したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

神の存在/不在と科学の範囲

118macska:2007/01/13(土) 12:33:06 ID:UfRlMoOA
>>113
> この指摘をする前段で私が真の宗教者を対象として議論をしたい旨をお伝えしたのは
> 了解してもらえていますよね。

意図は分かりましたが、「真の宗教者」という括りが恣意的だと思います。対外的な行動原理として「信仰を押しつけるか/押しつけないか」「科学の装いを取るか/取らないか」という違いはあるでしょうが、どちらか一方が「真の宗教者」だというような問題ではないと思います。「世間からみて、はた迷惑ではない宗教者」という区分はできるかもしれませんが。

わたしが「大部分の宗教者」というとき、それには「真の宗教者」もそうでないものも、どちらも含めています。というより、どう区別するのか本当のところいまだに理解していません。

> 「宗教者のほとんどが自分の都合で教義を読み替える」とは宗教者を冒涜する発言であると思います。
> そう言い切れるmacskaさんの根拠を教えてください。

ええとですね、冒涜するつもりは全然ないんですが、言葉が適切ではありませんでした。
「教義を読み替える」というのは書き間違いです。というのも、読み替えられた結果が教義になるわけであり、もともと確固とした教義があってそれが読み替えられるというのは順序が違うので。

わたしがいわんとしたのは、「教典を読み替える」です。元の文脈では「現時点では黒だったとしても聖書に白と書かれていれば、クリスチャンにとってそれは絶対に白でしかないんじゃないでしょうか」という発言に対して、「いや、クリスチャンは自由自在に聖書を読み替えますよ」という意味で答えたので、そこは「教義」ではなく「教典」にするのが正しいです。

というわけで、以下に言い直します。
「大多数の宗教者は、自分の認識に合わせて都合よく教典を読み替えるくらい平気でやってのけます。」
これでも冒涜だと思いますか?

>>114
ええと、議論の途中で、既に本来の論点は済んだものと勘違いして、より先の議論に進んでしまったのが間違いだったと思います。

神の干渉は、それが現実世界に対するものである限り「常に科学が対象とする範囲内」であるというのがわたしのもともとの主張ですが、それを「常に科学によって解明できる」もしくは「必ず潜在的には科学によって解明できる」という風に誤解を受けました。また、わたしもそのような誤解を受けるようなことを言ってしまったのは事実です(それはわたしの主張とは関係ないと撥ね除けるべき議論に、話題本意で乗ってしまった)。

そこで、議論再開以降はわたしの主張するのは前者の「常に科学が対象とする範囲内」だけに絞り、その他はわたしの主張ではないと説明しているのですが、その誤解がなかなか解けないで困っているところです。

>>115
はい、だから、科学が肯定的な結論を示したときだけ「科学の範疇」で、そうでなければ「科学に手が出せない」というのはおかしいのではないかと思うのです。どのような結論であろうと(あるいは結論が出せなくても)、それが「科学の範疇」であることに違いはないはず。

>>116
なりません。「信じている」は、宗教だけが独占するものではないからです。
また、宗教にも「知っている」ことはあり得ます。宗教学や宗教史という形で「知」を形成できます。
まぁ、神の存在や性質についての発言は、確かにほとんどが「信じている」になってしまいますね。
誰も何も知らないんだもの。

「科学と宗教の住み分け」については、何をもって「住み分け」ができているかによるでしょう。ある教義を科学や現実がいくら否定しても、宗教者はその否定された教義を延々と信仰し続けることはできます。それをもって住み分けと言えるなら、住み分けは可能でしょう。

しかし一般に言う「住み分け」というのはそれとは違って、科学には科学の領域があってその内部において宗教は科学を否定できないし、宗教には宗教の領域があってその内部において科学は宗教を否定できない、というものです。しかし、いかに宗教の教義であっても現実世界についての言及である限り科学によって否定される可能性が常にあるわけで、そうした意味での「住み分け」は成り立ちません。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板