語自体を私は知らないのですが、
世界には、今の自分の気持ちを、即興で、メロディ付きで歌ってしまう民族がいますよね。
歌うってことは、リズム的にも自然に言えるって事かもしれないですよ。

ザメンホフは西洋人なので「詩とは苦労して既存の枠にあてはめるもの」という先入観から抜けられなかったのでしょう。
世界には、言葉をもっと自由にあやつる民族が他にも沢山いるかもしれませんよ。
いつまでも「ザメンホフの呪縛」に縛られていると、
エスペランチストはいつまでも19世紀ヨーロッパの枠から抜けられないですよ。

477ベダウリンデ:2009/05/18(月) 09:17:04
464のkanvaさんのご意見には全面的に同意です。
エスペランチストの中にも、西洋に縛られない人がいるのは心強いですね。

478ベダウリンデ:2009/05/18(月) 15:46:24
dank' al の件について、自分の意見。
日常語で頻出する言い回しが、より言いやすい形に丸まるのは、全く自然な事だと思います。
アキバハラがアキハバラになったように、です。
de temp' al tempoという言い回しも見かけた事があり、違和感はありませんでした。
言語は自然に変化するのが当然です。
ただし名詞末尾の母音省略は、日常語の散文にはほとんど見受けられず、
詩においてのみ頻出します。そこが「不自然」なのです。

>この第16条の母音省略、詩人にとっては福音ですね。定形詩の音の数や
>リズムを合わせるのに四苦八苦するとき、ほんとに助かりますから。
詩を作るのに、文字数を合わせるためだけに四苦八苦するのは、異常事態だと思います。
何のための「定型」なんですか? 詩人が「苦労」するためのものなんですか?
それとも、>422で北辰さんが『詩人の特権としてリズムや韻を揃えるために許される』と書いたように、
詩人が特殊技能をひけらかし、特権階級ぶるために必要なんですか?

479ベダウリンデ:2009/05/18(月) 16:00:57
詩の発生については、>464のKanvaさんの意見に同意で、
エスペラントでは詩が自然発生する前に、ザメンホフが既存の定型を安易に移植してしまった。
それは人工言語ならではの「失敗」だったと、私も思う。

それ以外にも、西洋や中国など、文化先進国には特有の事情もあると思います。
古代の言語では自然な形であった定型が、時代を追って言語の方が変化してしまい、
古代の名作詩は、実際の日常語とはかけ離れたものになってしまった。
しかし名作詩の権威は衰えなかったので、言語が変わっても昔の定型は守られる努力がなされ、
よって、詩は日常語と異なる言語で書かれるのが当然だ、という感覚になってしまった。
ザメンホフもそれを受け次いでいるのだと思う(19世紀ヨーロッパの限界)

日本も文明国だったけど、定型の基礎が単純で、時代時代に適応できたことが幸いしたのかな。

北辰さんはアメリカインディアンの例をあげたけど、彼等の詩はどのようなものなのでしょうね?
英雄叙事詩とか、神(彼等が神とみなすもの)への讃歌とか、きっとあるんじゃないかな?と思う。
そしてそれには、耳で聞いて心地よい、何か表現上の工夫があるんじゃないかな?と思います。
彼等は詩を「文字で記す」事はしなかったから、「昔の定型」は保持されない。
とすると、時代時代で言語が変わっても、聞く人が違和感なく聞けるような形で受け継がれてきたのでは?
と思います。まあ、これは私の「想像」ですけどね。
詩の言葉は本来は「自然なもの」であるべきだった、と思うんですよ。

480ベダウリンデ:2009/05/20(水) 10:25:20
ザメンホフは最初から、ラテン語っぽい詩を書けるように(或いは、書くために)、エスペラントを設計したのではないですか?

ラテン語アクセントについて調べたのですが、http://www.kitashirakawa.jp/taro/latin20.html
ラテン語には長母音と短母音があり、それとは別に高低のアクセントがあるようです。

ラテン語=『2音節の単語の場合。 語の最後から数えて2つ目の音節にアクセントは置かれます。 』とあり、
エスペラントでも最後から2番目にアクセントがくるので、
2音節目が長母音でないラテン語単語に限り、耳で聞いた印象は、エスペラントのアクセントと近くなるでしょう。

ラテン語=『3音節の単語の場合。 ラテン語では、後ろから数えて2番目の音節に含まれる母音の長短で判断します。
それが「長い」音節であれば、この2番目の部分にアクセントがつきます。』
ラテン語でこのパターンにあてはまる単語は、そのまんまエスペラントのアクセントパターンと同じになります。

ラテン語ではこれ以外のアクセント(『「短い」音節であれば、語の後ろから数えて3番目の音節にアクセントがつきます。』)
もありますが、そこまで真似ると、エスペラントの「規則性」が損なわれる。
エスペラントの規則性をなるべく損なわない形で、ラテン語詩の形体にも対応できるようにしたい。
そのための最も単純な「例外措置」が「末尾母音-oの省略」ではなかったか?
と思いました。
事情通の皆さんは真実をお知りでは?

481ベダウリンデ:2009/05/20(水) 10:34:28
問題点を先に書いちゃうと、
ザメンホフがラテン語風の詩をエスペラントで絶対に書かなければならなかったのは、
彼にとっては、西洋文明が世界の規範となるべき至高の存在だったからではないでしょうか?
その思想は現代の「世界人」からすると「異常」です。
世界の価値観は多様であり、全て尊重されるべきものです。
ヨーロッパ文明は特殊で魅力的ですが、それが世界の他の文化に比べて殊更に勝っている、と思う必要はないと思います。

エスペランチストは「ザメンホフ先生は常に正しい」「ザメンホフ先生のお手本どうりに詩を作ろう」
と素直に思いすぎていて、ザメンホフへの批判精神がなかなか現れないのだと思います。
その結果、みんなして「四苦八苦」してラテン語風の詩を書いて喜んでいる、
それが結果として、「西洋文明世界一!!」という凝りかまった価値観に陥る、
それはザメンホフの仕掛けた罠だと、誰も気付かずに・・・

482松戸彩苑:2009/05/21(木) 06:31:49
>>480
> ザメンホフは最初から、ラテン語っぽい詩を書けるように(或いは、書くために)、エスペラ
> ントを設計したのではないですか?

ザメンホフは最初は(アルカやクリンゴン語のように)民族語とはまったく関係なく単語を作
ってみたのですが、それだと自分にとってさえも憶えるのが大変だということが判って、そ
れで当時のヨーロッパ社会においてもっともよく学習されていたラテン語やフランス語をもと
に単語を作ることにしたんですね。

つまり「当時の人たちの学習のつごう」に合わせて作られたんですね。

それから詩ですが、ザメンホフは単純にヨーロッパ式の詩の作り方しか知らなかったんじゃ
ないかと思います。
(でもヘブライ語の詩の形式くらいは知ってたかもしれません)

「ヨーロッパ中心だ」とはよく言われることですが、100年前のロシア帝国民であったザメン
ホフがヨーロッパのことしか知らないのは已むを得ないでしょう。

ヨーロッパ以外の要素を取り入れるというのは、後世の人間がやるべきものだと思います。

483ベダウリンデ:2009/05/21(木) 09:32:28
>ヨーロッパ以外の要素を取り入れるというのは、後世の人間がやるべきものだと思います。
それが簡単なようで、簡単ではないんだと思います。

ザメンホフは基本単語を決める時、どういう基準で選んだのでしょうでしょうか?
ヨーロッパ語の中からアットランダムに「平等に」選んだのはないですね。
単純な多数決? だとしても、最も影響力のあるラテン語起源の単語が自動的に優勢になるでしょう。
或いはそうではなくて、最初からラテン語系優先で考えた、とも考えられますね。
ラテン語優先で考えれば、必然的に、その直接後継者であるところの仏伊西の各国語に近くなるし、
英語もラテン語単語の影響が強いのでイギリス人にも好都合。
西洋文明の規範であるラテン語を優先にするなら、違う単語を使っているドイツ人ロシア人も文句ないだろう。
(ドイツ語ロシア語起源の単語は微量取り入れれば、一応平等ということで納得してくれるだろう)

今回、アクセントまで「ラテン語風」に仕組まれていたと、初めて気がついて知って、ちょっとショックでした。
Kanvaさんがkoroはラテン語のcorだと教えてくれましたが、
一音節名詞はラテン語にはありますね。(エスペラントで一音節は代名詞前置詞数詞くらい)
花floro=flos 山monto=mons 平和paco=pax 声voĉo=vox 王reĝo=rex
そういう単語は末尾母音省略することで、音韻面でもラテン語に近づくのだと思います。

日本人の私も、ラテン語基準なら他のヨーロッパ語を覚える時に便利かな?と
最初は安易に考えていましたが、
単語面で妥協すると、歌とか詩とか「文化」に関わることまでも、
西洋文明に対して妥協しなくてはならないんだな、と気づきました。
ラテン語風単語を使ってラテン語風アクセントで歌えば、
立派な「エセ」ラテン語風歌になるしかないでしょう。

日本人エスペランチストが素直に「ザメンホフ先生をお手本に」なんて思って詩を書いていると、
ヨーロッパ人は、「我々の西洋文明が優れているからアジア人が模倣しているのだな」と思うんだろうな。

484ベダウリンデ:2009/05/21(木) 09:56:07
>ヨーロッパ以外の要素を取り入れるというのは、後世の人間がやるべきものだと思います。

おまけで書きますが、エスペラントでは
(エスペラントがヨーロッパ一色から脱するために)アジア人頑張れ、なんて話は普通にありそうですね。
でも、アジアだからって即「団結」できないですよね。
ヨーロッパの基盤は「ケルト、スラブ、ゲルマン」と多様だったとしても、
共通して誇り憧れる「ローマ文化」がありますね。
ドイツは「神聖ローマ」と称し、ロシアも「ローマ帝国の正統な後継者であるビザンツ帝国の、さらにその後継者」を自任してた。

アジアはまとまれるものないですよ。価値観が多様すぎる(そこがアジアの魅力ですが)
中東なんて、「一神教」で、こっちから見るとヨーロッパ的だし。
インドは「多神教」でその点は近いけど、あのあくの強さは異質だなーって思う。
中国韓国は「漢字文化圏」の仲間だけど、彼等「大陸的」。
それなのに「アジアは協力してヨーロッパのエスペラントに対抗しろ」なんて
無理だと思いませんか????

485Kanva:2009/05/21(木) 20:43:30
ベダウリンデさん記:
> ラテン語風単語を使ってラテン語風アクセントで歌えば、
> 立派な「エセ」ラテン語風歌になるしかないでしょう。

そういうことだと思います。


さて、古典サンスクリットの「シュローカ」、プラークリットの「ガーター」に
続いて、アパブランシャ文学以降になって代表的になった韻律は
「ドーハー」です。

サンスクリット以来、インドの韻律には「拍(マートラー)」という
発音の長さの単位があります。
「ドーハー」は、音節数を定めず、主に拍の数だけで決まる韻律です。
(サンスクリットにおける韻律「アーリヤー」などの仕組みと類似。)

拍一つを 0 で表わすことにすると、

000000 0000000, 000000 00000 |
000000 0000000, 000000 00000 ||

という、24拍×2行の韻律(二行詩)です。
(ヒンディー語における「一番短い韻律」と言われています。)
古典サンスクリットの韻律では、脚韻を踏む必要はなかったのですが、
ドーハーは各行末の2音節ずつで脚韻を踏みます。
行末最後の音節は短い(1拍の)音節になります。

こうして、各言語文化圏内でも、時代によって韻律の形が変わっていく
ことがあります。

漢語の場合も、音韻体系が時代や地域によって大いに変わってきており、
平仄の本格的な仕組み(近体詩)ができたのは、中古漢語以降(六朝期)で
あると言われますよね。
仏典の翻訳では脚韻を踏まないなど、ジャンルによる違いも指摘されます。

486ベダウリンデ:2009/05/22(金) 09:02:03
心地よいリズム感というものは、言語や時代によって異なる、ということですよね。
エスペラントが西洋流のリズム感に固執し続けるのは、やはり尋常ではない、と私は思います。
さて、エスペラント詩が「エセ」ラテン語詩から脱却するにはどうすべきだったか、というと、
エスペラントならではの個性を前面に出すことではないか、と思うのです。
単語がラテン語起源なのは仕方ないとして、エスペラントの場合、語尾が極度に規則的だという点は
人工語ならではの個性であると思うのです。
それは既存の民族語の美意識からすると「変化がなく醜い」となるのでしょうが、
個性は、それを恥じれば欠点でしかないですが、堂々と出していればチャームポイントになります。
「何〜ァ、何〜ォ言ってるから、これエスペラントだね」と一般人にも区別できたら面白いです。
タモさんの4ヶ国語麻雀のように、でたらめエスペラント語が言えるくらいの「個性」があったらね、と思います。

それからエスペラントで、詩の分野と散文の分野で、全く異なった語法が使われてきたのは
エスペラントの発展にとってマイナスでしかなっかたのでは?と思います。
ただでさえ人的資源にハンディがあるエスペラントです。
詩へ向けられた「四苦八苦」の情熱が、日常語を豊かにする方向へ向かえば良かったのに。
日常語で使えない詩語や詩的アクセントにいくら磨きをかけたって、それは「無駄な努力」だよ、と思うのです。
「詩人達」が、リズム感ある素敵な言い回しを、日常語で使える言葉のために開発してくれたら、
エスペラントはもっと豊かな言語になっていたのではないですか?

487なつ:2009/06/19(金) 22:10:41
エスペラントはヨーロッパ的すぎる
と思ってましたが、その考えは変わってきました。
ヨーロッパ人にしてみれば、習得の容易さからいけば
格段にインテルリングワです。
エスペラントの特徴は、①恣意的な語彙選定②人工的な造語③共通的欧州語から安易な採用(特に新語)。
アジア人からは看過しがたいのですが(特に③)、
ヨーロッパ人にとってみれば③だけでいくインテルリングワが圧倒的に容易で、
逆に特に②が、エスペラントはうざいし覚えにくいと、こうなるわけですね。
例えていうなら、病院は、malsanulejo=反・健・人・所は、②だから、
ヨーロッパ人にとっては、
覚えにくいからhospitaloでいいじゃん、と③でいこうとおしきることになる。
結局2語覚えなければいけないはめになる。
ヨーロッパの言語が不得手な人にとっては機能語を駆使した造語方法のほうが絶対に覚えやすい。

かたや、インテルリングアは、ハナからhosipital一本でいく。

で、母語または第一外国語がヨーロッパの言語だという人は世界で圧倒的多数だと
すれば、その次に学ぶ人工語は、それにより近いインテルリングワのほうが有利といえなくもない。

しかし、インテルリングワをやるんだったら、いっそのこと英語で十分だという意見が強くなる。
無理する必要はなく、英語でいいと。
以前は、Z氏の時代などは、フランス語、ロシア語、ドイツ語、英語、あるいはラテン語などが肩を並べていた。
しかし、いまは、そういうこともなく少なくとも全ての科学の分野では英語で論文を書かなくてはフランスやドイツの機関でも取り扱ってくれない。
国際的学会はどこの国でも英語でやる。あるいは、一流ホテルはどこでも英語で通じる。
Z氏の時代と違い、小さいころからみんな英語に的を絞ればいいだけということだ。
言語間の優劣争いがない今、それを怠らなければ、言語の不平等はない。
英語使用者と不使用者の間で格差は起こるだろうが、それはどの言語を採用してもそれは起こりうることだ。

488なつ:2009/06/19(金) 22:13:16
加筆。アンチテーゼです。

489ベダウリンデ:2009/06/24(水) 10:19:37
インテルリングワ(インターリングア?)も名目「国際補助語」なんだけど、
設計は最初から西ヨーロッパ(=ロマンス語系)志向なんですね。
「西ヨーロッパ的」なのは最初から承知で、というか、それを目指して作られたんだから、
エスペラントと比較しても意味ないと思う。
世界中の諸民族から等距離で平等ですよ、とか、嘘宣伝してないから、売り方としては公正だと思う。
アジア人だったら「こんなんだったら英語でいいよ」ってすぐ思うから「騙されない」ですむ。
エスペラントは名目が平等をうたってるし、設計としてもそれを目指してはいたんだろうけど、
なにせ「当時の時代のせい」とやらが今でも生き残って、ヨーロッパ色がいつまでも消えない。
自分は「救急車」の英単語を知らなかったから、エスペラントでもなかなか覚えられなかった。
malsanoaŭtoとかにしてくれれば簡単なのに、と思った。
ヨーロッパ人がmalsanulejoを覚えるの負担だと言っても、日本人が「救急車」覚える苦労に比べたらはるかに楽ですよ。
日本人が、これからは「病院」と言わずに「反健人所」と言いましょう、と言われたとしても
大した苦労なく順応できると思います。それと同じです。

490ベダウリンデ:2009/07/01(水) 10:17:57
「エスペラントが自然言語的だから」とか言われちゃうと、元も子も無いんですが、
人工言語なんだから、もうちょっと「不自然に」ぎちぎちと決まりを守ってもらえたら
逆に「平等」になったんじゃないか、とも思いますね。
数百?の基本語くらいなら西欧語起源でも全く構わないですよ。
その程度なら頑張って覚えますよ。
でも、造語で言葉を作らないで、西洋語に-o付けてる例が多すぎる。
まともな文読もうとすれば、そういうのばっかりです。
語源が同じゆえ似て非なる単語も多く、混乱します。
humoroとhumuro、どっちが気質でどっちがユーモアなのか、最初全然分からなかった。
英語でユーモアhumorは気質の意味もあり、古さとしてはそっちなんですね。
ユーモアの古い正当な意味=気質がhumoroで、新しい方はhumuroとして区別。
何とややこしい!!!

あと、造語で作ってるくせに、なぜそうなのか通じない例。
よく言われるeldoniもそうだけど、bonhavo良い持ちって何?と思った。
簡単な単語をつなぎ合わせてるのに、意味不明。
財産、だって、ふーん、なんかこじつけっぽい。
きっとどこかの民族語の熟語から来てるんだろうけど、
その民族の感覚が万国共通とは限らない例ですね。

あー、あとそうそう・・・まだまだある不満・・・

491ベダウリンデ:2009/07/02(木) 08:56:28
最初、ホームページのトップに書かれるbonvenonの意味が分からなかった。
今は分かりますよ。英語で言えばwelcome、日本語では「よく来たね」的な表現。
でも、salutonは挨拶「を」、dankonは感謝「を」、こっちにくれる、という意味。
bonan tagonは好き日「を」、こっちに願ってくれてる、という意味。
bonvenonって、「良い来訪を」こっちに願ってくれている?
既にこっちの意思で来訪してるのに、訪問された側が他人事のように言うのがピンとこなかったです。
bonvoleも「良い意思で」が「どうぞ」になるのは微妙な気がした。

その他、partopreni、voĉdoniは、「答え」を知れば「言い得て妙」なのは分かりますが、
答えを知らずに意味を汲みとれ、と言われたら無理。
vidpunktoは文字どおり「視・点」で、そういうのもありますが。

造語は話者が勝手に作って、聞き手が想像力を働かせろ、というのは無理だと思う。
でも、既存の、上手く出来た造語は、「答え」が分かった後なら覚えやすい。
漢字文化圏なら、意味+意味=別の意味、という熟語の観念に慣れてるから、特に分かりやすいと思う。
逆に西洋人は、そういう習慣が無いから、造語=分かりにくい=
だったらみんな共通認識してるラテン語系単語ですませちゃえー、
となるのだと思う。

492ベダウリンデ:2009/07/02(木) 09:16:50
思えば、自然=自由の世界では、強い者が勝つんですよね。そして不平等が起こる。
平等を求めるならば、何らかの統制が必要なんですよ。
エスペラントは自然・自由な発展を許してきたから、強者であるところの西洋色に染まってしまったんだと思う。
エスペラントにも強力な統制機関が存在して、造語の考案と普及と検閲(?)をしていたら
不平等な西洋語が、こんなにもエスペラントに溢れなかったのではないかな?と思います。
でも、全体主義的な人工語なんて、怖くて誰もやらないと思いますけどね。
なので一長一短ですね。

たまたま、エスペランチストの集合写真を見たんですが、会場はヨーロッパでしょうね。
ほとんど全員ヨーロッパ人でした。彼らでかいから迫力ですよ。日本人みたいにきちっと並ばないし。
アジア人やアフリカ系の風貌の人はいないかな?と思って探したんですが、
アジア系は最後列にちんまり写ってました。存在感うすっ!
エスペラントの現状を表してるな、と思いました。
過去も今もエスペラントは白人主体。
アジア人やアフリカ人は「国際語ですよ」を主張するための、お飾り・おまけにすぎない、と思いません?
もちろん中国は政府の後押しで、日本はボランティアの尽力で、
エスペラント運動頑張ってると思うけど、「蚊帳の外」感がありあり。
韓国はどんな系統の人がエスペラントやってるのか、さえ不明だし。

493ベダウリンデ:2009/07/02(木) 09:27:32
あー、そうそう、「そんなに不満ならエスペラントやめれば?」「他の人工語やれば?」
という声が聞こえそうですが、私には「エスペラントの変さ」が面白いのです。「中途半端さ」「へたれぐあい」が。
そもそも、何かの役に立てようと思って始めた訳でもないのです。
最初の動機から「暇つぶし」として始めました。
ゲームとかユーチューブ見るとか、テレビや読書、音楽鑑賞とか、そういったものの代わりです。

494ベダウリンデ:2009/07/03(金) 10:12:41
エスペラントは「造語力」があるから、数少ない語根で無限に(?)造語できる、とか
どっかで読んだような気がします。
自分も単純に信じ、「それはすごい」と思ったのが、エスペラントに興味を持ったきっかけの一つです。

でも、今は思う。「発想はいい」、けど、十分に生かしきれなかったのではないか、と。
造語のパターンとして、接頭語・接尾語を使ったものと、語根+語根のものがあると思う。
接頭語を使ったものは特に、慣れないと分かりづらいです。
subteni=下で保つ=支持する、elteni=保ち抜く=耐える
substreki=下に線=強調する、subskribi=下に書く=署名
どれも「言われてみれば」分かるけど、自分で想像しろ、と言われたら無理。
でも、西欧語起源の語を新たに覚えるよりは楽だと思し、よく考えたな、と思う。

語根+語根は、○○の××、○○な××、という即物的表現が多い。
partopreni、voĉdoniのように、ちょっとひねった表現は、むしろ少数派かもしれません。
即物的表現は、日本人(あるいは他のアジア人)にも、西洋人にも、分かりやすいと思います。
ですが、熟語に慣れた日本人としては、ちょっとひねった型がもっとあっても良かったかも、と思います。
それによって、西洋語起源の語が「駆逐」できたなら、その方が良かったです。

ザメンホフや創設時の西洋人の仲間達は、熟語を作る能力=想像力が、
「西洋人だから」劣っていたのかもしれません。
例えばridegoが爆笑なら、pensegoが熟考だっていいではないですか。pensetoが軽率、とか。
grandanimaが寛大なら、grandmienoがでかい顔=尊大だっていいではないですか。

でも、今更、今の西欧主義で完成されたエスペラントは変わりませんよね。
平等=自由の原理で西洋人にとって楽な方へと流れ、
劣ったアジア人は西洋人を模倣すべく、必至でそれについていく。

495ベダウリンデ:2009/07/03(金) 10:18:25
×平等=自由
○自然=自由

496ベダウリンデ:2009/07/04(土) 17:46:38
日本語の熟語というのは、和語+和語(高笑い、とか)もあるけど、
漢語の熟語の比率が多いです。
漢語の熟語は音だけでは意味が汲み取れない。
「きゅうきゅうしゃ」と発音しても、漢字知らなかったら意味が分からない。
「れいきゅうしゃ」もあるけど、車の仲間なのに「きゅう」の意味が違ったりする。
漢字で熟語が発達したのは、表意文字を用いるから、短い同音で異なる意味を表せたからかもしれない。
エスペラントは表音文字なので、単語の意味が異なれば音まで変えなければならない。
必然的に一つの単語の音の長さは長くなり、熟語でくっつけばくっつくほど長くなる。
長い=面倒=だったらラテン語系単語が短く言えて楽、となる。
とすると、造語で単語を増やす発想自体に無理があったのかも。

それから、エスペラントは「論理性」を売りにしてるので、
論理的でない感覚的な造語は好まれないのかもしれない。
西洋人社会で慣習的に既に言いまわしている熟語なら、非論理的でも取り入れるけど、
それ以外に想像力を駆使して上手い表現を新しく生み出すまでは、いかなかったのかも。
高笑い=alt/ridoなんて言ったら、高く笑うってなんなの? 意味分からない、と言われそう。
勝ち誇って得意満面で笑うと声が通常より高くなるでしょ、そういう意味って言っても
想像力無い人種には「はあ?」かも。

mok/rido=嘲笑 sub/rido=下で笑う=忍び笑い、はあるみたいです。

497なつ:2009/07/05(日) 12:35:31
>>エスペラントは「造語力」があるから、数少ない語根で無限に(?)造語できる、とか
>>どっかで読んだような気がします。
>>自分も単純に信じ、「それはすごい」と思ったのが、エスペラントに興味を持ったきっかけの一つです
同感です。どの人にも平等で学びやすいというのと合わせて、だまされたって感じです。
それをここで語ると、「まず人を呼び込むことが大事なのだ」というようなことを言われたような気がします。
つまり、ちょっとの捏造や虚偽や甘言を用いて、入ったらこっちのものだと。
あらら宗教団体や左翼団体と同じ発想で悪びれる様子がない。
エスペラント諸団体が左翼団体なんですがね。
話がそれましたが、数少ない語根で造語ができるという思想は特に非印欧語族者にとってとても有意義なはずです。
しかし、実際は数百語レベルまで行くとあとは、ヨーロッパ語を安易にどんどん取り入れているから、覚えるのが結局大変で、自然語とあまり大差はないと気付く。
しかも日本人でも上級者になれば、malを嫌う人が出てくる。
ここの掲示板でもかつて、話されてたんだけど、malを嫌う人が多数で、
どんどん新語を作っていく方向の人たちが圧倒的多数でした。
学びやすいことを考えるとベクトルが全く逆なんですけどね。
malあるいはinoを使うことだけでも、どれだけ入門期に助けられることか。
単純に覚えることが半分です。それをみんな忘れてしまうのだろうか。

統制する機関が必要だったと僕も思います。
が、結果はほぼ同じだったと思います。
例えるならアカデミーオに権力を与えるだけですから。

語彙に関して疑問を呈している方の言葉を思い出しました。
その人の例はmonoteismo(一神教)はunudiismoにすればいいじゃないか。
金茶主義ってなんなんだ、と。
せっかくすぐれた造語法があるのに安易にヨーロッパ語を取り入れて、ヨーロッパ人びいき甚だしいと。
ちなみに、英monotheism、仏monotheisme、伊・西monoteismo、独・羅monotheismus、インテルリングワmonotheismo

498エスペロ:2009/07/06(月) 07:41:19
Esperanto restas post ĉio Eŭropa Lingvo...ĉu...?
エスペラントは、所詮、ヨーロッパ語なんですね・・・?

Aliaj ekzemploj: politeismo(plurdiismo),lano(ŝafharo),murdo(hommoritigo),
dermologo(haŭtokuracisto)...
他の例: 多神教、羊毛、殺人、皮膚科医・・・

499ベダウリンデ:2009/07/06(月) 09:12:09
エスペラントより新しいインターリングアはエスペラントよりも西欧的。
エスペラントの改造板イドも、「西洋人」がエスペラントに対して抱いた未完成感を補う程度の変更だったのではないかと思う。
非西洋人に対しても平等にしようという方向性の改造案は、今まで無かったのでしょうか?
無いとしたら、どうしてなんでしょうね?

日本のエスペランチストさんの発言を読んでると、
「今のままで十分コミュニケーションできるから、今のままでいいんだ」
「エスペラントに不満ならイドに行けばいい。イドは変更ばっかりで結局失敗したが」
「エスペラントに不満なら他の人工語をやればいい。で、その人工語の話者数はどの位ですかな」
「エスペラントって案外難しい。でもそれは自分の努力不足でせいだから、もっと頑張らねば」
のように、エスペラントの批判は全くといっていいほど、しません。

また、不備を指摘されると、
「エスペラントは民衆の物だから、民衆の選択により、不備な点は自然と変わっていくだろう」と言う。
その人個人は既存の語法を模倣してるくせに。超保守的な人が、そのうちいつかきっと変わるよ、と夢見る変さ。

日本人エスペランチストも、詩語や西洋語起源の学術用語を知ってて使える方が偉いエスペランチストなんだ、
ベテランなんだ、使いこなしてるんだ、という認識が強そうですね。
アメリカ上流階級英語が話せる方が、ヒングリッシュ、シングリッシュより偉いんだ、
という認識と全く変わらないです。

500ベダウリンデ:2009/07/06(月) 09:39:40
これは全くの冗談話なんですが、自分がエスペラントを改造するなら、
文法には手をつけずに、造語を大改造しますね。基本的に語根は変えない方針で。
monoteismo->unudiismoは、まだ甘い、なんてね。

エスペラントは「論理性」を売りにいてるから、造語も冗長になりやすいです。
ridindaĵo=笑うべき物、ですが、ここで「べき」なんていらないですよ。
ridaĵoだけで、笑える可笑しい物だって分かるし、他と混同することもありえない。
okulvitroj眼鏡も、長いし、発音が難しい。だったら、okuliloでいいじゃないですか。
目で使う道具で、日用品として頻繁に使う道具なんて、眼鏡くらいしかないですよ。
コンタクトレンズはokuliletoとか、望遠鏡や顕微鏡は特殊な人以外は普段は使わないから
○○okuliloでいい。専門でいつも使ってる人はTPOに合わせてokuliloと言えばいい。

-umiも便利なようで、意外と実用化されてない。
malvarmumiは初心者で習う例だけど、上手く出来てるのは他にplenumiくらい。
okulumi=見る(今は色目を使うという意味ですが)でいいじゃないですか。
目でやる事は見る事でしょう。okulumiĝi=見える。
nazumi=においを嗅ぐ、nazumiĝi=匂う。
orelumi=聞く、orelumiĝi=聞こえる。
piedumi=歩く、krurumi=走る、などなど、

501N:2009/07/06(月) 22:24:06
Saluton, Nです。エス単語はなるべく易しい基本語から造語されるべきで、
ヨーロッパ人特有の「理解」に他の地域のE-istoが合わせる必要はないと
考える1人です。たとえば「subvencio」は「helpmono」のほうがよい、と
か。
後藤文彦氏の「使いたくないエスペラント単語」をお読みください。私も
基本的に賛成です。

http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/trmnr.html

502ベダウリンデ:2009/07/07(火) 09:34:55
>501
>subvencio」は「helpmono」のほうがよい
その通りなんですが、ヨーロッパ人が文書でsubvencioって書いたら辞書引かなきゃならないし、
口頭だったら、その時点で話はちんぷんかんぷんか、
いちいち「今の単語分かりません」って言って、皆の議論を中断させるかのどっちかです。
日本人は遠慮勝ちだから「分かりません」って言うより、「今の単語何だったんだろ」と一人で悩みながら傾聴し続けるだけかも。
現にヨーロッパ人達が何の悪びれもなく使っていて、辞書にも載っている正式なエスペラント単語なので
少数の意識の高い日本人がジタバタしても無駄だろう、と思います。

後藤さんのHPは、初期に検索した時に出てきたので、一部は読んでると思います。
難しい高級語を簡単な造語に、というのは基本賛成です。
問題点として、やはり、日本人が一部で騒いでもヨーロッパ人主体の世界では
焼け石に水、ではないか、という事です。

動物が「鳴く」という単語が、動物毎に異なるのは煩わしいから一つにしろ、というのは、全く同感。
さらに言えば、動植物の名前も削減してほしい。
学名調の呼び名で言わないで、○○鳥、とか、○○猫、とか
ライオンはキング大猫、ピューマはアメリカ大猫、虎は縞大猫、とかでいいよ。
インドは虎しかいないだろうから、「大猫が出たぞー」と言えば、「虎が出た」と思えばいい。

後藤さんのリストには、高級学術語でないものも入っていますが、
庶民が日常で使う用語で、同音の言い方が世界的に広まってるものならば、
わざわざ造語しなくていいと思う。
野球はbasbaloでいいですよ。アメリカの民族的競技としてĵudoとかと同じ扱いでいいでしょう。
basbaloはやり玉にあがってるのに、ĵudo,futbaloは載ってない、というのも恣意的。
operoも民族的芸術の一種なので、そのままでいいでしょう。
西洋語の駆逐という点に厳格になりすぎても、冗長でわずらわしくなる。

503ベダウリンデ:2009/07/07(火) 09:42:18
blinda(めくら)surda(つんぼ)などを改善、には賛成。
未だに使うヨーロッパ人というのは、差別語の問題意識が日本人とは異なるのか、
或いは、差別的ニュアンスがその語には無いのか、よく分からない点です。

それから、詩語もやり玉にあげているのは、偉いと思う。
詩人かぶれのせいで、エスペラントはより難解になった、と。
(言ってやれ、言ってやれ!ですよ)

504ベダウリンデ:2009/07/07(火) 18:15:03
>501
Nさんのコメントは
私の499の「非西洋人に対しても平等にしようという方向性の改造案は、今まで無かったのか」への
返答なのでしょうか? ありますよ、という。

一部の人が個人的に主張してるのは分かりますが、
イドのような「分派」として存在するのでしょうか?
エスペラントの枠内で大人しく主張してるだけでは、
結局多数派の強者に飲み込まれてしまうのではないですか?

それに、subvencioとhelpmonoのような日常語(この例は事務用語)なら方言的バリエーションは許されると思いますが、
高級学術専門用語において、monoteismoとunudiismoのように、同じ内容を示す語が二つあっていいんでしょうか?(素朴な疑問)
下手に2種の言い方を許すと、「我々のはmonoteismoだが、奴らのはunudiismoだ。」と
屁理屈こねて同じものを違ったものとして言いくるめようとするヤカラが現れたりするかも。

505エスペロ:2009/07/07(火) 21:13:02
Mi,tamen,prie argumentas alimaniere,karaj N,Bedaŭrinde...
お言葉ですが、Nさん、べダウりンデさん、私はこの点については別の考えです・・・

Mi mem preferas vortojn 'subvencio','monoteismo','paleontologio','latitudo' al aliaj kunmetitaj vortoj...
私自身、subvencio,monoteismo,paleontologio,latitudo...の言葉の方が他の合成語より好きです・・・

Ĉar mi asertas ke E simple estu komuna lingvo NUR inter eŭropanoj...
kaj mi opinias ke E evitu kunmetitajn vortojn nenaturajn al eŭropanoj...
E ne bezonas prikonsideri parolantojn de ne-eŭropaj lingvoj...
なぜなら、エスペラントは、ヨーロッパ人同士の共通語でありさえすればいいと思うからです・・・
エスは、ヨーロッパ人にとって不自然な合成語は避けるべきだと思います・・・
エスは、非ヨーロッパ語の話者のことを考慮する必要はないと思います・・・

506ベダウリンデ:2009/07/08(水) 10:37:02
エスペロさんのような考えの人(=西欧語由来の単語を好む人)は
実際は、エスペラントの主流派・正統派だと思います。
かつてこの掲示板でエスペロさんと数多くの議論を繰り広げていた某KJ氏は
詩語大好き人間だったと記憶してます。
現実問題として、ヨーロッパ人が書いたエスペラント文はそういう単語ばっかりなので
我々日本人も覚えない訳にはいかないでしょう。

後藤さんやNさんのようなお考えは青臭い(と言っては失礼ですが)理想論として、
結局はまともに扱ってすらもらえないんだろうと思います。
本気でやるなら、イドのように分派を作って、現エスペラントと袂を分かつ位の意気込みでやらないと駄目だと思います。

507ベダウリンデ:2009/07/08(水) 18:39:37
私の場合は、エスペラントをより良く(或いはより正当なものに)しようという改革論ではなく、
どんな語彙群を作ったら、国際語としてより効率的なのかと、
エスペラントを叩き台にして、お気楽に考えている、という次第です。

私は、まず、語彙を、人間界に普遍的なものと、特定の民族から由来しているもの、との
二つに分けたいです。
両者の境は曖昧ですが、民族由来のものを狭い意味で限定し、
それ以外のものを「普遍的なもの」として位置付けると楽です。

民族由来のもの(民族系単語と呼ぶ)は、basbalo,ĵudo,opero,hajko,など、起源が明らかで、名称が一般化されてるもの、です。
キムチ、テコンドーなどは、今エスペラント単語にあるかどうか知りませんが、
韓国流の読み方でエスペラント化してもらって結構。カバディ、セパタクローなどもどんどんエスペペラント化してOK。

それ以外は、一応全部、人類普遍のもの(普遍系単語)とする。
つまり、語源が西洋語でも西洋オリジナルのものだけを指すのではない、と定義する。
西洋オリジナルのものを指す場合、民族系単語の範疇に入る事を明示的に示す。

オペラは、通常、例の西洋式の歌劇を指すものとす。(民族系単語)
京劇をチャイニーズオペラなどと称することもあるが、厳密には西洋のオペラとは異なるので、そういう呼び名は失礼なので別の呼び名を用意する。
operoという単語には、「世界中の民族に存在する歌を伴った芝居」という定義は与えない。
逆にteatroには「全世界の芝居形式のものを指す」と、普遍的な意味を与える。
普遍系単語の組み合わせを用いれば、京劇の固有の名称を知らなくとも、「チャイニーズ歌芝居」などと説明的に訳すこともできる。

現在のエスペラントは、西洋語起源の語を用いていてますが、それが西洋オリジナル形式のものを指すのか、
他の民族にもそれに類するものがあればその語を使っていいのか、非常にあやふやである、と考えました。

例えば、士族階級などは、世界中の複数の地域に存在する(した)でしょう。
西洋の騎士はkavaliroですが、その語は他の地域の騎士類や士族類に用いて良いものかのかどうか。
つまり、民族系にするか、普遍系にするか、悩むところです。
民族系と定義したら、騎士武士階級を普遍的に表す語を考えないといけません。
普遍系と定義したら、今は日本の武士はsamurajoなんて名づけてますが、
同じように世界中の全ての騎士武士階級に名称を与えないといけません。
西洋の騎士を示す名前を新たに考える必要もあります。
それか、民族別呼称は平等に廃棄、か。

508エスペロ:2009/07/08(水) 19:48:59
Mi mem opinias ke E simple estu pure eŭropa lingvo...ankaŭ koncerne ties
vortprovizon,E konsistu el nur eŭropecaj vortoj(ne artefaritaj kunmetitaĵoj)...
私は、エスペラントは純粋にヨーロッパ語であればいいと思っています・・・
その語彙に関しても、エスはヨーロッパ語の単語(人工的な合成語ではなく)だけで構成されるべきだと考えます・・・

Eŭropa Civilizacio(inkl.Nord-Amerikon) jam nun universalas...aliaj mondpartoj
nun enkondukas preskaŭ ĉiujn kulturojn kaj morojn eŭrop-devenajn...ekz.
vestaĵoj,loĝado,manĝaĵo,leĝoj,politika sistemo,sporto,ludoj k.a.
ヨーロッパ文明(北アメリカを含む)は、今やすでに普遍的なものになっています・・・
世界の他の人々も、今や、ヨーロッパ起源のほとんど文化や風習を導入しています・・・
衣服、住居、食物、法律、政治制度、スポーツ、ゲーム・・・

Ankaŭ prie de lingvo,la mondo ne povus rezisti kontraŭ uzado de eŭropa lingvo...
言語に関しても、世界は、ヨーロッパ語の使用に対して抵抗はできないでしょう・・・

La mondo,tamen,ne estus feliĉaj okaze de uzado de lingvo apartenanta al
specifika eŭropa nacio...ili estus multe pli feliĉaj je ESPERANTO,lingvo,
kiu simpligis eŭropecajn gramatikaĵojn sed konsistas el vortprovizo pure eŭropeca...
しかし、世界の人々にとっては、特定のヨーロッパ民族に属する言語の使用はうれしくないでしょう・・・
世界の人々は、ヨーロッパ語的な文法を簡素化したが、純粋にヨーロッパ語の語彙から成る言語、
エスペラントには好感をもつでしょう・・・

509ベダウリンデ:2009/07/09(木) 11:00:50
エスペラントは今のまま西欧志向で続けばいいと思います。
現実的にはそれしか道が無いでしょうし、そこがまた魅力でありますし、いいと思います。

で、私の勝手なエスペラント改造案(エスペラントを愛する人からすると、こういう遊びは不謹慎かな?)
騎士武士階級の普遍系単語は、batalisto,batalistaroがいいかな、と思いました。
kavaliroは民族系単語とし、西洋中世batalistoと説明する。舞台設定が明らかであればbatalistaroのみでOK。
戦国武士は日本中世batalisto、江戸の武士は日本近世batalistoなど。

futbaloはイギリス発祥で世界的に広まっている例の球技とする。(民族系単語)
piedpilkoは、世界各地に存在するであろう、球を足で蹴って遊ぶ競技と定義。(普遍系単語)
futbaloはイギリス式piedpilkoで、蹴鞠・セパタクローもpiedpilkoの一種。
イギリスでのfutbaloの前身でもある競技(町中でボール蹴ってるような競技)も
世界に広まったfutbalo競技とは別扱いにし、イギリス式piedpilkoとする。
現在のエスペラントでは、futbalo=piedpilkoですが、そこをちゃんと区別する。

510ベダウリンデ:2009/07/09(木) 11:14:17
別扱いにし、イギリス式piedpilkoとする。
->別扱いにし、イギリス式旧piedpilkoとする。

511エスペロ:2009/07/09(木) 13:01:25
Mi konsentas kun vi,kara Bedaŭrinde koncerne vian mencion pri vortoj: futbalo,piedpilko...
'Futbalo' implicu la nuntempe vaste ludatan ludon per pilko,dum 'piedpilko' ĝeneralan ludon per piedbato de pilko...
ベダウリンデさんの'futbalo'と'piedpilko'に関する言及には賛成です・・・
'futbalo'は、今広く行なわれているサッカーを意味し、一方、'piedpilko'は、球けり遊び一般を意味する・・・

Nun lasu min ordigi mian propran ideon pri Esperanto kaj lingvo-problemo de la mondo...
ここで、エスペラント及び世界の言語問題に関する私の考えを整理させていただきたいと思います・・・

Mi argumentas pri E NE kiel komuna lingvo inter nacioj de la mondo,SED nur kiel tiu inter-eŭropanoj...
私は、エスは世界諸国民間の共通語ではなく、ヨーロッパ人の間だけの共通語であればいいと考えています・・・

Nuntempe en Aziaj landoj la angla lingvo estas eklernata en baz-lernejoj kaj uzata efektive kiel komuna lingvo inter azianoj...
現在、アジア各国では、英語が小学校から学ばれ、現実にはアジア人の共通語として英語が使われています・・・

Mi mem agnoskas kaj taksas tiun efektivecon...
私は、この現実を認め、評価します・・・

E kiel komuna lingvo inter eŭropanoj...angla kiel tiu inter azianoj...
エスペラントはヨーロッパ人の共通語・・・英語はアジア人の共通語・・・

Sed nur japanoj estas esceptaj...! Japanoj ne bezonas paroli aliajn lingvoj kiel anglaparolantaj
usonanoj...eksterlandanoj uzus japanan lingvon aŭ dungus interpretistojn en dialogo kun japanoj...
しかし、日本人だけは例外です・・・! 日本人は、外国語を話す必要はありません、英語を話す米国人のように・・・
外国人は、日本人と対話をするときは、日本語を使うか、或いは、通訳を雇う・・・

Tio estas mia idealo pri lingva afero prie de Eŭropo,Azio,Japanio...
これが、ヨーロッパ、アジア、日本の言語問題についての私の理想です・・・

512ベダウリンデ:2009/07/10(金) 16:24:19
なるほど、エスペロさんのお考えも分かりますし、結論としては一部賛成だったりします。(過程は違うかも)
エスペラントの魅力はそのヨーロッパ性にあると、私も認めます。
エスペラントは、諸民族に平等でなくてもいいから、是非このままの魅力を保ち続けてほしいです。
(個人的には嫌いな箇所もありますが、あばたもえくぼ、です)
より平等な人工語は、新たに、或いは、エスペラントから正式に離脱して、作るべきです。

ヨーロッパ人がエスペラントを自分達の共通語にするか否かは、
我々アジア人が口出しすべき事ではないと思います。
ヨーロッパ人にとっては分かりやすくて、西欧世界に限れば比較的平等なのに、
なぜ未だに、ヨーロッパ世界でも「変人」がやるものとされているのでしょう?
レルヌの掲示板でも欧米系(国は忘れました)の人が
エスペラントやったら変人扱いされ友達失った、とかいう書き込みが時々あります。
たぶん、思想面に対する偏見とか、何かあって、欧米でもエスペラントってなかなかメジャーになれないんだろう、と思います。

アジア人は既に英語をマスターしてるし、ヒングリッシュとかシングリッシュとか言って
堂々と自分流英語に変換して恥じてません。
そのまま正当英語の権威なんか糞くらえの精神を貫いて、世界に見本を示してほしいです。
それに、アジア人にとっては英語だろうがエスペラントだろうが、どっちも難しい、異質な言語です。
英語なら「自分は英米人じゃないから」という開き直りで堂々と崩せるけど、
エスペラントの方がむしろ「エスペラントらしい表現」とやらを強要される恐れがあります。

日本人は、英語にしろエスペラントにしろ、どっちも苦労するのが目に見えてます。
インド人や中国人みたく厚かましくないから、崩して喋る勇気も無いし。
外国語の得意な人が専門職となり、諸民族の言語を日本語訳してほしいなー、というのが、私の本音です。
エスペロさんのいう「英語を話す米国人のように」はなれないと思うけど。
だって国のステータスが全然違うじゃないですかー

513エスペロ:2009/07/10(金) 17:53:14
Dankon pro respondo,kara Bedaŭrinde...
ベダウリンデさん、レスありがとうございます・・・

E simple estu inter-eŭropa lingvo...sed ankaŭ en Eŭropo furoras anglalingva
hegemonio,kontraŭe rezistas sole francoj,al mi ŝajnas...
エスは、単にヨーロッパ人同士の言語であって欲しい・・・しかし、ヨーロッパでも
英語支配はすごいです・・・これに一人抵抗しているのはフランス人だけのよういに
思えます・・・

Nun mi legas avide libron 'Kolizio de Civilizacioj' de Samuel Huntignton,kie
li montras ke ekzistas 8 diferencaj civilizacioj en la nuntempa mondo,
el kiuj elstaras 'Japana Civilizacio'...! Ĝi konsistas el nur unu sola lando.dum
aliaj el pluraj landoj...
ところで、今私が熟読している本に、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』があります・・・
ここでハンチントンは現代世界のには8つの文明があるといっています。そのうちの1つが、日本文明
なんです・・・! 日本文明はただ一国からなっています・・・他の文明が複数の国々から
なっているのに・・・

'Japana Civilizacio' estas karakterizata de Tennoismo,eliro el religio,eliro el angla lingvo...
’日本文明’は、天皇制、脱宗教、脱英語・・・により特徴づけられます・・・

Ene de Orienta Azio,kaj Ĉinio kaj Koreio...al mi ŝajnas...iras la vojon de evangeliziiĝo,anglismo...
東アジアにおいては、中国も韓国も、キリスト教化と英語化への道をすすんでいる
ように見えます・・・

Kompatinda afero...! Japanio iru unikan vojon de senreligio,senanglismo... mia espero...
哀しむべきことです・・・日本は、非宗教と非英語という独自の道をすすんでいって欲しい・・・私の願い・・・

514なつ:2009/07/10(金) 19:14:03
僕は、ベダウリンデさんと同じ方向だと思います。
僕は普遍的語彙は極力少なくしていく「べきだった」、あるいは、分派するなら、す「べきだ」と思います。
okulo目であれば、視覚作用つまり「見る」はokuliだけでいいと思います。
「見える」「目に入る」を特に言いたければenokuliだとかにするという感じです。
okuloよりも視覚作用は語幹vidが世界共通的なのでそっちを採用してvidiは視覚作用全般の行為を指すとし、
vidorganoが目のほうがいいかもしれません。同じようにaudiは聴覚作用全般を指し「聞く」「聴く」、
耳はaudorgano。語幹は共通的な欧州的語彙を用い造語法は漢語的にいくわけです。
(organoを付けるのは冗長なら短い語を考えるのも手です)
猫科のライオン、トラなどをkategoに統一するのもとてもいい試みだと思います。


エスペロさんのようにエスペラントを共通ヨーロッパ語だと割り切ろうとする考え方
であるのなら、いっそのことインテルリングワを選択したほうがヨーロッパ人は習得が
早いという現実があります。

515ベダウリンデ:2009/07/11(土) 10:11:48
エスペラントとは不思議なものですね。
私は最初「人工語とはどうあるべきか」なんて一切考えなかったけど、
エスペラントの不完全さを知ると、改善したくなってしまう。
ミニマムな語根で、世界中の物事をもらさず公約数的に網羅できる人工語なんて、
人間には作る能力は無いのかもしれないけども、それでも考えてみたくなる。
人類共通の国際語にならなくてもいいから、知的挑戦としてやりたくなる人々の気持ち、分かります。

そういう点で、エスペラントを叩き台にしつつ、既存エスペラントの枠を崩す試みって
あってもいいんじゃないかな、と思います。
名前はNEPO=孫なんでどうでしょう。IDO=子ならぬ。コードネームNova EsPerantOの略です。できすぎですね。
子は親に反抗しただけで中途半端に終わったけど、
孫はお爺さんとお父さんから「いいとこどり」をしつつ、しかも縛られない。
世界的視野と現代性は、祖父や父に比べたら桁違い、という。

516ベダウリンデ:2009/07/11(土) 10:23:24
monoteismoとunudiismoに関しては、いっそ、mono=単一、teo=神、と
語根の意味を変えてしまえばいいんじゃないか、と思います。
現エスペラントのmonoお金はmoneoとし、teoお茶はĉaoとでもする。
polio=多数、も語根とする。
そうすれば、学術用語として広まってるラテン語との矛盾も解消されます。

517ベダウリンデ:2009/07/13(月) 09:52:23
あと、エスペラントだと、感情や言論に関する語の分け方が、(例:後述)
日本語と非常に異なっていて、複雑だな、と思うんですよ。
そういう語彙の設定基準って(私は他の言語知らないから比較できないのですが)
ヨーロッパ語に準じてるんじゃないか、と思わざるをえないです。
物の名前は完全にヨーロッパ基準なので、抽象的な語も当然そうではなかろうか、
それ以外の基準をザメンホフが思いつく訳がない、と思うのです。

となると、エスペラントを使うという事は、抽象的な思考の基準までヨーロッパ的に頭を切り替えなければいけないので、
他民族にはつらいなーと思うのです。
ヨーロッパ的思考=論理的=正しい=世界が見習うべき基準、だなどと、ヨーロッパ人やエスペランチストが考えているとしたら、
私はそれには反対です。

感情を表す語なども同様に複雑なので、現代心理学とか応用して(って、私は知らんけど)、
全人類共通的に、もっとすっきり表せないものか、と思います。

518ベダウリンデ:2009/07/13(月) 18:08:52
例えば、の例。
エスペラント語のkonvinkiとpersvadiってあるんですが、前者、後者を順に、各国語で訳しますね。
日)(論理や証拠によって)説得する, 説き伏せる・・・・・説き伏せる, 説得する, 納得させる(参考:実用エスペラント小辞典)
英)to persuade, to convince・・・・・・・・・・・・・・to persuade           (参考:Lernu!vortaro以下同)
仏)convaincre・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・persuader, inspirer (faire naître)
独)überzeugen・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
西)convencer・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊)convincere, persuadere・・・・・・・・・・・・・・・persuadere
露)убедить・・・・・・・・・・・・・・・・・・・убедить, уговорить
ポーランド)przekonać・・・・・・・・・・・・・・・・・przekonać, perswadować, nakłonić, wmówić, namawiać
フィンランド)vakuuttaa, saada uskomaan・・・・・・・・suostuttaa, suostutella, taivuttaa, taivutella; vakuuttaa, saada vakuuttuneeksi
中)說服/说服・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・說服/说服

日本語では両方「説得する」。一応説明では「論理的か、そうでなくてもいいか」の区別はあるが、
日本語で「説得する」という場合、論理的方法でのみ行うか、或いは、それ以外の策も動員するかは、あまり意識されない。
中国語でも両者は同じ訳語である。(他のアジア語も見たが辞書が未完成なのか表示されない場合が多かったので諦めた)
西洋語では、どちらかが他方の意味を含んでいる場合もあるが、中国語みたいに全く同じ訳語のものは無い。
つまり西洋語では、どう説得するかというのが非常に重要なようだ、と分かる。
日本人は、論理面も感情面でも両方駆使して説得するのが普通なので、
(いくら正しい事を言っても、先方に生意気だ・礼儀知らずだ、とか思われたら、説得できないので、
無意識に或いは論理的根拠に基づき人間感情まで把握した上で説得するのが普通)
今の説得が論理面のみか否かなんて考えられないので、西洋的区分って難しいな、と思いました。

519ベダウリンデ:2009/07/15(水) 10:06:30
今のままのエスペラントだと、自分なんかだと、常にpersvadiを使用すべきなんでしょう。
(いつもいつも理詰め一辺倒で説得したりしてないので)
でも、単語としてはkonvinkiの方が「必須単語」なんですよね。
初心者として覚えやすいのもkonvinki。
上位概念と下位概念ってあるみたいですが、下位の方が必須って変ですよね。
エスペランチストになるなら、脳内改造して常にkonvinkiする人間になるべきでしょうが、
そんなのは嫌だし。。。

新世代エスペラントNEPOでは、
「ありとあらゆる言論上の策を駆使して説得」という上位概念の語根を作り、
「論理で説得」はその下の概念として、「説得」という語根を用いた造語で表現したいものですよ。

520ベダウリンデ:2009/07/15(水) 18:20:22
しかし、非ヨーロッパにシフトした新エスペラントが仮にあったとしても
流行るかどうかは、非常に疑わしいですね。
現エスペラントが「成功」したのは、ヨーロッパ人に分かりやすかったからでしょう。
なんだかんだ言って、ヨーロッパ人種は現代社会の勝者です。
彼らの応援を得られなければ、この世界では、何一つグローバル化しないでしょう。
仮にザメンホフが超天才で、真の意味で全民族に平等な言語を作っていたとしても
周囲のヨーロッパ人から「分かりにくい」と言われて、支持を得られなかったでしょう。
その意味では、真に平等な人工語とは、決してかなえられない永遠の夢なのかもしれませんね。

エスペランチストって「英語帝国主義が云々」とよく言いますが、
なんでイギリス・アメリカ(&カナダ・オーストラリア)だけを責めるのかな。
彼らが今、地球上で最大の権力を握っているのは確かですが、それは、
ヨーロッパ各国が対等に競争した結果の最終勝者だからです。
エスペラントが多くの語根を取っているロマンス諸語の、フランスやスペイン、ポルトガルだって
イギリスと同じように植民地政策をしたではないですか。
たまたま競争に負けた、というだけで、「罪深さ」は英米と何ら変わらないです。
ドイツ、イタリア、ロシアも、たまたま出遅れましたが、必死で後を追ってました。
(日本までつられてしまいましたが)
そういうヨーロッパ的な「価値観」のせいで、新大陸先住民、アジア、アフリカの人々がどれだけの苦しめられたか。
それなのにどうして、ヨーロッパ文化以外の何物でもないエスペラント語を
アジア人やアフリカ人までが「平等な言語」だと思わなければならないのでしょう?
本当は差別されてるのに「差別されてません、私たちは平等なんです」と言ったとしたら、
喜ぶのは差別してる側だけです。「奴隷根性」という言葉がぴったりです。
英語なら、いいんです。誰も英語が平等な言語だなんて思ってない。
英語が現代の勝者だから、順応したり、利用したりしてるだけです。
嫌々英語をマスターしたからといって、その場合、心まで奴隷になっているのではないです。

エスペラントも「ヨーロッパ人向けの人工語として、趣味嗜みとして」やるだけならいいけど、
本気で「平等だからやってる」なんて思ってる人がいたら、相当悲惨だと思う。
言語として不平等云々だけでなく、
残虐な植民地政策に行き着いたヨーロッパ文化を「地球上の普遍の価値」として
あがめなければならない事が、非常に屈辱的だと思う。

521なつ:2009/07/16(木) 19:04:17
アルカ語の作者兼宣伝マン兼唯一の使用者(別れた女房除く)であらせられたS氏がそのサイトで、

人工言語を作るのであっても絶対にどこかの価値観を基準にしなくては作れない。
エスペラントが細々とではあるが、こんなに続いているのはヨーロッパの価値観を基準においたからにほかならない。
アルカ語はその価値観の基準からまず仮想的に作り上げたんだ。
というようなことを言っています。
これはもっともなことかもしれません。
が、それに挑戦するというのも面白いでしょう。

「説得する」についてはもっと上の概念を使ってもいいかもしれません。
「受け入れられるように説明する」という具合に2語使用する感じです。
さらに「説明する」も「詳しく言う」とすることもできるかもしれません。
上位概念下位概念とその語彙の有無について、以前、「麦」についてありました。
これについては、さらに上の、「稲、トウモロコシ、麦」を含んだ概念の語を作る。
アジアをつけると稲・コメ アメリカをつけるとトウモロコシ パンをつけると小麦 酒をつけると大麦
というように接辞をつけて表すのはどうだろうか。

一度、改良してもいいというタガが外れると、文法まで手を付けたくなる。
形容詞の格変化は本当に必須か?目的格nは本当に必須か?受身をもっとわかりやすくできないか?
英語にはないような条件形、命令形はことさら必要なものなのか?
あるいは、sesとsep、miとniは分かりやすくしないか?
いっそのこと複数形のjをsにしちゃったほうが共通的でいいのではないか?
いや、単複の区別が明確なのはヨーロッパ的で複数形なんてなくてもかまわないとなるか?
などなど
どこまで文法に手をつけるか、まさにIdoの二の舞のようになりうる危険性をはらんでいる。

522ベダウリンデ:2009/07/21(火) 10:56:47
自分がもし、文化的に偏らない人工語を作ろうと試みたとしても、
無意識のうちに日本文化に依拠したものになってしまう可能性大です。
でも、エスペラントがあまりにダメダメなので、なんとかならんものか、とつい考えてしまうんですよね。

「麦」に関しては、そんな感じで、語がまとまってたら楽ですよね。
「主食穀物」という概念語を作り(仮に「greno」とする)、世界のどの地でも、自分たちの主食穀物をその名で呼んでいいものとする。
日本で「greno」と言えば「米」。ヨーロッパで「greno」と言えば「小麦」。日本で「小麦」と言いたければ「西洋greno」と言う。

ある特定の地域においては、植生とか動物の生態系として存在する種は限定されている。
世界中の全種類の動植物が一斉にそろっている地域は、本来存在しない。
現代は、世界各地の植物が栽培されたり、帰化動物となっている場合があるが、
その場合でも「他所から来た新しいもの」として認識されてるので、各々の地で語が混乱することは無いでしょう。

「歌声のきれいな鳥」と言えば、各地域・文化毎に、ある特定の鳥が連想されるのだと思う。
学名に従った名で言われると、その時点で辞書のお世話にならざるをえないし、
それがどんな特徴を持つ鳥なのかまでは、辞書に書かれてないかもしれないし。
「歌声のきれいな鳥」という概念語があれば、実際の鳥の種別なんて気にする必要無く、
すぐにイメージが浮かぶ。

この方法では、世界の各文化圏で、概念語のひとつひとつに何を定義するか決めていく必要があります。
自分たちがどの文化圏に所属するか、或いは、独自の文化圏として独立するか、も同時に決めなければならない。
世界共通語を作る事は、自分達の文化の個性を逆に意識する事なんだなーと思う。
エスペラントは「西洋=普遍」と思いこんじゃって、それが個性だと思ってないのが欠陥ですね。

本などを書く場合、所属する文化圏コードを併記する必要も生じますね。
概念語と民族語約対応表も文化圏コード毎に必要ですね。
さらっと本読んだり、会話したりしてる分には、対応表は全く必要ないけど、
学術的に詳しく掘り下げたい時必要。

523ベダウリンデ:2009/07/21(火) 11:23:33
ところで、熱心なエスペランチストさんに限って、エスペラントが平等である、と主張する。
少なくとも、「現時点では言語差別を解消する唯一の手段である」、と主張する。
つまり、消去法とはいえ、「差別」を解消して「平等」にするのはエスペラントしか存在しない、と主張してる。
全然平等じゃないのに、なんでだろ、と思ってました。

食品偽装とか不当表示とか、ああいうのって、社のトップクラスは確実に偽装と知ってて、
知ってるからこそ真実をひた隠しにし、「我が社は安心です」と強調する。
(で、ばれたとき、知りませんでした、と弁明、まさか)
エスペラントもこれに似た所があって、
「平等だ」と強く言う人に限って、「不平等だ」という真実を一番良く知ってるのかもしれない。
「エスペラントってもしかしたら不平等かも」なんて思ってるのは素人のアマちゃんかも。

524ベダウリンデ:2009/07/23(木) 18:00:28
エスペラント改造論で避けて通れないのは、riismoとiĉismoでしょう。
21世紀の今現在、職業肩書にまでいちいち-inoを付けるとは、ヨーロッパエスペランチストって保守的なんだな、と思います。
アメリカでは-essは付けない方向にどんどん進んでいるらしいのに。
日本でさえ、看護婦が看護師になったり、職業名での男女差別は無くなったのに。

iĉismoはデフォルトを性別不問とし、男性を明示する場合は-iĉoつける、というものですが、
チョ、の音はいただけませんね。プレジデンティーチョって、馬鹿にしてんのか、という感じです。
他の案として-unoというのがあるらしいのですが、こっちの方が気が利いてます。
プレジデントゥーノ&プレジデンティーノ。いい感じです。
edzo=配偶者、edzuno=夫、edzino=妻。美しくきまりますね。こんなエスペラントだったらどんなに良かったか。
まあ、こんな気のきいた案も、超保守のヨーロッパエスペランチストの前では鼻であしらわれて終わりなんでしょう。

525ベダウリンデ:2009/07/23(木) 18:14:25
エスペロさんも他のレスで福島瑞穂党首の事をPartiestroって書いてたし、
日本人は、いちいち-ino付けるのが煩わしかったりするんだと思います。
日本語や英語では「友達」「friend」は男女問わないのに、amikoというと男になるのが現エスペラント。
日本人の女の子が「amikoのとこに泊ったよ」と言ったら、女友達か男友達か、非常に気になるところ。
女の子は日本語の感覚で女友達の意で言ったのかもしれないのに、
西洋人のエスペランチストの彼氏は「浮気だ〜!」と大揉めかも。
boyfriend=恋人の意となるアメリカ人の彼氏だったら、amiko=boyfriend=恋人、となり
がびーん二股だったのかー、となってしまうことでしょう。
エスペランチストは大変ですね。ビヤリストク行ってる人達、恋人探し、頑張ってネ

526なつ:2009/07/23(木) 19:34:38
ベダウリンデさん。
それはちょいと違うと思います。
エスペラントはフランス語から採用された語彙が多いですが、
まあ、それは置いといて、
フランス語では女性の名詞は男性の名詞にeをつけます。
これは、エスペラントが名詞にinoをつけて女性の名詞にするのと全く同じです。
amikoにしても、フランス語で、女性が mon ami (mia amiko)というと
恋人を意味します。
ヨーロッパ人は機械的にエスペラントに言語変換するから、
単にヨーロッパ的鈍感さとでも言ったほうが、いいと思います。
昨今の、日本の男女の職業名が同じにするヒステリックさは、
一種のアメリカ化、アメリカのぱくりだと思います。
看護婦と看護士が看護師と同じなったというのは別に男女差別解消には当たらないと思います。
「婦」を嫌う女性団体(もと婦人団体)の影響のほうが強いのではないかと思われます。
ただし、僕も差別抜きにして、中性名詞→icxo男性、ino女性 主義には賛成です。
Idoではたしか、男性はuloだった気がしますが、unoはどこからなんでしょうね。
東北なまりだとどっちかわかりませんね。いや、日本人の口をすぼめないウをuだと受け止めないにくい民族もいると思いますし。
riismoでどうしてriなのか、という理由はヨーロッパ人がrはどの代名詞にもない子音かつみんな発音上問題ないでしょ?
という理由だったのを思い出します。riismoも結局はアジア人差別なんですよね。日中韓は全体からの使用人口何割と思ってんだ!です。
僕はicxoでも、unoでも、(あるいはuloでも)どれでもいいのですが、
すぐ分裂するIdo諸派の末路です。
それが、響きが原因ならなおいただけない。チョの音がいただけないというのはものすごく偏った主観による結果です。
チョは全人類が聞いて全員がバカにしてるのか、という感じがするとお思いなのでしょうか?
それを言い始めたら複数形はojじゃなくてosのほうがいいし、女についてはinaのほうが響きがいい
段々こうなります。coという音も気に入らないし、gxoとjxoの区別も気に入らない。
jじゃなくyで、oの前はkじゃなくcのほうがいい。
結局「友達たち」は「amicos」「女友達」は「amikina」がいい話になる。

527ベダウリンデ:2009/07/24(金) 12:27:15
>ヨーロッパ人は機械的にエスペラントに言語変換するから、
>単にヨーロッパ的鈍感さとでも言ったほうが、いいと思います。

私もそれは考えました。男女差別云々ではなく、単純に「母語の影響」か、と。
日本人が、日本語で男女区別しない語に-inoを付けるのに違和感があるように、
ヨーロッパ人は区別しない事に違和感を感じるのでしょう。
「男女区別をするヨーロッパは日本より男女差別が多いのか、多くないだろう」とか
「ヨーロッパは男女差別が無いから男女区別しても差別にならないのだ」とか
色々理屈はありますが、そんな事とも一切関係なく、「単純に母語の影響」でしょう。
アメリカはウーマンリブ運動とか激しそうだから、それで職業名の男女差も無くされたのかもしれないけど、
それ以前に、英語には男性名詞女性名詞の別が無いから、それが可能だったのかもしれませんね。

エスペラントに関しては、今のように「ヨーロッパ人の言語」である場合は今のままでいいのですが、
仮にも「未来の地球語」を目指すなら、「デフォルト=男性」は「非科学的」でふさわしくない、と思います。
生物の種としては同じなんだから同じ語で表し、男女の概念はその下に対等に並列させるのが、
「科学的」で「美しい」と思います。

>チョは全人類が聞いて全員がバカにしてるのか、という感じがするとお思いなのでしょうか?
日本人の私が聞いて「チョはやだな」と思いましたが、
ヨーロッパ人も「チョはなめてる」と思うんじゃないでしょうか?
だって愛称で使われる形と同じなんですよ。
「音が汚い」だけの話ではないです。

>複数形はojじゃなくてosのほうがいいし
それでは動詞の未来形と同じです。
音の美感だけでなく「かぶらない工夫」も必要です。
私は最初にチョじゃない別のいい言い方を自分で考えていて、-ikoって思いついたんですよ。
セニョリーチョは不細工だけど、セニョリーコならイケテル感じ?(by日本人)
でも、公式じゃないけど、-ikという接尾辞的なものは既にあるんです。英語でいうところの-ic。
なので-ikoは諦め、その後-unoという候補が既にある事を知り、それいいね、と。
他にもいっぱい候補があった中、自分的に-unoがベストでした。
http://bertilow.com/pmeg/vortfarado/neoficialaj_afiksoj/sufiksoj/ich.html

>riismoも結局はアジア人差別なんですよね。
代わりにhiismoもあるらしいので、私はそっちがいいと思いました。

分裂云々は置いといて、idoの二の舞を踏まないよう、
より良い改良をじっくり考えて、その後に変更不可で普及するといいと思う。

528北辰:2009/07/24(金) 13:29:02
> 日本語や英語では「友達」「friend」は男女問わないのに、
> amiko というと男になるのが現エスペラント。
これは認識を改めてください。「エスペラント日本語辞典」(JEI) ではどう
なっていますか。日本語と同じ「友人」です。性別に関係なし。
> amiko というと男になる
使い方をしている言葉はヨーロッパのあちこちにあるようですね。
その習慣が抜けずにエスペラントでも そう理解する輩がいるが困ったもの。
ま。言葉は生き物、使い方で対応できる。エスペラントはその点便利。
> 女の子が「amiko のとこに泊ったよ」
と言うとき、誤解されたくないなら amikino を使えばいい、だけのこと。
なにも 大変なことは ありません。

529なつ:2009/07/24(金) 18:54:18
ベダウリンデさん、へへへやはり根本的に同じ考えだから議論も建設的で面白いですね。
さて、「チョ」は僕も主観的な意見では「へん」です。英米人やフランス人もそうだろうと思います。
ただ、スペイン人、中国人、韓国人はどう思うのかなあとは思います。
別の角度からみて例えば女性形をinjoにしたらどうでしょうか?別にいいと思います。
つまり、愛称のicxoだからではなく、やはり語感からchoはちょっと。。。と思うのだと思います。
個人的に仮に替えるとなると、usoはどうかなと思います。ラテン語で男性名詞の多くがus語尾ですから。
複数形をsだ云々はそれに伴う響きの話で僕自体はsがいいとは思っていませんが、
エスペラント発表当初はsにすべきだという意見が多数あったみたいで、こう書きました。
ちなみにインテルリングワでは複数形はsで、未来形は語幹にraです。(過去形は語幹にva)
「響き」「聞こえ」を重視する危険性を述べたいのはそれが全人類共通ではなく、ある集団の主観的だということです。
例えばIdoは改造するというタガがはずれた結果むやみやたらに語そのものを変えて行きました。
Bon juro(仏:ボンジュール)こんにちは。E vu?=kaj vi?(仏:エヴ?全く同じ)と、あからさまに某氏(フランス人)は、フランス語に近づけました。
それ以上に、聞こえすなわち自然言語に近い聞こえとすれば、インテルリングワです。
エスペラントはインテルリングワに一線を画すように、簡単かつ合理的であるほうがいいと思います。
一番の天敵が「自然言語に近い」「聞こえ」だと思うのですが。

530なつ:2009/07/24(金) 19:16:13
響きから別方向。
幸福がfelicxoというのは、良くはないのではないでしょうか?
英、仏はfeliksoが聞こえがいいと思うのではないでしょうか?

北辰さん。
そうですねえ。確かにJEIの見解ではamikoは中性的に「友人」みたいですね。
そしてjapanoも中性的に「日本人」みたいです。あくまでもJEIの見解では。
しかし、主流派すなわちヨーロッパ人はjapanoは男だと解する人が多数ということはありませんか?
僕は、そう「アメリカ人(にもかかわらず)」に言われたことがあります。
フランス人は男性名詞にeをつけて女性名詞を作りますからその応用です。
ただし、そのアメリカ人にstudentoは男女をさすといわれました。

JEIよりも中級ヨーロッパ人の意見のほうが残念ながら重要だという現実があると思います。
JEIのエス日辞典では、独自の意見を入れずに①友人②男の恋人・・・ とすべきだったと思います。
実際は①友人②味方③愛好者、なんと恋人という意味がありません。
これは正直誤解を生むことになると思います。

531Raku:2009/07/24(金) 19:56:02
Reta Vortaroではamikoは次のとおりです。
Persono, amata kaj amanta, kiu estas korligita kun alia pro inklino sed ne
pro seksamo, nek pro familianeco: ne riproĉu vian amikon [1]; amiko en ĝojo
kaj ploro[2]; amikon montras malfeliĉo[3].
http://www.reta-vortaro.de/revo/

PMEGによればamikoはneŭtra radikoです。
http://bertilow.com/pmeg/gramatiko/o-vortoj/seksa_signifo.html

532なつ:2009/07/25(土) 01:58:49
なるほど、ありがとうございました。
つまり、僕とベダウリンデさんは、共通的に同じ勘違いをしていたということになりますね。
これがヨーロッパ人に通用するかどうかわかりませんが。
ちなみに、Reta vortaroのfrancaの所では、〜oは、amiだとしています。
これでは、フランス人に誤解を招くかもしれません。まあ、下は予備参考程度でしょうが。

話がそれるかもしれませんが、
sinjorinoについて、JEIエス日では、「最近は未婚・既婚を問わず成人女性への敬称として使われる」とします。
reta vortaroでは「Gxentila titolo uzata por edzinigxintaj virinoj」だとします。
ザメンホフ自身はreta vortaroのように解していると思います。
今の日本人は敏感ですから未婚女性にsinjorinoを使う傾向でしょうが、
ヨーロッパ人の若い未婚女性にこういうと、「結婚してません!」と少なからずなるのではないでしょうか。
とにかく、ヨーロッパ的価値観をどこまで廃することができるか、廃していいのか、
は今後も課題になっていくでしょうね。表面に現れているものは、いいですが、潜在的な細かな所は難しい問題です。
日本人と中国人が、英語で会話をするときは、価値観は英米のものに依拠します(誤解はつきものですが・・・)。
しかしながら、日本人と中国人がエスペラントで会話をするとき、その価値観はどこに持っていくか、エス大会、親善会ならいいですが、
大きな理想としての国際会議、科学分野の論議などの侃々諤々の舞台で果たして成り立つのか、面白い課題になりえます。

533ベダウリンデ:2009/07/25(土) 11:48:58
>響きから別方向。
>幸福がfelicxoというのは、良くはないのではないでしょうか?

はい、それは気になりません。
ということは、私が「チョは変だ」と思ったのは、「音の響きが変だ」と思ったのではなく、
子供に使う愛称形と同じ形だから、馬鹿にしてる感が感じられて変だ、と思った事が分かりました。
もしエスペラントの愛称形が〜チョでなかったならば、変に思う理由も無かったかもしれないです。
女子の愛称が〜ニョでなければ、セニョリーニョで全く問題ありませんが、
もしも愛称と同じ形が女性形接尾辞として採用されていたならば、ますます「女性差別言語」と言われてしまったことでしょう。

しかし一方で、ザメンホフが愛称形に〜チョや〜ニョを選んだのにも理由があるように思います。
ヨーロッパ人にとっても、いわゆる拗音や軟音の類が、かわいらしく感じられるのではないか、と。例:ロナウド->ロナウジーニョ
女性が-inoになったのも、-onoや-unoよりも「女性的な語感」をザメンホフが感じ取ったからではないか、とも思ってます。
その感覚が万国共通ではないにしても、例えばアラビア語で「あなた」は、男性なら「アンタ」女性なら「アンティ」となる例もあるので、
イ音って女性的なのかな、と思ってました。
ザメンホフ作の現エスペラントも、意外と音の感覚を考えていたりして、と思います。
ただしIDOのように、個人的な音の美感だけを頼りにした改造案は、
なつさんのおっしゃる様に、結局自滅へと向かうのでしょう。
改造にあたっては、美感より合理性、というのに賛成です。

534ベダウリンデ:2009/07/25(土) 12:16:43
amikoに関しては、ReVoやPMEGなど、正式見解としては中性なんでしょうが、
使われてる実態としては、果たしてそうなんだろうか、という疑問があります。
amikoが性別不問なら、男子が「amiko の所に泊ったんだ」と彼女に言う場合、
誤解を避けるためにはviramikoと言うのでしょうか。実際そう言ってるのでしょうか?
vir-という言い方は、自分の感覚ではオス○○という感じがします。
みんな本当にそんな言い方使ってるんですか?

amikoが中性であれば尚のこと、-iĉo(-uno)という接尾辞は絶対必要ではないかと。
それが存在しないというのは、amikoは男性である、と実際には多くの人が認識してるからではないか、と。
ReVoでも、amikoの下にamikinoという語が別にある。すると、amikoは男かな、と思いませんか?
その下にはkoramiko とkoramikinoという語が並んで載ってます。
なんで男の恋人を指す単語が存在しないんですか?
男の恋人はvirkoramikoなんですか?

535ベダウリンデ:2009/07/25(土) 15:38:13
エスペラントは共通文化が無く、従ってコンセンサスも無く、
各自が各自の判断で勝手気ままに語を使用している、というという感は否めません。

viramikojをgugliすると、140件使ってます。
amikinojは34,600件。geamikoj=221,000件。amikoj=799,000件。
女友達の頻度に比べ、男友達は異常に少ないです。
geamikojの使用者は、amiko=男、という前提の人です。かなり存在します。
amikoj使用者には、amiko=男女、と、amiko=男 と両方入ると思いますが、参考までに。

ちなにみ自分の感覚ではhomo、personoは中性なんですが、
世の中にはいるんですね、homino、personinoを使う人が。
そういう人にとっては、homoもpersonoも男なんでしょう。

PMEGでは中性ですよといくら正論を吐いても、世の中一筋縄ではいきません。

536ベダウリンデ:2009/07/25(土) 18:43:09
PMRG該当項目読みましたが、納得いきません。以下、要約。

エスペラントでは人間名詞(仮称)は基本、中性語根で、
明らかに男(viro,sinjoro,knabo..)と家族関係(patro,frato...)と
高貴な身分(reĝo,princo...)と一部宗教者のみ男性語根。
女性語根はdamo,megero(性悪女),putinoなどなど特殊な語のみ。

男性語根が女性の時は-inoを絶対つける。(virino,patrino)
女性語根が男性の時はvir-を付けるが、実際にはありえない。
中性語根は、男性を明示する場合はvir-、女性を明示する場合は-inoを付けるが、それは義務ではない。

女性の時には常に-inoを付け、男性の時は必要である場合であってもvir-を付けない人がいる。
論理的ではないが現実的である。しかしほんとは中性なんだよ、と。

民族的慣習に従い中性語根を男性語根のように扱うもよし、中性として扱うもよし。
人によって、性を明示する重要性も異なるし。
でもさ、改造しようとすると、却って混乱するんですよね。
言語が差別するんじゃないもん、差別するのは人間だもん。
過激な改造派はいるけど、幸いにもそういう人はエネルギーの無駄遣いだね。

以上、要約終わり。

感想:エスペラント終わってるな、と思った。
だって、みんながamiko=男と勘違いして、それでエスペラント界がトドコーリなく流れてるのは、
そっちの方が自然だからであって、どうしてそれが自然かっていうと、
vir-に対して女性を表す語根が存在しない、-ino に対しする男性接尾辞が存在しない
というのは「醜いアンバランス」だからです。
-o=男女、-ino=女、=男は存在しない、より、
-o=男、-ino=女、の方がエレガントだからです。

537北辰:2009/07/25(土) 20:07:17
amiko に限らずヨーロッパの多くの言葉で名詞の「性」があり、複雑怪奇な
文法規則をもっています。国際語をめざすエスペラントは、こんな無用なものは
廃止しました。しかしその「性別名詞」になじんだヨーロッパ人は その母語の
癖が出やすい点はあるでしょう。(日本人も同様、心すべきもの)
 そういう点も考慮してか、PIV(2002) では amiko の説明を3通り示し、
1.男性と理解する場合、2と3は 性別を問題にしない「友人」です。
「男性と理解する人もいるよ」と注意を促しているのでしょうか。
心得ておけばいいこと、それに迎合する必要はありませんが。
 不合理な「名詞の性」を廃止したエスペラントの実用は 日本語のように
「一般的には性別なし、必要なときは示す」方向に行くべきです。
ヨーロッパのあちこちの変なクセは あまり持ち込ませないほうがいいですね。
そのほうが、我々(日本人、アジア人)に わかりやすいエスペラントになります。
恋人? amato, amatino で充分と思うが? 変化つけたければどうでも
やってみたら? だれか外国人と話して困ることありました?
 Rakuさんの Reta Vortaro は昔の Plena Vortaro と同じですね。
(amiko は性別なし です) PMEG も同じ。不合理は排除、の方向か。
誤解がありそうなら、どうでも説明すればよし。質問もよし。
> 「amiko の所に泊ったんだ」と彼女に言う場合、
> 誤解を避けるためにはviramiko --------------- ??
日本語の「友達、友人」は性別指示なしだから、こんな問題は日本人の方が
慣れているでしょう。あなたならどう説明していますか?
それをエスペラントで やればいい だけです。
「だれだれ君のところ」とか、「そいつ、どこで知り合った、こんな奴」とか。
viramiko なんて変な言葉を使われたら「ン? さては?」と感じそう。
> 「amiko の所に泊ったんだ」
に 探りを入れるなら
C^u la amiko estas sinjoro de via ag^o?
あたりから始めますか。

538ベダウリンデ:2009/07/26(日) 06:27:40
エスペラントでの正式見解がどうれあれ、viramikoは滅多に使われないというのは事実なんでしょう。
そもそも、viro->virino、patro->patrinoにしたのが間違いです。
それを見たら、エスペラントの人間名詞は男性が基準で、女性には全て-inoを付ける、と
普通に思いませんか?
むしろそのほうが「合理的で論理的で例外ない」と思います。

それに「エスペラントは生きてる言語だから、多数派が支持すれば変わっていく」と言われますが、
amiko=男、は、事実上の多数派だと思います。
ならなぜ、そのように変わらないのか。
理由は「エスペラントは女性差別言語である」というソシリを免れるため、でないですか?
そういうのが屁理屈、なんですよ。
男性接尾辞を用意する気持ちがさらさら無いなら、
-o=男性、-ino=女性、にした方が、そのような習慣のないアジア人から見ても、
合理的でエレガントです。

539ベダウリンデ:2009/07/26(日) 06:37:08
エスペラントが屁理屈ぬかすばかりで変わろうとしないなら、、別派として過激な案を出すけど、
現代の視点で男女の区別は、生物上の区別だけで十分です。すなわち
父になる可能性をもったもの=viro
父となったもの=patro、だけです。
ある人にとっての生物上の父は、いくら性的マイノリティの解放や同性愛、生殖医療技術が進んでも、なれるのは一人だからです。
それに対応して、
母となる可能性をもったもの=femo(案)
母となったもの=matro(案)、を作り、
その他は全部中性とし、必要ならば、男女を示す接辞を用いるようにしたら
誰も誤解せず、合理的です。

540なつ:2009/07/26(日) 08:59:25
ベダウリンデさんの言うとおり、amikoは中性だというのは男女差別だという指摘を回避したい詭弁だと思います。
しかしpatro男viro男、そしてamikoも男というのが自然であり現実的です。
amikojでいいものをgeamikojとはどういうことなのでしょうかね。
この解決法は3つ。
1つは、男性名詞にinoをつけることによって女性名詞にすることに統一すること。
男女差別をいうのは実際は英米人およびそれに影響を受けた日本人くらいなんじゃないかとも思いますが、
そんなことで批判をする人がいるのであれば「あ、フランス語方式です。フランス語知らないの?」で済みます。
フランス語式といいましょうか。
2つめは、すべて名詞は中性で男性語尾icxo(あるいは他の語尾)、女性名詞inoを徹底させる。アジア式といいましょうか。
3つめは、生物学的に性のあるものは男性語尾と女性語尾しかなく中性名詞は存在しない。
スペイン語式といいましょうか。これは文法体系を維持できなくなるので無理でしょう。

男性名詞を女性名詞化することが男女差別だという先入観をもってしまうと、viro→virinoの問題はどうしても解決できません。
解決不可能な自己矛盾を抱え込むだけなのでこのような詭弁はやめたほうがいいと思います。
解決不可能といいましたが、解決するにはベダウリンデさんのいう
viro男、femo女にするとか、masklo男、femalo女を採用させるとか、viroは使わないようにして、homo人、homicxo男、homino女にする。
で、patro父、matro母に分けるというのはどうなんでしょうか?
patroを中性(親)にするのはいいですが、matroを制定するのは無意味です。
こうなると、frato、filo、avo、onklo、nepo、kuzo、nevoもわけるべしとなります。
frato-sororo、onklo−tanto、nevo−niecoなどのようにインフレがおこります。
家族構成を覚えるのが半分だったものが倍増します。この入門期の労力は無意味です。
やはりpatroを中性にするほうが移行も覚えるのも容易です。

541ベダウリンデ:2009/07/27(月) 09:30:17
なつさんの1・2案には、両方賛成です。
>男性名詞にinoをつけることによって女性名詞にすることに統一すること。
この事自体は決して男女差別ではない、と思うようになりました。
きっちりきれいに分ける方が、むしろ「平等」です。

逆に、基本的には中性概念とし、場合によって女性のみ区別する、という方がサベツ的です。
日本語もその傾向を持ってます。
医師(男女)と女医、警官(男女)と婦人警官、孫(男女)と孫娘。等々
女性のみを分別する単語はあるのに、それに相当する男性形は存在しない例です。
この点では、amiko(男女)、amikino(女)、viramiko(論理上可能だが実際は使用されない)とする現エスペラントと同じです。

日本語は民族語であるので、日本文化を背景にして発展します。
女性を分別する単語が生じたのは、(特に過去において)日本文化で女性差別が存在した証だと思います。

女医という単語が存在するのは、女性医師は珍しいという、教育的機会の不平等の結果。
(現代はもっと別な理由で区別したがる傾向も?)
戦前には小学校に「女先生」が存在したが、現代では女性教師の方が普通なので、そんな言い方しない。
婦人警官も、体力的な面で男性警官と区別する必要から生じたのでしょう。
孫娘は、昔の家制度のもとで、家督を継ぐ可能性を持つ男孫ではないけれど、でもかわいい、的なニュアンスが感じられます。
自分は聞いたことなかったのですが、広辞苑には「いとこめ」という単語もありました。
男いとこは分家の家督を継ぐ可能性があるが、そうではないいとこ、の意味で必要だったのかも。

エスペラントには文化が存在しない。
なので、-inoつけなくてもいいのに差別的に-inoを付けるのは、あくまでも本人の自己責任である。
というのが、MPEG等、エスペラントの公式見解なんでしょう。
しかし、-ino のみ用意し、それに相当する男性接尾辞を作ろうともしないのは、
「差別を促してる」ようにしか思えません。
というか、どうしたって「差別」の方向に向かうでしょう。あるのは-inoだけなんだから。
民族語では文化が言葉を作りますが、人工語は「用意された語彙」により思考が操作される。

542ベダウリンデ:2009/07/27(月) 09:53:37
>こうなると、frato、filo、avo、onklo、nepo、kuzo、nevoもわけるべしとなります。
分けなくてもいいんですよ。
日本語で、孫、いとこは、男女分けてません。分けなくても不便ないです。
ベトナム語では、弟妹は、男女の区別なくいうそうです。
http://www.coelang.tufs.ac.jp/modules/vi/gmod/contents_m/explanation/014.html

そう考えると、子、おじおば、おいめい、も絶対に男女で分けなければならない理由もないです。
現エスペラントではfrato、filo、avo、onklo、nepo、kuzo、nevoは男性語根なのですが、
これを中性語根と定義しなおし、必要ならば男女接尾辞で区別すればいいと思います。
onklo kaj onklino と言ってる所を onkluno kaj onklino と言い直すだけです。

543ベダウリンデ:2009/07/27(月) 15:44:10
>patroを中性(親)にするのはいいですが、matroを制定するのは無意味です。
なつさんと私とでは、「父」の定義の仕方が異なったのだと思います。

親を中性語根とし、父も母も親と定義するのは、その他の家族用語と揃えた定義方法ですね。
私が、兄弟姉妹は「同じ親から生まれた者」として男女別なくfratoでいい、と思ったのと同じ根拠です。
すなわち、家族関係における位置づけ=「社会学的」定義です。

私のは「生物学的」定義です。
viroの延長に位置するpatro、という感じです。
また、動物達には人間のような家族関係用語は必要ないと思われますが、
子動物の世話をするのは主に母動物なので、「母」という語根があってもいいかな、と思ったのです。
すなわち、母=子を出産したもの、という定義です。

父母という語は、男女という生物的用語と家族用語の、ちょうど中間に位置してるので、定義が難しいですね。

ちなみにエスペラントではsinjoro,fraŭlo,knaboは男性語根ですが、
これらも、一般尊称、未婚者、幼児より大きい未成年者、の意で
中性定義できますね。

544なつ:2009/07/27(月) 20:40:08
ベダウリンデさん
はい。僕は、すべての名詞は中性に徹底させるという考えです。
理由は、入門期の記憶の負担を極力減らすことだからです。
ベトナムではちなみに年下への二人称は弟妹以外でもみなemとなります。
日本では父・母に対する中性親というのはありますし、子もありますが、
祖父・祖母、おじ・おば、おい・めいは中性がありません、また、いとこは、
男も女も同じ(表記除く)です。言語によって面白いですね。
英語ではparent親という中性名詞がありますが、ほかのヨーロッパ言語では、
あるんでしょうか・・・。保守的エスペラントにはありませんね。
そして、ベダウリンデさんの思いも生物学的にpatroとmatroと二つにするという考え。
「親」という表現はないということでしょうかね。
僕は、全て中性で統一すべきだと思いますので、
viroも男ではなく人ということになります。
viricxoで今までのviroということになります。
あるいはvir語幹自体不使用にするという方向でもかまいません。
生物学的な母でもpatrinoでかまいません。
わざわざ、エスペラントにない語幹を新たに作り出し、語幹をますます増やす実益はないに等しいと思うのです。
ほかの語幹と同じくすべて中性に統一し、例外なしがエレガントです。
話は雑談へと入っていきます。エスペラントの例外なしは時として気持ちのいい感じがします。
たしか、IdoではItalioやfamilioは例外的にイターリォ、ファミーリォです。
(真の)理由は「だってそっちのほうが、イタリア語っぽくて、かっこいいじゃん」です。
こういう例外は無意味であり、むやみやたらにつけるべきではないと思うんですよねえ。
「最後から2つめの母音にアクセント。例外なし!」なんてかっこいいんでしょうか。
日本人の多くは気にならないでしょうが、作るとき、アクセントの位置について葛藤があっただろうし、
批判が多かっただろうなあと、いう想像、そしてそれに打ち勝っての例外なし
というのはすごいことだなあなんて思います。
それを思うともとに戻りますが、「生物的性のある名詞はすべて男性名詞、それにinoをつけて女性名詞。例外なし!」
というのはとても分かりやすく、覚えやすく、竹をスパッと割った感じで気持ちがいい。
が、それをいうことは勇気のいることなんだなあと思います。だから、今、混沌としているわけです。
なら、いっそのこと全て中性名詞にしたほうがどんなに楽で分かりやすいことか・・・

545ベダウリンデ:2009/07/28(火) 09:11:54
全部中性として、男女は平等に接尾辞で分ける、というなつさんの考えに、私も賛成します。
viroを男性の性と考えるからいけなかったのですね。viro=性別不問の人間、と考えればいいのですね。
viroを性としても中性定義すれば、男でも女でもない性的マイノリティとか、或いは、「既存の男女感の枠組みに入りたくない」と自己主張する人々の要望にも
答える事ができそうです。(いやー、ほんとに有意義な議論っていいですねー)

ところで、現エスペラントに関して。
現エスペラントはIDOショックから立ち直れず、そのトラウマで、接尾辞一個すら追加できないんですよ。
だったら現エスペラントの場合は、名詞を全部男性として、生物的に女性であるものには全部-inoを付ける、とした方が
現状に即していて、しかもすぱっとしてますね。
エスペラントは女性差別言語である、という非難されるのが怖いなら
「極東の島国の日本語をごらんなさい。中性と定義する方が差別的なんですよ」と言えばいい。
そして、現エスペラントで女性語根とされてる特殊な語、
それらは全て民族語由来で、文化的伝統で女性しか存在してなかった単語なのですが、
それらも「男性」と定義すれば良い。
従来通りの女性の意味で使いたければ、megerinoなどととすればよい。
そうしたらウーマンリブの方々も「エスペラントは男女差別撤廃の、なんと素晴らしい言語なのでしょう!」
と絶賛すること間違いなしですよ。

546なつ:2009/07/28(火) 18:53:43
ヨーロッパ人がアジアの言語(極東の言語?)にふれ、あるいは学習するとき、
驚嘆するのが「人」という概念だと聞いたことがあります。
ヨーロッパでは、人類、人物、人格などはあるが、普通の「あの人だれ?」
のような「人」というレベルの男女ひとくくりの概念を目にして、
コロンブスの卵的驚きを得ると。ちなみにヨーロッパ的思考から生まれていばってる
riismoは、その極東人がliと区別できない音を採用するという傲慢さを覗かせてる。
tiuでいいのだ。あるいは、la homo estas・・・で貫き通すとか。
la homoという発想は思いつかないのだろうと思う。
Idoショックから抜け出せないというのは面白い言葉です。
中性が無理ならoは男、inoは女を貫き通す勇気を持つべきです。
外部の人間で男女差別の言語って一体誰が言ってるんでしょうか?
被害妄想じゃないですかね。何度も言いますが、そんなこといいだすと、
フランス語はなりたたなくなりますから。
あるいは、女性語尾はあるが男性語尾が存在しない女性優位の言語ということもできるかもしれない。
とにかく、はっきりしてほしい。ほかのことにおいても・・
それにはやはり、「権威」が必要です。ある語の意味や価値観もその権威が示すことにより明確化する。
EUで採用されない一つの理由が、語の意味においてみな無責任だということです。
ある条約をエスペラントが優先して選択されないのは、細かな議論、語の定義がふわふわだからです。
とこういう疑念に対し、「いや明確だ」という神話がはびこっています。
amikoに女性が入るのか入らないのか結論づけられない連中が、、です。
僕はいうかもしれません。「amikoは中性だと誰が決めたのだ?どの権力が勝手にamikoは男女どちらかだと言ってるのか?
それらに断定する権利はあるのか?」と。
反論は誰もできません。みな、無責任なのです。
やはり、統一的に決める権威はある程度ひつようです。
そしておいらは、それは絶対権力ではなく、例えば、5年や10年に一度投票制度を作ればいいと思うのです。
いくつかの議題に対してある各国の代表数人ずつがインターネット投票をするのです。
これなら権威機関は絶対的権力は有してなく、民主主義的な反映プラス統一的になると思うのです。

547ベダウリンデ:2009/07/29(水) 11:10:11
>語の意味においてみな無責任だということです。
言えてますね。「民衆の言語だから権威は存在しないのだ」とか言って、何も決めようとせず
各自が自分の都合のいいような民族的解釈で語を使用し、
そのくせ「いつかきっと自然と多数派の言い方が決まるのだ」とか言ってる。無責任ですね。

>統一的に決める権威はある程度ひつようです。
エスペラントの「権威」が何かを決める場合、ただの多数決はやめてほしいですね。
多数決だと、影響力等が強い団体が勝ちます。現状ではエスペラント界の強者はヨーロッパ勢なので、
何でもかんでも「ヨーロッパ流」が優先される可能性があります。
「権威」が何かを決める場合、単純さ、例外の無さ(バランス感覚も重要かも)を最優先して、十分に議論して決定してほしいです。
そうすれば、アジア的な「homo」という言い方が評価されるかもしれないし、
男性名詞女性名詞は男女差別だと思いこんでる人々も考えを改めるかもしれません。
或いは、男性接尾辞は必要だ、それ一つ作れば「男女差別問題」は一気に解決すると、気づけば、
IDOショックから立ち直ることもできるでしょう。
「むやみな改造」でなく「議論を尽くした上での改造」をすれば、IDOの二の舞にはならないです。

それから、「変更情報」はインターネット上などで、誰でも無料で参照できるようにする。
ReVoも常に最新情報をアップする。
インターネット使えない人のためには、地域団体を通じて、変更箇所のみ紙で配布する。
PIVが今の「最高権威」なんだろうけど、超高くって、あれでは少数の大金持ちしか買えないですよ。
(エスペラントは金持ち優遇言語か〜!?)

548ベダウリンデ:2009/07/29(水) 14:03:25
それから、なつさんが多少なりともエスペラントを何とかしたいと思うなら、
NEPO(Nova Esperanta PostulOの略です)路線って考えるといいですよ。
今のエスペランチストが「無責任」なのには理由があるのです。
現エスペラントに少しでも(ザメンホフ以外の人間が)人為的な改造を企てたら最後、
たちどころにIDOのように自滅してしまうだろうと恐れているのです。
自分が何か新しいことを公式に提案したら、それが原因でエスペラントは消滅してしまうかもしれない、
それが怖いんです。
だからみんな「無責任」なのです。これがIDOのトラウマです。

なので私は、多少なりとも現エスペラントに不満を持っている人に、NEPOを提案します。
NEPOは現エスペラントを修正するものではありません。
現エスペラントは今のまま「無責任」状態で放置します。
現エスペラントとは別に、それと平行した形でNEPOは存在します。
もしもNEPOが失敗しても、現エスペラントは生き残ります。
NEPOがIDOの二の舞を踏まず、必要最小限の改造で、より合理的で例外なく、
エスペラントの一種なのでヨーロッパ的言語なのには変わりはないけども、
だけども今よりはアジア人にもとっつきやすい、というものになれば、
現エスペラントからNEPOへと移行する人が増えるかもしれない。
その結果、本家をしのいだら、NEPOが「エスペラント」という名称を名乗ればいいんです。
その地位を継承すればいいんです。
インターネットを通じた改造投票も、現エスペラントに直に反映するのではなく、
まずはNEPOで試用してみる、というのがいいかもしれません。

549なつ:2009/07/29(水) 20:35:12
エスペラントの改正恐怖症と日本国憲法の改正恐怖症は同じだといえます。
いいことをすることさえはばかられるヘタレ集団です。
日本国憲法の改条文ではなく、新人権の加条文さえ臆病になっているのと同じことがエスでもいえます。
エスペラントはまず金持ちの趣味から抜け出さないと・・・と、ヨーロッパ人のお偉いさんがいつか言ってました。
PIVはザ・左翼団体がヨーロッパ的価値観で彼らの勝手で作ったものですからね。それを金科玉条にするのは良くない。
僕は投票でヨーロッパ的のものが選ばれるのもいいと思います。許容の範囲といいますか。
投票の前々に中国人なんかが、「その価値観はヨーロッパ的だけど、そのヨーロッパ的価値観をアジア人に強制したいのか。
たしか、エスペラントは中性、公平だぞ。ヨーロッパのみの言語にしたいのならどうぞ、見放されてください」と強い口調でいったりしたら、
面白いかも(笑)
数年に一度の改変ならば、議論を尽せていいと思うのです。
その改変がだめなら、数年後に再議決できるわけですし。
1900何年にどこそこで、エスペラントは勝手に変えてはいけないと決まったのだ!
だから、エスペラントはいまだに生きているのだ!
っつう詭弁はそろそろやめてほしいものです。
勝手に先祖が決めたもので将来を束縛しないでほしいものですし、
実際、初期エスペラントと現在のエスペラントは多少違っていますし。
そういう意味で変化(チェンジ)は必要です。
NEPO計画が、より合理的、より例外なく、より非ヨーロッパ的で、より万民に中立・公平で、
そして、入門者により容易で、より記憶に負担のない
言語であるのなら、喜んで手伝いたいと思います。
たとえるなら辞書収録数が今の100分の1で今の同じ内容というのを望みます。

550ベダウリンデ:2009/07/30(木) 09:54:34
>ヨーロッパのみの言語にしたいのならどうぞ、見放されてください
私、時に思うんですが、エスペラントにおいてアジア人って邪魔者だったんじゃないかって。
ヨーロッパ的価値観に統一されていれば、amiko=男が完全多数派として、何の当たり障りもなく、自然と共通認識になっていただろう、と。
日本人(や同じ言語特性を持つ他のアジア人)が、自分達の習慣でamiko=男女で使いたいと思っていて
それを頑固に貫こうとしてるから(例:JEIの見解)、いつまでたっても統一されないんだと思います。
他の不統一も大体、東西対立が要因ではないですか?
アジア人さえいなければ、subvencioで、全く問題ないでしょう。
アジア人さえいなければ、語彙の意味の固定化も現在より楽になり、
EUから「定義がふわふわしてる」なんて言われなくてもすむでしょう。

「エスペラントは中立公平な言語であるべきだ」と思ってる善良な西洋人エスペランチストは
アジア人達に影響されて揺らいでいるんだと思います。
良識的に考えたら、アジア的なamikoの方が「男女平等」的だし、
helpmonoの方が、造語駆使という点で、ザメンホフ先生の遺志にかなっていそうだし。

また、中国人がどやせば、(あんまり深く考えてない一般の)西洋人エスペランチスト達までもが考えを改めるか、
といったら、それはどうかな、と思います。
「じゃあ出ていけば?」で終わったりして。
で、出ていくか、と思ったら出て行かなかったりして。

そんなこんなの揉め事が、明らかに予想されるので、
>数年に一度の改変ならば、議論を尽せていいと思うのです。
という案は、それこそ「IDOの二の舞」へと突き進んでいく危険性を秘めてます。
IDOトラウマの残る現エスペラント界では、怖くて絶対踏み込めないでしょう。

551なつ:2009/07/30(木) 21:16:47
はい、僕は、前提が、ある権威機関が存在し、その機関に沿うのが当たり前という土壌であればよかったのに、という思いです。
例えば、「エスペラント・ザメンホフ財団」というのがあり、その理事は、歴代、ザメンホフの意志を継ぐものと擬制される(各地に傘下団体がある)。
その機関紙(サイト)と辞書が標準エスペラントのお手本とされる。エスペランティストはその標準エスペラントを使うことを当然と思っている。
文法や語彙選定はそこのみが受け持つ。ただし、変えないというのが大原則である。
時代の流れとともに変えざるを得ない状況のとき、その機関が提案を出し、1年後に投票、可決、試用期間、継続使用。
提案例:「国名にするにはujoからioの語尾(Japanio)を提案する。理由、①ujoは一義的に入れ物、容器という意味であり国名にはふさわしくない。②より国際的で親しみやすい語感」
結果:賛成多数により可決。当機関紙で1年間試用し、1年後試用決定予定とする。今後は国名はujoに代わりioを標準とするが、ujoは古形として存続させる。
みたいな。10年に一回くらいかな。
権威は権力とは違い、残念ながら必要だと思います。そしてその権威に沿って標準が決まっていけますから。
でも今は無理ですね。「権威なんてふざけんな」という恐怖症の人たちばかりですから。
僕の言う権威とは、もちろん「権力など力をもって他を支配する」という意味ではなく、みんなに信頼されるお手本の代表みたいなものです。
権力はないし、決定力もありません。国家機関でいう大統領、行政です(提案権など)。我々が立法機関(決定権)です。
NEPOはどうなるんでしょうかね。

552ベダウリンデ:2009/07/31(金) 09:45:47
今現在、事実上の「権威」なのは、SATのPIVではないでしょうか?
掲示板上のやりとりを見た限り、「PIVではこうなってます」という言い方は
黄門様の印籠のように、決定的な権力を持ってるように、私には響くんですが。
ReVoもPVの古バージョンらしいし、結局「辞書のSAT、辞書はSAT」なのではないですか?
UEAはPIVに相当する辞書は出してないし、どちらかと言うと、
大会等、みんなが会する機会を提供する事務的機関、みたいな印象。

なつさんが「権威さえ存在すればいい」と思うなら、いっそ手っとり早く、
SATに全権委譲してはいかがでしょうか。
基盤は既に整っているので、あと必要なのは「皆の了解」だけです。
選挙も、SATが「必要だな」と思ったら、必要な時点でやればいい。
大体は、様相見て、SATが勝手に決めちゃってもいいんじゃないですか?
要は、不確かな部分を、ガツンと決めてほしいだけなのですから。
10年も間隔があると、どっちにしろ、事後承認的な形になると思いますし。
SATはMLや刊行物などが既にあるらしいから、、内部だけで「試用」する環境も整っているでしょう。
それでOKなら「公布」して、皆それに従う。超スムーズな運営ではないですか? 

エスペラントの「定義がふわふわしてる」のは、東西で言語の感覚が違うからだと思います。
EU等で使用してもらうためには「定義の統一」が必要で、そのための「権威」なら、
アジアにおもねることなく、ヨーロッパ人の考えで決めてもらっった方が結論は早いと思います。
その路線でいくなら、私は「SATに全権委譲」を提案します。

NEPOはaziemaな企画案です。
エスペラントをヨーロッパよりからアジアよりに近付けて、さらにそれを決定づけよう、とするものです。
アジアよりなので、EU等に採用される可能性は低くなるでしょうし、
ヨーロッパ人達の支持も得られず、結局自滅も考えられます。
(中韓と仲良くしなきゃならないのが嫌だ、と思う日本人エスペランチストもいるでしょう)

553ベダウリンデ:2009/07/31(金) 10:05:52
>その理事は、歴代、ザメンホフの意志を継ぐものと擬制される(各地に傘下団体がある)。
なつさんの案でいくと、「各地の傘下団体」の日本支部は、自動的にJEIになることでしょう。

それから、NEPO案に関して、
今までにもそういう動きはあって当然だと思うのですが、無かったのでしょうか?
アジア人エスペランチストは、アジア大会だの日中韓大会だの、結構交流してるようです。
ヨーロッパ人から見ると「なんでアジア人がエスペラントなんかやってるんだろ?」と疑問に思っても
実際既にやってるんだから、ヨーロッパ人から見ても無視する訳いかないんだろうと思う。
それに、リベラフォリオによると、ビヤリストク大会のある交流会場に、投石事件があったんだってね。
ヨーロッパではエスペラントって意外と「嫌われ」てるのかもしれない。
アジアにおいてはむしろ「偏見」は少ないだろういから、生き延びるのはアジアでかもしれないですね。
(日本のエスペランチストはなぜか言語運動に無関係な9条に固執してるから、一部改憲派からネット上でターゲットにされてるけど
一般的には「知名度」そのものが低いから、大会やってて右翼に狙われる、なんてことは実際無いと思う。)

554なつ:2009/07/31(金) 18:24:42
UEAが権威を初めからもっていたらなにも文句は言ってなかったとおもいます。
しかし、今となっては、「日本大会より歴史が浅いUEAが、でしゃばんじゃねえよ。
SAT?時代遅れの共産主義者がうるせえよ。いいきになんじゃねえよ」という思いしかありません。
権威を持つとなっても、反発するだけです。
JEIのEs日辞典は大変重宝してますが、「だからっていいきになるなよ」という思いもありますから(笑)
続きまして、
ベダウリンデさんのNEPO案ってそんなにアジアよりの案だったんですか!?
僕は、文法は9割以上手をつけないという考えだったんですが、
文法をかなり変更させるということになるますよ。
基本語根はエスペラントであとは総とっかえになりかねませんよ。
まあ、かなり興味深いですけど。
いままで、そこまでの改造案はアジア人からは無かったと思います。
アジア人はエスペラントはヨーロッパのものという暗黙の共通認識がありますから。

555なつ:2009/07/31(金) 18:50:44
ベダウリンデさんが思い描くNEPO案について、仮にヨーロッパ的からアジア的に移行した言語
とするならば、16条の文法は・・・・・
①冠詞 ない
②名詞 語尾o。変化なし。つまり主格・対格または単数・複数形の区別なし。複数を表したいときは副詞で表す。
③形容詞 語尾a。変化なし。比較級、最上級は副詞で表す。
④数詞 変化なし。以下略。
⑤人称代名詞 変化なし。男女、単複、物人区別しない。普通名詞と全く同じ扱いをする。
⑥動詞 語尾i。活用なし。無活用。時その他を表したいときは副詞で補う。
⑦副詞 語尾e。
⑧以下 略
備考 疑問詞が文頭に来る必要はない。

基本的にこういうことっていうことでしょうか?

556ベダウリンデ:2009/08/01(土) 09:20:26
>UEAが権威を初めからもっていたらなにも文句は言ってなかったとおもいます。
なつさんは、「権威を選んでる」のですね。
現状では、全権委任してもいいと思えるような、完璧な権威候補が存在しない、と。
ならば、新しいのを作るか、諦めて現状の無権威状態を認めるかの、どちらかですね。
新たな権威を最初から作るのは、現実問題として非常に難しいでしょう。

NEPO案は、アジアより、というより、「今よりは」アジア人にも分かりやすい、という程度です。
エスペラントは基本的にヨーロッパの言語ですから、そこは尊重します。
改造は最小限とし、絶対的基本方針は「例外なし」で、実際の主な取り組みは「ヨーロッパ語彙の削減」です。
基本的な語根は保持し、造語せずにヨーロッパ語をそのままエスペラント化した語彙のみ削減します。(どっかのマニュフェストみたいですね)
最初は理論面の構築を行わねばならないので、実際の個々の語根がどうこうとかいう話はずっと先になります。
10年20年の長いスパンが必要でしょう。そこが難点ですね。「そんなの無理〜」みたいな。

現エスペラントには直接反映しません。あくまで「別派」です。
出来上がれば、いきなりダーンと完成形を公開し、その後は改造不可、とします。
時代に即した新語は無理なく導入できるように、あらかじめ設計しておきます。
なつさんの①〜⑧は、私は考えてませんでしたが、
その後の検討により「必要最小限の変更」として妥当と判断されたならば
それもありかもしれませんね。

557なつ:2009/08/01(土) 11:22:18
>>NEPOはaziemaな企画案です。
>>エスペラントをヨーロッパよりからアジアよりに近付けて、
>>さらにそれを決定づけよう、とするものです。
>>アジアよりなので、EU等に採用される可能性は低くなるでしょうし、
>>ヨーロッパ人達の支持も得られず、結局自滅も考えられます。

といわれたので、エスペラントが西より、NEPOが東よりなのかと、思いました。
今まで、今よりも非ヨーロッパ色を排除していくと思っていたので「おや」と思ったのです。
しかし、>>556
>>「今よりは」アジア人にもわかりやすい
など、言われたので、僕の当初思っていた考えと同じだと分かりました。
となると、ヨーロッパ的から、より中立的、より世界的になって、
ヨーロッパ語の言葉遊びより上を目指すヨーロッパ人には受け入れられるのではないでしょうか?

558なつ:2009/08/01(土) 12:52:48
訂正 「非ヨーロッパ色」→「ヨーロッパ色」

559ベダウリンデ:2009/08/03(月) 11:16:21
>ヨーロッパ的から、より中立的、より世界的になって、
そうです。そういう言語だったら良かったのに、と思います。
>ヨーロッパ語の言葉遊びより上を目指すヨーロッパ人には受け入れられるのではないでしょうか?
そんなヨーロッパ人、いるかもしれないけど、いても少数派の言語エリートではないですか?
一般の凡人ヨーロッパ人エスペランチストは、自分達にとって当たり前の感覚として何も疑わずに
ヨーロッパ的感覚でエスペラントを使っているんだと思います。
何も疑わずに、それが「世界標準」だと思って。
アジア人が他の感覚を持っているなどとは、露ほども思わずに。
(エスペラントはヨーロッパ語の一変種なので、それが可能なのですが)

MPEGではamiko=中性ですよ。ではなぜ、誰もviramikoを使わないのか。
ヨーロッパ人の当たり前の感覚が、「正当なルール」を無視して標準感覚になってるからでは?
それはエスペラントが「生きてる言語」の証明でもありますが、
だったらルールを変更すればいいんですよね。
でも、多々の要因(*1)でルール変更ができない。それが今のエスペラントです。
(*1)例として、イドトラウマ、言語エリートであるヨーロッパ人エスペラントリーダー達のアジア人へのおもねり

アジア人にも責任がありますね。
だって、アジア的感覚でamiko=男女で使いたいならば、男友達を表現したい時はviramikoって使えばいいんですよ。
でもヨーロッパ人がそんな言い方しないから使わない。使ったら「変」に思われるから。
それでもってamikinoは安心して普通に使う。
このように、無意識に「ヨーロッパの価値観」に順応させられるのが、
アジア人にとってのエスペラントです。

そうじゃなくて、もっとバシッと、決まりをはっきりさせて、
アジア人にも違和感ないようなエスペラントがあったらなーっと思ってます。

560ベダウリンデ:2009/08/03(月) 11:34:19
エスペラントを多少やると、日本語の感覚と全然違うな、と気づかされます。
エスペラントの感覚=ヨーロッパの感覚なんだと思います。
英語なら「英語だから英米人の感覚に合わせるか」と思えるし、
「へー、英米人ってそういう感覚なんだ、ふーん」と他人事として思えます。
エスペラントは「これが正当中立な国際語」=「正当な第2の母語」にしなくちゃいけない、
と思うと、すごい違和感を感じて、苦痛で屈辱的でもあるんです。

例えば、日本語を使う私の感覚では、「自分」は混とんとした宇宙で、「他者」は「自分」と異なる存在。
エスペラントでは「自己」も「他者」も同じものとして見てる。あたかも自分は「幽体離脱」して「自己」も「他者」も見てる感じ。

例えば「着る」と「着せる」。
エスペラントでは「着る」=「自分に着せる」。「他人に着せる」のと、全く同じ行動だと思って、幽体離脱した自分が眺めてる。

他には感情語についても、気になる点があるので、まとまったらまた。

561:2009/08/03(月) 21:32:44
むしろエスペラントはラテン語のクレオールとして純化してほしいとか言ったらいけませんか?

562なつ:2009/08/03(月) 23:17:48
ベダウリンデさん。
そうですね、僕も、屈辱感を持ちましたね。
ヨーロッパへの屈服感といいますか。

それなのに、日本人のエスペランティストたちは
中立公正だと大宣伝をしている。
ザメンホフが思ったとされる逸話を用いて言語差別のないものだと大宣伝する。

そんなのはヨーロッパへの服従の考えでしかないと、すぐ学べば気づくものなのだが、
どういうことで、大宣伝しているのか。一種の霊感商法だ。
ヨーロッパの統一的価値観=差別がない、とほんとに思って、中立公正だなんて言ってるとしたらクレージーだし。
そう思うと、アホらしいって思う。
いっそのこと英語でいいじゃないか、と飛躍して思ってしまうこともある。
エスペラントを学ぶ人はジレンマが常につきまとうと思う。
エスペラントは、中立公正なのか?エスペラントの現代における意義とはなんなのか?と。
まあ、何も考えず9条!と叫んでる人たちもいるが。

563なつ:2009/08/03(月) 23:54:05
鮒さん。
ラテン語のクレオールに純化するというのは、どういうことですか?
①語彙選定をラテン語のみからにする。②活用等文法をラテン語に近づける。
ということでしょうか。
比較的容易だろうと思いますよ。
しかし、無活用ラテン語(Latino sine flexione)がありますよ。
名詞、形容詞、動詞は語尾が数種類ありますが、
動詞の時制、複数形、および冠詞はありません。
さらにいうと、発音が、gxとjxなし、hxなし、vなし、cとcxなし
ですからかなり簡単です。
これが、鮒さんのおっしゃるラテン語のクレオールと言えるものだと思います。
ただし、これは、まさに中立公正に反するものですよね。
特にイタリア人(あるいはスペイン人等)にかなり有利ですし。
そこで出るのがインターリングワです。
仏、伊、西(葡)、英、独、露、(+羅)の6ヶ国語の共通的語彙を語彙にする言語です。
最大公約数という訳ですがスラブ系1、ゲルマン系2に対してラテン系が占めますので、無活用ラテン語に似てきます。
が、より現代語の公約数的なものが網羅されていますので、かなりこちらのほうが覚えやすいです。
またエスペラントもインテルリングワと同じくらいラテン系から採用されていますのでエスペラントとインテルリングワはとても似ています。
ただしエスペラントの語彙選定は恣意的なので、より不公平感があります。

564ベダウリンデ:2009/08/04(火) 08:48:25
鮒さんが、エスペラントをラテン語のクレオールにしたい、と思うのは自由ですよね。
誰も妨げる権利を持ちません。「中立公正」じゃなくたって全然OKですよ。
それを実現させる方法としては
①(なつさんご紹介の)無活用ラテン語やインテルリングワ等、同じ方向性を実現してる言語が既にあるので、それに合流する。
②現エスペラント界に対して改造を要求する。
③NEPO(Nova Esperanta PosteulO)のように、新たな別派として構想する。
どれでもいいんじゃないですか?

565ベダウリンデ:2009/08/04(火) 09:16:05
NEPOは、アジア人がエスペラントやってみて「分かりづらい」「不自然だ」と思うところを
なるべく「変更最小限」の形で、なるべく「例外を作らない」形で、実現したいな、と思う案です。
現エスペラントに対して改造は要求しません。別派、亜流、方言、です。

ただし、実現にあたっては、長大な道のりが予想されます。
辞書の洗い出しもしなくてはならないし、他の民族語や人工語を参考にするための勉強も必要だし、
私個人としては「絶対そこまでできない」と思うのですが、将来のための第一歩として、企画提案してます。
今現在は、「エスペラントのどこがアジア人に分かりにくいか」という点を
エスペラントを叩いて叩いて叩きまくり、洗い出している段階です。
エスペラントの悪い点を暴き、改造しようとしてるように見受けられるかもしれませんが、
目的は全く異なります。

566ベダウリンデ:2009/08/04(火) 09:57:34
エスペラントの分かりづらい点の例:感情語に関して

例えば「怒り」という感情は、『何らかの不満・不平に対する感情的な反応である。』(ウィキペディア)
それは『血圧や心拍数の上昇を伴う』(Vikipedio)人類共通の現象であると思われる。

その感情を、日本語では「おこる」「いかる」「いきどおる」などと言うが、それらはほとんど同義で、
その感情が起きた原因によって、言葉を選ぶのではない。
「義憤」という単語はあるが、文字どおり「正しい怒り」という意味で、
その単語の中に「いきどおり」という語を含んだ熟語(造語)でいる。

エスペラントで「怒る」はkoleriだが、「義憤」にはindigniという全く別の単語が存在する。
つまり、konvinkiとpersvadiが「説得の方法」で独立した単語になってるように、
koleriとindigniは、「怒りの理由」で別単語になっている。

大かたの日本人は、よっぽどでない限り、「義憤」なんて言葉は使わない。
「義」だろうが「私」だろうが、「怒ってる」という自分の気持ちには変わりはないから、普通「怒る」「憤る」で代用し、
代用しても、怒りの原因が誤解されることはない。

また、エスペラントではofendiĝi=侮辱を感じて怒る、という単語がある。
これも「怒りの理由」で別単語になっている。
これに相当する日本語単語は、一語では思い当たらない。
日本語で「侮辱された」と言う場合、自分の怒りの感情よりも、相手の行為の不当性を公的に訴えてる感じが強まる。
他に、「怒りの理由」とは関係無いが、furiozi=狂ったように怒る、という全く別の単語もある。

色々な「怒り方」はあって当然だが、なぜそれを「造語」で行わないのか。なぜ、別単語なのか、
日本人の私の感覚では、納得いかない点です。

日本語では「怒る」という感情は、理由では分けない。
その精神的背景を考えると、「自分という混とんとした宇宙」があって、怒りの起因になってるのは「外部」であり、
それは自分とは異なる世界、という感覚があるのかなと思う。
そして「外部」よりは「自分の内部」が大事である、という世界感があるのかな、と思いました。

日本語で「怒り」を表現するとき、「むっ」「かちん」「かっ」など、擬態語的表現で表すこともよくある。
これは怒りを、「理由」でなく、「感覚」的表現で表してると思う。
「腹が立つ」「頭に来る」なども、理屈ではない身体の感覚での表現だと思う。
「自分」は混とんとした宇宙で理屈で説明できない。だから「混とんが感じ取った」内部感覚でしか表現できないんだと思う。

日本語には主語が無い。時にそれは「非論理的」と非難される。
でも、主語が無いのは、「自分」は混とんであり、「他者」もまた自分の外にある混とんだ、という意識の表れなんだと思う。
エスペラントとか、その元になってるヨーロッパ語みたいに、
自分を怒らせてるのは何かという事を、幽体離脱の自分が常に冷静に判断してるような語とは、精神構造そのものが全く異なるように思う。
そしてそういうエスペラントを「公式共通語」とする事は、「そういう感覚は非論理的だからこっちに直しなさい」と言われるのと同じな感じがするので、
非常につらいものがあるのです。

なのでNEPOでは、koleriは、人類共通の「怒り」という内部感覚として定義し、
「その要因」は造語としてくっるける、としたらどうか、と思っている。
仮に他の民族で、ヨーロッパ人と異なる理由で怒る民族がいて、
その要因をはっきり言いたければ、それも造語で対等に作る事ができる。
他の民族語を知らなくても、想像力を働かせ、こういう時は**-koleriっていう言い方があるといいね、という感じで作れる。

567:2009/08/05(水) 15:39:28
なぜ「アジア人」に限定するのかわかりませんね。
アフリカ・アメリカ・オセアニアの言語文化は無視ですか?
それに「アジア」と言ってもインド・イラン・アルメニア等
「インド・ヨーロッパ語」の系列の言語が優越してる国も多いですよね。

568:2009/08/05(水) 16:03:56
最大の問題としてアラビア語圏は「アジア」に入るのでしょうか?
アラビア語では名詞のみならず動詞にも性の区別がありますが。

569ベダウリンデ:2009/08/05(水) 18:33:02
>なぜ「アジア人」に限定するのかわかりませんね。
理由は、NEPOは今のところ日本人である私個人での構想だからです。
本当ならば「日本人にも分かりやすい」と書きたいところでした。
それなのに「アジア人」にしたのは、中韓は漢字文化圏だし、似てる所も多々あるだろう、
という私の思い込みです。
今後は「日本人にも分かりやすい」に変えようと思います。(「も」に注目! 日本人に、ではありません)

私は「日本人にも分かりやすいエスペラント」を目指していますが、それは
「日本語の特徴をエスペラントに盛り込みたい」というのとは異なります。
日本語とエスペラント語の違いを検証することにより、
より普遍的な言語構造とは何か、を考えています。
「分かりやすさ」=「自分の言語に似てる」という事ではないです。
「ルールがはっきりしてて誤解される要因が少ない」のが「分かりやすい」だと思います。
 
vir/ino問題など、アンバランスゆえに誤解を生みやすい箇所が、現エスペラントにはありますが、
そこを修正すると、誤解も減り、「分かりやすく」なります。
「男女平等」にするのは、「その方がアジア的だから」ではありません。

そのような検討の結果、アフリカ・アメリカ・オセアニアの諸民族にとっても
今のエスペラント語よりは、分かりやすいものになったら幸いです。
そのためには、人類共通の感覚とは何かを常に意識し、
抽象的・普遍的に考える、というコンセプトを、NEPOには持たせようと思っています。

566の最後の部分は読んでいただけましたか? 「ここ」押さないと読めないので再掲します。

NEPOでは、koleriは、人類共通の「怒り」という内部感覚として定義し、
「その要因」は造語としてくっるける、としたらどうか、と思っている。
仮に他の民族で、ヨーロッパ人と異なる理由で怒る民族がいて、
その要因をはっきり言いたければ、それも造語で対等に作る事ができる。
他の民族語を知らなくても、想像力を働かせ、こういう時は**-koleriっていう言い方があるといいね、という感じで作れる。

570なつ:2009/08/05(水) 19:45:51
鮒さんの意見はどうなのかな?
エスペラントがより、ラテン語という一言語に偏って近づくことが希望なんですかね?

ベダウリンデさん。
漢字圏+シナタイ語族つまり日本語、中国、韓国・朝鮮、ベトナム、タイ
というくくりでなんとなく考えていました。大東亜共栄圏といいましょうか(笑)
NEPOのスレッドをそろそろ作ってもらえないですか?
僕も、いろいろ案を出させていただこうと思います。
人工言語、クレオール言語、その他の言語を趣味でかなり見ていたことがあります。
NEPOのようなものをずっと僕も抱き続けていました。
NEPO構想は、少なくとも今までのどの人工言語よりも、すぐれています。

571なつ:2009/08/05(水) 19:48:32
補足。
東亜ひとくくりで考えてたといってもあくまでも
エスペラントが基礎、土台としてあるのが前提という話です。

572ベダウリンデ:2009/08/06(木) 08:59:07
>570
なつさんありがとう。
今までの経緯をまとめて、新スレ立てたいと思いますので
まとまるまで少々お待ち下さい。

573ベダウリンデ:2009/08/07(金) 10:32:34
新スレ作りました。
新エスペラントNEPO構想*アイデア募集中
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1249603204/


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