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神の存在/不在と科学の範囲

155みずすまし:2007/01/15(月) 02:03:50 ID:TgyKdXjk
横槍ですが。


>>152
> で、”信”と”知”の切り分けって本当に必要ですか?

哲学では,例えば次のように区別されています。


> 知識の古典的定義
> 現代英米の分析哲学では、知識の古典的定義として以下のものが用いられる。
>
> ある認知者Aが「Xである」という知識を持つのは以下の場合、その場合にかぎる。
>
> 1. Aは「Xである」と信じており、かつ、
> 2. Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ
> 3. 「Xである」は真である。
> これを一言で言えば、「知識とは正当化された真なる信念である」ということになる。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%AD%98

# 「知識」は「真なる信念+α」だというのはプラトンが議論しているので,「知識」は
# 「真なる信念+α」だという理解が古典的スタンダードだというのは「現代英米の分析
# 哲学」に限らず西洋哲学全体についていえると思う。

# たぶん,ポパーも概ねこれに近い考え方をしている。クーンは違うかも。

# なお,この古典的定義では「正当化」の内容は明らかにされていない。
# その為に,その古典的定義に概ね同意する哲学者の間でも,「正当化」の内容に関し
# て論争がある。


こういうこと書くのは僭越かもしれませんが,たぶん,macskaさんは概ねこの古典的定義に従った「信念」と「知識」の区別をしていて,「正当化」の明確な定義を棚上げにしても,一応の(少なくともその人が考える)「正当化」を伴った「真なる信念」についてのみ「知識」という言葉を用いるべきだ,と主張されているのだと思います。

例えば。

>>150
> まあ、もしその人が「十分な客観的な根拠がある」と言うなら、仮に他人の目から見る
> と「それって信じているだけじゃん」というレベルだったとしても、その人が「知って
> いる」と言うのは理解できます。というのも、わたしは「知っている」と言うに足るか
> どうかを示す絶対的な基準があると言っているわけじゃなくて、少なくとも「知ってい
> る」と「信じている」はその人の中でちゃんと使い分けて欲しいと言っているのです。


さらに僭越なことを書きますが,おそらく,この古典的定義が他の方とあまり共有されていないんじゃないでしょうか。

ただ,私の推測が正しいとして,macskaさんが「信じている」と「知っている」の区別として要求していることは,古典的スタンダードに従っているし,そのスタンダードに反対する強い理由も(私には)ないので,それなりにまっとうな主張だとは思います。しかし,その区別は,普通の日本語を母国語とする日本人において,日常の用語感覚として明確ではないので,他の方と共有されていないとしても無理はないと思います。

この「共有されていないとしても無理はない」というのは宗教家に対してもいえることで,この区別が共有されているという前提がないのに,宗教者に対して「それは,『信じている』だけで,『知っている』わけじゃないんでしょ?」といっても意味不明かもしれません。

# 西洋人,さらに限定して英語を母国語とするインテリにとっては,"believe" と
# "know" の違いとして明確なのかもしれませんが,私にはよく分からない。


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