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神の存在/不在と科学の範囲
65
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diamonds8888x
:2007/01/10(水) 05:50:11 ID:je6LAXPY
議論には反論がつきものですし、反論であれば揚げ足取りやまぜっかえしと感じる人もいるのはやむをえないでしょう。ただ本掲示板での1対多の議論にしては珍しく袋叩きにはなりませんでしたね。それだけmacskaさんがしっかりした論客だからでしょう。57番ではAH1さんも一部に賛成してますし、NATROMさんも意見を入れてQAを書き換えましたし、59番の地下に眠るMさんの謝罪表明に至っては驚天動地でしたよ(^_^)
それはともかく、本件はなかなか深いテーマで自分の考えを述べるだけでも長くなりそうですが、まず私の基本的スタンスを述べておきます。
1.macskaさんの「現実世界に介入するタイプの神は原理的には科学的検証の対象となり得る」にはほぼ全面賛成。百歩譲っても「現実世界の説明に神という仮定は必要ではない」。また41番の「しかし多くの宗教は、現実世界のものごとに超自然的な影響があると主張することによって、その枠組みを既に踏み越えているのです。」にも同意。百歩譲っても「多数の信者がそのように信じているであろう。」「多数の者には心の救いと現世利益との境界は曖昧だろう。」
2.私自身は宗教を必要としないが必要とする人は莫大であり宗教の効用は否定できない。宗教のまともな効用は人生指針であり、近視眼的御利益のための奇跡を期待するのは現実的ではない(けど期待する人が多数いて、いわゆる疑似宗教詐欺にだまされるのが現実)。効用が人生指針という点では、人生訓、格言、師の教えなどと同様であるが、これらに比べると宗教は盲信による副作用が起きやすいのではないかと考える。
3.「宗教は良いが疑似宗教は悪」という論理は、権威への盲従または不当なレッテル張りという二面での危険が大きい。なぜなら「真の宗教やまともな宗教と疑似宗教の区別は本質的に不可能」だから。百歩譲っても「まともな宗教と疑似宗教の区別は凡人には極めて困難。手品と真の超能力の区別に勝るとも劣らずに困難」。
さて身も蓋もないことを言えば、本サイトでのQ&Aのような断りを入れる必要があるのは、この現実世界において宗教なるものの力があまりにも強いからです。ほんどの先進国では「信仰の自由」が唄われていますし、「まともな宗教」というお墨付きを獲得すれば、その信条や行動がほぼ無条件に認められる面があります。個人的な好き嫌いで出された料理に手を付けなければ「礼儀に反する」と思う人もいるでしょうが、宗教的理由を持ち出せば誰しも仕方ないと思うものです。さらに社会的に広く認知され、莫大な人に人生指針という点での効用を与え、多くの人に社会や人類に奉仕する動機付けを与えるという正の側面の強い宗教が多数あります。やっかいなことに負の側面の強い宗教と正の側面の強い宗教を区別するのは凡人には困難です。それどころかひとつの宗教自体が正負両面を持ちます。このような状態で単純に「宗教は非科学的だ」と言っているとだけ受け取られることは、余計な敵を増やすことになり得策ではありません。
科学的検証の通じない奇跡とは何か、という議論も盛り上がりましたが、実際問題として奇跡と称される多くは科学的検証の通じる現象として語られているのではないでしょうか? モーゼの事績やイエスの治療や諸々の奇跡はみなそうです。私は通常は素朴唯物論の立場を取りますから「紀元0年前後のある時、イエスと称する人物が水をワインに変えるのを目撃した人達がいる」という言明は真か偽のどちらかであると考えます。偽というのは例えば、後の新約聖書の記者によるでっちあげというケースです。真である場合には、その時代に科学的検証のできる人がいたとすれば、原理的に検証可能です。なにせイエスと称する人物が生きていれば再現実験が可能ですから。
真に科学的検証の通じない奇跡とは何かという問題を論じるのも、特に知性の高い人々にとってはおもしろいのですが、あんまり現実的ではないという気がします。哲学的にはおもしろいかも知れないがと言い換えてもいいです。
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