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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

410それが世界の選択か…:2015/01/02(金) 02:15:04 ID:???
>>409
再征服とか回帰って意味だから金星人が地球に侵攻するんじゃないスか?(適当)

411Republica de Venexia:2015/01/02(金) 02:26:28 ID:???
>>410
なるほど、異星人との征服再征服の物語なんですね
物語が進むにつれてその意味が明らかになってきそうで、なんだか面白そうです

412Republica de Venexia:2015/01/03(土) 01:02:25 ID:???
1月3日はルターが破門された日です

>>334で見たように、ルターは1517年10月に『九十五箇条の論題』を発表し、これがきっかけとなって宗教改革が始まりました
ローマ=カトリック教会はこれに反論し、1518年8月にローマに出頭するようルターに命令しますが、彼はこれを拒否します

ルターは1520年以降積極的に教会批判の著作を書き、『ローマ教皇論』では現実の教会の権威を否定し、『ドイツのキリスト教貴族に与える書』では君主・貴族がキリスト教を改善するよう主張し、教会のバビロン捕囚について』ではキリスト教会の7つの秘跡のうち洗礼と聖体の秘跡のみを残すよう要求し、『キリスト者の自由』ではキリスト者は自由に福音に近づけるものと訴えました

これに対しローマ教皇レオ10世は当然反発し、1521年1月3日、ルターを破門します
次いで神聖ローマ皇帝カール5世も4月にルターをヴォルムス帝国議会に召喚し、彼に自説の撤回を求めますが、結果的にルター派の弾圧を決定することとなりました
しかしルターは>>380でも登場したザクセン公フリードリヒ賢公の拠城ヴァルトブルク城に匿われ、ここで新約聖書のドイツ語訳を行うなど、宗教改革を進めていくのでした


本日はルターへの破門宣告日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年

413Republica de Venexia:2015/01/04(日) 00:45:30 ID:???
1月4日は露仏同盟が結ばれた日です

>>325で見たように、ドイツ帝国宰相ビスマルクは巧みな外交戦略を駆使してフランスの孤立化を図り、ビスマルク体制と呼ばれる国際体制を作り上げました
しかし1873年にドイツ・オーストリア・ロシア間で締結された三帝同盟は、バルカン半島を巡るオーストリア・ロシアの対立で揺らぎ、81年に新三帝同盟として復活するものの87年には更新されず、崩壊してしまいます

これに対しビスマルクはロシアと再保障条約を結んでロシアとの関係を維持し、フランスへの接近を防ぎました
オーストリアとはイタリアとともに三国同盟を形成し、こちらとの関係も保つことに成功します
しかし88年にドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世はビスマルクとは異なる外交方針を打ち出したのです
そのため2人は対立し、90年にはビスマルクが更迭されヴィルヘルムによる親政が開始されます
ヴィルヘルムはロシアよりもオーストリアとの関係を重視し、オーストリアと対立するロシアとの再保障条約更新を拒否、さらに同じくロシアと対立するイギリスへの接近を試みたのです

これはロシア・フランス双方にとって僥倖でした
ロシアはドイツに代わる新たな同盟国を欲し、またシベリア鉄道建設など国内の近代化促進のため外国資本導入が必要だったのです
一方フランスもビスマルク体制による孤立状態からの脱却するため、ロシアと結ぶことは渡りに船といえるものでした
その結果1894年1月4日、露仏同盟が成立し両国の関係が強化され、後の英仏露三国協商へと発展していくのでした


本日は露仏同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

414Republica de Venexia:2015/01/05(月) 00:08:36 ID:???
1月5日はナンシーの戦いが行われた日です

>>278で見たように、ブルゴーニュ公国はフィリップ善良公の下で最盛期を迎え、フランス王権に匹敵するほどの勢力を誇るようになります
公領には最高裁判所も設置され、そこでの決定はフランス王権でさえ干渉を受けなかったのです
1467年にフィリップ善良公の後を継いだシャルル突進公は、そのあだ名が示すように勇猛果敢な人物で、ブルゴーニュ公国のさらなる拡大を目指します
当時のブルゴーニュ公国はディジョンを中心とするブルゴーニュ地方とブリュッセルを中心とするフランドル地方に大きく分かれ、それらを統合しようと目論んだのです

しかしこのシャルルの征服活動に対し、その対象となった領主たちは当然反発し、低地連合を結成してシャルルに対抗します
また
>>278で見た通り神聖ローマ帝国諸侯でもあったシャルルは皇帝フリードリヒ3世に「ローマ人の王」の称号を要求するなど皇帝に挑戦するような行為も行い、帝国諸侯から一定の支持を得たものの、フリードリヒはこれを黙殺し、逆に低地連合に加わってコンスタンス連合を結成、シャルルに対抗しました
シャルルは各方面に敵を抱え、戦争は泥沼化していきます

一方、フランスはといえば、百年戦争を終結させたシャルル7世の下で中央集権化が進んでおり、彼の後を継いで1461年に即位したルイ11世はその事業をさらに発展させます
そして王権拡大のためには大諸侯の存在は邪魔そのものであり、特にフランス王権を脅かしていたブルゴーニュ公は真っ先に排除したい存在でありました
ルイはブルゴーニュ公シャルルに対抗する勢力を煽動し、同盟を結び、巧みにシャルルと渡り合いました
一時はシャルルによって捕虜となったものの、その際に結ばされた条約も三部会を味方につけてあっさり破棄し、シャルルは孤立していくのです

ルイはさらにスイス諸州と同盟を結び、スイス傭兵を引き入れることに成功します
当時強力無比な軍隊として恐れられていたスイス傭兵隊はシャルルの軍を度々破り、シャルルは追い詰められていきました
そして1477年1月5日、シャルルはロレーヌ公レネ・スイス傭兵隊の連合軍とナンシーをめぐって激突しますがこれに大敗し戦死してしまいます
これによりブルゴーニュ公国は崩壊、ルイ11世はこれを見てブルゴーニュ公国の併合に乗り出し、後にアラスの和約でブルゴーニュはフランス王領となるのでした


本日はブルゴーニュ公国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・佐藤賢一『フランス王朝史2ヴァロワ朝』講談社、2014年

415Republica de Venexia:2015/01/06(火) 00:29:34 ID:???
1月5日はベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝に戴冠した日です

>>332で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の死後、シチリアでは騒乱が起こりホーエンシュタウフェン朝が断絶したことを見ました
ドイツでも同様の混乱が起こり、コンラート4世の死によりこちらでもホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、その対立王ホラント伯ヴィルヘルムも死去し、帝国に大空位時代が到来しました
1257年に始まるこの時代は、1273年の選挙でハプスブルク伯ルドルフがドイツ王に即位したことによりひとまず終結します

しかしその後も王位は安定せず、様々な家系から次々と選出され、対立王も出現することになり、跳躍選挙時代とも呼ばれました
そのような状況で単独王となったルートヴィヒ4世に対し、ローマ教皇ヨハネス22世は彼の即位の非合法性を主張し国王選挙のやり直しを要求しました
これに対し選帝侯たちは反発し、国王選挙法を発布します
その内容は国王選出は選帝侯によるものとし、教皇の同意を必要としないというものでした

このような状況で1355年1月5日、皇帝に即位したのが>>95でも登場したカール4世でした
カールは先の国王選挙法を強化した金印勅書を発布します
まず国王選出議会に際しては選帝侯の過半数の賛成で全会一致と見なされ、国王選挙が安定するようになりました
また選出された国王は自動的に皇帝になるものとされ、この選挙だけで皇帝が決定する仕組みが整えられました
そして選帝侯に大幅な特権が認められ、いわゆる領邦君主としての側面が強くなることになりました
カールは強大化する諸侯を抑えつけるのではなく、譲歩することでその見返りに皇帝即位を認めさせ、皇帝位の安定化を図ったのでした
このようにカールの時代に皇帝権は大きく変化し、神聖ローマ帝国は新たな展開を迎えることとなったのでした


本日は神聖ローマ皇帝カール4世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

416Republica de Venexia:2015/01/07(水) 00:07:32 ID:???
1月7日はフランスがカレーを奪還した日です

>>388で見たように、フランスのアンジュー伯であったアンリがイングランド王となったことで、フランスに広大な領土を持ったアンジュー帝国が成立することとなります
一方、当時のフランス王朝はカペー朝、>>151で見た通り当初は弱体でしたが次第に王権拡大が進み、アンジュー帝国の領土を併合をする機会を伺っていました
12世紀後半のフィリップ尊厳王の時代になると、>>229で見たようにイングランド王ジョンからイングランド大陸領の多くを奪ったのです

14世紀から始まった百年戦争ではイングランド大陸領はほぼ全てが失われ、わずかに>>237で獲得したカレーが残るのみでした
そしてカレーがフランスに渡る契機となったのがイタリア戦争です
イタリア戦争は>>93で見たように、イタリアをめぐるフランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世との対立で始まった戦争でした

イタリア戦争におけるイングランド・フランス関係は、スペインとの関わりが大きなものとなります
オーストリアとスペインのハプスブルク領を統合していたカール5世ですが、その相続に際しスペインは長子フェリペに譲り、フェリペ2世として即位しました
そしてフェリペは父の遺志を受け継ぎ、フランスとの戦いを継続するのです
このフェリペがイングランド女王メアリと結婚し、イングランドとスペインが同盟関係になったのは>>354で見た通りです
イングランドはこの同盟関係により1557年6月、スペインと敵対しているフランスに宣戦しました

ところがこの対フランス戦争、イングランドにとってほぼ益の無いものとなってしまいます
フランスはギーズ公フランソワが南イタリアでスペイン軍に連勝しており、その間にスペイン側のサヴォイア公エマヌエーレ=フィリベールによって1557年8月、王都パリに程近いサン=カンタンを奪われましたが、急ぎ北上してきたギーズ公がサヴォイア公を撤退させました
ギーズ公は北方の障害を取り除くため、そのまま北上しイングランド領のカレーを包囲します
そして1558年1月7日、ギーズ公フランソワによってカレーは陥落し、百年戦争で失ってから約200年ぶりにフランス領に復帰することとなったのでした


本日はイングランド領カレーの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

417Republica de Venexia:2015/01/08(木) 00:12:57 ID:???
1月8日はインノケンティウス3世がローマ教皇に即位した日です

>>294で聖職叙任権闘争がひとまずの終息をみて以降、教皇権は皇帝権に対してやや劣勢が続いていました
というのも、神聖ローマ皇帝となったホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ=バルバロッサが皇帝権からの独立を図り、「神聖帝国」という名称を用いるなど、皇帝がキリスト教世界を支配するという姿勢を前面に出していたからでした
バルバロッサは第3回十字軍で急死するものの、その後を継いだハインリヒ6世がその政策を受け継ぎ、強力な皇帝権を打ち立てようとしたのは>>395で見た通りです

ところがこのハインリヒも急死し、後に残されたのはわずか2歳のフリードリヒ2世でした
1198年1月8日、ローマ教皇インノケンティウス3世が即位したのはこのような状況においてでした
インノケンティウスはその在位中、教皇権の新たな方向づけを行います
彼はローマ教会の書記局を再編成、優秀な教会法学者をブレーンとして教皇権による集権的な統治を実現します
西欧世界に対しても、混乱が続く神聖ローマ帝国を尻目に教皇の至高権に基づく支配を進め、各地の教会に対し教皇君主政と称される支配体制を確立させたのです

インノケンティウスはその在位中、フランス王フィリップ尊厳王やイングランド王ジョン欠地王に対抗し、特にジョンに対して破門を行い、赦免の引き換えにイングランドを封土として差し出させるなどの強権を発揮しました
また12世紀において皇帝が主導していた十字軍ですが、インノケンティウスは教皇の名の下で第4回十字軍を実現させ、異端のカタリ派に対するアルビジョワ十字軍も行いました
そんなインノケンティウスのハイライトは1215年に開かれた第4回ラテラノ公会議で、彼は一千人以上の司教、修道院長などの聖職者、その他俗人の代表者の前で「教皇は太陽、皇帝は月」という演説を行い、教皇権の絶対性を示したのでした


本日は教皇権絶頂期の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・堀越孝一編『新書ヨーロッパ史 中世篇』講談社、2003年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

418名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/08(木) 02:01:19 ID:zP0.YDBk
分裂するわ俗権と張り合うわ十字軍やるわイタリア統一で不利益被るわ

これら乗り越えて未だ存在し続けるから教皇ってすげーわ
やっぱカール大帝への戴冠って英断だったんだな

419Republica de Venexia:2015/01/08(木) 10:08:38 ID:???
教皇にとってはしてやったりの出来事ですよね、カールの戴冠
コンスタンティヌスの寄進状をでっちあげて教皇権を正当化したりと、本当に強かに渡り合ってきた印象があります

420名前なんか必要ねぇんだよ!qwerty2014:2015/01/08(木) 11:39:19 ID:???
趣味系スレの数少ない生き残りですね

421名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/08(木) 12:03:28 ID:nc4ELsTQ
こんな良スレがあったとは
読みますよ〜読む読む

422Republica de Venexia:2015/01/09(金) 01:41:03 ID:???
1月9日は靖康の変が起こった日です

>>249で見たように、唐では玄宗末期からその支配に揺らぎが生じ、安史の乱はウイグルの援軍などもあって鎮圧したものの、支配領域は縮小しウイグルや吐蕃の圧迫を受けることとなります
こうして9世紀のユーラシアの東部は唐、ウイグル、吐蕃の三国鼎立となりましたが、やがてウイグル・吐蕃が滅び唐も大規模な反乱にあって滅亡します

この三国滅亡後の空白地帯は、北方ではトルコ系、モンゴル系の諸民族が興亡し、南方でも漢民族を中心に王朝が興亡する五代十国時代となります
この混乱を収め、960年に南北統一を果たしたのが宋でした
宋は貴族や武人勢力を排除し、官僚制度を整備して皇帝専制体制を強化し、周辺異民族に対しては遼と西夏に歳賜を送って平和を得るするなど、それまでの朝貢・冊封とは異なった関係が生まれました

しかし大規模な官僚制の維持や周辺異民族に対する防衛費などに莫大な費用がかかったため、宋は次第に財政難に陥っていきます
そのため新法による改革が試みられましたが反対派の抵抗も強く、国内は分裂することとなります
対外関係に関しても新興の金と結んで遼を滅ぼしたものの、その後は約定の歳賜を払わず遼の残党と結んで金の弱体化を図るなどしたため、逆に金の攻撃を受けることになります
そして1127年1月9日、宋の都開封は金によって陥落、皇帝の欽宗と先帝の徽宗が金に連行されるという靖康の変が発生、宗は華北を奪われ南方へと逃れることとなるのです

ここまでの8〜12世紀を通じて中国では大きな変化が起こっていました
中華帝国の支配領域は中国本土を越えた領域から中国本土へと縮小し、遊牧民の支配地域は中国とはほぼ切り離されることになります
経済の中心も南方に移行し、政治を担う勢力は貴族から官僚へと移るなど、「唐宗変革」と称される大きな変革期となったのでした


本日は北宋の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・中島敏・周藤吉之『五代と宋の興亡』講談社、2004年
・小島毅『全集中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』講談社、2005年

423Republica de Venexia:2015/01/10(土) 01:19:24 ID:???
1月10日はカエサルがルビコン川を渡った日です

ローマではグラックス兄弟の改革のが失敗に終った後、民会を中心とする民衆派と、元老院を中心とする閥族派の対立が激化し、「内乱の一世紀」と呼ばれる時代に突入しました
まず民衆派のマリウスが軍制改革を行いローマの軍事力向上を達成しますが、皮肉にもその軍制改革により勢力を拡大した閥族派のスッラによってマリウス派は一掃され、元老院が復権されます

しかし保守的な支配を続ける元老院に対する不満が高まり、前60年には民衆派のカエサル、閥族派のポンペイウス、大富豪貴族のクラッススによる三頭政治が成立します
このうちカエサルはガリア、ポンペイウスはヒスパニア、クラッススがシリアへの軍事遠征を受け持ち、特にカエサルはガリア遠征の成功によりローマ市民の間での人気が高まっていきました

このカエサルの活躍にポンペイウスは危機感を覚え、それにつけ込んだ元老院はポンペイウスを懐柔、反カエサル派へと転向させます
また前53年にクラッススがパルティアとの戦いで戦死したことで三頭政治の均衡が崩れ、カエサルとポンペイウスの対立は激化することとなります
この間カエサルはガリア統治のためずっとローマ不在でしたが、ポンペイウスが元老院によって異例の単独執政官に就任すると2人の対立は決定的となり、カエサルはローマ帰還を決断します

当時、ルビコン川はガリア属州の南の境界であり、そこを越えればローマ領内でした
その境界線を武装解除せずに渡ることはすにわち国家反逆罪にあたるにも関わらず、カエサルは前49年1月10日、あの有名な言葉とともにルビコン川を渡り、ローマへと進撃するのでした


本日は「賽は投げられた」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

424Republica de Venexia:2015/01/11(日) 01:10:09 ID:???
1月11日は洪秀全が清に反乱を起こした日です

イギリスと戦ったアヘン戦争後の清では上海をはしめとする5港か開港され、それまで清の貿易を担当していた公行が廃止されたことで自由貿易が導入されました
イギリスは香港などを獲得し、さらに清の関税自主権を喪失させるなどの不平等条約を締結します
このような不平等条約はアメリカ、フランスとも結ばれ、清は貿易の自由化を認めさせられることとなります

その結果清では銀が流出したことで国内における銀の価格が高騰し、納税の際に銀によって支払わなければならない民衆は生活を圧迫されることになりました
このため民衆の清に対する不満が高まり、キリスト教の影響を受けて拝上帝会を組織し、土地の配分などを主張した洪秀全が民衆のなかで勢力を拡大していきます
そして1851年1月11日、洪秀全は広西省金田村で挙兵し、「滅満興漢」を掲げて清打倒の反乱を開始します
やがて反乱は>>4で見たように南京を制圧するなど大規模な運動へと発展し、清の国家体制に大きな影響を与えることとなったのでした


本日は太平天国の乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『太平天国にみる異文化受容』山川出版社、2003年
・井上裕正・並木頼寿『世界の歴史19 中華帝国の危機』中央公論新社、2008年

425Republica de Venexia:2015/01/12(月) 00:51:53 ID:???
1月12日は隋が陳を滅ぼした日です(旧暦)

280年、三国の呉を滅ぼして晋が中国を統一しましたが、初代皇帝司馬炎の死後八王の乱が起こるなど混乱し、五胡十六国が興亡する時代となりました
この五胡というのは、この時代中央ユーラシアから中華世界に進出してきた遊牧民で、そのうちの鮮卑は拓跋部に率いられ5世紀に華北を統一し北魏を建国します
その後も華北では鮮卑系の王朝が興亡し、これが北朝と呼ばれます

一方で華中・華南は漢人系の王朝が南方の諸民族とつながり、長江下流域の開発が進むことになりました
その過程で南海貿易も発展し、東南アジアやインド洋海域との新たな関係が生み出されていきます
こうして中国は北朝と南朝とに分裂した南北朝時代となりましたが、このうち北朝から出てきたのが隋でした

北朝では北魏が東魏と西魏に分裂し、このうち西魏に代わって成立した北周が東魏に代わった北斉を滅ぼし、その北周の外戚として権力を握った楊堅が581年に隋を建国したのです
そして589年1月12日、隋は南朝の陳を滅ぼし、晋以来の中国統一を達成します
その後隋は秦漢帝国とは異なる新たな帝国の形成を目指し、>>422で少し触れたように、中華世界を超えた広大な支配領域の実現を図っていくのでした


本日は隋による中華世界統一の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年

426名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/12(月) 14:30:05 ID:c/vecSYU
煬帝「運河作るで!!」
唐「煬帝 無能 暴君 唐沢」

なお中華の国力が増大した模様

427Republica de Venexia:2015/01/12(月) 19:54:21 ID:???
後々の発展を考えると、大運河が造られたこと自体は大きな功績ですよね
性急に過ぎた感はあるとはいえ

428Republica de Venexia:2015/01/13(火) 00:47:08 ID:???
1月13日はニカの乱が起こった日です

>>100でコンスタンティヌス1世がビザンティオンを改修しローマ帝国の都に定めたコンスタンティノープルは、皇帝の直轄地となったことでそれまでの都市自治が失われました
しかし自治の精神が完全に失われたわけではなく、その伝統は脈々と受け継がれていきます
テオドシウス2世によって建設された大城壁にも都市参事会が建造や維持の責任を持ち、帝都防衛の際にも市民が軍団を編成して参加していたのです
そしてこのような都市自治を行う際の単位となったのがデーモスという集団でした

デーモスはコンスタンティノープルで行われる戦車競争の応援団やファンからなる市民集団であり、このデーモスは都市政治にも大きな役割を果たしていました
>>235で登場した皇帝ユスティニアヌス1世は市民の人気を得るためデーモスに支援を行い、即位式の際にもデーモスの歓呼によって迎えられたのです
またデーモスは皇帝の政治にも関わりをもっていました
競馬場は皇帝と市民が直接対面する場であり、そこで皇帝に対し政治的な請願や抗議が行われ、デーモスが音頭をとってそれを先導したのです
これが反乱にまで発展したのがニカの乱でした

ユスティニアヌスは>>235で見たようにかつてのローマ帝国の再建を目指し、大規模な征服戦争の準備を進めていましたが、そのためにコンスタンティノープル市民の間では不満が募り、またユスティニアヌスの方針に反発する元老院議員もデーモスを煽動していたのです
532年1月13日、競馬場ではデーモスが主導してユスティニアヌスの政策に対し抗議が繰り返され、やがて市民は「ニカ!(勝利せよ)」と叫び暴動を起こし、これがコンスタンティノープル全体に広がっていきます
ユスティニアヌスは暴動を収拾しようとするものの市民の怒りは収まらず、前々帝の甥ヒュパティウスを擁立し皇帝歓呼を行う有様となりました
ユスティニアヌスはここに至りコンスタンティノープルからの逃亡を図りますが、これは皇后テオドラによって制止され、また将軍ベリサリウスの献策により競馬場への軍団突入を決意します
18日、ベリサリウスは軍を率いて競馬場に集まっていた約30,000人の市民を虐殺し暴動を鎮圧しました
ユスティニアヌスはその治世で最大のピンチを脱し、ローマ帝国復活を目指して地中海世界への征服戦争を開始するのでした


本日はビザンツ帝国最大の市民反乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波書店、1985年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

429Republica de Venexia:2015/01/14(水) 00:45:54 ID:???
1月14日はマドリード条約が結ばれた日です

この条約の当事者、神聖ローマ皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の対立は、>>40のシチリアの晩鐘に遡ります
ホーエンシュタウフェン朝が断絶したシチリアを一旦はシャルル=ダンジューが支配するものの、アラゴン王国によって奪われたこの事件以降、フランスとスペインとの対立関係が形成され、これ>>346で見たフランス王シャルル8世のナポリ侵攻によりさらに激化することとなりました

一方スペインはというと、アラゴン王フェルナンドが娘フアナを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップと結婚させて同盟関係となり、南北からフランスを包囲することに成功します
そしてこのフェルナンド、マクシミリアン双方の孫となり、その政策を継承することとなったのが、後の神聖ローマ皇帝カール5世だったのです

1519年、マクシミリアン1世が亡くなりカールが皇帝候補となると、フランス王フランソワ1世は危機感を覚えます
というのも、カールはすでにスペイン王カルロス1世となっており、さらに皇帝に即位するとなればスペイン・ドイツ・イタリアの連合国家が成立し、フランスは完全に包囲される形となるからでした
これを阻止するためフランソワはなんと皇帝選挙に出馬しますが、票を得られずあえなく惨敗、カールが皇帝へと即位します

フランソワは次の手として、休戦状態であったイタリア戦争を再開させます
1521年に始まったこの戦争は、カールがスペイン・イタリア・ブルゴーニュの各方面から攻勢をかけたことでフランスは劣勢に陥り、フランソワは一旦はミラノを攻略したものの1525年12月にパヴィアの戦いで大敗し捕虜となってしまいます
ここで休戦条約として結ばれたのが、1526年1月14日のマドリード条約でした
フランソワは捕虜からの解放と引き換えにイタリアやブルゴーニュなどの宗主権を放棄することを余儀なくされたのです
こうしてカールとの争いに敗れたフランソワですが、>>298で見たようにオスマン帝国のスレイマン1世と結び、再びカールに対抗するのでした


本日はイタリア戦争の一時的休戦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

430Republica de Venexia:2015/01/15(木) 00:58:49 ID:???
1月15日は日本がロンドン海軍軍縮条約から脱退した日です

>>77で見たように、1922年のワシントン海軍軍縮条約で主力艦の制限を受けた日本は、巡洋艦や航空母艦、駆逐艦など補助戦力の充実を図り、>>396の「鳳翔」や戦艦から改装した「赤城」などの空母が建造され、巡洋艦では古鷹型や妙高型などの条約型巡洋艦が誕生し、特に従来の駆逐艦の常識を覆す「吹雪」をはじめとする特型駆逐艦の登場は世界に脅威を与え、1930年にロンドン海軍軍縮条約で補助艦にも制限が加えられたのです

日本はこのような状況で、>>385見たように徹底的に個艦性能の追求に努め、条約の制限下で極限まで重武装化することに心血を注ぎました
その結果初春型駆逐艦や空母「龍驤」など、小さい船体に巨大な上部構造物と重武装を備えた、高い戦闘能力を誇る艦艇が次々と建造されていくのです
しかしこれらの艦艇は兵装過多により復元力不足が深刻な問題となり、これは1934年の友鶴事件で露呈します
事件後多くの艦艇が全面的な再設計を余儀なくされ、「龍驤」は大幅な兵装削減を行い、特III型駆逐艦や初春型駆逐艦は上部構造物縮小などの改善工事が施されました

さらに翌年には第四艦隊事件も発生し、船体の強度不足や溶接の不備が明らかになるなど、再び艦艇の再設計に迫られることとなります
このような状況下でも「蒼龍」「飛龍」などの空母、高雄型重巡洋艦、重巡の制限を避けるため当初は軽巡洋艦として開発された最上型・利根型、駆逐艦では白露型・朝潮型などが条約下で建造されていきましたがそれも限界となり、海軍内における不満は高まっていきました

そして1936年1月15日、日本はロンドン海軍軍縮条約からの脱退を宣言することになるのです
条約による制限から開放された日本は翔鶴型航空母艦や陽炎型・夕雲型などの傑作艦の開発を始め、>>385の史上最大の戦艦「大和」も建造が進められていくのでした


本日は無条約時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「歴史群像シリーズ 決定版太平洋戦争1 『日米衝突』への半世紀」学習研究社、2008年
・「丸1月別冊 連合艦隊艦艇入門」光人社、2014年
・「世界の艦船No.803 連合艦隊 太平洋戦争を振り返って」海人社、2014年

431Republica de Venexia:2015/01/16(金) 00:51:12 ID:???
1月16日はオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を贈られた日です

>>268で見たように、オクタウィアヌスはアントニウスを討伐してプトレマイオス朝も滅ぼし、内乱の一世紀を終結させ地中海世界の統一を果たしました
オクタウィアヌスはエジプトを平定した後前29年にローマに帰還し、市民によって歓呼をもって迎えられ、大規模な凱旋式も挙行されました
オクタウィアヌスは全ての敵を排除したことで実質的に独裁権力を手中に収めたものの、カエサルの二の舞いを避けるため独裁を避け、あくまでも共和政の復興を前面に押し出しつつ、権力を固めていきます

前27年1月13日、オクタウィアヌスは元老院会議にて戦争中の非常時特権を全て元老院とローマ市民に返還し、共和政を復活させることを宣言します
しかし放棄したのはあくまで非常時特権であり、執政官職にはそのまま就いており、終身職であった大神祇官の役職も保持していたのです
またオクタウィアヌスは元老院からローマの全軍団に対する最高指揮権を与えられ、「インペラトル」となります
元老院はオクタウィアヌスに対し引き続き執政官となることを要請し、護民官職権も与えます

そして同年1月16日、元老院はオクタウィアヌスに尊厳ある者を意味する「アウグストゥス」の称号を与え、実質的に君主の地位を認めることになります
当のオクタウィアヌスはあくまでも市民の第一人者であることを強調し、そのために彼の統治はプリンキパトゥス(元首政)と称されることになりますが、この時点でオクタウィアヌスはほぼ皇帝権力を手にし、ローマにとっての初代皇帝が生まれることとなったのでした


本日はローマ帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

432Republica de Venexia:2015/01/17(土) 01:35:32 ID:???
1月17日は三木城が陥落した日です(旧暦)

三木城城主別所安治は1568年、織田信長の播磨侵攻に際しこれに従い、以後別所氏は信長によって畳用されることになります
しかし中国地方の毛利が播磨へと勢力を伸ばしてくると、別所家中は次第に分裂していきます
というのも、安治の死により家督を継いだ長治はまだ若く、2人の重臣別所重棟と別所吉親が補佐していましたが、このうち重棟が織田方、吉親が毛利方として争っていたからでした
長治は当時の情勢から毛利へと接近し、さらに足利義昭による離反工作もあり、ついに1578年2月、信長から離反することを決断します

信長は羽柴秀吉に別所討伐を命じ、秀吉は約5,000の兵を率い、三木城北東の平井山に陣を置きました
しかし三木城は前方に美嚢川、後方には丘陵を擁し、周囲を崖に囲まれた台地に位置する天然の要害であり、容易に陥とせる城ではありませんでした
そこで秀吉は三木城の支城から攻め落とす作戦を採り野口城を陥としますが、ここで毛利の援軍が播磨に到着します
毛利は上月城を攻略し、秀吉は結果的にこれを見殺しにすることとなりましたが、毛利はそれ以上東進はせず、秀吉は三木城攻略に専念するようになりました

秀吉は三木城の周囲に付城を築いて長期戦の構えを整え、三木城の兵糧攻めに取り掛かります
いわゆる「三木城の干殺し」です
三木城からは兵糧攻めを阻止するため平井山の秀吉本陣に攻撃をかけますが、秀吉はこれを撃退します
同時期には荒木村重が信長から離反し、姫路の小寺政職も毛利に寝返りましたが、平井山合戦での敗北はこれらを活かす好機を失うこととなったのです
やがて備前の宇喜多直家が織田方となり、毛利の三木城への援軍も撃退されたことで三木城の劣勢は決定的となり、兵糧が枯渇していきます
1580年1月6日には三木城の最高地に位置する宮丿上砦を、11日には吉親が守る鷹尾山城も攻略し、長期にわたる兵糧攻めにより疲弊していた三木城は支え切れませんでした
ついに三木城主別所長治は降伏を申し出、1月17日、長治の切腹とともに三木城は開城、「三木城の干殺し」は幕を下ろしたのでした


本日は戦国大名別所氏の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・「歴史人 2013年5月号 戦国 城の合戦の真実」KKベストセラーズ、2013年
・「歴史人 2013年12月号 敗者の戦国史」KKベストセラーズ、2013年
・小和田哲男『戦国の城』学研パブリッシング、2013年

433Republica de Venexia:2015/01/18(日) 00:57:18 ID:???
1月18日はフリードリヒ1世、ヴィルヘルム1世が戴冠式を行った日です

>>327で見たように、「大選帝侯」と呼ばれたブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは三十年戦争以降独自の道を歩み、スウェーデンとポーランドがバルト海の覇権を巡って争った北方戦争にも関与しました
この際、大選帝侯は軍事力の提供に反対する領邦等族を押し切り、戦争終結後も動員した軍隊を常備化しようとします
当然これに対し領邦等族は猛反発しますが、大選帝侯はこれに打ち勝ち君主権の大幅な強化に成功、プロイセン絶対王政の基礎を築いたのです
この大選帝侯の後を継いだのがフリードリヒ3世で、彼は>>107でハプスブルク家を支援し、その見返りとして神聖ローマ皇帝レオポルト1世から王号を名乗ることを許されました
そして1701年1月18日に戴冠式が行われ、フリードリヒ3世は「プロイセンの王」となり、フリードリヒ1世として即位したのでした


またここから時代は下り、>>221の普仏戦争においても新たな君主が誕生します
セダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となった後も、パリで樹立された国防政府の抵抗や、ドイツ側によるアルザス・ロレーヌの併合要求などもあって戦争は継続され、翌1871年にパリで休戦条約が結ばれました
この間にプロイセンは南ドイツ諸国とのドイツ統一に関する交渉が進められ、北ドイツ連邦を拡大する形での連邦国家の形成でまとまります
そして1871年1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿にて戴冠式を行い、「ドイッチャー・カイザー(ドイツ皇帝)」という称号で初代皇帝に即位したのでした


本日はプロイセン王国、ドイツ帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

434Republica de Venexia:2015/01/19(月) 00:59:42 ID:???
1月19日は咸臨丸が浦賀から出港した日です

1858年、江戸幕府の大老井伊直弼はアメリカ合衆国との間での日米修好通商条約を締結し、ハリスとともにポーハタン号上で条約に調印します
その際に条約批准書の交換はアメリカのワシントンで行うことが取り決められたため、幕府はアメリカへ使節団を派遣することになります
この万延元年遣米使節団の旗艦となったのが先のポーハタン号でしたが、その別船として選ばれたのが咸臨丸でした

咸臨丸は幕府がオランダに製造を依頼した軍艦で、1857年に完成した後日本に届けられ、以後は長崎海軍伝習所において幕府の練習艦となっていました
万延元年遣米使節団としての咸臨丸には、名目上の艦長として勝海舟、提督として木村芥舟が乗船し、福澤諭吉やジョン万次郎も乗組員として加わっていました
1860年1月19日に浦賀を出港した咸臨丸は約一ヶ月半の航海の末サンフランシスコに入港し、そこでワシントンへ向かう使節団の正使と別れ、5月5日に浦賀へと帰還します
こうして咸臨丸は太平洋の往復に成功たことになりますが、これは幕府の船としては初の快挙でした


本日は咸臨丸太平洋往復航海の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・宮永孝『万延元年の遣米使節団』講談社、2005年
・小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』中央公論新社、2006年
・井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末改革』講談社、2009年

435名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/19(月) 22:06:28 ID:O4ZrtfwA
勝海舟など旧幕臣の方々が反骨心からか新政府に与しないなか、朝敵のはずなのに逓信大臣など重臣を勤め続けた榎本武揚さん

安部公房『榎本武揚』は是非ともお読みください。
冷徹な政治家榎本武揚を面白く描いてます

436Republica de Venexia:2015/01/19(月) 22:26:19 ID:???
>>435
おすすめの本ありがとうございます!
日本史、なかでも古代や幕末には疎くて...面白く幕末の人物を知れそうでいいですね

437名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/19(月) 22:30:21 ID:.fXzr9G6
小西先生の開国と攘夷は手堅くバランスが取れてて読みやすいですね

438Republica de Venexia:2015/01/19(月) 22:37:34 ID:???
>>437
中公文庫の歴史シリーズは読みやすくて重宝してます
世界の歴史の方は読む機会が多いですが、日本史の方も良さそうですねー

439Republica de Venexia:2015/01/20(火) 00:10:31 ID:???
1月20日はシモン=ド=モンフォールが議会を招集した日です

>>172で見たようにイングランド王ジョンの代にマグナ=カルタが制定され、王権は制限されることとなりました
しかしジョンはやがてマグナ=カルタの無効を宣言したため諸侯は反発し、イングランドでは内乱が勃発します
この内乱の最中にジョンは急死し9歳のヘンリ3世が即位、ヘンリの摂政ペンブルック伯ウィリアム=マーシャルは宥和政策を採り、マグナ=カルタが再確認されたため内乱は終結しました

しかしマーシャルの死後、ヘンリはガスコーニュやポワトゥーへの遠征のための軍資金徴収などのためにマグナ=カルタを無視し、行政長官ヒューバート=ド=バーグも王権の利益を優先した統治を支持しました
これはピータ=デ=ロッシによる改革で是正されましたが、ヘンリが親政を開始したことでロッシは失脚します

親政開始後のヘンリはフランス人貴族を重用し、1242年と1253年には南フランスへの遠征を行うなど、大陸政策を重視していきます
南フランス遠征が失敗に終わった後も、>>332で見たマンフレーディと対立するローマ教皇に協力し、対立王として次子エドマンドを擁立しマンフレーディに対する十字軍への参加を表明、さらには弟のコーンウォール伯リチャードを神聖ローマ皇帝に擁立するなど、大陸政策はますます強化されていきました

この大陸政策にレスター伯シモン=ド=モンフォールを中心とするイングランド諸侯は反発し、1258年にヘンリが十字軍費用徴収のための諸侯会議を招集した際にヘンリを非難、国政改革を要求するとヘンリはこれに同意、オクスフォード条款が成立し翌年のウェストミンスター条款によって王権の制限が進みました
しかし教皇の支援もあって1261年にヘンリが勢力を回復するとシモン=ド=モンフォールは一時失脚、1263年に反国王派を糾合して再び改革を主張します
このような改革をヘンリは断固拒否し両派による武力衝突に発展、リュイスの戦いでヘンリは捕虜となりました
そして1265年1月20日、シモン=ド=モンフォールはイングランド各州の領主や市民の代表からなる議会を招集したのです
この後シモン=ド=モンフォールは戦死しヘンリが王権を回復しますが、この議会はイングランドにおける議会制度の起源とされ、受け継がれていくことになるのでした


本日はイングランド議会の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・城戸毅『マグナ・カルタの世紀 中世イギリスの政治と国制1199-1307』東京大学出版会、1980年
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

440Republica de Venexia:2015/01/21(水) 00:36:52 ID:???
1月21日はフランス王シャルル5世が生誕した日です

フランス王ジャン2世の息子として産まれたシャルルは、フランス王位継承者が名乗るドーファンという称号を最初に与えられ、王太子として育てられました
1356年には>>287で見たようにジャン2世がイングランドの捕虜となったことで、シャルルは摂政としてフランスの統治を行うことになります
ジャックリーの乱、エティエンヌ=マルセルの乱に苦しめられながらもこれを鎮圧したシャルルは、フランスの財政改革に乗り出しました

ジャン2世が捕虜となったことでイングランドはシャルルに対し莫大な身代金を要求していましたが、シャルルはこれを利用し、恒常的な徴税制度の整備を図りました
というのも、当時のフランスの慣習では王が捕虜となった場合に臨時課税することが認められており、シャルルは三部会でこれを主張し税金の徴収を可能としたのです
また当時のフランスは王家の財政難により解雇された傭兵が跋扈しており、民衆の生活を脅かしていました
シャルルはこの傭兵を追い払う、諸地方の防衛という名目での徴税にも成功し、この他にも様々な名目が駆使され、次第に定期的な徴税制度が整えられていきます

こうしてシャルルが整えた諸税は後にタイユ(人頭税)、エード(消費税)、ガベル(塩税)と呼ばれるようになり、フランス革命まで続けられることになります
またシャルルは恒常的な収入を得たことで常備軍・官僚も保持するようになり、後の絶対王政の基礎固めをすることにもなったのでした


本日は「賢明王」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

441Republica de Venexia:2015/01/22(木) 01:06:31 ID:???
1月22日はスイス傭兵がローマ教皇庁に着任した日です

13世紀、スイス南部のゴットハルト峠が通行可能となると、スイスは南北ヨーロッパを結ぶ要衝の地となり、一躍各国の注目を浴びることとなります
そこでスイス出身のハプスブルク家はこの地を掌握しようとしますが、スイスの人々はこれに頑強に抵抗、スイス誓約同盟を結び、1315年のモルガルテンの戦いでハプスブルク軍の撃退に成功します
続く1386年のゼンパッハの戦いでもハプスブルク軍に勝利し、スイス兵の評判が高まりました
大きな産業が無かったスイスはこれを機に傭兵業が盛んとなり、スイス傭兵がヨーロッパ各地に出稼ぎに出るようになったのです

>>414で見たブルゴーニュをめぐる戦争においてもスイス傭兵は活躍し、ナンシーの戦いにてシャルル突進公を破る戦果をあげます
これによりスイス傭兵の需要はますます大きくなり、ローマ教皇もスイス傭兵を雇うようになりました
というのも当時のイタリアは>>429で見たように各国の利害が対立する紛争地域であり、特にイタリア戦争の勃発によりローマ教皇庁にも自衛力が求められていたからでした
1505年、ローマ教皇ユリウス2世はそれまで一時的に雇っていたスイス傭兵を常設の衛兵として起用することを決定し、スイス傭兵にこれを要請します
そして1506年1月22日、150人のスイス傭兵がローマ教皇庁に到着し、以後スイス傭兵が教皇庁防衛の中核となりました
スイス傭兵は>>93のローマ劫掠においてもローマ教皇を守り、>>308のレパントの海戦でも派遣されます
そして約500年が経った現在においても、このスイス傭兵はローマ教皇庁の衛兵として教皇を守り続けているのです


本日は教皇庁スイス衛兵の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

442名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/22(木) 23:36:31 ID:s1QnReMo
さて血を流してまで教皇の傭兵を輸出したスイス人ですが
彼らが身につける衣装を基にして01-02シーズンのASローマのユニフォームが作られました。

http://i.imgur.com/HLlL2dY.jpg


(あの頃のローマ、もといビッグセブンセリエAに)もどして

443Republica de Venexia:2015/01/22(木) 23:43:35 ID:???
>>442
ローマはエンブレムにもロムルスとレムスを採用してたりして、歴史色が強くていいですよね
バティはフィオレンティーナ時代よりも輝きが落ちた感もありますが、あの豪快なプレーは印象深いです

444名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/22(木) 23:52:05 ID:s1QnReMo
>>443
バティ「優勝したいんや!」

銅像立てられる栄誉よりもあの歓喜に勝るものなし、ですか…

445Republica de Venexia:2015/01/23(金) 00:57:50 ID:???
1月23日はユトレヒト同盟が結成された日です

スペイン領ネーデルラントではフェリペ2世がスペイン王即位して以降重税を課すようになり、またカトリック政策を掲げてカルバン派の迫害を進めました
その際にスペインから派遣されたネーデルラント総督アルバ公の弾圧は苛烈で、1568年には>>124で見たように反乱が勃発、泥沼の八十年戦争へと突入することになりました

当時スペイン領ネーデルラントには、ヨーロッパ最強の陸軍と恐れられ組織面でも近代化されたフランドル軍が駐留していました
しかしスペインは>>429で見たようにイタリアでハプスブルク家と、>>308で見たように地中海でオスマン帝国との戦争が続いており、そこにネーデルラントで反乱が勃発したため財政が破綻し、ついに1575年に破産を布告しフランドル軍への給与支払いが停止せざるを得なくなりました
一時はフランドル軍を率いたアルバ公がネーデルラントを制圧したものの、この給与支払い停止により作戦行動が取れず、反乱軍は逆襲に転じることになります

そこでスペイン融和政策に転じ、アルバ公に代わって総督となっていたパルマ公が反乱勢力の分断を図ります
これによりネーデルラントの南部10州が、スペインと同じカトリックだったこともあり、パルマ公の懐柔によってスペイン支配下に復帰することとなりました
しかし反乱を主導するホラント州
などの北部諸州は、1579年1月23日、ユトレヒト同盟を結成してスペインとの対決姿勢を堅持、独立戦争を継続することになるのでした


本日はユトレヒト同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

446Republica de Venexia:2015/01/23(金) 19:45:18 ID:???
選抜高校野球大会の21世紀枠が決まりましたね

桐蔭は>>384のように甲子園の最多得点・最多得失点差記録を打ち立て、最初に全国2連覇を達成した、甲子園草創期を代表する伝説のチーム...
松山東も松山商時代に春の第2回で優勝、夏は特に強く平成に入った第78回までに6回優勝という安定した強さのあるチーム...

ともに和歌山県、愛媛県を代表する名門校だけに、その出場は喜ばしいですね

桐蔭は53年ぶり16回目、松山東は82年ぶり2回目のセンバツ出場おめでとう!

447Republica de Venexia:2015/01/24(土) 01:18:10 ID:???
1月24日はカリグラが暗殺された日です

>>431で実質的にローマ帝国初代皇帝となったオクタウィアヌスは14年7月に死去し、代わって彼の養子であったティベリウスが皇帝となりました
ティベリウスはオクタウィアヌス時代に消費された財を回復させるため緊縮財政を行い、元老院を重視した堅実な統治を進めます
しかしその治世後半では近衛隊長官セイアヌスが勢力を拡大、やがてティベリウス一族を粛清し専横を行うようになります
一時は隠棲していたティベリウスはこれを見てセイアヌス派を粛清し事態を収拾しましたが、ティベリウスは疑心暗鬼に陥り、ローマ市民の人気を失ったまま37年に死去しました

ティベリウスの後を継ぎ、3代目の皇帝となったのが市民に人気のあったカリグラでした
彼は近衛隊長官マクロの後援を得て24歳で帝位に就き、祭典を度々開催し民衆や兵士に賜金を積極的に行い、元老院も尊重するなど、当初は良き皇帝として振る舞います
しかしカリグラは急速に専制を強めるようになります
自身を神であると宣言し、大規模な建設事業や外征を繰り返すカリグラに対し、即位後に廃止していた大逆罪も復活させたのです
このカリグラの専制に対し元老院は反発し、財産没収や処刑を恐れる勢力は彼の暗殺を画策します
そして41年1月24日、カリグラは親衛隊将校カッシウスによって暗殺されました
同日、カリグラの叔父であるクラウディウスが近衛隊によって皇帝に推戴され、ローマはティベリウス時代の緊縮財政・元老院重視の政治へと復帰するのでした


本日はローマ帝国代4代皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

448Republica de Venexia:2015/01/25(日) 00:15:13 ID:???
1月25日はハインリヒ4世がカノッサ城に到着した日です

>>294で見たように、神聖ローマ帝国はハインリヒ3世黒王のもと皇帝権が強大化しました
しかしハインリヒの時代に皇帝と教皇が協力して進められていた教会改革は、彼の死後変質していきます
1059年4月のラテラノ公会議でニコラウス2世は教皇選挙教令を発し、教皇選出の過程から皇帝を排除したのです
1071年には教皇アレクサンデル2世がドイツ国王による司教選出にも反対するなど、世俗権力の排除はますます進められました

一方の皇帝はというと、ハインリヒ3世時代の皇帝権強化に危機感を覚えた諸侯がハインリヒ4世に対して反乱を起こしており、ハインリヒは教皇の動きに反撃することができませんでした
そのうちに1073年、ローマ教会ではグレゴリウス7世が教皇となり、グレゴリウス改革を進めていくことになります
ハインリヒはここでもドイツでの戦いに忙殺され、グレゴリウスの即位を認めざるを得ませんでした

1075年3月、グレゴリウスは教皇訓令書を発し教皇権の皇帝権に対する優位を主張します
しかしドイツでの争いを収めたハインリヒはドイツの司教を招集し、教皇の廃位を決定しました
ところがグレゴリウスはこれに真っ向から挑み、1076年2月、教会会議にてハインリヒ4世の破門を宣告するのです
ハインリヒもドイツで教会会議を招集しますが、皇帝権強化に反発する諸侯の多くはこれに応じず、逆に諸侯による会議を開き教皇への服従を要求するという有り様でした
孤立したハインリヒはグレゴリウス廃位を取り消しますが事態は好転せず、直接グレゴリウスに会い破門の解除を要求するためイタリアへ向かいました

そして1077年1月25日、ハインリヒはグレゴリウスが滞在していたカノッサを訪れ、いわゆる「カノッサの屈辱」を行います
これによりハインリヒは破門を解除され、ドイツ帰還後は反対派諸侯を討伐し再びグレゴリウスに挑戦、勝利することになります
一方教会としてはこの一連の事件によりそれまでの皇帝権・教皇権の関係を覆したことになり、最終的にヴォルムス協約でグレゴリウス改革は達成されることとなるのでした


本日はカノッサの屈辱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

449名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/25(日) 06:10:47 ID:0Z3FpLR6
今から113年前の1902年1月25日は、現:北海道旭川市にて本の観測史上における最低気温である-41.0度が観測された日です。おめでとうございます。
またこの日は、かの有名な八甲田雪中行軍遭難事件の真っ只中でもありました。お悔やみ申し上げます。

450Republica de Venexia:2015/01/25(日) 12:45:55 ID:???
八甲田山の事件ってこの時期だったんですね、ご冥福を...

451Republica de Venexia:2015/01/26(月) 00:04:43 ID:???
1月26日はカルロヴィッツ条約が締結された日です

>>298で見たようにハプスブルク家のフェルディナントはハンガリー国王となり、またボヘミア王と神聖ローマ皇帝も兼ねるようになったため、ここにドナウ帝国が成立しオスマン帝国との長期にわたる戦争へと突入しました
ハプスブルク家はウィーンを都として固定し、このドナウ帝国の経営に力を注ぐようになります
これは三十年戦争終結後特に顕著となり、>>327のウェストファリア条約で神聖ローマ帝国が実質的に解体されたことで、いっそうドナウ帝国の支配を重視することになったのです

オスマン帝国との対決は>>280で見た第二次ウィーン包囲で転機を迎え、これ以後ハプスブルク家はオスマン帝国に対し攻勢に出、いわゆる大トルコ戦争が始まりました
1686年にはハンガリーの都ブダを奪還し、さらにセルビアのベオグラードも攻略しましたが、1688年になるとフランス王ルイ14世の膨張政策に対抗するファルツ継承戦争が勃発し、ハプスブルク家もこの戦争に加わったため、バルカン半島方面が手薄となりました
このうちにオスマン帝国は反撃し、ベオグラードを再征服するとセルビアの大部分を奪還します

ここでバルカン半島方面の総司令官となり、オスマン帝国に再び反撃したのが名将プリンツ・オイゲンでした
オイゲンは1697年9月、ゼンタの戦いにおいてオスマン帝国軍で決定的な勝利を収め、オスマン帝国では和平交渉の機運が高まります
西方ではファルツ継承戦争がライスワイク条約によって終結し、ハプスブルクの本隊がバルカン半島へと向かう可能性があったこともその一因でした
1698年の春には和平交渉が開始し、翌1699年1月26日にカルロヴィッツ条約が締結され、ハプスブルク家はハンガリー、トランシルヴァニアなどを獲得し、これはオスマン帝国が初めてヨーロッパに領土を割譲した事例となりました
バルカン半島ではオスマン帝国に対するハプスブルクの優位が確立し、ドナウ帝国もここに完成することとなるのでした


本日はオスマン帝国からの領土獲得の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

452名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/26(月) 00:28:41 ID:9ibLNEGM
オスマン帝国とかいうウィーンでコーヒー飲んだだけのおっさんたち

この後領土削られてる間にチューリップで御花畑ですかたしか。

453Republica de Venexia:2015/01/26(月) 00:34:58 ID:???
>>452
撤退の最中にコーヒーの袋置いてったんですよねw
さっさとウィーン捨ててどっか行った神聖ローマ皇帝もアレですけど...

チューリップ時代はなんとなくパレオロゴス=ルネサンスが思い起こされます...

454Republica de Venexia:2015/01/27(火) 00:13:43 ID:???
1月27日はハインリヒ6世とコンスタンツァが結婚した日です

>>299のように北ヨーロッパでノルマン=コンクェストが行われていた頃、南ヨーロッパでは同じくノルマン人でオートヴィル家のロベール=ギスカールが、ビザンツ帝国領の南イタリア征服を進めていました
ギスカールはイタリア半島南部を、その弟ルッジェーロ1世はシチリア島を支配し、この2つはルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世によって統一され、1154年、シチリア王国が成立しました

以後シチリア王国はオートヴィル家が支配していましたが、その代3代グリエルモ2世には嫡子が無いまま病没し、後継者争いが勃発することとなります
後継者の第一候補となったのはルッジェーロ2世の娘で、唯一のオートヴィル家直系の生まれであったコンスタンツァでした

コンスタンツァは1186年1月27日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサの息子であるハインリヒ6世と結婚しており、ドイツと強い関係を持っていました
しかしこのドイツとの関係がシチリア人の反発を産み、レッチェ伯タンクレーディが新国王となります
しかし庶子であったタンクレーディに不満を持つ勢力も多く、その統治は不安定なものでした
ハインリヒ6世はこれを見て南イタリアへと侵攻、タンクレーディの病死もあり、シチリア王国を掌握します
そして>>395で見たように、地中海世界で強力な帝国の建設を目指していくのでした


本日はホーエンシュタウフェン家・オートヴィル家同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

455Republica de Venexia:2015/01/28(水) 00:35:22 ID:???
1月28日はシャルルマーニュが亡くなった日です

>>373>>394で見たようにフランク王カール1世がローマ皇帝として戴冠し、西ローマ帝国が復活しました
とはいえ、この帝国はかつてオクタウィアヌス(アウグストゥス)が建設したローマ帝国のように強固な支配体制が整った国家ではなく、帝国内の各地方にそれぞれの管区を治める伯や司教が存在し、皇帝から半ば自立した権力を持つようになりました
またシャルルマーニュは皇帝であると同時に、フランク国王でも有り続けました
これらの要素、ローマ教皇による加冠、諸侯権力の自立化、国王と皇帝の併存などは神聖ローマ帝国においても受け継がれることになるのです

そしてこの帝国の問題として、フランク王国の慣習である分割相続が挙げられます
帝国を統治するのは皇帝のみでしたが、王国は分割して相続されるという矛盾が発生したのです
これはシャルルマーニュの3人の息子のうち、長子カールと次子ピピンが早逝し、末子ルートヴィヒのみが残ったため回避されますが、後に>>187>>151で見たような王権縮小の要因となるのです
このような問題を残したまま、シャルルマーニュは814年1月28日に没し、すでに共同皇帝であったルートヴィヒが単独皇帝として帝国を治めることになるのでした


本日は単独皇帝ルートヴィヒ敬虔帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年

456Republica de Venexia:2015/01/29(木) 01:04:48 ID:???
1月29日は明・朝鮮連合軍が蔚山城攻撃を開始した日です

豊臣秀吉が始めた朝鮮出兵は1593年に一時停戦し和平交渉が進められましたが、双方の要求が食い違い決裂、1597年に再び朝鮮への出兵が始まりました
この慶長の役で日本軍は朝鮮半島南部を確保するため、南部の海岸線や島に城を新築、あるいは改修し、その支配領域の強化に努めました

加藤清正が築いた蔚山城もその一つで、すでに文禄の役の頃に浅野幸長とともに築いた日本軍最大の拠点西生浦城の北西、半島南部に連なる倭城群の最東端にあたる位置で築城が始まりました
しかし1598年1月29日、完成間近となった蔚山城を明・朝鮮連合軍によって急襲されます
この時清正は西生浦城にいましたが急遽蔚山城に戻り、防衛戦を指揮します
日本軍は火縄銃を有効に使い連合軍の攻撃を必死に防ぎ、損害が増した連合軍は兵糧攻めに切り替えました
突貫工事であったため防衛体制が未完成で、兵糧にも乏しかった日本軍は苦境に立たされ、飢えと寒さに苦しめられます
しかし2週間が経ち落城寸前となった2月8日、毛利秀元らの援軍が到着、焦った連合軍は蔚山城総攻撃を行いますが清正はこれを撃退しました
退路を絶たれることを恐れた連合軍は撤退し、蔚山城は辛うじて持ちこたえることに成功したのでした


本日は蔚山城籠城戦の誕生日です


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』吉川弘文館、2007年
・中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年

457名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/29(木) 22:23:25 ID:/cdF9KkI
さて加藤清正公のお膝元だった熊本市には蔚山町があります
読み方はまんま「うるさん」
すごいですねこれ
ちなみに熊本城では再興にあたり一口城主を募りました(一口1万円)
なんとキン肉マンマリポーサが寄付してました。


熊本行ったら熊本市電に乗りいきなり団子に朝鮮飴買って、ポチョムキン『おてもやんサンバ feat.水前寺清子』、聞こう!(推奨)

458Republica de Venexia:2015/01/29(木) 22:26:21 ID:???
>>457
おお、そういう所縁があるんですね!
熊本城は一度行ったことがあるのですが、日程の都合上あまり見て回ることができませんでした...
今度行く機会があれば、城跡はもちろんのこと、その周りもじっくり散策したいです、朝鮮の役関係もいろいろありそうですね

459Republica de Venexia:2015/01/30(金) 00:38:06 ID:???
1月30日は日英同盟が締結された日です

イギリスはクリミア戦争終結後、強大な経済力と海軍力を背景に他国と同盟を結ばず孤立を保っており、その非同盟外交は「光栄ある孤立」と称されました
しかし>>413で見たようにヨーロッパではドイツを中心に三国同盟が形成され、さらにフランスとロシアとの間で露仏同盟が成立するなど、イギリスの覇権は揺らいでいきます

またイギリスはロシアの南下政策にも対抗しており、特にロシアが義和団事件後も中国東北地方に軍を駐留させたままであったことに強い危機感を覚えていました
このロシアの動きを警戒していたのは日本も同様で、利害が一致した両国は1902年1月30日、日英同盟を締結してロシアの備えとしたのです

これによってイギリスは極東に覇権していた艦隊を本国海域に再配備することができ、ヨーロッパにおける海軍力を増強が可能となりました
日本もまた日英同盟を背景に巨額の外債を発行して日露戦争を乗り切り、戦後のさらなる工業化やアジア市場への進出が可能となったのでした


本日は「光栄ある孤立」の命日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』

460名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/30(金) 22:58:11 ID:C5P6Ych2
児玉源太郎「よっしゃ!海底ケーブル作って大英帝国の情報ももろたろ!」

児玉源太郎が今の時代に至っても讃えられたる人間というのは先見の明があったというのを忘れてはいけません。
「情報戦の名の下同盟国の情報を掠め…いや共用する」という姿勢は多々学ぶべし、と思いますがいかがでしょうか。

461名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/30(金) 23:03:04 ID:C5P6Ych2
>>460は日英同盟のもと児玉ケーブルてわ大英帝国の情報をかき集めていた話がもとです。

462Republica de Venexia:2015/01/30(金) 23:03:12 ID:???
>>460
日露戦争での綿密な情報把握も、児玉さんの功績大ですよね
日本海海戦というクライマックスに向かって着々と積み上げていく感が見応えありました

463Republica de Venexia:2015/01/30(金) 23:03:38 ID:???
>>461
ありがとうございます!

464名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/30(金) 23:08:30 ID:C5P6Ych2
>>463
酔っ払いの絡み程度のものですが、日々誠実に更新されてるので豆知識程度の助太刀として…
いつも楽しんでます(*^◯^*)

465Republica de Venexia:2015/01/30(金) 23:13:54 ID:???
>>464
お恥ずかしい限りです...まだまだ要約程度のもので、自分のモノとできていないので精進せねばというところです...
興味深いお話をいつもありがとうございます!

466Republica de Venexia:2015/01/31(土) 01:24:35 ID:???
1月31日はシルウェステル1世がローマ教皇に即位した日です

>>331で見たコンスタンティヌス1世がローマ皇帝であった頃、ローマ教会では314年1月31日シルウェステル1世が即位しました
コンスタンティヌスはキリスト教を公認した皇帝として有名ですが、このコンスタンティヌスとシルウェステルが後世、キリスト教会によって利用されることになります

>>373で小ピピンがフランク王となりカロリング朝を開いたことを見ましたが、その際ローマ教皇ステファヌス3世が王位を承認してくれたことへの返礼として、いわゆる「ピピンの寄進」が行われました
これが教皇領の起源となったわけですが、これに対し東ローマ皇帝コンスタンティノス5世はその返還を要求します
>>265で見たように、西ローマ皇帝位はオドアケルによって東ローマ皇帝に返上されており、名目上はイタリアも東ローマ支配下にあったからでした
一方ローマ教皇庁では教皇領を正当化するため、「コンスタンティヌスの寄進状」が作成されます
これはコンスタンティヌス1世がシルウェステル1世によって癩病から回復し、その返礼としてシルウェステルとその後継者に帝国の西半分を譲渡したとするものでした

このコンスタンティヌスの寄進状は15世紀になって偽書と証明されますが、それまでの間、ローマ教皇は寄進状を根拠に皇帝権に対する教皇権の優越を主張しました
>>394のシャルルマーニュへの加冠や、>>454のロベール=ギスカールの南イタリア授封、>>40のアラゴン王のサルデーニャ授封の際にもコンスタンティヌスの寄進状が根拠とされ、>>294>>448で見た教会改革、叙任権闘争においても教皇権優越を示すためコンスタンティヌスの寄進状が用いられることとなるのでした


本日は第33代ローマ教皇の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年

467Republica de Venexia:2015/02/01(日) 01:31:24 ID:???
2月1日は鄭成功がゼーランディア城を攻略した日です

16世紀以降、東アジアでは中国の生糸と日本の銀との交易が大きな利益をあげるようになりましたが、中国は倭寇の影響もあって日本と直接交易しようとせず、中間交易が盛んとなります
その一大拠点となったのが台湾で、日本だけでなくポルトガル、スペイン、オランダなども訪れるようになります
その中でオランダが1624年に台湾にゼーランディア城を築いて拠点とし、中国沿岸を支配する鄭芝龍と結んだのです

鄭芝龍は明によって厦門の提督に任じられ、清が明の北京を攻略した後には息子の鄭成功とともに、唐王永歴帝を擁立し、南明政権である隆武政権を打ち立てます
清は各地の反清勢力を鎮圧するなかでこの隆武政権を滅ぼし、鄭芝龍も投降させますが、鄭成功はこれに従わず抗戦を継続しました
鄭成功の財政基盤は交易であったため、清は海禁令を強化し、さらに1661年、遷界令を発して鄭成功の孤立化を図ります

これに対し鄭成功は沿岸地域を放棄し、新たな拠点建設を目指しますが、その標的となったのが台湾でした
鄭成功は1661年に台湾に侵攻、ゼーランディア城を包囲し1662年2月1日にこれを陥としました
鄭成功自身はその翌年に病死しますが、その意志は息子の鄭経が受け継ぎ、1683年まで清に対抗することとなるのでした

鄭成功の運動は日本にも伝えられています
永歴帝を奉じた際、鄭成功は永歴帝の国姓である「朱」を賜りましたが、それに由来する「国姓爺合戦」が近松門左衛門によって人形浄瑠璃として公演され、鄭成功は和藤内として登場します
「国姓爺合戦」は大好評を博し、17ヶ月に渡って公演されることとなったのでした


本日は鄭氏台湾の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・歴史学研究会編『史料から考える世界史20講』岩波書店、2014年

468Republica de Venexia:2015/02/02(月) 00:17:23 ID:???
2月2日はオットー1世が戴冠した日です

>>242>>245で見たように、ザクセン朝のオットーは「ドイツ国王」となり、レヒフェルトの戦いで「キリスト教世界」を防衛したことでローマ教皇から加冠されることになります
962年2月2日、ローマ教皇ヨハネス12世によってオットー1世として戴冠し、>>455のようにカロリング帝国期に没落していったローマ皇帝権は復興を果たすのです

このオットーの戴冠はシャルルマーニュ以来の伝統によるものであり、教皇としては>>466で見た「コンスタンティヌスの寄進状」に基づくものでもありました
これに対しオットーは「オットーの特権状」と呼ばれる特権状を発し、ピピンの寄進以来教皇庁が保持していた領土の支配権を認めたものの、それは皇帝によって保証されるものであり、皇帝が諸権利を保持することを前提としていました
また教皇の就任には皇帝に対する誠実宣誓が必要とされたのです

つまりは教皇位が帝国における司教の筆頭の地位となったも同然であり、当然ヨハネスはこれに反発、オットーと敵対するイタリア王べレンガリオ2世と結んで対抗しました
オットーは教会会議を開きヨハネス12世を廃位、オットーがイタリアから離れた隙にヨハネスは復位するものの急死し、新教皇となったベネディクトゥス5世もまたオットーによって廃位されイタリアにおける皇帝権が確立するなど、オットー期の皇帝>>448のハインリヒ4世とグレゴリウス7世の頃とは異なり強力な権力を有していたのです

このようにしてオットーの新帝国、後に神聖ローマ帝国と呼ばれる帝国が成立しましたが、オットー自身は単なる「皇帝」という称号を用いましたが、次代のオットー2世はローマ帝国起源であることを強調するため「ローマ人の皇帝」を名乗りました
その後継者、古代ローマ帝国復興に燃えるオットー3世は>>466で登場したコンスタンティヌス1世に自身をなぞらえ、新教皇となったオーリヤックのジェルベールにシルウェステル1世にちなんでシルウェステル2世と名乗らせ、「ローマ人の至高なる皇帝」という称号を用いたのです
時代が下り、12世紀のホーエンシュタウフェン朝、フリードリヒ1世バルバロッサは皇帝権に聖権を付加し、帝国もまた「神聖帝国」と表記するようになります
13世紀にはオットー朝期の「ローマ帝国」と合体して「神聖ローマ帝国」となり、15世紀以降には帝国とドイツ国民との結びつきが強まり、1512年に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名称が生まれ、>>241の神聖ローマ帝国滅亡まで用いられることとなったのでした


本日は帝国(神聖ローマ帝国)の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統"の継承とイメージの変容』青木書店、2006年

469Republica de Venexia:2015/02/03(火) 00:07:39 ID:???
2月3日はムラト2世が亡くなった日です

オスマン帝国スルタン、ムラト2世は>>347で見たようにバルカン半島を再び支配下に収め、これを機に退位、まだ若き12歳の息子メフメト2世が即位しました
しかしバルカン半島は完全に平穏となったわけではなく、>>367で登場したアルバニアのスカンデルベグやハンガリーのフニャディ=ヤノシュが健在で、度々オスマン帝国領を攻撃していたのです
特にスカンデルベグはオスマン帝国軍に対し無敗を誇り、バルカン半島の情勢が懸念されたことで1446年、ムラトは復位を余儀なくされます

復位後のムラトはギリシアを制圧し、1448年には攻勢をかけてきたフニャディの軍をスカンデルベグと合流する前にコソボにて撃滅し、バルカン半島はスカンデルベグを除いて制圧されました
また小アジアにおいてもアイディン君侯国、ゲルミヤン君侯国を併合し、その他君侯国にもオスマン帝国の宗主権を認めさせたのです

こうしてオスマン帝国に平穏をもたらしたムラトは、1452年2月3日に死去します
この訃報に対し、まず安堵したのは小アジアでオスマン帝国の攻勢にさらされていたビザンツ亡命政権、トレビゾンド帝国でした
また西欧においても同様に安堵の雰囲気が広まります
というのも、神聖ローマ帝国では新皇帝となるフリードリヒ3世の支配基盤が脆弱で諸侯を抑えるのに四苦八苦しており、フランスとイングランドは長らく続いていた百年戦争の末期にあたる時期であり、スペインではレコンキスタの最終局面であったことから、バルカン半島に手を回せる状態ではなかったからでした
また新スルタンが弱冠19歳であり、その補佐を担当していた大宰相ハリル=パシャは穏健派であり、当面はキリスト教勢力への攻撃は無いと判断したからでもありました
しかしメフメトは固い意志を持ってビザンツ帝国の都コンスタンティノープル攻撃を断行し、>>146で見たようにビザンツ帝国を滅ぼし西欧に衝撃を与えることとなるのでした


本日はムラト2世の命日です、西欧の皆さんおめでとうございます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

470Republica de Venexia:2015/02/04(水) 01:21:33 ID:???
2月4日は趙匡胤が皇帝に即位した日です

>>422で見たように、唐滅亡後の中国は五代十国時代と呼ばれる混乱の時代となり、この間に貴族層は没落し藩鎮支配の下で武断政治が展開されました
この五代の最後の王朝である後周は、三武一宗の法難で知られる仏教弾圧を行った世宗が病没し、その後を弱冠7歳の恭帝が継ぎました
まだまだ戦乱が続くこの時代、幼帝が即位したことに不安を感じた軍人勢力は趙匡胤を皇帝に推し、恭帝による禅譲という形で趙匡胤が即位することになります

960年2月4日、趙匡胤が即位し国号が宋とします
趙匡胤は中国の統一を進め、また五代十国時代の武断政治を改め文治政治を展開します
軍人の勢力は削がれ、一方で科挙の整備による官僚の登用と皇帝直属の常備軍である禁軍を基盤とした皇帝専制を強化していきます
江南では農業開発が進み、茶・絹・陶磁器などの特産物の生産とともに物流が発達、各地に商業都市が生まれ、経済・文化・技術が大きく発展することとなります
また周辺の遊牧国家との間では和議を結んで歳賜を送ることで平和を維持するようになるなど、それまでの朝貢・冊封関係とは異なる関係が築かれます
このように宋代では唐代から大きな変革が進み、唐宋変革と呼ばれる変動期となるのでした


本日は宋の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・中島敏・周藤吉之『五代と宋の興亡』講談社、2004年
・小島毅『全集中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』講談社、2005年

471Republica de Venexia:2015/02/05(木) 01:38:18 ID:???
2月5日はベルナドッテがスウェーデン王となった日です

スウェーデンは大北方戦争での敗北後、>>254で見たようにグスタフ3世が絶対王政を復活させ、再びスウェーデンを強国の地位に押し上げました
しかしその後を継いだグスタフ4世は先王が築いた地位を保とうとしますが、当時ヨーロッパではフランス革命、そしてナポレオン戦争が勃発するという動乱の時代であり、スウェーデンもまたこれに巻き込まれていくこととなります

この動乱のなか、グスタフ4世は徹底した反ナポレオン政策を採り、対仏大同盟にも参加しますがナポレオンに敗れてしまいます
またナポレオンが発布した大陸封鎖令が発布を拒否し、先王の時代に同盟を結んでいたロシアと敵対することにもなり、フィンランドを奪われるなど、失政が続きました

ここに至ってスウェーデンではクーデターが起こり、1809年、グスタフ4世は廃位されて立憲君主制が復活し、彼の叔父であるカール13世が国王となります
カールはこの時すでに高齢で、また嫡男が急死したため、新たな後継者が選定されることとなりました
ここで後継者に選ばれたのがナポレオン配下の将軍ベルナドッテで、1810年にカール13世の養子となり王太子・摂政としてスウェーデンを率います
ベルナドッテはロシアと再び同盟を結んでナポレオンに対抗し、>>317で見たライプツィヒの戦いにも参加し連合軍の勝利に貢献するなど、スウェーデンをナポレオン戦争の戦勝国に導いたのです
そして1818年2月5日、スウェーデン王カール13世が没し、王太子ベルナドッテはカール14世ヨハンとして国王に即位、現在も存続するベルナドッテ王朝の祖となったのでした


本日はベルナドッテ王朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

472名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/05(木) 22:53:34 ID:ND46Aqng
ちなみに現スウェーデン国王はカール16世グスタフです。
グスタフおじさんの被り物とかポルシェ乗り回したりとか風俗疑惑とかこのハッチャケぶりなんなんですかねぇ…

473Republica de Venexia:2015/02/05(木) 23:08:21 ID:???
今の国王、グスタフなんですね
スウェーデン王にはグスタフやアドルフが多いですけど、グスタフ2世アドルフに因んでるのかな

現国王がそんなはっちゃけた方とは知りませんでしたw

474Republica de Venexia:2015/02/06(金) 00:17:05 ID:???
2月6日はミュンヘンで飛行機事故が起こった日です

サッカー界の飛行機事故としては>>91で見た「スペルガの悲劇」があり、グランデ・トリノが終焉を迎えるという痛ましい事故がありました
この「スペルガの悲劇」の約10年後、同様の悲劇が起こってしまいます

イングランド代表に多数の選手を輩出し、当時チャンピオンズカップ2連覇を成し遂げていたレアル・マドリーの対抗馬の一角として台頭してきていたチームがマンチェスター・ユナイテッドでした
マット・バスビー監督に率いられ、若きキャプテン、ダンカン・エドワーズが牽引するこのチームは1957-58シーズンのチャンピオンズカップにおいて順調に駒を進め、準々決勝ではユーゴスラヴィアのレッドスター・ベオグラードを2戦合計5-4で降しました

しかしこの翌日の1958年2月6日、彼らは悲劇に襲われます
マンチェスター・ユナイテッドの選手たちを乗せたブリティッシュ・ヨーロピアン・エアウェイズの臨時便エリザベッタン号はミュンヘン空港での離陸の際に上昇できず、墜落してしまいます
この事故でチームのレギュラーであるロジャー・バーン、マーク・ジョーンズ、リアム・ウェラン、エディ・コールマン、ジェフ・ベント、デイビッド・べッグ、トミー・テイラーを含む23人が即死し、15日後にダンカン・エドワーズも亡くなります
レイ・ウッド、アルバート・スカロン、ジョニー・ベリー、ジャッキー・ブランチフラワーは後遺症のため選手生命を絶たれ、ハリー・グレッグ、デニス・バイオレット、ビル・フォルケス、そしてボビー・チャールトンの4人のみがほぼ無事で生還するという悲惨な事故でした

この事故後、例外的措置としてブラックプールのアーニー・テイラー、アストン・ビラのスタン・クロウサー、アマチュアのトム・ヒーロンの獲得が認められ、チャンピオンズカップでの戦いを継続しますが、準決勝ではチェーザレ・マルディーニやニルス・リードホルム、フアン・アルベルト・スキアフィーノ擁するACミランに敗れてしまいます
その後のマンチェスター・ユナイテッドは翌年にバスビー監督が復帰しチームの再建を進め、10年後の1967-68シーズン、バスビ監督が育て上げたチャールトン、デニス・ロー、ジョージ・ベストら「バスビー・ベイブス」が躍動し、奇しくもイングランド・フットボールの聖地ウェンブリーにおいてエウゼビオ擁するベンフィカを破り悲願のチャンピオンズカップ制覇を達成、フットボールの母国に初の栄冠をもたらすのでした


本日はミュンヘンの悲願の誕生日です、お悔やみ申し上げます

475名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/06(金) 22:47:54 ID:/KNSBJMY
そうか、今日はミュンヘンの悲劇の日か…
ここからマンチェスターユナイテッドは強豪から、比類なき、栄光も悲劇も味わい尽くしたレジェンドになっていったのですね。

あ、そうだ(唐突)
飛行機事故といえばコメット号墜落事故のドキュメンタリーオススメです
リベット(ネタバレ)

476Republica de Venexia:2015/02/07(土) 00:15:02 ID:???
この事故から立ち直って優勝まで上り詰めたことは本当に心に響きます...

コメット号連続墜落事故というのがあるんですね
なんとなくサンダーバードのファイアフラッシュ号が連想されました

477Republica de Venexia:2015/02/07(土) 00:36:45 ID:???
2月7日はレオ1世が即位した日です

ローマ帝国はコンスタンティヌス時代、>>100で見たようにコンスタンティノープルが実質的な首都となり、テオドシウス1世死後の395年に最終的に東西に分裂しました
次代のアルカディウスから始まる東ローマ帝国テオドシウス朝は、「テオドシウスの城壁」を建設したテオドシウス2世、>>309で見たカルケドン公会議を招集したマルキアヌスと続き、マルキアヌスの死によって断絶します

457年2月7日、新たに即位することになったのがレオ1世でした
レオはコンスタンティノープル郊外のヘブドモン練兵場で即位式を行い、その際にローマ皇帝の伝統となっていた、元老院・民衆・軍隊の歓呼によって迎えられます
レオ1世はレオ朝の体制を整え、その後この王朝は>>265で登場したゼノンなどを経て、>>235で見たアナスタシウス1世まで存続することとなるのでした


本日はレオ朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
・井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

478Republica de Venexia:2015/02/08(日) 01:20:24 ID:???
2月8日はコンスタンティノス=パレオロゴスが産まれた日です

ビザンツ帝国は>>227で見たようにミカエル=パレオロゴスが十字軍に奪われたコンスタンティノープルを奪回し、パレオロゴス朝が成立しましたがもはや往時の面影は無く、>>69で見たセルビア王国や、度々取り上げてきたオスマン帝国の進出もあり、国家の命運は風前の灯となっていました

それでも1402年に>>222で見たアンカラの戦いによってオスマン帝国が一時中断したことでビザンツ帝国が延命することになります
コンスタンティノス=パレオロゴスはちょうどこの時代、1405年2月8日に産まれます
当時の皇帝はマヌエル2世で、オスマン帝国のスルタンを巡る争いに干渉し休戦協定を結ぶことに成功しますが、オスマン帝国に対し反撃するほどの力はすでに残されていませんでした
やがてオスマン帝国は>>347のようにムラト2世が帝国を再建し、再び攻勢に出ます
マヌエルはオスマン帝国によるコンスタンティノープル包囲を撃退、また文化面でもパレオロゴス=ルネサンスの最盛期を実現しますが、1425年に死去しました

後を継いだヨハネス8世は対オスマン帝国強硬策を打ち出し、西欧との協力によってヴァルナ、コソボの十字軍を実現しますが、これらは>>347>>469で見たように失敗、失意のうちに1448年に死去しました
この後を継いだのがコンスタンティノス=パレオロゴスで、>>376で見たように東西教会統一を進め西欧からの援助を得ようとしますが実現せず、>>146のコンスタンティノープル陥落に至るのでした


本日はビザンツ帝国最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年

479Republica de Venexia:2015/02/09(月) 19:34:02 ID:???
2月9日は足利義昭が征夷大将軍を辞した日です

室町幕府は嘉吉の乱や応仁の乱を経て衰退し、13代将軍足利義輝の時代に復活の兆しが見られたものの、松永久秀や三好三人衆によって暗殺されてしまいました
14代将軍としては足利義栄が三好三人衆によって擁立されたものの、三好三人衆と松永久秀との対立もあって京に入ることすらできないという有様でした

しかし1568年、足利義昭が織田信長とともに上洛、信長は三好三人衆を駆逐し、義栄は後ろ盾を失い阿波への逃れます
こうして義昭は朝廷より将軍宣下を受けて15代将軍に就任し、幕府の再興を図りました
ところが義昭は将軍権力を制限しようとする信長と対立し敗れ、1573年には京を追放されることになります

義昭は毛利支配下であった備後の鞆に逃れ、ここを拠点に反信長運動を展開しました
その最中の1582年、信長が本能寺の変で倒れると毛利輝元に上洛を呼びかけますが、毛利が羽柴秀吉に臣従したためこれは失敗に終わります
やがて義昭は京へと戻り、1588年2月9日、征夷大将軍を辞しました
以後の義昭は秀吉に厚遇され、1597年に死去することになるのでした


本日は足利将軍の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年
・谷口克広『信長と将軍義昭 提携から追放、包囲網へ』中央公論新社、2014年

480名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/10(火) 00:28:39 ID:3wqk/MQY
将軍も殺される可能性が十分ある時代に結構運のいい一生を送ったと思う

481Republica de Venexia:2015/02/10(火) 00:31:25 ID:???
信長に追放されてからもけっこう粘ってますよね
鞆にもいろんな人々が訪れて小さな幕府のようになってたそうですし...
調べていくうちにイメージが変わった人物でした

482Republica de Venexia:2015/02/10(火) 01:24:56 ID:???
2月10日はバグダードが陥落した日です

>>282で見たようにユーラシアに大ネットワークを築き繁栄したアッバース朝ですが、9世紀後半には早くも衰退の兆しが現れ、10世紀になるとエジプトのファーティマ朝とイベリア半島の後ウマイヤ朝がカリフを称し、三カリフ鼎立状態となりました
またイランで成立したブワイフ朝が946年にバグダードを占領し大アミールを称し、1055年には中央アジアのセルジューク朝がブワイフ朝を倒してバグダードを占領し、スルタンの称号を得て世俗支配権を握るなど、アッバース朝は名目のみの存在となっていました

このセルジューク朝のような遊牧国家は中央ユーラシア型国家と呼ばれ、騎馬軍団による軍事力を背景に、小人口ながら南方の大人口を抱える農耕国家を統治するという新しいタイプの国家でした
>>422で見た遼や西夏、金もこれにあたり、ユーラシアの東西で大規模な変革が起こっていたのです
>>470で成立した宋も遊牧国家の進出に直面しますが、そのなかで宋の海洋ネットワークと遼などの北方遊牧民ネットワークが結びつき、これがバグダードを中心とする西アジアのネットワークともつながっていたのです

そしてこれらのネットワークを統合したのがモンゴルでした
モンゴルはその強大な軍事力で内陸アジアを統一し、1206年に大ハーンに即位したチンギス=ハーンは西夏やイランのホラズム朝などを滅ぼし中央ユーラシアのネットワークを掌握します
2代オゴタイ=ハーンも征服を進め、駅伝制を整備してネットワークをさらに効率的なものとします
そして4代モンケ=ハーンの時代にはフレグが西アジアに向けて大規模な征西を行い、1258年2月10日、バグダードは陥落しアッバース朝のネットワークがモンゴルに組み入れられ、ユーラシアにまたがる大ネットワークが統合されたのでした


本日はアッバース朝の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・宮崎正勝『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた全界』講談社、1994年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

483Republica de Venexia:2015/02/11(水) 00:39:35 ID:???
2月11日はラテラノ協定が結ばれた日です

>>466で見たようにピピンの寄進によって成立し、コンスタンティヌスの寄進状によって正当化された教皇領は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世やフリードリヒ2世との対立によって危機に瀕しながらも、巧みな外交戦略によってその領土を保ってきました
その後>>288の教皇のバビロン捕囚によって教皇領支配が弱まるものの、イタリア戦争期には教皇アレクサンデル6世とその息子チェーザレ=ボルジアによって教皇領の拡大が図られます

しかし1796年、フランス総裁政府によってイタリア方面軍司令官となったナポレオンが教皇領を併合、一時独立を回復したものの1808年に再びフランス領となります
これは1814年のウィーン会議、その正統主義基づき撤回され、教皇領は再び復興しました
しかしやがてナショナリズムが勃興、イタリアにおいてもリソルジメント(イタリア統一運動)が始められ、>>329で見たようにサルデーニャ王国がイタリア統一を進めていきます
当時教皇領を守っていたのはフランスでしたが、>>221の普仏戦争でフランスが敗北したため、1870年にサルデーニャ王国改めイタリア王国がローマを占領したのです

このローマ併合はイタリア王国とローマ教皇庁の関係を決定的に悪化させ、双方は国交断絶状態となってしまいます
この状況を改善したのがムッソリーニで、ローマ教皇庁に対して友好的に対応した彼は1929年2月11日、ラテラノ協定を結びます
この協定により両者は和解し、ローマ教皇はここで初めてイタリア王国を承認しました
これに対しイタリア王国は教皇が主権を持つ国家、バチカン市国の成立を承認し、現在に至るのでした


本日はバチカン市国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年

484名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/11(水) 10:31:17 ID:SdpIJhLY
建国記念の日は、日本の初代天皇とされる神武天皇が即位した日を日本の紀元として祝う日らしいです
2015年で紀元2675年になるそうです

485Republica de Venexia:2015/02/11(水) 10:37:07 ID:???
皇紀...ってやつですかね
零戦が開発されてからもう75年経つんですね

486Republica de Venexia:2015/02/12(木) 01:01:53 ID:???
2月12日はマリア=テレジアとフランツ=シュテファンが結婚した日です

神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、嫡男が夭折したことで長女のマリア=テレジアを相続者とするため、プラグマティッシェ=ザンクツィオンを定めたのは>>323で見た通りです
しかしこれはあくまでハプスブルク世襲領に適用されるものであり、神聖ローマ皇帝位をマリア=テレジアが継ぐということはできませんでした

そこでマリア=テレジアの婿が誰になるかが争点となり、将軍プリンツ=オイゲンはバイエルンとの、皇帝側近のバルテンシュタインはプロイセン王子、後のフリードリヒ2世との縁組を主張します
しかしマリア=テレジアはロートリンゲン公子フランツ=シュテファンに恋心を抱いており、先の2人には見向きもしませんでした
カール6世もフランツのことを気に入っていたため、2人の結婚が認められることとなります
1736年2月12日、当時としては稀な恋愛結婚によってマリア=テレジアとフランツ=シュテファンは結ばれたのです
ここにハプスブルク家とロートリンゲン家が結びつき、2人の子供の代にはハプスブルク=ロートリンゲン家が成立することとなります

こうして神聖ローマ皇帝位はフランツが継承者となったわけですが、これに周辺諸国が反発し、1740年のカール6世の死後、オーストリア継承戦争が起こったのは
>>319で見た通りです
この戦争の間にバイエルン選帝侯がカール7世として戴冠しましたが、マリア=テレジアはこれを破り、1745年に正式にフランツが戴冠、神聖ローマ皇帝フランツ1世としてハプスブルク=ロートリンゲン朝を開くのでした


本日はハプスブルク家・ロートリンゲン家同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家ね女たち』講談社、1993年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年

487Republica de Venexia:2015/02/13(金) 01:27:53 ID:???
2月13日はオラニエ公ウィレムがイングランド王に即位した日です

>>124のオランダ独立戦争を戦い、>>327のウェストファリア条約で独立を正式に認められたオランダは目覚ましい商業発展を続け、ヨーロッパ経済をリードする存在となりました
イングランドもまた、オランダと同じく商業によって発展しようとしましたが、オランダの後塵を拝す状況が続きます
これを打開しようとしたのがクロムウェルで、彼は1651年に航海法を発布しオランダ排除を図ると、反発したオランダが翌年イングランドに宣戦布告し、英蘭戦争が勃発します

この英蘭戦争は1670年代になると様相が異なり、フランス王ルイ14世と結んだチャールズ2世がルイの侵略戦争を支援する形となります
ルイは1672年にオランダ侵略戦争を開始し、オランダは沿岸部を残して征服されるという危機に直面しました
しかしオランダ独立戦争で主導的役割を担ったオラニエ家、そのオランダ侵略戦争当時の当主であるウィレムが連邦最高司令官に就任すると、粘り強く防衛戦を展開、ついにはフランスを撃退することに成功します

オランダはその後復興するものの、ルイは再び侵略戦争を開始、ファルツ継承戦争が勃発します
大同盟戦争とも呼ばれるこの戦争はフランスに対し周辺諸国が同盟を結んで対抗した戦争で、フランスの脅威に直面するオランダはその先頭に立っていました
ここでオラニエ公ウィレムは一計を案じます
ルイがドイツ方面に進軍している間に、イングランドに侵攻しフランスとの分断を図ったのです
イングランドでは>>193で見たようにチャールズ2世と議会が対立し、侵攻する好機でもありました
1688年11月、ウィレムは大艦隊を編成しイングランドへと出撃、イングランド王ジェームズ2世は軍にも見放され防戦すらできず、追放されてしまいます
そして1689年2月13日、ウィレムは議会を押し切って妻のメアリとともに国王に即位、これに伴い反フランスに転じたイングランドはアウクスブルク同盟に参加し、フランスのルイ14世と戦うことになるのでした
ウィレムがイングランドに侵攻し、無血で体制を変えたこの事件は、イングランドでは名誉革命と呼ばれています


本日はイングランド王ウィリアム3世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

488Republica de Venexia:2015/02/14(土) 00:41:49 ID:???
2月14日はルートヴィヒドイツ人王とシャルル禿頭王が同盟を結んだ日です

西ローマ皇帝シャルルマーニュの死後、後継者となったルートヴィヒ敬虔帝は817年、帝国整序令を発布します
これは敬虔帝の長男ロタール1世を共同皇帝、そして帝国の相続人とし、次男のピピン1世と三男ルートヴィヒ2世を分国の国王とし、2人は皇帝の権威に従うものとする、という内容でした
しかしこのうちピピンが急死し、4男にも分国を与えようとするとロタールらは反発し、領土を巡る争いが勃発しました
そして840年に敬虔帝が急死し、単独皇帝となったロタールがイタリアから北上し、これに反発したルートヴィヒとシャルルとの間でフォントノワの戦いが行われたのは>>187で見た通りです

この戦いに勝利したルートヴィヒとシャルルはロタールをさらに追い詰めるため、お互いにロタールと独断で交渉はせず、協力してロタールに対抗するという誓約をストラスブールにて取り交わしました
その後ルートヴィヒとシャルルはロタールを廃位させ、帝国を2人で分割しようとしましたが有力貴族たちがこれに反対し、平和的な手段での解決が模索されました
そして843年にヴェルダン条約が結ばれ、帝国はロタールの中部フランク王国、ルートヴィヒの東フランク王国、シャルルの西フランク王国に分割されるのでした


本日はストラスブールの誓約の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年

489Republica de Venexia:2015/02/15(日) 01:01:06 ID:???
2月15日はフベルトゥスブルク条約が締結された日です

>>323の神聖ローマ皇帝位継承問題をきっかけに勃発したオーストリア継承は、>>319で見たようにオーストリアが帝位を確保したものの、大工業地帯であるシュレジエンをプロイセンに奪われることとなりました
この後オーストリアは改革を進め、常備軍の設置、議会権限の縮小、中央政府の支配域拡大などが図られます
とりわけ大きな改革となったのは外交面で、なんとフランスと同盟を結びます
>>298>>280で見たように、フランソワ1世やルイ14世らがオスマン帝国と同盟を結ぶほどハプスブルク家に対抗心を燃やしていたフランスが、オーストリアと同盟を結んだのです
1756年のこの同盟は外交革命と呼ばれます

すでに1750年にロシアとも同盟を結んでいたオーストリアはプロイセン包囲を進めていきます
これに対しプロイセンのフリードリヒ2世が先制攻撃を仕掛けて七年戦争が始まり、プロイセンは>>341のロスバッハの戦い、>>374のロイテンの戦いに勝利し緒戦は優勢に進めました
しかしプロイセンはオーストリア・フランス・ロシアの大同盟にスウェーデン、ドイツ帝国諸侯も敵に回して劣勢となり、1759年にはクーネルスドルフの戦いに敗れ、1760年には首都ベルリンが占領されます

しかしこの好機に同盟軍の足並みは揃わず、この間にプロイセンは態勢を挽回するというブランデンブルクの奇蹟が起こります
さらに1762年にはフリードリヒを崇拝するピョートル3世がロシア皇帝となり、同盟を離脱してしまいます
またフランスも激化していたイギリスとの植民地戦争、北米でのフレンチ=インディアン戦争やインドでのプラッシーの戦いの方に注力し、プロイセンへの圧力が弱まりました
プロイセンがプルカースドルフの戦いでオーストリアを破るとドイツ帝国諸侯も手を引き、スウェーデンもプロイセンと講和します
こうして単独で戦うこととなったオーストリアも戦費が嵩んで戦争続行が不可能となり、同じく限界に達していたプロイセンと和平交渉が進められました
そして1763年2月15日、フベルトゥスブルク条約が締結されて戦争は終結、プロイセンのシュレジエン領有が確定されたのでした


本日は七年戦争の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

490Republica de Venexia:2015/02/16(月) 00:01:33 ID:???
2月16日はフリードリヒ=ヴィルヘルムが産まれた日です

1620年2月16日、フリードリヒ=ヴィルヘルムはブランデンブルク選帝侯ゲオルク=ヴィルヘルムの嫡男として産まれました
その当時ドイツは三十年戦争の真っ只中であり、特に主戦場となった北ドイツに位置するブランデンブルクは人口の半分が失われたともされるほど、大きな被害を受けていました
そのためフリードリヒはドイツを逃れ、オランダへと留学することとなります
1640年、フリードリヒは父の死去により選帝侯位を相続者し、戦争からの中立を宣言しました
ウェストファリアの条約交渉においてはポンメルンの継承権確保に努めましたが、バルト帝国建設を目指し同じくポンメルンを狙っていたスウェーデンと利害が衝突することとなります
結局、戦争勝利の立役者であるスウェーデンの主張が優先され、バルト海の良港シュテッティンを含む西ポンメルンをスウェーデンが獲得し、ブランデンブルクは資源に乏しい東ポンメルンを領有するに留まりました

このためブランデンブルクではスウェーデンに対抗するために軍事力強化が進められ、その過程で君主権力の強化も行われたのは>>433で見た通りです
またブランデンブルクではこれらの改革が比較的順調に進みましたが、プロイセン公国においては難航します
というのも、プロイセンはポーランドの宗主権下にあり、プロイセン貴族はポーランド王を後見として事実上の自治を行っていたからでした

フリードリヒはプロイセンを治めるため、スウェーデンのポーランド侵攻によって始まった北方戦争に介入します
最初はスウェーデン側についてポーランドと対峙し、スウェーデンが不利となるやポーランドを支援するなど巧みに動き、戦後プロイセンに対する宗主権を獲得するのです
またフリードリヒはフランス王ルイ14世がフォンテーヌブロー勅令によって追放したユグノーを積極的に受け入れ、プロイセン産業を発展させることにも成功します
このようにフリードリヒによって強大化された国家は、やがてドイツ帝国へと至り、近代ドイツ形成の礎となるのでした


本日は「大選帝侯」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

491名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/16(月) 23:42:57 ID:XA7lITvs
中世ポーランドの高度な民主制はすごいですね
強力な王権がないから周りの王国から分割されるというのは、政治制度の良し悪しと言うのを端的に語る良い例ですかね…

492Republica de Venexia:2015/02/16(月) 23:50:40 ID:???
16世紀にすでに民主制の基礎が形成されていたのは凄いですよね
中世を通じてヨーロッパの強国であり続けましたし...だからこそ余計にポーランド分割が悲しく思えてきてしまいます

493Republica de Venexia:2015/02/17(火) 00:02:52 ID:???
2月17日はトラックを米機動部隊が空襲した日です

トラックは直径30海里の一大環礁で、環礁は水深も深く大艦隊を収容することが可能で、また島々には航空施設や補給施設も設けられており、中部南西太平洋方面の航空作戦や艦隊作戦の重要基地となる、聯合艦隊の一大根拠地でした
そのためアメリカはマーシャル諸島を制圧した後、このトラックを攻撃目標としたのです

1944年始の段階では、トラックには聯合艦隊旗艦「武蔵」をはじめ多数の艦艇が停泊していましたが、い号作戦、ろ号作戦を経て聯合艦隊の航空戦力は壊滅的な打撃を受けており、襲来する米機動部隊を迎撃するのは困難と判断、主力艦隊の撤退が命じられました
1月31日には戦艦「長門」「扶桑」重巡「熊野」「鈴谷」「利根」駆逐艦「浦風」「磯風」「秋月」がリンガ泊地へと出港、2月10日には古賀峯一聯合艦隊司令長官座乗の戦艦「武蔵」、軽巡「大淀」駆逐艦「白露」「満潮」が横須賀へ向かい、重巡「愛宕」「鳥海」「妙高」「羽黒」がパラオ方面へと退避しました

一方アメリカはスプルーアンス中将直率の第50任務部隊第2群とミッチャー中将率いる第58任務部隊第3群を派遣し、空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」戦艦「ニュージャージー」「アイオワ」をはじめ大型空母5隻、小型空母4隻、戦艦6隻、重巡5隻、軽巡5隻、駆逐艦28隻の大部隊をもってトラックへと進撃しつつありました

そして1944年2月17日早朝、トラック空襲部隊が発進し、トラックへと次々と襲来します
トラックに残存していた日本側の戦力は軽巡「那珂」他少数の駆逐艦と多数の輸送船、そして航空隊でした
米艦載機に対し航空隊が迎撃しますが、戦闘可能だったのはわずか40機のみで、圧倒的な米軍機の前に次々と撃墜されていきます
このため米軍はトラックの施設、艦艇に思うまま攻撃を行い、航空施設、補給施設は甚大な被害を受け、糧食2,000トン、燃料17,000トンが失われました
艦艇では軽巡「那珂」練習巡洋艦「香取」駆逐艦「舞風」など11隻が沈没し、水上機母艦「秋津洲」工作艦「明石」駆逐艦「時雨」など11隻が損傷します
さらに輸送船も30隻193,500トンが撃沈されるという深刻な被害を受けたのです

このように聯合艦隊の一大根拠地であったトラックは壊滅したことで日本の防衛線は大きく後退し、多数の輸送船を失ったことで以後の作戦遂行にも重大な支障が生じるという大敗北を喫したのでした


本日は聯合艦隊根拠地トラックの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦3 決戦篇』講談社、1988年
・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争6 ソロモン/ニューギニア作戦II マーシャル/ギルバート作戦』光人社、1995年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年

494Republica de Venexia:2015/02/18(水) 00:01:53 ID:???
2月18日はフリードリヒ2世とアル=カーミルが休戦協定を結んだ日です

>>266で見たように、アイユーブ朝は内部分裂によって苦しんでおり、聖地の十字軍勢力や西欧との和平を図っていました
その頃のフリードリヒ2世はというと、1215年に戴冠式を挙行し、十字軍への参加も表明していました
また1222年にはイェルサレム王ジャン=ド=ブリエンヌが西欧に来訪し、その娘イサベルの夫にフリードリヒを選び1225年に両者は結婚します
ここでフリードリヒはイェルサレム王を称し、聖地遠征への準備を整えます

同年、フリードリヒはローマ教皇ホノリウス3世とサン=ジェルマノ協定を結び、2年後の1227年に十字軍を行うことを誓約しましたが、悪いことに疫病が流行してフリードリヒも感染し、中止となってしまいます
これに対し、ホノリウスの後を継いだ教皇グレゴリウス9世は十字軍中止を誓約違反とし、フリードリヒを破門しました
こうしてフリードリヒは1228年6月、破門のまま十字軍遠征に出立することになります

しかし出立が1年延期となったことで前年に派遣した先遣隊の多くは帰還しており、また破門の身であったことでフリードリヒは十分な支援を受けることができませんでした
また教皇との対立も続いており、長期間帝国を留守にできないという事情もありました
一方のアル=カーミルも内紛を抱えており、十字軍との本格的な戦闘は避けたい状況だったのです
この2人はかねてより書簡のやり取りによって親交があり、お互いの利害が一致したことで休戦交渉が進められることとなりました
そして1229年2月18日、ヤッファにて休戦協定が結ばれ、イェルサレムはフリードリヒの統治下、そして岩のドームやアクサー・モスクを含むハラム=アッシャリーフ地区はイスラームの管理下に置かれることが取り決められます
こうして一時的ながら、イェルサレムがキリスト教徒の手に戻ることとなったのでした


本日はヤッファ協定の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

495Republica de Venexia:2015/02/19(木) 00:01:26 ID:???
2月19日はウェストミンスター条約が締結された日です

>>487で見たように、イングランドはクロムウェル指導の下航海法の発布によってオランダに対抗し、断続的に英蘭戦争が行われました
その第二次戦争がイングランドの劣勢で終わりかけていた頃、フランスではルイ14世が対外侵略戦争を開始し、ネーデルラント継承戦争が勃発します
スペイン領南ネーデルラント継承を巡って争われたこの戦争はオランダがフランスに対抗したため、ルイは成果をあげることができませんでした

ここでオランダに煮え湯を飲まされたイングランドとフランスが手を結ぶこととなります
イングランド王チャールズ2世はピューリタン革命の際にフランスへと亡命しており、同じカトリックということもあって親交がありました
1670年、ドーヴァーの密約が結ばれ、イングランドとフランスは同盟を結びます
ルイはスウェーデンとも同盟を結んでオランダの孤立化を図り、戦争準備を整えました

そして1672年、フランスはオランダ侵略戦争を開始、それに呼応してイングランドもオランダに宣戦布告し、第三次英蘭戦争となります
>>487で見たようにオランダはフランスの侵攻に苦戦しますが、イングランドに対しては海戦で連戦連勝、チャールズは議会の反発を抑えるためオランダと講和を結ぶことになります
1674年2月19日、ウェストミンスター条約が結ばれ両国は講和し、オランダはフランスへの対抗に専念できるようになりました
総督オラニエ公ウィレムはフランスを撃退し、その後イングランドの混乱をついてイングランド王に即位、事態を好転させることに成功するのでした


本日は第三次英蘭戦争の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

496Republica de Venexia:2015/02/20(金) 00:16:17 ID:???
2月20日は伊東マンショらがヨーロッパへ出発した日です

>>334で見たようにルターによって拡大された宗教改革ですが、これに対しローマ教会はカトリック改革をさらに発展させて対抗します
その中心となったのがイエズス会で、日本にもフランシスコ=ザビエル、ルイス=フロイスら宣教師が派遣されカトリック布教を進めました
なかでもアレッサンドロ=ヴァリニャーノは日本文化の理解によって宣教師を日本社会に適応させるという手段をとり、また日本人司祭の教育を進めるため各地にセミナリオ、コレジオ、ノビシャドを設立しました

これらの努力により日本におけるカトリック布教はさらなる進展が見られ、ヴァリニャーノはその成果をヨーロッパに伝え、また日本人にヨーロッパのキリスト教文化を直に体験させるため、使節の派遣を計画します
この使節にはセミナリオで学ぶ少年から選ばれ、キリシタン大名である大友宗麟、有馬晴信、大村純忠と縁がある伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4人が使節として派遣されることとなりました
そして1582年2月20日、4人の使節、その他随行員らが長崎を出港し、ヨーロッパの各地を巡ることとなるのでした


本日は天正遣欧少年使節の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・松田毅一『天正遣欧使節』講談社、1991年
・岡部牧夫『海を渡った日本人』山川出版社、2002年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年

497Republica de Venexia:2015/02/21(土) 00:49:37 ID:???
2月21日はミハイル=ロマノフが即位した日です

ロシアでは>>375でも登場したバトゥが建国したキプチャク=ハン国の下、「タタールのくびき」と称される受難の時代が続いていました
これから脱却したのが15世紀、モスクワ大公イヴァン3世の時代で、彼は
>>478のコンスタンティノス=パレオロゴスの姪であるソフィアと結婚したことでローマ帝国の後継者であると自称し、モスクワを第3のローマ、自身をツァーリと称しました
これをさらに発展させたのがイヴァン4世雷帝で、彼はツァーリを公式な称号とし専制政治を展開、王権の強化に努めました

1584年にイヴァン4世が死去し恐怖政治が終結すると息子のフョードル1世がツァーリとなりますが、彼は病弱であったため新興貴族のボリス=ゴドゥノフが実権を握ります
ゴドゥノフは1598年にツァーリに選出されますが、1601年に始まった未曾有の大飢饉に見舞われ、ロシアは混乱の時代となりました
また先帝フョードルの弟であり、ツァーリの正当な後継者であるドミトリーを僭称する「偽ドミトリー」がポーランドの支持を得てモスクワに侵攻してくるという事態となります
ゴドゥノフはこの大混乱の最中に急死しその息子も殺害され、偽ドミトリーが即位することとなりました

しかし偽ドミトリーとポーランド人による政権はモスクワの人々の支持を得られず、わずか1年で瓦解してしまいます
続いてツァーリとなったヴァシーリー=シュイスキーも不人気で大反乱が勃発し、これが鎮圧された後にはまたもポーランドから偽ドミトリー2世が出現するなど、ツァーリが度々交代する「動乱時代」が続きました
この動乱は1612年10月にようやく収められ、モスクワが奪還されました
そして1613年2月21日、全国会議によってリューリク朝に近い血筋であるロマノフ家のミハイル=ロマノフがツァーリに選出され、以後300年以上続くロマノフ朝が成立したのでした


本日はロマノフ朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

498Republica de Venexia:2015/02/22(日) 01:01:54 ID:???
2月22日はロバート2世がスコットランド王に即位した日です

>>279で見たように、スコットランドでは13〜14世紀にかけて独立戦争が展開されました
ウォレスの死後も「ジョン王のスコットランドの守護官」を継承したロバート1世が独立戦争を継続し、1314年のバノックバーンの戦いでイングランドに大勝し、スコットランドの大部分を奪還します
1320年にはアーブロース宣言を発して独立を宣言し、これがローマ教皇にも認められたのです

しかしロバート1世が死去した後わずか5歳のデイヴィッド2世が王位を継承すると、イングランド王エドワード3世の支援を受けたエドワード=ベイリアルがスコットランドへと侵攻、デイヴィッドは追放されベイリアルがスコットランド王となりました
ベイリアルはスコットランド南部をイングランドに割譲しここを支配地としましたが、スコットランドの人々はこれを認めなかったため国内は分裂し、デイヴィッドがフランスに逃れていたため、ロバート=スチュアートが摂政としてスコットランドを統治することとなります

やがて英仏百年戦争が勃発すると、フランスはイングランドを北から攻撃させるため、デイヴィッドをスコットランドに帰させます
しかし1346年のネヴィルズ・クロスの戦いに敗れたデイヴィッドはイングランドに捉えられてしまいます
1357年にデイヴィッドは身代金支払いを条件として解放されますが、その額はスコットランドにとって莫大なものであり、デイヴィッドはスコットランド王位をエドワード3世に譲るという密約を結びました
これに対しスコットランド議会が反発、密約を拒否し、デイヴィッドの死後摂政のロバート=スチュアートを国王に選出することを決定します
そして1371年2月22日、ロバート=スチュアートはロバート2世としてスコットランド王に即位、スチュアート朝が創始され>>226のイングランド・スチュアート朝の成立へと至るのでした


本日はスコットランド・スチュアート朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ナイジェル・トランター、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』岩波書店、2004年

499名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/02/22(日) 23:07:45 ID:etdlLp1.
そういや去年のスコットランド人は本気で独立国家でやっていけると思ったんですかね…
もし独立して最近の石油価格暴落受けたらいきなり暗雲立ち込めたと思いますがそれは

500Republica de Venexia:2015/02/22(日) 23:23:09 ID:???
イングランドへの対抗意識は凄いですもんね、ある程度はポーズという部分はあったのかも?スコットランドはいざとなったらここまでするぞ、って
今年には自治権拡大法案が成立する予定なんでしたっけ、今後のスコットランドや他地域の独立運動がどうなるか気になります...

501Republica de Venexia:2015/02/23(月) 00:02:21 ID:???
2月23日はアンボイナ事件が起こった日です

>>124で見たオランダ独立戦争を経てスペインから独立したオランダは、17世紀前半には海上交易で繁栄しヨーロッパ市場と対外交易を支配する存在までに成長しました
またアジア進出にも積極的に乗り出し、1602年には世界初の株式会社とされるオランダ東インド会社を設立しました
オランダ東インド会社はインドネシアのバタヴィアを拠点にまたたく間にアジア地域での交易活動を拡大し、ポルトガルやスペインなど他のヨーロッパ勢力を圧倒するようになります

これに対抗したのがイギリスでした
オランダと同じく商業国家としての発展を目指していたイギリスは東南アジアへも進出し、オランダと抗争を繰り広げます
その舞台となったのが香辛料の産出地として重要なモルッカ諸島で、武力衝突が繰り返されることになります
そして1623年2月23日、モルッカ諸島のアンボイナ島にてイギリス商館員が捕らえられるというアンボイナ事件が起こりました
商館員は拷問によりイギリスがオランダの砦を攻撃しようとしていることを自白させられ、後に処刑されてしまいます
この事件を機にイギリスはインドネシアから撤退してインド経営に専念し、オランダはモルッカ諸島、そして東南アジアでの支配権を確立するのでした


本日はイギリス香辛料貿易の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

502Republica de Venexia:2015/02/24(火) 00:07:26 ID:???
2月24日はマクシミリアン1世の孫シャルルが産まれた日です

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の時代、ハプスブルク家は「戦は他国にさせておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」と表現される婚姻政策を展開します
まず彼自身が>>414で登場したブルゴーニュ公シャルルの娘であるマリーと結婚しました
このシャルル突進公はブルゴーニュ戦争において戦死し、ネーデルラントをマリーが相続した後、彼女の急死によって同地はマクシミリアンのものとなります
ここに旧ブルゴーニュ公領を巡るフランスとの争いが勃発し、イタリアにおける権益争いも含め、ハプスブルク家とフランスとの対立がますます深まることとなりました

このような状況で、同じくイタリアにおいてフランスに対抗するスペインがハプスブルク家に縁談を持ちかけてきます
マクシミリアンとマリーの間は一男一女を設けましたが、これに対しスペインは二重結婚を提案し、マクシミリアンはこれを承諾しました
ここにマクシミリアンの長男フィリップ美公とスペイン王女フアナ、マクシミリアンの長女マルガレーテとスペイン王子フアンが結婚し、相互相続契約が結ばれたのです

このうちフィリップとフアナとの間で1500年2月24日に産まれたのが、ブルゴーニュ公シャルルの名にちなんで命名されたシャルルでした
やがてスペインではカスティーリャ女王イサベルが死去し、その唯一の直系であるフアナの夫であるフィリップ美公がスペイン王フェリペ1世として即位します
ところがこのフェリペが急死し、シャルルがカルロス1世としてスペイン王位に就くことになるのです
シャルルはこの他にも広大なハプスブルク家領、そしてその婚姻関係にある領土を継承し、ヨーロッパの広大な範囲に影響を及ぼすこととなるのでした


本日は後の「カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年

503Republica de Venexia:2015/02/25(水) 00:01:46 ID:???
2月25日はヴァレンシュタインが暗殺された日です

1618年、ボヘミアでの宗教反乱をきっかけに始まった三十年戦争ですが、この戦争では様々な傭兵隊長が活躍しました
ボヘミア出身のヴァレンシュタインもその一人で、>>345で見た白山の戦いを含むボヘミア反乱の際には神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に傭兵を提供し、反乱鎮圧に貢献しました
その後も皇帝に資金や傭兵の提供を続け、1623年には北ボヘミアのフリースラント侯に任じられます

ヴァレンシュタイン軍に特徴的だったのが軍税の有効活用で、彼は占領地に軍税をかけ、徴収した税金をその場で兵士に分配しました
つまりヴァレンシュタインの下に集まった傭兵たちはヴァレンシュタインに直接雇われていることとなり、その効果的な軍税制度活用もあって、ヴァレンシュタインの私兵となった大軍勢が編成されたのです
ヴァレンシュタインはこの大軍勢を背景に1625年、皇帝軍総司令官となり、デンマーク王クリスティアン4世を撃退します

これを機に、フェルディナントは回復令を発布します
皇帝権の絶対化を目指したこの法令に帝国諸侯は反発しましたが、フェルディナントはヴァレンシュタインの大軍勢をちらつかせ、法令の強行を図ります
諸侯はここでヴァレンシュタイン罷免を要求し、認められなければ嫡男フェルディナントのローマ王選出を拒否すると決議します
ヴァレンシュタインが皇帝の意向を無視して専横を進めていたこともあって、フェルディナントは1630年、ヴァレンシュタイン罷免を決定しました

ヴァレンシュタインが復帰したのは>>285>>68で見たブライテンフェルトの戦い、レヒ川の戦いで皇帝軍が敗北した後でした
スウェーデン軍に押された皇帝はヴァレンシュタインを復帰させ、スウェーデン王グスタフ=アドルフに対抗します
>>353のリュッツェンの戦いで皇帝軍は敗れたもののグスタフ=アドルフが戦死し、スウェーデンの攻勢は一時中断しました
しかしヴァレンシュタインはかつてのように強大な権力を得ることができませんでした
というのも、彼自身が確立した軍税制度を皇帝も活用し、皇帝直属の大軍勢が組織され、ヴァレンシュタインはその一指揮官に過ぎなかったからです
またヴァレンシュタインはスウェーデンやフランスと秘密裏に交渉を行っていたことが露見し、また皇帝最大の脅威であったグスタフ=アドルフが戦死したこともあって、獅子身中の虫になりかねないヴァレンシュタインを抱える意義がなくなり、1634年2月25日、ヴァレンシュタインはあえなく暗殺されたのでした


本日は最大の傭兵隊長の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

504Republica de Venexia:2015/02/26(木) 00:04:00 ID:???
2月26日はベネヴェントの戦いが行われた日です

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の死後、帝国とシチリア王国はコンラート4世が継承しました
コンラートはまだ若かったため、その支配が確立するまでマンフレーディが全イタリアの行政長官に任命されました
やがてコンラートが1254年に急死するとマンフレーディは南イタリアでの勢力を確立させ、中部イタリアもその支配下に収めます
1258年にはシチリア王に即位し、1260年には娘コンスタンツァをアラゴン王国のペドロと結婚させ、これがシチリアの晩鐘後シチリアをアラゴン王国が支配する布石となりました

マンフレーディがイタリアで勢力を伸ばし、教皇権に対抗する動きを見せたことで、教皇はシチリア王国の統治を自身の支持者にさせるため、1263年、フランス王ルイ9世聖王の弟シャルル=ダンジューを授封します
この動きをみたマンフレーディは中部イタリアの支配権を強化し、教皇領の包囲にかかりました
一方シャルル=ダンジューは1265年にローマに入城し、教皇とローマ市民に歓喜をもって迎えられます

マンフレーディはローマを攻撃しますがこれは失敗に終わり、一時撤退を余儀なくされます
シャルル=ダンジューもマンフレーディを追撃すほどの軍勢は持っておらず、本国から援軍を呼び寄せました
この援軍が1266年1月にローマに到着し、シャルル=ダンジューは全兵力を率いてすぐさまローマを出撃、マンフレーディの王国攻撃に向かいました
春を待たないこの迅速な進撃にマンフレーディは裏をかかれ、カプア要塞を出てシャルル=ダンジュー軍を追撃します
そして1266年2月26日、ベネヴェントの地にて両軍は激突し、決着を焦ったマンフレーディはシャルル=ダンジューに敗れ、戦死してしまいます
この戦いによってホーエンシュタウフェン朝の支配は崩壊し、代わってシャルル=ダンジューがシチリア王国を統治することとなったのでした


本日はホーエンシュタウフェン朝シチリア王国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩�偃 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年

505Republica de Venexia:2015/02/27(金) 00:22:04 ID:???
2月27日は碧蹄館の戦いが行われた日です

1592年に豊臣秀吉によって始まった朝鮮出兵は、当初日本軍が快進撃を見せていたものの、明の参戦により劣勢を余儀なくされます
1593年2月、李如松率いる明軍が日本軍の小西行長、宗義智らが拠っていた平壌城を陥としたのです
これに対し宇喜多秀家は平壌と漢城との間に展開していた諸将を招集し、緊急の軍議を開きました

軍議の結果、日本軍は立花宗茂を先鋒として迎撃することを決し、宗茂は先備に小野鎮幸、立花三左衛門、中備に十時伝右衛門、内田忠兵衛、本陣に宗茂、高橋統増という陣立で碧蹄館へと進出しました
そして1593年2月27日早朝、立花勢は明軍の先鋒に突撃、これを蹴散らし追撃します
しかし連合軍も態勢を立て直し逆襲、十時伝右衛門が討ち取られましたが宗茂の本隊が突入し連合軍を撃退、立花勢は小丸山に移り一時戦場から離脱します

やがて日本軍は小早川隆景、毛利元康・秀包、宇喜多秀家らが進出し、明軍と激突します
日本軍は明軍の勢いに押されますが、宗茂は頃合いを見て明軍を奇襲、大混乱に陥った明軍は退却し、昼頃には日本軍の勝利で大勢は決したのです
この敗戦によって明軍の勢いは衰え、日本との交渉に応じる姿勢を見せるようになったのでした


本日は文禄の役における明に対する勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社、2005年
・中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
・「歴史街道2009年9月号 立花宗茂」PHP研究所、2009年

506Republica de Venexia:2015/02/28(土) 01:24:25 ID:???
2月28日は劉邦が皇帝に即位した日です

前8世紀、周が犬戎の攻撃や王室の内紛によって都を東方に移した後は王権が衰え、中華世界は名目的な周王の下で各国が分裂して相争う春秋・戦国時代となりました
この戦国時代には鉄製農具の普及によって耕地開発が行われ、手工業や交易も発達します
その結果、世襲的な身分制度や氏族単位のまとまりが崩れ、家族単位で農耕を営む小農民が国家の基盤となったのです
また個人の能力が重視されるようになり、諸子百家が出現しました

このような変革が進むなかで前3世紀末に中国を統一したのが秦で、始皇帝によって中央集権化が進められます
しかし急速な改革は反発を招き、陳勝・呉広の乱をはじめとする農民反乱が広がりました
これを機に勢力を拡大したのが項羽と劉邦で、項羽は楚王、劉邦は漢王となって対立します
この楚漢抗争は垓下の戦いにおいて劉邦の勝利で決着し、前202年2月28日、劉邦は皇帝に即位しました
これによって成立した漢は一時中断はあったものの約400年間存続し、その間に官僚制・法制の整備によって中央集権化が進められ、天命思想や易姓革命、中華思想が形成され、また中華思想に基づく朝貢・冊封体制が確立するなど、中華帝国の基礎が築かれていくのでした


本日は漢の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国)』講談社、2004年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年

507Republica de Venexia:2015/03/01(日) 00:07:02 ID:???
3月1日はディオクレティアヌスがガレリウス、コンスタンティウスを副帝に任じた日です

ローマ帝国の最盛期とされる五賢帝時代の最後、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの死後、その息子コンモドゥスは暴政を行い帝国は乱れることとなります
コンモドゥスが暗殺された後は帝位争いによる内乱が勃発し、セプティミウス=セウェルスの即位によって事態は一時収拾されました

しかしセウェルス朝が断絶し、軍隊が擁立したマクシミヌスが即位して以降のいわゆる軍人皇帝時代では、26人の皇帝が乱立し自然死を迎えられたのがわずか4人という混迷の時代となりました
五賢帝時代に人類史上最も幸福な時代と称されたローマ帝国、三世紀の危機と呼ばれる時代に一変したのです

284年に即位したディオクレティアヌスは帝国の広大な領土を皇帝一人で統治することは困難であると判断し、286年、マクシミヌスを共同皇帝として帝国西方の統治を任せました
さらに293年3月1日、ディオクレティアヌスはガレリウスを帝国東方、コンスタンティウスを帝国西方の副帝に任じ、4人の皇帝で統治を分担することにより帝国を安定させることに成功したのでした


本日はテトラルキア(四分統治)の誕生日です、、おめでとうございます


参考文献
・クリス・スカー、青柳正規監、月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』創元社、1998年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

508Republica de Venexia:2015/03/02(月) 00:59:30 ID:???
3月2日はルイ5世が即位した日です

カロリング帝国がルートヴィヒ敬虔帝の死後、分割相続に基づいて3人の息子に相続され、そのために領土争いが勃発し843年のヴェルダン条約で分割が確定したことは>>488で見ました
このうち中部フランクのロタール2世が庶子だけを残して死去したため再び領土争いが起こり、870年のメルセン条約で中部フランクが分割され今日のドイツ・フランス・イタリアの原型が成立することとなります

フランスの元となった西フランクではシャルル禿頭王の死後、ルイ3世とカルロマン2世が相続しましたが2人とも急死し、ノルマン人の侵入もあって国内は混乱を極めました
ここで新国王となったのが東フランクのシャルル肥満王で、一時的に東西フランクが統一されることとなりましたがこの王もすぐに亡くなり、889年、カロリング家でないロベール家のパリ伯ウードが即位します

しかしウードは嫡子無く没し、王位は再びカロリング家のシャルル単純王のものとなりました
しかし単純王は失政を繰り返し、ウードの弟ロベールが単純王を追放し、再び王位はロベール家が保持することとなるのです
ところがこのロベールがソワソンの戦いで戦死し、その息子ラウルが嫡子を持てずに死去したため、またもカロリング家が王位に復帰します
936年に復活したこのカロリング朝はルイ4世、ロテールと続きますが、この間ロベール家も大ユーグのもと勢力を蓄えていきます
そして986年3月2日、カロリング家のルイ5世が即位した頃にはロベール家の勢力は王権を凌ぐほどに成長し、翌年ルイが急死したことで>>151で見たようにロベール家のユーグ=カペーが即位しカペー朝が成立するのでした


本日はカロリング家最後の王の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年

509Republica de Venexia:2015/03/03(火) 01:37:34 ID:???
3月3日はムスタファ=ケマルがカリフ制を廃止した日です

イスラームではムハンマド死後の指導者としてカリフが選出され、アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリーと4代続く正統カリフ時代となりました
しかし>>311で見たようにイスラームはシーア派とスンナ派に分裂し、カリフはスンナ派のみが認める存在となりました
カリフを称しウマイヤ朝を開いたムアーウィヤは世襲カリフ制を採り、これはアッバース朝にも受け継がれます

アッバース朝は>>282で登場した第5代カリフ、ハールーン=アッラシードの時代に最盛期を迎え、カリフの権力も絶頂にありましたが、>>482で見たように9世紀には衰退を始め後ウマイヤ朝、ファーティマ朝もカリフを称し、また大アミールやスルタンが事実上の指導者となるなどカリフの権威も衰退し、1258年にはモンゴルによって滅ぼされてしまいます

この際に亡命したカリフを迎えたのがエジプトのマムルーク朝で、>>269で見たマムルーク朝スルタン、バイバルスはカリフを擁立しマムルーク朝の権威を確立させました
このマムルーク朝も>>264で見たようにオスマン帝国スルタン、セリム1世によって滅ぼされ、この時点でカリフは滅亡することとなります
しかし時代は下って18世紀末、ロシアの南下に苦しむオスマン帝国は、帝国外のムスリムに対し影響力を残すため、スルタンはカリフでもあると主張するようになります
これはセリムがマムルーク朝を滅ぼした際に、アッバース家のカリフ位がセリムに禅譲されたものであるとするもので、スルタンがカリフの権威をも兼ねるということから、スルタン=カリフ制と称されます

しかしこのオスマン帝国も>>337で見たようにムスタファ=ケマルによって滅亡に追い込まれます
そして1924年3月3日、すでに廃止されていたスルタン制に続きカリフ制も廃止され、カリフの伝統は完全に途絶えることとなったのでした


本日はカリフの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年


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