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神の存在/不在と科学の範囲
408
:
シカゴ・ブルース
:2007/02/01(木) 17:54:39 ID:KNmRxfBE
Josefさん、こんにちは。
とても分かりやすくまとめて下さってありがとうございます。問題となっている点が何なのかが、私にも理解できました。この際お礼だけを申し上げて立ち去るのが大人の態度ですが、それだけでは芸がないので、あらずもがなの「余計な」見解を以下に…(念のため。「燃料投下」の意志はありません)。
数学を自然科学に含めるかどうかについては、みなさんいろいろとおっしゃっています。現実の世界からもたらされた具体的な表象を抽象化して作り上げた数や図形の概念を操作しているという意味では小・中・高で学ぶ算数や数学のほとんどの部分は自然科学に属しているだろうと私は思います。これらは一定の限定された範囲において現実の世界に適用されるという検証を経ています。形式論理学に属する部分もまた、ある限定された範囲内においては現実に適用できますから、これを自然科学に含めてもいいのではないかと私は思います。
ただ、私たちが「論理的」といっている場合の論理は必ずしも形式論理の範疇にはとどまっておらず、そこにはさまざまなフィジカルなものあるいはメタフィジカルなものが入り交じっていると私は思っています。これらを同一のものとして扱えるのかなというのが私の感想です。というより、メタフィジカルな論理はいかに論理的に整合的であっても自然科学の論理としては使えないですね。そして、メタフィジカルな論理とフィジカルな論理とは議論という土俵の上では戦えないでしょう。決着のつけようがない。Josefさんの 407 のお話はそこら辺のことも含めておっしゃっているのだろうと私なりに解釈しています。
そこで、「冒涜された」という論理ですが、これはフィジカルなものではないですね。だから、これを理由として言いたてられても、フィジカルな論理ではいかんともしがたい。私なら議論から撤退します。
最後に。科学という認識形態は非常に限定的な認識であることは確かですが、その限定性・限界性を自覚している限りでは非常に有用であり、万人に開かれた公平な認識であると私は評価しています。もっとも、現在の(戦後のといってもいいですが)理科教育は、科学的認識の限界性といった点に関してはまったく触れていないという点で、科学信仰というイデオロギーを流布しているとは思っています(他のさまざまなイデオロギーに比較すれば、科学の有用性は科学信仰の実害を覆い隠してしまうほど大きいし、それが科学的認識の発展・拡大の原動力になっている側面もありますが)。しかし、第一線で科学を扱っている方々のほとんどはその限界性を十分認識しているでしょう。というより日々の科学的な実践でそのことを思い知らされていますから、単純な科学信仰を抱きつづけることは不可能でしょうね。
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