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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
510
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/03(火) 23:20:09 ID:HkmeMXxc
二項対立ではないですが、かつて西洋と対する存在であったイスラム勢の息の根が完全に絶たれたという出来事ですね。
それより百年弱。
今のイスラム原理主義者はそのことから飛躍しすぎて、もとの出来事を思い返せないまでになってしまってはいませんか。
511
:
Republica de Venexia
:2015/03/03(火) 23:47:59 ID:???
この時期のオスマン帝国の衰勢はなんとも物悲しいですよね
ヨーロッパを恐怖に陥れて、ヴェネツィア共和国の最大の敵でもあったあの超大国が
そういえば今の自称イスラーム国もカリフを自称してるんでしたっけ
スンナ派法学者はアッバース朝滅亡時点でカリフは滅亡したとしていますが、未だに影響力は強いものなんですね
512
:
Republica de Venexia
:2015/03/04(水) 00:32:26 ID:???
3月4日はシュヴァーベン大公フリードリヒが皇帝に即位した日です
>>294
で見たように神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は諸侯の反乱に悩まされ続けてきましたが、そのなかでハインリヒに味方し続けたのがホーエンシュタウフェン家でした
ハインリヒは対立王であったシュヴァーベン公ルドルフの死後、その領土を娘婿のフリードリヒに与えます
このフリードリヒには息子が2人おり、長男フリードリヒ独眼公がシュヴァーベン公を、次男コンラートがフランケン公を相続しました
やがて皇帝ハインリヒ4世が死去がし、皇帝となった息子ハインリヒ5世は嗣子に恵まれなかったため、ホーエンシュタウ
フェン家に帝位を譲ろうとします
しかし諸侯は強力なホーエンシュタウフェン家が帝位につくことに反発し、ザクセン公がロタールを皇帝に選出しました
このロタールの死後、その娘婿でヴェルフェン家のハインリヒ傲岸公が帝位につこうとしますが、傲岸公はバイエルン公のみならずロタールからザクセン公も相続していたため、その強権を恐れた諸侯は今度はホーエンシュタウフェン家のコンラートを皇帝に選出します
1138年、こうしてホーエンシュタウフェン朝が開かれましたが、傲岸公はこれに従わず、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の争いが勃発しました
ヴェルフェン家は教皇と結んで皇帝に対抗し、ここからウィーベリン(皇帝派)とヴェルフ(教皇派)の対立へと発展します
ヴェルフェン家は傲岸公が死去した後もハインリヒ獅子公がホーエンシュタウフェン家に対抗し、両家の対立は帝国を混乱に陥れるものとなりました
この両家の争いを鎮めるため、コンラートが皇帝に指名したのが、ホーエンシュタウフェン家出身であり、ヴェルフェン家の血もひくシュヴァーベン大公フリードリヒでした
1152年3月4日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世として即位した彼は、帝国の安定化に努めます
まずハインリヒ獅子公と和解し、帝国諸侯に一定の特権を認めて帝国秩序を整えました
また「神聖帝国」として教皇権に対抗してイタリア諸都市にも皇帝権を認めさせるなど、その治世で神聖ローマ帝国の威信は大いに高まったのです
フリードリヒ自身は第3回十字軍中に志半ばで急死しますが、その理念は
>>395
で見たように息子のハインリヒ6世のもとで「世界支配計画」「世襲帝国計画」として受け継がれていくのでした
本日は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
513
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/04(水) 10:58:18 ID:rU4K8Drw
あっ、おい待てい(江戸っ子)まだ肝心な誕生日祝い忘れてるゾ
514
:
IW26一生ボンバーヘッドダイビングタバコの火を消すブルースリー
:2015/03/04(水) 11:22:15 ID:???
日本で初めて馬券に絡んだ白毛馬、シラユキヒメのお誕生日です。
産駒のブチコはクラシック出走も狙える白毛馬なので応援しましょう。
515
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/04(水) 11:23:41 ID:rTpuMSrQ
世界史を振り返れるスレ
516
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/04(水) 20:29:49 ID:5UYRAoT.
今日はNaNじぇい(したらば掲示板)の誕生日です
おめでとうございます
もう一年経つんですね
517
:
Republica de Venexia
:2015/03/04(水) 22:03:12 ID:???
今日で一周年なんですね、早いような遅いような...感慨深いですね
518
:
Republica de Venexia
:2015/03/05(木) 00:32:53 ID:???
3月5日はチャーチルがミズーリ州で演説を行った日です
第二次世界大戦はアメリカとソ連の2超大国により、連合国優位で進められるようになりました
しかしヨーロッパにおける戦争が連合国側の勝利で終結する目処がたった頃から、アメリカとソ連との間で戦後国際秩序の再構築を巡って対立が生じるようになります
東欧諸国には大戦中ソ連によって解放された国が多く、ソ連は自国の安全保障確保のため、それらの国での親ソ政権の樹立を支援、東欧の大部分がソ連の勢力圏となります
フランス、イタリアでも共産党が勢力を拡大し、このような動きにアメリカは警戒心を抱いていました
そんな折、イギリスの元首相チャーチルがアメリカ大統領トルーマンに招かれてアメリカを訪問します
そして1946年3月5日、チャーチルはミズーリ州ウェストミンスター大学にて演説を行い、その中でソ連はバルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで鉄のカーテンを降ろしたと批判したのです
この演説は米ソの対立表すものとして頻繁に用いられ、チャーチルが懸念した通り米ソの緊張状態はさらに高まっていきます
アメリカはヨーロッパの経済危機が共産主義勢力拡大が一因だとし、対ソ・対共産主義の封じ込め政策を開始しました
またアメリカを中心とする西側諸国は北大西洋条約機構を結成、これに対し東側諸国はワルシャワ条約機構を結成するなど東西両陣営の対立はますます激化し、冷戦と呼ばれる緊張状態に突入するのでした
本日は「鉄のカーテン」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・松戸清裕『世界史リブレット92 歴史のなかのソ連』山川出版社、2005年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年
・猪木武徳・高橋進『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』中央公論新社、2010年
519
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/05(木) 13:18:28 ID:JTefUlFo
今日は大洋ホエールズの名ショート、山下大輔さんの誕生日です
520
:
今の私は日本の高1で最強のつもりや
:2015/03/05(木) 13:32:37 ID:???
このスレすごいっすね、勉強になります
本出せるレベル
521
:
Republica de Venexia
:2015/03/06(金) 01:26:04 ID:???
3月6日はアル=カーミルが死去した日です
アイユーブ朝は
>>266
で見たように英雄サラディンの死後分裂し、アル=アーディルとその息子アル=カーミルによって再統一が進められました
しかしカーミルの即位に反発する者も多く、特にカーミルの弟でダマスカスを支配していたアル=ムアッザムとの対立は頭を悩ませる問題でした
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が十字軍を起こしたのはこの時期にあたり、カーミルとしてはイェルサレムを支配するムアッザムを打倒するためにフリードリヒと協力したという側面もあります
>>494
で見たように1229年2月18日、カーミルはフリードリヒにイェルサレムを譲渡するヤッファ協定を締結しましたが、その前年にムアッザムは死去し、ダマスカスはその息子のアル=ナーシルが後を継いでいました
ナーシルは父と同じくカーミルに抵抗し、聖地イェルサレム譲渡に反発する勢力の後押しもありましたが、十字軍勢力との休戦に成功し反乱鎮圧に集中できるようになったカーミルはナーシルを破ってダマスカスを手に入れ、アイユーブ朝の再統一に成功しました
カーミルはその後内政に力を入れ、特にエジプトでの灌漑事業が成功を収めるなど、国内の経済政策に多くの実績をあげ、エジプトは発展していくこととなります
しかし1238年3月6日、カーミルが死去すると情勢は再び不穏なものとなりました
アイユーブ朝の領土はカーミルの息子であるアル=サーリフとアル=アーディルによって分割され、両者はエジプト支配を巡って争いを始めたのです
またナーシルがこの隙をついて十字軍との休戦協定期間が過ぎた1239年11月にイェルサレムを奪いました
このようにアイユーブ朝は再び混乱の時代を迎え、その中でサーリフが戦力増強のために雇ったマムルークがやがてアイユーブ朝を乗っ取りマムルーク朝を開くこととなるのでした
本日はアイユーブ朝衰退の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
522
:
Republica de Venexia
:2015/03/07(土) 00:02:39 ID:???
3月7日はマルクス=アウレリウス=アントニヌスが皇帝に即位した日です
ローマ帝国は
>>286
のネルウァが皇帝となった後、
>>281
で見たようにトラヤヌスが最大版図を実現、ハドリアヌスによって帝国の安定化が図られました
ハドリアヌスには実子がおらず、ケイオニウス=コンモドゥスを養子としましたが、このケイオニウスが急死し、既に51歳となっていたtティトゥス=アウレリウス=アントニヌスが養子となりました
このアントニヌスにも実子がいなかったため、ハドリアヌスはケイオニウスの遺児ルキウス=ウェルス、そしてアントニヌスの妻の甥であるマルクス=アンニウス=ウェルスを養子とするよう命じました
こうしてハドリアヌスの次代、その次代の帝位継承を定めてハドリアヌスは死去し、アントニヌスが皇帝となります
アントニヌスはハドリアヌスの政策を継承して大幅な改革はせず、反乱や戦争も外交によって解決するなど、帝国は平和な時代を過ごすこととなったのです
アントニヌスはハドリアヌスと対立していた元老院を説き伏せてハドリアヌスをしています神として祭るために誠意を尽くし、「ピウス」の称号を贈られました
アントニヌス=ピウスは23年間の治世を平穏のうちに終え、次代をマルクスに託します
そして161年3月7日、五賢帝最後の皇帝となるマルクス=アウレリウス=アントニヌスが即位しました
マルクスは即位後すぐに同じくアントニヌスの養子となっていたルキウスに自分と同等の権限を与え、共同皇帝となったのです
こうして2人の治世が始まりましたが、この時代になると帝国周辺で不穏な動きが目立つようになります
北方ではゲルマン人が、東方ではパルティアとの戦いが展開され、マルクスが北方を、ルキウスが東方の防衛を担当しました
やがてルキウスが病没した後はマルクスが全ローマ軍を率い、帝国に侵入するゲルマン人との戦いに明け暮れることとなります
この戦いの陣中で書かれた自分自身との対話の記録が『自省録』で、ストア哲学の名著として知られています
マルクスは180年にゲルマン人との戦闘中の陣中で没し、帝国は
>>507
で見たような混迷の時代へと突入していくこととなるのでした
本日は「哲人皇帝」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
523
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/07(土) 22:08:36 ID:LuTlSZAY
高校の頃五賢帝暗記させられたけどテストにすら出ず無駄な労力だったのを思い出した
524
:
Republica de Venexia
:2015/03/07(土) 22:11:34 ID:???
暗記しましたねー、七選帝侯とかも
トラヤヌス、ハドリアヌス、マルクスは問題にしやすそうだけど、ネルウァと特にアントニヌスは問題作るの難しそう
525
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/03/07(土) 22:16:42 ID:LuTlSZAY
七選帝候、必死で記憶をたどってるけど本気でもう一人も思い出せないゾ…(池沼)
526
:
Republica de Venexia
:2015/03/08(日) 00:14:46 ID:???
3月8日はペトログラード蜂起が起こった日です
>>191
で始まった第一次世界大戦ですが、戦争はおおむねの予想に反して長期化することとなりました
また経済大恐慌も起こり、この非常事態を乗り切るため反対政党も加えて政府を支える挙国一致体制が取られる国もありました
全国民が軍需物資の生産に動員される戦時体制となり、植民地の住民も兵士や労働者として動員されるなど、大戦は国民のあらゆる力と技術を投入する総力戦となったのです
このような戦争の長期化と国力疲弊のなかで生活物資は不足するようになり、ロシアでは民衆の不満が高まっていきました
そして1917年3月8日(ロシア暦2月23日)、ロシアの首都ペトログラードで戦争の重圧に耐えかねた労働者の大規模なストライキが起こります
これをきっかけに、ロシアでは「戦争反対」「専制打倒」をスローガンにしたデモやストライキが全土に広がるようになり、これに運動鎮圧を拒否した兵士も合流して革命へと発展したのです
この革命のなかでロシア各地に労働者・兵士のソヴィエト(評議会)が結成され、その支持を得てブルジョワジーを中心とした臨時政府が組織されました
ロシア皇帝のニコライ2世は退位を余儀なくされ、ここに
>>497
以来約300年続いたロマノフ朝が滅亡することとなります
この段階では臨時政府とソヴィエトが並立する、いわゆる二重権力状態でしたが、やがて
>>343
で見たようにレーニンが登場し、ソビエト社会主義共和国連邦の建国へと至ることになるのでした
本日はロシア二月革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・ニコラ・ヴェルト、石井規衛監『ロシア革命』創元社、2004年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
527
:
Republica de Venexia
:2015/03/09(月) 00:13:17 ID:???
3月9日はストルボヴァの和約が結ばれた日です
>>497
で見たロシアの動乱時代、偽ドミトリー1世に代わってツァーリとなったヴァシーリー=シュイスキーですが、ポーランドが支援する偽ドミトリー2世が出現し、苦境に立たされることとなりました
シュイスキーは偽ドミトリー2世に対抗するため、スウェーデンのカール9世に支援を求めます
カールはリヴォニアの割譲、ポーランドに対する共闘を条件にこれを承諾し、ロシアへの介入に成功したのです
しかしこのロシア・スウェーデン同盟に脅威を感じたポーランドはロシアへの直接介入を決定、ロシア=ポーランド戦争が勃発することとなります
ポーランドは1610年4月のクルシノの戦いでロシア・スウェーデン連合軍に勝利しシュイスキーは退位、偽ドミトリー2世がツァーリとなりました
この後ポーランドはロシアへの影響力をさらに強めるため、国王ジグムント3世の長男ヴワディスワフのツァーリ選出を画策します
もちろんこれには反発も多く、ロシアでは反ポーランド運動が高まります
またポーランドの影響力を排除するため、今度はスウェーデンがカール9世の息子カール=フィリップをイングリアにてツァーリに擁立しロシアに宣戦布告、イングリア戦争が勃発しました
こうしてロシアはスウェーデン・ポーランドの介入に遭い、動乱時代は頂点を迎えることになります
やがてモスクワではポーランドを追放してミハイル=ロマノフをツァーリに選出、ロマノフ朝が創始されます
1617年3月9日にはようやくスウェーデンとの講和が成立し、ストルボヴァの和約が結ばれました
スウェーデンはノヴゴロドとカール=フィリップのツァーリ位を放棄する代わりにイングリアを獲得しました
この当時スウェーデン国王はカール9世からグスタフ2世アドルフに代わっており、バルト海沿岸地域であるイングリア獲得は、後に彼が確立させることになるバルト帝国の第一歩となったのでした
本日はバルト帝国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
528
:
Republica de Venexia
:2015/03/10(火) 00:12:14 ID:???
3月10日はアエガステスの海戦が行われた日です
前3世紀後半、ローマはイタリアの大部分を支配するようになり、ギリシア都市救援に来たエペイロス王ピュロスも撃退し、前272年にはタレントゥムを攻略しイタリア半島の統一を達成します
軍事的天才として知られたピュロスに勝利したことでローマの軍事力は地中海世界に知れ渡ることとなりました
その頃、シチリア島ではシラクサがカルタゴ支配に抵抗していましたが、シラクサの傭兵となったマルメティニがメッサナを占領、これに対してシラクサの僭主ヒエロンがカルタゴと結んでマルメティニを攻撃、マルメティニはローマに救援を求めました
ローマ元老院には慎重派が多く民会に決定が委ねられましたが、ここでコンスルのアッピウス=クラウディウス=カウデクスが護民官に働きかけて開戦を主張、前264年、第一次ポエニ戦争が始まったのです
ローマには当初海軍は存在せず、前261年に初めて軍船が建造されるという有様でした
これでは伝統的な海軍国であるカルタゴには敵わないため、ローマはカラスと呼ばれる接舷タラップを考案します
先に鉤が取り付けられたこのカラスを敵船に打ち込んで自船と固定し、カラスを渡って敵船に乗り込むことで海上での白兵戦を可能としたのです
ローマはカラスを有効的に活用し、前260年にミュラエの海戦でカルタゴ海軍に勝利を収めました
しかしカルタゴもハンニバルの父ハミルカル=バルカが陸戦で反撃し、シチリアのほぼ全土を支配することに成功しました
しかし海戦ではローマが連戦連勝で、ドゥレパナの海戦を除く全ての海戦で勝利を収めたので
そして前241年3月10日、アエガステスの海戦に勝利したことでローマは制海権を完全に握り、補給の望みが絶たれたハミルカルも降伏を余儀なくされ、カルタゴの敗北で終わったのです
戦争に勝利したローマは1,200タラントの賠償金を得、シラクサを除く全シチリア都市を獲得、初めて海外領土を得ることとなったのでした
本日は第一次ポエニ戦争におけるローマ決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・松谷健二『カルタゴ興亡史 ─ ある国家の一生』中央公論新社、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
529
:
Republica de Venexia
:2015/03/11(水) 01:24:30 ID:???
3月11日はジョヴァンニ=デ=メディチが教皇に即位した日です
ジョヴァンニ=デ=メディチは、メディチ家によるフィレンツェ支配の絶頂期を現出したロレンツォ=デ=メディチの次男として産まれました
メディチ家は
>>288
で見た大シスマの際に対立教皇ヨハネス23世を擁立、続くマルティヌス5世を支援したこともあってローマ教皇庁との関係が深く、ジョヴァンニも枢機卿に就任することとなりました
やがてフィレンツェでは
>>346
で見たようにメディチ家が追放されますが、ジョヴァンニは教皇ユリウス2世とスペインの支援を得、フィレンツェに復帰することに成功します
そしてユリウス2世が死去した後の1513年3月11日、ジョヴァンニはレオ10世として教皇に即位したのです
当時の教皇庁はフランス・ヴァロワ家と神聖ローマ帝国・ハプスブルク家が抗争するイタリア戦争の最中にあり、フランス王フランソワ1世が侵攻してくるとレオはフランス王に聖職叙任権の一部を与えることで休戦に持ち込みます
なおレオ10世はルネサンスを保護したことでも知られ、ミケランジェロやラファエロを支援し、ローマにおけるルネサンス文化繁栄をもたらしました
この時期にはレオナルド=ダ=ヴィンチも活躍しており、先のレオ10世とフランソワ1世との会談にも招かれていました
ダ=ヴィンチはその後フランソワに招かれ、フランスにルネサンス文化をもたらすこととなります
またレオとフランソワは協力して神聖ローマ帝国に対抗し、
>>429
で見た神聖ローマ皇帝選挙の際にもフランソワの皇帝選出を支援しますが、皇帝にはカール5世が即位し失敗に終わりました
しかしレオはやがてカールとも協力関係を結びます
>>334
で見たように、ドイツで贖宥状販売への反発をきっかけとする宗教改革が起こったからでした
ルネサンス文化を保護したレオでしたが、サン=ピエトロ大聖堂再建のためには莫大な費用がかかり、レオはこれを贖宥状販売によって賄っていたのです
このようにローマ教皇レオ10世はルネサンス文化の隆盛と宗教改革の発端、この時代のヨーロッパを大きく動かす出来事の真っ只中に位置する存在となったのでした
本日はメディチ家出身教皇の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・森田義之『メディチ家』講談社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
530
:
Republica de Venexia
:2015/03/12(木) 00:02:25 ID:???
3月12日は「友鶴」が転覆した日です
>>77
のロンドン海軍軍縮条約では駆逐艦の保有にも制限が加えられ、排水量が1500トン以上の駆逐艦は補助艦艇全体の16%に制限されることとなりました
日本海軍ではこの保有枠は特型駆逐艦で使い切ってしまっていたため、1400トン以下で特型駆逐艦と同等の戦力を有する駆逐艦の建造に着手します
こうして建造された駆逐艦が初春型で、1400トンの船体に12.7cm砲6門、61cm魚雷発射管9射線を備える駆逐艦として誕生しました
また駆逐艦の保有枠を1400トン型に絞るため、1000トン型の駆逐艦を条約制限外の600トン型水雷艇に変更し、こちらも初春型と同じく小さい船体に重武装というコンセプトで建造されました
この水雷艇が「友鶴」の属する千鳥型となります
これらの船体に見合わない重武装な艦艇はもちろん設計に無理があり、重心の高いいわゆるトップヘビーな艦艇となりました
これを補うため初春型や千鳥型にはバルジが取り付けられ、復原性能の向上が図られます
しかし1934年3月12日、佐世保港外で夜間演習を行っていた「友鶴」が転覆するという事件が発生していまいます
原因は波浪で、「友鶴」は初期復原性は十分に持っていたものの動的復原性、特に復原性範囲角度、同最大復原性が極めて不足しており、波浪に耐え切れなかったのです
海軍では事件を受けて直ちに臨時艦艇調査委員会が設置され、その報告に基づき復原性能改善工事が進められます
初春型は前方の単装砲が後方に移され、巨大な艦橋は縮小されることになりました
後部魚雷発射管も次発装填装置とともに撤去され、他の魚雷発射管・煙突・缶室給気口・マスト・探照灯台も縮小あるいは低い位置に再装備するなどの低重心化が図られたのです
このように「友鶴」の転覆事故は艦艇設計に大きな見直しを迫り、翌年に発生する第四艦隊事件とともに、日本の艦艇設計の転機となったのでした
本日は友鶴事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・吉村昭『空白の戦記』新潮社、1981年
・福井静夫『福井静夫著作集5 日本駆逐艦物語』光人社、2008年
・雑誌「丸」編集部「丸8月別冊 日本の駆逐艦オール大百科」光人社、2014年
531
:
Republica de Venexia
:2015/03/13(金) 00:03:55 ID:???
3月13日はグスタフ4世アドルフが廃位された日です
>>471
で見たように、スウェーデン王グスタフ4世アドルフは先王グスタフ3世の絶対王政を引き継ぎ、スウェーデンの国際的地位を保とうとしますが、ナポレオン戦争に巻き込まれその際反ナポレオン政策を貫いたため窮地に陥ることとなりました
特にロシアと対立することになったのは痛く、フィンランドを巡ってロシア=スウェーデン戦争が勃発しました
スウェーデンは
>>327
で見たように三十年戦争でバルト帝国を確立させヨーロッパの強国の地位についたものの、
>>205
の大北方戦争でロシアに敗れたことでバルト帝国は崩壊に向かい、
>>254
のグスタフ3世時代にその復権に尽力したものの、グスタフ4世が引き起こしたロシア=スウェーデン戦争の敗北によってフィンランドが奪われたことでバルト帝国復権の夢は完全に潰えることになったのでした
すでに農業・経済・財政等の危機に対して有効な対策を打ち出せず、外交政策も完全に裏目に出て国民の信望を失っていたグスタフ4世は、このロシア=スウェーデン戦争の敗北によってその威信失墜は決定的となりました
そして1809年3月13日、スウェーデンの軍人・貴族らはクーデターを起こしグスタフ4世は廃位されることになります
スウェーデンは立憲君主制に改められ、グスタフ4世の叔父カール13世が即位、そして
>>471
で見たようにベルナドッテ王朝の誕生へと至るのでした
本日はスウェーデン絶対王政の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
532
:
Republica de Venexia
:2015/03/14(土) 01:01:43 ID:???
3月14日は毛利元就が産まれた日です(旧暦)
毛利氏の系図は鎌倉時代、源頼朝の重臣大江広元まで遡ります
広元の4男季光が相模国毛利荘を与えられ、その地名から毛利の姓が誕生したのです
そして季光の子である経光が安芸国吉田荘の地頭となり、経光の子である時親の代に安芸国を本拠地としたのでした
それ以降毛利氏は吉田郡山城を拠城として勢力を拡大していきましたが、元就の父弘元の代では一国人領主にすぎなくなっていました
1497年3月14日、毛利元就が産まれた頃はこのような情勢でした
やがて弘元が没し、元就の兄にあたる興元が後を継ぎますが、興元は25歳で急死し、その子幸松丸も9歳で夭折したため、元就が家督を継承することとなりました
ここから元就による毛利氏の戦国大名化が始まります
当時、戦国大名になるには大きく3つの形がありました
1つめは守護大名がそのまま戦国大名になるパターン、2つめは守護代が下剋上により戦国大名となるパターン、そして3つめが国人一揆から戦国大名になるパターンで、元就はこの3つめの典型的な例でした
安芸国には守護大名武田氏がおり、その下にいる30ほどの国人領主による連合体によって支配されていました
この連合体が国人一揆で、元就はその国人の1人でしたが、元就は娘を国人の1人である宍戸隆家に嫁がせ、次男元春には国人の熊谷信直の娘を迎え、三男の隆景を国人の小早川家に、元春は国人の吉川家に養子として送り込み勢力を拡大、国人一揆の盟主としてのし上がったのです
その後も元就は武略・計略・調略を駆使して勢力を広げていき、1555年の厳島の戦いでは大内氏重臣陶晴賢を破り、大内氏の領土の大部分を征服します
>>358
で見たように尼子氏をも滅ぼし、元就は一代にして毛利氏を中国地方の覇者にまでのし上げたのでした
本日は「謀神」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「毛利戦記 大内、尼子を破った元就の権謀」学研パブリッシング、2010年
533
:
Republica de Venexia
:2015/03/15(日) 00:01:54 ID:???
3月15日はカエサルが暗殺された日です
>>423
で見たように、カエサルは保守化した元老院に反発してポンペイウス、クラッススとともに第一回三頭政治を行いましたが、クラッスス死後にはポンペイウスとの対立が表面化することとなりました
ルビコン川を渡りローマに進軍したカエサルに対し、ポンペイウスは対抗しようとするもののローマにはカエサル支持派が多く、ポンペイウスはカエサルとの対立を避けて支持勢力の多いギリシアへと逃れます
こうして空白地帯となったローマにカエサルが入り、独裁体制の確立が図られました
前49年にディクタトルに就任し、前48年のコンスル選挙を主宰して当選、ポンペイウスとの対決の際には一時ディクタトルを辞しコンスルとして臨みました
そして
>>244
のファルサルスの戦いでポンペイウスを破り、しばらくエジプトに滞在した後の前47年にローマへと帰還します
カエサルは前46年のコンスル選挙で再びコンスルとなり、敵対勢力であったポンペイウス派や小カトーをアフリカで破り、その権限はますます強化されていきます
前45年には再びコンスルに就任するとともに10年間のディクタトルにもなり、前44年にはついに終身ディクタトルとなり、カエサルの独裁権は絶頂を迎えることとなりました
しかしこの急激な独裁化に対し元老院閥族派は危機感を覚え、ローマ市民もまた、カエサルがまるで君主であるかのように振る舞うことに冷淡な姿勢を見せるようになりました
そして前44年3月15日、カッシウスやブルートゥスらが決起し、カエサルは暗殺されることとなったのでした
本日は「ブルートゥス、お前もか!」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
534
:
Republica de Venexia
:2015/03/16(月) 00:52:32 ID:???
今日はヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄した日です
第一次世界大戦に敗れたドイツは戦争責任を問われ、屈辱的といえるヴェルサイユ条約を結ぶこととなりました
まずアフリカや中国、太平洋に持っていた植民地を全て放棄させられ、エルザス・ロートリンゲン地方をフランスに、オイペン=マルメディ地方をベルギー、ポンメルン地方をポーランドに割譲しました
これは開戦前の領土の13%、農業生産地の15%、工業地帯の20%、人口の10%の喪失となります
また賠償金として1320億金マルクを課せられ、徴兵制の禁止、陸軍10万人、海軍1万5千人の制限、戦車・潜水艦・航空母艦・航空機の開発・保有が禁止とされたのです
しかしドイツは当時世界的に孤立していたソ連と秘密協定を結び、ソ連領内にてドイツ軍人に戦車・潜水艦・航空機の技術を学ばせ、またドイツの息がかかった会社を設立し戦車・潜水艦・航空機の水面下での研究開発にあたったのです
その他艦艇においても条約で認められる範囲で水雷艇、軽巡洋艦、装甲艦などを建造し、巡洋戦艦や戦艦も極秘で研究開発が進められました
そして1935年、ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し再軍備を宣言した際には、それまで水面下で極秘裡に進められていた兵器が国内で大々的に建造されるようになり、周到に準備されていたこともあってドイツの軍備は急速に整備されていきます
1939年の時点ではすでにイギリス・フランスに対抗し得る戦力を備え、第二次世界大戦へと突き進むこととなるのでした
本日は「再軍備宣言」の誕生日です
参考文献
・山本秀行『世界史リブレット49 ナチズムの時代』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
535
:
Republica de Venexia
:2015/03/17(火) 00:10:52 ID:???
3月17日はエドワード黒太子がコーンウォール公となった日です
13世紀以前、イギリス議会では軍事力や所領の大きさによって自然と諸侯とみなされた人々が議会貴族身分と呼ばれていました
しかし14世紀以降にはそれにとらわれず、個人宛令状によって議会に召集された諸侯が議会貴族身分とみなされるようになります
その先鞭をつけたのがイングランド王エドワード3世で、彼は自身の子どもたちを諸侯の子女と結婚させ、王族関係者とすることで家系づくりを進めたのです
その代表的な例が、
>>287
でも登場したエドワード黒太子へのコーンウォール公授与でした
1337年3月17日、エドワード3世は議会で6つの伯家を創設し、イングランド最初の公爵となるコーンウォール公に長男のエドワード黒太子を叙したのです
1385年には侯爵、87年には男爵、1440年には子爵が王によって授与されるようになり、議会貴族身分は国王権限によって作り出されるものという伝統が形成されることとなりますが、その最初の例をエドワード3世がつくったのでした
コーンウォール公はその後も連綿と受け継がれていき、現在はイングランド女王エリザベス2世の長男チャールズ王太子が保持しています
本日はイングランド公爵位の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
536
:
Republica de Venexia
:2015/03/18(水) 00:30:26 ID:???
3月18日はフリードリヒ2世がイェルサレムで戴冠した日です
>>494
で見たように、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は十字軍への参加を表明し、ジャン=ド=ブリエンヌの娘でありイェルサレム王国の相続人とみなされていたイザベルと結婚したことで、イェルサレム奪還の準備を整えていました
そして彼はアイユーブ朝スルタンのアル=カーミルと交渉することによってイェルサレム奪還を図り、カーミルとの間にヤッファ協定を締結することでその目標を達成したのです
1229年3月17日にフリードリヒ2世はイェルサレムに入城し、翌18日、聖墳墓教会にてイェルサレム王として戴冠式を挙行しました
しかしフリードリヒは教皇インノケンティウス3世から破門された身であったため司祭はフリードリヒの戴冠に難色を示し、十字軍諸侯の反応も冷淡なものでした
そこでフリードリヒは教会の祭壇から王冠を取り、自らの手でイェルサレム王として戴冠することになものでした
本日はイェルサレム王フリードリヒの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
537
:
Republica de Venexia
:2015/03/19(木) 00:31:03 ID:???
3月19日は李自成が北京を占領した日です
16世紀、中国の明では海外貿易が拡大し、中国産の生糸が輸出され日本やアメリカから銀が流入するようになりました
この銀が江南の生糸・絹織物産業をさらに活性化させ、輸出量が増え、銀の流入も加速させるという循環を生み出したのです
しかしその一方で農村は貧困化していきます
というのも、明に流入した銀は内地に向かわずに辺境地域へと流れ、銀不足となった内地では銀で納税することが困難となり、農民が窮乏していったからでした
この銀が辺境へと流れていった要因として、「北虜南倭」が挙げられます
明の北方ではモンゴルの侵攻が激化し、南方では倭寇の活動が活発化していたのです
モンゴルの侵攻に対抗するため明の軍事費は増大し、ますます内地の銀不足が進行、すると今度は海外との密貿易によって銀を入手しようと倭寇の活動が活発化するというように、こちらでは悪循環が生じるようになりました
こうして明は内外に問題を抱えその統治体制は揺らぐことになっていきますが、その中で台頭してきたのが後金、そして李自成の反乱軍でした
銀が辺境に集中するようになったことで辺境では周辺民族との交易も行われるようになりますが、中央権力の統制が届きにくい辺境の地では武力による富の争奪戦が繰り広げられ、その競争を勝ち抜いた女真族が後金を建て、明との直接対決に臨んだのです
この脅威に対抗するため明の主力軍は北方へと移動し、その隙をつく形で農民反乱が拡大していきました
その首領となったのが李自成と張献忠で、陝西省出身のこの2人は1630年代を通じて山西、河南、湖広、安徽、四川へと活動範囲を広げ、李自成は長江以北、張献忠は長江以南で反乱を指導しました
李自成の反乱軍は1643年には湖北の襄陽に進出し、44年には西安を攻略し大順国を建国します
そして1644年3月19日、李自成の反乱軍は北京を占領、明最後の皇帝崇禎帝は自害し、明の歴史は幕を閉じることとなったのでした
本日は明の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年
538
:
Republica de Venexia
:2015/03/20(金) 01:14:09 ID:???
3月20日はナポレオンがフランス皇帝に復位した日です
>>317
で見たように、1813年10月16日から行われたライプツィヒの戦いに敗れたナポレオンはフランスへと撤退を余儀なくされ、勢いづいた同盟諸国は各方面からフランスへと侵攻し翌1814年3月にはパリへの入城を果たしました
ナポレオンは退位させられ、地中海の島エルバ島へと流されることになります
ナポレオンに勝った同盟諸国はオーストリア外相メッテルニヒ主導の下でウィーン会議を開き、フランス首相タレーランが主張した正統主義の原則に基づいて進められました
しかし領土問題を巡って参加諸国の利害が対立したことで審議は遅難航し「会議は踊る、されど進まず」と揶揄される状態となります
この隙をつく形でナポレオンはエルバ島から脱出し、フランスへの帰還を果たします
フランス国民も英雄の帰還を歓迎し、王政復古によって復活していたブルボン朝のルイ18世は追放されました
そして1814年3月20日、パリに入城したナポレオンはフランス皇帝への復位を宣言したのです
ここから
>>175
で見た1814年6月18日までの約100日間、ナポレオンは再び皇帝として君臨することとなるのでした
本日は「百日天下」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年
・上垣豊『ナポレオン 英雄か独裁者か』山川出版社、2013年
539
:
Republica de Venexia
:2015/03/21(土) 01:14:43 ID:???
3月21日はアイルトン・セナが産まれた日です
1960年3月21日にブラジル・サンパウロで誕生したセナは幼少の頃からレースの世界に身を投じ、カートレース、ジュニア・フォーミュラ、F3を経て1984年にF1に参戦することとなりました
最初の1年はトールマンに所属し、翌年ロータスへと移籍、ロータスの3年目ではホンダエンジンのマシンを駆り3位という好成績を収めました
そして1988年からは85年・86年に連覇を成し遂げていたアラン・プロストが所属するマクラーレンへの移籍に至ります
この年からホンダエンジンを積んだマクラーレンマシンで2人は思う存分走り回り、開幕から連戦連勝、最急的にセナは初めてのドライバーズタイトルを獲得したのです
89年はタイトルをプロストに譲り2位で終わったものの、90年にはフェラーリに移籍したプロストを抑え王座を奪還しました
91年には躍進するウィリアムズ・ルノー、マンセルとの接戦を制し2連覇を達成しますが、92年はウィリアムズに敗れ4位に終わります
とはいえこの年のモナコグランプリでは首位にたったセナがマンセルを抑え切り優勝を成し遂げました
三宅アナウンサーの「ここはモナコモンテカルロ、絶対に抜けない!」は印象的なシーンでしょう
この優勝でセナはこの時点でモナコグランプリ4連覇、通算5勝となりグラハム・ヒルに並ぶ記録となります
翌93年もマクラーレンで走り、モナコグランプリ5連覇、通算6勝をあげたものの惜しくも2位に終わりました
その後は
>>66
で見たようにサンマリノグランプリで事故死をするまでドライバーズタイトル3回、優勝41回、ポールポジション65回という大記録を残したのでした
本日は「音速の貴公子」の誕生日です、おめでとうございます
540
:
Republica de Venexia
:2015/03/22(日) 00:17:48 ID:???
3月22日はマクシミリアンが産まれた日です
>>415
で見たカール4世が1376年に死去した後、神聖ローマ皇帝はその息子のヴェンツェルが継承しました
その頃ローマ教会は
>>288
で見たように1378年から大シスマの時代に突入しており、これが1417年まで続くこととなります
この間に皇帝となっていたジギスムントはコンスタンツ公会議を開き、大シスマを解消して帝国の一体化を図ろうとしました
ジギスムントは
>>296
で見たようにニコポリスの戦いでオスマン帝国に大敗しており、その進攻に対抗するため帝国をまとめる必要があったのです
1437年、ジギスムントはエーガー帝国議会で平和令を発し、諸侯もまた翌年にフランクフルトでラント平和を決議し、同じ年にニュルンベルクでも選帝侯が帝国の平和に関する法案が提案されたというように、帝国の解体を危惧し一体化を進めようとする動きが見られます
>>468
で取り上げた、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名称が見られるのもこの頃からでした
しかしジギスムントの後を継いだハプスブルク家のアルブレヒト2世は諸侯権力の強大化を恐れて改革案に修正を加え、これに諸侯が反発します
アルブレヒトが急死したため皇帝となったフリードリヒ3世も諸侯の要求をのらりくらりのかわし、ハプスブルク家の帝位世襲を確立したものの、帝国改革にはほぼ手付かずでした
このフリードリヒ3世の長男として1459年3月22日に産まれたのがマクシミリアンでした
1477年に神聖ローマ皇帝となったマクシミリアン1世ですが、フリードリヒの治世でオスマン帝国の脅威が増大し帝国内の亀裂がますます深まり、またコンスタンティノープルが陥落したことで西欧に衝撃が走っており、帝国の一体化は急務という状況でした
マクシミリアンは1495年、ヴォルムス帝国議会において具体的な帝国改革案を提示します
それは永久ラント平和令の制定、帝国最高法院の設置、一般帝国税、帝国議会の整備で、これにより皇帝と帝国が分離し法と秩序によって帝国が支配される体制の端緒となったのです
またカール4世の時代に進んでいた皇帝権と教皇権の分離もマクシミリアンの時代で決定的となり、神聖ローマ帝国の在り方が大きく変わる治世となったのでした
本日は「中世最後の騎士」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
541
:
Republica de Venexia
:2015/03/23(月) 00:53:57 ID:???
3月23日はパーヴェル1世が暗殺された日です
ロシア皇帝ピョートル3世と女帝エカチェリーナ2世との間に産まれたパーヴェルですが、彼は父と同じくプロイセン王フリードリヒ2世を信奉していました
これにエカチェリーナが反発することになります
というのも、ピョートル3世は
>>489
で見たようにフリードリヒを信奉していたことで七年戦争での勝機を逸するという大失態を犯していたからでした
ピョートル3世に対する不満が高まったロシアでは、皇后エカチェリーナがクーデターによってピョートルを追放しエカチェリーナ2世として即位、啓蒙専制君主として国家を強力に主導し
>>239
で見たポーランド分割やオスマン帝国との戦争を通じてロシアの強大化に成功したのでした
そんなエカチェリーナも1796年に死去し、その後を息子のパーヴェルが継ぐこととなります
しかしこのパーヴェル、先に見たようにエカチェリーナとは対立しており、その治世はエカチェリーナの政策を否定するものに終始しました
これにロシア国民の不満が高まり、父と同じくクーデターに遭うこととなります
1801年3月23日、パーヴェルは近衛将校によるクーデタによって暗殺され、同日にその息子で祖母エカチェリーナの寵愛を受けていたアレクサンドルが即位しました
このアレクサンドルが
>>531
のロシア=スウェーデン戦争でフィンランドを獲得し、
>>317
のナポレオンによるロシア遠征を撃退、
>>164
のウィーン会議を主導し、ウィーン体制にてロシアを「ヨーロッパの憲兵」たらしめたアレクサンドル1世なのです
本日はロマノフ朝第10代皇帝アレクサンドル1世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
542
:
Republica de Venexia
:2015/03/24(火) 00:00:14 ID:???
3月24日は徳川家康が征夷大将軍に任命された日です
>>283
の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、戦後の論功行賞で豊臣氏の勢力を削り、自身の所領も400万石に増加、要地に家臣や徳川側の大名を配してその支配体制を固めます
その仕上げとして1603年3月24日、征夷大将軍に就任し武家の棟梁としての地位を確立したのです
その後家康は1605年に将軍職を辞して息子の秀忠に譲り、将軍職は徳川家が世襲するといえ意思を示しました
1615年には
>>130
の大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川による支配を確立したのでした
本日は江戸幕府の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原大合戦と大坂の陣』吉川弘文館、2007年
・池上裕子『織豊政権と江戸幕府 日本の歴史15』講談社、2009年
543
:
Republica de Venexia
:2015/03/25(水) 00:07:20 ID:???
3月25日はベラルーシが独立を宣言した日です
ベラルーシの始まりはキエフ大公国から分かれたポロツク公国であり、ルーシによって支配されていましたが、
>>375
で見たモンゴルのバトゥによるヨーロッパ遠征の過程でモンゴル支配下となります
その後ベラルーシ人はモンゴル支配に抵抗し、
>>217
でも取り上げたドイツ騎士団の東方植民にも対抗してベラルーシとしての民族意識が高まっていきました
やがてベラルーシはリトアニア大公国が併合し、そのリトアニアが1385年のクレヴォ合同と
>>196
のルブリン合同によってポーランドと一体となると、ベラルーシもまたポーランド支配下となりポーランド化が進むこととなりました
しかし
>>364
で見たように3度のポーランド分割によってポーランドが消滅すると、ベラルーシは今度はロシアの支配下となったのです
ロシア支配下のベラルーシ人はポーランド時代の復活を図って度々ロシアに対する蜂起を行いましたが、これによってロシアの弾圧が激化しベラルーシ人の多くは亡命、ロシア化が進められました
ベラルーシはその後第一次世界大戦においてドイツの占領下に置かれますが、その間に独立することとなります
1918年3月25日、ベラルーシ人はベラルーシ人民共和国と称し建国を宣言、ベラルーシの新たな時代が始まりました
もっともこの国家は早くも翌年にソ連の侵攻を受け消滅、ベラルーシには白ロシア=ソビエト社会主義共和国が成立します
その後ベラルーシはソ連崩壊の際に再び独立を宣言し、ベラルーシ共和国となって現在に至るのでした
本日はベラルーシにおける独立国家の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
544
:
Republica de Venexia
:2015/03/26(木) 01:02:34 ID:???
3月26日はコンラート2世が即位した日です
神聖ローマ帝国ではザクセン朝のオットー3世がローマ教皇シルウェステル2世と協力し、ローマ帝国の復興を目指しました
しかしオットーは22歳で急死したためこの構想は頓挫し、新たに皇帝となったハインリヒ2世はオットーとは異なりフランク王国の復興を掲げ、ドイツ王国とのつながりを強調します
とはいえオットーが進めていたイタリア支配の強化は継続し、イヴレア辺境伯アルドゥインを破りドイツ王とイタリア王との統合に成功しました
イタリアが独自の王を持つようになるのは1861年のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世まで待つことになります
ハインリヒは帝国の支配強化にも乗り出し、大司教や司教を任命して統治を行う、いわゆる帝国教会政策を推進しました
帝国教会に寄進を行う代わりに帝国の宗教・政治・軍事への協力を求めたこの政策は、大司教や司教が世襲ではなく皇帝の任命によって決められるため、皇帝に協力的な人物を据えることができるというメリットがあったのです
やがてハインリヒは子を残さずに死去しザクセン朝は断絶、1024年、ザリエル家のコンラートがドイツ王に選出されました
コンラートは1027年3月26日に皇帝として戴冠し、コンラート2世となります
しかし王朝は断絶したものの、ハインリヒが打ち出した政策はコンラートが継承し、次代のハインリヒ3世も継承発展したのは
>>294
でも見た通りです
コンラートはまた相続によってブルグント王国を獲得し、ここにドイツ・イタリア・ブルグントの3王国が帝国を構成するようになりました
この頃から帝国では「ローマ帝国」の名称が広く普及するようになり、帝国はこれら3王国を結びつけるものとされ、以後の神聖ローマ帝国の領域の基礎となったのでした
本日は神聖ローマ帝国ザリエル朝初代皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
545
:
Republica de Venexia
:2015/03/27(金) 23:17:21 ID:???
3月27日はマリー=ド=ブルゴーニュが亡くなった日です
ブルゴーニュ公国は
>>414
で見たように、シャルル突進公がナンシーの戦いで戦死したことで崩壊、フランス王ルイ11世の侵攻に遭い各地でブルゴーニュ家に対する反乱が勃発しました
シャルルの後を継いだマリーは
>>502
で見たようにハプスブルク家のマクシミリアンと結婚し、その協力を得てルイを撃退、ブルゴーニュは奪われたものの、フランドルを守ることには成功しました
マクシミリアンとの間にはフィリップとマルグリットが産まれ、この2人は後にスペインの王女王子と結婚、ハプスブルク家にスペイン領をもたらすこととなります
マリーは1482年3月27日に落馬が原因で急死することになりますが、ヴァロワ=ブルゴーニュ家はハプスブルク=ブルゴーニュ家として継承され、やがてカール5世による大ハプスブルク帝国の成立に至るのでした
本日はヴァロワ=ブルゴーニュ家の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・ジョセフ・カルメット、田辺保訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、2000年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
546
:
Republica de Venexia
:2015/03/28(土) 00:12:27 ID:???
3月28日はスヴェン=ヘディンが桜蘭を発見した日です
紀元前1世紀頃、タリム盆地タクラマカン砂漠の北東部にはロプ=ノールといわれる広大な湖が存在していました
この湖の西岸に位置し、シルクロードの要地となって交易によって繁栄したのが桜蘭でした
中国においてはこの地域は西域と称され、特に武帝の時代に西域へと大きく勢力を拡大し、桜蘭もその支配下に入り、漢の東西交易の恩恵を受けておおいに栄えます
しかし漢は王莽のクーデターに遭い代わって新が成立、その新を倒した後漢ですが西域統治には手が回らず、西域諸国家は分立状態となりました
この時桜蘭は周辺諸国を併合して勢力を広げ、以後西域の一大国家としての繁栄が続きます
ところが4世紀にはロプ=ノールが干上がってしまい、豊富な水源を失った桜蘭は急速に衰退、廃墟となった桜蘭は歴史の表舞台から姿を消しました
桜蘭の名がが再び知られるようになったのは、スウェーデンの探検家スヴェン=ヘディンの中央アジア探検によってでした
ヘディンは大学でシルクロードという言葉の生みの親リヒトホーフェンの指導を受け、シルクロード地域の探検に乗り出していたのです
1900年3月28日、ヘディンはタリム盆地の探検中に桜蘭の遺跡を発見しました
また、ヘディンは桜蘭の近辺で干上がった川床も発見します
ヘディンはこれをロプ=ノールの跡で、かつてタリム川の水がここに流れ込んでいたと考えます
タリム川は堆積・侵食作用によって定期的に流路を変え、それに伴ってロプ=ノールも各地を彷徨っていたとの仮説を立てたのです
後の1934年、ヘディンは再び同地を訪れ、干上がっていた川が流れており、その先でロプ=ノールが復活していたのを確認、ロプ=ノールが移動していたとの説有力説の1つとなったのでした
本日は「彷徨える湖」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・長澤和俊『シルクロード』講談社、1993年
・赤松明彦『桜蘭王国 ロプ・ノール河畔の四千年』中央公論新社、2005年
・岩村忍『文明の十字路 中央アジアの歴史』講談社、2007年
547
:
Republica de Venexia
:2015/03/29(日) 00:36:50 ID:???
3月29日はスウェーデン王グスタフ4世が廃位された日です
>>38
では1792年3月29日グスタフ4世の即位について書きましたが、ほぼグスタフ3世にしか触れていなかったので今度はグスタフ4世を、また
>>531
はグスタフ4世幽閉の間違いでした
>>471
と
>>531
で見たように、グスタフ4世は先王グスタフ3世時代のスウェーデン継続を図りましたが、ナポレオン戦争での対応を誤りバルト帝国の夢が潰えることとなりました
1809年3月13日には軍部のクーデターにより幽閉され、叔父のカール=ヨハンが摂政となります
スウェーデンでは臨時政府が発足し、グスタフ3世・グスタフ4世時代の絶対王政は否定され立憲君主制への移行が図られました
そして同年3月29日にグスタフ4世の廃位が決定され、やがて追放の憂き目に遭うのでした
本日はスウェーデン・ホルシュタイン=ゴットルプ王朝第三代国王の誕生日にして命日です
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
548
:
Republica de Venexia
:2015/03/30(月) 00:25:32 ID:???
3月30日はクリミア戦争が終結した日です
「トルコの脅威」として怖れられたオスマン帝国は18世紀になると弱体化し、近代的な国家の整備が進むヨーロッパ諸国との力関係が逆転するようになりました
なかでもロシアはエカチェリーナ2世がクリミア・タタールを追放して以来、オスマン帝国の圧政を受けるスラヴ民族解放という名目で南下政策を進め、1828年に始まる露土戦争でボスポラス・ダーダネルス両海峡の自由通行権を得、黒海における通商権も獲得しました
しかしこのようなロシアの南下政策は中東やバルカン半島に影響力を得ようとしていたヨーロッパ列強の反発を招き、特にイギリスとフランスはオスマン帝国を支援してロシアへの対抗を図ったのです
そして1853年6月、ロシアは聖地イェルサレムにおける正教徒の保護を名目にオスマン帝国領に軍を派遣し、オスマン帝国はイギリス・フランスの支援を背景に宣戦布告、クリミア戦争が勃発しました
ロシアは緒戦には勝利したものの、産業革命を経て近代化したイギリス・フランスの軍隊に押され、鉄道網の未整備による補給の停滞もあって次第に劣勢となり、1855年8月にはクリミア半島の要塞セヴァストーポリが陥落します
そして1856年3月30日、オーストリア・プロイセンの仲介によってパリ条約が締結され、クリミア戦争はロシアの敗北によって終結しました
こうしてロシアの南下政策は阻止されたものの、以後ヨーロッパ列強の対立が表面化することとなります
勢力均衡によって大国間の戦争を防ごうとしていたウィーン体制はここで完全に崩壊することとなったのでした
本日はウィーン体制の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
549
:
Republica de Venexia
:2015/03/31(火) 00:14:23 ID:???
3月31日はヴィルヘルム2世がモロッコを訪問した日です
昨日のクリミア戦争終結の後、ヨーロッパ列強は先を競って世界各国へと進出していきました
1870年代半ばから20世紀初頭にかけて、列強は海外に工業製品の市場や原料供給地、資本の輸出先などを求め、武力によって植民地を広げていく帝国主義の時代となったのです
その急先鋒となったのがイギリスで、最重要植民地のインドを中心に据え、カルカッタ・カイロ・ケープタウンを結ぶ3C政策を推進します
また1882年のエジプト占領はアフリカ分割競争のきっかけとなり、イギリスはエジプトから南下して南アフリカとつなごうとするアフリカ縦断政策が進められました
一方イギリスに負けじとフランスもアフリカの植民地化に乗り出し、西アフリカ・サハラ地域から東のジブチをつなごうとするアフリカ横断政策を進めます
この英仏のアフリカ分割はスーダンで衝突しファショダ事件となりましたが、これがきっかけとなって1904年に英仏協商が結ばれたのは
>>57
で見た通りです
この2国に遅れをとったのがドイツでした
>>433
で見たようにドイツが統一されたのは1871年のことであり、ドイツ皇帝がビスマルクを罷免して親政を開始し、世界政策を掲げたのは1890年代に入ってからだったのです
ドイツはオスマン帝国の小アジアからペルシア湾へとバグダード鉄道を建設して中東への進出を図る3B政策を進め、イギリスの3C政策と対立します
アフリカにおいても南西アフリカと東アフリカを領有し、さらなる拡大を図りました
ここでドイツはモロッコへ進出しようとしますが、上で見た英仏協商でイギリスがフランスのモロッコにおける優越権を認めたことに反発します
そして1905年年3月31日、ヴィルヘルム2世はモロッコのタンジールを訪問し、モロッコのスルタンと会見してフランス進出に反対する旨を表明したのです
このため独仏両国の間に緊張が走りますが、翌年にアルヘシラス会議が開かれ、ドイツの目論見は阻止されフランスのモロッコ進出が黙認されることとなったのでした
本日は第一次モロッコ事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
550
:
Republica de Venexia
:2015/04/01(水) 00:01:43 ID:???
4月1日はオットー=フォン=ビスマルクが産まれた日です
1815年、それはプロイセンが新たなスタートをきった年でした
この年の6月にウィーン会議が閉会し、領土拡大に成功したプロイセンはヨーロッパ五大国としての地位に復帰したのです
しかしザクセン王国併合が叶わなかったことでプロイセンの領土は東西に分断されたままであり、またプロイセンが属するドイツ連邦は同じく五大国の1つであるオーストリアをも抱えるという複雑な組織となったのです
オットー=フォン=ビスマルクが産まれたのは、そんな1815年の4月1日でした
ビスマルク家はユンカーの家系で、父親のフェルディナントもユンカーとして農場経営にあたっていましたが、母親のヴィルへルミネは市民身分の出身であり、彼女はオットーにユンカーではなく官僚への道を歩ませます
そしてその通り、オットーは1836年に21歳でアーヘン県庁で試補として官僚への第一歩を踏み出しますが早々に挫折し、ユンカーの世界に戻ることとなりました
その後オットーは1847年に生涯の伴侶ヨハンナを得、またプロイセン領ザクセン州の連合州議会に出席して政界との関わりを持つようになります
やがてドイツでは1848年の三月革命へと至る政治体制の変動が沸き起こりますが、そのなかでオットーは一貫して保守的な立場を取り続け、ゲルラッハ兄弟を中心とする側近党へと接近、高官への道を切り開いたのです
オットーは
>>368
の「オルミュッツの屈辱」後に外交官に就き、1862年にはプロイセンの首相兼外相に就任、ドイツ統一への邁進するのでした
本日は後の「鉄血宰相」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
551
:
Republica de Venexia
:2015/04/02(木) 00:56:31 ID:???
4月2日は張角が挙兵した日です
>>506
で成立した漢(前漢)は武帝の時代に最盛期を迎えますが、8年、外戚の王莽が帝位を簒奪し、新が建てられました
王莽は復古主義政策を採りますがこれは失敗に終わり、赤眉の乱が起こるなか25年、前漢の皇族劉秀が新を倒し漢を再興します(後漢)
劉秀光武帝は赤眉の乱を平定し豪族連合政権を樹立、支配体制を整えます
しかし2世紀になると勢力を拡大してきた豪族や官僚、宦官が内紛を起こすようになり、また幼くして即位する皇帝が相次いだこともあって政治的混乱が続きました
この混乱は160年代の党錮の禁で宦官勢力が完了を弾圧するとますます深まっていきます
こうして漢王朝の権威が衰退し世が乱れるようになると、民間宗教が民心をとらえるようになりました
その1つである太平道を創始したのが張角で、彼は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」と、184年4月2日、華北にて挙兵します
これが後漢を揺るがす大農民反乱に発展し、後漢滅亡、三国時代へと至ることとなるのでした
本日は黄巾の乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・金文京『中国の歴史4 三国志の世界(後漢 三国時代)』講談社、2005年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年
552
:
Republica de Venexia
:2015/04/03(金) 00:05:20 ID:???
4月3日はランカスター家のヘンリが産まれた日です
>>535
で見たようにイングランド王エドワード3世は自らの権限で公爵位の授与を行いましたが、その中にコーンウォール公と並んで現在まで続くランカスター公がありました
この初代ランカスター公ヘンリ=オブ=グロスモントの次女ブランシュと、第2代ランカスター公ジョン=オブ=ゴーントとの間に1367年4月3日に産まれたのがヘンリ=ボリングブロク、後のヘンリ4世でした
やがてイングランドではエドワード黒太子の息子リチャード2世がイングランド王に即位しました
リチャードはいわゆる寵臣政治を展開し、2人の叔父をヨーク公、グロスター公とし、尚書部長官のマイケル=ド=ラ=ポールをサフォーク伯に、寵臣ロバート=ド=ヴィアをオクスフォード伯、そしてアイルランド侯、公として任命し、彼らは王の寵愛を受け権勢をほしいままにしました
1386年、影響力の強かったランカスター公ジョン=オブ=ゴーントがカスティーリャ王位を主張してイングランドを離れると寵臣政治に対する不満が表面化し、常設議会が設置され王権を監視するようになりました
危機感を覚えた寵臣らは挙兵しましたが1387年のラドコット・ブリッジの戦いに敗れ、寵臣政治は崩壊します
翌1388年には無慈悲議会が開かれてサフォーク伯、アイルランド公が死刑を宣告され、その他王の側近多数が逮捕、追放されました
ジョン=オブ=ゴーントが帰国したこともあって王権は抑えられ、しばらくは安定した状況が続きます
しかしリチャードは百年戦争においてフランスと休戦協定を結び国内統治に集中するようになると、無慈悲議会での決定を全て無効とし、寵臣政治を復活させました
ジョン=オブ=ゴーントの2人の息子も追放され、また1399年にジョンが死去するとランカスター公領土の没収を宣言したのです
これに対し追放中のヘンリ=ボリングブロクはイングランドに上陸し反撃、大貴族の多くがヘンリ側についたためリチャードは窮地に陥ります
同年9月にリチャードは廃位され、ヘンリはヘンリ4世として即位することとなるのでした
本日はランカスター朝創始者の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
553
:
Republica de Venexia
:2015/04/04(土) 00:06:41 ID:???
4月4日は山本五十六が産まれた日です
五十六は1884年の今日、旧長岡藩士である高野家の6男として誕生しました
五十六は幼少より勉学に秀で、江田島海軍兵学校には次席で入学します、1901年のことでした
兵学校を卒業した1904年11月はすでに日露戦争が海戦しており、五十六も海軍少尉候補生として従軍、バルチック艦隊を破った日本海海戦にも参加します
日露戦争後、五十六は少尉、中尉、大尉、少佐と順調に昇進し、少佐時代の1916年には旧長岡藩筆頭家老山本帯刀家の養子となり、ここに「山本五十六」が誕生しました
1919年からはアメリカ留学を経験し、アメリカの圧倒的な国力を目の当たりにした五十六は石油の重要性、そして航空戦力の必要性を認識、帰国後は海軍航空隊の育成に力を注ぎました
1921年のワシントン海軍軍縮会議、1930年のロンドン海軍軍縮会議には政府随員として関与し、米英との劣勢比率を押し付けられるなかでますます航空戦力の充実に熱意を燃やすようになります
ロンドンから帰国した五十六は海軍航空本部技術部長に就任、これを2年10ヶ月務め、この時期に艦上戦闘機の整備が進められました
1934年、中将として臨んだ第2次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉は不調に終わり、帰国後五十六の冷遇が続くこととなります
しかし1935年12月に海軍航空本部長という願ってもないポストに就任、航空戦力の拡充を図りましたが、
>>385
で見たように海軍では無条約時代に突入し「大和」の建造に着手するなど、五十六が恐れていた建艦競争が再開されました
このような情勢で翌1936年11月には海軍次官に就任、日米関係の悪化を避けるため日独伊三国同盟交渉への反対に奔走しました
しかしこれは海軍強硬派や陸軍の反発を招き、五十六は命を狙われることとなります
ここで米内光政海相はその攻撃をかわすため、1939年8月、五十六を聯合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官に任命しました
これは緊急避難的人事でしたが、その直後にドイツがポーランド侵攻を開始、また及川古志郎海相が日独伊三国同盟に賛成、英米への対決姿勢が打ち出されるのです
こうして日本は戦争への道を突き進み、五十六は
>>377
で見たように真珠湾攻撃の構想に至ることとなるのでした
本日は後の聯合艦隊司令長官山本五十六の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・「太平洋戦史シリーズVol.1 奇襲ハワイ作戦」学習研究社、1994年
・「丸」編集部「写真太平洋1 ハワイ作戦・南方攻略作戦」光人社、2003年
・「歴史街道2014年1月号 真珠湾と空母機動部隊」PHP研究所、2013年
554
:
Republica de Venexia
:2015/04/05(日) 00:00:18 ID:???
4月5日はウェストミンスター条約が結ばれた日です
17世紀に入り、イギリスでは商業革命と呼ばれる海外貿易構造の転換が進んでいました
北米、西インド諸島、アフリカなどに重商主義に基づく植民地帝国を建設し、また貿易商品もそれまでの毛織物から絹・綿織物やガラス、石鹸、金属製品などの生活必需品の輸出が増加し、輸入品は新大陸からの砂糖、コーヒー、タバコ、インドからの綿織物が増え、これらがヨーロッパへと再輸出されるようになっていったのです
そしてイギリスはこの貿易を安定させるため、国内産業の保護と海外市場の確保に乗り出し、植民地との輸出入をイギリス船舶のみに限定する航海条例を1651年に発布します
これに反発したのがオランダでした
航海条例がオランダ商船の締め出しを図るものであったのが明白だったからです
またオランダは公海上での経済活動は自由なものであると主張し、この海洋自由の原則の立場からも航海条例への反対を明確にします
翌1652年、オランダはイギリスに宣戦布告し、英蘭戦争が勃発しました
この戦争は
>>495
で見たように1674年2月にウェストミンスター条約が結ばれるまで断続的に続き、1654年4月5日、同名のウェストミンスター条約によってひとまず休戦協定が結ばれたのでした
本日は第一次英蘭戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
555
:
Republica de Venexia
:2015/04/06(月) 00:10:18 ID:???
4月6日はジョアン1世がポルトガル王となった日です
百年戦争初期の時代、カスティーリャ王国では王位を巡ってカスティーリャ継承戦争が勃発しました
王位を争う当事者はペドロ1世とエンリケ=トラスタマラで、それぞれイングランド、フランスが支援しての継承戦でした
これはペドロ1世を暗殺したエンリケの勝利に終わり、エンリケ2世として即位することとなります
これに反発したのがポルトガル王フェルナンド1世で、王位継承権を主張した彼はカスティーリャに侵攻しますが撃退されます
すると今度は
>>552
で見たランカスター公ジョン=オブ=ゴーントのカスティーリャ王即位を支援しカスティーリャへの対抗を図ります
ところがこちらも失敗、やがて1383年にフェルナンドは嫡子なくして没しました
フェルナンドの死後ポルトガルでは王女ベアトリスが女王となり、その夫でカスティーリャ王でもあるフアン1世がポルトガルの国政に介入するようになりました
ポルトガル国民の不満は高まり、これを背景にフェルナンド1世の弟にあたるジョアンが勢力を拡大、カスティーリャ軍の直接介入を撃退しその地位を確固たるものとします
そして1385年4月6日、ジョアンは議会で国王に選出され、ジョアン1世として即位するのです
国王となってからもカスティーリャとの抗争は続き、再びイングランドと同盟、ジョン=オブ=ゴーントの娘と結婚しウィンザー条約を結びました
この時のイングランド・ポルトガル同盟は
>>170
で見たように現在まで続く英葡永久同盟となるのです
やがてジョアンはカスティーリャの影響を排除し、その息子エンリケ航海王子とともに海外進出を推進、ポルトガル繁栄の基礎を築いたのでした
本日はポルトガル・アヴィス朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年
556
:
Republica de Venexia
:2015/04/07(火) 00:01:13 ID:???
4月7日はフランシスコ=ザビエルがリスボンを出港した日です
>>334
で見た、ルターの改革運動によって始まった宗教改革はカトリックの危機感を煽ることとなりました
カトリックはそれまでにも行われてきた改革をより具体的なものとするため、1545年、イタリアのトリエントにて公会議を招集します
1563まで断続的に開催されたこの公会議でカトリックはその基本原理を再確認し、明確化したのです
このトリエント公会議にいたるまでの教会改革、ルターらの宗教改革に対して対抗宗教改革とも呼ばれる改革の中心となったのがイエズス会でした
イエズス会は1534年にスペイン人のイグナティウス=ロヨラらが創立した修道会で、会士に軍隊式の規律と訓練を課し、ヨーロッパ各地、そして海外でも精力的な布教活動を展開しました
このうち海外布教の先がけとなったのがフランシスコ=ザビエルです
イエズス会創立者の1人でもあるザビエルは1541年4月7日、ポルトガル王ジョアン3世の依頼によってリスボンからアジア地域への布教に出発しました
ポルトガル領の各地を布教して回ったザビエルは明にも立ち寄り、1549年には日本にも至ることとなるのでした
本日はイエズス会世界宣教の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ピーター・ミルワード、松本たま訳『ザビエルの見た日本』講談社、1998年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・浅見雅一『日本史リブレット人44 フランシスコ・ザビエル 東方布教に身をささげた宣教師』山川出版社、2011年
557
:
Republica de Venexia
:2015/04/08(水) 00:38:23 ID:???
4月8日はヨハネス2世が死去した日です
>>46
で見たように、ビザンツ帝国中興の祖となったアレクシオス1世は1118年8月に死去しました
彼の死後、その娘のアンナ=コムネナは自身の夫であるニケフォロス=ブリュエンニオスを次期皇帝にと画策します
これを未然に防ぎ、新たに皇帝となったのがヨハネス2世コムネノスだったのです
ヨハネスは父帝アレクシオスの貴族優遇政策を引き継ぎ、またトルコ人の大臣アクスークの登用に代表されるように、身分が低くとも有能な人物を取り立て、帝国の政治を安定させました
ヨハネスは軍人としてもその才能を発揮し、1133年にはコムネノス家の故郷であるカスタモンを奪回し、小アジア南部沿岸地域の回復に成功します
その領域はアンティオキアにも及び、シリア方面への遠征も行われたのです
しかし1143年、ヨハネスは遠征先で狩りをしている最中、毒矢が指に刺さるという事故に遭ってしまいます
死を悟ったヨハネスは末子のマヌエルを皇帝とするという遺言を残し、同年4月8日に死去しました
こうして即位したマヌエルが、
>>235
のユスティニアヌス1世以来の征服称号を名乗った皇帝で、その称号の通りユスティニアヌス時代の地中海帝国復活を目指して大規模な征服活動を行うことになるマヌエル1世なのでした
本日はマヌエル1世コムネノス「大帝」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
558
:
Republica de Venexia
:2015/04/09(木) 00:58:56 ID:???
4月9日はリーグニッツの戦いが行われた日です
モンゴル帝国代2代皇帝オゴタイは1234年に金を滅ぼし、その後新たな首都カラコルムを建設し、また駅伝制や中央行政機構を整備し国家としての基礎を整えました
そしてオゴタイはモンゴルの勢力を拡大するため、チンギス=ハーンの長子ジュチの次子バトゥに西征を命じます
ヨーロッパなどが位置する西北ユーラシアはもともとジュチに委ねられる予定であり、そのジュチが急死してしまったため、その遺志をバトゥが継ぐという意味合いもありました
またこの西征にはジュチ家の諸王の他、チャガタイ家、オゴタイ家、トゥルイ家からも長子やそれに準ずる王子も参加し、後にモンゴル帝国の皇帝となるグユク、モンケも従軍するという、まさに次代のモンゴルを担う人材が集結した大遠征だったのです
そしてこれらの若者を補佐するのが歴戦の武将、チンギス=ハーン股肱の臣である四狗の1人、スブタイでした
こうして準備が整えられた西征軍は1236年に遠征を開始し、1237年にルーシに侵攻、1240年には
>>375
で見たようにキエフ大公国を滅ぼすのです
ここでバトゥは軍団を大きく2つに分け、バトゥ率いる本隊はハンガリー方面へ、もう一隊はポーランド方面へと侵攻しました
ポーランド方面部隊のうち、バトゥの兄オルダが率いる一団はピアスト朝のポーランド王国に侵入し、その首都クラクフを占領します
これに続いてチャガタイの6男バイダル率いる一団もポーランドへと侵攻し1241年4月9日、リーグニッツにてポーランド・ドイツ連合軍に大勝し、ポーランドはモンゴルによって蹂躙されることとなります
バトゥ本隊もこのリーグニッツの戦いの2日後に
>>63
の通りモヒの戦いでハンガリーに大勝、東欧はモンゴルによって席巻されることとなったのでした
本日はワールシュタット(死体の山)の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年
559
:
Republica de Venexia
:2015/04/11(土) 00:47:40 ID:???
4月10日はモルヴィッツの戦いが行われた日です
>>323
で見たように、ハプスブルク家の継承問題に端を発しオーストリア継承戦争が勃発します
1740年12月にシュレジエンに侵攻したプロイセンに対し、オーストリアも反撃しシュレジエン奪回を図ります
この両国主力が初めて激突したのが1741年4月10日に行われたモルヴィッツの戦いでした
そしてこの戦いでプロイセンの歩兵軍が大きな働きを示すこととなります
>>433
で見たように、プロイセンは大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムのもとで常備軍の設置に成功、軍事力強化が図られました
そしてこれをさらに発展させたのが大選帝侯の孫にあたるフリードリヒ=ヴィルヘルム1世でした
フリードリヒ=ヴィルヘルムはプロイセンの軍制改革を進め、徴兵制の実施を断行します
1733年、フリードリヒ=ヴィルヘルムは徴兵区制度を施行し、全国を500戸単位の徴兵区に分け、各徴兵区からそれぞれ指定された連隊に対して兵役義務を追わせたのです
徴兵された者は最初の1年間に基礎訓練を受け、以降は年に2回ずつ2ヶ月間の軍事訓練に服し、その勤務年限は20年とされました
フリードリヒ=ヴィルヘルムは国家歳入の約3分の2をこれらの軍事力増強政策につぎ込み、彼の治世でプロイセンの兵力は38,000人から81,000に増大し、プロイセン総人口の30分の1が軍人という軍事国家を作り上げたのです
フリードリヒ=ヴィルヘルムはこれらの功績から兵隊王と称され、そしてこの強力な軍隊が息子のフリードリヒ2世に引き継がれます
話を元に戻し、オーストリアとの決戦となったモルヴィッツの戦いは、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世時代に鍛え上げられた軍隊、特に歩兵軍の奮戦によりオーストリアに勝利することとなります
この勝利によってプロイセンは国際的な名声を得、オーストリアは一時窮地に陥りました
その後オーストリアは挽回するものの、プロイセンは強力な軍隊でこの戦争を戦い抜き、
>>319
のアーヘンの和約でシュレジエン領有を認められることとなるのでした
昨日はオーストリア継承戦争におけるプロイセン勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・フィリップ・ヘイソーンスウェイト、稲葉義明訳『フリードリヒ大王の歩兵 鉄の意志と不屈の陸軍』新紀元社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年
560
:
Republica de Venexia
:2015/04/11(土) 01:04:52 ID:???
4月11日はゼノンが死去した日です
東ローマ皇帝ゼノンの治世では、
>>265
で見たように西ローマ帝国がオドアケルによって滅亡し、そのオドアケルが西ローマ皇帝位をゼノンに返上、名目上とはいえゼノンが東西ローマ帝国の皇帝となった時代でした
しかしこのオドアケルが東ローマ帝国に干渉するようになると、ゼノンは軍事長官である東ゴート族のテオドリックにオドアケル討伐を命じ、493年にはテオドリックはラヴェンナを攻略しイタリア王となります
しかしその少し前の491年4月11日、ゼノンは死去していました
この後を継いだのがアナスタシウスで、ゼノンの皇后であるアリアドネと結婚し、アナスタシウス1世として即位したのです
アナスタシウスは497年にテオドリックを正式にイタリア王とし、従属下に置くこととしました
また小アジアのイサウリア人による反乱を鎮圧し、バルカン半島を南下してきたアジア系遊牧民ブルガール人も撃退し、帝国外部の安定化に務めました
また内政においては財政改革を行い、破綻寸前にあった帝国財政を再建することに成功します
その成果は、彼の没時には32万ポンドもの金が国庫に蓄えられるまでになったことからも伺えます
>>235
で見たユスティニアヌス1世の大征服戦争は、このアナスタシウス1世の財政再建があってこそと言えるでしょう
本日は東ローマ・レオ朝最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年
561
:
Republica de Venexia
:2015/04/12(日) 00:00:53 ID:???
4月12日はイングランド・スコットランド連合王国の国旗が制定された日です
>>17
で見たように「処女王」エリザベス1世には世継がおらず、その死によってヘンリ8世の血筋が絶えテューダー朝は断絶します
その後継者として1603年にイングランド王となったのが、テューダー朝初代ヘンリ7世の血を引く、
>>226
でも登場したスコットランド王ジェームズ6世でした
ジェームズはイングランド王としてはジェームズ6世となり、イングランド・スコットランド連合王国を統治することとなります
正式に連合王国となるのは1707年のアン女王時代のグレートブリテン王国成立を待ちますが、ジェームズもまた両国統一のための様々な政策を打ち出します
その1つが両国国旗統合であり、白地に赤十字のイングランド国旗セント・ジョージ・クロス、青地に白斜め十字のセント・アンドリュー・クロスを組み合わせた国旗を1606年4月12日に制定、イングランド・スコットランド統合の象徴として用いたのでした
本日はユニオンフラッグの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・青木道彦『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』講談社、2000年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
562
:
Republica de Venexia
:2015/04/13(月) 00:06:44 ID:???
4月13日はハインリヒ5世が即位した日です
>>448
で見たように、ハインリヒ5世の父帝ハインリヒ4世はローマ教皇グレゴリウス7世と対立し、1077年のカノッサの屈辱後も叙任権闘争は続きました
ドイツの反皇帝派はハインリヒの行動を認めようとせず、対立国王としてシュヴァーベン公ルドルフを選出します
一方のグレゴリウス7世も1080年に改めてハインリヒ4世を破門、ルドルフの即位を承認しました
ところがドイツ諸侯は教皇の介入によって自身の権益が失われることを恐れ、教皇を支持しませんでした
ハインリヒ4世はこれに乗じ再びグレゴリウスを破門し、クレメン.ス3世を教皇に選出、ここに2人の国王・2人の教皇が併存することとなったのです
この闘争をくぐり抜けたのはハインリヒ4世でした
同年のエルスターの戦いでルドルフが戦死、ハインリヒ4世はそのままローマに進軍しグレゴリウスは追放され、サレルノで客死します
ところが1088年に教皇ウルバヌス2世が即位したことで状況が一変します
>>366
で見たようにウルバヌスは十字軍を主導するなど巧みな外交手腕を発揮し、ハインリヒ4世と対立関係にあるトスカーナ女伯とバイエルン公ヴェルフを結婚させ、南ドイツと北イタリアに反皇帝派の勢力圏を作り上げたのです
ハインリヒ4世も反撃しますが1090年のイタリア介入に失敗し、また長子コンラートがウルバヌス側に付き、ハインリヒ4世に反旗を翻すという事態になります
1093年にはウルバヌスがハインリヒ4世に協力していた対立教皇クレメン.ス3世を追放しますが、ハインリヒ4世は1098年に王国会議にてコンラートを廃嫡することでひとまず小康状態となります
1106年には次男のハインリヒ5世を国王に選出し、ラント平和令の発布によって事態の沈静化を図りますが状況は好転せず、逆にハインリヒ5世すらもローマ教会と和解しハインリヒ4世に反逆、ハインリヒ4世は幽閉され廃位させられました
こうして1105年4月13日、神聖ローマ皇帝としてハインリヒ5世が即位し、
>>294
で見たヴォルムス協約によってひとまずの妥協をみることとなるのでした
本日は神聖ローマ帝国・ザリエル朝最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
563
:
Republica de Venexia
:2015/04/13(月) 00:07:10 ID:???
NGワードに引っかかるとは思わなかった
564
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/04/13(月) 07:44:12 ID:Lb0Svd3c
>>563
長文でNG出ると大変ですよね
自分はSS書いてるとたまにありました
565
:
Republica de Venexia
:2015/04/14(火) 00:14:32 ID:???
4月14日はアドリアノープルの戦いが行われた日です
>>64
の第4回十字軍でコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は一時滅亡しました
十字軍は
>>110
で見たようにフランドル伯ボードゥアンを皇帝に選出し、かつての東ローマ帝国のような大帝国の建設を目指して各地の征服に乗り出しました
ひとまずビザンツ帝国の旧領を全て併合しようとしたわけですが、これには大きな困難が伴いました
というのも、
>>46
や
>>557
で見たように、ビザンツ皇帝アレクシオス1世やヨハネス2世が行った貴族優遇政策により、各地方で貴族が勢力を持っていたからでした
ラテン帝国が征服事業を開始した際、ビザンツ貴族の一部はラテン帝国の支配に服し、協力する者もいました
しかし大部分のビザンツ貴族はラテン帝国の支配に反発し、激しい抵抗を行いました
このためラテン帝国による統治は安定せず、その支配権は限定されたものとなります
さらに悪いことにビザンツ貴族が第二次ブルガリア帝国と結び、ブルガリア皇帝カロヤンが侵攻してきます
このカロヤン、
>>133
で登場した第一次ブルガリア帝国皇帝シメオン1世を模範とし、かつての帝国領の多くを回復した傑物でした
1205年4月14日、ボードゥアンのラテン帝国軍とカロヤンのブルガリア帝国軍はアドリアノープルにて激突し、ラテン帝国はブロワ伯ルイが戦死、ボードゥアンが捕虜となり後に死去するなど大敗を喫し、ビザンツ帝国旧領の征服活動は頓挫することとなります
のみならずカロヤンは余勢をかってラテン帝国各地に侵攻し、ラテン帝国の支配体制はますます弱体化しました
またビザンツ帝国亡命政権のエピロス専制侯国やトレビゾンド帝国、そして
>>227
で見たニケーア帝国も勢いを得、コンスタンティノープル奪回に至るのでした
本日はラテン帝国征服事業の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
566
:
Republica de Venexia
:2015/04/15(水) 00:02:48 ID:???
4月14日はバーリが陥落した日です
ビザンツ帝国の南イタリア支配は
>>235
で見たようにユスティニアヌス1世の大征服事業により復活しましたが、早くも5世紀末にランゴバルドがアヴァール族と同盟して南下し、ラヴェンナとローマを結ぶラインの南を辛うじて支える状態となりました
7世紀になると
>>253
で見たヤムルーク河畔の戦いでイスラームに大敗、シリア・メソポタミア・エジプトを奪われるという大打撃を受け、イタリアでもこれに乗じてランゴバルド王国がビザンツ領に侵攻します
ランゴバルド王国はビザンツ帝国のラヴェンナ総督領を占領し、これに危機感を覚えたローマ教皇ステファヌス3世はフランク王国のピピンを頼り、ピピンはこれに応じてランゴバルド王国を撃破、その領土をビザンツ帝国ではなくローマ教皇に献上します
これが
>>466
でも見たピピンの寄進、そして教皇領の始まりでした
こうしてイタリアにおける領土が南部に限定されるようになったビザンツ帝国は
>>306
でも取り上げたテマをここでも採用し、カラブリアとプッリアにテマ長官を派遣し、この地域の維持に努めました
やがてビザンツ帝国は
>>232
で見たようにマケドニア朝のニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世の時代に全盛期を迎えます
その頃イタリアではプッリアでランゴバルド貴族がビザンツ帝国からの独立運動を展開しノルマン人がこれを支援しますが、バシレイオス2世が派遣したビザンツ軍は1018年のカンネーの戦いで独立派に大勝し、イタリア南部諸侯に宗主権を確認させました
しかし1021年、
>>544
で登場した神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がビザンツ帝国の勢力拡大を阻止するため南イタリアに遠征し、カプア侯国とサレルノ侯国を占領、ビザンツ帝国の勢力拡大は頓挫することとなります
ハインリヒ2世の死後イタリア南部の抗争は再び激化し、その中でノルマン人が台頭するようになります
その内の一人レイヌルフは1030年にアヴェルサ伯となり、このアヴェルサがノルマン人の活動拠点となりました
1035年にはノルマンディからオートヴィル家のギョーム、ドゥローゴ、オンフロワの三兄弟が南イタリアに入り、ビザンツ領のプッリアを占領したのです
その頃のビザンツ帝国はというと、
>>349
で見たようにゾエを中心とする宮廷抗争が展開されており、とてもノルマン人に反撃できる状況ではありませんでした
やがて南イタリアにはドゥローゴの異母弟ロベール=ギスカールが上陸しビザンツ領カラブリアに侵攻します
ロベールは1053年に反ノルマン同盟をチヴィターテの戦いで撃破し、1059年にはローマ教皇ニコラウス2世を援助した見返りとして正式にプッリア・カラブリア公に受封され、ビザンツ領征服の仕上げにかかりました
そして1071年4月15日、ロベールはビザンツ領として残っていたバーリを攻略し、ここに旧ビザンツ領の平定を完了します
ビザンツ帝国は反撃しようにも、
>>261
で見たようにマンジケルトの戦いでセルジューク朝に大敗、壊滅的な打撃を被りとても南イタリア奪回に乗り出せる状況になく、以後南イタリアにビザンツ帝国が戻ってくることはありませんでした
本日は南イタリアにおけるビザンツ帝国領の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
567
:
Republica de Venexia
:2015/04/16(木) 00:35:12 ID:???
4月16日はドイツ帝国で憲法が制定された日です
>>433
で見たように、1871年1月、普仏戦争に勝利したプロイセンの国王、ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿にて皇帝に即位し、ドイツ帝国が誕生しました
そして新たな帝国の政治体制を整えるため、北ドイツ連邦憲法を元に憲法案がまとめられていきます
この北ドイツ連邦憲法はプロイセン王が元首として連邦主席を務め、ビスマルクが連邦政府を率いる連邦宰相となることを定めており、その憲法案は官僚が作成したものの、ビスマルクが出したいわゆる「プトブス口述」という指示によるところが大きいものでした
そして北ドイツ連邦憲法は憲法審議議会において、連邦元首の統治行為に対して宰相が連署することを通して責任を負うという規定が追加されるなどの修正があったものの、ビスマルクが提出した案が土台であることは変わりませんでした
つまりビスマルクがドイツ帝国の政治体制をも規定することとなったと言ってもいいでしょう
そして1871年4月16日、ドイツ帝国憲法が制定されます
この憲法の前文によれば、ドイツ帝国は北ドイツ連邦を代表するプロイセン王とバイエルン王以下、4ヶ国の君主との永続的な同盟として結成されたものであるとされました
国家元首はプロイセン王が世襲するドイツ皇帝だったものの、帝国の主権は皇帝ではなく、永続的な同盟に加わったプロイセン以下22の領邦君主と3つの都市国家の参事会が保持しており、その25の政府代表が構成する連邦参議院が帝国の主権を代表していたのです
また帝国における正式な大臣は皇帝が任命する宰相のみで、宰相の下に置かれた行政機関も宰相府のみでしたが、後に各帝国官庁が成立していきます
とはいえその帝国官庁の長官は大臣ではなく、あくまで宰相直属の部下という立場にすぎませんでした
立法機関に目を移すと、上院的な存在が先の連邦参議院とすれば、下院的な存在となったのが帝国議会です
帝国議会は満25歳以上の男子普通選挙によって選出されるという、当時のヨーロッパでは先進的なものでした
あらゆる法案は帝国議会の多数の支持を得なければ成立せず、帝国議会は立法機関として重要な位置を占めることとなります
もっとも帝国宰相は先に見たように皇帝によって任命され、帝国議会の信任を必要とはしなかったので、完全な議院内閣制にはほど遠いものでしたが、その先進的な内容は大日本帝国憲法にも影響を与えることとなったのでした
本日はドイツ帝国憲法の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
568
:
Republica de Venexia
:2015/04/17(金) 00:02:15 ID:???
4月17日はマリーノ=ファリエルが処刑された日です
第4回十字軍後、クレタ島をはじめ地中海各地に拠点を獲得し繁栄を迎えたヴェネツィア共和国ですが、13世紀末には一時後退の兆しが見え始めました
というのも、ライバルであるジェノヴァ共和国が台頭し、特に1293〜99年の抗争においてジェノヴァ艦隊に劣勢であることが明らかとなったからです
また
>>227
で登場した、ビザンツ帝国と敵対していたシャルル=ダンジューと同盟したことでビザンツ帝国との関係が悪化したことも挙げられます
さらに1281〜99年にはヴェネツィア最重要の植民地クレタ島で反乱が勃発したことも影響していました
そして1291年に十字軍最後の拠点アッコンが陥落したことでローマ教皇は新たな十字軍を組織することを試み、そのためヴェネツィアのエジプトとの交易を停止するよう強要するということもありました
こうしてヴェネツィアは対外関係において困難な時代となりましたが、同時に国内でも混乱が起こりました
これがヴェネツィア共和国史上最大の反政府運動とされるティエポロの反乱です
1310年、バイアモンテ=ティエポロ、マルコ=クィリーニ、バドエロ=バドエルが元首ピエトロ=グラデニーゴに対して起こした政権奪取のクーデターはしかし失敗に終わりました
これら一連の危機の対応として、ヴェネツィア共和国は2つの改革を行いました
それは大評議会のメンバーを限定することと、共和国のあらゆる危機を防衛するための十人委員会(コンシーリオ・ディ・ディエチ)の確立でした
十人委員会はティエポロの反乱後に緊急措置として作られましたが、1334年に常設機関となり、強大な権限を有し共和国における最有力組織となりました
そしてこの組織が最初に機能したのがマリーノ=ファリエルの反乱においてだったのです
1355年、元首マリーノ=ファリエルは平民の支持のもと貴族制を打倒し、独裁権力を得ようと企てました
ファリエル家はそれまで2人の元首を輩出した名門であり、マリーノ自身も大使や十人委員会のメンバーを務め、コンスタンティノープル周辺警備や黒海警備の海軍提督、またクレタ総督も経験してきた傑物でした
しかしそんなマリーノが企てた陰謀もたちどころに十人委員会に関知されることとなり、十人委員会は迅速に対処します
結果陰謀は阻止され、1355年4月17日、マリーノ=ファリエルは処刑されその他陰謀に関与した約50人が裁かれたのです
現在でもヴェネツィアで見られるパラッツォ=ドゥカーレの一室に並ぶ歴代元首の肖像画の中で、1つだけ肖像画の代わりに黒幕を描いた箇所がありますが、それがヴェネツィア共和国第55代元首マリーノ=ファリエルの箇所なのです
この事件の後十人委員会をはじめとする政府機関はますます強大化し、以後反政府運動は皆無となるのでした
本日はヴェネツィア共和国における反政府運動の命日です、おめでとうございます
参考文献
・永井三明『ヴェネツィア貴族の世界 社会と意識』刀水書房、1994年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』岩波書店、2004年
・藤内哲也『近世ヴェネツィアの権力と社会 「平穏なる共和国」の虚像と実像』昭和堂、2005年
569
:
Republica de Venexia
:2015/04/18(土) 00:02:47 ID:???
4月18日はドゥーリットル隊が日本本土を空襲した日です
>>377
の1941年12月に行われた真珠湾攻撃以降、日本は南方資源地帯攻略の第一段作戦で大きな成果をあげ、1942年4月5日、さらなる勢力拡大の第二段作戦を内定しました
一方のアメリカは真珠湾攻撃以降、各地で敗退を繰り返し反撃のきっかけをつかめないまま1942年を迎えることとなりました
アメリカ大統領ルーズヴェルトは政府への非難を解消するため、宣伝的な意味合いの強い東京空襲を構想します
この構想はすぐに陸海軍に伝えられ、具体案が練られました
アメリカ合衆国艦隊司令長官キング大将と作戦参謀ロー大佐は、空母で日本近海に近づきそこから爆撃機を発進させて空襲するという計画を立案します
しかし日本の哨戒線より外から発進させるには艦上爆撃機では航続力に不安があったため、陸軍のB25ミッチェル中爆撃機を空母に搭載して遠距離から発進させるという案が提案されたのです
こうして計画がまとめられ、航空作戦参謀のダンカン大佐、陸軍航空隊総指揮官アーノルド大将、そして飛行機隊指揮官ドゥーリットル中佐のもと訓練・準備が進められました
1942年4月2日、16機のB25が空母「ホーネット」に搭載され、重巡洋艦2隻・駆逐艦4隻に護衛されて出撃しました
13日にはハルゼー中将率いる空母「エンタープライズ」以下重巡洋艦2隻・駆逐艦4隻からなる第十六機動部隊と合流し、17日には東京東方の1000マイル地点で燃料を補給、19日の攻撃に向けて進撃します
ところが日本の哨戒線外である500マイル地点での攻撃を予定していたものの、それより前の地点で哨戒艇に発見されるという誤算が起こってしまったのです
そのためドゥーリットル中佐は空襲計画を変更し直ちに発進することを提案、ハルゼー中将もこれを要れ1942年4月18日、ドゥーリットル隊は日本から623マイル地点から発進しました
ドゥーリットル隊は12時15分頃に日本本土に到達し、東京、川崎、横浜、横須賀、さらに名古屋、四日市、神戸を空襲し、そのまま中国方面へと退避していきました
日本軍も迎撃するものの一機も撃墜できず、またセイロン沖海戦から帰投中の南雲機動部隊などに米空母の追撃を命じるものの、米空母はドゥーリットル隊発進後すぐに反転退避したため捕捉することはできませんでした
こうしてドゥーリットル隊による日本本土空襲は成功し、空襲の被害自体は小さかったものの日本陸海軍の受けた衝撃は大きく、その挽回のためミッドウェー作戦が陸海軍の共同作戦として進められます
そして
>>155
のミッドウェー海戦に至ることとなるのでした
本日はドゥーリットル空襲の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦1 進攻篇』講談社、1988年
・「丸」編集部『写真太平洋戦争3 ドーリットル空襲 珊瑚海海戦 ミッドウェー海戦』光人社、1995年
・森史朗『ミッドウェー海戦 第一部:知略と驕慢』新潮社、2012年
570
:
Republica de Venexia
:2015/04/19(日) 00:03:52 ID:???
4月19日レキシントン・コンコードの戦いが行われた日です
>>489
の七年戦争、そして並行して北米で行われたフレンチ=インディアン戦争に勝利したイギリスはケベックとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得し、フランス勢力に対し優位に立つこととなりました
しかし戦争には勝利したものの、イギリスは多額の戦費を赤字国債発行によって賄っていたため、戦後巨額の負債を抱えるようになります
そしてこの負債の一部を北米植民地に負担させたのです
1765年、イギリスは印刷物全てに印紙を貼り納税を義務付けた印紙法を施行します
これに対し植民地側は「代表なくして課税なし」をスローガンに激しく反発し、印紙法は翌年撤廃されました
しかしこのままでは財政改善は望めないため、イギリスは1767年、蔵相タウンゼンド主導で茶や日常品に対する課税法案、いわゆるタウンゼンド諸法を発布します
植民地側はイギリス製品のボイコットをもってこれに応じ、本国との対立は深まっていきました
両者の対立は1773年の茶法によってますます激化します
この茶法は財政難に陥っていた東インド会社を救済するため、北米植民地への茶の輸送、独占販売権を東インド会社に与えるというものでしたが、これに対し茶貿易で利益をあげていたマサチューセッツ植民地、とりわけボストンの商人が反発し、
>>98
で見たボストン茶会事件が起こるのです
イギリスも報復として1774年に強圧的諸法と呼ばれる強硬策によってボストン港を封鎖しました
またマサチューセッツ植民地の特許状が取り上げられ自治権を剥奪されるという事態となり、植民地側はフィラデルフィアで大陸会議を開き本国の弾圧法の撤廃を要求、これが認められなかったため本国との通商断絶へと至りました
そして1775年4月19日、レキシントン・コンコードにおいて武力闘争に発展し、1783年に独立を勝ち取ることとなるのでした
本日はアメリカ独立革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年
571
:
Republica de Venexia
:2015/04/20(月) 00:01:23 ID:???
4月20日は顕如が石山本願寺から退去した日です
1568年、織田信長は上洛すると本願寺に対し莫大な矢銭を要求、一時はこれに妥協する姿勢を見せましたが、1570年、本願寺宗主顕如は信長に対する徹底抗戦を決断します
顕如は決起以前より各地から門徒衆を集め、さらに紀伊の雑賀衆も招聘し準備を整えていました
さらに甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、越前の朝倉義景、近江の浅井長政、阿波の三好三人衆、安芸の毛利輝元らの大名と同盟を結び、同盟国の門徒衆も動員して信長に対抗することとなります
本願寺決起の直前、信長は京都に進軍しつつあった三好三人衆に攻撃を加えていましたが、本願寺は決起後この三好三人衆への加勢という形で織田軍に攻撃し、信長は朝倉義景と浅井長政が京都を目指して進軍してきたため撤退、緒戦は本願寺の勝利となりました
顕如はすかさず各地の門徒衆に決起を指令し、伊勢長島の門徒がこれに応じ一向一揆を結成します
信長はまずこの長島一向一揆の鎮圧を図りますが、2度にわたって失敗に終わり、顕如は浅井・朝倉との連携を強化し信長への包囲を強めました
さらに武田信玄もこれに呼応し
>>391
で見た三方ヶ原の戦いで徳川家康を破りますが、その後信玄が陣中で病死、さらに浅井・朝倉も信長によって滅ぼされ包囲網は瓦解します
これが1573年のことで、また翌1574年には長島一向一揆が信長によって殲滅され、1575年には越前一向一揆も制圧されました
この劣勢を挽回するため、1576年、顕如は大坂に布陣する織田軍に決戦を挑み天王寺の戦いとなります
この戦いで本願寺は塙直政を討ち取り明智光秀を孤立させますが、信長自らが陣頭指揮をとって攻め込んできたため形勢が逆転、本願寺は籠城戦を強いられるようになりました
この間本願寺は雑賀衆の鉄砲隊、また村上水軍を中核とする毛利水軍が運び入れる兵糧を頼りに防衛に努めます
特に毛利水軍は第一次木津川沖海戦で織田水軍を破り大量の兵糧を運び入れることに成功しました
しかし翌1577年、信長は雑賀衆の本拠紀州を攻撃し、膠着状態となるものの和睦を結んで雑賀衆を牽制し、1578年には第二次木津川沖海戦で鉄甲船の活躍により毛利水軍を撃破します
こうして頼みの雑賀衆・毛利の支援が思うように得られなくなった本願寺は孤立していきました
そして開戦から10年になる1580年4月20日、顕如は信長の依頼を受けた正親町天皇の勅命を受け入れ本願寺から退去、ここに決起から10年間にわたって続けられた石山合戦が終結したのでした
本日は石山合戦の命日です、おめでとうございます
参考文献
・武田鏡村『織田信長 石山合戦全史 顕如との十年戦争の真実』ベストセラーズ、2002年
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・神田千里『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』吉川弘文館、2007年
572
:
Republica de Venexia
:2015/04/21(火) 00:35:00 ID:???
4月21日はパーニーパットの戦いが行われた日です
>>387
で見たようにモンゴル帝国のフビライ=ハーンはモンゴル帝国の統合を進め、
>>482
で見たユーラシア大ネットワークの整備が行われました
こうしてモンゴルがユーラシアのほぼ全域を統合すると、ユーラシア規模での交易が促進され、経済・文化交流も発展していきます
やがてモンゴル帝国は瓦解し各地で新興勢力が台頭していきますが、その多くがモンゴル帝国の遺産を引き継ぐ形となったのです
15世紀以降ユーラシア各地に成立した大帝国は、モンゴル帝国が有していた柔軟かつ効率的な統治組織を備え、広大な地域を治め多様で大人口の人々を支配する術を受け継いでいました
ティムール帝国、オスマン帝国、ロシア、清などがこれにあたり、これらの多くがチンギス=ハーンの血統など、モンゴル帝国に由来する権威を利用していました
ティムールは婚姻関係を利用してモンゴルの正統に連なることでモンゴル帝国の後継者を自任し、清もその初期において全モンゴルの大ハーンを称しユーラシア東部の遊牧国家を支配下に組み込むことに成功したのです
このような例の1つにバーブルも挙げられます
バーブルはティムールの子孫にあたり、ムガル帝国建設の際にはモンゴルの正統たるティムールの血統を強く意識していました
「ムガル」がモンゴルのペルシア語であるということからもそれが伺えます
さてこのバーブル、ティムール朝サマルカンド政権の支配下であるフェルガナに産まれたものの、ウズベク族との抗争に敗れアフガニスタンのカーブルに本拠を移します
ここで勢力基盤を固めたバーブルはやがてインドへと南下し、当時インドを治めていたデリー=スルタン朝のロディー朝と対峙しました
そして1526年4月21日、バーブルはパーニーパットの戦いでロディー朝を破ったのです
ここにロディー朝は滅亡し、バーブルはムガル帝国を建国することとなるのでした
本日はムガル帝国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・杉山正明・北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』中央公論新社、2008年
・永田雄三・羽田正『世界の歴史15 成熟のイスラーム世界』中央公論新社、2008年
・間野英二『世界史リブレット人46 バーブル ムガル帝国の創設者』山川出版社、2013
573
:
Republica de Venexia
:2015/04/22(水) 00:06:55 ID:???
4月22日はカブラルがブラジルに漂着した日です
>>555
で見たポルトガル・アヴィス朝を開いたジョアン1世は海上進出を推し進め、特に息子のエンリケ航海王子はアフリカ西岸探検を進めインド航路開拓の基礎を築き、大航海時代の幕開けとなります
新航路開拓をさらに発展させたのがジョアン2世で、彼の命で探検に出たバルトロメウ=ディアスが1488年に喜望峰に到達しました
次代のマヌエル1世もまたインド航路開拓を進め、ヴァスコ=ダ=ガマが1498年にカリカットに到達するなど、ポルトガルの海上進出は着々と進められていったのです
カブラルもまたマヌエル1世の命でインド航路開拓に挑んだ航海者で、ヴァスコ=ダ=ガマに続く第2回インド遠征に臨みました
カブラルの艦隊は西に進み、やがて陸地を発見します
1500年4月22日、カブラルはブラジルに漂着し、ここをポルトガル領と宣言します
ポルトガルのブラジル領有はトルデシリャス条約に基づいて正式に認められ、以降ブラジルはポルトガルの植民地となるのでした
本日はポルトガル領ブラジルの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年
574
:
Republica de Venexia
:2015/04/23(木) 00:17:15 ID:???
4月23日はオラニエ公マウリッツが亡くなった日です
>>445
で見たように、オランダ独立戦争はその初期においてスペインに対し劣勢で、ユトレヒト同盟を結成したもののオラニエ公ウィレムが暗殺されるなど同盟には内部対立がありました
スペインから派遣されたパルマ公はこの分裂を利用し同盟の崩壊を図ります
これに対抗したのがホラント州の政治家オルデンバルネフェルトで、彼は同盟の分裂を防ぎつつパルマ公と対峙し、やがてスペイン王フェリペ2世がフランスのユグノー戦争に介入するため、パルマ公およびフランドル軍主力をネーデルラントから移動させたことで窮地を脱しました
しかしフェリペ2世の後を継いだフェリペ3世がフランス・イギリスと講和したことで再びフランドル軍主力がネーデルラントに集結し、ネーデルラント反乱軍は劣勢となります
オルデンバルネフェルトはスペインに停戦交渉を申し込み、1609年に休戦協定が成立、辛くも状況の打開に成功しました
この休戦期間中に権力を握ったのがオラニエ公マウリッツです
彼は1618年にオルデンバルネフェルトを処刑して最高司令官の地位を維持すると、スペインに対抗するため軍制改革に乗り出しました
マウリッツは古代ローマの軍事書を参考にその規律、組織、戦術などを学び、これによってネーデルラント軍は統制の取れた火力・機動力を備えた軍隊を作り上げたのです
またマウリッツは当時の主流だったスペインのテルシオに変わり歩兵・騎兵・砲兵の三兵戦術を確立し、これをもって休戦協定明けの1621年以降スペインに挑み、互角の勝負を展開します
マウリッツ自身は1625年4月23日に死去しますが、その軍制改革は
>>285
で見たようにスウェーデンのグスタフ=アドルフによって完成され、また彼が鍛え上げたネーデルラント軍も八十年戦争を戦い抜き、ついには独立を達成することとなるのでした
本日は軍事革命産みの親の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年
575
:
Republica de Venexia
:2015/04/24(金) 00:02:24 ID:???
4月24日は戦列艦「ヴァーサ」が引き上げられた日です
>>527
で見たようにスウェーデンはストルボヴァの和約でロシアと講和し、バルト帝国建設の第一歩を踏み出しました
スウェーデン王グスタフ=アドルフは矛先をポーランドに転じ、バルト海沿岸地域の支配を巡って対ポーランド戦争が続けられます
当初はポーランド領のリヴォニア、東プロイセンを占領するなどスウェーデン優勢で進みましたが、ポーランドはスタニスワフ=コニェツポルスキが指揮官とし反撃、敗北を重ねることとなったのです
このコニェツポルスキに対する敗北がグスタフ=アドルフに軍制改革の必要性を痛感させ、昨日
>>574
で見たオラニエ公マウリッツの戦術を導入するきっかけとなるのですが、ここではスウェーデン海軍に目を向けましょう
スウェーデンはバルト海の制海権
を確保するため艦隊を派遣しますが、コニェツポルスキ率いるポーランド海軍に大敗を喫し、こちらも艦隊の整備が急務となったのです
そこでグスタフ=アドルフは1626年に起工された戦列艦「ヴァーサ」の建造を急がせ、また過大な性能を要求します
元々46門の予定だった砲門を70門とさせ、当初一段式だった砲甲板を二段式に変更させたのです
こうして急ピッチで建造が進められた「ヴァーサ」は1628年、全長62m、最大幅11.7m、高さ50m、排水量1,210トン、大砲64門というスウェーデン最大、17世紀の軍艦としても最大級の戦列艦として竣工しました
この「ヴァーサ」はストックホルムにて処女航海を行いますが、砲甲板の増加、過大な砲門数により重心が高くなっており、非常に不安定な状態での航海となりました
そしてわずか3km進んだところで横風にあおられ、バランスを失って転覆、そのまま沈没してしまったのです
こうして海の藻屑となってしまった当時のスウェーデン海軍最新鋭艦「ヴァーサ」は、沈没から300年以上経った1956年4月24日に引き揚げられます
そしてこの「ヴァーサ」、沈没地点が低音地帯であったため腐食が少なく、ほとんど原型を留めた状態でした
17世紀当時の戦列艦の構造や設備を今に伝える貴重な資料として、現在はストックホルムのヴァーサ博物館に展示されているのです
本日は戦列艦「ヴァーサ」の引き揚げ日です、おめでとうございます
参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
576
:
Republica de Venexia
:2015/04/25(土) 15:36:48 ID:???
4月25日はルイ=ドゥ=ポワシィが産まれた日です
フランス王国カペー朝は
>>229
で見た、1214年7月のブービーヌの戦いでフィリップ2世が大勝し、その地位を確立しました
そしてちょうどこの年の4月25日、フィリップ2世の息子ルイ8世の次男として産まれたのがルイ=ドゥ=ポワシィ、後のルイ9世です
フィリップ2世は1223年に亡くなり、その後を継いだルイ8世も先王の事業を継続し征服を進めましたが、その治世わずか4年にして急死、彼の長男フィリップも夭折していたため、ルイ=ドゥ=ポワシィが1226年11月にルイ9世として即位したのです
とはいえ即位当時ルイ9世は12歳で統治はままならず、母親で先王の王妃であったブランシュ=ドゥ=カスティーユが摂政としてルイを支えることとなりました
ブランシュはルイが成人するまで王位を狙う諸侯を抑え、1234年4月25日、ルイは成人を宣言し親政を開始します
ルイ9世の治世における事業としては、まず十字軍が挙げられます
>>521
で見たように神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が奪還したイェルサレムが再びイスラームの手に落ち、ルイはこれの奪還のため十字軍を起こしたのです
1248年、ルイは十字軍を率いてアイユーブ朝のエジプトを攻撃しますが、ダミエッタを占領したものの敗北、自身も捕虜となった後1254年に帰国しました
この十字軍失敗の後、ルイは以前にもまして敬虔になったといいます
国内の教会保護に尽力し、各教派に僧院を寄進、またキリスト教神学教育のためパリにソルボンヌ大学を創設したのです
またその公明正大な人物を期待され、フランス国内のみならず国外での調停を任されるようになり、イタリアでの教皇派と皇帝派との調停も頼まれました
内政においても高等法院を創設して裁判制度を整え、統一通貨トゥルノワ銀貨はヨーロッパでも権威のある貨幣となります
そして最後の事業として再び十字軍を組織、1270年に
>>40
などで登場した弟シャルル=ダンジューとともにチュニジアを攻めますが、その途上の1270年8月25日、あえなく陣没してしまいます
こうして志半ばで死去したルイですが、彼の孫にあたるフランス王フィリップ4世の働きかけによって1297年にフランス王として唯一列聖され、彼の命日である8月25日はカトリックの祝日となったのでした
本日は「聖王」ルイ9世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年
577
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/04/25(土) 21:37:33 ID:nlwgE/Ac
今日は早いんですね、乙です
578
:
Republica de Venexia
:2015/04/25(土) 21:43:47 ID:???
>>577
いやすみません、昨日書いておいた後、日付変わってから書き込むのを忘れてまして
聖王ルイのは今日の分ですはい
579
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/04/25(土) 21:46:14 ID:nlwgE/Ac
>>578
言われてから今日の分見た記憶がないことに気付きました・・・(池沼)
失礼しました
580
:
Republica de Venexia
:2015/04/26(日) 00:00:51 ID:???
4月26日はロンドン秘密協定が結ばれた日です
>>329
で見たようにイタリアはサルデーニャ王国の下で統一が進められ、1861年にはイタリア王国が成立しました
1866年には普墺戦争でプロイセン側として参戦しヴェネツィアを併合、1870年には普仏戦争に乗じてバチカンを除く教皇領を併合しました
この教皇領併合後は国内統治に集中するため、イタリアのヨーロッパ列強への関わりは極力避けるようになります
しかしその一方で孤立化も危惧したため、ドイツとの関係が深まり、そのドイツを通じてオーストリアとの関係も生じるようになりました
しかしオーストリアはかつての敵国であり、また1870年以降もオーストリア領に留まっていたトリエステや南チロル、いわゆる「未回収のイタリア」を巡って対立しているという状態でした
1881年にフランスがチュニジアを保護国とするとイタリアはこれに反発し、翌1882年にドイツ、オーストリアとともに三国同盟を形成するものの、オーストリアとの対立により有効に機能したとは言い難いものでした
この両国の対立は第一次世界大戦においても継続し、イタリアは当初中立の立場を取ることとなりました
その間にもイタリアは未回収のイタリア譲渡をオーストリアに要求しましたが満足な回答は得られず、その結果イタリアはイギリス・フランスへと接近します
そして1915年4月26日、イタリアは三国協商側につく見返りとしてトリエステやダルマツィア獲得を約束したロンドン秘密協定を締結、三国同盟からの離脱を決定したのです
その後イタリアは連合国側としてオーストリアに宣戦布告し、
>>340
で見たようにイタリア戦線にて決定的な勝利を収めます
もっとも大戦後に行われたパリ講話会議ではダルマツィアやフィウメなどはイタリア領とは認めないという空気が支配的となり、イタリアは会議をボイコットする事態となります
その後サン=ジェルマン条約で旧オーストリア領のトレンティーノ、南チロル、イストリアなどを獲得するもののイタリア国民の不満は大きく、やがてファシスト党が台頭することとなるのでした
本日は連合国側イタリアの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
581
:
Republica de Venexia
:2015/04/27(月) 00:02:12 ID:???
4月27日はブルゴーニュ公フィリップが亡くなった日です
>>440
で見たように、フランス王シャルル5世は百年戦争におけるフランスの混乱を収拾し、イングランドに対する劣勢を挽回することに成功しました
このシャルル5世が1380年に亡くなった後に新国王となったのがシャルル6世でした
しかしシャルル6世は即位当時わずか11歳であり、シャルル5世の弟であるアンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ、シャルル5世の王妃の兄であるブルボン公ルイが補佐を行うこととなります
しかしこの4人、新国王が幼いのにつけ込み政治を私物化し、その中でもブルゴーニュ公フィリップが事実上の摂政となって政権を掌握します
しかし1388年、シャルル6世が親政を宣言するとフィリップは政権の中枢から遠ざけられ、代わってシャルル6世の弟のオルレアン公ルイが重用されるようになりました
ところが王権を固めようとした矢先の1392年、シャルル6世は精神に異常をきたし、政務をとるのが困難な状況に陥ってしまいます
これを機にブルゴーニュ公フィリップは勢力を挽回し、宮廷はブルゴーニュ公フィリップを中心とするブルゴーニュ派、オルレアン公ルイを中心とするオルレアン派に分かれて政治闘争を繰り広げます
この両派はも百年戦争におけるイングランド問題で対立しており、
>>288
で見た教会大分裂(大シスマ)の時期でもあり、このシスマ問題でも対立、さらに神聖ローマ帝国や北イタリアね諸侯との関係による勢力争いなど、まさに一触即発の状況にありました
もっともブルゴーニュ公フィリップの存命中は表立っての抗争には発展せず、フィリップは1404年4月27日に死去します
その後を継いだのが長男のジャンであり、このジャンは無畏公の渾名が示す通り非常に好戦的な人物で、ブルゴーニュ派とオルレアン派の宮廷闘争は他国をも巻き込む武力闘争へと発展することとなるのでした
本日はフィリップ豪胆公の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『フランス王朝史2ヴァロワ朝』講談社、2014年
582
:
Republica de Venexia
:2015/04/28(火) 01:12:26 ID:???
4月28日はイスラームがイベリア半島に上陸した日です
>>311
で登場したムアーウィヤによって開かれたウマイヤ朝は、第5代カリフのアブド=アルマリクの時代に最盛期を迎え、各地への征服活動を進めます
東方では将軍ハッジャージュ=ブン=ユースフがイラクを制圧後ブハラ、サマルカンドを征服し、さらにフェルガナ地方へも進出するなど、中央アジアのイスラーム化のさきがけとなりました
一方、西方へと勢力を拡大していったのが将軍ムーサー=ブン=ヌサイルでした
ムーサーはビザンツ勢力を北アフリカから駆逐し、チュニジアのカイラワーンを拠点としてさらに西へと進出します
この地域には先住民族ベルベル人が居住していましたが、ムーサーはこれを従えモロッコまで勢力を拡大しました
モロッコの制圧後、ムーサーの指揮下にあったベルベル人の将軍ターリク=ブン=ジヤードはベルベル人部隊を率い、711年4月28日、イベリア半島のジブラルタルへと上陸します
当時イベリア半島は
>>259
などで登場した西ゴート族が治めていましたが、グアダレーテの戦いでターリクは西ゴート王国軍に大勝し一気に首都トレドを陥れました
ムーサーも翌年自ら軍を率いてイベリア半島に上陸し、ターリクよりも西寄りで進軍しセビージャやメリダなどを制圧していきました
2人はトレドで合流し、ここでイスラーム軍は再び二手に分かれます
一方は北西方面へ、もう一方は北東方面へと進みサラゴサやバルセロナを占領、715年にはほぼイベリア半島の征服を完了したのです
以後もイスラームの進軍は続き、これが止められるのは
>>373
で見たトゥール・ポワティエ間の戦いでカール=マルテルに敗北するのを待つこととなります
本日はアル=アンダルスの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
583
:
Republica de Venexia
:2015/04/29(水) 00:01:18 ID:???
4月29日はスペイン王国がグラン・カナリアを征服した日です
イベリア半島でのレコンキスタの進展は
>>407
で見ましたが、ここではその終盤、カトリック両王の治世での話となります
1469年、カスティーリャ王女イサベルとアラゴン王子フェルナンドが結婚し、いわゆるカトリック両王と称されることとなります
イサベルは1454年のエンリケ4世の死後女王となりますが、その即位に反対する勢力が存在しました
それはカスティーリャ王エンリケ4世の一人娘フアナを支持するグループで、王位継承をめぐって内戦が勃発したのです
この継承権争いによって特にガリシアとアンダルシアが無秩序状態に陥り、フアナ派はポルトガルの援助を受けイベリア半島全体を巻き込む内戦となりました
この内戦は1476年のトロの戦いでイサベル派が勝利して以降はフアナ派は支持を失い、イサベルの王位継承で決着をみることとなります
この過程で征服されたのがカナリア諸島でした
カナリア諸島周辺海域は大西洋へ進出するためには重要な地域であり、アラゴン王国にとっての地中海と同等の価値を有していました
そのためカトリック両王は当初からこの海域の確保を狙っており、同じく海上進出に積極的であったポルトガルと衝突することになります
そのポルトガルはフアナ派に味方して敗れたことでカスティーリャに対し劣勢となり、カスティーリャはそのまま1478年4月29日、カナリア諸島のグラン・カナリアを征服し、その主都ラス・パルマスに司教区と高等法院を設置します
同じくカナリア諸島に属するテネリフェ、ラ・パルマも征服され、これらの地域には多くの自治権が与えられました
このカナリア諸島領有は1479年のアルカソヴァス条約でイサベルの王位継承とともに認められ、正式にカスティーリャ領となったのでした
本日はカスティーリャ領カナリア諸島の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
584
:
Republica de Venexia
:2015/04/30(木) 02:10:06 ID:???
4月30日はカジミェシュ3世が誕生した日です
ポーランド・ピアスト朝は長らく分裂状態にありましたが、13世紀末から統一の機運が高まっていきます
そのなかで1295年、ヴィエルコポールスカ侯プシェミスウ2世が、1079年のボレスワフ大胆王以来約200年ぶりに国王として戴冠しました
プシェミスウは翌年暗殺されボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王となるものの、1306年にヴァーツラフ2世の息子ヴァーツラフ3世が暗殺され、ボヘミア支配は長くは続きませんでした
この時台頭してきたのがクヤーヴィ侯ヴワディスワフ1世短躯王で、1320年に正式に国王として戴冠しポーランド人国王の下でのポーランド統一の必要性を訴えたのです
このヴワディスワフ短躯王の息子として1310年2015年4月30日に産まれたのがカジミェシュ3世でした
カジミェシュは
>>103
で見たように内外に抜群の政治的手腕を発揮し、ポーランドの国際的地位を高めることに成功します
1364年にはポーランドの都クラクフに神聖ローマ皇帝カール4世、ハンガリーの大王ラヨシュ1世ら多数の君主が招かれ、対トルコの十字軍問題について議論したことからも伺えます
本日はカジミェシュ大王の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ステファン・キェニェーヴィチ編、水島孝生・加藤和一夫訳『ポーランド史』恒文社、1996年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
585
:
Republica de Venexia
:2015/05/01(金) 00:39:41 ID:???
5月1日はイングランドとスコットランドが合同した日です
イングランドでは
>>226
で見たようにスコットランド王でもあったジェームズ1世が即位して以降、スコットランドとの同君連合となります
やがてイングランドは
>>197
の清教徒革命で一時王政が打倒されたもののチャールズ2世が王政復古を果たし、
>>487
で見た名誉革命を経てメアリ2世とウィリアム3世の共同統治が行われていました
このうちメアリは1694年に没し、ウィリアムも1702年に亡くなりますが、2人には子供がいなかったため、メアリの妹にあたるアンが女王となりました
しかしこれに対し、名誉革命で追放されたジェームズ2世の亡命先であるフランスのルイ14世が、ジェームズの息子であるジェームズ=フランシス=エドワードをイングランド王に擁立するなど、アンの即位に反対する運動が起こりました
これはアイルランド、スコットランドでも同様で、これらの地域ではジェームズ派を意味するジャコバイトによる反体制運動が盛んとなります
特にイングランドとスコットランドの対立は激しく、1705年の外国人法によりスコットランド人が外国人と規定された頂点に達しました
この争乱を収めるため、1706年からイングランド・スコットランド両国合同のための交渉が行われることとなります
そして1707年5月1日、両国の合同法が発効し、イングランドとスコットランドは正式に統合されたのでした
本日はグレートブリテン王国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
586
:
Republica de Venexia
:2015/05/02(土) 00:02:08 ID:???
5月2日はゾフィー=アウグステ=フリーデリケが産まれた日です
ゾフィーは1728年5月2日、後にプロイセンの元帥となるアンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン=アウグストとホルシュタイン=ゴットルプ家のヨハンナ=エリーザベトの長女として産まれました
と、このように生粋のドイツ人であった彼女ですが、やがてロシアへと旅立つ日がやってきます
その頃のロシアはという女帝エリザベータの治世でしたが彼女には子供がおらず、1741年に即位後間もなく後継者の選定を行います
ここで選ばれたのが、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール=フリードリヒと、エリザベータの姉であったアンナ女帝との息子、つまりピョートル大帝の孫であるペーター=ウルリッヒでした
なおペーターは同じく国王に子供のいないスウェーデンも後継者として迎え入れようとしていましたが、当時ロシアとスウェーデンはバルト海を巡って争っているところでした
これが実現した場合、ロシアはピョートル大帝の孫が帝国スウェーデンを率いるということになるため、いち早くロシアに迎えることとなったのです
こうして1743年、ペーターは皇太子としてロシアに入り、ピョートル=フョードロヴィチと改めてました
次に行われたのがピョートルの妻、つまり皇太子妃の選択で、これに選ばれたのがゾフィーだったのです
ホルシュタイン=ゴットルプ家を通じてピョートルのまたいとこにあたるゾフィーは1744年にロシア入りし、名をエカチェリーナ=アレクセーヴナと改めました
この2人が後のロシア皇帝ピョートル3世、女帝エカチェリーナ2世となるのですが、ピョートルのプロイセン贔屓、プロイセン王フリードリヒ2世>信奉によって夫婦仲がうまくいかず、やがてクーデターによりピョートルが廃位されエカチェリーナが女帝となったのは>541でも見た通りです
本日は後のエカチェリーナ2世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
587
:
Republica de Venexia
:2015/05/03(日) 00:08:56 ID:???
5月3日はメフメト2世が亡くなった日です
オスマン帝国スルタン、メフメト2世の若年期は
>>469
で、その後のコンスタンティノープル征服は
>>146
で見ました
ここではその後のメフメト2世について見ていくことにしましょう
メフメトはコンスタンティノープル征服後も東西に征服活動を続けていきます
まず標的となったのはバルカン半島の強国、オスマン帝国の北上にとって最大の障害となっていたハンガリーで、その玄関口にあたる拠点ベオグラードの攻略に着手しました
しかしこのベオグラードを守るのは
>>469
で見たようにメフメトの一時退位の原因となったフニャディ=ヤノシュで、メフメトはまたもこれに敗退し、自身も負傷して退却します
こうしてハンガリーへの攻勢は頓挫しましたがバルカン半島内部への征服は順調に進行し、1456年にはアテネ公国、59年にはセルビア、60年にはビザンツ系国家モレア専制公国、62年にはヴラド=ツェペシュ亡き後のワラキア公国、63年にボスニア、78年には
>>367
にも登場したスカンデルベグ亡き後のアルバニアを征服、バルカン半島のほぼ全土がオスマン帝国支配下となったのです
小アジアもまた征服が進められ、1461年にビザンツ皇帝の子孫であるコムネノス家が支配するビザンツ系最後の国家トレビゾンド帝国を滅ぼし、黒海南岸を制圧しました
66年には小アジアん陸上交易ルートを抑えるカラマン君侯国を征服し、内陸交易ネットワークの掌握にも成功します
メフメトはさらに小アジア東部へと兵を進め、ヴェネツィア共和国と同盟する白羊朝を撃破、小アジア東部にも勢力を拡大しました
その後の1475年には黒海北部沿岸に侵攻、ジェノヴァ共和国の拠点カッファを占領し、クリミア半島のクリミア=ハーン国を服属させ、黒海をも掌握したのです
メフメトの征服活動は留まることを知らず、今度はルネサンス文化が栄えるイタリアに目を向けます
第二のローマ、コンスタンティノープルを征服した彼はローマをも征服すべく一時はイタリア半島のオトラントを占領しましたが、1481年5月3日、進軍を開始していたメフメトは陣中で急死します
当時49歳、その死因や最後の遠征の目的地は明らかにはなっていませんが、一代の英傑の生涯がここで幕を下ろしたのでした
本日は「征服者」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
588
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/05/03(日) 18:28:07 ID:5Zf8EIos
>>587
信長みたいな一生ですね…
589
:
Republica de Venexia
:2015/05/03(日) 18:30:01 ID:???
>>588
征服につぐ征服ですよね
最期も暗殺という説がありますし、確かに中国遠征に出立する時の信長みたいですね
590
:
Republica de Venexia
:2015/05/04(月) 01:23:25 ID:???
5月4日は沖田畷の戦いが行われた日です
肥前の戦国大名、龍造寺隆信が頭角を現したのは1559年のことでした
もともと龍造寺氏は守護大名の少弐氏に従属する国衆でしたが、隆信の曽祖父家兼の代で一時肥前を追われその後逆襲、隆信の代で独立を果たしたのです
この龍造寺の成長を警戒したのが豊後をはじめ肥前も含む6ヶ国の守護となった大友宗麟でした
毛利が九州に侵攻し大友を攻めた際、龍造寺が毛利方についたこともあって宗麟は隆信の本拠地佐嘉城を攻撃します
圧倒的に寡兵だった隆信でしたが、鍋島直茂らの夜襲によって大友方の総大将大友親貞を討ち取り撃退に成功しました
この1570年の今山の戦いの後の龍造寺の勢力拡大は著しく、小田鎮光を謀殺、江草武種・後藤貴明の養子に隆信の息子を入れ家督を継承させ肥前支配を固めていきます
1577年には大友が耳川の戦いで島津に大敗したことで大友による支配が弱まり、龍造寺はますます伸長していくこととなります
筑後の蒲池鎮並、田尻鑑種、肥後の隈部親泰、肥前の有馬晴信、大村純忠を従属させ、隆信は「五州二島」の太守と称されるようになりました
しかし隆信は1581年に蒲池鎮並を謀殺、83年に肥後国衆の赤星統家の人質を殺害するなど残虐な行為が目立つようになり、たびたび反乱が起こるようになります
そのなかで肥前の有馬晴信は龍造寺から離反して島津と結びましたが、この晴信への対応と肥後を巡る領土争いもあって島津と直接対決に至ります
そして1584年5月4日、隆信は肥前島原の沖田畷に大軍を進め、晴信とその援軍である島津家久を攻撃しますが島津得意の「釣り野伏」に遭って大混乱に陥り、隆信自身も討ち取られるという大敗を喫したのです
隆信と有力な重臣の多くを失った龍造寺はこの後急速に衰退し島津に従属、やがて鍋島直茂が実権を握っていくこととなるのでした
本日は「肥前の熊」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「歴史読本 2013年9月号 戦国大武将の後継者」中経出版、2013年
591
:
Republica de Venexia
:2015/05/05(火) 00:24:26 ID:???
5月5日はアディスアベバが陥落した日です
>>549
で見たように19世紀のアフリカはイギリスとフランスが積極的に進出し、国家統一達成が世紀後半であったドイツは植民地獲得に遅れをとっていました
これはイタリアも同様で、1895年に植民地とならずに独立を保っていたエチオピアに侵攻しますが、翌96年のアドワの戦いで大敗し断念せざるを得ませんでした
時代は降りムッソリーニ政権となっていた1935年、イタリアは再びエチオピアへと侵攻します
国際連盟はこれを非難し経済制裁を課しましたが石油の禁輸措置を取らなかったため効果は薄く、逆にムッソリーニは国民の反発を煽ってエチオピア侵略の支持を取り付けたのです
そして1936年5月5日、エチオピアの首都アディスアベバは陥落、皇帝ハイレ=セラシエ1世もイギリスに亡命しイタリア領エチオピア帝国が成立しました
やがて第二次世界大戦が勃発するとイタリア領東アフリカはイギリスの攻撃を受け、1941年4月にはアディスアベバが解放されます
亡命していたハイレ=セラシエ1世も、奇しくもアディスアベバ陥落と同日の5月5日に入城、皇帝に復位しました
その後イタリアの東アフリカ支配は崩壊し、ハイレ=セラシエの戦後は
>>338
で見た通りです
本日はエチオピア最後の皇帝の再誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
592
:
Republica de Venexia
:2015/05/06(水) 00:32:53 ID:???
5月6日はハインリヒ2世が産まれた日です
オーリヤックのジェルベールをシルウェステル2世として教皇とし、ローマ帝国の復活を目指したオットー3世でしたが、志半ばの22歳という若さで急死してしまいます
このオットー3世の後継者として1002年にドイツ王となったのがハインリヒ2世でした
ハインリヒ2世は973年5月6日、ザクセン朝初代のハインリヒ1世の曾孫にあたり、オットー3世没後の後継者争いにはその血筋を根拠として正当な後継者であると主張しました
ハインリヒ2世は王権を固めるため、自身の所領であったバイエルン大公領を帝国権標にしようと努めます
その一環として1007年にバンベルク司教区を創設し、バイエルン、シュヴァーベン、ライン地方、テューリンゲン、ザクセンの国王支配領域の連結を図りました
その後皇帝となったハインリヒ2世の統治は
>>544
で見た通りです
彼の死によりザクセン朝は断絶しますが、彼の代で帝国権標となったバイエルン大公領は以後も重要な役割を果たすこととなります
>>512
で見たバイエルン大公ハインリヒ傲岸公の強権はその一例といえるでしょう
本日はザクセン朝最後の王の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
593
:
Republica de Venexia
:2015/05/07(木) 00:12:20 ID:???
5月7日はオットー1世が亡くなった日です
オットー1世による「ドイツ王国」への移行は
>>242
で、「キリスト教国の防衛」は
>>245
で、そして西欧での覇権を確立し「神聖ローマ帝国」が成立したことは
>>468
で見ました
ここではその後のオットー1世の統治を見ていくこととしましょう
オットーの政策は大きく4つに分類されます
まず教皇に対する皇帝の保護権確保、ついでローマと教皇領も含めたイタリア支配、さらにザクセン朝への帝位の確保、そしてビザンツ皇帝による皇帝権の承認です
このうち最初の教皇に関する政策に関しては
>>468
で見た通り、「オットーの特権状」で皇帝の優位性をはっきりと示しており、皇帝権の教皇権に対する優越、教皇の保護者たる存在としての皇帝を実現しました
2つ目のイタリア支配に関しては、皇帝権の理念に不可欠なものであったため、その統治は特に重要視されました
オットーは皇帝としての統治期間12年のうち10年間をイタリアで過ごし、帝国の統治にあたったのです
イタリア王を名乗っていたべレンガリオを降伏させてオットーの支配権を承認させ、またイタリア南部のビザンツ帝国領にも影響力を強め、カプア、ベネヴェント、サレルノの諸侯がオットーの宗主権を認めました
とはいえイタリアにおける皇帝権の優位はその軍事的優越に依存しており、そのためには帝国軍のイタリア遠征、そして皇帝戴冠のためのローマ遠征が必要であり、いわゆる「イタリア政策」として以後の神聖ローマ帝国にも影響を及ぼすこととなります
3つ目のザクセン朝への帝位の確保については、すでに961年に息子であるオットー2世をドイツ王に即位させ、967年にはオットー2世は教皇の手によって戴冠され、共同皇帝としたことで実現されました
こうしてオットー1世の皇帝権が確立しましたが、ビザンツ帝国のニケフォロス2世、ヨハネス1世オットーの皇帝権を認めていませんでした
しかしヨハネス1世はイタリア半島におけるオットー1世との戦闘で敗北したことで帝位の承認に傾き、972年にはヨハネスの姪テオファーヌとオットー2世との結婚により承認がなされたのです
こうしてオットー1世は帝国の威信を高め、その功績により大帝と称されることとなります
オットー大帝は973年5月7日に死去し、その政策はオットー2世に受け継がれるのでした
本日は単独皇帝オットー2世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
594
:
Republica de Venexia
:2015/05/08(金) 00:09:42 ID:???
5月8日は珊瑚海海戦が行われた日です
>>569
で見たドゥーリットル空襲の後、日本海軍の第二段作戦準備はさらに加速し、その第一期としてツラギ・ポートモレスビー攻略作戦であるMO作戦が開始されました
この作戦はポートモレスビーに上陸する陸戦隊を運ぶ輸送船を中心とするMO攻略部隊、その護衛のMO主隊、この2つを掩護するMO機動部隊の3隊によるものでした
まず前哨戦としてツラギ攻略が進められ、同地のオーストラリア軍がすでに撤退していたため1942年5月3日には無血占領に成功します
同じ頃主力3隊も作戦を開始し、第五戦隊「妙高」「羽黒」に第五航空戦隊「翔鶴」「瑞鶴」を主力とするMO機動部隊と、第六戦隊「青葉」「加古」「衣笠」「古鷹」に空母「祥鳳」などのMO主隊が5月4日に合同します
米軍も「レキシントン」「ヨークタウン」を主力とする第十七任務部隊が日本海軍の進撃を阻止しようと近づきつつありました
5月7日、両軍は索敵機を発艦させともに機動部隊の発見を目指しますが、日本海軍は誤報により給油艦と駆逐艦を沈めたのみに終わりました
一方米軍も日本機動部隊は見つけられませんでしたが「祥鳳」を含むMO攻略部隊を発見し「祥鳳」を撃沈、これによってMO攻略部隊は北に退避したため、ポートモレスビー攻略は延期されることとなります
このように7日には本格的な戦闘は行われず、日没に伴い攻撃は中止となりました
そして1942年5月8日、ついに両軍機動部隊が相まみえ、史上初となる空母機動部隊同士の決戦が行われることとなります
夜明けとともに両軍の索敵機が発艦し、敵部隊発見もほぼ同時刻、攻撃機の発艦もほぼ同時という状況で決戦は開始されました
「翔鶴」飛行隊長の高橋赫一小佐率いる攻撃隊は米機動部隊に雷爆同時攻撃を行い、「レキシントン」を撃沈、「ヨークタウン」を中破という戦果を挙げますが日本側も多くの艦載機を失い、高橋小佐め戦死してしまいます
一方米艦載機もMO機動部隊の攻撃に向かいましたが、ちょうどこの時スコールが発生しており、「瑞鶴」はこれを隠れ蓑として攻撃を回避、一方「翔鶴」は集中攻撃を受けることとなりました
「翔鶴」は米艦載機の雷撃は全て回避したものの急降下爆撃によって被弾し中破、空母としての機能を喪失します
午後になるとMO機動部隊と攻略部隊の指揮をとる第四艦隊司令長官の井上成美中将は、機動部隊の損害を考慮して退避を決定しました
しかし聯合艦隊司令長官の山本五十六大将は追撃を司令、翌5月9日にMO機動部隊は再び索敵しますが、米機動部隊はすでに離脱していたため戦闘は起こりませんでした
こうして珊瑚海海戦は終わり、日本は空母「祥鳳」、駆逐艦「菊月」、掃海艇3隻が沈没し空母「翔鶴」が中破、艦載機93機を喪失、アメリカは空母「レキシントン」、給油艦「ネオショー」、駆逐艦「シムス」が沈没、空母「ヨークタウン」が中破、艦載機69機を喪失という結果に終わり、日本は戦術的には勝利したと言えるものの、作戦目標であるポートモレスビー攻略は阻止される結果となったのでした
本日は空母対空母決戦の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・「丸」編集部『写真太平洋戦争3 ドーリットル空襲 珊瑚海海戦 ミッドウェー海戦』光人社、1995年
・「歴史群像太平洋戦史シリーズ13 翔鶴型空母」学習研究社、1997年
・「決定版太平洋戦争4 『第二段作戦』連合艦隊の錯誤と驕り」学習研究社、2009年
595
:
Republica de Venexia
:2015/05/09(土) 00:31:18 ID:???
5月9日はフリードリヒ=ヴィルヘルムが亡くなった日です
大選帝侯と称されるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは、
>>490
で見たようにブランデンブルク=プロイセンの国際的地位を高め、内政においてもフランス絶対王政を模範とし君主権の強化、官僚制の整備、常備軍の設置、重商主義的経済政策の推進、恒常的租税制度の導入など国家発展の基礎を築きました
この大選帝侯は1688年5月9日に没し、嫡男のフリードリヒがプロイセン公フリードリヒ3世として即位します
フリードリヒ3世は文芸を愛好し、父の時代にベルリンに多く移住してきたユグノーがもたらしたフランス文化によって、華やかな宮廷生活を送りました
一方で外交方面では
>>433
で見たようにスペイン継承戦争でハプスブルク家を支援し、ハプスブルク家当主で神聖ローマ皇帝でもあるレオポルト1世から王号を名乗ることを許されます
こうしてフリードリヒ1世はプロイセン公国を王国に昇格させ、プロイセン王としてはフリードリヒ1世となったのです
フリードリヒ1世は1713年に没し、王国の発展は「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世、そして「大王」フリードリヒ2世に引き継がれていくこととなるのでした
本日は「プロイセン公フリードリヒ3世」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
596
:
Republica de Venexia
:2015/05/10(日) 00:06:10 ID:???
5月9日はセポイが反乱を起こした日です
イギリスは
>>501
で見たアンボイナ事件の後インド経営に力を入れ、東インド会社がマドラス・ボンベイ・カルカッタの3港を拠点にそれぞれ南インド・西インド・北インドへと進出していきました
東インド会社はインド人傭兵のセポイを雇って兵力の不足を補い、同じくインドへの進出を図るフランス東インド会社と勢力争いを繰り広げます
これは1757年のプラッシーの戦いで決着がつき、フランスはインドから駆逐されました
またインドでは
>>234
のアウラングゼーブの死後ムガル帝国が弱体化し、シク教徒、マラーター族、マイソール王国が台頭し、イギリスはこの隙をついてインドの直接支配を広げていきます
やがてイギリス本国で産業革命が進行すると原料生産地、商品市場としてのインドの需要が高まり、より直接的な植民地支配が進められるようになりました
イギリス東インド会社はまずインド貿易独占権を、ついで商業活動を全面的に停止させられ、インド統治の機関としての役割のみを持つようになります
イギリスはインド社会を近代化(西欧化)するため積極的な介入政策を展開し、インドは原料の輸出国となって国内産業が破壊されました
またザミンダーリー制やライヤットワーリー制といった近代的な税制の導入によってインドの伝統的な村落社会が破壊され、インド社会は大きく変動することとなります
このような急進的な改革政策はインド人の反感を招き、1857年5月10日にセポイが起こした反乱をきっかけにイギリスへの不満が一気に爆発しました
反乱はインド各地に広がり、重税に苦しむ農民や綿織物業者、旧支配者層など幅広い階層も加わってイギリスのインド支配を動揺させます
反乱軍はデリーを占領しムガル皇帝を擁立しましたが、イギリス本国はインドに大軍を送り込み、反乱軍が統一を欠いていたこともあって反乱は2年で鎮圧されました
この際ムガル皇帝は廃位され、
>>572
の成立以来300年以上存続してしたムガル帝国は滅亡します
この反乱を機にイギリスは東インド会社を解散してインドを本国の直接統治下に置き、1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねることを宣言し、インド帝国が成立することとなるのでした
本日はインド大反乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・辛島昇編『世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年
・佐藤正哲他『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』中央公論新社、2009年
597
:
Republica de Venexia
:2015/05/11(月) 00:09:06 ID:???
5月11日はフォントノワの戦いが行われた日です
>>323
で見たオーストリア継承問題に端を発し、プロイセン王フリードリヒ2世のシュレジエン侵攻によりオーストリア継承戦争が勃発しました
その第一段階である第一次シュレジエン戦争において
>>559
で見たようにモルヴィッツの戦いでプロイセンが勝利し、これに乗じてフランスがバイエルン、プロイセン、ザクセン、スペインと同盟を結び、オーストリアは劣勢となります
これに対しフランスの勢力拡大を阻止しようとするイギリスがオーストリアを支援し、オーストリアもまたマリア=テレジアがハンガリーの支持を取り付け反撃、1742年のブレスラウ条約で一時休戦となります
しかしオーストリアはプロイセンに対しては妥協したとはいえバイエルンとフランスに対する戦いは続け、オーストリアを支援するイギリスも上陸し本格的な介入を始めました
これにフランスも応戦し、1744年にプロイセンと改めて同盟を結びオーストリア・イギリスに宣戦します
プロイセンはベーメン、メーレンへと侵攻しますが、ザクセンが今度はオーストリア側につき、またバイエルンも皇帝カール7世が死去したことで戦争目的を失いオーストリアと和睦しました
これにより孤立したプロイセンはシュレジエンに攻め込まれますが、
>>154
のホーエンフリートベルクの戦いでオーストリアを破り、その後オーストリアと和睦し第二次シュレジエン戦争が終結することになります
しかし戦争はこれで終わらず、当事者ではなく介入者同士であるフランスとイギリスによって継続されました
フランスの参戦にはオーストリア領ネーデルラント獲得という目的もあり、フランスの元帥モーリス=ド=サックスはブラバント侵攻を進めます
これに対しオーストリア、イギリス、ハノーファー、オランダの同盟軍も反撃し、サックスはフォントノワに布陣、同盟軍を迎え撃ちます
こうして起こった戦いが1745年5月11日のフォントノワの戦いでした
同盟軍の攻撃によって始まったこの戦いはサックスの巧みな陣地構築、采配により同盟軍の突撃が食い止められ、疲弊した同盟軍に対しサックスが予備兵力を投入し決着がつきました
こうして同盟軍は退却しましたがフランス軍も損害は大きく、追撃はできませんでした
とはいえこの戦いの後フランスは優位となり、オーストリア領ネーデルラントを制圧し戦争目的を達成することとなります
オーストリアとも帝位継承とも無関係となった戦争は
>>319
のアーヘンの和約で最終的に終結し、サックスはフォントノワの戦いの功績により、後にフランス大元帥に列せられることとなるのでした
本日は大元帥モーリス=ド=サックスの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・B.H.リデルハート、森沢亀鶴『世界史の名将たち』原書房、2009年
・長谷川輝夫・大久保佳子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年
598
:
Republica de Venexia
:2015/05/12(火) 01:02:04 ID:???
5月12日はオーリヤックのジェルベールが亡くなった日です
オーリヤックのジェルベールは945〜50年頃、アキテーヌのオーヴェルニュ地方、オーリヤックに産まれました
幼少期からサン=ジェロー修道院で養育され、976年にはオーリヤックを訪れたカタルーニャ伯ボレルに伴われ、カタルーニャで学ぶこととなります
カタルーニャはキリスト教文化圏とイスラーム文化圏の境目にあたり、当時イベリア半島では後ウマイヤ朝が最盛期を迎えており、その都コルドバは西欧最大の文化都市の1つでした
ここで3年間、最新の学問を学んだジェルベールはローマを訪れて神聖ローマ帝国のオットー大帝と出会います
この出会いはまさにシャルルマーニュとアルクィンとの出会いを連想させるもので、ジェルベールの学識に感銘を受けた大帝は息子のオットー2世の学問の師にジェルベールを任命し、その後もオットー家との関係は続くことになります
やがてジェルベールはランスに赴き、ここでランス大司教アダルベロンと出会いました
ジェルベールとアダルベロンは
>>151
で見たように神聖ローマ皇帝とフランス王との協調を進め、ユーグ=カペーのフランス王即位を支持、またオットー2世死後3歳だったオットー3世の王位継承に反発しちハインリヒを抑え込みます
このオットー3世がローマ帝国の復興を目指して自身をコンスタンティヌス大帝になぞらえ、ジェルベールをシルウェステル1世になぞらえ、教皇シルウェステル2世として即位させたのは
>>468
で見た通りです
もっともこのローマ帝国構想はオットー3世とジェルベール、そしてその周辺に限られていたためローマでは反対運動が起こり、2人は追放されます
やがてオットー3世は急死して構想は崩れ、シルウェステル2世はローマに戻った後1003年5月12日に死去したのでした
本日はローマ教皇シルウェステル2世の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統"の継承とイメージの変容』青木書店、2006年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
599
:
Republica de Venexia
:2015/05/13(水) 00:59:55 ID:???
5月13日はテッシェンの講和が結ばれた日です
>>319
のアーヘンの和約で終結したオーストリア継承戦争、ついで
>>489
のフベルトゥスブルク条約で終結した七年戦争によってプロイセンはシュレジエンの領有を確定し、またヨーロッパ列強の仲間入りを果たしました
以降のヨーロッパは約100年間にわたって五列強を中心とした勢力均衡が図られるようになり、ドイツ国内でも変化が起こります
それまでドイツではウェストファリア条約によって帝国領邦が主権を得たものの、帝国が個々の領邦に分裂してしまったわけではなく、各領邦の自由を保証しつつ連邦制的にゆるやかに統合される共同体として存続していました
しかしオーストリア継承戦争、七年戦争は特にプロイセンにとって帝国よりも自国の利益を優先したものであり、これ以降のドイツはオーストリアとプロイセンの二元主義へと移行することとなります
この自国優先が顕著に現れたのが
>>239
で見たポーランド分割で、オーストリアとプロイセンは自国の利害をむき出しにし、オーストリアは東部へのさらなる勢力拡大を、プロイセンはブランデンブルクと東プロイセンを陸続きとすることに成功しました
またオーストリアはプロイセンに奪われたシュレジエンの埋め合わせをするべく、バイエルンへと手を伸ばします
バイエルンでは1777年にマクシミリアン3世が子を残さず死去し、これに乗じてオーストリアがバイエルンを占領したのです
これに反発したプロイセンがバイエルンを支援し、軍を派遣したことで始まったのがバイエルン継承戦争でした
もっともこれはオーストリアのヨーゼフ2世が独断で始めたものであり、戦争に反対するマリア=テレジアがプロイセンと和平交渉を行ったことで本格的な戦闘は行われませんでした
こうして1779年5月13日、テッシェンの講和が結ばれ、戦闘をほとんど行うことなくジャガイモばかりあさっていた奇妙な戦争は終結しました
とはいえドイツの諸領邦にとって危機が去ったわけではなく、これ以降もオーストリアとプロイセンによるドイツ内での勢力争いは続くこととなります
本日はジャガイモ戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
600
:
Republica de Venexia
:2015/05/14(木) 00:03:57 ID:???
5月14日はジェームズタウンが建設された日です
女王エリザベス1世の時代、イングランドでは不況が続いていました
1550年代に始まった貿易不振が彼女の代でも継続し、イングランドの毛織物の重要な市場であったアントウェルペンはスペイン領であったため、
>>243
で見たイングランドとスペインとの対立により貿易が阻害されたのです
アントウェルペンは
>>445
のユトレヒト同盟にも加わったためスペインに破壊され、その結果イングランドの毛織物産業は深刻な不況に陥り、大量の失業者が出ました
一方で16世紀を通じて人口は増大し続けたため、社会不安がますます高まっていったのです
この不況を克服するために様々な方法が模索されましたが、その一つが北米での植民地建設でした
そのさきがけとなったのがエリザベスの寵臣ウォルター=ローリーで、1584年に北米植民地を建設しますが、これは失敗に終わります
この失敗により植民地建設は莫大な資金を必要とし危険度が極めて高いことが明らかとなり、植民地事業が個人ではなく株式会社組織が主導して進められることとなりました
この会社の一つがロンドン拓商会社で、エリザベスの後を継いでイングランド王となっていたジェームズ1世の特許状を得て1607年、ジェームズの何にちなんだジェームズタウンを建設したのです
このジェームズタウンがヴァージニア植民地となり、
>>390
で見たピルグリム=ファーザーズ以降のニューイングランド植民地につながっていくのでした
本日はイングランドの恒久的北米植民地の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』講談社、1998年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999
601
:
Republica de Venexia
:2015/05/15(金) 08:04:28 ID:???
5月15日はフランケンハウゼンの戦いが行われた日です
>>334
で見たルターによって始まった宗教改革は各地に広がり、その中には過激派も存在しました
ルターと同じくヴィッテンベルクで活動したカールシュタットもその一人で、聖画像を攻撃し幼児洗礼やミサの廃止を主張するなど、ルターと敵対するほどの過激な運動を展開します
さらに急進的だったのがツヴィカウの預言者と呼ばれた人々で、彼らは終末の到来を預言し全ての聖職者を殺せと主張したのです
そしてこのツヴィカウの預言者の一人がトマス=ミュンツァーでした
ミュンツァーはヴィッテンベルクでルターとともに改革を目指していましたが、急進化してルターと敵対し、1521年にヴィッテンベルクから追放されます
ミュンツァーはその後プラハを訪れ、そこで急進的フス派に共感し、ドイツに戻ると再洗礼派と呼ばれる急進的改革派を組織して社会改革を目指すようになりました
社会改革を目指す動きは農民の間でも広がり、1524年にシュヴァルツヴァルトでの農民蜂起をきっかけにドイツ農民戦争が勃発し、ドイツ各地に広がっていきました
ミュールハウゼンを拠点としていたミュンツァーも農民軍を率いて戦いましたが、次第に各地の農民反乱は鎮圧されていきます
そして1525年5月15日、フランケンハウゼンの戦いでミュンツァーの農民軍はシュヴァーベン同盟軍に敗れて壊滅、ミュンツァーも処刑されてドイツ農民戦争は終結することとなったのでした
本日はドイツ農民戦争の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
602
:
Republica de Venexia
:2015/05/16(土) 00:52:08 ID:???
5月16日はメディチ家がフィレンツェから追放された日です
>>346
で見たようにフランス王シャルル8世のイタリア侵攻で始まったイタリア戦争のなかで、フィレンツェ市民から信望を失っていたメディチ家が追放され、サヴォナローラが共和制へと移行させました
しかしサヴォナローラはメディチ家だけでなくローマ教皇をも批判するなど急進化し、次第に支持を失っていきます
やがてサヴォナローラは処刑されますが、しばらくは共和制が維持されました
一方メディチ家は1512年にスペイン=ハプスブルク家によってフィレンツェに復帰します
さらに
>>529
で見たようにジョヴァンニ=デ=メディチが教皇レオ10世として即位し、メディチ家の復権がなされました
しかしジュリオ=デ=メディチが教皇クレメン.ス7世として即位した後、メディチ家は再びフィレンツェを追われることとなります
>>93
で見たようにクレメン.スは対神聖ローマ帝国同盟であるコニャック同盟に参加し、その結果神聖ローマ皇帝カール5世によって1527年5月9日にローマ劫掠が引き起こされたのです
そしてローマ劫掠の直後の同年5月16日、フィレンツェからメディチ家が追放され、共和制が復活しました
その後
>>298
で見たようにオスマン帝国がカールの本拠地ウィーン
を包囲したこともあり、クレメン.スとカールは和約を結びます
それに伴いメディチ家のフィレンツェ復帰も許され、1532年にフィレンツェ公国、そして1569年にはトスカーナ大公国となるのでした
本日はフィレンツェ共和制の再誕日です、おめでとうございます
参考文献
・森田義之『メディチ家』講談社、1999年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
603
:
Republica de Venexia
:2015/05/17(日) 00:22:33 ID:???
5月17日はバッキンガム公エドワードが処刑された日です
>>257
で見たように、ヘンリ=テューダーはボズワースの戦いでリチャード3世を破り、ヘンリ7世として即位しテューダー朝を開きました
しかしヘンリ7世の王権は盤石ではなく、ヨーク朝復活を狙う幾度もの反乱に悩まされます
1486年のフランシス=ラヴェルの反乱はすぐに鎮圧されますが、翌年のランバート=シムネルの反乱はブルゴーニュ公妃マーガレットやリチャード3世の後継者候補であったエドワード4世も支持し、アイルランド貴族の多くが加わったことでヘンリ7世は一時危機に陥りました
もっともこの反乱を鎮圧したことでヨーク家支持派の多くが戦死し、むしろヘンリ7世の権力は増すこととなります
その後もパーキン=ウォーベックらの反乱が起こりますが、ヘンリ7世はこれらの鎮圧の過程でヨーク家系の王位継承者や有力貴族を次々と排除し、王権を確立していきます
こうしてヘンリ7世がテューダー朝の基礎を固めた後、1509年に即位したのがその息子のヘンリ8世でした
ヘンリ8世もまた王権の障害となる有力貴族の排除に努め、1510年にはリチャード=エンプソン、エドマンド=ダドリーが反逆罪で処刑されます
この2人は父王の時代から仕える重臣でしたが、そのような人物であっても王権強化のための犠牲となったのです
バッキンガム公エドワード=スタッフォードもまた、父王の時代から仕え、ヘンリ8世の戴冠役を務めるほどの重臣でした
1514年には国王軍司令官である大司馬にも任命されましたが、そんなバッキンガム公ですらヘンリ8世の王権拡大政策には抗えませんでした
1521年5月17日、反逆罪で捕らえられていた彼は処刑され、バッキンガム公位は消滅し、大司馬の権限も以後は王権に統合されることとなったのでした
本日はバッキンガム公・大司馬の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・水井万里子『図説テューダー朝の歴史』河出書房新社、2011年
604
:
Republica de Venexia
:2015/05/18(月) 00:02:42 ID:???
5月18日はアンジュー伯アンリとアリエノール=ダキテーヌが結婚した日です
>>299
でノルマンディー公ウィリアムがイングランド王ウィリアム1世として即位し始まったノルマン朝は、その息子ウィリアム2世が受け継ぎ、その死後は弟のヘンリ1世が統治を行いました
このヘンリ1世は嫡男を事故でなくしたため、
>>562
で見た神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の妃で、夫の死後未亡人となっていたマティルダを帰国させて後継者としました
こうしてイングランド初の女性君主となったマティルダでしたが、これに反発したのがヘンリ1世の甥であるフランスのブーローニュ伯エティエンヌ=ド=ブロワでした
彼はスティーヴンとしてイングランド王に即位しますがマティルダはこれを認めず、イングランドは内戦状態となります
やがて内戦は収められ、1153年、スティーヴンの死後はマティルダの息子アンジュー伯アンリが国王となることが取り決められたのです
さてこのアンジュー伯アンリですが、母は先のマティルダ、父はマティルダの再婚相手アンジュー伯ジョフロワでした
ジョフロワはアンジュー伯としてフランス王ルイ7世に対抗する有力諸侯でした
1144年にはルイがシャンパーニュ戦争にかかりきりなのを尻目にノルマンディーを征服し、ノルマンディー公としての地位も得ます
その息子であるアンリは父の遺領アンジュー伯領・ノルマンディー公領、そして母の遺領であるイングランド王国を受け継ぐことになるのです
それにさらなる領地を加えるのがアリエノール=ダキテーヌとの結婚でした
アリエノールの実家はアキテーヌ公家であり、その所領はアキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、ポワティエ伯領など、フランス王家すら凌駕する広大なものでした
そのアキテーヌ公ギョームが男子をもうけず死去したため、アリエノールが所領を受け継いでいたのです
そしてこのアリエノール、当初はフランス王ルイ7世の妃でした
ルイとしては広大なアキテーヌ領が王家に加わったこととなり、王権強化の絶好の機会でしたが、これが近親婚であるとして1152年3月に離婚することとなりました
そのわずか2ヶ月後の5月18日、アリエノールが再婚したのがアンジュー伯アンリだったのです
アンリはこの結婚によってアキテーヌ公位を獲得し、上の所領と合わせて広大な地域を支配、さらにイングランド王ヘンリ2世として即位しアンジュー帝国を築くこととなるのでした
本日はアキテーヌ公アンリの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
605
:
Republica de Venexia
:2015/05/19(火) 00:02:18 ID:???
5月19日はイングランドで共和政が宣言された日です
イングランドではスチュアート朝のジェームズ1世、チャールズ1世の専制を巡って王党派と議会派が対立し内戦が勃発しました
やがて議会派は意見の相違で長老派、独立派、水平派に分裂し、このうち独立派を率いたオリヴァ=クロムウェルが鉄騎隊を率いて1644年にマーストン・ムーアの戦いで国王軍を破ったのは
>>197
で見た通りです
その後クロムウェルは鉄騎隊を中核としてニューモデル軍を編成し、翌年にはネーズビーの戦いで決定的勝利を収めました
その後議会での長老派と独立派の対立が激化し、平等派も人民協約を提出するも受け入れられず、議会の内部対立は深まっていきます
これを見たチャールズはスコットランド軍とともにイングランドに侵攻しましたが、独立派と平等派は一時的に和解し、1648年8月のプレストンの戦いで国王軍を撃退しました
同年12月には議会の長老派が独立派によって追放され、議会は独立派のみで構成される残部議会となります
こうして軍隊・議会を掌握した独立派はチャールズの排除に乗り出し、1649年1月、クロムウェルらが裁判官となってチャールズの処刑を決定します
3月には君主制と貴族院を廃止し、また平等派の指導者を逮捕、平等派兵士の反乱も鎮圧して独裁体制を確立していきました
そして1649年5月19日、正式に共和政が宣言され、1660年に王政復古がなされるまで国王が存在しない時代となるのでした
本日は共和政イングランドの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・岩井淳『ピューリタン革命と複合国家』山川出版社、2010年
606
:
Republica de Venexia
:2015/05/20(水) 00:35:20 ID:???
5月20日はマクデブルクが陥落した日です
三十年戦争の第二段階であるデンマーク戦争は皇帝軍総司令官となったヴァレンシュタインの働きもあり、デンマーク王クリスティアン4世を破り、皇帝側の勝利に終わりました
1629年に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は復旧勅令を発布し、皇帝による絶対主義が成立しようとしていました
これに帝国諸侯は危機感を覚え、
>>503
で見たようにヴァレンシュタインを罷免させます
また北方ではスウェーデン王グスタフ=アドルフが帝国の強大化によってバルト海支配が脅かされると感じ、三十年戦争への介入を決定します
こうして三十年戦争の第三段階のスウェーデン戦争が始まり、ブランデンブルク選帝侯国・ザクセン選帝侯国などが主戦場となります
ここで重要となったのが要衝の都市マクデブルクで、プロテスタント側であったこの都市を皇帝軍が攻撃します
グスタフ=アドルフはマクデブルクを救おうとしますが当時スウェーデン側につく諸侯は少なく、マクデブルクは1631年5月20日に陥落しました
悲劇はその後に訪れました
傭兵主体の皇帝軍は規律が行き届かず、占領したマクデブルクで略奪の限りを尽くしたのです
まさに
>>93
で見たローマ劫掠のような惨劇が展開され、マクデブルクは文字通り壊滅します
この皇帝軍の行為によってそれまで日和見していたブランデンブルク選帝侯やザクセン選帝侯はスウェーデンと同盟を結び、
>>285
のブライテンフェルトの戦いでプロテスタント側に初の勝利がもたらされるのでした
本日は「マクデブルクの惨劇」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
607
:
Republica de Venexia
:2015/05/21(木) 00:49:35 ID:???
5月21日はヤン=ソビエスキがポーランド王となった日です
ポーランドはスウェーデンの侵攻による大洪水時代によって荒廃し、
>>490
で見たように大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムに介入され、プロイセンの宗主権をブランデンブルク選帝侯に譲渡することとなります
このポーランドを立て直そうとしたのがヤン=ソビエスキでした
1674年5月21日にポーランド王ヤン3世として即位したソビエスキは、当初フランスを頼ってポーランドの勢力回復を図ろうとしましたが、フランス王ルイ14はオスマン帝国寄りの姿勢をみせていました
これに失望したソビエスキは神聖ローマ皇帝レオポルト1世に接近し、オスマン帝国と対峙することとなります
そのハイライトが
>>280
で見た第二次ウィーン包囲で、ソビエスキ率いるポーランド騎兵がオスマン帝国軍を撃破したのです
これによってヨーロッパは、
>>298
のスレイマン1世によるウィーン包囲以来約150年にわたるオスマン帝国の脅威から解放され、ソビエスキは一躍英雄となったのです
その後もソビエスキは対オスマン帝国に奮闘しますが、皮肉にもこのトルコ問題への過度な介入がポーランドに不幸な結果をもたらすことになります
ウィーン解放の翌年、ソビエスキはローマ教皇を中心に神聖ローマ帝国、ヴェネツィア共和国と神聖同盟を結成しオスマン帝国に対抗しますが、これがオスマン帝国に対する勝利による利益を分割する結果となったのです
また1686年にはロシアを神聖同盟に引き入れますが、そのためにロシアに対し大きく譲歩したため、後にロシアがポーランドに介入するきっかけを与えることとなりました
やがて1696年にソビエスキは死去し、その後継者をめぐってフランス、オーストリア、ロシアなどヨーロッパ各国が推す国王候補がそれぞれ傀儡として王位をめぐって争う状況となりました
ポーランドは次第に独立国としての地位を失っていき、
>>239
で見たポーランド分割へと至るのでした
本日は「ヤン3世ソビエスキ」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
608
:
Republica de Venexia
:2015/05/22(金) 01:08:14 ID:???
5月22日はグラニコス川の戦いが行われた日です
>>302
で見たように、マケドニア王アレクサンドロス3世は父王フィリッポス2世の遺志を継ぎ、アケメネス朝ペルシアへの遠征を開始します
その大義名分は
>>246
や
>>262
で見たペルシア戦争によってギリシアの国土を踏み荒らし神々を怪我したことへの報復、そして小アジアのギリシア人をアケメネス朝支配から解放することでした
その最初の戦いが前334年5月22日に行われたグラニコス川の戦いで、この戦いでアレクサンドロス率いるマケドニア軍はアケメネス朝の騎兵軍を粉砕します
この時アケメネス朝側にはギリシア人傭兵が残されていましたが、これにもアレクサンドロスは猛攻を加えます
ギリシアのために遠征を起こしたアレクサンドロスですが、その反面アケメネス朝に味方した者に対しては裏切り者として容赦しなかったのです
約5000人のギリシア人傭兵のうち3000人が戦死し、残る2000人は捕虜となってマケドニアでの重労働に従事させられたといいます
ともあれアレクサンドロスはアケメネス朝との最初の会戦に勝利し、アケメネス朝から奪った戦利品をアテネに送ってアクロポリスのアテナ女神に捧げました
この遠征がギリシアのために行っていることを強調したのです
アレクサンドロスはその後主力を失った小アジアのアケメネス朝軍を連破し小アジアを平定、
>>165
で見たバビロンでの急死まで遠征に明け暮れるのでした
本日は東方遠征におけるアレクサンドロス勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年
609
:
落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!
:2015/05/22(金) 04:09:48 ID:???
今日は漫画「DEATH NOTE」で青山に出かけていた夜神月が弥海砂に発見されてしまった日です
一つの出会いがその後を大きく左右させるといういい例ですね
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