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神の存在/不在と科学の範囲

107地下に眠るM:2007/01/12(金) 23:54:02 ID:Y7kDipRw
>>99

ミケの解釈で正しいにゃ。まあ(99)のミケ解釈と地下猫解釈は矛盾しにゃーしね。
ただ、もうちょい補足しておくにゃ。

日本大百科より「偶然性」の項を全文引用
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contingency 英語
Zuflligkeit ドイツ語
contingence フランス語


常識的には、どうしてそれが生じたかについて十分な理解が得られていない事柄について、「偶然」という概念を使う。「今日、町で、偶然、昔の友人に会った」というふうに。しかし、よく調べてみれば、その日、同じ町角に、当人と友人とがそれぞれ出かけて行ったのには、それぞれ、それなりの理由があったことがわかるかもしれない。この考え方を推し進めていき、「世の中の事柄はすべて、それぞれが成立するための根拠があって成立したものであり、本質的に偶然生じたものは一つもない。偶然な事柄は、人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」とする人もある。また反対に、事柄を、必然的に生じたものと、偶然生じたものとの二つに分ける人もいる。この考え方は、様相論理学、あるいは物事の性質を本質的なものと偶有的なものとに分ける本質主義に通ずる。しかし、様相論理学や本質主義の当否をめぐってはいろいろな議論がある。
[吉田夏彦]
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macskaは偶然性ということについて「人間の無知のために存在するかにみえているにすぎない」という立場なのは明らかだと思われますにゃ。しかしそれは、自分では気づいていにゃーのだろうけど、偏った立場なんだよね。
で、この「偶然はない」という立場と「偶然はある」という立場のどちらが正しいかは、そうそう決着のつく問題ではにゃーだろう。ほぼ神学論争といっていいんでにゃーかな。

仮に「偶然はない」という立場にたったとしても、カガクという知の体系は常に不完全なのだから(常に不完全であることがカガクという知の体系を最も強力なものとしているのだけれど)、相手が全能の存在だとしたらその「不完全」を突かれることになるにゃ。
この場合においても、「神の干渉はカガクの不完全をつくものである」と定義されてしまった時点でオシマイにゃんね(これをいっちゃオシマイと思って、いままでいわなかったけど)。

もちろん、「偶然がある」ということであれば、そこには魑魅魍魎が跋扈し放題にゃんなあ。
カガクとは因果関係を説明する線的な体系なのだから、本質的な偶有性には手も足もでにゃー。
「自然を対象とするのは自然科学だ」という言い方もここでは弱くて、例えば呪術だって自然を対象とするわけだにゃ。線的論理でにゃーものはカガクとはいえにゃー。

ところが、ニンゲンの意識は、その偶然性をいとも簡単に必然性に転化してしまうわけだにゃ。にゃんとなれば、意識には志向性があるからにゃんね。ドストエフスキー風にいえば、「意識は病気だ」。
ユングは、シンクロニシティを「意味ある偶然の一致」と定義しているにゃ。
「偶然」と「意味」の組みあわせは、自然科学の取扱い範囲外だにゃ。

そして、奇跡とか恩寵とか罰とかいった宗教的なものは、この「偶然と意味」にかかわるものごとなわけにゃんね。


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