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神の存在/不在と科学の範囲

185macska:2007/01/16(火) 23:41:29 ID:VdHL1C4M
>>180
> あなたの発言からすると、
> 「宗教は現実世界の知りもしない、わかってもいない事について発言すべきではない」
> また
> 「科学の進歩と合致するように都合の良い所は解釈を変更するのがずるい」
> のですね?
>
> macskaさんの考える理想的な状態とは、
> 「宗教の教義や聖典が、「現在の科学が認める現実世界」に反する部分を捨て、
> もしくは寓意にすぎないと解釈しなおし、二度と現実について語らない」
> ことですか?

どれも、わたしの主張とは全然違います。

基本的に、わたしが批判しているのは科学の側ですから、それをご理解ください。宗教に対する注文はほとんどつけていません(「信じている」と「知っている」の区別をちゃんとつけてほしい、くらいは言いました)。

>>184
だからですね、あなたは「神様からモーセに与えられたのは安息日の規則だけであり、違反者は死刑というルールはニンゲンが勝手に決めたもの」としてわたしを無知だと攻撃したでしょ。

それに対し、「いや、安息日を破った場合の刑罰は神様が決めた(ことになっている)ものですよ」とわたしは具体的なソースを元に反論したわけだから、まずあなたは自分の間違いを認めなくちゃいけない。

安息日に関して死刑を神様が支持した箇所は他にもあります。例えば民数記 15:32-36 では安息日に木片を集めていた男が捕まり、どう罰するかについてモーセが神様にお伺いを立てます。神様は「その男は死ななければならない」として、共同体全員による投石による死刑を命じます。聖書の記述によればこれは神の決定であり、ニンゲンが独自に解釈したことではない(ことになっている)。

なお、地下に眠るMさんは「安息日でも病人を看護するのは良い」といったような見解が生まれたことを「弱者保護という法の意義を勘案すれば当然の結論」として、規則から導き出される合理的な解釈であるとしていますが、全てがそのように説明がつくわけではない。

例えば、安息日の規則のディテールとして、出エジプト記 35:1 において「安息日には住居に明かりを灯してはいけない」と書かれています。この規則の意図が何だかわたしには分かりませんが、この記述をそのまま信じる人は現代にもかなりいて、安息日には照明のスイッチにさわらないようにして生活しています。

ところがそういう人が安息日には照明を使わないのかというとそうではなくて、タイマー式に自動的に明かりが付いたり消えたりする装置や人の気配を察して明かりが付くような装置を使うなどしている人がたくさんいます。あるいは、安息日は電化製品をつけっぱなしにしている人も多い。さらには、照明は付けっぱなしにしておいて、それを何かで覆い隠すことでスイッチを切り替える代わりとしていたりする(こうなると、スイッチを使うのとどこが違うのかもう分からない)。

そしてこれらの方法は、現代のラビたちによって「安息日の規則に従っている」と認定されているのですが、どうしてスイッチを入れたり切ったりするのがダメで、照明をつけたままにしておいて明かりが邪魔なときにそれを覆い隠すのは良いのか、聖書の記述からはとても正当化できないでしょう。傍目からは、信仰と現代的な生活を名目上両立するために捻り出した苦しい言い訳のように見えます。

一応言っておくと、わたしはそれが悪いと言っているわけじゃないんです。
そうじゃなくて、世俗化した宗教というのはそういうものだと言っているわけ。


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