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神の存在/不在と科学の範囲

142いらはい:2007/01/13(土) 20:48:34 ID:DHj5XiXA
>>133

>しかし現実に、「信じている」だけのことを「知っている」と思い込んだ人たちは、それを「信じていない」人にまでまるでそれが「事実」であるかのように押しつけて来るのです。かれらの大半には、「自分はこれを信じているのであって、確かに知っているわけではないのだ」という自覚が決定的に欠けています。自覚した上でそういう言葉遣いを使うならまだしも、自覚がない盲信を広めるような言葉は有害です。

masckaさんのおっしゃる「信じている」「知っている」の問題が他者にたいしてどうふるまうかの倫理的問題ということならわかります。
ただ、自覚という内心の問題に対してどうこうするというのは無理なように思えます。
たとえば神秘体験をした人が神経科学的説明と宗教の教義を照らし合わせた結果、
ある宗教の教義がかなり確からしいという認識を持った場合、
これは「信じている」「知っている」のどっちに入るのでしょうか。



>「現実世界についての言及」は、否定される可能性があると言っているんです。

「否定される」というのが具体的にどういうことなのかイメージできないので、否定される可能性というのが掴みにくいです。
たとえば現状で創造説(創造科学ではない)は地質学・生物学上の発見に否定されたといえるのでしょうか?
そこまでせずに積極的にその命題を受け入れる証拠が何もないということを指摘しただけでも否定したことになりますか?

>世俗化することが好ましい(宗教にとって好ましいかどうかはともかく、社会の側にとっては)とは思っているけど。

宗教が世俗化するのは、世俗のレベルにおいて、実証的根拠があることと宗教的根拠しか無いことが同列に扱われる(確からしさを比べられる)からではないですか?
知ると信じるの区別を自覚したら世俗化は進まなくなるのでは?


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