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なぜエスペラントは普及しないのか?

566ベダウリンデ:2009/08/04(火) 09:57:34
エスペラントの分かりづらい点の例:感情語に関して

例えば「怒り」という感情は、『何らかの不満・不平に対する感情的な反応である。』(ウィキペディア)
それは『血圧や心拍数の上昇を伴う』(Vikipedio)人類共通の現象であると思われる。

その感情を、日本語では「おこる」「いかる」「いきどおる」などと言うが、それらはほとんど同義で、
その感情が起きた原因によって、言葉を選ぶのではない。
「義憤」という単語はあるが、文字どおり「正しい怒り」という意味で、
その単語の中に「いきどおり」という語を含んだ熟語(造語)でいる。

エスペラントで「怒る」はkoleriだが、「義憤」にはindigniという全く別の単語が存在する。
つまり、konvinkiとpersvadiが「説得の方法」で独立した単語になってるように、
koleriとindigniは、「怒りの理由」で別単語になっている。

大かたの日本人は、よっぽどでない限り、「義憤」なんて言葉は使わない。
「義」だろうが「私」だろうが、「怒ってる」という自分の気持ちには変わりはないから、普通「怒る」「憤る」で代用し、
代用しても、怒りの原因が誤解されることはない。

また、エスペラントではofendiĝi=侮辱を感じて怒る、という単語がある。
これも「怒りの理由」で別単語になっている。
これに相当する日本語単語は、一語では思い当たらない。
日本語で「侮辱された」と言う場合、自分の怒りの感情よりも、相手の行為の不当性を公的に訴えてる感じが強まる。
他に、「怒りの理由」とは関係無いが、furiozi=狂ったように怒る、という全く別の単語もある。

色々な「怒り方」はあって当然だが、なぜそれを「造語」で行わないのか。なぜ、別単語なのか、
日本人の私の感覚では、納得いかない点です。

日本語では「怒る」という感情は、理由では分けない。
その精神的背景を考えると、「自分という混とんとした宇宙」があって、怒りの起因になってるのは「外部」であり、
それは自分とは異なる世界、という感覚があるのかなと思う。
そして「外部」よりは「自分の内部」が大事である、という世界感があるのかな、と思いました。

日本語で「怒り」を表現するとき、「むっ」「かちん」「かっ」など、擬態語的表現で表すこともよくある。
これは怒りを、「理由」でなく、「感覚」的表現で表してると思う。
「腹が立つ」「頭に来る」なども、理屈ではない身体の感覚での表現だと思う。
「自分」は混とんとした宇宙で理屈で説明できない。だから「混とんが感じ取った」内部感覚でしか表現できないんだと思う。

日本語には主語が無い。時にそれは「非論理的」と非難される。
でも、主語が無いのは、「自分」は混とんであり、「他者」もまた自分の外にある混とんだ、という意識の表れなんだと思う。
エスペラントとか、その元になってるヨーロッパ語みたいに、
自分を怒らせてるのは何かという事を、幽体離脱の自分が常に冷静に判断してるような語とは、精神構造そのものが全く異なるように思う。
そしてそういうエスペラントを「公式共通語」とする事は、「そういう感覚は非論理的だからこっちに直しなさい」と言われるのと同じな感じがするので、
非常につらいものがあるのです。

なのでNEPOでは、koleriは、人類共通の「怒り」という内部感覚として定義し、
「その要因」は造語としてくっるける、としたらどうか、と思っている。
仮に他の民族で、ヨーロッパ人と異なる理由で怒る民族がいて、
その要因をはっきり言いたければ、それも造語で対等に作る事ができる。
他の民族語を知らなくても、想像力を働かせ、こういう時は**-koleriっていう言い方があるといいね、という感じで作れる。


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