[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
神の存在/不在と科学の範囲
150
:
macska
:2007/01/14(日) 14:25:15 ID:VdHL1C4M
ようやくわたしが何を言っているのか理解されかけてきた様子。
そんなに大それたことを言っているつもりはなかったのですが、議論の途中で脇道に逸れてしまったために、いろいろ誤解を浴びてしまいました。
>>142
> たとえば神秘体験をした人が神経科学的説明と宗教の教義を照らし合わせた結果、
> ある宗教の教義がかなり確からしいという認識を持った場合、
> これは「信じている」「知っている」のどっちに入るのでしょうか。
うーん、これだけの情報じゃなんとも言えないな。
何らかの体験をした、というのは事実でしょう。でも、だからといってある特定の宗教の教義によるその体験の解釈が正しいと確信するのは、ちょっと飛躍があります。だから、その飛躍を埋めるような客観的な根拠がどれくらいあるのかを聞かなければ判断がつきません。
まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見ると「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知っている」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るかどうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知っている」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。
> たとえば現状で創造説(創造科学ではない)は地質学・生物学上の発見に否定され
> たといえるのでしょうか?
創造説の中身にもよりますが、「神が6000年前に全ての生物を今ある形に作ったという説」でしたら否定されていると言っていいでしょう。
もちろん、「実は本当に6000年前に創造されていて、でも神は人々の信仰を試すためにわざとそれに反するような証拠を捏造したのだ」という反論は可能ですし、その可能性がまったくゼロだとは言えません。
しかしそれを言うなら、全宇宙は5分前に創造された可能性だってあるし、創造主がスパゲッティモンスターである可能性だってあるし…とキリがないので、普通そういう無茶苦茶な可能性は「信じるのは勝手だけど、考慮に値しない」と切って捨てるわけです。可能性が完全に否定できないからといって、何か考慮するに足るだけの可能性があるということにはなりませんからね。
>>148
> キリスト教については上記のことが言えたとして(”一部”や”多くの”と言う
> のが全体の何割程度なのかもさておくとして)、その他の宗教にもこれが当て嵌
> まるのでしょうか。
どの宗教でも、世俗化したものはだいたい似たり寄ったりではないですか?
> そうした人たちとまともな宗教者、他の宗教までもを一まとめにして、しかも宗教
> 対 科学みたいな構図で「彼らは」と批判するからおかしなことになるんじゃない
> でしょうか。
わたしは、宗教を批判してはいないです。多少の皮肉くらいは言いましたが。
> しかし、その真偽に関わらず、宗教の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わない
> 宗教者だっているわけです。だから、そのように断言することは”心情的に”し
> てはならないと言う意味での私の
>>96
だったのですね。
「してはならない」とあなたが断言したことで、科学の絶対性に救いを求めそれを信じて疑わないわたしの心が傷ついたらどうしてくれるんですか!(笑)
もちろんそれは冗談ですが、「〜だから、心情的に〜してはならない」というときに、政治的な信念だとかその他一般一般の考えに比べて、宗教的信念にだけ何か特別の保護を与えるよう要求しているのではないかと気になります。他人の気持ちは思いやるべきですが、それが宗教的信念だからというだけの理由で他の信念や信条よりも手厚く保護されるべきだとは思いません。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板