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神の存在/不在と科学の範囲

20NAN:2006/12/26(火) 23:52:23 ID:Zs9mFctg
むぐぅ…>19は私です。

21えめ:2006/12/27(水) 00:12:14 ID:iiQXStbI

検証って
検証のルール(公正性)の基準に至る同意はどうするのよ
って問題が生じませんか?
科学は確かに公正性を纏っていますけど、相手のルールとして同意されなければ
淡雪のように儚い代物ですよ。
「確かに科学としてはそうでしょう。それがなにか」見たいな
科学以上にリアリティを持った思考体系は山ほど存在します。

22えめ:2006/12/27(水) 00:21:59 ID:iiQXStbI
>それは「地上のことを云うとき、そのことばは検証にさらされる」という意味の説明です。
スンマセン
上記の言葉に反応して書いている間に押してしまって… 飲んでいるいいちこ(焼酎)が悪いのよとは言いません。

占いや様々なジンクス、迷信が後を絶たないのは科学による認識も結局は並列として世界を認識する方法の一つに過ぎないんじゃなくて?
と言う無力感に苛まれての開き直りです。

23ミケ:2006/12/27(水) 00:43:20 ID:???
神っつっても色んなタイプがいるよね?
全能の神(検証不能)、運命の神(検証不能)、勝利の女神(検証不能)、
ほかにも人間みたいに幼稚な神や、モノに宿る神、
エロジジイもいれば、何かの物質や現象の化身みたいなのも。

Q&Aのような文脈で「神はいるかいないか」って訊かれたとき、
1.「この中のある特定のタイプの神はいるかいないか」
2.「この中のどれでもいいから何らかのタイプの神がいるかいないか」

どっちで受け取る?

24えめ:2006/12/27(水) 00:46:34 ID:iiQXStbI
>わたしは、奇跡というものを(1)何者かの意志によって引き起こされた、
(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、と定義しています。
例えば大理石のマリア像が手を振ってみせる現象が(大理石を構成している分子が一斉に同方向へ動く)偶然に起こる確率を知り合いの物理学者に計算させた愚か者がいるんだけれど
答えは「凄まじく少ない確率だが0ではない」でした。
同様に彼は牛が月を飛び越える確率も計算させましたがそれは同じ結果になりました。
「凄まじく低い確率だが0ではない」
つまり科学と言う思考の根本はあらゆる可能性を否定していないと言えます。
買いもしない宝くじが目の前に出現して、しかもそれが一等に当たっている可能性も(上記二つに比べてさえ尚天文学的に低い確率では有ろうとも)0では有りません。

目の前でこのような現象が起こった場合、貴方はそれを奇跡と判断しますか?
それとも単に殆ど有り得ないかもしれないが結局は確率上の出来事に過ぎないと判断しますか?

25tema:2006/12/27(水) 00:47:47 ID:???
macskaさん、はじめまして。temaと申します。

本件に関して、temaの意見は以下の通りです。
神の存在あるいは不在について科学は一切何の見解も「持ってはならない」

科学は、心の外側の世界でのみ有効な方法論です。そのため、心を救う役には立ちません。
一方、神様は心の内側の世界で有効な存在です。有効であるだけでなく、場合によっては必要な存在なのです。多分。

科学は強力な方法論ですから、神を扱うこともできるでしょう。ただ、科学の方法論で神さまを扱うことは、意味が無いことだと思います。

例えるなら、虚数単位「i」を実数で扱うようなものです。
iを無理に実数で扱えば0となります。しかしi≠0なのです。
神様を科学で扱っても理解することはできない、と考えます。

26ミケ:2006/12/27(水) 01:43:10 ID:???
ヒマだし眠れないのでちょっと頭の体操をしてみた。

「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
というのは神の種類によっては成り立たない。

なるほど確かに、『神』を厳密に定義してやれば、
その定義によっては『それ』は科学の検証にのる。
しかし、そうして検証にのった『神』が、
本物のカミサマであるかどうかは誰にも分からない。

う〜む、、、
特に断り無く「神がいるかいないか」って言う場合には、
(少なくとも日本においては)特定の宗教の神ってわけじゃなく
「本物のカミサマ(達?)」ってことだよね?
少なくとも宗教的背景の薄いミケはそう受け取る。

やっぱり
『「神がいるかいないか」科学の範囲外』
でいいと思うなぁ。

27macska:2006/12/27(水) 09:23:07 ID:VdHL1C4M
>>21
「確かに科学としてはそうでしょう。それがなにか」で十分です。
例えば創造論を「科学」として主張されるのは困りますが、
科学的には無根拠であることを承知のうえで創造論を信仰するのは構わないように。

>>24
自分の目の前でマリア像が手を振ったり牛が月を飛び越えたりしたら、
わたしはまず自分の視覚や知覚を疑います。
実際にそういうことが起きた可能性よりも、自分がまぼろしを見た可能性のほうが、
よほどありそうだからです。

が、買いもしない宝くじが目の前に出現して、一等に当たっていたら、
それは多分誰か他の人が宝くじを落としたのか、自分が買ったのを忘れたのか、
いずれにせよ偶然が重なったのであろうと考えます。
あるいは、宝くじは偽物で、誰かがいたずらをしたのか。

つまり、マリア像の例と牛の例に比べれば、宝くじの例のほうがありそうだと思います。
どうして、宝くじの例の方が「ありえない」と思うのか、不思議ですね。

>>26
「本物のカミサマ」なんて言い出したら、どの宗教が正しいのかなんて誰にも分かりません。
「神がいるかいないか」という問いは、「神として信仰される対象は実在するか」
という意味に解釈すべきだと思います。

28ミケ:2006/12/27(水) 10:19:09 ID:???
>>27
>「本物のカミサマ」なんて言い出したら、どの宗教が正しいのかなんて誰にも分かりません。

ええ、なので「科学では回答できない」と言うだけで十分だと思います。
もちろん回答可能なように質問を変換することも重要ですが、
相手が訊きたいのはそういうことなんだろうか、と。
「ねぇ、カミサマっているの?」と訊かれたとき、
「〜〜という神なら科学的に否定できるね」と答えたところで、
「じゃあカミサマはいないんだ?」
「それは分からないなぁ。なぜなら。。。」となるのがオチかと。

29えめ:2006/12/27(水) 10:23:31 ID:QJ1tMuDE
>自分の目の前でマリア像が手を振ったり牛が月を飛び越えたりしたら、
>わたしはまず自分の視覚や知覚を疑います。
あー。所謂幽霊を見た、と言う類の話ではなくて
事実として観測されたら、と言う意味ですよ。この場合。
自分の視覚や知覚は疑わなくても大丈夫です。

宝くじの話については言葉足らずの面があったので補足しましょう
1.ありえない程の偶然で分子が結合して空中、(水中でも、まあ何処でも)から不意に紙が”出現”する。
しかも
2.その紙のサイズや組成は在り得ないほどの偶然で発売されている宝くじと同じ(なんと模様まで)だ。
さらに♪
3.そこにある模様の一部、№が当たりくじと同じだ。
勿論上記1.2.3は気のせいや思い違いではなく、事実として観測されたハナシとしての事。

1.や2.に比べたら、特に2に比べたら3なんぞは必然といってもいい確率でしょうね。
だから大理石のマリア像が腕を振る確率の方がまだ遥に高いでしょ?

30地下に眠るM:2006/12/27(水) 11:01:23 ID:cizMQ0FI
>現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、
>その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる。
>現実に介入しないタイプの『神』であれば、それは科学が対象とする問いではない。」

カガクには手も足もでにゃーような介入の方法はあるにゃ。
例えば、「確率的事象に介入する神」なんてのはどうよ?


>わたしは、奇跡というものを(1)何者かの意志によって引き起こされた、
>(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、と定義しています。

おみゃーさんの言い様は、実は定義の遊びだにゃ。
(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、
ってのは、要するに
(2)現実世界における、(3)’自然科学の方法論によって検知できる現象
ということだろにゃ?
なら、確かに自然科学の検証対象だよにゃ。

しかし、神の介入とは自然科学によって検知できない種類のそれである(例えば確率に介入する)、と定義してしまったらどうなるかにゃ?

また、カガクが「完成」することは原理的にありえにゃーので、未知の知識領域に住まう何かを神(の介入)と見做すことは永遠に可能だにゃ。

31macska:2006/12/27(水) 13:23:04 ID:VdHL1C4M
>>28
> ええ、なので「科学では回答できない」と言うだけで十分だと思います。

正確には、「カミサマというのが何だかしっかり定義してくれないと、
回答のしようがない」ということではないですか?
だって、しっかり定義された「カミサマ」についてであれば、
その種類によっては科学にきちんと回答できる可能性があるわけですから。

>>29
うーん、言わんとしていることは分かりますよ。
つまり、未知の自然法則による現象と、奇跡をどう区別するのかと。
それは、確かに区別できません。

でも、だからどうだというのでしょうか。
ある現象が起きたとして、それが未知の自然法則によるものか奇跡か区別できなくとも、
そういう現象が起きたかどうかは、科学的に「観測」できるはずです。
水がワインに変わったのなら、それはその液体を調べることで確認できるはず。
これは、進化の背景に何らかの意志が働いていたかどうかは分からなくても、
進化のメカニズム自体は科学的に究明できるのと同じです。

>>30
「自然科学の方法論」には、統計学は入りませんか?

もし神が存在して、「確率的事象に介入」しているならば、
そのことは統計学の方法によって、
「理由はよく分からないけれど、おかしな現象」として検知可能では。

もちろん、もしカミサマが一度だけしか介入しないのであれば、
たしかにそれは検知不可能です。
しかし、それは証拠不十分によって検知できないだけであって、
原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべきです。

32地下に眠るM:2006/12/27(水) 18:15:10 ID:cizMQ0FI
>もし神が存在して、「確率的事象に介入」しているならば、
>そのことは統計学の方法によって、
>「理由はよく分からないけれど、おかしな現象」として検知可能では。

統計的におかしな点がいっさいないかたちで介入するなんていくらでもできるにゃんが。
例えば、一定の確率でダウン症児は生まれるよね。
「どの家に、どの子がダウン症児として生まれるかは、神のご意志によるものだ」という言明にチミはどう反論するのかにゃ?

たまたま頭が悪く生まれてしまった、とか、顔が悪く生まれてしまった、とか、性格が悪く生まれてしまった、とか、チンコが小さいとか胸がないとか、生まれつき手が無かったとか足がなかったとか、そういう「実存にかかわる偶然」に神が介入していると考えてみたらどうでしょうかにゃ?

奇跡ってのは、カガクの問題ではにゃーと思う。
ニンゲンの側の意味付けの問題なんだにゃ。

33macska:2006/12/27(水) 19:16:35 ID:UfRlMoOA
>>32
それは、ダウン症が発生するメカニズムが完全には解明されていないからでしょ。現時点の科学もしくは人類の検知能力で検知不可能なことと、科学的アプローチによって原理的に検知不可能なことは区別すべきだと何度も言っているのですが。

偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるのであって、いくらバラバラで予測不可能に見えても自然法則に従っていないはずがありません。例えば、サイコロを転がしてどの数字が出るかは偶然によって支配されているとわれわれは考えていますが、ちゃんと考えればサイコロの動きが物理法則に従っているのは明らかです。

34カクレクマノミ:2006/12/27(水) 19:27:54 ID:JI1p82R.
>この場合、わたしの薬は宗教でしょうか、それとも疑似科学でしょうか。

宗教を名乗れば宗教、科学を名乗れば疑似科学です。

>しかしそれが「雨乞い」とか「祈り」だったら、科学者は「自分には何も言えない」と言うわけですか?

雨乞いや祈りが裁判沙汰になれば、科学者は万能薬の場合と同じように証言すべきです。
しかし、万能薬の場合にどう証言したらよいのかは、それほど簡単な問題ではありません。普通の裁判のような文脈では、「科学的には効き目はない」と答えてしまってかまわないでしょう。
しかし、哲学的な文脈になると話は別です。厳密には、「あるかもしれないし、ないかもしれないが、科学ではその効果を確認できない」と言うべきです。
本当に神の怒りが雨乞いの効果を妨げている可能性だって、否定できる根拠はないのですから。

35NATROM:2006/12/27(水) 21:31:10 ID:Z2veARY2
議論は続いていますが、それはそれとして、macskaさんの指摘を考慮してQandAを書き直しました。

36RYU_TI_SYU ◆R9HFpK4NlY:2006/12/27(水) 21:41:40 ID:???
>>31
>ある現象が起きたとして、それが未知の自然法則によるものか奇跡か区別できなくとも、
そういう現象が起きたかどうかは、科学的に「観測」できるはずです。

つまり、「観測」できた時点で「奇跡」ではなくなっているということか?
だとしたら我々は「奇跡」なんか観測できるわけはないのではないか?

ていうか、macska殿は「奇跡」にこだわりすぎではないのか?

最低でも地下猫殿の言われるとおり、「確率的事象に介入する神」はいてもおかしくはないじゃろうな。

サイコロやダウン症がお気に召さないのであれば
「ある電子AがX地点の蛍光剤を発光させたのは神の思し召し」
というのはどうじゃろうか?

こればっかりは
>メカニズムが完全には解明されていないからでしょ。
とは言えんぞ。

『将来的には解明できるかもしれません』
とは、いえるかもしれんがそれは
『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
といってるのとあまり変わらんようなきがするな。

37名無しさん:2006/12/27(水) 22:49:19 ID:FvuUtEK.
>水がワインに変わったのなら、それはその液体を調べることで確認できるはず。
>これは、進化の背景に何らかの意志が働いていたかどうかは分からなくても、
>進化のメカニズム自体は科学的に究明できるのと同じです。

これはそのまま貴方の問いに対する答えだと思いますが。
現象を調べることは出来る、でもそれは宗教的な意味とはまるで関係ない。

仮に現在イエスが存在したとして、水をぶどう酒に変えて見せたとして
まぁ、おそらくマジシャンも参加した実験を繰り返しますわな。
で、結果
1.科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた。
2.実験は厳密に行われ、トリックの介在できる余地は一切なかった。
3.念じただけで水がぶどう酒に変わる原理など皆目見当もつかなかった。
4.当の男はこの現象は神への信仰によって齎される(奇跡)と主張していた。

さて科学者はこの場合、自然法則を超越している「奇跡」だから神の存在(意思)が証明されていると主張すべきですか?

自分は科学として主張できるのは1.2.3だけだと思うんですが。

>偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるのであって、いくらバラバラで予測不可能に見えても自然法則に従っていないはずがありません。
知覚できる自然の振る舞いを観測していたら規則性が見えてきた、てのが法則の成り立ちだから、上記のような書き方は何か本末転倒の印象を受けますね。
量子力学では人間の知覚では世界は詰まる所確率(偶然)に支配されているとしか言えないと手を上げちゃっていますから。
で、世界は自然法則に従っているとしてじゃあそれを齎したのは神だよ見つけた法則こそがその意思の顕れだよ、との意見が科学として認められるなら貴方の主張

>「神がいるかどうかは科学の範囲外」という言明は、少なくともわたしたちが生きる今の現実社会にいかなる形でも関与しないタイプの神か、あるいは「自然法則」や「全宇宙」をただ「神」と呼び変えている場合に限ってのみ言えるはずだと思います。
は否定されちゃうよね。なんたってバリバリ関与しちゃってるんだから。いやいや関与しているからこそ世界は今の形で存在しているんだから。

ではどうして
じゃあそれを齎したのは神だよ見つけた法則こそがその意思の顕れだよ、との意見が科学として認められ、ないのか。
1つは否定を証明する方法がないから、もう一つとして、この場合の意思という言葉や意味は、科学としてのルールに則る必要がない思考方法で導き出されたからでしょう?

さて、奇跡と言う現象の解釈は科学としてのルールに則っているのでしょうか。
自分が問題にしているのは正にこの一点なのですよ。
凄まじく低い確率の出来事も、逆に必然とも言える出来事も共に解釈では奇跡であり、あるいは確立でもありうる。
奇跡と確立。
まったく同じ現象を扱っていながら二つの概念は殆ど相容れません。どころか正反対にも思えます。
では何故ここまで意味が違ってしまうのか。それは思考のルールが違うからでしょう。

奇跡とは宗教としてのルールに則った解釈です。ですから科学のルールで宗教は否定できません。
同様に宗教のルールで科学を否定できません。

 便所掃除をしないと便所の神様が怒って下の病気に掛かりやすくなるという信仰だって、たとえ統計を用いて便所掃除の回数と膀胱炎の相関が薄いことは証明出来たとしてもそんな証明、膀胱炎の患者の中に便所の神様を信じ、便所掃除を疎かにした自覚を持つ人には無意味だと思いますよ。
膀胱炎になった原因は他にあると言ったところで「それはそれ」です。回数じゃないの心がけなのよ。感謝の念を込めてお掃除をするのが大事なの。○○さんも××さんも膀胱炎になりましたよ、ええええ、伺ってみたらやっぱり以前お便所の掃除をサボったり気を抜いたりした覚えがあるんですってよ、神様はちゃーんと見てるのねえ。

便所の神様教が便所掃除をすると膀胱炎にならないと言う教えは科学的な事実として認められるべきだと言うなら反論として前記の統計は大いに説得力を持つでしょうが

38地下に眠るM:2006/12/27(水) 23:15:04 ID:EpkA97A.
>それは、ダウン症が発生するメカニズムが完全には解明されていないからでしょ。

まず、ダウン症発生の機構が「完全に」解明されることがありえたとして、その機構についての知見が「偶然性」を否定すると決まっているものなのかにゃ?
そもそも、ダウン症発生の機構は「ある程度」わかっているにゃ。ウィキによると「標準型は精子・卵子形成時における染色体不分離が原因」ちゅうこと。有り体にいえば、減数分裂時の「事故」。
まあ、こんなこと書いても「だってまだ完全に解明されていない」とはいえるにゃんね。

もしかして、チミ、カガクが発達していけば、原理的に「偶然」の事象がなくなるなんてことを漠然とでも思ってにゃーかね? ラプラスの悪魔って知ってる?


>サイコロを転がしてどの数字が出るかは偶然によって支配されているとわれわれは考えていますが、ちゃんと考えればサイコロの動きが物理法則に従っているのは明らかです。

うん、ぜんぜんわかってにゃーね。
確率が物理法則に従うわけではにゃーんだ。
むしろ、物理法則が確率に従うのではにゃーかな(よくわかんにゃーので、詳しい人のツッコミ待ち)

少なくともサイコロは物理法則に従った結果、十分な試行回数の後には各々の出目が六分の一に収斂していくんだにゃ。
たった今ふったサイコロの出目が1だとしよう。なぜそのサイコロの出目が1だったのか、力学的に解析することは確かに原理的には可能だにゃ。しかし、サイコロを振るという単純な行為においてすら、そこにかかわる「全て」の要素を完全に解析しつくすのは不可能だということも間違いにゃーけどね。つまり、「完全な知見」を得ることは原理的に不可能であるというところに、カミサマの介入の余地が「必ず」存在する。

ダウン症にしてもそうだにゃ。
減数分裂時の事故発生機構から「偶然」あるいは「未知」の要素を完全に排除した説明というのはありえにゃーだろうね。

そもそもね、カガクってのは原理的に不完全なんだにゃ。
今のカガクは完全じゃないから、っていう言い訳は全然ダメなのよ。

39地下に眠るM:2006/12/27(水) 23:16:25 ID:EpkA97A.
>わたしは、奇跡というものを(1)何者かの意志によって引き起こされた、
>(2)現実世界における、(3)自然法則に反する現象、と定義しています。

(30)でこの部分にもレスしたのに、シカトされたのでもうちょっと書いてみるにゃ。

さて、今、僕の隣の部屋で、僕の娘の熊のぬいぐるみ(無論、動力ナシ)が涙を流すしぐさをしているとするにゃ。これは奇跡といえるのか?

こんなものは奇跡ではにゃーだろう。
にゃんとなれば、観測者がいにゃー。
観客がいにゃーところに、奇跡は存在しにゃーのだ。

では、僕がたまたま熊のぬいぐるみが泣くところを目撃したとしますにゃ。
これだけではまだ奇跡ではにゃーね。僕は幻覚を見たと思うだろうにゃ。

では、僕の娘に万が一の不幸が起こったことを知ったときに、娘が好きなこのぬいぐるみが泣くのを見たらどうか?
冷静に考えれば幻覚の可能性はさらに高まるけど、もう幻覚かどうかなんてどうでもいいことになるにゃ。その熊のぬいぐるみは僕にとって聖遺物となるでしょうにゃ。


ま、もちろん、熊のぬいぐるみが泣くなんてことはこれまでも起きたことはにゃーし、これからも多分起きることはにゃーだろう。

では、原理的に起こりえることはどうか?
いったん死んだと思われた者が息を吹き返すのは、ときどき見られることであり、医学的にも十分に説明が可能でしょうにゃ。
しかし、死亡と判断された者の蘇生なんて、それ自体は奇跡でも何でもにゃーよな。「あら珍しい」とか「運が良かったね」とかいわれるくらいでにゃーの?

しかし、ゴルゴダの丘で処刑された、ナザレのイエスとかいう男が、預言通りに「蘇生」したとしたら、医学的な説明が可能であったとしても、それは紛れもにゃー奇跡=復活なのではにゃーかね?


うっかりと足を滑らせて急な崖から落ちてしまったが、突風がふいてきて木がしなり偶然にもかすり傷で助かったとするにゃ。突風が吹くことは、別に奇跡でもなんでもにゃーし、もちろん物理法則に反するはずもにゃー。しかし、助かった本人にとってはどうかにゃ? もし、その本人がある宗教の教祖だとしたら、信者は(もちろん教祖本人も)それが偶然だと思うはずがにゃーだろうね。

つまりね、自然法則に反しているかどうかなんて、それが奇跡であるかどうかには関係にゃーのさ。
もっといえば、自然法則に反する事象は自然界にはおこらにゃー。いままでおこった全ての事象は自然法則にのっとったものであり、これから起こる全ての事象も自然法則にのっとったものだにゃ。それに反することができにゃーからこそ「自然法則」なんだにゃ。

自然界で起こった事象の全ては、当然ながら自然科学の検証の対象だにゃ。

しかし、奇跡が起こるのは自然界ではにゃーのだ。

たまたま預言通りにイエスが復活した、たまたま突風がふいて助かった・・・
奇跡ってのは、この「たまたま」なんだにゃ。
(こういう「たまたま」に何らかの方法で神が介入しているという理屈を、カガクの論証法で論駁するのは原理的に不可能なんでにゃーの?)

奇跡とは、ニンゲンの側の認識なんだよ。この「たまたま」を必然と結びつけてしまうところに宗教の(あるいはニンゲンの意識の)真骨頂があるんだにゃ。「全てはアッラーのおぼしめし」というやつだにゃ。

40地下に眠るM:2006/12/27(水) 23:36:21 ID:EpkA97A.
おお、そうか!
カミサマがときどき介入するとしたら、カガクで検証とか言うことにもなるけど
「全てがアッラーのおぼしめし」
つまり、全ての事象がカミサマの全面的介入のもとに起こっていると考えるとすると、これはこれで無敵論法にゃんな。

ま、この場合は現実に行われている「悪」も全てカミサマがおこしていることにもなるにゃんが。
にゃるほど、こうなるとグノーシス派の「神は悪、世界は悪」という見解が論理的帰結となるにゃんな。
さすがに矛盾がにゃーぞ>グノーシス
(独りでナットク)

41macska:2006/12/28(木) 11:46:20 ID:UfRlMoOA
>>37
ええと、あのですね、だから、水がワインに変わるわけがないんですよ。
なんだか話が逆に進んでいるような。

「水をワインに変えた、奇跡を起こしたのだから、イエスは神の子だ」という主張があったとき、「それは奇跡なのだから科学には手も足も出せないし事実とも事実でないとも言えない」というのはおかしいとわたしは言っているのです。なぜなら、本当に水をワインにする能力があるのかどうか(あるいは、本当に水がワインに変わったかどうか)は、理由はともかく事実の問題として科学的に検証できるからです。

量子力学については、わたし自身が理解していないので勘弁してください。わたしの不十分な理解の範囲で言うならば、それをわたしがより良く理解したとき、わたしの科学観が変わる可能性があることは認めます。

自然法則そのものが「神の意志」であるという解釈は、わたしが挙げた例外(全宇宙や自然法則そのものを神に見立てる解釈)の変形であり、そのような「神」については原理的に科学には手も足も出せないとわたしははじめから言っています。わたしが「現実世界に介入する神」というとき、一度限りの自然法則の設定はそれに含まれていません。

> ですから科学のルールで宗教は否定できません。
> 同様に宗教のルールで科学を否定できません。

その通り。しかし多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです。

死後の世界とか、人生の意味とか、科学にはまったく手が届かないために宗教が担当している領域というのはあります。それらについて何かを主張する限りにおいて、どんなに無根拠でも科学によって否定されることはありません。しかし、宗教が現実世界について何かを主張するとき、その主張は科学的手法による検証に原理的に開かれるはずです。

仮に、紅海の海底を科学的に調査したところ、モーセの頃と思われる時代に海がまっぷたつに割れた証拠が発見されたとしましょう。もしそうなった場合、それを知ったキリスト教やユダヤ教やイスラム教の宗教家が、「科学には宗教は否定も肯定もできないのだから、そんな調査には何の興味もありません」と言うと思いますか? そうとは到底思えません。きっと「聖書の記述が正しいと証明された」と宣伝するでしょう。

つまり、宗教による現実世界についての言及が科学によって検証可能であることは、宗教者だって認めているのです。科学によって宗教に都合が良い情報が得られた時は思う存分利用するのに、科学が宗教にとって都合の悪い情報を明らかにしたときは「科学と宗教ではルールが違うので科学によって宗教は否定できない」という詭弁を許すべきではありません。宗教にも科学によって検証可能な部分とそうでない部分があり、現実社会についての主張であれば少なくとも原理的には検証可能なのです。

>>38
ダウン症の機構が21トリソミーであることくらい分かってますって。しかしどうしてある例において21トリソミーが発生したか(減数分裂で自己が起きたか)は解明されていないし、その原因にだって他にそれを引き起こした原因があるはず。いずれにせよ、それが自然法則に従っていることは疑いを持ちようがありません。

「今の時点で分かっていない」からといって宗教が好き勝手なことを言っていたら、将来痛い目に合う可能性が高いでしょうね。(完全に解明されなくても、ある宗教的主張を否定する程度に解明されることはあるでしょう。)

> そもそもね、カガクってのは原理的に不完全なんだにゃ。

それは「原理的」という言葉をわたしの言う意味とは違った意味で使っていますね。そして、その意図された意味において、同意します。

>>39
> つまりね、自然法則に反しているかどうかなんて、それが奇跡であるか
> どうかには関係にゃーのさ。

あのー、だからさ、信者の人たちは、それを自然法則による偶然じゃなくて、超自然的な理由によって起きたと思っているからこそ、奇跡と呼んでいるんでしょ。つまり、「奇跡」とは自然法則に反するものである、という定義は共有されている。

ちなみに、一端「死んだ」とされた人が蘇生したということはたまにありますが、イエスのように十字架で処刑された人が蘇生するというのはかなり考えにくいように思います。イエスが声をかけただけで生き返ったというラザロの場合はもっと怪しくて、埋葬されて既に4日たって腐りかけていた遺体を蘇らせたということになっています。

42AH1:2006/12/28(木) 16:43:03 ID:b4lKR3h.
横レス失礼します

「神」と言った場合、その能力が普通は無制限と解釈されている気がするのですが、
macskaさんは如何お考えになりますか?

能力が無制限ということは、
「いかなる方法も使い放題、いかなる証拠を残すことも消すことも自由、宇宙の法則も人間の記憶や記録も改変し放題」
な神になってしまいますよね。
すると、これを相手に検証したとしても、
・奇跡だけど奇跡に見えない
・奇跡に見えるけど奇跡じゃない
のどちらも可能になってしまい、かつその見分けがつかないとなれば、検証の実効性が非常に薄くなると思うのですが。

もちろん能力制限付きの神であれば検証できるのでしょうが、
普通は神のスペックは公開されてませんよね。

43ミケ:2006/12/28(木) 21:59:53 ID:???
>>31
>正確には、「カミサマというのが何だかしっかり定義してくれないと、
>回答のしようがない」ということではないですか?
>だって、しっかり定義された「カミサマ」についてであれば、
>その種類によっては科学にきちんと回答できる可能性があるわけですから。

「で、そのしっかり定義された『ある特定のタイプの神』はカミサマなんですか?」
と訊かれたらどうします?
アヤシゲなモノに「神」という名前を与えて、その存在を証明or否定する。
それは神の存在を検証したしたことになるのでしょうか。

Q & Aのような文脈での、「神がいないのでしょうか?」は結局のところ
>>28での会話の例のように落ち着くのでは。

例1.
「〜〜のようなタイプの神は否定されるね」
「じゃあカミサマはいないんだ?」

例2.
「〜〜のようなタイプの神の存在は科学的に証明されてるよ」
「じゃあカミサマってホントにいるんだね。」


>>7のNATROM さんの
>そんなことで否定できるしょぼいカミサマなんて神じゃないような気もしますが。

という一文がかなり端的にこの問題を表現している気がします。

「神はいないのでしょうか?」という質問をぶつけてくる人間に対し
「一部の『神と呼ばれる存在』については検証可能です。(たぶんいない、と)」
と答えるのが、適切な答え方なのか?ということです。
それは単に、カミサマ(いるかいないかも分からない)の形を絞っているだけでは?

ちなみに確率現象を介しての神の干渉については、統計学を以ってしても検証不可能です。
神がどの程度の頻度で、あるいはどのような条件で確率現象に干渉するかのデータが入手不能だからです。
まあ、宝くじ一等を同じ人に連続で当てさせるタイプの神はいないでしょうが、
それだって、いるとしたらそういうタイプではないよね、というだけに過ぎません。

たとえば、
那須与一が矢を射る際に風が止んだこと、あるいは元寇の際に神風が吹いたこと、
誰かさんが落雷の直撃を受けても死ななかったこと、どっかのおばあさんが11階から落下して生還したこと、
これらは確率的に低い事象ですが、もし事実だったとして、
どれが神による介入で、どれがホンモノの偶然かは判別不能です。

44ミケ:2006/12/28(木) 22:08:56 ID:???
>>43が拡散してしまったので主旨のみ端的に。
>>43の会話、例1.、例2.のような流れになったとき、
普通は、「それは分からない」に落ち着くのではなかろうか、

「『特定のタイプの神』についての検証」とは
結局はカミサマ(いるかどうかも分からない)の姿を限定してるにすぎないので、
「神はいるのか、いないのか」という質問に対して答える際に、
「『特定のタイプの神』が科学で扱うことが可能である」と
わざわざ注釈を入れるほど重要ではない。

45地下に眠るM:2006/12/29(金) 00:18:07 ID:EpkA97A.
すげー下痢。こりゃノロかにゃ・・・・・

ものすごく乱暴なスケッチを

・macskaは「生活世界」から宗教を排除したいのではにゃーかとも見える。
・現世利益の約束は、ある意味宗教の本来的な一面である。
・現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義はいろいろと考えつく
・ナトロムのいう「しょぼい神」とは、つまりは「カガク的知見に依存する神」のこと。このタイプの神は確かにカガクで否定できる。


・・・・明日、仕事いけるかにゃ・・・・
ちゅうか、ノロだとしたら仕事しちゃまずいだろか・・・・

46NATROM:2006/12/29(金) 00:29:14 ID:Z2veARY2
>macskaは「生活世界」から宗教を排除したいのではにゃーかとも見える

そりゃないっしょ。私のサイトの不正確な部分について指摘してくれて、そのついでに議論しているだけなのではなかろうかと。

47ミケ:2006/12/29(金) 03:02:17 ID:???
まあ既に指摘箇所はNATROM さんによって修正されてるんで、
お互いに自分の考えを整理するための議論って感じですかね。
みんなの見解が微妙に少しずつ違ってて面白い。

48macska:2006/12/29(金) 05:20:01 ID:VdHL1C4M
>>42
> 「神」と言った場合、その能力が普通は無制限と解釈されている気がするのですが、
> macskaさんは如何お考えになりますか?

それを「普通」と言ってしまうことは、ユダヤ教/キリスト教/イスラム教的な宗教を過剰に一般化あるいは標準化することになって良くないと思うのですが、神様は万能であると信じている人は世界にたくさんいますね。

> 能力が無制限ということは、
> 「いかなる方法も使い放題、いかなる証拠を残すことも消すことも自由、宇宙の法則
> も人間の記憶や記録も改変し放題」
> な神になってしまいますよね。

つまり、神は水をワインに変えることができるけれど、その液体が本当にワインであるかどうか調べようと科学者が近寄ると、その瞬間だけ水になるんですか? 埋葬されて4日たって腐りかけた死体だったはずのラザロを蘇らせたうえで、科学者がそのことを確認しようとしたらその瞬間だけまた死んで、科学者が向こうに行ったらまた生き返ったうえに、一度死んだことまで無かったことにされると? どういう状況になるのか、説明できますか?

能力が無制限で万能な神でも、できないことはあります。古典的な例ですが、例えば神は自分が持ち上げられないほど重い岩を作り出すことができません。なぜできないかと言えば、それが論理に反するからです。つまり、万能というのは「論理的に矛盾しない範囲で」という制限がつくので、その辺りから検証可能なとっかかりはつかめると思います。

>>43
> 「で、そのしっかり定義された『ある特定のタイプの神』はカミサマなんですか?」
> と訊かれたらどうします?

「あなたがどのようなものを神と呼び信仰するか、あるいはしないかは、あなた自身が決めることです。科学者に応えられるようなことではありません。科学にできることは、一部の人々が『神』が起こしたと主張する事象を検証し、そうした事象が本当に起きたのかどうか、もし起きたのであればそれが自然現象として説明が付くものかどうかを判断することだけです。」

>>44
> 「神はいるのか、いないのか」という質問に対して答える際に、
> 「『特定のタイプの神』が科学で扱うことが可能である」と
> わざわざ注釈を入れるほど重要ではない。

はい、「わかりません」でいいと思います。しかし、もとの Q&A には、科学は神について何も言えない、と書かれていたんです。それは間違いですから、訂正した方が良いのではないかと思ったわけ。「『特定のタイプの神』が科学で扱うことが可能である」というのは、どこが間違いかを指摘するために言った言葉であって、そういう注釈を入れるべきだと主張したことはありません。というか、あの Q&A でそこまで書くのは明らかに場違いです。

>>45
> ・macskaは「生活世界」から宗教を排除したいのではにゃーかとも見える。

「神」というラベルを貼りさえすれば、現実社会についてどんな主張をしても科学的な検証を受けないだろうという宗教の傲慢に、科学はきちんと対抗すべきだと考えているだけです。

てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)

> ・現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義はいろいろと考えつく

現在の科学によって反証されない教義なら、いろいろあるでしょうね。でも、今後の科学の発展で教義を覆される可能性はあるので、できるだけそうならないためにはかなりよく考える必要があると思いますよ。

# 科学が完全に全てを解明するという話はしてませんのでその点誤解しないように。
# これまでの科学の進歩が宗教の教義の一部を反証したり、再解釈を必要とさせたように、
# 今後もそういうことが起きるだろうと言っているだけです。
# いまの時点安全な教義でも、何十年何百年と先に安全とは限りません。

…と言ってみたものの、実際よく考えてみたら「現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義」というのがわたしには思いつきません。何らかの現世利益がその教団の信者だけに起き続けたら、やっぱり統計学の手法で検出されちゃうんじゃないかと思うんですが、いくつか「カガクにひっかからにゃー教義」の例を挙げてもらえますか?

49tema@:2006/12/29(金) 12:48:49 ID:???
>「現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義」

もちろん、たまご(^-^)ノ教の教義です。
(ttp://members.jcom.home.ne.jp/natrom/board031206.htmlあたりを参照)
「卵は一日一個まで」という教義を守るだけで、「幸せ」になれるという教義です。
「幸せ」は現世利益ですが、自然科学では扱えません。

問題は「現世利益」を「自然科学で扱える利益」と定義した場合です。
この場合、本来の宗教の役割は心を救うことであり、現世利益を謳うことは、方法ではあっても目的では無い、と考えます。もし現世利益を謳う神が居たら…
その神については自然科学で扱ってよいのかも知れません。

50tema@死語の世界:2006/12/29(金) 12:52:30 ID:???
ああ、焦って書いたから文章とハンドルが失敗している…

51えめ:2006/12/29(金) 13:49:47 ID:eiXhG8Tk
>macskaさん
仮に現在イエスが存在したとして、水をぶどう酒に変えて見せたとして
まぁ、おそらくマジシャンも参加した実験を繰り返しますわな。
で、結果
1.科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた。
2.実験は厳密に行われ、トリックの介在できる余地は一切なかった。
3.念じただけで水がぶどう酒に変わる原理など皆目見当もつかなかった。

質問でーす。
この場合「ええと、あのですね、だから、水がワインに変わるわけがないんですよ」との理由で現象そのものを否定する態度は科学的でしょうかそれとも宗教的でしょうか。
ヒント→「ええと、あのですね、だから、サルがヒトに変わるわけがないんですよ」

>能力が無制限で万能な神でも、できないことはあります。古典的な例ですが、例えば神は自分が持ち上げられないほど重い岩を作り出すことができません。<
能力が無制限で万能の存在と規定するなら可能でしょうねー。どうやってかは私は神でも一休さんでもありませんから解りませんけど。(実はちょっと考えた)
 人間の理屈が通じないものを人間の理屈で説明するとこうなりますが。

>「現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義」というのがわたしには思いつきません。
教義ってのは科学の手法など用いてませんから、どんな自然科学の学説も宗教の教義を用いていないのと同じですよ。

 まあ具体的には酉の市で熊手を売ってるヒトにその理由を尋ねてみるって方法があります。
世界に山ほどある「現世利益を謳いつつ、カガクにひっかからにゃー教義」の一つが聞けますよ
でもその上で
「統計学上熊手の購入と倒産に相関があるとは言えない(相手が理解できなかったら『要するにいくら熊手買ったって潰れるモンは潰ますよ』)」と言ってはいけません。
んんんん〜 季節ネタですな

52macska:2006/12/29(金) 15:53:23 ID:VdHL1C4M
>>49
> 「卵は一日一個まで」という教義を守るだけで、「幸せ」になれるという教義です。
> 「幸せ」は現世利益ですが、自然科学では扱えません。

なるほど! 今日3個くらい食べてしまいました。反省。

しかし心理学では、「幸せ」というのをオペレーショナルに定義して「幸せ度スケール」みたいなので測ったりしますよね。そうした場合、「卵を一日一個以上食べないことは、幸せ度スコアの上昇と関連しているか」という形の普通の心理学というか栄養学の研究ができちゃいそうです。手法は観測でも実験でも。また、たまご教内部でも細かい解釈がいろいろ割れているようですが、「幸せ度スケール」を導入することによって神学的な問いに答えが見つかるかもしれません。

真面目に回答すると、要するにこの場合、約束されたご利益がちゃんと定義されていないだけで、定義した途端に検証可能になるという話。定義不能なご利益があるなんて言われても困ってしまうわけで(笑)

>>51
うーん、まだ分からないですか。

「科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた」という仮定の話をされていますが、普通ならそうじゃなくて「科学者が調べたところ、それはやっぱり水のままだった」となるはずなんです。あるいは、何らかのトリックの余地があったとか。そういうことを示せば、奇跡は否定できるんですね。

さて、万が一本当に1〜3の条件が満たされたように見えたとしましょう。しかしそれでも、その3つの点それぞれについて1科学者やその計器が間違った可能性がある、2参加者の誰にも分からない新しいトリックが使われた可能性がある、3水がぶどう酒に変わる自然法則に矛盾しない理由がある可能性がある、という3つの留保は必ず残りますから、それが奇跡だという確証にはならない。

そうなったとき、はじめて「これは今の科学では説明できない、もしかしたら奇跡かもしれない」と言えばいいわけです。しかし大半の「奇跡」についてはそういう結果にはならず、十分な調査が可能であれば反証されるでしょう。

> まあ具体的には酉の市で熊手を売ってるヒトにその理由を尋ねてみるって方法があります。

ごめん、それがどういう市で何を売っているのか全然わかりません(笑)
…今調べて分かった。ありがとうWikipedia。
でも、これもご利益をきちんと定義してくれれば、検証可能ですね。

53AH1:2006/12/29(金) 17:24:51 ID:MM7DYpv2
>「科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた」という仮定の話をされていますが、普通ならそうじゃなくて「科学者が調べたところ、それはやっぱり水のままだった」となるはずなんです。

いや、本当にワインになっていて、「水ーワイン転換」という現象が確認されてもいいと思いますよ。
1「ごく稀に偶然起こる」
2「ある方法で起こすことができる」
3「以後、観察されておらず、方法もメカニズムも謎」
等の可能性が考えられますが、さて、ある人が水に手を触れてワインにしたとします。
それは奇跡でしょうか?

1から考えれば、1度だけなら、そういう偶然があったかもしれません
2から考えれば、彼はその方法を知っていたのかもしれません。
3から考えれば、誰も知らない水ーワイン転換の方法を知っていたのかもしれません。

もちろん、いずれの場合も、彼は本当に神であり奇跡を行ったのかもしれません。
つまり、「何か凄い事」をした人が神なのか、マッドサイエンティストなのか、
未来人なのか、宇宙人なのか、ニュータイプなのか、バビル2世なのか、
あるいは宇宙人や未来人や超能力者が「神」と呼ばれても良いのか、
その辺は如何お考えになりますか。

私は神とは何ぞや?の定義が不明確な場合、どこまでいっても「神の御業は不可知」という領域に
逃げ込まれてしまうのではないかと思います。
また、macskaさんの仰った死体が復活する例であっても、
「さっきまで確かに死体であった、それが今は何故か生きている」
という例が「あってはならない」とは言えないと思うんですね。
もしあったら「極めて稀な、未知の現象」として扱うのが科学なんじゃないかと。

54AH1:2006/12/29(金) 17:32:21 ID:IOjgBizs
連投ですいません。
この話題を議論していて
「偉大なる存在」(小松左京)と「永久機関装置」(神林長平)を思い出しました。
前者は「こうあればいい」と思ったことが過去の辻褄まで合わせて現実となる男、
後者は自分の逃げ込む世界を自分で創造して逃げ回る永久逃亡犯の話です。

55AH1:2006/12/29(金) 17:33:23 ID:IOjgBizs
×「永久機関装置」
○「永久帰還装置」

失礼いたしました

56macska:2006/12/29(金) 17:52:48 ID:VdHL1C4M
>>53
話がこんがらがってしまって、何が論点だったのか分かりにくくなってしまいましたが、わたしは何も「科学的に検証すれば全てが解明できる」と言いたいわけではないのです。奇跡と呼ばれる現象が、現実社会において起きるなにかである限り、それは科学的手法による検証の対象となりうるというのがわたしの言わんとすることです。また、神というものが現実社会に介入する存在である限り、その存在については「科学の範囲外」ということはありえないとも言っています。そういうことで、よろしくお願いしますです。

> あるいは宇宙人や未来人や超能力者が「神」と呼ばれても良いのか、
> その辺は如何お考えになりますか。

わたしは、それを「神」とは呼びません。もちろん、麻原彰晃が「神」だという人もいるくらいだから、本当に座禅を組んだだけで空を飛べる超能力者とか宇宙人みたいなのがいれば、それを「神」と呼ぶ人はいるでしょうね。

どんなに優れた知識や能力を持っていても宇宙人や未来人や超能力者をわたしが「神」と呼ばないのは、それがいかに優れた存在であっても、それは自然選択による進化によって生まれたと思うからです。しかしもちろん、進化した存在であっても「神」と呼んでもいいじゃないか、という人はいるでしょうし、「わたしにとって『神』とはこういうモノなんだ」という個人的な定義以外に反論を思いつきません。

> もしあったら「極めて稀な、未知の現象」として扱うのが科学なんじゃないかと。

「もしあったら」その通りですが、大抵の場合は「やっぱりそんなことなかった、奇跡として宣伝された話はデマか勘違いか誇張だった」で終わると思います。

57AH1:2006/12/29(金) 19:04:55 ID:MM7DYpv2
失礼しました、話を拡散させましたね。
macskaさんの「たとえ奇跡と呼ばれる(或いは、呼ばれるであろう)現象も科学的に観測し検証することはできる」
という御意見には、もちろん同意します。

ただ、やっぱり『神の限界を示せ』という定義を相手に迫らない限り、
この検証は無理じゃないかなあ、という気がしたものですから。
(キリスト教では神はオールマイティになってますよね。
他の神話、たとえば古事記においては神といえどもできなかったことはあるけれど(黄泉から死人を連れ帰るとか)、
「神ができないことリスト」として列記してはいません。)

とりあえず「ワシが祈れば必ず風が吹くのじゃあ!」とか言い出す自爆似非教祖がいれば、
「科学的には有意に風が吹く頻度が高いとは言えない」とか
「あなたの祈りを持ち出すまでもなく、十分に説明できる程度の現象にすぎない」
という反論は、できると思います。

58えめ:2006/12/29(金) 21:13:27 ID:eiXhG8Tk
これはヒントの出し方が悪かったか
ヒント→「ええと、あのですね、だから、サルがヒトに進化するわけがないんですよ」
もう一つ
水からぶどう酒に変わったらそれは奇跡だ。などとは一言も言ってませんよ。

そういや数日前の雪請いが今回は天に通じたようですね。

59地下に眠るM:2006/12/30(土) 14:12:09 ID:EpkA97A.
ちょい体調がもどってきましたにゃ。昨日は仕事納めを休んじゃったよ。

「ひっかからない」というコトバに関する誤解があるようですにゃ。
「ひっかからない」というのをmacskaは「検知できない」と捉えているようだけど、僕は「矛盾しない」というつもりで書きましたにゃ。

41で僕に対するレスで以下の様にいっていたので、その反論のつもりだったのですにゃ。
「今の時点で分かっていない」からといって宗教が好き勝手なことを言っていたら、将来痛い目に合う可能性が高いでしょうね。(完全に解明されなくても、ある宗教的主張を否定する程度に解明されることはあるでしょう。)

macskaは一対多の状況でレスを返してくれているのだから、そのあたりを考慮して多義的にとれる表現をすべきではありませんでしたにゃ。
混乱させてごめんね>macska & おおる

で、正確にいいたかったことを記述すると
「現世利益をうたいつつ、カガクの手法で検証しても矛盾がみつからなにゃー教義はいくらでもある」
これならいくらでもあるだろにゃ?
例えば
「大地の恵みに感謝して、多種多様な新鮮な食物を食べましょう。直接大地からとれた野菜を中心に食べましょう。素材のよさをいかして(=塩分ひかえめ)調理しましょう。毎日大地を踏み締めて一日何時間かは歩きましょう。そうすれば、健康で長寿が約束されています」

あるいは優秀な投資機関が宗教を名乗るとか。「お金は神だから増やしましょう」とかいって、金持ち限定で入信させて(貧乏人は神に呪われた賎民)カネをガンガン増やす。
そもそも今だって貨幣を信仰している連中は多いんだから、そのあたりを自覚して宗教団体と名乗ればよろしい。貨幣と宗教はもともと切っても切れにゃー関係だしにゃ。資本主義ってシューキョーだしー(げらげら
ま、キョーサンシュギだって立派なシューキョーだけどにゃ。

別に煙に巻くためにこんなことを書いたわけではなく、根拠をいうものをドンドンと辿っていくと、最終的には「根拠ナシ」か「わからない」にいきつくにゃ。これは、カガクがどんなに進んでもそうなるはず。宗教は根拠を直接あたえ、ニンゲンの意識においては根拠は価値に直結する。上記2つの「大地の恵み教」も「お金はカミサマ教」も「カガク的に正しいこと」に依存しているわけではにゃーわけだ。価値は「健康長寿」「カネ」にあり、そのための方法は「神のお告げ」といえばいい。

60地下に眠るM:2006/12/30(土) 14:21:45 ID:EpkA97A.
>科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)

おお、サービスいいちゅうかノリがいいちゅうか。

カガクそのものはツールにゃんね。
で、カガクのもたらす「真理」の特色は、
1)暫定的
2)共有可能(=開放性)

で、宗教も「真理」を扱うのでバッティングしちゃう(ようにみえる)わけだにゃ。

以前、ここの第一掲示板に貼ったものにゃんが
****************************************
三位一体というが、一は三に等しいか? どうして三が一になりえるのか? 母親が処女でありうるか? まだいろいろあるがこれくらいにしておこう。
すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。一体いつになったらこのことに気づくのだろうか。テルトゥリアヌスはこう告白しているではないか。
「かくして神の息子は死んだ。このことは、まさしくそれが不合理であるゆえに信じられる。かくして彼は埋葬され、復活した。このことはまさにそれが不可能であるがゆえに確かなことである」
もしキリスト教徒がこのような矛盾を信じるよう要求するのであれば、この他に若干の背理(パラドックス)を認めようとする者を非難できないのではないだろうか。わけても背理は、極めて貴重な精神的財産の1つである。
これに反して一義性は、弱さのしるしである。従ってもし宗教が、その背理性を失ったり弱めたりするようなことがあれば、それは内面的に貧困化し、背理性が強められる場合にはそれは豊かになる。というのも充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみであって、一義的な明白さとか矛盾のなさとかいうものは物事の一面にしか通用せず、従って把握しがたいものを表現するには不向きだからである。
誰もがテルトゥリアヌスの精神力を持っているわけではない。テルトゥリアヌスは明らかに背理に耐えることができたし、それどころか背理は彼の場合、その宗教的確信の最高の根拠でもあった。精神的に脆弱な大多数の人々は背理を、まともに受け止めれば大怪我でもするかのように危険なものに仕立て上げ、これを回避しようとする。
ユング「心理学と錬金術」P30より 引用者が適時改段
*******************************************

こういう心的態度に対して、「処女懐胎をカガク的に検証」とかいったところで何の意味もありゃしにゃーよな。
カガクは線形論理(線形論理は論理のひとつにすぎないと、やふ掲示板で僕の信頼する奴がいっていた)に従わなければならにゃーので、背理を認めにゃー。しかし、「充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみ」なのであれば、カガクの真理なぞは、貧困な世界の真理にすぎにゃー。真理も知も階層があるんだにゃ。

ちゅうわけで、カガクとシューキョーだったら、もちろん問題なくシューキョーのほうがエライ! もう圧倒的にエライ!
カガクは徹底してツールなのだにゃ。あえていえば、カガクには奴隷の気高さがある。


それと、ここのサイトの基本的なお題に立ち戻ると、
「創造科学は宗教ではなく疑似科学である」だにゃ。

創造科学が奉ずる「しょぼい神」は「しょぼい」ゆえに宗教ではなく、疑似科学となる。
まあ、創造科学の場合は、科学を自称するからいろいろとわかりやすいんだけどにゃ。

■「しょぼい神」を奉じているのは、科学ではなく疑似科学、宗教ではなく「疑似宗教」。
創造科学が馬鹿のタワゴトのくせに科学を名乗っているように、馬鹿のタワゴトにすぎないものが宗教を名乗っているにすぎない。

61地下に眠るM:2006/12/30(土) 14:47:13 ID:EpkA97A.
>神というものが現実社会に介入する存在である限り、その存在については「科学の範囲外」ということはありえないとも言っています。そういうことで、よろしくお願いしますです。

確率的事象に介入する神と関連しそうなんだけど、一神教の神概念の中では予定説(予定論)はカガクには取り扱えそうににゃーね。

日本大百科より「予定論」の項、冒頭部を引用
****************************
praedestinatio

神の救いは、人間の側の行為や努力にかかわりなく、すでに定められているというキリスト教の教説。予定説ともいう。『旧約聖書』においてイスラエル民族は、その卑小さにもかかわらず神の選民としてたてられており、背信と亡国ののちも、その「残れる者」は究極的な救いに予定されているという信仰が一貫しており、『新約聖書』は「新しいイスラエル」の自意識のもとにこれを継承した。パウロの「ロマ書」(8章29―30)、「ガラテヤ書」(1章15)、「ピリピ書」(2章13)などは予定論の古典的典拠となる。
****************************

62DDB:2007/01/08(月) 00:41:31 ID:rgvQC6KQ
みなさん、こんにちは。ROMしているつもりだったのですが、どうやらmacska さんが言われっぱなしのまま幕切れを迎えたようで、非常に後味の悪い思いです。 

macska さん(や、その周辺の人たち)は、現在、とある宗教団体関係者たちから、執拗に中傷され、侮蔑され続けています。その宗教団体が、ある特定の人間集団を「生まれながらに劣った者」と見なしていることに対して異議を申し立てた、というだけの理由からです。このスレで、macska さんの言説の揚げ足を取ったり、まぜっかえすようなことを言っている人たちの誰一人として、自分がそんな目にあった経験はないでしょうし、そんな目にあっている人たちのことなど微塵も考えたこともないでしょう。「心のありよう」の範囲を踏み越えて現実世界に干渉してくる宗教の怖さは、このスレに書き込んでいる誰よりも、macska さんが身をもってよく知っていると思います。 

このスレにおいて、macska さんは、実に慎重に、一般論のみを述べるにとどまっていますし、立場上それが当然だと思います。ただ、実際には、macska さんは、もっと生々しい現実的な事例を念頭に置いているのではないでしょうか。例えば、教祖が空中浮揚するとか、触れただけであらゆる病気を治すとかの「奇跡」を売り物にして、信者から大金を巻き上げ、政治的発言力を増していき、行政や教育に干渉してくる団体とかです(特定の宗教団体のことを指しているわけではありません! カルトじみた団体は、そのような傾向を持ちがちだ、という意味です)。奇跡を信じるのが個人的な範囲にとどまっているなら、誰も野暮は言いません。しかし実際には、宗教が自らを権威づけ、権力を増強していくための手段として、奇跡を利用しているケ−スは多いわけですし、そうした現実には一切目をつぶって、なんでもかんでも心の問題にすり替えてしまうのはどうかと思います。 

私とて、できれば宗教の話などしたくありません。うかつなことを言えば災いが降りかかるのは目に見えていますし、それこそ「宗教は心の問題」の一言で片付けて、あとは触らぬ神に祟り無し主義で生きていたいです。macska さん(や、その周辺の人たち)が受けている凄まじいバッシングを見れば、怖くて引きます。ただ、恐怖のあまり引いてしまうほどの宗教的バッシングが現にあるからこそ、何もしないでいるのはよくない、とも思います。宗教が「心のありよう」の範囲を踏み越えてきたときに、我が身に危険が及ばない範囲内で批判し、ささやかながらも釘を刺しておくのは、宗教の暴走をくいとめるうえで大事なことでしょう。 

最後に、macska さんの真意に対する私の考察が深読みのしすぎであり、macska さんにとってはむしろ迷惑であったなら、その点はmacska さんにお詫び申し上げます。また、「ぽっと出」の私が、この掲示板の常連さんたちに非難めいた書き込みをしたことに対して、常連の皆様にお詫びを申し上げます。

63ぽっと出2号:2007/01/08(月) 02:37:32 ID:EZ3AtddI
私もROMっておりましたが、少し気になったので書かせていただきます。
>DDBさん
>しかし実際には、宗教が自らを権威づけ、権力を増強していくための手段として、奇跡を利用しているケ−ス

これは創造科学にも当てはまる話なのではないかな?と思うのです。
そして、ROMをしてこられたDDBさんならおわかりのように、
このサイトは科学的立場から擬似科学である創造科学に対して、論破を重ねてきているのではないでしょうか。

このスレッドをここまで読んだ限り、DDBさんの仰るような揚げ足取りがあるとも思えないのですが、
具体的に誰のどの発言がmacskaさんのどの発言の揚げ足を取っていて、それはmacskaさんの真意とどれほどかけ離れているのか?また、ではどのような話になっていれば良かったのか?について、DDBさんの見解を示されたほうが、わかりやすいと思います。

64地下に眠るM:2007/01/09(火) 16:21:09 ID:cizMQ0FI
>DDBくん

>このスレで、macska さんの言説の揚げ足を取ったり、まぜっかえすようなことを言っている人たち

どうやら僕のことでもあるようなので、後学のために聞きたいにゃんが、例えば僕のどの発言が「揚げ足を取ったり、まぜっかえすようなこと」なのか具体的に指摘してもらえにゃーかね?

>「ぽっと出」の私が、この掲示板の常連さんたちに非難めいた書き込みをしたことに対して、常連の皆様にお詫びを申し上げます。

馬鹿なことを発言したら馬鹿にされるのは当然だにゃ。馬鹿に馬鹿といったからといって、謝る必要なんてどこにもありはしにゃーのだ。
肝腎なのは、ちゃんと根拠のある非難なのかどうかだにゃ。文句言いながら謝るなどというチンケな予防線はってにゃーで、何が揚げ足取りとか混ぜっ返しなのかちゃんと説明しろよ。
ぽっと出2号も同じことをいってるだろ?


>どうやらmacska さんが言われっぱなしのまま幕切れを迎えたようで、非常に後味の悪い思いです。 

僕だって議論を途中で放り出すなんてよくあることだにゃ。
飽きたとか面倒になったとか馬鹿すぎて話にならんとか忙しくなったとか、いろいろ理由があるだろうし、いちいち気にすることではにゃー。「言われっぱなし」が「負け」だなんてのはきわめて幼稚な感覚にゃんね。macskaも面倒になっただけなんでにゃーの?
ところがさ、どうやらチミの解釈ではそうではにゃーらしい。
だってさ、「揚げ足取りやまぜっかえし」のせいでmacskaが「言われっぱなし」となり「非常に後味の悪い思い」をしているといっておきながら、具体的に何が「揚げ足取り・まぜっかえし」なのかと聞かれても答えられにゃーということは、チミの解釈は「macskaの負け逃げ」ということになっちゃうんじゃにゃーのかね? macskaを馬鹿にしているのはチミだよ。



>このスレで、macska さんの言説の揚げ足を取ったり、まぜっかえすようなことを言っている人たちの誰一人として、自分がそんな目にあった経験はないでしょうし、そんな目にあっている人たちのことなど微塵も考えたこともないでしょう。

お笑いだよ>DDBくん
自分の思うような言動をしない相手に対して、経験や心情を勝手に忖度するなんてのは、アタマのワリイガキとかウスラ馬鹿宗教脳の基本的応答パターンだぜ。

65diamonds8888x:2007/01/10(水) 05:50:11 ID:je6LAXPY
 議論には反論がつきものですし、反論であれば揚げ足取りやまぜっかえしと感じる人もいるのはやむをえないでしょう。ただ本掲示板での1対多の議論にしては珍しく袋叩きにはなりませんでしたね。それだけmacskaさんがしっかりした論客だからでしょう。57番ではAH1さんも一部に賛成してますし、NATROMさんも意見を入れてQAを書き換えましたし、59番の地下に眠るMさんの謝罪表明に至っては驚天動地でしたよ(^_^)

 それはともかく、本件はなかなか深いテーマで自分の考えを述べるだけでも長くなりそうですが、まず私の基本的スタンスを述べておきます。
1.macskaさんの「現実世界に介入するタイプの神は原理的には科学的検証の対象となり得る」にはほぼ全面賛成。百歩譲っても「現実世界の説明に神という仮定は必要ではない」。また41番の「しかし多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです。」にも同意。百歩譲っても「多数の信者がそのように信じているであろう。」「多数の者には心の救いと現世利益との境界は曖昧だろう。」
2.私自身は宗教を必要としないが必要とする人は莫大であり宗教の効用は否定できない。宗教のまともな効用は人生指針であり、近視眼的御利益のための奇跡を期待するのは現実的ではない(けど期待する人が多数いて、いわゆる疑似宗教詐欺にだまされるのが現実)。効用が人生指針という点では、人生訓、格言、師の教えなどと同様であるが、これらに比べると宗教は盲信による副作用が起きやすいのではないかと考える。
3.「宗教は良いが疑似宗教は悪」という論理は、権威への盲従または不当なレッテル張りという二面での危険が大きい。なぜなら「真の宗教やまともな宗教と疑似宗教の区別は本質的に不可能」だから。百歩譲っても「まともな宗教と疑似宗教の区別は凡人には極めて困難。手品と真の超能力の区別に勝るとも劣らずに困難」。

 さて身も蓋もないことを言えば、本サイトでのQ&Aのような断りを入れる必要があるのは、この現実世界において宗教なるものの力があまりにも強いからです。ほんどの先進国では「信仰の自由」が唄われていますし、「まともな宗教」というお墨付きを獲得すれば、その信条や行動がほぼ無条件に認められる面があります。個人的な好き嫌いで出された料理に手を付けなければ「礼儀に反する」と思う人もいるでしょうが、宗教的理由を持ち出せば誰しも仕方ないと思うものです。さらに社会的に広く認知され、莫大な人に人生指針という点での効用を与え、多くの人に社会や人類に奉仕する動機付けを与えるという正の側面の強い宗教が多数あります。やっかいなことに負の側面の強い宗教と正の側面の強い宗教を区別するのは凡人には困難です。それどころかひとつの宗教自体が正負両面を持ちます。このような状態で単純に「宗教は非科学的だ」と言っているとだけ受け取られることは、余計な敵を増やすことになり得策ではありません。

 科学的検証の通じない奇跡とは何か、という議論も盛り上がりましたが、実際問題として奇跡と称される多くは科学的検証の通じる現象として語られているのではないでしょうか? モーゼの事績やイエスの治療や諸々の奇跡はみなそうです。私は通常は素朴唯物論の立場を取りますから「紀元0年前後のある時、イエスと称する人物が水をワインに変えるのを目撃した人達がいる」という言明は真か偽のどちらかであると考えます。偽というのは例えば、後の新約聖書の記者によるでっちあげというケースです。真である場合には、その時代に科学的検証のできる人がいたとすれば、原理的に検証可能です。なにせイエスと称する人物が生きていれば再現実験が可能ですから。

 真に科学的検証の通じない奇跡とは何かという問題を論じるのも、特に知性の高い人々にとってはおもしろいのですが、あんまり現実的ではないという気がします。哲学的にはおもしろいかも知れないがと言い換えてもいいです。

66diamonds8888x:2007/01/10(水) 05:55:26 ID:je6LAXPY
 あと、以下の議論はmacskaさんが本当に論じたいこととは関係が薄いとは思うのですが、33からの偶然論に関して、量子力学には弱いと言うmacskaさんへの説明も含めて書き込みます。33でmacskaさんが暗黙のうちに前提としていたのは「決定論」と呼ばれる考え方です。最も強い意味でわかりやすく説明すれば、「この宇宙は時間軸も含めた唯一の4次元時空であり、過去も未来もすでに決定されている」という考えです。さらに、「この4次元時空の全ての場所で一定の自然法則が成り立っている」と付け加えると、ラプラスの魔が活躍可能な宇宙ができあがります。つまり「ある時点の事象はそれより過去の全空間の事象から一定の計算方法で計算されたものになる」ということです(因果律)。ただし未来予測が完全にできる可能性があるのは、この4次元時空の外部にいるラプラスの魔のみです。4次元時空の内部にいる知性体には不完全な予測しかできません。というか、彼がどんな予測をいつ行うかという事象も、全て定まっているというのが最も強い意味での「決定論」ですからね。こう極論すると内部の知性体たる我々の自由意志はどうしてくれる、という素朴な不満がでてくるので、「決定論」というのは感情的にはなかなか受け入れがたいのですね。
 なお理屈から言うと、4次元時空のところどころに因果律とか一定の自然法則から外れた例外的事象が埋め込まれているとしたら、それこそ「奇跡」と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。この場合、奇跡の起きる場所と時間もあらかじめ定まっていることになります。

 さて量子力学により上記決定論は葬り去られたとする見解がありますが、私はそうは断定できないと考えています。観測問題でコペンハ−ゲン解釈に従えうなら、ミクロな粒子の運動は波動関数で表され観測されるまでは複数の状態の重ね合わせですが、観測された瞬間に唯一の状態に収束します。ここでどの状態に収束するかは原理的に予測不可能というのがコペンハ−ゲン解釈であり、そうなるとラプラスの魔にも未来の予測は不可能です。でもねえ。どの状態が選択されたかを含めた4次元時空というものがあらかじめ定められているのだ、というモデルも可能ですし、そうだとしても内部の我々にはわかりませんからねえ。ラプラスの魔はある時点から過去の情報しか使えませんから、このモデルでも未来予測ができないことには違いありませんが、全ての時空を俯瞰できる存在がもしいれば、その存在には全てが決定されていることになります。

 まあいずれにせよ、決定論が正しいかどうかは内部の我々には観測不可能ですから、そんなもので己の行動を左右されるのは馬鹿げたことです。哲学にはまる人には「自由意志はないのいかも知れない」などという可能性で絶望を感じるなんて人もいたようなんですけど、予測しがたい未来への不安でくよくよ落ち込むのよりももっと馬鹿げてますね。

67macska:2007/01/10(水) 19:34:49 ID:VdHL1C4M
こんにちは、みなさん。どもです。

わたしは、メインの議論はだいたい終わったと思ってたので、言われっぱなしのようには感じていなかったのですが…。揚げ足取りというのも違うように思いますし。

メインの議論というのは、「神というものがどういう存在であったとしても、それが現実世界に干渉する限り、そうした干渉は科学的検証の対象となり得る」というものです。これについては、実際に検証できるのかどうかという問題と原理的に検証の「対象となり得るかどうか」という点でやや議論が混乱しましたが、後者の意味、すなわち「検証の対象となり得る」という意味であればほとんどの方には同意していただいたと思います。

だから、だいたい議論は終わったと思っていたのですが、違ったのでしょうかね。

>>66
量子力学の話なんですが、それによって「科学がもっと進めば物事を完全に予測することができる」というわけにはいかない、というのは分かります。しかし、だから上に述べたような「神による現実世界への干渉」の検証ができなくなるということはないのではないでしょうか。というより、もし「神による現実世界への干渉」の検証ができなくなるのであれば、論理的に言ってそれと全く同じ手法を使った全ての科学的検証はできなくなるはずですが、実際のところそうはなっていない。

あえて言えば、全ての科学的検証が完全ではないように、「神による現実世界への干渉」の検証も完全ではない、という程度の話でしょう。そのため、科学的事実の一部は立証できないし、科学的間違いの一部は反証できない、そしてその中には「神による現実世界への干渉」も含まれると。するとやはり、量子力学が云々という話は一般論であって、「神による現実世界への干渉」についての今回の議論にはあんまり関係ないのではないかと思います。

> まあいずれにせよ、決定論が正しいかどうかは内部の我々には観測不可能ですから、
> そんなもので己の行動を左右されるのは馬鹿げたことです。

馬鹿げたことかどうか以前に、いったいどのように行動すれば決定論が正しいかどうかによって己の行動を左右したことになるんでしょうか?

68地下に眠るM:2007/01/11(木) 02:25:07 ID:EpkA97A.
ほう? 僕の理解とはだいぶ違っているにゃ。

1)奇跡がニンゲンの認識・解釈の問題であると捉えた場合、自然科学の対象ではない
 例えば「選民思想」的な問題(奇形だの出自だの)において、自然科学的にありえるかありえないかは本質的な問題ではない。

2)現世利益をうたいつつ、それが検証はされえても、矛盾が発見されえない教義の具体例はだした。反論はない。

3)カルヴァン派の予定論のような、神の大規模な干渉を前提とし、しかも検証されえない例を出した。反論はない。

以上より、自然科学的に検知だのといったことは無意味であることが多く、それが意味ある場合は教義が「カガク的事実」に依存した場合であるというのが共通認識となっていったん議論は終了したと考えておりましたにゃ。
先の投稿で僕は「疑似宗教」という表現をしたけれども、誤ったカガク的事実に依拠する信念を「疑似宗教」といってしまっていいかどうかは考えどころだにゃ。それは宗教を名乗る疑似科学なのではにゃーのか?

また、宗教に対して矛盾の有無を追求しても無意味であることは、テルトゥリアヌスの例を引いて説明もしたにゃ。
ま、「背理に耐えられない」からこそ創造カガクのようなシロモノをでっちあげるのだとはいえるけどね。

そもそも
>多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです

という主張は傲岸なんだよ。宗教はもともと人生訓や格言ではにゃー。現実的な救いの問題だにゃ。
カガクの側で勝手に宗教の領域を設定しておいて、そこから出てくると騒ぐなんてどういうこと?
「インディアン居留地」を勝手に作った合衆国政府のような真似にゃんな。

69macska:2007/01/11(木) 05:00:36 ID:VdHL1C4M
>>68
なるほど、あなたの言うことはどこまで本気か分からないので思わず飛ばしていました。
ネタにマジレスになっても良いので、今後は本気で応えることにします。

> 1)奇跡がニンゲンの認識・解釈の問題であると捉えた場合、自然科学の対象ではない

ニンゲンの認識・解釈によって、ある言説が自然科学の検証対象になったりならなかったりするわけがないのでしょう。奇跡については、「現実世界への干渉」としてよく言われることの例として上げただけであり、わたしは奇跡という言葉の定義に関わらず、神という存在による「現実世界への干渉」は科学の対象であると述べています。

> 2)現世利益をうたいつつ、それが検証はされえても、矛盾が発見されえない教義の具
> 体例はだした。反論はない。

たまたま科学的観測と矛盾しない教義であれば、科学との矛盾が発見されないのが当たり前。わたしは「検証の対象となり得る」(科学にとって全くノータッチではない)と言っているのであって、現実社会に関する宗教の教義は全て間違いと主張しているわけじゃないです。

わたしが「検証となり得る」と主張しているのに対し、「検証はされても〜」という例を出されても、それは一向にわたしの主張を否定していないので、そもそも反論のしようがありません。

> 3)カルヴァン派の予定論のような、神の大規模な干渉を前提とし、しかも検証されえ
> ない例を出した。反論はない。

「予定論」について引用されていた部分を読むと、「神の救いは、人間の側の行為や努力にかかわりなく、すでに定められているというキリスト教の教説」と書かれています。「神の救い」というのがよく分かりませんが、キリスト教における神の救いというのは一般に「死後、天国に行けること」ですから、そういう意味だとすると、これは現実世界に関する介入であるとは考えられません。

> また、宗教に対して矛盾の有無を追求しても無意味であることは、テルトゥリアヌスの
> 例を引いて説明もしたにゃ。

無意味とはどういう意味ですか? わたしは信仰を捨てろと迫っているわけではないので、「矛盾していてもいいから信じる」「矛盾しているからこそ信じる」という人がいても全然不都合じゃありません。もしわたしがかれらに信仰を捨てさせようとしているなら、「そんなこと言っても無意味だよ」と言われるのもわかりますが。

> 宗教はもともと人生訓や格言ではにゃー。現実的な救いの問題だにゃ。

この議論に無関係ですね。

> カガクの側で勝手に宗教の領域を設定しておいて、そこから出てくると騒ぐなんてどういうこと?

違う違う。そもそも引用された部分は、宗教への批判ではなく宗教に不当な妥協を許す科学者の一部を批判した部分です。

もとのやりとりは以下の通りです。

>>37
> 科学のルールで宗教は否定できません。
> 同様に宗教のルールで科学を否定できません。

>>41
> その通り。しかし多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると
> 主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです。

37の意見にあるような「宗教と科学の住み分け」は、例えばグールドが生前主張していたものです。そしてそれは、多くの「穏健な」宗教者たちには歓迎されているでしょう。しかし、これは間違いです。宗教と科学はそんなに簡単に住み分けできるわけがない。なぜなら、科学が検証の対象とする範囲と、宗教が教義の対象とする範囲には一部重なり合う部分があるからです。宗教が主張する、現実世界についての言明がそれに当たります。わたしは、そういう範囲に宗教が踏み込んではいけないとは言っていません。しかし、科学を犠牲にして良いわけもない。そういう話をしているんですよ。

70diamonds8888x:2007/01/11(木) 06:02:42 ID:je6LAXPY
> 馬鹿げたことかどうか以前に、いったいどのように行動すれば決定論が正しいかどうかによって己の行動を左右したことになるんでしょうか?

 私が馬鹿げたことだと言ったのは例えば次のような行動です。

 決定論が正しいと思いこむ−>未来は既に決まっているから、自分が努力したり意志決定したりすることは意味がないと思いこむ−>虚無的人生観に落ち込む

 そもそも決定論が正しいかどうかは内部の者にはわかりませんから、思いこんだり信じ込んだりすることしかできませんよね。ああ、どこの誰がそんな行動をしたり、そんな思想を述べたりしたのかと詰め寄られてもちょっと困ります。過去の記憶からの印象だけに頼ってますので、ちと出典は示せません。ただ「決定論=自由意志の不在」という観点から「未来が既に決まっていたりしたらイヤだなあ」という見方は多く見かけてますので、そういう観点の持ち主が「未来は既に決まっている」と思いこむと上記のような状態に落ち込むことは可能性が大きいでしょう。

71diamonds8888x:2007/01/11(木) 06:08:52 ID:je6LAXPY
>宗教はもともと人生訓や格言ではにゃー。現実的な救いの問題だにゃ。

 私の定義だと「大地の恵みに感謝して、(中略)健康で長寿が約束されています」というのもひとつの人生訓なんです。人生訓の根拠として神様を持ち出すと宗教になるのだと思います。で、人生訓と呼ばれるものには人生における現実的な救いを得るための処方箋も多いと思いますが、地下に眠るMさんの定義では違いがありましたか? で、もちろん人生訓や格言にだって、科学的検証にかけうるものは多数あります。上記の例も検証可能でたぶん正しいことが検証されるでしょう。

72地下に眠るM:2007/01/11(木) 10:43:59 ID:DdTIfl7A
>今後は本気で応えることにします。

そりゃタノチミにゃんね。

まず>1)

(43)ミケの記述より引用
**************************
ちなみに確率現象を介しての神の干渉については、統計学を以ってしても検証不可能です。
神がどの程度の頻度で、あるいはどのような条件で確率現象に干渉するかのデータが入手不能だからです。
まあ、宝くじ一等を同じ人に連続で当てさせるタイプの神はいないでしょうが、
それだって、いるとしたらそういうタイプではないよね、というだけに過ぎません。

たとえば、
那須与一が矢を射る際に風が止んだこと、あるいは元寇の際に神風が吹いたこと、
誰かさんが落雷の直撃を受けても死ななかったこと、どっかのおばあさんが11階から落下して生還したこと、
これらは確率的に低い事象ですが、もし事実だったとして、
どれが神による介入で、どれがホンモノの偶然かは判別不能です。
********************

この部分に対するmacskaの反論はされてにゃー。他の参加者からの反論もなし。
つまり、確率的事象を介する神の干渉に関しては検証不可能であるというのが、この場における合意事項のひとつのはずだにゃ。この前提にのって「奇跡がニンゲンの認識・解釈の問題であると捉えた場合、自然科学の対象ではない」と述べたんだけどにゃ。言い換えると、「現実世界に対する神の干渉そのものがニンゲンの側の認識・解釈の問題」なわけよ。確率的事象を介しての干渉であれば、相当大規模な干渉があったとしてもカガクには手がでにゃーことになると思われますにゃ。
このあたりがおさえられていれば、

>ニンゲンの認識・解釈によって、ある言説が自然科学の検証対象になったりならなかったりするわけがないのでしょう。奇跡については、「現実世界への干渉」としてよく言われることの例として上げただけであり、わたしは奇跡という言葉の定義に関わらず、神という存在による「現実世界への干渉」は科学の対象であると述べています。

こんな発言がでてくるわけにゃーはずなんだけどにゃー。

ちゅうわけで
・神の干渉に関してはカガクは手がでない
・お馬鹿教義=誤ったカガク的事実に依存する教義、疑似科学的教義に対してはカガクは検証できる

というあたりで「だいたい議論は終わったと思っていたのですが、違ったのでしょうかね。」



2)については了解
ま、「現実をひたすら後追いしながら差別的言辞を固定させていく教義」、なんてのもカガクには検証不可能にゃんね。


>3)
別に、「死後、天国に行けること」に限ったわけじゃにゃーよ。引用部分にユダヤ教の選民思想が述べられていたはずだにゃ。この予定説と、(66)でdiamonds8888xのいう「全ての時空を俯瞰できる存在」の構造が似たようなものであることを考えてみればいいのだにゃ。

出かけるので、続きはまたあとで

73macska:2007/01/11(木) 12:24:44 ID:VdHL1C4M
>>72
1)について。
> この部分に対するmacskaの反論はされてにゃー。他の参加者からの反論もなし。
> つまり、確率的事象を介する神の干渉に関しては検証不可能であるというのが、
> この場における合意事項のひとつのはずだにゃ。

いや、何度も言っている話で回答済みですが。
もう一度言いましょうか。

「証拠不十分で解明不可能であることは事実。けれど、現象そのものは原理的に検証可能というか、少なくとも科学的検証の対象となり得る範囲の出来事です。その点は、原理的にもまったく検証不可能である『死後の世界』や『人生の意味』といった、完全に科学の範囲の外側の領域にある問題とは区別されるべき。」

おしまい。

これだけの単純なことを、わたしがこれまで何度説明したと思っていますか?
とっくに済んだ話だと思っていたのに、まだそんな事言っていたとは驚いたよ。

2)について。
> ま、「現実をひたすら後追いしながら差別的言辞を固定させていく教義」、
> なんてのもカガクには検証不可能にゃんね。

検証不可能なのではなく、仮に無根拠であったとしても false-negative が出るだけです。
科学的検証の対象であるわけですから、検証自体は可能でしょう。
このあたりは、もう言葉遣いの違いになってしまうのかも知れませんが。

3)について。
> 別に、「死後、天国に行けること」に限ったわけじゃにゃーよ。
> 引用部分にユダヤ教の選民思想が述べられていたはずだにゃ。

うーん、キリスト教の予定論にもいろいろあるし、ユダヤ教の選民思想はそれとはまた別だし(ユダヤ教に予定論はあり得ず、ユダヤ教の一部をキリスト教が勝手に予定論の根拠として流用しているだけです)、具体的に見ていくと面倒なので挙げられた定義だけに沿って答えたんですけど、それでは駄目でしたか?

でしたら、議論の対象とすべき言説をもう少し絞ってもらえないと議論のしようがありません。
ありとあらゆる予定論の解釈を対象に全部一緒に斬って捨てるわけにいかないし。

あの定義では、予定論は「神の救いは、人間の側の行為や努力にかかわりなく、すでに定められている」という話として紹介されており、キリスト教における「神の救い」が死後の救済であることを考慮すると、わたしが書いた通りの回答で正しいはずです。別の予定論について答えよというなら、その別の予定論をきちんと説明してください。

って、続きはまたあとでということだから、説明してくれるつもりだったのかな。
だったら先走りしてしまったけど、最後の一行いままで気付かなかった…

74Seagul-X:2007/01/11(木) 13:44:47 ID:???
すみません、macska さんの主張がよくわからないんで確認したいんですが、たとえば

どっかのおばあさんが11階から落下して{たまたま|神の介入によって}生還した現象

を、どうやって(どのような手段・手順で)検証できるとおっしゃってるんでしょうか?

75macska:2007/01/11(木) 15:25:52 ID:VdHL1C4M
>>74
基本的に、一度だけ起きた現象を検証するのは難しいです。
「どっかのおばあさんが〜」の例なら、おばあさん本人の報告に加えて、落下地点を調べる、目撃者の証言を突き合わせる、医者の意見を聞く、たまたま映っている監視カメラみたいなのがないか調べる、みたいなところでは。

わたしの主張は、神様という言葉を持ち出されたからといって「神様は科学の範囲外だから、それについては科学は何も言えない」というのがおかしい、ということですよ。神様が起こした奇跡であるとされる現象だって、それが現実世界に干渉するものである限り、その他一般の現象と全く同じ手法で科学は扱うことができるのです。

もちろん、世の中には科学的に説明のつかない現象が存在します。それは、今の科学で分かっていないだけであったり、あるいは証拠不十分(一回性のできごとはほとんどこれでしょう)なので十分な検証ができなかったりします。しかしこれらは、原理的には科学の範囲です。

それに対し、死後の世界だとか人生の意味だとかいう問題については、原理的に科学の範囲外です。なぜならそれらはどんなに科学が進んでも全く解明できる見込みがありませんし、そもそも証拠らしきものが科学のツールで扱えるとは思えないからです。

と、ここでやめておけばいいのですが一言付け加えておくと、実は科学には見当がつかないこうした問題は、宗教にだって全く何も分かっていません。科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすることができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。

76fukken:2007/01/11(木) 16:47:23 ID:M5vfENrY
macskaさん、はじめまして

いつもはトンデモさんに野次を飛ばすだけの不埒モノの私ですが、今回に限って真面目に意見してみます。

>>75
>宗教にだって全く何も分かっていません。

わかっていないこと、どう足掻いてもわかりそうにないことを、固有の言葉で補填しながら定義したのが宗教なのじゃないでしょうか。
私は、ヒトの わからない→不安感 の解消のために宗教は成り立ってきたように思います。(もちろん、それだけではないでしょうけど大きな要因にはなっていると思います。)

つまり、絶対にわからないことを「すべてわかった」と信ずることこそがそもそもの宗教の意義なのでしょうから、「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっている」などと言うのは、「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」って奴じゃないんでしょうか。

宗教者はラッキーなのではなく、宗教者はハッピーでなければいけないのです。

77地下に眠るM:2007/01/11(木) 17:20:54 ID:DdTIfl7A
macskaはカガク主義者にゃんねえ(しみじみ

結局、チミのいっていることは(38)でRYU_TI_SYUのいっていたことで片づけることができそうにゃんな。
***************************
『将来的には解明できるかもしれません』
とは、いえるかもしれんがそれは
『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
といってるのとあまり変わらんようなきがするな。
******************************

いっとくけど、蒙古襲来のカミカゼとか11Fから落下して助かったおばあさんとか、ひとつひとつの実例に対して解析ができにゃーなどと僕は(多分ミケも)いっているわけじゃにゃーんだぜ。


カオス理論とかいうものがあるだろ?
蒙古襲来のカミカゼの原因が、その半年前に地球の裏側で蝶がはばたいたことにあるのが直接の原因だとするにゃ。
そして、その蝶のはばたきは蝶の神経系における量子力学的な確率事象に関する神の干渉であったとしたらどないよ?
いや、蝶のはばたきの原因が150億年前のビッグバンにおける何らかの介入に端をはっするものだとしたら?
こんなことは頭のワリイ僕だって思いつくわけで、全知全能の神であったのなら、はるかにスマートで足跡を遺さにゃー介入だっていくらでもあるはず。
こういう事象まで「カガクの守備範囲」だとおっしゃるのならそれで結構だにゃ。クチでは何といおうと、カガクの全能を信仰しているだけのことにゃんからな。

>実は科学には見当がつかないこうした問題は、宗教にだって全く何も分かっていません。科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすることができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。

うむ、カガク主義の典型にゃんね。
宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?
うようよしている進化論否定馬鹿に対して、常連連中はよく「カガクの基礎を勉強しなさい」というにゃ。カガクを否定するのならカガクを勉強するのは当然にゃんね。当然、同じ論理は宗教での知見に関してもいえるのではにゃーのかね?

78macska:2007/01/11(木) 22:16:50 ID:UfRlMoOA
>>76

わたしは、一部の宗教が「本当のところは分からないけれど、信じていること」と「知っていること」の境界をなし崩しにするのは非常に問題が多いと思っていますが、その区別がちゃんとつけたうえで信仰することは可能だし、その区別をつけたうえで信仰する宗教であれば全く問題だとは思っていません。

もし「科学に分からないことは、宗教にだって本当のところは分かっていない」という言明が宗教にとってダメージになるとしたら、それは「本当のところは分からないけれど、信じていること」によほど自信を持てない宗教なのでしょう。

>>77
> こういう事象まで「カガクの守備範囲」だとおっしゃるのならそれで結構だにゃ。

科学の守備範囲に決まっているでしょう。カオス理論と言いますが、ある現象が科学によって現実的に解明不可能なことも、科学の内側において示されるわけです。「神の干渉」であれなんであれ、現実世界に起きていることが「科学の守備範囲」の外側であるはずがありません。

で、何度説明させるつもり?
てゆーか、カオス理論は科学じゃないの?

> クチでは何といおうと、カガクの全能を信仰しているだけのことにゃんからな。

そういうレッテル貼りに終始されても困ります。「クチで何といおうと」お前はこうだ、と決めつけられては、反論のしようがないし。「カガク主義者」という呼び方も、わたしは違うと思うので定義をきっちり示してください。

> 宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?

わかっていないでしょ?
「わかっている」という言葉の定義まで違うのかな、この人は。

> 当然、同じ論理は宗教での知見に関してもいえるのではにゃーのかね?

わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。

「死後の世界があるかないか」「人生の意味はなにか」なんて問いは、人間の知覚が及ぶ範囲に答えが見つかるような問題ではありません。だから宗教者にも、哲学者にも、あるいは芸術家でも料理人でも誰でもあれこれ人の考えを聞いたり自分なりに考えたりして自分なりの答えを出すことができます。そうした模索の対象を、宗教だけに限ってしまうのはもったいないと思うのですが。

79えめ:2007/01/11(木) 22:55:21 ID:dvIENlzA
>わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。

待ってくださいな。真実とは何でしょうか。
この場合の真実とは、あらゆる見地から鑑みても完全に誤謬のない事象解釈、としてそんなものが人間という限定的で不完全な存在に提示出来ますか。

 科学とはどれだけ近接できても決して真実には到達できない(反証可能性を持つ、誤りで有りうる)を運命付けられているが故に成り立っている事象解釈の手法だと思うんですけどね。

科学だけが、宗教には持ち得ない何らかの「真実」に至る道筋を持っている。
って言うのが科学主義ですよ。

>そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。

そうした道筋を持っていると主張している思考のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
と言い換えると科学主義が理解できるかもしれません。

自分は人が信じる、と言う行為をもう少し深刻に、且つ自由に捉えていますから科学と言うルールは突き詰めるとルールに過ぎない、と言う気がしてならないのです。
言って置きますが、自分はクリスチャンではありませんよ。

80macska:2007/01/11(木) 23:28:57 ID:UfRlMoOA
>>79
> 待ってくださいな。真実とは何でしょうか。
> この場合の真実とは、あらゆる見地から鑑みても完全に誤謬のない事象解釈、
> としてそんなものが人間という限定的で不完全な存在に提示出来ますか。

提示できるわけがないじゃないですか。
宗教にだって提示できないのに、できるかのように主張するのはおかしいんだと言っているでしょ?

> 科学とはどれだけ近接できても決して真実には到達できない(反証可能性を
> 持つ、誤りで有りうる)を運命付けられているが故に成り立っている事象解
> 釈の手法だと思うんですけどね。

その通り。

> 科学だけが、宗教には持ち得ない何らかの「真実」に至る道筋を持っている。
> って言うのが科学主義ですよ。

良かった、じゃあわたしは科学主義者ではありません。

このような、わたしにとって当たり前のようなことをわたしに向けて書いて来るということは、あなたはわたしの主張を何か大きく誤解しているのではありませんか?

81fukken:2007/01/12(金) 01:49:19 ID:M5vfENrY
>>78
>わたしは、一部の宗教が「本当のところは分からないけれど、信じていること」と「知っていること」の境界をなし崩しにするのは非常に問題が多いと思っていますが、その区別がちゃんとつけたうえで信仰することは可能だし、その区別をつけたうえで信仰する宗教であれば全く問題だとは思っていません。

科学の進歩が宗教に矛盾を生ませていることも問題なのでしょう。
例えば、聖書が書かれた当時と今とでは、ヒトが確認できていることととそうでないことの境界は明らかに違います。
「その境界をはっきりさせた上で信仰しろ」と言うのは、下手をすると「聖書の記述が間違っていることを認めろ」と言っていることになりませんか?

>もし「科学に分からないことは、宗教にだって本当のところは分かっていない」という言明が宗教にとってダメージになるとしたら、それは「本当のところは分からないけれど、信じていること」によほど自信を持てない宗教なのでしょう。

日々進歩する科学によって経典や教義の矛盾を逐一突かれ始めたら宗教はダメージを受けるものだと私も思いますよ。
だから「それを言っちゃあ、お仕舞い」だと言うのです。

と、ここまでは宗教をまるで信じていない私の見解。

ですが、地下猫さんが「宗教にわかってないとどうして言えるのか」と言う意味も良くわかっているつもりです。
「どう考えったって神など人が造り上げたもの、宗教もすべて人が造り上げたもの」とは、地球の経た時間の僅か数億分の1しか生きていない私の推測に過ぎません。
本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわかっていないかどうかの事実は私にはわかりません。

>わたしは、宗教を一切否定していませんよ。宗教だけが、科学には持ち得ない何らかの「真実」に至る秘密の道筋を持っている、という宗教主義を否定しているだけで。そうした道筋を持っていると主張している宗教のすべては、実際には「持っていると信じている」だけです。
「死後の世界があるかないか」「人生の意味はなにか」なんて問いは、人間の知覚が及ぶ範囲に答えが見つかるような問題ではありません。

このようにはっきりと言える根拠はどこにあるのでしょうか。
人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。
もしそうであったなら、macskaさんの主張は明らかに宗教の否定になってしまいますね。
macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。

と、地下猫さんは仰りたいのではないかと思います。


私は、仲間内でこうして言い合っている分には良くても、宗教と科学は個々の理屈をもって互いの領域に口を出すべきではないと思います。(科学の進歩と共にこの領域の重なりが大きくなっていると言うのが冒頭の話)
科学の側が積極的にそのようなナンセンスをしたことは滅多にありませんが、時折(ちょうど今第一掲示板に見られるように)科学で宗教を否定しようとする人が現れたりするので、管理人さんはQ&Aにあのように書いただけのことなのでしょう。

82ミケ:2007/01/12(金) 03:09:24 ID:???
「確率現象を介して現実に介入する」
の解釈にすれ違いが見られます。

今日は眠いので以上。

83macska:2007/01/12(金) 03:22:47 ID:UfRlMoOA
>>81
> 「その境界をはっきりさせた上で信仰しろ」と言うのは、下手をすると
> 「聖書の記述が間違っていることを認めろ」と言っていることになりま
> せんか?

聖書の記述は(「聖書には絶対に間違いがない」というイデオロギーを通して見ない限り)誰がどう見ても間違っているので、「認めろ」とわたしが押しつけるまでもないでしょうが、そもそもわたしはそんなことは言っていません。

そうでなくて、「知っている」と「信じている」を区別しろというだけ。イエスが神の子であるかどうか、聖書が正しい教えを伝える本かどうか、わたしたちが「知っている」はずがない。信じるか、信じないかでしかないはずです。そうでしょ?

> 本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわ
> かっていないかどうかの事実は私にはわかりません。

だから、もしある人が「イエスは神の子」と信じていたとして、仮にそれが事実であったと後から分かったとしても、その人が事実をあらかじめ「知っていた」ことにはなりません。信じていたことが、たまたま事実だっただけです。

> 人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があった
> なら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは
> 容易いことなのかも知れませんよ。

それが人知を越えた神からのメッセージであるというのは、やはりそう信じているだけでしょ? まったく確認のしようがない。

> macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。

肯定論者に立証義務があります。
空飛ぶスパゲッティモンスターの存在すら、否定なんてできないわけですし。

ま、サービスして一つだけ言うと、創造神的な神の反証には argument from design が有効だと思います。
神のような複雑で素晴らしいものが、進化したわけでもなく独りでに生まれたとは考えにくい。

84diamonds8888x:2007/01/12(金) 06:06:41 ID:h2fLyT9w
>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。

 あくまでも「かもしれない」だけですよね。今のところは「人知を超える神の存在」を知覚していない私には無理ですね。

 それを通じてといってもですね、人知を超える神の存在と言えども、ヒトは知覚(五感以外の脳に直接働くような知覚も含めて)でしか知り得ないと思いますよ。まあ常人にはない知覚を持ってるヒトが知覚しただけの場合は、他の常人がそのことを確認するのは極めて困難で、知覚したのだと称するヒトの言葉を信じるかどうかという話だけになりがちですがね。
 頭の中にばっとひらめいたアイディアとか悟りは神から来たのかも知れません。神経インパルスの偶然の組み合わせから生じたのかも知れません。宇宙船が脳内の何かの分子に衝突したせいかも知れません。あくまでも「かもしれない」だけです。

> 宗教にわかってないと、なぜチミはいえるの?

 「宗教にわかってない」ということがmacskaさんにはわからない、などとなぜMさんは言えるの?

 「『宗教にわかってない』ということがmacskaさんにはわからないはず」とMさんが言えるはずがない」などと、なぜdiamonds8888xは言えるの?

 うーむ。

 いやmacskaさんの主張は、「わかっている」と断言する宗教への問いだと思いますが。

85diamonds8888x:2007/01/12(金) 06:07:55 ID:h2fLyT9w
> 「確率現象を介して現実に介入する」
> の解釈にすれ違いが見られます。

 かも。私はあの例は、一回限りの歴史的事象については法則を認知できない、という話が絡んでると思っているのですが。

> 基本的に、一度だけ起きた現象を検証するのは難しいです。

 難しいどころか原理的に不可能です。再現不可能では検証できません。そも確率現象としては、全く同一条件で何度も再現しないと現象として認知することさえできません。

86diamonds8888x:2007/01/12(金) 06:30:42 ID:h2fLyT9w
 どっかのおばあさんが11階から落下して生還した例のことですが、この一例が神の介入によるかどうかは確かに検証できません。百歩譲ってもほとんど不可能なくらい困難です。でも現実的な問題は、それが検証できるかどうかではないのです。このおばあさんが「神のおかげだ」と信じて、「次に同じことが起きても神の介入があって助かるにちがいない」と思いこむ場合が問題なのです。それで次も助かると思って11階から飛び降りるようなまねをするとなると、かなり問題です。まあ教えによっては、「そんなことをして神を試してはいけません。」として戒めるでしょうけど。
 11階から落下の例だと杞憂に見えますが、元寇の際に神風が吹いたという例だと、「日本は神国だ」という思いこみが生じて、それを見込んだ戦略を立てちゃったりしましたよね。まあうまく使えば志気を高めるという正の側面があるんですけどね。

87fukken:2007/01/12(金) 12:26:24 ID:M5vfENrY
>>83
>聖書の記述は(「聖書には絶対に間違いがない」というイデオロギーを通して見ない限り)誰がどう見ても間違っているので、「認めろ」とわたしが押しつけるまでもないでしょうが、そもそもわたしはそんなことは言っていません。
>そうでなくて、「知っている」と「信じている」を区別しろというだけ。イエスが神の子であるかどうか、聖書が正しい教えを伝える本かどうか、わたしたちが「知っている」はずがない。信じるか、信じないかでしかないはずです。そうでしょ?

宗教は信じれば良いもの。必ずしも知る必要はない。その通りだと思います。
だからこそ、宗教者はたとえ事実と違うことが生じてもそれをただ信じ続けるんじゃないでしょうか。
ところが、macskaさんは飽くまで「区別しろ」と言うんですね。宗教の曖昧な部分に線を引こうとすること、結局はそれは事実(知)を受け入れろ、違い(間違い)を認めろと主張することになってしまっているように思うのですよね。
だから私は何度も「そんなこと言ってはかわいそうじゃん」と言っているのです。
地球が6000年前に出来たなどと言うのは、今にしてみれば大間違いと言えますが、聖書の書かれた時点では納得出来るのかも知れません。現時点で黒だったとしても聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかないんじゃないでしょうか。宗教とはそのようなものなのでは?

>>本当に神がいないかどうか、科学で確認出来ていないことが宗教でわかっていないかどうかの事実は私にはわかりません。

>だから、もしある人が「イエスは神の子」と信じていたとして、仮にそれが事実であったと後から分かったとしても、その人が事実をあらかじめ「知っていた」ことにはなりません。信じていたことが、たまたま事実だっただけです。

信じることこそが宗教なのでしょうから、宗教にとっては事実であるか、知っているかなんて重要じゃありませんよね。
そのような性質のモノに「わかっているはずがない」と言うことに意味があると思いますか?
神や死後の世界の存在を明確に否定出来るなら話は別ですが、そうでないなら自由に語らせてあげたら良いじゃないですか。

>>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。

>それが人知を越えた神からのメッセージであるというのは、やはりそう信じているだけでしょ? まったく確認のしようがない。

そう。確認しようがないから否定も出来ない。
宗教者が「死後の世界」「人生の意味」をわかった気になっているだけなのか、本当に知っているかを我々が判断することは出来ない。
「実際にはわかっていると信じているだけ」などとは言い過ぎなのではなかろうかと。

>> macskaさんは神の存在を理詰めで否定できますか。

>肯定論者に立証義務があります。

少なくとも私はそのような必要は全くないと思います。
神や死後の世界の存在を証明しろなどと言い出したら宗教は成立しなくなるでしょうね。(わからないことがあるからこその宗教 >>76 だと私は思います)
そもそも「宗教は信じるか否かでしかない」とmacskaさんも仰っていたはずなのに。
このような主張をなさると、macskaさんはやはり宗教を否定したいんじゃないの?って思えてきますね。

繰り返しになりますが、私が「神の存在を否定できるか」と尋ねた意味は、それが出来ない以上「神が存在するはずがない」とか「死後の世界がわかるはずがない」と言い切ることは出来ないのでは?と言うことです。
逆に、宗教に対して「神の存在を立証しろ」と言うのは、宗教の否定行為にほかならないと思います。

88fukken:2007/01/12(金) 12:29:51 ID:M5vfENrY
>>84
>>人間の知覚で確認出来なくても、それこそ人知を超える神の存在があったなら、それを通じてヒトが「死後の世界」や「人生の意味」を知ることは容易いことなのかも知れませんよ。

>あくまでも「かもしれない」だけですよね。今のところは「人知を超える神の存在」を知覚していない私には無理ですね。

そうです。でも「かもしれない」で十分だと思います。
この僅かな可能性をdiamonds8888xさんは恐らく否定出来ませんよね。
誰にも出来ないはずです。
だから人間の知覚で確認出来ないはずの「死後の世界」を宗教者が知ることは不可能とは言えません。
私は、macskaさんの「わかった気になっているだけ」と言うのは言い過ぎだろうと思っただけですから、「かもしれない」を認めてもらえれば私の理屈には十分です。

>いやmacskaさんの主張は、「わかっている」と断言する宗教への問いだと思いますが。

少なくとも私も地下猫さんも「わかっている」などと断定していませんし、それを肯定しているわけでもありませんよね。
不確かなことを「わかっていない」と断言したmacskaさんに「そんなこと言っていいの?」って言っているだけなんですよ。わかっていますか?

一方、>>76で言いましたように、
「わかっている」と断言しなければ宗教は始まらないんじゃないでしょうかね。

89Seagul-X:2007/01/12(金) 12:53:06 ID:???
うーんと、なんか説明が足りなくて誤解を与えちゃったみたいですみません。
といっても、macska 以外のかたには大筋ではわかっていただけると思うんですが。

いろいろ調べた結果、たとえば落ちたところが花壇でやわらかい土がクッションになった、地面に当たった時の姿勢がたまたま致命的な箇所の損傷を避けられる状態だった、などという結果は出ると思います。
でも、そこに神の介入があったかどうかをどうやったら知ることができるんでしょうか?

一回限りの現象では調べにくいというなら、倫理的にアレな点は無視した仮想実験になりますが、そっくりなおばあさん 1000 人を連れてきて、11 階からおなじ軌道で落下するように次々に突き落としたとします。
で、1000 人のうちほとんどは死んでしまったけれど何人かは助かったとして、助かった確率としては統計的に有意な偏差がみられなくても「このおばあさんが助かったのは神の御心によるものだ」という主張はできるだろうし、それを否定する根拠は科学には求められないと思うんですが。
そりゃ、そう云われたところで本当に神の介入があったかどうかなんて(たぶん云ってる本人にも)わかりゃしないでしょう。でも否定もできない。とすると、結局信じるかどうかということになってしまう。

みなさん、こういうことをいろんな言葉で言ってるだけなんだと思うんですが、macska さんの解釈では違うんでしょうか?それとも、上のような実験でも科学で神の介入を{肯定|否定}することができる手段がある、という主張なんでしょうか?
ということがお尋ねしたかったことなんです。

90Seagul-X:2007/01/12(金) 12:55:25 ID:???
失礼、「さん」を付け忘れてしまいました。

>といっても、macska 以外のかたには大筋ではわかっていただけると思うんですが。
↑「さん」

91AH1:2007/01/12(金) 16:24:51 ID:MM7DYpv2
流れ速っ!
多数の方が参加しておられるので申し訳ないんですが、意見だけ。代わり映えしない意見ですけど。

カガク君とキョウソ君の漫才だとして、

キ「私が祈ると1分後に必ず風が吹くんですよ。風よ吹け!」
カ「ほほう・・(ストップウオッチと風速計を取り出す)・・・吹きませんな」

キ「いやいや、夕べの雨は私が降らせたんですよ」
カ「ほほう・・(気象データにアクセス)・・統計的に言って、ふつーに雨が降る気圧配置ですが?」

前者の場合は「ウソじゃん」と言えますが、後者だと
「いや、気圧配置を動かしたのは・・」「温度分布を変えたのは・・」「日射量の分布は・・」「地球上の地形は・・」と、どこまでもキョウソ君は逃げられますね。その場合、カガク君にできる突っ込みは「結局、現時点で検証可能なキョウソ君の介入なんて示せないじゃん!」であり、「みんなー、コイツは科学的に自分の力を示すことはできないんだぜ!」です。
カガク君のように検証を試みることはできるし、キョウソ君がついうっかり「私の力は科学的に証明されているんです」などと言ったならそれを否定できますが、
「科学はまだ解明していないようですな」とか「人間の理解を越えていることでしてね」と言われたら追い詰めることはできないと思います。
その上でギャラリーがキョウソ君を「うさんくせー」と思うか、「すばらしい!」と入信するか、それはわかりませんし、またギャラリーの自由であるとも思います。

例えばキョウソ君が「私を信じれば病気は治るのだあ」とか言い出した時に「こら待て、臨床データは?治癒の実績は?!」と問いつめるのは、治療法を選ぶ上で絶対必要だと思いますけどね。
macskaさんの仰る「現実との関わり」は多分こういう部分かと想像はしているんですが。

92macska:2007/01/12(金) 17:26:18 ID:VdHL1C4M
>>87
> 宗教は信じれば良いもの。必ずしも知る必要はない。その通りだと思います。
> だからこそ、宗教者はたとえ事実と違うことが生じてもそれをただ信じ続けるんじゃないでしょうか。
> ところが、macskaさんは飽くまで「区別しろ」と言うんですね。

区別すべきです。米国大統領がジョージ・ブッシュであると「知る」ことはできますが、神様の名前がヤーウェであるかアッラーであるか「知る」ことはできません。

「いや、米国大統領の名前だって、そう信じているだけではないか」と思うかもしれませんが、米国大統領が誰であるかは、具体的な証拠を元に議論ができるわけです。100%完全の証明はできなくても、「かなり確からしい」ことを「知る」ことができます。そしてその「かなり確からしい」ことは、全世界共通なのです。

# たまに南北朝みたいになって、どちらが正統かで判断が分かれたりするかもしれませんが。
# そうなったらそうなったで、また具体的な根拠を元にそういう状態であると記述可能。

> 宗教の曖昧な部分に線を引こうとすること、結局はそれは事実(知)を受け入れろ、
> 違い(間違い)を認めろと主張することになってしまっているように思うのですよね。

逆です。かれらが曖昧な部分をまるで確定したことのように語るから、例えば科学の進歩によって教義の一部が反証されて傷ついたりするわけです。知らないことを「知っている」と言うな、というそれだけのこと。「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。

> 地球が6000年前に出来たなどと言うのは、今にしてみれば大間違いと言えますが、
> 聖書の書かれた時点では納得出来るのかも知れません。現時点で黒だったとして
> も聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかない
> んじゃないでしょうか。宗教とはそのようなものなのでは?

地球の年齢が6000年だと信じているクリスチャンはそれほど多くないはずです。要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。

> そのような性質のモノに「わかっているはずがない」と言うことに意味があると
> 思いますか?

ありますね。だって、わかっていないのであれば、たとえば「人生の意味は何か? どう生きるのが正しいのか?」といった「科学が分からない問い」についての権威を宗教が独占する理由がありません。

> 宗教者が「死後の世界」「人生の意味」をわかった気になっているだけなのか、
> 本当に知っているかを我々が判断することは出来ない。

ここでわたしが「いや、わたしに判断できる、そいつは何も知ってはいない!」と言えば、「macskaが判断できる気になっているだけなのか、本当に判断できるのか、他人には判断できない」とでも言いますか?(笑)

いいですか、「知る」ということが何を意味するのか考えてみてください。単純な話からはじめると、わたしたちが何かを「知る」ということは、他のさまざまな根拠を元に、あることが「かなり確からしい」という認識を得ることだと考えられます。そういった根拠の数々は、それぞれ信憑性を疑うことができます。わたしたちの知覚だって、認識だって、計量器具だってなんだって疑えます。

しかしそのそれぞれについて、個別に「かなり確からしい」「そこそこ信頼できるっぽい」という感覚を得たうえで、一旦疑いを停止することにより、それらの上に新たなことを「知る」ことができるわけです。そのうちに矛盾がでてきたりしたら、自分が「知っている」と思っていることのどこかがおかしいんじゃないかと、また疑いだすわけですね。

宗教における「知る」というのはこれと違い、何の根拠もないところにいきなり「確かな知識」やその根源が登場してしまいます。何の進化もないところにいきなり複雑な「創造神」が登場してしまうのと似ていますね。デネットの言う「空から吊るされたフック」です。しかし、人間の知識も、何かを創造するほどの知性を持った存在も、「空から吊るされたフック」によってもたらされることはあり得ず、必ず下からクレーンによって築き上げられているはずです。

> そもそも「宗教は信じるか否かでしかない」とmacskaさんも仰っていたはずなのに。
> このような主張をなさると、macskaさんはやはり宗教を否定したいんじゃないの?って思えてきますね。

「神の存在を反証できるのか?」という相手に対して、「立証義務は肯定側にありますよ」という、論証上のルールを示しただけです。一般論として宗教は教義を証明する義務があるとは思っていません。

93macska:2007/01/12(金) 17:27:35 ID:VdHL1C4M
>>89
> でも、そこに神の介入があったかどうかをどうやったら知ることができるんでしょうか?

だから、それが必ず分かるという主張はしていませんって。
それが単なる偶然であったにせよ、神の介入による奇跡だったにせよ、
現実世界で起きたことは、科学的検証の対象となり得ますよ、と。ただそれだけ。
何度言えば理解してもらえるのか。

科学の範疇には、情報不足で解決不可能な問題はいくらでもありますよ。
このケースにおいて「神の介入があったか」というのもその一つというだけの話。

なぜそんなことを言うかというと、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいるからです。
それは明らかに間違いなのではないかというのがわたしの指摘の趣旨。

94ミケ:2007/01/12(金) 18:35:58 ID:???
>「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいる

誤解。正確には、

科学で扱うことができない部分、たとえば、現象の『意味づけ』など
(サイコロを振って、1が出る確率は1/6だが、それが「今」起きたことの説明付け、みたいな)
を、神による介入や奇跡と呼ぶことには、科学的に問題も矛盾もない

というもの。

macska さんが誤解されてるとイヤなので、あえて言いますが、
ここでは誰も、「カミサマと謳えば科学は手出しできない」とは主張していないです。
宗教・科学についての現状把握については
議論参加者の(ほぼ)全員が、macska さんとほぼ変わらないとさえ思います。

この部分については結局のところ、日本語の問題。
A.神がいるかどうかという問題は、科学の範囲外
B.神と名がつけばどんなものであろうと科学の範囲外
A≠B。それだけのこと。これがすれ違いの大本です。

その後の部分、宗教と科学のそれぞれのとるべき態度・立場については
いくらか議論の余地はあるでしょう。
その辺はもう『価値観』の話題ですけど。

95macska:2007/01/12(金) 18:53:47 ID:VdHL1C4M
>>94

順序が違うって。

わたしはもともと、Q&A の記述がまさに「神の存在は科学の範囲外」だったから、そうとは一概に言えないのではないかと言い出したのです。そして、その点についてしばらく議論があって、Q&A も書き直してもらえたし、議論参加者全員「ほぼ変わらない」考え方を共有できたと思ったから、いったん議論を終わらせたわけです。

しかし「それは違う、共有していない」という人がでてきたので議論を再開したところ、相手はわたしの指摘を理解せずに勝手に別の意味に読み替えて「科学主義」だと決めつけている。だからこうして、何度も何度も「わたしが言っているのはこういうことですよ」と説明せざるを得ないのです。もしその説明に他の議論参加者の全員が同意しているなら、もうとっくに議論は終了しています。

96ミケ:2007/01/12(金) 19:09:38 ID:???
>>95
A≠B

97ミケ:2007/01/12(金) 19:27:03 ID:???
>>96じゃ、あんまりに短すぎるか。
というわけで補足説明。
まず、>>94のA,Bをちょっと加工。
A.(ホンモノの)神がいるかどうかという問題は、科学の範囲外
B.神と名がつけばどんなもの(疑似科学的神)であろうと科学の範囲外

A ノットイコール B
AとBは異なります。

ここで、地下猫さんの>>72を見てみましょう。
>・神の干渉に関してはカガクは手がでない
>・お馬鹿教義=誤ったカガク的事実に依存する教義、疑似科学的教義に対してはカガクは検証できる

これを変換しますと、
・(ホンモノの)神の干渉に関してはカガクは手がでない
・神と名のついた誤ったカガク的事実に依存するモノ、疑似科学的神に対してはカガクは検証できる

まだ補足必要?

98macska:2007/01/12(金) 19:46:32 ID:VdHL1C4M
>>97
ホンモノであれ何であれ、神が実在して現実社会に何らかの物理的影響を与えているなら、その影響は科学の範囲内に決まっているでしょ? もちろん神様は、自分の能力によってそうした影響を極限まで検出不可能に操作することはできるかもしれませんが、それでもそうしたさまざまな事象が「科学の範囲外」であるという記述のは到底受け入れられません。現実世界で起きていることは、潜在的に全部科学的検証の範囲内です。

> ・(ホンモノの)神の干渉に関してはカガクは手がでない

その「手が出ない」というのは、単に「解明が不可能」というだけであって、科学の範囲の外にあるという意味ではないはずです。少なくともその神が現実世界に関与するタイプの神である限り。

それに対し、「死後の世界」や「人生の意味」はただ単に科学に解明ができないだけでなく、原理的に科学的検証を全く受け付けません。「検証できるけれど分からない」のではなく、そもそも検証できる対象ではないのです。

この違いをきっちり区別するべきです。

> まだ補足必要?

それはこっちが言いたい。

99ミケ:2007/01/12(金) 20:23:52 ID:???
やはり「確率現象を介した現実への干渉」の部分にすれ違いがあるというわけですね。
昨夜きっちり説明しとくべきだったかも。

1.ミケの言う「確率現象を介した現実への干渉」
神がある瞬間に
「ただしく作られたサイコロにおいて1の目が出る確率が1/6である」
という法則を変化させる。

◎要するに、法則・普遍性・斉一性を前提とする『科学』は、
 その「前提」を覆す存在のことを、
 データが足りないとかじゃなくて、原理的に検証できない。
 証拠というのは、法則・斉一性に基づいて判断されるものだから。


2.地下猫さんの「確率現象を介した現実への干渉」(文脈から予想byミケ)
ただしく作られたサイコロを振って1の目が出た。
1が出るのは確率の問題。
これは神の導きによって1が出たのだ(これは運命だ)、と現実を“解釈”した。

◎科学が扱えるのは、1/6の確率で1が出る、というところまで。
 ※サイコロの運動がどうとか言いたい場合には「電子の位置(確率でしか記述できない)」に置き換えてください。

100macska:2007/01/12(金) 21:45:53 ID:VdHL1C4M
>>99
あのね、全部分かってこっちはモノ言ってるの。

問題は、「原理的に検証できない」というときの「原理的」というのをどういう意味で使っているかということで、ミケさんはわたしよりはるかに軽い意味で使っているのです。

たしかに、量子論において「確率でしか記述できない」ことを「原理的に」確定できない、という言い方はします。しかし、わたしが今使っている文脈における「原理的に検証できない」というのは、それとは違った意味なのです。

その意味とは、宗教との関係において、問い自体が科学の範疇を越えていることです。たとえば「死後の世界はあるか?」とか「正しい生き方とは何か?」という問いは、問い自体が既に科学の範疇ではありません。それを、わたしは「原理的に科学の範疇ではない」として、科学において問うことができる現象と区別しているのです。

それに対し「電子はどこにあるか?」という問いに原理的に答えが確定できないとしても、その問い自体は科学の範疇に含まれるものであり、現に量子論という科学理論によって論じられています。

だから、「原理的」という言葉の意味が違うと気付いたときには、これまでも何度か「それは『原理的』という言葉の意味が違いますね」と答えてきたのですが、なぜそれが分からないのでしょうか。

101AH1:2007/01/12(金) 22:06:17 ID:MM7DYpv2
横ですが

死後の世界は(もしそれがあり、観察する手段が開発されたなら)観測可能なんじゃないの?

102地下に眠るM:2007/01/12(金) 22:08:11 ID:Y7kDipRw
読めば読むほどカガク主義だにゃ。
その論法でいけば、「死後の世界はあるか」も「正しい生き方は何か」もカガクの範囲になっちまうんだけどにゃー(げらげら

自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。
ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。

その論法なら、森羅万象すべてが自然科学の対象になるんだよ。
ただのカガク万能信仰だにゃ。
死後の世界だの正しい生き方だのは、macskaが宗教の領分(インディアン居留地)に適当だと思うものを恣意的にあげているにすぎにゃー。程度の低い詭弁だにゃ。

103ミケ:2007/01/12(金) 22:32:41 ID:???
macska さんへ。
えーっと、先のミケの言動を見たら、ちょっと挑発的に見える。
そのことが神経を逆なでしたのなら、そのことだけについては謝罪おきます。
すみませんでしたm(__)m。
(ちなみに地下猫さんの、挑発的態度はいわばキャラ作りみたいなものですので、
 気にしすぎると疲れますよ、と忠告しておきます)
ただし、自分の理解力が足りなかったとして、それを詫びるつもりはありませんので
バカの面倒を見るつもりで気長に相手してくださいな。
これ以上バカの相手してられないと思ったら無視でも構いません。
以上礼儀の上での話、以下本題。


>「電子はどこにあるか?」という問いに原理的に答えが確定できないとしても、その問い自体は科学の範疇に含まれるものであり、現に量子論という科学理論によって論じられています。

問いは、「電子がどこにあるのか?」「サイコロの目はいくつが出るのか?」
ではありません。
「なぜ電子がそこに現れたのか?」
「なぜサイコロを振ったら六面あるうちの一つ、1の目が出たか?」
です。
あるところまで突き詰めると、科学は『たまたま』以上の答えを持ちません。
たまたま偶然に、というのは、何も言っていないに等しいので、
そこに神が介入したという“解釈”の入り込む余地が生まれる、というわけです。
インテリジェントデザインがこの最たる例。
インテリジェントデザインのことを、原理的に検証可能というヒトはまず、いません。

もちろん、もしかしたら『たまたま』以上の答えが見つかる可能性もあるでしょう。
そこは、>>77
>結局、チミのいっていることは(38)でRYU_TI_SYUのいっていたことで片づけることができそうにゃんな。
>***************************
>『将来的には解明できるかもしれません』
>とは、いえるかもしれんがそれは
>『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
>といってるのとあまり変わらんようなきがするな。
>******************************

104地下に眠るM:2007/01/12(金) 23:03:51 ID:Y7kDipRw
第一掲示板によく出没する馬鹿に「進化論が正しいなら俺にその証明をしてみせろ」「肯定論者に立証義務があります」というのがいますにゃ。ここの常連はよく知っているよね。で、この類いの馬鹿に対して、いろいろと説明していっても大抵は「わからん、俺にわかるように説明しろ。俺にはわからんからシンカロンは間違いだ」とかなんとかいいだすのがおきまりのパターンだにゃ。
この手の馬鹿は譲ることをしらなくてにゃ。
「専門家集団のなかではそれが認められているんだよ」といっても、陰謀説だのを持ちだしてくるしね。そもそもシンカロンが嫌いで理解したくにゃーんだよな。
その手の馬鹿に対しては、酒のつまみにしつつ「いいからカガクをよく勉強しなさい」くらいしかいいようがにゃーわけだ。

また、知には階層性があるちゅうのは僕もここでよくいっていることなんだけどにゃ。
例えば、イチゴヤドクガエルについての生態というお題については、生態学を中心とする知の体系がその問いと答えを独占するわけで、量子力学も相対性理論もイチゴヤドクガエルの生態を明らかにすることはできにゃー。量子力学と生態学では方法論はカガクという共通項はあるにしても、方法論は大きくちがうにゃ。もちろん、生態学の中でもほ乳類と両生類、両生類の中でもサンショウウオとカエルではそれぞれ方法論は異なるはず。
ある問いに対して特化した体系が、その問いに対する答え(=知)を独占するのはアタリマエのことにゃんね。

だから、その独占された知の正しさに疑問があるというのなら、その体系を丁寧に学んでみなければならにゃー。それもせずに、学ぶ気もにゃーくせに「肯定論者に立証義務があります」とかのたまってふんぞりかえるのは傲岸で無礼でかつ頭のワリイことですにゃ。

僕はもちろん、macskaクンのことをいっているにゃ。

宗教における知の体系というと、神秘主義がまず思い浮かぶにゃんね。スーフィーとかヨガとか禅とかいう体系には、修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。客観的な基準はあっても体験者でなければわからにゃー。権威ある科学誌の査読はそれなりの科学者でなければつとまらにゃーのと同じことにゃんが、なにせ実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系であるちゅうことは肝に銘じておかなければならにゃー。
こういう体系に対して、ソトから気楽に、どーせわかってない、とか、信じてるだけ、とか放言して、否定する対象についての無知と傲岸さを宣伝するという行為。
恥ずかしくにゃーのだろうか?
掲示板によくやってくるシンカロン否定にこりかたまったウスラ馬鹿と何が違うんだろうか?

105tema:2007/01/12(金) 23:11:19 ID:???
>>93
>なぜそんなことを言うかというと、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」という人がいるからです。
>それは明らかに間違いなのではないかというのがわたしの指摘の趣旨。
 
 「現実世界で起きたことは、科学的検証の対象と出来る」これならば、temaは同意します。
 しかし、「神の介入や奇跡は科学の範疇の外」こちらについても同意します。

 宗教にとって「神の御技」「奇跡」とされた事象は色々あります。
 当該事象に対して科学的検証を行った結果、「起こりうる」「不可能」「判断不能」などと判断したとします。
 しかし、宗教にとっては科学的検証結果など「それがどうした」なのです、多分。

 宗教に於いて、ある事象を「神の御技」「奇跡」とするのは、人の心でしょう。
 その事象を科学的に検証しても、宗教にとっては科学が勝手にやってるだけで関係無いのです、多分。

 このため、神の介入や奇跡とされる「事象」については科学的検証も可能ですが、その事象が「神の介入」や「奇跡」なのか否かを判断することは、科学の範疇外と考えます。

 なお、神の介入や奇跡とされる事象を科学的に検証した結果、そんな事象は発生してなかったと判断しても、宗教にとっては「それがどうした」であり「その事象は発生した」なのです、きっと。

106fukken:2007/01/12(金) 23:16:01 ID:M5vfENrY
>>92
>かれらが曖昧な部分をまるで確定したことのように語るから、例えば科学の進歩によって教義の一部が反証されて傷ついたりするわけです。知らないことを「知っている」と言うな、というそれだけのこと。「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。

”かれら”とは具体的にどのような人たちを指すのでしょうか。
実は私も反省しなければならないのですが、私は真っ当な宗教を想定してここで議論をしていたつもりだったのですが、実際には無意識に似非宗教も含めて話してしまっていました。
「科学の進歩によって宗教がダメージを受けると思う>>81」と言うのがそれです。
「そんなこと言ってはかわいそうじゃん>>87」と言うのもそうした人たちに対する言葉で、本物の宗教者に対して無礼な発言でした。
さて、macskaさんは色々懸念なさっているみたいですが、果たして真の宗教者は「信じる」こと以外何をするのでしょうか。macskaさんが心配するようなことは何も起こらないのではないでしょうか。
本物の宗教者は、科学による”知”がどうあろうと自分の”信”は揺るがないはずです。
一方似非宗教者はたじろぎ、創造科学などで武装しようとするわけですよね。
恐らくmacskaさんが憤慨するのはそうした現象に対するものなのではないですか。

>要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。

これは暴言だと思いますよ。
こんなのを聞いてしまうと「結局macskaさんは単に宗教が嫌いなだけなんじゃないのか」って思えますね。宗教に対してとても攻撃的な印象を受けます。

>宗教における「知る」というのはこれと違い、何の根拠もないところにいきなり「確かな知識」やその根源が登場してしまいます。何の進化もないところにいきなり複雑な「創造神」が登場してしまうのと似ていますね。デネットの言う「空から吊るされたフック」です。しかし、人間の知識も、何かを創造するほどの知性を持った存在も、「空から吊るされたフック」によってもたらされることはあり得ず、必ず下からクレーンによって築き上げられているはずです。

例えがちょっと漠然として良くわからないのですが、この場合「知る」を「信じる」に置き換えて不都合はないんじゃありませんか?
そして、”「信じている」という分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わない”のであれば、それで丸く収まるじゃないですか。


「彼らが彼らが」と言いながら、どうもmacskaさんの側が宗教に対して喧嘩を吹っ掛けているように見えてなりません。
過剰反応し過ぎではありませんか。というより被害妄想なんじゃないかって気すらします。

107地下に眠るM:2007/01/12(金) 23:54:02 ID:Y7kDipRw
>>99

ミケの解釈で正しいにゃ。まあ(99)のミケ解釈と地下猫解釈は矛盾しにゃーしね。
ただ、もうちょい補足しておくにゃ。

日本大百科より「偶然性」の項を全文引用
***************************
contingency 英語
Zuflligkeit ドイツ語
contingence フランス語


常識的には、どうしてそれが生じたかについて十分な理解が得られていない事柄について、「偶然」という概念を使う。「今日、町で、偶然、昔の友人に会った」というふうに。しかし、よく調べてみれば、その日、同じ町角に、当人と友人とがそれぞれ出かけて行ったのには、それぞれ、それなりの理由があったことがわかるかもしれない。この考え方を推し進めていき、「世の中の事柄はすべて、それぞれが成立するための根拠があって成立したものであり、本質的に偶然生じたものは一つもない。偶然な事柄は、人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」とする人もある。また反対に、事柄を、必然的に生じたものと、偶然生じたものとの二つに分ける人もいる。この考え方は、様相論理学、あるいは物事の性質を本質的なものと偶有的なものとに分ける本質主義に通ずる。しかし、様相論理学や本質主義の当否をめぐってはいろいろな議論がある。
[吉田夏彦]
****************************

macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。しかしそれは、自分では気づいていにゃーのだろうけど、偏った立場なんだよね。
で、この「偶然はない」という立場と「偶然はある」という立場のどちらが正しいかは、そうそう決着のつく問題ではにゃーだろう。ほぼ神学論争といっていいんでにゃーかな。

仮に「偶然はない」という立場にたったとしても、カガクという知の体系は常に不完全なのだから(常に不完全であることがカガクという知の体系を最も強力なものとしているのだけれど)、相手が全能の存在だとしたらその「不完全」を突かれることになるにゃ。
この場合においても、「神の干渉はカガクの不完全をつくものである」と定義されてしまった時点でオシマイにゃんね(これをいっちゃオシマイと思って、いままでいわなかったけど)。

もちろん、「偶然がある」ということであれば、そこには魑魅魍魎が跋扈し放題にゃんなあ。
カガクとは因果関係を説明する線的な体系なのだから、本質的な偶有性には手も足もでにゃー。
「自然を対象とするのは自然科学だ」という言い方もここでは弱くて、例えば呪術だって自然を対象とするわけだにゃ。線的論理でにゃーものはカガクとはいえにゃー。

ところが、ニンゲンの意識は、その偶然性をいとも簡単に必然性に転化してしまうわけだにゃ。にゃんとなれば、意識には志向性があるからにゃんね。ドストエフスキー風にいえば、「意識は病気だ」。
ユングは、シンクロニシティを「意味ある偶然の一致」と定義しているにゃ。
「偶然」と「意味」の組みあわせは、自然科学の取扱い範囲外だにゃ。

そして、奇跡とか恩寵とか罰とかいった宗教的なものは、この「偶然と意味」にかかわるものごとなわけにゃんね。

108地下に眠るM:2007/01/13(土) 00:52:44 ID:Y7kDipRw
もう少し必要と思われるところを乱暴に書いておくにゃ。

この議論をきっちりとやりたかったら、本当は「呪術」という概念をもってくる必要があるように思われますにゃ。宗教と呪術は違うシロモノにゃんから。宗教と科学は呪術の領域において重なりあうのではにゃーかとも愚考するにゃ。なににしろ、宗教・科学・呪術はともに社会的実践にゃんからね。宗教と呪術は連続的ではあるが別の概念。そして、呪術と科学も連続的なところがあるといえるのですにゃ。どう連続的かはここではとても書ききれにゃーのだが。
疑似科学と疑似科学的宗教については、自然科学からだけではなく、文化人類学とか社会学、宗教学、民俗学の立場から総合的に分析することが必要ではにゃーかと思う。

宗教が「真理」を独占している時代というのは確かにあったわけだにゃ(まあ、西洋思想史だけどね)。「我々は真理を握っている」というところから現世否定をしていればよかったわけ(我ながらものすごく乱暴にゃんが、乱暴に書かにゃーと書ききれん)。ところが、科学技術の発展とか啓蒙思想によって、宗教が真理を独占することがかなわなくなってきたというのはいえるでしょうにゃ。
で、近代宗教は「慣習の保全」「道徳的言説」「近代批判」「社会的実践」によって生き残りをはかったわけ。このあたりが「超越性=真理」というエデンを追放された宗教の「インディアン居留地」なわけだにゃ。ひとことでいえば「世俗化」にゃんな。

失礼を承知でいえば、多くの宗教者の意識には、被害者意識のようなものがあってもおかしくはにゃーのだろうと思う。ここで方向性は基本的には2択。合理性をすすめるか(馴化)、聖地奪回をするかだにゃ。

フロイトによれば呪術とは自我防衛に使われるものであるということで(僕はすんごく納得できるんだけど。あと、「自我は呪術的」というのもある。自我の確立には呪術は必須といえる)、被害者意識と呪術は結びつきやすいといえるにゃ。小規模カルトはたいてい呪術的思考をするもんだし。

で、被害者意識を持ついろいろな集団が呪術的思考をして(疑似)科学をひっぱってくるのではにゃーかと思ったりするわけですにゃ。被害者意識に凝り固まってしまうと、科学と呪術の区別がつかなくなるともいえるかもしれにゃー。
で、呪術が宗教を名乗ったり科学を名乗ったりしているのではにゃーかと。

呪術そのものは別にワリイものではにゃーし、ニンゲンが呪術思考をしなくなることはありえにゃーとも思うけど、呪術は宗教でも科学でもにゃーんだな(宗教とも科学とも連続的なところはある)。
本来はこのあたりを仮想敵とみるべきなのではにゃーだろうか?

カガク的検知とかいうよく切れる刃物をふりかざして、宗教をぶったぎっても百害あって一利もにゃーのではにゃーかと僕は思う。さらに被害者意識をつのらせるだけに終わることでしょうにゃ。

109地下に眠るM:2007/01/13(土) 02:54:52 ID:Y7kDipRw
理系ニンゲンが多いこの場所で、いきなり「呪術」とかいってしまったので、呪術についての簡潔な説明を付け足すのがよいと思っていろいろ探しているんだけど、どうも今の議論においてピンとくるものがにゃーです。猫招きを店におくとかいうのも確かに呪術なんだけどね。

で、以下は呪術のある一面に着目したにゃんこ定義なので、眉に唾付けて聞いてくださいにゃ。

宗教→偶然性・固有性と意味解釈の体系
呪術→意味操作の体系

宗教には基本的に「操作」をしにゃー。
もちろん、まったく「操作」をしにゃーわけではにゃー。
例えば、ある男女が夫婦であると「宣言」することは立派な呪術のひとつだにゃ。宣言というものには呪術的性質がある。言語を使う以上、どうしても呪術性が発現してしまうわけで、禅宗で「不立文字」などというのはそのあたりを警戒してのことかもしれにゃー。信仰者にとって、意味は与えられるものであって操作するものじゃにゃーんだ。(とはいえ、概念操作ということはしなくちゃならにゃーんだが)


で、対象の「意味」を直接的に操作するのが呪術だというのは、例えばティーンエイジャーに「おまえ、臭いよ。みんなに嫌われてる」といえばどうなるか、を考えてもらえばわかると思いますにゃ。意味を直接攻撃して、対象を破壊しようとしているわけにゃんね。
当然ながら、心理療法は呪術の1種であるともいえますにゃ。意味を解釈して社会的に適応できるような方向に操作するのがその目的。占いもこの1種かにゃ。
ニンゲンに限らず社会的な動物は情動が感染するという面があるのだから、情動の表出ですら呪術的な一面を持つわけですにゃ。情動による対象のコントロールね。もちろん、ニセの感情(怒ったふり、泣いたふり)による対象の操作は意図的な呪術。

また、呪術においても、意味を操作するために前段階として意味解釈はなされるというあたりも、呪術と宗教の連続性を構成するでしょうにゃ。

このスレで言及されていた、雨乞いとか風をふかせる、とかは操作的なものなので文句なく呪術の範疇だにゃ。
呪術が悪い、とか、呪術は前近代的なもの、などとは簡単にいえにゃーこと。および宗教と連続的なところはあるけれども違うことは理解していただけたでしょうかにゃ?

そして、操作体系であることにおいて、カガクと連続性があるということもいっていいと思う。

110macska:2007/01/13(土) 08:27:13 ID:UfRlMoOA
>>101
もし死後の世界が、わたしたちと同じ現実世界のどこかにあるという主張であれば、確かに科学の範疇ですね。しかし、普通「死後の世界」というときにそれは現実世界にあるとは想定されていないはずです。(大昔であれば、雲の上に物理的にあると信じていた人もいたかもしれませんが。)

神様であれ、天国であれ、「現実世界の内側」に存在したり力を及ぼしていると規定される限り、科学の対象となり得ます。わたしたちの現実世界とは違った場所にあり干渉しないのであれば、科学は手が出せません。それだけのことです。

>>102
ヤケクソになるのはやめましょう(笑)

> 自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、
> ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。

例えば、進化論が広まった結果神の存在を疑問に思う人が増えたように、人間の意識の科学的解明が進んだ結果人々が死後の世界を疑問に思うようになるという程度の関連はあるでしょうが、進化論によって神の存在が科学の対象となったとは言えないのと同じように、死後の世界の存在そのものが科学の対象になるわけではありません。

> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。

それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。

> その論法なら、森羅万象すべてが自然科学の対象になるんだよ。

現実世界に起きていることなら、全て自然科学の対象に決まっています。

>>103
あのー、力説ご苦労ですが、だからそれがどう関係するわけですか?

ある科学的な問いにおいて、科学が「たまたま」以上の答えを出せない。
それは、科学がその問いには全く手も出せないという意味ではないでしょう?
「たまたま」と回答するのが、科学的に誠実な答えであるというだけの話で。

サイコロを振ったら1の目が出た理由を、科学は完全に解明できないかもしれません。
しかし、その現象自体は科学的調査の範疇でないはずがないんです。

>>104
> 第一掲示板によく出没する馬鹿に「進化論が正しいなら俺にその証明をしてみせろ」
> 「肯定論者に立証義務があります」というのがいますにゃ。
(略)
> だから、その独占された知の正しさに疑問があるというのなら、その体系を丁寧に
> 学んでみなければならにゃー。それもせずに、学ぶ気もにゃーくせに「肯定論者に
> 立証義務があります」とかのたまってふんぞりかえるのは傲岸で無礼でかつ頭のワ
> リイことですにゃ。
>
> 僕はもちろん、macskaクンのことをいっているにゃ。

「神の存在を否定できるものなら否定してみろ」という言いがかりが、その「第一掲示板によく出没する馬鹿」が述べる頭のワリイ論法の1つであることが、あなたには分かりませんか?

わたしはその言いがかりに対し、立証責任は「神が存在する」と主張する側にあるという、スタンダードな回答をしているだけですよ。なぜ存在側に立証責任があるかというと、不在を証明するには世界の全てを調べなければいけないので原理的に不可能であることや、宇宙軌道にあるティーポットや空飛ぶスパゲッティモンスターのようなばかげたモノですらその不在証明はできないことから、当たり前です。

わたしは神一般の存在を否定したことはないし、否定する論理も持ち合わせていませんが、それはスパゲッティモンスターを否定できないのと同じだけであり、「神の存在を否定できないこと」は神の存在可能性を少しも高めることにはなりません。神の存在可能性を高めることができるのは、神が存在するのではないかという肯定的な証拠だけです。

こうした思考法が「第一掲示板によく出没する馬鹿」と区別できないとすると、本当に頭のワリイのはあなたでしょうね。てゆーか、思い切り傲岸で無礼だし。

111macska:2007/01/13(土) 08:27:38 ID:UfRlMoOA
>>105
> しかし、宗教にとっては科学的検証結果など「それがどうした」なのです、多分。

そうあって欲しいものです。

しかし、既に例をあげましたが、仮に紅海の海底を調査したところ、ちょうどモーセの時代頃に海が突如ふたつに割れ、またすぐ元通りになったような跡が残っていたとします。モーセの神話を信じる人たちは、「科学的検証なんて関係ないね、こんな情報知りたくもない」と無関心でいられるでしょうか? おそらく逆に、「これこそモーセの話が事実であり、聖書が歴史を正確に伝えていた新たな科学的証拠である!」と宣伝するでしょう。

また、進化論を支持する論者のあいだで解釈をめぐる紛糾があったり、進化論者が「この部分では完全な証拠がない」と認めたりすれば、「進化論は科学的に証明されていない」と騒ぎ出す宗教者が大勢いるのはみなさんご存知の通り。

つまり、宗教が科学的検証に背を向けることが多いのは、科学が自分たちに有利な結論を出してくれないからです。もし少しでも有利な結論が出てくれば、遠慮なく科学的証拠を利用するでしょう。宗教は科学に無関心なのではなく、無関心を装わざるを得ないだけです。わたしは別にそれを責めようとは思いませんが、かれらの「自称無関心」をそのまま信じるほどナイーブではありません。

>>106
> さて、macskaさんは色々懸念なさっているみたいですが、果たして真の宗教者は
> 「信じる」こと以外何をするのでしょうか。

あのですね、別に何か社会的問題を起こすからダメだと言っているのではなくて、というかそもそも宗教はダメだとかそういう話はしていなくて、わたしは一貫して「科学的手法や理性を支持する側が、宗教に過剰に『遠慮』したり宗教の不当な要求に屈している」ことを批判しています。

>> 要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替える
>> くらい平気でやってのけます。
>
> これは暴言だと思いますよ。

どうして? 事実として間違いだから? それとも、事実だけれどそれは指摘してはいけないの?

> 例えがちょっと漠然として良くわからないのですが、この場合「知る」を「信じる」
> に置き換えて不都合はないんじゃありませんか?

不都合です。「知る」とはどういうことなのかという部分を読み直してください。

>>107
> macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえている
> にすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。

わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。
何十回も説明させるつもりですか?

112tema:2007/01/13(土) 09:27:57 ID:???
>>108-109の「宗教と呪術と科学」についてのtema的解釈は以下の通り。

#科学は、原理(公理)から矛盾を許さない論理を使って、事象を解釈する
#呪術は、原理から矛盾を許す論理を使って、事象を解釈する、または作り出す
#宗教は、原理を作り出す

 ここで、科学が使う原理と宗教が作り出す原理は別物ですが、なんせ原理なので批判無用です。

 問題は、宗教家が宗教の原理を基に呪術で事象を解釈する時です。
 この際、事象を接点として科学と宗教が繋がってしまいます。
 繋がりはしますが、原理も論理も違います。少なくとも宗教が作った原理は科学とは無関係ですし、「呪術による事象の解釈」と「科学による解釈」が違ったとしても、それは違ってるだけであり「呪術による事象の解釈」が間違ってるとは言えないのでしょう。

113fukken:2007/01/13(土) 10:36:31 ID:M5vfENrY
>>111
>>> 要するに、大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教義を読み替えるくらい平気でやってのけます。

>> これは暴言だと思いますよ。

>どうして? 事実として間違いだから? それとも、事実だけれどそれは指摘してはいけないの?

この指摘をする前段で私が真の宗教者を対象として議論をしたい旨をお伝えしたのは了解してもらえていますよね。(創造科学論者やアンチ進化論者、その他似非宗教家を相手にしたり話題にするのは無意味なだけでなく時間の無駄です。)
この条件であれば大間違いだと思います。
「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」とは宗教者を冒涜する発言であると思います。
そう言い切れるmacskaさんの根拠を教えてください。
私自身は無信心ですが、外国人との付き合いが多くムスリムやクリスチャンの友人が多数おり、寺の住職も親しい友人ですが、macskaさんの仰るようなことはありませんよ。
少なくとも、私の知っている範囲では「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」は全く成立しません。

114Seagul-X:2007/01/13(土) 10:56:36 ID:???
んー、別に何十回も説明する必要はないと思いますけどねー

macska さんが「何度も説明した」と主張しているにもかかわらず、納得しないひとがおおいってことは、

1) この掲示板に書いてるひとが(私を含めて)みんな macska さんの書いていることが理解できないほど知的レベルが低い
2) macska さんの説明の仕方がよくないので他のひとが理解(納得)できない

のどちらかだと思うんですが(他にも可能性はあるだろうけど、今回はたぶん無視していいかと)
どちらにしても、今後おなじように説明を続けてもおなじような結果しか得られないと思います。
で、どちらにしても、少なくとも私よりは macska さん頭良さそうなので、この堂々巡りから抜け出すにはどうすればいいか、私が考えつくようなことは説明しなくてもわかりますよね。

115tema:2007/01/13(土) 10:58:05 ID:???
>>111

>(前略)仮に紅海の海底を調査したところ、ちょうどモーセの時代頃に海が突如ふたつに割れ、またすぐ元通りになったような跡が残っていたとします。
>(中略)
>おそらく逆に、「これこそモーセの話が事実であり、聖書が歴史を正確に伝えていた新たな科学的証拠である!」と宣伝するでしょう。

 その跡に対して科学的に解釈し、宣伝に対して科学的に反論(または同意)することは科学の範疇です。
 この件については、地下に眠るMさんやミケさんも同意してくれるはずです。10対1で賭けても良いです。

>宗教は科学に無関心なのではなく、無関心を装わざるを得ないだけです。わたしは別にそれを責めようとは思いませんが、かれらの「自称無関心」をそのまま信じるほどナイーブではありません。

 無関心を装っているのは宗教ではありません。宗教者です。
 そしてtemaは「無関心を装ってる宗教者は一部である」と信じるほどにはナイーブなのです。

116いらはい:2007/01/13(土) 11:01:27 ID:DHj5XiXA
「知っている」「信じている」をmasckaさんが要求するくらい厳密に使えば、
その意味するところは「これは科学的な知見である」「これは宗教的な知見である」というのと同じになりませんか。
ある人が自分が宗教的な立場から発言していることをもって、その人の神に関する発言は全て「信じている」ことにするという立場が、
「科学と宗教の住み分けは可能」ということだと思うのですが、そのような態度は間違っているのでしょうか。

117いらはい:2007/01/13(土) 11:03:48 ID:DHj5XiXA
×ある人が自分が宗教的な立場から発言していることをもって
○ある人が宗教的な立場から発言していることをもって

118macska:2007/01/13(土) 12:33:06 ID:UfRlMoOA
>>113
> この指摘をする前段で私が真の宗教者を対象として議論をしたい旨をお伝えしたのは
> 了解してもらえていますよね。

意図は分かりましたが、「真の宗教者」という括りが恣意的だと思います。対外的な行動原理として「信仰を押しつけるか/押しつけないか」「科学の装いを取るか/取らないか」という違いはあるでしょうが、どちらか一方が「真の宗教者」だというような問題ではないと思います。「世間からみて、はた迷惑ではない宗教者」という区分はできるかもしれませんが。

わたしが「大部分の宗教者」というとき、それには「真の宗教者」もそうでないものも、どちらも含めています。というより、どう区別するのか本当のところいまだに理解していません。

> 「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」とは宗教者を冒涜する発言であると思います。
> そう言い切れるmacskaさんの根拠を教えてください。

ええとですね、冒涜するつもりは全然ないんですが、言葉が適切ではありませんでした。
「教義を読み替える」というのは書き間違いです。というのも、読み替えられた結果が教義になるわけであり、もともと確固とした教義があってそれが読み替えられるというのは順序が違うので。

わたしがいわんとしたのは、「教典を読み替える」です。元の文脈では「現時点では黒だったとしても聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかないんじゃないでしょうか」という発言に対して、「いや、クリスチャンは自由自在に聖書を読み替えますよ」という意味で答えたので、そこは「教義」ではなく「教典」にするのが正しいです。

というわけで、以下に言い直します。
「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
これでも冒涜だと思いますか?

>>114
ええと、議論の途中で、既に本来の論点は済んだものと勘違いして、より先の議論に進んでしまったのが間違いだったと思います。

神の干渉は、それが現実世界に対するものである限り「常に科学が対象とする範囲内」であるというのがわたしのもともとの主張ですが、それを「常に科学によって解明できる」もしくは「必ず潜在的には科学によって解明できる」という風に誤解を受けました。また、わたしもそのような誤解を受けるようなことを言ってしまったのは事実です(それはわたしの主張とは関係ないと撥ね除けるべき議論に、話題本意で乗ってしまった)。

そこで、議論再開以降はわたしの主張するのは前者の「常に科学が対象とする範囲内」だけに絞り、その他はわたしの主張ではないと説明しているのですが、その誤解がなかなか解けないで困っているところです。

>>115
はい、だから、科学が肯定的な結論を示したときだけ「科学の範疇」で、そうでなければ「科学に手が出せない」というのはおかしいのではないかと思うのです。どのような結論であろうと(あるいは結論が出せなくても)、それが「科学の範疇」であることに違いはないはず。

>>116
なりません。「信じている」は、宗教だけが独占するものではないからです。
また、宗教にも「知っている」ことはあり得ます。宗教学や宗教史という形で「知」を形成できます。
まぁ、神の存在や性質についての発言は、確かにほとんどが「信じている」になってしまいますね。
誰も何も知らないんだもの。

「科学と宗教の住み分け」については、何をもって「住み分け」ができているかによるでしょう。ある教義を科学や現実がいくら否定しても、宗教者はその否定された教義を延々と信仰し続けることはできます。それをもって住み分けと言えるなら、住み分けは可能でしょう。

しかし一般に言う「住み分け」というのはそれとは違って、科学には科学の領域があってその内部において宗教は科学を否定できないし、宗教には宗教の領域があってその内部において科学は宗教を否定できない、というものです。しかし、いかに宗教の教義であっても現実世界についての言及である限り科学によって否定される可能性が常にあるわけで、そうした意味での「住み分け」は成り立ちません。

119ミケ:2007/01/13(土) 12:56:50 ID:???
>>110
>ある科学的な問いにおいて、科学が「たまたま」以上の答えを出せない。
>それは、科学がその問いには全く手も出せないという意味ではないでしょう?

macska さんの専門外の話になってしまうかもしれませんが、
「不確定性原理」というものがあります。
以下、Wikipediaより引用(引用者が適宜改行)

>例として、量子力学で記述される粒子の位置と運動量について考える。
>この粒子の位置を正確に測ろうとするほど対象の運動量が正確に測れなくなり、
>運動量を正確に測ろうとすれば逆に位置があいまいになってしまい、
>両者を完全に正確に測る事は絶対に出来ない。
>なぜなら、位置をより正確に観測する為にはより正確に「見る」必要があるが、
>極微の世界でより正確に見る為には、波長の短い光が必要であり、
>波長の短い光はエネルギーが大きいので観測対象へ与える影響が大きくなる為、
>観測対象の運動量へ影響を与えてしまうからである。

どれだけ科学が進もうと、科学は人間の営みであり、
人間が人間である限り、観測できない(言い切れない)範囲は出てきます。
そこには、科学が人間の営みである限り手が出せません。

仮に決定論が正しいとしても、
ラプラスの悪魔しか知り得ないようなことまで科学の対象としてしまうのは
ガチガチの科学主義とはいかないまでも、やや科学主義よりかと思われます。

疑似科学の台頭を懸念する立場ならなおのこと、
ヒトがヒトであるがゆえの(神でないがゆえの)科学の限界について
注意深く認識しておくべきだと思います。



ところで、macska さんは
スパゲッティモンスターを科学の対象だと思いますか?
思わない場合はもう少し続けたいですが、
スパゲッティモンスターを科学の対象だと言う場合、
そもそもミケの指す「科学」とあなたの指す「科学」は違うってことなので
ここらが潮時かな〜と思うのです。

120macska:2007/01/13(土) 14:10:40 ID:UfRlMoOA
>>119
> どれだけ科学が進もうと、科学は人間の営みであり、
> 人間が人間である限り、観測できない(言い切れない)範囲は出てきます。
> そこには、科学が人間の営みである限り手が出せません。

「観測できない」ことと、「観測の対象にすらなり得ない」こととのあいだには大きな断絶があります。粒子の正確な位置は「観測できない」。けれどもそれは科学的な議論や理論化の対象となり得るわけですよ。量子論も科学理論ですから、そこで扱われる対象が科学の範囲外だとは決して言えません。

少なくともそれは、「死後の世界」「生きる意味」のように「またく科学の範囲外にあり、科学的な議論が全く及ばない」対象とは区別されるべきです。それを区別しないことは、科学の領域を不当に狭めることになるからです。

もし粒子の正確な位置が観測できないことを「死後の世界」と同じ意味で「科学に手が出せないこと」の例として挙げるのであれば、それは量子力学を似非科学と呼んでいるようなものです。もし量子力学が科学ならば、そこで扱われている事象は科学的探求の対象でなければならないはずです。

> 疑似科学の台頭を懸念する立場ならなおのこと、
> ヒトがヒトであるがゆえの(神でないがゆえの)科学の限界について
> 注意深く認識しておくべきだと思います。

科学の限界は注意深く認識すべきですが、間違ったところに限界を設定しても意味がありません。

> ところで、macska さんは
> スパゲッティモンスターを科学の対象だと思いますか?

もしスパゲッティモンスターが現実世界に物理的に存在しているとすれば、それは科学の対象になり得ます(解明できるとは言っていません)。しかしもし現実世界の外側に存在するのだとすれば(あるいは物理的な存在ではないとすれば)、それは科学の対象にはならないでしょう。

スパゲッティモンスターに限らず、「神様」を持ち出した途端に、そう呼ばれたものが科学の対象外になるというのは明らかにおかしい。それがなんであれ、現実世界に存在するものや現実世界で起きる現象はみな科学の対象となり得るに決まっています。解明が可能かどうかはモノによりますけどね。

121fukken:2007/01/13(土) 14:38:35 ID:M5vfENrY
>>118
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
これでも冒涜だと思いますか?

macskaさんに宗教者を冒涜する気持ちがないことは理解しましたが、この一文の持つ意味はあまりあまり変わらないと思います。

macskaさんはコーランがアラビア語で書かれていて、それを他の国の言葉に翻訳してはいけない決まりがあるのはご存知でしょうか。
翻訳の過程で神の意思が誤って解釈されることを防止するためなのだそうです。
ですから、聖書とは違い、アラビア語を母語としない各国のムスリムもコーランをアラビア語で学びます。
ところが実際には、母国語の意訳書のようなものがあって、それでコーランに書かれている意味を理解するわけであって、アラビア語のみでコーランを理解するわけではありません。
それでもムスリムがこのような実態に合わない決まりを厳守するのは、神の言葉を間違って理解したくない(してはいけない)と言う気持ちの現れです。
まず、ムスリムには自分勝手な解釈で経典を読もうとする人はいないと思いますよ。
macskaさんの言われる「いや、クリスチャンは自由自在に聖書を読み替えますよ」と言うのも、すべてのクリスチャンがそうではないでしょうし、元来宗教者というのは神の言葉や意思を出来るだけ正しく理解しようと努力する人たちなのだと思いますけど、私は。

どうもmacskaさんは宗教を誤解していて、宗教者の宗教に対する思いを軽んじているように思えてなりません。
まあ、私も宗教に詳しいわけではありませんが、先の友人たちにmacskaさんの書き込みを読ませたら、憤慨するか悲しむだろうなあと思います。
そのような気持ちもあってここまで食い下がっているわけです。

122ミケ:2007/01/13(土) 15:40:22 ID:???
>>120
大事なところから順番に。
・どこまで言っても、科学は
 ある特定の確率で起こる事象のうちの「一つが起こった」ことに対して、
 ある特定の確率で起こる事象だから起こった、以上の答えは持たないので
 そこに神が関与したという解釈を与える(地下猫式神の関与)ことに対して
 科学は何の権限も持ちません。
 このあたりが最後まで通じなかったようで残念でした。
 上記のことは、偶然に起こったこと(過程・メカニズム)は科学の対象になる、
 というのとはまったく別の話です。WhyとHowくらい違う。
 もちろん科学が進んで「ある特定の確率」がいずれ100%になったなら、
 その解釈の余地も消えてしまうでしょう。
 しかし、>>119、そのうえ>>38

・量子力学に関してですが、これが科学であることは間違いありませんが、
 その背景、というか突き詰めた部分に、科学で扱えない部分も含まれています。
 有名な光子が二つのスリットを通り抜ける実験から得られた説、
 多世界説と波動関数の収束説、どちらが正しいかは科学では扱えません。
 量子力学の分野は、科学の扱える範囲と扱えない範囲の境界付近(の科学側)に位置します。
 そのあたり、科学の範疇を過大評価なさらないように注意願います。

・議題とは外れますが(これはほとんど揚げ足取り的感想なんだけど)、
 >>110
 >進化論によって神の存在が科学の対象となったとは言えないのと同じように、死後の世界の存在そのものが科学の対象になるわけではありません。

 macska さんがこういった表現を無意識に使うのならば、

 > Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
 >
 > A. いるともいないとも言えません。神がいるかどうかとい
 > う問題は、科学の範囲外です。進化が正しいかどうかという
 > 問題と、神がいるかどうかという問題は別問題です。進化論
 > と信仰を両立させている科学者はたくさんいます。

 macska さんは上記の『神がいるかどうかという問題は、科学の範囲外です。』という表現を
 『(ホンモノの)神の存在が科学の対象となったとは言えない』と受け取る下地を持ちながら、
 恣意的に、『神と名がつけばどんなものであろうと科学の範囲外』と解釈して
 それは間違いだ、と言ってしまった(>>48)わけで、その辺はちょっと気に入らないな、と思いました。

・現実世界に影響しているので、スパモンもmacska さんの中では科学の範疇っぽいですね。

123ミケ:2007/01/13(土) 15:42:54 ID:???
ごめんなさい、アンカーミス
>>38ではなくて
>>36
>『将来的には解明できるかもしれません』
>とは、いえるかもしれんがそれは
>『将来的に創造論が正しくなるでしょう』
>といってるのとあまり変わらんようなきがするな。

124AH1:2007/01/13(土) 16:00:28 ID:b4lKR3h.
>もし死後の世界が、わたしたちと同じ現実世界のどこかにあるという主張であれば、確かに科学の範疇ですね。しかし、普通「死後の世界」というときにそれは現実世界にあるとは想定されていないはずです。(大昔であれば、雲の上に物理的にあると信じていた人もいたかもしれませんが。)

いや、私は死後の世界がどのようなものであり、存在するとしたらどこに存在するのかを全く知らないのです。
従って、現在、死後の世界に関しては既存の科学体系から推論することもできず、仮になにか思い付いても検証できないことは勿論、同意します。
しかしながら、将来にわたって不可能である、とは言いません。macskaさんのいう「現実世界」も今現在の我々の経験や理論から導き出された範囲を指すからです。従って「死後の世界」は将来拡張された「現実世界」に存在するかもしれず、科学の対象になり得るのではないか、という、それだけのことです。

125macska:2007/01/13(土) 16:21:36 ID:UfRlMoOA
>>121
> まず、ムスリムには自分勝手な解釈で経典を読もうとする人はいないと思いますよ。

あのですね、あらかじめ「自分に有利なように曲解してやろう」と読む人は(ほとんど)いないでしょう。わたしが言っているのはそういうことではありません。

そうじゃなくて、例えば教義にA、B、Cと書いてあって、Aが自分に都合がいい場合、BとCはコロッと忘れてAだけ信じてしまったり、Aそのものの意味とは違うけれどもそれに似た解釈A’の方が都合が良ければ、いかに文言上不自然でもA’の方が正しいと信じたりするわけです。

例えば、聖書の話が正しいのであれば、すべての生物は神様が一つ一つデザインして作り出したんですよ。人間も神様の形に似せて神様自身の手で作り出したのであって、「他の動物から進化した」と読み取ることはまず不可能です。しかし現在のキリスト教徒の多くは、創世記の話はおとぎ話のようなものであり、事実をそのまま描写したわけではないと解釈しています。あるいは、進化を通して人間を作り出すことが神の意志だったのだということを言う人もいます。しかし、そうした解釈が聖書のどこから自然に導き出せるのか。明らかに、進化論や地球科学の影響を受け、より現実的な解釈に沿う形に教典を読み替えているのです。

こんなの、いくらでも例が挙げられますよ。

> 元来宗教者というのは神の言葉や意思を出来るだけ正しく理解しようと努力する人
> たちなのだと思いますけど、私は。

大部分の宗教者たちは、神の言葉や意志を出来るだけ正しく理解しようとする人たちでしょう。それはその通り。しかし同時にかれらの多くは、神の言葉や意志は正しく、素晴らしいものでなければならないというイデオロギーも持っています。そして問題になるのは、現実に「神の言葉や意志はこれですよ」と指し示す教典やその他の文書の内容が、その時代の常識や科学的知識と矛盾したときに、かれらがどういう態度を取るかです。

「常識や科学的知識なんて関係ない、神が人類を創造したと聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防衛する人も一部にはいるでしょう。しかし多くの宗教者たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更することで「神の言葉や意志は正しく、素晴らしい」というイデオロギーの方を防衛するのです。

これは宗教的倫理を見れば明らかです。(旧約)聖書によれば、安息日に仕事をした人は死刑にしなければならない。しかし、「安息日に仕事をした人を死刑にするのは正しいですか」と聞けば、ほとんどのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者は「その規則は現代にはふさわしくない」と答えます。キリスト教についてはイエスの登場により「この規則は現代にはふさわしくない」という合理的な理由がありますが、その他にとっていつこの規則が失効したのでしょうか? 世間が「それはいくらなんでも乱暴すぎる」と思うようになったから、それに合わせて解釈を訂正したのではないですか?

もっと深刻な話では、聖書の描写では奴隷制度や人身売買が当たり前に行なわれており、親が子どもを殺したり女の子を集団レイプされる運命に差し出したりということが「信仰深い、正しい人」の行為として何度もでてきます。一般論として奴隷制度や人身売買や集団レイプや児童虐待は善か悪か、事情によっては許されるのか許されないのかと問うと、大半の宗教者は「許されない」と言うでしょう。結局、宗教者は「神の決めた規則や道徳のうち、どれが守るべきでどれは忘れてもいいのか」世間の空気と自分の直感でテキトーに解釈を決めているわけです。

宗教者がそのように現実的な解釈を取ってくれることは、実は世間の側としても非常に助かるわけで、全然悪いことではありません。だからわたしは、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替える」ことは素晴らしいと思っているくらいで、全然冒涜するつもりはないんですね。

>>122
> このあたりが最後まで通じなかったようで残念でした。

そんなの、最初っから分かっているの。
分かったうえで、わたしの主張と矛盾しませんよと言っているのに。

>>124
なるほど、「死後の世界」が今後何らかの形で科学的に発見される可能性まで考えているわけですね。わたしは「死後の世界」とはそういう次元の話ではないと思っていましたが、もしそういう次元で「死後の世界」が発見されるのであれば、もちろんそれは科学の対象ですね。

しかしその「将来にはもしかすると」というのは、それこそ何人かの人が言っていた「将来的に創造論が正しくなるでしょう」というのと同じだと思います。

126ミケ:2007/01/13(土) 16:41:24 ID:???
>>125
>> このあたりが最後まで通じなかったようで残念でした。
>そんなの、最初っから分かっているの。
>分かったうえで、わたしの主張と矛盾しませんよと言っているのに。

ごめん、分からないので略さないでください。
何を分かった上で、
どれがあなたの主張と矛盾しないと
どこで言ったのか、
教えてください。

上記文面からあなたは
>ある特定の確率で起こる事象のうちの「一つが起こった」ことに対して、
>ある特定の確率で起こる事象だから起こった、以上の答えは持たないので
>そこに神が関与したという解釈を与える(地下猫式神の関与)ことに対して
>科学は何の権限も持ちません。

という主張、すなわち
『地下猫式神の関与が科学の範囲外である』という主張と、
あなたの主張は矛盾しない、
と言ってるんですか?

127AH1:2007/01/13(土) 17:28:52 ID:b4lKR3h.
>しかしその「将来にはもしかすると」というのは、それこそ何人かの人が言っていた「将来的に創造論が正しくなるでしょう」というのと同じだと思います。

ええ、その通りです。「現在の知見からして」という一文を加えるならば、死後の世界は科学の対象にならない・・というか、「科学の対象にしようとしても切り口がまったく見つからない」ものだと思います。

本論に関してですが、前にカガク君とキョウソ君という例を出しましたが、
「科学は神を否定することができず、せいぜい『現在の科学では神や奇跡の存在を積極的に支持する証拠も理論もない』と言明できるにすぎない」
のが私の基本的な考えです。これは現在の科学において未知の領域があるからであり、また将来の科学においても何が判明し、何が否定され、何が未解明であるか何とも言えないからです(未解明や不可知の領域は常に残ると思いますが)。

「現在の科学でも神は(主は、奇跡は、etc)支持されているのだあ!」とか「既存の科学の方が間違いであることが科学的にわかったのだあ!」と叫ぶ奴がいれば、「そんなことはない」と言えばいいし、それはこの掲示板でしょっちゅう行われています。
紅海の例で言えば「・・だけど出エジプト記とは矛盾する部分がある」とか「これ一個だけじゃ全体を検証できたとは言えない」とか「いや、これをモデルに出エジプト記を書いたんだと思うよ」とか、そういう事は言えますし言えばいいでしょうね。

同時に、私は人が神をどのような形で信じようと自由であると思っていますので、「まあ、天地創造は一字一句字義通りじゃないんだろうけど、でも神の御業は何らかの形で働いたのだろうよ」と思っている人に対し、「いいか、科学はそんな事実を支持しやしないんだ!」と叫んで回るつもりはないです。

128いらはい:2007/01/13(土) 17:52:35 ID:DHj5XiXA
>>118
>なりません。「信じている」は、宗教だけが独占するものではないからです。
たしかにそうですね。宗教ではなく信条というべきでしょうか。

>また、宗教にも「知っている」ことはあり得ます。宗教学や宗教史という形で「知」を形成できます。
宗教学や宗教史は宗教内部のものなのでしょうか。
神学等を含めればそうなのかもしれませんが、神学の知見はmasckaさんのいう「知っていること」の基準を満たしますか?
宗教者が同時に宗教の歴史を研究する場合でも、
本人の明言や文脈をもって信条や教義と実証的な知見を区別すればmasckaさんおっしゃる混同は避けられると思います。

>まぁ、神の存在や性質についての発言は、確かにほとんどが「信じている」になってしまいますね。
誰も何も知らないんだもの。

「知っている」という言葉を裁断するように厳しく使うのは気にかかります。
「知る」は本来専門用語ではない柔軟性のある言葉では?
たとえばクリスチャンは神に愛されてるという直感を得ることを
「神の愛を知る」なんて呼ぶ場合がありますが、
それに対して「そこで知るという言葉を使うのはおかしい、信じてるの間違いでしょ?」
と問いつめるのは暴挙のように思えるのですね。
「科学的検証のできる証拠はありますか?」と尋ねれば、
「そういうレベルの話ではない」で済むのに。


>「科学と宗教の住み分け」については、何をもって「住み分け」ができているかによるでしょう。
教義と科学の間に矛盾があってもそれはナンセンスだ、という立場なら住み分けはできると思います。
そのために、ある発言が科学的なものなのか教義や信条なのかは明確にする必要があるとも思います。

>いかに宗教の教義であっても現実世界についての言及である限り科学によって否定される可能性が常にあるわけで、そうした意味での「住み分け」は成り立ちません。
「信じていること」が科学から合理的でないと指摘された場合、それは教義が科学によって「否定」されたことになるのですか?
それと質問なのですが、科学が宗教を否定するのは科学的知見と教義に矛盾がでてきた場合のみなのでしょうか。たとえば地質学と創造の矛盾のような。
それともある教義が科学的仮説として説得力を持っていなければ否定できるのでしょうか。たとえば神は未発見のエネルギーを使って現実世界に干渉しているとか。

129diamonds8888x:2007/01/13(土) 18:31:19 ID:h2fLyT9w
ミケさん
>122.
> 多世界説と波動関数の収束説、どちらが正しいかは科学では扱えません。

 それは、「多世界説と波動関数の収束説では、観測的に異なる現象は導けない」という意味ですか? 私はそれほど理解が深くないので否定も肯定もできませんが、もしそうだとしても「科学では扱えません」という言い方は変じゃありませんか? それは科学の言葉で言えば、「多世界説も波動関数の収束説も理論として正しい」というだけの話です。おばあさんが偶然助かったのは神の介入による、という話とは関連が少ないように思います。

 で、偶然への介入問題ですが、以下のように設問をしてみるとはっきりしてきませんかね。

1.おばあさんが助かったのは○神を信心していて、○神が助けてくれたからだ。
2.○神を信心すれば、このおばあさんと同様な状況で助かる確率が信じない人より高くなる。
3.2の根拠として1の例を挙げる

 ミケさんやSeagul-Xさんが「科学の範疇ではない」としているのは1の主張ですよね? 私もそれには同意します。でも、2は科学の範疇ですよね。しや「本当に信心していた」ということの検証がとてつもなく難しそうではありますが(^_^)。そして3は、帰納法の適用なんですが、科学的根拠としては不十分な根拠です。

 以上にはmacskaさんも同意じゃないかな?

130いらはい:2007/01/13(土) 18:34:33 ID:DHj5XiXA
masckaさんは宗教が科学に影響を受けることを好ましいことだと考えているようですが、
もし宗教の側がmasckaさんの求めるレベルで知ると信じるの区別を完璧につけだしたら
教義を信じるの側に入れなければ守れない、入れれば守られるのだから、そういった変化が起こりにくくなるのでは?

131AH1:2007/01/13(土) 18:53:45 ID:b4lKR3h.
すみません、補足です。
macskさんが苛立っておられる「教義の再解釈」についての私の個人的な意見です。
私はそもそもあるコトバに関して後から過度に解釈をこねくり回す事や、教条主義的な態度はあまり性に合いません。したがって、例えば「聖書は一字一句正しい!光速が変化したとすれば聖書の記述は科学的に正しい!」というような解釈に対しては「アドホックも大概にせえよ」と思います。
まあ、仮に神が存在したとしても聖典は恐らく人間によって、人間の解釈を通して書かれており、解釈の問題は常についてまわるとも思いますが。
時代背景が変化する中で、宗教が聖典の再解釈を繰り返して生き延びるのであれば一種の「ずるさ」を感じますが、一方で信仰を必要としてきた多くの人間がいることも事実であるから、ある人がよりその時代に受け入れられやすい解釈をもって神を信じようとも、一概に否定するのは控えよう、というのが私の意見です。カガクなんぞに迎合するな!とも思いますけどね(笑)。

そんなこんなで、「宗教は科学とは違う方法でこの世を解釈するものであり、時々こそっとカガク的現実との整合性をとろうとしたりしても、それは宗教のもつ権威主義・教条主義的な部分か、神ならぬ身には不可欠な解釈の見直しか、坊主も食わなきゃいかんのだと思って放っておこう(皮肉るくらいはするかも)」「もし科学の土俵で、明らかに科学的に間違っていることを言い出せば批判すべきであろう」といったところですね。
macskaさんは「皮肉るくらい」で済ませるべきではなく、きちんと批判せよという御意見だと理解しています。

132ミケ:2007/01/13(土) 18:59:11 ID:???
>>129
多世界解釈と波動関数収束解釈について。
ミケの科学観として、検証不可能な理論は科学の範疇ではない、
少なくともそれは科学理論ではなく解釈である、という感じでしょうか。
参考: ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~hilihili/science/what-sci02.html

介入問題なんですが、
2.○神を信心すれば、このおばあさんと同様な状況で助かる確率が信じない人より高くなる。
と主張するならば、もちろん科学の範疇でしょうけど、

主旨としては、たしか、
現実に干渉する神ならば、いかなるものでも科学の範疇に引っかかる、
に対する反論だったはずなので、
科学の範疇に引っかかるように条件設定されたものをもってこられても困って、、、
ん?もしかしてここがすれ違いの原因とおっしゃる?

※ミケが想定してるのは、
 信者が自分を信じようが信じまいが好き勝手に振舞う気まぐれな運命のカミサマでして。
 勝利の女神的な。

133macska:2007/01/13(土) 19:04:56 ID:VdHL1C4M
>>126
だからですね。

わたしが一貫して言っているのは、

「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」

と、それだけです。

現在の科学に解明可能であるかどうか、あるいは科学がどんなに進んでも解明不可能な問題も中にはあるかもしれないけれど、そんなこと関係ありません。たとえば「確率としてしか記述できない」なんてのも、それはそれでひとつの科学的結論であるわけで、科学の枠内にあるわけですよ。

少なくとも、そうした「科学の領域の中にある、科学には答えの出せない問題」は、そもそも科学の領域の外側にある問題、例えば「死後の世界はあるかないか?」とは区別されるべきです。

> という主張、すなわち
> 『地下猫式神の関与が科学の範囲外である』という主張と、
> あなたの主張は矛盾しない、
> と言ってるんですか?

科学は何の回答もできない、という主張には同意します。そうずっと言っています。

しかし、科学に回答ができないからといって、その現象そのものが科学の範囲外であるという議論には反対します。もし現実世界においてそういう神の関与があったとしたら、それは確実に科学の範囲内です。ただわたしたちはそれを探求する術を持たない(かもしれない)だけで。

>>127
「科学は神を否定することができない」というのは、どんな神を想定するかによるわけですよ。エルビス・プレスリーが神だという人にとっては、神は既に死んでいます。生きているという説もありますが(笑) ですから、「神の存在は科学によって否定されているのか?」という問いに誠実に答えるには、あなたの言う神とはどういうものなのか、と問い返さなければいけないはずです。

もし神様が、わたしたちとは全く違う次元や世界に住んでいてわたしたちの現実世界に何ら関与していないなら、そうした神の存在は永遠に科学の範疇の外側です。それを否定も肯定もできるはずがありません。しかし、もし神様がわたしたちの現実世界に住んでいたり、わたしたちの現実世界に影響を与えているのだとすると、その存在は(証明や反証はできなかったとしても)科学的探求の対象でないはずがないです。

>>128
> たとえばクリスチャンは神に愛されてるという直感を得ることを
> 「神の愛を知る」なんて呼ぶ場合がありますが、
> それに対して「そこで知るという言葉を使うのはおかしい、信じてるの間違いでしょ?」
> と問いつめるのは暴挙のように思えるのですね。

それが個人の信仰以上の影響を持たないのであれば、確かにいちいち問い詰めるのは野暮でしょう。わたしだっていちいち問い詰めたりはしません。しかし現実に、「信じている」だけのことを「知っている」と思い込んだ人たちは、それを「信じていない」人にまでまるでそれが「事実」であるかのように押しつけて来るのです。かれらの大半には、「自分はこれを信じているのであって、確かに知っているわけではないのだ」という自覚が決定的に欠けています。自覚した上でそういう言葉遣いを使うならまだしも、自覚がない盲信を広めるような言葉は有害です。

暴挙というなら、信者たちに知りもしないことを「知っている」と語らせる一部宗教の指導者たちの方がはるかに暴挙です。布教は自由であるべきだけれど、そういった悪質な心理操作テクニックを使った布教は倫理的に間違っています。(繰り返し何かを口に出して言わせることで認知不協和を通して内面をコントロールするという手法はよくありますね。)

> 「信じていること」が科学から合理的でないと指摘された場合、それは教義
> が科学によって「否定」されたことになるのですか?

違いますよ。よく読んでね。
「現実世界についての言及」は、否定される可能性があると言っているんです。
当たり前のこと。

> それと質問なのですが、科学が宗教を否定するのは科学的知見と教義に矛盾が
> でてきた場合のみなのでしょうか。

科学は宗教を否定しません。あくまで、宗教に教義として含まれるかもしれない個別の命題(イエスは処女の母に生まれた、水をワインに変えた、等)が、科学的検証によって否定される可能性があると言っているのです。

>>130
> masckaさんは宗教が科学に影響を受けることを好ましいことだと考えているようですが、

あれ、そんなこと言ったかな。世俗化することが好ましい(宗教にとって好ましいかどうかはともかく、社会の側にとっては)とは思っているけど。

134macska:2007/01/13(土) 19:07:57 ID:VdHL1C4M
>>131
> macskaさんは「皮肉るくらい」で済ませるべきではなく、きちんと批判
> せよという御意見だと理解しています。

いや、わたしは軽く皮肉ったつもりだったんですが ( >>92 )、そしたら「冒涜だ」「暴挙だ」といろいろ言われてしまって…

135ミケ:2007/01/13(土) 19:09:01 ID:???
むむむ、、、(考え中)
つまりdiamonds8888x さんは>>129において、
「macska さんは1が科学の範疇外であることには同意するはずだ」
と言いたいわけですね、、、たぶん?
そこらへんが折り合いをつけるポイントだと。。。?

とりあえずmacska さんの意見を聞きたいところですね。

136ミケ:2007/01/13(土) 19:14:33 ID:???
>>136
あー、科学で答えの出せないことを一まとめにして、
「科学の外」と言うことが気に入らないというだけなんですね?

結局、ミケの「日本語の問題だ」ってのは合ってたな。
日本語的には、科学で答えの出せないことを
科学の外って言ってもいいと思うんだけど。

死後の世界と多世界解釈における平行世界とどう違うんだって感じ。

いや、でもまあ納得はしないけど理解はしました。

137ミケ:2007/01/13(土) 19:26:56 ID:???
アンカーミス
136→133
ついでに補足

科学で答えの出せないことを一まとめにして、「科学の外」と言うことが気に入らない
というのは分かりました。
しかし、

>ある特定の確率で起こる事象のうちの「一つが起こった」ことに対して、
>ある特定の確率で起こる事象だから起こった、以上の答えは持たないので
>そこに神が関与したという解釈を与える(地下猫式神の関与)ことに対して
>科学は何の権限も持ちません。
(中略)
>上記のことは、偶然に起こったこと(過程・メカニズム)は科学の対象になる、
>というのとはまったく別の話です。WhyとHowくらい違う。

といったところはスルーされてる気がしますね。
Whyは科学で扱ってはいけない。

138ミケ:2007/01/13(土) 19:44:14 ID:???
ごめ、>>137は撤回。
議論が発散する気がするし、
突っ込まれても詳しく説明できなそうなので可能ならスルーお願いします。>ALL

もうミケは自分の落としどころを見つけた。
macska さんは
現実に干渉可能な神でも検証不能となる場合があることについては
同意していただけるんですよね。

これでまあミケはリタイア。

139AH1:2007/01/13(土) 20:01:26 ID:b4lKR3h.
>「神の存在は科学によって否定されているのか?」という問いに誠実に答えるには、あなたの言う神とはどういうものなのか、と問い返さなければいけないはずです。

その通りだと思います。私が挙げたのは「神はここまで逃げられる」という、いわば自由度を最大にした場合でしたね。私の理解では、このスレで議論しておられる方は概ね「変幻自在にいくらでも逃げまわれる神」までも想定していたように思います(様々な神があることを承知の上で神、と一言で括る場合は妥当だとも思う・正確には神のタイプに関して但し書きがあってもいいだろうけど)。最初の頃に「神のスペックを明示されないと議論は無理」と発言したのも、そういう意味合いでした。

で、私が述べていたのは「科学的な検証を『試みることはできるが』、検証が可能ではない場合が多いだろうし、神は科学の未解明領域に逃げ込めるから『実効性は疑問』」ということです(繰り返しになりますが)。
ミケさんの投稿にもありますが、macskaさんが「科学の範疇」として重視しておられるのは恐らく『試みる』の部分、私が考えていたのは『実効性は疑問』の部分、ということでしょう。

140diamonds8888x:2007/01/13(土) 20:13:11 ID:h2fLyT9w
 一応71で質問したつもりだったのですが、地下に眠るMさんの「宗教はもともと人生訓や格言ではにゃー。現実的な救いの問題だにゃ。」という発言での「現実的な救い」の範囲がよくわからなくて戸惑っています。

 宗教的な神による救いというものを分類してみます。実は別に神の教えではなくても、科学的知見からの処方箋でも、小池監督の言葉でも区別はありませんが、それに従うことで得られる「救い」にどんなものがあるのかということです。
1.客観的な物質的な良い結果をもたらす。−−受験合格、無病息災、金メダルが取れるなど。
2.心の中に良い結果をもたらす。−−困難な時にも平安が得られる、など。
3.死後に良い結果をもたらす。−−極楽往生できる、など。

 3が科学の範疇外ということではmacskaさんも含めて全員同意してるでしょう。1については「確率への介入」を除けば科学の範疇ということで、これまた全員同意してると思います。2については話題にあまりなっていませんが、少なくとも自分自身のことなら検証可能です。客観的にも「あなたは幸福ですか?」とかアンケートしてみれば一応検証可能と考えられます。ただ「主観的問題だから科学の範疇外」という見解もありそうです。

 で、地下に眠るMさんの「現実的な救い」というのは1を意味しているのでしょうか? そしてそれが「人生訓や格言ではない」というのもよくわかりません。人生訓もそれに従うことで1〜3の救いが得られることを主張するものですし、格言はそれをコンパクトに表現したものです。そして宗教での「教え」の多くは、このような人生訓を神を根拠として述べたものでしょう。確かに「極楽往生できるから○○せよ」というのはあまり人生訓とは呼ばないかも知れませんが、「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」というのはひとつの人生訓と呼んでもおかしくはありません。

 さて、多くの人が救いを求めて特定の神を信じるに至るのは、教えに従うことと結果との因果関係を自分なりに検証して正しいと思ったからというのが多いのではないでしょうか? 特に1〜2の場合はそうです。教えを知らない間は良い結果がでなかったが、教えに従ってみたら良い結果が出た、という体験をした人は、まさに検証の結果がOKだったのでさらに深く従うようになるわけです。その検証の手法は科学からみれば不完全ではありますが、教えに従うことと結果との因果関係自体は、検証可能だし、人々は検証を試みていると思うのですが、いかがでしょうか?

 地下に眠るMさんが「科学の範疇外」と主張するのは「教えに従うこと(または従わないこと)と結果との因果関係」とは違うもののようにも思えるのですが、はっきりはしないもので。

141diamonds8888x:2007/01/13(土) 20:43:40 ID:h2fLyT9w
>>132
>多世界解釈と波動関数収束解釈について。
>ミケの科学観として、検証不可能な理論は科学の範疇ではない、

 検証はされてるでしょう? どちらも観測をちゃんと説明できているはずです。両理論が観測的に区別不可能というならわかりますが。

142いらはい:2007/01/13(土) 20:48:34 ID:DHj5XiXA
>>133

>しかし現実に、「信じている」だけのことを「知っている」と思い込んだ人たちは、それを「信じていない」人にまでまるでそれが「事実」であるかのように押しつけて来るのです。かれらの大半には、「自分はこれを信じているのであって、確かに知っているわけではないのだ」という自覚が決定的に欠けています。自覚した上でそういう言葉遣いを使うならまだしも、自覚がない盲信を広めるような言葉は有害です。

masckaさんのおっしゃる「信じている」「知っている」の問題が他者にたいしてどうふるまうかの倫理的問題ということならわかります。
ただ、自覚という内心の問題に対してどうこうするというのは無理なように思えます。
たとえば神秘体験をした人が神経科学的説明と宗教の教義を照らし合わせた結果、
ある宗教の教義がかなり確からしいという認識を持った場合、
これは「信じている」「知っている」のどっちに入るのでしょうか。



>「現実世界についての言及」は、否定される可能性があると言っているんです。

「否定される」というのが具体的にどういうことなのかイメージできないので、否定される可能性というのが掴みにくいです。
たとえば現状で創造説(創造科学ではない)は地質学・生物学上の発見に否定されたといえるのでしょうか?
そこまでせずに積極的にその命題を受け入れる証拠が何もないということを指摘しただけでも否定したことになりますか?

>世俗化することが好ましい(宗教にとって好ましいかどうかはともかく、社会の側にとっては)とは思っているけど。

宗教が世俗化するのは、世俗のレベルにおいて、実証的根拠があることと宗教的根拠しか無いことが同列に扱われる(確からしさを比べられる)からではないですか?
知ると信じるの区別を自覚したら世俗化は進まなくなるのでは?

143みずすまし:2007/01/14(日) 02:45:46 ID:TgyKdXjk
はじめて書き込みます(たぶん)。
よろしくお願いします。

なお,macskaさんの日記のリンクから来ました。


>>1
> > Q. 進化が正しいとすると、神さまはいないのでしょうか?
> >
> > A. いるともいないとも言えません。神がいるかどうかとい
> > う問題は、科学の範囲外です。進化が正しいかどうかという
> > 問題と、神がいるかどうかという問題は別問題です。進化論
> > と信仰を両立させている科学者はたくさんいます。
>
> この記述ですが、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」という言明が常に正
> しいとは思いません。
>
> 神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇
> 内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのでは
> ないでしょうか。

私は,このmacskaさんの主張は正しいと思います。

例えば(あくまで,例え),「神は,世界をお創りになったとき光速を10mm/sと定め,それ以降,変更されていない」という教義を持つ宗教があれば,そのような神の存在は科学で否定されいますよね。

極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立てば,「宗教的事実としては,光速は10mm/sである」が,「科学的事実としては,光速は約30万km/s」ということも言えるかも知れませんが,そこまで極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立つことには強い躊躇を覚えます。

だから,「『神がいるかどうかという問題は科学の範囲外』という言明が常に正しい」とは思えない。

極端に非現実的な仮想例は置いておくとしても,現実の宗教においてはどうなのかと考えれば,(a)科学で否定されている教義,(b)科学で否定されえ,その実験もかなり具体的に想定可能な教義,(c)科学では否定されえないとまではいえないが,具体的な実験方法は今のところ特にない教義,(d)およそ,科学で否定されそうには考えられない教義,という(a)〜(d)まではグラデーションをつくっているとは思います。

でも,そこにグラデーションがあって明確な線引きが困難だからといって,(a)(b)のような教義が実際にあり,またそれがその宗教における「神」の語に強く結び付けられいるような宗教があることを否定することはできないのではないでしょうか。

問題は,(c)(d)があるかどうかではなく,(a)(b)があるかどうかなのではないでしょうか。

-----
(補足1)

もし,「およそ宗教的言明は,科学とは異なる文法や語彙を用いているのだから,科学の文法や語彙で理解することは誤りだ」というのならば,先の「神は,世界をお創りになったとき光速を10mm/sと定め,それ以降,変更されていない」という教義でさえ否定できなくなりますが,それはあまりにも強すぎる相対主義(意味論的な?相対主義)に立っているように思います。

また,仮にそのような立場に立つとしても,冒頭に孫引きしたQ&Aの文章(すでに修正されていますが)にはそのような立場に立てば,という留保があって良いように思います。その文章を読む人が,そのような強い相対主義に立っているかどうか不明だからです。

-----
(補足2)

もし,「『真の宗教』は(a)(b)を含まず,(a)(b)を含むようなものは本来の意味では『宗教』と呼べない何かである」とするならば,冒頭に孫引きしたQ&Aの文章は問題がないものになるでしょう。

しかし,実際に世の中にある多くの宗教がそのような意味で「真の宗教」であるようには思えませんから,そのような立場は,それほど一般的な立場ではないように思います(先進国のインテリにとっては,一般的なのかもしれませんが …もしかしたら)。

144みずすまし:2007/01/14(日) 02:46:20 ID:TgyKdXjk
(補足3)

>>1
> 逆に言うと、「神がいるかどうかは科学の範囲外」という言明は、少なくともわたした
> ちが生きる今の現実社会にいかなる形でも関与しないタイプの神か、あるいは「自然法
> 則」や「全宇宙」をただ「神」と呼び変えている場合に限ってのみ言えるはずだと思い
> ます。

この部分が,「現実社会に関与するタイプの神」は全て科学の対象になりえるということならば,厳密には間違っているだろうと思います。

「自由自在に事象を操れ,かつ神の実在を確かめようとする者には,常に神が存在しないかのように思わせるように事象をあやつる全知全能の神」というものが存在するのなら,その存在は科学で否定することも,肯定することもできないものと思います。

しかし,やはりある種のタイプの神の存在(という教義)は科学で検証しえ,それは「現実社会に関与する(関与した)タイプの神」の一種であると思います。その例は,極端な仮想例ですが,すでに挙げました。

-----
(補足4)

科学が,「私がビルから転落しても助かったのは,神のご意思だ」といった *解釈* を否定も肯定もできないというのは,あるいはそうなのかもしれません。

しかし,繰り返しになりますが,問題は(c)(d)があるかどうかではなく,(a)(b)があるかどうかなのではないでしょうか。

-----
(補足5)

では,多くの宗教が(a)(b)を含み(少なくとも(b)を含み),それが科学で否定されえるとして,そのように主張することに現実的な意味があるのか,といわれればそれはケース・バイ・ケースだと思います。

145diamonds8888x:2007/01/14(日) 10:15:36 ID:h2fLyT9w
>>140
訂正。「小池監督の言葉でも」===>「小出監督の言葉でも」

 じゃないと通じにくいですね。選手から信頼されているコーチなり監督であれば、名前はどうでもいいことではありますが。

 しまった。書き込むスレッドを間違えましたよ。

146diamonds8888x:2007/01/14(日) 10:22:08 ID:h2fLyT9w
>>132
 「信者が自分を信じようが信じまいが好き勝手に振舞う気まぐれな運命のカミサマ」の想定はわかります。ミケさんやSeagul-Xさんの想定状況ではそれが一番ぴったりします。哲学論というか認識論というか、「偶然への科学では認識できない何者かの介入」というテーマにはぴったりです。

 またみずすましさんが144で想定した全能の神も検証不可能ですし、有名なへそ理論の「1分前に世界を創造した神」も検証不可能です。

 でもね。単にそういうカミサマを奉じているだけの宗教が実際にどれくらいありますか? 多くの宗教の教えは、「信仰または信仰を示す行為と救いとの因果関係」を述べているのではありませんか? そして因果関係というものは、原因と結果が観測可能であれば検証可能なものですよ。その検証がたとえ科学的には不完全なものだとしても。また観測がただ一人の個人にしか可能でないものだったとしても。

147diamonds8888x:2007/01/14(日) 10:29:43 ID:h2fLyT9w
 macskaさんが一貫して主張しているのは「科学を使う側の心得」、もっと強く言えば「科学者としての職業倫理」みたいなものだと思います。こういうとまるで職業科学者が仕事としての学問を行う場合だけの問題に聞こえますが、そうじゃなくて、そもそもこの世の中の物事を検証しようと試みる全ての行為に対して、ですかね。

 例えばキリスト教を信仰する科学者がいたとします。宗教上の真実として「キリストは水をワインに変える奇蹟を起こした」と信じることは信仰者としては当然かも知れません。でも歴史上の事実としての「紀元0年前後のある時、イエスと称する人物が水をワインに変えるのを目撃した人達がいる」という言明は科学的検証の対象であると考えるのが、科学者としては誠実な態度でしょう。それは、「聖書はイエス死後の人達が記載したもので、いくつも異なる版がある。」とか「イエスという歴史上の人物の行動は実はこれこれである。」とかいう言明も科学的検証の対象であると考えるのも同じ事です。

 macskaさんは一貫して素朴実在論に立っていると思えますし、これは普通に人間が世界を認識する立場としては至極まっとうな立場です。ただまっとうな主義も極端に徹底して押し進められる人は意外に少なくて、極端に徹底して押し進めた立場は意外にも過激派に見えたりします。普通の人間による直接の観測だけを信じろ。偉い坊さんが言ってるだけで鵜呑みにするな。何事も自分で検証しろ。実に過激で、ある人々にとっては不都合な主義です。まあ今の先進諸国の社会では、この過激主義も一定の認知を得てますけど、過激なだけに煙たがられる嫌いもあるのは事実です。

 上記の過激主義は私も支持している主義です。常に貫徹できているかというとそうでもありませんが。人生は世界を正しく認識するだけが全てではないので(^_^)。

148fukken:2007/01/14(日) 12:13:23 ID:M5vfENrY
>>125
>宗教者がそのように現実的な解釈を取ってくれることは、実は世間の側としても非常に助かるわけで、全然悪いことではありません。だからわたしは、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替える」ことは素晴らしいと思っているくらいで、全然冒涜するつもりはないんですね。

macskaさんに宗教者を冒涜する気持ちのないことは、既に前回の回答でも了承済みです。また、「macskaさんが宗教に対して攻撃的に思える」と言ったことについても私の誤解であったことを認め、お詫びします。
ですが、前回も言いましたようにmacskaさんが宗教者の宗教に対する思いを軽視していると言う印象は否めません。

キリスト教や聖書についてはお詳しそうですが、その他の宗教はどこまでご存知なのでしょう。
macskaさんご指摘のキリスト教に見られるような曖昧さを排除するために、偶像崇拝や教典の外国語訳を規制するなどしての教義の一意性を保とうとするイスラムのような宗教だってあるのではありませんか。

>「常識や科学的知識なん て関係ない、神が人類を創造したと聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防衛する人も一部にはいるでしょう。しかし多くの宗教者 たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更することで「神の言葉や意志は正しく、素晴らしい」というイデオロギーの方を 防衛するのです。

キリスト教については上記のことが言えたとして(”一部”や”多くの”と言うのが全体の何割程度なのかもさておくとして)、その他の宗教にもこれが当て嵌まるのでしょうか。
このように一絡げにして「宗教者は、〜だ」と断定的にモノを言うことに躊躇はないのですか。

聖書を誤解している宗教者がいるなら、まずは「あなたは教義を間違って解釈しているよ」と教えてあげれば良いし、それが作為的なものだと言うのでれば「おまえ、聖書にはそんなことは書かれていないだろうがあ。この似非宗教者め。」と、飽くまで宗教の土俵に上って、こき下ろしてあげれば良い。

そうした人たちとまともな宗教者、他の宗教までもを一まとめにして、しかも宗教 対 科学みたいな構図で「彼らは」と批判するからおかしなことになるんじゃないでしょうか。

それともう一つ。

私とmacskaさんのやり取りは、macskaさんの「宗教だって全く何もわかっていない>>75」という言葉から始まっているのですが、それは単にmacskaさんの思い込みに過ぎない可能性だってなくはないわけですよ。まあ、その可能性は極めて低く、本当は私だってmacskaさんと同じ様に思っています。しかし、その真偽に関わらず、宗教の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わない宗教者だっているわけです。だから、そのように断言することは”心情的に”してはならないと言う意味での私の>>96だったのですね。
それに、

>宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。

こんな言い方をしては、宗教者を愚弄していると言われても仕方ないと思いますね。
自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な行為でなく宗教が認める行為であるとどうして断定できるのでしょうか。
これは明らかに宗教そのものを批判していますし、宗教者を蔑視した発言と受け取れなくもありません。何しろ「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」と言ってしまったわけですから。

この言葉に限らず、このスレッドでmacskaさんの仰っていることは言葉の端々にどうにも宗教蔑視の雰囲気が醸し出されているんですよね。
互いの主張に特に齟齬もないのに、それがここまで紛糾しているのはそんなところにも問題があるのじゃないでしょうか。

宗教が科学の範疇であろうとなかろうとそんなことには関わらず宗教に対する発言にはもう少し気を配りましょう。もう少し宗教者の気持ちに対する配慮をいたしましょう。ってことで一つ。

149fukken:2007/01/14(日) 12:18:28 ID:M5vfENrY
失礼しました。

私の>>96だったのですね。→ >>76

150macska:2007/01/14(日) 14:25:15 ID:VdHL1C4M
ようやくわたしが何を言っているのか理解されかけてきた様子。
そんなに大それたことを言っているつもりはなかったのですが、議論の途中で脇道に逸れてしまったために、いろいろ誤解を浴びてしまいました。

>>142
> たとえば神秘体験をした人が神経科学的説明と宗教の教義を照らし合わせた結果、
> ある宗教の教義がかなり確からしいという認識を持った場合、
> これは「信じている」「知っている」のどっちに入るのでしょうか。

うーん、これだけの情報じゃなんとも言えないな。
何らかの体験をした、というのは事実でしょう。でも、だからといってある特定の宗教の教義によるその体験の解釈が正しいと確信するのは、ちょっと飛躍があります。だから、その飛躍を埋めるような客観的な根拠がどれくらいあるのかを聞かなければ判断がつきません。

まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見ると「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知っている」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るかどうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。

> たとえば現状で創造説(創造科学ではない)は地質学・生物学上の発見に否定され
> たといえるのでしょうか?

創造説の中身にもよりますが、「神が6000年前に全ての生物を今ある形に作ったという説」でしたら否定されていると言っていいでしょう。

もちろん、「実は本当に6000年前に創造されていて、でも神は人々の信仰を試すためにわざとそれに反するような証拠を捏造したのだ」という反論は可能ですし、その可能性がまったくゼロだとは言えません。

しかしそれを言うなら、全宇宙は5分前に創造された可能性だってあるし、創造主がスパゲッティモンスターである可能性だってあるし…とキリがないので、普通そういう無茶苦茶な可能性は「信じるのは勝手だけど、考慮に値しない」と切って捨てるわけです。可能性が完全に否定できないからといって、何か考慮するに足るだけの可能性があるということにはなりませんからね。

>>148
> キリスト教については上記のことが言えたとして(”一部”や”多くの”と言う
> のが全体の何割程度なのかもさておくとして)、その他の宗教にもこれが当て嵌
> まるのでしょうか。

どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?

> そうした人たちとまともな宗教者、他の宗教までもを一まとめにして、しかも宗教
> 対 科学みたいな構図で「彼らは」と批判するからおかしなことになるんじゃない
> でしょうか。

わたしは、宗教を批判してはいないです。多少の皮肉くらいは言いましたが。

> しかし、その真偽に関わらず、宗教の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わない
> 宗教者だっているわけです。だから、そのように断言することは”心情的に”し
> てはならないと言う意味での私の>>96だったのですね。

「してはならない」とあなたが断言したことで、科学の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わないわたしの心が傷ついたらどうしてくれるんですか!(笑)

もちろんそれは冗談ですが、「〜だから、心情的に〜してはならない」というときに、政治的な信念だとかその他一般一般の考えに比べて、宗教的信念にだけ何か特別の保護を与えるよう要求しているのではないかと気になります。他人の気持ちは思いやるべきですが、それが宗教的信念だからというだけの理由で他の信念や信条よりも手厚く保護されるべきだとは思いません。

151ミケ:2007/01/14(日) 14:43:12 ID:???
>>141
まずは、前投稿の表現が曖昧だったかもなので、
もとの文章(>>122)から。
>多世界説と波動関数の収束説、どちらが正しいかは科学では扱えません。

要するに、どちらの仮説も矛盾がなく(観測事実を説明でき)、
かつどちらが正かった場合の予測も同じで区別できなかった場合、
それは科学では選べません。
「論理的に矛盾がない、だけでは仮説は選べない。(>>132で紹介したHPより)」
というヤツです。
今西の「すみ分け」も、観測事実を矛盾なく説明できますが、
すみ分けが間違っていた場合の予測と正しかった場合の予測が区別できないため、
科学では採択できなかったのと同じかと思います。

>>146
「勝利の女神的なもの(気まぐれver.)」は
日本では広く信仰(?)されているように個人的には思います。
また、いささかミケの知識は偏向しておりますが、
神話に出てくる運命のカミサマ(や精霊)は
敬おうが敬うまいが戦いの勝利を左右したりする印象があります。
ヴァルキューレとか?(それが現在信仰されてるかどうかは知らんけど)

とはいえ、ミケは別に実際の宗教を想定してたわけではないんです。
macsaka さんの主張を
「現実に干渉するタイプの神であるならいかなるものでも検証可能である」
と解釈し(本人はそういうつもりではなかったとしても)、
その主張から、その前の地下猫さんやミケの主張
「運命のカミサマ的なものなら現実世界に干渉するものでも検証不可能である」
を理解していないのでは?という印象を受けたのでその例を挙げてみた、と。
多くの宗教とかそういうことはあんまり考慮する必要を感じませんでした。

ミケにとって大事な(とそのときミケが思った)ことは、
「検証不能である」という部分がmacska さんに通じていなかったのでは?
という点だったので。
それが誤解だったらしいことが分かったので、もう引き上げたわけです。

※一応ミケとしてはそもそも検証の対象にできようができまいが、
検証不能なものを科学の範疇である、という言明には賛成できない、
という立場です。今でも。まあわざわざ争う気はないけど。
(今西進化論や「宇宙は1分前に」は科学の範疇内なのか、という)
反論当時は、「検証不能なら科学の範囲外って言うのが当たり前」という意識があったので
「科学の範疇にある」を「検証可能」と脳内変換していました。

152fukken:2007/01/14(日) 17:23:53 ID:M5vfENrY
もう少し食い下がってみましょう。

>>150
>どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?

その程度の認識であれだけ仰ったのですか?
高校生物の教科書程度の知識すら持たず「進化論なんて出鱈目じゃあ」と飛び込んでは自滅する人をここで大勢見ている私には、それはとても危険な行為のように思えます。

地下猫さんも仰っているけど、宗教を知らずにさもわかったようにそれに意見してしまうと言うのは、創造科学のお兄様方と大して変わらないように思います。

「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
と仰ったのはmacskaさんですが、ここで同じことなさろうとしていませんか。

>わたしは、宗教を批判してはいないです。多少の皮肉くらいは言いましたが。

「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」
は皮肉とは言わないでしょう。批判でもないとすれば嫌がらせなのでしょうか?

>もちろんそれは冗談ですが、「〜だから、心情的に〜してはならない」というときに、政治的な信念だとかその他一般一般の考えに比べて、宗教的信念にだけ何か特別の保護を与えるよう要求しているのではないかと気になります。他人の気持ちは思いやるべきですが、それが宗教的信念だからというだけの理由で他の信念や信条よりも手厚く保護されるべきだとは思いません。

macskaさんは宗教者は信と知の区切りを付けるべきだと仰った。
では今回のmacskaさんの発言の中で、明らかに彼らの”信”である領域に介入するものは一切なかったと言い切れますか?
最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り踏み込んじゃっているではありませんか。
「そのように断言することは”心情的に”してはならない」と言うのが気に入らないのであれば、「”macskaさん自身が設けようとしている決まり”を守るためにも、してはならない」のと違いますか。

それから、macskaさんは
信じているという分には、どんなに非合理的な信仰であっても構わないです。>>92
とも仰っている。
宗教者が「常識や科学的知識なんて関係ない、神が人類を創造したと聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防衛する分にはそれは”信”の領域にあるわけですね。>>125
そういう人たちから見れば、「聖書の記述は誰がどう見ても間違っている」>>83などは”信”の領域への介入どころか、宗教に対する侮辱そのものです。
ところが宗教的信念のない人(その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更することで「神の言葉や意志は正しく、素晴らしい」というイデオロギーの方を防衛する人)にはそれは当て嵌まらない。
macskaさんご自身が、宗教的信念に特別の保護を与えようとしているのではありませんか。

で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?

153地下に眠るM:2007/01/14(日) 17:33:46 ID:Y7kDipRw
とりあえず今日の投稿はこの1件のみかな

>ヤケクソになるのはやめましょう(笑)

チミは頭がワリイなあ・・・・・・
いっておくと、僕が罵倒モードに入るのは、
・相手が特定の知的領域に関する礼儀を逸している。
・罵倒してもこちらにダメージがないと確信できる。
両者が該当する場合、つまり無礼で弱い馬鹿に対してこのモードに入ることにしているのだにゃ。
こうすれば、負け逃げの時も「そんな人格攻撃する相手とは議論なんてできません」ということができるわけだにゃ。僕ってやさしいだろ?

>> 自然科学が脳のことを調べることにより、意識というものがどういうことかわかり、
>> ひいては魂というものを理解するかもしれにゃーので、死後の世界の有無はカガクの対象となる。

>例えば、進化論が広まった結果神の存在を疑問に思う人が増えたように、人間の意識の科学的解明が進んだ結果人々が死後の世界を疑問に思うようになるという程度の関連はあるでしょうが、進化論によって神の存在が科学の対象となったとは言えないのと同じように、死後の世界の存在そのものが科学の対象になるわけではありません。

のらりくらりの逃げられにゃーように、もっと簡明にいってあげよう。
死後の世界とか魂とかが「存在する」のならば、それは(チミの定義では)自然科学の対象だろ?

現にこうゆうのがあるんだにゃ↓
ttp://www.h4.dion.ne.jp/~mf124/sub%205%20tajigenn.html

この香ばしいHPから引用するにゃ
***************************
多次元世界の存在の発見経過

A【神霊界】
 心霊研究によって死後の世界、霊魂の存在が歴然と実在していることが、科学的に実証されました。
  * 物理的心霊現象や霊界通信(チャネリング)を通して、死後の世界と霊魂の存在が、科学的に厳密なる検証の結果証明された。
***************************

探せばこの手のタワゴトにはことかかにゃーぜ。神智学の教義のパクリでね、日本ではオウムとか幸福の科学とかが採用している教義のパターンにゃんな。死後の世界は実在の世界の高次元にあるんだそうだにゃ。

154地下に眠るM:2007/01/14(日) 17:34:24 ID:Y7kDipRw
長すぎた、つづき

しかし、この手のタワゴトをいっている連中も、チミよりは論理的だ>macskaクン
チミのいっていることは、現実世界の森羅万象が自然科学の対象だといいながら、死後の世界の「存在」は対象外だとのたまわっているにゃ。現実に存在しにゃーものは存在するとはいわにゃーだろ? 
ま、「それは彼の妄想の中だけに存在する」という逆説的な言い方はあるけどにゃ。もちろんこれは、「現実には存在しない」という意味だにゃ。これは単純な排中律の問題。死後の世界は存在するかしないかしかなく、存在するとは現実にあることをいうわけ。違う?(←ここは逃げずに答えようね)
※哲学用語における「存在」とは非存在も含むのだけどここでは関係なし

しかし、死後の世界はもちろんニンゲンの通常の認識では検知できにゃーわけだ。存在しているはずのものが検知できにゃーのは何故だろうということで、疑似科学的な「○○次元」とかいう説明が採用された例だにゃ。まあ電波ゆんゆんの言説にゃんが、それでも「カガクは現実世界の森羅万象を検証対象にする」といいながら「死後の世界の存在」を対象外だとする誰かの詭弁よりははるかに論理的かつ誠実にゃんね。

もちろん、あらゆるタイプの神の存在にの有無ついても、科学は検証対象とすることになるにゃんな。

>> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
>> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。

>それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。

え?
どう違うの?
逃げにしか見えにゃーぜ。

つまりね、macskaの言明というのはハナッから矛盾しているわけだにゃ。カガクが現実世界の森羅万象をその対象にするのであれば、存在する全てはカガクの検証対象となり、よってあらゆるタイプの神も死後の世界も魂もカガクの検査対象にならなければならにゃー。


「森羅万象」ネタの問題はまだある。
例えば文学作品はもちろんこの現実世界での営みだにゃ。作家とか文学作品のよしあしの判定は自然科学の検証対象になることになるにゃ。ちゅうか、ニンゲンの脳というのは現実世界に存在して現実世界で活動しているわけで、macskaの白痴的カガク主義言明によると、ニンゲンの脳が産みだすありとあらゆる事象はカガクの検証対象となっちゃうわけにゃんね。人文科学・芸術などもすべてカガクの対象となるわけだにゃ。
極端なカガク主義にゃんな。
そして、カガク主義はカガクの敵なんだにゃ。


あと、予告しておきますにゃ。
・macskaは宗教に対する悪意をもって発言していること
・場当たりのウソをつくこと
・基本的な読解力がないこと
以上を今後の投稿で証明するにゃ。

ま、ゆっくりとやるけどね。

155みずすまし:2007/01/15(月) 02:03:50 ID:TgyKdXjk
横槍ですが。


>>152
> で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?

哲学では,例えば次のように区別されています。


> 知識の古典的定義
> 現代英米の分析哲学では、知識の古典的定義として以下のものが用いられる。
>
> ある認知者Aが「Xである」という知識を持つのは以下の場合、その場合にかぎる。
>
> 1. Aは「Xである」と信じており、かつ、
> 2. Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ
> 3. 「Xである」は真である。
> これを一言で言えば、「知識とは正当化された真なる信念である」ということになる。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%AD%98

# 「知識」は「真なる信念+α」だというのはプラトンが議論しているので,「知識」は
# 「真なる信念+α」だという理解が古典的スタンダードだというのは「現代英米の分析
# 哲学」に限らず西洋哲学全体についていえると思う。

# たぶん,ポパーも概ねこれに近い考え方をしている。クーンは違うかも。

# なお,この古典的定義では「正当化」の内容は明らかにされていない。
# その為に,その古典的定義に概ね同意する哲学者の間でも,「正当化」の内容に関し
# て論争がある。


こういうこと書くのは僭越かもしれませんが,たぶん,macskaさんは概ねこの古典的定義に従った「信念」と「知識」の区別をしていて,「正当化」の明確な定義を棚上げにしても,一応の(少なくともその人が考える)「正当化」を伴った「真なる信念」についてのみ「知識」という言葉を用いるべきだ,と主張されているのだと思います。

例えば。

>>150
> まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見る
> と「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知って
> いる」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るか
> どうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知ってい
> る」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。


さらに僭越なことを書きますが,おそらく,この古典的定義が他の方とあまり共有されていないんじゃないでしょうか。

ただ,私の推測が正しいとして,macskaさんが「信じている」と「知っている」の区別として要求していることは,古典的スタンダードに従っているし,そのスタンダードに反対する強い理由も(私には)ないので,それなりにまっとうな主張だとは思います。しかし,その区別は,普通の日本語を母国語とする日本人において,日常の用語感覚として明確ではないので,他の方と共有されていないとしても無理はないと思います。

この「共有されていないとしても無理はない」というのは宗教家に対してもいえることで,この区別が共有されているという前提がないのに,宗教者に対して「それは,『信じている』だけで,『知っている』わけじゃないんでしょ?」といっても意味不明かもしれません。

# 西洋人,さらに限定して英語を母国語とするインテリにとっては,"believe" と
# "know" の違いとして明確なのかもしれませんが,私にはよく分からない。

156fukken:2007/01/15(月) 03:20:38 ID:M5vfENrY
>>155

ご教示ありがとうございます。

でも、

> で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?

これはmacskaさんに対する皮肉なのです。

何しろ、他人には『知らないことを「知っている」と言うな』と言っておきながら、「どうやら宗教とはこんなものだろう」と信じただけで知った気になり、曖昧な部分をまるで確定したことのように語ってしまったわけですので。
「信じている」という分には、どんなに非合理な主張であっても、私もここまでねじ込んだりしないです。(参考文献>>92

157diamonds8888x:2007/01/15(月) 06:15:22 ID:h2fLyT9w
>>153,154
 それは101でAH1さんが言った「死後の世界は(もしそれがあり、観察する手段が開発されたなら)観測可能」という話ですよ。macskaさんは110で「もし死後の世界が、わたしたちと同じ現実世界のどこかにあるという主張であれば、確かに科学の範疇ですね。」と明確に答えてます。

 その香ばしいHPで主張されている科学的に実証されたとか言う「死後の世界」とやらなら、当然科学の範疇です。現在生きている人間が観測して実証したと主張しているのですから。macskaさんの言う「死後の世界」とは死んだ本人にしか観測できない世界のことだと思いますよ。そして死からよみがえった人がいない以上は、生きている人にとっては「死後の世界」は観測不可能ゆえに検証することができません。ごく普通の論理だと思いますが?

158diamonds8888x:2007/01/15(月) 06:17:12 ID:h2fLyT9w
>>151
 見解のわずかな相違ということでよろしいかと思いますが、一応私の見解だけ述べておきます。

>>(今西進化論や「宇宙は1分前に」は科学の範疇内なのか、という)

 どちらも科学の範疇であり科学理論とみなすことができます。しかしオッカムのかみそりにあわないとか、予測性がないとか諸々の不都合から取り上げられない、もしくは正しい科学理論としては排除されたということですね。なぜならミケさんの言う検証不能かどうかという判断をまずしないことにはいけないわけで、判断する前では(ミケさんも賛同するだろう意味での)科学理論かも知れないと見なして判断を試みるのですから。「宇宙は1分前に」は割とすぐに判断できるでしょうが、今西進化論は判断が難しいのではないでしょうか?

159地下に眠るM:2007/01/15(月) 10:36:54 ID:Y7kDipRw
>>157
だから、死んだ本人がどこにいるの?
現実世界には存在しないけど存在する、ってどういうことか教えてくれる?
「妄想や願望の中に存在する」ってのは存在しにゃーという意味だと元レスにも書いてるぜ。

macskaクンの主張がどんなに白痴的で無意味かチミにはわかんにゃーのかな?
観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
言い換えると
カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ、といっていることになるにゃ。

最初からこんな白痴的なことをいいたかったのか、「僕はわかってるんだじょー」というカッコをつけたかったが故にここまで追い込まれてしまったのかしらにゃーが、こんな主張はただのゴミ。

macskaクンがいかに宗教に悪意をもっているか、場当たりの適当なことをいっているかは、時間のあるときに検証するけどにゃ。
とにかく、宗教についてのmacskaクンの発言はほとんど信用に値しにゃーと考えていい。

160Josef:2007/01/15(月) 12:44:42 ID:uPoVYQoU
はじめまして。macskaさんのサイトから来ました。

>>159
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。

読み間違いですね。
「現実世界に起きている」と主張されることについては科学的検証の対象になる、ということでしょう。「現実世界に起きている」と主張される事象であるにもかかわらず、検証を試みた結果、「観測や実証の可能性がない」ことが判明すれば、「現実世界に起きている」という主張には根拠がないことになります。

161macska:2007/01/15(月) 13:19:37 ID:VdHL1C4M
>>152
> その程度の認識であれだけ仰ったのですか?

あれだけって、そんなに言ってませんって。

> 地下猫さんも仰っているけど、宗教を知らずにさもわかったように
> それに意見してしまうと言うのは、創造科学のお兄様方と大して変
> わらないように思います。

もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。

> 最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り
> 踏み込んじゃっているではありませんか。

それが事実として間違いであると論じているのか、それとも事実だけれどそういうことは口にすべきではないと論じているのか、どちらかはっきりしてください。

わたしはそれが事実であると思っている(事実でない可能性は、スパゲッティモンスターが存在する可能性程度ならあるけれど、ほぼ考慮する価値なし)し、「だれかの宗教的信念に反するから」という理由で事実を口にしてはいけない、とは思いません。

> 宗教者が「常識や科学的知識なんて関係ない、神が人類を創造したと
> 聖書に書いてある以上、創造論は正しいのだ」と言い切って教典を防
> 衛する分にはそれは”信”の領域にあるわけですね。>>125
> そういう人たちから見れば、「聖書の記述は誰がどう見ても間違って
> いる」>>83などは”信”の領域への介入どころか、宗教に対する侮辱
> そのものです。

馬鹿げた信仰を持つのも自由なら、その馬鹿らしさを指摘するのも自由でしょ。イデオロギーを通さずに聖書を読めば、それが間違いだらけであるというのは明らかです。数えきれないくらい矛盾があるんだもの。人々の信仰は尊重するけれど、だからといって明らかに間違っているものを「間違いがない」と認めなくちゃいけないなんてことはないはずです。

>>153
> 死後の世界とか魂とかが「存在する」のならば、それは(チミの定義
> では)自然科学の対象だろ?

「存在する」というのが、現実世界に物理的に存在するという意味なら、その通りですね。それがなにか問題ですか? あなたは仮に「魂」が例えば物理的に存在していたとしても(粒子の一種として発見された、とかなんでも適当に想定してください)科学の範囲外であると言うのですか?

一般に「死後の世界」というとき、それは現実世界に物理的に存在するものとしては語られていないように思います。生きている人の住んでいる世界とはまったく別の次元にあるとされているはず。「魂」というのも、物理的存在として語られることもありますが基本的に物理世界とは別のものとして語られるはずです。そういうものは科学の範囲の外側ですよということ。

> 現実世界の森羅万象が自然科学の対象だといいながら、死後の世界の
> 「存在」は対象外だとのたまわっているにゃ。現実に存在しにゃーも
> のは存在するとはいわにゃーだろ? 

死後の世界の「存在」というときに、わたしはそれを「現実世界において、物理的にあること」という意味では言っていません。物理世界の外側にあるとされているモノ、という意味で言っています。

わたしには、物理世界の外側に何かが「ある」というとき、それがどんな状態なのかまったく見当もつきません。しかし世の中には、物理世界の外側を信じている人たちがいて、そこに「死後の世界」だとか魂だとか神様が「ある」と言っているわけで、かれらのそういう信仰を科学は否定できませんよ、とわたしは言っているだけです。もちろん肯定もできませんが。

> 作家とか文学作品のよしあしの判定は自然科学の検証対象になることになるにゃ。

文学作品のよしあしは、価値観であって現象ではないでしょう。もちろん価値観が脳内の物理現象の反映であるならば(そうだとわたしは言っていませんが)、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないですが、いきなり脳の研究をするのは有効な研究だとは思えません。文化の研究にはそれに適したツールが別にあるはずです。

162ミケ:2007/01/15(月) 16:04:47 ID:???
>>158
それだと、IDもスパゲッティモンスター説も
(正しくないけど)科学理論ってことになってしまい、
ID論者やラエリアンを相手にするときにめんどくさいですよ?
いや、まあ、めんどくさいだけですけど。

検証不能ってことは正しい(確からしい)ともそうでないとも言えない、
ってことなので、
検証不能な理論を正しくない科学理論と言ってしまうと、
棄却された科学理論(天動説とか)との区別を説明するのがとても大変になってきます。
しかも区別を説明した後に、
なぜ確からしいともそうでないとも言えないことがいけないのかも説明しなければいけません。

最初から、「正しい正しくない以前に、それは科学ではない」と言えたほうがラクだし、
相手やギャラリーにとっても混乱が少ないということで、
ミケは『検証不能なものは科学の範囲外』という言い方の方を支持しますです。

まあ相手の理解度によって言い方を変えるのもアリだとは思いますが、
過去ログを通しで見返したときになんとなく見栄えが良くないというか(自意識過剰?)。

163ミケ:2007/01/15(月) 16:29:22 ID:???
すみません、横です。

>もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。

これはちょっと熱くなってはいませんか。
macska さんの、「世俗化した宗教は〜」
という主張に対して、
fukken さんは
「その根拠はキリスト教以外にあるの?」
「キリスト教(数ある宗教のうちの一つ)しか根拠として挙げられないなら、
 一まとめに宗教はと言ってしまうのは問題があるんじゃないの?」
って疑問を提示したわけで。

これに対しては
「これこれこういう理由でキリスト教だけで十分である」とか、
「他も見たが(具体例)同じような感じだった」とか言う感じで、
宗教は〜と一まとめにする正当性を主張すべきところではないでしょうか。

具体例を挙げずに「どれも似たり寄ったりではないですか」という答え方は、
一まとめにする正当性の根拠としては、曖昧で弱い。
このような弱い根拠をもとに、宗教は〜と一まとめにした(ように見える)のが
宗教に関して無知という印象を与えたのだと思います。
(無知でないなら具体例や強い根拠を挙げて答えられるはず、という期待のもとに)

というわけで、無知の汚名をはねつけ、相手に謝罪を求めたいならば、
「これこれこういう理由でキリスト教だけで十分である」とか、
「他も見たが(具体例)同じような感じだった」とか言う感じで、
宗教は〜と一まとめにする正当性を改めて主張すべきかと思います。

164いらはい:2007/01/15(月) 18:09:06 ID:DHj5XiXA
>>150
>少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。

その人の中で使い分けるだけでは「知っている」と思い込んだ「信じている」ことを「知っている」かのように言ってしまうことになりませんか。
宗教者は自分が確からしさを感じているものごとについて、飛躍がないのかあるのかの検討作業を求められるのでしょうか?


科学が教義を否定するというのは別に全面的に無価値なこととして取り扱うというわけでなく、
合理性を認めないというくらいの意味ですか。
では「宗教と科学の住み分け」ではなく「信仰と科学の住み分け」なら可能だということでしょうか。

165fukken:2007/01/15(月) 19:51:35 ID:M5vfENrY
>>161
>もしわたしが宗教について無知だというなら、「世俗化した宗教は、世間の常識や科学的知識に応じて柔軟に教典を読み替えることがよくある」ということのどこが間違いなのか、具体的に指摘してください。

良く思い出してみてください。
貴方が「キリスト教信者とは、これこれこうなんです」と言うので、「その他の宗教にもそれが当て嵌まるのか。」と私が質問したのですよ。
「イスラムもヒンズーも仏教もすべて同じです。世界の宗教者のほとんどが教典を読み替えています。だからこそ、『宗教なんてご都合主義だ』なんてことを平気で断言できたんですよ。」ってあなたの方が答えないといけなかったのですよ。
ところが、

>どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?

と、このように貴方は返したのですよ。(それまで歯切れの良かった人の回答とは思えませんねえ。)
つまり、貴方がすべての宗教、宗教者を良く知った上で意見を述べているわけではないことを自身で名言したわけです。
宗教のことを良く知りもしないのに、断定的な口調で「宗教(者)とは」とやって、それを批判したり(皮肉を言ったり、でも良いです)しているわけですから、「それは問題のある行動だ」と私は言ったまでです。それだけのことです。(ミケさん、解説ありがとうございました)

>また、「宗教では『信じている』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」というのが間違いなら、どう間違いなのか指摘してください。

宗教、信、知とそれぞれの単語自体の解釈が人それぞれ違うでしょうし、だいたい”されがち”なんて曖昧そのものな言葉をわざわざ加えて何言ってるんですか。こんなことに白黒つけようとすることが所詮間違いであって、そんなことに拘る必要はないんじゃないんですか。って言うのが私の意見ですってば。
でも、命題が「macska氏は『思い込んでいる』と『知っている』の境界が曖昧にされがちである」であれば割りと簡単に証明出来そうですけどね。

>>最初の「宗教にだって全く何も分かっていません」で既に思い切り踏み込んじゃっているではありませんか。
>それが事実として間違いであると論じているのか、それとも事実だけれどそういうことは口にすべきではないと論じているのか、どちらかはっきりしてください。
>わたしはそれが事実であると思っている(事実でない可能性は、スパゲッティモンスターが存在する可能性程度ならあるけれど、ほぼ考慮する価値なし)し、「だれかの宗教的信念に反するから」という理由で事実を口にしてはいけない、とは思いません。

「宗教には全く何もわかっていない」か否かの真偽ですって?
それをはっきりしろなんてナンセンスな質問を本気でしているのですか。
そもそも、私は最初から明確に「私にはわかりません」と”当たり前に”答えているじゃないですか。
一方貴方はと言うと、「わたしはそれが事実であると思っている」
やっぱり”思っている”だけなんでしょ。”知っている”わけではなく。
一方宗教者は”信じている”わけなんですね。
私の指摘が「貴方は宗教の”信”の領域に踏み込んでいますよ」だってことをお忘れなく。

>馬鹿げた信仰を持つのも自由なら、その馬鹿らしさを指摘するのも自由でしょ。イデオロギーを通さずに聖書を読めば、それが間違いだらけであるというのは明らかです。数えきれないくらい矛盾があるんだもの。人々の信仰は尊重するけれど、だからといって明らかに間違っているものを「間違いがない」と認めなくちゃいけないなんてことはないはずです。

本音ですね。
結局、貴方は宗教に文句付けたいだけなのでしょ。
貴方がそうしたいのならそうすれば良いですが、でもそれはきっと徒労に終わると思いますよ。
相手にとっても時間の無駄なだけで、はた迷惑な話です。

と言うことで面倒でしたが貴方にお付き合いして一応すべての質問に応えましたよ。
しかし貴方は私の質問や指摘をはぐらかしてばかりですねえ。
貴方はうまく誤魔化していたつもりなのかも知れませんが、私は内心でがっかりしていたのですよ。
私は直接話すまでは貴方は久々にここに来たまともな論者と思っていましたが、どうやら買い被りだったようです。

166fukken:2007/01/15(月) 19:59:30 ID:M5vfENrY
以下、macskaさんの宿題。

>>165の冒頭に引用したの私の質問「その他の宗教にもそれが当て嵌まりますか」と合わせて

>このように一絡げにして「宗教者は、〜だ」と断定的にモノを言うことに躊躇はないのですか。>>148

と尋ねていたのですが、これに返答はありませんでした。
更に、わたしと貴方の議論の切っ掛けとなった貴方の言葉、

「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」>>75

について、

>こんな言い方をしては、宗教者を愚弄していると言われても仕方ないと思いますね。
>自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な行為でなく宗教が認める行為であるとどうして断定できるのでしょうか。
>これは明らかに宗教そのものを批判していますし、宗教者を蔑視した発言と受け取れなくもありません。何しろ「宗教はいい加減だから、宗教者はラッキー」と言ってしまったわけですから。>>148

と、弁明を求めましたがこれにも一切返答なしです。

>>161での回答も同じく。貴方のやったダブルスタンダードに対する指摘についての釈明も一切なしでした。
他にも全部引用したっていいですが、貴方は議論の初期の段階から答えにくい質問には一切応えていませんね。

167NAN:2007/01/15(月) 21:47:57 ID:payA0pqw
だ〜ら〜…

「水がワインに変わった」ということばを読むとき、
聖書のことばは一字一句文字通りに正しい、と解釈するひとのことを
私たちは逐語主義だとか原理主義といって批判するのだけれど、
「水がワインに変わるという現象をカガクで検証しよう」
なんていう問いかけだって、逐語主義以外のなにものでもないでしょ。

とイウワケ。

168HAKASE:2007/01/15(月) 22:26:56 ID:ZC/gbS1c
はじめまして.macskaさんのところから来ました.
宗教の深い話には私は突っ込めませんが,カオス理論の話がちょこっと出ていたので参考になればと思って書き込みしました.
私の知り合いにカオスに関連した研究をやっている人がいます.
カオス理論の実証的な研究では,世の中で起きた(偶然と思われるような,あるいは確率的に生じていると思われる,あるいはデタラメに起きていると思われる)事象が,本当に偶然かどうかをデータ解析などの手法を使いながら検証することもするそうです.
偶然起きたと思われる事象でも時系列的な発生過程にカオス性が認められる場合には,予測できる可能性があるそうで(私は詳細には詳しくないですが)太陽黒点の数の推移とかニューヨーク市のはしかの患者数の推移とかの予測(本質的には確率に頼らない予測)を試みる研究があるそうです.
現時点で確率的に起こると思われている様々な現象に対して,本当に確率的と言っていいのかを検証するという作業は(少なくともカオスを研究している人たちは)科学的な手法で扱う対象内とみなしていると思います.
もちろん,データ解析などの科学的な手続きによる検証の結果,ほぼ確率的だといって間違いないだろうと判断された事象に対して,次に具体的に何が起こるかを予測するという作業は,現状の科学では確率的に示す以外ないだろうと思います(トートロジーだけど).
カオス理論そのものは数学に近いかもしれませんけど,一応,ニューラルネット等とを組み合わせて工学的な応用とかも考えられています.
言葉の問題なのかもしれませんし現状では研究レベルの話かもしれませんが,*上記の意味では*偶然に起こると思われる物事も科学的手法で扱う対象のひとつだと思います.
以上,議論の参考になればと思って書き込みしました.

169えめ:2007/01/15(月) 22:38:57 ID:4.Y76JrM
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
>これでも冒涜だと思いますか?

 まあ冒涜でしょうね。このまま読めば。
とりあえず経典は学説に関する論文のように解釈されなければ”ならない”と主張している点で本人アウトだと思うんだけどねー
何故”ならなけれ『ばならない』”のかは、科学ではなく、宗教との共通ルールを築いた上で納得させなければね。

例えばイエスにしても、ユダヤ教にある神の姿を新しい物に変えて見せたが、本人は神の本来の姿を見出したと主張しているに過ぎない。
いわば宗教的に”検証された”結果、以前のユダや教としての教義(仮説)が変更(ユダヤ教にとっては否定)されたとも取れるでしょう。
奇跡でそれを証明して見せた。これは宗教的にはまるで誤りではないでしょうよ。※

だいたい「大多数の科学者も、自分達のルールに合わせて都合よく自然を読み替えるくらい平気でやってのけます。」だって事実ですよね。
その自然を読み替えるというプロセスにどれだけの英知と創造、真摯な思いが関与しているか。
宗教だって同じですよ。その上での発言でしょうか?

そしてその前提で
「科学程いい加減なものがあろうか。昨日迄確か有ると言っていたいたものが今日にないと言う。そんなもの何の当てになろうか」
と主張する人間に対して科学は現在どんな答えを与えることが出来ますか。それは宗教といかほどの差がありますか?
科学は時に無力ですよ。科学とは個々や、全体ではないグループの運命に対しては確約を与えない知見ですから。

創造論者が特定の経典を科学敵事実として納得させようとしてやってる無茶と同様に、あらゆる事象に於ける評価については科学のルールが宗教に優先されるべきだと思うのはおこがましいと言えるんじゃないのかな。そのおこがましさこそが科学主義と捉えられる原因じゃないの。
 
 
※ところで福音書の記述内容について確認された客観的な事実であるとし、その科学的な側面についてのみ言及するアホらしさについては同意いただけてますよね?。

余話
特定の大型哺乳類が際限も無く増殖して環境に対する蚕食の度合いが危険なほどに大きくなったら科学はどんな答えを出すだろう。

170e10go:2007/01/15(月) 23:57:29 ID:5/V6R9W6
ROMに徹していたけど、突っ込み所が多くてとうとう参加しちゃった^^。

>>150
>まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見ると「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知っている」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るかどうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。


その人が「知っている」と言った事を、どうしてその人が「信じている」と分かるの?。
「知っている」のではなく「信じている」とどうやって証明できるの?。
人の心の中がそんなに簡単に分かるものなの?。

「私はこうである事を”知っている”」と言うのを、「いや、それは貴方が”信じている”のを”知っている”と言っているのだ」と言い切るなら、それは単なる思い上がりでしょう。

まあ、この部分だけを突っ込むと科学でも宗教でもなく、哲学の領域になっちゃうけどね^^。

171macska:2007/01/16(火) 01:17:04 ID:VdHL1C4M
>>165
> つまり、貴方がすべての宗教、宗教者を良く知った上で意見を述べている
> わけではないことを自身で名言したわけです。

「知らないけれど、ほかの宗教もみんなそうなんじゃないの」という意味に受け取られたのかもしれませんが、そういうつもりじゃありませんでした。宗教が世俗化する過程において社会の安定を脅かすような教義や世間の常識に反する教義を再解釈したり封印したりして抑えるというのはごく一般的に見られることで、そんなの常識でしょ、くらいの軽いつもりで言ったのですが… それが宗教に対する中傷であるととらえる方がおかしいです。

>>164
> その人の中で使い分けるだけでは「知っている」と思い込んだ「信じている」
> ことを「知っている」かのように言ってしまうことになりませんか。

そういう問題はあるでしょうが、現状はそれ以前の段階でして。

> 宗教者は自分が確からしさを感じているものごとについて、飛躍がないのか
> あるのかの検討作業を求められるのでしょうか?

宗教者に限らず、わたしたちみなそうあるべきだと思います。

> 科学が教義を否定するというのは別に全面的に無価値なこととして取り扱う
> というわけでなく、合理性を認めないというくらいの意味ですか。

科学によって否定される(可能性がある)のは、現実世界に対する何らかの言明です。その言明が、たまたま教義の一部だったからといって、科学的検証から保護される理由はありません。

また、宗教や教義の価値というのは(芸術の価値と同じく)科学の領域ではないので、科学がある特定の宗教を「価値があるもの」として扱ったり扱わなかったりということはないでしょう。

> では「宗教と科学の住み分け」ではなく「信仰と科学の住み分け」なら可能
> だということでしょうか。

ええと、わたしが「宗教と科学の住み分けはできない」というのは、「住み分け」論を主張する人が想定しているような、お互いに何ら干渉し合わないで距離を置くという意味での「住み分け」ができない、ということです。なぜなら、宗教が扱う領域と科学が扱う領域は一部重なっているからです。衝突することもあるけれど完全にお互いを否定しきれないという意味であれば、住み分けは可能でしょう。それを普通は住み分けとは言わないと思いますが。

> 一方貴方はと言うと、「わたしはそれが事実であると思っている」
> やっぱり”思っている”だけなんでしょ。”知っている”わけではなく。
> 一方宗教者は”信じている”わけなんですね。

これは、ID論者が使うような「不当な対等論」ですね。

「死後の世界がある」という意見と、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」という意見は対等ではありません。前者は、人間の知覚の及ばない(とされている)領域についての言明ですから、普通それは「あなたがそう信じているだけでしょう」、とみなされます。そうでないと言うなら、それなりの根拠を求められるわけです。

一方、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」というのは、人間の知覚が及ばない領域について知覚している人間はいない、という意味ですから、当たり前のこと。これを主張するのに、ことさら何も証拠はいりません。

突飛なことを言うならそれなりの証拠が必要であり、それが示せないならば「知っている」とは言えない。しかし当たり前のことを言うのに、特に証拠は必要ではありません。

> 結局、貴方は宗教に文句付けたいだけなのでしょ。
> 貴方がそうしたいのならそうすれば良いですが、でもそれはきっと徒労に
> 終わると思いますよ。

いい加減にしてください。わたしは宗教に文句を一切付けていないです。
わたしが文句を言っている相手は科学の側(の一部に見られる科学的思考の不徹底)であることがどうして分からないのかな。

172macska:2007/01/16(火) 01:17:53 ID:VdHL1C4M
>>169
> とりあえず経典は学説に関する論文のように解釈されなければ”ならない”
> と主張している点で本人アウトだと思うんだけどねー

それはわたしの主張と正反対ですね。

わたしは、宗教では教典を時代に合わせて読み替えたり再解釈したりするのがスタンダードで、宗教の立場からはともかく(それを判断する立場にわたしはいない)一般社会の側から見てそれは悪いことでは全然ないと言っている。「読み替えたり再解釈するのはよくないことだ」と思い込んでいる人たちが、勝手に冒涜だとか侮辱だとか騒いでますが。

> あらゆる事象に於ける評価については科学のルールが宗教に優先されるべき
> だと思うのはおこがましいと言えるんじゃないのかな。

科学の中では科学のルールが貫徹されるべきでしょ。
そのうえで、科学のルールだけが絶対ではないという論理でなくちゃ。

本来なら科学の対象となり得るはずのものまで、それが宗教の対象となっているというだけの理由で「それは科学の範囲外です」と言ってしまうのはおかしいのではないのか、というのがそもそもの出発点です。宗教の対象となっていようといまいと、現実世界における現象は科学的探求の対象となり得るわけで。

> ※ところで福音書の記述内容について確認された客観的な事実であるとし、
> その科学的な側面についてのみ言及するアホらしさについては同意いただ
> けてますよね?。

もちろん。

173fukken:2007/01/16(火) 03:20:37 ID:M5vfENrY
>>171
>それが宗教に対する中傷であるととらえる方がおかしいです。

はいはい。負けず嫌いも結構だが、精々ブログのファンを無くさない程度にね。


>いい加減にしてください。わたしは宗教に文句を一切付けていないです。わたしが文句を言っている相手は科学の側(の一部に見られる科学的思考の不徹底)であることがどうして分からないのかな。

今更何言ってんだか。
どっちにせよ、まずは自分の思考の不徹底を何とかしてからだね。

174fukken:2007/01/16(火) 04:49:32 ID:M5vfENrY
>>171
読み飛ばした。私宛てもう一つあったんだ。
もうレスする気もない(というより出来ないの)だろうけど、アンカー間違えないように頼みます。
でも「あれだけ書いてあげたのにこれだけかよ」と思ってたから、何だか得した気分。

>これは、ID論者が使うような「不当な対等論」ですね。

ID論者が足元にも及ばないご都合主義で詭弁者のあなたにゃ言われたくないっつーの。

>「死後の世界がある」という意見と、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」という意見は対等ではありません。前者は、人間の知覚の及ばない(とされている)領域についての言明ですから、普通それは「あなたがそう信じているだけでしょう」、とみなされます。そうでないと言うなら、それなりの根拠を求められるわけです。
>一方、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」というのは、人間の知覚が及ばない領域について知覚している人間はいない、という意味ですから、当たり前のこと。これを主張するのに、ことさら何も証拠はいりません。

貴方ねえ、「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」と言うのは事実なのかそうでないのか、はっきりしろい!って私に言ってきたんですよ。忘れちゃうの?
でさ、自分のしたそのナンセンスな質問に「自分は事実だと思ってる」なんて答えてるから、「そう、そう思ってるだけなんだ。やっぱり事実ではないわけね。じゃあ死後の世界を信じている宗教者に”宗教には全く何もわかっていない”って言い切るんのはまずいよね。」って話でしょうが。

「不当な対討論」に仕立て上げられなくて残念でした。

>突飛なことを言うならそれなりの証拠が必要であり、それが示せないならば「知っている」とは言えない。しかし当たり前のことを言うのに、特に証拠は必要ではありません。

自分の言ってることはすべて当たり前って理屈ね。とうとうそこまでいっちゃったか。
もう地下猫さんが証明するまでもねーよなあ。
ごめんね。楽しみ奪うことになっちゃって。

175tema:2007/01/16(火) 07:48:23 ID:???
 fukkenさんへ
 本スレッドのfukkenさんの主張には同意する部分も多いのですが、特に>>173-174の記述は単なる人格攻撃に見えます。

 ここをROMしている方々が誤った判断をしないように、攻撃する際には芸を織り込むなど、余裕を見せた方が良いと思います。

176fukken:2007/01/16(火) 08:43:37 ID:M5vfENrY
>>175
了解しました。
相手の不誠実な態度に呆れ、またまたいつものように稚拙な行為に及びました。
態度と言葉使いは反省し、以後改めることにします。と言っても、もう彼の方は私に言うことなどないと思いますが。

ついでに訂正と補足を。

>私の指摘が「貴方は宗教の”信”の領域に踏み込んでいますよ」だってことをお忘れなく。>>165

私はこんな風に言ってましたね。確かに>>174とはちょっとニュアンスが違っています。>>171のレスを頭ごなしに否定するのは私の間違いだったかも知れません。再度>>171に対してコメントします。

>>171
>「死後の世界がある」という意見と、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」という意見は対等ではありません。前者は、人間の知覚の及ばない(とされている)領域についての言明ですから、普通それは「あなたがそう信じているだけでしょう」、とみなされます。そうでないと言うなら、それなりの根拠を求められるわけです。
>一方、「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」というのは、人間の知覚が及ばない領域について知覚している人間はいない、という意味ですから、当たり前のこと。これを主張するのに、ことさら何も証拠はいりません。

話の流れは>>174で示した通りですし、「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」を「死後の世界があるかどうかは誰にも分からない」に摩り替えてる時点でもう既にmacskaさんの主張は崩れてるけど、「macskaさんが”信”の領域に踏み込んでいる」と言ったことについて説明する義務は私にあるでしょうね。これはそれに対する反論のつもりだったのでしょうし。

まず、「どんなに不合理な信仰でも”信じる”と言う分にはそれを認める」と言うのがmacskaさんのこれまでの主張。

それからすると、「宗教者が死後の世界があると信じている」と言う事実をもとに、死後の世界が宗教の”信”の対象であると認めなければならない。
一方macskaさん自身は「死後の世界があるかどうかは人間の知覚が及ぶ範囲にない」と、それが科学の”知”の事象に含まれないことも言明。
これらは、今回macskaさんが反論してきた上記(171)の言説内容にも一致。

にも関わらず、macskaさんは「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」と言い切ってしまっている。
「信と知を区別しろ」「知らないことを知っていると言うな」などと他人には言いながら、”信”の領域に踏み入って、知りもしないことを断定(否定)しているわけです。

こんなこと説明するまでもないし、反論しようとして自分でも肯定しちゃっているじゃあないですか。

177地下に眠るM:2007/01/16(火) 13:00:28 ID:Y7kDipRw
では、まず宿題をすこしずつかたづけるにゃ
・macskaは宗教に対する悪意をもって発言していること

ここから検証するにゃ。

第一掲示板での過去ログから
****************************
創造する神と流出する神 投稿者:地下に眠るM 投稿日: 2003年10月08日20時47分


日本神話なりギリシア神話なり、いわゆる多神教といわれている神話体系においても、実は原初からあった神はただ1柱なのだにゃ。ヤマト神話では アメノミナカヌシノカミ、ギリシア神話ではウラヌスにゃんな。この原初の神が、他の神を産み落としたり、体の部分から他の神が派生してだんだん神様が増えていくわけだにゃ。ニンゲンの世界が広がり、認識が精緻になるにつれて、神様が増えていくと言い換えてもよいと思いますにゃ。
こうして、神は自らの分身をつくりながら、つまり流出しながら世界を満たし、ヒエラルキーをつくるわけですにゃー。この流出する神においては、いわば「神=世界」なのですにゃ。

ところがね、聖書の神ちゅうのは創造する神なのですにゃー。世界のすべてを創り上げた神なのであり、ここでは世界と神はことなるもの、世界とは神にとってはobjectなのですにゃ。ニンゲンとて、神の似姿にはちがいにゃーけど、やはりobjectなのね。流出する神においては、ニンゲンは神の末裔として世界と一体であることが多いにゃんけどね。

この「創造する神」ちゅうのは世界の神話を見渡しても特異な存在だっちゅうのはマチガイにゃーみたい。
大洪水とか処女受胎とかいうモチーフは他の神話からのパクリとかいわれているけどにゃ。
(ユング好きの僕としては、パクリちゅうより共通のアーキタイプの発露と考えるにゃんが)
*****************************

ユダヤ・キリスト・イスラムの「創造する神」というのは、非常に特異な神であるということは宗教学の初歩ですにゃ。しかし、過去ログを見ても、macskaはこのユダヤ・キリスト教の神のことしか念頭ににゃーにもかかわらず、「宗教」全体に対して侮蔑的な発言を繰り返しているわけにゃんね。
知ってもいにゃーくせに侮蔑的な発言をする、というのは、普通は悪意があると判断されるにゃ。

では、macskaにはユダヤ・キリスト教についての正確な知識はあるのか?
>>125 より
>これは宗教的倫理を見れば明らかです。(旧約)聖書によれば、安息日に仕事をした人は死刑にしなければならない。しかし、「安息日に仕事をした人を死刑にするのは正しいですか」と聞けば、ほとんどのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者は「その規則は現代にはふさわしくない」と答えます。キリスト教についてはイエスの登場により「この規則は現代にはふさわしくない」という合理的な理由がありますが、その他にとっていつこの規則が失効したのでしょうか? 世間が「それはいくらなんでも乱暴すぎる」と思うようになったから、それに合わせて解釈を訂正したのではないですか?

ここ見たとき、僕は噴き出しちゃったにゃ。
安息日を守るべし、というのは確かに神が直接モーセに与えた戒律にゃんね。しかし、戒律を破った者を具体的にどう罰するかは最初からニンゲンの側が決めることなんだにゃ。神が与えた戒律と、ニンゲンがニンゲンに与える罰くらい区別してからモノをいってほしいものですにゃ。基本的なところのはずにゃんけどなあ。こんなことも知らにゃーでとくとくと例示できちゃえる毛の生えた心臓に乾杯!
繰り返すけど、無知に基づく非難ってのは悪意にゃんよ。

読み替えをするという指摘は非難ではないという言い訳をしているようだけど、
>>75
>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。

などと放言しちゃっている同じ口でよくそういう程度の低い言い訳ができると感心しておりますにゃ。

macska流詭弁術その1
・無知に基づく非難をしておきながら、悪意を指摘されると程度の低い言い訳をする

もちろん、聖書にはヒデエ話がてんこ盛りにでてくるのは確かだにゃ。macskaの指摘はここでは正しい。ヨブ記なんか本当にヒデエ。
しかし、そのあたりには「解釈」ちゅう問題、そして聖書が民族の歴史書であるという側面を考えなければならにゃー。
つづく

178地下に眠るM:2007/01/16(火) 13:02:14 ID:Y7kDipRw
つづきね

macskaに対してはNANのいった通り「逐語主義」といってしまえば一刀両断で即死ということになるんだにゃ。
(逐語主義って僕もいおうと思っていたのに、先をこされちゃった。にゃっはっは)
自分が死んでいることが本人にもまったくわかってにゃーようだし、以下に説明するにゃ。

カガクという思考法は、ジンルイがここ数百年のうちにとるようになった人類史的に特異な思考法ですにゃ。
いろいろな特徴はあるけれど、ここでは
・逐語的
・定量的
あたりをあげておきましょうかにゃ。逐語性と定量性は相補的なものですにゃ。

カガク論文ちゅうのは、多義的な解釈がされてはまずいわけですにゃ。そこで逐語的な表現を行なう必要があるわけね。数式による表現というのは、ジンルイが手に入れた最も逐語的(かつ定量的)な表現だといえるわけで、カガクで数式を多用するのはそのあたりでしょうにゃ。
生データというのはいろいろと解釈の余地のあるものだから、そのいろいろな解釈の余地というものを削っていくのがカガク的な方法といえるわけにゃんね。

ところが、神話や宗教文献における記述は、そもそも逐語的なものではぜんぜんにゃーんだ。
例えば>>143での みずすまし の記述にゃんが
>極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立てば,「宗教的事実としては,光速は10mm/sである」が,「科学的事実としては,光速は約30万km/s」ということも言えるかも知れませんが,そこまで極端な反実在論あるいは認識論的相対主義に立つことには強い躊躇を覚えます。

「光速は10mm/sである」というような定量的かつ逐語的な記述は、神話ではやらにゃーんだ。それはむしろ疑似科学の典型的記述にゃんね。
速さをあらわしたかったら、速いとされる鳥とか虫とか動物との比較とか、地理的な表象をつかった記述になるわけだにゃ。で、その虫とか鳥とか地理的な表象が、他の表象との関連で隠喩的・象徴的な意味をもちながら連関していくわけだにゃ。そもそも語が一義的に確定しているような記述ではにゃーんだ。
神話というのは、象徴や隠喩を用いながら、極めて精緻な思考をしているというのは、そちら方面の人文科学における共通見解といっていいにゃ。

それを何?
>聖書の記述は誰がどう見ても間違っている
ですと?

神話的・宗教的文献を読む素養がゼロ(かつ、学ぶ気もない)おつむオッテンテンでなければ、この台詞はいえにゃー。
聖書(特に旧約聖書は神話の部分がおおい)にしろ、日本神話にしろ、アメリカ先住民の神話にしろ、このあたりの記述のどこが「間違っている」のだろう?
神話は、名前こそ残ってにゃーが、その当時の最高の賢者たちが何代もかかって産みだしてきた知の体系だにゃ。宗教の教義にしても、最高のエリートが作ってきたといっていい。それを、読み方もしらにゃー馬鹿が「誰がどう見ても間違っている」だってさ。
ホントにね、数式の読み方を知らずに現代物理学が間違っているとか抜かすのと同じくらいのレベルにゃんがねえ。

※聖書の記述にある暴虐としかいいようのにゃーことについて、解釈だけで正当化しきれるとは僕も考えてにゃーです。これは、歴史書としての聖書を考慮すべきだけど、ここではお題のソトだと思う。


さて、我らがmacskaクンに、宗教的な言説に対する理解能力がまったくなく、知識もまるでいいかげんであるということについて、異論があるお方、いる?
僕としては、宿題をひとつ片づけたつもりだけどにゃ。残りの宿題も片づけたら、また反論にはいるにゃ。

179macska:2007/01/16(火) 14:46:51 ID:VdHL1C4M
>>174
> 貴方ねえ、「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」
> と言うのは事実なのかそうでないのか、はっきりしろい!って私に言ってきたん
> ですよ。忘れちゃうの?

「事実なのかそうでないのか」はっきりしろ、というのではなく、あなたの批判が「事実に反する」というものなのか、それとも「事実であっても言うべきではない」という主張なのか、どちらかはっきりして欲しい、と言ったのです。

> にも関わらず、macskaさんは「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何も
> わかっていない」と言い切ってしまっている。

だって、そうでしょう?
宗教ではさまざまな信仰はあるでしょうが、たしかな知識を持っているわけではない。
空からのおろしたフックはあっても、下から築き上げるためのクレーンはないでしょ。

> まず、「どんなに不合理な信仰でも”信じる”と言う分にはそれを認める」と
> 言うのがmacskaさんのこれまでの主張。
>
> それからすると、「宗教者が死後の世界があると信じている」と言う事実をも
> とに、死後の世界が宗教の”信”の対象であると認めなければならない。

そうですよ。信仰は尊重します。
しかし、信じればそれが事実となるわけではないでしょ。

>>177
> ユダヤ・キリスト・イスラムの「創造する神」というのは、非常に特異な神で
> あるということは宗教学の初歩ですにゃ。しかし、過去ログを見ても、macska
> はこのユダヤ・キリスト教の神のことしか念頭ににゃーにもかかわらず、「宗
> 教」全体に対して侮蔑的な発言を繰り返しているわけにゃんね。

それしか念頭にないわけじゃないですが、創造科学を主張している勢力が信仰しているタイプの神がそれなので、それを中心に議論してきました。

> 安息日を守るべし、というのは確かに神が直接モーセに与えた戒律にゃんね。
> しかし、戒律を破った者を具体的にどう罰するかは最初からニンゲンの側が決
> めることなんだにゃ。

他人を無知呼ばわりする前に、ちょっとは自分で調べましょう。出エジプト記 31:12-14 によれば、安息日を破った罰は死刑だと神様が直接モーセに伝えています。

無知にもとづいてわたしを非難したあなたには、悪意があるんですね。

# まぁわたしは、無知で説明が付く話に悪意を見いだそうとは思いませんが。

> 神話は、名前こそ残ってにゃーが、その当時の最高の賢者たちが何代もかかって
> 産みだしてきた知の体系だにゃ。宗教の教義にしても、最高のエリートが作って
> きたといっていい。それを、読み方もしらにゃー馬鹿が「誰がどう見ても間
> 違っている」だってさ。

過去のものすごい賢者や哲学者の思考を、いまのわたしたちは文庫本あたりで簡単に読むことができるわけですから、昔の最高の賢者たちが一生をかけて築き上げた知の体系を越える知を現代の一般人が持っていても別に不思議じゃありません。例えば、聖書がネットで検索できるようになったこと自体、過去の信仰者や研究者に対して現代の人の圧倒的な有利さがあります。

もし聖書が単なる「神話」として読まれているのであれば、その事実性を問題とするのは馬鹿げています。しかし現実に、例えば全世界は6000年ほど前に一週間足らずで創造されたと信じている人が大勢いるわけですから、書かれた内容がありのままの事実ではない(神話である)と指摘することは無意味ではありません。

ありのままの事実を書いた書物としては間違いがあるということは、これは同じイベントを書いた複数の書物で、その場にいた人数などの描写が矛盾していることがあるので、誰の目にも明らかです。そういったレベルで「間違いがある」と言っているのであって、本来そういう読み方をすべきではないという点はまったくその通りだと思います。しかし往々にして「これは神話だから、神話として読まなくちゃいけないんだ」と聖書を擁護する人自身が、実際には「聖書は歴史書として完全に正確」と信仰していたりするので、そういうのはヘンだなぁと思いますね。

180AH1:2007/01/16(火) 17:13:39 ID:HRDpjkio
ちょっと流れを無視してるかもしれんけど、macskaさんに質問です。

あなたの発言からすると、
「宗教は現実世界の知りもしない、わかってもいない事について発言すべきではない」
また
「科学の進歩と合致するように都合の良い所は解釈を変更するのがずるい」
のですね?

macskaさんの考える理想的な状態とは、
「宗教の教義や聖典が、「現在の科学が認める現実世界」に反する部分を捨て、もしくは寓意にすぎないと解釈しなおし、二度と現実について語らない」
ことですか?

181diamonds8888x:2007/01/16(火) 19:48:10 ID:h2fLyT9w
>宗教が科学の範疇であろうとなかろうとそんなことには関わらず宗教に対する発言にはもう少し気を配りましょう。もう少し宗教者の気持ちに対する配慮をいたしましょう。

 まあこれは同意。結局fukkenさんの言いたいのは「言い方がきついんじゃない?」ということですよね? そうかも知れませんが、元々は科学を使う側への批判なんだし、あまり追求しても仕方ないのでは?

 言い方はともかく事実認識としてはと言えば、
「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっている」
 の方は勇み足かも知れませんね。例えば啓示による知識は信なのか知なのかというと宗教と科学では見解がわかれるでしょうから。啓示を受けた人間にとってはそれは観測事実そのものでしょうなあ。他の人間に取っては伝聞ですけど。で、その伝聞はとても信頼できる人からの伝聞だからという理由で宗教的な知だと主張されたら・・・。ハイハイと言うしかないかも。

 「多くの宗教者たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更する」という方は歴史的事実としておおむねは正しいのではありませんか? イスラムにしてもいくつかの分派が生じてますよね。これはその中の少なくとも一派以外もしくは全てが元々のマホメットの教えから教典解釈を変更していることを意味しませんか? むろん多くの宗教者が実のところは教典に忠実足らんと努力しているだろうことは想像できますが、にもかかわらず歴史的事実としてはいくつもの教典解釈が生じているわけです。で、それは別に非難すべきことでもないわけで。

 実のところ、この手の断りは宗教サイトの場合だと結構きびしかったりしてね。科学なぞよりも他の宗教との妥協の方が教義的に厳しいなんてことはないのでしょうかね。例えばプロテスタント系のサイトでQA。
Q)両親は仏教徒なんですが天国には行けないでしょうか?
A)天国には行けないでしょうが、極楽には行けます。

 なんて具合に宗教同士が寛容になれるなら世界平和に大いに貢献しそうなんだけど。

 戦国時代の日本人のキリシタンにはデウスに出会えなかった御先祖様が天国に行けないのではないかと非常に心配した方々もいたとか。ちょっと出典は記憶の彼方ですが。

182diamonds8888x:2007/01/16(火) 20:03:03 ID:h2fLyT9w
>>162
>最初から、「正しい正しくない以前に、それは科学ではない」と言えたほうがラクだし、

 それはそうです。反証可能性のふるいですぐに判定できるものもありますしね。もともとはむしろ観測問題についての理論についてなので具体的に論ずべきことだったのですが、本筋には関係なそさうですし、そのうち別スレッドで書きますから興味があればまったりとおつきあい下さい。

183diamonds8888x:2007/01/16(火) 20:38:55 ID:h2fLyT9w
>>159
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。

 どこでそう言っていたのか引用して見せて下さい。私には該当個所がわかりません。

>>160
 同意。検証の対象となるかどうかを判定すべきは、正確には「事象」そのものというよりは「事象が存在するという主張(命題)」なんですよね。「事象を検知した(観測した)という主張」もそうですね。

>>178
 えーと、例えばこの大地は日本神話にとっての検証(というか解釈というか)の対象であり、創世記にとっても解釈の対象であり、同時にまた科学の検討対象でもある。で間違っていないのでは?

 んで、それぞれの知の体系におけるそれぞれの理論や解釈は互いに尊重しましょうよ、ということでは紳士協定があるということだと思うのですが。macskaさんの発言がその紳士協定に触れたように見える、ということで紛糾してるんでしょうけど。元々macskaさんが問題としているのは科学の側なんですから、日本神話や創世記の知の体系に関して無知であっても論ずることに差し支えはないように思えます。

171より引用
>わたしが文句を言っている相手は科学の側(の一部に見られる科学的思考の不徹底)であることがどうして分からないのかな。

184地下に眠るM:2007/01/16(火) 22:03:00 ID:cizMQ0FI
>他人を無知呼ばわりする前に、ちょっとは自分で調べましょう。出エジプト記 31:12-14 によれば、安息日を破った罰は死刑だと神様が直接モーセに伝えています。

とりあえずここだけレスしておくにゃ。

出エジプト記20:10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
出エジプト記31:14安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。
出エジプト記31:15六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。

20:10が十戒のいわば「本文」だにゃ。ここから、安息日規定は実は弱者保護を意図したものだと解せられるにゃ。
31:14では、安息日を穢すものは死刑、仕事をしたものは追放とあるにゃ。
31:15では、安息日に仕事をしたものは死刑とあるにゃ。

最初からニンゲンの側の解釈の余地がある記述だということは明らかにゃんけどな。
(引用するなら前後もちゃんと引用してほしいもんだにゃ)

安息日の意義を穢すものは死刑であるということはまず共有される解釈だろ。
しかし、例えば病人を看護するといったようなことは安息日にも必要なことであることは論をまたにゃー。事実、ラビたちの会議で、人命保護のためなら安息日の労働は許されるという見解が世俗化以前にでているにゃ。
まあ、弱者保護という法の意義を勘案すれば当然の結論にゃんがね。これは世俗化において「テキトーに」読み替えた結果ではなく、本来の趣旨から導かれる結論であり、もともとニンゲンの側の解釈に委ねる部分のある規定であることは明らかにゃんね。

185macska:2007/01/16(火) 23:41:29 ID:VdHL1C4M
>>180
> あなたの発言からすると、
> 「宗教は現実世界の知りもしない、わかってもいない事について発言すべきではない」
> また
> 「科学の進歩と合致するように都合の良い所は解釈を変更するのがずるい」
> のですね?
>
> macskaさんの考える理想的な状態とは、
> 「宗教の教義や聖典が、「現在の科学が認める現実世界」に反する部分を捨て、
> もしくは寓意にすぎないと解釈しなおし、二度と現実について語らない」
> ことですか?

どれも、わたしの主張とは全然違います。

基本的に、わたしが批判しているのは科学の側ですから、それをご理解ください。宗教に対する注文はほとんどつけていません(「信じている」と「知っている」の区別をちゃんとつけてほしい、くらいは言いました)。

>>184
だからですね、あなたは「神様からモーセに与えられたのは安息日の規則だけであり、違反者は死刑というルールはニンゲンが勝手に決めたもの」としてわたしを無知だと攻撃したでしょ。

それに対し、「いや、安息日を破った場合の刑罰は神様が決めた(ことになっている)ものですよ」とわたしは具体的なソースを元に反論したわけだから、まずあなたは自分の間違いを認めなくちゃいけない。

安息日に関して死刑を神様が支持した箇所は他にもあります。例えば民数記 15:32-36 では安息日に木片を集めていた男が捕まり、どう罰するかについてモーセが神様にお伺いを立てます。神様は「その男は死ななければならない」として、共同体全員による投石による死刑を命じます。聖書の記述によればこれは神の決定であり、ニンゲンが独自に解釈したことではない(ことになっている)。

なお、地下に眠るMさんは「安息日でも病人を看護するのは良い」といったような見解が生まれたことを「弱者保護という法の意義を勘案すれば当然の結論」として、規則から導き出される合理的な解釈であるとしていますが、全てがそのように説明がつくわけではない。

例えば、安息日の規則のディテールとして、出エジプト記 35:1 において「安息日には住居に明かりを灯してはいけない」と書かれています。この規則の意図が何だかわたしには分かりませんが、この記述をそのまま信じる人は現代にもかなりいて、安息日には照明のスイッチにさわらないようにして生活しています。

ところがそういう人が安息日には照明を使わないのかというとそうではなくて、タイマー式に自動的に明かりが付いたり消えたりする装置や人の気配を察して明かりが付くような装置を使うなどしている人がたくさんいます。あるいは、安息日は電化製品をつけっぱなしにしている人も多い。さらには、照明は付けっぱなしにしておいて、それを何かで覆い隠すことでスイッチを切り替える代わりとしていたりする(こうなると、スイッチを使うのとどこが違うのかもう分からない)。

そしてこれらの方法は、現代のラビたちによって「安息日の規則に従っている」と認定されているのですが、どうしてスイッチを入れたり切ったりするのがダメで、照明をつけたままにしておいて明かりが邪魔なときにそれを覆い隠すのは良いのか、聖書の記述からはとても正当化できないでしょう。傍目からは、信仰と現代的な生活を名目上両立するために捻り出した苦しい言い訳のように見えます。

一応言っておくと、わたしはそれが悪いと言っているわけじゃないんです。
そうじゃなくて、世俗化した宗教というのはそういうものだと言っているわけ。

186fukken:2007/01/17(水) 02:31:48 ID:M5vfENrY
>>179
肝心なことへの回答がないので苛立ちましたが、考えてみれば大勢を相手にして大変ではありましょうね。
罵声を浴びせたことについてはお詫びします。
ですが、故意にはぐらかしているのだとしたら、今後はお止めください。

>「事実なのかそうでないのか」はっきりしろ、というのではなく、あなたの批判が「事実に反する」というものなのか、それとも「事実であっても言うべきではない」という主張なのか、どちらかはっきりして欲しい、と言ったのです。

少し元の文と変わっていますね。
「事実であっても・・・」でなく「事実だけれど・・・」です。
「であったとしても」と「であるが」では大分意味が違ってきますよ。


「(死後の世界だとか人生の意味だとかいう問題については)宗教には全く何もわかっていない」

と言うあなたの断定した一文について、

これが「事実じゃない」と言っているのか、「事実だがそんなこと言うべきじゃない」と言っているのか?どちらかはっきりしてくれ。
と質問されたわけですね、つまり私は。

で、既に答えているように、私は最初から「それが事実かどうかわからない」と何度か明言しています。
そして貴方自身も「そう思っているだけ」であることを表明しました。>>165
つまり、この時点で、それが事実であるか否かなど議論すること自体が全く無意味であるという結論は出ているわけです。
そして私は、宗教者は「(死後の世界等を)信じている」のだから、そこに踏み込んだら信と知の区分を標榜する貴方にとってダブスタとなりますよ。と結論しています。

それに対して不当な対等論だとか言って難癖付けられたと思ったので、
上記をダイジェストで示して差し上げたわけです。
その際、どうでもいいナンセンスな質問を、簡単に「事実なのかそうでないのか」って言ったまでです。
これでいいですか?

#けど、そのまま「事実なのかそうでないのか」としたって、(冒頭の)「事実であっても・・・」と「事実だけれど・・・」の差ほども意味の違いは生じないよね。


>>にも関わらず、macskaさんは「(死後の世界があるかどうか)宗教には全く何もわかっていない」と言い切ってしまっている。
>だって、そうでしょう?
>宗教ではさまざまな信仰はあるでしょうが、たしかな知識を持っているわけではない。
>空からのおろしたフックはあっても、下から築き上げるためのクレーンはないでしょ。

科学は(死後の世界の存在を)検証出来ない。もちろん、macskaさんにも。
で、知りもしないことをどうして断言できるのですか。と聞いているのです。
宗教者には「知らないことを知っていると言うな」と言っておきながら。
宗教者は死後の世界を語っても良いのですよ。”信じてる”のだから。もしかしたら本当に”知っている”可能性だってゼロではない。
科学に検証できることについて宗教者がいい加減なことを言った場合は文句を言うこともできるでしょうけど、科学で確認できないことは宗教者が何を言ったって我々には何も言えないでしょう。

>>まず、「どんなに不合理な信仰でも”信じる”と言う分にはそれを認める」と言うのがmacskaさんのこれまでの主張。
>>それからすると、「宗教者が死後の世界があると信じている」と言う事実をもとに、死後の世界が宗教の”信”の対象であると認めなければならない。
>そうですよ。信仰は尊重します。
>しかし、信じればそれが事実となるわけではないでしょ。

事実と言うのは何のことでしょうか。
死後の世界の存在の事実と言うことでしょうか。
宗教者が「死後の世界はある」と言ったとしてもそれは信仰ですから、必ずしも事実である必要はないでしょう。事実であるかも知れないしないかも知れない。
macskaさんが死後の世界のないことを明確にしない限り、それを否定することは出来ませんね。

187fukken:2007/01/17(水) 02:32:53 ID:M5vfENrY
>>181
>結局fukkenさんの言いたいのは「言い方がきついんじゃない?」ということですよね? そうかも知れませんが、元々は科学を使う側への批判なんだし、あまり追求しても仕方ないのでは?

途中でも一度diamonds8888xさんにレスしたかと思いますが、私は一貫して、不確かなことをわかった風に断言して、宗教を侮辱するような発言をしたmacskaさんに「そんなこと言っていいの?根拠はあるの?」って問い続けているだけなんですけどね。
それをのらりくらりされ続けているものですから。取り下げなり訂正なり、何らかの釈明があればすぐ引きます。
それと、私自身は無信論者ですし皆さんのように宗教に関する知識もありませんが、しっかりとした宗教を持つ友人と良く話すものですから心情的に入れ込むところはりますね。彼らがmacskaさんに侮辱を受けた気持ちにもなるものですから。

>「多くの宗教者たちは、その時代の常識や科学的知識と矛盾しないように柔軟に教典解釈を変更する」という方は歴史的事実としておおむねは正しいのではありませんか?(中略)で、それは別に非難すべきことでもないわけで。

私は「それは本当か?」と聞いていただけで、macskaさんがそう言ったこと自体は一度も非難していないはずです。>>148

罵倒によって大分心象悪くされた方多いと思いますが、>>76以降の私とmacskaさんのやりとりをじっくりご覧になれば、多少なりとも私の立腹をわかってもらえると思いますし、そうして先入観を取り払っていただければこのような誤解もなくなるのではないかと思います。
別に読んでくださいと言っているわけではなく、それだけ自分の主張に自信を持っていると言う意思の表明です。

188macska:2007/01/17(水) 03:23:27 ID:VdHL1C4M
>>186
> 少し元の文と変わっていますね。

言い換えた時に、意味が少しずれてしまいました。
でも、どちらに取られても結構です。

> で、既に答えているように、私は最初から「それが事実かどうかわからない」と何度か明言しています。
> そして貴方自身も「そう思っているだけ」であることを表明しました。>>165

「そう思っている」とは書きましたが、「そう思っているだけ」(つまり、そうわたしが信じているほかに何の根拠もない)とは表明していません。つまり、「科学にわからないことは、宗教にもわからない」とわたしが言うとき、それはそれなりの根拠をもって言っています。

根拠というのは、人間は現実世界の外側にあるとされるものごとについて、何ら知覚する能力を持たないからです。死者しか行くことができない「死後の世界」というものが仮にあったとして、それが生者の世界とは完全に切り離されているのであれば、そうした「死後の世界」についてわたしたち生者が何らかの確かな知識を得ることは原理的にできないはずです。確かな知識どころか、確率としてすら何ら把握できない。

科学の手法によっては知覚不可能なそうした世界について、宗教の手法を使えば確かなことが分かるのでしょうか? もしそれを主張する宗教があるならわたしも入信したいところですが、実際のところ宗教にできるのは「信じること」だけではないでしょう。そして、もちろん宗教はそれを恥じる必要はありません。むしろ「信じている」だけのことを「知っている」と言い換える方が恥ずかしいことでしょう。

> 科学は(死後の世界の存在を)検証出来ない。もちろん、macskaさんにも。
> で、知りもしないことをどうして断言できるのですか。と聞いているのです。

死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。
しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。
宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。

> 科学に検証できることについて宗教者がいい加減なことを言った場合は文句を言うことも
> できるでしょうけど、科学で確認できないことは宗教者が何を言ったって我々には何も言
> えないでしょう。

いや、別に宗教者に対して何か言えということじゃないんですが。
ただ単に、宗教者が人知の及ばない物事について何かを言うとき、それは宗教を知らない一般人より何か確かな知識を持って言っているわけじゃないんですよ、ということを指摘しているだけ。

> macskaさんが死後の世界のないことを明確にしない限り、それを否定することは出来ませんね。

だから、信仰を否定したことはこれまで一度もありませんって。
どうしてアンチ宗教にされてしまうのかなぁ。

189macska:2007/01/17(水) 03:25:09 ID:VdHL1C4M
>>188

× 実際のところ宗教にできるのは「信じること」だけではないでしょう。

     ↓

○ 実際のところ宗教にできるのは「信じること」だけではないでしょうか。

190すらりん:2007/01/17(水) 04:13:23 ID:Fc.S231Y
はじめまして。
ここの議論を面白く読ませてもらっています。

>だから、信仰を否定したことはこれまで一度もありませんって。
>どうしてアンチ宗教にされてしまうのかなぁ。

fukkenさんも書いてますけど
やっぱり宗教を揶揄するような言い回しに引っかかる人が多いんじゃないですかねー。
それからドーキンスはアンチ宗教ですけど、
macskaさんはドーキンスの主張にかなり影響を受けているんじゃないかという気もしますし。

191すらりん:2007/01/17(水) 04:15:11 ID:Fc.S231Y
>だから、信仰を否定したことはこれまで一度もありませんって。
>どうしてアンチ宗教にされてしまうのかなぁ。

↑これは>>188からの引用です。失礼しました><

192谷庵:2007/01/17(水) 04:16:41 ID:???
何であれ、信じている者にとっては事実なんですよ。
問題行動に結びつかない限り、放っておけばいいのです。
ことさら口を挟む人がいれば、アンチ宗教と見られても仕方がないでしょうね。

また、優れた芸術家や職人は信じられない感覚を持っています。
優れた宗教家であれば、死後の世界のことも判るのかも知れませんよ。
実際に私がそのように考えているわけではありませんが、完全に否定できるだけの自信がないことも事実です。

「その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。
」というmacskaさんの自信がどこから来るのか、私には疑問です。

193tema:2007/01/17(水) 08:29:15 ID:???
>>168
HAKASEさん、はじめまして。temaと申します。

>言葉の問題なのかもしれませんし現状では研究レベルの話かもしれませんが,*上記の意味では*偶然に起こると思われる物事も科学的手法で扱う対象のひとつだと思います.

 ここらへんの記述は、地下に眠るMさんの以下の記述に対するものだと認識してます

>>77
>カオス理論とかいうものがあるだろ?
>蒙古襲来のカミカゼの原因が、その半年前に地球の裏側で蝶がはばたいたことにあるのが直接の原因だとするにゃ。
>そして、その蝶のはばたきは蝶の神経系における量子力学的な確率事象に関する神の干渉であったとしたらどないよ?
>いや、蝶のはばたきの原因が150億年前のビッグバンにおける何らかの介入に端をはっするものだとしたら?

 地下に眠るMさんが忙しそうなので、横レスします。

 >>77の記述においてカオス理論は、ミクロな事象をマクロに拡大するために使われており、そこは主題ではありません。
 主題はあくまで、量子力学における波束の収束であり、ビック・バン時(またはビッグ・バン以前)のことです。この2つについて(少なくとも前の方は)科学は原理的に手が出せない、とtemaは考えています。というより、手が出せないということを原理にしているのでしょう。

 まぁ、主題では無いのに「カオス理論とかいうものがあるだろ?」で書きはじめるのはどうよ、という事はあるかもしれませんが、そこまではHAKASEさんも求めますまい。

194tema:2007/01/17(水) 08:30:31 ID:???
>>176
fukkenさんへ
 聞き届けていただき、ありがとうございます。

195fukken:2007/01/17(水) 11:31:24 ID:M5vfENrY
>>188
>「そう思っている」とは書きましたが、「そう思っているだけ」(つまり、そうわたしが信じているほかに何の根拠もない)とは表明していません。つまり、「科学にわからないことは、宗教にもわからない」とわたしが言うとき、それはそれなりの根拠をもって言っています。

元の>>165を見てもらってもその次の文章を読んでもらってもわかるはずなのですが、「そう思っている”だけ”」と言ったのは、貴方が知っているのか否かに焦点を中てるためです。
貴方は”知・ら・な・い”のですよ。↓自分でもちゃんとわかっているじゃないですか。

>根拠というのは、人間は現実世界の外側にあるとされるものごとについて、何ら知覚する能力を持たないからです。死者しか行くことができない「死後の世界」というものが仮にあったとして、それが生者の世界とは完全に切り離されているのであれば、そうした「死後の世界」についてわたしたち生者が何らかの確かな知識を得ることは原理的にできないはずです。確かな知識どころか、確率としてすら何ら把握できない。

そう考える貴方自身には確実にそれは言えることでしょうが、他人のことは貴方にはわからんのではないですか。”はず”なんて言っている内は、何の論拠にもなりませんよ。
そんなこと自覚出来ているんでしょう。
貴方程の人がご自分のダブスタを認識出来ていないはずだってないのに、こんな不毛な論争を続けようとするのは何故でしょうね。

>科学の手法によっては知覚不可能なそうした世界について、宗教の手法を使えば確かなことが分かるのでしょうか?もしそれを主張する宗教があるならわたしも入信したいところですが、実際のところ宗教にできるのは「信じること」だけではないでしょう。そして、もちろん宗教はそれを恥じる必要はありません。むしろ「信じている」だけのことを「知っている」と言い換える方が恥ずかしいことでしょう。

宗教者が「死後の世界がある」と言ったとして、それは知っていると言ったことになるのですか?
宗教者の信仰なのですよ。
”信じている”と考えるべきところを、勝手にそう解釈し、自分だって知らないことを断定的に「いや、わかっていない」なんて言うことの方が余程恥ずかしいことだと思いますけど、私は。

>死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。

宗教者は知っているのでなく”信じている”のです。
それに「宗教をやっている人たちだって同じ人間なのだから、〜のはずがない」という理屈は、所詮貴方の憶測に過ぎないでしょう。「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。
そのような常に自分を基準とした論理だと、宗教を認めると言いながら、科学で観測できる事象以外を認めることは一切できなくなるんじゃないでしょうか。
と言うより、「断言できます」なんて言われちゃうと、自分の”信じる”こと以外は認めないんじゃないかって疑いたくなる。

>>科学に検証できることについて宗教者がいい加減なことを言った場合は文句を言うこともできるでしょうけど、科学で確認できないことは宗教者が何を言ったって我々には何も言えないでしょう。
>いや、別に宗教者に対して何か言えということじゃないんですが。
>ただ単に、宗教者が人知の及ばない物事について何かを言うとき、それは宗教を知らない一般人より何か確かな知識を持って言っているわけじゃないんですよ、ということを指摘しているだけ。

そうではなく、あなたが自分の領域を踏み越えて行って「宗教はご都合主義」「宗教者は詭弁者」と受け取れるような発言をしてしまったことを問題視しているのです。
そして宗教に対する貴方自身の主張によって、それが言い訳の余地のない過ちであることを立証してしまった。
論理的に貴方はそれを撤回せざるを得ない状況に追い込まれているのです。
しかし、”自分の非は絶対に認められない病”に罹患している貴方はこうして恥ずかしい真似を繰り返しており、その症状に中てられ私も持病の”往生際の悪い輩は罵倒したくて仕方がないシンドローム”が悪化しているといったところでしょうか。

196fukken:2007/01/17(水) 11:32:40 ID:M5vfENrY
>>188
>>macskaさんが死後の世界のないことを明確にしない限り、それを否定することは出来ませんね。
>だから、信仰を否定したことはこれまで一度もありませんって。
>どうしてアンチ宗教にされてしまうのかなぁ。

良く読んでもらえればわかるはずですが>>186、それというのは、「宗教者が死後の世界を主張する」

こと(信仰)を指します。貴方がそれを否定したから議論が始まっているのです。
あなたにはアンチ宗教の匂いを強く感じますが、ここではそんなことは全く主張していません。

197地下に眠るM:2007/01/17(水) 12:15:50 ID:VNlqTVDw
>>185
ユダヤ・キリスト教が世界的にみて特異な宗教であることは先日の投稿で述べたにゃ。
そして、逐語的解釈をするというのはその中でもまた特異なウルトラ馬鹿の一派なのだにゃ。聖書の逐語解釈というのは、特異な宗教の中でもさらに特異なウルトラ馬鹿一派であるということを肝に銘ずることだにゃ。(そして、特異中の特異なウルトラ馬鹿一派が、最大の軍事力をもっているという恐ろしい状況がある)

こうしたウルトラ馬鹿一派を除けば、教義にはニンゲンの解釈の余地が必ず入るというのは当然のことなのだにゃ。成文律法に対する解釈である口伝律法があることから、ユダヤ教は逐語解釈などという白痴的な真似をしてにゃーことは明らか。

しかも、ことは法の施行という極めて現実的なことだにゃ。どの国の刑法の量刑だって、情状の酌量をしてにゃーところなんてにゃーわけだ。これは立法の趣旨を考慮すれば当然のことだにゃ。宗教においても、逐語解釈という立場をとらにゃー限り、趣旨を解して施行するというのはアタリマエなの。現実の罰はニンゲンの手に委ねられているのだにゃ。
事実、出エジプト記においても安息日の労働は追放と死刑の矛盾した文言が連続するわけで、最初からニンゲンに解釈の余地があるように書かれているにゃ。

「教義通りではないからテキトーだ」という物言いは、逐語解釈を標榜する一派に対しては有効だにゃ。しかし、逐語解釈などというバカな真似をしていにゃーほとんどの宗教に対しては、因縁をふっかけているだけのことなんだにゃ。もともとの教義の趣旨をねじ曲げてまで牽強付会の解釈がなされていたら、それは「テキトー」であるといってもいいけれど、教義をきっちりと検討することは必要になってくるわけ。

チミの出した「灯」の例だけど、合理的な解釈としては、火の管理にはほぼ必ず何らかの労働がともなうことを前提として、家内における奴隷(あるいは女性)の使役を禁じるためのものだといえにゃーかな? 電気による灯が一般化した現在では、そのあたりの趣旨は無意味になったけど、成文律法をむげにはできにゃーので、どういう場合は許されるのかをいちいち指標をだしている、というあたりではにゃーかと愚考するにゃ。

ただ、罵倒修辞に気がとられ、ロジックの部分でmacskaの主張するように読まれても仕方のにゃー表現になっていたことは認めますにゃ。罵倒修辞学の徒として許されにゃーミスだ。ごめんね。
しかし、特異なユダヤ・キリスト教の中で、さらに特異に馬鹿な逐語的教義を標榜する宗教を仮想敵にする場合になら有効なロジックを、他の宗教に対してふりまわすのは、やはりチミがわかってにゃーからだとあらためていっておく。
いままでmacskaがいっていた言明は、逐語主義的馬鹿キリスト教に対するものなのであれば、僕はその多くを了解致しますにゃ。それにしても方法論として文句はオオアリだけど。

198地下に眠るM:2007/01/17(水) 12:17:12 ID:VNlqTVDw
さて、宿題のつづき

>>104 より
>ある問いに対して特化した体系が、その問いに対する答え(=知)を独占するのはアタリマエのことにゃんね。

>だから、その独占された知の正しさに疑問があるというのなら、その体系を丁寧に学んでみなければならにゃー。それもせずに、学ぶ気もにゃーくせに「肯定論者に立証義務があります」とかのたまってふんぞりかえるのは傲岸で無礼でかつ頭のワリイことですにゃ。

>僕はもちろん、macskaクンのことをいっているにゃ。

>宗教における知の体系というと、神秘主義がまず思い浮かぶにゃんね。スーフィーとかヨガとか禅とかいう体系には、修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。客観的な基準はあっても体験者でなければわからにゃー。権威ある科学誌の査読はそれなりの科学者でなければつとまらにゃーのと同じことにゃんが、なにせ実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系であるちゅうことは肝に銘じておかなければならにゃー。
>こういう体系に対して、ソトから気楽に、どーせわかってない、とか、信じてるだけ、とか放言して、否定する対象についての無知と傲岸さを宣伝するという行為。
>恥ずかしくにゃーのだろうか?
>掲示板によくやってくるシンカロン否定にこりかたまったウスラ馬鹿と何が違うんだろうか?


>>110 より
>「神の存在を否定できるものなら否定してみろ」という言いがかりが、その「第一掲示板によく出没する馬鹿」が述べる頭のワリイ論法の1つであることが、あなたには分かりませんか?

>わたしはその言いがかりに対し、立証責任は「神が存在する」と主張する側にあるという、スタンダードな回答をしているだけですよ。なぜ存在側に立証責任があるかというと、不在を証明するには世界の全てを調べなければいけないので原理的に不可能であることや、宇宙軌道にあるティーポットや空飛ぶスパゲッティモンスターのようなばかげたモノですらその不在証明はできないことから、当たり前です。

>わたしは神一般の存在を否定したことはないし、否定する論理も持ち合わせていませんが、それはスパゲッティモンスターを否定できないのと同じだけであり、「神の存在を否定できないこと」は神の存在可能性を少しも高めることにはなりません。神の存在可能性を高めることができるのは、神が存在するのではないかという肯定的な証拠だけです。
>こうした思考法が「第一掲示板によく出没する馬鹿」と区別できないとすると、本当に頭のワリイのはあなたでしょうね。てゆーか、思い切り傲岸で無礼だし。


禅・ヨガ・スーフィーなどの神秘主義においてはそもそも一神教的な特異な神概念なんてもってにゃー。だが、彼らは知の体系を持っていると主張しているにゃ。元レスでも「修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。」と書いてあるにゃ。そして、その知は「実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系」なわけにゃんね。
しかし
カガク理論がいくらひらかれたものであるといっても、それなりの才能がそれなりの努力を払わにゃーと理解できにゃーものも多いわけだにゃ。数学がまるでダメだったら、量子力学や相対論はもちろんのこと、集団遺伝学なんかもまるで理解できにゃー。語学もひらかれたものにゃんが、外国語の習得には多大な努力と時間が必要だにゃ。いかなる知の体系においても、それなりの才能が努力と時間を投資して、はじめて一定の知を獲得できるということはかわらにゃーのだ。
ここのところを否定できるものはいにゃーだろう。

元レスで僕は知の体系としてある種の神秘主義があり、それは体験に重きをおくものであるが同時に客観的な基準をもっていると書いたにゃ。つまり、そこではある種の客観的な知が立証されているということなんだよ。こんな読みはアタリマエだろうに。
シンカロン否定のウスラ馬鹿は、その知が立証されているといってもそれを学ぼうともせずに否定するばかり。それは否定したいから否定しているだけの悪意に基づく白痴的所業だにゃ。ちょうど第一掲示板にもきてるけどね。愚昧イッツセルフってとこだにゃ。
macskaの言動も全く同じ。

これは、macskaは基本的な読解力がにゃーということを示すに足る例だと考えるので、宿題の2つめは終わりかにゃ。

付け加えておくと、心理学者のユングは晩年にBBCテレビのロングインタビューに応じているにゃ。最後の質問で「あなたは神を信じますか」と問われて「信じているのではありません。知っています」と答えていますにゃ。

199macska:2007/01/17(水) 13:43:27 ID:UfRlMoOA
>>190
> fukkenさんも書いてますけど
> やっぱり宗教を揶揄するような言い回しに引っかかる人が多いんじゃないですかねー。

言い回しというか、「穏健な」宗教者と科学者やその他一般の人たちのあいだで、紳士協定的な「住み分け」がある程度なりたっているわけですよね。そしてわたしは、その「住み分け」の内容が不当であるとして、主に科学の側を批判しているわけです。ところがそのことが宗教を攻撃しているかのように解釈されたので、わたしはそれはわたしの本意でないと何度もことわっています。それでも引っかかるとなると、紳士協定に疑問を抱くこと自体がいけないと言われているような気がするのですが、そうであれば意図ではなく論理を正面から批判していただきたいです。

> macskaさんはドーキンスの主張にかなり影響を受けているんじゃないかという気もしますし。

ドーキンスだけじゃないですが、影響はあるでしょうね。
しかし、ドーキンスは別として、わたしはアンチ宗教では決してありませんよ。

# 個人的に、かれのイスラム教に対する発言にはかなり危ういものを覚えます。
# かれは政治にはあまり関心がないのかもしれないけれど、欧州の一部で最近目立って
# きた「リベラルを標榜する排他主義的極右勢力」に利用されかねないのでは。

>>195
> そう考える貴方自身には確実にそれは言えることでしょうが、他人のことは
> 貴方にはわからんのではないですか。

いや、言えるでしょ。論理的に。

あるモノが人間の知覚(器具など含む)で認識できるものであれば、それは科学的探求の対象となり得るはずです。しかしここでは「死後の世界」はそうした探求を全く受け付けないモノとして想定されているわけで、それを人間が知覚できると言い出すとおかしなことになってしまう。

> 宗教者が「死後の世界がある」と言ったとして、それは知っていると言った
> ことになるのですか?

なりません。それは「死後の世界があると信じている」という意味に解釈できます。
わたしは、宗教者が「死後の世界がある」と主張することを、何ら、全く、一度も、否定もしくは批判していません。

どうしてそんなにわたしの発言をアンチ宗教に読み替えなくちゃいけないのかな。
わたしは宗教の批判なんてほとんどやっていないのに。

> 宗教者は知っているのでなく“信じている”のです。

そうです。だから、「知っている」と言わなければ全く問題ありません。

> そうではなく、あなたが自分の領域を踏み越えて行って「宗教はご都合主義」
> 「宗教者は詭弁者」と受け取れるような発言をしてしまったことを問題視して
> いるのです。

まず、わたしはそうは言っていない。というか、少なくとも非難の意味で言ってはいない。それが「宗教を叩いている」と受け止められたことについては、何度もそうではないと釈明しているわけで、どれだけ言えば分かってもらえるのかな。それとも、「わたしは非難するつもりはなかったけれど、結果として傷ついたならゴメン」とでも言えばいいんでしょうか?

> 論理的に貴方はそれを撤回せざるを得ない状況に追い込まれているのです。

どの言明を撤回すべきか、具体的にご指摘ください。
「〜と受け取れるような発言」と言われても、そういう受け止め方が真意に反するものであることは再三説明していますから、誤解によって「受け取られたメッセージ」は既に撤回したも同然でしょ。

>>196
> 良く読んでもらえればわかるはずですが>>186、それというのは、「宗教者が死後の世界を主張する」
> こと(信仰)を指します。貴方がそれを否定したから議論が始まっているのです。

わたしは信仰を一度も否定していません。「宗教者が死後の世界を主張すること」を一度も否定、批判、非難、その他否定的に評価したことがありません。

200macska:2007/01/17(水) 13:43:56 ID:UfRlMoOA
>>198
わたしの一番最初の発言 ( >>1 ) から見れば分かると思いますが、わたしは「神様」と一般の呼ばれるものが多種多様に渡ることを、誰よりも自覚しているからこそ、「神様についてのQ&Aの記述は、ある特定のタイプの神様には当てはまるが、他のタイプの神様には当てはまらないのではないか」という主張をしたわけですよ。わたしが指摘するまで、そのことに誰も気付かないでいたくらいです。

そのわたしをつかまえて、macskaは世界の中でも特異なユダヤ・キリスト教の神しか想定していないとか、そのユダヤ・キリスト教の教義についてすら無知だとか(この点は撤回されたのかな?)、さんざん言いがかりをふっかけるだけなのは何とかして欲しいな。罵倒に夢中になって自分の無知を自ら暴いてしまうなんて、非常にカッコ悪いよ。

> 「教義通りではないからテキトーだ」という物言いは、逐語解釈を標榜する一派
> に対しては有効だにゃ。しかし、逐語解釈などというバカな真似をしていにゃー
> ほとんどの宗教に対しては、因縁をふっかけているだけのことなんだにゃ。

つまりさ、あなたは宗教における教典の扱いについて、わたしと全く同じことを言っているの。そうでしょ? 普通、宗教では逐語解釈などしない(それをしていると標榜している一派も、実際には程度問題)、時代の流れや科学の進歩に応じて解釈を変えている、と。わたしの言った通りじゃん。

あなたは、わたしがそう書いたとき、それは宗教に対する非難であると勝手に誤解して、いきり立っているわけでしょ。たしかに、ちょっと皮肉っぽい表現ではあったし、そういう誤解を招きかねない書き方だったことは認めてもいいや。でもわたしは、非難や批判の意図はない、宗教とはこういうものであるという自分の見解(あなたの書いているものとほぼ同じです)を述べただけだと何度も釈明しているんだから、いい加減それを理解してくれても良さそうなものだと思うけどな。

201NAN:2007/01/17(水) 15:06:44 ID:op1ePviI
私的に公的に忙しいし、時折思いついたことを書くだけで参加は無理!と思っていた(いや、今も思っている)んだけど、なんだかむっちゃ錯綜してるし双方(この場合は単にmacska氏側とほかの参加者というカラー分けでいいかな)がぶつかっているのか平行線なのかも良く分からない。

で、こういう場合「振り出しに戻る」のが得策と思うので私なりに長くなったこのスレを1から読んでみると…

>1
>この記述ですが、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」という言明が常に正しいとは思いません。

については、まぁ「どんな神だろうと云ったもん勝ちで科学の範囲外=検証も批判もされないってのはおかしいだろ?」という主張であれば頷ける。ここで「範囲外」から「範囲内」に引きずり出されるのは、現代社会においては恐らく「シンコーシューキョーのキョーソ様=イキガミ様」だとか「ウラナイ師」だとか「オカルト政治団体」とか「オカルト詐欺集団」とかイロイロある。であるのなら、その辺はも少し具体的に書いたほうがヨカったんでないかい?という後悔はともかく…問題はこの後で、

>3
にある
>例えば、伝承によればモーセという人は海を割ったとか、
>イエスという人は水をワインに変え、死者を蘇らせたとか。
>あるいは、マリアが処女であるにも関わらず懐妊したとか。

>これらの「奇跡」は古い時代の話なので検証するに足るだけの証拠がないですが、
>もし証拠が発見されれば、例えばイエスの DNA が発見されれば、
>それは原理的に科学的検証を受け付ける現象であるはずです。

↑なんていう記述からすでに争点が浮き彫りになってるよね。これは>4にあるミケ氏の突っ込みにはじまり私も>19くらいで最初の介入したりしてますが、なんかもうそのあたりですでに「本来の議論」と「枝葉の議論」の比重がひっくり返っている。に関わらずここまでスレが伸びてなお罵倒修辞が飛び交っている現状は、>1におけるmacska氏の主張に頷ける私から見ても、続いて繰り出した>3あたりの記述に問題があるからであり、この部分に「果たして自分はまったく無謬であると言い切れるのか」という自問をしてもらわんことには、解決不能と思うですよ。

少なくとも>3の記述を読む限り、macska氏が「神をなんでも科学の範囲外にするのは間違いだろう」と述べている「範囲」を逸脱して、あるいは最近のレスでmacska氏自身が「その辺は検証不能の領域でいいんじゃん?」と述べている「らしき」事象までを対象に「カガクのドヒョー」に引きずり出そうとしている「かのように」見えるのは間違いない。また、私が指摘したことだけどこの辺のmacska氏の主張はまさに「逐語解釈」であり、「イエスのDNAもしくはその断片が発見されたならば、水をワインに変えたり、死者を蘇らせる能力を(身体的に)有していたか否か」が検証(自然科学の方法論によって)できる、と述べているようにしか読めない。

無論「科学的に実証できるような出来事」を指して「奇跡」なんて呼ぶ必要はない。奇跡というくらいだから「めっちゃあり得ない事象」で構わないわけで、これを「検証しようという試み」自体がすでに破綻しているんだよね。
#イキガミ様の予言ってのは「地上のことを指すテキトーなホラ」に過ぎないので検証してもいいさ。

百歩譲って…逐語解釈OK!としても、検証できるのは「聖書とかいう出版物に書いてある文言」あるいは「口伝による伝承」という「ニンゲンのコトバ」に過ぎないわけであり、たとえば「イエスという存在そのものが奇跡」という解釈に対してなんの反証にもならない。いや極論すると「イエスなどという人物は実は歴史的に存在しなかった」みたいなことが「科学的に実証」されたところで、イエスの「実在」は奇跡なんだからOK、ということになる。

奇しくも「一部の神はカガクの対象となるはずだ」と「カガクとかいうブンカ」側に対して発した指摘が、そのまんま「一部というモノサシの不確かさ」によって捻じ曲がっちまった、というのが現状じゃないのかな?だったら…正すべきはどこか、明確でないですかい?

202酔っ払い:2007/01/17(水) 16:22:52 ID:???

A:原理的に科学的手法による検証の対象にならないものについて、宗教は「信じている」とは言えても、「知っている」とはいえない。

B:なんだそりゃ。例えばそれについて宗教が知っていると言う時、必ず嘘をついているってこと?

A:知っているはずは無いんだから、そうなるね。

B:ふむ。…実はね、僕は宇宙の真理が42だってことを知っている。

A:いきなりなんだ。しかもなんで宇宙の真理が42?

B:説明は出来ないし、証明も出来ない。そもそも検証できないんだから証明しようもない。

A:証明できないのに、なんで知ってるって言えるんだよ。

B:でも、君には僕が知らないとは言えない。

A:原理的に知りえないはずのことを、知っているって言うのはおかしいっていってるんだよ。

B:原理的に知りえないってのは、どういうこと?

A:科学的手法では知覚不可能ってこと、かな。

B:つまり、宗教が科学の手法では知覚不可能なことについて知っていると言うとき、それを知っているとはいえないってこと?

A:そう。それは知っているのではなく、信じている、もしくは知っていると信じていると言うべきだ。

B:僕は宇宙の真理が42だと知っているけど、それが科学の範疇だ、なんてことは一言もいってないし、事実君の定義でも、科学の範疇じゃないんだよね?

A:まだ言うか。でも、それなら「宇宙の真理」とやらが将来科学で扱えるようになったとして、それが42であれ37であれ、君の「宇宙の真理は42」教は、科学を利用しちゃ駄目だよ。

B:了解。当然、「宇宙の真理は42」教は科学の範疇にないのだから、それが科学で否定されようが肯定されようが、君も口出ししないのだよね?

A:もちろん。

B:なら、やっぱり僕は宇宙の真理が42だと知っているし、君はそれについて、とやかく言えないはずなんだけどな。



駄文失礼。

203みずすまし:2007/01/17(水) 16:34:17 ID:TgyKdXjk
(>>202と趣旨がかぶってる)


>macskaさん

かなり古い発言を引っ張ってきますが,次の文章は,言いすぎではないでしょうか。

>>75
> 科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにするこ
> とができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言える
> のかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。


「科学に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすることができますが、『科学に対象とする領域において』宗教が何か確からしいことを言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。」というのなら分かります。また,macskaさんの以降の発言はそう読むこともできます。


数学や論理学や科学哲学は,日本語の用法として「科学」に含めないことが多いと思いますが,数学的知,論理学的知,科学哲学的知というのは認めてよいように思います。もしそうなら,神学的知はどうして排除されるのでしょうか。

----

>>201
> いや極論すると「イエスなどという人物は実は歴史的に存在しなかった」みたいなこと
> が「科学的に実証」されたところで、イエスの「実在」は奇跡なんだからOK、という
> ことになる。

そこまで言っちゃうと,科学的言明が「実在」についての言明でないか,「実在」が相対的にありうるということになっちゃって,非常にまずいと私は思うのですが(科学が間違っていて,宗教のほうが正しかったのでなければ)。

204Josef:2007/01/17(水) 17:09:04 ID:uPoVYQoU
NANさんが言うように(>>201)、本題はとっくに終わってます。

macskaさんの言ってることを煎じ詰めれば、
 「科学の対象となるものは科学の対象となる」
というトートロジーであって、なんでこんなトートロジーが出てきたかといえば、Q&Aに「すべての神」が「科学の範囲外」であるかに誤解されそうな記述があったからですね。「神」と名がつきゃ科学は一切手出しできない聖域になるなんて馬鹿な話はないわけで、このままだと「科学の対象」を自ら狭めてしまうことになりはしないか、と。NATROMさんは指摘されてすぐに問題点を理解し、元の記述に手を入れた。本題はこれだけ。macskaさんが「科学の対象」について突拍子も無いことを言っているわけではありません。

枝葉の部分で私がちょっとおかしいと思うのは、何人かの方が指摘していますが、「信じている」と「知っている」の区別ですね。同じ枠組みを共有する者同士なら区別は明白でしょうが、信仰者なら(全ての信仰者、とは言いません)神の存在を明証的に「知っている」でしょう。それを「信じているだけだ」と外野から言ってみたって詮無いこと。だってその人は「世界が在る」と同じくらい明証的に「神が在る」ことを知っているんだから。

205Hiju:2007/01/17(水) 18:37:24 ID:MM7DYpv2
初めて書き込みします。

結局、macskaさんの言葉に従えば、宗教は「宗教だけが知っている」なんて
何があっても言えないってことですよね?だって、知っているならば「人間
にとって知覚可能」でなければならないし「人間にとって知覚可能」ならば
科学の検証対象であると考えなければならないんでしょう(なんなら知覚が
不可能であっても、現実に起こったことは科学の検証対象なわけですし)?
そして、科学の検証対象であれば、科学が口を噤むのはおかしい、と。

つまり、宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
だけだと認めろ、と、“宗教に対して科学側は主張すべきだ”と。
そうしないのは科学的思考の不徹底だと。

言い換えれば「宗教が『知っている』と言っているものは全て科学の対象と
言え」ってことですよね。『信じている』だけだと認めているものは科学の
対象にしなくて良いけど、と。で、その理由は「宗教は『信じている』だけ
で『知っている』わけではない主張を押し付けてくることがあって、有害だ
から」。

macskaさんの定義そのものが、宗教的知を科学的知より不確かで範囲の狭い
ものであることを認めろ、という主張に読めます。
だからカガク主義的だったり宗教を否定していたり、のように見えるのでは?

で、ポイントは「科学の検証対象であるが、検証不能な現象について」。
これを「科学(“人間”と言い換えてもいいです)が検証不能なのだから、
宗教でも『知っている』とは言えない」という主張をmacskaさんはしている。
それに対し、「科学が検証不能なのだから、宗教が『知っている』かどうか
科学には何も言う術がない」というのが他多くの方の主張。私は後者に同意
します。

#「検証不能であれば科学の検証対象ではなく、範囲外である」という
#話もありますね。

ここでmacskaさんの主張は、「宗教の知は『科学が検証できる範囲』にだけ
収まるべきである」と読み替えることができますよね。なぜなら科学が検証
できない範囲については“宗教が知っているはずがないと断言できる”わけ
ですから。宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
てしまう。

#あるいは、宗教には『知』などありえない、という主張なんですか?
#もしくは、“よりよい生き方”みたいなことについては宗教的知がありえ
#るんでしょうか?宗教的知の一例でもないと理解しにくいですね。

基本的に私は「知ること」と「信じること」は区別すべきだと考えているし
宗教的知については「うん、科学的知とは違うけど信じてるんだよねー」と
答えてれば良いじゃんと思う方なのですが、宗教的知を科学的に検証可能な
範囲に限定するようなやり方は科学主義的だと感じます。

それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
と認められるんでしょうか?だったら「知っているはずがない」という主張
ができるはずがないので、ここはグローバル(?)な定義に従って解釈してみま
した。

206AH1:2007/01/17(水) 19:19:54 ID:MM7DYpv2
>どれも、わたしの主張とは全然違います。
>基本的に、わたしが批判しているのは科学の側ですから、それをご理解ください。宗教に対する注文はほとんどつけていません(「信じている」と「知っている」の区別をちゃんとつけてほしい、くらいは言いました)。

失礼しました。
ですが、科学の側に「カミだからって譲渡しないこと」を要求されるということは、
「科学は宗教に対し、『この世のことは僕、カガク君が最も良くわかっているのだ。キョウソ君が僕以上にわかっていることはないと言え』ということになるのではないか?」と読んだのです。
要するに、205のHijuさんの投稿とほとんど同じ意見です。重複を避けるため、私から新たには申しません。
他の方々も投稿されていますが、私も最初のmacskaさんの投稿の御意見に同意します。ただ、結局、macskaさんが科学に対して要求することは、現実の解釈を挟んで「宗教にこの世との連接を断って縮こまる事」を要求してしまうんじゃないかと感じ、それがアンチ宗教みたいに見えてしまう原因なのかな?と考えた次第です。
これも他の方々の投稿の繰り返しですが、信じていると知っているの定義についてが(もはや日本語の問題かもしれないが)食い違いの原因でしょう。
(つまりキョウソ君が「この世のことは『わかって』などいないよ、『信じて』いるだけさ。それで十分だろ?」と言えば問題ないわけですよね?)

207みずすまし:2007/01/17(水) 19:27:57 ID:TgyKdXjk
(>>203の補足)

私が,macskaさんの投稿について疑問に思っているのは,以下のうちの(1)です。


(1)「現実の世界で起こったこと」以外について,「知っている」というのは成り立つのではないか?

(2)「現実の世界で起こったこと」について,科学的知識以外に「知っている」というのは成り立つのではないか?

(3)あることを信じている人に対して,「それは,『信じている』だけで,『知っている』わけではないのではないか」といっても,無意味ではないか?

208名無しさん:2007/01/17(水) 19:44:32 ID:.Dq0EKFk
だんだんパフォ系社会学者みたいになってきてるね、このオバサン。

209diamonds8888x:2007/01/17(水) 20:12:07 ID:h2fLyT9w
>>188 macskaさん

 直接のレスは初めてですがよろしく。いくつかのテーマが混在してしまってますが、ちょっと列挙してみましょう。以下をまぜこぜで議論するとややこしいので>>>all

1.何が科学の検証の対象であるか、という問題
 「現実世界に介入するタイプの神は原理的には科学的検証の対象となり得る」
 これは科学の側の問題なので宗教側の論理は無関係だと思う。同じ対象が宗教でも科学でも対象になってたって構わないし。まあ既に終わってるでしょう(>>201, >>204)
2.macskaさんは宗教を侮辱したのか、という問題
 本人が否定してんだからいいんでないの。ま、そう取られた表現については謝罪してもいいかも。
3.宗教者は神を知っているか、という問題
 「知らないはずだ」と断言するのは正しいか?

 2が混じり込んで読み取りにくいんですが、それを除くとfukkenさん他の指摘しているのは3の問題です。最新のmacskaさんの表現(>>188)だと、
>宗教者が人知の及ばない物事について何かを言うとき、それは宗教を知らない一般人より何か確かな知識を持って言っているわけじゃないんですよ
>宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。

 この認識がたぶん共有されていないと思います。一番コンパクトで明確なのが谷庵さん(>>192)。
> また、優れた芸術家や職人は信じられない感覚を持っています。
> 優れた宗教家であれば、死後の世界のことも判るのかも知れませんよ。

 視覚の発達してない生物が「人間は大地のずっと上方には星という光り輝くものがあると言うが、それは知っているのではなく信じているだけだ」と述べたとしたら、どうでしょう? 視覚がなくとも知性があれば、それなりに科学が発達するでしょうが、「星が現実に介入した現象」はなかなか観測しにくいでしょうね。太陽ならバンバン介入してますが。

 アハ、H.G.ウェルズ作「盲人の国」の世界ですね。この作品はむしろ超人に対して「あんたの感覚を持たない者の知的体系も尊重せえよ」というメッセージの方が強く読みとれるように感じたものですが。

 いや人間は誰も同一種じゃないか、と言いたいかも知れませんが、人間Aが自分と同一種という認識も生物学に由来しますからね。

 ま、普通は上記のような極端な懐疑主義で世界を認識したりはしませんけど、ここの人達はそのレベルで議論してるんだってことで御了解いただければ幸いです。

 むろん我々の持っている科学は普通の人間が持つ普通の五感による観測を基にしていますし、超感覚を主張されてもそれを使うことは我々にはできません。それに世の中には、超感覚を持つと称して人々をだます、時には自分自身もだまされているらしい人(もしも嘘つきでなければ)もあまりにも多い。だから「宗教をやっている人たちだって同じ人間」と仮定して行動するのは極まっとうな戦略ではあります。
 ただそれは超人を凡人に引きずりおろそうとすることでもあるので冒涜の危険もあるのですね。ある意味、超人を認めず凡人の立場に徹することは誠実な行動とも言えますが。待てよ、それって当の超人から見たら果たして「侮辱」と感じるのかなあ? 「おろかな者どもがけなげにも頑張っているワイ」としか見ないような気もする。

210diamonds8888x:2007/01/17(水) 20:27:43 ID:h2fLyT9w
>>209
 「レベル」と言っても高いとか低いとかいう評価は意図していませんので誤解無きよう。

 「聖域に土足で踏み込む聖者」てのはロジャー・ゼラズニイ「伝道の書に捧げる薔薇」に出てきたなあ。ロマンだなあ。あれは認識というより行動の問題でしたが。

 科学は大地を踏みしめて歩くしかない牛のもの。空を飛ぶ竜には別の知的体系があるのかも知れないが。
 (高村光太郎「牛」を参考にしてね)

211diamonds8888x:2007/01/17(水) 20:48:06 ID:h2fLyT9w
 ところでみなさんは「宗教は」とか「宗教人は」とか言ってますが、それでどんな者達をイメージしているのでしょうか? そこの認識の食い違いももしかしたらあるのかも。
 変な表現ですが、宗教をサービス産業と考えると、生産者と消費者では範囲が違うでしょうし。宗教の場合は生産者はほとんどの場合は消費者でもあるのですが。これは科学でもスポーツでも囲碁将棋でも、およそ文化というものはそうなんですけど。 
 本筋の議論では生産者かつ消費者たる宗教人てことでいいのかな。私は消費者の立場というものも大事だと思いますが、本論からははずれますね。

212HAKASE:2007/01/17(水) 20:50:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.返答ありがとうございます.
議論が紛糾しているので情報提供だけにおさえようかと思ってましたが,返答をいただいたので少し書きたいと思います.

先の書き込みをした理由はいくつかあるんですが,そのひとつは,ある程度カオス理論を用いた実証的な研究を知ってる自分から見て,地下に眠るMさんの「カオス理論」の扱い方だとそれがトンデモ理論であると誤解されるんじゃないかなと心配したからでした.
地下に眠るMさんがあげられた話はあくまでも一般向けにニュアンスを説明するためのものであって,カオス理論にもとづく予測手法などはもっと科学的手法に基づいたものだということは理解してもらいたいなぁと思っています.
# そんなの承知の上というのでしたら,私の単なる杞憂です.すいません.

それから,量子力学とビッグバンの話について,少し誤解してるかもしれませんが書いて見たいと思います.ただ,後者の方は知識がほとんどないので何ともいえません.すいません.

量子力学については雰囲気をおおざっぱに知ってる程度ですが,特定の観測系で一定時間間隔ごとにデータ観測を行って時系列データを生成できるのであればカオス時系列解析の検証対象データとして扱うことができると思います.
確か量子力学の理論では「事象は確率的に決まる」というのが前提のひとつになってたと思いますが,カオス時系列解析を使うとそれが本当に「確率的」なのか,それとも確率的のように見えても実は特徴がある(カオス的)なのか評価できます.
もしカオス的な特徴が見つかれば,例えば10000回の観測の後の10001回目の観測結果を予測できる可能性があります(カオス的特長が見つかったからといって必ず予測できるわけではないですが).
私は,量子力学に詳しいわけではないですし,そういう研究がなされているかとか,既にカオス的でないことが明らかになってるかどうかも知りませんが,検証の対象になるという意味では「科学的手法では原理的に手が出せない」とまでは言えないと思います.
# 趣旨から外れてたらすいません.

213地下に眠るM:2007/01/17(水) 20:57:19 ID:cizMQ0FI
職場からだにゃー
ユダヤ教の安息日にあこがれる僕。労働基準法の罰則に死刑をいれるべきだにゃ(ぶつぶつ

なんか、新顔がぞくぞくにゃんね(嬉々

さて、僕は>>159
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。

をとりさげたつもりはにゃーのだが。宿題を優先してレスを後回しにしているだけ。
まあ、「観測とか」のところはとりさげておいたほうが話が早いので、取り下げておきますけどにゃ。
誤読で罵倒したら、罵倒キャラは廃業モノだにゃ。


本人が侮辱してないといいはれば、侮辱してにゃーことになるのなら、この世に差別主義者はほとんどいなくなるにゃ(げらげら

214GB:2007/01/17(水) 21:12:57 ID:jqYqTCMI
突然すみませんが、私は、macskaさんのコトバは、
「確かな知は科学だけのものなんだから、宗教が『知る』なんておこがましい、
せいぜい『信じる』というならば認めよう」という風に聞こえます。

しかし宗教的真理というのは、(人が生きる)意味・価値をもとに組み立てられたもので、
科学的な思考とは成り立ちも方法も違いますよね。素朴に、科学は意味にはかかわらないんだから
共存しましょうねと言ってもいいんじゃないかと思うし、
宗教が時代に合わせて教義の変更を行っても不思議じゃない、「意味・価値の部分(真理)」は
揺らがないでしょうから。

同様に、「現実世界に介入する神」という表現もよくわかりません。科学的認識の「外」→「内」、
つまり意味・価値の世界から現実世界(物理化学的世界)に影響を与えた実例など、
ありうるんでしょうか。
(もちろん聖書を含めた文献上の報告や超能力などは除きます)

215HAKASE:2007/01/17(水) 21:37:37 ID:ZC/gbS1c
せっかくですので,人間の意識が科学的手法で扱えるかの現状についても情報提供してみたいと思います.
義手の研究の話を聞いたことがありまして,これまでは筋肉を動かしたときにでる電気信号で義手を動かす研究がさかんだったそうです.
で,最近ではそこから一歩進んで,「右手を握りたい」と思ったときに右手の義手が握る動作をするにはどうしたらいいかって研究が始まってて,脳から出る信号を利用する試みもあるそうです.
もちろん,倫理的に問題ないのかとか,どうするべきかの「べき論」とかとは,切り離した場合での話ですし,現状ではここで議論してるレベルの話(知るとか信じるとか)までを科学的手法で扱ってるわけではないですが,意識や思考の問題が完全に科学的手法による検証の範囲外かというと,必ずしもそうではないと思います.
# 既に終わってる議論なのかもしれませんが参考になればと思います.

216地下に眠るM:2007/01/17(水) 22:04:57 ID:cizMQ0FI
仕事さぼりつつもう1点

情報提供あんがとね>HAKASE

カオス理論を持ち出した理由はtema の読みのとおりですにゃ。
で、ああいう書き方になったのは、僕がカオス理論をよくわかってにゃーからだ。
愚者というものは、自分のわかってもにゃーことを振り回したがるものなのですにゃ。


あと、お説のとおり、意識はカガクの対象であることはまちがいにゃーと思う>HAKASE
魂(タマシイ)とは意識というものを説明しようとして考えられた仮説という見方もできると考えますにゃ。
そして、唯物論の立場からみた観念論の最大の弱点のひとつは、「物質に影響をあたえることのできるのは物質だけである」ことにあるわけで、そうすると、魂とか霊魂はなんらかの意味で物質的な存在であることを認めるか(つまり唯物論の軍門にくだってしまう)、あるいは観念的存在が物質に影響を与えるその機構を示さなければならなくなるわけですにゃ。

ちゅうわけで、タマシイとタマシイの集う場である死後の世界というものは、「現実世界の森羅万象がカガクの対象である」のなら、カガクの対象になっちまうはずなんだけどにゃ。

などと、メモを兼ねて

217すらりん:2007/01/17(水) 22:47:17 ID:Fc.S231Y
横レス失礼します。
地下Mさんの↓を読んで疑問に思ってたんですが

>>104
宗教における知の体系というと、神秘主義がまず思い浮かぶにゃんね。スーフィーとかヨガとか禅とかいう体系には、修行者がいまどのくらいのレベルにあるかについては、先達がちゃんと判定できるということですにゃ。客観的な基準はあるらしい。客観的な基準はあっても体験者でなければわからにゃー。権威ある科学誌の査読はそれなりの科学者でなければつとまらにゃーのと同じことにゃんが、なにせ実際の体験の比重がカガクなどよりはるかにおおきい体系であるちゅうことは肝に銘じておかなければならにゃー。
こういう体系に対して、ソトから気楽に、どーせわかってない、とか、信じてるだけ、とか放言して、否定する対象についての無知と傲岸さを宣伝するという行為。
恥ずかしくにゃーのだろうか?


たとえばオウム信者の人にオウムの教義とかポアするだとかいったことについて
「貴方は修行が足りずステージが足りてないから理解出来てないだけ」
と言われたら
その言い分は(少なくとも可能性は)認めざるを得ない、ということなんだろうか?
それともオウム信者の主張は無視して良いとするなら、
その違いは何に拠るのでしょうね。
オウムは宗教界でも権威では無いからかな?

218e10go:2007/01/17(水) 23:34:13 ID:5/V6R9W6
初めまして。すらりんさん。

>>217
>たとえばオウム信者の人にオウムの教義とかポアするだとかいったことについて
>「貴方は修行が足りずステージが足りてないから理解出来てないだけ」
>と言われたら
>その言い分は(少なくとも可能性は)認めざるを得ない、ということなんだろうか?

一般人(信者でない人)がそう言われたら、「一般人」は「オウムの教義」について知らない(詳しくない)から、
「理解していない」と認めればいいでしょ。
仮に自分が信者だとしても、理解していなければ「理解していない」と認めればいいだけの事ですけどね。

しかし、「ポア」については、「チベット仏教のナーローの六法」を知っているなら、認める必要は無いでしょう。
だいたいオウムの一部の犯罪者共は、自分達の行為を正当化するために、「ポア」の意味を勝手に解釈しているんだから。

ようは、相手の事を知りもせず、また知ろうともせずに批判するのは傲慢でしょ、という事ですね。

知っている事なら、突っ込んでも良いんじゃないですか。

219妥当?進化論:2007/01/17(水) 23:38:05 ID:m5c0scEQ
横レス失礼します。

数年前にメインの掲示板や、ツリーの掲示板でお騒がせしたものです。
ほとんどに人は忘れてしまったと思いますが…

だいぶ議論が発展してしまっているので、元に戻るような話題をするのも何なのですが…
神と科学の適用範囲について、一時期はmacskaさんに納得しかけたのですが、自分なりの意見です。

まず最初に、「神の存在は、科学的手法で考られる範囲のものである」という命題ですが、「科学的手法」については皆さんの定義は一致できると思うので、まず問題は「神」の定義についてです。
ここでmacskaさんは「現実世界に関与する神」という定義をされているようです。
この定義をもっと厳密に見てみると、「現実世界に関与」した現象を考えると、科学的手法で説明のつく現象を行うものを神と呼べるでしょうか?
例えば海を割って道を造るという現象が、そのエネルギーの源から方法まで全く科学的に矛盾なく説明ができるのなら、ゆくゆくは人間能力でもできるのであって、それは神の所行ではないのではないでしょうか。
処女受胎の例も出されていますが、最近のニュースでコモドオオトカゲが雌1個体のみで他の雄個体と接触することなく、単為生殖で子供をなすことができることが確認されたようです。
それを持ってコモドオオトカゲが神であるといえるわけではないと思います。

次に「6000年で世界を作った神は科学で否定ができる」という話もありましたが、否定できるのは「世界を6000年で作ること」であって、実際には6000年で世界を作った神が、例えば46億年に地球ができたような証拠を残して世界をつくったのであれば、それを科学で考えることは不可能だと思います。
何せ科学的にはどうあがいても46億年で作ったことしかわからないのですから、そのような神は科学の範囲を超えています。

つまり現実世界に神が関与しているとしても、その現象を科学的に検証することができないのなら、その現象は科学の範囲外ですし、神の能力が科学を超えているのならやはり科学の範囲外です。
ということで、神の存在を考えることは「科学の範囲外である」と言えると思いますが、どうでしょうか?

220ぽっと出2号:2007/01/18(木) 00:11:52 ID:EZ3AtddI
妥当?進化論さんへ

横横レスになりますが・・・

>例えば海を割って道を造るという現象が、そのエネルギーの源から方法まで全く科学的に矛盾なく説明ができるのなら、ゆくゆくは人間能力でもできるのであって、それは神の所行ではないのではないでしょうか。

macskaさんが言っているのは、科学的に検証はできる(その結果が判定不能でも)ではないでしょうか?
つまり、『海を割って道を造る現象を、科学的に検証して、そのエネルギーの源から方法まで全く科学的に矛盾なく説明でき』なくても、良いわけです。
いや、説明できても良いんですが、macskaさんの論旨は、説明できるできないに関わらず検証対象にはなるでしょ?という事かと。

また、

>次に「6000年で世界を作った神は科学で否定ができる」という話もありましたが

「地球を6000年前に作った」かつ「地球が46億年前に出来たように見える証拠をつくるようなことをしない『人間を騙さない』神」という前提であれば、否定できるという話ではないでしょうか?

221ぽっと出2号:2007/01/18(木) 00:34:42 ID:EZ3AtddI
すみません、6000年の件については、私の誤解でした。
「地球を6000年前に作った」かつ「地球が46億年前に出来たように見える証拠をつくるようなことをしない『人間を騙さない』神」については、
NATROMさんの発言でしたね^^;

222macska:2007/01/18(木) 01:17:10 ID:VdHL1C4M
>>201
> 「イエスのDNAもしくはその断片が発見されたならば、水をワインに変えたり、
> 死者を蘇らせる能力を(身体的に)有していたか否か」が検証(自然科学の
> 方法論によって)できる、と述べているようにしか読めない。

そんなことはないし、そうは言っていない。イエスのDNA云々は、仮にの話で、例えばイエスの父と母が誰であったかDNAによって確認された場合、聖書による処女受胎の伝説が反証されることもあり得ると言っているだけ。DNAが発見されればその人物について何でも分かるなんてことは主張していません(いくらなんでもそんなトンデモありえない)。

> 無論「科学的に実証できるような出来事」を指して「奇跡」なんて呼ぶ必要は
> ない。奇跡というくらいだから「めっちゃあり得ない事象」で構わないわけで、
> これを「検証しようという試み」自体がすでに破綻しているんだよね。

だから、現実問題として検証可能なだけのデータがあるかどうかは別として、仮にそれが神の介入による現象でも、現実世界で起きたことは科学の探求の対象でしょう、と言っているわけ。現実世界で起きた物理的な現象が「科学の範囲外」というのは論理的におかしい。

>>205
> つまり、宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> だけだと認めろ、と、“宗教に対して科学側は主張すべきだ”と。

いや、この件についてはわたしが「宗教にも分からない」と言っているだけであって、科学の側がことさらそう宗教に向けて主張するべきだとは言っていません。

しかしまぁ、科学の側に立つ論者の一部が、科学に全く手の届かないテーマが話題に上ると「それは宗教の範疇である」として、まるで宗教にならそのテーマについて何か確からしいことが言えるかのように振る舞うことがありますが、それは不必要だと思いますけどね。

> macskaさんの定義そのものが、宗教的知を科学的知より不確かで範囲の狭い
> ものであることを認めろ、という主張に読めます。

宗教的知というのが、(文脈上)現実世界の外側の事象に対する、人間の知覚によって何の確認も取れない物事についての知識であるとすれば、それは科学的知より不確かであると言って問題ないのではないでしょうか。そしてそのことは、宗教の価値を何らおとしめないと思います。「宗教への侮辱だ」と反応している側のほうが、科学の価値観で宗教の価値を決めつけているという点で宗教を侮辱していると思います。

223macska:2007/01/18(木) 01:19:30 ID:VdHL1C4M
>>209
> ま、普通は上記のような極端な懐疑主義で世界を認識したりはしませんけど、
> ここの人達はそのレベルで議論してるんだってことで御了解いただければ幸
> いです。

しかし、だったら「わたしに」そういう超感覚があって、それによって「宗教にも分からない」ということが「分かっている」という可能性も考慮してくれても良さそうですが(笑)

真面目な話、仮にその「超感覚」を持つ人がいたとして、それが優れた科学者ではなく優れた宗教者に限られるという理由は、何かあるんでしょうか? わたしが言っているのは、「人知を越えた現象について宗教に特権的な知はない」ということなので、もしそうした「超感覚」が宗教だけでなく誰にでも開かれている(あるいは確率論的に開かれている)ということなら話が違ってきます。

>>214
> 突然すみませんが、私は、macskaさんのコトバは、
> 「確かな知は科学だけのものなんだから、宗教が『知る』なんておこがましい、
> せいぜい『信じる』というならば認めよう」という風に聞こえます。

宗教であろうと科学であろうと(あるいはただの個人であろうと)、知らないことを「知っている」と言うのはやめよう、というだけのことですが。

> 同様に、「現実世界に介入する神」という表現もよくわかりません。

現実世界に介入していると想定される神、という意味です。
実際に介入した科学的証拠は、いままでのところありません。

>>216
> ちゅうわけで、タマシイとタマシイの集う場である死後の世界というものは、
> 「現実世界の森羅万象がカガクの対象である」のなら、カガクの対象になっち
> まうはずなんだけどにゃ。

もしタマシイというのが物理的に構成されているなら(わたしはそうだとは思わないけれど)、当然科学の対象でしょう。違うという論理がまったく理解不能。

224地下に眠るM:2007/01/18(木) 01:23:33 ID:Ka2n4cc2
酒が入っているので罵倒レスはなし。
罵倒修辞学徒律法ケッヘル番号への3番で、酒飲んでの罵倒は禁忌とされているにゃ。

ちゅうわけで>>217のすらりんへレス。

まず、>>218のe10goの見解に僕は文句はにゃーです。
その上で
>「貴方は修行が足りずステージが足りてないから理解出来てないだけ」
>と言われたら
>その言い分は(少なくとも可能性は)認めざるを得ない、ということなんだろうか?

然り。
相手がたとえオームであっても、その部分だけで判断するのなら、真理をつかんでいるかもしれにゃーという可能性を捨てることはできにゃーです。実際、オームにはちゃんと勉強をしたはずの宗教学者がひっかかったりしていますにゃ。

ただ、オームが仏教をなのっていた以上、つまり仏教の権威を利用していた以上、仏教学・仏教哲学からの学問的な検証をうけることはさけられにゃーでしょう。ま、オームは仏教をなのりつつ、実際には神智学のパクリ教義だったにゃんが。

しかし、現実の言動をよくみることこそ重要ではにゃーでしょうか?
オームにおいてはインチキ予言を繰り返していたという事実がありますにゃ。僕ね、アサハラの戦慄の預言だとかいう本を持ってましてにゃ(こういうの大好きなのよ)。
93年に出版されたものにゃんが、すんごいぞー。
湾岸戦争でプラズマ兵気が使われて、10万人死んだけど死体はほとんど残ってにゃーだとか、97年には大恐慌がおきるだとか、もう外れた顎の骨がポルカを踊るようなシロモノ。
このあたりのタワゴトで、十分に正体の推測はできると思いますけどにゃー。

225地下に眠るM:2007/01/18(木) 01:24:18 ID:Ka2n4cc2
酔っぱらいの独り言
なぜ、数学が自然科学においてこれほど役にたつのだろう?

数学とは、その根本においてはニンゲンの純粋な思弁の自己運動みたいなところがあるにゃ。「現実」を解析するためにつくられたわけではない、いわば形而上的な体系であるのに、「現実」の解析に圧倒的な有効性を発揮するわけだにゃ。
数学がなぜ自然科学においてこれほど役に立つか、ちゅうのはなかなか答えがいのある問いかもしれにゃー。


ニンゲンの脳という器官は、数十億年の進化をへてつくられてきたものだにゃ。動物行動学者のローレンツによれば、「進化とは認識の過程である」そうだにゃ。
僕たちの脳は、数十億年におけるトライ&エラーで貯えた莫大な情報を物質的に構造化した器官だといえにゃーだろうか? ニンゲンの脳内における法則は、外界・自然界の法則と相当程度にパラレルな関係にあるのではにゃーだろうか? だからこそ、ほぼ純粋な思弁の結果である数学が、外界の事象の解析にあれだけの力を発揮するのではにゃーのだろうか?

だとしたら
数学以外の方法においても、ニンゲンには純粋な内省・思弁において、相当に信頼性の高い知の体系を築く可能性があることは当然なのではにゃーだろうか?
形而上哲学、あるいは神秘主義の知について、現在ここでは「まあソトからの否定は乱暴だよね」という理性的な論調が支配的にゃんが、僕はそうした知が現実に存在していることの可能性を積極的に主張したいにゃ。
カガクは確かに物質的に積み重ねられたクレーンかもしれにゃー。
しかし、形而上学は天からつり下げられたフックではにゃーのだ。形而上学を支えているのは、数十億年の進化を経た僕たちニンゲン存在の手なのではにゃーだろうか?

226fukken:2007/01/18(木) 05:21:46 ID:M5vfENrY
>>199
macskaさんに対してできるだけ丁寧に応えようと思って、言うことすべてに回答していたけど、それに対して自分に都合の良いところだけつまみ食いされ続けていい加減疲れました。
1対多であちらは大変だから仕方ないとも思ったけど、それにしたってこちらの論旨をことごとくかわして、急所への突っ込みや質問には一切応えないってやり方は、まともな論者のすることじゃないでしょ。

それに、私が拙い言葉でダラダラ書くより、それを簡潔明瞭に言ってくれる人たちも現れたようなので、以後こちらもmacskaさんへの対し方を変えることにします。
でも、私への質問にはすべて応えますよ。それが議論の上で最低限すべきことだと思うので。


macskaさんは他人には「それは言い過ぎだ」とか「知りもしないことを知っていると言うな」とか注文を付けるわりに自分が言われるとただ反発するだけのように感じますが、私の思い過ごしでしょうか。

「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
がいけなくて
「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
と言う表現には全く問題ないと言い切れる理由を”他人に誤解を与えかねない文章であるか否かの観点で”きちんと説明してください。
貴方の発言に対して「問題あり」とした私やその他数名の方が納得できるようにお願いします。

>どの言明を撤回すべきか、具体的にご指摘ください。
とのことですが、
管理人さんはご自身の上記言明に対し「趣旨はこうだが確かに不正確でした」と誤解を招く可能性を認めQ&Aを修正しました。
私は貴方の上記発言はそれ以上に問題がある(宗教、宗教者に対する偏見、侮辱を孕んでいる)と思っていますので、(非難の意味で使っていようがいまいが)同様に撤回もしくは訂正する必要があると考えます。


それから
何度も言ってきたように、宗教者でもない貴方が
「(死後の世界だとか人生の意味だとかいう問題については、)宗教にだって全く何も分かっていません。」
と言い切ることは論理的におかしいと言うのが私の主張です。
何もわかっていない”はず”とか”思われる”に修正すべきだと思いますが、どう思われますか?

これに関連して、

>死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。>>188

「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。>>195

と言う質問への回答がありませんでした。

知らないことを知っているなどと言わせないmacskaさんが「断言できる」と言うからには、神や死後の世界などに関して宗教(宗教者)がmacskaさん以上の知識を持っていないことを”知っている”はずですから、論理矛盾のないようにしっかりとした説明をお願いします。

227diamonds8888x:2007/01/18(木) 06:04:01 ID:h2fLyT9w
>>223
>真面目な話、仮にその「超感覚」を持つ人がいたとして、それが優れた科学者ではなく優れた宗教者に限られるという理由は、何かあるんでしょうか?

 ありません。宗教と名乗るかどうかは無関係です。実際の所は、宗教と名乗ろうが超能力と名乗ろうが宇宙人の友達だと名乗ろうが、「同じ人間だろ」と仮定するのが安全で確率の高い方法です。

228diamonds8888x:2007/01/18(木) 06:06:04 ID:h2fLyT9w
>>225
 数学も歴史的には現実解析の道具として発達したものでしょう。幾何学は測量のため、数論や代数は金勘定のため(^_^)、だけでもないけど。

>僕たちの脳は、数十億年におけるトライ&エラーで貯えた莫大な情報を物質的に構造化した器官だといえにゃーだろうか? ニンゲンの脳内における法則は、外界・自然界の法則と相当程度にパラレルな関係にあるのではにゃーだろうか? 

 ええ、そうらしいことは脳科学で色々と明らかになってきてますね。生物がロボットにとっての難問であるフレーム問題をすらすらと解決できるのは、まさに脳内法則が外界法則とパラレルで、しかも有用な情報のみを自然に選択する規則を生まれながらに持っているかららしいのです。

 て、科学からの解釈ですが(^_^)

229tema:2007/01/18(木) 06:54:55 ID:???
HAKASEさんへ

>>212
>確か量子力学の理論では「事象は確率的に決まる」というのが前提のひとつになってたと思いますが,カオス時系列解析を使うとそれが本当に「確率的」なのか,それとも確率的のように見えても実は特徴がある(カオス的)なのか評価できます.
>もしカオス的な特徴が見つかれば,例えば10000回の観測の後の10001回目の観測結果を予測できる可能性があります(カオス的特長が見つかったからといって必ず予測できるわけではないですが).

 「カオス時系列解析」は言葉すら聞いたことがなかったtemaですので、間違ってたら指摘して下さい。

 カオス理論で扱う「カオス」とは、「一見ランダム(ノイズ)に見えるが、実際は特定の数式により生成される(無限の)数列」と認識しています。ここから、カオス時系列解析とは「カオス」内の特定の数列を近似できる非線形微分方程式を求める技法、と想像しています。

 もし波束の収束が未知の数式により決定されているとしたら、収束する時刻および位置はカオス的でありカオス時系列解析により予測できる可能性があるのでしょう。しかし、波束の収束は非決定的であり、カオス的ではなくノイズである、と認識しています。
 この場合、カオス時系列解析を行っても意味がありません。

 また、解析のために使用する数列(この場合、波束が収束する時刻および位置)は観測によって得られます。しかし波束は観測した時点で収束するため、肝心な基情報に観測が多大な影響を及ぼします。このため、解析のための数列すら入手できません。

 以上により、カオス時系列解析を使用しても検証はできない、と考えます。

230tema:2007/01/18(木) 06:55:33 ID:???
…と考えはするのですが、ちょっと困りました。

 上記はコペンハーゲン解釈に基づいています。
 昨夜、調べてて始めて知ったのですが、量子力学に対してはコペンハーゲン解釈以外の解釈があり、その中に「パイロット解釈」という解釈があります。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E8%A7%A3%E9%87%88

 この場合、波束が収束する時刻および位置は決定的であり、カオス的振る舞いをすると考えます。
 パイロット解釈が正しいならば未来は決定されており、カオス時系列解析による検証が有効な可能性があります。この場合、観測が基情報に与える影響はありますが、「科学的手法では原理的に手が出せない」とまでは(temaは)言いません。

 ただし、現在の本流がコペンハーゲン解釈である以上、「科学的手法では原理的に手が出せない」と考えます。

231みずすまし:2007/01/18(木) 07:24:48 ID:TgyKdXjk
>>203をスルーされたのは,助詞が間違っていたからかと思って,訂正。


>>203
> 「科学に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにすること
> ができますが、『科学に対象とする領域において』宗教が何か確からしいことを言える
> のかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。」というのなら
> 分かります。


 「科学が対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにする
 ことができますが、『科学が対象とする領域において』宗教が何か確からしいこと
 を言えるのかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。」と
 いうのなら分かります。

に訂正します(「に」→「が」)。

232地下に眠るM:2007/01/18(木) 12:02:05 ID:btJIvKD.
僕がなぜ「宿題」を優先していたのかというと、macskaは都合のワリイ質問やツッコミをスルーし、自分の答えやすいところだけをねじ曲げて解答するということを常とう手段にしていると判断したので、過去ログからそうした事例をきっちりと示す必要があると考えたからですにゃ。
で、ゆっくりとやっていたら昨日、新顔が何人かきて、これから言おうと思っていたことをいくつか言われてしまったのだにゃ、NANにも「逐語解釈」を先にいわれてしまったし・・・・
まあ、みにゃさま僕が書くよりもうまくいってくれているので、それはそれでいいんですけどにゃ。

で、それに対するmacskaクンの対応は、やっぱり「スルー」
特に、>>202-203-205あたりの完成度の高いツッコミ投稿に対してはことごとくスルー。一応答えた箇所にしても、とても正面から答えたとはいえにゃーものだにゃ。で、答えられにゃーくせに、自説を曲げようとも譲ろうともしにゃー。もちろん、一対多の状況だしいろいろと大変だとは思うから、すぐにレスをかえせとも全てに詳細にレスしろと言う気もにゃーけどね。それにしても誤魔化しが歴然としてるだろ。

で、これからどうしようかとも考えたにゃんが、とりあえず宣言したことはやっておこうと思いますにゃ

では宿題のつづき
残っている宿題は、macskaは場当たりでテキトーなことをいう、とかいったことでしたにゃ。当然これは、都合のワリイことのスルーも含むわけで、みにゃさまが目の当りにしていることですにゃ。僕の投稿でスルーされている重要なところは、>>198全部と、>>102-110-154の流れでの
>>> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
>>> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。

>>それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。

>え?
>どう違うの?
>逃げにしか見えにゃーぜ。

ここについての答えがにゃー。ここは重要なところのはずだから、「逃げにしか見えにゃー」とわざわざ煽りまでくれたのにスルー。

233地下に眠るM:2007/01/18(木) 12:03:10 ID:btJIvKD.
さて、場当たり発言の好例を以下に。

>>31-33-93 は全てmacskaの発言より引用

>それは証拠不十分によって検知できないだけであって、
>原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべきです。>>31

>偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるのであって、いくらバラバラで予測不可能に見えても自然法則に従っていないはずがありません。>>33

>科学の範疇には、情報不足で解決不可能な問題はいくらでもありますよ。>>93

こうした発言をうけて、>>107において「本質的な偶然性」(ミケのレトリックでは「勝利の女神」)という概念を引っ張り出し、僕はこう発言したにゃ
>macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。しかしそれは、自分では気づいていにゃーのだろうけど、偏った立場なんだよね。

そしたら>>111
>わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。
>何十回も説明させるつもりですか?

だってさ(タメイキ

macska「偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるだけ」
馬鹿猫「macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだ」
macska「わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか? 」
・・・・漫才にゃんな。macskaクンの「いい加減にしろ」の用法として典型ですにゃ。

234地下に眠るM:2007/01/18(木) 12:03:53 ID:btJIvKD.
で、この「本質的な偶然性」「勝利の女神」がらみだにゃ。以下のミケの発言を参照。

>あー、科学で答えの出せないことを一まとめにして、
>「科学の外」と言うことが気に入らないというだけなんですね?>>136

>現実に干渉可能な神でも検証不能となる場合があることについては
>同意していただけるんですよね。>>138

>「検証不能である」という部分がmacska さんに通じていなかったのでは?
>という点だったので。
>それが誤解だったらしいことが分かったので、もう引き上げたわけです。>>151

こうしたミケの発言に対し、macskaは直接は応答していにゃー。(得意のスルー?)
しかし、以下の発言はあるにゃ。

>わたしが一貫して言っているのは、
>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
>と、それだけです。>>133

>ようやくわたしが何を言っているのか理解されかけてきた様子。>>150

つまり、macskaは検証不可能な事象についても、「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇」だといっているわけ。検証不可能ということは、カガクにおける理論化の契機すらにゃーということだにゃ。そこで、僕の以下の発言。

>macskaクンの主張がどんなに白痴的で無意味かチミにはわかんにゃーのかな?
>観測とか実証の可能性がなく、理論化の契機がない事象についてすら、現実世界の森羅万象がカガクの検証対象だとあのオツムてんてんは抜かしているにゃんぜ。
>言い換えると
>カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ、といっていることになるにゃ。>>159

上記の発言から「観測とか」の部分はすでにとりさげているにゃ。
これでも僕の発言は誤読に基づくものかい?>Josef・diamonds8888x

まともなカガク観からは
>※一応ミケとしてはそもそも検証の対象にできようができまいが、
>検証不能なものを科学の範疇である、という言明には賛成できない、
>という立場です。今でも。
という言明がでてくるだろにゃ。僕もそれに賛成。

で、まあこれだけならば、macskaのいう「科学の対象」という概念はただのゴミだというだけのことで(十分に有害でカガク主義よりの概念なのは確かだけど)。
でもさあ
>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。 >>75

などといっちゃっているんだよにゃ。検証不能というのは、カガクには何もいえにゃーということ。現実世界におこることであれば、何もいえにゃーことについてすらカガクの独占対象であるってどうよ? もうとにかく無茶苦茶。

235地下に眠るM:2007/01/18(木) 12:08:32 ID:btJIvKD.
ああ、失敬
>>205は形としては一応スルーされてなかったにゃ。ごめん。

ついでに
216はメモなんで、そこに突っ込まれても(しかも明後日の方をむいたツッコミ)なんともいえにゃーな。

236macska:2007/01/18(木) 15:19:53 ID:VdHL1C4M
>>226
> macskaさんに対してできるだけ丁寧に応えようと思って、言うことすべてに
> 回答していたけど、それに対して自分に都合の良いところだけつまみ食いさ
> れ続けていい加減疲れました。

うーん、わたしもそのつもりなんですが。

> 「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
> がいけなくて
> 「宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事
> 実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。」
> と言う表現には全く問題ないと言い切れる理由を”他人に誤解を与えかねな
> い文章であるか否かの観点で”きちんと説明してください。

全く問題がないことを説明しろと言われても、どこが問題なのかさっぱり分からないので。そこに書かれたことは事実じゃないですか? それとも、事実だけどそういう言い方は失礼だという意味ですか?

> 私は貴方の上記発言はそれ以上に問題がある(宗教、宗教者に対する偏見、
> 侮辱を孕んでいる)と思っていますので、(非難の意味で使っていようがい
> まいが)同様に撤回もしくは訂正する必要があると考えます。

うーん、しかしわたしはそうは思わないのです。事実を言った結果、事実を拒絶したい人を傷つける可能性があるのは分かるけれど、だからといって事実の側を撤回もしくは訂正するのはおかしいと思うし。困ったな。

> 「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。>>195
> と言う質問への回答がありませんでした。

人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない、という論理そのものが根拠です。ていうか、確かにそう答えたけどな。「そんな答えじゃ満足できない!」というならまだしも、回答そのものがなかったことにしないで欲しいです。

まぁ、こんなことで揉めてもしかたがないので(言わなければいいのにちょっとサービス精神出して言っただけだし)、どうしてもと言うなら撤回して言い換えてもいいです。

「科学がわからない領域のものごとについて、宗教が何かわかっているという証拠は一切ない。八百屋や農民や大工や主婦に分からない、現実世界の外のものごとが、宗教家になら分かるという証拠も一切ない」

これなら、みなさん満足していただけるでしょうか。

237macska:2007/01/18(木) 15:20:28 ID:VdHL1C4M
>>232
> 特に、>>202-203-205あたりの完成度の高いツッコミ投稿に対してはことごとくスルー。

まず >>202 はあれは答えようがないでしょう。
>>205 に関しては、答えたつもりだけど。

>>203 は、どこに答えればいいのかな。
「神学的知はどうして排除されるのか」という問いなら、空からのフックによってもたらされるものをわたしは「知」とは呼びません(宗教学や宗教史、神学史なら、「知」になり得ます)。その理由は既に書きました。
残りは、わたしに対する質問ではないようですね。

>>> ニンゲンの意識の有り様を解析していけば、一定の条件のもとでの「正しい生き方」
>>> は自然科学で答えが出せるかもしれにゃー。

>>それは、宗教が教えるような、いわゆる「正しい生き方」とは違った意味になりますね。

>え?
>どう違うの?
>逃げにしか見えにゃーぜ。

「正しい生き方」という課題に自然科学で答えが出るという部分で既にブッ飛んでいてわたしの理解を越えています。そうして判明する「正しい生き方」というのが仮にあったとして、それは宗教の教える「正しい生き方」とは違ったモノなんじゃないかと思うんですが。

いや同じだと言うなら、そもそも自然科学の手法でどのようにすれば「正しい生き方」が示されるのか、説明してください。そんなわけの分からない話を持ち出しておいて、わけが分からないからスルーしたら「弱点を突いたぞ!」みたいに反応されても困ります。

>>233
はい、その部分は、本来の議論とは関係のない議論に踏み込んでしまって、分かりにくくなってしまったと思います。しかし、 >>33 の時点から >>111 の時点までのあいだに「わたしの主張はそれではなくこれです」と何度も説明しているわけで、それだけ離れた発言を連続するものであるかのように書くのは不当です。

はっきり書かないと分からないようなのでもう一度説明しますが、>>33 で示した「偶然」についての認識は、わたしは撤回しているのです。なぜなら、それは本来の議論から離れた論点であり、本来わたしが主張していることは、>>33 で示した認識に依存しないからです。

> 検証不能というのは、カガクには何もいえにゃーということ。現実世界におこる
> ことであれば、何もいえにゃーことについてすらカガクの独占対象であるってど
> うよ? もうとにかく無茶苦茶。

科学の「独占」対象だとは一度も言っていませんが。

というより、科学と宗教では、対象に重なりがあるとわたしは一貫して言っています。つまり、現実世界の事象は科学の独占対象ではない、という主張をわたしはしていることになります。わたしの主張の正反対のことを、わたしの主張であるとすり替えて批判するのはやめてください。

238fukken:2007/01/18(木) 15:40:38 ID:M5vfENrY
>>236
>全く問題がないことを説明しろと言われても、どこが問題なのかさっぱり分からないので。そこに書かれたことは事実じゃないですか? それとも、事実だけどそういう言い方は失礼だという意味ですか?

「あなたは、分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる。」と言われて平気ですか?
(ま、貴方はあまり羞恥心がなさそうだから平気かも知れないけど、じゃあロムの皆さんにでも聞いてみるといい。)
普通の神経の人なら怒るでしょう。
それを、「宗教はそんな詭弁すら容認されている。だから信者はラッキー。」って・・・。

前にも言ったけど(案の定スルーされたけど)
自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な行為でなく宗教自体が認める行為であるとどうして断定できるのか。
きっちりと説明してください。

239AH1:2007/01/18(木) 15:45:02 ID:MM7DYpv2
macscaさんの発言にある
>いや、この件についてはわたしが「宗教にも分からない」と言っているだけであって、科学の側がことさらそう宗教に向けて主張するべきだとは言っていません。(Msg222)

>宗教であろうと科学であろうと(あるいはただの個人であろうと)、知らないことを「知っている」と言うのはやめよう、というだけのことですが。(Msg223)

の使い分けがどうしてもわかりません。また「科学がカミだからって常に譲渡するのはやめよう」という最初の主張とも微妙に違うような気がします(これは科学に対して言われた言葉ではあるが、カミに対して言及するという点で宗教に対して要求がある、ということになると思う)。
macscaさんが理想とする状態、あるいはmacscaさんが苛立ちを感じない宗教の在り方を教えて頂けませんか。

240macska:2007/01/18(木) 16:32:26 ID:VdHL1C4M
>>238
> 「あなたは、分からないことについてさも知っているように自分の思い込み
> を事実とすりかえる。」と言われて平気ですか?

一般論として正しいことでも、特定の個人に対して言えば失礼にあたるというのはよくあることです。わたしは一般論として宗教とはこういうものであると言っているのであって、特定の宗教者に対して言っているわけではありません。例えば、特定の宗教者を指差して「こいつは分からないことをさも知っているようにすりかえている」と叫べば、そりゃ当然失礼にあたるでしょう。

ところで、「あなたが言われても平気か」と返したということは、あなたの批判は「事実に反する」という批判(事実についての批判)ではなく、「事実であるが/仮に事実であっても言うべきではない」という批判(倫理についての批判)だということでいいですか?

> 自分の思い込みを事実とすりかえる人がいたとしても、それが本人の勝手な
> 行為でなく宗教自体が認める行為であるとどうして断定できるのか。

例えば、ある個人が自分の思い込みを勝手に事実とすりかえていて、その人に向かって宗教が「それは違う、実際はこうである!」と言ったとして、その宗教の側の言い分というのはその個人の思い込みに比べてより確かなものなのかというと、そんなことないでしょ?

>>239
わたしの名前が違ってますが(別に失礼だとか言いたいわけじゃなくて、今後のために)。

> 使い分けがどうしてもわかりません

使い分けというか、一連の主張のうちの別の箇所をとりあげているだけに見えますが。

> また「科学がカミだからって常に譲渡するのはやめよう」という最初の主張とも微妙に
> 違うような気がします

だから、最初の主張とは別の主張なんですって。
こうも混沌としてくると、余計なことは言わなきゃ良かったと思うわけですが、言った内容が間違いだったとは思っていません。

わたしの最初の主張は、科学に対するものです。

それに対し、「知らないことを『知っている』というのはやめよう」というのは、最初の主張とは別に言った、誰にでも通用することですが、特に一部の宗教では「知っていること」と「信じていること」を区別しない傾向があるのが問題だと思っています。

> macscaさんが理想とする状態、あるいはmacscaさんが苛立ちを感じない宗教の在り方を
> 教えて頂けませんか。

それらの答えは、わたしには思いつかないです。

241fukken:2007/01/18(木) 17:20:02 ID:M5vfENrY
>>240
>例えば、ある個人が自分の思い込みを勝手に事実とすりかえていて、その人に向かって宗教が「それは違う、実際はこうである!」と言ったとして、その宗教の側の言い分というのはその個人の思い込みに比べてより確かなものなのかというと、そんなことないでしょ?

質問は、「宗教自体が認める行為であるとどうして言えるのか?」です。
良く考えて回答してください。
貴方の質問については、これを良く理解してもらわないと回答してもまた誤解されるだけだと思いますので、納得のできる回答をいただいてからお答えします。

242みずすまし:2007/01/18(木) 17:23:21 ID:TgyKdXjk
>>237

> >>203 は、どこに答えればいいのかな。
> 「神学的知はどうして排除されるのか」という問いなら、空からのフックによってもた
> らされるものをわたしは「知」とは呼びません(宗教学や宗教史、神学史なら、「知」
> になり得ます)。その理由は既に書きました。


「その理由は既に書きました」というのは,「人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない」(>>236)だと思います。それは正しいと思います。

# ここでいう「知覚」とは,五感とその統合作用による知覚だと思いますが,以下,そ
# の前提で書きます。

しかし,「人間の知覚の対象とならない物事」について,確かな(or かなり確からしい:以下同じ)知識を得ることはできるのではないでしょうか?


例えば,数学がそうですよね。

macskaさんが,数学的知識も「人間の知覚の対象と *なる* 物事」の知識だというのならばそれはそれで一つの立場だと思いますし(私は賛成できないけど),数学的知識は確かな知識ではないというのならそれも争う気はありません。

しかし,もし,macskaさんが,数学的知識が「人間の知覚の対象とならない物事」の知識であり,確かな知識だと認めるならば,少なくとも「人間の知覚の対象とならない物事」について,確かな知識を得る方法を一つは認めるわけですよね。

さらに,もしそうであるならば,科学的知識と神学的知識は「人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない」ということで区別できたとしても,数学的知識と神学的知識はそれでは区別できません。

それならば,どういう理由で数学的知識と神学的知識は区別するのだろうか,というのが私の疑問です。


ところで,「空からのフック」(>>237)・「下から築き上げるためのクレーン」(>>179)というアナロジーがよく分からないのですが,そのアナロジーだと,数学的知識は「空からのフック」に吊るされたものになるのでしょうか? それとも「下から築き上げるためのクレーン」があるものになるのでしょうか?

243NAN:2007/01/18(木) 17:43:17 ID:IFKuzC4g
返答(>>222)があったようなので書きます。

>そんなことはないし、そうは言っていない。イエスのDNA云々は、仮にの話で、例えばイエスの父と母が誰であったかDNAによって確認された場合、聖書による処女受胎の伝説が反証されることもあり得ると言っているだけ。DNAが発見されればその人物について何でも分かるなんてことは主張していません(いくらなんでもそんなトンデモありえない)。

自分で味わってみないとなんとも云えんと思ってたんだけど…なるほどmacska氏の議論スタイルは
→他者には逐語的読解を要求するのに、自説については解釈の幅を持たせる方式
のようです。

こぉいう場合、「イエスのDNA云々についての自分の記述には問題があると認めるor取り下げるand勇み足についてケリをつける」というアクションを行った上で、「しかし本来自分の述べていることとは…」とやらにゃぁ、紛糾するに決まってるでしょう。挙句に私の指摘を「意図的に誤読」しているようにも見える。意図的な誤読は詭弁議論の基本的な手段で、macska氏のそれは「ソフトな強弁」という印象。

明らかに「イエスのDNAが手に入れば、イエスが行ったとされる奇跡もカガクの検証対象となる」とmacska氏が述べている。この指摘に対して「そんなことは云っていない、それは仮の話である」と逃げる。仮の話だろうとなんであろうと、明らかに「イエスのDNAが手に入れば奇跡を反証できる」と云っているのにそれを認めない。挙句に「処女受胎という奇跡が(たかがカガクによって)反証される」とか述べる。それは結果的に「奇跡の定義」をカガクの範囲に収めるべきだ、という「カガクの側からなされる宗教側に対する冒涜」であることに、いまだに気づいていない、あるいは認めない、というカガク万能主義に基づいた思い上がりにしか見えないのは当然だろうね。

>現実世界で起きた物理的な現象が「科学の範囲外」というのは論理的におかしい。

イエスの奇跡(に限らず、さまざまな信仰対象となる奇跡)が、現実世界で起きた物理的な現象である、となぜ決め付けられるのだろう。これが「逐語解釈」にほかならない、と私は述べている。macska氏が「そんなのは仮の話だ」と逃げまくるのとは違い、まともな宗教者であれば毅然として「カガクの対象がカガクの対象であるのは当然だろ?だがこれは宗教の話だよ?」と述べておしまい。

逐語解釈に従い、聖書の記述はすべて一字一句正しいので「カガクが提唱する進化論は間違いである」と述べるのが原理主義的創造科学であり、疑似科学の典型なわけですが…カガクの側がそれを積極的に行うのであれば、なるほど聖書やその他の経典の中身はすべて「論理的、科学的にマチガイ」とかいうことになり、それが宗教者に対する甚だしい冒涜になるとは思わないのだろうか?

244AH1:2007/01/18(木) 18:35:11 ID:MM7DYpv2
>わたしの名前が違ってますが(別に失礼だとか言いたいわけじゃなくて、今後のために)。

大変失礼致しました。気をつけます(咎められなくてもこれは明らかに失礼ですので)。

>使い分けというか、一連の主張のうちの別の箇所をとりあげているだけに見えますが。

確かにそうかもしれないのですが、macskaさんが「要するにどうしたいのか」がよく見えなかったのです。
(複数の話が錯綜していることはわかっております・最初の提案はわかりやすかったのですが、以後、頭が混乱してしまいました)

>> macscaさんが理想とする状態、あるいはmacscaさんが苛立ちを感じない宗教の在り方を
>> 教えて頂けませんか。
>それらの答えは、わたしには思いつかないです。

うーん・・ そうですか。
私が感じていたことは202で酔っ払いさんが見事に表現されているのですが、ああいうのとも違うんでしょうか。

245macska:2007/01/18(木) 19:24:33 ID:VdHL1C4M
>>241
> 質問は、「宗教自体が認める行為であるとどうして言えるのか?」です。

個別の「思いつき」であれば、宗教が認めることもあれば認めないこともあります。

わたしが言うのはそういう個別の話じゃなくて、宗教というのは「何も根拠はないけれど、信じる」という振舞いが許される領域なのではないか、と言っているの

「どうして〜と言えるのか?」と何度聞かれても、わたしがもともと言っていた発言と違う内容について責任は持てません。

> しかし,「人間の知覚の対象とならない物事」について,確かな(or かなり確から
> しい:以下同じ)知識を得ることはできるのではないでしょうか?

はい、五感のほかにも「論理」という道筋があります。数学もその一部だと思います。

わたしが「知覚」というとき、五感だけではなく論理的に導き出されるものも含めたつもりですし、現にわたしは議論の中で論理を「確からしさ」の源泉として援用しているので文脈上そう理解してもらえないこともないと思いますが、はっきりと説明していなかった点はすみませんでした。

> ところで,「空からのフック」(>>237)・「下から築き上げるためのクレーン」(>>179)
> というアナロジーがよく分からないのですが,そのアナロジーだと,数学的知識は「空
> からのフック」に吊るされたものになるのでしょうか? それとも「下から築き上げる
> ためのクレーン」があるものになるのでしょうか?

数学は、非常に有用なクレーンの1つです。
どんな複雑な数学的知識も、より細かい部品を積み重ねた上に到達できるわけですから。

>>243
> 明らかに「イエスのDNAが手に入れば、イエスが行ったとされる奇跡もカガクの
> 検証対象となる」とmacska氏が述べている。

言っていない! いくらなんでもそこまでバカだと思わないでください。そんな読解が可能だなんて、あなたに言われるまで考えもしなかったくらいで。

イエスのDNAが手に入れば(そして周囲の人のDNAも手に入れば)、イエスの両親が誰であったかということは科学的に検証できる。できないという理由が何かありますか?

> イエスの奇跡(に限らず、さまざまな信仰対象となる奇跡)が、現実世界で起きた物理
> 的な現象である、となぜ決め付けられるのだろう。

現実世界で起きたとされる現象ならば科学の範囲であると言っているのであって、奇跡と呼ばれるものは全て現実世界で起きた物理的な現象であるとは言っていません。まぁ現実に何を人々が「奇跡」と呼んでいるかと調べれば、その大半は「現実世界で起きた物理的な現象」のことだとされているけどね。

たとえば、イエスが水をワインに変えたというのが何かの例え話だとしたら、もちろんそれは科学的検証の対象ではありません(が、もし例え話なら、奇跡とは普通呼ばないですね)。しかし、現実にイエスが水をワインに変えたという主張であれば、それは科学の対象となるはず。

> カガクの側がそれを積極的に行うのであれば、なるほど聖書やその他の経典の中身はすべ
> て「論理的、科学的にマチガイ」とかいうことになり、それが宗教者に対する甚だしい冒
> 涜になるとは思わないのだろうか?

科学の側が積極的に宗教の教典の中身を検証しろとは言っていません。
まぁ、もしやる人がいたら、それは確かに宗教に対する敵意丸出しですね。

# 敵対行為だとは思いますが、冒涜というのはちょっと違うような気がします。

>>244
> macskaさんが「要するにどうしたいのか」がよく見えなかったのです。

じゃあ、標語風にしちゃいます。
人知の及ばない領域の問題について、宗教だけに何か特別の知があるかのように扱うのはやめよう。

246YS:2007/01/18(木) 19:42:14 ID:PQAzdVPI
一読者として解説を加えさせてもらいましょう。
私には macskaさんは例えの使い方がわるかったぐらいで議論にあまり問題があるように思えません。macskaさん、これ以上論理的思考のトレーニングが足らない人たちと議論するのはあなたにとって時間の無駄だと思うんですけどね。

「クレーン」「フック」はダニエル・デネットが使うたとえです。知識体系という塔を積み上げていくのに、下位概念から上位概念を積み上げていくのがクレーン、その逆がフックです。生物学/地質学etc.の基本的証拠から進化を論ずるのが前者、創造者/デザイナーの存在をもとにそれらの基本的証拠を論ずるのが後者の思考法です。数学(なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが)および科学は主にクレーン的思考を使用します。たとえばユークリッド幾何学は平行線は交わらないなどの直感的な公理をもとに定理を構築します。「クレーン」「フック」の違いはその論理体系の基盤となる公理の性質の違いといってもいいかもしれません。「我唯一の神の存在を信ず」と「我平行線は交わらない事を信ず」の信念としての差はない、とおっしゃる方にはクレーンもフックもありませんし、私としては議論の仕様もありません。

あとmacskaさんの主張を理解するのに必要なのは>>110にある「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」という当たり前のルールですね。>>202に関していえば、Aが宇宙の真理が42である証拠を出さない限り、Bは(そしてA以外の誰も)Aの主張を論理的に認める義務はありません。これは科学もクソもない、単なる論理の問題にすぎません。

って書こうとおもったらもうmacskaさん書いてたね・・・・・
>>244の標語にどんな文句があるんですか?皆さん?

247YS:2007/01/18(木) 19:44:02 ID:PQAzdVPI
まちがい、>>245の標語。

248AH1:2007/01/18(木) 20:11:37 ID:MM7DYpv2
>じゃあ、標語風にしちゃいます。
>人知の及ばない領域の問題について、宗教だけに何か特別の知があるかのように扱うのはやめよう。

了解いたしました。回答、ありがとうございます。
そして人知の及ぶ領域については、当然、科学の出番ですよね?

249HAKASE:2007/01/18(木) 20:46:28 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.

カオス時系列解析の理解については,temaさんの書かれた想像で正しいと思います(私自身とても詳しいというわけではないですが,私の理解と一致しています).
それからパイロット解釈の紹介ありがとうございます.私も知りませんでしたが,カオス理論を用いた検証をしようという試みは量子力学の分野でも検討されているということですね.

「観測が多大な影響を及ぼす」場合についてですが,観測が基情報に影響を与えても,ある特定の観測装置で観測した時系列データが得られさえすればカオス時系列解析の分析対象になり得ます.
ただし,得られるモデルは「データ収集に利用した観測装置の特性も含めた観測対象の数学的なモデル」になります.
そして,その観測装置が,各データ観測時刻で同じ特性を持つものだった場合,観測結果がカオス的であることが示されれば,観測対象を数学的モデルで表せる可能性が示唆されます.
そういう意味ではカオス時系列解析でも,数学モデルが生成可能か否かの実証的な検証は可能だと思います.
# 門外漢なので間違っているかもしれませんが,もし量子力学の理論が,カオス理論による数学のパラダイムシフトを考慮しない数学体系で証明されているなら,今後の科学的検証によって修正が入る可能性はあると思います.

temaさんの意見についてですが,もし「現在主流である科学的な論理(コペンハーゲン解釈)では,原理的に説明ができない」という趣旨でしたら,私もtemaさんの意見に同意します.
ですが,もし「科学的なデータ解析手法を適用して(例えば予測可能性などを)検証することが原理的にできない」という趣旨でしたら,私は原理的に不可能とまでは言えず,例えば上に示したような科学的な手法に基づく検証は可能なのではないかなと思います.

おそらくtemaさんのご意見の趣旨は前者だろうと思います.一方,私が示したかったのは後者の意見で,この両方の意見は両立可能だと思います(私は両方の意見に納得しました).
なので,temaさんに「後者の意味では「科学で扱う範囲内」である」という趣旨に賛同していただけると,お互いに合意したうえで意見交換を終了にできるかと思いますが,どうでしょうか?

250えめ:2007/01/18(木) 21:15:13 ID:0JLPCUfQ
>たとえば、イエスが水をワインに変えたというのが何かの例え話だとしたら、もちろんそれは科学的検証の対象ではありません(が、もし例え話なら、奇跡とは普通呼ばないですね)。しかし、現実にイエスが水をワインに変えたという主張であれば、それは科学の対象となるはず。

ほーほー。水をワインに変える、ねえ。
 「ありえない」を前提にして話してるでしょ。ニヤニヤ
でもね本当にあったらどうするの?

イエスのDNAだって調査したら外見は男にも関わらずDNAはマリアとまったく同じ(処女生殖)だったらどうするの?
「そんなことはありえないんですよ」
ですか?
でもそれらが観測されたら、貴方はどうするの?

>>37
の問い
>仮に現在イエスが存在したとして、水をぶどう酒に変えて見せたとして
>まぁ、おそらくマジシャンも参加した実験を繰り返しますわな。
>で、結果
>1.科学者が調べたが確かに水の組成はぶどう酒へと変化していた。
>2.実験は厳密に行われ、トリックの介在できる余地は一切なかった。
>3.念じただけで水がぶどう酒に変わる原理など皆目見当もつかなかった。
>4.当の男はこの現象は神への信仰によって齎される(奇跡)と主張していた。
>さて科学者はこの場合、自然法則を超越している「奇跡」だから神の存在(意思)が証明されていると主張すべきですか?

 元々は科学は奇跡と呼ばれる現象をどう扱うか、と言う話なんですが答えは
>>41
>ええと、あのですね、だから、水がワインに変わるわけがないんですよ。

残念なのはこの返答はただの常識であって科学(としての姿勢)ではないと言うこと。
皆がありえないと考えているから宗教的には奇跡であり、奇跡を起こしたとされるから預言者の一人として認められているのでしょう。
 
科学って言うのは現象のメカニズムを探求するツールであるから、厳密に用いたにもかかわらず意に反する結果が出たからと言って「”常識では考えられない(あるいは現在の仮説では説明できない)”からありえない」と断言するのは拠り所とするツール、科学すら実は否定してるって事になりませんか?


余話ですが
今更ながらですが地下ネコさんにお礼です。
宗教と科学は呪術において重なり合う、とても参考になりました。

賑やかでROMも楽しいですね。

251みずすまし:2007/01/18(木) 21:36:46 ID:TgyKdXjk
>>245
> わたしが「知覚」というとき、五感だけではなく論理的に導き出されるものも含めたつ
> もりですし、現にわたしは議論の中で論理を「確からしさ」の源泉として援用している
> ので文脈上そう理解してもらえないこともないと思いますが、はっきりと説明していな
> かった点はすみませんでした。
〔・・・〕
> 数学は、非常に有用なクレーンの1つです。
> どんな複雑な数学的知識も、より細かい部品を積み重ねた上に到達できるわけですから。

うーん… 以下の質問はスルーしていただいても良いのですが(枝葉の枝葉を作り出すことになるから),余裕があればお答えください。

第一に,macskaさんは「数学」を「科学」に含めるんでしょうか?

第二に,論理的というよりも直観的な数学的知識もあるんじゃないでしょうか?

これは説明を加えます。
例えば,「ある三角形に内接する円は一つだけ,そしてただ一つだけある」というのは直観的に正しいですが,私はその証明を知りません。しかし,やはり,私は「ある三角形に内接する円は一つだけ,そしてただ一つだけある」と知っているといってよいと思うのです。

# 現代のソフィスケートされた数学では「直観的に正しい」というのは通用しないかも
# しれない。でも,数学がそこに至るには19世紀〜20世紀初頭まで待たなくてはならな
# くって,それ以前の数学者はいくぶんかは「直観的に正しい」ということに頼らなく
# てはならなかったはず。

厳密さのために,手元の書籍から一例を引いておくと,『数学的経験』には,「われわれはこの問題の分析型の解を知らない」(おそらく,公理から論理的に組み立てられた証明はまだない,という意味に解してよいと思う)定理として,「ゴモリー(E. Gomory)の定理」というものが,幾何学的に直観的な証明とともに紹介されています。


>>246
> (なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが)

私個人の言語感覚。
数学が「科学」に含まれるかどうかは言葉の使い方の問題なので,はっきりしてさえいれば,どちらでも良いのですが。

# 日本では,「科学」に数学を含めない用法のほうが一般的じゃないですか? とは思
# うけど,水掛け論になるので。


> たとえばユークリッド幾何学は平行線は交わらないなどの直感的な公理をもとに定理を
> 構築します。

直観的な公理が「正当化された真なる信念」であるということでしょうか?
それとも,ユークリッド幾何学の公理が「真」であるのは,そう公理が定められているからであって,その公理系を離れては「真」でも「偽」でもないという話でしょうか?

252fukken:2007/01/18(木) 21:43:50 ID:M5vfENrY
>>245
>個別の「思いつき」であれば、宗教が認めることもあれば認めないこともあります。
>わたしが言うのはそういう個別の話じゃなくて、宗教というのは「何も根拠はないけれど、信じる」という振舞いが許される領域なのではないか、と言っているの
>「どうして〜と言えるのか?」と何度聞かれても、わたしがもともと言っていた発言と違う内容について責任は持てません。

こちらはあなたが言ったままを尋ねているだけなのですけどね。
NANさんにあれだけ書かれてるのに、今度は「ではないのか」なんていきなりトーンダウンさせたりしてるし。

いいですか。(わかっててやってるっぽいけど、一応もう一度説明してあげます。)
「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」が人として良い行いでないことは了解してもらえていますね?
「宗教はそれをして良いことになっている」と貴方は言ってしまったのです。
もっと分かりやすく言えば、「宗教は悪行をして良いことになっている」です。
それでもこの発言に問題ないと言うのですか?

253地下に眠るM:2007/01/18(木) 21:50:21 ID:cizMQ0FI
またわかりやすい馬鹿がきたこと(ほくそ笑む僕

>>246
> (なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが)

ほれ、ウィキから引用だにゃ
***************************
「数学は理学や自然科学ではない」と考える主な根拠は数学は自然現象を対象にしていないというもの。より詳しく言うと以下の通り。

* 数学では実験も観察も行わない:「仮説を立て実験観察により検証する」という自然科学の最大の特徴を欠いている。数学は自然科学とは異質な学問である。
* 数学は机上の空論:自然科学は自然現象を扱う学問である。しかし数学はただの論理で、公理から導けるものなら何でも扱う机上の学問。
* 数学の正しさは自然現象と無関係:数学はただの論理なので自然現象と矛盾する数学を作る事が可能だし、実際にそういう研究もなされている。数学の真正性は我々の宇宙とは別の宇宙ですら成り立つ。物理学は実験結果によって理論が覆される事があるが数学ではありえない。
* 数理モデルは自然現象とは別:(平たく言えば、数学で扱う「直線」は太さが無いのに実際の直線は太さがあるので両者は別物、という事。)自然現象を数学で扱うこともあるが、その場合はまず数理モデルという「自然現象とそっくりな数学的対象」を作り、自然現象そのものではなく数理モデルの方を扱う。この為数理モデルを使った成果と実際の自然現象にズレが生じる事も多い。これは数理モデルのほうは数学だが実際の自然現象のほうは数学ではないからだ。数や図形のように物理的背景を持つ研究対象も多いが、数学で扱うのは数理モデルの方の数や図形であって実際の数や図形ではない。
* 自然現象と無関係な対象も扱う:例えば計算機も研究対象。
* 数学は言語:数学は自然科学の記述に必要だが、だからといって数学は自然科学だとは言えない。実際自然科学の記述に英語や日本語などの言語を用いるが、英語や日本語を自然科学だとは誰も思わない。数学は言語だ。実際計算機科学では数学(的に正しい命題全体の集合)を言語として扱う。数学は自然科学自身ではなく自然科学を記述するための"メタ科学"だ。
************************
チミのいう「論理的思考のトレーニングが足らない人たち」の多くは、ウィキの引用一発で無知と無思慮がばればれになるような底の浅いレスなんてしてにゃーぜ(げらげら
引用につけくわえるとしたら
科学理論というのは常に仮説であり、あるいは近似値である。真理そのものではない。だからこそ、それはクレーンという比喩が適当なのだにゃ。
しかし、数学はズバリ真理を扱える知的体系なのよ。むしろ人文科学の側面があるんだにゃ。科学の記述言語といえるしね。
一応いっておくと、数学教育は積み重ねで行われるけど、数学そのものは必ずしも積み重ねでえられるものではにゃー。

デネットの見解では進化はアルゴリズムに還元されるというのは承知しているし、そのあたりは僕も支持しているのだにゃ。
しかし、数学は「クレーン」かにゃ?
デネットはそんなことをいっているかい?

254Josef:2007/01/18(木) 21:54:16 ID:uPoVYQoU
HAKASEさんの「人間の意識が科学的手法で扱えるか」(>>215)についてです。

仰るとおり、意識を科学的手法で扱うことはできるし、実際扱われていますが、意識内に起こる「実感」そのものについては科学的手法にうまく乗っからないでしょうね。

「痛い」という実感(感覚)の起こるメカニズムを物質レベルで解明・記述することはできる。けれどもそれによって「痛い」という実感そのものが「分かる」ことにはならない。たとえば「痛い」を経験したことのない人が、「痛い」が起こるメカニズムについての科学的説明を完璧に理解しても、あの「痛い!」というアリアリとした実感を「知る」ことはできない…。まあこれは昔から議論されてきたことですが(茂木健一氏の言う「クオリア=質」もそれでしょう)。

話題に上っている「神を知っている」の「知」は上記の「知」、すなわち「痛いを知っている」に近いと思われます。言うまでもなくそれは学的な「知」ではなく直観的な「知」です。このような「知」は科学では扱えないのではないとおもいますがいかがですか、皆様。

255Josef:2007/01/18(木) 21:57:47 ID:uPoVYQoU
ひらがなが一つ抜けていました。

>このような「知」は科学では扱えないのではない「か」とおもいますがいかがですか、皆様。

です。

256Josef:2007/01/18(木) 21:58:33 ID:uPoVYQoU
>>246
>「我唯一の神の存在を信ず」と「我平行線は交わらない事を信ず」の信念としての差はない、とおっしゃる方にはクレーンもフックもありませんし、私としては議論の仕様もありません。

信念、というか信憑としての差は見出せないでしょう。差があるのは「神」と「平行性は交わらない」の存在様態です。前者は非論理であり、後者は論理(の基盤)です。それゆえ伝達性において大きな違いが出てくる。しかし非論理であろうと論理であろうと、それが当人にとっては疑いえない明証として立ち現れるという点で、「信」そのものには差はないと思います(あると言うならあると言う方が証明すべきですね)。

>数学(なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが)

既に指摘されている通り、数学は科学の一部ではなく科学を研究し記述する際の道具でしょう。「道具」というのは科学から見た場合の話で、有名な数学者ガウスの言葉を借りれば「数学は科学の女王」ということになります。科学に対してメタレベルに立つものですね。科学は数学の正しさを証明できません。

257macska:2007/01/18(木) 22:13:23 ID:VdHL1C4M
>>248
> そして人知の及ぶ領域については、当然、科学の出番ですよね?

科学以外は口を挟むなとまでは言いませんが、科学の有用性は広く理解されて欲しいですね。

>>250
> イエスのDNAだって調査したら外見は男にも関わらずDNAはマリアとまったく
> 同じ(処女生殖)だったらどうするの?

もしそれが事実として確認されたら、驚愕の新発見ですね。何かの間違いじゃないかという意見も出るでしょう。なぜなら、これまで知られている生物学の知識を大きく逸脱するからです。しかし、それでも確実にイエスのDNAがマリアと同一だと確認されたのであれば、いずれ生物学の理論の方を見直す必要がでてくるかもしれません。

わたしが >>41 で「水がワインに変わるわけがない」と言ったのは、「もし確認されたらどうするのか」とばかり言うから、「確認されたら大変なことだけど、検証したら『やっぱりワインにはならなかった』という結論が出る可能性の方が高い」と言っているだけ。もし確認されたらされたで、科学的にそういう結論が出たということだから、やっぱり「水がワインに変わったかどうかは科学的調査の対象となり得る」という部分ではわたしの言った通りです。

というわけで、

> 科学って言うのは現象のメカニズムを探求するツールであるから、厳密に用いたにも
> かかわらず意に反する結果が出たからと言って「”常識では考えられない(あるいは
> 現在の仮説では説明できない)”からありえない」と断言するのは拠り所とするツール、
> 科学すら実は否定してるって事になりませんか?

というのは誤読です。
わたしは「常識では考えられないからありえない」とは言っていません。
そんな常識でありえない方向の議論ばかりやっても仕方がないじゃん、程度の意味です。

>>251
> 第一に,macskaさんは「数学」を「科学」に含めるんでしょうか?

数学というのは、科学ではなく論理学の一部であると認識しています。科学における「正しさ」は現実世界をきちんと説明できるとか、現実世界の事象と合致するということを意味しますが、数学や論理学においては現実との対応ではなく数式あるいは言明それ自体が正であったり誤であったりすることがあり得るという点が特殊だと思います。

> 第二に,論理的というよりも直観的な数学的知識もあるんじゃないでしょうか?

わたしは数学はよく知らないのですが、「ある三角形に内接する円は一つだけ」という問題なら、実際にいくつか三角形を描いてみて、それに内接する円をさまざまに描こうとしてもどうしても1つしか描けない、という事実は、命題が真であることの証明にはならないまでも、それが「かなり確からしい」と判断するに足る材料にはなるのでは。

258e10go:2007/01/18(木) 22:24:18 ID:5/V6R9W6
>>245 :macska:2007/01/18(木) 19:24:33 ID:VdHL1C4M
>>243
>> 明らかに「イエスのDNAが手に入れば、イエスが行ったとされる奇跡もカガクの
>> 検証対象となる」とmacska氏が述べている。
>言っていない! いくらなんでもそこまでバカだと思わないでください。そんな読解が可能だなんて、あなたに言われるまで考えもしなかったくらいで。


へえ〜、言ってないってか。じゃあ、これはどうなの?

>>3 :macska:2006/12/25(月) 07:30:53 ID:VdHL1C4M
>例えば、伝承によればモーセという人は海を割ったとか、
>イエスという人は水をワインに変え、死者を蘇らせたとか。
>あるいは、マリアが処女であるにも関わらず懐妊したとか。
>これらの「奇跡」は古い時代の話なので検証するに足るだけの証拠がないですが、
>もし証拠が発見されれば、例えばイエスの DNA が発見されれば、
>それは原理的に科学的検証を受け付ける現象であるはずです。

NANさんの言い回しとは違っても、同じ意味の事を言ってるんじゃーないの?
NANさんの言っている意味と違うというなら(誰が見ても同じ意味に取れるが)、

>>222 :macska:2007/01/18(木) 01:17:10 ID:VdHL1C4M
>そんなことはないし、そうは言っていない。

ではなく、「訂正します。こういう意味です。」と発言するべきでしょう。

NANさん、横はいりすみません。こういう発言見ると、どうしても突っ込みたくなるもんで。

259AH1:2007/01/18(木) 22:44:21 ID:MM7DYpv2
> >そして人知の及ぶ領域については、当然、科学の出番ですよね?
>科学以外は口を挟むなとまでは言いませんが、科学の有用性は広く理解されて欲しいですね。

了解しました。あわせると
「人知の及ばない領域の問題について、宗教だけに何か特別の知があるかのように扱うのはやめよう。
人知の及ぶ範囲については、科学以外は口を挟むなとまでは言わないが、科学に信頼を寄せろ」
くらいになりましょうか。
・・・「科学以上に現実世界を知っているものはない」とのお考えのように読んでおりましたので、後段はちょっと予想とニュアンスが違いましたが。
「科学の範疇にあることは科学が最もよく知っており、科学の範疇にないことは科学は知らず、科学的に確かめられた事以外は『知っている』と表現してはいけない故に、科学の範疇にないことを『知っている』者はいない。」
ということか、やっとわかった・・(頭悪ぃな、俺)。と思ってたんですけど。

で、この理解が正しいとしてですが、まあ、素朴に唯物論的・経験論的・科学主義的に言えば確かにそうかもしれませんけど、これを言ったら宗教者は怒るでしょうなあ・・
それに私は科学の「知」についてそこまでの絶対的な自信はもてないですね。
(って代わり映えしない意見だ。ほんと頭悪ぃな、俺)

260macska:2007/01/18(木) 22:53:01 ID:VdHL1C4M
>>252
> 「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」
> が人として良い行いでないことは了解してもらえていますね?

そういう行為はできるだけやめて欲しいとわたしは思っています。
「人として良い行いでない」というような、絶対的な倫理はわたしは持ち合わせていませんが。

> 「宗教はそれをして良いことになっている」と貴方は言ってしまったのです。

全ての宗教ではないですが、世界的な大宗教の中にそれを許容し奨励するものがあるのは事実です。

> もっと分かりやすく言えば、「宗教は悪行をして良いことになっている」です。

うーん、多くの宗教では一般社会の善悪の基準を超越した倫理を説くのは事実です。それを「宗教は悪行をして良いことになっている」と表現するのは極端だしおかしいと思いますが、それはわたしの発言ではなく、あなたが勝手に言い換えただけです。

> それでもこの発言に問題ないと言うのですか?

どこが問題なのか、理解できません。

>>258
「例えばイエスのDNAが発見されれば」というのは、マリアの処女受胎について調査するための科学的証拠になる、という意味です。DNAが発見されればイエスの生涯のすべてについて解明できるなんてことは普通に考えてありえないし、いくらなんでもそこまでわたしはバカじゃない。もしあなたがわたしがそれほどバカだと思うなら、そんなバカと議論するだけ無駄ですから無視してください。

わたしの書き方が悪いから誤読してしまったというなら、いくらでも「文章ヘタですみません」と言ってもいいですが、「それは誤読である」と言っているのに「いや、お前はこういう意図だっただろう」と決めつけられてしまっては、議論が全然進みません。特に今回の件のように、わたしの意図からはるかにかけ離れたことを「わたしの意図」として決めつけられて攻撃されるのは不快です。誤読してしまったのは仕方がないとして、それは誤読だとちゃんと説明しているのに「いやそれが真意だ」と言い続けることにどんな意味がありますか? そんなことをやって何が楽しいですか?

>>259
> で、この理解が正しいとしてですが、まあ、素朴に唯物論的・経験論的・科学主義的
> に言えば確かにそうかもしれませんけど、これを言ったら宗教者は怒るでしょうなあ・・

そんなことで怒らないで欲しいんですけどね。まぁ、知りもしないことを「知っている」と標榜することで商売しているような宗教にとってはダメージかもしれませんが、宗教の価値ってそんなことではないんじゃないかなぁ。

> それに私は科学の「知」についてそこまでの絶対的な自信はもてないですね。

わたしは科学の「知」を信頼しているんじゃなくて、クレーンを信頼しているんですね。
そういう意味では、地下に眠るMさんの >>225 における独り言、

> カガクは確かに物質的に積み重ねられたクレーンかもしれにゃー。
> しかし、形而上学は天からつり下げられたフックではにゃーのだ。形而上学を支え
> ているのは、数十億年の進化を経た僕たちニンゲン存在の手なのではにゃーだろうか?

というのは、ちょっとだけ興味をそそられます。
もし形而上学が科学とは別のクレーンだというなら、それは考慮する価値がありそうです。
現時点では、わたしはその主張にかなり懐疑的ですが。

261谷庵:2007/01/18(木) 22:54:00 ID:???
>>246
>あとmacskaさんの主張を理解するのに必要なのは>>110にある「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」という当たり前のルールですね

「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」というのは科学の領域の話ですね。
信仰は神の存在が証明されたからするものじゃない。
「神の存在は科学的に証明された」とでも言えば別ですが「私は神の存在を信じます」という人に、神の存在を証明してみろと言っても仕方がない。

それにね、科学の領域だって、存在が証明されなければ存在しないと断言できる訳じゃない。
macska氏は>>188で(死後の世界は誰にとっても知覚できないと)断言しちゃっているんだよ、知らなかった?
(念のために言うと、谷庵だって誰かが死後の世界を知覚できるとは思っていない。でも、断言はしない。)

262fukken:2007/01/18(木) 23:34:55 ID:M5vfENrY
>>260
>>「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」が人として良い行いでないことは了解してもらえていますね?
>そういう行為はできるだけやめて欲しいとわたしは思っています。
>「人として良い行いでない」というような、絶対的な倫理はわたしは持ち合わせていませんが。

なるほど。
だからこそこうして平気で恥ずかしい真似ができるのですね。

>>「宗教はそれをして良いことになっている」と貴方は言ってしまったのです。
>全ての宗教ではないですが、世界的な大宗教の中にそれを許容し奨励するものがあるのは事実です。

確かに!オウム真理教もそうですよねっ!

#さすがにその言い訳は苦しすぎるだろ

>>もっと分かりやすく言えば、「宗教は悪行をして良いことになっている」です。
>うーん、多くの宗教では一般社会の善悪の基準を超越した倫理を説くのは事実です。それを「宗教は悪行をして良いことになっている」と表現するのは極端だしおかしいと思いますが、それはわたしの発言ではなく、あなたが勝手に言い換えただけです。

そうですか。
私は姑息で卑劣な真似が大嫌いなので「分からないことについてもさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえる」は、私にとっては十分「悪行」です。
姑息な真似を特技としているmacskaさんにとっては「善行」ってところなのでしょうね。

>>それでもこの発言に問題ないと言うのですか?
>どこが問題なのか、理解できません。

うん、macskaさん楽しい。こうなるともう一つの芸だね。


>例えば、特定の宗教者を指差して「こいつは分からないことをさも知っているようにすりかえている」と叫べば、そりゃ当然失礼にあたるでしょう。>>240

って言っていたじゃんって突っ込みはしないでおきます。(って、してるし。)

263fukken:2007/01/18(木) 23:35:33 ID:M5vfENrY
じゃ、つぎ。

>>236

>>>死後の世界の存在は、わたしには知りようがないし、断言もできません。しかし、その事について宗教がわたしに比べてより確かな知識を持っていないことは、断言できます。宗教をやっている人たちだって同じ人間なんですから。>>188

>>「断言できます」なんて言えるのならその確かな証拠を示してください。>>195と言う質問への回答がありませんでした。
>人間の知覚の対象とならない物事について、人間は確かな知覚を得ることができない、という論理そのものが根拠です。ていうか、確かにそう答えたけどな。「そんな答えじゃ満足できない!」というならまだしも、回答そのものがなかったことにしないで欲しいです。

それは失礼しました。
答えてもらっていたとは全く気付きませんでした。
私は「”確かな証拠”を示してください」とお願いしていたものですから。
では改めて、そんな答えじゃ満足できない!です。

例えばですね、
現時点でヒトの知覚の対象となっていないと思われていても、何年か後に科学で確認できてしまうって可能性だってなくはないわけで、実は修行等によってヒトの潜在能力を極めた宗教者にはそれが今でも察知できている。
って話は論理的におかしいですか。(論理的思考のトレーニングを山ほど積まれたYSさん、どうでしょうか。)

これを否定できなければ、macskaさんの主張は崩れます。

私はね、ここにいる誰もが「参った」と言わせてくれる”非の打ち所のない証拠”を見せてくださいと言っているのですよ。

>「科学がわからない領域のものごとについて、宗教が何かわかっているという証拠は一切ない。八百屋や農民や大工や主婦に分からない、現実世界の外のものごとが、宗教家になら分かるという証拠も一切ない」

そうですね。これには異議はありませんが、macskaさんが”証拠”を見せてくれない限り「わかっていない」という証拠もありません。

264macska:2007/01/19(金) 00:20:07 ID:VdHL1C4M
>>261
> macska氏は>>188で(死後の世界は誰にとっても知覚できないと)断言しちゃって
> いるんだよ、知らなかった?

不正確な引用です。もし「死後の世界」が現実世界に物質的に存在するのであれば、もちろんそれは人間によって知覚できる可能性があります。しかしここでは「死後の世界」が現実世界の外側にある、人知の届かないモノという前提で議論しているわけです。人知が届かないモノについて誰かが何かを「知っている」ということは、論理的にありえない。

さて、ここで「一般人には知覚できないが、特殊な人にだけは知覚できるという可能性」を挙げる人がいます。なるほど、人間の能力には幅があるので、ある現象について「ある人には知覚できないけれども、別のある人には知覚できる」という可能性は、一般論としてならあります。

しかしそういう可能性が考えられるのは、現実世界のどこかに物理的に存在する対象についてのみではないでしょうか。例えば、視力の弱い人には見えないものが、視力の強い人には見えたりしますが、現実世界の外側に届く視力というのはちょっと考えられません。目の構造からいってもあり得ないのではないかと。ここでは視力を例に出しましたが、他のどの感覚も(あるいは、いまのところ知られていない感覚があったとしても)やはり現実世界の外側に届くという「可能性」は、ないと言っていいんじゃないでしょうか。

# てゆーか、もし届くなら、「現実世界」という言葉の定義自体を再考しなきゃいけない。

>>262
> なるほど。
> だからこそこうして平気で恥ずかしい真似ができるのですね。

あなたの言動のほうが、よほど恥ずかしい真似だと思います。わたしの意見が結果として(わたしの意図に反して)信仰者を傷つけてしまうことはあるかもしれませんが、わたしは特定の誰かに向けて罵倒したりしていませんから。

> 私は姑息で卑劣な真似が大嫌いなので「分からないことについてもさも知っているように
> 自分の思い込みを事実とすりかえる」は、私にとっては十分「悪行」です。
> 姑息な真似を特技としているmacskaさんにとっては「善行」ってところなのでしょうね。

わたさいは「分からないことを〜」は「できるだけ止めて欲しい」と言っていますから、わたしがそれを「善行」だと思っているわけがないでしょう。他人に対するそうした人格攻撃は、「人として良い行いではない」とは思わないのですか?

>>263
> 私はね、ここにいる誰もが「参った」と言わせてくれる”非の打ち所のない証拠”を
> 見せてくださいと言っているのですよ。

これまで述べた論理が不十分というなら、残念ながらあなたを説得することはできそうにありません。
そこで、>>236 のように言い換えました。これならOKでしょ。

265e10go:2007/01/19(金) 00:41:07 ID:5/V6R9W6
>>260 :macska:2007/01/18(木) 22:53:01 ID:VdHL1C4M
>わたしの書き方が悪いから誤読してしまったというなら、いくらでも「文章ヘタですみません」と言ってもいいですが、「それは誤読である」と言っているのに「いや、お前はこういう意図だっただろう」と決めつけられてしまっては、議論が全然進みません。特に今回の件のように、わたしの意図からはるかにかけ離れたことを「わたしの意図」として決めつけられて攻撃されるのは不快です。誤読してしまったのは仕方がないとして、それは誤読だとちゃんと説明しているのに「いやそれが真意だ」と言い続けることにどんな意味がありますか? そんなことをやって何が楽しいですか?


macskaさんが「誤読だ」と言ったのは分かっています。
ワザと誤読させるように書いたのか、それとも天然でああいう書き方しているのかは置いといて、私は
「『誤読だ』と言うんなら、macskaさんが誤読させる書き方をしたのだから、『誤読だ』と言うんでなく、『内容を訂正します』と発言するべきでしょ」
と言ったのですが。
>>5 ミケさんも誤読した事になるけど、それでもmacskaさんは自分の書き方に問題ないと思いますか。
自分の書いた内容を見直すつもりはないですか。

「不快です。そんなことをやって何が楽しいですか?」と言うからには、そんなつもりはないでしょうね。
おそらく、macskaさんは、何故こんなツマラン横槍が入るか分かっていないでしょう。

266みずすまし:2007/01/19(金) 00:51:32 ID:TgyKdXjk
>>257

私は>>236の言い換えで満足なので,独り言コメント。

> > 第二に,論理的というよりも直観的な数学的知識もあるんじゃないでしょうか?
>
> わたしは数学はよく知らないのですが、「ある三角形に内接する円は一つだけ」という
> 問題なら、実際にいくつか三角形を描いてみて、それに内接する円をさまざまに描こう
> としてもどうしても1つしか描けない、という事実は、命題が真であることの証明には
> ならないまでも、それが「かなり確からしい」と判断するに足る材料にはなるのでは。
んー… そう言われると,そうなんですけど。
ただ,私は直観的な数学的知識もある,という立場ににそれなりにこだわっているので,ちょっと釈然としません。

267地下に眠るM:2007/01/19(金) 00:52:00 ID:wg4HFyLg
例によって酔っているので罵倒レスは後回し

>>254
>話題に上っている「神を知っている」の「知」は上記の「知」、すなわち「痛いを知っている」に近いと思われます。言うまでもなくそれは学的な「知」ではなく直観的な「知」です。このような「知」は科学では扱えないのではないとおもいますがいかがですか、皆様。

僕は同意するにゃ。穏当な見解にゃんね。
しかしまあ、カガク的な知を構成する契機すらない事象まで、現実におこったことは森羅万象カガクの対象だとかおっしゃるお方がどうおっしゃるでしょうかにゃ?

そのあたりの見解をちょいと敷延するにゃ。

以下は小林秀雄「歴史と文学」より(引用者が適時改段)
***********************
歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対して、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。

母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。
歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。

死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実があるのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものと在るのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない
***********************
有名な箇所ですにゃ。

小林は、この前段で、知るということについては2通りあると述べていますにゃ。例えば天文学を知る知り方、そして、友の死を知る知り方。もちろん、友の死を知る知り方をして「肝に銘じて知る」といっているわけですにゃ。
「子供の死」という実証的な事実の群れを知る知り方、つまりカガク的な知を知る知り方のほかに、「死んだ子供」という実存的な事実を肝に銘じて知る知り方、あえていえば宗教的な知を知る知り方というものがあるのだにゃ。こうした知を体系化したものが宗教であり神話なのよ。

カガクは「子供の死」を対象にすることはできても、「死んだ子供」を対象にすることはできにゃー。それは、カガクの範囲のソトにある。「死んだ子供という事実」はカガクには手も足もでにゃー。

268fukken:2007/01/19(金) 00:55:34 ID:M5vfENrY
>>264
>あなたの言動のほうが、よほど恥ずかしい真似だと思います。わたしの意見が結果として(わたしの意図に反して)信仰者を傷つけてしまうことはあるかもしれませんが、わたしは特定の誰かに向けて罵倒したりしていませんから。

私は自分の行った行為がはしたないものであると言う自覚はありますが、誰にでもこのようなことをするわけではありません。
余程腹に据えかねない限り、こうした行為はしていないつもりです。(人よりちょっと切れやすいことも認めます。)
あなたは特定の人を罵倒しない代わりに、複数の議論の相手を愚弄するような行為をしているじゃないですか。
本当に無自覚でこうした行為をしているのだとしたら同情し謝罪もしますが、察するところそうではないだろうと判断しました。

>これまで述べた論理が不十分というなら、残念ながらあなたを説得することはできそうにありません。

そうです。もう私と貴方の話は終わっています。
残りの質問にも答えていただかなくて結構ですよ。
また、貴方に卑劣な行為を強いるだけですしね。

269えめ:2007/01/19(金) 00:57:20 ID:UugNa5UQ

>不正確な引用です。もし「死後の世界」が現実世界に物質的に存在するのであれば、もちろんそれは人間によって知覚できる
>可能性があります。しかしここでは「死後の世界」が現実世界の外側にある、人知の届かないモノという前提で議論している
>わけです。人知が届かないモノについて誰かが何かを「知っている」ということは、論理的にありえない。

つまり貴方が今まで語っていた死後の世界ってのは「たとえ話として」なの?
人間が知りえない物のモデルとしてわかりやすい例が(理想気体のような)空想の、死後の世界なの?

もしイエスが現在に存在して間違いなく水をワインに変えて見せたらどうよ、見たいな。

だとしたらそれにどんな名前をつけようが人知の届かないモノを人間が知りえるわけないでしょうね。
知ったらそれは人知が届いちゃってるって事だからね。当たり前の話。
そんな絶対に知りえない世界を知ってると言い張る人間がいると想定する事自体が非論理的

皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えていますから。
貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判は出来ませんよ。

そうでした、そういや批判していないんだっけ。

270地下に眠るM:2007/01/19(金) 01:05:49 ID:wg4HFyLg
てきとーに気づいたこと

宗教というのは一定の社会集団をつくるにゃ。
で、一定の社会集団に対して、「一般論として」と断ろうが断るまいが、かっちりと証明もできにゃーで悪口と解釈できることをいうのは差別的言辞なんではにゃーのかな?
言論の場で対等の立場で特定の個人をいろいろいうのは構わにゃーと僕は思っているし、かつ実行しているけどにゃ。
馬鹿に対して馬鹿というのは当然だし、馬鹿でにゃー相手に馬鹿といったら自分が恥をかくだけのことにゃんから。

しかしなあ、特定の社会集団に対し差別的言辞をふりまくのはいけにゃーよ。ニンゲンとして。

271macska:2007/01/19(金) 01:46:03 ID:VdHL1C4M
>>265
> 「『誤読だ』と言うんなら、macskaさんが誤読させる書き方をしたのだから、『誤読だ』
> と言うんでなく、『内容を訂正します』と発言するべきでしょ」と言ったのですが。

真意はこうでしたと釈明して記述を追加しているのだから、同じことではないですか?
そうして釈明したにも関わらず、まだ「自分の読解の方が正しい、真意である」と言い張るのはやめてね。

> >>5 ミケさんも誤読した事になるけど、それでもmacskaさんは自分の書き方に問題ないと思いますか。

ああ、これでやっと >>5 の意味が分かりました。そんな誤読されていたとは、指摘されるまでマジ気付きませんでした。「イエスやモーセのDNAが手に入ったとしても奇跡の検証は不可能」って、当たり前のことを何言ってるんだと思ってた。

「問題ないと思いますか」という点については、仮にその時点で誤解を招くような問題がある記述だったとしても、誤解を受けたと気付いた時点で釈明しているので真意は伝わっているものと思います。それ以上何か必要ですか?

>>268
> あなたは特定の人を罵倒しない代わりに、複数の議論の相手を愚弄するような行為をして
> いるじゃないですか。

そんなつもりは全然ないんですが… 自分では、真摯に議論しているつもりです。

あなたと意見は違うかもしれない。もしかしたらわたしの意見には大きな穴があって、それに自分で気付いていないのかもしれない。あるいは、気付かずにものすごく失礼なことをしてしまっているのかもしれない。それらは可能性としてありえます。しかし、故意に議論の相手を愚弄していないことは100%誓って言えます。

>>269
> つまり貴方が今まで語っていた死後の世界ってのは「たとえ話として」なの?

寓話という意味の「喩え」ではなく、ある一例という意味の「例え」という意味ですが、はい、例えの話です。
死後の世界でなくても、魂でも、輪廻でも、あるいは現実に一切手も口も出さないタイプの「神様」でも、なんでも構いません。

> そうでした、そういや批判していないんだっけ。

はい、宗教批判はしてません。

>>270
> で、一定の社会集団に対して、「一般論として」と断ろうが断るまいが、かっちりと証明もできにゃーで
> 悪口と解釈できることをいうのは差別的言辞なんではにゃーのかな?

社会集団に対して言った発言ではないし、悪口と差別は違うし、そもそも悪口でないものを悪口と決めつけられてもねぇ。
悪口ではないと何度も言っているし。

だいたい、あなたが「悪口」と呼ぶわたしの発言内容は、言い方は違うけれど中身はあなたの意見と全く同じなんだよ。

272macska:2007/01/19(金) 02:15:30 ID:VdHL1C4M
答え忘れ。

>>269
> 皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えてい
> ますから。
> 貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判
> は出来ませんよ。

うーん、どうしてこういう議論になったか、筋道を忘れてませんか?

わたしの主張では、「死後の世界」というものが人知の届くモノであった場合、それは科学的探求の対象となります。もし人知が届かないのであれば、科学の対象とはならないので科学にはそれがあるともないとも(あるいはどれくらいの確率で存在するとも)全く何も分かりません。しかし、それが人知の届かないモノであるならば、科学にとってわからないだけでなく、宗教にとってもわからないはずです。

わたしの論理は、それだけの単純なものですよ。すなわち、「死後の世界」は人知が届くもの=科学の対象であるか、あるいは人知が届かないもの=科学にも宗教にも確かなことは何もわからないか、どちらかだと言っているのです。そういう意味では、わたしも「人知の届かないモノかどうかわからないもの」(けれども、届くか届かないかのどちらかであろう)として実際の死後の世界(があるとはとわたしは思っていませんが)について論じています。

273fukken:2007/01/19(金) 03:10:15 ID:M5vfENrY
>>271
>あなたと意見は違うかもしれない。もしかしたらわたしの意見には大きな穴があって、それに自分で気付いていないのかもしれない。あるいは、気付かずにものすごく失礼なことをしてしまっているのかもしれない。それらは可能性としてありえます。しかし、故意に議論の相手を愚弄していないことは100%誓って言えます。

そんな言葉はとても信じられません。
あなたはここで私を含め何人の方からあなたの投稿姿勢について私と同様の指摘を受けましたか。
もし貴方が言う通り、貴方が自分に非がある可能性を認めているなら、ここがこのような状況になっていないはずです。
もし貴方が嘘を付いていないとすれば、脳に障害がある可能性を疑った方が良いと思います。これは罵倒などでなく本当に貴方の身を案じての言葉ですのであしからず。

274diamonds8888x:2007/01/19(金) 05:42:00 ID:Zz3oJN62
>>273
 fukkenさんは感情的軋轢についてはもう引っ込めたとおっしゃったと理解してましたが(>>187)、
 そうでもないように見えるのは誤解でしょうか?

 macskaさんが故意に議論の相手を愚弄していないことは99.9%くらい、私には信じられますけどね。「そんな言葉はとても信じられません。」て何%くらい? 人の心の中についてはそれこそ信じることしかできないのでは?

 食い違いの原因は「確かさ」とか「根拠」とか「知」とかいう言葉の指す範囲がfukkenさんとmacskaさんで異なっていることだと思います。そこはお互いもっとすり合わせてもいいとは思いますが、それで「相手に悪意がある」なんて言ったのでは議論が錯綜してしまうと思うのですが。

 すり合わせるという意味は、fukkenさんにしても「確かさとはこういう基準なんだ」という御自分の基準は、macskaさんのような自分以外の人にとっても当然の常識である、というかのような前提は破棄するという意味です。どう違うのかを説明しようとすると長くなるので困るのですが。

275diamonds8888x:2007/01/19(金) 05:45:51 ID:Zz3oJN62
>>266
 私はここでいう「直観的な数学的知識」というのは実は「経験的な数学的知識」に他ならないと思います。「ある三角形に内接する円は一つだけ」という直観的な知識は、これまでに数多くの三角形に内接する円という図形を見てきたからではないのでしょうか? そもそも一度も見ていなければ、この命題の意味すらわからないでしょう。小中学の数学では、こういう体験をバンバン使って教えるのが効果的ですよね。

 数学的な定理の多くは人は直観的に正しいとわかります。たがらこそ「証明なんて面倒くさいことをなぜにわざわざ」という声も出るのです。

 ま、以上は徹底的な経験論に基づく科学の論理だ、と言われればそれまでですが。でもそれでちゃんと矛盾無く解釈できるほどに、徹底的な経験論に基づく科学の論理というのは意外と強力なのです。

276diamonds8888x:2007/01/19(金) 06:10:27 ID:Zz3oJN62
>>269 えめさん
 私から見てもちょっと意図が読みとりにくくなってます。時間不足で詳しく書けなくて指摘だけになりますが気分を害したらごめんなさい。

> そんな絶対に知りえない世界を知ってると言い張る人間がいると想定する事自体が非論理的

 ん? だったら「宗教人が知ってるはずがない」という主張は正しいことになりますね?

> 皆さんは人知の届かないモノかどうかわからないものとして実際の死後の世界を考えていますから。
> 貴方の死後の世界は皆さんが言っている物とは別物なので、空想をもって現実の宗教批判は出来ませんよ。

 それが理解できているなら、互いの言葉の違いが理解できたと言うことでOKでは?

> そうでした、そういや批判していないんだっけ。

 そうですよね。何も文句はないのでは?

277いらはい:2007/01/19(金) 06:12:00 ID:DHj5XiXA
しばらく見なかったら、議論の本質的な部分については収束しだしているようですね。
遅レスですが...

>>171
>そういう問題はあるでしょうが、現状はそれ以前の段階でして。

宗教者は他人を祈起するために、根拠を出せない教義を、出せるかのように偽ることがある、ということですか。
私は、人が宗教に帰依するのはボトムアップ的根拠を期待するからではなく、リアリティに惹かれているのだと思いますが。
ところで、モダリティ表現無しの断言、たとえば「死後の世界は存在します」は知っているように振る舞うことの内に入りますか?状況によっても変わると思いますが。

>科学によって否定される(可能性がある)のは、現実世界に対する何らかの言明です。その言明が、たまたま教義の一部だったからといって、科学的検証から保護される理由はありません。

信仰(=信じていること・崇めていること、という意味で使っています)の中のある言明が科学的に検証されることを「科学と信仰の衝突」と呼びますか?
そこは科学の側も宗教の側も、(たとえ科学的発見が常識になり信仰が変容しても)これは衝突ではないと言わなければならないのでは。

それから、どうしてもひっかかるのは言葉の選び方ですね。
「わからない」「知らない」を「合理的な根拠を持ってない」くらいに言い換えれば同意できるのですけど。
宗教者が「わかる」「知っている」と口にするのは
教義を確信している、宗教の教えるリアリティ(神の愛など)を生きている、ということの表明という面もあり、
それを否定してしまうと教義を疑っているような、帰依心が無いような印象になりかねない。
また「信じている」という言葉には、相対的なものごとから敢えてあるものを選択する、というニュアンスが含まれており、
冷笑的な人の「信じているだけでしょう?」という問いかけに頷くことは、
自身にとって信仰の内容が相対的であることを認めてしまうような印象になりかねない。
もちろん「知っている」と言われる側の論理としてはmacskaさんのおっしゃるようなことになるのかもしれませんが、
コンテキストによっては他人の信仰を貶めることになりかねないから、ひっかかるんですね。

278tema:2007/01/19(金) 07:40:20 ID:???
HAKASEさんへ

>>249
>それからパイロット解釈の紹介ありがとうございます.私も知りませんでしたが,カオス理論を用いた検証をしようという試みは量子力学の分野でも検討されているということですね.

 されてないと思います。
 量子の位置情報をカオス時系列解析の対象とするためには、特定の量子に対して複数回観測を重ねる必要がある、と考えます。
 仮にパイロット解釈が正しいとしても、観測を実現するには以下のとおり色々問題があります。

 まず、観測が及ぼす影響があります。

>そして,その観測装置が,各データ観測時刻で同じ特性を持つものだった場合,(後略)

と記述されてますが、1つの量子の位置を捉えるためには、各観測時刻の特性のぶれを観測対象の量子以下に抑える必要があるでしょう(注)。しかし、観測装置もそれを使う人間も膨大な数の量子から構成されています。
 観測装置自身の影響が大きすぎて、各観測時刻で同じ特性を持たせることはできないと考えます。

 そしてそもそも、同一量子に対する複数回の観測など、現在の技術では不可能だと思います。

>ですが,もし「科学的なデータ解析手法を適用して(例えば予測可能性などを)検証することが原理的にできない」という趣旨でしたら,私は原理的に不可能とまでは言えず,例えば上に示したような科学的な手法に基づく検証は可能なのではないかなと思います.

 現状temaは、「原理的にできない」とまでは言えません。ただし…
  1.(情報採取などが)原理的にできないことを証明する
  2.科学的な手法に基づく検証を行う
上記の実現可能性を考えた場合、1の可能性が高いと思います。

注)この文章の表現は適切ではありません。しかしどう表現すれば良いか判らないのです。

279tema:2007/01/19(金) 07:40:46 ID:???
『数学は科学が否か』

 この件については、言いたいことがあります。
「やだいやだい、数学も科学に加えてくんなきゃやだい!」
 いや、これではありません。

 本日は時間が無いので、ここまで。

280fukken:2007/01/19(金) 07:46:30 ID:M5vfENrY
>>274

>fukkenさんは感情的軋轢についてはもう引っ込めたとおっしゃったと理解してましたが(>>187)、そうでもないように見えるのは誤解でしょうか?

一度言ったことを守れなかったことについては弁解の余地なく申し訳ないと思います。
しかし>>260のようなふざけたレスをもらえば、「もうやってられるか」となるってものです。
のらりくらりに丁寧に付き合っているのが馬鹿馬鹿しくなって、言い逃れできないよう急所を一箇所ずつとことん追求することにしたのですが、結局あの通りの受け答えでしたから。
>>262で感情的になったことは否定しませんが、「もうこの件については終わりにしてあげるよ」と言う意味を込めて、地下猫さん風に言うと負け逃げし易いように、敢えて罵倒しました。
宗教蔑視発言が片付いたらと思ってストックしておいた>>263をUPしたものの、これじゃ息も出来なくなるだろうなあと思っていたら、>262に対する人格攻撃云々に埋もれさせる形で案の定>263はスルーでしたから彼(彼女なのかな?)にとってもこれで良かったんじゃあないでしょうか。

>macskaさんが故意に議論の相手を愚弄していないことは99.9%くらい、私には信じられますけどね。「そんな言葉はとても信じられません。」て何%くらい? 人の心の中についてはそれこそ信じることしかできないのでは?

私も99.9%くらいは信じていなければ、そうは言わなかったと思います。

>食い違いの原因は「確かさ」とか「根拠」とか「知」とかいう言葉の指す範囲がfukkenさんとmacskaさんで異なっていることだと思います。そこはお互いもっとすり合わせてもいいとは思いますが、それで「相手に悪意がある」なんて言ったのでは議論が錯綜してしまうと思うのですが。

いや、「議論にならん」と憤慨しているからこその、こういう態度なわけでして。

>すり合わせるという意味は、fukkenさんにしても「確かさとはこういう基準なんだ」という御自分の基準は、macskaさんのような自分以外の人にとっても当然の常識である、というかのような前提は破棄するという意味です。どう違うのかを説明しようとすると長くなるので困るのですが。

議論の内容に関してであれば私にもその用意はあります。要は議論以前の問題です。
私やここにいるほとんどの人が自分に間違いがあれば、直ちにそれを認めることができると思います。しかし、macskaさんはそれが出来ない人だと言うことがわかりました。一見紳士的な対話のできる方ですが、本質は過去にここを出入り禁止になった人などと変わらないと感じました。それを説明しろと言われると私の方も長くなりますので。

281macska:2007/01/19(金) 08:40:53 ID:VdHL1C4M
>>273
> そんな言葉はとても信じられません。
(略)
> もし貴方が嘘を付いていないとすれば、脳に障害がある可能性を疑った方が良いと思います。

わたしのことをそこまで悪く思われているのでしたら、そんな相手に何を言っても無駄だとお考えでしょうから、もう放っておいてください。わたしは自分が絶対に間違いをおかさないとは思っていないけれど、そこまで酷く言われなければいけないほどのことをやってきたとは到底思いません。

>>277
> 宗教者は他人を祈起するために、根拠を出せない教義を、出せるかのように偽ること
> がある、ということですか。

いや、そもそも宗教者自身、そのあたりの区別が付かなくなっていたりするのをよく見かけます。

> ところで、モダリティ表現無しの断言、たとえば「死後の世界は存在します」は知って
> いるように振る舞うことの内に入りますか?

断言だけではどちらとも言えないですが、例えばその断言を聞いて「どうしてそんなことが言えるんだよ」とわたしが聞き返したときに何と答えるかによってはそれに該当するでしょうね。

> 宗教者が「わかる」「知っている」と口にするのは教義を確信している、宗教の教える
> リアリティ(神の愛など)を生きている、ということの表明という面もあり、それを否定
> してしまうと教義を疑っているような、帰依心が無いような印象になりかねない。

「知っている」なんてまぎらわしいこと言わないで「確信している」と言えばそれで済むような。

>>280
> しかし>>260のようなふざけたレスをもらえば、「もうやってられるか」となるってものです。

ふざけたつもりはないですが、あまりにレベルが低くて相手にしていられない、というのでしたらどうぞそう言って、以後は無視してください。わたしに悪意があると決めつけられるよりは、馬鹿だから相手にできないと言われた方がよっぽどましです。

> >262に対する人格攻撃云々に埋もれさせる形で案の定>263はスルーでしたから

スルーしていません。これまで言った論理がわたしの主張の論拠であり、それが不十分だというならあなたを説得することはできない、と答えています。

> 彼(彼女なのかな?)にとってもこれで良かったんじゃあないでしょうか。

一方的にいわれのない罵倒を浴びせておいて、それはないんじゃないでしょうか。

> 私やここにいるほとんどの人が自分に間違いがあれば、直ちにそれを認めることができる
> と思います。しかし、macskaさんはそれが出来ない人だと言うことがわかりました。

自分に間違いがあれば認めることができるつもりでしたが、そのように評価されてしまったことは非常に残念です。しかし、仮にわたしがそういう未熟な論者であったとしても、あなたの罵詈雑言の全てが正当化されるわけではないでしょう。

要するにですね、わたしが論争相手として未熟であり相手にできないというなら、もちろんわたしはそうした評価には不服ですが、それはあなたの評価ですから自由ですよ。しかし、それならそれで、もっとマシな議論の抜け方、終わらせ方があるはずです。

282fukken:2007/01/19(金) 10:16:04 ID:M5vfENrY
>>281
>要するにですね、わたしが論争相手として未熟であり相手にできないというなら、もちろんわたしはそうした評価には不服ですが、それはあなたの評価ですから自由ですよ。しかし、それならそれで、もっとマシな議論の抜け方、終わらせ方があるはずです。

レベルが低いとか未熟であるとかそう言う問題でなく、態度が問題なのです。

恐らく知識レベルも文章力も貴方は私より優れている。読解能力だって低くないはず。
それがこのスレが立ってから遠巻きにロムしていた私の感想。
紳士的な態度も好印象で、貴方に対する地下猫さんのいつもの歯に衣着せぬ物言いが気の毒に思えるほどでしたし、特に突飛なことを言っているわけでもなさそうなのに、何故大勢の人が入れ代わり立ち代りでこれほど書き込んでいるんだろうと疑問に思っていたのですが、それはあまりしっかり読んでいなかったためだった。
実際に対話してみてよくわかりました。
私の突っ込み(と言う表現を使えるほど強い指摘でもない)は、こんなに揉めるような性質のものではないですし、何の敵意も反駁の意すらなく、ほんの数回やりとりすればすぐに終わるものと思っていました。
私には貴方ののらりくらりの不誠実な態度には腹に据えかねるものがあり、絶対に自分の非は認めず常に相手に問題があるように振舞う姑息なやり方に、ついに切れたわけです。

もちろん、貴方はそれを否定するでしょうが、私がそう感じたのだから仕方がない。
私の感覚がおかしいって結論でも構いません。

「私は貴方が姑息で卑劣な人だと思ったから罵倒した。」それだけです。

283みずすまし:2007/01/19(金) 11:10:33 ID:TgyKdXjk
>>275
> 私はここでいう「直観的な数学的知識」というのは実は「経験的な数学的知識」に他な
> らないと思います。「ある三角形に内接する円は一つだけ」という直観的な知識は、こ
> れまでに数多くの三角形に内接する円という図形を見てきたからではないのでしょう
> か?

んー,そうかもしれませんね,としか言えません。すみません。
少なくとも,「経験的ではない」と断言できる幾何学的直観を,私は例示することができません。

しかし,例えば,ユークリッド幾何学の「無矛盾性」というのものに(たんなる形式主義的な意味以上の)意味があると思いますし,それが真である(少なくともかなり確からしい)という私の確信が経験的なものだということには,今ひとつ納得がいきません。

また,数学的な「確からしさ」が全て経験的検証による「確からしさ」に解消されてしまうならば,>>253>>256>>257の「数学」を「(経験)科学」に含めることに疑問を呈する立場も,再考を迫られることになるのではないでしょうか。

ですから,数学的な「確からしさ」の少なくとも一部は経験的検証における「確からしさ」に解消されてしまわない,というのは常識に適った態度ではあると思います。

# 哲学的には,数学的な「確からしさ」どころか,論理学の公理や推論規則まで経験的検
# 証にさらされるだ,という立場があることは知っているで(理解不足で間違っているの
# かも),そういう立場が間違いだとはいいませんが。

# ポパーは数学と(経験)科学を明確に区別していますよね。
# 例によって,クーンは違うかも。

284NAN:2007/01/19(金) 12:08:42 ID:op1ePviI
レスをいただいたからには私も(笑。
ただ…まぁ多対1の状況ですから、macska氏に対して「返事を必ずせよ」と云う気はありません。
#ていうか私が書かなければいいだけですが、返事をもらえないからといって「不誠実だ」と云う気は、この状況ですのでありません。

>>245 から
>言っていない! いくらなんでもそこまでバカだと思わないでください。そんな読解が可能だなんて、あなたに言われるまで考えもしなかったくらいで。

この点に考えが及ばなかったのだとしたら、それは致命的ですね。馬鹿としか云いようがありません。また「それは誤読だ」と主張するよりも、自己の記述に「誤読を生むに足りる十分なミス」があったことを認め、前言撤回するなり訂正するなりすることのほうが議論をスムーズに進めることができるとは思えなかったんでしょうかね。

>イエスのDNAが手に入れば(そして周囲の人のDNAも手に入れば)、イエスの両親が誰であったかということは科学的に検証できる。できないという理由が何かありますか?

「我々が使うカガクとか云うモノサシによるひどく狭い限定的な検証」は可能です。しかしこれは「聖書にある言葉を逐語的に検証している」に過ぎず、イエスの生誕およびその周辺に関わる「宗教的知」に対してなんら疑義を挟める類のものではないでしょう。

>まぁ現実に何を人々が「奇跡」と呼んでいるかと調べれば、その大半は「現実世界で起きた物理的な現象」のことだとされているけどね。

想像力の欠如、としか云い様がない。
柳田理科雄だったっけ?の空想カガク云々みたいな本がありますね。アニメのVTRを持ってきてストップウォッチで計って「この宇宙船は時速●●キロで大気圏外に出ているのであり得ない」みたいなバカ理屈をこねるのとなにが違うんだろうな、この場合。

285えめ:2007/01/19(金) 13:21:02 ID:???
○○の夢を見たってのは人知の届くものでしょうかね。
 脳波を測定するとこの時間帯は脳が活動してるから夢を見ているに違いない、ではなく。
夢を心理分析に用いて、という話でもなく。

”霧の向こうにある古〜い獣医さんの所に行ったら犬のエサが売っていて、何気なく手に取ったのが丁度真空パックされたハムのような状態にスライスされた、サラミのような色の肉。
パックにある品質表示のラベルには「成人男性・腿肉」って書いてありました。”
と言う内容の夢を自分が見た事は科学のルールを用いて確からしいと証明できるのか。と言う話ですよ。

科学が言えるのは脳が活動しているかどうかでしょ?
夢を見ている。ましてや○○の夢を見ているってのはわからない。
所謂測定できない→実在しない、という意味で、貴方の言う”人知の届かないもの”です。
すると貴方の理屈ではこうなりますやね。

>人知が届かないのであれば、科学の対象とはならないので科学にはそれがあるともないとも(あるいはどれくらいの確率で
>存在するとも)全く何も分かりません。
そうだよね。ドラえもんか何かみたいに夢を見られる機械がない限り、○○の夢を見た事実は客観的に観測できないね。
たとえ嘘発見器を使ったとしても、本人が夢とどこかの記憶を混同している可能性を考えれば、その夢を見たかどうかと言う客観的な検証の方法はないでしょね。
>しかし、それが人知の届かないモノであるならば、科学にとってわからないだけで
>なく、宗教にとってもわからないはずです。
ところがさ、宗教は夢の内容を全て”解らない”という認識は取りませんやね。
宗教によっては夢は明確にお告げと言う事実であったりしますし。
それによって行動を起こす場合も少なくない。よかれ悪しかれですが。
何たって夢を見ているのは確かだし、見ている本人にとっては夢の内容は”事実”でしょう。
たとえ科学ではそれを事実とは言わないと言っても。それは科学だから言わないんであって、だから宗教も言うなってのは変でしょ?

科学がそれは宗教の傲慢であり、解らないとすべきだ。何故なら科学的にその夢の内容までは証明できないからだ。
だって科学にとってわからないものは、宗教にとってもわからないはずだから。
と主張するのはただ科学の認識ルールを宗教に押し付けているだけ(所謂科学主義)、滑稽じゃないですか?

奇跡の話に戻せば宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないのー?と言っているんですよ。
んで、も一つ付け加えると科学的手法によって観測された事実だけがあらゆる事実の全てだと宣言するのは変だよーと。

事実の認識のルールが違うのを無視して一方的に経典の逐語的解釈者の立場に立ち、宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。


>diamonds8888xさん
そうですね。ROMしてるつもりだったんですが
>>264の宣言がなにか
同意を得ない後出しの一方的な線引きに見えて「そりゃねえよ」と反応してしまいましてね。

>fukkenさん
出来るだけゆるりとやってくださいな。

286えめ:2007/01/19(金) 13:26:29 ID:???
訂正
×宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないのー?
○宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないよー

287ミケ:2007/01/19(金) 14:24:13 ID:???
本題とは全然違うお話ですが。

>>246
>なんで数学を科学から除外するのか私にはさっぱりわかりませんが
という書き込みを見つけたのでちょっと解説とか。
まあ書きこんだYS さんはもう見てないかもしれませんし、見ててもスルーするかもしれませんが

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A7%91%E5%AD%A6
上記サイトの「自然科学と数学」の項を参考のこと。

こと疑似科学と科学を区別する上で重要なのは、
現在得られる観察データと理論が矛盾しないかどうか
すなわち、検証可能かどうか、という点です。
数学とは理論そのものであり、「予測してデータと照らし合わせて検証する」
という疑似科学と区別する上で最も重要な過程がありません。
(といっても疑似科学ではないんだよ、念のため)

そういうわけで、「科学と疑似科学」を扱うここのHPの住人には、
数学を科学から除外する方も多いかと思われます。
ちなみにミケとしては、
「数学は科学にとって必要不可欠といってもいいくらいだけど科学そのものではない」という認識です。
論理的思考のトレーニングをそれなりに積んだ人なら、
納得はしなくても上記の立場を理解はしてくれると思います。

288ミケ:2007/01/19(金) 14:27:54 ID:???
>>287
>現在得られる観察データと理論が矛盾しないかどうか
>すなわち、検証可能かどうか、という点です。

ここ、ニホンゴの用法間違えました。
すなわち → そして

289macska:2007/01/19(金) 15:28:55 ID:VdHL1C4M
>>282
なるほど、そういうことなら今更わたしが何を言っても無意味でしょう。

でもわたしは何かの行き違いだと思うので、もし別の議論で出会うことがあれば、そのときはもっと建設的な議論ができることを願います。もちろん、こちらには悪気がないのにそこまで悪く受け取られてしまったということは、気分的にまだ納得できるものではありませんが、多少なりとも反省材料として今後に活かしたいと思います。

>>284
> また「それは誤読だ」と主張するよりも、自己の記述に「誤読を生むに足りる十分
> なミス」があったことを認め、前言撤回するなり訂正するなりすることのほうが議
> 論をスムーズに進めることができるとは思えなかったんでしょうかね。

コミュニケーションには誤解というのはつきものであり、必ずしもどちらかが悪いというわけではないと思うのです。今回の場合、「もっと分かりやすい書き方はできなかったか」と言われればそれは確かにできたと思うのですが、わたしが誤記したわけではなく、「ミスがあった」とまでは言えないのではないかと。もちろん、誤解を受けたことは事実ですから、全く責任がないとはいいませんが、だからこそ追加説明や釈明を行なうことでその責任を果たしているつもりです。

ま、議論をスムースに進めるためにとにかく頭を下げるというのも大人の知恵ですから、「訂正する」と一言どうしても言って欲しいというなら言っても良いです。でも、既におこなっている釈明で十分じゃないの、という気持ちは残りますね。もしあなたも議論をスムースに進めたいと思っているのなら、どうして「相手に明示的に落ち度を認めさせる」ことにそんなに固執するのかなぁと。

>>284
> 「我々が使うカガクとか云うモノサシによるひどく狭い限定的な検証」は可能です。

それで十分。それ以上のことを何も主張していません。

> しかしこれは「聖書にある言葉を逐語的に検証している」に過ぎず、イエスの生誕およ
> びその周辺に関わる「宗教的知」に対してなんら疑義を挟める類のものではないでしょう。

まったくその通り。そうであるにも関わらず、「現実世界で起きたとされる事象は検証が可能である」と言うことが宗教に対する侮辱だとか冒涜だとかいう人が多くて困っていました。

290macska:2007/01/19(金) 15:29:32 ID:VdHL1C4M
>>285
> ところがさ、宗教は夢の内容を全て”解らない”という認識は取りませんやね。

宗教の側がどう解釈するかはかれらの勝手ですが、傍目から見ていて「分かっている」ようには見えません。
やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」。

> たとえ科学ではそれを事実とは言わないと言っても。それは科学だから言わないん
> であって、だから宗教も言うなってのは変でしょ?

言えばいいんじゃないですか。

> 科学がそれは宗教の傲慢であり、解らないとすべきだ。何故なら科学的にその夢の内容
> までは証明できないからだ。

科学が宗教に指図を出すような問題じゃないでしょ。宗教が何を主張しようと勝手だけど、周囲が「宗教が何か確からしいことを知っているらしい」と認める必要が一切ないですよというだけで。

わたし個人としては、「知る」「分かる」という言葉を、「信じる」「確信する」という意味で使わないで欲しい、という要望があります。まぎらわしいし、宗教者自身がそのあたりの区別を見失って混乱しているのをよく見かけるからです。しかしわたしは、科学から宗教に出すべき要求としてそれを主張していません。

> 奇跡の話に戻せば宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないよー ?と言って
> いるんですよ。

混同すべきではないですね。
ただ、宗教的見解として示されたことであれ、それが現実世界の事象についての言明であるなら、科学的手法による検証の対象となり得ますよと。仮にそれでその言明が科学的に否定されたとしても、それによって宗教的意義までは否定されない、ということでしたら同意します。

> んで、も一つ付け加えると科学的手法によって観測された事実だけがあらゆる事実の全て
> だと宣言するのは変だよーと。

それはその通りですが、そんな宣言誰もしてないし。

> 事実の認識のルールが違うのを無視して一方的に経典の逐語的解釈者の立場に立ち、

これは違います。水をワインに変えたとかマリアが処女受胎しただといかいうのは、「現実世界で起きたとされる事象についての言明」の例として挙げただけで、宗教的教義に含まれる「現実世界の事象についての言明」であればなんだって同型の議論ができます。聖書から例をとったのは、逐語的解釈の立場をわたしが取るからではなく、「現実世界で起きたとされる事象についての言明」として良く知られており、分かりやすい例だからです。

> 宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。

「自分の思うように」という意味ではないですし、教義を変えることが悪いとも言っていない、と既に釈明しています。その釈明を受けたうえでも、まだ暴論だとお考えですか? もしそうであるなら、その釈明も考慮に含めたうえで、どうしてそれでもまだ暴論なのか説明してください。

291AH1:2007/01/19(金) 18:00:47 ID:b4lKR3h.
>そんなことで怒らないで欲しいんですけどね。まぁ、知りもしないことを「知っている」と標榜することで商売しているような宗教にとってはダメージかもしれませんが、宗教の価値ってそんなことではないんじゃないかなぁ。

「宗教の価値・・」という点については全く同意します。私の感じている違和感は以下の二つ(つきつめれば一つ)だけです。
「知っているという言葉は『科学的に検証されている』の意味だけか」
「知の体系は科学だけか」

昨夜あたりの投稿の中で、mcskaさんが「確信している、というなら別にいい」「自分は科学という枠の中だけで言っている」と仰っていますので、私としてはほぼ納得いきました。
強いて言えば、私なら『ここでは科学の枠内についてのみ、「現実世界」という言葉を使っている(カガク的な現実、とでも言えばいいか)が、もちろん宗教は科学とは違う、方法論も用語も異なる、別個の知の体系である』と、どこかで明確にしておきたいという事です(たぶん論争になったのはその部分)。
「宗教者が怒るだろうな」と書いたのは、これが明瞭でないと「何ー!貴様、科学だけが知だと言うか!宗教は科学に許して頂いた範囲でだけ存在せよと言う気か!」と言われかねない、という意味です(実際、そのようなカガク絶対主義的な考えは存在するでしょうし、少なくとも科学が『幅を利かせる』現代において宗教者は日々、実感しているでしょう)。

勿論、私は道具としての科学の有効性を疑わないし、馬鹿でもできる・・というか「衆生でもできる」と言いましょうか、サトリを必要としない知の体系として科学の有効性を認めています。一方で地下猫さんの言う「別の知の体系」の存在も認めます・・というか否定しません。
複数の知の体系がある場合、「それは『どの体系に関して』知ってるって意味か」をコンテクストから判断する、わからなければ確認する、また語る側が複数の知の体系を混ぜこぜにしてしまわない・・という注意は必要でしょうが、私はそれだけで良いと考えます。

ああ、やっと「腑に落ちた」。これは複数の体系にまたがって「わかった」ということでしょうね。

292芥屋@keya1984:2007/01/19(金) 18:59:17 ID:SDpU3giY
>macskaさん

本題に戻しますよ。

>神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。

そうですね。ここでいう「神」には当然「仏」も含めていいのでしょうが、ひとくちに「仏」と言っても仏教にもいろいろですから、その仏説とされる教義についても、科学的な考察の対象となるものもならないものもあるでしょう。

macskaさんはここで、さも科学主義者のように思われているようですが、そのへんがいらぬ誤解を与えていると思います。というか、あなたは中願派仏教徒であると自称しているわけですから、他宗教他宗派の教義を引き合いに出して科学をつきつけ云々する前に、自分の仏教(macskaさんいわくの「本来の仏教」)では、これこれこういう具合に科学的検証と仏説とが関わっていると例示すべきでしょう。そこでは、当然に仏教の他の諸宗派との違いにも言及せねばならないでしょう。

こういったことをまず、自分が自分に課して人にそれを示してからでないと、自身も一人の(なんらかの)仏教徒でありながら、やっていることはそれを隠して科学をちらつかせて異教を攻撃しているにすぎないことになります。それこそが、宗教者が科学を悪用する典型ではありませんか。まず、自分が主張していることを自分はどう実践しているのか、それを示してからにすべきです。

いつぞやのように、「自分から見ればチベット仏教は本来の仏教ではない」というから「どういう理由でそう言えるのか?あれこそ中願派だろ?」と問えば無回答、フェミニストとして「大峰山の女人結界は差別だ」というから「それがなぜ差別なのか仏教徒として答えてみよ」と問えば無回答、「男女別で規範があれば、服飾のようなものでも差別」というから「ならば多くの宗教には男女別の規範があるが、それを理由に否定していくつもりか」と問えば無回答…といったことのないようにしていただきたい。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1082;id=keya1984

もちろんその回答を今ここでせよというのではありません。少なくとも自分が今ここで主張していることを、自分の宗教によって説明すべし、ということです。あなたの仏教は「世俗化した多くの宗教」とは違うのでしょう?どう科学的検証を経てきたのか、明示すべきです。

293Josef:2007/01/19(金) 19:07:41 ID:uPoVYQoU
>>267
小林秀雄のその文章、昔読みました。死者を悼むことに似て、「神」とは相互主観的に共有できる「事実」ではなく主観的な「意味づけ」なのでしょう。この水準は科学の対象とはなりえないと思われます。

しかしながら「神」とされるものにもまたいろいろあるわけで、科学的に観測し得る経験世界に介入して科学法則に反する奇跡現象を惹き起こすような「神」もいる。そういう「神」の行為なら科学的検証の対象となる、というのがmacskaさんで、これもまた当然のことですね。

>>283
>少なくとも,「経験的ではない」と断言できる幾何学的直観を,私は例示することができません。

「点」とか「線」は非経験的な幾何学的直観ではありませんか?公理もそう。そしてそこから先はトートロジー。科学であれ数学であれ、経験的事実に還元しえない直観に始まっていると思われます。だから19世紀の急激な科学的知の増大とともに「本当にこれらは正しいのか」という自らの立つ地盤への懐疑が生まれ、各種基礎論が盛んになったと理解しています。『幾何学の起源』等で知られる現象学者フッサールは客観的な「正しさ」ではなく「疑いえない」という「確信」に諸科学の基礎を求めようとしましたね。成功したとは言えないのでしょうが。

その水準では、macskaさんが

>>290
>わたし個人としては、「知る」「分かる」という言葉を、「信じる」「確信する」
>という意味で使わないで欲しい、という要望があります。

と言うのは無理なのであって、科学もまた知の源泉を辿っていけば「確信」で行き止まりになると思われます。ただmacskaさんは最初からそういう水準ではなく、もっと常識的な水準で語っていることもまた明らかですから、あくまでもmacskaさんの主張から派生した別の話題として楽しく話し合えばいいでしょう。

294NORTON3rd:2007/01/19(金) 19:15:44 ID:tQvpJqX6
>>292芥屋@keya1984 さんはじめまして
>中願派

アノ、失礼ながら中観派(たしか竜樹菩薩のお弟子だったと思うけど)の間違いでは・・・

295AH1:2007/01/19(金) 19:35:59 ID:b4lKR3h.
ていうかまたタイプミスしてますね、私。macskaさんのaが抜けてる。

macskaさん、失礼いたしました。
(マウスの調子が悪いのでコピペをさぼっております。そのせいです)

296すらりん:2007/01/19(金) 19:43:23 ID:Fc.S231Y
>>290
>> 宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。
>「自分の思うように」という意味ではないですし、教義を変えることが悪いとも言っていない、と既に釈明しています。

結局macskaさんが日本語表現に無頓着だったということですかねー。

教義を「捻じ曲げる」と表現してますけど、それは一般的には、「変える」という単に現象を説明する言葉プラス
「自分はその行為を不快に思っている・批判的に見ている・あるいは悪意を持って見ている」というような意味合いの、
発言者の主観をも含めた表現です。
そういう言葉を使ったまま「自分はそれが悪いことだと言ってないし思ってない」と後から釈明しているような行為も
冒涜とか愚弄とか受け止められた要因かも。
「捻じ曲げる」以外にも似たような表現の仕方がいくつかありましたからね。
そういう言葉に対する感覚のずれがあったんでしょうね。

297すらりん:2007/01/19(金) 19:44:31 ID:Fc.S231Y
>>224
>然り。
>相手がたとえオームであっても、その部分だけで判断するのなら、真理をつかんでいるかもしれにゃーという可能性を捨てることはできにゃーです。

いわゆる「理系エリート」などと言われる人達が何故簡単にオウムに騙されて犯罪に走ったのか、
と言われてましたが、
物事を突き詰めて考えると逆に騙され易くなる部分も出てくるのかなあ。

普通の人の感覚では「そんなアホな」と入り口の部分で一笑に付してしまえる事柄でも
科学が解らない真理をつかんでいる極小の可能性を見出して実際に入信して試してみようとする。

極小の可能性を否定しきれないという点については、
空飛ぶスパゲティの怪物の存在を否定し切れないのと同様の意味で同意できそうなんですけど、
ただ極小の可能性を強調することには上のような弊害はあるなあ、と思いました。

どうも話が拡散してしまいました^^;

298macska:2007/01/19(金) 19:59:21 ID:VdHL1C4M
>>291
> 強いて言えば、私なら『ここでは科学の枠内についてのみ、「現実世界」という
> 言葉を使っている(カガク的な現実、とでも言えばいいか)が、もちろん宗教は
> 科学とは違う、方法論も用語も異なる、別個の知の体系である』と、どこかで明
> 確にしておきたいという事です(たぶん論争になったのはその部分)。

うーん、わたしは科学だけが知の体系だとは思わないし、宗教の中にも知の体系はあると思うけれども、人知が一切及ばず信仰するしかないものについての「知識」がある、という言い方には抵抗を覚えます。人知が及ばないところに「知」は定義上ありえないように思うのですが…

例えば、宗派によって違いはありますがアブラハム系の宗教ではさまざまな天使の名前や階級や担当がことこまかに分類されていますが、それらは「知識」と言って良いのかどうか。仮にそれを「知」と呼ぶとしたら、それは他の分野の「知」とはかなり違った特殊な用法であると言わざるをえないです。

>>292
> というか、あなたは中願派仏教徒であると自称しているわけですから、他宗教他
> 宗派の教義を引き合いに出して科学をつきつけ云々する前に、自分の仏教(macska
> さんいわくの「本来の仏教」)では、これこれこういう具合に科学的検証と仏説
> とが関わっていると例示すべきでしょう。

いやー、たしかにわたしは中観派仏教徒を自称していますが、わたしにとって仏教は価値観であって、信仰ではないんです。というか、人知の及ばないことについてあれこれ言う人がいても惑わされるな、という教えが仏教にはあると思っています(そしてわたしは、それが神様や仏様や偉い人の教えだから従っているのではなく、その教えに納得がいくから従っています)。これまでわたしが発言してきたことには、そういう(わたしが理解するところの)仏教的価値観というか仏教経由の価値観も反映されているでしょう。

> こういったことをまず、自分が自分に課して人にそれを示してからでないと、自身も
> 一人の(なんらかの)仏教徒でありながら、やっていることはそれを隠して科学をち
> らつかせて異教を攻撃しているにすぎないことになります。

だから、異教を全然攻撃していないんですが。

> いつぞやのように(以下略)

わたしの発言の不当なまとめが多いです。ていうか、それぞれきちんと回答したことばかりなのに「無回答」と詐称するのは止めて欲しいですね。

ただ、納得していただけるまで延々と議論に応じることができなかったのは事実で、なぜならその当時、わたしは各地で講演の仕事が立て続けにあったからです。もしあの時に未解決だった論点があるのでしたら、出来る限り答えようとおもうので、芥屋さんの掲示板の方でまた話題を振ってください。

> 少なくとも自分が今ここで主張していることを、自分の宗教によって説明すべし、
> ということです。

わたしがこれまで主張してきたことの背景には、仏教的な価値観の影響もありました。まる。ドーキンスやデネットの影響の方が強く出ていたんじゃないかと思いますが。これで満足ですか?

> あなたの仏教は「世俗化した多くの宗教」とは違うのでしょう?

ドーキンス的には、わたしにとっての仏教(信仰ではなく価値観)は「宗教」と呼ぶべきではありません。以下は「The God Delusion」 p.37 から引用。

> And I shall not be concerned at all with other religions such as Buddhism
> or Confucianism. Indeed, there is something to be said for treating these
> not as religions at all but as ethical systems or philosophies of life.

もちろん、仏教と名がつくものでも超自然的な存在や事象を扱うのであれば、ドーキンス的な定義においては宗教と呼ぶべきです。(この本の別の部分でドーキンスは、障害児は過去の生において何か悪いことを行なったに違いない、という仏教徒の発言を批判的に引用しています。)

あと、わたしは「世俗化した多くの宗教」を何ら批判してないので、その点誤解なく。

>>296
> 「自分はその行為を不快に思っている・批判的に見ている・あるいは悪意を持って
> 見ている」というような意味合いの、発言者の主観をも含めた表現です。

ええ、だから軽い皮肉くらいの意味合いはありました。それはとっくに認めています。
でも、批判とかそんな大それたつもりじゃなかったんですよ。
まぁ、感覚のずれがあったと言われれば、そうだったとしか言えないですね。

299Josef:2007/01/19(金) 20:25:53 ID:uPoVYQoU
>>297
>いわゆる「理系エリート」などと言われる人達が何故簡単にオウムに騙されて
>犯罪に走ったのか、と言われてましたが、物事を突き詰めて考えると
>逆に騙され易くなる部分も出てくるのかなあ。

突き詰めて考える、というより、科学は価値を扱えない、ということが大きいんじゃないかと思います。勝手な推測ですが。こけおどしであれ、世界を説明する大きな価値体系を示されるとコロッと行く可能性はあるんじゃないですかね、文系理系を問わず。

あと、突き詰めて、に関して思い出すのですが、ノーベル賞の利根川進氏が「いくら人間の身体を調べてみても『尊厳』など出てこない」という意味のことをテレビで言っていました。「尊厳の不在」という喪失感・不安感は、ひょっとすると自然科学に携る人に存外強いのかもしれません。

300AH1:2007/01/19(金) 20:36:54 ID:b4lKR3h.
>仮にそれを「知」と呼ぶとしたら、それは他の分野の「知」とはかなり違った特殊な用法であると言わざるをえないです。

まあ、言葉の感覚の問題に帰着してしまうと要するにそれだけのことなんですが、私でしたら「人事課に問い合わせたんかい!」とう突っ込みは無しにして(笑)、「ああ、この人はこういう基盤で言ってるだろうね」と脳内翻訳します。業界用語として聞く、とでも言えばいいでしょうか。
宗教においては、「自分はそのような事を知るレベルにないために自分が確認したわけではないが、信頼できる先達がそう言っているのだからそれが正しいことを確信している」とする「知」の伝達もあり得るのではないですか?(職人技もこれに近いかな?製造・加工技術は物質を扱う故に科学と相性が良さそうですが)
それが「どの方法論によるどういう体系の知か」を確認しておくのは必要だと思いますが、その上で、私は恐らくmacskaさんよりも曖昧さ(もしくは多様性)を含めた形で「知」という言葉を使うことを認める、そういう言語感覚を持っています。
ということで、とりあえずROMに戻ります。おつきあいありがとうございました。

301みずすまし:2007/01/19(金) 22:02:15 ID:TgyKdXjk
>>293
>「点」とか「線」は非経験的な幾何学的直観ではありませんか?公理もそう。

私はそう思いますが,非経験的であると断言する気にはなれません。

あえて,それらは経験的なものだという主張をしてみると,「点」や「線」も不完全なものは黒板にも画くことができるので,そのような具体的に画かれた「点」や「線」から抽象した観念を私達は持っているにすぎないともいえますし,ユークリッド幾何学の公理も同様です。

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あと,単なるおしゃべりですが,ウィキクォートの「数学」の項↓がなかなか面白いです。
ttp://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6

302HAKASE:2007/01/19(金) 22:24:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.

「原理的に不可能であるとまではいえない」という点に了解していただいてありがとうございます.私が言いたかった最大の点はこの点なので,ここを理解していただけて感謝してます.

で,temaさんのご指摘に対する回答ですが,大筋だけ最初に述べると,私自身は「将来的に観測できる可能性が高いだろう」とは思っていますが「現状の技術では観測できない」という点は同意見です(また,1,2年のスパンでは観測はまだ無理だろうとも思います).

私自身も,temaさんへのお返事を書いてから「原理的には不可能とまではいえないはずなのに,なんで現状ではパイロット理論と呼ばれるものの実証的な証明がなされてないのかなぁ・・・」と疑問に思って考えてみました.
まず前提として,前回の説明を若干補足したいのですが,「各データ観測時刻で同じ特性を持つ」という前提条件は少しおおざっぱで,もう少し書くと「観測系がカオス的でないことが明らかである場合」という事でした.
例えば観測装置が周期的な特性を持つ場合でも,観測結果のデータ列がカオス的であった場合には,観測対象がカオス的だといえます(観測系が「カオス的でない確率系」の場合にどうだったかはちょっと記憶があいまいなので(何か前提条件があった気もするのですが覚えてない)この点の厳密な説明は避けさせてください).

で,以下は量子力学の実証的検証の研究の現状について何ら調べていないうえでの個人的な想像で書きますが,「おそらく,各観測時刻で,統一的な特性か,周期的な特性(か,あるいはカオス的でない確率的な特性)を持つ事が保障されている観測装置を作るのが,現段階の工学的レベルではまだまだ困難だからなのではないかなぁ」と思い至っていたところでした.
カオス制御とかの工学的応用分野では,カオス系の特性を持つ力学系を周期性を持つ系へと変更する技術などがあります.それから特定の1つの量子を厳密に追いつづけなくても,集団での測定ができれば,多次元の時系列解析ができる余地があります.それらが応用できる可能性はあるのかなとも思います.ただ,量子レベルの観測装置に対して工学的にそれらが適用可能かどうかとかまでは,今の自分にはよくわかりません.

ただ,上であげたように分析手法や解析手法などは本当に様々な種類のものがあって,「観測系を含めた測定結果を用いたもの」や「カオス理論を応用したもの」などをはじめ,近年でも様々なものが新たに提案されていますし,現状の工学的技術のレベルでは無理であっても将来的には観測できる可能性があるように私には思えます.そのあたりの感覚がtemaさんと私との間で少し違ってるせいで,「可能性が高いと思える結論」が異なってるのかなとも思います.
これ以上は,お互い「可能性」の話以上にはならないと思いますし,主要な意見は合意しあえた(最終的な「可能性」に対する意見は異なりますけど)と私は思っていますが,どうでしょうか?

# 量子力学の話,いろいろ勉強になりました.ありがとうございました(結論聞く前にお礼書くのは問題かもしれませんが(^^;).

303みずすまし:2007/01/19(金) 23:35:32 ID:TgyKdXjk
>>246
> あとmacskaさんの主張を理解するのに必要なのは>>110にある「存在を主張する方に証
> 明責任があり、非存在は証明不可能」という当たり前のルールですね。>>202に関して
> いえば、Aが宇宙の真理が42である証拠を出さない限り、Bは(そしてA以外の誰も)A
> の主張を論理的に認める義務はありません。これは科学もクソもない、単なる論理の問
> 題にすぎません。

これについて反論がやっと整理できたので,だいぶ遅レスだけど,一応反論しときます。

第一に,それは「論理の問題」ではありません。たんに論理の問題なら,全称命題であれ,存在命題であれ,とにかくその命題の成立(証明可能性)を主張する人に証明責任があるはずです。

むしろ,私達はそこまで論理的に突き詰めて判断してばかりはいられないために,その「当たり前のルール」があるのではないでしょうか。

第二に,このスレはディベートをしているのではありません。審判がいないこと,論題が審判や主催者から与えられてるわけではないことから,それは明らかです。従って,少なくとも「ディベートのルールに反する」という形で非難を受けるいわれは,参加者の誰にもないものと思います。

# もっとも,「存在を主張する方に証明責任があり、非存在は証明不可能」というのは一
# 般的な議論のルールであって,ディベートに限らず,それ以外の形の議論にも適用され
# るとはいえるかもしれませんが。

第三に,下の>>75のmacskaさんの記述に関しては,macskaさんの「宗教にも分からない」という主張に対して誰かが「宗教には分かる」という主張をしているのならば,仰るところの「当たり前のルール」の適用によりその人に証明責任があると考える余地がありますが,少なくとも私は(そしておそらく多くの人は),「宗教には分かるかどうか,分からない」というメタレベルに議論を移そうとしていた(いる)のです。

# 私はそれがうまくいく自信がなくて,諦めましたが。

>>75
> 科学が主に対象とする領域については科学はある程度確からしいことを明らかにするこ
> とができますが、その科学が扱えない領域において宗教が何か確からしいことを言える
> のかというと、科学に分からないことはやっぱり宗教にも分からない。

「宗教にも分からない」という主張と,「宗教には分かるかどうか,分からない」というメタレベルの主張では,その「当たり前のルール」はそのままは適用できません。

強いて適用するなら,「宗教にも分からない」という主張は「宗教には分かるかどうか,分かる」という主張を含意しているのですから,その主張をしているmacskaさんに証明責任があるという帰結になるだろうと思います。

# 強いて適用する必要があるとは,私は思っていませんが。

そして,ディベートにおいてはそのようなメタレベルの主張を行うことは禁止されていますが,第二点として書いたように,ディベートのルールに反したからといって非難を受けるいわれはないものと思います。

また,ディベート以外の一般の議論について,「宗教には分かるかどうか,分からない」といったメタレベルの主張をしてはいけない,というルールがあるとは思っていません。

# あまりにメタレベルにメタレベルを重ねて,極端に深い懐疑論に根ざす主張は制約され
# てやむを得ないと思いますが。
## 比喩的にいうと天井はある。

いずれにせよ,そのようなメタレベルの主張が許されるのか,許されるのならばどの範囲で許されるのかは,おっしゃるところの「当たり前のルール」とは別の問題であるはずです。

304芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 00:12:57 ID:Q7XBVw2.
>NORTON3rdさん

ご指摘ありがとうございます。「中観派」です。

>macskaさん
>>298
あなたにとって仏教が宗教であるとかないとか、何の言い訳にもなりません。ならば創造科学も「宗教ではない」と言えばそれまでになってしまうでしょう。そんなことは何の関係も無い。「価値感であって、信仰ではない」…だから何なのです。あなたにとって仏教が「宗教ではない」もので、「信仰ではなく価値感」だとして、それが仏教である以上は仏説であるはずです。その仏説に対して、あなたはどのように科学で検証して、今にいたるのか、それを示せと言っているのです。

できないことなどないでしょう?見せてご覧なさい。ナザロの復活やマリアの処女受胎などを科学で検証すべきだと言う以上、当然、あなたも自身の受け入れるところの仏説に対して、それを行ってきたはずだ。異教をあれこれ言う前に、自分はこうやったと示す責任がある。仏教徒と称しつつクリスチャンに科学の矢を放つ以上は、それが異教徒への最低限の責任だと言ってもよい。いや、それ以前に、同じ仏教徒への責任でもある。

それと、「ドーキンス流に言えば仏教は宗教にあらず」とは詭弁もはなはだしい。「宗教」という言葉が仏典用語である。「宗(むね)とする教え」だ。仏教が宗教でないことがあろうか。怪異や奇跡を信仰しないこと、むしろ「信仰を去れ」というに近いものであったかもしれないことは私も承知している。おそらく原初の仏説はそうだったのではないかとは私も思うが、その部分だけに逃げて仏教をとらえてはいけない。既に他の人が引用していますが、

*************
かようにわたしは聞いた。あるとき、世尊は、サーヴァッティの祇園精舎にあらわれた。その時、ヴァッチャという外道の行者が、世尊を訪ねてきた。二人は友誼にみち礼譲ある挨拶を交わしてから、さて、彼は世尊に問うて言った。「世尊よ、あなたは、世界は常住であるとおもわれるか。これのみが真であって、他は虚妄であると思われるか。」「ヴァッチャよ、わたしは、そうは思わない。」「では、世尊は、世界は常住でないという意見であるか。」「そうではない。」・・・(中略)・・・さらにヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。

かくて、ヴァッチャは、さらに問うて言った。「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか。」すると世尊は、かように教えて言った。「ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。

(マッジマニカーヤ 中部経典72、増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、240〜242頁)
**************
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

科学によってそれらを検証せよ…とのあなたの主張は、仏説に背くものであると思うが如何。だから私は問うている。あなたは、自分の主張をこの仏説に向けたことがあるのか。

それと、ドーキンスの近著に感化されたとのことだが、にわかじこみは恥ずかしいのでやめたほうが良い。ついこのあいだまで、社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかったのに、急にグールドvsドーキンスの深い主題が理解できているとは、到底思えないのだが。

305芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 01:38:40 ID:Q7XBVw2.
一例としてmacskaさんが挙げていた「ナザロの復活」を題材にして、ちょっと長い感想を書きました。ご参考までに。
ttp://d.hatena.ne.jp/keya1984/20070119

306地下に眠るM:2007/01/20(土) 02:04:12 ID:KGIxSE4o
ま、不毛といえば不毛なことにゃんが

>>233より
macska「偶然というのは、われわれが完全な情報やメカニズムを知覚できないから偶然として立ち現れるだけ」
馬鹿猫「macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだ」
macska「わたしの立場は、そういう認識に依存しません。いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか? 」

>>237より
>はい、その部分は、本来の議論とは関係のない議論に踏み込んでしまって、分かりにくくなってしまったと思います。しかし、 >>33 の時点から >>111 の時点までのあいだに「わたしの主張はそれではなくこれです」と何度も説明しているわけで、それだけ離れた発言を連続するものであるかのように書くのは不当です。
>はっきり書かないと分からないようなのでもう一度説明しますが、>>33 で示した「偶然」についての認識は、わたしは撤回しているのです。なぜなら、それは本来の議論から離れた論点であり、本来わたしが主張していることは、>>33 で示した認識に依存しないからです。

チミの議論スタイルがよくでているにゃんなあ(呆気
33から111の間に、偶然が無知によるものであるという見解を相対化するような記述は僕には認められなかったにゃ。あるなら具体的に出してよ。
「自分のコトバに責任をもつ」ちゅうのは、議論における最低限のルールのはずだにゃ。
ある言明を行なったのであれば、それを明確に訂正しにゃー限りは過去の言明を持ちだされてつつかれるのはアタリマエもいいところだろ? >>33で示した見解を、いったいどこで撤回したの? >>33以降も、何回か偶然は無知によるものだという旨の発言は見られるにゃんがね。

「はっきり書かないと分からないようなので」って何様のおつもり?
自分の発言を撤回するのであれば、それを「はっきり」書くのはアタリマエなのではにゃーのかね?(ここは逃げずに答えること)
チミの主張は、どれがいつ撤回されたものなのかわからにゃーんだ。過去ログを読んでいくと、チミの主張には多くの矛盾点がみられるのだけど、どうしていいのかわからにゃー。
だって、明確に撤回がされてにゃー過去発言をもとに(というか、僕には撤回のテの字も読めなかったけど)発言しても、「いい加減その誤解やめてください。何十回も説明させるつもりですか?」などといわれてしまったうえに、ログからその経緯をひっぱったら不当だとかいわれてしまうのではにゃー・・・・・


NANの指摘したキリストのDNAがどうとかいう問題もそう。
書き手の意図がうまく伝わらにゃーことは多々あるにゃ。それは確かに書き手と読み手双方に問題があることもあるし、書き手あるいは読み手に重大な、あるいは一方的な過失がある場合もあるにゃ。
そして、この件において、ミケ、NANその他の者が「誤読」をしていた(僕もミケやNANと同じように読んでいた)にゃ。読みは正確な連中だと思うんだけどにゃ。また、読み返しても、ミケやNANの読み方が可能(というかそっちのほうが自然に思える)な記述だにゃ。
そして、「誤読」というコトバは、読み手側の一方的あるいは重大なミスと解釈できる。

あんな文を書いておいて「誤読」とか抜かしたら紛糾して当然だろ?
あんな文を書いておいて「お前の読み間違い、こっちの真意はこうだよ」が通じるはずにゃーだろ?
自分の書いた文章に責任を持つのなら、文の記述にいささかなりともプライドを持つのであれば、訂正して謝罪というのがアタリマエ。チミ以外の多くのものはそうしているにゃ。もちろん僕も、表現に問題があったと思えば即刻謝っているにゃ。

>もしあなたも議論をスムースに進めたいと思っているのなら、どうして「相手に明示的に落ち度を認めさせる」ことにそんなに固執するのかなぁと。>>289

議論をスムースにすすめたいから、自分の発言に責任をもてということなんだけどにゃ。
誤りを認める、とか、撤回する、ってのは「明示的」に行なうものなの。でなきゃ、議論にならにゃーの。
あと、本質に関係のあまりにゃーところで、自らの間違いをさくっと認めることにより、ギャラリーに「自分の間違いを認められるヒト」という印象を与えることができるという特典アリ。多用するといい加減な馬鹿と思われるので逆効果。

お願いだから、自分のコトバに責任を持ってくれ。

今後、僕とチミの見解はまるで別物であること。
やはりチミは無知に基づく宗教批判をしていることを検証するにゃんが、自分のコトバに責任を持ってくれにゃーと、こっちのすることがまるでムダになっちまうにゃ。まあ、ギャラリー向けにサービスするけどにゃ。ただし投稿ペースはだいぶ落ちる。

307カモオオハシ:2007/01/20(土) 05:52:36 ID:C0VsT.3A
こんにちは。ここにははじめて書き込みますカモオオハシといいます
(第一掲示板には大昔に書き込んだこともあります)。
以前からmacskaさんと地下猫さんのそれぞれの愛読者(ROMですが)
だったもので「ルパン対ホームズ」でも読んでいるような気分でログを
よませていただきました。格下の論敵を相手に徹底的にたたきつぶすという
芸風の(しかもなまじ有能な)二人がぶつかるとこんなふうになるんですね。
まあ、どちらが正しいというより、お互いに信頼関係があれば問題にも
ならないようなちょっとした言い間違いや説明不足が信頼関係がないため
にいちいち問題化し、関係をさらに悪化させている例のように見受けました。
同じ論点が繰り返し出ているのにお互い納得せず、お互い相手が不誠実な
ように感じている、というのは、視点や関心が違うために同じものがまったく
違うように見えている徴候です。相手からはどんなふうに見えているのか、
自分にとって大事な問題が相手にとって瑣末な問題に見えるのは何故なのか、
とお互い想像力をはたらかせてはいかがでしょうか。

macskaさんに対して一つコメントです。
もともとの火種となった、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
という言い方についてですが、そもそも、NATROMさんはこれを
「「いかなる神も存在しない」と示すという問題は科学の範囲外」という意味で
書いたのではないでしょうか(対応する質問も「神はいないのでしょうか」
というものですし)。わたしは少なくともそう理解し、問題を感じませんでした。
まあ、NATROMさん本人があいまいさをみとめて削除された文章ですので
いまさら蒸し返すこともないのかもしれませんが、もしかしたらNATROMさん
はmacskaさんのクレームについて「そんな読解が可能だなんて、あなたに
言われるまで考えもしなかった。」と思ってらっしゃるかもしれません。

308diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:07:17 ID:Zz3oJN62
>>267
 「認知の対象とする」ということと「認知した像が正しいか否か」ということは区別した方がわかりやすそうですね。「死んだ子供」も他人が客観的に認知できないとは言えないが、そうやって認知した像は、母親が認知した像とは異なっているし、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
 この世界はヒトにとっても昆虫にとっても認知対象には違いないが、ヒトの眼に映る像と昆虫の眼に映る像と、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。
 この世界は科学にとっても神話にとっても認知対象には違いないが、科学の眼に映る像と神話の眼に映る像と、どちらの像が正しいとか間違っているとかは言えない。

 というところでしょうか。

309diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:10:35 ID:Zz3oJN62
 AH1さん(>>300)、みずすましさん(>>303)とも重なりますが。

 macskaさんほどの方なら科学哲学や論理学についても一通りは御承知だと思います。とすれば「論理的には、科学のある命題が100%正しいことはありえない」という話は御承知ですよね。科学というより、人間の知覚が有限である以上は人間が何かを100%正しいと断言できることはありえません。科学のどんな命題もその根本には何らかの仮定があります。例えば、

・宇宙のどこもかしこも同じ物理法則が成り立つ
・過去も未来も物理法則は不変
・人間の知覚能力は一人の例外もなく似たり寄ったりである
・世界は論理的に矛盾無くできている

 強力で個人的には例外を見つけていない仮定ですけど、100%正しいと断言はできません。とりあえず正しいと見なして前へ進むという科学の方法は間違ってはいませんけど、思索の上では正しくないかも知れないという立場にたつことも可能です。
 そういう広すぎる立場にも理解を示していただかないと永遠に平行線だと思います。

310diamonds8888x:2007/01/20(土) 06:14:26 ID:Zz3oJN62
>>279, >>287, >>301
 数学について別スレッドを立てましたので、よろしければそちらで議論しませんか?

311macska:2007/01/20(土) 09:00:43 ID:VdHL1C4M
>>304
> あなたにとって仏教が宗教であるとかないとか、何の言い訳にもなりません。
> ならば創造科学も「宗教ではない」と言えばそれまでになってしまうでしょう。

創造科学は科学理論を標榜しています。だから、科学的手法により否定すればそれで済みますね。

わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?

というわけで、

> その仏説に対して、あなたはどのように科学で検証して、今にいたるのか、
> それを示せと言っているのです。

価値観は科学的手法で検証されるものではないと思います。

> ナザロの復活やマリアの処女受胎などを科学で検証すべきだと言う以上

わたしの主張を曲解するのはやめてください。わたしが言うのは、現実世界で起こったとさsれる現象は科学の範疇であるというだけで、たまたまその現象を伝える書物が聖書だったからといって科学の範囲外であるということにはならない、というものです。わたしが「聖書に書かれているからといって特別扱いするべきではない」という要求を突きつけている対象は科学の側であって、キリスト教に対してなんら「奇跡を証明しろ」と要求していません。

> 異教をあれこれ言う前に、自分はこうやったと示す責任がある。

異教をあれこれ言っていない。科学のありかたを議論しています。

> 科学によってそれらを検証せよ…とのあなたの主張は、仏説に背くもので
> あると思うが如何。

そのように主張していません。って、これまでの議論ちゃんと読んでから発言してください。

> ついこのあいだまで、社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度に
> しか見ていなかったのに、

酷い中傷はやめてください。事実に反します。

>>306
わかりました。書き方に誤解を招くような要素があってすみませんでした。
でも、今は真意が分かったわけですから、それをベースに議論していただけないでしょうか。

>>307
> もともとの火種となった、「神がいるかどうかという問題は科学の範囲外」
> という言い方についてですが、そもそも、NATROMさんはこれを
> 「「いかなる神も存在しない」と示すという問題は科学の範囲外」という意味で
> 書いたのではないでしょうか

そうかも知れませんが、別の意味で解釈可能でした。

> もしかしたらNATROMさん
> はmacskaさんのクレームについて「そんな読解が可能だなんて、あなたに
> 言われるまで考えもしなかった。」と思ってらっしゃるかもしれません。

おそらく、その通りでしょう。そして、その結果あいまいさが減って良い文になったと思います。

>>309
> とすれば「論理的には、科学のある命題が100%正しいことはありえない」
> という話は御承知ですよね。

はい。「宗教にもわからない」という断言は、科学的事実としてではなく、論理的真(人知が及ぶものであれば科学の対象となり得る、人知が及ばないものには「宗教」と名をつけても人知は及ばない)として主張しています。科学的命題はどこまでいっても100%正しいとは断言できませんが、論理的命題は100%正しかったり100%間違っていたりということがあり得ます。

312カモオオハシ:2007/01/20(土) 10:15:24 ID:C0VsT.3A
>311
>「宗教にもわからない」という断言は、科学的事実としてではなく、論理的真(人知が及ぶものであれば科学の対象となり得る、人知が及ばないものには「宗教」と名をつけても人知は及ばない)として主張しています。
わたしは論点となっているのはやはり論理の問題ではなく方法論的選択の問題だと思います。

われわれは五感によって世界について知ることができると思っています。しかし、哲学的には、五感が世界について知るための信頼のおける道具だとどうして言えるのか、と疑うこともできますし、「人々は五感で世界について知ることができるという思い込みを事実とすりかえている」と批判することもできるでしょう。デカルト以来の哲学の歴史が示すように、これは原理的に論駁不能な批判です。五感によってえられる知識が信頼できると示すためにわれわれが使えるのも五感によってえられる知識だけですから、それを疑われたらほかに手がかりはありません。

さて、多くの宗教は「啓示」や「さとり」という仕方で世界の本当の姿について(特に人間の知覚の及ばない部分について)知ることができると主張します。啓示やさとりなんてただの思い込みだと言われてしまえば、それに反論する証拠を挙げることはできないでしょう。しかしこれは構造的にはさきほどの五感の例とパラレルです。つまり、論理的には、知識を得るための手段としての五感と啓示は懐疑主義に対して同じような問題に直面しているわけです。

もちろん、五感は啓示にくらべていろいろな長所があり、五感のみを信じるという方法論的選択には十分な根拠があると思いますが、それを論理的真の地位に格上げするべきではないと思います。

313酔っ払い:2007/01/20(土) 10:25:39 ID:2.Oxx5s.
初めまして。といっても2回目ですが。

macskaさんに質問です。
宗教は人知が及ぶものでしょうか。及ぶのなら、科学の対象となり得るのですか。
宗教が人知が及ばないものだとすると、人知が及ばないものが、宗教の対象となり得ますか。



-------
202へ突っ込みいれてくださった方、ありがとうございました。

314macska:2007/01/20(土) 10:46:23 ID:VdHL1C4M
>>312
よく読んでくださいね。五感によって得られるものが論理的真なのだと言っているわけではなくて、「人知の及ばないものについては、人知は及ばない」という言明が論理的真だと言っているのです。

つまり、仮に「死後の世界」が人知の及ばないものであれば、人知が及ばないわけですから「宗教」という名をつけても人間にはやっぱり分からないでしょう。一方、仮に「死後の世界」に人知が及ぶとしたら、つまりそれについて何らかの確からしい知が得られるとしたら、それは科学的探求の対象となり得るはずです。

「死後の世界」で分かり辛ければ、「天使のさまざまな名前や序列や役割分担」でも構いません。また、アブラハム系宗教だけ例に出すのが不当だというなら「仏様や菩薩のさまざまな名前や序列や役割分担」でも構いません。そのあたりは例示にすぎないので。

>>313
> 宗教は人知が及ぶものでしょうか。

さぁ。「宗教は」と言われても幅が広いのでなんとも言えません。

それからわたしは、例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。もし人知が及ぶのであれば、それは科学の対象となり得るし、もし人知が及ばないならば、それは宗教によっても「知る」ことはできず、「信じる」ことしかできないであろうと言っています。

> 及ぶのなら、科学の対象となり得るのですか。

「人知が及ぶ」ということを、何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈するなら、科学の対象となると思います。この場合「客観」というのは、もちろん哲学的に言って100%確実ということはないので、まぁ常識的な範囲で解釈してください。

> 宗教が人知が及ばないものだとすると、人知が及ばないものが、
> 宗教の対象となり得ますか。

人知の及ばないものを信仰する宗教もあれば、そうではないものもあるでしょう(ドーキンス的には、後者は宗教と呼ばないようですが)。

315芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 11:04:18 ID:Q7XBVw2.
>>311
>創造科学は科学理論を標榜しています。だから、科学的手法により否定すればそれで済みますね。わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?価値観は科学的手法で検証されるものではないと思います。

何をムニャムニャ眠たいことを言っておるか。価値観を持たない宗教があるか。仏教が価値観であるのは当たり前であり、仏教も宗教であるのは自明のことだ。というか、「宗教」という言葉が仏典用語だと書いただろ。「宗教とは仏教なり。されどreligionにあらず」というなら別だが、そういう主張がしたければ、最初から言葉の再定義を自分でしてからにすべきですな。

でも、そんな作業は本件にはあまり関係ない。いいからサッサと、「自分は仏説について、釈尊の言行録について、自分の主張としてこのように検証してみた」と示してみたまえ。なぜそんな簡単なことができぬ。自分の主張を自分の価値観に対してやって見せよ、と言っているのだ。

ナザロの復活やマリアの処女受胎だって、ただポツンと出来事が挙げられれているのではない。それも彼らの価値観のよりどころではないか。「価値観は科学的手法で検証されるものではない」…?ならばあなたの主張は、あなたの言い逃れによって否定されるだけのことだぞ?いやそれ以前に、創造科学その他の似非科学だって科学理論を応用した価値感ではないか。何を言っておるのだ、君は(苦笑)。

それと、現実世界で起こったこと云々、現実世界への介入うんぬんというが、考え方が雑なんだよ。というか言葉が雑。私のブログにも書いたが、キリスト教は「ナザロを復活させたように誰でも復活させてあげますよ」と説いているのか?そういう介入の仕方ではないではないか。腐乱死体は蘇生せぬ…ということは百も承知のことを述べているだけだろ。

>わたしが言うのは、現実世界で起こったとさsれる現象は科学の範疇であるというだけで、たまたまその現象を伝える書物が聖書だったからといって科学の範囲外であるということにはならない、というものです。

>わたしが「聖書に書かれているからといって特別扱いするべきではない」という要求を突きつけている対象は科学の側であって、キリスト教に対してなんら「奇跡を証明しろ」と要求していません。異教をあれこれ言っていない。科学のありかたを議論しています。

科学のありかたを議論するために異教の教義をあれこれ引っ張り出して、科学の側につきつけているではないか。アホかおまえ。だから、今ここでの科学論の題材として具体的に何か選ぶんなら、異教ではなく自分の宗教、つまり仏説を引用して科学の側につきつけよと私は言っている。それにあたって、自分が自分にそうしてみた経過を示せと言っている。なぜ、それができぬ?相手につきつけることを自分にはつきつけないのはあなたの悪癖だが、それで済む話じゃないだろ、これは。

316芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 11:06:21 ID:Q7XBVw2.
なお、ついこのあいだまで、あなたが社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかったのは中傷でも何でもない。オルコックがブラウンミラーの一節を引いて批判した一文(および長谷川眞理子の邦訳部分)を、反フェミプロパガンダとして片付けようとしていたではないか。私がさも進化生物学と社会構築主義が対立するものと考えているようだとの誤解をあなたがしていたから、そうではないとしてグールドvsドーキンスを挙げてみた。ところが、大山鳴動して鼠一匹のポスモダ大騒ぎだぐらいにしか認識しておらなかったではないか。その件の話は別の人とすることになったけど、まったくついてこれなかっただろ?相手の人はmacskaさんにも参加してほしいと言っていたのに。

もちろん、知らない話に加わらなくてもいい。だけど、ついこのあいだまでその程度の認識だったのは事実じゃないか。最近になってドーキンスの近著を読んで感化されたのならそれは大歓迎です。だけど、にわかじこみは恥ずかしいからやめておけ、と言っただけだよ。それを中傷だという感覚こそ恥ずかしいことだ。

317酔っ払い:2007/01/20(土) 11:51:01 ID:2.Oxx5s.
>>312
回答ありがとうございます。

>「宗教は」と言われても幅が広いのでなんとも言えません。

了解しました。これについては、もう暫く考えてみます。

また、

人知が及ぶことに関して、人は科学の対象として扱える
人知が及ばないことに関して、人が「知る」ことはできない

と理解していますが、これに間違いないでしょうか。信じることしか出来ないかどうかは、人知が及ばないことからは導けないので外していますけれども。

もう一点、

> 例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。

とのことですが、macskaさんの立場、>>33(人知が及ぶことと)「原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべき」なのではなかったのでしょうか。


--------
こういった議論に慣れていないもので、回答はだいぶ遅くなります。申し訳ありません。

318酔っ払い:2007/01/20(土) 12:03:14 ID:2.Oxx5s.
失礼しました。
× >>33
>>31
に訂正します。

319macska:2007/01/20(土) 12:05:22 ID:VdHL1C4M
>>315
> 価値観を持たない宗教があるか。

それはごもっともですが、価値観があれば全てが宗教というわけではありません。わたしの場合、わたしは仏教を信仰しているわけではなく、価値観として仏教を参照していると言っているのです。それを宗教と呼ぶかどうかは定義によりますが、ドーキンスの定義によればそういうものは宗教とは呼ばないことになっています。

> いいからサッサと、「自分は仏説について、釈尊の言行録について、自分の主張として
> このように検証してみた」と示してみたまえ。なぜそんな簡単なことができぬ。自分の
> 主張を自分の価値観に対してやって見せよ、と言っているのだ。

自分の主張は、キリスト教やユダヤ教に対するものではなく、科学に対するものです。
また、わたしは「科学的な検証の対象となり得るはずだ」と主張しているだけで、実際の検証を行なっているわけではありません。

> ナザロの復活やマリアの処女受胎だって、ただポツンと出来事が挙げられれているのではない。

はい、その通り。だから仮にイエスのDNAが発見されて、イエスの生物学的な父親が人間であったことが判明したとしても、処女受胎伝承の宗教的な意義は失われないと思います。わたしが言っているのは、仮にそうした物的証拠があればそれは科学的検証の対象となり得るというだけのことであり、宗教的な意義が科学によって否定されると主張したことは一度もありません。

> ならばあなたの主張は、あなたの言い逃れによって否定されるだけのことだぞ?

わたしの主張は、現実世界で起きた事象は科学の対象となり得るということです。そのどの部分がどう否定されるというのでしょうか?

> だから、今ここでの科学論の題材として具体的に何か選ぶんなら、異教ではなく自分の宗教、
> つまり仏説を引用して科学の側につきつけよと私は言っている。

例に挙げるのであれば自分の宗教から例を出せ、というのはもっともなのですが、わたしは何ら超自然的なものを信仰していないのでそれは不可能です。

まぁ例えば、わたしは釈尊(と表記します)が歴史上に実在した人物だと思っていますが、かれが実在したかどうかは科学的検証の対象となるでしょう(そして、もし科学的証拠によってその実在が否定されたら、「へぇ、そうだったのか」と受け入れます)。また、その伝記が正確かどうかも、具体的な記述について何らかの物的証拠があれば検証可能でしょう(そしておそらく、誇張や創作も含まれているでしょう)。そんなこと当たり前ですし、それらの事実が科学的な検証の範囲外だと主張する人はまずいません(現実問題として、検証するに足る証拠が入手不可ということはあり得ますが)。したがって、これらのことが科学の対象であるとわたしがことさら主張する必要はありません。

ところが超自然的な信仰となると、「それは科学の範囲外である」と主張する人が大勢います。しかし、超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。超自然的な主張であっても、現実世界において何らかの現象が起きた(起きる)という主張であれば、それは科学的検証の対象となり得るからです。大勢の人が科学の範囲を間違って狭めて理解していることは科学にとって問題ですから、それはおかしいと主張しました。

その際、例として聖書をとりあげたのは、単純にわたしが生まれ育った環境においてキリスト教やユダヤ教の影響があり、聖書について詳しく知っているからです。仏説やコーランについても勉強中ですが、聖書の方が断然よく知っています(そのため、聖書の知識を他の宗教に一般化しているのではないかというおしかりも受けました)。また、マリアの処女受胎など聖書の中には有名な伝承が数多くあるので、読んでいる方にも理解しやすいと思って例にしました。キリスト教やユダヤ教を何ら冒涜あるいは否定する意図がないことは再三説明しています。

320macska:2007/01/20(土) 12:07:16 ID:VdHL1C4M
>>316
> オルコックがブラウンミラーの一節を引いて批判した一文(および長谷川眞理子の邦訳部分)を、
> 反フェミプロパガンダとして片付けようとしていたではないか。

全然違います。

芥屋さんが言っているのは、以下のエントリのコメント欄のことだと思います。
ttp://macska.org/article/138
ここで、わたしはオルコックや長谷川の批判をわたしは「反フェミプロパガンダ」として片付けた事実はありません。ブラウンミラーの主張が米国でアンチフェミニズムの側に曲解されて批判されているのは事実ですが、ブラウンミラーに対する批判のすべてが「反フェミプロパガンダ」で済ませられない(とわたしが認識している)ことは、わたし自身がブラウンミラーに批判的であると表明していることから明らかではないかと。

てゆーか、全然関係ない過去の議論から、一方的な解釈を持ち込まないでくれませんか?
別のスレッドなり掲示板で議論しろというなら応じますから。

> その件の話は別の人とすることになったけど、まったくついてこれなかっただろ?
> 相手の人はmacskaさんにも参加してほしいと言っていたのに。

こちらは、いつの話だか分からないです。
たまたまわたしが忙しくて見てないことだってありますし、掲示板において「議論に参加しなかったこと」を責められてもねぇ。

> だけど、ついこのあいだまでその程度の認識だったのは事実じゃないか。最近になってドーキンス
> の近著を読んで感化されたのならそれは大歓迎です。

わたしはずっと以前から(97年頃?)ダーウィニアンフェミニストを自称しているし、進化論とか進化心理学とかについてずっと以前から発言してますよ。その中で、もちろん社会的事象に対する進化論の過剰適用や濫用を批判することもあるけれど、それは基本路線として進化論の有効性を認めているからこその批判じゃないの。ドーキンスの近著の影響はもちろんあるけど、ドーキンスの無神論的な主張を読んだのはそれが初めてではないし。「ついこのあいだまで反フェミプロパガンダとして片付けていた」とか「ドーキンスの近著で感化された」なんていうのは中傷だから、止めてくださいね。

> にわかじこみは恥ずかしいからやめておけ、と言っただけだよ

にわかじこみであろうとなかろうと、おかしな部分があれば批判してくださるとうれしいです。
しかし、過去の経緯をあれこれ一方的に決めつけて中傷するのは迷惑です。

321カモオオハシ:2007/01/20(土) 13:10:33 ID:C0VsT.3A
>>314
>仮に「死後の世界」が人知の及ばないものであれば、人知が及ばないわけですから
>「宗教」という名をつけても人間にはやっぱり分からないでしょう。

「人知が及ばないものに人知は及ばない」というのはもちろんトートロジーで、だれもそれには反対していないと思いますが、まさかmacskaさんも宗教家がその意味で(つまり論理的矛盾として)「人知の及ばないことについて特別な知識を持っている」と主張しているとはおもってらっしゃいませんよね。
しかし、この引用した箇所で書かれている「人知の及ばないものについては分からない」というのは実質的な主張ですよね。もし、同じエントリーで書かれているように「人知が及ぶ」という言葉を「何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈する」のなら、客観的観測が可能でないような仕方で分かることもあるだろう(そして啓示というのはまさにそういうやりかたで知識を得る方法だ)と主張する宗教家はいるでしょう。また、そのように解釈しないのなら、今度は「人知が及ぶものは科学の対象となりうる」という主張があやしくなりますね(これも311で「論理的真」の中に含めてらっしゃるようですがこちらはどう考えても論理的な真ではないですね)。

なお、私から見ても芥屋@keya1984さんの書き込みはほとんど言いがかりではないかと思えます。macskaさんご本人がいちいち的確に答えておられるので繰り返しませんが。

322芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 13:17:18 ID:Q7XBVw2.
>>320
自分にとって仏教が宗教ではないから、それがドーキンスの定義するreligionに該当しないから、自分の仏教は自分が主張している科学的検証の対象にはならない…か。何じゃそりゃ(笑)。そんな論法が通用するなら、およそどんな宗教も科学的検証をさせない口実が立つだろう。

あなたが何をどう言おうが仏教は宗教なの。超自然的な怪異や奇蹟をよりどころとするものは(広義の)宗教の一部でしかない。「宗教」についての自分の貧困な知識をさらけ出して、何を馬鹿なことばかり言っておるか。いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果をここに開陳して見せろって。それができないなら、自分ができないことを他人に要求するな。

いいかね?ドーキンスのreligion批判とあなたの今ここでの主張は同じレベルのものでもないし、そもそも今件、ドーキンスの定義するところにしたがう必要もないわけだ。というか、ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?

>自分の主張は、キリスト教やユダヤ教に対するものではなく、科学に対するものです。

だから、その科学につきつける主張に用いる具体例を自分の仏説にしてみろと言ってるんだ。なぜできない?

>はい、その通り。だから仮にイエスのDNAが発見されて、イエスの生物学的な父親が人間であったことが判明したとしても、処女受胎伝承の宗教的な意義は失われないと思います。わたしが言っているのは、仮にそうした物的証拠があればそれは科学的検証の対象となり得るというだけのことであり、宗教的な意義が科学によって否定されると主張したことは一度もありません。

んなこたぁ誰もがわかっている。相手がわかっていることをわかっていないかのように見せかけて繰り返す悪癖は直らんようだが、通用せんよ。

>例に挙げるのであれば自分の宗教から例を出せ、というのはもっともなのですが、わたしは何ら超自然的なものを信仰していないのでそれは不可能です。

しかし、仏説にも超自然的なものはいくらでもあるだろ。それをどうやって自分の価値観から除外したか、どのようなものが科学的検証をしたか、示せと言ってるんだ。サッサと汁。以下のごたくは無用。

323芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 13:30:42 ID:Q7XBVw2.
>なお、私から見ても芥屋@keya1984さんの書き込みはほとんど言いがかりではないかと思えます。macskaさんご本人がいちいち的確に答えておられるので繰り返しませんが。

こういうのを、言いがかりというんですけどね。

324macska:2007/01/20(土) 14:20:08 ID:VdHL1C4M
>>322
> 自分にとって仏教が宗教ではないから、それがドーキンスの定義するreligionに該
> 当しないから、自分の仏教は自分が主張している科学的検証の対象にはならない…か。
> 何じゃそりゃ(笑)。そんな論法が通用するなら、およそどんな宗教も科学的検証を
> させない口実が立つだろう。

あのねー、ヒトの発言を勝手に切り刻んで任意に繋ぎ合わせて「論法としておかしい」なんて言うとは、言いがかりですよ。わたしは「自分にとって仏教は信仰ではない(宗教ではない、とは言っていない)」「自分にとっての仏教はドーキンスの定義するreligionには含まれない」「自分にとっての仏教はただの価値観であり、価値観は科学的検証の対象にはならない」とそれぞれ言いましたが、最初の2つから3つ目が導き出される、という「論法」は使っていません。言っていないことをでっちあげたうえで「何じゃそりゃ」と嘲笑してみせるのはやめてください。

ある教義が科学的検証の対象かどうかの基準は、それが現実世界における現象について言及しているかどうかである、と繰り返し述べています。当然、そこにキリスト教でも仏教でも違いはありません。「それはおかしい」というなら議論に応じますが、あなたの言いがかりは迷惑なだけで議論のしようがありません。

> いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果をここに開陳
> して見せろって。それができないなら、自分ができないことを他人に要求するな。

「他人に要求するな」と言われても、わたしは誰に向かっても「あなたの宗教を科学的に検証しなさい、その結果を示しなさい」と要求していません。一切要求していないことを「要求するな」と言われても困ります。

> ドーキンスのreligion批判とあなたの今ここでの主張は同じレベルのものでもないし

そりゃそうでしょう。ドーキンスと同じレベルだとうぬぼれてはいません。
てゆーか、そもそもわたしは宗教やreligionを批判していないし。

> ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?

それは気付いていなかったです。新説ですか?

> だから、その科学につきつける主張に用いる具体例を自分の仏説にしてみろと
> 言ってるんだ。なぜできない?

わたしは超自然的な現象を何ら信仰していないから、具体例もないのです。

超自然的でない部分についても、例えば釈尊の伝記の具体的な箇所についてそれが歴史的事実かどうかというのは(史料の分析などによって)科学的検証が可能だと言っています。しかし、それが検証可能だということはそもそも誰も疑っていないので、わたしが言うまでもないでしょ。

> んなこたぁ誰もがわかっている。

つまり、わかっているのに、まるでわかっていないかのように言いがかりをふっかけているんですね。

> しかし、仏説にも超自然的なものはいくらでもあるだろ。それをどうやって
> 自分の価値観から除外したか、どのようなものが科学的検証をしたか、示せ
> と言ってるんだ。サッサと汁。以下のごたくは無用。

わたしは仏教を信仰しているのではなく、仏教の価値観に大いに影響を受けている立場であると既に言いました。信仰心というのは科学的検証をして受け入れたり除外したりするものではなく、何かを聞いてそれを信じられるか信じられないかという問題ではないでしょうか。

わたしの場合、聖書であれ仏説であれ、超自然的なものへの信仰を迫るような部分を読んでもちっとも信仰心が湧き出て来ないのです。つまり、何かの基準があって超自然的な部分を除外したわけではなく、ただ信じられないものは信じられないというそれだけのこと。「どうやって除外したのか示せ」と言われても答えられません。信仰の有無とは、そういうものではないかと。

ですから、わたしは誰に向かっても「信仰の根拠を示せ」と要求したことはないですし、科学によって信仰が否定できるとも思っていません。ただ「教義の対象となっている現象について科学的な検証をするのはやめてくれ」という要求に科学の側が屈してはいけない、と主張しているだけです。

325macska:2007/01/20(土) 14:35:44 ID:VdHL1C4M
>>321
> まさかmacskaさんも宗教家がその意味で(つまり論理的矛盾として)「人知の
> 及ばないことについて特別な知識を持っている」と主張しているとはおもって
> らっしゃいませんよね。

さすがにそういう風に聞かれれば「そういう主張はしていない」と答えるでしょうが、だったらどういう主張をしているのかよく分からないのです。

> もし、同じエントリーで書かれているように「人知が及ぶ」という言葉を「何
> らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈する」のなら、客観的観測
> が可能でないような仕方で分かることもあるだろう(そして啓示というのはま
> さにそういうやりかたで知識を得る方法だ)と主張する宗教家はいるでしょう。

まあ、そう解釈するしかないでしょうね。

しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。

一方、そうした「知」も科学とは違った別のクレーンであるという人もいて、そちらの考え方には興味を持っていますが、まだその説をよく理解していないので、前提となる信仰を抜きに超自然的な「知」が可能なのかどうかは分かりません。

いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからないことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

326いど:2007/01/20(土) 14:58:34 ID:NdEDLjDw
>macskaさん
はじめまして いどと申します

過去ログ読んできたんですがちょっと不明な点があったので質問させていただいてよろしいでしょうか?

以前の書き込みで「水をワインに」というものがあったと思います。

【事象】
ある場所に聖人が現れて神の奇跡とし水をワインにするという奇跡が起きた

【質問】
(1)上記事象は現実世界に影響を与えています。この場合科学の対象であり検証可能という主張であると思いますがこの認識であっているでしょうか。
(2)((1)が真である場合)どのような検証になるでしょうか?
(3)その検証は何を検証するための検証でしょうか?

327ミケ:2007/01/20(土) 15:29:17 ID:???
酔っ払い さんの
>>317
>> 例えば「死後の世界」に人知が及ぶとか、及ばないとか、そういう特定の立場を持っていません。
>とのことですが、macskaさんの立場、>>31(人知が及ぶことと)「原理的に検知不可能な事象(例えば、死後の世界)とは区別されるべき」なのではなかったのでしょうか。

にmacska さんがどう答えるか、興味があります。
誠実に議論するならば、これはスルーしてはいけない質問かと。

矛盾していると受け取られた部分については
訂正なり、真意の解説なり、何らかの対応をとる必要があります。
論者としてギャラリーの信頼を得たいのならば。

328芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 17:07:44 ID:Q7XBVw2.
1.「自分にとって仏教は信仰ではない(宗教ではない、とは言っていない)」
2.「自分にとっての仏教はドーキンスの定義するreligionには含まれない」
3.「自分にとっての仏教はただの価値観であり、価値観は科学的検証の対象にはならない」

そう、こう言って通用するのであれば、およそあらゆる宗教がそう言えるだろう、と私は指摘している。1と2から3を導出したわけじゃない?だから何ですか。なるほど私は1と2から3という書き方をしたから、「そうじゃありません。1と2と3は横並びです」と言われれば、それで構いません。その横並びと同じくして、上記「仏教」を○○教や××科学にしてみたらよい。

>ある教義が科学的検証の対象かどうかの基準は、それが現実世界における現象について言及しているかどうかである、と繰り返し述べています。

A「昔々、どこそこで何某という人が神の力で死者を蘇生させたということです」
B「今ここで、わたしが死者を蘇生してあげますが、これこれ条件があります」

現実世界における現象として科学的検証が可能なのはBだけだと思うが?Aは古典であり、宗教価値とか文芸価値とかを問われる場合はあるだろう。まずはそこをふまえておかないといけない。

現実世界への介入というなら、現実世界においてキリスト教会が病院や大学の生死に関わる研究部門に「何とかして蘇生術を証明せよ」とか「イエスの真似事の研究などけしからん」とか、介入したことなどあるのかね。要するに、あなたは全く架空のお話をして、AとBとをごっちゃにして「科学につきつけて」いるわけだ。だから批判されてるの。

>「他人に要求するな」と言われても、わたしは誰に向かっても「あなたの宗教を科学的に検証しなさい、その結果を示しなさい」と要求していません。

するとクリスチャンの科学者はどうなるのだ?あなたは、科学のあり方という一般論として述べているのだから、仮に今ここに該当者がいなくても、そういう要求をしているのと同じだろう。というか、私はあなたがそういう要求をしているとは言ってない。異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。簡単な話だ。

>>ドーキンスの定義にしたがえば「神は存在する」ことになることに気付いているか?
>それは気付いていなかったです。新説ですか?

彼の出世作からですよ。そうは明言していないが、そうなることになる。『利己的な遺伝子』、読むべし^^。

>わたしは超自然的な現象を何ら信仰していないから、具体例もないのです。

しかし仏説にも怪異や奇蹟の叙述はある。具体例は山ほどあるじゃないか。いくらでも出せるだろ、あなたがそれを信仰していようがいまいが。なぜいまだに出せぬ?仏説の中で、あなたがここで主張することに相当するものはない、と考えているわけではなさそうだから、あるはずだろ、あなたなりにこれだというものが。じゃぁ私から聞いてみるが、たとえば梵天勧奨はどうよ?ブラフマー神が釈尊にひざまづいたというアレね。

>ですから、わたしは誰に向かっても「信仰の根拠を示せ」と要求したことはないですし、科学によって信仰が否定できるとも思っていません。

考えすぎ。今はそんな話、あなた以外の誰もしていない。

>ただ「教義の対象となっている現象について科学的な検証をするのはやめてくれ」という要求に科学の側が屈してはいけない、と主張しているだけです。

だからそれだよ。いったい、いつ、そんな要求があったのだ。ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。単純直裁に言って、たとえば死体がどのように腐敗していくかとか、なぜ蘇生がありえないのかとか、そういった研究はごくごく普通に行われてきているではないか。いつ、キリスト教会がそれを抑制した?医科学的見地から「ナザロの復活などありえんだろ」と思う人もいるだろうが、「ナザロの復活」があるからといって、それに触れる科学研究が抑制されたという話そのものがないだろうよ。

屈するな?ありもしない何に屈するなというんだ。そんなアジテーションを飛ばすために、自分は己の仏説について何も語らず、ナザロ復活やアリア処女受胎の古伝と万能薬詐欺と同列に並べること自体、異教に対する冒涜だろうが。気付けよ。

329baku22:2007/01/20(土) 17:21:18 ID:pNzc/oDo
> 超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、
科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。

ざっと読んでみましたが、この主張自体に反対している人は、誰もおられないようですね。
なのになぜ紛糾するのか。

あくまで自分の場合、なんですが、
macskaさんのブログに書かれていた

■いわゆる「科学と宗教の住み分け」は不可能!
■てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)
■科学に分からないことはある。でもそれらは宗教にだって分からない

という主張と、先の「超自然的・・・云々」の主張の結びつきが未だに分からないんです。
どうして後者の一連のかなり強い主張と、前者が結びつくのか。

背景の「アメリカのかなり酷い状況」をこちらで推測して、「暴言」をなんらかの事実命題の表現ではなく、
政治的発言と読み替えて受け取るのが、今の所やっとです。
その時勝手に「こちらで推測して」と、やっている自分が我ながら少し気持ち悪いです。

330macska:2007/01/20(土) 17:48:14 ID:VdHL1C4M
>>327
うっかり読み飛ばしていました。ご指摘感謝。
というわけで、

>>317
31 で「死後の世界」を「人知の及ばないもの」としたのは、一般にそう言われているモノだという意味です。しかし論理的には、「人知の及ぶ対象として死後の世界がある」という立場もありえるので、その場合どうなるかにも対応した議論を行なっています。

つまり、はじめのうちは一般的に「死後の世界」は人知の及ばないものであるという常識に従った立論をしていましたが、人知が及ぶかもしれないという意見を受け入れ、どちらの場合にでも通用するような主張に改めました。

>>326
> (1)上記事象は現実世界に影響を与えています。この場合科学の対象であり検証可能と
> いう主張であると思いますがこの認識であっているでしょうか。

それが喩え話ではなく現実に起きた事件だと主張されるのであれば、それは科学的検証の対象となるでしょう。
ただし、証拠が十分にないなどの理由で、現実的に検証が不可能であったりすることはあり得ます。「検証の対象となり得る」ことと、現実に「検証可能である」ことはそのため微妙にずれており、わたしが主張するのは前者の方です。

> (2)((1)が真である場合)どのような検証になるでしょうか?

その液体が本当にワインであるのか、まぁ常識的には飲んだら分かりますし、分析が可能なはずです。もちろん、もともとワインが入っていた可能性もあるし、何らかのトリックで入れ替えた可能性も考えられるので、それらの事前のチェックも必要でしょう。

もしそれが一回だけのもので、過去のいつかの時点で起きたことであったならば(例えば、そのワインが既に飲み干されていたら)、それを検証するのは非常に難しいでしょう。なぜなら十分な証拠が得られないからです。しかし、そういった事情により「現実問題として検証が困難なモノ」であれ、例えば「人生の意味」などといった「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」と違い、科学的検証の対象と「なり得る」現象だと言えると思います。

> (3)その検証は何を検証するための検証でしょうか?

何をって、「水がワインに変わった」というのが事実かどうかが調べられるだけです。もし再現性があるなら、さらに研究を進めて水がワインに変わるメカニズムを解明できたら、みんなが安くワインを飲めるようになって嬉しいかもしれません(ワインメーカーや農家はたまらないですが)。が、多分そういうことはないだろうと思っています。

331AH1:2007/01/20(土) 18:01:40 ID:MM7DYpv2
ROMに戻りますと言った舌の根も乾かないうちに何ですが・・
macskaさんは繰り返し「これは科学の側への要求であって宗教には何も要求していない」と表明しておられますが、そうだろうか?
1「科学的にわかる事なら、科学は知ることができる」これはほとんどトートロジー。
2「科学的にわかる事だけを『知』と呼ぶ」
3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」

これは知」や「現実世界」についてmacskaさんの用語法を全員が了解している限りはまあそれでいいかもしれないが、
そうでない場合、複数の知の体系が「知」と「現実世界」を奪い合うことになる。なぜなら、上の1〜3は「原理的に科学にわからない部分だけは宗教に開放する、しかし現実世界と接点があったり、「知っている」という言葉を使ったりしてはならない」となるからです。
いわば「日本政府は『北方四島は日本の領土だ』と主張せよ、と言ってるだけです!」という表明と同じですね。確かにロシアに「かえせ」とは言っていない。しかし、ロシアは絶対にこの主張を看過しないはずです。

前にもちょっと書きましたが、単なる用語の問題というより、用語法を通して「現実世界」や「知の体系である事」を奪い合う結果になるから紛糾するんですよ。

332Josef:2007/01/20(土) 18:34:11 ID:uPoVYQoU
baku22さんの仰るようなことはあるでしょうね(>>329)。
ファンダメンタリストの多いアメリカとは日本は事情が違うので、問題意識からして違う。「知る」の一語を取ってみても、macskaさんは限定的な意味で使っていて、その限りでは「その通り」と思うてのですが、この広い意味の言葉をそのように限定しなければならない必然性をここの人たち(私を含めて)は持っていない。だから特定の意味に限定すること自体に納得がいかない。

macskaさんは
>>325
>いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからない
>ことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、
>ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

と仰いますが、そもそも何で「証拠の有無」が問題になるのか。「私はかくかくしかじかの神を知っている」と言う人がいても、宗教的次元の話だから誰も「証拠を出せ」とは言いませんね。証拠を云々する類の知ではないと認識しているから、もともとそういう発想をしない。
で、言葉が出てくる「文脈」が分からないので、読者は「文脈」を想像して、たとえば「宗教を罵倒している」と言い、「罵倒ではない」と返す、そういう不毛なやりとりが多いと思います。

baku22さんの挙げる「対等」にしてもそうで、どうして根本的に違うものを比べる必要があるにのか、その背景が分からない。何らかの尺度を設定すれば比べることはできるだろうけど、どうしてそういう尺度が必要なのかもたぶん納得しがたいでしょう。

日本ではむしろ科学信仰の方が問題として重要だと思います。だから科学の限界(実際的にも原理的にも)を強調する必要性の方が高い。ここの皆さんもそういう志向が強いのではないかと思います。

333macska:2007/01/20(土) 18:53:09 ID:VdHL1C4M
>>328
> そう、こう言って通用するのであれば、およそあらゆる宗教がそう言えるだろう、
> と私は指摘している。

言えません。なぜなら、あらゆる宗教に価値観は含まれるけれど、「あらゆる宗教が価値観だけ」ではないからです。現実世界における現象や歴史的事実について(こういう意味である、とかこういう意義がある、ではなく)「こうである」と教える教義を持つ宗教は、その点において検証可能な(少なくとも検証の対象となり得る)主張をしていることになります。

> 現実世界における現象として科学的検証が可能なのはBだけだと思うが?
> Aは古典であり、宗教価値とか文芸価値とかを問われる場合はあるだろう。
> まずはそこをふまえておかないといけない。

だから、A が寓話や文学として提示されるのでしたら、それが事実かどうかと問うことに意味はありません。しかしそれが歴史的事実として主張されるのであれば、科学的な物証をもとに検証の対象となり得ます(もちろん、必ず解明できるとは言っていません)。

わたしは、何も進んで宗教の教義を科学的事実かどうか検証せよと言ってはいませんよ。そうではなく、科学の範囲には、現実世界における事象であるなら、宗教の教義によって「こうである」と教えられている対象を含みうる、という、当たり前のことを言っているのです。

> 現実世界においてキリスト教会が病院や大学の生死に関わる研究部門に「何と
> かして蘇生術を証明せよ」とか「イエスの真似事の研究などけしからん」とか、
> 介入したことなどあるのかね。

そんな誰も言っていないような極端な例を出してなんになるんでしょうか。

> 要するに、あなたは全く架空のお話をして、AとBとをごっちゃにして「科学につ
> きつけて」いるわけだ。だから批判されてるの。

架空の話をしているのはあなたでしょ。

> するとクリスチャンの科学者はどうなるのだ?あなたは、科学のあり方という一
> 般論として述べているのだから、仮に今ここに該当者がいなくても、そういう要
> 求をしているのと同じだろう。

もし仮に、クリスチャンの科学者が「聖書に書かれている内容は、現実世界に関する言及であれ一切科学的に検証してはいけない」と言うのであれば、わたしはそれは科学者としてふさわしい態度ではないと批判しますよ。それがなにか? そんな馬鹿なことを言う科学者は、現実にはいないでしょうけどね。

> 私はあなたがそういう要求をしているとは言ってない。

言ったでしょ、>>322で。

 > いいからサッサと、自分の仏教を自分の主張で検証した経緯や結果を
 > ここに開陳して見せろって。それができないなら、自分ができないこ
 > とを他人に要求するな。

わたしは、他者に向かって「自分の宗教を検証した経緯や結果を示せ」と要求していませんが、この部分を読むとあなたはわたしがそうした要求をしているかのように言っています。もしわたしがそうした要求をしていないと分かっているなら、どうして「自分ができないことを他人に要求するな」と言うわけですか?

334macska:2007/01/20(土) 18:53:35 ID:VdHL1C4M
>>328
> 異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。

だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。もちろん、わたし自身が信仰していないけれども、ほかの仏教徒が信仰している教えであれば例に出せたかもしれません。しかしそうしたところで、わたし自身にとってそれが「他者の信仰する内容」を例に出していることには違いがないわけ。どうせ「自分が信仰していない例」を挙げるなら、よりよく知っているーー内容だけでなく、その歴史的背景なども含めてーー体系から例を出すのが当たり前でしょ。

それに、これはこれまで公の場で言ったことがないけれど、わたしは仏教の教えに影響を受けているのと同じくらい、キリスト教やユダヤ教の伝統にも影響を受けています。高校時代は毎週教会に通っていたし、現在ではユダヤ教の祝日に年数回ほど出席したりしていますし。それでもわたしが仏教徒を名乗りキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗らないのは、わたしの理解するところキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗るには神を信仰しなければならないけれども、仏教徒を名乗るのにそういう要件はないからです。

> 『利己的な遺伝子』、読むべし^^。

学生時代に読みましたが、かなり前の話なのでそのうち再読してみます。

> だからそれだよ。いったい、いつ、そんな要求があったのだ。

そのような単純化したかたちでの要求はさすがにありません。しかし多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、「科学と宗教は重なり合わない異なる領域を持ち、双方がお互いの領域を侵してはならない」というような、いわゆる「科学と宗教の紳士協定」のようなものを主張しています。しかし現実には、多くの宗教は「科学の領域」である現実世界の事象についても言及しているので(つまり、科学の領域と宗教の領域は完全には分離できない)、科学の側が宗教の教義を侵害しないことを最優先すれば、科学の領域を不当に狭めることになりかねない。だから、「紳士協定」を盾にとった圧力や自己欺瞞に科学は屈してはならない、というのがわたしの論理です。

> ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する
> 研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。

くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。

335macska:2007/01/20(土) 18:54:53 ID:VdHL1C4M
>>329
> という主張と、先の「超自然的・・・云々」の主張の結びつきが未だに分からないんです。
> どうして後者の一連のかなり強い主張と、前者が結びつくのか。

ええと、暴言はまぁ自分で暴言と言っているくらいですから許してください。
その他は、これまで書いてきたことで説明しているはずです。

>>331
> 1「科学的にわかる事なら、科学は知ることができる」これはほとんどトートロジー。

はい、トートロジーです。

> 2「科学的にわかる事だけを『知』と呼ぶ」

とは言っていません。科学以外にも知の体系がある可能性を認めますが、「空からのフック」を必要とする体系を「知」とは呼ぶことに抵抗があるのです。もっと簡単な言い方をすると、信仰と知識はイコールではない、と言っているだけなんですが、それがどこかおかしいですか?

> 3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」

これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。

> そうでない場合、複数の知の体系が「知」と「現実世界」を奪い合うことになる。
> なぜなら、上の1〜3は「原理的に科学にわからない部分だけは宗教に開放する、
> しかし現実世界と接点があったり、「知っている」という言葉を使ったりしては
> ならない」となるからです。

まず、現実世界と接点があることについて宗教が何かを主張することに、わたしは何ら反対していません。創造論でも天動説でも、科学だと標榜しない限りにおいて自由に信仰・布教する権利があります。どうしてそれを否定していると誤解されるのか、全然理解できません。

次に、「信じる」と「知っている」という言葉を区別して使って欲しいというのは、確かにわたしはそう願っています。宗教だけでなく、誰でも「信じている」に過ぎないことを「知っている」と言い換えるのはあんまり望ましいことではないんじゃないでしょうか。もちろん宗教において言葉を特別な用法で使うということはあるでしょうが、あんまりまぎらわしい用法を使わないで欲しいなぁと思っています。まぁ、要求と言えば要求になるでしょうが、希望といったレベルですね。

> いわば「日本政府は『北方四島は日本の領土だ』と主張せよ、と言ってるだけです!」
> という表明と同じですね。確かにロシアに「かえせ」とは言っていない。しかし、
> ロシアは絶対にこの主張を看過しないはずです。

それは、領有権が排他的だからでしょう? あるものが「科学的検証の対象となり得る」と主張することは「宗教的信仰の対象となり得る」可能性を排除しませんから、そのたとえは通用しないと思います。

336いど:2007/01/20(土) 18:58:10 ID:NdEDLjDw
macska さん、ご回答頂きありがとうございます。
>>330
>何をって、「水がワインに変わった」というのが事実かどうかが調べられるだけです。もし再現性があるなら、さらに研究を進めて水がワインに変わるメカニズムを解明できたら、みんなが安くワインを飲めるようになって嬉しいかもしれません(ワインメーカーや農家はたまらないですが)。が、多分そういうことはないだろうと思っています。

「水がワインに変わった」という事が事実かどうかを調べられるだけなんですね?

これでは「"奇跡により"水がワインに変わった」という事の検証にはなりません。

この検証結果により「水をワインに替えたトリックは確認できなかった」とします。しかしここで言えるのはあくまでもソコまでであり
・偶然起きたのか
・神の御業により起きたことなのか
は判別できません。


(A)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話が本当に起こった事柄なのか
 (例:本当に水がワインに変わったか、本当に高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
(B)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話は本当に「奇跡として起こった」のか
 (例:"奇跡により"水がワインに変わったか、"奇跡により"高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)

macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
皆さんが科学の対象外としているのは(B)ではないのでしょうか?
(間違っていたら突っ込みお願いいたします)

そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

(一通りログ読んだつもりですがすでに既出であり、類似質問に対する答えがどこかにあればお教えください)

>>329
>baku22さん
>> 超自然的な主張の全てが科学の範囲外であると決めつけることは、科学の範囲を不当に狭めることになるのではないか、というのがわたしの主張です。
>ざっと読んでみましたが、この主張自体に反対している人は、誰もおられないようですね。
>なのになぜ紛糾するのか。

それだけの主張であれば「そうよね」でおしまいだと思うんですが、

>>17
>現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、
>その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる。

というのがキーなのではないかと…

337Hiju:2007/01/20(土) 18:59:14 ID:kwkFD2KY
>>205
>>222
に関して。

>> つまり、宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
>> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
>> だけだと認めろ、と、“宗教に対して科学側は主張すべきだ”と。

> いや、この件についてはわたしが「宗教にも分からない」と言っているだけであって、科学の側がことさらそう宗教に向けて主張するべきだとは言っていません。

了解しました。

>> macskaさんの定義そのものが、宗教的知を科学的知より不確かで範囲の狭い
>> ものであることを認めろ、という主張に読めます。

> 宗教的知というのが、(文脈上)現実世界の外側の事象に対する、人間の知覚によって何の確認も取れない物事についての知識であるとすれば、それは科学的知より不確かであると言って問題ないのではないでしょうか。

すみません,意味がわかりませんでした。どうして「科学的知より不確かである」
と言えるのですか。同等ならわかりますが。

また,私は「不確か」よりも,「範囲の狭いもの」の方が問題だと思っています。
繰り返しますが,

> 宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> だけ

ならば,

> 宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
> てしまう。

のでは?という点が気になったのですね。
#おそらく他の方が繰り返してらっしゃるのもこの点では,と思うのですが。

あと,

> それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
> 「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
> 存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
> と認められるんでしょうか?

というのは,純粋な疑問として聞きたいです。後で知の定義をなさっている
のでこれは議論の対象にならなりませんが,純粋な疑問です。

338Hiju:2007/01/20(土) 19:07:41 ID:kwkFD2KY
>>336 いどさんの

> (A)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話が本当に起こった事柄なのか
>  (例:本当に水がワインに変わったか、本当に高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)
> (B)信者たちによって「奇跡」と呼ばれる話は本当に「奇跡として起こった」のか
>  (例:"奇跡により"水がワインに変わったか、"奇跡により"高所から落ちたけれど助かった御婆さんがいるか)

> macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?
> 皆さんが科学の対象外としているのは(B)ではないのでしょうか?

> そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

に賛成します。宗教的知って,(B)だと思います。

339酔っ払い:2007/01/20(土) 19:09:17 ID:2.Oxx5s.
>macskaさん
回答ありがとうございます。

>>330
> つまり、はじめのうちは一般的に「死後の世界」は人知の及ばないものであるという常識に従った立論をしていましたが、
> 人知が及ぶかもしれないという意見を受け入れ、どちらの場合にでも通用するような主張に改めました。

了解しました。主張が改まったのは>>125「もしそういう次元で「死後の世界」が発見されるのであれば、もちろんそれは科学の対象ですね」から、だと考えてよろしいですか。
なお、改変後の主張は、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」であっても、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えない、と考えていますが、この認識で間違いないでしょうか。

また、>>311 >>314 で仰られていた件、下記の通りの認識で構わないのでしょうか。

人知が及ぶことに関して、人は科学の対象として扱える
人知が及ばないことに関して、人が「知る」ことはできない

ひとまずのところ、この認識が正しい前提で、話を進めさせていただきます。

さて、macskaさんは

>>161 文学作品のよしあしは、価値観であって現象ではないでしょう。もちろん価値観が脳内の物理現象の反映であるならば(そうだとわたしは言っていませんが)、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないですが、いきなり脳の研究をするのは有効な研究だとは思えません。文化の研究にはそれに適したツールが別にあるはずです。
>>311 わたしは自分にとって仏教は価値観であると言っています。価値観を科学的手法で否定できますか?

と仰っていますので、ひとまず価値観を「科学的手法では否定(も肯定も)できず、現象でもなく、究極的には科学的な検証対象にならないとは言えないもの」としてみます。
なお、ここでも「人知が及ぶ」ということを、>>314「何らかの客観的な観測が可能である」と解釈してます。

この解釈上では、価値観は現象ではなく、科学的手法では否定も肯定も、今のところできません。確かに究極的には科学的な検証対象かもしれませんが、これだけですと、「人知が及ぶ」と言えるのかどうか不安です。ですが、「科学とは別の適したツール」が使えるのならそれで十分だとも思えます。

次に、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」を考えてみます。例えば「死後の世界」、ですね。

ここで、価値観と死後の世界の共通点を見ていきますと、死後の世界は現象ではなく、科学的手法では否定も肯定もできない。究極的には科学的な検証対象かもしれないけれども、違うかもしれない点も同様です。

残っているのは「科学とは別の適したツール」が使えるかどうかになりますが、価値観、文化の研究にはそれに適したツールが別にあるように、「死後の世界」にも、同様に「科学とは別の適したツール」が存在しています。

そしてその「科学とは別の適したツール」、それらが通常「宗教」と呼ばれているのだと思うのですが、この認識に、問題はありますでしょうか。

340AH1:2007/01/20(土) 19:21:58 ID:MM7DYpv2
>とは言っていません。科学以外にも知の体系がある可能性を認めますが、「空からのフック」を必要とする体系を「知」とは呼ぶことに抵抗があるのです。もっと簡単な言い方をすると、信仰と知識はイコールではない、と言っているだけなんですが、それがどこかおかしいですか?

いや、当初から紛糾した理由は、最初の頃にそう仰っていた事、あるいは(「暴言だった」と発言されているもののレスに埋もれて忘れていた)「宗教と科学は住み分けできない」という表現、そういった部分にあっただろうという意味です。
「知」と呼ぶことには抵抗がある、というくらいの言い方であれば私はそれほど違和感を覚えないですが、当初はもっと強い主張をしておられたように感じたので。

>> 3「科学的にわかる事だけを現実世界とする」
>これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。

失礼。「科学に扱えないことは現実世界に含めない」なら良いですか?いやまて、これもおかしいな。
当初は「科学的にわかる事だけを現実世界とする」のように主張されていたと思ったんですが、記憶違いかも?だったら失礼いたしました。


>次に、「信じる」と「知っている」という言葉を区別して使って欲しいというのは、確かにわたしはそう願っています。宗教だけでなく、誰でも「信じている」に過ぎないことを「知っている」と言い換えるのはあんまり望ましいことではないんじゃないでしょうか。もちろん宗教において言葉を特別な用法で使うということはあるでしょうが、あんまりまぎらわしい用法を使わないで欲しいなぁと思っています。まぁ、要求と言えば要求になるでしょうが、希望といったレベルですね。

そうは感じられなかった、というのが理由の一つでした。希望であって要求しているわけではない、ということであれば、一応了解です。

>それは、領有権が排他的だからでしょう? あるものが「科学的検証の対象となり得る」と主張することは「宗教的信仰の対象となり得る」可能性を排除しませんから、そのたとえは通用しないと思います。

「住み分けできない」発言を撤回されているとのことですので、これは私の誤解でした。
失礼しました。

現実の取り扱いについてまだ複数の知的体系の間にコンフリクトを招きそうな部分があったように思うんですが、とりあえずお返事のみ。

341diamonds8888x:2007/01/20(土) 19:46:36 ID:Zz3oJN62
>>319

>「人知の及ばないものについては、人知は及ばない」という言明が論理的真だと言っているのです。

 それは人知というものが全てのヒトに共通であるという暗黙の前提に立っていますよね?

> 「人知が及ぶ」ということを、何らかの客観的な観測が可能であるという意味に解釈するなら、科学の対象となると思います。この場合「客観」というのは、もちろん哲学的に言って100%確実ということはないので、まぁ常識的な範囲で解釈してください。

 まさにその常識の範囲が食い違っていると思うのですが。客観的というのは「多くの普通のヒトにとって」と解すればよいと思いますが、啓示なんてのはその意味では客観的ではありませんよね?

 というのはカモオオハシさん(>>321)と重なってるのかな?

342diamonds8888x:2007/01/20(土) 19:47:25 ID:Zz3oJN62
>>328

>異教の典籍から出すくらいなら自分の仏説から出せ、ということ。簡単な話だ。

 宗教の例として何を持ってくるかは本筋とは無関係でしょう?

343diamonds8888x:2007/01/20(土) 20:04:20 ID:Zz3oJN62
そう言えば、法的な真理というものも科学的検証の対象とは言えないような気がする。

344NAN:2007/01/20(土) 20:13:20 ID:op1ePviI
このスレに投下すべきネタかどうか迷ったけれど、まぁ紛糾そのものは収束しつつあるようだし、あとは個別対応ということで、私としては一連の流れを読んで少し考えたことを書きます。

>>339でも再提示されていますが、「死後の世界」はまぁ…実を云うとこの世は全部死後の世界で、誰かが死んだ後の世界なので…みたいなネタも散見されますが、それも置いておいて…
宇宙論とか量子力学とか理論物理学とかを紐解くと、かなりの初学者向けの文献でさえ「高次元宇宙」だとか「折り畳まれた多次元宇宙」なんて概念が出てきます。私自身、この辺の数学的記述なんかちっとも理解できませんが、なんとなく面白いし、ワケも分からず考えてみたりするものです。

さて、その高次元宇宙あるいは「我々が住む4次元時空以外の宇宙」においても、重力がどう振舞うだろうとか空間の曲率がどうだろうとか、そういう基本的な項目については「科学もしくは数学(幾何学)モデルとして」予測することが可能らしいですね。しかし、そういう宇宙には「私たちには想像もつかない何か」が存在するんだろうか?という問いかけに対して、科学はなんと答えるんでしょうか。

あるいは、そういう宇宙…つまり概念として(おおまかな)モデル化ができるのに、実際に観測したり測定することが原理的に難しい事象に対して、なにかを実証したり反証するという行為は可能でしょうか。
#想像もつかないなにかについて言明することは不可能なのに、想像もつかないなにかを入れておける「器」については想像つくってのが、なんだか逆説的で面白い、と私は思う。

345芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 20:22:59 ID:Q7XBVw2.
>>332
引用されたmacskaさんの>>325
>いずれにせよ、「知」という言葉の使い方がわたしと異なる人は「科学がわからない
>ことは、宗教にもわからない」という言い方には完全に同意できないようなので、
>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」という、
>ちょっと弱めたバージョンで共通了解が取れないかと思っているところです。

これについてです。私は、macskaさんが自分のブログに列挙した一文は「本の帯の惹句のようなもの」だと思っていましたので、多少は過激に誇張があっていいと思っています。帯の惹句だけ見て本の内容も読まずに「そうだそうだ!」とか「けしからん!」とか決めつけて終わる奴は、ただの馬鹿だと思いますし。それだけに、「macskaさん、マジで言ってたのかよ…」みたいな感じはありますね。

譲歩して共通了解を…って、政策会議やってるんじゃないんだけどな。「私の考えすぎだったようで、こう考えてみようかと修正しようと思うのですがどうでしょう…」みたいには言えない人なんですが。

346macska:2007/01/20(土) 20:28:42 ID:VdHL1C4M
>>336
> macska さんが「検証可能だ」としているのは(A)ですよね?

その通りです。
(B)=宗教的意味付けが検証できると主張しているわけではない、と再三説明しているのですが。

> そして(A)は「事件の検証」であって「奇跡の検証」ではないですよね?

その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。仮に奇跡であった場合、「現時点での科学では原因が解明できない不思議な現象」として立ち現れるでしょう。

> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実
> における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…

厳密には、科学的検証の対象となり得る、ですね。
実際に検証可能かどうかはまた別の話だというのはその通りだし、何度もそう書いてきました。

>>337
> すみません,意味がわかりませんでした。どうして「科学的知より不確かである」
> と言えるのですか。同等ならわかりますが。

うーん、「信憑性が確認された証拠に基づく知識」と「確認もできなければ証拠もない知識」では前者の方が「より確か」という言明が疑問でしょうか?

もちろん、究極的には科学的知識の一番奥底にも「現実世界や自然法則が存在する」「われわれの五感は現実世界を把握するための道具としてそこそこ信頼できる」みたいな前提があり、それら自体が確かだという確証はないかもしれません。しかしより常識的なレベルで、では科学的知識も科学的根拠を持たない知識も対等かというと、とてもそうとは言えないと思うのです。

> > 宗教の「知」は科学の範囲内に納めておけ、科学がわからない事象
> > についての宗教的「知」などありえない、知っているんじゃなく信じている
> > だけ
>
> ならば,
>
> > 宗教の知の範囲は、科学的検証が可能かどうかによって左右され
> > てしまう。
>
> のでは?という点が気になったのですね。

うーん、そういうまとめ方をすると何やらわたしが恣意的に「宗教の知の範囲」を狭めているように読めてしまうんだけれど、それはわたしが制限しているんじゃなくて、人間が得ることのできる知の範囲というのにはどうしても限界があって、わたしたちの知覚や論理の及ばない、現実世界の外側のことについては何ら分からないんだから、仕方がないんじゃないでしょうか。宗教の知の範囲じゃなくて、人間の知の範囲が有限なの。

> あと,
>
> > それはそうと、「本人の中で使い分けが出来ていれば良い」んだったらば、
> > 「死後の世界が存在するかどうかは知らない(信じているだけだ)が、神の
> > 存在は知っている」と主張する人がいたら、彼は「神の存在を知っている」
> > と認められるんでしょうか?
>
> というのは,純粋な疑問として聞きたいです。

その人は、何か具体的な(クレーン式の)根拠があって神の存在を「知る」に至ったんでしょうか? もしそうでないなら、どうして神の存在を「知っている」と言えるのか、とても不思議に思います。というか、その人は使い分けは確かにしているようだけれど、おそらくわたしが主張する使い分けーーというか、一般社会における定義の通りだと思うんだけどーーとは違った使い分けをしているのではないでしょうか。

いや、もちろん、その人が実際に神の存在を証明してしまったという可能性もありますよ。もしそうであるなら、ぜひ今すぐ発表していただきたいものです。

347macska:2007/01/20(土) 20:29:08 ID:VdHL1C4M
>>339
> なお、改変後の主張は、「原理的に科学的検証を一切受け付けず、そもそもどういう
> 証拠があれば科学的検証が可能なのかすら分からないモノ」であっても、究極的には
> 科学的な検証対象にならないとは言えない、と考えていますが、この認識で間違いな
> いでしょうか。

違います。「原理的に〜分からないモノ」は、やはり科学的検証の対象にはならないでしょう。しかし、あるモノがそのカテゴリに該当するかどうかは、究極的には分からない。現時点でそういうカテゴリに含まれると考えられているものが、将来のある時点には「科学的検証を受け付ける、現実世界の現象」とみなされるようになるかもしれないし、その逆もあるかもしれない。

例えばわたしは霊というものが現実世界に物理的に実在するとは信じていませんから、霊は科学的検証の対象とはならないと考えています。しかし、もしかすると霊というものは物理的に構成されているのかもしれない。そして、もしそうだと科学的に解明されれば、それはもちろん科学の範囲になります(というか、解明された時点で既にそうなってますね)。

「死後の世界」については、わたしはそれは「原理的に〜分からないモノ」の一種であるという前提ではじめは議論していたのですが、「どうして原理的に〜分からないモノだと言えるのか」という意見をいただき、「それは確かにそうだ、わたしにはそれが原理的に〜分からないモノだと断言できない」と思ったので、主張をリファインしました。

> 残っているのは「科学とは別の適したツール」が使えるかどうかになりますが、価値観、
> 文化の研究にはそれに適したツールが別にあるように、「死後の世界」にも、同様に
> 「科学とは別の適したツール」が存在しています。
>
> そしてその「科学とは別の適したツール」、それらが通常「宗教」と呼ばれているのだ
> と思うのですが、この認識に、問題はありますでしょうか。

問題があるというわけではありませんが、よく考えてみると実は宗教がそれに適しているという主張には何の根拠もありません。また、「死後の世界」についてあれこれツールを用意して考察することに価値があるという根拠もありません。もっとも、文学作品の価値が文学に分かるか、とか、そもそも文学に価値なんてあるのか、というのもまた難しい話なんですが… 文学にしても宗教にしても、社会にその価値を認めてもらうためにはそれなりの努力が必要ということでしょうね。

それはともかく、宗教がもともとあなたの言うような領域について答えるために発達したものだというのは事実だと思いますが、その領域は宗教だけが独占するものでもないと思います。哲学だとか、宗教と呼ぶに至らないような伝統だとか、芸術だってその領域のニーズを満たすかもしれません。

348macska:2007/01/20(土) 20:31:08 ID:VdHL1C4M
>>340
> > これも違います。現実世界には科学的にわからないこともたくさんあると思います。
>
> 失礼。「科学に扱えないことは現実世界に含めない」なら良いですか?いやまて、
> これもおかしいな。

ちゃんと回答するべきでした。わたしの意見は「現実世界の現象は、すべて潜在的に科学的探求の対象となり得る」です。わからないことはいくらでもあるけれども、わからないことは「科学の範囲外」であることと同義ではない、と考えます。

> 「住み分けできない」発言を撤回されているとのことですので、これは私の誤解でした。

えーと、「住み分けできない」というのは撤回したわけではありませんが、誤解を招いたのは事実なようなので、追加説明させてください。

ここでわたしが「住み分け」と表現しているのは、 >>334 で説明したような「科学と宗教の紳士協定」のことです。この協定によれば、科学と宗教はそれぞれ独立した領域の中にとどまるべきで、お互いに相手の領域に侵入してはいけない、とされています。しかしわたしは、「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。

ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。その結果、科学と宗教で同じ事象についての見解が対立してしまうのは、仕方がないこととして受け入れるべきだと考えています。科学が過剰に宗教に気を配って遠慮するべきではないし、宗教の意義というのは科学が何を示そうとそれによって否定されるものではないと。

北方領土の例に話を戻すなら、わたしの主張は「日本とロシアのあいだに排他的な国境を引くのはやめ、両方の人々が共存すればいいじゃないか」というものです。もちろん現実の国境問題にこういった解決はあり得ませんし(というか、場合によってはあり得ますが日本とロシアのあいだにはあり得ないでしょう)そのような主張はしませんが、科学と宗教のあいだにおいては「現実世界」という領土を排他的に考える必要はないと思うのです。

349芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 20:45:09 ID:Q7XBVw2.
>>334
>だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。

あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。自分が信仰していないナザロ復活やマリア処女受胎を出せるのに、なぜだ?答えてみな。

>もちろん、わたし自身が信仰していないけれども、ほかの仏教徒が信仰している教えであれば例に出せたかもしれません。

だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。

>どうせ「自分が信仰していない例」を挙げるなら、よりよく知っているーー内容だけでなく、その歴史的背景なども含めてーー体系から例を出すのが当たり前でしょ。

じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、ということか。すると仏教よりはキリスト教をよりよく知っているから、ナザロ復活とマリア処女受胎とを、万能薬詐欺と同列に扱うこともできるんだ、と。あなたにとって「よりよく知っている」とは何なのだ?

>それでもわたしが仏教徒を名乗りキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗らないのは、わたしの理解するところキリスト教徒やユダヤ教徒を名乗るには神を信仰しなければならないけれども、仏教徒を名乗るのにそういう要件はないからです。

いい加減なもんだなぁ。要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところがある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだけじゃん。いやさ、それでもいいんだけどね、だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか、こういうときに異教の教義を平気でつきつける…ってのは恥知らずもいいとこだな。同じ仏教徒として、偉い迷惑な話だわなぁ。

350baku22:2007/01/20(土) 20:48:36 ID:pNzc/oDo
昔スピノザって人の本を読んだのをふと思い出したんですが、
彼の語る「神」は、かなり「科学的」な人でも受け入れやすいんじゃないかと思いました。

彼の「神」はそもそも世界の「創造主」ではないようですし。
そういう神の概念に愛着があることを、匿名の身ながらこそっと告白しておきます。

351いど:2007/01/20(土) 21:05:06 ID:NdEDLjDw
>>346
>> 事件が起きたかだけでは「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実
>> における介入を調査できればで科学的に検証できる」とは言い切れないと思うのですが…
>
>厳密には、科学的検証の対象となり得る、ですね。

つまり
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
ではなく
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
ということですね?

しかし前述したとおり
検証できるのは「奇跡として語られた話が実際に起きたか」というだけです。
それが「本当に奇跡だったかどうか」は確認できないのですよね?

ではどのようにして「『神』の存在」を確かめるのでしょう?

352酔っ払い:2007/01/20(土) 21:11:18 ID:2.Oxx5s.
>macskaさん
回答ありがとうございます。

>>347
「それが原理的に〜分からないモノだと断言できない」点、了解しました。誤読に関してお詫びします。

また、

>その領域は宗教だけが独占するものでもないと思います。哲学だとか、宗教と呼ぶに至らないような伝統だとか、芸術だってその領域のニーズを満たすかもしれません。

これは全くその通りだと思います。その点に関して、完全に同意します。


では、きりもよいようですので、ROMに戻ります。ありがとうございました。

353AH1:2007/01/20(土) 21:17:09 ID:MM7DYpv2
>「現実世界の事象について言及する」という点で宗教と科学の領域は分離されていないと思うので、そのようなきれいな住み分けは不可能だと考えているのです。

はい、私もまさにそのように思いますし、現実とは?知るとは?という点が議論になったのだと理解しております。

>ではどうするか。「住み分けはできない」と言ったことで、「じゃあ科学が宗教を駆逐しろとでもいうのか」みたいな感じの反発を受けたようですが、わたしの主張は全く正反対で、「科学は科学のルールで粛々と現実世界の探求をすれば良く、宗教は宗教で自由に現実世界についての主張を信仰・布教すれば良い」というものです。

ああ、なるほど。議論の途中で「もしかするとそのような光景を思い描いておられるのでは?」と思ったりもしたのですが、確信できませんでした。そのような御意見であれば異論はありません。
「四島は日本の尺度では日本の領土ですな」
「その通り、そしてロシアの尺度ではロシアの領土でもあります。ハラショー」
ということですね。
やっぱり202の酔っ払いさんの投稿(の特に後半部)のパクリみたいなものですが。

今度は、より納得が行きました

354macska:2007/01/20(土) 21:41:37 ID:VdHL1C4M
>>349
> > だから、わたしは仏教を信仰していないから、信仰の例は出せないんだって。
>
> あん?じゃぁなぜ聖書から引っ張り出せるのかね。

だから、自分が信仰していないモノなら、聖書かれでも仏教からでも出せますよ。でもあなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。仏教から例を出したとしても、それはわたしにとって「他者の信仰」であるという点で聖書からの例と変わらないのです。

…って、分かって言ってるでしょ? 言いがかりはやめてほしいなぁ。

> だから私が出してやっただろ。あなたとして梵天勧奨はどうなんだよ。

どうなんだよって、何が言いたいの?

梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの? 仏教から例を引けば結論が何か変わるかもしれないと思っているわけですか?

> じゃぁ、釈尊が何を仰っているかイエスと比べてよくわかならないから、出せない、
> ということか。

釈尊が何を言った(とされているか)くらいなら、仏教徒を名乗るくらいですからそこそこ知っていますよ。でも、その宗教学的な位置づけや解釈の歴史なんてことにはそれほど詳しくありません。ユダヤ教・キリスト教については、聖書編纂の歴史や神学的なことを含めてそこらの一般人よりはるかに知っていると思います。だから、より自信を持って例に出せるという意味では、その通りです。

> 要するに、ちょいと仏教解説書を読みまわして「ふむふむ、ここは私の考えに同じ」と感じたところ
> がある程度で「わたしは仏教徒です」と言っても、そんなに文句言われないから名乗ってる、ってだ
> けじゃん。

このように、相手の思想背景について決めつけて中傷するのはやめてよね。進化論についても、芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、ああこの人とは政治的な立場は違うけれども進化論への関心は同じだと思って少し嬉しかったのに、芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか

不当な引用で中傷するのはやめてください。

これまできちんとあなたの批判にこたえてきたつもりですが、あんまりこうした中傷が続くようなら、無視しますよ。
それに、別の掲示板での発言に疑問があれば、そちらでお応えしますって言ってるでしょ。

355macska:2007/01/20(土) 21:43:57 ID:VdHL1C4M

>>351
> つまり
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的に検証できる」
> ではなく
> 「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、その現実における介入を調査できれば科学的検証の対象となり得る」
> ということですね?

もう1カ所違いました。
「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。
# 前回は後半だけしか書かなかったので、その前に何が来るのか分かりにくかったと思います。

なかなか理解してもらえなくて困っているのですが、ここで「科学の対象となり得る」というのは、現実に検証が可能かどうかとはとりあえず関係なく、科学の議題となる潜在性がある、ということです。現実世界に物質的な介入をする知的な存在というのは、現実世界に生息しているか、少なくとも介入する時点において現実世界との接点を持っているはずですから、それが未来永劫どんなことがあっても絶対に科学の議題とはなり得ないとは決して言えないはず。それに対し、現実世界の外にあり人知が届かないとされるもの(例えば、一般に言われる所の「死後の世界」)は、原理的に絶対に科学の議題とはなり得ません。

356芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 22:14:23 ID:Q7XBVw2.
>>333はグチャグチャ言い訳してるだけだから割愛。
>>334の後半ね。
>多くの「穏健な」科学者と宗教者の双方が、(中略)というのがわたしの論理です。

あのね、それは「わたしの論理」ではなくドーキンスの主張。しかし、あなたがそれを自分の主張に流用しているのが幼稚で見てらんない。「わたしの論理」はひとまず置いておく。ドーキンスがなぜそう言っているかというのは、あなたがいうような、ナザロ復活とかマリア処女受胎が「科学的にあり得ない」「超常現象は信じられない」という話じゃないんだ。

たとえば「奇跡」ね、ドーキンスはどう言ってる?それがなぜホモ・サピエンスという種にとって「奇跡」と思えるかと言えば、その生理的な初期条件からして知覚して認識できる範囲を超えているから…ことに「体験を意識できる時間のスパン」の問題ね…それが「奇跡」に思えるんだ…というところから掘り起こしてゆく。で、彼はそこで何を訴えているか。

それが人間の思考能力の限界を超えていても、決して「奇跡」じゃないんだ、その「奇跡」を示すことで「神」が人に何かを示そうとの意志があったとかじゃないんだ…それは「ありえないことではないんだと考えて探求してゆくべし」と…科学としては、そこまで言わなくちゃだめなんだ、そう言っているんだよ。

なぜそこまで言わなくちゃだめなのか(その種の宗教と「紳士協定」を結んで「お互いそれを言わないことにする」という妥協をしてはだめなのか)といえば、そういう考え方でも良しとしたが最後、科学は科学としてやっていけなくなるじゃないか、ということですよ。科学者なら、そこは絶対にお茶を濁すな…ということね。彼の、グールドに対する批判(というか忠告ね)もその線もあったのだ。あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと、こういうところで見落としが出るから。よく見てね。

>>ナザロ復活やアリア処女受胎に触れることだからと言って、人の生死に関する研究をやめるような要求がキリスト教会から出たというのかね。

>くだらなーい。そんなわけがないでしょうが。

そう、そんなわけない。よって、くだらねぇのはmacskaさんなのだよ。ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂。それが史実としてあったかことかどうかなど、それは歴史学の領分。科学としては、「現在の科学としては、そのようなことがありえるとは言えない。しかし、そういうことがあったというのだから興味をもって調べてゆきたい」とは言える。そこが科学の「限界」なのでも「領域」なのでもない。

「それを科学的に調べるな」と言われても屈するな…などという、あなたの主張は絵空事なのだよ。そんなわけがないのだから。しかし問題はそんなことじゃない。科学が、「そんなことはあり得ないことだと現時点での理知でもって決め付けるかたわら、それをことさらに言わず適当に現時点での教会との穏便な社交を優先して、さらなる探求を行わないようようなら科学の自殺」なんだ。しかしこれはドーキンスのreligion批判の片面。もう片面は、私が指摘した「神は存在することになる」の意味がわかってからにしたほうがいいと思うので、ここでは言わない(このスレッドの主題から離れるし)。

357いど:2007/01/20(土) 22:46:35 ID:NdEDLjDw
>>355
>なかなか理解してもらえなくて困っているのですが
申し訳ありません。
今しばらくわたくしにもお付き合い願えますでしょうか。

>>355
>「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうかは、科学的検証の対象となり得る」です。

了解いたしました。対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。

さて、以前に以下のような書き込みを頂きました。

>>346
>その通りです。正確には「奇跡とされる現象」について検証ができるのであって、それが本当に奇跡であったかどうかは検証できません。

それを考慮に入れた上で疑問点があります。

【前提】
ある宗教ではAという奇跡が起きることを「神の存在の証」としています。
Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。

【質問】
(1)奇跡Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)奇跡Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?

358芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 22:49:07 ID:Q7XBVw2.
>あなたは「自分の信仰する宗教から例を出すべきだ」と言ってるんでしょ。

言ってないよ。信仰していようがしていまいが、と言っている。落ち着いてよく嫁。

>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。

だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。

>梵天が人間に語りかけた、というのと、キリスト教の神様が人間に語りかけた、というのは、同じレベルの話として理解すべきじゃないの?

ぜんぜん違う。神の子イエスを通じて父なるヤハウェーが語って人に命じるのと、人の子ガウタマに主神ブラフマーがひざまづいて教えを請うのとでは、同じレベルではない。つうか何だ?その「レベル」ってのは。

梵天勧奨を信じられなければ仏教とは言えない。というか、上で引用した釈尊の言葉も理解できたことにはならない。単に仏説の一部に賛成しただけ。で、あなたにとっての「よりよく知っている」の意味はわかった。あぁ、やっぱりそういう種類の人か、と思った。「知っている」のは「わかっている」ことを意味しはしないんだがね。

>芥屋さんが以前「政治的な効果や影響とは無関係に進化論や科学理論そのものに興味がある、進化論についての発言は政治的立場抜きにやっている」みたいにいうのを聞いて、

そうだよ。だからジェンフリに代表される進歩派の反科学も、一部の保守派の似非科学も、ぶっ叩く。

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

そうですか。でもあなたが自分で言ったことなので、仕方ないと思います。たとえば、

>>だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか
>不当な引用で中傷するのはやめてください。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1082;id=keya1984

359いど:2007/01/20(土) 22:51:45 ID:NdEDLjDw
訂正
>>357
誤)Aという奇跡は神の御業であり、その奇跡は現実世界に影響を与えます。
正)Aという奇跡は神の御業であると宗教では言っており、その奇跡の内容は現実世界に影響を与えるものです。

瑣末なことかもしれませんが一応…

360カモオオハシ:2007/01/20(土) 22:55:01 ID:C0VsT.3A
>>325
>しかし、その場合それが単なる思いつきでなくて「そこそこ確からしい」ということはどうやって分かるのか。それはどうしても、クレーン式ではなくフック式にならざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。要するに、超自然的な存在への信仰が先にあって、それが前提となって個々のパーツの「確からしさ」が担保されると。そうやって得られるものを、わたしは「知」とは認めない立場なのです(それを認める、という人がいることも承知していますが)。

どうもお返事ありがとうございました。そこで>>312の書き込みに戻るのですが、ここでの用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみればフック式なわけです(そうなる理由は>>312で書いたことで理解いただけるかと思いますが)。要するに、五感への信仰が先にあって、それが前提となって個々の知覚の確からしさが担保される、と。こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。

>「科学がわからないことについて、宗教ならば知っているという証拠はない」

これも、そういう場面で唯一証拠になりうるもの(啓示やらさとりやら)の証拠能力を否定すればもちろん証拠はないにきまっていますが、そこが争点なわけですよね。

361HAKASE:2007/01/20(土) 22:55:17 ID:ZC/gbS1c
macskaさん.

えと,「科学に分からないことはある。でもそれらは宗教にだって分からない」っていう話についてですが….
工学ばたの私の立場からの解釈ですが,科学的手法というは『その手法が使える「適用範囲」を明確にしたうえで,その適用範囲内にある現象については,ある一定の「誤差範囲(真偽がどの程度の割合で成立するか等を含めて)」内での予測や再現などが可能であることが(現状で観測し得る範囲での実証的な検証過程を経て)保証されている手法』と私はとらえています.
# 真理を探究するという立場の人(あるいはそれに近い他の立場の人も)いるかもしれませんが,私は基本的にはそのスタンスはとりません.
で,macskaさんの先の主張を,私は『ある科学的手法では,その「適用範囲」外にある事象について,その「誤差範囲」内での予測はできない(できる保障はない)けれども,なんらかの宗教的な手法(?)によって,同じ誤差範囲内での予測が可能かといえば,やはりそれはできない(と思える).』という趣旨だと勝手に解釈して,納得してたのですが,あってますか?

あと,「てゆーか、科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)」っていうのも(まあ誤解を与えかねない暴言ではあると私も思いますが),『宗教が「適用範囲」や「誤差範囲」をあいまいにしているのに対して,科学ではそれらを示したうえで,それらを現状よりもさらに厳密にするために実測や検証を繰り返している(あるいはそうするようつとめている)ので,その点で(どっちが上とか下とかは別にして,予測可能性について)両者を対等に扱うのはおかしい』という趣旨なのかなぁと推測して,こちらも納得してました.
# ↑宗教がこれらをあいまいにしていることについては,良い面もあれば悪い面もあると思うし,私の意見は『「宗教でもそれらを厳密にすべき」という趣旨ではない』ので,その点は誤解しないでください(大丈夫だとは思うけど一応…(^^;).

macskaさんの主張には,おそらくこれ以上の話も含まれているとは思うんですが,基本的には上の話を含んでいると考えて良いでしょうか?
他の細かい議論にはついていけてないのですが,私はとりあえず上の範囲の話であれば同意見なので,その点表明しておこうと思って書き込みしました.

362tema:2007/01/20(土) 23:03:38 ID:???
 祭りのさなかに、あえて関係ないことを話すのも、オツなものです。

HAKASEさんへ

 temaとしては、「量子の実証的検証は、将来的にも観測できる可能性は低いだろう」と考えます。
 理由を以下に示します。なお、パイロット仮説が正しいという前提で記述しています。

>>302
>(前略) 「各データ観測時刻で同じ特性を持つ」という前提条件は少しおおざっぱで,もう少し書くと「観測系がカオス的でないことが明らかである場合」という事でした.

 問題は、観測系も量子で出来ているという点です。
 たとえ機械的誤差などの影響をゼロにできたとしても、量子の影響はゼロにはできません。そして、その影響はカオス的なのです。
 つまり、観測系がカオス的で「ある」ことが明らかなのです。

 このため、工学がどれほど発達しても、量子の振る舞いをカオス時系列解析の対象とすることは不可能と考えます。

 ただし、対象とする量子は1個であり、観測系は膨大な量子からなっています。もしかすると、観測系の量子が与えるカオス的影響をノイズと見なせるような、そんな数学的アプローチが出来るかも知れません。そうなれば、不可能では無いでしょう。

 さて、確かに主要な意見は合意できたと思います。
 カオス理論について学ぶこともでき、楽しかったです。ありがとうございました。

363カモオオハシ:2007/01/20(土) 23:13:58 ID:C0VsT.3A
>>358
>>ところが、わたしは宗教を信仰していないから、「自分の信仰する宗教の例」は出せない。
>だからそれ、創造科学の言い分と一緒だろうが阿呆。

芥屋@keya1984さんは事実判断と価値判断の区別をしてらっしゃらないのですか?macskaさんは仏教の教えの一部分である価値判断の体系を受け入れているだけだと言っているわけです。価値判断の問題にどうやって白黒つけるかというのは難しい問題ですが、少なくとも実験や観察で白黒つくと思う人は宗教者か否か、科学者か否かをとわずほとんどいないでしょう。創造科学など、現実世界についての事実判断をする立場とmacskaさんの立場を同列に扱うのは不当だと思います。

364芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 23:15:14 ID:Q7XBVw2.
>>343
>そう言えば、法的な真理というものも科学的検証の対象とは言えないような気がする。

難しいですね…進化生物学界隈ではそれをやっていくようなので、賛否両論かしましいのでしょうね。

365macska:2007/01/20(土) 23:22:32 ID:VdHL1C4M
芥屋@keya1984さんは不当な言いがかりを繰り返すだけですし、他に相手にしている人もいないようなので、この掲示板では今後極力議論の相手にはしません。もしわたしにどうしても問い詰めたいことがあれば、芥屋さん自身の掲示板はたまに覗いているのでそちらでお願いします。わたしのサイトの掲示板でも結構です。

以下は、わたしの主張を他の方に誤解されては困るので、中傷部分だけ指摘。

>>356
> あの論争を、ポスモダ大騒ぎにしか見ていないようだと

そのように見ていない。ポスモダ大騒ぎというのは意味不明。

> ナザロ復活やマリア処女受胎「それ自体」をあげつらうのは愚の骨頂

あげつらったことはない。

>>358
> だからって「チベット仏教は本来の仏教ではありません」とか

それは、チベット文化研究所のペマ・ギャルボさんが「オウム真理教の信者は(仏教徒を名乗っているが)仏教徒ではない」という発言をした、という引用を読んで、(オウムを擁護するわけではないが)「それを言い出せば、わたしから見ればチベット仏教は仏教本来の教えからかなり離れているように見えます」と答えた部分ですね。

文脈をきちんと理解して欲しいのですが、わたしは「チベット仏教は本来の仏教ではない」とは言っていません。そうではなくて、チベット仏教の立場から「オウムの信者は(仏教徒を自称していても)仏教徒ではない」と決めつけるのであれば、チベット仏教だってわたしの立場からは否定できてしまう、と言っているのです。わたし自身は、チベット仏教が「本来の仏教ではない」と決めつけることも、オウムの信者が「仏教徒ではない」と決めつけることにも、どちらにも反対です。

そうした文脈を無視し、わたしが「チベット仏教は本来の仏教ではない」という意見を言った、という風に引用するのは、悪質な中傷です。これ以上繰り返さないでくださいね。

366芥屋@keya1984:2007/01/20(土) 23:35:53 ID:Q7XBVw2.
>>363
>芥屋@keya1984さんは事実判断と価値判断の区別をしてらっしゃらないのですか?

そこでいう「事実判断と価値判断の区別」とは何でしょうか?

とりあえず今、私が批判しているのは古伝承の取り扱いですね。古伝承に神異譚はつきものですが、その神異譚の「事実判断と価値判断の区別」を、どのようにつけることができるとお考えでしょうか。

macskaさんはここへ来て「それが歴史的事実であるかどうか」という言葉を出していますが、その神異譚が史実かどうかという「事実判断」を、科学的見地で行えるとお考えですか?

たとえば神武天皇ことイハレヒコもしくはヒコホホデミのみこと。彼の母と祖母は姉妹で、ともに海神の娘であり、その正体はワニ(鮫のことか?)だったという古伝があります。しかし生物学的に考えてみれば、人と鮫の合いの子というものは考えられません。「よって、史実ではない」…そんな馬鹿なことを言う人はいないと思います。

その実在性うんぬんは実証史学の主題であり、科学としては「人間と魚類の混合種はありえませんよ」としか言えません。しかしだからと言って、そのことがただちに古伝承の事実判断につながりはしません。トーテミズムによる描写かもしれませんからね。

まぁその逆に、「神武天皇のY遺伝子」などと言い出した日には、それは「ホモ・サピエンスのY遺伝子」と言ってるのと同じです。そういうことですよ。「いや、だからね、海神の娘だとか正体は鮫だとか言うけど云々」と語り出したが最後、神武の二人の兄イナヒとミケイリヌが「我らは海神の子なのに、海よ、なぜそのように荒れて我らの行く手をさえぎるのだ!?」と言って海に入り「波の穂を踏んで母の国へ渡ってしまいました」「サヒモチの神(=鮫の類のことらしい)になりました」という古伝が、ふっとんでしまう。

そういう古伝は、事実であったかどうかの判断…そこに科学的検証など、何になるんでしょうね。それで何事か検証して「事実判断」ができると考えるような浅はかな理知の思い上がりを私は批判しております。

367Josef:2007/01/20(土) 23:38:06 ID:5DAxksug
>>350
遍在する神ですね。macskaさんのいう「自然を神と呼ぶ」に分類されるものだと思います。
かのアインシュタインも自分の神は「スピノザの神だ」というようなことを言っていたそうです。

368macska:2007/01/20(土) 23:39:50 ID:VdHL1C4M
>>357
> 対象は「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」ですね。

重要なのはそこじゃなくて、そういう神の存在は「奇跡とされる現象を検証することによって」検証可能なのではなく、そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だと言っているのです。なんだかこのスレの最初の方の議論は間違って「奇跡」の方向に進んでしまいましたが、奇跡というのは「現実に対する介入」の言い換えとして言っただけであり、現実に介入する神の存在が科学の範疇であることと、奇跡の検証とは直接関係していません。「現実に介入する神」を「奇跡を起こす神」と(近似値的に)言い換えられる、というだけです。

>>360
> どうもお返事ありがとうございました。そこで>>312の書き込みに戻るのですが、ここでの
> 用語法に即して言い換えるなら、五感による知識もまた哲学的懐疑主義者の目からみれば
> フック式なわけです
(略)
> こういう原理的に論駁不能な批判がありうることを思えば、経験による知のありかたを特
> 権化する議論はもっと慎重であるべきだと思います。

これについては、>>361 で HAKASE さんがお答えになっていることに同意します。

>>361
わたしがあいまいにしか説明できなかったことを、分かりやすく言い換えてくださってありがとうございます。

369いど:2007/01/21(日) 00:00:40 ID:NdEDLjDw
>>368
>そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だと言っているのです。なんだかこのスレの最初の方の議論は間違って「奇跡」の方向に進んでしまいましたが、奇跡というのは「現実に対する介入」の言い換えとして言っただけであり、現実に介入する神の存在が科学の範疇であることと、奇跡の検証とは直接関係していません。

では以前の書き込み(>>357)を以下のように読み替えていただけますでしょうか?

【前提】
ある宗教ではAという事象を「神の現実への介入」であるとし「神の存在の証」としています。

【質問A】
(1)事象Aが観測されなかったとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?
(2)事象Aが観測されたとき「現実に介入するタイプの『神』が存在するかどうか」に関してどのような事が言えるでしょうか?

370芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 00:12:44 ID:Q7XBVw2.
>芥屋@keya1984さんは不当な言いがかりを繰り返すだけですし、

にわかじこみはやめとけと忠告したのに、ドーキンス、ドーキンスと繰り返すから、仕方なしに「あなたが流用するドーキンスの主張は、あなたの言ってるようなものじゃないよ」と説明したら、それが「不当」なのか(苦笑)。まぁ、いつものことだからいいや。

>そのように見ていない。ポスモダ大騒ぎというのは意味不明。

【ma】
そもそも「進化生物学派」と「社会構築学派」を対立させて比較するのがおかしい。
【芥】
おかしくないでしょう。そりゃぁ、「じゃぁスティーヴェン・J・グールドは?」と問うなら、それはもちろん、そうです。全く完全に二分できるかと言えば、もちろんそうでない人もいます。でもそれ言うんだったら「保守派vs進歩派」も「フェミvs反フェミ」も無効じゃないですか。だから「学派」としたわけです。おおむねそういう構図だったでしょ?
それにね、私は「社会構築主義」と「進化生物学」が、論理階層として対立するほかないのだなどとは、どこでも述べてないでしょう。それどころか、一致できる点や学び合う(知見を交換させること)が有意義だと思われることもあるはずだという趣旨で書いてるわけで。「社会構築主義を生物学的なものと対立させて考える」だなんて、私の意見のどこを読んだらそういう見解になるんですか。「社会構築主義の立場から生物学的なものを対立させて考える」人がいるようだが、そうではないでしょうと書いているんです。それが、わかりませんか?
【ma】
おかしいですよ。対立する考え方ではないもの。例えば、「社会構築主義であり、なおかつ進化論」の立場に立つ主張だってあり得ます。
【芥】
対立して終わるとは思われない、と私も大隅先生のブログに書きましたよ。理由や具体例も含めて。でも、当時の社会生物学論争は、学派間の衝突の構図になっていたんじゃないのですか?
【ma】
それは、一部ポモ論者のもったいぶった思わせぶりな記述があって、そこから想像されるようなハードな社会構築論に一部の科学者が猛反発したわけで(笑)、現実にはそんなハードな社会構築論者なんてそんなにいませんでしたというくだらない結論。
【芥】
なんだ、あの論争をそうとしか見てないのか。だったらこの話をmacskaさんとしても仕方がありませんね。
ttp://principle.jp/bbs5/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=34;id=keya1984より関連部分抜粋。

>チベット仏教の立場から「オウムの信者は(仏教徒を自称していても)仏教徒ではない」と決めつけるのであれば、チベット仏教だってわたしの立場からは否定できてしまう、と言っているのです。

何でやねん、んなわけないだろうが…。あなたの立場の仏教って、どんなよ?

>わたし自身は、チベット仏教が「本来の仏教ではない」と決めつけることも、オウムの信者が「仏教徒ではない」と決めつけることにも、どちらにも反対です。

まじかよ…つうかmacskaタン、オウムの残党?

371芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 00:25:11 ID:Q7XBVw2.
あ。よく見たら、すげぇ捏造されてる。

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

私がいつ、「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけた?私は「macskaは社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」とは書いたがね。ちょっと気を抜くとこれだ…

では、おやすみなさい。

372macska:2007/01/21(日) 01:05:16 ID:VdHL1C4M
>>371
それは捏造じゃなくて書き損じです。書き損じたことについては謝ります。
しかしあなたのやっている捏造や中傷は、いい加減どうにかしてもらえませんか?
議論の邪魔にしかなっていませんよ。

# 芥屋さんはこのスレでは以後無視するつもりでしたが、自分の書き損じを
# 訂正するくらいはやるべきだと思ったので書きました。

373baku22:2007/01/21(日) 02:01:00 ID:pNzc/oDo
大分主張に納得しかかっていたのですが、
>>368
>神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇だ

という表現にはやはり抵抗を感じます。

ID論的「神」の存在検証も科学の範疇だ、という主張とうまく切り分けられないんです。


科学的に検証されうる事を直に主張したりやったりしそれを根拠とする「神」なら、
どんな突飛なものでも、さほど怖くないと思います。
ID理論はもうちょっと狡猾ですよね。
検証しうるもの中に自らをカウントさせることで、その他の実在と
「対等」になろうとする訳ですから。

374Josef:2007/01/21(日) 08:36:26 ID:uPoVYQoU
>そういう神の存在は「奇跡とされる現象を検証することによって」検証可能なのでは
>なく、そういう神の存在それ自体が(実際に検証できるかどうかを別に)科学の範疇
>だと言っているのです。

これは不正確でしょう。多くの場合「神」は物理的存在ではないから「存在それ自体」は科学の範疇ではありません。あくまでもその「神」が行ったとされる行為が科学の範疇だというだけですね。

「おまえの本には神のことが書いてないではないか」というナポレオンの問いかけにラプラスが「閣下、私は神という仮定を必要としないのです」と答えたという話がありますが、科学は現象の検証を通して「そういう神の行為は見出せない→神を仮定しなくてもその現象は説明しうる」と言えるだけでしょう。説明しえない現象があれば、その現象自体が科学の新たな対象となりうるだけであって、どこまでいっても神の存在それ自体には到達しえないと思われます。

375芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 20:43:32 ID:Q7XBVw2.
>>372
議論の邪魔?中傷で捏造だ?何を勘違いしているんだ。
1.「科学主義者による宗教への攻撃」と誤解され議論が紛糾していた。
2.その誤解を解きたければ、自分で仏教徒であるむね表明し仏説を例示すれば足りた。
3.本人がそれをなさないどころか誤解を煽り紛糾しているので私がそれに言及し、本人の姿勢を糾した。
4.それに言及する以上、過去の関連事例に触れるのは当然。
5.ただし、ここで以前の無回答について返答しなくて良い、ここでの質問に答えよとしてある。

過去の事例のことにつき、捏造だ中傷だとしてさらなる紛糾をはかっているのは、あなたではないか。過去の無回答事例については、あなたの無回答をもってこちらが簡潔にまとめるのは当然である。私はまさかあのまとめで中傷だ捏造だなどと反論があるとは思いもしなかったが。私のまとめが適切かどうかはソースを見て読者が判断できるのだから、それでいいはずだろう。なにをいまさらここでグチャグチャ言い出すのかね。私が書いた表現に不服なら、無回答で済ませずに再反論して構わないが、それはよそですべきだろう。

あなたのブログのエントリについては私の質問で終わっているのだから、続けたければ自分のブログに返答から始まる続編でも書きたまえ。私の掲示板についての話は、続けたければ当該スレッドか新スレでも立ててそこに書きたまえ。あなたは私にそうするように言うが、何で私がせねばならないのか、理由がわからない。私としては、あなたが無回答ならそれでかまわないのだから。「その件については誤解です。わたしのorあなたのところに続きを書きましたから、そちらへどうぞ」が筋だろう。ここに、続きを書くな。それこそ他人迷惑じゃないか。

そもそも、私は討議中の話題に横レスしたのではなく、あなたに「話を元に戻しますよ」として別個に参加したのだよ。あなたが他の人と行っている議論の邪魔などしていないのだから、変な言いがかりはよしにしていただきたい。まだあなたが回答していない他の人の質問も残っているではないか。よもや、「芥屋が邪魔をするので続行できなくなった」などと、後になって言い出す気かね。遠慮なく続けたまえ。会議室じゃないんだ、掲示板はそれが可能なところだろ。

あなたは自分が返答に窮する質問や指摘を含む批判を受けると(あるいは過去に無視したり無回答だった関連事項を持ち出されると)、途端に「中傷だ捏造だ」とわめきちらし「議論の邪魔」だとか言って議論を放擲するけど、私は慣れているので別に構わない(はじめてのことで驚いた人もいたようだけど)。しかし議論上、慣れているから放置、というわけにはいかないこともある。私はだいたい、ここであなたに言うべきことは今のところ言い尽くしたけど、以下の部分はここで新たに出された件なので、ここで返答しておく。

376芥屋@keya1984:2007/01/21(日) 20:46:13 ID:Q7XBVw2.
>>372
捏造したんじゃなくて書き損じたんだ…とのこと。わざとじゃなかったんだということは、了解した。しかし嘘を重ねて恥の上塗りをするな。再掲するが、

>芥屋さんの側には「macskaは進化生物学を反フェミのプロパガンダ程度にしか思っていない」と決めつけられたことに、こっちはショック受けてるんだからね。

ショックを受けたんだろ?君は自分が書き損じてからショックを受けるのか?

書き損じたのではない、「ついこのあいだまで社会生物学論争を反フェミのプロパガンダ程度にしか見ていなかった」と書いてあるものを読んだ時、すでに頭の中でゴッチャになったんじゃないか。自分も進化論には接してきたのに何でそんなことを言うんだ…という頓珍漢なレスが上にあったが、そういうことだろ?あなたの自己投影だ。

つまり、社会生物学論争をどう見ているかというあなたの認識は、>>370で引用したころと今も大きな変化はない、ということじゃないか。しかし少なくとも私は過去形で書いたのだ。それを中傷や捏造と呼ぶことは不当である。以上。

以下、自己レスの訂正です。
1.「梵天勧奨」と書いてますが、「梵天勧請」が正しいようです。
*検索では「梵天勧奨」でも出てきましたが僅かでした。
2.「ドーキンスは明言していないが」と書きましたが、明言してました。
*『利己的な遺伝子』を読み直して気付きました。

377HAKASE:2007/01/22(月) 19:52:40 ID:ZC/gbS1c
temaさん.お返事ありがとうございます.

観測装置がカオス的にならざるを得ないという点のご指摘ありがとうござます.
これについては,カオス制御の分野などでカオス的な出力をそうでない出力に変換する工学的な技術なども検討されているので(直接の適用は無理としても発想は使える気がするので),私は可能性があるかもしれないと感じます.ただ,量子等への利用や応用がホントにできるかはわからないし,カオス制御自身が現在研究段階の技術でもありますし,私が言えるのはやっぱり「可能性」までです(^^;

ということで,主要意見は合意ですね.ありがとうございました.

378baku22:2007/01/22(月) 20:33:59 ID:pNzc/oDo
遅レスかつ寄り道ですが、
>>367
アインシュタインの話は知りませんでした。ありがとうございます。
となると彼の、「神は賽をふらないという確信」にはスピノザ哲学からの影響があったのだろうか・・・
などと、しばし空想にふけってしまいました。

379地下に眠るM:2007/01/22(月) 20:58:00 ID:cizMQ0FI
>>225に関連して、こんなのはどないだにゃ?

ttp://polylogos.org/books/polanyi.html

いろいろと説明のやりかたを考えてはいるんだけど、どうもソーカル事件がアタマをよぎるにゃー

ここの議論を放り出すつもりはにゃーという意思表示をかねて

380Josef:2007/01/23(火) 20:41:35 ID:uPoVYQoU
>>378
>となると彼の、「神は賽をふらないという確信」にはスピノザ哲学からの影響があったのだろうか・・・

スピノザの神もまた決定論的ですからね。十分可能性はあるでしょう。天才的な劇作家ビューヒナーもスピノザに強く影響されたと言われていて、その作品に見られる歴史宿命論と関係づけて論じられることが多いようです。

381Josef:2007/01/23(火) 21:13:47 ID:uPoVYQoU
>>225に関して少しだけ。

>数学がなぜ自然科学においてこれほど役に立つか、ちゅうのはなかなか答えがいのある問いかもしれにゃー。

言い換えると、地下に眠るMさん言うところの「純粋な思弁の自己運動」がなぜ外部の対象に「的中」するのか。これは未だ正答の見つからない難問ですね。

>僕たちの脳は、数十億年におけるトライ&エラーで貯えた莫大な情報を物質的に構造化
>した器官だといえにゃーだろうか? ニンゲンの脳内における法則は、外界・自然界の
>法則と相当程度にパラレルな関係にあるのではにゃーだろうか? だからこそ、ほぼ純粋な
>思弁の結果である数学が、外界の事象の解析にあれだけの力を発揮するのではにゃーのだろうか?

という方向を、乱暴にあっさり逆転させてしまえば、脳の活動もまた自然法則に則っているのだから、そもそも脳は本質的に自然法則に反する思考をすることができない、とも言えそうな気がします。なぜ思考が外的世界に的中するか、ではなく、「的中しないことができない」という逆転です。

もちろん実際には思考の結果が間違っている(=的中しない)ことはあります。しかしそれはデータが不足していたり、生得的な知覚パターンによる錯覚(その錯覚も元々は生存に適するべくプログラムされたもの)があったり等々の理由、つまり思考の出発点における不備に起因する。その場合、思考(論理的推論と言ってもいい)は「正しい推論」を通して「必然的に間違う」のであり、思考そのものが間違っているわけではない。

また、もちろんいい加減な推論をやれば、出発点が正しくても間違える。しかし数学のように、論理を尽くして考えれば誰もが必ず同じ結論に達することができる、という程度に厳密化されて出された結論ならば、それは自然法則に則ってしか機能することのできない脳が「これと同程度に厳密で、かつこれに反する結論は出しようがない」と判断しているのであり、それはいわば自然法則そのものの写像となっている。但し書きとして「人間的かつ不完全な」を加えなければなりませんが、どんなに不完全であってもその断片たちは常に自然法則と平行している、つまり常に正しい。それが数学というものである。

…などといういい加減な考え方についてはどう思われるでしょうか?

382Josef:2007/01/24(水) 20:18:59 ID:uPoVYQoU
後で気づきましたが、チョムスキーは言語について上と似たような考えをしたかもしれません(直接読んだことはないのでいい加減)。

言語は様々だが、人間の頭から生まれた以上、表層は異なっても深層では必然的に同じ構造を持つ。いや、同じ構造しか持ちえないはずだ。この、唯一しか存在しない深層構造からすべての言語は生成した。よって一つの言語を調べれば、そこで得られる論理構造はすべての言語に共通する。そして各言語は、一つの深層構造から生成するプロセスとして(歴史的プロセスではなく構造的プロセス)記述できるはずだ。

…と考えたかどうかは知りませんが、大きく間違っていないとすると、この「深層構造」なるものは「スカイフック」的発想によるものということになりそうですね。

383地下に眠るM:2007/01/25(木) 10:27:48 ID:O39sy2IQ
>>381
>という方向を、乱暴にあっさり逆転させてしまえば、脳の活動もまた自然法則に則っているのだから、そもそも脳は本質的に自然法則に反する思考をすることができない、とも言えそうな気がします。なぜ思考が外的世界に的中するか、ではなく、「的中しないことができない」という逆転です。

それをもう一度ひっくりかえすこともできるにゃ。
ニンゲンは自らの脳内の法則にしたがってしか外界を知覚・認識できにゃーという逆転ね。脳内法則を外界にあてはめて認識しているので、不一致はおこりようがにゃーという理屈。

まあ、「マクロコスモスとミクロコスモのすの照応」というのは由緒正しい神秘主義の中心概念のひとつでしてにゃ。ニンゲンはニンゲンの脳内で可能なロジックをもってしか、外界を知覚・認識できにゃーということは間違いにゃーでしょう。

このあたりの議論は、ユクスキュルの「環世界」概念とも関係するにゃんな。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E4%B8%96%E7%95%8C
より引用
***************************
環世界(Umwelt)はヤーコプ・フォン・ユクスキュルが提唱した生物学の概念。

すべての動物はそれぞれに特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。 時間や空間もそれぞれの動物にとって異なった時間・空間として知覚されている。 動物の行動は各動物で異なる知覚と作用の結果であり、それぞれに動物に特有の意味をもってなされる。
***************************
ユクスキュルの理屈で言えば、生物の外界認識は「正しいが部分的」となるでしょうにゃ。
そしてこういった捉え方は、ドイツ神秘主義、ドイツ観念論の源流ともいえる否定神学にもみられるわけですにゃ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6

で、この否定の道でのみ語られうる神、という概念はまさにストロースのいう「浮遊するシニフィアン」になるのですにゃ。
このあたりの話は、某所で書こうとしていることなんだけど、なかなか書けにゃー。まとまったらこっちにもあげるにゃ。

384地下に眠るM:2007/01/25(木) 10:49:06 ID:O39sy2IQ
ありゃりゃ、
「マクロコスモスとミクロコスモのすの照応」
ではなく
「マクロコスモスとミクロコスモスの照応」
ですにゃ。
普段から推敲をしてにゃーし、軽微な書き損じはほっておいてるんだけど、さすがにキメ台詞は訂正しておきますにゃ。

さて、ついでだにゃ

>>379 でのリンク先からの引用
***********************
人間には、科学的な知や、言語で表現できる知を越えた暗黙的な知がそなわっていることを明確に指摘した古典的な書物。この知は言語で語ることができず、しかも言語化された知の背景となり、これをもたらすことができるもの、科学的な発見をもたらし、研究の指針を教えてくれるものである。

中略

科学では、主観性を排した客観的な知識の確立が求められると考えがちだが、「暗黙的な思考はすべての知識の不可欠の部分をなしている、ということを考えるならば、知識の個人的な(パーソナルな)要素をすべて除去するという理想は、実際にはすべての知識の破壊をめざしていることになる」(38)のはたしかである。科学は普遍をめざすが、その普遍には個の軸のようなものが必要なのである。
*******************

クレーンとスカイフックという比喩をmacskaは多用しているにゃんね。
しかし、この「クレーン」の土台に暗黙知があるということは、ほとんど否定することは難しいのではにゃーのだろうか?
そして、この暗黙知って「スカイフック」なのではにゃーのかな?
つまり、クレーンの足場はスカイフックでもたらされている、ちゅうことだにゃ。数学の足場もやっぱりスカイフックでもたらされているのではにゃーのかな?

デネットがグールドなどを批判するのに「スカイフック」という概念を使うのは悪くにゃーと思う。
なぜなら、カガクはとりあえず自らの足場を自明なものとみなし、そこからクレーンをつかって積み上げている体系だからだにゃ。

しかし、「知」を考えるときに「スカイフック」を否定することはできにゃーだろう。
どのようなクレーンも、その足場はスカイフックによってもたらされているのだにゃ。
カガクとかテクノロジーとか、道具の有用性に目をくらまされると、そうしたことが見えなくなるのだにゃ。
宗教という知は、そうしたことを忘れたことは1度だってにゃーんだ。

385地下に眠るM:2007/01/25(木) 16:52:38 ID:cizMQ0FI
職場でお茶を飲みつつ

ttp://transact.seesaa.net/
ここの常連はほとんどご存知の「忘却からの帰還」ですにゃ。IDに関するウォッチサイトとしては質・量ともにもっとも「使える」サイトのひとつにゃんね。

07年1月25日付けの記事から引用するにゃ
原文は英語だけど、翻訳部分だけを引用
**************************
残念ながら、米国の大半の市民は科学についてちゃんとした理解がない。特に仮説や理論が反証可能でなければならないという点について、科学的方法をほぼ誤解している。さらに、理論は何かを証明するものではなく、証拠によって支持されるものだ。ほとんどの人々はこれを逆だと思っている。人々は科学は何かの存在を証明し、科学的真理が絶対確実な法則になるのだと思っている。私がよく聞く科学的真理の例は「科学は地球が太陽の周りを公転することを証明した」というもので、これはまったく正しくない。あらゆる科学は証拠によって駆動され、証拠は地球が太陽の周りを公転するという理論を支持する。この理論はそれでもなお、特定の証拠によって反証されうる。そんな証拠が見つかるとはまったくないと思うが、それが科学というものだ。新しい考えを花開かせ、固まった教義を奨励することを拒否するように、常に扉は開いている。

インテリジェントデザイン支持者たちは、この無知につけこんだ。ほとんどの人々は科学的理論が反証可能でなければならないことを知らないので、インテリジェントデザイン支持者たちは、反証不可能な理論を提示できて、人々は無知ゆえにこれを受け入れる。
**************************

macskaによると、検証が不可能でも、つまり反証の可能性のないことでも現実におこることであればカガクの対象だと主張しているわけですにゃ。
しかし、この理屈って、もちろんカガクにとって何の益もにゃーだけでなく(カガクに携わる者、科学哲学を少しでもかじったことのある者ならわかるだろ)、社会的にも有害なシロモノなんでにゃーのか?
必要なのはカガクとは何かということについての地味で継続的な啓蒙だにゃ。macskaの主張するカガクの対象の範囲の定義では、まともな啓蒙活動に何の益もたらさず、混乱をまねくだけに終わると考えられますにゃ。

386Josef:2007/01/25(木) 19:07:23 ID:uPoVYQoU
>>383
>それをもう一度ひっくりかえすこともできるにゃ。
>ニンゲンは自らの脳内の法則にしたがってしか外界を知覚・認識できにゃーという
>逆転ね。脳内法則を外界にあてはめて認識しているので、不一致はおこりようがにゃーという理屈。

そう、いとも簡単に逆転できるんです。
たとえばデカルト風に「今こうして考えているということは疑いえない」という地点から出発する立場からは、自分の外に世界が存在することを前提とする自然科学はすべてスカイフックでしょう。フックとクレーンという比喩はもともと相対的なんですね。

「世界は存在する」という飛躍を前提としなければ、確かだと言えるのは「この認識」だけになります(「認識内容」ではなく「認識しているということ」)。ここから出発すれば、どうしたって観念論、つまりは形而上学にならざるをえないわけで(現象学がその例)、このことは「形而上学は天からつり下げられたフックではにゃーのだ」(>>225)という「独り言」とも関連してくるような気がします。

387Josef:2007/01/25(木) 19:08:46 ID:uPoVYQoU
>>385
>macskaによると、検証が不可能でも、つまり反証の可能性のないことでも現実におこることであればカガクの対象だと主張しているわけですにゃ。

これはおかしい。
何がおかしいかというと、「検証が不可能でも・・・現実におこること」という文言。macskaさんが言ってるのは、現実に起こることなら原理的には検証が可能なはず、ということですね。「検証が不可能でも・・・現実におこる」という事態そのものがありえない、という主張だと思われます。

ただ、上に書いた「認識しているということ」なんかは、当人にとってはこの上なく確実な「現実」であるにもかかわらず、検証は不可能です。あるいはヴィトゲンシュタインは世界が「私の世界」であることを強調しますが、この「私の」というこの上ないリアリティは検証しなえい(「共感」できるかできないかです)。

つまりmacskaさんの言う「現実」とは、非精神的な外的世界(自分の身体も含む)ということでしょう。

388ラク:2007/01/26(金) 00:30:54 ID:.LrraLno
>何がおかしいかというと、「検証が不可能でも・・・現実におこること」という文言。macskaさんが言ってるのは、現実に起こることなら原理的には検証が可能なはず、ということですね。「検証が不可能でも・・・現実におこる」という事態そのものがありえない、という主張だと思われます。

難しいことは解りませんけどポパーは、科学 ⊃ 検証可能 とは言っているようですが、現実 ⊃ 検証可能 とまでは言っていないのではないでしょうか。
だとすれば、(検証不可能 ⊃ 非現実)=×。
なので私的には、∴検証不可能 ⊃ 非科学的…みたいな感じですけど。

389diamonds8888x:2007/01/26(金) 06:08:06 ID:HFzGgWdI
>>387, >>388
 誰にとって検証可能なのかという問題でしょうね。一般には「普通の人間なら誰にでも」という意味で使いますが、「私にとって検証可能でも他人には検証不可能」という現象もあるということですね。

 それから「原理的に検証可能」と言ったときに、検証のためにどこまでの道具を認めるかでも違いが出てきますね。タイムマシン、はともかくとして過去を直接観測できるタイムスコープとでも言うべき道具も認めるかどうか、人の脳内の思考を直接観測できる機器とか超能力?とかも認めるかどうか。何せ、将来も発明されないとも言えませんし。

 そうなると作図問題みたいに、「使えるのはコンパスと定規だけ」とか規定しとかないと・・。

390Josef:2007/01/27(土) 17:39:02 ID:uPoVYQoU
>>388
ポパーは科学の科学たる条件として検証、というか「反証」ですかね、「反証」に対して開かれたシステムであることを挙げたと理解しています。現実に起こったことや起こったとされることを科学的に検証する、という時の「検証」とは指すところが違っているでしょう。
で、当然のことながら科学は「現実」のすべてを対象とすることはできません。「現実」の中の、科学的手法で扱えるものしか扱えない。枝葉の部分はともかく、この、ごく当然のことをmacskaさんは言っているだけで、何か新しい提言をしているわけではないと思います。
ある人が突然死した。宗教家が「神の怒りに触れたからだ」と言った。そしたらもう突然死の原因を科学的に解明することはできなくなるのか。そんなわけねーだろ、ってこと。でもそれじゃああんまり当たり前すぎるから、いくらなんでももうちょっと問題性のあることを言っているのではないかと思っていろいろ勘ぐってしまう。その総体がこのスレッドだと思います。

>>389
考えてみると「原理的」もかなりいい加減な言葉ではあります。が、SF的設定とか超能力とかは(内容次第ではありますが)、想像世界で「原理」自体を変えてしまうことを意味するのではないでしょうか。「自分の髪を掴んで沼から自分を引き上げる」とか「まん丸な形をした三角形」とかは原理的に不可能ですが、「それがありうる世界(人)なら」と仮定したとたん、原理自体がその想像世界では変えられている。だからそういう設定が「想像」として語られる限り、科学はそれを「原理的に」検証することができない、ということになるような気がします。

391ラク:2007/01/27(土) 21:56:47 ID:T.C8oAB.
>>390
>ポパーは科学の科学たる条件として検証、というか「反証」ですかね、「反証」に対して開かれたシステムであることを挙げたと理解しています。

そうですね、どうも「反証(可能性)」と「検証」を混同していたようです。

>現実に起こったことや起こったとされることを科学的に検証する、という時の「検証」とは指すところが違っているでしょう。

とすれば、ある理論が科学的かどうかの「検証」が反証可能性ということでしょうかね。

392baku22:2007/01/28(日) 05:46:15 ID:pNzc/oDo
スレッドが紛糾した原因に関してですが、宗教(ID論含めて)をもっと場合分けした方が良かったのかも、と思いました。
ざっと思いつくのが、

1:迷信。現世的奇跡を根拠にする教祖など
2:ID論的なもの。反証不能なものを起点に、手を広げてゆくもの。
3:カトリック主流派的なもの。反証不能なものを教義に含みつつ、自らを哲学の一種にカテゴライズする。

2 が相手だと、科学の側で己の輪郭をはっきりさせて、相手の主張をまず分節する必要がある。
この「政治」が人によっては科学の弱腰、道学者的に映るのかもしれない。
macskaさんの主張も動機もそこら辺が動機になっているのかな、と考えていました。

393baku22:2007/01/28(日) 05:51:45 ID:pNzc/oDo
ミス。主張も動機も→主張も、です。

394baku22:2007/01/28(日) 06:48:48 ID:pNzc/oDo
補足:
最初macskaさんのように神を場合分けしようと思いましたが、
やってみると頭が混乱してきました。

395Josef:2007/01/28(日) 18:32:03 ID:uPoVYQoU
>>391
>ある理論が科学的かどうかの「検証」が反証可能性ということでしょうかね。

そう言っていいと思います。その意味で「神のデザイン」という主張は非科学的ということになるでしょう。

>>392
>スレッドが紛糾した原因に関してですが、宗教(ID論含めて)をもっと場合分けした方が良かったのかも、と思いました。

前提が違ってたんでしょうね。
macskaさんに反論する人たちを「論理的思考のトレーニングが足らない人たち」と呼んだ恥ずかしい「解説」もありましたが(>>246)、むしろ論理的&科学的思考に慣れているからこそ、「神」という超越は科学の対象になりえないことを皆さんイヤになるほど理解していたのでしょう。つまり、NATROMさんの

>>7
>そんなことで否定できるしょぼいカミサマなんて神じゃないような気もしますが。

という辺りが、おそらくここの常連さんたちの「常識」で、macskaさんの念頭にある「しょぼいカミサマ」とは神概念が最初から大きく隔たっていたと思われます。やりとりを重ねてmacskaさんが科学の対象だととする「神」が理解されるにつれて、「なるほど!」ではなく「なーんだ(ツマンネ)」となっていったように見えます。知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。

396シカゴ・ブルース:2007/01/30(火) 16:52:13 ID:KNmRxfBE
>>395
>という辺りが、おそらくここの常連さんたちの「常識」で、macskaさんの念頭にある「しょぼいカミサマ」とは神概念が最初から大きく隔たっていたと思われます。やりとりを重ねてmacskaさんが科学の対象だととする「神」が理解されるにつれて、「なるほど!」ではなく「なーんだ(ツマンネ)」となっていったように見えます。知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。

Josefさん、お久しぶりです。

macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。私のようなレベルの低い者には macskaさんの主張はとても論理的で分かりやすいのですが、ハイレベルの議論をなさる方には非論理的に見えるのでしょうか。その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、レベルの低い(失礼!)macskaさんが終始冷静でおられるのはとても不思議です。

まあ、それもこれも私がレベルの低い科学的思考しかできずレベルの高い哲学的な思考が苦手なせいかもしれません。しかし、こんなギャラリーもいるのだということを言いたくて闖入いたしました。

それでは。

397ラク:2007/01/30(火) 21:50:27 ID:.HJIF4uU
>神といっても宗教によっていろいろあるわけですが、その存在が科学が対象とする範疇内であるかどうかは、その神がどういった性質を持つものとされているかによるのではないでしょうか。たとえば、現実社会において奇跡を起こしたり悪人に罰を与えたりお祈りに応えてくれたり信者と対話してくれるような種の「神」であれば、その存在は(実際に証明もしくは反証は難しくても)原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうるのではないですか。


>macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。

ちなみに門外漢の印象としては、「科学の範囲」としては、「(実際に証明もしくは反証は難しくても)」、「実際に証明もしくは反証」できる可能性がゼロではないという判断があるあるならば、「原理的に言って科学的手法による検証の対象となりうる」のは当然でしょう。
だとすれば思考が導かれるのは、だからどうしたのですか?という問題の所在ではないのかという気がするんですけどね。

398地下に眠るM:2007/01/31(水) 00:30:44 ID:wI1zz7WI
あのね、macskaのおっしゃっているカガクの対象云々という話は、チミたちの考えているようなマトモな話ではにゃーんだよ。

>>234 を参照すること。

234の最後の部分の「カガクの独占」という部分についてはmacskaから反論がでているけれど、その前のカガクの対象についての話には本人からも異論はでてにゃー。
つまりは、検証の可能性がなくても現実世界におこることならカガクの対象だというゴミ理屈。


精神年齢が極端に低い僕としては、燃料を投下してくれたシカゴ・ブルースにお礼をいいたいところにゃんね。やるといっていておあずけになっていた宿題をここでやるきになってきたにゃんよ。クソ忙しいけど。
なににしろ、この場所におけるmacskaの発言の多くはゴミだし、宗教に対する根の深い侮蔑感情があることはまちがいのにゃーところだろう。
そのあたりは論証していくにゃ。

とにかくさ、「私は差別・侮蔑をしていない、そんな意図はない」といえば差別や侮蔑をしてにゃーことになるのなら、この世に差別主義者はほとんどいなくなるにゃ。

僕は悪意や暴言はまだ嫌いではにゃーんだがね。無知に基づく侮蔑はいかんともしがたいにゃ。

399シカゴ・ブルース:2007/01/31(水) 02:23:28 ID:KNmRxfBE
>>398

地下に眠るMさん、こんにちは。

>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
たしかに誤解を招きかねない表現ですね。ただ、私は「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」はとりあえず科学的探求の対象となるだろうと思います。まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのことです。macskaさんの主張はそういうことなのではないかと私は読み取っていたのですが、何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

そういうわけで、
>カガク的な知を構成することのありえにゃー事象についてもカガクの対象だ
とまで、macskaさんは言っていないのではないかと私は思います。

実際には、科学的に検証ないし反証できそうなことがらであっても、それをするだけの意味があるかどうかはまた別の問題ですね。そのあたりは各人の価値観の領域であり、私はといえばあまり興味が湧かない。

>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

燃料を投下したつもりはないので、「宿題」の方はどうでもいいです。お忙しいようですし。私の真意がご理解いただければそれで結構です。

400地下に眠るM:2007/01/31(水) 10:57:51 ID:XojOj2WM
>何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

うん。チミの読み落とし。
>>107において僕は本質的な偶然性という概念をひっぱりだしてきているにゃ。これはそもそもカガク的に検証できるものではにゃー。
そうしたあたりもふまえた(はずの)うえで、macskaのいくつかの発言があるわけだにゃ。
それに、この読みをしているのは僕だけではにゃーぞ。ミケも同様の読みをしているようだにゃ。そのあたりも踏まえて>>234を書いたんだけどにゃ。
なによりmacska自身が僕の(あるいはミケの)読みを否定してにゃーわけ。ミケは何度も確認しているんだけど、答えはにゃーからな。


そもそもね、僕だって「まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのこと」という主張をmacskaはしているかもしれんと思ったので、原理的にカガクの対象となりえにゃーような事例を出して聞いてみたわけ。それでえられたのが「現実世界でおこることは検証ができなくとも全てカガクの対象だ」とかいうゴミ主張なのよ。


>>分からないことについては何も言えない科学と違い、宗教は分からないことについてさも知っているように自分の思い込みを事実とすりかえても良いことになっているので、宗教者はラッキーですけどね。
>これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

にゃるほど。チミはmacskaの宗教に対する知見と「世の大方の宗教観(それも啓蒙主義的な宗教観)」は同じようなものだと考えているわけにゃんな。僕も同意するけどにゃ。macskaの宗教についての見識は、不勉強がゆえの「世の大方の宗教観」の域を一歩もでていにゃー。
macska本人がそのあたりを率直に認めているのならば、話はこじれてにゃーだろうね。


>燃料を投下したつもりはないので、「宿題」の方はどうでもいいです。

僕は精神年齢が低いっていってるだろ(ニコニコ

401地下に眠るM:2007/01/31(水) 12:16:32 ID:XojOj2WM
とりあえず我慢のできにゃーところを
>>118
>>125
>>177
>>184
>>185
>>197-198
>>200
あたりの流れ

>宗教とはこういうものであるという自分の見解(あなたの書いているものとほぼ同じです)を述べただけ>>200

僕はmacskaと同じことを述べたおぼえはにゃー。


macskaのいったのは
>「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」>>118

その具体例として
>これは宗教的倫理を見れば明らかです。(旧約)聖書によれば、安息日に仕事をした人は死刑にしなければならない。しかし、「安息日に仕事をした人を死刑にするのは正しいですか」と聞けば、ほとんどのキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の信者は「その規則は現代にはふさわしくない」と答えます。キリスト教についてはイエスの登場により「この規則は現代にはふさわしくない」という合理的な理由がありますが、その他にとっていつこの規則が失効したのでしょうか? 世間が「それはいくらなんでも乱暴すぎる」と思うようになったから、それに合わせて解釈を訂正したのではないですか?>>125

対して僕は
安息日規定はそもそも弱者保護規定であり、どのような罰を与えるかについては律法解釈の余地が最初からある。つまり、「自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替え」てなどいない。
という旨のレスをしているにゃ

もともとmacskaは、「多くの宗教者は自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えている」と主張し、その具体例としてユダヤ教の安息日の話を出したわけだにゃ。
それに対して僕は、ユダヤ教の安息日は弱者保護がその趣旨であり、十戒も最初から多義的な解釈が可能なように書かれている。趣旨にのっとった解釈が要請されているとの旨を述べたにゃ。>>185でmacskaが理解に苦しむといった、安息日における「あかり」の扱いも弱者保護の趣旨で解釈してみせたしにゃ。

律法でガチガチに定められたものを、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えている

律法では最初から解釈の余地があり、その趣旨に従った解釈が要請され、また行われている

のどこが同じなんだよ?
前者は原理原則がないといっている。後者は原理原則を遵守しているといっている。
ユダヤ教のような契約宗教に対し、原理原則がないといったら、それはヒデエ侮蔑だろ?

macskaは自分の発言が侮蔑であることを理解できてにゃー。
差別主義的環境で育ち、差別主義を自明のものとみなすガチガチで愚昧な差別主義者には、自分の発言がなぜ侮蔑であるのかを理解できにゃーことがよく見られるにゃんがね。

402地下に眠るM:2007/01/31(水) 12:56:13 ID:XojOj2WM
これなんかもヒデエ
「夢」の取り扱いの話ですにゃ。ま、典型的な事例にゃんが。

>宗教の側がどう解釈するかはかれらの勝手ですが、傍目から見ていて「分かっている」ようには見えません。
やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」。>>290

「傍目からみて」ちゅうのはどういうことなんだろうか? macskaが見ているのなら尋ねてみたいところにゃんが、どういう宗教が夢をどう扱っているかの事例を多く知ったうえでなければ、こういう発言は本来はできにゃーと思うんだよね。

宗教を侮蔑するな、いや、侮蔑なんてしていない、などというやりとりをさんざんしてきた場所で、「傍目から見ていて」程度のイイカゲンな知識で「「分かっている」ようには見えません。やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」」などと暴力的に断言してしまうのだからスゲエ。

夢はシンボルやメタファーを用いた意味解釈とも捉えることができ、そうしたシンボルやメタファーとその意味解釈をごっそり貯蔵している宗教的な知の体系が適切な解釈を与えうることなんて、想定されてアタリマエだと思うんだけどにゃ。

何も知らにゃーで、しかも無知にいなおって否定し侮蔑するというmacskaのスタイルは、結局最後まで変わるところがなかったのだにゃ。そして、自分が侮蔑しているという意識すら持てにゃーほど凝り固まってしまっている。



ついで(実は前からいいたかった)

>サービスして一つだけ言うと、創造神的な神の反証には argument from design が有効だと思います。
>神のような複雑で素晴らしいものが、進化したわけでもなく独りでに生まれたとは考えにくい。>>83

いや、万能の神という概念に対してはまるで無効だって。
進化というプロセスでは、けっして「万能」なものは生まれることはにゃーのだ。知性ある存在、ならば進化で生まれえるけどにゃ。
そもそも教義において、最初の存在者とされているのだから、そんなことを言いだしても他者の宗教の教義を否定するだけの無礼で低能な侮蔑にすぎにゃー。

ただし、argument from designという考え方は、ID(インテリジェントデザイン)説における、「デザイナー」の存在に対しては有効な論点だにゃ。IDの連中は、自分たちのいっていることが特定宗教の神だということを認めることができにゃーので、万能の神を持ちだすことができにゃーんだよ。
正直いって不勉強だにゃ。IDのデザイナーのようなチンケな神を否定する理屈で、創造神を否定できると思ってもらったら困る。

Josefもいっているにゃんが、macskaの持ちだした神概念は、最初からチンケなものだったように思われますにゃ。だから、必然的に宗教批判・侮蔑的な発言を繰り返すことになった。チンケな神を叩いているだけなのに、宗教がどうとかいっているから反発をくったのではにゃーだろうか?

403ミケ:2007/01/31(水) 13:09:02 ID:???
>>399
横レス失礼。
>これについては、ちょっと過激な表現だとは思いますが、(宗教者が「ラッキー」かどうかは分からないので後半部分はともかく)世の大方の宗教観というのはぶっちゃけていえばこんなところに落ち着くのではないのですか?

世の大方の〜 という言い方をするならば、
世の大方の「科学観」というものは
【真理、あるいは絶対に正しいもの】
みたいな感じじゃないでしょうか。(残念ながら)

でもここでは、科学について、誰もそういう見方では話してないですよね。
ならば、宗教についても、
そういういい加減な見方に基盤を置いて主張するのは慎重になった方がいいかと思われます。

404シカゴ・ブルース:2007/01/31(水) 15:26:37 ID:KNmRxfBE
地下に眠るMさん、どうも。

>>>107において僕は本質的な偶然性という概念をひっぱりだしてきているにゃ。これはそもそもカガク的に検証できるものではにゃー。

107 は読んだような気がします。macskaさんはこのあたりは「よく分からない」というようなことを言っていたような…。

まあ、必然は mass としての偶然の産物ですから、個別の偶然性を一般的なものとして科学で取り扱うのは無理でしょうね。偶然もまた必然の産物であるという観点から扱える偶然性だけが科学の対象となるのでしょう。「本質的な偶然性」というのは科学の対象にはなりそうにありませんね。そういう意味でも科学の限界性というものを常に自覚している必要があるでしょう。しかし、これは科学に限らず人間の認識一般について言えることであり、一人科学だけが限界を持っているというわけのものでもないですが。それでもなお必然性として説明したいという欲求が科学や人間の認識の拡大の原動力になっているという面を、私としては評価したい気持があります。

というわけで、了解しました。「宿題」の方はお好きにどうぞ。

ミケさん、こんにちは。

>でもここでは、科学について、誰もそういう見方では話してないですよね。
>ならば、宗教についても、そういういい加減な見方に基盤を置いて主張するのは慎重になった方がいいかと思われます。

了解しました。

405Josef:2007/01/31(水) 17:08:01 ID:uPoVYQoU
シカゴ・ブルースさん、こんにちは。
仰ることがよく分かりませんが、私はbaku22さんに賛同する形で政治的・社会的背景(前提)の違いが意見の相違となったのだろうという観察を述べたのですよ。「神」概念の前提が違えばそれをめぐる意見が相違するのは当然であって、どっちの方がレベルが高いという比較の問題ではないと。にもかかわらず「論理的思考のトレーニングが足らない」などと言う人がいるから、そうではなく論理的思考に関しては皆さん慣れていてレベルが高い、と言ったわけです。シカゴさんも「こいつらは論理的思考が苦手」とは思ってないでしょ?

>macskaさんが設定した「神の存在/不在と科学の範囲」というタイトルと最初の書き込みからも分かるように macskaさんがおっしゃっている主題は「科学の範囲」ということで一貫していますね。

そうです。そしてその「範囲」をめぐって議論したわけですね。「範囲」とは内と外に線を引くことですから、外(この場合は主に「神」)の概念が異なれば線の引き方も異なるのは当然でしょう。baku22さんの「宗教をもっと場合分けした方がよかっただろう」もその辺のことを言っていると思います。

>私のようなレベルの低い者には macskaさんの主張はとても論理的で分かりやすいのですが、ハイレベルの議論をなさる方には非論理的に見えるのでしょうか。

私にもとても分かりやすいです。でもそれはたぶん、macskaさんの他の議論をある程度知っているからであって、いきなり読めば多くの人が誤解するだろうとも思います。

>その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、レベルの低い(失礼!)macskaさんが終始冷静でおられるのはとても不思議です。

冒涜されたと言う側が「ヒートアップ」するのは当然でしょう。レベルの高低の問題じゃありません。

406Josef:2007/01/31(水) 17:09:56 ID:uPoVYQoU
シカゴさんにもう一つ。

>>「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇ですよ」
>
>たしかに誤解を招きかねない表現ですね。ただ、私は「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」はとりあえず科学的探求の対象となるだろうと思います。まず科学の俎上に載せてみないことにはそれが検証ないし反証可能かどうかは分かりませんから。その上で科学的に検証も反証もできないと判断されるなら、それについては科学の範疇ではないとすればいいだけのことです。macskaさんの主張はそういうことなのではないかと私は読み取っていたのですが、何か読み落としがあって私が誤読しているのかな。

Mさんも言ってますが誤読でしょう。シカゴさんのように読むなら、そもそも科学の範囲に限界を設ける必要が失せます。「すべての神」や「あらゆる価値」もひっくるめて森羅万象が科学の対象であるとしておけばよい。そして科学の俎上に載せてみたら「検証も反証もできない」ことが分かった、とすればいいわけです。現実に起こる事象なら、などと始めから限定する必要は全然ありません。

macskaさんが言ってるのはそういうことではなくて、シカゴさんの言葉を使えば「科学的に検証も反証もできないと判断される」ことはもともと科学の対象ではない、ということです。その上で、「どんなことであれ、現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象」ならば科学の対象となりうる、という主張。もちろん実際上はいろいろ限界があって検証不能なことも多々あるけれど、原理的には「科学的に検証も反証もでき」るはず、と。

そうすると「では現実に起こる事象とは?」という方向に行くのは当然で、「偶然」もその一つなのです。

407Josef:2007/01/31(水) 21:08:36 ID:uPoVYQoU
「偶然」についてですが、macskaさんはたぶん考えていなかったのでしょうね.だからMさんに突っ込まれると何も言えなくなってしまった。

しかしながら、「偶然」の話題は「神の介入」をめぐるものだったわけで、「偶然」がいかに難問だったとしても、「そこには神の介入がかくかくしかじかのように行われている」という言明がなされたなら、この言明内容は科学の対象となりうると考えられます。科学が説明できていないこと、科学に説明できるかどうかすら分からないことはたくさんあると思います。「偶然」をどう考えるかもそうでしょう。しかしその科学に分からないことを宗教が説明できると言い、実際に説明してみせるなら、その説明は科学的検証の対象になるでしょう。もちろんあくまでも「科学の範囲」での検証に止まるのであって、宗教的説明に代わる真理を提示できるわけでもなければ、宗教的意義その他については何も言えないでしょうが。

408シカゴ・ブルース:2007/02/01(木) 17:54:39 ID:KNmRxfBE
Josefさん、こんにちは。

とても分かりやすくまとめて下さってありがとうございます。問題となっている点が何なのかが、私にも理解できました。この際お礼だけを申し上げて立ち去るのが大人の態度ですが、それだけでは芸がないので、あらずもがなの「余計な」見解を以下に…(念のため。「燃料投下」の意志はありません)。

数学を自然科学に含めるかどうかについては、みなさんいろいろとおっしゃっています。現実の世界からもたらされた具体的な表象を抽象化して作り上げた数や図形の概念を操作しているという意味では小・中・高で学ぶ算数や数学のほとんどの部分は自然科学に属しているだろうと私は思います。これらは一定の限定された範囲において現実の世界に適用されるという検証を経ています。形式論理学に属する部分もまた、ある限定された範囲内においては現実に適用できますから、これを自然科学に含めてもいいのではないかと私は思います。

ただ、私たちが「論理的」といっている場合の論理は必ずしも形式論理の範疇にはとどまっておらず、そこにはさまざまなフィジカルなものあるいはメタフィジカルなものが入り交じっていると私は思っています。これらを同一のものとして扱えるのかなというのが私の感想です。というより、メタフィジカルな論理はいかに論理的に整合的であっても自然科学の論理としては使えないですね。そして、メタフィジカルな論理とフィジカルな論理とは議論という土俵の上では戦えないでしょう。決着のつけようがない。Josefさんの 407 のお話はそこら辺のことも含めておっしゃっているのだろうと私なりに解釈しています。

そこで、「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。

最後に。科学という認識形態は非常に限定的な認識であることは確かですが、その限定性・限界性を自覚している限りでは非常に有用であり、万人に開かれた公平な認識であると私は評価しています。もっとも、現在の(戦後のといってもいいですが)理科教育は、科学的認識の限界性といった点に関してはまったく触れていないという点で、科学信仰というイデオロギーを流布しているとは思っています(他のさまざまなイデオロギーに比較すれば、科学の有用性は科学信仰の実害を覆い隠してしまうほど大きいし、それが科学的認識の発展・拡大の原動力になっている側面もありますが)。しかし、第一線で科学を扱っている方々のほとんどはその限界性を十分認識しているでしょう。というより日々の科学的な実践でそのことを思い知らされていますから、単純な科学信仰を抱きつづけることは不可能でしょうね。

409HAKASE:2007/02/01(木) 20:22:11 ID:ZC/gbS1c
どうも.
えと…地下に眠るMさんがされている『偶然』の話なんですが,「偶然に関わるものは全て科学の範疇外で手も足も出ない」かのように誤解されないかと(そういう意図で書いているわけではないとは思いますけど)ちょっと心配になってしまいました.
もちろん,例えば「ある一定の誤差範囲内で他のどの事象からも独立した試行であることが(科学的な手法などを適用して)明らかになった場合」には「その範囲内で「本質的に偶然」だとみなす」ことができますし,そうである事が既に明らかになっている問題については,「結果を科学的手法によって予測することは不可能」だと私も思います.
ですが,『*ある事象が*本当に「本質的に偶然」なのかどうか』については,前にも述べましたけど,科学的な検証の範囲内だと思いますし(例えば現在の技術では狭い範囲でしか適用できないけど研究が進められているカオス時系列解析のような)科学的な手法で扱う検討対象のひとつだと思います.

『現実世界で起きた(あるいは起きたとされた)現象は、科学的探索の範疇』と言い切ってしまっていいかは,私は十分検討していないのでわかりませんが,少なくとも「偶然性」については一部ではあるけど既に科学で扱う対象となっているという点は把握しておいて欲しいと思います.
# 以下は余談だけど,6面体のサイコロを完全に理想的な状態(完全に理想的なサイコロを,角を正確に真下に向けて完全にバランスのとれた状態で,空気抵抗や床の特性など周囲の状況も完全に一律な状態)で落とした場合(現実にはあり得ないけど例えば物理法則にしたがってコンピュータシミュレーションなどをした場合)には「サイコロは倒れないのでどの目も出ない」という結果になるだろうなぁと思ったり(^^;

410fukken:2007/02/01(木) 20:41:09 ID:M5vfENrY
>>408

シカゴ・ブルースさんには大きな事実誤認があるように思いましたので、口を挟みます。

まず、
>その割にはヒートアップしているのはハイレベルの方々の方で、>>396

とありますが、私以外のどなたがヒートアップしていましたでしょうか?
そもそもJosefさんの主張からは「知的レベルが高いのですね、ここの人たちは。 」の中に私が含まれないであろうことは明瞭ですよね。
私は最初に自己紹介しています通り>>76、いわゆるアラシ紛いの不真面目者です。
私のようなモノと一緒にされては、常連の方々は不愉快だろうと思いますよ。

次に、その私がヒートアップしていた理由も、論理的にどうこうなどと言う次元の話でなく、オノレの過ちを認めず逃げ回るmacska氏の姿勢にあったわけです。
シカゴ・ブルースさんはきっと「macska氏はそんな人じゃない」と仰るのだろうけど、私はmacska氏とやり取りをしてそのように判断しました。(そして、私のように感情剥き出しでないにせよ、他の多くの常連の方たちがそう感じていたのもまた事実。)
つまり私の”ヒートアップ”については、macska氏の論旨に問題があるかどうかとは別の問題だと言うことをお間違いなきよう。

411Josef:2007/02/01(木) 22:50:47 ID:uPoVYQoU
>>409
>少なくとも「偶然性」については一部ではあるけど既に科学で扱う対象となっているという点は把握しておいて欲しいと思います.

その通りですね。
ただ偶然性という言葉は科学よりも哲学の土俵で論じられているはずです。本質的偶然というのは、本質的に何ら法則性が無いということですから、法則性を見出すことを旨とする科学の対象にはならないのですね。もちろん少なからぬ科学者が「本質的偶然など無い」と言うでしょうが、その場合「偶然」の意味が違っています。
たとえば「何の必然性もなく存在しているこの私」のような「実存」などは本質的偶然に数えられます。これを本質的偶然だと認めるならば、「あなた」もまた偶然であり、「あなた」と「私」の出会いも偶然です。

ヴィトゲンシュタインは「世界の在り様が神秘なのではない、神秘なのは世界があることだ」という有名な言葉を残しました。これに絡めて言うなら、科学に扱える「偶然」は「世界の在り様」に属するものであって、「世界があること」という本質的偶然性を扱うものではない、ということになるでしょうか。

ついでながら、ヴィトゲンシュタインは「因果」というものを認めていません。AとBという2つの事象の間の「因果」法則は常に事後的解釈であらざるをえず、そこに論理的必然を見出すことはできない。明日も同じ「因果」法則が観察できる保証はどこにもないのです。この点では、Mさんの「ニンゲンの意識は、その偶然性をいとも簡単に必然性に転化してしまうわけだにゃ」(>>107)とかなり近い。「前世からの因果」というふうな思想も科学的な因果関係も、この意味では一種の信仰であって、大して変わらないともいえます。

412HAKASE:2007/02/02(金) 18:33:58 ID:ZC/gbS1c
Josefさん.お返事どうもです.

科学の分野でも「偶然性」については扱われていて(専門用語かどうかは私は知らないですが,カオスの分野などでこのような表現をされる事があります),私はそちらの意味で解釈していました.
Webでざっと調べましたが,「偶然性」というのは哲学の専門用語(?)としてよく使われる言葉なのですね(科学哲学という分野があるのもここで始めて知りました).
哲学で言うところの「本質的偶然性」については,いまいち理解できなかったので(雰囲気はなんとなくわかるんだけど…),Josefさんの文脈にそった適切なレスができなくてすいません.

# 以下,気になった点のコメントだけさせてください.
私自身は,科学者の多くは,証明・実証がなされていない事については「わからない・明確になっていない」という立場を取ると思ってるので,「本質的偶然」が「何の法則性もなく結論が決まる事例」の意味であったとしても,おそらく科学者なら『「本質的偶然など無い(世の中に全く存在しない)」』と断言するよりも「あるかないかは明らかになっていない」という立場をとるんじゃないかなと思います(あると*仮定*して研究をするとしても).

それから「前世からの因果」と「科学的な因果」については,どちらも『*まずは*「公理にあたる因果関係(?)」を「てきとーな解釈でもって」定義してしまっても良い(それこそ極端な話サイコロ振って決めても良い)』という点では私も同じだと思います(科学を「真理を追究するもの」ととらえている方には異議があるかもしれませんが).
ただし,「科学的とされる(されている)因果」については,公理系を定義した後で『(論理学で言うところの)完全性が保証された推論形式や推論規則を用いて,観測結果とその公理とから予測や推論を行ってみて,その結果が観測結果と一致しない場合には,その公理系などに修正を加える』という作業を繰り返すことで,「ある一定の(例えば確率的にいって十分確からしいとみなせるなどの)範囲内」で「ある一定の誤差内での予測や推論」が可能であるとみなせるレベルまでの修正がなされている,という点が異なってると思います.

という事で,最後にJosefさんが書かれた「一種の信仰であって,大して変わらない」という見方ついては,『「上記のような検証手続きを経ているか否か(あるいは検証手続きを現在行なっている途上にあるか否か)の違い」を無視すれば,大して変わらない』という意味では私も同意見です.

# おそらくJosefさんは哲学の立場から話してると思うんですが,私は哲学についてはよく知らないので,これ以上はレスできないです.すいません.

413NAN:2007/02/03(土) 12:12:29 ID:NbousSag
いろんな議論や対話において「本質的」ってコトバが出てくるとき、かなり気をつけないと誤魔化しが横行することになりますね。いま対話されている「本質的偶然」というのも然り。これは「規則性が一切見出すことのできない偶然」を指すのだろう、と私は思いますが…つまり「極限までランダムな事象」として数学的に定義することはできるのでしょう。(いや、できないのかも知れないけれどできる気がする)

ということは、「カンペキにランダムな事象」が「ホントにカンペキにランダムなのか?」という点について懐疑主義をぶちあてることは可能ですから、カンペキに偶然に起きることであっても、それが「科学の対象とならない」という命題は偽となるんでしょうね。別にこの辺はカオス論とか持ち出すまでもなく。

しかし、ここで論点(あるいは争点)となっているコトガラとは、科学が、通常「オッカムの剃刀」などによって取り扱わない事象、つまり「あらゆる偶然性、必然性のウラには超越的存在の働きがある」というような考え方でしょう。こういう「前提そのものが懐疑されることを拒否している事象」の扱いというのは、間違うと危うい方向の神秘主義や信仰的or象徴的権威主義に向かうことがあり、権力や利権と結びつくこともあるので扱いについては慎重にならざるを得ないのだ、と私は考えています。
#個々が「懐疑されることを拒否するナニカを持つ権利」は守らなければならないし、それが時に害悪(暴力)や搾取の構造を生むことについても熟知しなければならない、ということ。

「意味」や「価値」について、科学は言及しないことを是としているわけですが、私たちが現在地球上に生息している「理由」というとき、この「理由」というコトバの持つ多義性や解釈の「幅」の中に、さまざまな誤解が生まれるのでしょうね。

414NAN:2007/02/03(土) 12:32:54 ID:NbousSag
ついでに少し補足をば。

プランク定数とか光の速度とか重力定数とか、そういうこの世界の成り立ちを決める基本的な数について、私たちの科学は高い精度でそれを求めることができます。いわゆる複雑系とかカオス論を使うと、一見すると偶然に見えることでも、隠れた規則性を見出すことができます。しかし、それらは「カミサマが決めたことなんだ」という言明について、科学がなにかを検証することはできるでしょうか?

たとえば「地球は5年前に生まれた」という言明は、科学によって否定されるでしょう。しかし、さまざまな科学的観測や推測、予測を受け入れたうえで、それらすべての法則の背後には超越存在の働きがある、と云われたとき、科学はそれを検証できるでしょうか。

この世で起きるすべての事象の背後に、普段はオッカムの剃刀によって切り落とされている領域にいる「ナニカ」について言明を求められたとき、科学はなんのコトバも持たない、というのが私の結論です。

415ゆん(♂):2007/02/03(土) 22:54:05 ID:ZuqQuBeU
現在の自然科学は「自然の斉一性」を重要な暗黙の前提として方法論を構築しています。なので、その「自然の斉一性」を自由に操れる存在が実在すると仮定したら、その相手に対して自然科学の検証手段はまったく役に立たないでしょう。で、現在「神」という概念は、そうした「斉一性を自在に操れる存在」のことを指すのではないかなあ。

とかそんなことを思ったり思わなかったり。

416地下に眠るM:2007/02/06(火) 15:23:57 ID:cizMQ0FI
>>408
>「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。

じつのところ、別に冒涜したってかまわにゃーんだ。
要点は「知りもしない、知る気もないくせに、よくも否定できるね。ネット上とはいえ馬鹿を宣伝してタノシイ?」
ということだにゃ。
>>402において、夢の取り扱いについて「macskaが見ているのなら尋ねてみたいところにゃんが」と書いたけど、もう本人は見てにゃーのだろうか。これだけ冒涜しただのしてないだのという話をした揚げ句、傍目から見ただけで断言しちゃうようなことをして突っ込みに対しても黙殺なんて、ごく単純に侮蔑に値すると思うんだけどにゃー。



>>412
>最後にJosefさんが書かれた「一種の信仰であって,大して変わらない」という見方ついては,『「上記のような検証手続きを経ているか否か(あるいは検証手続きを現在行なっている途上にあるか否か)の違い」を無視すれば,大して変わらない』という意味では私も同意見です.

その「検証手続き」というものもカガクの範囲にそもそも属するものであることがよく意識されているのであれば、その理解でいいのではにゃーだろうか。
カガクが最も開かれた知的体系であることに異議をさしはさむつもりはにゃー。
しかし、神秘主義的な知の体系が閉じられたものともいえにゃー。
どのような知的体系においても、それなりの才能がそれなりの努力をしてはじめて価値あるものをえることができることは変わらにゃーのだ。

417diamonds8888x:2007/02/07(水) 06:01:58 ID:HFzGgWdI
> どのような知的体系においても、それなりの才能がそれなりの努力をしてはじめて価値あるものをえることができることは変わらにゃーのだ。

 それは確かでしょうね。では得られた価値を認識したり味わったりするにも才能は必要でしょうか? 微積分や力学の創造にはニュートン等の才能が必要でしたが、その理解には普通の高校生レベルの才能があれば十分です。科学を理解するための敷居は極めて低いのです。神秘主義的な知の体系の具体例は何も知らないのですが、そちらではどうなのでしょう?

 単に現在ではやる人が少ないから敷居が高く見えるだけなのでしょうか?

418すかんく:2007/02/07(水) 14:49:29 ID:ASJ/wL/Y
すみません、基本的な質問をば。。
ここでいう科学の定義はなんですか?

419地下に眠るM:2007/02/13(火) 16:46:59 ID:cizMQ0FI
>>417
>微積分や力学の創造にはニュートン等の才能が必要でしたが、その理解には普通の高校生レベルの才能があれば十分です。科学を理解するための敷居は極めて低いのです。神秘主義的な知の体系の具体例は何も知らないのですが、そちらではどうなのでしょう?
>単に現在ではやる人が少ないから敷居が高く見えるだけなのでしょうか?

そもそも僕は「カガクが最も開かれた知的体系であることに異議をさしはさむつもりはにゃー。」と417でいっているにゃ。神秘主義についても体験的にわかっているわけでもにゃーしね。
しかし、神秘主義とまでいかなくとも、哲学的な知についてヤスパースが以下のようなことを言っているにゃ。(ヤスパースは有神論的な実存主義なんで、神秘主義に通じるものはおおいにあるといえますけどにゃ)

*****************************************
また哲学的思惟には、科学のように、進歩発達の過程というものがないのであります。確かに、私たちはギリシア時代の医者であったヒッポクラテースよりもはるかに進歩しています。しかし私たちはプラトーンよりも進歩しているとはいえないのです。私たちは、プラトーンに利用できた科学的認識の材料に関してだけなら、彼よりも進歩しているといえる。しかし「哲学すること」それ自身に関していえば、おそらく私たちはもう一度彼の水準に到達することはほとんどできないのではないでしょうか。

科学と異なって、哲学の形態をとるかぎり、どんなものにも万人の一致した承認というものが欠けているという事実は、哲学という事柄の本性のうちに存しなければならないことであります。哲学において獲得される確実性は、科学的な性質のもの、換言しますと、どの悟性にとっても同様な性質の確実性ではなくて、それが成功した場合に人間の全本質が参加してともに語り合うことができるといった確認(Vergewisserung)なのであります。科学的認識は何らかの個々の対象にかかわりをもち、そしてこれらの個々の対象について知ることはけっして万人にとって必要であるわけではないのでありますが、哲学においては、人間としての人間にかかわる存在全体や、一度解明されたならば、どの科学的認識よりもいっそう深く人の心をとらえるところの真理が重要な問題となるのであります。

なるほど完全な哲学は科学と結合しており、またそれぞれの時代において到達された最高の状態にある科学を前提とするものでありますが、しかし哲学の意味はそれと異なったある種の根源をもっております。哲学はあらゆる科学に先立って、人間が目覚める場合に現れるのであります。
ヤスパース「哲学入門」新潮文庫判P8〜9
*******************************************

神秘主義は前合理でも非合理でもなく、超合理にゃんからね。合理思考ができることは神秘主義者には必須だにゃ。ヤスパースは否定神学の流れをくむ神秘主義的哲学を構想しているけど、徹底的に科学と親和的であろうともしているのだにゃ。
そして、417の質問にこの立場からこたえると、「敷居が高いとも低いともいえない」となるにゃんね。科学とはまさに「クレーン」のように丹念に積み重ねていくものであり、実存哲学的な知(神秘主義的な知もこれに含まれるだろう)とは「人間が目覚める場合に現れる」ものだからにゃ。

420地下に眠るM:2007/02/13(火) 16:58:12 ID:cizMQ0FI
さて、前掲のヤスパースの議論を写していて思い出したんだけど、以下のようなやりとりがありましたにゃー。

>神話は、名前こそ残ってにゃーが、その当時の最高の賢者たちが何代もかかって産みだしてきた知の体系だにゃ。宗教の教義にしても、最高のエリートが作ってきたといっていい。それを、読み方もしらにゃー馬鹿が「誰がどう見ても間違っている」だってさ。>>177馬鹿猫

>過去のものすごい賢者や哲学者の思考を、いまのわたしたちは文庫本あたりで簡単に読むことができるわけですから、昔の最高の賢者たちが一生をかけて築き上げた知の体系を越える知を現代の一般人が持っていても別に不思議じゃありません。例えば、聖書がネットで検索できるようになったこと自体、過去の信仰者や研究者に対して現代の人の圧倒的な有利さがあります。>>179 macska

macskaはあまりにもお気楽極楽な進歩主義者だにゃ。チミは19世紀のニンゲンか? と突っ込みをいれたくなるにゃ。
科学主義というよりは、暴力的なほどお気楽な啓蒙主義なんだと思いますにゃ。まあ、メリケンで馬鹿クリスチャンと言葉のチャンバラやっていれば啓蒙主義的になるのもわかるし、啓蒙主義は必ずしも否定できにゃーけど、こりゃいくらなんでもお気楽かつ暴力的すぎるだろ。アウシュビッツを招いたのは啓蒙主義的な理性だとアドルノもいってるにゃんが。

macskaの書くものはちょこちょこ拝見していたけど、分析に感心も納得もしていながら何か違和感があったんだよにゃ。そのあたりの理由については、今回僕は腑に落ちるものがあったにゃ。

421シルバーバーチの霊媒F:2007/05/01(火) 13:46:35 ID:???
霊医アトス様(日本の氏神様であり当初の心霊治療家を支えてた神霊)の霊界通信
心霊治療の誤りについて(霊界通信)
アホか????ひまし油で治るか?
だからケーシーみたいなお馬鹿な霊媒だと低級霊しか付かんのだよ。
霊医殿が、アホ ケーシーのせいで、どの位辛かったか!お前の手柄かよ!
アホめ! 何故お前達が、ケーシーを取ったか解るよ。アホだからだよ。
日本のシルバーバーチでもある霊医アトス様より 代打F
(Fは、あくまで、あくまで霊媒です、代打です。)
        続き

何処にお知らせすべきか彷徨っております、霊界通信として参考までに読んでください
エドガー氏のことよりもイギリスのエドワーズ氏よりの考えに重きを置いてるのが
霊界のようです、日本にはウィックランド氏方式しかないであろうと言うこととおっしゃる
前 シルバーバーチ霊のお言葉を合わせてお知らせいたします。
私が今、最も霊能力がある霊医の霊媒だそうです。日本だけでなくて世界的だそうですが???
皆様が、今、最も霊界情報に詳しい御方ですよ。 皆々様へ
つづき
イギリスのエドワーズ氏は、シルバーバーチ霊の指導の下でスピリチュアルヒーラーとして
イギリスを代表するヒーラーでありヒーリングの第一人者でした。
シルバーバーチ霊のお考えでは、前世は、人間に解る領域では、無いという見解です。
実際憑依の成せる業であると結論付けられておられます。
エドガーケーシー氏の心霊治療は、大きく誤っていることに対して
今私は、日本の ヒーラー達へ警鐘を、鳴らす為書き込んでおります。
又、預言者としての彼も、大きく外すことの連続であろうと思わずには、いられません。【寒気がします】 ケーシー氏の投薬・シップなどは、アクまで気休めであり霊医のお力が、無くしては、
何の結果も得られないであろうと言うお話も窺いました。(霊医団のお方:薬に関しては、詐欺に問われるのではと心配する霊医殿もいるくらいです)
霊界のお方達は、エドガーケーシー氏の行った心霊治療が、霊能力の無いヒーラーが行うことにより
低級霊とも呼ばれる不安定な霊が憑依し反って病を重くすることも多々有りそうだとの考えから
前世療法やレイキを大人のコックリさんとして禁止してほしいとFに指示されました。
ある有名霊能者が種を蒔き、私Fが刈り取り・・後・・霊界の秩序のもとに真の宗教が生ませるでしょう
と、言うシルバーバーチ霊のお言葉を頂いております。 あしからず。

422名無しさん:2007/06/03(日) 17:51:15 ID:oitaE/O.
バナナ考えたヤツ天才じゃね?
よく言われることだけどバナナ考えたヤツは天才すぎるというか、
でもだってまず皮がヤバイ。外皮ヤバイ。剥きやすい。
スイカやメロンはバナナ見習えっつー。

そりゃみかんも剥きやすいよ?
でも薄皮ジャマ。薄皮食うんか出すんかで人間を悩ますとこがダメダメ。
その点、バナナは外皮オンリー。しかも種もない。種なし。
種を出すアクションが不要。ワンアクションで食べられる。
ワンアクションフード。

食べるペースも調節できる。大きい口なら一口で、小さい子ならそれなりに。
ラップもいらず、外皮はソフトクリームのコーンみたいに持ち手にもなっちゃう。
エライなんという食べやすさ。なんという無駄のないインターフェイス。
ルーカスもスピルバーグも、ちょうすごいアイディアにビックリ。

外皮のないイチゴなら、皮剥く必要ないじゃんとか言う。ほら、きた。
じゃあイチゴさん聞くけど、おまえ農薬からガードできんのかよ。
バナナの外皮は防毒、保湿、長期保存ばかりか、携帯性にもすぐれちゃってる。
直接、持って散歩に行ける。

あと房。バナナってばちょう房。一本だけじゃなく、複数本を一括で扱える。
ワンハンドでキャリーできる。すごい。バナナすごい。
丸くない。坂道でコロコロ転がらない。
転がりリンゴによる交通事故が多発する現代社会において、
バナナなら坂道の事故ゼロ。落としても安心。
バナナは安全も考えたパッケージング。

ほんとにね。ほんとバナナ考えたヤツ天才。つーか神。
もー伝説のサムシンググレート?

……サムシンググレート?

そうかもしんない。
文字通りバナナ作ったのは創造主、伝説のサムシンググレート。
そしてこんだけバナナが人間向けに作られてること考えると、
サムシンググレートって、意外と人間のこと気にかけてくれている。
人間のためにちょー気を使ってる。バナナ作って気を使ってる。

サムシンググレート。マジですごすぎると思う。

423地下に眠るM:2007/06/03(日) 20:21:47 ID:KqE7Wn1s
>そしてこんだけバナナが人間向けに作られてること考えると、
>サムシンググレートって、意外と人間のこと気にかけてくれている。

バナナはニンゲンだけでなく、果実を食するサルの類い全てにとっての福音だにゃ。
この さむしんぐぐれーと はきっとサルの神にちがいにゃー。

しかしさー「人間原理」ちゅうのも考えてみれば脆弱な理屈にゃんね。
この地球上でもっとも繁栄している生物って、別にニンゲンだということにはならにゃー。

昆虫神かもしれにゃーし、細菌神かもしれにゃーよな

424ミケ:2007/06/04(月) 13:54:26 ID:???
んじゃあイチゴやみかんをつくったのは
サムシングぺティってところ?

425名無しさん:2007/06/10(日) 16:58:23 ID:DHj5XiXA
ドーキンスの「神は妄想である」の話題ってここで良いですかね。
あの本は一神教の創造神、人格神を「神」とし、汎神論は比喩として神という言葉を使っている
という立場で神の存在を否定していますが。

426NATROM:2007/06/11(月) 11:26:02 ID:fNsuFDiI
「神は妄想である」。読んでる最中です。やっぱり私にはドーキンスよりも、グールドが主張するNOMA(重複することのない教導権)が正しいように思えます。

427名無しさん:2007/06/12(火) 14:36:32 ID:DHj5XiXA
ドーキンスの批判と違って、
NOMAは宗教が独占的に道徳的価値観を扱える、と言っているわけではないですよね。
そもそも科学と宗教の違いについて述べたものだから、宗教は道徳的価値観を扱う、と言っているだけで。

428カクレクマノミ:2007/06/13(水) 12:13:47 ID:lhM1Ka.M
>NOMAは宗教が独占的に道徳的価値観を扱える、と言っているわけではないですよね。

ドーキンスならたぶん、「宗教以外にも道徳を扱えるものがあるなら、いろんな害のある宗教をあえて使う必要はない」、また「宗教以外の道徳を扱うものに比べ、現在の社会では宗教が特権的で批判できないものとして扱われているのはおかしい」などと反論するでしょうね。

>そもそも科学と宗教の違いについて述べたものだから、宗教は道徳的価値観を扱う、と言っているだけで。

これもドーキンスなら、「でも宗教は道徳的価値観だけじゃなく、事実も扱おうとしているじゃないか」と言うでしょう。たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。

429地下に眠るM:2007/06/13(水) 19:38:02 ID:cizMQ0FI
>たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。

セックスが穢れたものであるのなら、処女から生まれたことには道徳的価値があることになるにゃ。
事実と価値の分離ちゅう理屈そのものが、カガクの側で勝手にいっていること、ちゅうことに宗教の側としてはなるだろにゃ。

そもそも価値と事実の源泉はともに神にあり、神を離れては事実も価値もにゃーわけだ。

430名無しさん:2007/06/13(水) 22:27:55 ID:DHj5XiXA
>「宗教以外にも道徳を扱えるものがあるなら、いろんな害のある宗教をあえて使う必要はない」
>「宗教以外の道徳を扱うものに比べ、現在の社会では宗教が特権的で批判できないものとして扱われているのはおかしい」
現実の宗教の功罪とNOMAとは直接関係なくないですか?

431名無しさん:2007/06/13(水) 22:33:18 ID:DHj5XiXA
>たとえばイエスが処女から産まれたかどうかは事実に関する問題であり、道徳的価値観の問題ではありません。
宗教はイエスが処女から産まれたかどうかについて、どのような?という形での問いは発しないのではないですか。

432カクレクマノミ:2007/06/14(木) 00:24:49 ID:lhM1Ka.M
>セックスが穢れたものであるのなら、処女から生まれたことには道徳的価値があることになるにゃ。

道徳的な意味づけができるとしても、事実に関する問題なのは間違いありません。
ある1人の人間の母親に性行為の経験があったかどうか―NOMA論者なら、これは事実に関する問いであり、科学の領分だと主張するでしょう。

>事実と価値の分離ちゅう理屈そのものが、カガクの側で勝手にいっていること、ちゅうことに宗教の側としてはなるだろにゃ。

それだと結局、NOMAは成り立たない(宗教の教導権が事実に関する事柄にも及ぶなら、それは科学の領域と「重なり合う」ことになる)のでは?

>現実の宗教の功罪とNOMAとは直接関係なくないですか?

NOMA論者の頭の中にどんな宗教があろうと、今この世界において「宗教」と呼ばれているものは、NOMAの言うような性質を持ってはいないでしょう。

>宗教はイエスが処女から産まれたかどうかについて、どのような?という形での問いは発しないのではないですか。

問いを発しようとしまいと、宗教が事実に関する主張をしているのは間違いありません。


「神は妄想である」の内容は一見すると過激ですが、ドーキンスの議論を1つ1つ見ていくと、同意しやすい部分もかなりあるように思います。
たとえば、戦争の悪についてのすばらしい論文を書いた倫理学者よりも、教義をよく知りもしない反戦的宗教の信者の方が簡単に兵役拒否できるというのは、常識的な感覚に照らしておかしいものではないでしょうか?もちろん僕の常識的感覚なので、みなさんのものとは違うかもしれませんが、どうですか?

433NATROM:2007/06/15(金) 09:23:25 ID:fNsuFDiI
もちろん、ボーっとしているとどんどん宗教は侵略してくるというのは正しいでしょう。しかし、それは科学が宗教の領分を侵略していい理由にはなりません。マリアが処女だったかどうかという問題は、本当に科学の領分ですか?誰かが「処女懐胎は科学的にも説明できる」などと言いはじめたら批判の対象になるでしょう。しかし宗教側がことさら科学を持ち出さない限り、「それは科学の領分である」などとわざわざ言う必要はなかろうと思います。もしかしたら、科学的な方法では検出不可能なやり方で神は介入したのかもしれませんよ。

うわべだけの反戦的宗教の信者の方が簡単に兵役拒否できるのはおかしい、という主張には賛成します。無神論者の立場が不当に弱いとか、倫理的な問題に関して科学知識のない宗教家が口を出す資格があるのかという話に関しても、概ね同意できます。でもこれは、NOMAとは独立した話。優れた倫理学者が容易に兵役免除され、少なくとも人口に応じた分ぐらいの発言力を無神論者が持ち、倫理的な問題を論じるにあたって基本的な科学知識が要求されて当然とみなされる社会においても、宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

434名無しさん:2007/06/16(土) 05:06:40 ID:DHj5XiXA
>NOMA論者の頭の中にどんな宗教があろうと、今この世界において「宗教」と呼ばれているものは、NOMAの言うような性質を持ってはいないでしょう。
NOMAは宗教と科学がある条件を満たすなら済み分けが可能だという、いわば理想ですよね。

>問いを発しようとしまいと、宗教が事実に関する主張をしているのは間違いありません。
検証すべき「事実」としてではなく処女懐妊を扱うことは可能だと思います。
処女懐妊って

435カクレクマノミ:2007/06/17(日) 17:23:09 ID:lhM1Ka.M
>もしかしたら、科学的な方法では検出不可能なやり方で神は介入したのかもしれませんよ。

科学的な方法では検出できず、蓋然性すら議論できないような現象があったとして、それについていったい誰がどうやって論じることができるのでしょうか?そのようなものについて考えるための方法論を、宗教は何か持っているのでしょうか?
結局、ドーキンスが繰り返している「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」問題に行きつくように思います。

>宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

科学で直接的には論じられないような問題について(だけ)論じ、しかし科学的知識や論理には立脚している(少なくとも矛盾しない)ことを求められ、取り立てて特権的な扱いをされることのない存在。それを僕たちは、形而上学・哲学・倫理学・思想などと呼んでいます。
少なくとも、今僕たちが宗教と呼んでいるもの、宗教という言葉で僕たちが思い浮かべるものとは、全く別のものができあがるのではないでしょうか?

NOMA的理想社会における「宗教」と、今この世界で宗教と呼ばれているもの。この2つを同じ名前で呼ぶことを正当化するに値するような共有形質って、いったい何でしょうか?

436Kitkat:2007/06/17(日) 19:43:55 ID:92e0ryjY
>宗教と科学が非干渉でありうることは可能であろうと思います。

思考の源は信仰かと問われた時、人が脳のシルヴィス溝への刺激で神を感じる以上、人の脳はそういう思考の形式をとるように造られている、としか答えようがないと思います。
神という概念が形づくられる以前から、山や木、岩、特定の場所を信仰の対象とする、土着のアニミズムは、人の歴史と共にあったのでしょう。ということで「信仰」こそ、人の思考の主流であろう・・・と考えるわけです。
それに比べれば科学の歴史は、浅いと言わざるを得ません。
ただ私は科学の歴史の浅さにこそ、大きな意味があると思っているのです。科学の歴史は、宗教的な思考・・・人の脳に元々備わっている思考の枠組みから、人を解き放つためのプロセス、という側面もあると考えるからです。
人は自ら作り出した科学という思考の道具を使って考え始めることで、生物学的に脳に与えられている機能から、ほんの一部でも自由になったと言えるのではないでしょうか。
科学は信仰という大陸で、自治権を獲得した自由都市のようなものだと思います。既存の勢力から見れば、おもしろくないかもしれませんが、共存出来れば選択肢が広がります。
科学は、自分たちの分野で自由に真理を探究できれば満足で、大陸全体を支配しようなんて考えていないでしょう・・・たぶん。

科学は多くの人々を救い、より多くの人々を死に追いやってきました。
宗教もまた、科学以上に多くの人々を救い、さらに多くの人々を死へと導いてきました。
科学と宗教が共存し、互いに補完することで、将来の多くの悲劇が回避できるのではないかと・・・甘いかな。

437NATROM:2007/06/18(月) 01:23:27 ID:Z2veARY2
科学的な方法では検出できない現象を論じる方法論を宗教は持っているかもしれませんし、持っていないかもしれません。私は持っていないと思いますけど、残念ながらそれを証明できないので、誰かが「我こそは奇跡を論じる方法論を持っている」などと言い始めても、「ああそうですか。私は信じませんけれども、あなたがたが信じたければご自由に」としか言えません。科学の領域に踏み込んできたら批判する準備ぐらいはするでしょうが、積極的に否定するつもりはないし、その必要も感じません。


>「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」

別にコックや庭師が奇跡を論じたっていいと思いますが。


>少なくとも、今僕たちが宗教と呼んでいるもの、宗教という言葉で僕たちが思い浮かべるものとは、全く別のものができあがるのではないでしょうか?

ドーキンスは仏教を宗教から外していますけど、一般的には「僕たちが宗教と呼んでいるもの」に含みますよね。キリスト教の中でも、大谷順彦著、「進化をめぐる科学と信仰」で述べられているようなキリスト教は、原理主義的な宗教とはまったく別のものですが、やっぱりそれは宗教に違いはありません。今この世界で宗教と呼ばれているものなかにも、かなりNOMA的理想社会における「宗教」に近いものも存在します。

438名無しさん:2007/06/18(月) 20:30:20 ID:DHj5XiXA
>「なぜコックや庭師ではなく、牧師なのか?」

宗教者が清貧で煩悩を退けた生活を送っている(とされている)から、というのがあります。

439カクレクマノミ:2007/06/20(水) 20:35:54 ID:lhM1Ka.M
>「ああそうですか。私は信じませんけれども、あなたがたが信じたければご自由に」

現代社会では、「ご自由に」ではなく、「尊重します」と言わなければならないことになっています。
ついでに税金や兵役免除、公共電波の利用(アメリカでは)、通常の教育(を子に受けさせること)の拒否などなどの特典つきで。
ついうっかり「それは変じゃね?」とか口走ったが最後、宗教を弾圧する悪魔と見なされて脅迫されたりも(アメリカなどでは)します。

>別にコックや庭師が奇跡を論じたっていいと思いますが。

コックが論じた場合と比べ、牧師が論じた場合には無条件の「尊重」、すべての批判に対する回答の免除、おまけに税金の優遇もついてきます。


NOMAは、科学の教導権を制限するだけではなく、宗教の領域(とNOMAが主張するもの)については、宗教が教導権を持ち、それは尊重に値すると主張します。
科学が科学の領域内において教導権を持つのは、それなりの根拠あってのことです。根拠無く領域を広げようとすれば、批判にさらされます(もちろん、これは正当なことです)。
しかし、宗教の教導権については、僕たちは何も根拠を見せてもらっていません。なのになぜか、「尊重」しなければならないことになっています。
これはなんだか不思議な状況ではないでしょうか?

440地下に眠るM:2007/06/21(木) 00:20:23 ID:KqE7Wn1s
>カクレクマノミ

「内心の自由」は基本的人権のコア中のコアだにゃ。

宗教は内心の直接的な表現形態ということになっているわけにゃんね。

メリケンでは、この理屈(僕は形式的に支持する。マイノリティの信仰の自由は非常に重要だから)と
多数派馬鹿宗教理屈のまん延とが奇形的にくっついているちゅうことではにゃーだろうか。

441NATROM:2007/06/21(木) 11:02:58 ID:fNsuFDiI
無神論者が宗教を弾圧する悪魔と見なされて脅迫されたりすることは問題ですね。しかしながら、そういう無神論者に対する迫害に対する批判と、NOMAは両立すると思います。世俗的な宗教が、少なくとも外見上は他の宗教に対して寛容であるのと同様に、無神論に対しても寛容であることは可能でしょう。

牧師が奇跡を論じた際に、無条件の尊重や批判に対する回答の免除がなされていることも、NOMAとは直接は関係しません。税金は取ってもよいと私は思いますけど。そもそも、本当に無条件に尊重されているんですか?もし仮に、日本でキリスト教の牧師が「神戸の震災の原因は日本人のキリスト教信仰の薄さである」などと言いはじめたら、おそらくは他の常識的なキリスト教徒からも含め、相当な批判がなされると思いますが。なるほど、原理的な宗教が幅を利かせている国は確かにあり、それは問題ですが、だからといって科学が宗教の領分を侵犯してよい理由にはならないでしょう。

宗教の教導権の根拠については、おのおの持っていればいいのではないでしょうか。聖書でもコーランでも文化的な背景でも。私やカクレクマノミさんも何らかの道徳心を持っていますし、根拠もあると思っていますが、少なくとも「科学的根拠」はないでしょう。客観的に各自の根拠の優劣を測る手段がない以上、社会的常識の範囲内においてそれぞれの根拠を尊重するしかないだろうと思います。「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」ってのは、「お前の道徳心は聖書に基づいていないから誤りだ」と同じくらい傲慢です。

442名無しさん:2008/02/02(土) 20:23:57 ID:zV8V936c
stinky

443光明禅修センター:2008/03/09(日) 09:53:05 ID:S1DcIzr.
日本の佛縁ある人々に、神秘的なチベット仏教の教えを紹介するため、チベットに住む活仏やリンポチェ、ならびに佛法を学ぶ法友の強力なご支持を頂いて、2007年6月「光明禅修センター」は創立された。
光明禅修センターはセルダ・ラルン・ガル・ゴンパ(色達喇栄五明佛学院)のゾクチェン大成就者、ポワ・ラマこと、金剛ラマ・ガロン・ダンジュ・リンポチェによって設立されました。ゴンパ副院長のダンザン・リンポチェ、ロンド・リンポチェ及びケンポの方々が指導に当たります。実際に修行することに重点を置いた道場で、主な修行内容はチベット仏教ニンマ派のゾクチェンと、セルダ・ラルン・ガル・ゴンパで伝えられてきた伝統的カリキュラムです。
そ の目的は、日本において仏教を信じる人々がチベット仏教を学び、お互いに交流するための『実修道場』を提供すること、そして未だ日本に伝わっていないチ ベット仏教の教えが日本に伝承され、その教えを展開することである。東チベット・セルタ県ラロンにある世界最大のニンマ派の仏教学院である「色達喇栄五明佛学院」の大勢の上師の方々から以下のように祝福を頂いた。
www.wssdl.org

444光明禅修センター:2008/03/09(日) 14:17:23 ID:S1DcIzr.
日本の佛縁ある人々に、神秘的なチベット仏教の教えを紹介するため、チベットに住む活仏やリンポチェ、ならびに佛法を学ぶ法友の強力なご支持を頂いて、2007年6月「光明禅修センター」は創立された。
光明禅修センターはセルダ・ラルン・ガル・ゴンパ(色達喇栄五明佛学院)のゾクチェン大成就者、ポワ・ラマこと、金剛ラマ・ガロン・ダンジュ・リンポチェによって設立されました。ゴンパ副院長のダンザン・リンポチェ、ロンド・リンポチェ及びケンポの方々が指導に当たります。実際に修行することに重点を置いた道場で、主な修行内容はチベット仏教ニンマ派のゾクチェンと、セルダ・ラルン・ガル・ゴンパで伝えられてきた伝統的カリキュラムです。
そ の目的は、日本において仏教を信じる人々がチベット仏教を学び、お互いに交流するための『実修道場』を提供すること、そして未だ日本に伝わっていないチ ベット仏教の教えが日本に伝承され、その教えを展開することである。東チベット・セルタ県ラロンにある世界最大のニンマ派の仏教学院である「色達喇栄五明佛学院」の大勢の上師の方々から以下のように祝福を頂いた。
www.wssdl.org

445聖なる心(主イエス様):2008/03/12(水) 17:51:11 ID:viM7iaT2

宗教家が言うには 神とは あなたの心の中の 良心 である

と述べている つまり われわれは ある意味 神 であるのである

良心 愛という本能こそ 人間が神である証である

正確には 人間は 動物と神との間の生物である

446名無しさん:2008/03/14(金) 13:30:43 ID:MSUzBPno
まったくそのとおり。
それは宗教ではなく、特定の人のものだけでなく、
全ての人に共通の真理です。

447NORTON3rd:2008/04/26(土) 12:52:43 ID:tQvpJqX6
macskaさん、根本的な考え方は替わっていないみたいだが、アメリカの一部の無神論者の『アレ』っぷりをみて『こら、マズイんじゃねーの』と思い出したようです


ttp://macska.org/article/224

448地下に眠るM:2008/04/27(日) 14:59:20 ID:0kFRBCQQ
macskaのこのエントリに対する反応の大きさとその内容がオモシレーのだにゃ。
これはやはりドーキンス絡みのようですにゃ。

449macska:2008/04/29(火) 13:17:58 ID:TbdmZchA
どもです。
別に最近になって「こら、マズイんじゃねーの」と思い出したわけじゃなくて、このスレの111で書いているように当時からマズイと思っていました。

>111
> # 個人的に、かれのイスラム教に対する発言にはかなり危ういものを覚えます。
> # かれは政治にはあまり関心がないのかもしれないけれど、欧州の一部で最近目立って
> # きた「リベラルを標榜する排他主義的極右勢力」に利用されかねないのでは。

ほらね。いまと言ってること同じですよ。

450NORTON3rd:2008/04/30(水) 13:27:39 ID:tQvpJqX6
れれ?
111にはおっしゃるようなことは書かれていませんが?

とまれ、お久しぶりのご光臨ありがとうございます

macskaさんのお考えが俺なんかよりドーキンスの『神は妄想である』に遥かに近い考えであることは了承していますし、基本線は変わっていないこともコメント欄を見れば分かります。
それにしても、ちょびっと批判をしただけで、えらい勢いで突っかけてくるコメント欄のドーキンス厨はありゃ何なんですかね

451macska:2008/04/30(水) 14:21:10 ID:TbdmZchA
ごめんなさい、199番でした。何で間違えたんだろう…

突っかかってくる人の一部(あくまで一部ですよ)については、最近は「疑似科学批判」を掲げるイナゴも発生してますしねぇ。

452NORTON3rd:2008/05/08(木) 09:30:31 ID:tQvpJqX6
えーっと、GWはタイにあるNANというふざけた名前の実在の街に行っていてNETとご無沙汰でした


>ごめんなさい、199番でした。何で間違えたんだろう…

ああ、わかりました。それにしてもこのときはHOTな議論をしてるな・・・。
ちょっと、アツクなりすぎの感はあるけど

このときの論争相手の一人である地下猫さんがご自分のブログでmacskaさんの今回のエントリについて論じていらっしゃいますが(だけじゃないけど)、正直言って結構難しく読むの大変


ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080502
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080503
ttp://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080507

453NAN:2008/05/08(木) 11:02:19 ID:ruLFH.ZE
>>452
NANだと〜!
(ネタにしてるからな!)

454NAN:2008/05/08(木) 11:03:03 ID:ruLFH.ZE
>>453
訂正:「ネタにしてヤる!」

455名無しさん:2008/05/11(日) 16:39:36 ID:fn845pfM
>>451
それなら昔からいるだろ

456ゴンチュジャンツオ:2008/07/20(日) 22:16:18 ID:e6oh0tkk
2008年7月27日(吉日)合同修行のお知らせ
2008年7月27日はュムカ供養の日とグル・リンポチェの吉日です。
この日ではどんな善悪をしても何れも10万倍になります。つまり、善事を一件するとすれば、その功徳は平日に する同じ善事で得る功徳より10万倍も増加するというわけです。ですから、もし皆さんはこの日では精進して(努力して)善事を行えば、功徳は無駄にはならないばかりでなく、さらにこの機会を借りて、素早く力強くて宿業を を取り除くこともできるし、福と知恵の資糧(資金と食糧)を育てることもできます。

●修行会場:東京・赤羽
●修行時間:2008年7月27 日(日)12:00 〜18 :00
●修行内容:
・12:00 〜 13:00 ポワ(伝承を受けた方のみ参加できます。)
・13:00 〜 18:00 

※参加希望の方は前もってメールでお申し込みください。

メール: tokyowssdl@gmail.com  

ゴンチュジャンツオ

458のっち:2008/12/29(月) 05:46:57 ID:d895uufw
>>441
>「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」ってのは、「お前の道徳心は聖書に基づいていないから誤りだ」と同じくらい傲慢です。

科学は自分の間違いの可能性をみとめているのに対して、信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていないので、

信仰者のほうが傲慢でしょう。

459ナナシー:2008/12/30(火) 07:46:34 ID:oTVUpoag
>科学は自分の間違いの可能性をみとめているのに対して、信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていないので、
>信仰者のほうが傲慢でしょう。

神の存在がほとんどありえないのが事実だとしても、否定は出来ないのだから、「道徳心の根拠は誤りだ」とは言えません。だって存在を否定できないのだから、道徳心の根拠を否定できないからです。
したがって「神は科学的に考えてほとんど存在しそうにないからしてお前の道徳心の根拠は誤りだ」は科学的な言明ではなく、科学が自分の間違いの可能性を認めているのかどうかとは無関係です。
それと信仰者だって改宗する人がいる以上、「信仰者は自分の間違いの可能性をみとめていない」というのは偏見ではありませんか?

460ラプラスの天使  ◆daemontaDA:2009/01/02(金) 17:58:48 ID:gGx0GgTg
「唯名論」者はこう主張した。世の中には(神とか人間といった)「普遍概念」は存在しない。存在するのは個々の物、個物のみ。つまり「人間」なるものは存在せず、ただ大坂太郎とか藤京花子という個人しか存在していない。「犬」というものは存在せず、ただポチとかシロという個々の犬しか存在していない、と言うのである。現代人にとってはきわめて当たり前の主張である。どうしてこんな当たり前のことを必死になって主張したのであろうか。彼らは「普遍概念」などというものは、単なる名称にすぎない、「普遍概念」とは「声の息」すなわちそれを発音したときの息のようにはかないものであり、息のように消えてしまう実在性のないものであるとまで言って、「実念論」を皮肉った。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/jung3-2.html

461名無しさん:2009/01/19(月) 21:17:07 ID:6AvwjB.Q
私は中1です。3月10日、卒業式でした。
そして、卒業式が終わっていえに帰って、友達と遊びに行っていました。
そしたら!!友達(男)に見つかって(?)友達の家に急遽行く事になりました。
そして行き成り友達は私の胸を触り始めて、ベッドにたおれました。
そしたら制服のスカートをめくり上げて、パンツの中に手を入れて、
チンコの中に指を入れて・・・「クチュクチュクチュ」って。わざといやらしい音を立てて・・・。
そして友達はこういいました。「服脱いで」と。
私はビックリしたので「え?」と聞き返しました。私はもちろんエッチはやったことはあります。その友達と。ほかの人ともやった事はありますが・・・(藁
そして、友達は「オレ、脱いでる所とか写メとるの好きだから」っていいました。
私は納得して、自分でぬぎはじめました。
そして友達は私の体で遊び始めました。チンコに指を入れてクチュクチュいやらしい音を出したり、胸をもみもみしたり、なめたり。
そして友達は写メもとりまくってました。私のチンコの穴。胸。全体など。
そして友達は我慢できなくなったらしく、こういいました。
「オレのズボン脱がせて」と。私は喜んで脱がしました。
ズボンのチャックを開けて、ズボンを下ろして、ガラパンを下ろして。
そしたら友達のもうすでに大きくなっているあそこが出てきました。
そして私は友達をベッドに寝かし、私はうえにのぼって友達のあそこと私のチンコを押さえつけるようにしながら写メをとりました。
とても気持ちよかったです。
この写メを見たい人はこのスレを8箇所に張ってください。
そしたら[               ]←ここにアドレスが出てきます。
それをクリックすると、友達がとった写メすべてのってます。
私がとった写メも、動画も載せてます。
動画はわかりにくいようにしています。
「☆」をクリックすると動画がみれます。
このスレを1箇所にも張らなかった人は、不幸がおこります。
大好きな人が一年以上学校に来なかったり。
嫌いな人があなたの席の隣になったり。
親戚が亡くなったり。
けど本当に写メ、動画ありますので8ヶ所にはってみてください

462RYU_TI_SYU:2009/01/25(日) 18:39:18 ID:4/NyHbA6
  〃∩ ∧_∧
   ⊂⌒(  ・ω・)  はいはいえろえろ
     `ヽ_っ⌒/⌒c
        ⌒ ⌒

463NATROM:2009/01/26(月) 12:58:25 ID:???
不心得者のホスト名はsoftbank219047186098.bbtec.netでした。しねばいいのに。


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