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神の存在/不在と科学の範囲

60地下に眠るM:2006/12/30(土) 14:21:45 ID:EpkA97A.
>科学と宗教は対等じゃねーんだよ!(暴言)

おお、サービスいいちゅうかノリがいいちゅうか。

カガクそのものはツールにゃんね。
で、カガクのもたらす「真理」の特色は、
1)暫定的
2)共有可能(=開放性)

で、宗教も「真理」を扱うのでバッティングしちゃう(ようにみえる)わけだにゃ。

以前、ここの第一掲示板に貼ったものにゃんが
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三位一体というが、一は三に等しいか? どうして三が一になりえるのか? 母親が処女でありうるか? まだいろいろあるがこれくらいにしておこう。
すなわち宗教上のあらゆる表現は論理的矛盾や原則的に不可能な主張を含んでいるのである。いやそれこそまさに宗教的主張の本質をなすものである。一体いつになったらこのことに気づくのだろうか。テルトゥリアヌスはこう告白しているではないか。
「かくして神の息子は死んだ。このことは、まさしくそれが不合理であるゆえに信じられる。かくして彼は埋葬され、復活した。このことはまさにそれが不可能であるがゆえに確かなことである」
もしキリスト教徒がこのような矛盾を信じるよう要求するのであれば、この他に若干の背理(パラドックス)を認めようとする者を非難できないのではないだろうか。わけても背理は、極めて貴重な精神的財産の1つである。
これに反して一義性は、弱さのしるしである。従ってもし宗教が、その背理性を失ったり弱めたりするようなことがあれば、それは内面的に貧困化し、背理性が強められる場合にはそれは豊かになる。というのも充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみであって、一義的な明白さとか矛盾のなさとかいうものは物事の一面にしか通用せず、従って把握しがたいものを表現するには不向きだからである。
誰もがテルトゥリアヌスの精神力を持っているわけではない。テルトゥリアヌスは明らかに背理に耐えることができたし、それどころか背理は彼の場合、その宗教的確信の最高の根拠でもあった。精神的に脆弱な大多数の人々は背理を、まともに受け止めれば大怪我でもするかのように危険なものに仕立て上げ、これを回避しようとする。
ユング「心理学と錬金術」P30より 引用者が適時改段
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こういう心的態度に対して、「処女懐胎をカガク的に検証」とかいったところで何の意味もありゃしにゃーよな。
カガクは線形論理(線形論理は論理のひとつにすぎないと、やふ掲示板で僕の信頼する奴がいっていた)に従わなければならにゃーので、背理を認めにゃー。しかし、「充溢せる生をおおよそ捉えうるのはひとり背理のみ」なのであれば、カガクの真理なぞは、貧困な世界の真理にすぎにゃー。真理も知も階層があるんだにゃ。

ちゅうわけで、カガクとシューキョーだったら、もちろん問題なくシューキョーのほうがエライ! もう圧倒的にエライ!
カガクは徹底してツールなのだにゃ。あえていえば、カガクには奴隷の気高さがある。


それと、ここのサイトの基本的なお題に立ち戻ると、
「創造科学は宗教ではなく疑似科学である」だにゃ。

創造科学が奉ずる「しょぼい神」は「しょぼい」ゆえに宗教ではなく、疑似科学となる。
まあ、創造科学の場合は、科学を自称するからいろいろとわかりやすいんだけどにゃ。

■「しょぼい神」を奉じているのは、科学ではなく疑似科学、宗教ではなく「疑似宗教」。
創造科学が馬鹿のタワゴトのくせに科学を名乗っているように、馬鹿のタワゴトにすぎないものが宗教を名乗っているにすぎない。


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