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なぜエスペラントは普及しないのか?

1papageno:2008/01/04(金) 23:25:54
すでにいろんなスレッドで語られて来たことではありますが、単独のスレッドが無かったので立てさせていただきます。

いろんな視点からのいろんな意見を出して行きましょう。

2Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/01/07(月) 23:44:30
時代的に需要がない。以上。
人工言語の国際補助語運動が盛んになるのは17世紀や19世紀などのヨーロッパ大陸内で
突出した軍事力・経済力を持つ国がない時代。
17世紀はフランスもドイツもスペインもオランダもオーストリアもロシアもそこそこ強いものの、
18世紀には、ルイ14世とかのフランスが周囲に戦争を仕掛け、突出した軍事力と
文化力と経済力を得ていたわけです。
17世紀はデカルトやライプニッツも人工言語による国際補助語の構想を持っていましたが、
18世紀になるとフランス語が一番ヨーロッパ大陸内で通用する言葉だからそれを使えばいいということで、
そういう活動は下火になりました。
ナポレオンの第一帝政が滅びて、1815年からのウィーン体制になると、
フランスだけが突出した大陸の覇者ではなくなり、今まで小国集合体だったドイツやイタリアが
統合したり、ロシアもポーランドを併合したり東に領土を広げたりして、
さらにオーストリアもそこそこ強くなってきたためまた各国の力が均衡状態になりました。
そうなるとフランス語が国際語でいいじゃんという話にはならず、
またまた人工言語による国際補助語と言う発想が生まれます。
そして、そういう国際情勢の追い風を受けて、ヴォラピュクやエスペラントが普及したわけです。

ただし現在は、ヨーロッパ大陸内ではないものの、アメリカが突出した軍事力と経済力をもっていて、
18世紀と同様、というかそれ以上に特定の超大国の言葉を使うのが現実的という状況です。
ヨーロッパでも、実際ドイツを中心に日本同様米軍基地がいっぱいあって、
若干植民地気味ですし。

つまり現在の国際情勢ではあまりそういう話は需要がないということです。
将来、中国とロシアがアメリカに匹敵する軍事力経済力を持つようになるまで、
冬の時代だと思います。
ただし、エスペラントでなく最新の言語学の成果を取り入れた覚えやすい新規の
人工言語が選ばれる可能性もありますが。
19世紀にはもはやジョージ=ダルカーノの考えた図書館分類法そっくりの人工言語が受け入れられなかったように。

3Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/01/07(月) 23:45:41
参考文献
セレン=アルバザード『新生人工言語論』「人工言語学」
http://www2.atpages.jp/kakis/%90V%90%b6%90l%8dH%8c%be%8c%ea%98_/fol.html

4松戸彩苑:2008/01/08(火) 03:16:43
そもそも「発表されてから100年以上もたつのに使用者がほとんどいない、どこの国の言
葉でもない言語」なんてものを憶えようと思う人が世間にほとんどいないのは当然だと、私
は思うんですよね。

これだけでもハンディが大きいのに、「世界平和」だの何だのと言うせいで、世間の人たち
からイデオロギーか新興宗教だと思われてしまってるんですね。

これでは、普及するわけがありません。

(もちろん私は、エスペラントを普及させる方法についても考えているわけですが、それは
今まで書いてきたことですので、ここでは割愛します)

5ベダウリンデ:2008/01/10(木) 11:01:51
>「世界平和」だの何だのと言うせいで、世間の人たち
>からイデオロギーか新興宗教だと思われてしまってるんですね。

そうなんです。イデオロギーか新興宗教に見えちゃうんです。
私の場合ですが、最初は「言語なんてツールなんだから、思想とは無関係のはず。」と思ってたんです。
Ĉiuj lingvoj povas esprimi ĉiujn ideojn. つまり、言語はどんな思想でも表現できる、と思ってた。
たとえ考え方が異なる者同士でも議論できて、歩み寄りするにしてもしないにしても、
少なくとも相手の言い分に耳を貸すことができる、そのための道具が言語なんだ、と。
エスペラントはどの国の言語でもないから、それこそ平等に、様々な立場の人々が意見交換できるものと思ってた。
その結果として、できるかどうかわからないけど、「世界平和」もありうるだろう、という流れかと思っていた。

でも、掲示板とか読んで、そういう考え方はマヌケすぎるんだと、気づき始めた。
エスペランチストは自分たちをサムイデアーノと言う。「同じ思想の人」
なんで同じ言語を勉強してるだけで「思想同じだよね」と言われなければならないのか。
それとも、ある特定の同じ思想を信奉していなければ、仲間に入れてもらえないのか。
(有名な言葉に、「こんな人がなぜエスペランチストなんだ!?」ってのがあるんですよね)
そうやって「思想」なるもので人を選別してるから、イデオロギーっぽく思うんです。
信じてなければ信者にしない、という点では新興宗教ですね。
色々な意見を話し合うために言語はあるのに、最初から同じ思想の人しか受け付けないんじゃ、
エスペラントって何のためにあるの?と思う。だから普及しないんですよ。

6Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/01/10(木) 21:15:33
聞けば聞くほどサムイデアーノ。

どこかの国に属している言葉は国際語に相応しくないという主張ですが、
歴史的に見ても国際交流に使われる言語は、国などの勢力に属していて、
軍隊を持っていて、金もたくさん持っていて、文化的コンテンツも充実しているものが選ばれるのです。
例えばシュメール語や漢文やアラム語やラテン語やサンスクリッドやアラビア語などなど。

一方、エスペラントは軍隊も資金力もなく、独自の文化コンテンツも貧弱。
ほとんどの文化コンテンツは翻訳物やマルクス主義やキリスト教の借り物で、
それだったら他の自然言語をやったほうが読めるものも多いし、
英語やフランス語で話すことが多いほかのユネスコ・ユニセフのような団体に入った方が
世界平和の理想にとって現実的だし人も多いし、
キリスト教やユダヤ教コンテンツが好きなら、ラテン語やギリシャ語やヘブライ語を
やったほうが楽しいと。
言葉の壁を何とかしたいなら、本気なら相手の言語を必死に学ぶと。
たぶん、他の有力な左派系の受け皿が多いというのも原因だと思います。

アンサイクロペディアに「エスペランティストとは世界平和を希望するが希望するだけで何もしない人を示す」
と書いてありましたが、ブラックジョークの中に真実を見た感じです。

7Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2008/01/10(木) 21:35:58
下のまとめによると、一つの言語が圧倒的に優位な時代では人工言語の国際補助語は流行らないとか。
そして生き残るには「秘密の言語」か「空想の言語」の道を選ばないと需要がないそうな。
その辺は松戸様の主張と同じようです。

新生人工言語論 「国際語・国際補助語」「グローバル社会の人工言語」
http://lanxante.higoyomi.com/fol_17.html
http://lanxante.higoyomi.com/fol_18.html

なんだかんだいって、エスペラント陣営にも勉強になる物が多いです。

8Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/01/11(金) 12:23:39
特殊なイデオロギーに牛耳られてるのは日本のエス界だけですよ。
外国のエスペランティストは様々の思想の人がいますし何でも率直に
語り合えます。インターネットのおかげで日本の団体を通さずに外国
のエスペランティストと直接知り合い交信できるようになったので、
もはや悩むことはありません。

9なつ:2008/01/12(土) 12:12:57
>>5
はい、私はJ-K氏にお前はエスペラントを学ぶなと、強い口調で言われましたからね。
思想偏重そのものです。

10松戸彩苑:2008/01/12(土) 12:48:05
エスペラント界には「社会思想」にこだわってる人が多いんですが、皮肉なことに、世間の
進歩的な人たちからも、ほとんど相手にされてないんですよね。

つまり、社会思想について語っているときは話がスムーズに通じるんだけれども、エスペ
ラントの話になると、とたんに理解してくれなくなるわけですね。

ですから私は「個人的に社会思想をもつのは構わないけれども、エスペラントの宣伝をす
るときに社会思想を前面に出しても効果がないと思う」と言ってるわけなんですね。

11松戸彩苑:2008/01/12(土) 15:36:06
富岡多恵子(著)『「英会話」私情』(日本ブリタニカ 1981年)という本に、エスペラントに
関する文章が載っていますので、引用しますね。

この人は学者ではないので、思ったことをどんどん書いていくという感じの文章なんです
が、私の考えでは、かなり正しいことを書いてるように思うんですね。

はっきり言って、エスペランティストや言語学者なんかよりも、よっぽどマトモだと思うんで
すけど、この本が出た1981年当時ですと、エスペラント界のトップにいた人たちの多くは、
戦争や弾圧を体験した人たちですから、おそらく「シロウト考え」だとして無視したんじゃな
いですかね?
---

さて、エスペラントは人工語ということでかなり偏見をもたれているようである。どこにもエ
スペラントを喋っているひとだけの住むエスペラント国というのはない。

ところでわたしはエスペランティストではない。エスペラントを自由に使いこなすことができ
てこそエスペランティストであって、ほんの少し入門書をのぞいたくらいではエスペランテ
ィストではない。わたしはエスペランティストでもないが、エスペラント教徒(?)或いは狂
信者でもない。本当は、狂信者でないエスペランティストであればいちばんいいのだろう
が、今のところわたしはそのどちらでもない。

エスペラントは人造語である点で、共通語としてはまったく中立たりうる。しかし、エスペラ
ントが、インド・ヨーロッパ語を基礎にしてつくられている点で、その中立性をはじめから疑
ってかかり、アジア人には中立でないという偏見もある。けれども、世界のあらゆる少数
民族の言葉を包摂した共通語が出現せぬ現在、エスペラントは、どの国の人間の生活文
化の背景もないという点では中立である。わたしは、エスペラントがヨーロッパ語を基礎に
していても、それは中立であると考える。

もうひとつの偏見は、エスペラントが人工語ゆえに、現実に共通語として使用されても、そ
れはあくまで一時の便宜の、共通語としての役割しかもてず、人間同士の深い感情、情緒
まで表現しえないのではないかとの疑いをもたれることである。わたしはエスペランティス
トではないが、人工語でもそれに熟達して慣れることで人間の深い感情や情緒を表現しう
るはずだと思う。なぜならそれを喋るのが人間だからである。わたしは人間の想像力を信
じるので、エスペラントが人工語ゆえに記号に始終するという偏見をもたない。すでにエス
ペラントによる文学もあり、異る国の男女がエスペラントで恋を語り結婚して、家庭内では
エスペラントを喋って家庭生活をしている例もある。

ところで、「エスペラントは単なる言語であるだけでなく、重要な社会問題なのである」とい
う、エスペラントの創造者ザメンホフの言葉は、そのままエスペラントのもつ重要な問題を
提示している。

一九七一年七月号の雑誌『潮』に出ている「知られざる素顔の日本」という対談で、梅棹忠
夫氏は、韓国で行われた公開学術講演会で「文化人類学から見た韓国と日本」と題して
「エスペラントで講演し、韓国語に通訳してもらった」と話している。それは、中年以上のひ
とは日本語で話してもわかるが、過去の歴史のことを思うと、やはり気持の上で抵抗があ
るだろうし、話す方にも遠慮がある、ところがエスペラントなら気兼ねがいらないので、エス
ペラントで話した、というのである。朝鮮で年配のひとが日本語を喋ることができるのは、日
本がかつて朝鮮人に日本語を強制したためである。

この場合、まさに、エスペラントの中立性がよくあらわされている。

ただし、わたしはここで、ミーちゃんハーちゃんのひとりとして、エスペラントを考えたい。ミ
ーちゃんは常に「重要な社会問題」に興味をもつとは限らない。ミーちゃんにとっては、水
は「ウォーター」しか知らなかったのが、たとえばイタリアへいって、辞書で見たばかりの
「アクア」と叫んだところコップの「水」が目の前にあらわれたら、「ウワー、通じた!」と感
動することが大事である。つまり、ミーちゃんは、幼児のように、言葉が実際にモノを示し、
言葉でモノが呼び出されることに単純に感動する。そして、この種の単純な感動が、たと
えばイタリアでならイタリア及びイタリア語への親愛を呼ぶ場合があって、イタリア語のカ
タ言を五ツや六ツは食事している間に覚えてしまうこともある。これは、言葉を覚える、い
わば原初的なよろこびといえる。

12松戸彩苑:2008/01/12(土) 15:37:47
>>11 の続き)

それからもうひとつ、ミーちゃんというのは、努力するのが好きではない。ということは、ほ
んの少々の努力をしても、すぐにその結果が明らかにならないと決して次の少々の努力
もしない。ミーちゃんは「重要な社会問題」や「人類の平和」や「イデオロギー」のために、
新しい言葉を覚える努力なんてしない。いかに、エスペラントが人類の共通語として中立
であり、そういう中立語がこれからの人類には必要であろうとも、目先のよろこびや目先の
結果、効果をミーちゃんは求める。エスペラントを覚えて、それを旅行先のエスペラント国
で使ってみて、すぐに目の前に水が出てきたり、ほしいモノが目の前に出てくるなら、ミー
ちゃんはそれを覚えるが、それができないと関心をもたない。

勿論、エスペラント国はないが、世界中にエスペランティストはいる。そのひとたちと会えば、
他のひとが驚き、うらやましがるような、エスペランティスト同士の通じ合いがある。しかし、
それは意志的でなければならぬ。エスペラントを覚えること自体、最初から意志的であり、
思想的である。エスペラントを学習すること自体がひとつの思想の表明となる。また、共通
語への強い思想があってこそ、エスペラントを使い切るまでの学習がありえる。これは、エ
スペラント自体の強さであると同時に、ミーちゃんに対する拡張作戦というより、ミーちゃん
への認識不足をあらわしている。人間は、意志的な人間や思想的な人間ばかりではない。
実際には、英語よりもエスペラントの方が、文法も発音も簡単である。それなのに、エスペ
ラントに興味を示すミーちゃんはいない。

これにはいくつか理由があると思える。勿論、エスペランティストでないわたしの推測を出な
いから、見当はずれかもしれない。以下のような邪推をご容赦ねがいたい。

エスペラントを学び使うことが意志的であり、思想の表明をするといったことと矛盾するが、
はたしてエスペランティストすべてがそうであるかどうか。むしろ、青春期の好奇心や、少々
変ったホビーとしてエスペラントに出会って熱中したために、エスペラントを使いこなすまで
にはなったが、趣味の同好会意識から出られぬひとも稀にはいるかもしれない、ということ。
しかしそのひとたちは、マニアックに学んだために実力はあるから、それが逆に同好会意
識を強めることになるかもしれぬ。そういうひとにはミーちゃんを思想的にまきこむオルガナ
イザーとしての力はない。

またその逆に、エスペラントを学ぶことを平和運動とか平和主義と結びつけすぎて窮屈なも
のにしてしまい、ミーちゃんが旅行英語に示すような単純な興味を軽蔑し、問題にしなさすぎ
るのではないかと邪推する。エスペラントを学べばこれだけ現実的トクになるという風なミー
ちゃん向けの宣伝を今まで見たことも聞いたこともない。

(同書130〜134ページ)

13松戸彩苑:2008/01/13(日) 21:32:40
>>5 >>8 >>9
そういえば、論語のなかに「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」って言葉があり
ますよね。

エスペラント界も「和して同ぜず」であってほしいものです。

14ベダウリンデ:2008/01/16(水) 08:53:55
>富岡多恵子(著)『「英会話」私情』(日本ブリタニカ 1981年)
一般の人への普及方法を全く考えてない、という指摘ですね。
30年近く前に既に今と同じような指摘がされているんですね。
ということは、エスペラント界はその時点からずっと変わっていないのですね。
理由として私が思うのは、
一、そういう意見を敢えて無視してきた。
二、分ってるけど、やりようがなかった。
とあると思う。

一、としては、掲示板でもふとした拍子に出るように、異なる考え方の者をエスペラントから排除しようとする言葉に表れてる。
異分子には入ってほしくない、という本音が出ちゃう。
ゆるやかな表現でも、誘う人は限定してる、とか、思想が無ければどうせ長続きしない、という内容の書き込みもありました。

二、としては、実際問題として、一般の人を引き付ける要素が、エスペラントには全く無い。
「ミーちゃん」をなめてはいけない。「ヨン様ファンのおばさまが韓国語を習う」事例を出すまでもなく、
外国の何かが本気で好きになれな、言語の壁を乗り越えたいという強い意思になる。
日本が誇るアキバ系オタク文化でエスペラントを宣伝すれば、という意見もありますが、
世界のotakuは既にガンガン日本語を学習してるという。その人達も元はただの「ミーちゃん」のはず。

エスペラントが出せる独自色は「平和思想」しかない、と主流派は思ってるのかもしれない。
けど、掲示板見てると、それに不満を抱いてるエスペランチストは、少なからずいる。
一、の問題とからんで、非常に不快な思いをさせられているように思う。
すごくもったいない事だと思う。

15ベダウリンデ:2008/01/16(水) 09:19:00
「平和思想」でないなら、何をエスペラントに期待してるのか。
秘密の日記を書きたいなら、確かに、エスペラント以上にマイナーな言語を選ぶ方が賢明。
秘密、ではなく、人と交流したいから、人工言語の中でもメジャーなエスペラントを選ぶんだと思う。
特定の国だけが好きなら、その言語だけ深く追及した方が有意義。
特定ではなく、比較文化的に、色々な国から情報を集めたい、という期待があるからエスペラントにしたんだと思う。
英語でもいいけど、英語だとどうしても英語圏の人の比率が高まるから、人工言語に期待するんだと思う。
自分だったら、そんな感じかも。

そもそもみんな、エスペラントに何を期待して始めたのか、気になる。

16松戸彩苑:2008/01/18(金) 04:22:39
たしか半年くらい前だったと思いますが、私はこの掲示板のどこかに「町田健という言語学
者がエスペラントについて論じている」と書いたんですが、最近、部屋の掃除をしているとき
にこの文章をコピーしたものが見つかりましたので、ここに引用することにします。

出典は、町田健(著)『言語学が好きになる本』(1999年 研究社)の172〜177ページで
す。

なお、この文章には脚注がついているんですが、これを忠実に再現することは困難ですの
で、本文のあとに注を付すという形にしておきました。

エスペラントをやっている我々のような者が読むと、あちこちに文句をつけたくなるような文
章なんですが、しかしこれが、東大の大学院を出たプロの言語学者なんですよね。
---

Q24 英語とエスペラントはどっちが国際語にふさわしい?

  エスペラントは本当にやさしい?

エスペラントは、一八八七年にポーランドの眼科医である(注1)ザメンホフが考案した人
工言語です。人工言語に対して、日本語や英語のような「普通の」言語を「自然言語」とい
います。自然言語は、まさに自然に、いつの間にかできあがっていたコトバでして、誰かが
作ったものではありません。一方、人工言語は、エスペラントの場合のように、誰がいつ作
ったかちゃんと分かっているコトバのことをいいます。

人工言語として一番有名なのはエスペラントですが、人間なら誰でも使える人工言語の
発想は(注2)十七世紀からあり、特に十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけて、
たくさんの人工言語が作られています。たとえば、「ボラピュク」「インテルリングア」「イド」
「オクシデンタル」「ノビアル」などで、ほとんどが英語とかラテン語とかの、ヨーロッパの言
語をもとにして作られた言語です。

さてエスペラントは、世界中の誰でもが、同じコトバでコミュニケーションを取り合うことが
できるようにすることを目的として作られた言語ですから、覚えなければならない単語の数
は自然言語よりも少ないですし、語形変化などの文法規則にも例外がないようになってい
ます。

そういう点では、英語や日本語に比べると覚えやすい言語なのでして、それじゃあなんで
エスペラントが世界のどこでも通じる国際語として使われるようになっていないんだろう、
と思う人がいても不思議ではありません。多分、(注3)世界に百万もいるというエスペラン
トの愛好者(「エスペランチスト」と呼ばれます)もそう思っているはずです。

その理由としては、まずエスペラントそのものの性質があります。エスペラントは覚えるの
が簡単だと申し上げましたし、エスペランチストもそう言っているのですが、それはヨーロッ
パ諸語を話す人々にとってであって、日本語とか中国語などを使う非西欧人にとってはそ
うではありません。

エスペラントでは(注4)「人間」は homo、「本」は libro、「パン」は pano、「美しい」は bela、
「持つ」は havas と言うのですが、こういう単語は、イタリア人とかスペイン人なら、大体の
ところの意味の見当はつくでしょう。でも私たち日本人の大多数は、イタリア語もスペイン
語も知らないのですから、pano はパンかなあ、そういえばどっかの本屋の名前が「リブロ
栄」とか言ってたから、libro っていうのは「本屋」っていう意味なのかなあ、みたいな感じ
でぼやっと分かる程度ではないでしょうか。

英語を使う人々だって、やっぱりスペイン語なんかを勉強していないんだったら、意味の見
当がつくのは、havas ぐらいだと思います。エスペラントで覚えるべき単語の数は少ないと
いっても、全部で一万五千もあるのだそうですから、これだったら英単語を覚えるほうが楽
かもしれませんよね。

17松戸彩苑:2008/01/18(金) 04:25:06
>>16 の続き)

  あなたもエスペランチストになれるか

それから、エスペラントには定冠詞の la があって、名詞が「定」であるという性質を表すの
ですが、「英語の冠詞の使い方に決まりなんてあるの?」の項目でお話ししましたように、
日本人にとっては、名詞の指すモノがどういう性質をもっている場合に定冠詞を使えばい
いのかということは、なかなか理解するのが難しいのです。エスペラントには不定冠詞の
ほうはないんだそうですが、(注5)それにしても冠詞があるということは、日本人(それに
中国人や韓国人など冠詞のない言語を使っている人々)にとっては厄介な問題だと思い
ます。

この他、仮定法があったり、関係代名詞があって用法はむしろ英語より複雑だったりと、
私たちが英文法で頭を悩ませるアイテムは、エスペラントにもきっちりそろっています。ま
た逆に、エスペラントには、日本語の「〜ている」や「〜ていた」のような意味を表す(注6)
進行形がありません。ですから、「いま雨が降っている」と言う代わりに「いま雨が降る」と
言ったり、「私が帰宅したとき、家族はテレビを見ていた」ではなく「私が帰宅したとき、家
族はテレビを見た」のように言うエスペラントは、私たち日本人にとってはどこか不正確な
ような気がするかもしれません。

こういうわけですから、ヨーロッパ諸語、特にイタリア語、スペイン語、フランス語などのロ
マンス系諸語を使っている人々でなければ、エスペラントを覚えるのが、英語に比べて特
に簡単だということはないのではないかと思います。

もちろん、日本人をはじめとするアジア系の人間でも、英語とかフランス語あるいはイタリ
ア語などがよくできる人であれば、文法規則に例外がないだけに、エスペラントは大変や
さしい言語に見えるでしょう。

(注7)しかし単語をそれなりの数だけ覚えて、文法規則もちゃんと理解したからといって、
外国語が自由自在にあやつれるようになるわけではないことは、私たち日本人には身にし
みて分かっていることです。ですからエスペラントだって、基本をマスターしたあとは、会話
の訓練をしたり、小説などの文章をできるだけたくさん読んだり、自分でもきちんとした作
文をしたりと、いろいろと努力をしなければ、結局はうまくなることはできないわけです。

  エスペラントと英語

だったら英語と同じじゃないかと思われるでしょう。そうです。私たちの母語ではない以上、
エスペラントも英語も一緒です。もちろん、英語のほうが、覚えるべき単語はエスペラント
よりは多いですし、文法規則にも例外がたくさんありますから、最初に勉強するときには、
英語のほうがエスペラントよりも大変だということは確かでしょう。

しかし、一度基本を覚えたあとに、一層うまくなるためにしなければならない努力は、英語
もエスペラントも別に変わるところはありません。日本のような国だったら、駅前に英会話
学校はいくらでもありますし、本であれ雑誌であれ新聞であれ、英語で書かれたものを手
に入れるのに不自由はしません。ですから英語の力をみがくための環境は、エスペラント
よりははるかに充実しているわけで、(注8)気力さえあれば(気力を出すのが問題ではあ
るのですが)いくらでも上達する可能性は与えられてます。

さらに、今の日本の社会では、英語が上手であることによるメリットには大変大きなものが
あります。大学入試、就職、昇進など、いろいろな機会に、英語の能力が望ましい目標を
達成することの手助けをしてくれます。一方、エスペラントの達人だからといって、一流の
会社の人事担当者に有能だという印象を与えるのは難しいでしょう。

お見合いの席でだって、「美佐子さんは英会話が達者でいらっしゃいますのよ」と言うと、
ああ美佐子さんは知的な女性なんだろうなと、一応は思います。一方、「美佐子さんはエ
スペラントが達者でいらっしゃいますのよ」と言ったって、「ええっ? そんなエスニック料
理あったっけ」と思う人がいるだけかもしれません。たとえエスペラントのことを知っていて
も(もちろん知っていてほしいですが)、(注9)それだけで美佐子さんを高く評価する相手
は、そうそうはいないのではないでしょうか。

18松戸彩苑:2008/01/18(金) 04:27:02
>>17 の続き)

つまり、日本では英語を勉強するための「動機」をもたらすものがたくさんあるのに、エス
ペラントを学習させる動機を与えるものはあんまりないのです。これは日本だけでなく、ど
の国でもそうだろうと思います。巨大な経済力と高い文化をもつアメリカを背景とする英語
と、主としてヨーロッパと東アジア(日本、中国、韓国)に百万人程度しか使用者がいない
エスペラントでは、学習の魅力ということについては、勝負になりません。

結局エスペラントは、クラシック音楽とか日本舞踊とか俳句のような、一種高尚な趣味の
一つといった雰囲気に包まれているんでして、(注10)国際語としての実用性を発揮する
のは、残念ながら難しい状況にあるといえるでしょう。

ですから、現実的に考えると、英語が国際語として普及するのは致し方ないと考えるしか
ありません。しかも幸いなことに、英語というのはエスペラントに似て、動詞の活用とか名
詞の形の変化とかが比較的単純ですから、最初に学習する外国語としてはとっつきやす
い性質をもっています。そして世界の多くの国で英語が第一外国語としてすでに学習され
ているのですから、このまま英語が国際語としての道を歩み続けることになるでしょう。

  英語が国際語でいいのか

しかし、日本人である私は悔しい! なぜならば、英語が国際語としてのゆるぎない地位
を確立してしまったら、英語を母語とする国の人々は、世界的レベルのコミュニケーション
で圧倒的に優位に立つからです。日本語が国際語になればいいのですが、フランスでさ
えあれだけフランス語の普及に努力しているのに、結局は英語に押されっぱなしという事
実を考えると、(注11)日本政府はフランス政府ほどの努力もしていないのですから、日
本語が国際語になれる可能性は薄いと思います。

交渉とか議論とかを英語でする際に、相手が英語を母語とする人間だと、どうしてもそれ
だけで気後れしてしまいますよね。相手は全然たいした内容のことを言っていないのに、
それに対するまともな反論もできない自分がなさけなくなることさえあります。ところが、相
手も英語を母語とする人間じゃないと、どうせお互い下手なんだからという安心感があって
か、けっこう堂々と英語が話せたりします。

というわけで、世界の人々がすべて対等にコミュニケーションをするためには、誰かの母
語ではない言語を国際語として用いるのが絶対に望ましいのです。そしてそのような国際
語としていま通用する可能性があるのは、多分エスペラントだけだと思います。

しかし先ほども申し上げたように、エスペラントは国際語になれそうにないのです。この二
律背反をどう解決するか、うーん、コトバだけの問題ではないだけに、私にも名案はありま
せん。


(注1) L.L.Zamenhof(一八五九−一九一七)

(注2) ベーコンとかライプニッツのような哲学者もこういう人工言語を考えたということです。
もちろん、失敗したわけですが。

(注3) このことは、「日本エスペラント学会」のホームページにそう書いてありました。

(注4) 「人間」「本」「パン」は、イタリア語で uomo、libro、pane、スペイン語で hombre、libro、
pan です。エスペラントとよく似ていますよね。

(注5) ま、冠詞の使い方を間違えたって、通じることは通じるんでしょうが。

(注6) もっとも、進行形のない言語は世界にいくらでもあります。ドイツ語とかロシア語が
そうです。

(注7) 英語学の大家といわれる学者でも、「話すのはなかなか大変でねえ(もちろん英語
のことです)」と言っているのを聞いたことがあります。

(注8) 外国語は、基本を覚えたあとの上達が、最初よりはぐっと遅くなるので、中級以降
の努力が苦しいですね。

(注9) エスペラントが上手であることは、日本では、英語も同様に上手だということを意味
する場合が多いのですが。

(注10) でも、エスペラントを知っていると、世界中のエスペランチストの家に泊めてくれる
ので、旅行が楽だと、ある日本のエスペランチストが言っていました。

(注11) 最近では日本語教師の海外への派遣なんかも行われるようになりましたが、フラ
ンスはそんなことずっと前からやっています。

19ベダウリンデ:2008/01/18(金) 20:18:38
思ったんですが、「平和思想」はエスペラントだけの専売特許じゃないよね、と。
世界中の良識ある人々が(各自考えてる方法は色々あるんだろうな、と思うけど)平和を望んでると思う。
言葉は違っても、通訳などを介して、どうにか意思疎通して、平和を築ければ、それでいいように思う。
とすると、エスペラントの独自性って何が残るんだろう?って思う。

>『言語学が好きになる本』
私も数年前に読みましたよ。その時はエスペラントなんて全く関心が無かったせいか、
上記引用の箇所は全く記憶にないです。他の部分は結構勉強になって面白かった、と記憶してます。
曲がりなりにもエスペラントが紹介されてたのに、人工言語?ありえなーい、無視!という感覚だったんですね。
数か月前の自分を思うと、一般人の感覚なんてそんなもの、と思います。

20松戸彩苑:2008/01/19(土) 08:46:22
「言語学者は、エスペラント&エスペラント運動をどう見ているか」という点について知るの
に役立つと思われる文章が、日本エスペラント学会の機関誌である「La Revuo Orienta」
2001年7月号に載っていましたので、ここに転載しますね。

なお、この文章を書いたのは臼井裕之氏です。

  1998年、わたしは krokodili について書いた一文を『現代思想』なる雑誌に載せても
  らう機会を得た。きっかけは、林正寛さんという言語学者(かの田中克彦氏の弟子であ
  る)に推薦してもらえたからだが、この林先生いわく、「エスペランティストの文章って押
  しつけがましいでしょ? でも君の文章にはそういうところがなくて、エスペラントではこ
  うだと、淡々と書いてあるから推薦しようと思ったんだ」。

  (「La Revuo Orienta」2001年7月号29ページ)

ネットで調べると判るのですが、この林正寛という言語学者の方の専攻は「言語社会学」な
んですね。
そういう人物が、「エスペラントは重大な社会問題である」と主張するエスペランティストの
文章を「押しつけがましい」と言ってるわけですね。

エスペラント界には「従来の宣伝のしかたで良いんだ」と考えておられる方も少なくないよう
ですが、こういった文章をみると、とてもそうは思えないんですよね。

21松戸彩苑:2008/01/19(土) 12:11:21
ルイ=ジャン・カルヴェ(著)『超民族語』(文庫クセジュ776 1996年 白水社)という本
があるんですが、この本のはじめのところに田中克彦氏が執筆した「解説:この本を手に
する読者へ」という小文があって、このなかに次のように書いてあるんですね。

  エスペラント語は、たとえばトルストイは2時間でマスターしてしまったほど学びやすい
  言語だと言われ、私もそのように宣伝してはいるが、やはり使ってなれないと、そう自由
  にというわけには行かない。私はかつて同好の市民をさそって、国立(くにたち)公民館
  で学習会を開いたことがある。噂を聞いてある日、古参の老練なエスペランチストでチェ
  コ文学者でもある栗栖継さんが突然会場に現われて授業参観をなされ、「田中さん、エ
  スペラントはやってみると案外むつかしいもんですよ」と言い残して立ち去られたときの
  ことをありありと思いうかべるのであるが、全くその通りなのだ。ことばの勉強ほど、口さ
  きでごまかせないものは他にあまりないのである。

  (同書8ページ)

私はこれを読んで「アーア」と思ったんですよね。

これまでエスペランティストは一生けんめい「エスペラントは学習容易である」と宣伝してき
たわけですね。
しかし、エスペラントについて多少は知っている著名な言語学者に、それを真っ向から否定
するようなことを本に書かれてしまったわけです。

なお、この本の著者であるカルヴェというのは、1942年生まれの世界的に有名なフランス
の言語学者なんですが、そういう人の本(しかも1000円弱の新書)ですから、言語社会学
あるいは言語学一般に関心のあるすべての日本人が目にする可能性があるわけですね。
そういう本のなかにこんなことを書かれたというのは、やはりマズイよなと思いました。

とは言っても、考えてみれば、この本が出る以前から、エスペラントには社会的な信用は
無かったわけです。
そもそも、もし本当にエスペランティストが言うように、エスペラントが学習容易でなおかつ
レベルの高いものだったら、もっと広まってるはずなのに、そうなってないのですから、世
間の人たちがエスペランティストの言うことを信用するはずがありません。
ですから、進歩的な人たちでさえも、エスペランティストの言うことに耳を傾けようともしてく
れないわけですね。
ということで、この本によって信用が無くなったというわけではないのですが、いわば「ダメ
押し」にはなってるのではないかと思いました。

この発言の主である栗栖氏も、自分の発言が、まさか本に書かれるなどとは夢にも思わな
かったのでしょう。
また、おそらく栗栖氏は「そうは言ったが、でも英語などの民族語を自由自在に使えるよう
になるのと比べれば、やはりエスペラントは易しいんだ」ということも考えておられたのだろ
うと思います。
しかし、エスペラントについてまったく知らない一般の人たちには、そんなことは判るはずが
ありません。
「エスペラントは、ドイツ語・ロシア語・モンゴル語なんかに堪能な田中氏にとっても、やっぱ
り難しいんだ」としか思われないだろうと思います。

ということで、いろいろと考えてきましたが、問題は、栗栖氏や田中氏の個人的な責任に帰
せられるものではなく、

(1) 学習途中で挫折したり eterna komencanto になってしまう人が昔からたくさんいたの
    に、学習方法の改善についてあまり真剣に考えてこなかった。

(2) それでいて、宣伝のときには「エスペラントは学習容易である」と言っていた。

ということにあると思うんですね。
つまり、エスペラント界あるいはエスペラント運動全体の問題だと私は考えます。

もちろん、このように言えば「学習方法をどのように改善すれば良いのか」という質問が出て
くることになるのでしょうが、それは「エスペラントの学習法」スレで論じることにします。

22ベダウリンデ:2008/01/19(土) 16:35:21
言語学者のエスペラント嫌いについては、分かる気がします。
私は今「言語は全て平等である」「全ての言語はどんな内容でも表現できる」という考えを持ってますが、
この考えは、私が読んだことのある言語学入門書から聞きかじって覚えたものだった、んですよ。(今でも賛同してるけど)
「よろず」の方にザメンホフ氏の演説が紹介されていましたが、それを見ると、ザメンホフ自身がエスペラントと特定の思想を結びつけていた、らしいですね。
つまり、エスペラントのみ、特別な「平和の言語」なんです。
「日本語は言霊が宿る神聖な言語」とか言うのと、全く同じレベルです。
これは言語学者の「言語は平等」という常識から見ると、アホらしすぎる、んだと思います。
今現在、平和愛好者からもエスペラントは注目されてなく、エスペランチストの考え方も様々、という事実からすると、
言語学者の説の方が絶対正しい、と思います。

23松戸彩苑:2008/01/19(土) 18:20:44
>>22
いくつかコメントしたい事があります。

まずザメンホフは、自分の思想(Homaranismo と言います)を、あくまでも「個人的な意見」
として発表してるんですね。
つまり「誰にも無理強いしない」ということを自ら明言してるんですね。

それから、ザメンホフの思想の内容ですけれども、これについて説明する前に、まずザメ
ンホフが生きていたころのヨーロッパ情勢について知っておく必要があります。

ザメンホフが生きていたころは、ポーランドという国は無く、ポーランドの東半分はロシア領、
西半分はドイツ領、そして南側のほうはオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったんで
すね。

で、ザメンホフが住んでいたのはロシア領となっていたポーランドの東半分だったんです
が、ロシアにおいてはユダヤ人がひどく差別されていたんですね。

高校に入りたくても、ユダヤ人の受け入れ人数はものすごく少ないとか、基本的にユダヤ
人は公務員になれないとかというのはまだ序の口で、何十年かに一度「ポグロム」と呼ば
れる反ユダヤ暴動が起こって、キリスト教徒の一般民衆がユダヤ人を襲撃して殺害する
ということまであったわけです。
ザメンホフ自身も、生涯のあいだにポグロムに2度遭遇してまして、そのときは地下室に何
日か隠れていたそうです。

日本では「ユダヤ人差別」というと、ナチスによるものと、ドレフュス事件くらいしか知られて
いないみたいなんですが、現実には、昔は今以上にキリスト教色が強かったわけですから、
程度には差があっても欧米全体に反ユダヤ的な雰囲気というものがあったわけです。

で、ロシアは特にユダヤ人差別がひどかったんですね。

ザメンホフの思想というのは、このような当時の社会のなかで「生存の権利」を求めるもの
だったんですね。

「思想」というと、なんだか胡散くさいものだと思ってしまう人が多いわけですが(もちろん、
胡散くさい思想が多いのも事実なんですが)、しかし、ザメンホフの要求したものは、あくま
でも「生存の権利」を求めるものであり、きわめて真っ当なものだと思うんですよね。

ザメンホフの思想について考える際には、こういった当時の事情を理解していただきたい
ものです。

また、こういったことについてもっと詳しく知りたい場合には、ザメンホフの伝記であるとか、
あるいはザメンホフの演説や論文を邦訳した水野義明(編・訳)『国際共通語の思想』(19
97年 新泉社)という本を精読されると良いと思います。
---

それから「ザメンホフやエスペランティストたちが、エスペラントを特別視する」というお話で
すが、これには理由があります。

つまり「民族語」のあいだには優劣は無いのですが、しかし「国際共通語」として使われる
言語については、学習が困難で、ネイティブとそうでない人とのあいだに深刻な差別を生
む民族語であってはならず、必ず、合理的に作られた人工語でなければならない、という
考え方がエスペラント界にはあるんですね。

これは「国際語思想の本質と将来」という1900年ごろに執筆・発表されたザメンホフの論
文のなかに書いてありまして、先述の『国際共通語の思想』のなかにも収録されています。

ということで、ご指摘のような「自国語至上主義」などとはまったく違うんですけれども、ど
うもこの点がなかなか判っていただけないようですね。
まぁ、説明のしかたが良くないのかもしれませんが。

24ベダウリンデ:2008/01/20(日) 17:01:36
>まずザメンホフは、自分の思想(Homaranismo と言います)を、あくまでも「個人的な意見」
>として発表してるんですね。
>つまり「誰にも無理強いしない」ということを自ら明言してるんですね。

「あいさつ・雑談」スレで「外の人」さんが、リンクをはってる個所から、「ザメンホフの演説」を読んだんですが、
そこでは、はっきりと、「実用のためにエスペラントを使おうとする人は仲間になるな。もしそんな人間が増えたら私はエスペラントやめる!」という趣旨の事を言ってますよ。
印象としては、ヒステリックで短気、自分の気に入らない人間は排除したいという傲慢さ、言う事きかないなら創始者のくせにやめると言い出す無責任さ、を感じます。
「外の人」さんも、あの演説でかなり悪印象だったみたいですが、私も同感です。
私の場合、たとえザメンホフ氏があの演説の印象どおりの「き○○い博士」だとしても、その制作物がツールとして有効活用できれば、それでいいじゃない、と思っていますが。

ザメンホフ氏の演説が正しいなら、「平和思想でなく一般人に普及を」という松戸さんのご意見も、ザメンホフ氏の意思からはずれてしまいます。
まずザメンホフの思想なりを説明して、賛同してくれた人だけ勧誘すべきです。
松戸さんじゃなくても「エスペラントをEUの公用語に」という意見だって、EUという「実用」に使うという点では、ザメンホフ氏の意思に反します。
その理由が「翻訳などの手間が省け経済的だから」だとしたら、ザメンホフ氏ぶっとびます。

PS。歴史はこれでも結構かじってきてるので、「ポグロム」とか、知ってます。
ザメンホフ氏の演説の内容には関係なく、民族差別の中で苦渋を味わう気持ちのつらさ、分ります。
映画とかにも描かれているので感情移入できます。
差別に甘んじながらも、異民族と共存しながら、ささやかに生きていたのに、ある日突然「隣人」が牙をむくんです。
それも正当な理由は全くなく、いきなり家族などが殺される。でも「復讐」とかできない。それにも甘んじなければならない。という

25松戸彩苑:2008/01/20(日) 20:16:35
>>24
ベダウリンデさんがお読みになったのは、「エスペラントよろず相談室」の administranto
さんが投稿した「私が好きなザメンホフの演説」(投稿日:2008年1月13日(日)01時45分5
秒)に引用してある文章のことだと思います。

これは、1906年にジュネーブで行なわれた第2回世界エスペラント大会におけるザメン
ホフの演説の一部ですね。

この演説のこの箇所はひじょうに有名なものなんですけど、同時に、たいへんな誤解をさ
れてるものでもあるんですね。
いや、「誤解」と言うよりは、はっきり言って「意図的な曲解をされている」と言ったほうが正
解だったりします。

この部分の意味を正確に把握するには、この部分だけではなく、この部分の前後にある文
章をも読まないといけないんですが、「理念」が大好きな人たちは、意図的にこの部分だけ
をクリッピングして、あたかも自分たちのやってることが、ザメンホフの遺志を正しく受け継
いだものであるかのように主張してるんですね。
---

この演説の全文を邦訳したものが >>23 で紹介した『国際共通語の思想』という本に収録
されている(同書197〜211ページ)ので、できればそちらを読んでいただきたいんですが、
ここではザメンホフの真意をかんたんに紹介しておきましょう。

まず、「エスペラントを実用に使うこと」と「エスペラントを理念のために使うこと」というのが
問題になってるわけですが、これを次のように図式化します。

(1) 実用のみOKで、理念は禁止。

(2) 実用も理念もOK。

(3) 理念のみOKで、実用は禁止。

で、ザメンホフがこの演説で言ってるのは、(1)「実用のみOKで、理念は禁止」というのを
主張する人たちに対して「それは絶対に受け入れられない。(2)「両方OK」でなければなら
ないんだ」と反論しているだけなんですね。

ということで、ザメンホフは決して(3)「理念のみOKで、実用は禁止」などと言ってるわけで
はないのですが、先ほども申しましたように、理念が大好きな人たちは、演説の一部分だ
けを取り出して、ザメンホフがまるで(3)「理念のみOKで、実用は禁止」と言ったかのように
思わせようとしているわけですね。
---

それから、この部分でザメンホフが少々常軌を逸したように激しく激昂してるのにも、わけ
があります。

じつは、この演説がなされる何ヶ月か前に、ロシア各地でポグロムが発生して、ザメンホフ
の住んでいた町でも暴動が起こるんですね。

ロシアはそういう状態なのに、西ヨーロッパのエスペランティストたちは、そういったこととは
まったく無関係ですから「理念みたいなものは無いほうが良いよな」みたいに思う人がいた
らしいんですね。

ザメンホフは、それに激しく反対しているわけです。

そういった事情が判らないと、頭がおかしいのかと思ってしまうのでしょうが、けっしてそうで
はないのです。

26りょほう:2008/01/20(日) 20:55:09
>>25
>第2回世界エスペラント大会におけるザメン
ホフの演説のエスペラント原文はここです
http://www.esperantouniverse.com/?pid=art0693464389_355

>ベダウリンデさんがお読みになったのは、「エスペラントよろず相談室」の administranto
さんが投稿した「私が好きなザメンホフの演説」(投稿日:2008年1月13日(日)01時45分5
秒)に引用してある文章のことだと思います。

引用されている文章は9段落目の途中から10段落目の途中までです。

27松戸彩苑:2008/01/20(日) 21:05:11
大事なことを忘れていました。

「エスペラントよろず相談室」に引用してある文章のなかに「思想」という言葉が出てきます
が、これは >>23 で言及した Homaranismo のことではないですね。

Homaranismo は、あくまでもザメンホフの個人的な考えなんですが、「エスペラントよろず
相談室」に引用してある文章のなかに出てくる「思想」というのは、la interna ideo (内在思
想)とザメンホフが名づけたものですね。

とは言っても、これは「思想」と言うほどのものではなくて、ただ単に

  ここ(エスペラント大会)に来ている皆さんはエスペラントをやってますけど、皆さんがエ
  スペラントをやってるのは、やっぱり単なる実利を求めているからではなくて「言葉の壁
  をのりこえて、世界中の人間が仲良くなるべきだ」と考えてるからだと思うんですよね。

  ブローニュ宣言には「エスペラント運動においては、思想はまったく関係ない」って書い
  てありますけど、しかし、この「言葉の壁をのりこえて、世界中の人間が仲良くなるべき
  だ」というエスペランティストに共通する思いだけは、無くしたり否定したりすべきではあ
  りません。

といったことを述べているんだと、私は思いますね。

当然のことながら、理念が好きな人たちの解釈では、私とは違って、「革新的な運動に邁
進すべきなんだ」と言ってるって事になってますね。

だいたいこんなところで判っていただけたでしょうか?
もっと判りやすく説明できると良かったんですが。

28ベダウリンデ:2008/01/21(月) 09:07:23
ありがとうございます。大体分かりましたし、期待したようなお答えが得られました。

ここで余計ながら自分の考えを言わせてもらいますと、私は
「どこの国(民族)のものでもない人工言語で、平等に国際交流を」という意見には賛同します。
またエスペラントの言語仕様には、今のところ十分満足しております。
以上の2点から、私はエスペラントを支持します。

私は「ザメンホフ教」の信者になりたくてエスペラントに目をつけた訳ではありません。
だから、ザメンホフの伝記、演説、思想(?)などに触れることをちょっと敬遠してるところがあります。
ザメンホフ氏が高潔な人格者なら喜ばしいですが、へんてこ博士でも十分なのです。
それに演説だと、ご指摘のような「時流」や、単にその場の雰囲気に合わせて変わる事もありえますから、
演説のこの部分が変だ、だからエスペラント全否定、とはならないです。

で、思ったんですが「エスペラント教」にとってはザメンホフの演説は「経典」なんでしょうね。
聖書もコーランもあるいは仏教の経典も、もともとは聖者の言動を記したものがベース。
そこにはどうしても、曖昧な点、矛盾する点があって、それをどう解釈するのかが神学とか法学とか(仏教だと何だっけ?)で、
その時々の時流に合わせ柔軟に解釈するのが、現代の目線では「マトモ」な学派で
一部だけ取り上げてそこだけ頑なに守ろうとするのは「原理主義」で、一般日本人目線では、ちょっと・・という世界なのでしょう。
おそらくエスペラント界にも、両方存在するのでしょう。でもそれはそれで、信仰は個人の自由、なんですよね。

「エスペラントは平和の言語である」とか言って、言語と思想を一体化する意見には今でも反対です。
また「エスペラントやるならザメンホフの思想を理解すべきだ」という意見がもしあるなら、
それも私にとっては余計な事です。
実用でも理念の表現でも、両方に使える言語であってほしいものです。てゆうか言語ってそういうもの。

29Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/01/21(月) 20:28:01
ザメンホフの大会演説ならこっちのほうがよさそうですよ。
http://www.steloj.de/esperanto/paroloj/

30松戸彩苑:2008/01/22(火) 04:31:06
>>28
ザメンホフは、自分の考えをエスペランティストたちに押しつけようとは思っていなかった
わけですが、しかし、現実に存在している民族間の対立まであっさり無視されたのでは、
苦労してエスペラントを作って宣伝してきた意味が無くなってしまうわけですね。

こういった事情があったので、ザメンホフは「エスペラントは、いかなる思想からも独立して
いる」んだが、しかし「思想をいっさい禁止するというのには断固として反対する」とか「エス
ペラント運動のなかにも内在思想というものはあるんだ」といった、なんとも判りにくい、綱
渡りのような議論を展開するわけですね。

厳密に考えれば、こういったザメンホフの主張には矛盾があるんじゃないかと思うんですが、
しかし、そういうややこしい議論を展開せざるを得なかった事情というのもあるわけですね。

ザメンホフは論理学者ではないのですから、そのあたりは大目に見ないといけないのでは
ないかと思います。
---

それから、いちおう言っておきますと、エスペラントをやっている人間のすべてが、ザメンホ
フの考えに100%賛同しているわけではありません。

というか、今どきザメンホフの考えに100%賛同しているエスペランティストなんて、まず居
ないんじゃないかと思いますね。

私も、ザメンホフに対して敬意は持っていますが、彼の思想がそのまま現代社会に役に立
つとは思っていません。

ということなので

> 私は「ザメンホフ教」の信者になりたくてエスペラントに目をつけた訳ではありません。
> だから、ザメンホフの伝記、演説、思想(?)などに触れることをちょっと敬遠してるところ
> があります。

と書いておられますが、関心がなければ読む必要はありません。
「ひょっとしたら、ザメンホフの思想に関心があるのかな?」と思ったので、>>23 で本を勧め
てみたってだけなんですね。

ベダウリンデさんも、エスペラント界における「個人崇拝」みたいなのに抵抗を感じておられ
るのでしょうが、じつはザメンホフ自身も嫌がってたんですよね。
本人が「やれ」と言ったわけではないのに、周りの人間が勝手に祭り上げてしまったわけで
す。

31松戸彩苑:2008/01/23(水) 03:28:31
個人崇拝みたいだってことを考えてて気がついたんですが、アムネスティ、ロータリークラ
ブ、ライオンズクラブ、ボーイスカウト&ガールスカウト運動なんかでも創始者はいるわけ
ですが、そういう人たちを運動の前面に大々的に押しだしたりはしてないんですよね。

もちろん調べれば判るんですが、わざわざ調べないと判らないというくらいの扱いしか受け
てないんですよね。

赤十字社については創始者も有名ですが(アンリ・デュナンですね)、しかし赤十字社が
「創始者の思想や生涯を学びましょう」などと言ったりはしてません。

ということで、創始者の思想や生涯を重視する運動とは何かと考えてみると、やっぱり宗教
やイデオロギーくらいのものなんですよね。

こういったことを考えますと、やはりエスペラント運動は、創始者について語りすぎているの
で世間から誤解されてるんじゃないかなぁって思いますね。

32ベダウリンデ:2008/01/23(水) 10:38:30
>創始者について語りすぎているの
>で世間から誤解されてるんじゃないかなぁって思いますね。

それはあると思います。創始者を崇拝してるように見える人もいます。
それはその人の信仰の自由だから、「崇拝するな」とは言えないんだけど、
そういう人に限って声高に主張するので、全体がそう見えてしまう。

だから松戸さんのような「マトモ」な学派(現代の感覚に合わせて経典を柔軟に解釈できる人)は必要だなーと思います。
(色々教えて頂いて感謝してます)
一部の人に「経典ではそう言ってる」と言われると、「そうなのかなー、だとしたら、やっぱ自分には合わないのかなー」と思って不安になります。
自分で経典を読み解く気にはなれないし、経典も読まずに「いや絶対違う」という自信も無い。
経典に詳しい別の学者さんにお伺いして一安心、という感じでした。

それから例の演説、崇拝者にとっては感動物で、ほんとにいいと思って紹介してるんだろうけど、
あの部分だけをいきなり読まされた一般人はいい印象持たないです。
そういう感覚のズレも、致命的だな、と思います。
(一般人が入らないように、敢えて一般人が嫌悪を抱くように仕向けてるのかな、と思う時もあります。)

33ベダウリンデ:2008/02/08(金) 19:22:33
Ĉu Esperanto havas propran kulturon?
エスペラントに固有の文化ってあるのかな?

Kompreneble, Esperanto havas literaturon kaj kantojn.
Kio ekzistas krom ili?
もちろん、文学と歌はあるけど、他に何かある?

Mi ŝatas Esperantajn kantojn.
Sed ĉu ili estas propraj ĝenroj?
Ili estas rokoj,pop-muzikoj,folkoloroj,regeoj(?),tangoj,ktp....
エスペラントの歌は好きだけど、あれは固有のジャンルかな?
ロックとかポップス、フォークロア調、レゲエ(かな???)、タンゴとか・・・

Mi pensas, ke kulturo ligiĝas kun naciaj vivoj.
文化って民族の生活に結びついたものだと思うんですよ。

----Mi estas komencanto.Pardonu miajn erarojn.------

34松戸彩苑:2008/02/09(土) 12:55:05
>>33
「民族文化」みたいなのは無いと思いますよ。
エスペラントを恒常的に使うような社会があるわけじゃないですから。

しかしそもそも、そういうものを国際人工語に求めるというのが、無茶というか、無いものね
だりだと思うんですよね。

世間には「エスペラントには文化が無いからダメなんだ」みたいなことを言う人がたくさんい
ます。

しかし私の考えでは、遊びや旅行といったことで良いからエスペラントを使う人が今以上に
増えて、「エスペラントがそれなりに役に立っている」ということが世間の人たちにとっても
無視できないくらいになれば、こんな「文化」がどうしただなんてことを言ったりはしなくなる
んだと思いますけどね。

彼らの議論はその程度のものだと私は思っています。

ですから「文化の無い言葉はダメだ」などという偏見なんかは相手にせず、

(1) エスペラントの使用者を増やす。
    言い換えれば、学習途中で挫折する人や eterna komencanto になってしまう人を
    減らす。

(2) 日常生活に関する語彙・表現を整備する。

ということが必要だと思うんですね。

35Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/09(土) 13:32:42
「エスペラントは文化がないからダメだ」というしばしば投げかけられる批判には
多数の文学作品の存在で反論するのがお定まりになっているようですね。
無意味な反論ですね。英文学を読みたくて英語を学び、フランス文学を読みたくて
フランス語を学ぶように、エスペラント文学の存在を知ったらそれを読みたくなって
エスペラントを学ぶ人が出るでしょうか。反論のための反論、批判者をやりこめて
黙らせるためのだけの反論ですね。こんなことばかりやっていれば世間から相手に
されなくなります。

36Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/09(土) 14:46:35
Reta Vortaroではkulturi,kulturoはこんな調子です。日本語の「文化」とは
異なります。
http://www.reta-vortaro.de/revo/

37la presenza certa:2008/02/09(土) 15:09:16
>日常生活に関する語彙・表現
文化が定まらないと定まらないモノの最たる例なんですが。

38ベダウリンデ:2008/02/10(日) 08:50:04
Mi havas malgrandan eo-eo-vortaron.
En ĝi 'kulturo' estas jena:
私が持ってる小さい辞書では、kulturoはこうなってます。

“ĉio,kio ne estas naturo; ”...ktp,ktp...
“organizado de kaj vivado en socio, kun normoj kaj kutimoj kaj la lingvoj uzataj;” …ktp…
“plibeligo de la ĉirkaŭaĵo per bel-arto,teatraĵoj,literaturo,konstruarto…”

「自然でないもの全て」等々、(「耕す系」の説明は省略)
エスペラント文の翻訳は責任重大なので、自分なりのとらえ方で言うと、
「習慣」「芸術」も含んだ説明ですよね。

Ĉu bel-artoj enhavas muzikon?
Se jes, plibeligo de la ĉirkaŭaĵo per muziko estas kulturo, ĉu ne?
芸術には音楽も入るよね?
そうなら、音楽で周囲をより美しくする、というのは、kulturoだよね???

39ベダウリンデ:2008/02/10(日) 08:57:57
Reta Vortaroも見たけど、私の持ってる辞書の方が丁寧な説明で、日本語の「文化」に近い感じがします。
Retaの説明にはちょっとがっかり。
でも、両方「ガイジン」が書いた物ですよね?なんでこんなに違うのか?
各自の「民族文化」でkulturoの定義が違うのか?
そしたらこれも日常語の混乱の最たる例ですよね?
物の名前なら名付けちゃえばそれですむけど、概念は各自の思い込みによる所が大きいから
もっと大変です。

まあ、相手が分からないようなら、私はkulturoをこう定義しています、日本人は大体そうです、
とか言えば、理解ある人なら「へー、そういう定義もあるんだ〜」と思ってくれるかもしれないですが、
そこまでするのはメンドーですよね。

40松戸彩苑:2008/02/10(日) 09:32:13
>>37
la presenza certa さん、はじめまして。

たしかに「日常生活に関する語彙・表現」のなかには、ある民族(あるいは一地域)に特有
なものというのも少なくありませんね。

それは私も認めますが、しかし私の考えでは、いわゆる先進国といわれる地域に共通する
ようなモノやコトもかなりあるわけですね。

エスペラントでは、まず最初に、そういう国際的なモノやコトをちゃんと表わすことが出来る
ようにすべきであって、その次に、よりマイナーなことも表わすことが出来るようにする、と
いったやりかたで語彙・表現を増やしていくべきであろうと、私は考えています。

41Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/10(日) 11:49:26
「多文化共生」という言葉を近年よく耳にしますが、この「文化」はkulturoじゃ
ないんですね。じゃあ、何と言えばいいんでしょう。

42ベダウリンデ:2008/02/10(日) 14:59:25
『4時間で覚える地球語エスペラント』の一節に、次の様にあります。

そもそも、文化とは「学問・芸術・宗教など人間の精神活動の産物」(「広辞苑」による)です。

ところが私が見れる「広辞苑」では、次の様です。

衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。

「4時間」では、敢えて、文化の定義から「衣食住」「技術」「道徳」「政治」を外してる、と思えたのですが、
どうなのでしょう?
それとも、別バージョンの広辞苑では本と同じなのでしょうか?

エスペラントは地域的な人間の集合体ではないので、民族文化的な「衣食住」「道徳」の形式は持たない。
もし文化の定義にそれらを含むと、エスペラントには文化が無い、と言われかねない。
だから、故意に文化の定義を捻じ曲げている!?という疑念を抱いたのですが、どうなのでしょうか。
Retoでも精神性ばかり強調し「習慣」は無視しているように見えますが、これも同じ理由???

ちなみに、ウィキペディアでは
La kulturo estas kion faras la homoj, iliaj manĝoj, konstruoj, vestoj, pensoj, ktp.だって。
誰が書いたか知らないけど、日本人のイメージする「文化」に近い。

43Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/10(日) 19:59:16
>>42
>エスペラントは地域的な人間の集合体ではないので、民族文化的な「衣食住」「道徳」の形式は持たない。
>もし文化の定義にそれらを含むと、エスペラントには文化が無い、と言われかねない。
>だから、故意に文化の定義を捻じ曲げている!?という疑念を抱いたのですが、どうなのでしょうか。
きっとそうでしょう。

44松戸彩苑:2008/02/10(日) 20:43:26
しかし考えてみると、エスペラントのような世界中に話者がいるような人工語は「人類史上
初めて」と言って良いわけですし、しかもそれが世間の圧倒的多数の人たちには知られて
いないわけですから、世間における「文化」の定義が、エスペラントの世界のそれをうまく
説明できないとしても、それは当然だろう(あるいは、止むを得ないだろう)と思うんですよ
ね。

45ベダウリンデ:2008/02/11(月) 09:06:13
「多文化共生」って英語で何と言うのでしょうか?Multi cultural かな?
似たような概念でmulticulturalism多文化主義というのがあります。
これは世界的な概念のようで、この場合のculturalはほぼethnicと同様のように思えます。
ただethnicという語は、ヨーロッパ人以外の民族を指す差別的表現、と聞きます。
nationだと、民族国家的ニュアンスが強い、とも。
ヨーロッパ人も含めて差別なく「民族」と言う語がヨーロッパ語には無い。
だからculturalという語に「民族」というニュアンスを含めるようになったのかな?と思いました。

日本語でも右に倣えで、多文化=色んな民族の文化=色んな民族、という感じなのでしょう。
多文化共生=国内の様々な民族グループが国内で不利益を被らないようにサポートしましょう、的な
市民&行政の運動、かな、と。

またmulticulturalismはヨーロッパ語では大体直訳みたいですね。
cultureもほとんど、culture 、cultur 、culturaです。
だからどのヨーロッパ語でも、cultureという語に「民族」のニュアンスを含むようになるのは自然の流れ、のように思います。
詳しい人は教えて下さい。

エスペランチストの一部(一部であると信じたいです)sennacio無民族という概念を標榜してます。
だから、kulturoという語に、民族に依存する概念を付け加えてしまうのはヤバイ事なのです。
すなわち、sennacioはsenkulturoという事になる。
senkulturaは既にエスペラント単語にあり、英語のuncultivated無教養な、という意味。
つまり、エスペラントは無教養になってしまうのです!
もちろん、私自身はエスペランチストが無教養だとは思いません。
しかし、自分の都合で世界中が認識してる定義を勝手に捻じ曲げるなんて、
国際語として成り立つのでしょうか????と言いたいのです。

46Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/11(月) 12:10:27
エスペラントにはgentoという単語があります。ザメンホフも使っていますが、
いい単語です。少数民族、未開民族異民族等の意味合いは特にないようです。
etno,etnaは近年英語から入って来た単語のようです。古い辞書では見かけません。
(もちろんわたしの乏しい知見の範囲でです)。etnologo,etnologioは載っていま
す。ethnic cleansingはエスペラントではetna purigadoと表現されていますが、
これは訳というよりはethnic cleansingの"なぞり"でしょう。etnoという単語は
わたしには、いかがわしい使いたくない単語です。

47ベダウリンデ:2008/02/12(火) 11:44:22
gentoを調べたんですが、「同じ祖先」がメインの意味に思えました。
私は日本人ですが、同じ(ひとりの?)祖先から出てきたとは、感覚的に思えないです。
日本人は、色んな所から人々が流入してできた「民族」と言われます。
イザナギ・イザナミに生み出された子孫(そんな神話あったっけ???)という気は全くしないです。
gentoがいい意味っていうのは、ザメンホフがユダヤ人だから??と思えます。
他の民族だって(ヨーロッパ人でも)、結構混ざってるでしょう。

Reta vortaroでは、gentoのもう一つの意味として、
歴史やkuluturoを共有する(かなり意訳)人間集団、という定義もあるみたいですね。
(gentoにはkulturoがあるんだ〜て思った)
逆にnacioには「国家」的ニュアンスはあまり与えていないようですね。
(nacioは言語、習慣、歴史、伝統が同じだそうだけど、そこにkulturoの語は無いです。nacioにはkulturoは無いのね〜)

「民族」を表す良い語がなかなか、ないですね。

48ベダウリンデ:2008/02/12(火) 20:49:08
一応書くけど、手持ちの辞書(この辞書ネット版もありますね)とウィキペディアでのnacioの定義には
kulturoの語が入っています。意訳では「共通のkulturoを意識する人々」みたいな〜
この感覚の方が一般人の私にはしっくりきます。
変なのはreto vortaroだけなので、良かったと言えば良かったです。この作者、絶対sennacio信奉者ですよね〜
まあ、みんながそうじゃないみたいだから、いいや、と。
皆さんがsennacio信奉者だったら失礼をお許し下さい。

49ベダウリンデ:2008/02/13(水) 09:43:32
私は「民族文化」が好きなので、sennacioが嫌なんです。
確かに、nacioはデリケートな概念だ、とは思う。
エスペラントでも、まれに「国家」の意味で使用される(英語からの流用で)、とある。
支配者側から見れば、nacioの語は、分離独立運動を招きかねない危険な語。
被支配者側から見れば、nacioの名のもとに、自分達のアイデンティティーが否定され、巨大な集団に同化させられるという恐れのある語。
ザメンホフは被支配者側だから、nacioを嫌ったのかな。
今現在「民族」の意味でcultureを使うのは、nationの毒々しいイメージを避けるため、なんでしょう。
「文化」なら大事にしてあげるよ、的な、当たり障りのない語?

私は、自分の民族だけが最高で、他の民族を否定したい訳ではないんです。
お互い認め合って「それも素敵ね」と言いたいだけなんです。
sennacioな世界なんて味気なくてつまんない、と思う。あるのは「思想」だけ、ってね。

ウィキペディアでŜtato kaj nacioの項目にある一行を持ってきます。

Zamenhof: "Kaŭze de konstanta intermiksiĝado de la popoloj, neniu (krom kelkaj heredaj kastoj kiel ekzemple la kastoj hindaj aŭ la hebreaj kohenoj kaj levidoj)
en la nuna tempo povas scii, al kiu gento apartenis lia prapraavo." (El: Gentoj kaj Lingvo Internacia.)

ザメンホフ:「popolo(民衆?)の絶え間ない混ざり合いにより、(幾つかの相続身分、例えば、インドのカーストや、ヘブライのコーヘーン・レビ人のようなものを除き)
現代では誰もが、自分のひいひいじいさんがどのgentoに属していたか、知ることができない。」
てめーらにはgento無い、って言われてるようなもんですね

50ベダウリンデ:2008/02/14(木) 09:25:42
続けて書くけど、みんながなぜエスペラントをやってるのか、よく分からないです。
この掲示板でも「私は左翼です」と高らかに公言する人がいて、そういう人はまたアグレッシブに自己主張するから、とても分かりやすいです。
左翼の思想(中身はよく分からないですが)を世界に広めるための「道具」として、エスペラントを利用しているんだろうな〜と分かります。
でも他の人は総じて、動機面においては寡黙ですよね。
私の予想では、英語が国際語になるのを何としてでも阻止したい=言語の平等を目指しているのかな?と思ったりする。
また、ガイジンサンとお友達になれるのが楽しいだけ、というのもありかもしれない。
また、左翼とは違った何がしかの思想(アナーキズムとか)をエスペラントで実現しようとしてる人もいるかもしれない。
色々あっていいし、別にみんながみんな饒舌に自己を語る必要は無いのですが、
でも、一部の人だけ自己主張して他の人が寡黙だと、一般人に誤解されると思うんですよね。(私も誤解してます。みんなブキミと)

で、一つの例としての自分なりの動機を書きます。左翼以外にもあるんだよ、と。
私はエスペラントは「簡易ヨーロッパ語」「汎用ヨーロッパ語」みたいな存在であってほしい。
ヨーロッパの事を調べてみたいけど、各国語をマスターするなんて無理。
英語だと、英語という特定の民族語で他の民族語を置き換える、という不自然さがでてくる。
例えば映画で、設定・キャラクターでは英語を話してる訳ないのに、映画の中では英語で話してる、という不自然さ。
エスペラントには文化なんて無くていいから、無色透明なトレース言語であってほしい。
どのヨーロッパ語でも違和感なくトレースできるような言語があれば、
我々アジア人はエスペラントだけやれば、ヨーロッパ圏の情報収集は一網打尽。いいと思いませんか?
実際、こんな私でも、複数の国籍のエスペランチストの書いた文を読んだけど、「違和感」はないです。
でも、一部ではあるものの、「思想」がこの言語を縛ってしまっている面があるのが、ちょっと残念。
それに、ヨーロッパでも「スタレテル」と聞きますし、困ったものです。

51松戸彩苑:2008/02/15(金) 01:03:34
>>50
> みんながなぜエスペラントをやってるのか、よく分からないです。

私の場合は「たとえ使用者が少なくても、エスペラントで国際交流をやることには意味があ
ると思うし、また自分にとっても楽しい」ということがあるから、やってるんですね。

しかし「今のままでは問題が多すぎて、これでは広まるものも広まらない」「せっかくエスペ
ラントを始めたのに、学習途中で挫折したり eterna komencanto になってしまう人も少なく
ない」ということもありますので、あえて苦言を呈しているというわけです。

私にしても社会についてそれなりに考えてはいるんですけれども、そういったことは私的な
ことですし、また「革新だろうが、保守だろうが、ノンポリだろうが、現時点でエスペラントを
やろうなどと考えるのは、ごくごく少数の人間にすぎない」と思っていますので、エスペラント
運動とは切り離して考えるべきだろうと思ってるんですね。

52ベダウリンデ:2008/02/15(金) 09:53:22
松戸様、お答えを頂いて、とても嬉しいです。理由も分かって少し安心しました。
「自分にとって楽しい」というアピールが一番、一般人の共感を得やすいと思います。
私にとってもエスペラントの勉強は楽しいです。
Por mi Esperanto estas ludo.私にとっては遊び、です。

53ベダウリンデ:2008/02/15(金) 10:19:57
Mi fojfoje legas 'raporto.info’n. En ĝi skribas ankaŭ japanoj.
私は時々raporto.infoを読みます。日本人も書き込んでますね。

Por ni Esperanto estas ilo, per kiu ni ne nur ricevas novaĵojn de la tuta mondo,
sed ankaŭ sendas niajn novaĵojn al la mondo, ĉu ne?
我々にとってエスペラントは道具なんですよね。それを使って、世界中のニュースを受け取るだけでなく、
我々のニュースを世界に送るんですね。

Ni parolu plu pri Esperanto, por ke neesperantistoj sciu pri ĝi.
もっとエスペラントについて語りましょう、エスペランチストでない人達がエスペラントについて分かるように。

(Legi estas facile, skribi estas malfacile, paroli estas pli malfacile, ĉu ne?)
(読むのは簡単、書くのは難しいですね、話すのはもっと難しいんでしょうね?)

54Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/15(金) 21:21:33
わたしは英語が得意じゃないのでエスペラントでkomunikadoしています。
昔エスペラントの会に入っていたときはKamelioさんのようなボスの監視と
干渉と統制下に組織動員されるだけでしたが、今はインターネットのおかげで
外国のエスペラントと直接知り合って自由に率直に何でも語りあっています。

55Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/15(金) 21:22:27
わたしは英語が得意じゃないのでエスペラントでkomunikadoしています。
昔エスペラントの会に入っていたときはKamelioさんのようなボスの監視と
干渉と統制下に組織動員されるだけでしたが、今はインターネットのおかげで
外国のエスペラントと直接知り合って自由に率直に何でも語りあっています。

56Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/15(金) 21:23:57
すみません。55を削除してください。

57ベダウリンデ:2008/02/16(土) 17:16:46
>エスペラントでkomunikado
エスペラントの実用で最も楽しいのは、やはりそれなのでしょうね。
私も作文練習を(この掲示板もお借りして?)やらないとなーと思っているところです。
(練習と自覚してますので、間違い等あったら遠慮せず、教えて下さい)

暫くぶりにブログ村見たのですが、登録数増えてますね。
エスペランチストって 意外と日本にいっぱいいるんだ〜と思いますね。

58KamelioJapana:2008/02/16(土) 19:06:43
>54
何の根拠もなしに勝手に人の名を引用し、他人に誤解を与えるような書き方は
謹んで頂けないでしょうか。
これは公の掲示板ですので。。。
直接に言いたいことがあれば、私信でお願いします。

59Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/16(土) 20:10:06
「Kameliaさんのような」とは「"エスペラントの思想"に忠実に日中友好やら反核
やら憲法九条やらに熱心な」の意味ですが、何がいけませんか。
話は変わりますが、わたしの文通相手である某旧共産国のエスペランティストが、
エスペラント団体にまで浸透した監視と統制ののシステムについて語ってくれまし
た。その時の指導者がいすわっているので詳しいことはここでは書けませんが、
資本主義国でも左翼全体主義者(Kameliaさんのことじゃありませんよw)にのっと
られた団体は同じようになるんですね。

60松戸彩苑:2008/02/16(土) 22:59:05
山口誠(著)『英語講座の誕生』(講談社選書メチエ214 2001年)という、日本における
ラジオの英語講座の歴史を調べた本があるんですが、このなかにエスペラントに言及した
箇所がありましたので、引用・紹介しますね。

なお、引用文1のなかに「一八八七(明治三九)年」と書いてあったんですが、これは明ら
かに「一九〇六(明治三九)年」の誤りですので、訂正しておきました。
---

  【引用文1】

  大正一四年七月一二日付の東京朝日新聞に、ラジオ放送の「英語講座」を名指して批
  判する投稿文が掲載された(15)。「英語放送」と題したこの新聞記事は、「プルルル生」
  というラジオの電子音を真似たペンネームの読者による投稿を、新聞社が編集して掲載
  したものである。

  「プルルル生」はまず、「街に出れば横文字は必ず英語であり、鉄道省でも盛んに使うし、
  中学女学生の習う外国語は英語と相場が定まっている」という現状を批判して、「之じゃ
  日本はまるで英国か米国の属国じゃないか」と嘆く。「上手に使えば書物以上に文明促
  進に役立つ」ラジオでさえ、「昨今新聞に『JOAK、英語放送』の広告が盛んに」出ている
  始末で、「最新式機械を装置して宝の持ち腐れはもちろんのこと、折角の本放送も値打
  ちが下がるじゃないか」と憤っている。

  さらに彼は「元来、ラジオほど普へん性のあるものは少ない」と述べ、「雲の中はもちろん
  の事、工場であろうと、貴族の家にも、レストランの中にも、労働住宅にも教室にもここに
  も入って行く」のだから、「こんな平等なものは少ない。だからラジオで放送するものはど
  うしても多人数の為のものでなければいけない」とラジオ放送の公共性を主張する。こう
  した意見から、投稿の主は、ラジオの公共性に適うのは「もっと普へん性のある国際語」
  であるとし、英語ではなくエスペラント語の番組の放送を提案している。

  彼は外国語の学習については否定的ではない。学ぶべき言語を英語の代わりにエスペ
  ラント語にせよ、と主張しているのだ。エスペラント語は「今日では国際的で、三箇月でペ
  ラペラになれるほどやさしい、科学的な」言語であるという。

  エスペラント語は、一八八七年に公表された人工の国際言語であり、主にロマンス語や
  ゲルマン語やスラヴ語などの(つまり印欧語圏の)複数言語から共通性の高い単語と文
  法を採用し合理化して作られた。その基礎単語は一九〇〇語にとどまる。日本では、は
  やくも一九〇六(明治三九)年に「日本エスペラント協会」が設立されている。日本に紹
  介されて約二〇年後の大正末期では、エスペラント語の存在は既に知識階級の知ると
  ころとなっていた。

  さらに、「プルルル生」の投稿と関係があるのか不明だが、東京放送局は初年度に「エス
  ペラント語講座」という教養番組を放送したという記録が残っている。残念ながらこの講
  座に関する原資料は見つかっていないが、後の日本放送協会の機関誌である『調査時
  報』ではエスペラント語について間接・直接に言及する記事が幾度か掲載されている。
  こうした断片的な資料からも、放送局が英語だけでなくエスペラント語にも高い関心を持
  っていたことがわかる。だが、初年度以降に「エスペラント語講座」がシリーズ化された
  記録はない(16)。

  (15) 「東京朝日新聞」、大正一四年七月一二日、第三面。

  (16) 「プルルル生」が無自覚に主張するほど、エスペラント語は非政治的でもないし、
  どの国民にとっても等しく中立的な言語ではないのは明らかであろう。例えば、その文
  法はやはりヨーロッパ系の言語を骨組みとしているので、日本語を母語とする人が学習
  しても「三箇月でペラペラ」になるのは難しい。

  (56〜58ページ、239ページ)

61松戸彩苑:2008/02/16(土) 22:59:59
>>60 の続き)

  【引用文2】

  だが、こうした外国語を大量に発信する放送協会の方針は、聴取者たちの生活意識に
  反していたどころか支持されており、より一層の語学放送の拡充が求められていたこと
  を示す資料がある。それは「カレント・トピックス」が始まった一九三二年に日本放送協
  会と逓信省が合同して実施した聴取者調査『第一回全国ラヂオ調査』である。これはサ
  ンプリングという調査手法がなかった時代の、聴取契約者全員に質問票を配布した大
  規模な量的調査であり、一九三二年五月一日から八月末までの四ヵ月間で、一二三万
  三九〇八件の配布件数に対して約三〇パーセントにあたる三五万八〇三九件の回答
  を得ている(20)。

  この全国ラジオ調査で教養番組に寄せられた意見の約二割にあたる三二六四件が、
  「語学講座」に対する要望であった。その内訳は、語学講座全体の「時間増加」を希望
  するものが一四一件に対して「時間減少」は四一件。同じく「回数増加」を希望するのが
  三四五件に対して「回数減少」が三二〇件であった。さらに「種目範囲拡張」という別の
  項目では、「英語会話」の番組新設を望む声が三番目(二〇件)に多く寄せられている。

  ちなみに一位はエスペラント語で圧倒的多数の二二四件、二位はロシア語の四五件で、
  既にみたようにエスペラント語講座は東京放送局が開局した大正一四年度に短期間放
  送されたが、全国番組としてシリーズ化されたという資料はない。また「指導者選抜」とい
  う番組講師への希望を訊ねた項目では、「外国人講師の登用」を望む声が最も多く、ラ
  ジオ聴取者が持つ外国語への欲望(とくに話し聞く外国語の学習意欲)の高さをうかが
  わせている。

  この『第一回全国ラヂオ調査』の結果が刊行された一九三四年、放送協会は「英語会
  話」の全国放送を開始するのだが、この聴取者調査の結果と新番組の誕生の間に直
  接の因果関係を読みとることは難しい。だが、こうした資料から考えられるのは、満州
  事変後の時局化が進むこの時代でも、ラジオ聴取者の多くは外国語への違和感をそれ
  ほど持たなかったこと、それどころか独自の古典文学を持たず、基本的に会話をするた
  めに作られた人工言語であるエスペラント語の人気の高さと語学番組への外国人講師
  の登用を望む声に象徴されるように、話し聞く外国語への要求は決して低くなかったこ
  とである。

  (20) 逓信省・日本放送協会『第一回全国ラヂオ調査』、一九三二年実施(出版は一
  九三四年)。なお、調査票の配布と回収は郵便と受信契約料の集金人によったという。

  (169〜171ページ、246ページ)

62KamelioJapana:2008/02/17(日) 06:57:22
>59
はい、いけません。
この文は、前後の脈絡が無いと

「Kamelioさんのようなボス」

と読むのが日本語が分かる人の常識です。
それに「ボス」はそれ以下の一連の言及に連動しておりますから、この文を素直に
読んだ方は私に対する心証を悪くするでしょう。

楽様が何処のEグループに所属していたかは分かりませんが、余程ひどい心の傷を負ったのでしょうね。
私の知る限り、全体主義グループのようなEグループは日本では聞いたことがありませんが。。。
まあ、本人がそう思っているのなら、仕方ありませんが、そんなグループが日本エスペラント界を
象徴するものとは思わないでください。
いずれにせよそのようなグループで苛められたことはお気の毒と言う外ありません。

63Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/17(日) 10:42:33
左翼全体主義の概念を拒否する人にとってはエスペラント運動の中にも外にも
左翼全体主義は存在しないでしょう。無意味なことは言わないでください。
概念をめぐるいい争いなどくだらないからしません。
共産国が激減し、インターネットが普及した現在ではもう昔のやりかたはできなく
なっているでしょうが、ローカルなエスペラント会の役割は"エスペラントの思想"
の注入以外にはなくなったと言えるでしょう。

64KamelioJapana:2008/02/17(日) 17:46:30
>63
貴方が言いたいことは何となく分かるのですが、私は唯単に貴方の論理展開のおかしさを
指摘しているまでです。
問題を逸らさないでください。

以前にもありましたね。
例えば、

>山川均さんや荒畑寒村さんや宇野弘蔵さんの思想がザメンホフの思想と一致してるんですね。

というような決め付けですね。

何処から引き出した結論なのでしょうか。何処かにそういうことが書かれていたのでしょうか。
そうでしたら、私も大変興味のあることですから出処を教えてください。

ちなみに、

>左翼全体主義の概念を拒否する人

とは、誰のことでしょうか。もし、私に向けられているといるとした大誤解と言っておきましょう。
何の根拠も無く、自分の思い込みでなされているなら見過ごせない問題です。

こういう言葉のレトリックで論争相手の見解をあらぬ方向に捻じ曲げ、第三者にあらぬ疑いを抱かせ
かねないやり方は、貴方の嫌いなファシズムの宣伝者が昔よく使った手口なんですがね。。。

65ベダウリンデ:2008/02/18(月) 09:00:09
>64
Kamelioさん、そんなに怒らないで下さい。
54でRakuさんが「Kamelioさんのようなボス」と書いていますが、
私は、「Kamelioさんのような(意見を持った別人の)ボス」と読みました。
Kamelioさんは、この掲示板でも沢山ご意見をお書きになっているので、ご意見は大体分かります。(難しすぎて理解不可能な個所もありますが)
その意味では「○○さんのような」という書き方でも十分通じました。(別の人が自分と勘違いするかもしれないですが)

Kamelioさんがボスかどうか、と言う事は、私が掲示板をウオッチしてる限りでは、Kamelioさんが
どこかの会のリーダーをしてる、という自己紹介は見たことないので、そういう理解はしませんでした。
もし「ボス」と誤解されるのが嫌なら「私はボスではありません」で済むことです。

またKamelioさんは62で
>いずれにせよそのようなグループで苛められたことはお気の毒と言う外ありません。
とお書きになっていますが、54のRakuさんのコメントでは単に、(Rakuさんにとっては不本意な)組織動員をされた、としか書いてありません。
苛められたなんてどこにも書いてありません。それこそ、「何の根拠も無く、自分の思い込みでなされている」ことではないでしょうか。

また54のRakuさんのコメントは、50で私がした「みんながなぜエスペラントをやってるのか、よく分からないです。」
と書いたことへ答えて下さったもの、と理解してます。
「組織動員」がエスペラント会で普遍的に行われていることなのかどうかは、私には判断できませんが
Rakuさんの経験としては一つの真実、決して嘘ではないだろう、と私は読み取りました。
別の箇所でRakuさんは「国内のエスペランチストとは接触しない」という旨の事を書いてらして、
私は「なんで?」と思っていましたが、「そんな理由があったんだ」と納得できました。
むしろ不快な事を思い出させてしまって悪かったな、と思っています。

市民の趣味の会では、勘違いリーダーや「先生」が私利私欲で会員さんを利用しようとする事は
エスペラントの会に限らず、ありうる事でしょう。もしそんな会がエスペラント界に存在するならば、
「そのような事態はなるべく無くしていきたいものですね」とコメントすれば済むことです。

66KamelioJapana:2008/02/18(月) 09:53:31
>いずれにせよそのようなグループで苛められたことはお気の毒と言う外ありません。

Raku様がよく断定的になされる言い方を私が皮肉を込めて意識的にやってみました。
Raku様のこれまでの言動の中にいかに決め付けが多いかをこの投稿を続けて読んでいる
方はご察知のことでしょう。
彼には、残念ながら、この位言ってやらないと自分の言動に対する客観的的に見る自覚が
もてない様に私には思われるのものですから。。。

それに彼の意図はどう考えてもEsperantismoを貶めるものとしか思われないものが幾つか
在りますから、それが日本エスペラント界の大多数の真面目な活動家たちに泥を塗りかねない言動を
黙って見過ごすことは出来ません。

ベダウリンデ様は真剣にエスペラント拡大のための組織活動をしている方々とは未だ距離をおいて
おられるかも知れませんが、日々活動を展開している方々に誤解を与える言動には大変腹が立ちます。

67KamelioJapana:2008/02/18(月) 10:09:41
昔エスペラントの会に入っていたときはRakuさんのようなボスの監視と干渉と統制下に
組織動員されるだけでしたが、今は他のグル−プに参加したおかげで国内外の
エスペラント[イスト]と直接知り合って自由に率直に何でも語りあっています。

68Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/18(月) 12:48:25
>>67
それはよかったですね。

69KamelioJapana:2008/02/18(月) 16:36:47
>>68
本当によかったです。

70松戸彩苑:2008/02/18(月) 22:48:31
このスレのタイトルである「なぜエスペラントは普及しないのか?」という話に戻りますが、
エスペラントを長年やってる方たちは、どのように考えておられるのでしょうかね?

私は >>4 のように考えてるんですが、おそらくこの意見には納得しないでしょうし。

71ベダウリンデ:2008/02/19(火) 09:52:22
>>66
>日々活動を展開している方々に誤解を与える言動には大変腹が立ちます。
私はRakuさんの言葉だけで全てを判断しませんよ。
Kamelioさんの事はKamelioさんの書き込みだけを見て判断してます。
エスペラントのイメージアップにつながるような事を、負けずに書いてください。
このスレのテーマについても、是非ご意見をお聞かせ下さい。

72Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/19(火) 12:09:55
>>67
中国人と自由に率直に何を語り合ってるんでしょうね。

73Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/19(火) 12:21:00
そりゃ「自由に率直に」でしょうよ。中国は日本と違って言論の自由が保障されてる
国ですからね(笑々々々々々

74KamelioJapana:2008/02/19(火) 18:07:34
>>72
>「中国人」と自由に率直に何を語り合ってるんでしょうね。(注「 」は私が挿入)

「中国人」と言う加筆はRakuさんの幻覚か幻聴ですか。いったい脳内の思考回路はどう
なっているのでしょうかねぇ。
それとも意図的だとしたら全く真面目には「お相手する価値無し」ですね。
そういう方に対する対応は、それ相応のやり方があるのでしょうけど。。。

75松戸彩苑:2008/02/20(水) 06:52:23
こんな話もありますね。
http://www.liberafolio.org/2008/orbanesperanto

76KamelioJapana:2008/02/20(水) 18:38:06
私も読みましたが、こんなものでしょうね。公式な判断は。。。
EUにおける E の公用語化も未だ遠い道のりでしょう。

記事に関する様々なコメントも面白いです。

77Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/20(水) 19:56:37
う〜ん・・・・

78松戸彩苑:2008/02/21(木) 03:15:10
私の見るところでは、エスペラント界の人たちは「知識人」たちに自分たちの活動を理解し
てもらおうと努力しているようでありますが、しかしそれはうまく行くはずがないと私は思い
ます。
---

私の考えでは、知識人というのは「現代社会の枠組のなかの重要な一要素であるところ
の学校(公的教育機関)において、きわめて優れた成績をおさめた人」だと思うんですね。

つまり、これを言いかえれば「現在の社会のなかでも十二分に生きていける人」だという
ことです。

ということで「必要は発明の母」とは正反対の「必要でないことは、いくら頭が良くてもやら
ない」という事になってしまうんですね。

こういう人たちは「世間で広く認められているような問題」にしか取り組みませんし、当然
エスペラントなんかはまずやらないって事になるわけです。

もちろん例外的な人物もいないわけではないですが、しかしそういう人は、あくまでも「例
外的」にしか存在しないのですね。
---

このように言えば「エスペラント界だって、かなり高学歴ではないか」という反論が出てくる
と思います。
たしかにそうなんですよね。

しかし、こういう人たちについて調べてみると、ほとんどの場合は「若いとき、あるいは子供
のときにエスペラントに出会っている」んですね。

年のいった人ですと「これまで何十年も生きてきたけど、エスペラントなんて全然使われて
ないじゃないか」と思ってしまうわけです。
でも、これはまったく反論しようのない純然たる事実であって、世間においてはエスペラン
トは、古代エジプト語よりも目にする機会が少ないわけですから、そんなものが「国際共通
語」だなんて言われても「はい、そうですか」というふうに思えるわけがないのです。

一方、子供や若い人の場合であれば「世間には、まだまだ知らない事がたくさんある」と思
ってくれますから、面白そうだと思えば、けっこう話を聞いてくれるわけです。

私の見るところでは、20代だと、わりとエスペラントみたいなものにもそれなりに関心を持
つみたいですが、40を過ぎてしまうと、まずダメみたいですね。
---

それから我々は「知識人というのは、ほんとうに革命的な発明については、理解してくれな
いどころか、むしろ邪魔したりする事さえある」ということを知っておかないといけません。

例えばこれは、私がここの掲示板にかつて書いたことですが、19世紀末から20世紀初頭
にかけて、多くの人たちが空を飛ぶ機械を作ろうと努力していたのですが、その一方で「空
を飛ぶ機械などというものを作るのは理論的に不可能だ」と主張する学者がけっこういたん
ですね。

A・セント=ジェルジ(著)『狂ったサル』(サイマル出版会 1972年)という本によると、そうい
ったことを述べた論文が、フランス学士院で発表されたこともあったそうです。

で、そういった学者たちによる下らない議論は、自転車屋の兄弟でともに高校中退という
学歴のライト兄弟が1903年に実際に飛行機を発明するまで無くならなかったわけです。

この飛行機が発明されるときの事例と、現在のエスペラントの状況とを比べてみますと、ま
ったく同じなんですよね。

79松戸彩苑:2008/02/21(木) 03:16:13
>>78 の続き)

また、ザメンホフじしんも「国際語思想の本質と将来」という論文の冒頭部分で、よく調べも
しないで蒸気機関車に反対した知識人がいたということを書いてますね。

  蒸気の力とその効用が人びとに示されたとき、良識ある人なら誰も反論できないだろ
  うと思われた。けれども、蒸気の発明者は長年にわたって悪戦苦闘し、嘲笑に耐えな
  ければならなかった。さらに、ようやく目的を達成し、英国ではすでに三年間も蒸気機
  関車が運転されて多大の利益をもたらしているときになっても、ヨーロッパ大陸では学
  識者や学術団体までが、まず実態をよく調べもせずに深遠な論文を書いて、機関車の
  製造は子供じみた仕事だとか、実現不可能だとか、有害だなどと反対した。これは、
  いったいどういうことだ、と疑問が生じる。すべての人が流行性痴呆症にかかっていた
  のか。ほんとうにそういう時代があったのだろうか。そのとおり、そういう時代があった
  のだ。いまそれに驚いている我われだって、その時代の人びとよりも実際にすぐれて
  いるわけではない。我われの子孫も我われよりすぐれているわけでもない。腹が立つ
  ほどくだらない反対論や攻撃をしかけたこれらの人びとは、げんざいの我われの目に
  映るほど馬鹿ではなかった。彼らは、次の点で間違っていただけである。つまり、人間
  だれもがもつ生来の精神的惰性にわざわいされて、世に出ようとする新しい思想につ
  いて判断を下す気もなく、無難な笑いにまぎらせるだけにしておくか、それともそんな
  事業は実行不可能だとあらかじめ確信をもって一方的な判断に突き進んだのだ。彼ら
  は、この既成の結論に自分たちの議論をむりやり合わせようとし、その議論がまったく
  根拠のないことに気付かず、新思想を支持する人の議論に対して自分の頭に頑丈な
  錠前をおろしてしまう。だから、「万人が不可能だと認めていること」の可能性を証明し
  ようとする新思想の側の議論は、そういう精神的惰性に陥っている人びとには子供じみ
  た行為と見える。当時の彼らの反対論が今の我われに子供じみて見えるのと同様だ。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』15〜17ページ)

これだって、べつにザメンホフが嘘を書いてるはずもないのですから、やっぱり実際にあっ
たことなんですね。

そして考えてみれば、エスペラントというのは、飛行機や蒸気機関車に匹敵する(あるいは、
それら以上の)革命的な発明なのですから、飛行機や蒸気機関車とまったく同じように、知
識人から下らない批判を受けるのは当然なんですね。

なんで知識人がこういう馬鹿げた振舞いをするのかという事について私も考えてみたんで
すが、知識人というのは「本」をたくさん読んでるわけですが、「本」に書いてあることという
のは要するに「過去のこと」ばかりなんですよね。

で、ほんとうに革命的な発明については、当然のことながら「本」のなかには絶対に書いて
ないわけですから、若いころから「本」に全面的に依存することで社会の頂点で生きてこれ
た知識人には理解ができないし、また反感を抱かせる事さえあるのではないでしょうか。

ということで、知識人というのは「本」に書いてあるような「過去のこと」に関してはよく知って
いますが、しかし、ほんとうに革命的な発明を正しく評価させるのには、もっとも不適当な人
種なんだと私は思います。
---

それから、ここで「言語学」について一言述べておきましょうか。

私は高校生だったころから素人むけの言語学の本をたくさん読んできました。

その経験から言いますと、「現在の言語学は、エスペラントを理解したり、あるいはエスペ
ラントやエスペラント運動が抱えている問題について考えたりするのには、ほとんど役に
立たない」と思うんですね。

それは >>16-18 で引用した町田健というプロの言語学者の書いた文章を読んでみても
判ると思います。
しかし、この人なんかは、まだマシなほうなんですよね。
エスペラントについてロクに調べもせずに、もっといい加減なことを書いている言語学者が、
世間にはいくらでもいます。

それから田中克彦氏は『エスペラント ― 異端の言語』(岩波書店 2007年)のなかで

  正統の言語学をやったせいで、私にはエスペラントを冷ややかに眺めるくせがついて
  いた。

と書いておられるんですね(同書208ページ)。
理由は書いておられませんし、私にも理由は判りませんが、そういうものらしいです。

80松戸彩苑:2008/02/21(木) 03:17:06
>>79 の続き)

また、私はエスペラントの問題について長年考えてきたわけですが、はっきり言って言語
学はほとんど関係ありませんでした。
やはり「エスペラントはそれなりによく出来ていると思われるのに、どうして現実には、あま
り広まっていないのだろうか?」「学習途中で挫折したり eterna komencanto になってし
まう人が大量に出るのはなぜだろうか?」といった問題意識を持ちつつ、実際にエスペラ
ントを学習したり、エスペラント運動の歴史や現状について調べたりするといったことから
判ったことのほうが圧倒的に多かったんですね。

だいたい、エスペラント界にもプロの言語学者が何人かいるわけですが、そういう人たちで
さえも「日常生活に関する語彙・表現が不足・混乱している」といったことにまったく気づか
なかったのですから、現在の言語学なんてその程度のものだとしか思えないんですね。

さらに言えば、エスペラントをやっている言語学者でさえもこの程度なのですから、エスペ
ラントをやってない言語学者に期待をしたってどうしようもないとも私は思っています。
---

ということで、私が言いたいのは「知識人に期待するのはやめたほうが良い」ということです。
知識人をアテにせず、現在エスペラントをやっている人間でやっていかないといけないと思
います。

私はこのように考えていますので「娯楽を利用すべき」だとか「自分の家族や知人でもやり
そうな方法を採用すべき」だとか「宗教やイデオロギーを信奉している人たちならエスペラン
トをやるかもしれない」とか言ってきたわけです。

もちろん、知識人のなかにも数千人に1人くらいはエスペラントに理解を示す人がいるかも
しれませんので、そういう人は大事にしないといけませんが、しかしそれ以上増やせるなど
と考えてはいけないと思います。

知識人たちは結局、エスペラントを使う人間が実際に増えないかぎり、エスペラントを評価
しないんですね。
過去に知識人がエスペラントを評価したことがありましたが、私が見るところでは、そういっ
た発言は、エスペラントが盛んだった1920〜30年代とか1950〜60年代になされている
ものが多いように思います。
要するに、世間の流行に合わせてたってだけなんですね。

しかし考えてみれば、知識人といったって、エスペラントに関しては完全に「素人」なんです
から、これは当然なんですね。
むしろ、そういう人たちにむやみやたらと期待するほうが間違ってるわけです。

これまでの私の議論から理解していただけると思いますが、私は(たぶん皆さんとは違って)
「知識人に対する幻想」というものをまったく持っておりません。
これは、栗本慎一郎氏の本を読んだせいでもあります。
詳しく説明するのは面倒くさいのでやめときますが、栗本氏のもともとの専攻分野である経
済学においても、厳密に考えてみると理屈に合わないことがたくさんあるらしいのです。
で、そこのところを指摘しても、旧来の経済学の信奉者たちはまったく反論しないんだそう
です。

そういった話をたくさん見てきたので、知識人がエスペラントを理解しないのを見ても、私は
ぜんぜん驚かないんですね。

このような結論は、皆さんにとっては信じたくないものだろうと思います。
「上手に説明すれば、わりと簡単に国連やEUに採用してもらえるんだ」と本気で信じること
が出来たからエスペラントをやってるという人がかなりいるように思われるんですが、残念
ながらそういうことは絶対にありえないと思いますね。

(終わり)

81ベダウリンデ:2008/02/21(木) 16:00:00
>>75
私も(読めることだけざっと)読んでみましたが、誰か要約してくれると、一般の人にも話が通じて面白いと思います。
EUの人、マトモだよ、と私は思いました。(最近エスペラントの面白さに幻惑されそうになってたから、ハッと我に返った感じ)
我々は道楽とか思想(これだって立派な道楽)でやってるんだから、
これをEU共通言語にしろだなんて、アツカマシイです。

82papageno:2008/02/21(木) 19:16:29
ややお久しぶりです。私は飛行機や蒸気機関車の話から、どちらかというとエスペラントより翻訳機のことを考えてしまいますね。「(高精度の)翻訳機など不可能だ」という声を時折聞きますが、飛行機や蒸気機関車は不可能だと言った人々と何が違うんでしょう?

83Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/21(木) 21:22:49
papagenoさんお久しぶりですね。ブログの更新もありませんしどうしてらっしゃ
るのか心配してました。お元気そうで何よりです。
ところでなぜエスペラントにそんなにこだわられるのですか。エスペランティスト
が翻訳機の開発を妨げているわけではないのですよ。papagenoさんのお考えなら
翻訳機の完成を座して待つか又はみずからその開発に参加されるのがいいので
はないでしょうか。わたしは嫌味や皮肉を申し上げているのではありません。
ほんとに不可解なのです。


84Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/21(木) 21:25:57
>>81
現在の世界はものすごい変化の渦中にあります。この変化がエスペラントを
最終的に葬り去ってしまうのか新たな生命力を付与するのか予測が付きません。

85松戸彩苑:2008/02/22(金) 02:19:48
>>81
そうなんですよね。

つまり私の言いたいのは、たとえて言うならば、エスペラントは「草野球」レベルで良いの
か、それとも「プロ野球」レベルを目指すのか、どっちかにしろという事なんですね。

「草野球レベルで満足なんです」というのであれば、私だってうるさいことは言いません。
それだったら「楽しければ良いんじゃない?」って言いますよ。

しかし困ったことに、エスペラント界には「草野球レベルで楽しんでいれば、そのままプロと
して通用するようになるんだ」みたいに考えてる人がけっこういるみたいなんですね。
で、それに対しては「そんなことは絶対に無いよ」「それは甘すぎるよ」と言いたいわけです。

どう見たって、世間の人たちがエスペラント運動に求めているのは「理念」などではなく「使
用者の数」であるとか「実利性」だったりするんですね。
その証拠に、知識人だろうが、革新派の人たちだろうが、判で押したように「使用者はどの
くらいいるんですか?」とか「どんなことの役に立つんですか?」としか訊いてきません。
また逆に、エスペランティストが理念を説明したら、それを聞いて感激して、ただちにエスペ
ラント運動に加わったなどという話も、寡聞にして知りません。

ですから、学習途中で挫折したり eterna komencanto になってしまう人を減らしたり、日常
生活に関する語彙・表現を整備したりすることが「使用者の数」や「実利性」を高めることに
なり、世間の人たちにとっても(ほんのわずかながら)受け入れやすいものになるわけです
ね。

私ももちろん理念は大事だと思いますが、しかし「使用者の数」や「実利性」を高めることな
く理念を連呼しても(革新派の人たちからさえ)おかしいと思われてしまいますので、やはり
それは控えるべきだと思います。

86松戸彩苑:2008/02/22(金) 02:32:05
>>82
私は「高性能の翻訳機を作るのは永遠に不可能だ」などと断言するつもりはありません。

しかし、現在のコンピューターや翻訳ソフトのレベルを考えますと、現在の技術の延長線上
でそういったものを作るのは、ほとんど不可能ではないかと思うんですね。

スーパーコンピューターと呼ばれているものであっても、それはただ単に「計算が早い」「記
憶容量が莫大である」というだけであって、人間のように「言葉の意味を理解している」わけ
ではないわけです。
ですから、現在の技術ですと「オウムが言葉をしゃべっている」のと同じなんですね。

とは言っても、いつなんどきコンピューターが質的な大進化を遂げるか判ったものではあり
ませんし、また世間においては、エスペラントよりも翻訳機械のほうが前途有望だと思われ
ているということも無視できないとは思っております。

87ベダウリンデ:2008/02/22(金) 10:02:03
>>75のリベラフォリオの記事の話に戻りますが、お許しを。
EU多言語主義担当のレオナルド・オルバンさんという人が、ネットフォーラムでみんなの意見を集めたんだって。
エスペランチストも活発に書き込んだのですが、オルバンさんは、EUでのエスペラント使用を拒絶したんだって。
理由としては、新しい使用分野で専門用語を整備するのは、すごく大変だから。
あれもこれも「無」から作らなきゃならないから大変だろうって。
また個人的には「橋渡し言語」を信じてないんだって。エスペラントだろうが、ラテン語だろうが、英語だろうが。
「橋渡し言語」は社会言語学上、歴史的な自然発生現象だから、法律や政治で決める事じゃないんだって。
(私個人としてはこの部分がカッケーと思いました)

実態はどうかというと、EU公用語は、加盟国の憲法で認められた公用語なら、申請認可すればいいんだって。
(国が無いエスペラントはこの時点でボツ)
で、今23言語が公用語になってるらしいけど、実際は全部を全部に翻訳するのは無理なんだって。
多くのヨーロッパ人が分かる言語が、実際には主に使われてるらしいです。(英語、とは断言されていません)

で、エスペランチストの反論も載ってるのですが、予想通り「用語は整備されてるぞ」というもの。
「こいつ調べてないんじゃないのバーカ」的な、大変親しみやすい反応まで。
EU公用語の条件については「法を変えればすむ」。それはそのとおり。
また「後を考えれば節約では?」と、これもよく言われそう。
でも、「橋渡し言語」を法律や政治で決めて良いものかどうか、という事に関しては、ノーコメントでした。

以上、お勉強のため頑張りました。間違い、不足はご訂正下さい。

また、ここで私が疑問に思うのは、ヨーロッパのエスペランチストはどうやら、
「用語が混乱してて使えない」とは思っていないようだ、ということです。
松戸さんは常日頃、用語の不備を主張していらっしゃいますが、それは、対日本語に限っての話でしょうか?
ヨーロッパは大体同じ文化圏だし、物の呼び名が多少異なる、というのはあるかもしれないですが、
そんなに混乱する事があるのかな、と思いますが、いかがでしょう?

88ベダウリンデ:2008/02/22(金) 20:46:18
フォーラムそのものもリンクされてて読むことができますね。(未読ですが)
あのような公的な場で、エスペランチストがガンガン発言できるというのは、
何だかんだ言ってもヨーロッパは進んでますね。エスペラント健在なり、と世界に示してます。
日本ではあんな風に自己主張できるのか、疑問ですね。みんな大体、自己の世界(個人またはグループの)で満足してるから。

それから、私は今までEUの事なんて関心無かったのですが、
エスペラントやって、月並みですが「世界が広がり」ましたね。
英語でも一生懸命勉強してたら、同じ体験できたんだろうけど、
英語ではできなかった事がエスペラントでできた、というのは、やはり驚きです。

89松戸彩苑:2008/02/23(土) 11:03:38
>>87
> また、ここで私が疑問に思うのは、ヨーロッパのエスペランチストはどうやら、
> 「用語が混乱してて使えない」とは思っていないようだ、ということです。

「エスペラントには専門用語が不足している」と考えてるエスペランティストは、欧米にもい
るはずですよ。
専門用語を一生けんめい作っている人たちがいますし、また「〜用語を作る際の問題」の
ような題目の論文や講演が少なくありませんから、気づいてる人はちゃんと気づいてるん
ですね。

でも、そういう人はやはり、ある特定の分野の専門家にかぎられていて、エスペラント界の
なかでは少数派なんですかね?
---

私は、法律についてはまったくの専門外なので詳しいことは判らないんですが、しかし考え
てみますと、エスペラント界には、まともな「法律用語辞典」が無いはずなんですよね。

もちろん、たしかにPIVやNPIVには法律法語がいろいろと載ってはいますが、しかし、あの
程度では、実務に使うのにはぜんぜん足りないだろうと思いますね。

ネットで調べてみますと Esperanta Jura Asocio という団体があるらしいんですが、この団
体のサイトを見ても、まともに活動してるのかどうか、よく判りません。
(単に、サイトを管理する人がいないだけかもしれませんが)

http://es.geocities.com/ejaaeu/index.htm
---

私はこのように考えてるんですが、それでもエスペランティストたちが平然としていられるの
には理由があります。

それは彼らが、ザメンホフの言った

  「エスペラントは使っているうちに自然に発展する」

  「必要な語彙・表現が無いことに気づいたら、既存の語根を組み合わせれば表現できる」

という考えを、今でも固く信じて、まったく疑わないからなんですね。
こういったことを信じられる人は、語彙・表現の不足・混乱に気づいても「そのうち自然に解
決するさ」と考えることが出来ますから、いたって呑気でいられるわけですね。

で、言うまでもなく私は、このような考えに断固として反対しておりまして、こういった考えが
間違っているということを示すために、この掲示板にいろいろと書いてるわけなんですが、や
はり、カリスマ性の無い人間が頑張っても、なかなか判ってはいただけないようです。

90松戸彩苑:2008/02/23(土) 13:07:38
ということで、多くのエスペランティストたちは「使っているうちに自然に発展する」などとい
うことを本気で信じているから、「EUの公用語として直ちに使える」と思ってるわけですね。

つまり、たとえ不足している語彙・表現が少々あったとしても「使っているうちに自然と発展
する」のだから心配することはない、というわけです。
だから「まずEUで使ってみることが先なんだ」というわけです。

まったくとんでもないことが信じられるものだと私なんかは呆れているんですが、でも、エス
ペラント界では、これがふつうの考え方なんですね。
---

しかし、エスペラントの歴史をひもといてみれば、「テレビ」とか「コンピューター」といったも
のをエスペラントでどう表わすかということで、さんざん揉めているということが判ります。

つまり、複数のエス訳語が提案されてしまって、何年たっても一つに決まらなかったので、
どれか一つにしようと話し合いをしても、全員を納得させるような意見が出なかったという事
が何度もあったんですね。

もちろん最終的には、それなりの結論が出たわけですが、しかし結論が出るまでに、さんざ
ん揉めてるんですね。

こういった歴史を虚心坦懐に見てますと、とても「使っているうちに自然に発展する」などと
いう話が信用できなくなるんですが、しかし私以外のエスペランティストたちは、こういった
歴史を「もう済んだ話だ」とでも思ってまったく顧みないせいなのか、いまだにザメンホフの
説を信じて疑わないわけです。
---

このザメンホフの説を信じていますと、今後も困ったことが起きると、私は思うんですね。

たとえば、EUの公用語として採用されたとします。
で、当然、さまざまな用語を作っていくことになるわけですが、このときに100%すんなりと
用語が決まるとは、私にはとても思えないんですね。

だいたい120年もたつのに、エスペラント界には、まともな「法律用語辞典」が無いみたい
なのですから、急にこしらえたとしても、そううまく行くとは思えません。

で、うまく用語を作ることができない場合には、困ってしまうわけです。
なんせEUの公用語として採用されたのですから、これまでのように「自然に発展しますよ」
などと言って、何年も放ったらかしにしておくというわけには行かないからです。

このようになったとき、下手をすると、かつて「テレビ」や「コンピューター」のエス訳語をめぐ
ってさんざん揉めたとのまったく同じような対立が、用語を作っているエスペランティストたち
の間で生じる危険があるんですね。

私のように「ザメンホフが間違っているんだ」と考えられれば、たとえ意見が異なっていても、
それほど深刻にならないと思うんですが、エスペラント界ではザメンホフの考えは「真理」と
されていてまったく疑問視されていませんから、用語を作っていてうまく行かなかったら、そ
れは必ず「用語を作っている人間」の側に問題がある、というふうに決めつけられてしまうん
ですね。

ですから、仲間どうしであるはずなのに、たった一つのエス訳語をめぐって激しく対立してし
まうという、まったく悲劇的としか言いようのない事態が発生してしまうんですね。

私は、このような事態が発生してほしくないと思っているからこそ、「ザメンホフが間違って
いるんだ」と言ってるんですね。
もちろん、私がこう言ったからといって、エス訳語が簡単に決まるようになるというわけでは
ないのですが、しかし「仲間どうしで激しく対立する」という最悪の事態だけは回避できるの
ではないかと思うんですね。

91松戸彩苑:2008/02/23(土) 17:14:11
エスペラントを仲介言語として使って、児童書の翻訳をするって話がありますね。
http://www.liberafolio.org/2008/eubaratalibro

このくらいの事からやっていって、少しずつ信用をつけていくのが良いですね。

92ベダウリンデ:2008/02/23(土) 17:57:09
>多くのエスペランティストたちは「使っているうちに自然に発展する」などということを本気で信じているから
確かに、この掲示板上でも、「自然に」派が多いように見受けられました。

>つまり、複数のエス訳語が提案されてしまって、何年たっても一つに決まらなかったので、どれか一つにしようと話し合いをしても、全員を納得させるような意見が出なかったという事が何度もあったんですね。
この掲示板でもミニチュア版を見ることができますね。「日常生活に関する語彙・表現」のスレでは、
コンビニの訳語をめぐって、この板の有識者の皆さんが議論をしても、結局まとまりませんでしたね。
日本だけかと思ったら、レルヌ掲示板で欧米の初心者仲間達(みんな実力派ですが)が
database-driven websiteの訳をめぐって喧々諤々してますね。
エスペラント未進出の分野では、まだまだ訳語不足なのかもしれないですね。

テレビ、コンピューターなどは、外来語として、英語をそのまま取り入れちゃえばいいのに、
下手にエスペラントっぽくしようとしたから揉めたんだろうなーと思います。

93松戸彩苑:2008/02/24(日) 10:27:51
理数系の学問や医学というのは、国や文化による違いがありませんし、また用語も国際的
に統一されています。

それから動植物名にしても「学名」というものがありますから、こういったものをエス化するの
は、けっこう簡単なんですね。

ですから、現行のエスペラントの辞書には、一般人は母語でも一生使うことのないような学
術語が、ものすごくたくさん収録されてるわけです。

これを見て、エスペランティストたちは「エスペラントはもう十二分に発展している」と信じて
しまってるんですが、しかし私の考えでは、先にあげた以外の分野(つまり社会科学とか人
文科学など)の術語は、まだまだ出来ていないと思うんですね。

また、術語以外にも「生活に関する物・事」というのもそうです。

こういったものは「自然に発展する」などと考えて放っておくのではなく、意識的に整備して
いかないといけないと私は考えています。

94ベダウリンデ:2008/02/24(日) 10:51:43
「実社会」が存在しない、というのは、言語の発展においては非常に不利なんだろうな、と思います。
特に人工的に作った言語の場合、「国家」が無い、というのは致命的かもしれないです。
ヘブライ語が現代に復活したのは国家があったからでしょう。
法律用語などは国家の義務で真っ先に整備しなければならないだろうし、国民がIT社会に順応できるようになるには、
国民の言語でのコンピューターマニュアルは必要だろうし。
日本のように新語がサーッと社会に広まるのはマスコミのおかげだろうし。
エスペラントにはマスコミも無いし、裁判所もIT産業も無いから、なかなか発展しないのでしょう。

国家無き人工言語が永遠に「草野球」なのは宿命なのではないでしょうか?
みんなは実はそれを知ってて、「プロ野球」になりたい人なんていないのでは?
EUにアピールしてるのも単に「宣伝」のためであって、実際に要求が通るなんて、誰も思ってはいないのでは?

95Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/02/24(日) 13:05:30
松戸彩苑さんとベダウリンデさんのおっしゃってることが
本質を突いています。ミモフタモナイ話ですが( ̄。 ̄)ホーーォ

96松戸彩苑:2008/02/24(日) 13:32:19
>>94
> 国家無き人工言語が永遠に「草野球」なのは宿命なのではないでしょうか?
> みんなは実はそれを知ってて、「プロ野球」になりたい人なんていないのでは?
> EUにアピールしてるのも単に「宣伝」のためであって、実際に要求が通るなんて、誰も
> 思ってはいないのでは?

いや、そんなことは絶対にないです。
彼らは本気で信じているはずですよ。


> 「実社会」が存在しない、というのは、言語の発展においては非常に不利なんだろうな、
> と思います。

それはそうだと思いますね。

プロの言語学者がそろいもそろってエスペラントに否定的なのは、現在のエスペラントのよ
うな状態から国際語になった言語が、これまでにまったく存在しないからなんだと思います
ね。

しかし現在ではインターネットもありますから、頑張れば、かなり発展させることができると
思いますよ。

とにかく、「エスペラントはすでに十二分に発展している」とか「不足・混乱している語彙・表
現があったとしても、使っているうちに自然に決まっていく」といった神話を打ち棄てること
が先決だと思いますね。

97KamelioJapana:2008/02/25(月) 07:09:08
松戸様。
>「エスペラントは使っているうちに自然に発展する」
>「必要な語彙・表現が無いことに気づいたら、既存の語根を組み合わせれば表現できる」

ザメンホフの言及ということですが、私も何所かで読んだような気がしますが、
彼のUKでの演説集からでしょうか、それとも他の著作からでしょうか。
記憶が定かでありませんので、もう一度詳しく読み直してみたいと思います。
出処を教えてください。

98ベダウリンデ:2008/02/25(月) 08:38:09
すみません、私も質問なんですが、松戸さんがお忙しそうなら誰か別の人が答えて下さっても良いのですが

>エスペラントの歴史をひもといてみれば、「テレビ」とか「コンピューター」といったも
>のをエスペラントでどう表わすかということで、さんざん揉めているということが判ります。

具体的にどういう揉め事になったのでしょうか? 経緯を詳しく教えて下さい。
松戸さんの90のレスでは『「仲間どうしで激しく対立する」という最悪の事態』とありますが
そんなに酷い事態だったのでしょうか?

それが分かれば、「自然に決まる」派がなぜそういう主張をするのか、
というヒントにもなると思いますので。

(松戸さん質問攻めでかわいそうですが)

99松戸彩苑:2008/02/25(月) 23:25:10
>>97
出典は、ちょっと調べないと判りません。

これは pvz で読んだのだったと思うんですけど、エスペラントの最初期(1887年−1895
年)とか、Theophile Carl と論争したころ(1904年−1905年)とかに、エスペラントについ
ていろいろと言ってるなかで言ってたと思うんですが、ちょっとはっきりしません。

ただし、「国際語思想の本質と将来」のなかに

  人工語の第二の特質は、その完璧性である。言い換えれば、数学的精確さと柔軟さと
  無限の豊富さだ。

  人工語が自然言語より完璧であり、またとうぜん完璧であるはずだということは、次の
  事情を考えれば、誰にでも分かる。

と書いてから、エスペラントの造語力について論じている箇所はあるんですね。
(水野義明(訳編)『国際共通語の思想』55〜58ページ)

でも、これ以外にも言ってたように記憶してるんですが、調べてみないと判りませんね。
ですから、『Lingvaj respondoj』や、先に言及した箇所なんかを調べてみようと思います。
たしかに、うろ憶えの状態で議論をしてはいけませんね。


>>98
よく考えましたら「テレビ」の場合は、複数の語が提案されましたが、そのために特別に揉
めたという話はありませんね。
ということで、これは撤回させていただきます。

しかし「コンピューター」のほうは、これはずいぶん揉めています。

これについて日本語で読めるのは、フランソワ・ロ・ジャコモ(著)『言語の発展』(大村書店 
1992年)の214〜227ページですが、詳しいのは、エスペラントで書かれたバーナード・
ゴールデンの「Terminologia kaoso: komputilo, komputero, komputoro」という論文です。

これは『Centjara Esperanto』(Fonto 1987年)と『Akademiaj Studoj 1988-1990』(Esper-
anto press 1990年)に収録されていますが、後者のものでは167ページのところで割り
付けのミスをしてまして、本来くるべきはずの文章が無くて、その代わりに168ページの文
章があるという問題があります(つまり167ページと168ページの文章がまったく同じになっ
ている)。

それから本当に揉めた事例としては、1932年に出版された、エスペラントで詩作をする人
のための『Parnasa Gvidlibro』という本があるんですが、この本に収められた「詩語」という
のが議論の対象となったことがあります。

その他にも、論争というほどではないんですが、たとえば「tajp-ilo という表現は要らない。
skrib-maŝino で充分だ」といった話を熱心にする人がいたり、あるいは、新しい書籍や辞
書が出版されると雑誌に書評が出ますが、そのなかで新語を批判しているということが、
よくあったりするんですよね。

「コンピューター」の事例は、時間のあるときに簡単に説明してみようと思います。

100松戸彩苑:2008/03/01(土) 09:36:08
>>97 の KamelioJapana さんのご質問なんですが、土日もちょっと用がありまして、調べる
時間がほとんど取れないみたいなんですね。
ということで、ご返事はかなり遅れると思います。

ところで「こういうことをザメンホフが言ったかどうか」ということももちろん大事なんですが、
しかし「現在のエスペラント界において、こういうことが(ザメンホフの説として)絶対視され
ている」ということは事実なんだろうと思うんですね。

で、私は

(1) エスペラントの語彙・表現を整備していく際には
    「現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば誰でも知っているような物・事」
    を中心に作っていくべきである。

(2) しかも、それらは「長すぎてはいけない」し、また「耳で聞いた際に、他の単語や表現
    と似すぎていて紛らわしいものであってもいけない」。

(3) そして、(1)(2)を実行していくうえで障害となるものは、たとえザメンホフの言ったこ
    とであっても間違っていると判断すべきである。

という行動指針を立てたわけですが、いろいろと考えてみても、従来のやりかたには問題
が多すぎると思ったんですね。

とは言っても、私はむやみやたらと新語根を導入すべしなどと言うつもりはないんですね。

具体例は「エスペラント改造論」スレにあげてありますので、そちらを見ていただいて理解し
ていただきたいと思います。


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