したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

神の存在/不在と科学の範囲

290macska:2007/01/19(金) 15:29:32 ID:VdHL1C4M
>>285
> ところがさ、宗教は夢の内容を全て”解らない”という認識は取りませんやね。

宗教の側がどう解釈するかはかれらの勝手ですが、傍目から見ていて「分かっている」ようには見えません。
やや控えめな言い換えをしても、「宗教ならば分かっているという証拠は何もありません」。

> たとえ科学ではそれを事実とは言わないと言っても。それは科学だから言わないん
> であって、だから宗教も言うなってのは変でしょ?

言えばいいんじゃないですか。

> 科学がそれは宗教の傲慢であり、解らないとすべきだ。何故なら科学的にその夢の内容
> までは証明できないからだ。

科学が宗教に指図を出すような問題じゃないでしょ。宗教が何を主張しようと勝手だけど、周囲が「宗教が何か確からしいことを知っているらしい」と認める必要が一切ないですよというだけで。

わたし個人としては、「知る」「分かる」という言葉を、「信じる」「確信する」という意味で使わないで欲しい、という要望があります。まぎらわしいし、宗教者自身がそのあたりの区別を見失って混乱しているのをよく見かけるからです。しかしわたしは、科学から宗教に出すべき要求としてそれを主張していません。

> 奇跡の話に戻せば宗教的思考方法と科学的思考方法は混同すべきではないよー ?と言って
> いるんですよ。

混同すべきではないですね。
ただ、宗教的見解として示されたことであれ、それが現実世界の事象についての言明であるなら、科学的手法による検証の対象となり得ますよと。仮にそれでその言明が科学的に否定されたとしても、それによって宗教的意義までは否定されない、ということでしたら同意します。

> んで、も一つ付け加えると科学的手法によって観測された事実だけがあらゆる事実の全て
> だと宣言するのは変だよーと。

それはその通りですが、そんな宣言誰もしてないし。

> 事実の認識のルールが違うのを無視して一方的に経典の逐語的解釈者の立場に立ち、

これは違います。水をワインに変えたとかマリアが処女受胎しただといかいうのは、「現実世界で起きたとされる事象についての言明」の例として挙げただけで、宗教的教義に含まれる「現実世界の事象についての言明」であればなんだって同型の議論ができます。聖書から例をとったのは、逐語的解釈の立場をわたしが取るからではなく、「現実世界で起きたとされる事象についての言明」として良く知られており、分かりやすい例だからです。

> 宗教者は自分の思うように教義を捻じ曲げられてラッキーの主張。やはり暴論でしょうよ。

「自分の思うように」という意味ではないですし、教義を変えることが悪いとも言っていない、と既に釈明しています。その釈明を受けたうえでも、まだ暴論だとお考えですか? もしそうであるなら、その釈明も考慮に含めたうえで、どうしてそれでもまだ暴論なのか説明してください。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板