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なぜエスペラントは普及しないのか?

261松戸彩苑:2008/10/11(土) 12:21:15
鈴木孝夫、田中克彦(著)『対論 言語学が輝いていた時代』(2008年 岩波書店)という
本がありますが、この本のなかに「言語学者はエスペラントに好意的ではない」という話が
出てきます。

  【田中】(中略)ところで、エスペラントにいちばん反対するのが言語学者なんです。とい
  うのは、一八六六年のパリ言語学会の規定に、「言語の起源に言及する論文は採用し
  ない」というタブーがありましたが、それと「新しい国際語について議論する論文は載せ
  ない」というのがセットになっているんです。一八六六年頃というのは目白押しに新しい
  ことばの提案がでてきた時代だから、その流行をシャットアウトするために、言語学会
  がそういう規程を設けた。そしてボラピュックができて、エスペラントが発表されたのが
  そのちょっとあと、八七年なんです。言語学者は本質的に新しいことばをつくることに敵
  意を示している。

  それからもう一つ ― これはぼくの分析ですよ ― ヨーロッパの言語学の伝統の中に、
  人間がことばをつくってはいけないというタブーがあるんですよ。イデオロギー的に人間
  がことばをつくるのを許さない。これは強いですよ。ことばは神がつくったものだからとい
  うんですね。

  【鈴木】無意識の抵抗ね。

  【田中】言語学の教育、教科書を通して教師の心情にもそれがあるから、エスペラントを
  ばかにする習慣がずっとあって、ぼくにもそれはあったんです。「ばかにする」という言葉、
  ちょっと適切ではないけれどもね。

  【鈴木】そう。あんまりシンパセティックでない。心情的に何か賛成できないと言うのでし
  ょうが、私には、どうしてもやはり世界共通語は理屈の上から考えてもできないし、また
  あるはずがないというさっき話した考えがある。ただ、現実に共通語が必要な面は認め
  るから、その範囲に限って使用するのは止むを得ない。

  (同書101〜102ページ)

この引用文の最後の部分で、鈴木氏が

  私には、どうしてもやはり世界共通語は理屈の上から考えてもできないし、またあるは
  ずがないというさっき話した考えがある。

と言っておられますが、この「さっき話した考え」というのは、おそらく次の箇所だと思われ
ます。

  【鈴木】私は言語は環境に対応して変化すると言いましたが、言語のすべての面がいま
  の知識のレベルでは、日本語がこうなっているのは日本人が住んでいた環境の結果だ
  とすべてを一対一にきれいに説明できるわけではないけれども、日本の風土とアラビア
  などを比べると、日本は世界でもすごく雨が多いので、家のつくりや衣服、味噌醤油にし
  ても、キノコ類にしても日本の文化というのは大体湿り気を前提としている。女の肌がす
  べすべ餅肌なんていうのも日本の湿りのせいであって、ヨーロッパ人の女の肌がサメ肌
  なのは風土なんですよね。

  それに合わせて日本語の語彙というのは、やはり日本人が住んでいる四季が変化する
  環境に適合するように選別されたというか、そうなっているわけね。アラビア語ではラク
  ダの語彙が何百とあることがよく例に使われるけれども、やはりその場所で生きていく
  ために、その民族が必要とするものに語彙が集中するという形で、結果的に言語の多
  様性がそこにできる。ただし、言語というのは一ぺんできてしまうと、環境が変わっても
  すぐ明日から変えますというふうな一対一の即時変更性がないために、移住したため
  に風土的な裏付けを失うとか、時代遅れになってしまった言語特徴、昔の文化の段階
  で適合したものがまだ残っているということがあったり、また、よその言語の影響を受け
  るとか、簡単にいかないところがある。けれども、人間の言語というのは、人間が違った
  環境に出会っても自分を壊さずあまり変化させずにいられるために、変える必要のある
  中間世界としての文化の一部であるがゆえに、どうしても変わらざるを得ない。


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