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神の存在/不在と科学の範囲

108地下に眠るM:2007/01/13(土) 00:52:44 ID:Y7kDipRw
もう少し必要と思われるところを乱暴に書いておくにゃ。

この議論をきっちりとやりたかったら、本当は「呪術」という概念をもってくる必要があるように思われますにゃ。宗教と呪術は違うシロモノにゃんから。宗教と科学は呪術の領域において重なりあうのではにゃーかとも愚考するにゃ。なににしろ、宗教・科学・呪術はともに社会的実践にゃんからね。宗教と呪術は連続的ではあるが別の概念。そして、呪術と科学も連続的なところがあるといえるのですにゃ。どう連続的かはここではとても書ききれにゃーのだが。
疑似科学と疑似科学的宗教については、自然科学からだけではなく、文化人類学とか社会学、宗教学、民俗学の立場から総合的に分析することが必要ではにゃーかと思う。

宗教が「真理」を独占している時代というのは確かにあったわけだにゃ(まあ、西洋思想史だけどね)。「我々は真理を握っている」というところから現世否定をしていればよかったわけ(我ながらものすごく乱暴にゃんが、乱暴に書かにゃーと書ききれん)。ところが、科学技術の発展とか啓蒙思想によって、宗教が真理を独占することがかなわなくなってきたというのはいえるでしょうにゃ。
で、近代宗教は「慣習の保全」「道徳的言説」「近代批判」「社会的実践」によって生き残りをはかったわけ。このあたりが「超越性=真理」というエデンを追放された宗教の「インディアン居留地」なわけだにゃ。ひとことでいえば「世俗化」にゃんな。

失礼を承知でいえば、多くの宗教者の意識には、被害者意識のようなものがあってもおかしくはにゃーのだろうと思う。ここで方向性は基本的には2択。合理性をすすめるか(馴化)、聖地奪回をするかだにゃ。

フロイトによれば呪術とは自我防衛に使われるものであるということで(僕はすんごく納得できるんだけど。あと、「自我は呪術的」というのもある。自我の確立には呪術は必須といえる)、被害者意識と呪術は結びつきやすいといえるにゃ。小規模カルトはたいてい呪術的思考をするもんだし。

で、被害者意識を持ついろいろな集団が呪術的思考をして(疑似)科学をひっぱってくるのではにゃーかと思ったりするわけですにゃ。被害者意識に凝り固まってしまうと、科学と呪術の区別がつかなくなるともいえるかもしれにゃー。
で、呪術が宗教を名乗ったり科学を名乗ったりしているのではにゃーかと。

呪術そのものは別にワリイものではにゃーし、ニンゲンが呪術思考をしなくなることはありえにゃーとも思うけど、呪術は宗教でも科学でもにゃーんだな(宗教とも科学とも連続的なところはある)。
本来はこのあたりを仮想敵とみるべきなのではにゃーだろうか?

カガク的検知とかいうよく切れる刃物をふりかざして、宗教をぶったぎっても百害あって一利もにゃーのではにゃーかと僕は思う。さらに被害者意識をつのらせるだけに終わることでしょうにゃ。


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