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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
610
:
Republica de Venexia
:2015/05/22(金) 08:07:18 ID:???
>>609
おお、今日だっだんですね!
変装して月の後をつけてたんでしたっけ?
うろ覚えですけど、確かにあの出会いが1つの転換点だったような気がします、ノート保持者が複数いるなんて...というびっくりも
611
:
Republica de Venexia
:2015/05/23(土) 01:15:16 ID:???
5月23日はハインリヒ5世が死去した日です
>>562
で即位した神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世は、長らく続いていたローマ教皇との叙任権闘争で妥協し、
>>294
のヴォルムス協約を締結しました
この叙任権闘争の最中、ドイツではフェーデが頻発していましたが、これは諸侯権力を強めることとなりました
諸侯間の激しい戦いのなかで自由な農民や貴族はその生命や財産を単独では守り切れなくなり、領主に頼るようになったのです
この領主たちの下で自由人は封建化し、国王との伝統的なつながりは断ち切られていきました
この過程ので有力貴族はますます強大化していき、大公や辺境伯の地位を得、国王に対抗し得る勢力へと成長しました
その代表例として、諸侯がドイツ王ハインリヒ4世に対抗しカノッサの屈辱をもたらしたのは
>>448
で見た通りです
そしてこの諸侯による国王への圧力はハインリヒ5世死後も見られました
ヴォルムス協約から3年後の1125年5月23日、ハインリヒ5世は死去しました
ハインリヒには子がおらず、ここにザリエル朝は断絶しました
新国王選出の国王選挙では
>>512
で見たホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世が有力候補で、彼はハインリヒ5世の甥であり、相続権に基づいて立候補することができる血筋でした
しかし諸侯はフリードリヒの選挙を妨げ、血統の原理を無視し自由な国王選挙の原則強行を決定したのです
こうして混乱の最中ザクセン大公ロータル=フォン=ズプリンブルクが選挙され、同年8月にロータル3世として即位することとなったのでした
本日はザリエル朝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
612
:
落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!
:2015/05/23(土) 04:00:36 ID:???
今日はキスの日です
1946年の今日この日、日本初のキスシーンが登場する「はたちの青春」という映画が封切られたことからつけられたそうです
キスしたいですね
>>610
青山で偶然見かけたのが始まりだったと思います、死神の目で見て寿命が見えなかったことから興味を持ったようですね
彼女がいなければ夜神月の計画は完璧だったのかもしれません
613
:
Republica de Venexia
:2015/05/23(土) 10:39:18 ID:???
>>612
キスの日というのもあるんですね、戦後になってからだったんですねー
アメリカ文化の影響なのかな
そうだ、死神の目でわかったんでしたね!
月がナンセンスだと切り捨てていた死神の目を、海砂はあっさり手にしていたというのも驚きでした
614
:
Republica de Venexia
:2015/05/24(日) 01:20:20 ID:???
5月24日は新教同盟が解散した日です
宗教改革によって始まったプロテスタントとカトリックとの宗教対立は、1555年に発布されたアウクスブルクの宗教和議によってひとまずの妥協を見ました
しかしプロテスタントが次第に北ドイツへと勢力を拡大していったことに脅威を感じ、カトリックは
>>556
で見たトリエント公会議で教会刷新を行い、対抗宗教改革を開始します
しかしすでに北ドイツでは司教領のほぼ全てをプロテスタント諸侯が抑え、下ライン地方までも進出する勢いでした
カトリックもまた巻き返しを図って勢力拡大を進めたため、1570年代以降対立はさらに激化します
83年のケルン大司教職を巡ってその対立は最初の頂点を迎え、これはカトリックの勝利に終わりました
カトリックはさらにバイエルン公マクシミリアン1世がカルヴァン派の都市ドナウヴェルトを占領しカトリック化したことで、プロテスタント・カトリック両派の対立はますます激化します
1608年、プロテスタントはプファルツ選帝侯を盟主に新教同盟(ウニオン)を結成し、翌年カトリックはバイエルン公を盟主に旧教連盟(リガ)を結成、ともにヨーロッパ諸国と繋がりを持っていたため、両派の対立はヨーロッパの国際的対立へと発展するのです
この対立が三十年戦争を引き起こしたのは
>>345
などでも見た通りです
その第一段階のベーメン・プファルツ戦争は1620年、白山の戦いで新教同盟の盟主プファルツ選帝侯フリードリヒ5世が敗れたことでプロテスタント側の敗北に終わり、翌1621年5月24日、新教同盟は解散することとなったのでした
本日は新教同盟の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
615
:
落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!
:2015/05/24(日) 03:49:42 ID:???
今日は伊達巻の日です
由来は、旧暦の今日この日に伊達巻の語源であるとされる伊達政宗がなくなったからだそうです
伊達巻はなんだか薄い出汁巻き卵という印象がありますね
お正月以外では滅多にお目にかかれないイメージです
616
:
Republica de Venexia
:2015/05/24(日) 09:04:16 ID:???
>>615
今日が没日だったんですね、若年の頃のはっちゃけぶりを考えると大往生したなー、という印象です
仙台の街、そして青葉城を訪れた時も感じましたが、武の面だけでなく外交や内政、文化面でも活躍した傑物ですよね
617
:
Republica de Venexia
:2015/05/25(月) 00:05:56 ID:???
5月25日はグレゴリウス7世が死去した日です
>>448
で見たカノッサの屈辱で、ローマ教皇グレゴリウス7世はいったんは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を屈服させたかに見えました
しかしその後もハインリヒおよび帝国に対して強権を発動しようとし、その際にはドイツ諸侯の反対に遭いハインリヒに反撃されたのは
>>562
で見た通りです
ハインリヒは1084年、ローマを開城させてラヴェンナ大司教ヴィーベルトを教皇に据えました
グレゴリウスはサンタンジェロ城に閉じ込められますが、これを救出したのがロベール=ギスカールでした
ギスカールは
>>566
で見たようにビザンツ領南イタリアを征服したノルマン人で、旧ビザンツ領を平定した後は教皇領にも攻撃をかけ、一時は教皇によって破門を宣告されていました
これにより教皇側にたったノルマン人諸侯はギスカールを攻撃しましたが、ギスカールはこれらを撃退し1080年には全ての反乱を鎮圧しました
ギスカールが教皇と和解したのもこの頃でした
ちょうどこの時期はグレゴリウスとハインリヒとの叙任権闘争の真っ最中であり、グレゴリウスとしては強大な軍事力を持つギスカールの支援が必要だったのです
グレゴリウスはチェプラーノにて平和条約を締結し、ギスカールが征服した土地の保有を認める代わりに、ギスカールが教皇権を尊重し教皇庁の防衛を約束させ、教皇の封臣であることを誓わせました
これは
>>466
で見たコンスタンティヌスの寄進状を根拠に行われたことでもあります
さて、このギスカールがサンタンジェロ城に閉じ込められたグレゴリウスを救うため、大軍を率いてローマに駆けつけ救出します
グレゴリウスはサレルノで保護されますが、翌1085年5月25日、同地で没しました
死に際してこう語ったといいます
「私は正義を愛し、不正を憎んだ。それ故私は流浪のうちに死ぬ」
本日は「聖なる悪魔」の命日です、お悔やみ申し上げます
ハインリヒ4世はおめでとうございます
参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
618
:
Republica de Venexia
:2015/05/26(火) 01:05:57 ID:???
5月26日はニコライ2世が戴冠した日です
ニコライ2世は1868年、ロシア皇帝アレクサンドル3世の長男として産まれ、その後継者として早くから帝王学を学んで育ちました
家庭教師は専制権力の絶対的な保持を説く保守派の宗務院長ポベドノスツェフで、その思想にニコライは大きな影響を受けることとなります
ニコライは22歳となった1890年から翌91年にかけて旅行を行い、ウィーン、ギリシア、エジプト、インドを経て日本も訪れました
ここで巡査の津田三蔵がニコライを斬りつけた事件が大津事件です
ニコライは日本旅行を打ち切り、ウラジヴォストークでシベリア横断鉄道の起工式に参加、シベリア各地を訪問して首都サンクト=ペテルブルクへと戻りました
このシベリア訪問がきっかけでニコライはシベリアに深い関心を持ち続けることになります
やがて1894年、父帝アレクサンドルが49歳で死去し、皇太子ニコライが即位しました
ニコライは父の葬儀を済ませた後、ドイツのヘッセン大公の娘で、イギリス女王ヴィクトリアの孫にもあたるアリックスと結婚します
アリックスは正教会に改宗しアレクサンドラを名乗り、新皇帝・新皇后はその後も重要な儀式をこなしていきます
そして1896年5月26日、ニコライはモスクワのウスペンスキー聖堂で戴冠式を挙行し、ロシア皇帝としての治世を開始するのでした
本日は最後のロシア皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
619
:
落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!
:2015/05/26(火) 04:32:28 ID:???
今日は1897年にブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』が発刊されてから丁度118年となります
今では世界中の創作物に登場するようになりましたね
ちなみにモデルとなったワラキア公ヴラド三世、通称ドラキュラ公、ヴラド・ツェペシュ(ツェペシュは串刺しにするものの意で名字ではないです)は、近年自国を侵略から守った者として再評価されています
620
:
Republica de Venexia
:2015/05/26(火) 08:55:37 ID:???
>>619
創作のドラキュラ、そんな昔だったんですね、おめでとうございます!
オスマン帝国に対抗したワラキアのヴラド=ツェペシュ、アルバニアのスカンデルベグ、ハンガリーのフニャディ=ヤノシュは郷土の英雄ですよね
ヴラドも再評価が進んでいるのは嬉しい限りです
621
:
Republica de Venexia
:2015/05/27(水) 00:07:02 ID:???
5月27日は日本海海戦が行われた日です
日露戦争海戦後、日本はロシア太平洋艦隊を旅順港に封じ込めるため、閉塞作戦を三度にわたり敢行しました
しかしこれは旅順の強力な要塞砲により失敗に終わります
そして1904年、昨日
>>618
にも登場したニコライ2世が第二太平洋艦隊、通称バルチック艦隊の極東派遣を決定したのは
>>316
でも見た通りです
両艦隊が合流すれば勝ち目がないと考えた日本は旅順艦隊へ猛攻を加え、ついに旅順艦隊を引き摺り出しました
これを聯合艦隊が追撃したのが黄海海戦でしたが、この海戦で日本は丁字戦法により旅順艦隊の撃滅を図ったものの、旅順艦隊は聯合艦隊と反対に急旋回し決定打を与えられずに逃がしてしまったのです
その間にもバルチック艦隊は日本に迫っており、日本海軍の秋山真之は丁字戦法を取りやめ、駆逐艦・水雷艇によって夜間奇襲を行い、連繋機雷を散布するという戦法を考案しました
そしてこの機雷散布を第一段階とし、二日目の主力艦隊による攻撃、駆逐艦・水雷艇の夜間雷撃、三日目の敵残存艦隊追撃戦、夜間雷撃、4日目の敵残存艦隊追撃、夜間雷撃、そしてウラジヴォストークの機雷区域に追い込み触雷を誘うという七段作戦で待ち構えるのです
しかし決戦当日の1905年5月27日、誤算が発生しました
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
第一段作戦の連繋機雷による奇襲を断念せざるを得なくなったのです
さらに誤算は続きます
聯合艦隊は黄海海戦を教訓に丁字戦法を取りやめ、バルチック艦隊より1万メートル東方で余裕をもって旋回し、同航戦に持ち込む予定のはずが、通報艦の誤報によりバルチック艦隊が正面に現れたのです
ここで聯合艦隊司令長官東郷平八郎は即座に決断し、いったん西へと進路を取り、
「皇国ノ興廃、此ノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ」
のZ旗が翻りました
そして東郷はなんと、東郷ターンと称される敵前大回頭を敢行したのです
当然東郷座乗の聯合艦隊旗艦「三笠」には砲撃が集中しますが「三笠」はこれを耐え抜き、全艦が回頭した聯合艦隊はバルチック艦隊の頭を抑える形で同航戦を展開します
その後バルチック艦隊が北西へ逃れる素振りを見せたため、東郷もまた北西へ回頭し抑えにかかりますが、バルチック艦隊はその逆の南東へ回頭、聯合艦隊はまたも裏をにかかれる形となりました
しかし聯合艦隊第二艦隊司令長官上村彦之丞はバルチック艦隊の先頭艦が北西に旋回したのは舵の故障だと見抜き、南東へ回頭、バルチック艦隊を捕捉したのです
やがて東郷の第一艦隊も追撃したことで挟撃する形となり、バルチック艦隊は集中攻撃を受けることとなったのでした
この日のうちにバルチック艦隊は壊滅的な打撃を受け、夜間には駆逐艦・水雷艇による雷撃により残存艦隊も次々と脱落します
翌5月28日の朝にはバルチック艦隊は降伏、ウラジヴォストークに逃れたのはわずか3隻という完勝を収めたのでした
本日は海戦史上稀な「完全勝利」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・野村実『日本海海戦の真実』講談社、1999年
・「歴史人別冊 日露戦争の真実」ベストセラーズ、2013年
・「歴史街道2015年6月号 日本海海戦と戦艦三笠 『奇跡』を起こしたものは何か」PHP研究所、2015年
622
:
落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!
:2015/05/27(水) 04:29:42 ID:???
今日は1986年にゲーム「ドラゴンクエスト」の一作目が発売されて丁度29年となる日です
今でも新作がたまに出るあたり、やっぱり大ヒットしたソフトは違いますね
最近ではオンラインゲーム化やARPG化など、これまでとは違った一面を見せるようになってきました
たまには押し入れにしまってあるSFCなど昔のハードを引っ張り出してするのもいいかもしれませんね
623
:
Republica de Venexia
:2015/05/27(水) 07:59:08 ID:???
>>622
ドラゴンクエストの29周年!
来年は30周年ということで何か大々的にするかもですねー
SFCというとスーパーファミコンなんですね、歴史を感じます...
624
:
Republica de Venexia
:2015/05/28(木) 00:11:34 ID:???
5月28日はパリ=コミューンが崩壊した日です
>>221
などで見た普仏戦争において、1870年のセダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、第二帝政が崩壊します
パリでは戦闘継続を目指し、トロシュを首班とする国防政府が組織され第三共和政となりました
しかしプロイセンはやがてパリを包囲し、内相ガンベッタは気球で脱出して地方で国民軍を組織、抵抗を図ります
一方パリに残ったティエールら穏健派はプロイセンとの妥協を図り、71年1月にドイツに降伏しました
その後プロイセン王がヴェルサイユ宮殿にて戴冠式を行い、ドイツ帝国が成立したのは
>>433
で見た通りです
この屈辱にパリ市民は反発し、国民軍の武装解除を図る国防政府に対抗、世界初の市民・労働者からなる革命自治政権パリ=コミューンを結成したのです
パリ=コミューンは国民軍の支配下にあるパリ各区から選出された代議員によって構成され、行政府であり同時に立法府でもある、革命的活動の中核となる組織でした
政策としては労働者階級の利益に沿い、その解放を目指す施策を実施、ドイツ軍の支援を受けるティエールらの政府軍によく抗戦します
しかし5月21日から始まった「血の一週間」と呼ばれる政府軍の攻勢に遭い、1871年5月28日、ついに崩壊することとなったのでした
本日はパリ=コミューンの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
625
:
Republica de Venexia
:2015/05/29(金) 00:01:37 ID:???
5月29日はレニャーノの戦いが行われた日です
>>294
などで見た叙任権闘争により、それまで神聖ローマ皇帝が支配権を行使してきたイタリア王国と教皇領において皇帝権が弱体化し、権力構造の転換が見られるようになります
それまでイタリアの都市を支配していたのは皇帝が任命した伯や司教またはその代官でしたが、皇帝権弱体化に伴い市民はローマ教皇が任命した伯や司教を支持するようになったのです
司教の指導力が強いロンバルディアでは特にその動きが進み、その中心都市ミラノは三重構造となり、その中でコムーネの権力が皇帝の承認無しに他の権力を侵害し始めます
そしてコムーネは、伯や司教伯に代わって都市の支配者となっていき、伯管区であるコンタードに対し服従を要求、やがてコムーネに従属する支配領域がコンタードと称されるようになったのです
さらにミラノのような強力なコムーネはコンタード領域を超え、周辺のコムーネをも従属させるようになっていきます
神聖ローマ皇帝にとっては、このようなコムーネの権力増大はレガーリア(皇帝の権利)を不法に侵害するものでもありました
また強力なコムーネの圧迫を受ける伯、司教、領主、自治集落、弱小コムーネは皇帝に救援を求めるようになり、1158年に皇帝フリードリヒ1世はロンカリア帝国議会を開き、レガーリアを明確にするというロンカリア立法を発布しました
こうして皇帝とコムーネとの対立は深まり、教皇との対立も絡んで北イタリアでは争乱が頻発するようになります
1162年、フリードリヒは教皇が支援するミラノを征服、64年にもイタリアに遠征し、その際にはヴェローナ、ヴェネツィア、パドヴァ、ヴィチェンツァがヴェローナ都市同盟を結成し皇帝に対抗しました
復興したミラノも、ロンバルディア地方などの26都市を含んだロンバルディア都市同盟を結成、皇帝に反抗します
そして1176年5月29日、ロンバルディア都市同盟軍と皇帝軍はレニャーノで激突し、皇帝軍は大敗しました
その後和平交渉が進められ、1183年のコンスタンツの和約で同盟都市に事実上の主権が認められたのです
これをきっかけにコンタードでもコムーネ権力の承認が進行し、北・中部イタリアではコムーネの支配による都市国家が成立するようになるのでした
本日はコムーネ権力の皇帝権に対する勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・齋藤寛海・山辺規子・藤内哲也編『イタリア都市社会史入門 12世紀から16世紀まで』昭和堂、2008年
626
:
落ち着いて、セックスしよう!? さぁ、早くセックスを!
:2015/05/29(金) 04:13:15 ID:???
今日はこんにゃくの日です
こ(5)んに(2)ゃく(9)の語呂合わせらしいです
コニャックの日でもいいかもしれませんね
ちなみにこんにゃくですが、主産地は群馬でほぼ90パーセントのシェアを占めています
灰汁とともに粉を茹でるなどかなり面倒な調理法だったそうですが、どうやって確立されたのでしょうか
こんにゃくイモを加工せず生でたべるとシュウ酸カルシウムのトゲのような結晶が口の粘膜を容赦なく傷つけます、山芋のとろろを素手で触った時のかゆみの強烈なものがくるらしいです
個人的には歯ごたえのあるつるつるしたのがすきですね
627
:
Republica de Venexia
:2015/05/29(金) 07:58:17 ID:???
>>626
コニャック...というとフランスの都市を思い出しますね
関係があれば面白いですけど、単に同じように読むってだけなのかな?
こんにゃくの日おめでとうございます!
628
:
Republica de Venexia
:2015/05/30(土) 00:06:20 ID:???
5月30日はジャンヌ=ダルクが処刑された日です
>>96
で見たジャンヌ=ダルクの登場によってイングランドに包囲されていたオルレアンが1429年5月に解放され、百年戦争はフランス優位に転じていくようになりました
フランスはその勢いでロワール川流域を制圧し、6月にはパテーの戦いでイングランドに大勝、シャンパーニュ地方の大司教座都市ランスに到達します
ランスでは伝統的にフランス王の戴冠式が行われており、シャルル7世もここで戴冠式を挙行しました
しかしその後はジャンヌ=ダルクの快進撃も陰りを見せるようになります
ランスからパリ奪還を目指すもののイングランドの抵抗に遭い、9月には撤退を余儀なくされました
続いてロワール地方で戦うものの戦果は挙げられず、翌1430年5月にピカルディに北上するとコンピエーニュの戦いに敗れ捕虜となってしまいました
ジャンヌを捕縛したのが、
>>278
で見たブルゴーニュ公のフィリップ善良公の軍勢でした
フランス王権に匹敵する勢力を持ち、その対立からイングランドと同盟していたフィリップはジャンヌの身柄をイングランドに預けます
イングランドはノルマンディ公領のルーアンでジャンヌの異端審問を行い、火刑の執行を決定しました
そして1431年5月30日、ジャンヌ=ダルクは処刑されることとなるのでした
本日は後の「聖女ジャンヌ=ダルク」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
629
:
Republica de Venexia
:2015/05/31(日) 01:03:47 ID:???
5月31日はカルカ河畔の戦いが行われた日です
1206年に大ハーンとなったチンギス=ハーンはモンゴルを平定し、その後周辺地域を征服する一方、1217には四狗の一人ジェべを西遼に遠征させました
モンゴルは瞬く間に西遼を征服し、1218年にはオトラル事件をきっかけにイランへと侵入、ホラズム朝を瓦解させます
この時ホラズム朝のアラーウッディーン=ムハンマドは西方へと逃走、チンギス=ハーンはジェべとスブタイに追討を命じました
2人はムハンマドを追跡するものの捕捉できず、1220年末にムハンマドはカスピ海の小島で死去します
このことを知らないジェべとスブタイはさらに軍勢を進め、1221年にはグルジア王国を制圧し、さらにウクライナ方面へと向かいました
ウクライナ草原はキプチャク族が支配していましたが、モンゴル軍襲来に際しルーシ諸侯に援軍を求めます
しかし諸侯は互いに対立しており、軍としての統率が取れないままモンゴル軍を迎え撃つこととなったのです
そして1222年5月31日、ジェべとスブタイ率いるモンゴル軍はカルカ河畔においてキプチャク族・ルーシ諸侯連合軍に大勝しました
その後モンゴル軍はいったん引き上げるものの、スブタイは
>>558
で見たようにバトゥの西征に副官として参加し、再びルーシを制圧することとなるのでした
本日は「タタールのくびき」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年
630
:
Republica de Venexia
:2015/06/01(月) 00:02:40 ID:???
6月1日は中都が陥落した日です
>>629
で見た西征の直前、1211年からチンギス=ハーンは金を攻めていました
平定なったモンゴルの遊牧民を対外戦争によって団結させようとしたのです
チンギスはまず内モンゴルの契丹系遊牧民を従属させ、これを軍に加えた後に満州と華北において略奪戦を展開しました
そして金の都である中都は孤立していき、1213年には中都を包囲します
この状況で金の宣宗はモンゴルに対し講和を求め、毎年歳弊をモンゴルに貢ぐという条件でこの講和が成立しました
しかし宣宗は翌1214年、中都を離れて南方の開封に遷都したのです
これを違約とし、チンギスは再び金への攻撃を行います
そして1215年6月1日、中都は陥落し華北をほぼ放棄することとなりました
その後チンギスは金攻略を四駿筆頭のムカリに任せ、自身は
>>629
の西征に取り掛かるのでした
本日は金の都中都の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年
631
:
Republica de Venexia
:2015/06/02(火) 00:01:28 ID:???
6月2日はアンティオキアが陥落した日です
>>366
で見たように第1回十字軍は1095年に召集され、翌96年秋に聖地へ向けて出発しました
97年4月には小アジアに渡りニケーアを攻めるものの、ここはビザンツ帝国に出し抜かれ、ニケーアを離れて小アジアを横断していきます
この後
>>224
のゴドフロワ=ド=ブイヨンの弟であるボードゥアン=ド=ブーローニュが別行動を取り、98年2月にエデッサを攻略、エデッサ伯国をたてました
ボードゥアンは後にゴドフロワの後を継いで正式な初代イェルサレム王となり、エデッサ伯国は
>>199
でザンギーに滅ぼされるまで存続します
一方十字軍本隊はアンティオキアへと向かい、97年10月から包囲を開始しました
アンティオキアはセレウコス朝シリアの都となった歴史の古い都市で、ローマ帝国時代はその第三の都市として繁栄し、キリスト教の五本山としても繁栄します
その後
>>253
のヘラクレイオス治世でイスラームに奪われるものの
>>232
でも登場したニケフォロス2世によって奪還され、
>>261
で見たセルジューク朝によって再びイスラーム支配下となっていました
アンティオキア包囲戦は難航し、ビザンツ帝国将軍タティキオスやエティエンヌ=ド=ブロワらが脱落するほどでしたが、ボエモンの活躍により膠着状態が打開されました
彼は
>>566
などで登場したノルマン人ロベール=ギスカールの息子でした
彼はイタリアでの展望が開けなかったため十字軍に参加し、東方に活路を見出していたのです
1098年6月2日、ボエモンはアンティオキア城内の内通者の手引によって城内に侵入し、ついに1098年6月2日、アンティオキア攻略に成功するのでした
本日は十字軍領アンティオキアの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田廣訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・エリザベス・ハラム、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
632
:
Republica de Venexia
:2015/06/03(水) 00:11:25 ID:???
6月3日はアラゴン艦隊が出港した日です
>>504
で見たように、シチリア王マンフレーディはその娘コンスタンツァをアラゴン王子ペドロと婚約させ、アラゴン王国と姻戚関係となりました
やがて
>>332
のようにマンフレーディ、そしてコンラーディンがシャルル=ダンジューによって滅ぼされ、ホーエンシュタウフェン家の後継者はコンスタンツァに託されることとなります
アラゴンでは1276年にハイメ1世が死去、王子ペドロはペドロ3世として即位しました
79年にはアンダルシアのムーア人との問題を解消し、カスティーリャも王位を巡る内紛が起こっていたため、ペドロはイタリアに全関心を向けられる状況となります
ペドロは宰相ジョヴァンニ=ダ=プロチダを派遣し、シャルル=ダンジューと対立するイタリアの皇帝派やシチリア貴族、そしてビザンツ帝国との同盟に成功します
このビザンツ帝国については、シャルル=ダンジューがコンスタンティノープルへの遠征を計画していたこともあって、皇帝ミカエル8世はあらゆる手段を駆使してその計画を阻止しようと努めていました
シチリア人の反シャルル=ダンジュー感情を煽り、アラゴン王国の協力も取り付けたのです
もっともペドロとしてはシャルル=ダンジューがコンスタンティノープル遠征にシチリアを留守にした隙に侵入するつもりでしたが、ミカエルは先手を打ってシチリアの反乱を誘発させました
これが
>>40
で見た、1282年3月30日のシチリアの晩鐘です
こうしてミカエルに出し抜かれる形となったペドロでしたが、焦って行動することはありませんでした
シャルル=ダンジューはすぐさま反乱の鎮圧に乗り出し、反乱軍との間で激しい戦闘となります
この間の1282年6月3日、ペドロはアラゴン艦隊を結集しファンゴス港を出港、アフリカに渡って反乱の推移を見守っていました
やがて孤立し始めた反乱軍はホーエンシュタウフェン家の正統であるコンスタンツァとその夫ペドロを国王に迎えることに決し、ペドロに救援を求めます
同年8月にペドロはシチリアに上陸しシャルル=ダンジューを撃破、シチリア王となるのでした
本日はアラゴン王国のシチリア遠征の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
633
:
Republica de Venexia
:2015/06/04(木) 00:02:12 ID:???
6月4日はハインリヒ3世が即位した日です
>>544
のコンラート2世が死去し、その息子ハインリヒ3世が1039年6月4日、ドイツ王として即位しました
ハインリヒは父王が残した強力な帝国を受け継ぎ、その支配をさらに固めていきます
本拠地であるフランケン公領の他にシュヴァーベン公領、バイエルン公領も得、ドイツ王・イタリア王・ブルグント王・シュヴァーベン大公・バイエルン大公としての支配権を維持し、またボヘミア・ポーランド・ハンガリーに対する覇権も保ったのです
このようにハインリヒは王権の確立に成功し、また教会政策も父王の政策を踏襲し特に帝国教会にはほぼ無制限の支配権を持っていました
そしてローマ教皇にもまたハインリヒは強権を発揮します
ハインリヒか1046年にイタリアへと遠征した当時、ローマ教皇はベネディクトゥス9世、シルウェステル3世、グレゴリウス6世が鼎立していました
ハインリヒはスートリ教会会議でこのうちグレゴリウスとシルウェステルを罷免し、数日後にローマでの教会会議でベネディクトゥスをも罷免します
ローマの伝統として、教皇の選出はローマの人々によってなされるのが当然とされていました
これまでローマ人を無視し、皇帝の権威によって教皇を擁立したのは
>>598
などで登場したオットー3世のみでしたが、ハインリヒは再びこの皇帝理念を実現したのです
ハインリヒが教皇に選出したのはドイツ帝国教会の一員、バンベルク司教スイトガーで、これをクレメン.ス2世として教皇の地位に就けます
クレメン.スはバンベルク司教の地位も保ったままであり、ローマ教皇であり帝国司教でもあるという特別な形で皇帝に義務を負うこととなったのです
またハインリヒは1046年のクリスマスにローマにて皇帝戴冠式を挙行しました
その際にローマの人々はハインリヒを「ローマ人のパトリキウス」と歓呼します
こうしてハインリヒは「ローマ人の皇帝」として西欧で最も高い地位にある君主となりました
帝国領における無制限の支配権を望め、また反抗する貴族の領地を召し上げ直轄領の拡大に成功します
また主権者として帝国教会を支配し、司教や帝国修道院長の任命権も保持し、ローマ教会の支配者としても君臨したのです
ハインリヒの治世は、まさに皇帝権の絶頂期だったのです
本日はハインリヒ「黒王」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
634
:
Republica de Venexia
:2015/06/05(金) 00:10:46 ID:???
6月5日は後鳥羽上皇が挙兵した日です
鎌倉幕府では源頼朝の死後御家人の勢力が増大していき、中でも北条氏の台頭が顕著でした
北条氏は時政が幕府の実権を握り執権と呼ばれるようになります
時政の後を継いだ義時は1213年に和田義盛を滅ぼして執権の地位を不動のものとし、1219年には3代将軍実朝が暗殺されました
幕府には摂関家から藤原頼経が迎えられ摂家将軍となりますが、名ばかりの将軍であり実権は北条氏のもとにあったのです
一方朝廷では武士勢力の全国拡大を不満とし、特に荘園が地頭に奪われていったことで倒幕の動きが高まりつつありました
これを主導したのが後鳥羽上皇で、専制政治を進め分散していた天皇家領を手中に収め経済的基盤を強化します
そしてその土地を恩賞として軍事力を募り、畿内周辺の幕府御家人も上皇に臣従するようになったのです
上皇はこれらを北面の武士や新設の西面の武士に任じ、朝廷の軍事力は高まっていきました
そして1221年6月5日、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発し、ここに承久の乱が勃発します
しかし上皇の下に畿内の武士は集まったものの、大多数は義時の下に集結しました
義時は東海道・東山道・北陸道の三方面から大軍を京都に向かわせ、劣勢の朝廷軍はわずか一ヶ月足らずで壊滅します
後鳥羽上皇は隠岐に配流され、上皇方についた武士の所領は没収、京都には六波羅探題が置かれ、幕府と北条氏の支配はますます強固なものとなっていくのでした
本日は承久の乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
・関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』吉川弘文館、2012年
635
:
Republica de Venexia
:2015/06/06(土) 00:08:14 ID:???
6月6日はクリスティーナが譲位した日です
>>353
のリュッツェンの戦いでスウェーデン王グスタフ=アドルフが戦死した時、その娘クリスティーナはわずか5歳でした
当然政務はとれないため、宰相オクセンシェルナが国政を受け持ち三十年戦争を戦ったのは
>>305
でも見た通りです
そしてスウェーデンは三十年戦争を戦い抜き、1645年にはヤンカウの戦いで皇帝軍に勝利し皇帝フェルディナント3世はプラハからウィーンへ逃亡、47年にはプラハが包囲され、講和条約に至るのです
戦勝の立役者となったスウェーデンは当初、ポンメルン、シュレジエン、ブレーメン、ヴェルデン、マクデブルク、ハルバーシュタット、カミン、ミンデン、オスナブリュックの各司教領、ヴィスマル港を要求しました
しかしウェストファリア条約によってスウェーデンが得た領土は前ポンメルン、ブレーメン・ヴェルデン司教領、ヴィスマル港のみでした
この大幅な譲歩を主導したのが、1644年から親政を開始したスウェーデン女王クリスティーナだったのです
クリスティーナはスウェーデン一国の利害よりも、全ヨーロッパ、全キリスト教徒の平和を優先し、オクセンシェルナを筆頭とする国内の大反対を押し切って譲歩を貫きました
その結果他国の利益が増えることとなり、
>>327
のウェストファリア条約が穏便に締結されたともいえるでしょう
もちろん、クリスティーナの理想はスウェーデンの国益を度外視したものであり、その理想を追求すればするほど、女王としての彼女と乖離していくことになります
そのためクリスティーナは1654年6月6日、27歳にして譲位し、従兄にあたるカール=グスタフが王位を継ぐのでした
本日はスウェーデン王カール10世グスタフの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
636
:
Republica de Venexia
:2015/06/07(日) 00:01:29 ID:???
6月7日はトルデシリャス条約が結ばれた日です
>>313
で見たコロンブスによる「新大陸発見」を重要視したカトリック両王の対応は迅速でした
「発見」の翌1493年、その法的権利を得ようとローマ教皇アレクサンデル6世と交渉したのです
スペイン出身であるアレクサンデルはこれに応じ、スペインの植民地に法的保証を与えるアレクサンデル教書が与えられ、ヴェルデ岬西方560kmの西側をスペイン領とする教皇子午線が設定されました
これに抗議したのが、同じく植民地拡大を目指すポルトガルでした
カトリック両王としてもポルトガルとの関係を維持したく、ポルトガルの要求に応じ子午線を西方に移します
そして1494年6月7日改めて両国間でトルデシリャス条約が結ばれました
この条約は異例なものであり、全地球を政治的に1つのものとみなし、それをスペインとポルトガルの二国家間で分割するというのです
子午線はさらに150km西方に移され、その西側をスペイン領、東側をポルトガル領とすることが取り決められたのでした
本日は世界分割の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
637
:
Republica de Venexia
:2015/06/08(月) 00:01:26 ID:???
6月8日はリンディスファーン修道院が襲撃された日です
イングランドでは5世紀からアングロ=サクソン人の本格的な侵入が始まり、7世紀末にはケント、エセックス、サセックス、ウェセックス、イーストアングリア、マーシア、ノーザンブリアのいわゆる七王国が分立しました
その中でキリスト教も普及していき、特に7〜8世紀に強勢を誇ったノーザンブリアではキリスト教文化が隆盛し、ベーダやアルクインなどの学僧が活躍します
ノーザンブリアでもキリスト教文化の中心地となったのがリンディスファーン修道院で、聖なる島の異名を持ち、『リンディスファーンの福音書』は現在にも残されているのです
やがて七王国は
>>299
で見たようにウェセックス王のエグバートによって統一されていきますが、その時期はちょうどヨーロッパの第二次民族移動期と重なっており、イングランドにもその波が押し寄せてきます
793年6月8日、リンディスファーン修道院をデーン人が襲いました
イングランドでは海岸防備が薄く、豊かな修道院は格好の獲物だったのです
以降もデーン人の侵入は繰り返され、アルフレッド大王の時代になって一時撃退することになるのでした
本日はヴァイキング時代の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・B.アルムグレン、蔵持不三也訳『図説ヴァイキングの歴史』原書房、1990年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
638
:
Republica de Venexia
:2015/06/09(火) 21:44:36 ID:???
6月9日はピョートルが産まれた日です
1669年、ロシア皇帝アレクセイ=ミハイロヴィチは妻のマリア=ミロスラフスカヤを亡くし、その2年後にナタリア=ナルイシュキナと再婚しました
このナタリアとアレクセイとの間で1672年6月9日に産まれたのがピョートルです
そして1676年にアレクセイが死去すると、宮廷ではその後継者をめぐってミロスラフスキー家とナルイシュキン家との間で争いが起こりました
この時はミロスラフスキー家のフョードル3世が即位しましたが、彼は病弱のため治世わずか6年で跡継ぎがいないまま死去してしまいます
再び後継者争いが起こり、フョードルの弟イヴァンが候補に挙がりましたが彼もまた病弱で、10歳になって逞しく成長していたピョートルが母ナタリアを摂政とし、皇帝ピョートル1世として即位したのです
しかしミロスラフスキー派も、フョードルとイヴァンの姉であるソフィアが巻き返しを図りました
ピョートル即位の翌月、ソフィアは銃兵隊を取り込んでナルイシュキン派を襲い、イヴァンを皇帝に就け自身は摂政として政治の実権を握りました
ところがソフィアはオスマン帝国従属下のクリミア=ハン国に対する遠征に失敗すると支持を失い、ピョートル支持派は勢いを取り戻します
ミロスラフスキー派はピョートルの暗殺を計画するものの失敗し、1689年、ピョートルは政治の実権を取り戻しました
1694年には摂政である母ナタリアが死去し、ここからピョートルの親政が始まります
そしてピョートルは西欧技術導入によるロシアの近代化、強国化に努め、
>>205
で見たように大北方戦争に勝利し、新都サンクト=ペテルブルクを建設するなど、「大帝」としてロシアに君臨することとなるのでした
本日は後のピョートル大帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
639
:
Republica de Venexia
:2015/06/10(水) 01:17:08 ID:???
6月10日はフリードリヒ1世が水没した日です
>>512
で神聖ローマ皇帝に即位したフリードリヒ1世バルバロッサはドイツにおける王権を固め、叙任権闘争以来権力を高めていた教皇権に挑み、その治世で神聖ローマ帝国の威信は大いに高まりました
フリードリヒの皇帝理念は、「神聖帝国」という名称にも表れています
彼は1157年に開かれたブザンソンにおける宮廷会議で、ローマ教皇ハドリアヌス4世がよこした、教皇の恩恵によって皇帝位を授与するという旨の手紙をはねつけます
自身の王権と皇帝権は神のみから授与されたこと、そしてその神の意思はドイツ諸侯の選挙に表現されているとしたのです
皇帝権が神に直接由来し、そのため教皇権から独立したものであるという見解、それを表現したのが「神聖帝国」という呼称でした
そんなフリードリヒにとって、十字軍への参加は皇帝が西欧キリスト教世界の頂点としての威信を高めるものであり、折しも
>>199
のヒッティンの戦いでサラディンによって十字軍国家が大打撃を受けたこともあって、1189年、フリードリヒは第3回十字軍を組織します
この十字軍はイングランド王リチャード1世獅子心王、フランス王フィリップ2世尊厳王も参加した大規模なものでしたが、その途上の1190年6月10日、フリードリヒは小アジアのサレフ川で水浴中に溺死してしまいます
こうしてあっけない最期を遂げたフリードリヒですが、この偉大な皇帝への追慕から、フリードリヒはキフハイザーの城に眠っていて、ドイツの危急存亡の折には必ず帰還するという伝説が生まれるのでした
本日はフリードリヒ1世バルバロッサの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
640
:
Republica de Venexia
:2015/06/11(木) 00:14:43 ID:???
6月11日はブレスラウ条約が結ばれた日です
これまでオーストリア継承は何度か取り上げてきましたが、この戦争はいくつかの段階に分かれており、その第一段階は第一次シュレジエン戦争と呼ばれます
プロイセン王フリードリヒ2世のシュレジエン奇襲によって始まったこの戦争は、
>>559
のモルヴィッツの戦いにプロイセンが「勝利」したことでプロイセン寄りのフランス・バイエルンが勢い付き、この3国にザクセン・スペインを加えた同盟が成立します
バイエルンは神聖ローマ皇帝位とベーメン、ザクセンがメーレン、スペインがピエモンテ、フランスがオーストリア領ブラバントとフランドルを獲得するという合意がなされました
これに基づき、1741年に連合軍はオーストリア領ベーメンに侵攻、プラハを陥落させバイエルン選帝侯カール=アルブレヒトのベーメン王即位、翌42年には神聖ローマ皇帝カール7世としての即位を宣言しました
これに対しフランスの勢力拡大を阻止すべくイギリスがオーストリア側で戦争に介入、オーストリアもマリア=テレジアがハンガリーの協力を取り付け反撃を開始します
ここでプロイセンは密かにオーストリアと密約を結び、シュレジエンの一部譲渡を条件に単独で講和します
これによってオーストリアは勢いを得、連合軍をベーメンから退却させるため、カール7世の本拠地バイエルンへと侵攻します
このために連合軍はベーメンから退却し、オーストリアはさらにプロイセンとの密約を暴露することで同盟国間の不審を煽りました
ここに至ってプロイセンは戦争から離脱できなくなり、戦争継続を決意します
しかしオーストリアはその勢いのままバイエルンの首都ミュンヘンを占領、さらにプラハも奪回し、プロイセンへと攻勢をかけますが1742年5月のコトゥジッツの戦いでプロイセンに敗北、その勢いは止まることとなりました
ここでオーストリアはプロイセンに対する再びの妥協を決定、1742年6月11日、ブレスラウにて講和条約が締結されます
その内容はプロイセンがマリア=テレジアの夫フランツの神聖ローマ皇帝への即位を認める代わりに、オーストリアがプロイセンのシュレジエン全土の領有を認めるというものでした
こうしてシュレジエンを巡るオーストリアとプロイセンとの戦争はひとまず終結を迎えましたが、
>>597
で見たようにフランスやバイエルンとの戦いは続いていくのでした
本日は第一次シュレジエン戦争の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
641
:
Republica de Venexia
:2015/06/12(金) 00:01:25 ID:???
6月12日はアンネ=フランクが産まれた日です
アンネ=フランクは1929年6月12日、ドイツのユダヤ人の家庭に産まれました
当時のドイツでは反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が勢力を拡大しており、その党首アドルフ=ヒトラーは1933年に首相に就任します
以後国政を掌握したナチスは反ユダヤ主義政策を次々と打ち出し、ユダヤ人の国外追放を進めるのです
アンネ一家も父親のオットーが33年にオランダに移住し、アンネも翌年オランダへと移っていきます
オランダにはナチスの迫害を逃れたユダヤ人が多く移住しており、ここでアンネは教育を受ける機会を得ました
しかし1939年にヒトラー率いるドイツによって第二次世界大戦が勃発すると、翌40年にはオランダもドイツに占領され、オランダでも反ユダヤ主義政策が進められたのです
1942年6月12日、アンネが13歳の誕生日に日記帳をプレゼントされたのはそのような状況においてでした
42年の時点でヒトラーの反ユダヤ主義政策は全ヨーロッパに拡大しており、ホロコーストと呼ばれるユダヤ人の大量虐殺も繰り返されるようになります
アンネ一家は隠れ家での潜伏生活を余儀なくされ、彼女の日記には隠れ家での出来事が書き綴られています
やがて1944年にアンネ一家はナチス親衛隊に発見され、強制収容所に送られることになります
1942年6月12日〜44年8月1日まで記録されたこの日記帳は、戦後父親のオットーによって出版され、『アンネの日記』として全世界で読まれることになるのです
本日は『アンネの日記』の誕生日です
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・レイモンド・P・ジェインドリン、入江規夫訳『ユダヤ人の歴史』河出書房新社、2012年
642
:
Republica de Venexia
:2015/06/13(土) 00:53:42 ID:???
6月14日はルートヴィヒ2世が亡くなった日です
これまで度々登場し、ドイツ史において重要な役割を担ってきたバイエルンは、
>>211
のナポレオンによるライン同盟結成の際、王国に昇格しその加盟国となりました
>>567
のドイツ帝国成立の際にも王国としての地位は保たれ、プロイセンに次ぐ第二の大邦として自立性を保持していたのです
ルートヴィヒ2世がバイエルン王となったのはドイツ帝国成立以前の1864年3月でした
しかしルートヴィヒは政務を離れて自身の趣味に没頭し、ノイシュヴァンシュタイン城やヴェルサイユ宮殿を模したヘーレンキームゼー城、トリアノン宮殿を模したリンダーホーフ城などを建築します
やがてルートヴィヒは精神に異常をきたし、狂人と宣告されて1886年6月12日に王位を追放され、その翌日の6月13日に謎の死を遂げたのでした
本日は「ルートヴィヒ狂王」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・須永朝彦『ルートヴィヒ2世 白鳥王の夢と真実』新書館、1995年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
643
:
Republica de Venexia
:2015/06/14(日) 00:17:29 ID:???
6月14日は岩本徹三が産まれた日です
1916年6月14日、岩本徹三は樺太で四人兄妹の三男として誕生日しました
海軍を志した岩本は1934年に呉の海兵団に入団、36年には第34期操縦練習生を卒業し、一等航空兵として佐伯海軍航空隊に勤務することとなります
その初陣は日中戦争が勃発した翌年の1938年、南昌攻撃においてで、この空戦で岩本は4機を撃墜するという華々しい戦果を挙げ、帰国するまでに14機を撃墜するというトップエースとなったのです
太平洋戦争開戦時には空母「瑞鶴」の戦闘機隊として
>>377
の真珠湾攻撃、
>>51
のセイロン沖海戦などのインド洋作戦、そして史上初の空母同士の航空戦となった
>>594
の珊瑚海海戦に参加し、母艦上空直掩で活躍します
珊瑚海海戦から旗艦後は航空隊教員や基地航空隊勤務を経て、1943年11月にラバウル航空隊に加わりました
「大空のサムライ」坂井三郎、「ラバウルの魔王」西澤廣義、「ラバウルのリヒトホーフェン」笹井醇一など名だたるエースも所属したこのラバウル航空隊でも岩本は実力を発揮します
岩本が得意としたのは一航過一撃戦法(一撃離脱戦法)で、敵より先に相手を発見し、敵機より高位から急降下で肉迫、射撃を加え下方に離脱するというものでした
ラバウルでも着々と戦果を挙げていくなか、着任より一ヶ月後の1943年12月、岩本らのもとに新兵器の三号爆弾が到着します
これは敵編隊の上空から投下すると時限信管によって炸裂し約200発の小型爆弾が飛び散るというものでした
岩本はこの三号爆弾を巧みに操り、一航過一撃戦法によって一度に10機以上を撃墜するということもありました
1944年にはラバウルを離れ、トラック基地などを経て内地の基地航空隊を転々、B29を単機で撃墜という活躍もありました
こうして1938年の初陣から1945年の終戦までの8年間、第一線で戦い抜いた岩本は自身の記録で202機もの敵機を撃墜し、その愛機には撃墜数を表す桜のマークが描かれ、その多さから機体後部はピンク色に見えたといいます
岩本徹三は、まさに太平洋戦争における撃墜王の一人だったのです
本日は「零戦虎徹」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・岩本徹三『零戦撃墜王』光人社、2004年
・「歴史街道2009年8月号 岩本徹三と零戦 ラバウル航空隊の誇りと不屈の闘志」PHP研究所、2009年
・「歴史人別冊 零戦の真実」KKベストセラーズ、2012年
644
:
Republica de Venexia
:2015/06/15(月) 00:16:03 ID:???
6月15日はコソヴォの戦いが行われた日です
オスマン帝国第三代スルタンのムラト1世はバルカン半島への進出を進め、ビザンツ帝国の重要都市アドリアノープルを征服しました
こうした領土の拡大に伴って支配下の部族は増大していき、オスマン帝国は従来の支配体制からの変革を迫られることになります
初代オスマン、二代オルハンの時代では行政と軍事が未分化なまま、支配下の部族長による合議が行われ、スルタンはその調停者というような役回りでしたが、宰相の制度が整備され統治組織の充実を図られたのです
ムラトは職務内容別に複数の宰相を任命し、彼らによる御前会議がオスマン帝国の政策の最高決定機関となりました
またイスラーム法に精通した知識人(ウレマー)を登用し、イスラーム法の施行に従事したことで法制度も整備されていきます
軍事においても改革が行われ、オルハンの時代には失敗した常備軍が編成されました
異教徒・異民族の人々を奴隷として入手し、訓練を施して軍人とする奴隷軍人制度が取り入れられたのです
これが後にオスマン帝国軍の中心となる常備歩兵軍団イェ二チェリの始まりでした
こうしたオスマン帝国の発展に脅威を感じたセルビアはハンガリーやボスニアなど他のバルカン諸国と結んで対抗しようとしますが、すでにセルビアは
>>69
のステファン=ドゥシャンの死後分裂しており、1364年のマリツァの戦いで敗れます
71年には再びセルビアがオスマン帝国に挑むもののまたもやマリツァで敗北しました
オスマン帝国はその後も85年にソフィア、86年にはニシュを攻略しバルカン半島を次々と支配下に収めていきます
これに対し1389年、バルカン諸国はセルビア王ラザールを中心にボスニア、ワラキア、アルバニアなど10万とも言われる大軍を編成し南下します
オスマン帝国も小アジアの諸君侯国や属国ビザンツ帝国やブルガリア、セルビアに敵対する諸侯の兵を糾合し迎え撃ちます
1389年6月15日、両軍はコソヴォにおいて激突しました
この戦いにオスマン帝国は勝利を収めたものの、セルビアの放った刺客にムラトは殺害されてしまいます
この危機をしのいだのがムラトの息子のバヤジット1世で、雷帝と呼ばれた彼は
>>296
で見たようにバルカン半島へのさらなる征服を進めていくのでした
本日はムラト1世の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・柴宣弘編『世界各国史24 バルカン史』山川出版社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
645
:
Republica de Venexia
:2015/06/16(火) 00:03:46 ID:???
6月16日はアクセル=オクセンシェルナが産まれた日です
1585年6月16日、スウェーデンに産まれたオクセンシェルナは26歳の頃の1612年、宰相に就任しました
その主君は
>>285
などで登場した名君グスタフ=アドルフ、炎に例えられるグスタフ=アドルフと氷に例えられるオクセンシェルナは二人三脚でスウェーデンの改革を進めていきます
軍事的才能を発揮しマウリッツの軍制改革を完成させたグスタフ=アドルフに対し、オクセンシェルナは内政でその手腕を発揮し、官僚制度、商業、工業、教育などの近代化に努めたのです
グスタフ=アドルフは
>>353
のリュッツェンの戦いで戦死し、スウェーデンでは幼いクリスティーナが国王となります
オクセンシェルナはスウェーデンに帰還し摂政としてクリスティーナを支え、国政を引き締めて三十年戦争の継続を図ります
オクセンシェルナはプロテスタント諸侯に呼びかけ1633年にハイルブロン同盟を結成、そしてフランスを直接参戦に踏み切らせ、
>>305
のヴィットストックの戦いでの勝利に導きました
そしてスウェーデンを中心とするプロテスタント陣営の優勢で戦争は進み、
>>327
で見たようにウェストファリア条約の実現に至りました
この条約交渉においては
>>635
で見たようにクリスティーナによってオクセンシェルナらの主張は退けられ、その晩年は不遇でした
しかし同時代人に、もしヨーロッパの政治家が同じ船に乗るとしたらオクセンシェルナに舵取りを任せるだろうと言われたほどのその政治手腕、間違いなく当時のヨーロッパを代表する名宰相だったといえるでしょう
本日はグスタフ=アドルフの相棒の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
646
:
Republica de Venexia
:2015/06/17(水) 00:02:24 ID:???
6月17日はボレスワフ1世が死去した日です
ポーランドではピアスト朝の創始者ミェシコ1世の時代、神聖ローマ帝国に脅かされていました
当時の皇帝は
>>593
などで登場したオットー大帝で、彼はマクデブルク司教座を大司教座に格上げするなど、東方への影響力を強めていたのです
キリスト教帝国の皇帝として、オットーはポーランドを自らの主導によってキリスト教化しようとしていましたが、ここでポーランドのミェシコ1世はボヘミアの仲介により966年、直接ローマ教皇から洗礼を受けます
このミェシコの後を継いだのが長男ボレスワフ1世でした
ボレスワフの治世での1000年、グニェズノにて会議が開かれます
神聖ローマ皇帝オットー3世が訪れローマ教皇特使も参加したこの会議で、従来ポズナニにしか司教座がなかったポーランドにグニェズノ大司教座とその管轄下の三司教座が置かれることとなりました
また王号の獲得を望むボレスワフをオットーは支持し、「兄弟にして帝国の協力者ならびにローマ人の友にして同志」と呼んだといいます
このような神聖ローマ帝国の親ポーランド的態度には、オットーの理念が影響していました
>>598
などで見たようにオットーはローマ帝国復興を熱望しており、全キリスト教世界の連邦的体制の一員としてポーランドも重要視していたのです
このように神聖ローマ帝国との関係を築いたボレスワフは、ボヘミア征服によって一時はボヘミア公位を得、ビザンツ帝国と結んでキエフを占領するなど、ポーランドの領土拡大にも努めます
1025年にはローマ教皇によって正式に王として戴冠し、「勇敢王」と称されさのです
こうしてポーランド王国の基礎を築いたボレスワフは1025年6月17日に死去しました
本日はポーランド初代国王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事典II 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
647
:
Republica de Venexia
:2015/06/18(木) 00:06:19 ID:???
6月18日は三帝条約・再保障条約が結ばれた日です
>>325
で見たように1873年、ドイツ帝国首相ビスマルク主導の下でロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国との間で三帝協約が結ばれました
しかし露土戦争後のロシアの勢力拡大にイギリスとオーストリアが反発し、ビスマルクはその調停のためにベルリン会議を開き、列強間での利害を調整しました
しかしロシアはビスマルクがロシアを十分に支持しなかったと不満を感じ、ドイツ・ロシア関係が悪化してしまったのです
そこでビスマルクは1879年、以前から同盟を望んでいたオーストリア=ハンガリーと独墺同盟条約を結びました
秘密軍事条約であるこの条約はドイツの対ロシアでの共闘を定めたものの、対フランスには無力であったため、ビスマルクはその後次々と同盟条約を重ねていくことになります
ビスマルクはまた、イギリスに接近しようとしていました
イギリスと激しく対立していたロシアは再びドイツに接近し、三帝協約の復活を提案、これを受けて成立したのが1881年6月18日の三帝条約です
こちらは三帝協約とは異なり秘密条約で、第四国との戦争の際にそれぞれ中立の立場を取ることが取り決められました
翌1882年には独墺伊三国同盟条約が結ばれ、イギリスとの友好関係を前提とした上での対フランス戦争での協力が確認されます
こうして仮想敵国をロシアとする独墺同盟、ロシア-イギリス戦争でのロシア支持も盛り込んだ三帝条約、そして仮想敵国をフランスとしイギリスとの友好は維持する三国同盟、この矛盾した3つの同盟条約が成立したのです
この矛盾は戦争に発展しない間は露呈しませんでしたが、1885年からビスマルクは大きな国際危機に直面します
それがブルガリア危機とブーランジェ危機との二重危機でした
ブルガリア危機ではロシアからの自立を目指すブルガリアをイギリスとオーストリア=ハンガリーが支援し、双方の関係が悪化し三帝条約が解消されてしまったのです
またブーランジェ危機は、対ドイツ報復戦を主張するブーランジェ将軍が陸相となったことで対フランス戦争の危機が迫るというものでした
その上先のブルガリア危機ではオーストリア=ハンガリーの背後にドイツにがいるものとされたためロシアとドイツとの関係も悪化していたため、二正面作戦の危険もありました
そこでロシアとフランスの連携を防ぐため、またドイツのイギリスへの接近を阻止しようとするロシアの思惑もあって1887年6月18日、両国間で再保障条約が締結されました
この条約は対オーストリア=ハンガリー、対イギリスを想定したものであり、他の同盟条約とは矛盾するものでしたが、ここにひとまずビスマルク外交の1つの終着点をみたのでした
本日はビスマルク体制の完成日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
648
:
Republica de Venexia
:2015/06/19(金) 01:16:53 ID:???
6月19日は朝鮮が対馬を襲撃した日です
14世紀初め、朝鮮半島や中国の沿岸で倭寇と呼ばれる日本人を中心とする海賊集団が略奪を繰り返していました
これを前期倭寇といい、対馬・壱岐・肥前松浦を主な根拠地とするこの倭寇に対し、朝鮮の高麗は日本に取り締まりを要請します
しかし当時の日本は南北朝の動乱時代であり、九州も戦乱の最中であったため倭寇に対し有効な対策ができませんでした
朝鮮半島を主な標的とした倭寇の襲撃は明記されるものだけでも400件以上あり、高麗衰退の一因にもなりました
その高麗では李成桂が倭寇撃退で名を上げ、1392年、高麗を滅ぼして李氏朝鮮を建国します
とはいえその後も倭寇の襲撃は続き、1419年6月19日、朝鮮は倭寇の根拠地とされた対馬を襲撃します
これを応永の外寇といい、10日間に渡るこの襲撃は対馬の宗氏が撃退に成功しました
応永の外寇によって一時は貿易が中断したものの、あくまで倭寇討伐が目的であったためすぐに再開されます
宗氏はこの日朝貿易を次第に独占するようになり、日朝の中継地点として特別な地位を占めていくことになるのでした
本日は応永の外寇の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』中央公論新社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
649
:
Republica de Venexia
:2015/06/20(土) 00:07:31 ID:???
6月20日は第三身分が球戯場に集まった日です
>>489
で見た七年戦争、それと並行した北米でのフレンチ=インディアン戦争、インドでのカーナティック戦争に敗れたフランスは、イギリスに対抗するため
>>570
のアメリカ独立革命を積極的に支援しました
その結果北米で一時は軍事的優位に立ったものの、一方で赤字が膨張し慢性的な財政問題はさらに悪化することとなります
当時のフランスはアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれ、全人口の1割に満たない第一身分と第二身分の聖職者・貴族が特権を持ち、9割以上の第三身分である平民が重税に苦しんでいたのです
第三身分のなかでも台頭著しい商工業者や大農場経営者などのブルジョワジーが営業の自由を求め絶対王政への反発を強めるなか、フランス王ルイ16世は課税の承認を求める三部会を招集しました
1789年5月5日に開かれたこの三部会で第三身分は身分別の議決法に反発し第一・第二身分と対立、一ヶ月に渡る議論の末、第三身分は三部会を離脱し国民議会を結成します
これに対し第一・第二身分は第三身分の議場を閉鎖したため、第三身分は球戯場に集まりました
1789年6月20日、球戯場に集まった人々はシェイエスやミラボー指導の下で憲法が制定されるまで解散しないことを宣誓したのでした
本日は「球戯場の誓い」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年
・柴田三千雄、福井憲彦・近藤和彦編『フランス革命はなぜ起こったか 革命史再考』山川出版社、2012年
650
:
Republica de Venexia
:2015/06/21(日) 00:05:03 ID:???
6月21日はラウペンの戦いが行われた日です
>>441
で見たように、スイスではゴットハルト峠が通行可能になって以降、ヨーロッパにおける交通の要所となりました
ハプスブルク家はこのスイスの支配確立を目指しますが、1291年にウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの三州がスイス誓約同盟を結成してこれに対抗します
これとは別に勢力を広げていた都市国家の一つがベルンでした
ベルンは1191年にツェーリンゲン大公ベルトルト5世によって築かれ、ツェーリンゲン家断絶後には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世のもとで帝国自由都市となりました
13世紀になると上で見たハプスブルク家の進出に遭い、またイタリアからはサヴォイア家も進出してきます
ベルンもまた他のスイス諸州と同じくこれに対抗し、周辺地域を支配下に組み入れ都市国家として拡大していきました
1315年にはスイス誓約同盟はモルガルテンの戦いでハプスブルク家に勝利し、ベルンもまた1339年6月21日にラウペンの戦いでハプスブルク家を撃退しました
ラウペンはベルンの中心地となり、都市国家ベルンはさらなる発展を見せることとなります
1353年にはスイス誓約同盟に加盟してその中心的存在となり、1386年のゼンパッハの戦いで再びハプスブルク家を破るのでした
本日はベルンの対ハプスブルク戦勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
651
:
Republica de Venexia
:2015/06/22(月) 00:22:30 ID:???
6月22日はピュドナの戦いが行われた日です
アレクサンドロス帝国の後継国家の1つアンティゴノス朝マケドニアは、フィリッポス5世が
>>236
の第二次ポエニ戦争でハンニバルと同盟し、ローマに対抗しました
しかし二次にわたるマケドニア戦争の結果マケドニアは敗北し、以後フィリッポスは親ローマ政策を採るようになります
しかしフィリッポスの後を継いだペルセウスは再びローマに対抗し、ギリシアでの勢力を拡大しようと目論みます
ペルセウスは親ローマであったペルガモン王国に侵攻し、ペルガモン王国がローマに救援を求めたため、前171年に第三次マケドニア戦争が勃発しました
当初はマケドニア軍がローマ軍に対し優勢で、マケドニアのギリシアにおける影響力拡大に成功しますが、
>>322
のザマの戦いでハンニバルを破ったスキピオ=アフリカヌスの義弟、ルキウス=アエリミウス=パウルスが執政官として派遣されると戦局が変わります
前168年6月22日、パウルス率いるローマ歩兵隊とペルセウス率いるマケドニアのファランクスが激突し、数では劣るローマ軍がファランクスを翻弄し大勝をおさめたのです
敗れたペルセウスは捕虜となって廃位されアンティゴノス朝は断絶、マケドニアは4つに分割され、後にローマの属州となるのでした
本日はアンティゴノス朝マケドニアの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年
652
:
Republica de Venexia
:2015/06/23(火) 00:01:26 ID:???
6月23日はプラッシーの戦いが行われた日です
イギリス東インド会社は17世紀にマドラス、ボンベイ、カルカッタを拠点にインド経営を進めていました
一方でフランス東インド会社も勢力を拡大し、マドラス南方のポンディシェリ、カルカッタ北方のシャンデルナゴルを拠点とし、インド経営を巡ってイギリスと対立するようになります
インドでの英仏対立は、18世紀中頃からヨーロッパにおけるオーストリア継承戦争、七年戦争によって本格化し、これにインド諸侯同士の争いも加わって三次にわたるカーナティック戦争が勃発しました
当初はフランスのインド総督デュプレクスの活躍によってフランスが優勢でしたが、財政難に陥っていたフランスが1754年、デュプレクスを本国に召喚し、フランスの優位は失われました
一方でイギリスはクライヴをベンガルに派遣し、イギリスに反発していたベンガル太守と対峙することとなります
イギリスと対立していたフランスはベンガル太守と結び、1757年6月23日、ベンガル太守・フランス東インド会社連合軍とクライヴ率いるイギリス東インド会社がプラッシーにて激突しました
この戦いでイギリスは大勝し、フランスはインドから駆逐されることとなります
以後イギリスはインド諸侯を武力で制圧しつつ、インド支配をさらに進めていくのでした
本日はイギリスのインド支配の確立日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・辛島昇編『世界各国史7 南アジア史』山川出版社、2004年
・佐藤正哲他『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』中央公論新社、2009年
653
:
Republica de Venexia
:2015/06/24(水) 00:53:43 ID:???
6月24日はスロイスの海戦が行われた日です
イングランドとフランスのギュイエンヌ戦争、カペー朝断絶後のフランス王位継承権、毛織物産業地帯であるフランドルを巡る争奪戦、
>>498
でも見たスコットランド問題などが絡んで始まった英仏百年戦争は、まずフランドル地方で展開されました
イングランド王エドワード3世は、フランス王フィリップ6世側についたフランドル伯ルイを牽制するため、フランドルへの羊毛輸出を停止します
毛織物産業をイングランドからの羊毛輸入に依存していたフランドルは打撃を受け、フランスへの反乱が起こるようになりました
エドワードはこの反乱を支援するため1338年、自らフランドルに上陸しますが、ルイはパリへと逃亡しフランドルでの戦は小競り合いに終始したため一時イングランドに帰国しました
1340年に再びエドワードがフランドル上陸の動きを見せると、フィリップはフランス艦隊を集結させ、イングランドとフランドルの連携を断つため艦隊を北上させます
イングランド艦隊とフランス艦隊が激突したのは1340年6月24日、ブリュッへの外港スロイスにおいてでした
この海戦でイングランド艦隊は大勝し、フランス艦隊は壊滅します
エドワードはフランドルへの再上陸に成功し、以後制海権はイングランドが握ることとなるのでした
本日は百年戦争におけるイングランドの制海権奪取日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
654
:
Republica de Venexia
:2015/06/25(木) 00:34:45 ID:???
6月25日はマリア=テレジアがハンガリー王に即位した日です
ハプスブルク家では
>>540
で見たマクシミリアン1世以来の婚姻政策により、ラヨシュ2世の王妃としてマリアが嫁ぎました
そのラヨシュが
>>264
で見たモハーチの戦いで戦死したため、ハンガリー王位はマリアの兄であり、またラヨシュの妹の夫でもあるフェルディナント1世が継ぐこととなりました
しかしハプスブルク家による支配には反発も大きく、その急先鋒となったサポヤイ=ヤノシュはオスマン帝国と結びハプスブルク家に対抗したのです
以後もハンガリーでは反ハプスブルク運動が続き、ハプスブルク家が支配できたのは北方のわずかな領域のみでした
このようにハンガリー人はハプスブルク家の統治を嫌い、オーストリア人もまたオスマン帝国と結ぶハンガリーに強い不信感を抱いていました
この状況が変わったのがマリア=テレジアの時代です
プロイセンのシュレジエン侵攻で始まったオーストリア継承戦争の最中の1741年6月25日、マリア=テレジアはハンガリー女王として即位します
そして自らプレスブルクのハンガリー議会に乗り込み、オーストリアへの援助を懇願したのです
ハンガリー議会はオーストリアへの不信感から当初はその要請を受け入れませんでしたが、マリア=テレジアの約5ケ月間に渡る交渉の末ついに助力を承諾し、兵士と軍資金の提供を決定しました
これにより、
>>640
で見たようにオーストリアは反撃に転じることとなるのでした
本日はハンガリー女王マリア=テレジアの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
655
:
Republica de Venexia
:2015/06/26(金) 00:03:03 ID:???
6月26日は六月蜂起が終結した日です
七月革命後、フランスでは産業革命が進み産業資本家が成長、労働運動や社会主義運動も盛んになりました
また七月王政下では有権者が全人口の1%にも満たなかったため選挙法改正運動が展開され、全国で改革宴会を組織します
しかしギゾー内閣は選挙法改正を拒否し改革宴会を禁止し、これに反発したパリの共和派市民や労働者、学生らが1848年2月に蜂起し第二共和政を打ち立てるという二月革命が起こりました
二月革命によって成立した臨時政府には産業資本家のラマルティーヌを中心とする共和主義者と、社会主義者のルイ=ブランを中心とする労働者・社会主義者勢力が参加しました
またルイ=ブランの提案によって国立作業場が設置されますが、彼が構想していた社会作業場とは異なり、単なる失業者救済の土木作業場となってしまいます
さらに労働者・社会主義者勢力は共和主義者と対立を深め、4月の総選挙で大敗しルイ=ブランも落選することとなりました
6月には国立作業場の閉鎖が決定され、これに対し労働者が暴動を起こし六月蜂起が勃発します
しかし6月26日、蜂起はカヴェニャック率いる政府軍によって鎮圧され、六月蜂起は終結することとなります
以後フランスではブルジョワ共和派の支配が確立し、やがてルイ=ナポレオンが台頭し第二帝政に至るのでした
本日は六月蜂起の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
656
:
Republica de Venexia
:2015/06/27(土) 00:04:23 ID:???
6月27日はポチョムキン号で水兵反乱が起こった日です
1890年代のロシアでは蔵相ヴィッテのもとで工業化が進められ、
>>413
で見た露仏同盟によってフランス資本が導入され、シベリア鉄道建設などの国内開発も進みました
しかし20世紀に入るとロシア経済は不況に陥り、労働者・知識人・学生らの間でツァーリ専制体制を批判する運動が活発化します
すでに1880年代にマルクス主義を掲げるプレハーノフらが社会変革運動を行い、1903年にはロンドンでロシア社会民主労働党が結党されました
しかしこれは直後にレーニンを指導者とするボリシェヴィキとマルトフを指導者とするメンシェヴィキに分裂し、プレハーノフは後者に合流します
このような社会主義運動が高まるなかで始まったのが日露戦争で、旅順要塞が陥落した直後にペテルブルクで行われた民主化や戦争中止を訴えるデモに軍隊が発砲するという血の日曜日事件が起こりました
この事件に抗議してロシア各地で労働者がストライキを行い被支配民族や農民が蜂起したのが第一次ロシア革命です
ロシアの動揺は奉天会戦や
>>621
の日本海海戦ての敗戦でさらに高まり、その最中の1905年6月27日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンにて水兵反乱が勃発したのです
反乱を指導したのが社会主義者の水兵で、黒海艦隊全体に反乱を拡大することはできなかったものの、革命はさらに進行することとなり、労働者の自治組織ソヴィエトが結成され、皇帝ニコライ2世はドゥーマ(国会)開設・憲法制定・内閣制採用などを公約する十月宣言を出すのでした
本日は戦艦ポチョムキンの水兵反乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
657
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/06/27(土) 09:59:35 ID:Q1JX37Wo
戦艦ポチョムキンの映画は見ました
名作ですね
658
:
Republica de Venexia
:2015/06/27(土) 10:04:53 ID:???
>>657
無声映画なんでしたっけ
あの時代のロシアはドラマティックな出来事が集まってますねー
659
:
Republica de Venexia
:2015/06/28(日) 00:33:33 ID:???
6月28日はヴェルサイユ条約が締結された日です
ヨーロッパではビスマルクの失脚後、
>>549
で見たようにヴィルヘルム2世が世界政策を展開し、緊張が高まっていました
また
>>647
で見たようなロシアとオーストリアの対立も継続し、それぞれパン=スラヴ主義、パン=ゲルマン主義を掲げてバルカン半島で火花を散らし、これに大セルビア主義も絡んで「ヨーロッパの火薬庫」状態となってサライェヴォ事件が起こり、第一次世界大戦となったのは
>>191
で見た通りです
ドイツはシュリーフェン・プランによる短期決戦を意図しましたが
>>271
のマルヌの戦いで食い止められ、ソンムの戦い、ヴェルダン要塞攻防戦も決定的なものとはならず、西部戦線は膠着状態となります
東部戦線てもタンネンベルクの戦いでドイツかロシアに大勝するもののこちらも膠着状態となり、
>>343
で見たようにロシア革命が勃発して
>>399
のソ連が誕生、ドイツと単独講和し戦線から離脱しました
このように戦争は長期化し、総力戦となっていきます
そのなかで両陣営とも中立国を味方に引き入れるため秘密外交を展開し、イギリスは
>>580
のロンドン秘密協定でイタリアを引き入れ、中東ではサイクス=ピコ協定、フサイン・マクマホン協定、バルフォア宣言を発し戦争を有利に進めようとしました
ドイツは戦局を打開するため無制限潜水艦作戦を開始しますが、これはアメリカの参戦を招くこととなりドイツは更なる窮地に陥ることとなります
1918年11月には
>>339
のキール軍港水兵反乱からドイツ革命が起こって共和国の成立を宣言、帝政は倒れ講和条約が結ばれる運びとなりました
1919年1月、パリで講和会議が開かれ、6月28日にヴェルサイユ条約が調印されます
しかしその条約内容、またその後のドイツへの対応は過酷なものでした
またドイツ国内ではドイツは戦場で敗れたわけでなく本国の社会主義者やユダヤ人の裏切りによって敗れたという「背後からの一撃」説が広まり、復讐感情が渦巻くこととなります
ともあれ大戦は終結し、ヴェルサイユ条約とそれに続く諸条約によるヴェルサイユ体制が形成されたのでした
本日はヴェルサイユ体制の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
660
:
Republica de Venexia
:2015/06/29(月) 00:07:10 ID:???
6月29日は長篠の戦いが行われた日です(ユリウス暦)
1575年5月、甲斐の武田勝頼は三河へと侵攻し、6月9日には軍事・交通の要衝である長篠城を包囲しました
徳川方の奥平信昌が拠る長篠城は頑強に抵抗し、武田による包囲を知った徳川家康は織田信長に救援を要請します
信長は即座に出陣し、26日には長篠城西方の設楽原に着陣し、野戦築城を開始しました
この時信長は設楽原の窪地を利用して兵を隠し、武田方から過小に見えるよう偽装工作を行います
信長としては武田軍をおびき寄せ、一挙に叩く算段だったのです
信長軍は連吾川西岸の河岸段丘に柵・堀・土居・切岸などの防御施設を重層的に構え、必勝の態勢を整えることとなりました
一方の勝頼は信長の偽装工作もあって織田・徳川連合軍の士気が低下していると誤認し、その撃滅を期して設楽原方面へと移動を開始します
これが決戦前夜の6月28日のことでした
すると信長は酒井忠次の別働隊を送り込み、長篠城の抑えに残っていた武田方の鳶ノ巣砦を奇襲、長篠城を救うことに成功します
武田方としてはこれによって背後にも敵を抱え、挟撃される形となりました
そして1575年6月29日、武田勝頼は陣城に籠る織田・徳川連合軍への突撃を命じました
武田軍は波状攻撃を仕掛けますが、野戦築城によって万全の態勢を整えていた連合軍は多数の鉄砲・弓をもってこれを迎撃します
設楽原の起伏に富んだ地形や水田地帯という条件も相まって武田軍は進軍に苦戦、思うように見動きの取れないところを連合軍の射撃によって次々と撃ち倒されていきました
山県昌景、馬場信春、内藤昌豊など名だたる武将が次々と討死していき、午後2時頃には総崩れとなります
撤退中にも隘路によって思うに動けない武田軍を連合軍が追撃して多数の戦死者を出し、勝頼は僅かな供回りとともに敗走したのでした
本日は長篠の戦いの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・林屋辰三郎『日本の歴史12天下一統』中央公論新社、2005年
・谷口克広『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年
・池上裕子『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』講談社、2009年
661
:
Republica de Venexia
:2015/06/30(火) 00:30:17 ID:???
6月30日は新田義貞が鎌倉に攻め入った日です
>>634
の承久の乱の後朝廷では院政が行われていましたが、後嵯峨上皇が院政の後継者を定めずに死去し、皇統は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山上皇の流れをくむ大覚寺統に分裂します
両統は天皇の位を自統から出すために幕府に工作し、幕府は両統が交互に即位する両統迭立を勧めました
1317年には天皇即位について両統が協議し決定するという文保の和談が成立し、幕府は皇位継承に干渉しないこととなりました
そして翌年に即位したのが後醍醐天皇で、平安時代の延喜・天暦の治を理想とし親政を開始します
そのため幕府の影響力の排除を図り、御家人の不満や悪党の活動で動揺する幕府の打倒に踏み切ったのです
正中の変では倒幕計画が発覚して失敗に終わり、元弘の変では楠木正成が赤坂城で挙兵したものの天皇方についた者は少なく、赤坂城は落城し後醍醐天皇は隠岐に配流となりました
しかし倒幕の気運はますます高まるようになり、楠木正成が今度は千早城で挙兵し、肥後の菊池氏や伊予の土居・得能氏ら幕府の有力御家人も幕府に反旗を翻したのです
やがて後醍醐天皇は隠岐から脱出し、その下に多くの武士が結集するようになりました
なかでも源氏の名門足利高氏の幕府からの離反は大きな影響を与え、全国で倒幕運動が盛んとなります
足利氏と並ぶ源氏の名門の出である新田義貞も関東で挙兵し、幕府軍を次々と破りました
1333年6月30日には幕府の本拠地鎌倉に攻め寄せました
義貞は切通方面では攻めあぐねるものの、干潮を利用して稲村ケ崎を突破し鎌倉に乱入、北条氏一門や有力な御内人は次々と自害、鎌倉幕府は滅亡することとなったのでした
本日は鎌倉の戦いの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社、2005年
・森茂暁『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館、2007年
662
:
Republica de Venexia
:2015/07/01(水) 00:07:09 ID:???
7月1日はソンムの戦いが始まった日です
1914年9月に行われた
>>271
のマルヌの戦いの後、西部戦線は膠着状態となり、一進一退の塹壕戦となりました
10月にはドイツもフランスも軍需物資の平時備蓄を使い果たし、戦争はそれまでには見られなかった物量戦・消耗戦へと突入していきます
その中で新兵器も登場し、1915年4月のイープルの戦いではドイツ軍が毒ガスを投入しました
航空機の戦場に投入され偵察・爆撃などを行い、大戦中に戦闘機も開発されます
そして1916年7月に始まったソンムの戦いでも新兵器が登場するのです
ドイツ軍の進撃を塹壕戦で食い止めていた英仏両軍は1915年末に反攻作戦を計画し、翌年実行へと移されます
その攻勢地域に設定されたのがドイツ軍の拠点の1つであるソンム一帯でした
1916年7月1日、英仏両軍は攻撃をかけるもののドイツの強固な防御陣地を攻めあぐね、一進一退の攻防となります
そのような状況で9月にイギリス軍が投入した新兵器が戦車でした
しかしこれも戦局に決定的な影響は与えられず、戦いは両軍とも決定打が出ないまま11月に終結し、両軍合わせて100万人以上の死傷者を出す痛み分けとなったのでした
本日は戦車戦の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
663
:
Republica de Venexia
:2015/07/02(木) 00:01:27 ID:???
7月2日はヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がローマに入城した日です
>>329
のテアーノの握手でガリバルディが征服した両シチリア王国を併合し、その後もイタリアの各地域をサルデーニャ王国が併合するという形でイタリア統一は進められました
1861年にはサルデーニャ王ヴィットリーオ=エマヌエーレ2世が国王に選出され、イタリア王国が成立します
この時点で併合が課題となっていたのはヴェネツィアとローマでした
というのも、これらの地域はそれぞれオーストリア・フランスの影響下にあり、この二強国を相手とするには慎重を期す必要があったからでした
この両地域の併合を目指し、イタリアはまず1866年4月にプロイセンと同盟を結びます
同年6月に普墺戦争が始まるとイタリアもオーストリアとの戦争に突入し、オーストリアへの攻撃は失敗に終わるもののプロイセンがオーストリアに勝利したことでヴェネツィア併合が実現しました
1870年7月には
>>221
の普仏戦争が始まり、ローマに駐屯していたフランス軍が本国に引き上げます
そしてフランスがプロイセンに敗北したことでイタリアは教皇庁にローマ明け渡しを要求しますがこれは拒絶されたため、同年9月には軍事行動に踏み切りローマを占領しました
10月には旧教皇領における住民投票によってイタリア王国への併合が実現し、そして1871年7月2日、イタリア王ヴィットリーオ=エマヌエーレ2世はローマに入城しここを首都と定めるのです
もっともこのローマ併合は教皇庁との決定的な対立を招き、
>>483
のラテラノ協定でようやく妥協をみるのでした
本日はイタリア王国首都ローマの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
664
:
Republica de Venexia
:2015/07/03(金) 00:01:47 ID:???
7月3日はゲティスバーグの戦いが終結した日です
>>570
のアメリカ独立革命でイギリスからの独立を達成したアメリカ合衆国は、先住民を圧迫しながら西部開拓を進めていきます
19世紀半ばには太平洋沿岸に到達し、カリフォルニアで金鉱が発見されたことによるゴールドラッシュで西部への移民がさらに加速しました
しかしこの領土拡大の過程で連邦政府の権限や奴隷制をめぐり、北部と南部が対立するようになります
奴隷制のプランテーションによる綿花栽培を基盤とする南部は自由貿易と州の自治を主張し、商工業が発展した北部は保護貿易と自由労働、そしてそれらを推進するため中央政府の権限を強化する連邦主義を主張したのです
両者の対立は西部で新たな州が成立する度に奴隷制をめぐって激化していきます
1860年に北部を基盤とし奴隷制拡大反対を主張する共和党のリンカンが当選すると、これに反発した南部が連邦を離脱、ジェファソン=デヴィスを大統領とするアメリカ連合国が成立しました
北部はこれを抑えようとしますが失敗し、1861年に南北戦争が勃発します
当初はリー将軍率いる南部が優勢でしたが、北部は西部の支持を得る目的もあって1862年にホームステッド法を制定し、1863年1には奴隷解放宣言を発して内外に北部の正当性を訴えました
またグラント将軍が就任すると戦局も北部優勢に展開するようになり、1863年7月1日〜3日にかけてゲティスバーグの戦いが行われ、これに勝利した北部は65年に南部を降服させることとなるのでした
本日は南北戦争最大の激戦の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・明石紀雄・飯野正子『エスニック・アメリカ 多文化社会における共生の模索』有斐閣、2011年
665
:
Republica de Venexia
:2015/07/04(土) 00:03:53 ID:???
7月4日はメフメト6世が即位した日です
オスマン帝国では
>>392
のミドハト憲法による立憲制がわずか2年で停止されました
その後はパン=イスラーム主義を掲げ、国外のイスラーム諸民族から大きな支持を受けましたが、国内においては諸民族の離反が進みます
1908年には
>>225
の青年トルコ革命によってオスマン主義を掲げ、民族や宗教を問わない帝国全体としての一体化を図りましたが、次第にトルコ民族主義が強まったため、支配下のアラブ人地域ではアラブ民族主義が成長するようになりました
第一次世界大戦が始まるとオスマン帝国はドイツ側に立って参戦しますが、連合国がアラブ人の独立運動を支援したこともあってオスマン帝国はますます纏まりを欠き、敗戦することとなります
代36代スルタン、メフメト6世が即位したのは大戦末期の1918年7月4日のことでした
敗戦によって統一派政府が崩壊したのに乗じ、メフメトはスルタン専制の復活を図りますが滅亡寸前のオスマン帝国を立て直すことは叶わず、
>>337
で見たようにムスタファ=ケマルがトルコを指導しスルタン制は廃止、メフメトは亡命を余儀なくされオスマン帝国は滅亡することとなったのでした
本日はオスマン帝国最後のスルタンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年
666
:
Republica de Venexia
:2015/07/05(日) 00:03:37 ID:???
7月5日はアッシジのフランチェスコが産まれた日です
>>294
などで見た教会改革によりヨーロッパ社会では信仰の内面化が進み、修道士や聖職者による民衆への説教活動が積極的に行われました
その中で使徒的生活を追求して教会制度を批判する異端者集団も出現するようになります
このような異端派の最も有名なものがリヨンの商人ワルドが創始したワルド派で、13世紀には西欧各地に広がっていきました
同じく使徒的生活を追求する人々のなかで、異端とされずに正統な教会の一員として使徒的生活を行う集団も13世紀には出現します
そのうちの最大勢力の1つで、西欧における教会の発展に大きな役割を果たしたのがフランシスコ会でした
フランシスコ会の創始者であるフランチェスコは1182年7月5日、中部イタリアのアッシジで産まれました
彼は富裕な商人の息子であったにもかかわらずその生活を捨てて回心し、托鉢と福音の説教をアッシジで始めます
1209年にはフランチェスコの思想に共感する仲間が12人となり、
>>417
で見たローマ教皇インノケンティウス3世に面会し、「小さき兄弟たちの修道会」という名で正式な修道会として認可されます
これが元となったフランシスコ会は各地に修道院を創設し、厳格な清貧主義に基づいた説教、司教活動を行います
ローマ教会としてもそのような活動は異端を撲滅することにもなり、民衆を教化するものとして深い信頼を寄せていました
13世紀は教皇権が最盛期となる時代ですが、その中でフランシスコ会が果たした役割は非常に大きなものだったのです
本日は「アッシジの聖者」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』日本放送出版協会、2010年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年
667
:
Republica de Venexia
:2015/07/06(月) 00:23:55 ID:???
7月6日はレウクトラの戦いが行われた日です
ギリシア諸ポリスとアケメネス朝ペルシアとの間で行われたペルシア戦争は
>>262
のプラタイアの戦いでギリシア側が決定的な勝利を収めました
戦後ギリシアではペルシアの再攻に備えてデロス同盟を結成、その盟主となったアテネがギリシアの支配権を握ります
一方スパルタはペロポネソス同盟を強化してデロス同盟に対抗し、前431〜前404年に渡ってギリシアを二分するペロポネソス戦争に突入しました
最初アテネが優勢だったものの、その指導者ペリクレスの病死後はデマゴーゴスの扇動によって衆愚政治に陥り、アケメネス朝がスパルタを支援したこともあってペロポネソス同盟側の勝利に終わりました
こうしてスパルタが強大化したものの、これを嫌ったアケメネス朝が今度はアテネを支援し、アテネは指導力を回復します
これに対しスパルタは前386年の大王の和約でアケメネス朝と結びギリシアの支配権確保を図りました
そしてこの両ポリスか対立している間、勢力を強めていたポリスばテーベでした
テーベはエパメイノンダス指導の下で軍事力を増強し、前371年7月6日のレウクトラの戦いでは斜線陣を駆使してスパルタを破り、スパルタは没落することとなります
こうして一時はギリシア最強のポリスとなったテーベでしたが、マンティネイアの戦いでエパメイノンダスが戦死して以降は急速に衰退し、ギリシアは混迷の時代となったのです
この後ギリシアではマケドニアが台頭し、テーベの人質となっていたフィリッポス2世が斜線陣を改良してギリシアの覇権を得、
>>302
で見たようにアレクサンドロス大王のアケメネス朝打倒に至るのでした
本日はテーベの覇権の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
668
:
Republica de Venexia
:2015/07/07(火) 01:07:40 ID:???
7月7日はティルジットで講和条約が結ばれた日です
>>211
でライン同盟が成立し神聖ローマ帝国が崩壊した後、ナポレオンの次なる敵はプロイセンとオーストリアとなりました
このうちプロイセンとは、ハノーファー支配を巡る利害の対立によって武力衝突に発展し、1806年10月にイエナ=アウエルシュタットの戦いが決戦となります
この戦いでプロイセンは大敗し、ナポレオンはベルリンに進軍し大陸封鎖令を発布しました
プロイセンは政府を東方に移したもののすでに大勢は決しており、同盟国のロシアもまたナポレオンに敗れたことで講和に至ります
1807年7月7日、ティルジットにて講和条約が締結されましたが、その内容はプロイセンにとって屈辱的なものでした
プロイセンはエルベ川以西、そしてポーランド分割で得た領土を全て放棄させられ、1億2000万フランの賠償金を課せられ、兵力は4万2000人に削減、そしてフランス軍15万人のプロイセン駐留を承認させられたのです
この講和条約締結後、プロイセンはシュタインやハルデンベルクによって自由主義的改革が進められ、シュレッターやシェーンによる農奴解放、フンボルトやシュライエルマッハーによる教育改革、シャルンホルストやグナイゼナウらによる軍制改革など、諸改革が次々と行われるようになるのでした
本日はティルジット講和条約の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年
669
:
Republica de Venexia
:2015/07/08(水) 00:03:19 ID:???
7月8日は宝治合戦が行われた日です
>>634
の承久の乱の後北条義時は幕府による全国支配を固め、その没後は泰時が引き継ぎました
泰時は1225年に執権の補佐である連署を設け、また評定衆を設置し合議を重視する行政組織を整えていきます
1232年には御成敗式目を定め、執権政治を確立しました
泰時の執権政治を継承した時頼は1249年に評定衆を補佐する引付衆を設置するなど諸制度を改革する一方、北条本家である得宗家に政治の実権を集中させていきます
1246年には得宗家に近い名越家の勢力を一掃し、名越家に近かった御家人も名越派として処罰されました
残る強敵であったのが北条氏と並ぶ有力御家人であった三浦泰村で、時頼は1247年7月8日、宝治合戦にて三浦一族を滅ぼしたのです
こうして政敵を打倒したことで時頼は北条氏による統治を安定させていき、得宗専制政治が展開されていくようになるのでした
本日は三浦氏の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論新社、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年
・関幸彦『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』吉川弘文館、2012年
670
:
Republica de Venexia
:2015/07/09(木) 00:00:52 ID:???
7月9日はアナスタシウス1世が死去した日です
>>560
で見たようにビザンツ皇帝アナスタシウス1世は周辺異民族を撃退、財政改革を行うなどして帝国を安定させました
そのアナスタシウスは518年7月9日に死去しましたが、彼には嫡子がおらず後継者を指名しなかったため、次代の皇帝選出は元老院、軍隊、市民も加わって紛糾しました
協議の末選出されたのが老将軍ユスティヌス1世でした
ユスティヌスの皇帝選出は、家柄や血統を問題にしないビザンツ皇帝の特徴をよく表しています
というのもユスティヌスは貧農の出身の無学文盲の人物であり、勅令に署名する際には「朕は読んだ(承認)」という文字をくり抜いた板を文書の上に置き、側近が手を添えて動かすという有様だったのです
そんなユスティヌスは補佐したのが甥のユスティニアヌスでした
このユスティニアヌスもまた農民の出身でしたが、若くしてコンスタンティノープルに上ったことで学問を修めており、無学な伯父を支えて実権を握るようになります
やがてユスティニアヌスはユスティヌスの養子、そして後継者となり、
>>235
で見たユスティニアヌス1世として即位するのでした
本日はビザンツ帝国レオ朝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年
671
:
Republica de Venexia
:2015/07/10(金) 00:00:31 ID:???
7月10日はハドリアヌスが死去した日です
>>281
で見たようにローマ皇帝ハドリアヌスはトラヤヌスの拡張政策から一転し、ブリタニアに長城を築くなどその領土を守ることを重視しました
またその帝国領土を自ら巡回し、特にギリシア、小アジアの属州における都市政策を重視し、均質な帝国を目指したのです
彼の行政面での施策は多岐に渡ります
行政の効率化を進めるため、彼の治世で植民市は増えませんでしたが既存の都市への介入は強まりました
また帝国全体に皇帝直轄下で様々な任務を担うプロクラートルが設置され、いわゆる官僚の役割を果たすようになります
その職務を務めたのが騎士階級で、その下で解放奴隷が下級官僚として従事しました
そしてイタリアを直轄地域とする4名の裁判官が設置され、これを元老院議員か務めることとなりました
このようにハドリアヌスの治世では皇帝直属の部下が様々な任務を担うようになり、それまで都市や市民個々に委ねていた徴税請負をはじめとする属州任務を皇帝が直轄するようになったのです
こうして帝国統治を安定させたハドリアヌスは138年7月10日に死去し、その後を養子のアントニヌス=ピウスが継ぐこととなるのでした
本日はローマ皇帝アントニヌス=ピウスの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南川高志『ローマ五賢帝』講談社、1998年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
672
:
Republica de Venexia
:2015/07/11(土) 00:14:42 ID:???
7月11日は劉裕が禅譲された日です
中国では280年、
>>122
の三国時代を西晋が統一しましたが、初代皇帝司馬炎が死去するとその後継者を巡る八王の乱が起こり、そのなかで軍事力として活躍した遊牧民が勢力を拡大していきました
316年には遊牧民の1つ匈奴が永嘉の乱を起こし西晋を滅ぼします
西晋の王族司馬睿は建業にて皇帝に即位し東晋として復興しました
華北では匈奴をはじめとする五胡と総称される遊牧諸民族が興亡を繰り返す五胡十六国時代となり、戦乱を避けた多くの漢人が東晋へと移住し、長江中・下流域は大いに発展することとなります
しかし東晋は勢力基盤が脆弱で皇帝権力も弱く、約100年続いた王朝の末期には政治が乱れていきました
そのなかで台頭してきたのが劉裕で、華北への反攻や土断法の施行などで功績を挙げて独裁的な権力を確立するようになります
そして420年7月11日、劉裕は東晋の皇帝恭帝を禅譲させて自ら帝位につきました
こうして東晋は滅亡し、南朝最初の王朝となる宋が成立したのでした
本日は宋(南朝)の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・川本芳昭『中国の歴史5 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
673
:
Republica de Venexia
:2015/07/12(日) 06:09:47 ID:???
7月12日は嘉吉の変が起こった日です
室町幕府の最盛期を築いた足利義満の後を継いだ第4代将軍義持の時代、当初は将軍と有力守護との均衡が保たれ幕政は安定していました
しかし1416年に鎌倉公方足利持氏に不満を持つ前関東管領上杉禅秀が反乱を起こすという事件も起こります
やがて義持は隠居し第5代将軍義量が将軍となりますが、1425年に義量は急死、義持も後継者を定めないまま1428年に病死しました
そして次代の将軍はくじ引きによって選ばれ、義持の弟の義教が将軍に就任、「くじ引き将軍」となったのです
義教は混乱した幕政を引き締めるため将軍権力の強化を図り、将軍に従わないものを力で抑えつける恐怖政治を展開しました
これに反発したのが鎌倉公方である足利持氏でした
幕府と鎌倉府との関係が悪化したため、義教は持氏と対立する関東管領上杉憲実支援の名目で討伐軍を派遣し、持氏を滅ぼします
また持氏の遺児を奉じた下総の結城氏朝も討伐し、幕府の権威は向上することとなります
その後も義教は専制政治を強行し、有力守護の一色義貫や土岐持頼を謀殺しましたが、このために政治不安が高まっていきました
義教は公家、武家、僧侶など多数の人々を処罰するようになり、1441年7月12日、処罰を恐れた有力守護赤松満祐が嘉吉の変を起こし、義教を暗殺するに至りました
この事件以降将軍の権威は大きく揺らぎ、代わって有力守護が実権を握るようになり、やがて応仁の乱へと発展するのでした
本日はくじ引き将軍の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・今谷明『籤引き将軍足利義教』講談社、2003年
・永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』中央公論新社、2005年
・桜井英治『日本の歴史12 室町人の精神』講談社、2009年
674
:
Republica de Venexia
:2015/07/13(月) 00:03:58 ID:???
7月13日はエムスから電報が届いた日です
>>82
で成立した北ドイツ連邦ですが、南ドイツへの拡大にはフランスのナポレオン3世が障害となっていました
隣国に強大な統一国家が誕生することはフランスにとって大きな脅威であり、ナポレオンとしてはこれを何としても阻止したかったのです
局面打開のきっかけはスペインの王位継承問題でした
1868年9月にスペインでは革命が起こり、ブルボン家のイサベル2世が追放され王位が空席となっていました
そこで候補者として挙がったのがホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家のレオポルトでした
プロイセン王家とつながりのあるこのレオポルトの即位をプロイセン宰相ビスマルクは支持し、1870年6月には合意へと至ります
しかしレオポルトが即位する前に情報がフランスに漏れ、フランスはレオポルト即位を激しく非難、レオポルトは即位を辞退することとなりました
こうしてフランスは外交的勝利を収めましたが、それをさらに確実なものとするため、フランス大使に命じプロイセン王ヴィルヘルム1世に対し、今後ホーエンツォレルン家の一員がスペインの国王候補になることがあっても同意しないよう働きかけました
エムス温泉で行われたこの時のやりとりを知らせる電報が、1870年7月13日にビスマルクの下へと届きます
ビスマルクは長文の電報を書き換え、スペインとホーエンツォレルン=ジークマリンゲン家との問題なのにフランスがヴィルヘルムに不当な要求を持ち出し、ヴィルヘルムは今後一切フランス大使と会わないと通告する文章としました
まるで国交断絶を通告するような文章であり、これがドイツでも発表されたため反フランスの気運が高まりました
そして
>>221
で見たようにフランスからの宣戦布告によって普仏戦争が始まることとなるのでした
本日はエムス電報事件の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
675
:
Republica de Venexia
:2015/07/14(火) 00:04:44 ID:???
7月14日はフィリップ2世が死去した日です
フランスでは
>>388
のアンジュー帝国成立により、国土の半分がプランタジネット朝が支配することとなり、カペー朝によるフランス統一が妨げられることとなりました
しかし尊厳王と称されたフィリップ2世の登場によってカペー家の領土は大きく広がるのです
フィリップは官僚制を整備し王領の管理に努め、都市との結びつきを強めることで諸侯を牽制、王権の強化を進めていきます
またイングランド王ジョンと戦って王領を拡大し、プランタジネット家の領土はアキテーヌに残るのみとなりました
そしてフィリップにとって最大の
快挙となったのが
>>229
のブービーヌの戦いでした
この戦いはイングランドだけでなく、神聖ローマ帝国とも雌雄を決する戦いでもありました
というのも、フィリップはすでに1202年にローマ教皇インノケンティウス3世から、フランス王はいかなる上位者も持たないというお墨付きを得ており、これは神聖ローマ皇帝に挑戦するようなものだったからです
ブービーヌの戦いはフィリップの勝利に終わり、これによってフランスのヨーロッパ最大勢力にまでのし上がったのです
フィリップは1223年7月14日に死去し、43年の長きに渡る治世が終わりました
後を継いで即位したのがルイ8世で、彼は王権が確立したフランスを引き継いだだけでなく、母親がカロリング家の血筋であったためカペー家とカロリング家両方の血が流れる王であったため、フランスを支配する正統王家という地位を得ることとなったのでした
本日は獅子王ルイ8世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年
676
:
Republica de Venexia
:2015/07/15(水) 00:46:36 ID:???
7月15日はロゼッタ=ストーンが発見された日です
>>73
のフランス革命政府のオーストリアへの宣戦布告により、革命戦争が始まりました
これに対しイギリスは対仏大同盟を結成しフランスとの戦争状態へと突入します
一方フランスはイギリスとインドとの連絡を遮断するためナポレオン=ボナパルトをエジプトへと派遣しました
このエジプト遠征に際しナポレオンは学術調査団を同行させ、エジプトの遺跡調査も行います
これによって1799年7月15日に発見されたのがロゼッタ=ストーンでした
ロゼッタ=ストーンには神聖文字、民用文字、ギリシア文字でエジプト王プトレマイオス5世を称える文章が書かれており、ギリシア文字を基に神聖文字を解読する重要な手がかりとなったのです
そして1822年、フランス人のシャンポリオンによって神聖文字が解読されるに至るのでした
本日は神聖文字解読事業の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・D・メイヤーソン、藤井留美訳『ナポレオンと言語学者 ロゼッタストーンが導いた天才たちの運命』河出書房新社、2005年
・五十嵐武士・福井憲彦『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』中央公論新社、2008年
677
:
Republica de Venexia
:2015/07/16(木) 00:53:01 ID:???
7月16日はナバス・デ・トローサの戦いが行われた日です
>>582
のアル=アンダルス成立以降、イスラーム勢力はイベリア半島で勢力を拡大していきました
11世紀後半にはモロッコにベルベル人王朝のムラービト朝が興り、イベリア半島にも進出しますがその勢力は不安定で、キリスト教勢力が推し進めるレコンキスタを抑えることができませんでした
12世紀になると同じベルベル人王朝でイスラーム原理主義を掲げるムワッヒド朝が台頭します
ムワッヒド朝はムラービト朝に比べその勢力基盤は強固だったものの、その重心は北アフリカにありアル=アンダルスでは大幅な自治が認められていました
とはいえ1195年にはアラコルスにてカスティーリャ王アルフォンソ8世を撃破するなど、キリスト教勢力に対し優位に立てるチャンスはあったのです
しかしムワッヒド朝はこのチャンスを活かすことができませんでした
ムワッヒド朝には北アフリカとイベリア半島との連携が欠けており、勢力こそ大きかったもののその内部には分裂が見られたのです
この分裂は1212年7月16日に行われたナバス・デ・トローサの戦い後にも露呈します
この戦いでキリスト教勢力に大敗したムワッヒド朝はアル=アンダルスにて危機的状況に陥ったにも関わらず、北アフリカの人々はこれに無関心で、アル=アンダルスのムワッヒド朝は崩壊の一途を辿ることとなるのです
またこの敗戦はムワッヒド朝崩壊の引き金となっただけでなくイスラーム勢力全体にとっても決定的なものでした
一方カスティーリャにとってはイベリア半島における覇権を確立するきっかけとなり、レコンキスタをさらに進めていくこととなものでした
本日はアル=アンダルス崩壊の誕生日です、キリスト教徒の皆さんおめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
678
:
Republica de Venexia
:2015/07/17(金) 00:03:05 ID:???
7月17日は燕王朱棣が皇帝に即位した日です
中国では紅巾の乱によって元の動揺が決定的となり、この乱の中で台頭した朱元璋が明を建国して元を駆逐、中国を統一しました
朱元璋は中書省・丞相を廃止して皇帝独裁を進め、里甲制・衛所制などを制定、賦役黄冊・魚鱗図冊を作成、六諭・明律・明令を発布するなど王朝の基礎を整えました
この朱元璋洪武帝には26人の男子がおり、長子の朱標を皇太子とし第二子を秦王に、第三子を晋王に、第四子を燕王に封じて対モンゴル防衛にあたらせ、残りの子たちも各地の重要拠点に封じられました
このうち皇太子の朱標が洪武帝の生前に死去し、皇太孫を後継者に定め、1398年に皇帝として即位したのが建文帝です
建文帝は側近の進言に従って諸王抑圧策をとり、これに対し諸王のなかでも最大勢力であった燕王の朱棣が反発しました
朱棣は建文帝を誤らせた側近を排除するという名目で「君側の奸を除いて帝室の難を靖んず」をスローガンに反乱を起こします
これが靖難の役で、朱棣は首都金陵を攻略、建文帝は自殺したとされ、1402年7月17日、朱棣は皇帝に即位するのでした
本日は永楽帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・上田信『中国の歴史9 海と帝国 ─ 明清時代』講談社、2005年
・岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』中央公論新社、2008年
・檀上寛『永楽帝 華夷秩序の完成』講談社、2012年
679
:
Republica de Venexia
:2015/07/18(土) 00:03:21 ID:???
7月18日はジュネーヴ4巨頭会談が行われた日です
第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営が対立する冷戦の時代となりました
各陣営とも軍事同盟を結成し、アメリカのソ連封じ込め政策、ソ連の核開発、社会主義圏のアジアへの拡大などで対立は激化していきます
しかし1953年にソ連の独裁者スターリンが死去すると緊張緩和の動きが高まります
新たにソ連の共産党第一書記となったフルシチョフは平和共存路線を打ち出したのです
53年7月には朝鮮戦争の休戦協定を結び、54年にはインドシナ戦争終結のためのジュネーヴ会議に参加、55年にはユーゴスラヴィアと和解、オーストリアとの国家条約を締結、西ドイツとの国交を樹立するなど、東西協調を進めていきます
そして1955年7月18日、ソ連のブルガーニン首相、アメリカのアイゼンハウアー大統領、イギリスのイーデン首相、フランスのフォール首相との間で4巨頭会談が開かれ、ドイツ統一問題、軍縮、東西交流などが議論されました
これらの具体的な合意には至りませんでしたが、米ソの首脳が集まった会談はポツダム会談以来であり、協調気運の高まりはジュネーヴ精神として各国に歓迎されたのでした
本日は「雪どけ」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・松戸清裕『世界史リブレット92 歴史のなかのソ連』山川出版社、2005年
・油井大三郎・古田元夫『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論新社、2010年
・猪木武徳・高橋進『世界の歴史29 冷戦と経済繁栄』中央公論新社、2010年
680
:
Republica de Venexia
:2015/07/19(日) 12:22:39 ID:???
7月19日はメアリ1世が即位した日です
イングランドではヘンリ8世の死後エドワード6世が王位を継承しましたが、即位当初は幼少であったためサマセット公エドワード=シーモアが政務を取り仕切っていました
サマセット公のプロテスタント信仰のもとイングランドでは宗教改革がさらに進行します
しかしサマセット公はスコットランド政策で失敗、ウォリック伯ジョン=ダドリによって失脚に追いやられました
ウォリック伯はノーサンバランド公となり、さらなる改革路線を推し進めました
またノーサンバランド公は王位継承にも干渉するようになります
というのも、王位継承者に定められていたメアリはカトリックであったため、彼女が即位するとなると自身の失脚が明白だったからです
そこでノーサンバランド公はエドワードを説得しメアリとその妹エリザベスの王位継承権を剥奪し、自身の息子の妻であるジェーン=グレイへの王位継承を認めさせました
こうして新国王の義父として権力の確保を図ったノーサンバランド公ですが、エドワード6世の死後、肝心のメアリの身柄拘束に失敗します
1556年7月10日、ジェーンは即位を宣言したものの、メアリもまた13日に即位を宣言しその下には続々と支持者が集結しました
ノーサンバランド公は支持を失い捕らえられた後に処刑されます
そして7月19日、メアリは正式にイングランド女王となり、カトリック政策を進めていくのでした
本日は「ブラッディ・メアリ」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・水井万里子『図説テューダー朝の歴史』河出書房新社、2011年
681
:
Republica de Venexia
:2015/07/20(月) 00:19:55 ID:???
7月20日はクンディナマルカ共和国が成立した日です
ラテンアメリカでは、18世紀末に起こったアメリカ独立革命やフランス革命、いわゆる大西洋革命によって自由・平等の観念が普及しました
最初に独立を達成したのがハイチで、フランス領だった同地はフランス革命の理念に共鳴し、「黒いジャコバン」と称されたトゥサン=ルーヴェルチュールの指導によって1804年に独立を勝ち取ります
これに影響を受け、特に南アメリカ植民地の本国であったスペインがナポレオンによって征服されると自立化がさらに促進され、本格的な独立運動が展開されました
南米の北部では18世紀初めにヌエバ・グラナダ副王領がペルー副王領から分離して成立し統治していましたが、その近隣のベネズエラ総督領におけるミランダによる独立戦争に触発され、ヌエバ・グラナダ副王領でも独立戦争が始まりました
そして1810年7月20日、解放軍の指導者ナリーニョが副王を追放し、ボゴタを中心としてクリオーリョによるクンディナマルカ共和国が成立、スペインからの独立を宣言したのでした
現在、この日はコロンビアの独立記念日となっています
本日は独立コロンビアの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
682
:
それが世界の選択か…
:2015/07/20(月) 00:41:39 ID:???
はえ〜すっごい・・・
683
:
Republica de Venexia
:2015/07/21(火) 00:12:48 ID:???
7月21日はクチュク=カイナルジャ条約が締結された日です
オスマン帝国は1683年、
>>280
の第二次ウィーン包囲失敗によって打撃を受け、オーストリアやロシアの南下に直面することとなりました
1699年に
>>451
のカルロヴィッツ条約、1718年には
>>223
のパッサロヴィッツでオーストリアやヴェネツィアに領土を割譲し、1700年のコンスタンティノープル条約ではロシアにも領土を割譲します
ロシアはこれによってアゾフを占領、アゾフ海に進出しましたが、
>>205
の大北方戦争中の1711年にオスマン帝国に敗れたことでアゾフ喪失を余儀なくされました
しかし南下政策の成就を目指すロシアは再び同地への圧力を強め、1736年にはクリミア半島への侵入に成功します
当時クリミア半島はオスマン帝国の宗主下でクリム=ハン国が支配していました
このクリム=ハン国が1768年、ロシア南部を襲撃したことでオスマン帝国とロシアとの第一次露土戦争が勃発します
戦争は終始ロシア優位で進み、1774年7月21日、クチュク=カイナルジャにて講和条約が締結されました
オスマン帝国はこの条約でクリム=ハン国の宗主権を放棄させられ、ロシアにアゾフ海周辺地域を割譲、さらにボスポラス・ダーダネルス両海峡の商船自由航行権を与えました
これによってロシアは黒海への出口を得、南下政策をさらに進めていくこととなるのでした
本日は第一次露土戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・土肥恒之『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2007年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
684
:
Republica de Venexia
:2015/07/22(水) 00:04:15 ID:???
7月22日はシャルル7世が死去した日です
フランス王シャルル7世はジャンヌ=ダルクの活躍もあって百年戦争における劣勢を挽回し、
>>219
のカスティヨンの戦いで決定的な勝利を収めました
1453年10月に百年戦争は終結し、シャルルは内政の整備を進めていきます
高等法院を全国に設置し、財務総督区を設けて財務行政を整え、行政管区の再整備を行い、フランス統治の体制は盤石となったのです
しかしそんなシャルルにも後継者には頭を悩ませることとなりました
というのも、王太子ルイがシャルルに対し反抗的な態度をとっていたからです
シャルルの国制改革によって国王権力は増大していきましたが、これに諸侯や貴族が反発、そしてルイがこれに加担したのです
1440年の蜂起はすぐに鎮圧されルイの処分も軽かったものの、1446年のクーデターに加担した際にはルイは宮廷を追放され、王太子の両国ドーフィネへと逃れました
さらにルイはこのドーフィネで公然とシャルルに反抗する姿勢を見せます
領内に大学や高等法院を設置、また領民に独自に課税を行うなど半ば独立国として振る舞うようになったのです
その後も度々反逆的な態度をとるルイに対し、シャルルは軍を派遣しドーフィネを占領、ルイはまたも逃亡を余儀なくされました
ところがここでルイか逃亡先に選んだのがブルゴーニュ公国、しかも当時は
>>278
のフィリップ善良公が治める、フランス王権にも匹敵する権力を有していた一大勢力、ブルゴーニュ公国でした
これにはシャルルも手を出せず、遺恨を残したまま1461年7月22日に死去します
そしてルイはこれを機にフランスへと急行し、フィリップ善良公の強力な後ろ盾もあってランスでの戴冠式、パリへの入城を果たし、フランス王ルイ11世としての統治を始めることとなるのでした
本日はシャルル勝利王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
685
:
Republica de Venexia
:2015/07/23(木) 00:04:03 ID:???
7月23日は朝鮮でクーデターが起こった日です
朝鮮は17世紀以降清の従属下にあり、19世紀には官僚間党争などによって政治的動揺が続いていました
1860年代には欧米列強が朝鮮に対し開国を要求するようになりますが、朝鮮国王高宗の父である大院君は攘夷政策をとってこれを拒絶します
開国を要求したのは欧米列強だけでなく、日本もまた朝鮮に圧力をかけ、1875年の江華島事件をきっかけに不平等条約である日朝修好条規が結ばれました
この条約の締結は朝鮮の宗主国である清の反発を招き、清は李鴻章を中心に朝鮮への干渉政策を推進、また朝鮮の政治抗争も絡んだ朝鮮における日本と清との対立が深まっていくこととなります
その最中の1882年7月23日、日本に接近して内政改革を進めていた閔妃の政府に対し、保守派である大院君が軍隊を煽動しクーデターを起こしました
これを朝鮮に対する干渉を強化する好機と判断した清は直ちに軍隊を派遣し大院君を捕縛、閔妃政権を復活させたのです
これ以後閔妃は清に接近するようになり、清は朝鮮への影響力を大きく高めることとなったのでした
本日は壬午軍乱の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・糟谷憲一『世界史リブレット43 朝鮮の近代』山川出版社、1996年
・岡本隆司『歴史のなかの日清韓関係史 交隣と属国、自主と独立』講談社、2008年
・加藤祐三・川北稔『世界の歴史25 アジアと欧米世界』中央公論新社、2010年
686
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/24(金) 00:19:07 ID:2sW7zDJ.
7月24日はブリアン・ケロッグ条約が結ばれた日です
>>659
のパリ講和会議によって第一次世界大戦は終結し、ヴェルサイユ条約やアメリカ大統領ウィルソンが提唱した十四ヵ条による国際体制、ヴェルサイユ体制が形成されました
この体制下で国際連盟が組織され、各種の国際機関によって平和を維持しようという試みがなされます
1921〜22年にはワシントン軍縮会議で海軍軍備制限条約が結ばれ、また九ヶ国条約、四ヶ国条約からなるワシントン体制も形成され、ヴェルサイユ体制とともに国際秩序を支えることとなりました
しかしドイツへの莫大な賠償金支払い要求が国際関係を悪化させていきます
特にドイツに強く迫ったのがフランスとベルギーで、1923年にヨーロッパ有数の工業地帯、ルール地方に軍を進駐させるという強硬手段に出るほどでした
これを受けてアメリカはドーズ案を提示し賠償金支払いの一時猶予を図り、国際関係はひとまず小康状態となります
ドイツ外相のシュトレーゼマンは英仏との協調を進め、1925年にはイギリス・フランス・イタリア・ベルギー・ポーランド・チェコとの間で集団保障条約であるロカルノ条約が結ばれ、ドイツの国際社会復帰とヨーロッパの緊張緩和が実現されました
そして1929年7月24日、フランスのブリアン首相とアメリカの国務長官ケロッグが、国際紛争の解決手段として武力を行使しないことを宣言するブリアン・ケロッグ条約が発効され、国際協調の気運がさらに高まることとなったのでした
本日は不戦条約の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
687
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/25(土) 00:34:12 ID:NHpXUvKo
7月25日はアンリ4世がカトリックに改宗した日です
宗教改革によってフランスでカルヴァン派、ユグノーの信仰が拡大していくと、旧教徒との間で対立が深まっていきました
1559年にフランス王アンリ2世が事故死すると、後継者のフランソワ2世が若年だったこともあって王権が弱体化し、弟のシャルルとカトリック強硬派のギーズ公フランソワが実権を握ります
フランソワ2世はわずか1年の治世で急死し、弟シャルルがシャルル9世として即位しました
これに対しプロテスタント陣営もブルボン家当主アントワーヌやコンデ親王ルイ、コリニー提督が対抗し、フランス貴族はこの両派に分かれて権力闘争に加わります
さらにアンリ2世の妃カトリーヌ=ド=メディシスも権力維持を図り、三つ巴の抗争となり、これに宗教対立も巻き込んでユグノー戦争が勃発するのです
この宗教戦争は1570年、サン=ジェルマン=アン=レーの和議でユグノーが大幅な信教の自由を獲得します
そのなかでプロテスタントのコリニーの発言力が高まり、シャルル9世にネーデルラントのカルヴァン派を支援するよう迫りますが、ネーデルラントを支配するスペインとの対立を避けたいカトリーヌ=ド=メディシスはコリニー暗殺を決定します
1572年8月24日、カトリーヌの娘マルグリットとユグノーの指導者アンリ=ド=ナヴァールとの婚礼に参列したユグノーともども、コリニーは殺害されました
事件はこれに留まらず狂信者と化したカトリックの民衆がユグノーを三日間に渡って虐殺するというサン=バルテルミの虐殺へと発展しました
これにプロテスタントは激しく反発し、カルヴァン派の中心地南フランスでは南仏連合州が結成され、カトリックもまたカトリック同盟を結成して対抗します
1584年には国王アンリ3世の弟が死去し、王位継承者がプロテスタントのアンリ=ド=ナヴァールとなったことにカトリックが反発して再び戦争が勃発しました
アンリ3世はカトリック同盟のギーズ公アンリを暗殺、次いでアンリ=ド=ナヴァールと協調しますが、これに反発した狂信的なカトリック修道士に暗殺されてしまいます
アンリ3世の死によってヴァロワ朝は断絶し、アンリ=ド=ナヴァールが国王アンリ4世として即位、ここにブルボン朝が始まりました
アンリ4世は宗教対立を収めるため、1593年7月25日、カトリックへの改宗宣言を行います
これによってアンリはカトリックの支持を得ることに成功し、カトリック同盟の諸侯も次々と帰順、1598年に
>>65
のナントの勅令によって宗教対立は終結をみるのでした
本日は旧教徒アンリ4世の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年
688
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/26(日) 00:05:08 ID:xSkkhk26
7月26日はリベリアが独立した日です
アメリカでは19世紀に入るとナショナリズムが高揚し、奴隷解放によって増大していた自由黒人を国外に移住させ、白人共和国としてのアメリカ合衆国を目指す動きが高まります
そのために1816年に設立されたのがアメリカ植民協会で、リパブリカン党の意向を反映し黒人奴隷制に対処するようになりました
自由黒人のアフリカへの移住は、黒人のための祖国再建運動として1822年から開始され、ギニア湾岸西部地域へと移住が進められていきます
同地はLiberty(自由)からとったリベリアと命名され、首都名は植民開始時のアメリカ大統領モンローにちなんだモンロビアと命名されました
そして1847年7月26日、リベリアはアメリカ合衆国憲法を基にした憲法を制定、共和国としての独立を宣言します
以後独立国として歩んだリベリアは、ヨーロッパ列強による植民地化も逃れ、現在に至るのです
本日はリベリア共和国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
689
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/27(月) 00:23:21 ID:Dzi1e5C6
7月27日はロベスピエールが逮捕された日です
1789年に始まったフランス革命はまず立憲王政派が国制改革を行い、91年憲法を制定し自由主義貴族手動の下で制限選挙制が採用されたため、第三身分の政治化に関しては遅れていました
この91年憲法体制下で1791年10月に立法議会が成立し、右翼に立憲王政派のフイヤン派、左翼に共和政派のジャコバン派が陣取りました
このジャコバン派のうちマラー、ダントン、ロベスピエールらを中心とする急進派のモンターニュ派と、穏健派のジロンド派が対立し、ジロンド派は国内外の反革命運動を絶つため対オーストリア宣戦へと動かします
しかしこの戦争は長期化し、オーストリア・プロイセン軍はパリに迫る事態となりました
ここでかねてから外国と通じているのではないかと疑われていたフランス王ルイ16世に矛先が向き、テュイルリー宮殿が襲撃されて王権は停止、国民公会が招集されます
普通選挙で招集された国民公会ではフイヤン派は姿を消し、ジロンド派が右翼、モンターニュ派が左翼となりました
民衆運動と結合して革命の成果を守ろうとするモンターニュ派は次第に勢力を拡大し、1793年6月にはジロンド派が国民公会から追放されモンターニュ派が独裁権を握ります
国民公会は1793年憲法を採択し革命政府体制を宣言、公安委員会の権限が強化され、ロベスピエールによるいわゆる恐怖政治が行われるようになりました
革命政府は反革命勢力に対する戦いとともに独走しがちな民衆運動のコントロールを図り、厳正な規律の下に政治を主導したのです
しかし94年春にダントン派、そして民衆運動に影響力を持つエベール派を粛清、さらに議会刷新を図るなど、次第に独善的となっていったロベスピエールは孤立を深めていきます
そして1793年7月27日、ロベスピエールは革命政府解消を図る右派、そしてロベスピエールの個人独裁に反発する左派によって逮捕されました
このクーデターによって恐怖政治は終わりを告げ、革命政府は解消に向かい、総裁政府が成立することとなるのでした
本日はテルミドールのクーデターの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年
690
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/28(火) 00:23:56 ID:30C.xg5g
7月28日はペルーが独立した日です
>>681
のコロンビア独立の流れで見た通り、18世紀末から南米では各地で独立運動が盛んになりました
北部ではベネズエラのミランダが逮捕された後はシモン=ボリバルが独立運動を指揮し、1811年にベネズエラ・コロンビア、19年に大コロンビア共和国、25年にはボリビアと、各地域を次々と解放、独立させていきました
一方南部でもアルゼンチン出身のサン=マルティンが独立運動を指導し、1818年にチリ、1821年7月28日にペルーを解放、独立させました
しかし独立後のペルーにおいてサン=マルティンは統治に失敗し、1822年にシモン=ボリバルと会談しその協力を得ようとしますがこれも断念、失意のうちにヨーロッパへと渡ることとなったのでした
本日は独立ペルーの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・高橋均『世界史リブレット26 ラテンアメリカの歴史』山川出版社、1998年
・増田義郎『物語ラテン・アメリカの歴史 未来の大陸』中央公論新社、1998年
・高橋均・網野徹哉『世界の歴史18 ラテンアメリカ文明の興亡』中央公論新社、2009年
691
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/29(水) 00:04:45 ID:YBCqMwzQ
7月29日はキスカ島撤退作戦が成功した日です
キスカ島は1942年、ミッドウェー作戦と同時に行われたアリューシャン攻略作戦で日本軍が占領し、拠点が置かれました
やがてアメリカが反攻作戦を開始すると、アメリカ本土に近い同地も攻撃にさらされるようになります
1943年5月、アメリカ軍はアリューシャン列島に本格的な上陸作戦を行いキスカ島よりも日本本土に近いアッツ島に上陸、守備隊は奮戦したものの玉砕しアメリカの支配下となりました
これでキスカ島はアッツ島とアメリカ本土に挟まれた孤立無援状態となり、キスカ島周辺の制海・制空権はアメリカ軍の手中に収まることとなったのです
この状況でアリューシャン方面の放棄が決定され、キスカ島に残る約5000人の守備隊の撤収作戦が企図されました
この撤収作戦を指揮したのが第一水雷戦隊司令官、木村昌福少将でした
木村少将は艦隊への電探配備、そしてキスカ島周辺に発生する濃霧に紛れての撤収を考えます
電探については当時の最新鋭駆逐艦で電探と逆探を備えた「島風」の配備によって解決します
そして濃霧の発生を確認するため潜水艦をキスカ島周辺に派遣し天候情報の収集を図りました
1943年6月29日、木村少将はキスカ島撤収作戦を開始、旗艦「阿武隈」に軽巡「多摩」「木曾」をはじめ十数隻の部隊でキスカ島へと出撃します
しかしこの日はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れ、木村少将は反転を決意しました
部下はキスカ島突入を主張したものの木村少将は撤退を断行、その際に「帰ろう、帰ればまた来られるからな」と言ったとされています
再び第一水雷戦隊がキスカ島へと出撃したのが同年7月28日で、この時は霧も晴れず、翌7月29日、艦隊はキスカ島へと突入し守備隊5000人の収容に成功したのです
8月1日にはアメリカ軍に見つからないまま幌筵島に到着しました
一方のアメリカ側は日本軍が撤収したことに気付かないままキスカ島への上陸作戦を実施、友軍を日本軍と誤認し同士討ちを行うという有様でした
こうして木村少将の指揮する第一水雷戦隊は、困難な撤収作戦をまさに完遂したのでした
本日は「奇跡の作戦」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社、2010年
・将口泰浩『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』新潮社、2012年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年
692
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/07/30(木) 00:28:56 ID:xHyUWr4s
7月30日はプラハ窓外投擲事件が起こった日です
>>288
の大シスマによってローマ教皇の権威失墜は決定的となり、各地で教会の世俗化や腐敗がさらに進行していきました
14世紀後半にはオックスフォード大学のウィクリフが教皇権を否定し教会が財産を蓄えることを批判、そしてイングランドの教会・国王の教皇からの独立を訴え、聖書の英語訳を進めます
このウィクリフの説に共感したのがベーメンのフスで、彼もまた教会の土地所有や世俗化を批判、また聖書のチェコ語訳を進め、民衆もこれを支持するようになりました
教皇はこれに対しフスを破門、また神聖ローマ皇帝ジギスムントは1415年、コンスタンツ公会議にてフスを焚刑に処しました
この結果ベーメンではジギスムントに対し激しい怒りが沸き起こり、より急進的なフス派の信仰が広がるようになります
そしてジギスムントがベーメン王も兼ねることになるとついにプラハ市民は決起、1419年7月30日、プラハ市庁舎を襲撃し市長と市参事会員を窓から投げ落とすというプラハ窓外投擲事件が起こります
この事件がきっかけとなって勃発したのがフス戦争です
フス派にはプラハの都市貴族・大学を中心とするウトラキスト派と、農民・職人・下層騎士を中心とするより急進的なターボル派がおり、当初両派は協力したびたび皇帝軍を撃破しました
やがて教皇がバーゼル公会議で妥協案を出し、ウトラキスト派はカトリックと結びターボル派が敗れることになります
1436年にウトラキスト派とカトリックは和約を結びフス戦争は終結しますが、宗教改革やチェコ人の民族運動の先駆として後世に影響を与えることとなるのでした
本日はフス戦争の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』山川出版社、2001年
・薩摩秀登『物語チェコの歴史 森と高原と古城の国』中央公論新社、2006年
693
:
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:2015/07/31(金) 23:08:36 ID:1wozN2uA
7月31日はブレダの和約が結ばれた日です
>>554
で第一次英蘭戦争が終結し、オランダの航海法承認やオラニエ=ナッサウ家の政権中枢からの排除などが取り決められます
この時のオラニエ=ナッサウ家当主が
>>487
のオラニエ公ウィレムで、総督位を世襲してきたオラニエ家が遠ざけられたことでオランダの総督位が空位となりました
しかしイングランドは第一次英蘭において決定的な勝利を収めたわけではなく、オランダへの締め付けは引き続き行われます
1660・63年には、イングランド国内で台頭してきた親スペイン・反オランダ勢力やロンドン商人の支持を背景に航海法が再公布され、これに反発したオランダとの第二次英蘭戦争が勃発します
この戦争ではオランダが決定的勝利を挙げたものの、
>>267
のフランス王ルイ14世がネーデルラント継承戦争を起こしたことでそちらへの対応が急務となり、オランダはイングランドと妥協せざるを得ない状況となります
そして1667年7月31日、イングランドとのブレダの和約が結ばれ、第二次英蘭戦争は終結することとなるのでした
本日は第二次英蘭戦争の命日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森田安一『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
694
:
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:2015/08/01(土) 14:10:31 ID:n7mi3D4w
8月1日はスイス誓約同盟が結成された日です
ドイツではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の対立、12世紀末と13世紀半ばのフランスとイングランドの国王選挙介入、そして大空位時代など、分裂が進んでいきました
1273年にハプスブルク家のルドルフ1世の即位によって大空位時代は終わりを告げますが、今度は様々な家系からの国王選出、また対立王が出現する跳梁選挙時代となるなど、不安定な状況が続いていました
このハプスブルク家のルドルフは自家の領土拡大を第一としており、そのなかで出身地であるスイス地方での支配権確立も目論みます
この動きにスイスの農民や市民は抵抗し、1291年8月1日、ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの3邦が誓約同盟を結成、自由・自治を守るために相互援助を行うことを誓い合いました
この同盟にはその後も他邦が次々と加盟し、
>>441
や
>>650
で見たモルガルテンの戦い、ラウペンの戦い、ゼンパッハの戦いなどハプスブルク軍を度々撃退、1499年のシュヴァーベン戦争にも勝利し、独立を勝ち取ることとなるのでした
本日はスイスの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
695
:
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:2015/08/02(日) 00:41:29 ID:p/p7pyaE
8月2日はカイロネイアの戦いが行われた日です
>>667
で見たように、ギリシアではペルシア戦争の後アテネ、ペロポネソス戦争の後スパルタが覇権を握り、ついでテーベが台頭・没落し再びアテネが勢力拡大を目指すなど、ポリス間の抗争が繰り返される混迷の時代が続きます
とはいえこの間にも、ポリス形成が遅れていた辺境の地アイトリアやアカイアで都市同盟が生まれ、成熟しつつありました
そしてそのさらに北方で台頭してきたのがマケドニアでした
マケドニアはポリス形成が遅れ、長らく未開の部族国家としてみなされていましたが、フィリッポス2世の代で国制改革がなされ、急速に勢力を拡大するようになります
マケドニアの強さの理由はフィリッポスによる軍制改革で、テーベが覇権を握っていた頃に人質として滞在していたフィリッポスはテーベの斜線陣・騎馬兵による新戦術を学び、ギリシアのファランクスにも改良を加え軍事力を増強したのです
このマケドニアの脅威に対し、アテネの弁論家デモステネスは反マケドニア同盟の結成を主張し、アテネ・テーベが同盟してマケドニアに対抗することとなります
そして前338年8月2日、マケドニアとアテネ・テーベ連合軍はカイロネイアにて激突し、新戦術を駆使したマケドニアが大勝しました
この勝利によってマケドニアはギリシアでの覇権を握り、翌年にはコリントス同盟を結成してスパルタを除く全ポリスを支配下に収めるのでした
本日はマケドニアの覇権の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年
696
:
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:2015/08/03(月) 00:03:18 ID:h6366vJY
8月3日は『ウィリアム・テル』の初演が行われた日です
ウィリアム・テルは
>>694
のスイス独立運動の時代、その口火を切った人物とされています
テルはハプスブルク家が派遣した代官に反発、罰を受けることとなりましたが、息子の頭の上に乗せられたリンゴを見事撃ち抜いたことで許された...というエピソードはよく知られています
ハプスブルク家に立ち向かった英雄として、テルはスイス人の心の拠り所となったのです
テルの活躍は1804年、シラーが戯曲『ヴィルヘルム・テル』で描かれました
折しもフランス革命の思想がヨーロッパ全土へと広がっている頃...テルの伝承が人々の心に響くものがあったのでしょう
そしてイタリアのロッシーニがシラーの戯曲をオペラとして作曲し、1829年8月3日、『ウィリアム・テル』の初演がフランスの王立音楽アカデミーにて行われることとなったのでした
本日はオペラ『ウィリアム・テル』の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・宮下敬三『ウィリアム・テル伝説 ある英雄の虚実』日本放送出版協会、1979年
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
697
:
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:2015/08/04(火) 00:27:31 ID:9MqUOMiQ
8月4日は劉秀が漢を再興した日です
漢では武帝の代に行われた数々の外征によって財政難に陥り、社会不安が増大していきました
やがて宮廷では外戚や宦官が勢力を持つようになり、皇帝の権威が失われていきます
一方で地方では豪族が力を付けて地方政治を握るようになり、漢王朝の支配はますます揺らいでいきました
8年には外戚の王莽が実権を握って自ら皇帝となり新を建国しますが、極端な復古政策は各方面での反発を招きました
18年には農民反乱である赤眉の乱が勃発、地方豪族もそれに乗じて反乱を起こし、新はわずか15年で滅亡します
この混乱のなかで、河南省の豪族出身で漢の一族でもある劉秀が諸豪族を率いて勢力を拡大、25年8月4日、皇帝に即位し漢を再興したのでした
本日は後漢の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・金文京『中国の歴史4 三国志の世界(後漢 三国時代)』講談社、2005年
・尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論新社、2009年
698
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:2015/08/05(水) 00:12:49 ID:3/U7JyyM
8月5日は犬上御田鍬が唐に派遣された日です(旧暦)
中国では618年、
>>425
の隋に代わった唐が統一王朝を建て、律令を中心とする国家体制が整えられました
その勢力は中国のみならず周辺諸国にも広がり、唐を中心とする冊封体制が成立します
唐の都長安には各地から人や商品、文化が流入し世界的な国際都市として発展、東アジアに唐を中心した政治・文化圏が形成されたのです
唐建国当時の日本はというと聖徳太子や蘇我馬子が活躍していた時代で、隋の衰退により途絶した遣隋使に代わり、唐への使節派遣の計画が進みつつありました
622年に聖徳太子が、626年に蘇我馬子が死去すると実権は蘇我蝦夷に移り、彼が擁立した舒明天皇が遣隋使派遣を進めることとなります
そして630年8月5日、遣隋使にも参加した犬上御田鍬が唐へと派遣され、894年に菅原道真の献策による中止に至るまで十数回、遣唐使が派遣されます
この間に日本は唐の政治や文化を取り入れ、日本の国家体制や文化の形成に大きな影響を与えることとなったのでした
本日は遣唐使の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年
699
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:2015/08/06(木) 00:07:49 ID:MTGlx0Nk
8月6日はハインリヒ3世が死去した日です
>>512
で見たように、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世とヴェルフェン家のハインリヒ傲岸公との対立が激化し、神聖ローマ帝国は混乱に陥ることとなりました
傲岸公は1139年に死去したものの、その後を継いだハインリヒ3世獅子公もまたホーエンシュタウフェン家と対立します
1142年、この両家の対立の軟化が試みられ、獅子公にザクセン大公領を授封しバイエルンも与えることでひとまずの妥協が成立しました
獅子公はこの後ドイツ北部、ポーランド北部、バルト海沿岸への十字軍、いわゆるヴェンデ十字軍を指揮し、北方へと勢力を拡大していきます
ドイツにおいても同様に北部へと手を伸ばし、1149年にはオルデンブルク・ラッツェブルク・メクレンブルクの司教区を再建し、そこにドイツ人を入植させます
これらの行動は、後に本格化する東方植民や周辺地域のドイツ化・キリスト教化・ヨーロッパ化の、まさに先駆といえる行動だったのです
獅子公がこのように勢力を拡大している最中、1152年に神聖ローマ皇帝にフリードリヒ1世バルバロッサが即位しました
獅子公をザクセン、バイエルンに授封したのもフリードリヒによる試みで、これは諸侯を帝国秩序に組み込み、その支持を背景に帝国を統治するという狙いがありました
これは一定の成果をあげ、ドイツが安定したことでイタリア方面へと進出したことは
>>625
でも見た通りです
しかしフリードリヒがイタリアへ遠征している間、ドイツは不穏な情勢になりつつありました
ハインリヒ獅子公がフリードリヒに反発して兵士を提供せず、帝国内で私闘を繰り返していたのです
獅子公は1180年、平和令への違反から諸侯に訴えられ、法廷への出頭を拒否したため帝国から追放されてしまいます
獅子公はイングランドへと亡命し、ザクセンとバイエルンの領邦は分割されることとなりました
やがてフリードリヒが死去しハインリヒ6世が後を継ぎ、1191年にはシチリアへの遠征を行います
この隙にハインリヒ獅子公はイングランド王リチャード1世の支持を背景にザクセンへと侵攻しますが、リチャードが第3回十字軍からの帰還中にオーストリア大公レオポルト5世に捕らえられたため、援助を受けられなくなった獅子公は勢力を失います
リチャードはハインリヒ6世に引き渡され、身代金を払ってようやく解放されました
ハインリヒ獅子公は1194年、ハインリヒ6世と和解することとなり、その翌年の1195年8月6日、波乱に満ちた生涯を閉じるのでした
本日はハインリヒ獅子公の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・カール・ヨルダン、瀬原義生訳『ザクセン大公ハインリヒ獅子公 中世北ドイツの覇者』ミネルヴァ書房、2004年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
700
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/07(金) 00:42:27 ID:WH6yUvno
8月7日はルイ=フィリップが即位した日です
>>175
のワーテルローの戦いで敗れたナポレオンはセントヘレナ島へと流され、フランスではルイ18世によるブルボン朝が復活しました
ルイは選挙権を大きく制限するなど反動的な政治を推し進め、ルイの後を継いだシャルル10世もその路線をさらに拡大していきます
シャルルは亡命した貴族の財産を保障し、軍の統帥権を握るなどしたため国民の不満は増大し、その不満を逸らすためにアルジェリア出兵が行われました
しかし1830年7月に行われた選挙で国王反対派が多数派となり、シャルルは議会の招集前に解散、さらに選挙結果を無視し大規模な出版規制を行ったため、国民の不満はますます高まりました
7月27日、ついにパリ市民は決起し、3日間の戦闘によって国王側は敗北、新政府が誕生します
これが七月革命で、新政府では立憲王政派と共和派の対立のなか、自由主義者として知られるオルレアン家のルイ=フィリップが国王に推されたのです
そして1830年8月7日、ルイ=フィリップは国王に即位し、フランスではやや緩和された制限選挙制による立憲君主政が成立したのでした
本日は七月王政の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
701
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/08(土) 00:56:50 ID:EOmHQ.TY
8月8日はメルセン条約が結ばれた日です
>>488
で見たヴェルダン条約によってフランク帝国は三分割され、ロータル1世は皇帝位と中部フランクを、ルートヴィヒ2世ドイツ人王は東フランクを、シャルル2世禿頭王は西フランクを領有することとなりました
855年にロータル1世が死去すると、中部フランクはその3人の息子によって分割され、長男ルートヴィヒ2世は皇帝位とイタリア王国を、次男ロータル2世はその名にちなむロートリンゲンを、シャルルがプロヴァンスとブルグント南部を相続しました
この時点で皇帝は実質的にイタリア王に過ぎない存在となります
863年にシャルルが亡くなるとその領土は分割され、長兄のルートヴィヒ2世がプロヴァンスを、次兄のロータル2世がブルグント南部を相続しました
869年、ロータル2世が死去するとその領土は叔父にあたる西フランク王シャルル2世禿頭王にいったんは帰属しましたが、その領土配分を改めて明確としたのがメルセン条約でした
870年8月8日、西フランク王シャルル2世禿頭王と東フランク王ルートヴィヒ2世ドイツ人王との間で領土配分が行われ、ロートリンゲンがマース川・モーゼル川・ソーヌ川・ジュネーヴ湖のラインで東西フランク王国に分割され、フランク帝国の大陸部は二分されることとなったのです
これが今日に至るフランス・イタリア・ドイツの原型となるのでした
本日はフランス・イタリア・ドイツの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
702
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/09(日) 01:04:51 ID:361DLUVs
8月9日はアドリアノープルの戦いが行われた日です
ローマ帝国では3世紀の危機
のなか即位したディオクレティアヌスが
>>507
のように四分統治を行い属州の反乱や外敵の侵入に対処しました
ディオクレティアヌスの死後は
>>331
のコンスタンティヌスが統一の皇帝となったものの、基本的には東西に分かれて統治が行われていました
一方ローマ帝国の周辺異民族ですが、そのうちの1つゴート族は1〜3世紀頃にポンメルンから黒海沿岸まで南下し、3世紀半ばからはローマ帝国領の小アジアやバルカン半島へと侵入し251年には皇帝デキウスを戦死させたこともありました
しかし皇帝クラウディウス以降の軍人皇帝たちはゴート族に対し勝利を続け、この方面の脅威は無くなったかのように見えました
しかし4世紀後半、アジアから遊牧民のフン族が西進、黒海沿岸に居住していたゴート族はフン族によって壊滅的打撃を受けます
ドナウ川の北岸に居住していたゴート族もフン族の圧迫を受け、376年、東の皇帝ウァレンスの許可を得てドナウ川を渡りローマ領内に移住することとなりました
ところがこのゴート族はローマ帝国からの冷遇もあって食糧難に苦しみ、ローマ官僚の不正もあって暴徒化してしまいます
ゴート族の暴動によりトラキアの情勢は不穏なものとなり、ウァレンスはこれを鎮圧するため親征を決定しました
この際、西の皇帝となっていたグラティアヌスとウァレンティニアヌス2世は援軍を送りますが、ウァレンスはこの援軍を待つことなく単独でゴート族鎮圧に向かいます
378年8月9日、ウァレンスはアドリアノープルから出撃しゴート族に攻めかかりますが、結果はあえなく大敗、ウァレンス自身も戦死するという壊滅的敗北を喫しました
帝国東方ではこれを受けてテオドシウス1世が皇帝となり、ゴート族を同盟部族と認め、ローマへの軍事力提供と引き換えにトラキアへの定住を許可し、事態を収集することとなるのでした
本日はウァレンスの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
703
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/10(月) 00:08:01 ID:DrhEjHhU
8月10日はヴェルダン条約が結ばれた日です
フランク帝国は
>>455
でも見た通り、分割相続と帝国の統一維持という矛盾に直面し、シャルルマーニュの後を継いだルートヴィヒ敬虔帝は817年に帝国計画令を発しました
これに基づき、共同皇帝となっていたロータル1世はルートヴィヒ敬虔帝の死後、帝国全土を継承することとなります
その弟のピピンとルートヴィヒドイツ人王は、皇帝ロータルの宗主権下にあるという前提のもとで、それぞれアクィタニアとバイエルンを与えられました
こうして帝国計画令のもとで帝国の統一性維持の枠組みが作られ、ルートヴィヒ敬虔帝とロータルが帝国を統治、その周辺に位置する先のアクィタニア・バイエルンに加えイタリアの三王国が組み入れられたのです
ここではあくまで分割相続に則った上で帝国は全体として階層的に統一されるという構想が実現したものの、やがて頓挫することとなってしまいます
>>488
で見たように、ルートヴィヒ敬虔帝は晩年、四男にも王国を与えようとしたことで兄弟間の対立が激化し、敬虔帝の死後ルートヴィヒドイツ人王とシャルル禿頭王が皇帝ロタールに挑戦するという事態に陥ったのです
843年8月10日、この3人はヴェルダン条約を結び、対立はひとまず収まりました
この条約においても名目上は帝国の統一は維持されていましたが、実質的には完全な主権を持った国家による分割であり、帝国の統一性は失われることとなったのでした
本日は中部・東・西フランク王国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年
704
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名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/11(火) 00:14:15 ID:kv90O9q2
8月11日はヴァイマル憲法が制定された日です
ドイツでは第一次世界大戦末期、
>>339
で見たようにキール軍港にて水兵反乱が勃発し、これに陸軍兵士や労働者も加わって運動は急速に拡大し、各地で労働者・兵士の評議会であるレーテが成立して権力を握りました
皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、社会民主党のエーベルトは社会民主党・独立社会民主党の連立による人民委員政府を発足して事態を収拾します
その後社会主義勢力は3つに分裂して対立します
まずローザ=ルクセンブルク、カール=リープクネヒトらのスパルタクス団はドイツ共産党となり、最も急進的な改革を目指しました
独立社会民主党はレーテを存続させ、基幹産業の社会化と軍・行政機構の民主化を図りました
社会民主党は憲法制定を第一とし、革命運動は混乱を助長するものとして否定的に捉えていました
この中で優位となったのが全国的な組織を有しその支持も得ていた社会民主党で、これにより革命の阻止が進むこととなります
また、1918年12月の全国レーテ大会で議会制民主主義が支持されたこともあって翌1919年1月に国民選挙が実施され、社会民主党勢力の反革命運動に反発した独立社会民主党が人民委員政府を離脱したことで社会民主党単独の政府が成立したのです
同時期にはルクセンブルク、リープクネヒトらが暗殺され、社会民主党の勢力はますます増大していきます
こうして第一党となった社会民主党は、革命派の勢力が強いベルリンを避けてヴァイマルに国民議会を招集し、中央党・民主党との三党連立政府、ヴァイマル連合が成立しました
この議会で新しい憲法案が審議され、1919年8月11日、ヴァイマル憲法が制定されます
この憲法は国民の参政権をはじめとした公民権を保障し、生存権・労働権をも保障、青少年・家族の保護も盛り込んだ福祉国家の基本的な枠組みも備えた、当時最も民主的な憲法として評価されることとなったのでした
本日はヴァイマル共和国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治他『世界歴史大系ドイツ史3 1890年〜現在』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二他『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
705
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/12(水) 00:43:19 ID:b1VWl9Pc
8月12日はクレオパトラ7世が死去した日です
>>165
でアレクサンドロス大王が亡くなった後、彼の後継者候補は互いに争い、各地に王朝を建てます
その一つプトレマイオス朝ではエジプトの伝統に則り、ファラオの神聖性を維持するために近親婚を繰り返していました
そのため庶子の産まれであるプトレマイオス12世が前80年にファラオとなった際にはその正統性の弱さから国内の支持が弱く、ローマの支援に依存するようになったのです
他国の介入を嫌ったエジプト人は前58年に反乱をお越し、プトレマイオス12世はローマへの亡命を余儀なくされました
この時ローマのポンペイウスはプトレマイオスを助け、ファラオへと復位させます
その後前51年にプトレマイオスは死去し、その娘クレオパトラ7世と息子プトレマイオス13世が共同統治という形で後を継ぐこととなります
しかしこのローマの支援を得ようとするクレオパトラと、ローマの影響力を排除しようとするプトレマイオスは激しく対立しやがてローマも巻き込んだ内戦にまで発展しました
この内戦を調停し収めたのがカエサルで、クレオパトラはカエサルの支持によってもう一人の弟プトレマイオス14世との共同統治者になることを認められます
>>533
のカエサルの死後、クレオパトラはカエサルの後継者候補の一人でローマ東方を支配していたアントニウスに近付きます
クレオパトラとアントニウスとの間には3人の子が産まれ、地中海世界における覇権を目指しますが、アントニウスと同じくカエサルの後継者候補であったオクタウィアヌスはアントニウスを弾劾しプトレマイオス朝に宣戦を布告しました
こうして前31年9月に起こったのが
>>268
のアクティウムの海戦で、この戦いでアントニウス・プトレマイオス朝連合軍は敗れ、クレオパトラとアントニウスはエジプトへと逃れます
これを追撃したオクタウィアヌスは各地で連合軍を撃破し、前30年8月にはアントニウスが自殺しました
クレオパトラもまた、ローマに連行され晒し者となることを拒み、アントニウスの後を追うように自殺します
こうしてエジプトはオクタウィアヌスによって制圧され、クレオパトラとカエサルとの息子カエサリオン、ファラオとしてはプトレマイオス15世も殺害され、プトレマイオス朝は滅亡することとなったのでした
本日はプトレマイオス朝最後の女王の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・小川英雄・山本由美子『世界の歴史4 オリエント世界の発展』中央公論新社、2009年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
706
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/13(木) 00:34:46 ID:xehV8b4o
8月13日はブレニムの会戦が行われた日です
1665年に即位したスペイン王カルロス2世は、ハプスブルク家の度重なる近親婚により病弱で、世継ぎがいないまま1700年11月に亡くなってしまいます
彼の遺言で後継者に指名されたのはフランス王ルイ14世の孫フィリップで、フェリペ5世としてスペイン王に即位しました
しかしフランスの勢力拡大に反発する神聖ローマ皇帝レオポルト1世は息子カールのスペイン王即位を宣言し、フランスに宣戦布告します
こうして始まったのがスペイン継承戦争でした
フランスに対しては神聖ローマ帝国、イングランド、オランダが同盟の中心となり、ハノーファー選帝侯やブランデンブルク選帝侯など多くのドイツ諸侯が同盟国側につきました
フランス側にはスペイン、サヴォワ、ポルトガル、バイエルン選帝侯が味方します
フランス軍はボフルール公、ヴィラール公、ヴィルロワ公、ヴァンドーム公などが軍司令官となり、同盟国側は
>>451
の対オスマン帝国戦争で活躍したプリンツ=オイゲンが帝国軍を率いました
そしてイングランド軍を率いることになったのがマールバラ公ジョン=チャーチルでした
マールバラ公は1650年生まれで、若い頃はフランスの名将テュレンヌに従い、その機動戦・攻城戦・兵站などを直に学ぶ機会を得ていました
彼はイングランド王ウィリアム3世には疎まれていたものの、ウィリアムの死後女王となったアンには重用され、イングランド軍司令官に抜擢され、オランダもまた彼に軍を任せるのです
スペイン継承戦争の緒戦、フランスはドイツ方面に軍を展開、バイエルン選帝侯マクシミリアンがドナウ川沿いに軍を進めたのに呼応し、ヴィラール公はウィーンを直接攻撃する態勢を整えました
この局面を打開するため、マールバラ公はイングランド・オランダ軍を率いてバイエルンに向かい、フランス・バイエルン連合軍を撃破する大遠征作戦を行います
1704年4月、マールバラ公はイングランドを出立してオランダに向かい、そこからバイエルンに向けて約400kmという常識外れの長距離機動を開始しました
フランスのヴィルロワ公はこれを追うものの、マールバラ公の行軍ルートがフランス本国を含む複数の拠点攻撃の可能性を残していたため慎重な行動を取らざるをえず、マールバラ公は巧みにフランス軍の追撃をかわして8月上旬にはプリンツ=オイゲンの帝国軍との合流に成功したのです
こうして態勢を整えたマールバラ公は1704年8月13日、ブレニム近郊に布陣するフランス・バイエルン連合軍に対し攻撃を仕掛けます
マールバラ公はまず連合軍の両翼に攻撃をかけ、連合軍が予備兵力を両翼に投入したのを見計らって連合軍中央を突破しました
連合軍は総崩れとなり、壊滅的な打撃を受けたバイエルン軍は撤退、ブレニムの街に押し込められていたフランス軍も降伏します
この勝利によってフランス・バイエルン連合軍がウィーンを攻撃する危機は去り、バイエルン選帝侯領は神聖ローマ帝国の支配下となりました
マールバラ公はブレニムへ向かう際の欺瞞機動、ブレニムの会戦における柔軟な戦術指揮によってその判断力・決断力・創造力を高く評価されることとなったのでした
本日はマールバラ公会心の勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーファー朝誕生史』彩流社、2007年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
707
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/14(金) 00:18:50 ID:dP4Tj2/6
8月14日はアルジュバロータの戦いが行われた日です
>>555
でも見たようにポルトガルではフェルナンド1世の死後、カスティーリャ王フアン1世の介入が始まり、それを嫌ったポルトガル人がジョアンを国王に選出、ジョアン1世として即位します
もちろんこれで問題が決着したわけではなく、フアンは妻でフェルナンドの娘でもあったベアトリスの王位継承を主張してポルトガルに乗り込んできました
ポルトガルはフアン派とジョアン派に分かれた内戦状態となり、ジョアンはフアンについた諸都市を攻撃し直接対決への準備を整えます
ジョアンはまた
>>552
のランカスター公ジョン=オブ=ゴーントの娘フィリッパとの結婚によってイングランドと同盟を結び、その援軍を得たジョアンは都リスボンの北方に位置するレイリアに布陣し防衛戦を築き待ち構えました
一方のフアンはフランスと同盟を結びその騎士軍を加えレイリアへと南下していきます
英仏百年戦争の真っ只中の時期、両軍の対決はイベリア半島における英仏の対決でもあったのです
1385年8月14日、カスティーリャ・フランス軍の突撃によってアルジュバロータの戦いは始まりました
ポルトガル・イングランド軍は数においては劣勢だったものの、防衛陣地を有効に活用し、またイングランド長弓隊の活躍もあってカスティーリャ・フランス軍に大打撃を与え、敗走させたのです
フアンは戦場から離脱し、この勝利によってポルトガルにおけるジョアンの地位は確実なものとなりました
以後も国境付近で散発的な戦闘はあったものの、ジョアンはカスティーリャの影響力を排除しポルトガルの繁栄を導くこととなるのでした
本日はジョアン1世の王位確立日です、おめでとうございます
参考文献
・立石博高『世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年
708
:
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:2015/08/15(土) 00:41:54 ID:4gPfspic
8月15日はミカエル=パレオロゴスが即位した日です
>>227
で見たように、ビザンツ帝国の亡命政権ニケーア帝国のミカエル=パレオロゴスは1261年7月にコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を再興しました
同年8月15日にミカエル8世として即位すると、彼は自らをコンスタンティヌス大帝になぞらえ、ギリシアにおける勢力回復に奔走します
まずペラゴニアの戦いで捕虜としたアカイア公ギョームを解放する代わりにペロポネソス半島の領土を譲渡させ、翌年にはブルガリアにも勝利し黒海沿岸に領土を獲得したのです
しかしそのミカエルの前に強大な敵が出現します
それが
>>504
などで見たシチリア王シャルル=ダンジューでした
シャルルは娘をラテン帝国最後の皇帝ボードゥアン2世の息子に嫁がせてラテン帝国の相続権を得、またイェルサレム王国の相続権も得て東地中海に大帝国を築く野望を抱いていました
1267年にはアカイア公ギョームと同盟し、コンスタンティノープル遠征計画を立てましたが、これはホーエンシュタウフェン家のコンラーディンのイタリア侵入によって中止されます
シャルルは
>>332
のタリアコッツォの戦いでコンラーディンに勝利し、1270年、再びコンスタンティノープル遠征を企てました
しかし今度は
>>576
で見た、兄であるフランス王ルイ9世の十字軍を支援するため、またもやコンスタンティノープル遠征は延期することとなります
またシャルルと敵対するジェノヴァの行動も活発となり、その対応のため新たなコンスタンティノープル遠征を計画することができなくなったのです
この間ミカエルは東西教会の合同を持ちかけ、1274年のリヨン公会議で教会合同が実現、シャルルのコンスタンティノープル遠征に大義を失わせることに成功しました
ミカエルはさらにジェノヴァとの同盟を強化し、ジェノヴァを通じてカスティーリャとも連携、さらに1275年のデメトリアスの海戦でエーゲ海の制海権を握った後はヴェネツィアとの条約も結び、ギリシアでの勢力を確保しつつありました
しかし東西教会の合同に関しては国内で反対派が多く、その実現は不透明なままでした
やがてローマ教会では1281年、シャルルと親密なマルティヌス4世が即位し、シャルルの要請もあって教会合同の交渉を打ち切り、またラテン帝国復活を目指すシャルルのコンスタンティノープル遠征にお墨付きを与えたのです
ミカエルは窮地に陥りました
ヴェネツィアもまたシャルルの遠征に参加し、ギリシアのラテン人、バルカン半島のスラヴ諸国やビザンツ亡命政権もまた攻撃の機会をうかがっていたのです
この状況でミカエルが頼みとしていたのはアラゴンの艦隊でした
ミカエルはアラゴンの宰相ジョヴァンニ=ダ=プロチダと連絡を取り、反シャルル勢力間の同盟に成功していました
またシチリア住民のシャルルの統治への不満を煽り、資金援助も行って反乱を起こす下地も整えていました
そうしていわゆるシチリアの晩鐘事件が起こったのは
>>632
でも見た通りです
このシチリアの晩鐘とその後のアラゴンとの抗争、いわゆる晩鐘戦争によってシャルルのコンスタンティノープル遠征は以後計画されず、ミカエルはバルカン半島と小アジアに専念する余裕を得ました
このように彼はコンスタンティノープルを奪回して帝国を再建し、その敵対勢力を封じ込めて帝国に安定をもたらすという功績を挙げ、その治世を終えたのでした
本日はパレオロゴス朝初代皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩祷 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・北原敦編『世界各国史15イタリア史』山川出版社、2008年
709
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2015/08/16(日) 01:53:54 ID:z8iKiIqs
8月16日は「金剛」が竣工した日です
19世紀末、各国では艦隊決戦を想定した装甲巡洋艦の建造が進みました
20世紀に入るとこの装甲巡洋艦を圧倒る火力を持ち、かつ巡洋艦と共に行動できる速力を備えた巡洋戦艦が登場します
その先駆となったのがイギリスの「インヴィンシブル」で、この情報を入手した日本は巡洋戦艦の導入を検討しました
しかし当時の日本の技術力では新艦種である巡洋戦艦の建造は困難であったため、イギリスに建造を発注し、超弩級戦艦の建造技術を国内に移転することを図ったのです
イギリスはアームストロング社とヴィッカース社が試案を提示し、日本はそれを元に14インチ連装砲4基のB39案、同3基のB40案、12インチ連装砲3基のB41案が練られましたが、軍令部が50口径12インチ連装砲を主張したため、1910年5月に50口径12インチ連装砲4基のB46案がまとまりイギリスへと持ち込まれました
同年7月にはアームストロング社とヴィッカース社から設計書と見積書が提示され、ヴィッカース社の方が設計に優れより安価であったためヴィッカース社へ建造を依頼することとなりました
ヴィッカース社と交渉を進めるなかで、日本は同社から提案された45口径14インチ砲の採用を勧められ、これに同意しました
最終的には同年11月に建造計画がまとまり、翌1911年1月にヴィッカース社のバーロー造船所にて「伊号装甲巡洋艦」として建造が始まります
その翌年1912年5月には無事進水し名前も「金剛」と正式に命名、翌1913年8月16日、竣工するに至ったのです
こうして完成した金剛型巡洋戦艦1番艦「金剛」は当時としては世界初の14インチ砲を装備した艦であり、また世界最大の巡洋戦艦でもありました
以後ヴィッカース社の資材提供・技術移転を受けて日本国内でも姉妹艦の「比叡」「榛名」「霧島」も建造され、その就役は日本海軍の戦力増強に大きく貢献することとなったのでした
本日は帝国海軍最後の外国製戦艦の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・「世界の艦船 1999年6月号 特集巡洋戦艦 軍艦史上の異彩を顧みる」海人社、1999年
・福井静夫『日本戦艦物語1』光人社、2008年
・「丸 2014年3月号 金剛型戦艦」光人社、2014年
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